ヨブ記講解89 - ヨブの義(1-上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記31:4-8
愛する皆さん、前回、ヨブは自分がどれほど正しく生きたのかについて言いました。おとめに目を留めないと自分の目と契約を結び、その契約を徹底的に守るほど純潔な生き方をしたと言いました。このようにヨブは律法としては非の打ちどころのない人だったのですが、神様は彼の心まで完全になるように望んでおられたので、試練に遭うという過程が必要なのです。神様の前では行いも重要ですが、心の方が重要だからです。イエス様の時代の律法学者とパリサイ人たちは、律法を徹底的に守り、先祖代々の言い伝えまで徹底的に守ろうとしました。十分の一の場合は、小さい野菜の葉とか茎までいちいち計算して捧げるくらいでした。しかし、それよりはるかに重要な正義と憐れみと誠実はおろそかにしていたので、イエス様は彼らに災いだ、偽善の者と責めておられました。
彼らは、心には罪と悪がいっぱいなのに行いに偏っていました。正義と憐れみと誠実が心に臨んでいる分、つまり心を割礼して真理によって変えられる分、戒めを守る行いも伴います。心から礼拝して祈り完全に十分の一献金を捧げ、一生懸命に忠実に奉仕をするようになります。心から戒めを守って行うなら神様がその心をご覧になり、正義と憐れみと誠実を速やかに心に刻むようにしてくださいます。そうして魂に幸いを得るようになり、神様に愛され祝福されるようになります。ですから目に見える行いだけではなく、心が聖くなって真の聖徒になり、神様に愛され認められ霊肉ともに豊かな祝福を受けますように。
本文ヨブ記31:4です。
神は私の道を見られないのだろうか。私の歩みをことごとく数えられないのだろうか。(ヨブ記31:4)
ヨブは、神様が全てを見ておられるということを、先祖たちを通して聞いて知っていました。それで、神様が自分の道を見ておられ、自分の歩みをことごとく数えるほど、全てを知っておられるということを認めていました。ここで私たちは、ヨブが試練の中でも神様を求めていることを悟らなければなりません。試練に遭ってつまずいてしまい、神様から離れる場合もあります。そして試練に遭っていろいろつぶやいて、神様を恨む人もいます。今ヨブもそのように見えますが、しかしその根本には神様を求めている姿があります。口ではいろいろつぶやいていますが、自分の義で理解できないから神様の前でいろいろ訴えています。その心の中を見てみれば、神様を求めて神様を認めているのがわかります。皆さんは自分とヨブと似ていると思ってはいけません。ヨブの心とその行いを皆さんの姿と比べてみれば、色々な違いがあると思います。皆さんも、もちろんよくやっているところがたくさんあると思いますが、ヨブの行いと比べてみればどうでしょうか?劣っている姿もあるでしょう。
そして覚えておくことは、ヨブが今このように試練にあっていても、神様の前でいろいろ嘆いて訴えていても、それは神様を見つけるために神様に求め、神様を認めていることが根底にあるのです。このように神様を認めているのですが、自分への神様の御心がわからないから 、相変わらず神様を悪い方のように言っています。私たちは神様を知識的に知っていることと、心で信じることには大きい違いがあることを知っていなければなりません。聖書をたくさん読んで暗唱して説教をたくさん聞いたとしても、心の糧にしなければ何の役にも立ちません。知識で高ぶってしまい人を裁いたり罪に定めることもあります。御言葉を聞き読む時、それを自分に適用して変えられる努力が必要です。神様が認めてくださる信仰は、御言葉を知っていることで終わる知識的な信仰ではなく、御言葉通りに行う霊の信仰です。ヤコプ2章には行いのない信仰は死んでいるし、行いによって信仰が完全になるとあります。
例えば「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことに感謝しなさい。」という御言葉は、初心のものでなければほとんどの方が知っているでしょう。しかしこの御言葉通りに完全に行う人はあまり多くないのがわかります。試練にあっても喜んで感謝すべきだとは知っているのですが、いざとなると喜びがなくなってしまいます。神様の前につぶやいたり祈ることさえやめてしまう人もいます。もし私たちが嬉しい時だけ喜んでいて、試練患難にあったら喜べないのならば世の人と変わりがないでしょう。世の人はこの地上での人生に目的を置いて生き、霊の世界を知らないので、嬉しいこと楽しいことがある時だけ喜び、そうでない時は悩み悲しみ心配不安で生きています。
しかし神様の子供たちは、天国への希望があるので、良いことがあるだけではなく試練患難にあった時も喜べます。神様が練ってくださるテストの場合は、私たちにより優れた天国と栄光をくださるためだと信じるから喜ぶことができます。自分の過ちによる試練だとしても、悔い改めて立ち返って、さらに神様の前にふさわしい人に変えられるのだから感謝します。主にあって困難にあった時、ヨブのように悩んだり神様の前でつぶやくのか、そうでなければ喜んで感謝するかの違いは信仰の違いです。
ヨブが本当の神様を信じていて神様の御心を悟っていたならば、感謝して最後まで頼ったでしょう。そうしたならばもう少し早く問題が解決されたでしょう。もちろんヨブがこのような心だったならば、どんな環境や状況に置かれても喜んでいたならば、そもそも神様がこのように試練に遭うようにされなかったかもしれません。ヨブは、神は自分の道を見ておられると言いながら、神様のことを知っているかのように言っていますが、それは本当に知っているのではなかったから、神様の御心通りに行えないし問題も解決できませんでした。続く本文を読むと、ヨブは過去の自分の生き方がどれほど正しかったのか、もう一度説明します。皆さんはヨブの姿と自分の姿を比べながら聞いてみてください。
ヨブ記31:5です。
もし私がうそとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら。(ヨブ記31:5)
嘘とは人を騙すために言う事実とは違う言葉です。欺きとは言葉巧みに嘘を言って相手に本当だと思わせることです。しかしヨブは、自分は嘘とともに歩んでいなかったと言って、またこの足が欺きに急いだこともないとこのように言っているのです。そんなことはなかったと堂々と言っています。実際にそうでした。では皆さんはどうでしょう?皆さんには嘘とか欺きがないのか顧みますように。現代人は冗談を言うことが日常のようになっています。適切な冗談も言えてこそ、空気を読める人、場を盛り上げる人になります。しかしこのような冗談の中には、ほとんど誇張とか偽りが混ざっています。嘘は神様が嫌われるもので敵である悪魔サタンが喜ぶものです。特に主にあっての親睦会や行事をするときは、真理の話ではなく、相手を非難したり仲違いさせたり陰口を叩いたりすることがあってはいけません。恵み深い証、信仰の話、賛美と祈りがあってこそ神様が喜ばれます。
第一ベテロ4:11に「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、」とあります。冗談とか非難とかこのような良くないことはやめて、いつどこででも神の言葉にふさわしく語り、真実だけを語りますように。皆さんの日常生活で欺くことはないのか顧みますように。言葉巧みに言って、相手に本当だと思わせるようなこと、自分の利益を求めるためにそのようなことをしたことはないのか、顧みますように。自分の口の言葉はどれほど真実なのかを顧みますように。例えば自分がある話を聞いてそれが本当だと思って他の人に伝えたとしましょう。しかし後で調べてみたら、それが本当ではなかったのです。それなら皆さんは、皆さんが伝えたことが間違っていたと、その人のところに行って訂正しますか?直しますか?「私が聞いた話をそのまま伝えてしまったけれど、後で聞いてみたらそれは本当ではなかった。」とこのように訂正しているでしょうか?黙っているのではありませんか?そうでなければ忘れてしまったことはありませんか?もしそうした時、その人のところに行って自分が間違ったことを伝えたという人ならば本当に真実な人でしょう。
しかし、聞いた話をそのまま伝えることも実は良くないのです。人の話だけ聞いて、自分がそれを確認もしないで伝えたからでしょう。でも、私はただその人の話を伝えただけだから、私は悪くないと思う人もいるかもしれません。自分がその話をして、それを聞いた人がまた他の人に伝えてしまい、それである人が誤解されることがあるかもしれないのですが、それについてあまり重く思わないで些細なことだと思ったり、また本人のところに行って謝りもしないならばどうでしょう?神様がそれをご覧になって正しい人だと思われるでしょうか?それが神様との間で罪の壁になってしまうこともあります。このように自分が気づかないまま罪の壁が積まれることがあります。悪い意図を持ってわざとすることはないと思いますが、自分も知らないうちに日常生活でこういう姿があるのではないか顧みますように。人に伝える言葉とか何か報告をする時も真実にしないで、自分の利益にならないことは隠してしまう姿はないのか、顧みますように。それも欺きでそれも嘘になるのではないでしょうか。自分の心の深くにある姿を顧みますように。ずる賢さ自分の利益を求める姿があるのです。でもヨブは自分にはそういう嘘はないとこのように堂々と言っています。
続くヨブ記31:6です。
正しいはかりで私を量るがよい。そうすれば神に私の潔白がわかるだろう。(ヨブ記31:6)
自分は嘘も欺きもしたことがないと言っているのです。ヨブが節度ある生き方をしていたことをこのように堂々と言っています。自分は潔白だと主張しています。だから神様がはかりで自分を量ってみれば自分の潔白が知られるでしょうと言っています。ヨブは、自分の信念を持って決して正しくないことはしてなかったので恥じることもないし、神様の前で堂々と言っています。世には不義を行いながらも自分は正しいと主張する人もいるし、自分の基準で正しく生きてきたと思うから、自分の潔白を堂々と言う人もいます。しかし真理を基準にして照らしてみればどちらも正しいと言えません。ローマ3:10に「義人はいない。ひとりもいない。」とあるように、神様の御言葉に照らしてみれば完全な者は誰もいないからです。行いとしては潔白だったヨブも、心が完全になるために試練にあっているのですが、皆さんもしヨブの正しさと善より劣っているなら、どうして自分が正しいと主張できるでしょうか?
私たちは御言葉という鏡に自分を映してみて、真理という正しいはかりに自分量ってみなければなりません。世の人と比べたり、自分の周りにいる自分より劣っている人と比べてみて、私はそれでもよくやっていると思ってはいけません。神様の御言葉、真理を基準にして自分を照らさなければなりません。だから他の人と比べる必要もありません。皆さんは何を基準にして自分を量っているのか顧みますように。私たちは信仰の人々、聖書のある正しい人を自分と比べてみて、それで自分の劣っているところを直していかなければならないでしょう。主の姿と自分を比べてみれば、へり下って謙遜になるしかないでしょう。そのような人は高ぶることができないでしょう。だからといって自己肯定感がないというわけではありません。私はいつも自分を顧みて自分の欠けているところを発見しようとして、何か自分がよくやったと思ったことはありません。賛美の働きをした時もそうだったし、説教者としてメッセージを伝える時もそうだったし、いつもこういうところはもっとこうすればよかったのにとか思って、何かよくやったとか満足することはありません。
でも周りの方々がいろいろ褒めてくださるのですが、私にはそれをあまり嬉しく思わないのです。周りの方が私を褒めてくださっても私はそれに対してあまり嬉しいと思わないから、反応があまりないと思われるかもしれませんが、本当に私はそうです。いつも私は基準をこの真理の御言葉、また完璧なことを基準にしているからだと思うのですが、でも自己肯定感が低いかといえばそうではないのです。私はいつも心が幸せでいつも恵みに満たされています。賛美の働きをする時もそうでした。私は声帯がもともと弱い人でした。それで長い間賛美リードをしていると、後で声が出なくなったりかすれたりすることもあったのですが、金曜徹夜礼拝の二部の場合は、前は2時間ぐらいだったのですね。それで賛美リードをしていて途中で突然声が出なくなったりすれば、普通の人ならば自分の声をちょっと調節したりちょっと休ませようとするでしょう。でも私は、それはできないのです。全力疾走するのです。最善を尽くして私はするそういう者だから前もって自分の声の調子を見て適当にしたりすることはできなかったのです。私の性格、性分がそうだからですね。
その時は賛美リードをする人がいなかったから私がやむを得ずしたのですが、それでもやるには最善を尽くしてやりました。そうしていたら少しずつ声帯が強くなりましたが、でも私は歌はあまり自信がなかったのです。自分が、歌が上手だと思ったことがありません。そしてGCNのパワープレイズをリードするようになったのですが、その時も新しい賛美、外国の賛美、初めて聞いた賛美を全部覚えなければならないし、またその全体的なコンテも私が組み立てなければならないし、いろいろ音楽的な勉強も、今までしていなかった分野もしなければならないということがありました。私はその時も私には荷が重いなぁと思いながら、でもだからもっと努力しました。もっと練習しました。10年ぐらい賛美の働きをしたのですが、本当に私は、正直自分が賛美とか歌が上手だと思ったことがありません。賛美リードもそうです。海外の聖会で特別賛美をしたのですが、終わった後は、よくやったとか満足したとか思ったことがありません。でも神様は、私が最善を尽くして心を尽くして練習して祈りながら、神様の前に賛美を捧げたことを喜んでお受けになったと思いますが、でも私は実は、自分にはこれは向いていないなと思いながらしていたことがよくあります。
後で私が、以前自分がしていた賛美、GCNパワープレイズとか海外聖会の時の特別賛美とか見てみると、あの時このくらいできていたんだと思うようになります。客観的に見てみればある程度はできているのですね。でもその当時は全然そう思わなかったのです。今もそうですね。私が説教をしていていろいろ癒しの集会を導いているのですが、自分がよくやっていると思ったことはありません。前より聖なる負担があります。でもこれは大変だとか辛いと思うのではありません。神様にただより頼むしかないし、神様にすがるしかないですね。そして最善を尽くして全身全霊を尽くすしかないのですが、でも皆さん私を見ると辛そうに見えますか?そうではないですね。私はそのようなことがあって、いろいろ自分が劣っていると欠けているところが多いと思っている人なんですけれども、それでも心が幸せで喜びがあります。
神様に愛される子どもとして自己肯定感は低くありません。そして、さらに神様に近づくために毎日努力しているだけです。皆さんも真理を基準にして自分の欠けているところを探して見つけた時、それによって気を落として落ち込むのではなくてさらに感謝してください。そして悔い改めていっぱい泣いて力がなくなって気力が落ちてしまって疲れたのではありません。神様がくださる霊的な力が新しく満たされるようになりますね。それを体験する皆さんになりますように。ヨブは続けて自分の生き方がどれほど潔白だったのか言っています
ヨブ記31:7です。
もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手によごれがついていたなら、(ヨブ記31:7)
自分の歩みは道からそれなかったと言っています。自分の生き方は正しかったと言っているのです。ヨブ記一章を読んでみればよくわかります。ヨブは神様の前で恥ずることがないように生きていました。そして子どもたちがもしかして神様に逆らうことをしたか、したのではないかと心配して、彼らのために代わりに全焼の生贄を捧げるくらいでした。そして十人の子供が亡くなって、全財産を失った時も地にひれ伏して礼拝しました。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と告白するほどでした。だからヨブは、私は正しい道を歩んでいたと堂々と言えるのです。そして、ヨブはもし私の心が自分の目に従って歩んでいたらと言っています。これはヨブ記31:1で、「私は自分の目と契約を結んだ。」と言っている内容です。目は、世を受け入れる通路のような役割をします。人は何かを見れば真似をする傾向があります。例えば、他の人がラーメンをおいしそうに食べているのを見たら自分も食べたくなり、誰かが素敵な服を着ているのを見たら、自分もそんな服装になりたいと思いますね。今日はいろんなメディアを通して好奇心を刺激して誘惑することがどれほど多いでしょうか?
目や耳で暴力的なものに接していけば、そのような情景が心に刻まれて、自分も知らないうちに乱暴な言葉と行いが出てきます。刺激的でみだらものを見ると、姦淫というものがだんだん行いとして発展するようになります。このように目で誘惑されて罪を犯すことがよくあるので、詩篇119:37で「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。」と詩篇の著者は祈りました。ところでヨブはここで心を守って目の誘惑に従わなかったと言っています。そして人は手で罪を犯すことがよくあるのですが、ヨブは、もし私の手に汚れがついていたならと言いながら、自分の潔白を堂々と言っています。続いてヨブはもし自分が正しい道からそれ目の誘惑によって手で罪を犯していたなら、どんな代価を受けるべきかを次のように言っています。
ヨブ記31:8です。
私が種を蒔いて他の人が食べるがよい。私の作物は根こそぎにされるがよい。(ヨブ記31:8)
もし自分が不義なことをしていたならば、自分の作物を他の人が持って行ってしまい、収穫したものがなくなっても仕方ないと言っているのです。このようなヨブの言葉を聞いて友達は腹を立てたでしょう。今ヨブは全てのものが失われている状態です。しかしヨブは「自分には何の過ちもない。神様が自分を苦しめているだけだ。神様が悪い。」と言っているのです。そして自分が今嘆いて訴えていることは正当だと言っています。でもヨブの友達は、「ヨブに罪があるからこのように苦しみを受けているのだ。」と言っているのです。このように互いに言い争っているのですね。ヨブは、「自分は正しい。自分は悪くない。」「このように何故神様がこんなに私を苦しめるのか?」と言っています。でもそれを聞いている友達は、「ヨブが悪いから、ヨブに過ちがあるから苦しみを受けているのだ。」とこのように責めるのです。
ここで私たちが悟るべきことは、神様がご覧になる時の観点、ヨブの観点、友達の観点がそれぞれ違うということです。つまり真理と自分の考えと他人の考えがそれぞれ違うということです。皆さんにもこういう姿があるかもしれません。自分の思い、心、行いを神様はどのように見られるのか、人々はどのように見るのかを考えてみてください。今、自分が知っていることは自分が見ては正しいです。また自分の考えは正しいです。でも他の人は違うというのです。他の人は違う意見を出しますね。自分の考えと相手との考えが違う場合があります。そういう場合どちらが本当に正しいかは、その基準は神様の御言葉でなければなりません。でも私たちは自分中心、自己中心的に思うことがよくあるから、相手が正しくないと思ってしまいますね。しかし、私たちは神様の観点から客観的に真理を基準にしてみなければならないのです。自分が見てこれが正しいと思って、相手も自分が正しいと思う。でも神様がご覧になるときはどちらも正しくないのです。こういう場合があります。特にいろいろな情報と価値観、知識が洪水のように溢れている今日はさらに気をつけて、ただ神様の御言葉を基準にして何が正しいか正しくないかを見分けなければなりません。
皆さんニュースを見ながら真理で見分けていますか?何かの情報をニュースで報道していても、それが本当に正しいか?本当の事実なのか?そして皆さんはそれを見ながらどうしてあんな風に言っているのか、このように対処した方がいいのにと思うかもしれません。でも自分の考えが間違っているかもしれません。何を基準にするかによって違いますね。私たちはいつも真理を基準にしなければなりません。世の基準は時代や環境によって変わるものですが、神様の御言葉は永遠に変わらないもの真理だからです。ヨブと友達は互いに自分が正しいと言って言い争うのですが、真理で照らしてみれば両方ともどちらも正しくありません。神様がご覧になる時の義ではなく自分の義を主張しているからです。それで結末に至っては、ヨブも悔い改めて友達も悔い改めますね。教会の中でも自分の義を主張しないで、神様がご覧になる時の正しいこと義で一つにならなければなりません。そうしてこそ平和を作れます。
人の観点ではなく神様の観点で見て正しい時、真理、聖霊によって一つになります。皆さんは、自分の考えることが神様の御心に合っていると思ってしまうから問題なのです。自分と相手の意見が違う時、真に神様の御言葉を基準にして見分けなければなりませんが、問題は、自分は自分の考えが正しいと思うのですね。自分の都合に合わせて神様の御言葉を引用するのです。それで自己中心的に、また自分の都合に合わせて解釈してしまうのです。でもそれは本当に神様の御心によって見分けたとは言えないのですね。皆さんも人との関係で自分がどんなふうにしているのか考えてみますように。それで皆さんは、自分が真理に合っているのか正しいのかを見分けるためには、まず自分の心に喜びがあるか平安があるか聖霊が喜ばれることなのかを見てみてください。そうでなくて、自分の心の中でもやもや、イライラがあって、相手を見ながら相手が今やっていることが気に入らないとかまた負の感情を抱いているのではないか顧みますように。
もしそういう姿があるならば、私は正しくないと認めなければなりません。例えば皆さんの家族の中で教会に通っていない人がいるかもしれないし、また前は通っていたけれど今は来ていない人がいるかもしれません。その家族に皆さんが教会に来なければならない、礼拝に参加しなければならないと言う場合がありますね。でも相手がそれを聞いてくれないし反発する時もあります。そういう場合、皆さんもかっとなって「そんな風にしていると地獄に行くから」とかこのように言う自分の姿はありませんか?それが神様の真理という基準で照らしてみれば正しい姿でしょうか?自分は家族のため、家族が救われるように切なる心でそう言ったと言うかもしれませんが、でも客観的に見てみてください。このようにいつも神様の御言葉を基準にして自分を見ますように。
本当に真理にあっているならば、神様が皆さんの味方になってくださり、そしてその結果が良い実になるでしょう。そしてその皆さんの言葉にも神様が恵みをくださるならば、相手の心を開くようにしてくださるでしょう。聖霊が助けてくださり相手が皆さんの話を聞き入れるようになるのです。でもそうではなくて、自分が今相手に対して何か不満があっていろいろきつく言ってしまう姿はないのか顧みますように。
