イエスは答えられた。この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 (ヨハネ9:3)
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)
皆さんはこの絵をどうご覧になりますか?
背景にある近代的な高層ビルの立ち並ぶ街並は、夕暮れの最後の残滓に包まれています。一日の終わり、黄昏時、先程まで確かであったものが定かではない。獏とした闇が忍び寄ってくる予感がします。
図の右上には、時計が見えます。
時計の針は12時に至ろうとしています。
時は真夜中に近づいていることを現わしています。図の下側には、聖書と組み合わされた祈りの手が描かれています。
この絵はなにを意味しているのでしょうか?聖書の著者である神様は、み言葉を通して今が終わりの時であることを明らかに語っておられます。そして人々がこの終りの時、目を覚まし祈ることを
望んでおられます。
目をさましていなさい。
Ⅰペテロ5:8
万物の終わりが近づきました。
ですから祈りのために、心を整え
身を慎みなさい。
Ⅰペテロ4:7
私たちにとって復活とは
(2024年名古屋万民教会イースター礼拝メッセージ)
ヨハネの福音書19:34
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
ペテロ第一1:3
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
イースターは、イエス様が死の力を滅ぼしてよみがえられたことをお祝いする喜びのお祭です。死があって、よみがえりがあります。
イエス様は、まぎれもなく歴史的な事実として、むごい十字架の刑罰によって死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられました。
このことが、私と、皆様、お一人お一人にとって、どんな意味のあることなのかをこの時間、考えてみたいと思います。
イエス様の公生涯の働き
イエス様がこの地上で働いておられたとき、人々はイエス様が伝えられる御言葉と行われる驚くべき神の力を見て信じました。
数千年間、ユダヤ人が待ち望んでいたメシヤであり、強くて偉大な王国を立てて、ローマの圧政から救い出してくださり、自分たちに大きい栄光を得させる王だと思ったのです。
しかも、葬られて四日も経って臭くなっていたラザロを生き返らせたという噂が広く伝えられ、こういう雰囲気は絶頂に達しました。
イエス様につき従っていた弟子たちの心には、イエス様とともに受ける栄光への期待がさらにふくらんできました。
イエス様の十字架の死
ところが、このような期待とは違って、突然、状況が急変し始めました。
イエス様が罪人のように捕えられて行かれ、いったい今どんなことが起きているのか、弟子たちには実感が湧きにくいなかで、イエス様は死刑にされてしまったのです。しかもその死は、呪われた人にだけに当たる最も悲惨な方法である、木の十字架による処刑でした。
イエス様につき従っていた弟子たちは絶望するしかなかったのです。
あまりにも愛する主が遭われた残酷な苦しみもショックだったし、「これから何を望んで生きていくべきなのか、どう生きていくべきなのか」もわかりませんでした。
「私たちの希望がこんなふうに終わってしまったのか? これまで見て聞いて信じたものは何だったのか? あの幸せな歳月はすべてむなしいものだったのか?」先が見えないばかりでした。
イエス様の復活
しかし、神様は状況を逆転させられました。
十字架につけられて死なれたイエス様が、そのお言葉どおり、三日目によみがえられて現れたのです。イエス様の死はすべての希望をつぶしたように見えましたが、実は死の力を打ち破ってよみがえることによって、救いの道を完成される過程でした。
よみがえられた主に会った弟子たちの人生は、以前とは完全に変わりました。
喜びと希望にあふれて、世に勝てる信仰を得、喜んで殉教に至ることができたのです。
すべての人類の希望であり、神様のみこころの完成である復活
私たちの信仰において「復活」には、霊的にとても重要な意味が込められています。
元老牧師、李載禄先生がソウルの本教会を開拓の当時、属していた聖潔教団のモットーは四重福音でした。それは新生、聖潔、神癒、再臨でした。
ところが、開拓して2年にもならなかったとき、神様は、李載禄牧師に将来、時になれば、万民中央教会が新しく教団を創立して、世界宣教を行っていくことを教えてくださいました。その時になれば、四重福音に「復活」を加え、五重福音を叫ばなければならないと言われました。
「イエス様が働かれた三年間のすべての神の力と教えを確かにするのが、まさに復活なのであり、よみがえられた主を見ることが、すなわち天国を見ることなのだ」と言われました。「復活はすべての人類の希望であり、神様のみこころの完成」とも言われたのです。
第一コリント人への手紙15:14
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
それほど主の復活が私たちの信仰において重要な出来事であることを知らなければなりません。
主の復活が私たちに下さる恵みと祝福
主イエス・キリストが復活されたことにより、よみがえられた主イエス・キリストを信じている私たちも、主とつぎ合わされて、復活の望みにあずかれるようになりました。
主イエス・キリストを信じるということは、神様の前に罪があることを気づき、悟った者であるということです。死ぬしかない罪人なのに、罪の赦しを受けて、永遠の天国に行けるようになりました。
「罪から来る報酬は死です」という律法ののろいの下にいた魂たちが、いまや神様の憐れみと祝福を受けるようになりました。このあらゆる恵みは、私たちが主イエス様を信じさえすれば、価なしに受ける恵みなのです。
主が受けられた十字架の苦しみ
ところで、霊の世界にはただというものがありません。
私たちが価なしに恵みを受けるためには、私たちの代わりに、イエス様がそれだけ大きな代価を支払ってくださらなければなりませんでした。
イエス様は金曜日に十字架にかけられ、数時間もひどい苦しみを受けて、ついに亡くなられましたが、その翌日は、ユダヤ人が大いなる日として守る安息日である土曜日でした。
大いなる安息日には、呪われた死体を木にそのままかけておけないので、ユダヤ人たちは総督ピラトのところにきて、十字架にかけられた死体を取り除くように願います。
十字架にかけられた人のすねを折ると、これ以上からだを支えられないので、息が詰まって早く息絶えるようになります。イエス様の左右にかけられた強盗たちは、すねを折って死体を取りのけましたが、イエス様にはそうしませんでした。
兵士たちはすでにイエス様の息が絶えたことを確認して、イエス様のすねを折らなかったのです。
旧約聖書の預言の成就
詩篇34:19- 20
正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。
イエス様が人類の罪を負って木にかけられて亡くなりましたが、イエス様ご自身は罪人でなく、傷もしみもない、正しい方です。神様は、旧約の預言どおり、正しいイエス様のすねの骨が折れないように、守ってくださいました。
また同じく、旧約聖書の民数記9:12や出エジプト12:46にも、出エジプトする時の民に、「子羊を食べるものの、その骨を一本でも折ってはならない。」と命じられました。
聖書で子羊とは、イエス様を象徴します。
その時も、イエス様を象徴する子羊の骨は折ってはならない、と命じておられたのです。
このように預言されたみことばのとおり、イエス様の骨は折られなかったけれど、兵士たちは、息絶えたイエス様のわき腹を、槍で突き刺しました。
ヨハネ福音書19:34
兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。
茨の冠をかぶられたイエス様の頭と顔は、すでに血だらけになっています。
また全身にむち打たれた傷と、釘づけられた手足から流された血で、惨めな姿でした。
このように惨めな姿のイエス様を、すでに息が絶えたことを確認しても、また槍で突き刺したのです。あたかも野獣が、死体まで食いちぎるように、残忍で悪い行いをしました。
これだけを見ても、人間がどれくらい悪なのかがわかります。
罪で満ちている今日は、イエス様の当時より、さらに悪い時代になりました。
創造主神様が信じられるように、非常に明らかな証拠を見せても、悪い人々は相変らず神様を信じようとしません。
それでもイエス様は、このようなすべての人々のために、十字架にかけられました。
このように、罪人たちのためにひとり子を与えられた神様の愛と、命をすべて差し出されたイエス様の愛に、より深く感謝する私たちにならなければならないでしょう。
「肉的な復活」と「霊的な復活」
主の復活は、
第一は、死んで朽ちてしまう私たちのからだが、永遠のいのちを得るようになったことを意味します。これは「肉的な復活」といえます。
第二に、罪によって死んでいた霊が生き返って、神の子どもとされる道が開かれたことを意味します。これは「霊的な復活」と言えます。
実は、この二つの復活は互いに切っても切れない関係です
私たちのからだが死ぬようになったのは、アダムが罪を犯して霊が死んだからであり、からだがよみがえって永遠のいのちを得られることも、霊が生き返ってこそ可能だからです。
「霊的な死」とは
「霊的な死」とは、地獄に落ちて永遠に刑罰を受けることです。
地獄に落ちた人は誰も救い出せないし、誰もその刑罰をやめさせることはできません。
つまり、世々限りなく何の希望もなく、想像もつかない苦しみを受けなければならないのです。
このような「霊的な死」が待っているのに、世の多くの人は主を信じません。
結局、アダムから受け継いだ原罪と自分で犯した罪によって永遠の墓、すなわち、地獄に向かっているのです。
ひとり子を渡された父なる神様の愛
父なる神様は、このような人の子らをそのまま見ておられませんでした。
ご自身のかたちに造られた最初の人アダムに向けられた愛、すなわち、人の子らに向けられた愛が変わらなかったからです。
それで、人の子らがつけられるべき十字架に、ご自分のひとり子を渡してくださいました。
主は父なる神様と同じ心で、ご自分を犠牲にしてくださいました。
このような主を自分の救い主として受け入れる人は、誰でも罪が赦されて、新しい
いのちを得るようになりました。
「神のこども」として新しく生まれるようにして下さった愛
それも感謝ですが、父なる神様は私たちに「子としての特権」も下さいました。
これによって「死」という刑罰を免れただけでなく、神の子どもとして新しく生まれたのです。この愛をどう測り知れるでしょうか。
イエス様はご自身で苦しみにあわれることで、数え切れない魂たちが救われることを思われたので、ただ喜びと感謝で苦しみの道を歩かれました。
ほかの誰のためでなく、まさに私たちを救うためにすべての苦しみにあって、水と血を注ぎ出されたのです。
先ほど、賛美をしてくださったその歌詞に「最後の血の一滴 わがため注がれた」とありましたが、このような私のために、この血の意味がどれほど尊いものなのかと、心に留め、このイースターを機会に、生き方、考え方が変えられていく、私たちになりたいと願います。