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私たちにとって復活とは 
(2024年名古屋万民教会イースター礼拝メッセージ)

ヨハネの福音書19:34
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

ペテロ第一1:3 
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

イースターは、イエス様が死の力を滅ぼしてよみがえられたことをお祝いする喜びのお祭です。死があって、よみがえりがあります。
イエス様は、まぎれもなく歴史的な事実として、むごい十字架の刑罰によって死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられました。
このことが、私と、皆様、お一人お一人にとって、どんな意味のあることなのかをこの時間、考えてみたいと思います。

 イエス様の公生涯の働き


イエス様がこの地上で働いておられたとき、人々はイエス様が伝えられる御言葉と行われる驚くべき神の力を見て信じました。
数千年間、ユダヤ人が待ち望んでいたメシヤであり、強くて偉大な王国を立てて、ローマの圧政から救い出してくださり、自分たちに大きい栄光を得させる王だと思ったのです。
しかも、葬られて四日も経って臭くなっていたラザロを生き返らせたという噂が広く伝えられ、こういう雰囲気は絶頂に達しました。
イエス様につき従っていた弟子たちの心には、イエス様とともに受ける栄光への期待がさらにふくらんできました。

イエス様の十字架の死


ところが、このような期待とは違って、突然、状況が急変し始めました。
イエス様が罪人のように捕えられて行かれ、いったい今どんなことが起きているのか、弟子たちには実感が湧きにくいなかで、イエス様は死刑にされてしまったのです。しかもその死は、呪われた人にだけに当たる最も悲惨な方法である、木の十字架による処刑でした。

イエス様につき従っていた弟子たちは絶望するしかなかったのです。


あまりにも愛する主が遭われた残酷な苦しみもショックだったし、「これから何を望んで生きていくべきなのか、どう生きていくべきなのか」もわかりませんでした。

「私たちの希望がこんなふうに終わってしまったのか? これまで見て聞いて信じたものは何だったのか? あの幸せな歳月はすべてむなしいものだったのか?」先が見えないばかりでした。

イエス様の復活


しかし、神様は状況を逆転させられました。
十字架につけられて死なれたイエス様が、そのお言葉どおり、三日目によみがえられて現れたのです。イエス様の死はすべての希望をつぶしたように見えましたが、実は死の力を打ち破ってよみがえることによって、救いの道を完成される過程でした。

よみがえられた主に会った弟子たちの人生は、以前とは完全に変わりました。
喜びと希望にあふれて、世に勝てる信仰を得、喜んで殉教に至ることができたのです。

すべての人類の希望であり、神様のみこころの完成である復活


私たちの信仰において「復活」には霊的にとても重要な意味が込められています。
元老牧師、李載禄先生がソウルの本教会を開拓の当時、属していた聖潔教団のモットーは四重福音でした。それは新生、聖潔、神癒、再臨でした。

ところが、開拓して2年にもならなかったとき、神様は、李載禄牧師に将来、時になれば、万民中央教会が新しく教団を創立して、世界宣教を行っていくことを教えてくださいました。その時になれば、四重福音に「復活」を加え、五重福音を叫ばなければならないと言われました。

「イエス様が働かれた三年間のすべての神の力と教えを確かにするのが、まさに復活なのであり、よみがえられた主を見ることが、すなわち天国を見ることなのだ」と言われました。「復活はすべての人類の希望であり、神様のみこころの完成」とも言われたのです。

第一コリント人への手紙15:14
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

それほど主の復活が私たちの信仰において重要な出来事であることを知らなければなりません。

 


主の復活が私たちに下さる恵みと祝福


主イエス・キリストが復活されたことにより、よみがえられた主イエス・キリストを信じている私たちも、主とつぎ合わされて、復活の望みにあずかれるようになりました。
主イエス・キリストを信じるということは、神様の前に罪があることを気づき、悟った者であるとい
うことです。死ぬしかない罪人なのに、罪の赦しを受けて、永遠の天国に行けるようになりました。
「罪から来る報酬は死です」という律法ののろいの下にいた魂たちが、いまや神様の憐れみと祝福を受けるようになりました。このあらゆる恵みは、私たちが主イエス様を信じさえすれば、価なしに受ける恵みなのです。


主が受けられた十字架の苦しみ


ところで、霊の世界にはただというものがありません。
私たちが価なしに恵みを受けるためには、私たちの代わりに、イエス様がそれだけ大きな代価を支払ってくださらなければなりませんでした。


イエス様は金曜日に十字架にかけられ、数時間もひどい苦しみを受けて、ついに亡くなられましたが、その翌日は、ユダヤ人が大いなる日として守る安息日である土曜日でした。

大いなる安息日には、呪われた死体を木にそのままかけておけないので、ユダヤ人たちは総督ピラトのところにきて、十字架にかけられた死体を取り除くように願います。


十字架にかけられた人のすねを折ると、これ以上からだを支えられないので、息が詰まって早く息絶えるようになります。イエス様の左右にかけられた強盗たちは、すねを折って死体を取りのけましたが、イエス様にはそうしませんでした。
兵士たちはすでにイエス様の息が絶えたことを確認して、イエス様のすねを折らなかったのです。

旧約聖書の預言の成就


詩篇34:19- 20
正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。 主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。

イエス様が人類の罪を負って木にかけられて亡くなりましたが、イエス様ご自身は罪人でなく、傷もしみもない、正しい方です。神様は、旧約の預言どおり、正しいイエス様のすねの骨が折れないように、守ってくださいました。

また同じく、旧約聖書の民数記9:12や出エジプト12:46にも、出エジプトする時の民に、「子羊を食べるものの、その骨を一本でも折ってはならない。」と命じられました。
聖書で子羊とは、イエス様を象徴します。


その時も、イエス様を象徴する子羊の骨は折ってはならない、と命じておられたのです。
このように預言されたみことばのとおり、イエス様の骨は折られなかったけれど、兵士たちは、息絶えたイエス様のわき腹を、槍で突き刺しました。

ヨハネ福音書19:34
兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

茨の冠をかぶられたイエス様の頭と顔は、すでに血だらけになっています。
また全身にむち打たれた傷と、釘づけられた手足から流された血で、惨めな姿でした。
このように惨めな姿のイエス様を、すでに息が絶えたことを確認しても、また槍で突き刺したのです。あたかも野獣が、死体まで食いちぎるように、残忍で悪い行いをしました。
これだけを見ても、人間がどれくらい悪なのかがわかります。

罪で満ちている今日は、イエス様の当時より、さらに悪い時代になりました。
創造主神様が信じられるように、非常に明らかな証拠を見せても、悪い人々は相変らず神様を信じようとしません。
それでもイエス様は、このようなすべての人々のために、十字架にかけられました。
このように、罪人たちのためにひとり子を与えられた神様の愛と、命をすべて差し出されたイエス様の愛に、より深く感謝する私たちにならなければならないでしょう。

「肉的な復活」と「霊的な復活」


主の復活は、
第一は、死んで朽ちてしまう私たちのからだが、永遠のいのちを得るようになったことを意味します。これは「肉的な復活」といえます。

第二に、罪によって死んでいた霊が生き返って、神の子どもとされる道が開かれたことを意味します。これは「霊的な復活」と言えます。

実は、この二つの復活は互いに切っても切れない関係です
私たちのからだが死ぬようになったのは、アダムが罪を犯して霊が死んだからであり、からだがよみがえって永遠のいのちを得られることも、霊が生き返ってこそ可能だからです。

「霊的な死」とは


「霊的な死」とは、地獄に落ちて永遠に刑罰を受けることです。
地獄に落ちた人は誰も救い出せないし、誰もその刑罰をやめさせることはできません。
つまり、世々限りなく何の希望もなく、想像もつかない苦しみを受けなければならないのです。
このような「霊的な死」が待っているのに、世の多くの人は主を信じません。
結局、アダムから受け継いだ原罪と自分で犯した罪によって永遠の墓、すなわち、地獄に向かっているのです。

ひとり子を渡された父なる神様の愛 


父なる神様は、このような人の子らをそのまま見ておられませんでした。
ご自身のかたちに造られた最初の人アダムに向けられた愛、すなわち、人の子らに向けられた愛が変わらなかったからです。
それで、人の子らがつけられるべき十字架に、ご自分のひとり子を渡してくださいました。
主は父なる神様と同じ心で、ご自分を犠牲にしてくださいました。
このような主を自分の救い主として受け入れる人は、誰でも罪が赦されて、新しい
いのちを得るようになりました。

「神のこども」として新しく生まれるようにして下さった愛

それも感謝ですが、父なる神様は私たちに「子としての特権」も下さいました。
これによって「死」という刑罰を免れただけでなく、神の子どもとして新しく生まれたのです。この愛をどう測り知れるでしょうか。

イエス様はご自身で苦しみにあわれることで、数え切れない魂たちが救われることを思われたので、ただ喜びと感謝で苦しみの道を歩かれました。
ほかの誰のためでなく、まさに私たちを救うためにすべての苦しみにあって、水と血を注ぎ出されたのです。

 

先ほど、賛美をしてくださったその歌詞に「最後の血の一滴 わがため注がれた」とありましたが、このような私のために、この血の意味がどれほど尊いものなのかと、心に留め、このイースターを機会に、生き方、考え方が変えられていく、私たちになりたいと願います。
 


 

ともに主の復活を祝う多くの​皆様のご参加をお待ちします。
       ​               

2024年「希望の神」
       ​               

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰に
よるすべての喜びと平和を持って満たし、
 聖霊の力によって望みにあふれさせてくだ
さいますように。

         
​    ローマ人への手紙15:13

 

クリスマスの主人公である「イエス·キリスト」
       ​    2023年クリスマス礼拝メッセージ           

使徒の働き 4:12  この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

メリークリスマス!
クリスマスは、私たちのイエス様がお生まれになったことを記念する日であり、ク
リスマスが近づくと、多くの人々があちこちをきれいに飾り、クリスマスの喜びを表現しています。
以前、親しくしていた年配の方は、若い時の外国生活で知り合いとなった方々から送られてきた美しいクリスマスカードを部屋いっぱいに貼り、懐かしい人たちとの交わりを喜んでおられました。
皆さんは、今どのような人の名前が浮かびますか?

 人の名前は、ほんの数音節で構成された文字以上の意味を持っています。
ある人の名前を考えると、ただその名前だけが思い浮かぶのではなく、その人の顔や性格、雰囲気など、その人と関連した多くのことが一緒に浮かびます。
皆さんが思い浮かべられた方から感じられたこと、いくつかあると思います。

皆さんは今日、クリスマスの主人公である「イエス·キリスト」という名前を思い浮かべると、どんなことばを思われますか?

私は、ポスターにも書かせていただいたのですが、
イザヤ書9:6 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
この御言葉が浮かびました。

この時間「イエス・キリスト」の名前に込められた意味をお伝えする時に、皆さんの心に主の恵みと愛が次々と臨みますように、お祈りいたします。

イエス·キリストの名に込められた意味


1) 私たちの救い主です


使徒の働き4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とおっしゃったとおり、イエス·キリストは私たちの唯一の救い主です。
 これはイエス様がこの地に来られた最も究極的な目的でもあります。

 イエス様がこの地に来られた瞬間から成長過程と十字架上で死なれるまでのすべてが人間の罪を代わりに負い、人生の困難を代わりに負うためのものでした。
家畜小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされたのも、人類の救い主としてこの地に来られたからです。
動物の餌を入れる飼い葉おけに寝かされたということは、イエス様が動物と変わらない罪人たちを救うための、生命の糧に、餌になるという意味が込められています。

 また、イエス様は天地万物を創造した神様の息子ですが、貧しく暮らしました。
 これは(コリント第二8:9)
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とおっしゃったとおり、私たちを豊かにするためでした。

 そして結局、イエス様は人類のすべての罪の身代わりとなるために傷もしみもないきれいな尊い血を流し、残酷な十字架の刑罰を受けて亡くなりました。
しかし、イエス様は何の罪もないのに殺されたので、死に縛られている必要はありませんでした。
死に勝って3日目に復活して、私たちの完全な救い主になられたのです。

 このように救い主になったイエス·キリストを心に信じて、唇で告白する人は誰でも「罪から来る報酬は死」という律法の呪いから解放され永遠のいのちを得ることができるようになり、また神様の子供になった権勢を受けることができるようになりました。

 それでも もし現実の色々な問題が発生する時、大変だと絶望して落胆する方々がいらっしゃれば、主から受けた恵みと愛を忘れていないか、主への愛が冷めたのではないかと振り返ってみなければなりません。

 イエス·キリストが律法の呪いを解いてくださることで永遠の死の苦痛から救い出した救い主であることを信じるならば、現実の問題による困難からも十分に救い出すことができると信じて、再び恵みと聖霊の満たしを受けて勝利していくことが出来ますようにお祈りいたします。

2) 神様の前に私たちの「弁護者」となり、私たちには「慰める方」になります。
 
ヨハネの手紙第一2:1-2によれば「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。」とおっしゃいました。

 また、テモテへの手紙第一2:5-6には「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」とおっしゃいました。


このようにイエス様は神様と人との間の仲介者として罪人たちを神様と和解させようと自ら和解のいけにえとなってくださいました。
罪人たちの罪を償うための贖い金として、ご自分を完全に明け渡すことで、神様と人の間の閉ざされた塀を壊してくださいました。

 そして、このようなイエス様の義に徹した行動を心から信じる人々に代わって、神様の前に懇願してくださるという事です。


例えば、ある人が自分の罪を悔い改め、光の中で生きるために神様に力を求める時、イエス様もこの魂のために父なる神様に懇願してくださるのです。
「お父さん!この魂が心から罪を悔い改めますから、尊い血の力ですべての罪を洗い流してください。この魂を哀れに思い、父の愛と恵みと能力を与えてください。」


このようにイエス·キリストは神様の前で私たちの弁護者となってくださいます。

もちろん私たちの中にいらっしゃる聖霊様も私たちの弱さを助ける方で、ローマ人への手紙8:26に見れば「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」とおっしゃいました。

 このようにイエス・キリストと聖霊様が私たちの弱さに背を向けず、私たちより切実に神様の前に懇願して下さるという事です。
したがって、もし皆さんが弱さによって神様に罪を犯したとしても、恵みの御座の前に大胆に進むことで、神様の哀れみと、時に従って助けてくださる恵みを得ることが出来ますようにお祈りいたします。

 イエス様は身分に関係なく誰でも神様の子供になれるとおっしゃいましたし、むしろ心が貧しい者たちと哀しむ者、迫害を受ける者たちに幸いがあるとおっしゃいました。
 このようなイエス様の言葉は、権力者たちの圧制によって押されていた人々と貧困によって窮乏していた人々に一筋の大きな希望の光として臨みました。


イエス·キリストは昨日も今日も同じであるため、誰もが心の扉を開けて主の慰めを望むなら、決して無視することはなさらずに愛と慰さめを施してくださいます。

 また、言葉だけで慰めるのではなく、心が貧しい人には真の幸せを満喫できるように状況を変え、貧しい人には豊かさを受けられるように導いてくださいます。
それで慰め主であるイエス·キリストの名前が、ある人には幸せの名前であり、ある人には希望の名前であり、豊かさの名前になるのです。

3) 私たちの応答者になります 


ヨハネの福音書14:13-14を見ればイエス様が「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」とおっしゃいました。

 このように、私たちがイエス·キリストの名前で祈る時、神様はその名前を聞くことで、人としては不可能なことであっても神様の力で可能にしてくださいます。
どうしても解決の兆しが見えない問題だとしても、イエス·キリストの名前で祈れば、その名前の権勢によって闇が退き、問題解決の道が開かれます。


 ところがイエス様の名前で祈る時とイエス・キリストの名前で祈る時、その権勢が違うという事を知らなければなりません。

私たちの目には見えませんが、霊の世界では、神に属する人々と敵である悪魔・サタンとの間に激しい戦いが行われています。
敵である悪魔・サタンは何としてでも信仰の人々が罪を犯すように惑わして、ほえたける獅子のように獲物を捜し求めています。


それで、[第一ペテロ5:8]「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあるのです。
 このような霊的な戦争で勝利するためには「イエス」と「イエス・キリスト」という名前に込められた意味を正確に知らなければなりません。
また「イエス様」の御名によって祈ることと「イエス・キリスト」の御名によって祈ることには、その権威と力に途方もない違いがあるということを悟らなければなりません。


 「イエス」は救いの摂理を完成される前の呼び名ですが、「イエス・キリスト」という呼び名には、私たちを贖われた血とともに、死の力を打ち破ってよみがえられた救い主という意味が含まれています。
ですから、イエス・キリストの御名によって祈るとき、敵である悪魔・サタンは恐ろしくて震えるしかなく、人の力では不可能なことであっても、神の力によって答えをいただくことができるのです。


たとえを挙げてみると、
もし泥棒がそばにいるのに警官が彼を見てもわからないなら、泥棒は恐れないで逃げることもありません。
しかし、警官が自分の正体を知っていると思ったなら、泥棒はどうするでしょうか? 捕まることがはっきりしているので、泥棒は警官を恐れて、いち早く逃げるか隠れるかするでしょう。


 敵である悪魔も同じです。
皆さんが正確に救いの摂理を知って「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言うのと、漠然と「イエス様の御名によって祈ります」と言うのとでは、その権威が全く違ってきます。
自分ではできないことも、救い主であるイエス・キリストにあってはできると信じて祈るので、大胆で力ある祈りになるのです。

 「イエス」とはマタイの福音書1:21に出ているように「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」、自分の民を私たちの罪から救う者という意味で「救い主」という完成形ではなく、今後「救う者」という未来形の言葉です。
しかし、「キリスト」は油を注がれたという意味で、救い主の職であることを指すものです。
救い主の資格を獲得した人をギリシャ語では「キリスト」、ヘブライ語では「メシア」と言います。


 それではイエス様はいつ救い主になりましたか?
十字架に釘を刺されて死んで、死の権勢をうち破って復活した時、私たちの救い主になったのです。
したがって、十字架を負う前はイエスであり、十字架を負って復活した後はイエス·キリストと言わなければなりません。
イエス·キリストを別の言葉にすると「救い主」または略して「主」と言います。

 それで弟子たちと使徒たちも、主の復活、昇天された後に祈ったり、御言葉を証しする時に「イエス様」と言わずに「主」、「キリスト」を付け加えたことが分かります。
したがって、皆さんが祈る時も、イエス様の名前と共に必ず「主」あるいは「キリスト」をつけなければならないのです。
そうしてこそ神様もその祈りを聞いて答えてくださいます。

 ところが、いくらイエス·キリストの名前で祈るとしても、疑って祈ったり、欲によって間違って求めた場合は答を受けられません。
したがって欲を満たすためではなく、まず神様の国と義のために祈ること、完全に信頼して疑いなく祈ることで、「イエス·キリスト」の名前に力づけられ祈ったすべてのことに答が受けられますように。

 私たちの救い主であり、弁護者であり、慰労者であり、応答者であるイエス·キリスト、その名前の能力と権勢によって皆様の人生に恵みと愛と祝福が豊かにあふれますように、主イエス・キリストの御名前によってお祈りいたします。
 

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