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ヨブ記講解75 - まことの義人は(2-上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記27:3-4 前回は、相変わらず自分を義人だと錯覚しているヨブの姿を調べてみました。自分は正しく生きていたのに、恐ろしい怖い神様が自分を苦しめたと言っていました。今、ヨブは神様を恨み、裁き、友達と言い争っていながら、それは自分が悪いわけではなく、神様がこんなふうにしたからだと言いました。しかしそう言っていることが全然正しくない姿であり、悪い姿ですが、ヨブは自分自身について全然悟れないのです。私たちもこういう姿があるかもしれません。相手が憤ったり言い争ったり、自分を主張しているなら、私たちはどうでしょう?それを見て聞いて、イライラしたり、もやもやして、その人に言い返したりすることはありませんか?そういう場合、私は悪くない、相手がそんなふうにしているから我慢できず、一言、言ってやったとか言うかもしれません。しかしそう思っていては霊的に変えられないのです。 相手が悪くてもどんなに激しいことを言っていても、自分はそれに全然影響を受けないのが、神様の前では良いのです。感情的になったり、かっとなったり、イライラしたりしては
ヨブ記講解74 - まことの義人は(1)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記27:1-2 前回は、ヨブが自分の感情や思い込みによって、神様を恐ろしく思い、大げさに表現している姿を見ました。神様を怖い神様、悪い神様のように大げさに表現していました。これも神様がヨブを練るしかない理由だと言いました。皆さん、私たちにもこういう姿がよくあります。自分が嫌いなことがあれば、自分だけではなくみんな嫌いだと思います。みんながそう思っているかのように、大げさに言う場合もありますね。自分の感情や思い込みによってそんなふうにします。自分が好きな人のことならば、その人の何か過ちについて言われたら、そんなこと絶対ないと思います。でもちょっと自分が苦手な人や嫌いな人のことならば、前もあの人は、そんなことがあったと言いながら、大げさにその人が本当に悪い人のように言ってしまうことがあるかもしれません。 私たちはこれまでヨブ記1章から26章を調べてきました。神様が、ヨブを練るしかない多くの理由を悟ることができました。ところで多くの人は、ヨブ記講解を誤解しているようです。ヨブには何の過ちもないのに神様が試練に合わせて、
ヨブ記講解73 - 感情的になって大げさな表現をするのはやめよう(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記26:14 続くヨブ記26:14です。 見よ。これらはただ神の道の外側に過ぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。(ヨブ記26:14) 今、ヨブはこれまで言ってきたことは、外側について言っているだけだと言いながら、一部分に過ぎないと言っているのです。ヨブが言っていることは、神様について一部分にしか過ぎないけれど、神の力は雷のようなものではかり知れないと言っているのです。ヨブは自分が恐れている神様、恐ろしい神様について表現していました。しかし、それは氷山の一角にすぎないと言っているのです。だからこれは神様に栄光を捧げるために言っている言葉ではなくて、自分の思い込みによって大げさに表現している言葉なのです。昔の人々は、雷が鳴ったり稲妻が走ったりすると恐れましたね。怖がりました。ヨブも自分のわだかまり、誤解によって、恐ろしい神様を表現しているから、雷という表現をして大げさに言っているのです。 皆さんが神様の御言葉を心に刻み、昼も夜も口ずさんでいるなら、一日
ヨブ記講解73 - 感情的になって大げさな表現をするのはやめよう(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記26:11-13 前回、ヨブは自分の思い込みとわだかまりがあったから、友達の前に神様を悪い方のように言っていました。人が罪の壁によって神様を見ることができないのに、ヨブは神様が御座の面をおおって人との間で隔ての壁を作ったと言いながら、神様の責任にしました。その罪の壁は人が作ったものです。神様が作ったものではありません。そして神様は人のために昼と夜を造り、水の境も定めて、雲と雨、また東西南北の位置も造ってくださったのですが、ヨブはこれらを神様が独裁者のように、一方的になさったかのように裁いていました。今日もヨブは、自分の思い込みと決めつけで神様について説明しながら、大げさに表現しています。メッセージを聞きながら、自分はヨブのような姿はなかったのか顧みて発見したなら、真理に変えられる皆さんになりますよう、主の御名よって祈ります。皆さんが祈祷課題にするように、今日のタイトルをこのようにしました。「感情的になって大げさな表現をするのはやめよう」です。これが今日のポイントです。皆さんもこういう姿はないのか、顧みながら祈って
ヨブ記講解72 - 神様の主権は善に基づく
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記26:9-10 前回、ヨブは正しい良心があったので霊の声を聞くことができ、科学が発達していなかったその時代にも、地球が宇宙空間に浮いている事を悟ることができました。ところが雨が降る現象については、「神が水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。」と不思議に思って、自分の思い込みによって間違った解釈をしていました。このようにヨブは霊の声を聞ける正しい心もあったのですが、まだ完全でない肉の人だったので、万物を見るとき、自分の考えの中で間違って判断することがありました。そして神様についても誤解していました。それでヨブが、「神は北を虚空に張り地を何もない上に掛けられる。」と、正しく悟って、神様の威厳と力を口にしてはいましたが、その目的は神様を高めるためではありませんでした。それは、神様は、あれほど驚くべき威厳と力を持っているのに、悪い人々を罰することがなく、かえって悪い人々を守って祝福していると皮肉を言うためでした。今日、神様を信じるクリスチャンの中でも真理を正しく知らず、神様の愛を悟れなければ、このように誤解す
ヨブ記講解71 - 霊の声(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記26:7-8 ヨブ記26:7です。 神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。(ヨブ記26:7) 東や西、南もありますが、なぜヨブは北の空を言っているのでしょうか。ヨブが東西南北の空を見てみたら、特に北の方は、自分では分からない未知の世界のように感じられたからです。北の空にある北極星や北斗七星は、一番明るく輝く星です。この中で北極星は位置が変わらないので、昔の人々は夜道を歩いたり、航海をするとき、北極星を基準にして方向を確認しました。今日も多くの人が、夜星を見るとき北の方を見るのは、明るく輝く北極星や北斗七星を探すためです。ヨブも星が明るく輝く北の空を見る時、神秘的だと思いそれを張ってくださった神様を思いました。そして一方では、冷たい北風が吹いてくるのも北だから、北はなぜか暗く恐ろしい感じもします。また人間的な考えでは、空の終わりがあると思い、果てもあると思うのですが、その終わりが見えないから、また無数の星だけが見えるから恐ろしさを感じます。ヨブは自分がわからない未知の世界と、空を張ってくださった神様の力
ヨブ記講解71 - 霊の声(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記26:1-4 皆さん、前回はビルダデがヨブに皮肉を言って攻撃したら、ヨブがそれに反論してビルダデを問い詰めながらあざけっている姿がありました。ヨブは誰かに嫌味を言われたら我慢できず、誰かに一言言われたら二言言い返すような人だったのです。神様に潔白で正しいと認められていたヨブから、このようにひどい悪の姿が出てくるのは、その本性の中に悪があるからだと言いました。本性の中の悪は、平安な環境ではあまり明らかにされません。試練や苦しみにあった時、明るみに出されます。神様は愛する子どもたちが、聖められるように望んでおられるので、心に潜んでいる本性の中の悪まで発見して捨てるように練ってくださいます。ある場合は、平安な時に自分の心を割礼しなければ、自分の悪がまた現れるようになります。それでも変えられなければ試練に遭うようになります。その時になって自分の悪い姿を悟るのです。その前は発見できなかったし、自分の悪を認めてなかったのですが、試練に遭ったら低くなって自分を発見して変えられるようになります。 人それぞれ神様はその人に合うよ
ヨブ記講解70 - 本性の中の悪(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記26:1-4 ヨブ記26:1-2です。 ヨブは答えて言った。あなたは無力なものをどのようにして助けたのか。力のない腕をどのようにして救ったのか。(ヨブ記26:1-2) ヨブがこのようにビルダデに言っているのです。あなたは無力なものをどのようにして助けたのか。力のない腕をどのようにして救ったのか。皆さん、これを聞いてどんなふうに感じますか?問い詰めているように皮肉を言っているように聞こえますね。ここで無力なものとはヨブ自身のことを言っています。ヨブは全ての財産も子供も失って、周りの人からさげすまれ嘲られ、悪性の腫もつによって苦しんでいました。このような無力な自分に、友達のビルダデがあれこれ言ったけれど、全然自分には響かなかったのです。24章でヨブは、神様は公平ではない方で、悪い人を守って助けている。自分のような正しい人を苦しめていると言っていました。これを聞いたビルダデは、そうじゃない。神様は平和をつくる方だから、誰にも公平に太陽の光を照らす方だと否定していました。 でもヨブにはこの言葉は何の響きもなかったし、
ヨブ記講解70 - 本性の中の悪(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記25:1-6 ヨブ記24章で、ヨブは、神様は悪者たちを罰しないで、かえって助ける悪い神様だと裁いていました。神様が悪者たちを守っているから、死んで当然の者が、かえってうまくいっていると誤解していました。ヨブはこのように悪者は死ぬべきなのにと思っているのです。そしてどう言いましたか?私だったら悪者はすぐ断ち滅ぼしてしまうのにと言いながら、悪者に対して呪っていました。そして、それが正しいと思っていて、堂々と自分の主張をしていました。ここで考えてみたいと思います。皆さん悪者に対してヨブはさばいていて呪っていました。ヨブはそうしていました。そして自分が神様のようになって裁いていました。罪に定めていました。ヨブにそのような権限がありますか?そしてヨブが呪ったからといって呪いが臨むのでしょうか?そうではないでしょう。しかしヨブはそのような呪いを口から出してしまいました。またその悪者たちは死んで当然だと思っていました。そして裁いてくださらない神様が正しくないと言っていました。そして自分が正しいと言っていました。...
ヨブ記講解69 - 善をもって悪に打ち勝たなければ(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記24:23-25 続く23節でヨブは神様を悪い方だと言っています。 神が彼に安全を与える。それで、彼は休むことができる。神の目は彼らの道の上に注がれる。(ヨブ記24:23) 神様は悪者たちに安全を与えるから、彼らが守られて平安に生きていると言っているのです。自分はこんなに苦しみを受けているのに、悪い友達は神様が守ってくださっているので、うまくいっているように思うと、ひねくれた心の中でこんなふうに言っているのです。皆さん、人の心が悪くなると、嫌いな相手の良いところは見えないし、思い出さないのです。良いところも悪く見えるし、良い言葉も悪く聞こえるのです。過去にあった良いことも忘れてしまうのです。正しい判断力を失ってしまいます。相手は良い意図で言っているのに、自分の心が悪ければ皮肉を言っているように聞こえます。それで誤解したり揉めたりするのです。このように悪いことを考えると、自分にも害になるだけではなく、周りの人にも害を与えることもあるのです。 例えば自分が誤解するため、無実な人を裁いて罪に定めて、その噂を広めたなら
ヨブ記講解69 - 善をもって悪に打ち勝たなければ(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記24:19-22 前回ヨブは、神様が自分をいつまで苦しめるのか、時でも教えてくだされば耐えられるのに、そうしてくださらないから何の希望もないと嘆いていました。そしてみなしごや、やもめなど弱者たちが苦しめられることと、悪者たちがどんなふうに虐待しているのかについて説明しました。ヨブは悪者の行いについて言いながら、神様は、このように悪い者たちが弱者を苦しめているのに、見て見ぬふりをしている方だと決めつけていました。貧しい人々が、生きるためにいくら訴えて叫んでも神様は聞いてくださらないし、悪者たちの不義を裁かないと言いながら、正しくない方だと裁いています。人々は自分が何か悔しい目にあって訴えていても、相手が聞いてくれないとか、周りの人があなたのせいでしょうと言うと悔しいですね。それで腹が立ちます。それで自分の周りにいる困っている人や、貧しい人や苦しみを受けている人々の例を挙げて説明します。そして私もこういう立場だから力になってくれればいいのにと思うのです。なぜ助けてくれないのかと恨んでいるのです。...
ヨブ記講解68 - だんだんひねくれていくヨブの心(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記24:12-18 ヨブ記24:12です。 人の住む町からうめき声が起こり、傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし神はその愚痴に心を留められない。(ヨブ記24:12) 人の住む町からうめき声が起こりとあります。そこには人々がたくさん住んでいるでしょう。そしてそれを目撃した人もたくさんいるでしょう。ヨブは自分が彼らの生活を見たというなら友達が素直にそれを聞き入れないと思ったから、その悪者たちの悪さと貧しい人々の哀れな姿を見た人がたくさんいるということを言っているのです。このように一言一言を知恵を持って使って、自分の言葉が確かだと強調しているのです。傷ついた者の魂は助けを求めて叫んでも、神様はその愚痴に心を留められないとあります。この言葉からこれまでヨブが貧しい人と悪者を対比して説明した理由が明らかになります。 哀れな人々がうめき声を上げながら傷ついた者が叫んでいても、神様は心を留めてくださらないと言っているのです。ヨブが言いたいことはこれです。長々と貧しい人の哀れな姿、みじめな暮らしとか、悪者たちのそのよう
ヨブ記講解68 - だんだんひねくれていくヨブの心(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記24:1-11 ヨブ記23章で、ヨブは神様の前で切に神様に会いたいと求めていました。しかし前へ進んでも後ろに行っても神様はおられず、左に向かって行っても右に向きを変えても、神様を見ることができず、会うことができないと嘆いていました。もしかして皆さんの中でも、このように悩んで嘆いている方がいるでしょうか?自分の問題があって、神様の前に解決されるために祈ったのに答えがない方がいますか?ある人は癒しの集会で癒されて幸せそうな顔で証をしているのに、自分はなぜ癒されていないのかと思うなら、ヨブのように私は、前に進んでも後ろにいても神様はおられないと思いますか?そして切に求めていますか?嘆いているでしょうか? しかし、嘆く必要はありません。神様の前で切に求めることはいいのです。神様に会いたいと思うことはいいのです。でもだからといって嘆いたりする必要はありません。この教会では、神様をどうすれば見つけることができるのか、どうすれば体験できるのか、正確に教えています。でもヨブは、それがわからないから苦しんでいるのです。ああしても
ヨブ記講解67 - 神を恐れているヨブ(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:13-17 ヨブ記23:13です。 しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行われる。(ヨブ記23:13) 皆さん、ヨブが言っていることがあっているでしょうか。民数記23:19「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」という御言葉と、ヨブが言っていることとは全然違う意味です。神様が偽りを言わないで、言われたことは必ずなさるということは、聖書の66巻で約束された御言葉を成就されるという意味です。ところで本文でヨブは、まるで神様が独裁者のようにすべてを勝手に決めておいて、強制的に押し付ける方のように誤解しています。そういう意味で言っているのです。もちろん神様は御心を定めて成し遂げられる方です。しかしご自分の思い通りに決めるのではなくて、正確な公義と愛によってなされる方です。神様は勝手に決めて、自分の利益に会わなければ取り消してしまう、そういう方
ヨブ記講解67 - 神を恐れているヨブ(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:11-12 前回は神様の子どもたちが試練に遭う理由について伝えました。ところで多くの場合、神様が試練に遭わせられたとは言えない、自分の罪と悪のため苦しみに遭うことがあります。また変えられたいと思いながら、目に見える肉の行いは行っていない聖徒でも、心の中で肉的なことをもっぱら考えることがあるのですが、それを悟れないまま信仰が停滞する時、試練が必要です。自分は忠実で祈っていてあまり大きい過ちがないと思うから、信仰生活をちゃんとしていて天国を激しく責めていると思います。しかし肉の思いを打ち砕いて、本性の中の罪の性質まで捨ててこそ聖められるのです。自分はあまり大きい罪も犯していないし、目に見える行いとしては忠実に仕えていて祈っているから、奉仕もしているからよくやっていると思います。 しかしそういう人が、忠実でない人や祈っていない人を見ると理解できないし、御言葉通りに行っていない人とは距離を置いたりします。それは自分の中に愛がないことを気づかなければならないのに、そうでないから試練を通して、自分を発見するように神様
ヨブ記講解66 - 試練と変化(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:10 続く本文10節です。 しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出て来る。(ヨブ記23:10) この御言葉は試練にあっている聖徒がよく引用する御言葉です。ヨブのように、神様の祝福を受けられるだろうと希望を持って言うのです。しかし大切なのは、どんな心でこの御言葉を引用するかです。本当に信仰を持ってする告白なのか、そうでなければ、ただ自分を慰める心なのかです。今自分が置かれている状況があまりにも苦しいから、辛いから、でもじっと我慢しているのです。でもじっと我慢していれば、この時間も過ぎ去るだろう。いい日が来るだろうと、ただそう思って自分を慰めているのなら、これは信仰ではありません。 ヨブの今の言葉もそうでした。自分の行く道を神様が知っておられ、自分を調べられる。また自分は金のように出て来ると言っているのですが、これは自分が今あっている試練の原因は、全て神様のせいだと言っているのです。つまり神様は、私が正しい人だと潔白な人だと知っておられる。だから、神様はこういう過程を通し
ヨブ記講解66 - 試練と変化(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:6~9 前回は、神様を切に求めていたヨブが、なぜ神様を見つけることができなかったのか、なぜヨブの試練が長引いているのかを、伝えました。今でも、神様が、ヨブの悪を悟らせてくださればいいでしょうか?しかしヨブは、自分が正しいと思う肉の思いでいっぱいだったので、真理を教えてくださっても、その場で変えることはできません。皆さんも主のしもべに助言を聞いても、いや私はそうではありませんと、受け入れない場合もあります。でも謙遜な姿でアーメンと受け入れて、自分の悪を認めたとしても、すぐ変えることは難しいでしょう。頭では悟ったし自分の悪を認めたのに、実際変えられない姿があって、自分もそういう姿をもどかしいと思う時があると思います。 自分自身を発見したとしても、本当に心から認めているのかという、程度の違いがあると思います。また、自分にはこういう悪があるのだとそれを認めたとしても、今までずっとその悪が自分のもののようになっていて、すでに自分というものを作ってきたのですね。生まれてからいろんな環境の中で、自分というものを作ってき
ヨブ記講解65 - 肉の思いは神に対して反抗する(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:4~5 ローマ8:5-6です。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあります。肉の思いを打ち砕かなければ、神様がくださる霊の信仰も与えられないし、聖霊の声も聞けないし、神様と交わることもできません。肉の思いがあれば、試練の時、信仰で行えないし、現実を見ながら、苦しんで悩んで心配して真理に従えないのです。でも御霊によって思い、御霊に従う人は、祈りながら神様に助けを求めます。思い煩わらないで、喜び感謝しながら忠実に仕え、神様に喜ばれます。しかし肉の思いに従う人は、サタンの仕業を受けて、自分の思いに合わせて、人をさばいたり罪に定めます。 例えば誰かが自分の頬を打ったなら、ひどいな、叩き返したいとか、一言、言ってやりたいとか、誰かに見られたら恥ずかしいなとか思います。これは肉の思いです。これは自分の心にある、憎しみや妬み、争いから出たもので、その悪をサタンが利用して、肉の思いをするようにするのです
ヨブ記講解65 - 肉の思いは神に対して反抗する(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:4~5 私たちを、価値ある生き方ができるように導いてくださった神様に感謝します。本当に何が真の価値あるものなのか時々忘れる時があります。私たちは人によって、どこに価値を置いているのかが違います。世の人は自分の目の前の幸福とかお金とかに価値を置いて、余裕のある生活のために生きる人もいます。しかしそのようにして豊かに生きて暮らしたとしても、それが本当に価値ある生き方でしょうか?主が来られた時に救われなければ、虚しいものでしょう。そしてクリスチャンの中でも、世のもののために生きていて、やっと救われてパラダイスに入るなら、それも価値ある生き方とは言えないでしょう。皆さんは、本当に価値のある生き方、天国でも新しいエルサレムを望むことができるから、どれほど感謝でしょうか。いつも自分の目指しているところがどこなのか、自分はどこに価値を持っているのかを忘れないで、一瞬一瞬思い出してみてください。メッセージに入りましょう。 前回は私たちがどうすれば神様を見つけることができるのかについて伝えました。私たちが神様を見つけるため
ヨブ記講解64 - どうすれば神様を見つけられるか(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:1~3 ここで神様を見つけるとは、神様の実態を見ることではなくて、病気の癒しや問題が解決されることや、心の願いが叶えられるなど、いろんな形で神様の御業を体験することです。それでは私たちはどうすれば神様を見つけることができるでしょうか?ヨブはできればどこで神に会えるかを知りたいと言っていました。神様はどこにおられるでしょうか?神様は光であり善であり真理そのものです。そのうちにおられます。第1、私たちが光・善・真理のうちに留まっていれば、神様を見つけることができます。死んで天国に行って、神様にお目にかかるのではなくて、この地上でも神様を見つける方法があります。これは目で見るという意味ではないと言いましたね。問題が解決され病気が癒されるし心の願いが叶えられるなど神様の御業を体験することを言っています。 そのようになるためには、光であり善であり、真理である神様がおられるそのうちに留まることです。第一ヨハネ1:5に「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」とあります。ヨハネ1:1に「ことばは神であった。
ヨブ記講解64 - どうすれば神様を見つけられるか(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記23:1~3 前回は、私たちが全ての不義を捨てて罪から立ち返る時、神様に喜ばれる時、どんな祝福が臨むのか伝えました。罪を悔い改めて立ち返るなら神様は許してくださるだけではなく、慰めて回復してくださいます。ただここでは死に至らない罪を犯した時という前提条件がありました。悔い改めれば救われ許される罪もありますが、悔い改めようとしても悔い改めの霊が与えられない重い罪があります。決して死に至る罪を犯してはいけないのです。 今日から始まるヨブ記23章では、もう一度ヨブが口を開いて答えます。これまで神様は、ヨブのように潔白で正しい人であっても、その本性の中にある悪がこのように出てくる姿を見せてくださいました。だからといって誤解してはいけません。霊的に完全に心を割礼して聖められた子供が、試練にあったからといって、悪がまた出てしまうという意味ではありません。ヨブのような場合は、本性の中にある悪を捨てるための試練にあっているのです。聖められた段階にまで行く過程なのです。行いとしては神様の前で潔白で正しい姿でした。神様に褒められる
ヨブ記講解63 - 立ち返るなら赦しと祝福2(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記22:29~30 続くヨブ記22:29です あなたが低くされると、あなたは高められたと言おう。神はへりくだる者を救われるからだ。(ヨブ記22:29) ここで低くされると高められたと言うとは、自分はもう高められるからと高ぶりなさいという意味ではありません。自分を低くする時、神様がその人を高めてくださることを信じなさいという意味です。高ぶりを捨てなさいという意味です。この御言葉を聞いて誤解してはいけません。今自分は低くなっている、人に誤解されている、無視されている、でも神様はいずれは高くしてくださるだろうとだけ思うのではなくて、人にあれこれ言われて今ただ我慢していて、自分がじっとしているから問題が解決されるのではなくて、自分を顧みて、自分の欠けているところを探して見つけて悔い改めて、本当に謙遜な人、本当に神様の前で低くへりくだっている時、神様が高めてくださるのです。 後半節にこうあります。「神はへり下るものを救われるからだ。」と。へり下っている時、神様が高くしてくださるのです。これは真理でしょう。聖書のあちこちに似
ヨブ記講解63 - 立ち返るなら赦しと祝福2(上)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記22:23~28 前回エリファズはヨブに、「あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」と言いました。罪から立ち返って、神様の許しと祝福を受けなさいと忠告しました。エリファズは続けてヨブを教えているつもりです。今日のメッセージを聞いて、私たちを悟らせてくださる神様の御心を調べてみましょう。ヨブと友達が互いに争っていて、互いに悪を持って言い争っているだけだと思ってはいけません。私たちに神様が何を教えてくださるのか、何を悟らせてくださるのかを悟らなければなりません。ヨブと友達の話の中で真理もあるし、真理と反対のものもあります。合っている言葉もあって、合っていない言葉もあります。それを正確に見分けなければなりません。私たちが全ての不義を捨てて、罪から立ち返って神様に喜ばれる時、どんな祝福を受けるのか今日伝えますので、皆さんはこの御言葉を霊の糧にして、霊肉ともに祝福を受けますよう主の御名によって祈ります。 エリファズはヨブにヨブ記22:24で言います。 宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間
ヨブ記講解62 - 立ち返るなら赦しと祝福(下)
説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記22:~23 ヨブ記22:22です。 神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。(ヨブ記22:22) エリファズは今まで、いくらあれこれ悟らせてもヨブが聞いてくれないから、今はこのようにちょっと柔らかい口調で言っているのです。しかしヨブは友達の悪さをよく知っています。自分も悪いのに、ヨブに悪を捨てなさい、正しく生きなさいと忠告しているから、ヨブは聞きたくないのです。例えば神様を愛してもいない人が、神様を愛すれば祝福されますと言うならば、聞いている人はそれを受け入れることができるでしょうか?ですから私たちはどこにいても、神の子供らしく信頼されて尊敬されて、周りの人の前で全ての面で模範になっていなければなりません。 ピリピ4:8に「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」とあります。このように心を聖くすることはも
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