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朝の学び178 創世記27章
創世紀 27:13-23 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄って
ヨブ記講解99 - 神様の心を正確に知ろう(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記34:7-12 前回エリフは、自分で知恵ある人のふりをして、私たちの間で何が良いことであるか見分けてみようと言いました。しかし、相手の意見を本当に聞こうとしたのではありません。ヨブと友達が、色んな言葉で互いに言い争っていたのですが、答えがでなかったから、今からは自分が言うべきだと思ってヨブを教えようとしていて、このように言ったのです。皆さんもこのようなことがあると思います。ある人とあまり仲が良くなくなったとしましょう。それで時間が経って何か思いついたことがあるなら、その人のところに行って、ちょっと話をしましょうと言うのですが、それは自分が思ったことを一方的に言おうとすることでしょう。エリフもそんなふうに言っているのです。これから私が言うから聞きなさいという意味です。そして以前ヨブが言っていたことをまとめて、ヨブが悪いとヨブを罪に定め始めます。 ここで私たちが考えてみることがあります。互いに集まって何が正しいか正しくないかを見分けると言っても、多くのところで裁き罪に定めることをしてしまうのです。人が集まって何が正
ヨブ記講解98 - さばく者にならないようにしよう
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記34:3-6 愛する皆さん、前回エリフは、ヨブとヨブの友達、そして周りの人々にとても高ぶっていて、「あなた方は私から学びなさい。私から聞きなさい。」と言いました。自分より年上で徳のある人々にこう言えるということは、エリフも自分なりに賢くて学識があると言われていたことが分かります。しかし、彼が持っている知識や知恵は、肉的なものであり自分の悪から出たものなので、聞いている人が何か悟ったり役に立つこともできなかったし、かえって怒らせるばかりでした。私たちは、霊的な知識と知恵をいただいてこそ神様に喜ばれるし、人の間でも平和を作ることができ成功することができるのです。これは悟らなければなりません。神様は聖書の中に知恵と知識を込めておかれました。それは数え切れないほどのものです。詩篇107:9に、「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」とあります。ですから谷川の流れを鹿が慕いあえぐように、私たちは霊的な恵みを慕い、御言葉の中から宝を得ますように。本文は、エリフが前の節で、知恵のある人
ヨブ記講解97 - おのれ自身を知ろう⑥(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:31-34:1-2 ヨブ記33:31です。 耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。(ヨブ記33:31) エリフがヨブに「黙れ。あなたを教えよう。」と言っている言葉は、全然正しくないのです。皆さんは家族の中で、もしかしてこういう姿ではありませんか?自分が言いたいことがあるのに相手がそれを聞かないで言ってくる時、それが嫌でイライラして、「黙れ。」とか、「私の話を聞け。」とかこのように強く言う場合はありませんか?そして相手の言うことを無視したり、相手の言っていることから言いがかりをつけようとしたりしている姿はありませんか?今エリフがそうしているのです。ヨブが何かを言おうとしたら「黙れ。」と言っているのです。皆さんにはこういう姿がありませんか?親がそうしているなら、子供は親と話したくなくなってしまうでしょう。家庭内でこのように、親子の関係で平和がなかったり会話がなかったりしているなら、ギクシャクしているなら自分の姿を顧みますように。それでこれからはさらに平和を求めていきますように。皆さんも話したいことはたく
ヨブ記講解97 - おのれ自身を知ろう⑥(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:27-31 愛する皆さん、色眼鏡で見るという言葉があります。人や物事を先入観や偏見を持って見るという意味です。このような人は、歪曲した視覚で見るから物事の本質を把握できないし、人を簡単に誤解したり評価したりします。ヨブを見ているエリフがそうでした。エリフは、神様は決して正しい人を苦しめる人ではないという枠と、自分の常識でヨブを見ているから罪に定めているのです。彼の間違っている指摘はヨブを悟らせるのではなくて、ヨブを苦しめました。このように、自分の常識や考えに合わせて状況を解釈して人を理解しようとすれば、正確に判別できないということを覚えていてください。第1コリント2:15に「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」とあります。全ての悪と真理と反対のものを脱ぎ捨てて、真理である神様の御言葉に完全に留まっている人だけが、相手を正確に見ることができるし、変えさせることもできます。したがって今日もメッセージを聞いて自分自身を発見して変えられて、速やかに神様に認め
ヨブ記講解96 - おのれ自身を知ろう⑤(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:25-26 ヨブ記33:25-26です。 彼の肉は幼子のように、まるまる太り、彼は青年の頃に返る。彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。彼は喜びをもって御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。(ヨブ記33:25-26) 今、ヨブの皮膚はどうなっていますか?傷口が塞がっては潰れて酷い状態になっていて、全身がやつれています。痩せていて、皮と骨しか残っていない状態だから、横になることも、座っていることも苦しいです。このような状態でも、もしヨブが、たった一つでも御使いに認められるようなところがあるなら、神様はヨブの体を回復させてくださると言っているのです。そしてヨブが神様に祈るなら恵みをくださって、あなたは正しい人だと認めてくださるし、神様との関係が回復するだろうと言っているのです。しかし、これは真理と合わない言葉です。なぜでしょうか?今エリフは、御使いがヨブの一つでも正しいところを認めるなら 、このように祝福されると言っています。ヨブに正しいところが一つだけでもあるなら、全部癒されて義人として認められるだろ
ヨブ記講解96 - おのれ自身を知ろう⑤(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:19-24 愛する皆さん、前回は、若い人エリフが自分より正しいヨブをさばいて罪に定める姿を見ました。自分自身もよくわからないから自分は賢いと思って、自分より賢くて知恵のあるヨブを指摘して教えようとしました。皆さんはエリフの姿を通して自分自身を発見することが重要です。まず自分に真理にふさわしくない姿があることを発見してこそ、それを認めて捨てることができるからです。発見することと認めるということは違います。イライラしたとしましょう。その時、自分の心の中に悪があることがわかるでしょう。でもイライラしたその時、自分では気づかないかもしれません。周りの人が、「なんでそんなにイライラしていますか?」と言われてこそわかる場合があります。それで私はイライラしたんだ、とこのように発見することはいいのですが、自分の中にそういう怒りという悪があること、憤りがあることを認めることも重要です。 でもある人はそれを認めないで言い訳をします。「私イライラしていません。」と言います。でも実際自分の声が大きくなって、顔もちょっと怖くなって
ヨブ記講解95 - おのれ自身を知ろう④(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:14-18 続く本文でもエリフの悪がよく現れています。ヨブ記33:14-16です。 神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。夜の幻と、夢の中で、または深い眠りが人々を襲うとき、あるいは寝床の上でまどろむとき、そのとき、神はその人たちの耳を開き、このような恐ろしいかたちで彼等をおびえさせ、(ヨブ記33:14-16) エリフはヨブに「あなたのものには神様は答えてくださらない」と言いました。そして、「神様は夢や幻の中で耳を開き語られても、厳しく教えても、人がそれに気づかないのだ」と言いながら「、神様がヨブに答えてくださらないのはヨブが悪者だからだ。でも正しい人には、夢や幻を通して教えてくださるのだ。」と、このように違いを説明しながら、ヨブが悪いということを悟らせようとしています。エリフはこれまでヨブの話を聞きながら、イライラしていたその負の感情をぶちまけて、ヨブを言いまかそうと自分の知恵を使ってこう言っています。あなたがもしこれに弁解できるなら言ってみろというふうに、意気揚々と
ヨブ記講解95 - おのれ自身を知ろう④(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:13 愛する皆さん、箴言29:20に 「軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。」とあります。何も考えずに軽率に話をする人よりは、愚かな者の方がまだ望みがあると言われています。せっかちで軽率に話をする人は、愚かな者より劣っていると聖書に書いてあります。せっかちな性格、軽率に話をする人は、顧みなければなりません。このような人は、一瞬自分が感じたことをそのまま言ってしまいます。それで、相手を傷つけたり、相手に不満をぶちまけたりします。その時、我慢すればいいのに、相手のことを理解しようとしなければならないのに、そうしないで待てないまま軽率に話をしてしまいます。感情的になって言いたいことを言ってしまうのです。そうすれば人間関係においても誤解されたり、また雰囲気も悪くなったりすることがあります。相手の心を理解しようとするよりは、自分が思うことをそのまま口にしてしまうからよくミスをするのです。誤解されたりするのです。そして自分の思い込みで、相手のことを決めつけてしまうこともよくあります。
ヨブ記講解94 - おのれ自身を知ろう③(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:6-12 ヨブ記33:6-7です。エリフはこう言っています。 実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。見よ。私のおどしも、あなたをおびえさせない。私が強く圧しても、あなたには重くない。(ヨブ記33:6-7) 人々は皆同じように神様に造られた被造物です。人や地位やまたいろんな職業によって人を評価する場合があるのですが、創造主の神様の前で私たちは皆、被造物で同じ存在です。ところでエリフはヨブに「私の脅しもあなたを怯えさせない。私が強く圧してもあなたには重くない。」と言っています。神様の前で粘土で形造られた存在であることは同じでも、知識とか人柄とか富とか権力などはヨブが優れているということです。ヨブはそうでした。人柄も優れていて、富、権力もあって、貧しい人々に施しをして、しもべも尊重する人でした。しかし、そのようなヨブも神様の前で練られていてまた試練にあっていたのです。 私たちは自分自身を顧みなければなりません。もしかして心の中で、自分が金持ちだからといって貧しい人を見下す姿はなかった
ヨブ記講解94 - おのれ自身を知ろう③(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:3-5 愛する皆さん、私たちが己自身を知るということはとても重要です。世を生きる時も自分の短所を知って直していけば素晴らしい人となれます。信仰にあっては、真理を基準にして欠けている自分の姿を発見して、主の善と愛に代入して、自己中心的で仕えていない自分を探して見つけて変えられる時、より優れた天国に行けます。しかし、人と比べたり言い訳をしたりしては、自分を発見することもできないし変えられません。ヨブと彼の友達が、会話の中で現れる悪を見つけて認めていたなら自分を発見できたのに、そうできませんでした。相手の言葉の言葉尻を捉えて、自分が知っている狭い知識が義になって教えようとするから、変えられないのはもちろん、相手も変えさせることもできないのです。32章から登場したエリフも、自分自身の過ちはわからないまま、自分の義で相手を悪いと決めつけています。メッセージを聞きながら、自分はそうではないのかを顧みて、自分を発見する恵みが臨みますように。 使徒パウロは、主に出会う前は自分の義が強い人でした。律法による義においては非難さ
ヨブ記講解93 - おのれ自身を知ろう②(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記32:19-33:2 ヨブ記32:19です。 今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。(ヨブ記32:19) 良い品質のぶどう酒は、古くなったほど熟成過程が長いから価格が高くなるそうです。本文にある抜け口のない葡萄酒とは、大切なもので貴重なものです。葡萄酒が好きな人は、葡萄酒がよく発酵するのを待つでしょう。抜け口のない葡萄酒を見るたびにその栓を開けて飲んでみたい心でしょう。でも我慢するのです。エリフも早く口を開いて言いたくてむずむずしていたのですが、それを抜け口のない葡萄酒に例えています。言いたいことがいっぱいあるのに、まるで抜け口のない葡萄酒のように溜まっているから、耐えられなかったのです。また新しい葡萄酒の皮袋のように今にも張り裂けようとしていると言いましたが、これはどういう意味でしょうか?新しいぶどう酒を皮袋に入れれば、ぶどう酒が発酵しながらガスが生じます。このガスによって皮袋は膨らむようになります。古い皮袋は発酵ガスによって伸びる膨張に耐えられ
ヨブ記講解93 - おのれ自身を知ろう②(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記32:14-18 前回からエリフという新しい人物が登場しました。その背景は次のようです。これまでヨブと熱く言い争っていた三人の友達はヨブに勝つことができず、神様だけがヨブを負かすことができると結論を出して黙ってしまいました。すると彼らの会話を聞いていたエリフという人が突然怒って、「年上のあなたたちが、知恵ある言葉でヨブを負かすのを待っていたのに。そうできなかったから私の出番だ。」と言って口を開きました。エリフは彼らの会話に口を出したい心だったのですが、第三者の立場であり彼らより年下だったので、礼儀を守って我慢していました。しかし、結局我慢できなくなって口を開きました。本人はこうすることが正しい良いことだと確信していたから、その態度はとても堂々としています。 本当に神様が彼を見る時も正しいと言われるでしょうか?神様は闇の中で明かりを照らすように人々の隠れている心を探る方です。光である神様の御言葉で心を照らせば、明白な悪はもちろん、本性の中の悪、自分の義と枠も一つ一つ明らかにされます。ですから、エリフを通して皆さん
ヨブ記講解92 - おのれ自身を知ろう①(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記32:9-13 レビ記19:32には「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い」とあります。これは変わらない真理です。エリフは短気な性格ですが、基本的にこのように年上の人を敬う、そういう面もあったので自分なりに我慢していたのですが、結局は我慢しきれずこのように怒りを燃やして意見を述べ始めました。彼の言葉には合っているものもありますが、合っていないところも多くあります。エリフは、自分の短気な性格を知って変えられなければならないでしょう。普通人の性格は変わらないというのですが、神様にあって不可能はありません。モーセは自分の同族を虐待するエジプト人を打ち殺すぐらいの短気な性格だったのですが、試練の過程を通して柔和な人に変わりました。また、イエス様の弟子ヨハネも短気な性格で、雷の子という別名もあったのですが、愛の使徒に変わりました。使徒パウロは、自尊心が強くて怒りっぽい人だったのですが、主に出会って試練に会いながら、柔和で愛のあふれる人になりました。私たちは神様の心に似ていかなければなりません。「神様は聖でありなさい
ヨブ記講解92 - おのれ自身を知ろう①(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記32:1-9 愛する皆さん、ヨブ記1章から31章までは、ヨブに試練がやってきた過程とそれに対するヨブの反応、そしてヨブと三人の言い争いが主な内容でした。ヨブと三人の友は、激しい言い争いで互いの間の感情の溝が深まっただけで、ヨブは彼らから何の解決策も得ることはできませんでした。今日から32章が始まります。31章までの内容がこれでした。ヨブ記講解の今日までが92回目です。もうこのように長い間メッセージを伝えています。一遍一遍のメッセージを伝えていて、またヨブと友達の互いの言い争う内容についても細かく伝えてきました。でも、ヨブの三人の友達はヨブに何の解決方法も与えることができませんでした。時間は長く流れたのですが、何もできなかったのです。家族の間ではどうでしょうか?家族と長い間暮らしていても、互いの関係がさらに良くなっているでしょうか?そうでなければすでに関係は冷めているのに、ただ一緒に暮らしているだけの夫婦もいるかもしれませんが、皆さんはどうでしょうか?相手を自分に合わせようとしても喧嘩するばかりだから、世の人々は
ヨブ記講解91 - ヨブの義(3-下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記31:34-40 教会の中でも誰かが不義を行った時、それが不義だと知っていながら目をつぶったり、放っておいたりするならば、それが続いてしまって、サタンがさらに働くようになるのです。誰かの過ちを見た時、黙って心の中にそれしまっておいて、かばっておおう時も必要ですが、実際に行って責めたり勧めたりすることが必要な場合もあります。第一ヨハネ5:16に「誰でも兄弟が死に足らない罪を犯しているのを見たなら神に求めなさい。そうすれば神はその人のために死に至らない罪を犯している人々に命を与えになります。死に至る罪があります。この罪については願うようにとは言いません。」とあります。死に至らない罪の場合ならば、その人が速やかに悔い改めて立ち返るように積極的に助けなければなりません。死に至る罪については既に何回も説明しましたので、ここでは省略します。 ヤコブ5:19-20です。「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から
ヨブ記講解91 - ヨブの義(3-上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記31:29-34 ヨブ記講解が90回を超えて、今日で91回目です。説教する立場でこのような長編のメッセージは初めてです。90回を超えたら、長い間、長編のメッセージを伝えてきたんだと思って嬉しくなりました。このメッセージを皆さんも聞いて、多くの方が変えられると信じます。ヨブの正しいところ、良いところは見習って、欠けているところはそれを通して自分を発見して、変えられていきましょう。愛する皆さん、私たちはヨブ記31章を通して、ヨブが普段からどれほど正しい生き方をしていたのか具体的に調べています。ヨブは貧しい人やみなしご、やもめに施しをしたし、宇宙万物何を見てもそれを拝んだり、人間的な感情の中で誘惑されなかったと言いました。又、自分がもしかして過ちを犯したことがあるなら、その代価を堂々と払う心であり、物欲もなく、神様に対する自分の道理を守ったと言いました。 ヨブの生き方は、今日聖霊を受けて信仰生活をしている私たちの観点から見ても、とても学ぶところが多いです。しかしヨブは、神様の心を推し測ることができず、神様の愛を感じる
ヨブ記講解90 - ヨブの義(2-下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記31:23-28 続く本文を見ればヨブ記31:23です。 神からのわざわいは私をおびえさせ、その威厳のゆえに、私は何もすることができないからだ。(ヨブ記31:23) 神からの災いを怯えている姿からヨブの肉の信仰がわかります。これは神様を完全に信じないことから来る恐れです。ヨブは自分の命が危ない状況です。また友達と周りの人々にあざけられ非難されて心が苦しんでいたし、災いによってとても怯えていました。ところで、このすべての災いが神様から来たと思っているから、神様に怯えていたのです。神様がわけもなく自分を呪ったと信じているからどれほど怖いでしょうか 。人が肉に留まっていれば神様の心がわからず、神様の御心と摂理が悟れないから、神様を恐ろしい方だと思うのです。神様の御心と摂理を知っている人は、災いを恐れるのではなく、罪を犯すことを恐れ、罪から立ち返らないことが恐ろしいです。ですから、神様を正しく信じている人は罪を犯さないし、ひょっとして犯したならば、速やかに悔い改めて立ち返ります。このような人は、神様との間に罪の壁がない
ヨブ記講解90 -ヨブの義(2-上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記31:16-22 愛する皆さん、前回はヨブがなぜ自分を正しいと主張できたのか、根拠になるような姿を調べてみました。ヨブがしもべに接する姿だけ見ても、その人柄が普通の人と比べられないほど良くて正しかったのが分かります。ヨブは、自分を造られた神様がしもべたちも造られたと信じていたので、彼らの人格を尊重しました。これは私たちが学ぶべきところでしょう。全ての人を同じように神様の形に造られた、尊い存在として尊重しなければなりません。またイエス様が、自分のためだけに十字架につけられたのではなく、相手のためにも尊い血を注ぎ出してくださったことを信じるなら、どんな人も無視しないで尊く思うでしょう。信仰の兄弟、真理にあって一緒に信仰生活をしている方々は、さらに大切に思わなければなりません。家族もそうです。今は子供であり配偶者かもしれませんが、天国に行けば同じ兄弟姉妹です。彼らを守っている御使いがいるのですが、もしその人と喧嘩したり相手を憎んでいたりすれば、その人についている御使いが悲しむでしょう。もどかしいと思うでしょう。相手が霊
ヨブ記講解89 - ヨブの義(1-下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記31:9-15 続く本文ヨブ記31:9-10です。 もしも、私の心が女に惑わされ、隣人の門で待ち伏せしたことがあったなら、私の妻が他人のために粉をひいてもよい。また他人が彼女と寝てもよい。(ヨブ記31:9-10) これもヨブが自分の潔白を訴えているのです。歴史を見てみれば、人が安定して富を持つようになると、その次は異性の誘惑がついてくるようになります。ダビデ王もソロモン王もそうでした。国が安定して経済的に豊かになった時、女性に溺れてしまい大きい試練に遭うことがありました。ところがヨブは富、名誉、権力どれをも持っていたのですが、女性の誘惑に陥らないで自分を守っていました。でももし、自分が女に惑わされて不義なことがあったならば、妻を他人のために奴隷にしてもいいというふうに、今堂々とそんなことは絶対ないと言っているのです。続く本文にはその理由が分かります。 ヨブ記31:11-12です。 これは恥ずべき行い、裁判にかけて罰せられる罪だ。実に、それは滅びの淵まで焼き尽くす火だ。私の収穫をことごとく根こそぎにする。(ヨブ記
ヨブ記講解89 - ヨブの義(1-上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記31:4-8 愛する皆さん、前回、ヨブは自分がどれほど正しく生きたのかについて言いました。おとめに目を留めないと自分の目と契約を結び、その契約を徹底的に守るほど純潔な生き方をしたと言いました。このようにヨブは律法としては非の打ちどころのない人だったのですが、神様は彼の心まで完全になるように望んでおられたので、試練に遭うという過程が必要なのです。神様の前では行いも重要ですが、心の方が重要だからです。イエス様の時代の律法学者とパリサイ人たちは、律法を徹底的に守り、先祖代々の言い伝えまで徹底的に守ろうとしました。十分の一の場合は、小さい野菜の葉とか茎までいちいち計算して捧げるくらいでした。しかし、それよりはるかに重要な正義と憐れみと誠実はおろそかにしていたので、イエス様は彼らに災いだ、偽善の者と責めておられました。 彼らは、心には罪と悪がいっぱいなのに行いに偏っていました。正義と憐れみと誠実が心に臨んでいる分、つまり心を割礼して真理によって変えられる分、戒めを守る行いも伴います。心から礼拝して祈り完全に十分の一献金を捧
ヨブ記講解88 - ヨブと私たちの心の比較(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記31:1-3 ヨブ記31:1です。 私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。(ヨブ記31:1) これはヨブが自分の鉄則を明らかにしています。普通、契約を結ぶ時、誓う時、ある人は自分の良心にかけて、ある人は先祖や家にかけて、自分の名誉にかけて誓う人がいます。それぞれの価値観や信念によって一番信用できるような分野や、やり方を選ぶのです。ヨブはそのうち一つが自分の目でした。「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。」とあります。つまり、乙女に目を留めないと自分と約束したのです。ヨブは物質や名誉、権力、健康、知恵、知識など全ての面において乏しいところがない人でした。どころが、お金持ちや権力を持っている人々が 味わっている、贅沢や放蕩はしませんでした。普通権力を持っている人は、芸術、音楽、踊りのような風流を楽しんだり、また酒や女、享楽も楽しむ場合がよくあるのですが、ヨブはこのような世俗的な風流は楽しまなかったのです。それは神様の前でふさわしくないと思ったからです。それで姦淫しないと決心し
ヨブ記講解88 - ヨブと私たちの心の比較(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記30:27-30 愛する皆さん、前回は神様の思いと人の思いがどのように異なるかについて伝えました。ヨブの思いと神様の思いはあまりにも異なっていたのです。神様は祝福を与えるためにヨブを練っておられるのですが、ヨブは相変わらずその愛を悟れないまま不満が積もって神様を恨んでいました。全てをご存知の神様は人によって一番良い時に一番良いものを与えるためにそれぞれに合うように練ってくださいます。人の考えには祝福の道のようでも神様は違うと言われる場合があるし、人が見ては苦しみの道のようでも神様はその道が大きい祝福を受ける近道だと言われる場合もあります。ですから神様を本当に信頼する人は自分の思いにこだわらないで神様の御心に委ね、どんな状況でも揺れ動きません。このような人にとって苦しみは祝福のもう一つの名前であり、感謝の条件になります。 詩篇119:71に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあるよう、に苦しみにあった時自分を発見してさらに真理の人に変えられるからです。ですから
ヨブ記講解87 - 私の思いと神様の思いは異なる(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記30:22-26 ヨブ記30:22です。 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私をきりもみにされます。(ヨブ記30:22) 弱い風は軽いものを吹き飛ばしますが、強い風は大きい木を根ごとに引き抜いたり建物を倒したりします。ヨブはこのような自然現象を例えて、神様は自分を竜巻に巻き込むようにして地面に叩きつけられると言っています。これは自分の健康や財産と名誉、家族など、全てがまるで風に崩れ落ちる砂の城のように、丸ごと取り上げられてしまったからです。ヨブには霊の信仰がなかったので、自分の今の境遇を見ながら、嘆いて絶望してこのように表現しました。しかし私たちは、全てがお出来になる神様の力を信じなければなりません。 人が神様の前で苦しみにあっても信仰でみれば、神様が私たちの傷を包み、打たれた傷を癒し、壊れたものも立ち直してくださることを信じなければなりません。神様の摂理を信じて、その試練が終わった後に臨む慰めと祝福を信じなければなりません。イザヤ30:26に、「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日
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