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ヨブ記講解95 - おのれ自身を知ろう④(下)

1 日前
読了時間: 15分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記33:14-18


続く本文でもエリフの悪がよく現れています。ヨブ記33:14-16です。


神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。夜の幻と、夢の中で、または深い眠りが人々を襲うとき、あるいは寝床の上でまどろむとき、そのとき、神はその人たちの耳を開き、このような恐ろしいかたちで彼等をおびえさせ、(ヨブ記33:14-16)


エリフはヨブに「あなたのものには神様は答えてくださらない」と言いました。そして、「神様は夢や幻の中で耳を開き語られても、厳しく教えても、人がそれに気づかないのだ」と言いながら「、神様がヨブに答えてくださらないのはヨブが悪者だからだ。でも正しい人には、夢や幻を通して教えてくださるのだ。」と、このように違いを説明しながら、ヨブが悪いということを悟らせようとしています。エリフはこれまでヨブの話を聞きながら、イライラしていたその負の感情をぶちまけて、ヨブを言いまかそうと自分の知恵を使ってこう言っています。あなたがもしこれに弁解できるなら言ってみろというふうに、意気揚々と言っています。でもこれは自分の義にすぎません。エリフは自分の考えで神様はこういう方だと決めつけていました。自分の義が強くて、自分は正しいことを言っていると思っていたのですが、これは神様の御名をみだりに唱えるものでした。自分なりに真理の知識を引用しているのですが、その中に込められている神様の御心は悟れず、自分の義によって言っているから、肉的な言い分にすぎないのです。だから彼の言葉はヨブに何も悟らせることができなかったし苦しめるばかりでした。​


皆さん、エリフが言った通りに、神様は、信仰の人々には夢や幻の中でまた御声を下さり、また御使いを通して神様の心を教えてくださいました。例えばアブラハムとダニエルには幻の中で、または御使いを遣わして御心を教えてくださいました。ヤコブとヨセフには夢を通して働きました 。エゼキエルにはいろんな幻を見せてくださり、イスラエルの回復を予言させました。特にモーセの場合は、口と口とを合わせてはっきり言ってくださったし、神様の御姿まで仰ぎ見ることができました。これはモーセが地上の誰よりも非常に謙遜だったし、全家を通じて忠実だったからです。また旧約時代には、神の霊が臨んで神様と交わることがありました。今日は聖霊時代だから、心の中におられる聖霊の声を聞かせてくださることがよくあります。このように神様は多様な方法で語ってくださいます。​


それではどんな人が神様を見つけることができるでしょうか?箴言8:17「私を愛する者を私は愛する。私を熱心に探す者は私を見つける。」とあります。ここで私たちが見るべきところは「私を熱心に探すものは私を見つける」という御言葉です。つまりアブラハム、ヨセフ、モーセ、ダニエル、エゼキエルのように、神様をこのうえなく愛する人だけではなく、誰でも神様を切に探すなら見つけることができるのです。たとえ今の姿は罪人でも、その人の心をご覧になり神様が訪ねてきてくださる場合があります。例えば使徒パウロは、主に出会う前はクリスチャンを迫害していました。エルサレムから離れたダマスコまでに行って、クリスチャンを捕らえて逮捕しようとしました。ところが、主は彼がダマスコに行く途中訪ねてきて出会ってくださいました。これをきっかけに彼は完全に変えられました。以前はクリスチャンを迫害する者だったのですが、今は、イエスがキリストであることを否定するユダヤ人を屈服させる人になりました。使徒パウロは、主が自分のすべての咎と罪を許して救ってくださったことだけでも感謝ですが、尊い使命までくださった恵みにあまりにも感謝でした。ですから、福音を伝えてひどい迫害を受けて命が危なくなった時も、主への感謝はさらに深まり喜んで殉教できたのです。このように現在は罪人の姿でも、その心が神様を愛して忠実になる人ならば、神様はこのように訪ねてきて出会ってくださり変化させて用いてくださいます。​


他の例で、イエス様は十人のツァラアトにおかされた人を癒してくださったのですが、その中で一人だけ戻ってきてイエス様の前で感謝して神様に栄光を捧げました。するとイエス様は彼の魂が救われるように祝福してくださいました。十人のうち九人は、恵みを忘れて離れてしまうことをイエス様はわからないはずがないのに、なぜ全員癒してくださったのかと思う人がいますか。九人が恵みを忘れて離れたとしても、彼らの唇を通して神様が生きておられることが伝えられるし、これによって多くの人が神様に帰ってくるからです。彼らが癒されたから、周りの人がどうしたのかと思って聞くでしょう。そうすれば神様が癒してくださったことが伝えられるようになって、神様に栄光を捧げるようになるでしょう。​


今日も神様の癒しと答えを体験したのにもかかわらず、神様を裏切って教会を離れることがあります。神様はそのようになることをご存知でありながらも、恵みを施してくださったのには理由があります。その人が後で裏切って離れるような人でも、その当時神様の前で見せた信仰と行い、また切なる心がふさわしいなら答えてくださるのです。でも私たちはどのように考えますか?今熱心に見えても、彼が後で裏切るような人ならば神様が癒してくださらなければいいのにと思いますか?人はそう思うのです。あの人が後で裏切ってしまう人なのに教会を苦しめる人なのに、どうして神様はその人を祝福してどうしてその人を癒してくださったのかと思うかもしれませんが、そうではありません。その当時、その人は神様の前で信仰を見せて、また神様の前で答えを受けるのにふさわしい姿だったのです。だから神様は公義に従ってそのように答えてくださったのです。そしてその恵みを忘れないで、試練がやってきた時、信仰を守るようにと思っておられたから、そのように恵みをくださったのです。


でもその人が裏切ってしまい、罪と悪に落ちてしまったのです。それが神様のせいでしょうか?教会のせいでしょうか?牧者のせいでしょうか?そうではありませんね。それを見ながら理解できないとか気に入らないと思う人がいるならば、その人も悪いのです。神様は公義の神様です。愛の神様です。答えを受けるのにふさわしい姿があるなら、その人が後で、もしかして悪を行って離れるような人でも、今はその公義に従って答えてくださる方です。神様はあらかじめどうなるのか知っておられるのに、なぜそのような人を今働き人として立ててくださるのかと思ってはいけないのです。人が狭い一面の考えで神様を裁いたりしてはいけないのです。もしそういう姿があるなら徹底的に悔い改めなければなりません。神様がなさることについて、人がああだこうだとこのように言ってはいけないのです。神様のもっと広い大きい御心があるのに、人はそれを悟らないままこのようにむやみに言う場合があります。神様が人々にご自分を現わしてくださるのには神様の御心と摂理があります。だからエリフがヨブに「あなたは悪い人だから神様が答えてくださらないのだ」と決めつけることは正しくありません。


皆さん、それでは神様がまだヨブに答えてくださらない理由は何でしょうか?ヨブは今まで試練にあって、心の中にある多くの真理と反対のものが明らかにされたのですが、まだ全部出ていなかったのです。自分というものが残っていました。だから神様は、ヨブの心の中にあるものが全部明るみに出されることを待っておられました。後で神様が彼を悟らせてくださると、ヨブはその時は低くなって、徹底的に自分を発見して悔い改めて変えられることを知っておられるからです。もし神様が今ヨブに答えてくださるなら、ヨブがまだ発見していない真理と反対のものはそのまま残ってしまうでしょう。それならヨブは完全な者にはなれないし、神様が望んでおられる器になることもできないでしょう。今、ヨブが三人の友達と言い争っていました。神様につぶやいたり嘆いたりしていました。それがヨブの心にあるものが70%現れたならば、またエリフの話を聞いて言い争いながら、あと残っているものが全部明るみに出されるでしょう。その後神様がヨブの前に現れて悟らせてくださるなら、ヨブはその時徹底的に悔い改めるようになるでしょう。神様はその時を待っておられます。


皆さんが答えを受けて癒される時もそうです。ある人は夏のキャンプの時半分ぐらい癒されたならば、あと半分治るまで神様はその人の心が変えられるのを待っておられるのです。だから気を落とすことはありません。信仰を持って神様に求めながら、神様に感謝しながら神様を信じながら、さらに神様の前でふさわしい姿になるために努力していきましょう。ある家族がこのような話をしたそうです。家族の中で夫婦の中で配偶者の病気の問題で家族が一緒に祈っていたそうです。そしてこのような特別な恵みの機会があるから、キャンプのために備えて互いに気をつけていたのですね。互いに言葉も気をつけながら仕え合っていました。そして夏のキャンプが終わった後のことですが、相手の配偶者がもう夏のキャンプが終わったから元に戻るのと言ったそうです。 そのような姿が今までもあったからそのように言うのですね。だから少しずつ少しずつ癒されるしかなかったのです。でも本当に完全に変えられるならば神様が一度でも癒してくださるでしょう。そしてこのような病気を癒すためだけではなくて、本当に日常生活で自分の姿が変えられて家族に仕えていてまた神様の前でもふさわしい姿になるなら完全に癒されるでしょう。


家族にまず認められなければならないのです。そして自分の行いが、神様のその公義の基準にどのくらいになっているのかをいつも考えてみなければなりません。病気の癒しが先ではなくて心が変えられるのが先ではありませんか。神様はヨブをとても愛して、さらに良い器になるように練ってくださるのですが、このような神様の心をヨブも知らなかったし、彼の友達も知らなくて互いに誤解して争って裁いて罪に定めていました。ヨブは、自分で見たら自分は正しいのに、「ヨブはあなたは悪い人だから神様に懲らしめられている」と言うから、互いに話が通じないのです。このような姿が人の間でよくあります。


例えば、AとBという人がいたとしましょう。Aという人が自分を目立ちさせたくて自慢するのが好きな人だとしましょう。私はその姿を見て、ああしていて後でしくじってしまうだろうと思うのではありません。その人は今心が熱いから熱心だからそうしているんだと可愛く見えます。でもBはそれが不満なのです。先生がAを指摘してくださればいいのに、Aはあまりにも出しゃばっているのになぜ先生は何も言ってくださらないのか、引き止めてくれないのかと不満を抱いているのです。でもAはAで変えられる時があるでしょう。またBも神様がそのBという人に合う方法で彼が変えられるように導いてくださるでしょう。だからこの人はどうして、あの人はどうしてと思うのではなくて、理解できるようになります。皆さんもそういう姿ありませんか。


相手が何かしていることは気に入らなくて、その人が間違っているのになぜ目上の人は指摘してくださらないのだろうかと、周りの人が迷惑なのにと思うかもしれませんが。でも目上の人が見るにはその人が見るのと違うのですね。そして信仰の目で見て、どちらも変えられるのを待っているのです。私もそうです。Aという人Bという人、どちらも理解できるのです。皆さんが、もしある人が理解できないとか気にならないならば、その原因は自分にあるのです。自分の心がもっと広くなって、自分の心に善をもっと満たしていけばその人が理解できるようになって、受け入れることができるようになります。後になって、信仰が成長して心が広くなってから振り返ってみればわかるでしょう。私は牧者を通してそのような姿を学んできました。皆さんもこのようなメッセージを聞きながら、あの人がひどいから、あの人が理解できないからではなくて、自分はどうなのかを顧みますように。


今、ヨブとヨブの友達は互いに理解できないから、言い争って感情的になって対立していきました。そしてヨブは、「あなたたちは相手にする価値もない」と言って神様の前で訴えるようになりました。 いくら友達に説明しても、友達がそれを受け入れないでずっと自分を責めてばかりいるからです。 皆さんの中でもそのような姿はありませんか?どうして私は人との関係が良くないのだろう ?どうしてギクシャクしているのだろう?誰々はあんなに愛されてみんなと仲良くしているのに、なぜ私はそうできないのだろうか?なぜ私があの人より優れているのに認められないのだろうと思っている人ならば、自分を顧みますように。もしかしてエリフのように自分の考えに合わせて相手を裁いている姿はないのか、自分の義だけを主張しているのではないのかを顧みてみれば聖霊様が教えてくださるでしょう。続いてエリフは神様が夢や幻で人を教えている理由を自分(の)なりに考えて説明します


ヨブ記33:17です。


人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。(ヨブ記33:17)


神様は人が間違ったところから立ち返って高ぶらないように、夢や幻などいろんな方法で教えてくださるというのです。しかし今エリフは、このような神様の方法を自分の考えと義に合わせて、ヨブを責めるために使っているのです。続く本文を見ればエリフの悪い意図がよくわかります。


ヨブ記33:18です。


神は人のたましいが、よみの穴に入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。(ヨブ記33:18)


聖書にはこのような神様の御業がよくあります。例えば神様は獅子の穴に投げ込まれたダニエルや、燃える炉に投げ込まれたダニエルの三人の同僚を救い出してくださいました。ヨナは大きい魚の腹からも救ってくださいました。このように死から神様が救ってくださった人々の共通点は、神様を愛する正しい人でした。今までエリフが言っていたことをまとめてみれば、この意図がわかると思います。エリフは、「神様はヨブのような悪者には語らないけれど、正しい人には夢や幻の中でいろいろな方法で語ってくださる方だ」と言いました。このように「神様は、ダニエルやその三人の同僚のような正しい人は、死から救ってくださるけれど、ヨブあなたは悪い人だから救ってくださらないし応えてくださらない」というふうに言っているのです。エリフは相変わらず自分が正しいという自分の義によって神様の御名をみだりに唱えているのです。


クリスチャンの中で話をするとき、聖書の御言葉を引用することがあるのですが、御言葉そのものは正しくても、相手の状況や相手の事情に合っているのかをよく見分けなければなりません。自分の考えで御言葉を間違って引用すれば、神様の御心に逆らうこともあるから、いつも聖霊の声を聞こうとしなければなりません。また正しく御言葉を引用したとしても、もし相手を罪に定めるための悪い意図で使うならこれも正しくありません。皆さんに何人かの子供がいるなら、人それぞれ教育する方法が違うでしょう。ある子どもは優しい言葉で言っても、はいと言って聞き従うのですが、ある子どもは厳しく言ってこそ従います。そして訓解して教えるべき時もあります。親が子どもたちの性格を知っているから、それぞれに合わせて教育するように、神様もそれぞれの人に合わせていろいろな方法で導いてくださいます。だから、試練にあっている人を見るとき、神様の心を知らないまま、ああだろう、こうだろうと、むやみに裁くことがあってはいけません。たとえ相手が今火の中にいるようで、死の暗闇の谷間を歩いているように見えても、あの人はきっと何か罪を犯したから懲らしめられているのだと決めつけてはいけないのです。


元老牧師先生はどうなさったでしょうか?皆さんの中で大きい試練があって大きい問題があって、そのために祈りを受けるために来た人には、いろいろなことを、例えを挙げて説明してくださり、本人が悟るようにしてくださいました。質問を投げて、「主日はどのように守っているのか?十分の一献金を捧げているのか?完全にしているのか?」、このように質問をして相手がそれを答えることによって自分で悟るように、そして悔い改め自分で発見できるようにしてくださいました。でも皆さんは相手が何かすでに試練にあっているとか問題にあっているとき、すぐ自分の思い込みで決めつけたことはありませんか。聖書のあちこちに人を裁いてはならない、罪に定めてはならない、自分が裁判官になってはならないとあるから、この御言葉を心に刻んで神様のようになって人を裁くことはないようにお願いします。


結論です。エリフは自分の義が強い人で、自分だけ正しくてヨブは正しくないと思ったから不満を抱いてヨブを責め立てていました。また神様の御言葉も自分の考えに合わせて解釈して、神様の御名をみだりに唱える罪を犯しました。皆さんは日常生活で自分の義で御言葉を解釈することはなかったのか、神様の御名をみだりに唱える姿はなかったのか、チェックしてみますように。神様の御言葉を間違って引用することも、神様の御名をみだりに唱える罪にあたることです。御言葉は神様だからです。御言葉の知識はたくさんあるのに心にそれを刻まないで霊の糧にしていなければ高ぶってしまい、真理の御言葉を自分の悪で巧妙に使う場合があります。


御言葉に照らして自分を発見すべきなのに人を裁いたり、また自分の過ちを正当化するために真理の御言葉を引用する場合があります。相談したり訪問するときも、自分の考えに合わせて相手にアドバイスをする場合もあります。しかし御言葉を心の霊の糧にすれば、聖霊の声を聞いて聖書の御言葉から相手に一番必要な御言葉を正確に伝えることができます。そして闇の勢力を退ける権威もあるから、御言葉の剣で相手の霊と魂、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通して変えさせることができます。ですから皆さんは、神様の御言葉をただ知識として持つだけではなく、心に完全に霊の糧にして、皆さんがどこにいても主の光を放つ幸いな唇になりますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。

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