ヨブ記講解90 - ヨブの義(2-下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記31:23-28
続く本文を見ればヨブ記31:23です。
神からのわざわいは私をおびえさせ、その威厳のゆえに、私は何もすることができないからだ。(ヨブ記31:23)
神からの災いを怯えている姿からヨブの肉の信仰がわかります。これは神様を完全に信じないことから来る恐れです。ヨブは自分の命が危ない状況です。また友達と周りの人々にあざけられ非難されて心が苦しんでいたし、災いによってとても怯えていました。ところで、このすべての災いが神様から来たと思っているから、神様に怯えていたのです。神様がわけもなく自分を呪ったと信じているからどれほど怖いでしょうか 。人が肉に留まっていれば神様の心がわからず、神様の御心と摂理が悟れないから、神様を恐ろしい方だと思うのです。神様の御心と摂理を知っている人は、災いを恐れるのではなく、罪を犯すことを恐れ、罪から立ち返らないことが恐ろしいです。ですから、神様を正しく信じている人は罪を犯さないし、ひょっとして犯したならば、速やかに悔い改めて立ち返ります。このような人は、神様との間に罪の壁がないから、神様をお父様、アバ父と堂々と呼ぶことができます。
第一ヨハネ3:21-22です。「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。神様の命令を守り、神様に喜ばれる人はいつも大胆でいられます。この御言葉を読みながら元老牧師先生のことが思い浮かびました。元老牧師先生が神様の懐に抱かれると決めて、私たちに言ってくださった時、私たち家族は「そうしないでください。最後まで私たちを連れて行ってください。責任を負ってください。」と言いました。私たちがそのように言った時、先生は思い直して、「そうだね。一緒に行かなければ。」と言われたのですが、でも後に、神様の懐に抱かれることを心に決めて私たちにも言ってくださいました。でも私たちは、「そんなことがあってはいけません。」と言いながら、「そうならないように」とこのように言ったのですが、先生はその時は静かに黙っておられました。そして私たちには「主のために忠実に仕えるように」と言ってくださいました。
私がいない時、ミヨン先生にそう言われたそうです。「三人の娘が、主のしもべとして主のために献身し、結婚もせず自分を捧げているのを見ているととても幸せだ。」と言ってくださったそうです。人の考えでみれば、このように教会的にいろんな試練があっていろんな苦労があるけれど、そのために牧者は、私たちのことを心配したのではありません。私たちを信じてくださり、また心はいつも安らかで、そして先に行かれても心強いと言ってくださり、十分できるからと言ってくださいました。私は、「いいえ。先生、新しいエルサレムに、聖徒の皆さんを連れて行ってくださらなければ。」と言ったのですが、元老牧師先生は、「いや」と言いながら「イ・スジン先生もできる。私が全てを備えておいたからできる。」と言ってくださいました。でも、私はそれをすぐ受けることができなくて、「先生、私には荷が重いです。」と言ったのですが、元老牧師先生は、「いや、できる。」とこのようにきっぱりと言ってくださいました。そして、「天国に先に行って待っているから悲しまないで、この地上で忠実に仕えて、新しいエルサレムで会おう。」と言ってくださいました。
それで私たちは、先生が先に天国に行かれた後、悲しんだり落ち込んだりしなかったでしょう。皆さんも見たでしょう。さらに力強く走っています。このように天国への希望があるということ、信仰があるということは、どれほど素晴らしいことでしょうか。そして、聖徒の皆さんも一緒に心を一つにして、このように熱く走ってくださってとても感謝です。牧者もとても喜ばれるでしょう。しかし、「口先だけ新しいエルサレムに行きます。」と言うのではなくて、実際に新しいエルサレムに行けるような生き方をしなければならないのです。今日自分の姿を見てみると、いろいろ欠けているところがあっても、それでも明日はもっと頑張れる、明日は今日よりはマシになると、このように思いながら、希望を持っていけばいいでしょう。このような姿でいなければならないのですが、ヨブはそうではなくて、自分がこのように苦しみを受けていて、試練に遭っていて、その霊的な理由もわからないから、怖いし恐れていて怯えていたのです。神様は恐ろしい方だと思っていました。
しかし私たちは、真理の御言葉に答えがあるから、試練にあったならば、なぜ試練にあったのかその霊的な原因を祈りながら悟ることもできるし、また自分の欠けていることや自分の罪を発見することもできるでしょう。それで神様が命じてくださったことを行っていけば、神様に喜ばれることをしているならば、神様は当然祝福してくださるのです。皆さんはどのくらい施しをしていますか? どのくらい善行を行っていますか?このように自分を顧みますように。それで自分を発見すれば感謝なことですが、ヨブはそうできなかったのです。第1ヨハネ4:18です。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」とあります。私たちが全き愛を所有すれば神様を恐れるのではなくて、神様を慕い、神様を愛してさらに近づくようになります。愛と公義の神様を知っているから神様が大好きです。そしてひょっとして神様が私に災いを下すのではないか、試練に遭うように、病気になるようにするのではないかという不安がなくなるのです。そのように思う人は、自分が真理と反対のことをしているから、罪に留まっているからそんな風に思うでしょう。恐れるでしょう。
しかし真理に留まっていて、御言葉通りに生きている人ならばこういう恐れはないし、不安もないのです。もしかして自分が罪の壁があって聖霊がそれを悟らせてくださるなら、その時は心苦しいけれど、でも自分を発見することだから感謝ですね。災いはどんな場合に望むのでしょうか?真理と反対のことをしている人や、真理から外れてまた真理と反対の方に行ってしまう人に臨みます。しかし真理を守っているならば、災いに遭うことはありません。もし遭ったならば、それは神様の祝福のための摂理があるからでしょう。聖書を読むと、正しい人々はどんな試練患難の時も感謝して信仰を守りました。アブラハムは聞き従えない時も聞き従ったし、ダビデは、罪による報いとしてきた試練の時、喜んで受けました。ダニエルと3人の同僚は、死を前にしても真理と反対のものと妥協しませんでした。愛の神様、全能なる神様を心から信じたからです。その試練によって、自分を練ってくださり完全にしてくださる神様を信じるから、災いが来ても回復してくださる神様を信じるから恐れないのです。このように真理を知っているなら神様を恐ろしい方だと思って恐れるのではなく、神様の愛を感じてさらに愛するようになります。
しかしヨブは真理をよく知らなかったし、愛の神様を見つけたことがなかったから、神様を恐れて怯えていました。そして自分なりに義を守っていたのです。神様を愛する心で義を守ればいいのですが、神様に怯えながら恐れながら義を守っていたのです。もどかしい姿ですね。でも神様を恐れてでも罪を犯さないでいたから、神様はヨブを褒めてくださったのです。そしてさらに完全な者になるように練ってくださったのです。続けてヨブは自分の義を説明しています。
ヨブ記31:24-25です。
もし、私が金を己の頼みとし、黄金に向かって、私の拠り頼むもの、といったことがあるなら、あるいは、私の富が多いので喜び、私の手が多くの物を得たので、喜んだことがあるなら、(ヨブ記31:24-25)
ヨブは、富や栄華に心を置かなかったし、持ち物や財産を重要に思わなかったし、それに頼らなかったのです。それで、突然災いによって全財産を失っても、神様の前でどう言いましたか。ヨブ記1:21です。「私は裸で母の胎から出てきた。また裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。主の御名ほむべきかな。」と告白したのです。ヨブが真に価値があると思っていたことは、財産とか世の宝物ではありませんでした。神様を恐れて神様の前で正しく潔白に生きることでした。なぜならヨブが考えている神様は、正義であり力があり美しい方だからです。それで、神様の前に祭壇を築き生贄を捧げ、このようなことが大切だと思っていました。また神様が生きておられること、全知全能であることを信じていたから、神様を認めて自分なりに正しく生きていました。それで神様は、ヨブに目を留めてくださったのです。もちろん、今は試練にあって神様の前に呟いているのですが、これも神様に頼る姿なのです
神様は、世の虚しいものに価値を置かないで、神様を恐れ天国への希望を持って生きている人々を見てくださり、神の国のために使われて神の国のために用いてくださいます。世には富とか名誉、権力を得るために、手段と方法も選ばない人がいます。しかし、その富と栄華を失ってしまえば、悲観してしまい極端な選択をしたりします。彼らの価値観は世にあるし、天国への希望がないからです。私たちは、人生の目標を永遠のものに置きましょう。知識を積む目的も、名誉、権力、財産を得ることも、神の国のためにしなければなりません。皆さんは、神様の栄光のために全てのことをしなければなりません。こういう人は束の間のこの世のものにこだわりません。詩篇39:7に「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」とあるように、神様を待ち望み、天国への希望が溢れていますように。マタイ6:20に「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」とあります。私たちにある物質だけではなく、時間、才能など、神様の栄光のために使うとき、神様はこの地上ではもちろん、天国でも大きい報いを返してくださいます。ですから、食べるにも飲むにも何をするにも、神様の栄光を表す為に生きて、最高に価値ある生き方になりますように。
皆さんはどんなものに価値をおいていますか?世で良い会社に入って、そこでだんだん認められて給料をたくさんもらうことを、価値があると思いますか?そうでなければ、そのようにお金を稼ぐ目的も神の栄光のために、神の国のために施しをするためにと思っているのでしょうか?そして知識を積むことも、神の国のために奉仕するためだと思っているなら、素晴らしい生き方でしょう。しかし、ただ食べて飲んで見て楽しむことだけで満足するなら、何の価値があるでしょうか?この地上でお金をたくさん儲けて、そして広い大きい家を買ったとしても、救われなければどうでしょう。救われたとしても、パラダイスに入るなら何の報いもなく虚しいのではないでしょうか?しかし、自分のものを節約して神の国のために捧げて、自分の時間も、自分の努力も、神様のために神の国のために捧げたなら、天国でどれほど大きい報いがあるでしょうか。どれほど価値ある生き方でしょうか。
この地上で豊かでなかったとしても、誇るべきものがなかったとしても、そういう生き方ならば、天国で神様が十分祝福して、権威と栄光をくださるのです。私たちは世の人と比べて、羨ましいと思ってはいけないでしょう。主のしもべは、自分の人生を神様に捧げて献身しています。そして、レビ族は教会で奉仕をしています。信仰があって天国への希望があるから、このように教会で奉仕をしていますね。どれほど価値ある生き方でしょうか。その心が変わってはいけないでしょう。今自分がしているすべてのことは、神様の栄光のためにしているのだと、このように信仰を持って働き、さらに何ができるだろうかと、このように忠実に熱心に働いていくなら、美しい実を結び、天国で美しい報いが与えられるでしょう。皆さんも同じです。世で、会社で仕事をしてお金を稼ぐことが自分のためではなく、神様の国のためにすればどれほど価値ある生き方でしょうか。
続く本文ヨブ記31:26-27です。
あるいは、輝く日の光を見、照りながら動く月を見て、私の心がひそかに惑わされ、手をもって口づけを投げかけたことがあるなら、(ヨブ記31:26-27)
これは、どんな意図でヨブが言っているのかわかりますか?説明を聞けば、ああそうなのかと思うでしょう。そして皆さんもこの説明を聞きながら、自分はどうなのか顧みますように。ヨブは、太陽が輝く光を放っているからといって太陽を拝まなかったし、月が明るくて美しいからといって月を拝むこともありませんでした。宇宙万物何を見ても、心が奪われたり惑わされたりしませんでした。昔の人々は、輝く太陽やまた夜の月の光を見ながら、それに感動して、またそれを拝む人もたくさんいたのではありませんか?太陽や月を拝んでその前で祈ったりする姿もあるのですが、ヨブはそうしなかったのです。昔の人々は、輝く太陽や夜の月の光を見て感動して詩を作ったり、歌を作って歌ったりしました。そして人間的な感情に惑わされて、良くない結果を生んだりしました。例えば中国の東の国の李白という人は、月がとても好きで月をテーマにして詩をたくさん作り、晩年には、お酒に酔って池に映っている月を掴もうとして、池に落ちて死んだそうです。今日も人々は自然万物を見ながら、自分の感情を移入する場合がよくあります。雨が降っている日にはセンチメンタルになったり、落ち葉が落ちるのを見ながら切なさに浸ったりすることはありませんか?
しかし、私たちは全てを見るとき、真理にあって神様の観点から見なければなりません。季節が変わる現象を見ながら神様の摂理を感じて、美しい花と木を見れば、神様の御腕や御手を感じて、空や海を見ても、私たちのために造ってくださった神様の愛に感謝しなければなりません。マンミン賛美42番の歌詞のように、万物に込められた創造主の神様の力と神聖を褒めるようになります。歌詞を見ましょう。「お日様聞かせてくれる 造り主の業 お星聞かせてくれる 主の御手の業 川が聞かせてくれる 麗しい父の声 海が聞かせてくれる 大きな主の心 花が聞かせてくれる 麗しい光 鳥が聞かせてくれる賛美愛される主」とても美しい歌詞ですね。皆さんもこのように自然を見ながら、神様の創造の摂理を感じる皆さんになりますように。そうではなくて、肉の感情、寂しいとか虚しいとか切なさに浸ったり、なんかちょっと憂いになったりすることがあってはいけないでしょう。
私は今まで生きてきながら、そのような感情に浸ったことはほとんどありません。私は晴れた日が子供の時から好きでした。それで感性豊かな人をみれば、私はちょっと感性が人より劣っているのかなと思ったのですが、でも今日のメッセージを伝えながら、そうではなかったと感謝しました。私は、山とか草とかお花とか見ることが今まで多くはなかったのですが、それを見てもそれにあまりにも感情移入したり、また浸ったりしたことはなかったのです。でも、院長先生の場合はとても感性が豊か方で、よく感動してよく喜んで笑ったり泣いたりする方なのですが、私は自然を見ながら、神様の創造の摂理を考えながら感謝していました。家の近くのポラメ公園で桜の花が咲いているのを見たり、またその花びらが散るのを見ながら、悲しくなったり寂しくなったりするのではなくて、天国ではこのように花が散ることはないから、天国に行けばいつもお花が咲いているから、どれほど幸せなのだろうと思ったりしました。お花はきれいに咲いても、1週間、2週間くらい経ったらすぐ散ってしまいますね。この地上ではそうですが、天国に行けば、このように美しいお花がいつもきれいに咲いているから、どれほど幸せなのだろうと思いました。それを考えたりしました。
そして山に登った時は、青い緑の山を見ながら神様の創造された大自然を見ながら感動したりしました。空を見ながら、雲がある空を見て神様のその愛とか、また天国での空とか雲とかを思い浮かべています。先週、夕暮れの夕日がとても綺麗だったそうです。主のしもべの皆さんは、先週定期総会があったのですね。それでチョンジュ地方に行ってそこから帰ってくる時とても夕日が美しかったようで、私に写真を送ってくださった方がいたのですが、それを見ながらも創造主の神様の摂理を考えたりしますね。赤く染まったその夕日を見ながら、私たちは本当に神様に感謝を捧げて、美しいと思って天国を思い浮かぶようになるから感謝ですね。はいこの写真です。定期総会が終わってソウルに帰ってくる途中、このような風景の写真が撮れました。とても美しい色ですね。赤い空も青い空もあってそして雲もあって、またこのように赤い、どれほど素晴らしいでしょうか?このような夕焼けの風景を見ながら感動しながら、主のしもべの皆さんも、それを写真で納めながら互いに恵み深い話をしながら、ソウルに帰ってきました。その日また気温も下がって、とても心地よかったのですね。このように自然を見ながら生きておられる神様を感じて、皆さんも告白して感謝しますように。今日の本文には、ヨブが万物を見ながら神様を褒め称えたという内容はないのですが、世の人のように拝んだり、また自分の感情に浸ったりしたことはなかったのですね。これも神様の前で自分なりの義を守った姿だと言っているのです。
続く本文、ヨブ記31:28です。
これもまた裁判にかけて罰せられる罪だ。私が上なる神を否んだためだ。(ヨブ記31:28)
つまり、もし自分が金や財産に希望をおいたり、太陽とか月を見ながらそれを拝んだりしたならば、これは神様を裏切る行為だから罰を受けるべきだと言っているのです。イエス様はマタイ6:24で「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言われました。ヨブは富に心を置かなかったし、神様への自分の道理を尽くしたのです。これもヨブの正しさと潔白を表しています。ヨブは神様を信頼して、神様のように自分も潔白でいようとしました。もし自分がそこから外れるならば、裁判にかけて罰せられると思っています。ここでもヨブの義が分かります。人々は、よくやったことは褒められたいと思うけれど、自分の過ちは見逃してほしいと思う場合がよくあります。誰かに聞かれてもそれを隠そうとしますね。でも、真理の人ならばどうすべきでしょうか?自分の過ちがあるならば正直に言って、それに対する罰を受けようとするでしょう。そしてその報いとして試練にあっても感謝して受けるようになります。それが真の悔い改めです。
そうすれば再び同じ過ちを犯すことがないでしょう。そうしないで、その過ちを隠そうとして試練を避けようとするなら、繰り返し過ちを犯すようになります。しかしヨブは、自分がもし罪を犯したならば、当然罰せられるべきだと思う人でした。牧者もこのような心だったので、初心の者の時も約束の時間を破ったり、礼拝の時間に1分でも遅れたならば、3日断食、7日断食をするなど自分に罰を与えて、二度とそんなことがないようにしました。このような罰は体には辛く痛いけれど、これによって自分をさらに完全にすることができるから、それを幸せだと思いました。私たちも全てのことでこういう心で自分を治めて、真理で自分を打ちたたいて従わせる時、さらに速やかに完全にされるでしょう。
結論です。
愛する皆さん、私たちは数時間にかけてヨブが説明する自分の義について調べています。ヨブは旧約時代の人ですが、今日聖霊が心におられ、真理を教えてくださる時代に信仰生活する私たちの姿と比べてみて、学ぶべきところがたくさんあります。ところで、ヨブが続けて自分の正しさを主張する理由は、このように正しくて良い私を苦しめる神様は、正しくないと言うためです。ですから相変わらず自分の義にこだわっていて、この姿を打ち砕くまで、ヨブはまことの義人と言えないのです。熱心に信仰生活をしている人でも、長い間自分が作ってきた自分というものがあるのです。それによって、自分の姿を発見することが難しい場合があります。自分なりに祈っても答えを受けられない場合もあります。これは自分なりに正しいと思っていることも、神様の御目にはそうでない場合があるからです。
箴言16:2に「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値打ちをはかられる。」とあります 。私たちは心をご覧になる神様の前で、自分の魂の値打ちがどのくらいなのか考えてみますように。人の心を正確に照らす鏡は、ただ真理である神様の御言葉だけです。それと共に火のように祈る時、神様が私たちの姿を発見させてくださいます。ですから御言葉と祈りによって、心の深くにある悪まで発見して捨てて、本当に神様が聖いと認めてくださる真の義人になりますよう、主の御名によって祈ります。
