
「前に進め! 後ろを振り向くな! 」
名古屋万民教会創立31周年記念礼拝メッセージ( 2025/10/26)
ヨシュア記1章2-3節、6~7節
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」
詩篇37篇29節
「正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。」
愛する名古屋万民教会の聖徒の皆さん、創立31周年記念礼拝おめでとうございます。そしてこの場に集まってくださった皆さんにも感謝申し上げます。31年と言う事は、青年期を過ぎて壮年期に入ったという事であり、皆さんも子供や青年ではなく、大人の考えや行動をしていき、誰が見ても「あの人はクリスチャンですね! 」と他者を納得させる人格を備える人になっていかなければならないでしょう。その為、「前に進め。後ろを振り向くな!」と言うタイトルで、時間の関係もあって詳しい説明ができませんが、少しお話をさせて頂きます。
皆さんもよくご存じの通り、荒野で40年間過ごしたイスラエルの民が、モーセの弟子であるヨシュアに導かれて、いよいよカナンの地に入る時が来ました。しかし、出エジプトした全てのイスラエルの人々がカナンの地に入る事が出来たのではありません。モーセに導かれたイスラエルが、バランの荒野(民数記12-16)で宿営した時、主が「人々の族長を遣わしてカナンの地を探らせよ。」とモーセに仰せられました。そこでモーセは12名をカナンの地を偵察に送り出しました。40日が経って、彼らはバランの荒野のカデシュにいるモーセとアロン及びイスラエルの全会衆の所に行き「私たちはあなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」と報告します。(民数記13章27節~14章1節~45節)の中で、偵察隊の10人は、カナンの攻略が難しいと言い、イスラエルの人々は神とモーセに反逆しました。
それでカレブとヨシュア以外で、20歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。」と主がおっしゃった。更に主は、「『さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子供たちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなた方が拒んだ地を知るようになる。しかし、あなた方は死体となってこの荒野に倒れなければならない。あなた方の子供たちは、この荒野で40年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。』こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。」とあります。
このような神様の心を聞かされたら、皆さんは神様についてどの様に思いますか?ところで聖徒の皆さん、この時この場にいた人々の中でカナンの地に入った人は誰ですか? ヨシュアとカレブと子供たちです。そして40年の間に生まれた新しい子供たちです。モーセもアロンもカナンの地に入っていないのです。遣わされた12人の内、ヨシュアとカレブだけがカナンの地に入り、後の10人はどうして入る事が出来なかったのでしょうか? 10人の斥候隊と、彼らの報告を聞き、主とモーセに反抗したイスラエルの人々は、今までのエジプトでの生活を思い出し、悲嘆にくれて主とモーセに反逆しました。
10人の報告(民数記13章31節~14章4節)と、イスラエルの人々について話します。10人は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と話すと、イスラエルの全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。イスラエル人は、「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトにかえろう。」と叫びます。
愛する聖徒の皆さん、主とモーセに反抗したイスラエルの人々の心、即ちその信仰がよく表現されていますね。自分たちの利益にならない時は、平気で神様を裏切ってしまう心です。カナンとは、天国という意味であります。自分の利益ではなくて神様に忠誠して入っていく所が天国です。イスラエルが、ヨシュアに導かれてカナンの地に入る場所にようやく到着しましたが、バランの荒野のカデシュで主とモーセとアロンに反抗した、20歳以上の登録された者は、ヨシュアとカレブ以外の人は全部死に絶えていました。
聖徒の皆さん、よく考えて下さい。モアブの草原に来るまでに、「アルノン川を渡り、ヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とをあなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。」ヘシュボンに来た時、イスラエルの人々は、神様の命令でエモリ人の王シホンと戦いを始めました。何故でしょうか?彼らイスラエルは、荒野で40年の生活をすることで、神様に対する信仰が強められました。先におこる、すなわち、カナンを占領することだけを見つめていたので、神・主の命令に従う事が出来たからです。(申命記2章24節~27節)
バシャンの王オグ王国、(申命記3章3節~10節)を完全に占領しました。即ち、高原の全ての町、ギルアデの全土、パシャンの全土、サルカ及びエデレイまでのパシャンの王国の町々です。アルノン川のほとりのアロエルの一部とギルアデの山地の半分とその町々をルベン族とガド族に与え、ギルアデの残りと、オグの王国であったパシャンの全土はマナセ族の半部族に与えられました。それはアルゴブの全地域で、そのパシャンの全土はレファイムの国とよぱれてぃます。(申命記4章27節~49節)
こうして、イスラエルはヨルダン川のほとりまでやって来ました。ヨシュアは「三日のうちにヨルダン川を渡ってカナンに進んでいく。糧食の準備をしなさい。あなた方の身を清めなさい。明日、主があなた方のうちで不思議を行われるから。」と命令しました。ヨシュアは「見よ。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って水がせき止められ、せきをなして立つようになる。」とイスラエルの人々に宣言しました。そしてその通りに、契約の箱を嗅いだレビ人の祭司がヨルダン川に足を浸した時、上から流れ下る水は突っ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、即ち塩の海のほうに流れ下り、水は完全にせきとめられました。民はエリコに面するところを渡りました。
皆さん、ヨシュアはイスラエルの民たちに、モーセが紅海を分けたのと同じ様にヨルダン川をせき止めて、乾いた土の上を進ませました。このことで、民はヨシュアを信頼しました。これは、カナン征服の為の大きな信頼を勝ち得たのです。私達にとっても、教会の運営や事業や仕事、学校など、あらゆる事でも言えると思います。信仰は、真理、即ち、神様のみ言葉に従って天国に向かって歩み進む証しの一段一段の道のりです。このことを信じて天国を奪いあって走る人々に、主が与えてくれた唯一の武器です。また、皆さんが神様の愛をみつけることも信仰です。
だから、時代を前に戻すと、カレブとヨシュアはイスラエルの民たちに向かって、「私達にはイスラエルの神様が付いている。だから、カナンの地は占領できる。」と証しました。しかし、イスラエルの民たちは「戦いによって滅ぼされ、自分たちは死に、子供たちがさらわれてしまう。」と反論しました。そして、イスラエルの人たちは、エジプトでの生活を思い出し、たとえ、自分たちがエジプトの奴隷として酷使されても命と家族だけは守られると考えました。だから「一人の人を立ててエジプトに帰ろう。」と、主とモーセに叫びながら反抗しました。
創世記46章を見ると、ヤコブの家族は皆で70人(創世記46章27節)でした。しかし、エジプトのゴシェンの地で彼らは70万人という一つの民族として成長し、出エジプトしました。創世記46章1節~4節に、エジプトに下るヤコブが、ベエル・シェバに来た時、夜の幻の中で、主が、「『ヤコブよ。』と呼ばれ、私は神、あなたの父の神である。エジプトに下る事を恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。私自身があなたと一緒にエジプトに下り、また、私自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」とありますが、この予言が成就したのが、モーセによるイスラエル民族の出エジブトです。
荒野で主の「おおいなるわざ」を体験した人々が十人の斥候隊の言葉によって自分自身と家族のことを思って信仰が無い人のように行動してしまいました。彼らイスラエル人を通して、私達はこれから来る未来と、過ぎ去ってしまった過去を思い起こして考える時に、過去に経験した事・他人を通して教えられた事や学んで来た事を、最も大事な事だと考えて、それが心を支配されてはならないという事が良く分ると思います。
今、万民教会は心をTRANSFORMATION(変化・変形・変換・変革)しようという祈祷題目をダニエル祈祷会で毎晩祈っています。これは、自分の意志で心が変化する事を願って、罪の壁を取り除くために切に祈ります。聖霊に助けられて、自分の心を変化させ、心の割礼をして一段と高い信仰の段階になるように願う祈りです。
愛する聖徒の皆さん。
説教の冒頭に申し上げたのですが、名古屋万民教会も壮年期に入って、あらゆる事に分別をつけて交わり、各自が主体的な行動や考えをもって先に進んでいく時が来ました。これからが私達にとって非常に重要な信仰生活となります。皆さんは元老牧師と祈禱院長が待っている新しいエルサレムの門を目指して走っていく聖徒にならなくてはいけません。万民教会は、こと在る毎に「新しいエルサレム」を口にしますが、何故だか分りますか? それは、詩篇37篇29節「正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。」とある様に、正しい者が受け継ぐ地とは、天国の地を受け継ぐという事です。
聖書に「信仰は聞く事から始まる」と書いて在る様に、講壇から発せられた言葉の通りにしか信仰が成長しないのです。「愛」という言葉を多く発している教会の聖徒は、「愛」については多くの行動をすると思います。それは良い事ですが、クリスチャンとしては主の居られる新しいエルサレムに入って、主と共に永遠の生活をする事が大切なのです。すから、講壇から聞いた通りにしかならないという現実を、皆さんが理解してくれる事を祈って、今日のメッセージを終わります。
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イエスは答えられた。この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 (ヨハネ9:3)

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)

皆さんはこの絵をどうご覧になりますか?
背景にある近代的な高層ビルの立ち並ぶ街並は、夕暮れの最後の残滓に包まれています。一日の終わり、黄昏時、先程まで確かであったものが定かではない。獏とした闇が忍び寄ってくる予感がします。
図の右上には、時計が見えます。
時計の針は12時に至ろうとしています。
時は真夜中に近づいていることを現わしています。図の下側には、聖書と組み合わされた祈りの手が描かれています。
この絵はなにを意味しているのでしょうか?聖書の著者である神様は、み言葉を通して今が終わりの時であることを明らかに語っておられます。そして人々がこの終りの時、目を覚まし祈ることを
望んでおられます。
目をさましていなさい。
Ⅰペテロ5:8
万物の終わりが近づきました。
ですから祈りのために、心を整え
身を慎みなさい。
Ⅰペテロ4:7