
「イエス様のお墓を準備したアリマタヤのヨセフと葬儀の香油を準備をしたニコデモ」
名古屋万民教会 イースター礼拝メッセージ(2026.4.5)
ヨハネの福音書19:38をお読みします。
「そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。」とあります。
イエス様が十字架刑に処刑されて、弟子たちをはじめとして、イエス様に付きしたがった多くの人々は、恐ろしくなって隠れてしまいました。そのことをご存知の神様は、愛する息子の死体を守るために、恵みを受けた人の心に働きかけられ、埋葬の準備をするようにしました。まずアリマタヤの人ヨセフにイエス様の死体を安置する墓を準備するようにされました。マタイの福音書には、彼をアリマタヤの金持ちでイエスの弟子になっていた(マタイ27:57)有力な議員、神の国を待ち望んでいた人と記しています。マルコの福音書にも(15:43)「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」と記されています。ルカの福音書(ルカ23:50,51)にも記されています。「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。」と記されています。
サンヘドリンの議員が自らをイエス様の弟子だと表すことは大変なことでした。すでにユダヤ人たちがイエスをキリストだと告白する人は、その者たちを会堂から追放することを決議していたからです。アリマタヤのヨセフはイエス様の弟子だという事実を隠してきましたが、イエス様の死を知らないふりをすることができませんでした。だからこそ、彼は進んで、イエス様を葬ることを自ら願い出たのです。人々の目を避けて、ピラトを訪ねて行った彼は、イエス様の死体の下げ渡しを求めました。マルコ15:43「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」イエスの死をめぐって、相変わらず心に引っかかりを感じていたピラトは、あっさりと承諾しました。
ヨハネの福音書19:39~42をみると、「前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。」 アリマタヤのヨセフの他にも、イエス様の埋葬を用意したもう一人の人がいます。ユダヤ人の指導者ニコデモです。彼はかつて「新しく生まれること」についての御言葉を聞いて、イエス様が神の人であることを認めていたし、弁護したことが記されています。(ヨハネの福音書3,7章)
ニコデモは没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ30kgほどを持ってきて、イエス様の死体と一緒に亜麻布で巻きました。香料といっしょに亜麻布で死体を巻いて、洞窟になっている墓に安置するのはユダヤ人の伝統的な葬儀の方法です。この時ニコデモが準備した香油は、王族の埋葬に使用する程の多い量です。彼は心からイエス様をこの世の王より大切な方だと信じたということです。まだ一度も人を葬ったことがない新しい墓が、十字架の処刑場所の近いところにありました。ここでも神様の繊細な愛がわかります。
神様は恵みを受けた人をあちこちに備えて、イエス様の埋葬まで全て準備するようにされたのです。私たちもアリマタヤのヨセフやニコデモのように、ためらわずに、こういうことを志願できる覚悟があるのか振り返らなければなりません。アリマタヤのヨセフとニコデモは有力な議員であるために、公に身分を明らかにして活動することは困難でした。そのため自分に降りかかる不利益な状況を考えたとすれば、恐れのために一歩も踏み出すことができなかったでしょう。しかしイエス様から受けた恵みがあって、その方を愛していたので、大胆になれました。神様とイエス様に仕えることにおいて、自分の利益を求めたり、肉の思いを巡らしたりしないで、信仰と愛で行動したのです。
主の復活は歴史的な事実です
旧約聖書の詩篇16編10節に「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」とあります。弟子たちはこの言葉がイエス様がよみがえるという預言であることを知りませんでした。後に、よみがえられた主に直接会ってから悟りました。主の復活は旧約聖書に預言されただけでなく、イエス様も直接おっしゃいました。しかし弟子たちは、ただ単に目に見える現実だけを見てうろたえて憂えました。
ピラトがローマ皇帝に送った報告書にはその当時の状況が詳しく記録されています。
イエスが埋葬された次の日、祭司の一人が総督庁にきて、「イエスの弟子たちが彼の死体を盗み、隠した後、彼が生前に預言していた通り、生き返ったように、でっちあげようとしている」と言いました。私はその祭司長を親衛隊長のマルコスに送り、「墓を守るのに十分な数の兵士を連れて行って配置せよ」といった後、「もし何かの事件が発生すれば彼らの責任であって、ローマ政府の責任でない」と言いました。墓が空っぼだという事が知られると、大きい動揺が起きて、私はさらに心配でたまらなくなりました。それでイスラムという人を送り、一部始終を調査させましたが、彼が次のような状況を連想できるように詳しく語ってくれました。
「人々は墓の上で軟らかくて美しい光を見たと言いました。初め彼は女たちが習慣どおりイエスに塗ってさしあげる香油を持ってきたのではと推測しました。しかし、すぐに彼は女たちが番人にとがめられないで通過できないだろうと考えました。このような色々な考えが頭をかすめる間、不思議なことに全宇宙が明るくなり、そこにすでに死んだ多くの人が白い経帷子(きょうかたびら)を着たまま立っているようだったと言いました。皆が表現できない喜びに満たされて、歓呼しているようだったし、同時に聞いたことのない美しい音楽が聞こえてきたし、全世界に神をほめたたえる声が満ちあふれているようだったそうです。これを見聞きしている間、地を這って泳いでいるようで吐きそうで、力がなくて立ち上がることができなかったと言いました。大地は下から泳いでいるようで、感覚が麻痺して、どんなことが起きているのか分からなかったと言うのです。
その光景がどのくらい続いたのか尋ねました。彼は確実にはわからないが、一時間ぐらいだったようだと言いました。また我に返った後その墓に行ってみたかと尋ねたところ、行けなかったと言いました。
では祭司たちから質問を受けたかと尋ねたところ、そうだと言いました。祭司たちは、夜に起きた事は地震であり、番人がみな寝ついた時、弟子たちがイエスの死体を盗み出したことにすれば、彼にお金を与えると言ったそうです。しかし彼はそこでひとりの弟子も見なかったし、死体がなくなった事も知らなかったが、誰かの話を聞いて後で分かったとのことでした。」
主の復活は弟子たちやクリスチャンが作り出した話ではありません。明らかな歴史的な事実です。イエス様はよみがえられた後、マグダラのマリアだけでなくペテロと数人の弟子たちに現れ、その後で五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。(コリント第一15:6)主の復活を目撃した弟子たちは一様に死を恐れず、イエス・キリストの福音と復活を伝えました。主の復活はすなわち、いのちと力になるからです。皆さんも、今年、イースターを通してぜひ復活の意味を悟ってください。
罪のないイエス様には死の力が及ぶことができませんでした。
イエス様はかえって死の力を打ち破ってよみがえられたのです。
つまり、主の復活は、このように何の罪もない主が私たちの罪のゆえ死なれたという事実を明らかに現わす証拠なのです。そして、この死はまさに罪人だった私たちを赦すためであり、死の刑罰から救い出すためです。このように皆さん、自分のために死んでくださった主の愛と、自分のためにひとり子を渡してくださった父の愛をさらに深く心に刻まれますように、素晴らしい主の御名によってお祈りいたします。

「イエス様はなぜ飼葉桶に寝かされたのか? 」
名古屋万民教会クリスマス礼拝メッセージ(2025/12/21)
ルカの福音書2章11~12節
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
序論
イエス様は、罪人たちの罪を贖うために死なれて、三日目に死の力を打ち砕いてよみがえり、私達に救いの門を開いて下さいました。私達を闇から光へ移し、悪魔の奴隷から神の子供へ、地獄から天国へ導いて下さいました。このように救いを全うするまで、イエス様の生涯のすべては徹底した霊の世界の法則によって、神の摂理に従って完成されました。即ち、罪人たちのために殺されましたが、「木にかけられなければならなかった事」は、罪人たちが受ける呪いを贖うための摂理であり、「血を注ぎ出して死なれた事」は、血を注ぎ出すことによってだけ罪の赦しがあるからだと以前に述べました。
これだけでなく、イエス様がこの地上に来られてから、十字架の苦しみを受けるまでの全ての過程の中に、細やかな神の摂理が含まれています。イエス様は家畜小屋でお生まれになり、飼葉桶に寝かされて、一生を貧しく生きられました。そして、死なれる時は、全身にムチ打たれて、頭には茨の冠をかぶって、手と足は十字架に釘づけられました。裸のままで十字架に付けられました。イエス様が着ていた着物は、ローマの兵士たちが四つに分け合い、下着は一人がくじを引き、取りました。又、イエス様はローマの兵士に槍でわき腹を突き刺され、血と水を注ぎ出されました。この様な一つ一つの過程にも、其々の神の摂理が含まれています。これが神の恵みと恩寵であり、私達を祝福して下さる為の摂理です。私たちがこの様な摂理を悟り、その中に含まれた祝福を信仰をもって求めていく時、その祝福を味わって生きられます。
本論
ルカの福音書2章にはイエス様の誕生についての記事があります。聖霊の力によってイエス様をみごもった乙女マリアは、夫のヨセフと共にベツレヘムに行きました。そのころ、皇帝アウグストが、全ローマ帝国の住民に住民登録をせよと命じました。登録のため、国中の人々がそれぞれ先祖の郷へ帰りました。ヨセフはガリラヤ地方のナザレから、ユダのベツレヘムまで行かなければなりません。当時、ベツレヘムの宿屋には彼らの泊まる場所が無かったのです。身重であったマリアは、ある宿屋の家畜小屋で出産しました。布にくるまれたイエス様を寝かせる所が無いから、家畜の餌を入れる飼葉桶に寝かせました。ところで、創造主神様の一人子であるイエス様が、何故このように家畜小屋で生まれて、飼葉桶に寝かされたのでしょうか?素晴らしいところで生まれられたのでなく、みすぼらしい家畜小屋で生まれました。それはまさに罪によって神聖な神様のかたちをなくして、情欲のまま生きていく獣と違わなくなった人々を救いの道に導かれるためでした。
獣に過ぎない人の子ら
伝道者の書3章18節に「私は心の中で人の子らについて言った。『神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを彼らが気づくようにされたのだ』」とあります。神様が人を試みると、獣に過ぎなかったという事です。こういうみ言葉を聞くと、ある人は「何故人間が獣に過ぎないのだろうか?」と不思議に思うかもしれません。しかし実際、人の悪さを考えてみれば、獣にも及ばない事も多くあります。ライオンやヒョウのような猛獣も、空腹だったり、自分が危ないと感じたりする時でなければ、余計な殺傷はしません。又、動物の中にも、一度つがいになれば一生相手を裏切らない動物がいて、子のために大変な犠牲を払ったりします。家で飼う犬は、自分の主人に忠誠を尽くして、時には主人の為に命を捧げたりします。犬が裏切ったという話は余り聞いた事がありません。
しかし私達、万物の霊長と言われる人は、主人をどんなによく裏切るでしょうか? 自分の欲望を更に満たすために戦争を起こして、女と子供や病人などの区別もなく、数多くの人々を殺します。家族や隣人との間にも、真の愛を見つけにくいのです。離婚率は日が経つにつれて増加し、物質の欲の為に、親子の間、兄弟の間でも互いに争って、告訴して、はなはだしきは殺したりもします。自分の益にならなければ、親や恩師、長年の友達を裏切って、恩を仇で返す場合も数多くあります。このような姿を見ると、人が獣よりましだとは言えないのです。
本来、神様は善で聖なる神様のかたちに人を造られました。ところが、アダムが罪を犯して以来、罪人になった人々は、神様の善なるかたちを失ってしまいました。霊が死んで、魂と肉だけで生きていくので、魂と肉だけで造られた獣のような存在になってしまいました。そして、心が罪と悪で染まっていく程、益々世の欲に従って、自分の欲に従って、あらゆる罪を犯して生きていくようになりました。この様に罪と悪に染まり、獣の様になってしまった人々が、どうして聖なる天の御国に入れるでしょうか? 人の元の姿を取り戻してこそ神の子供となり、天国に行けるのです。
結論
イエス様がこの地上に来られて、みすぼらしい家畜小屋で生まれて、飼い葉おけに寝かせられた事は、神様が私達に祝福を与えられるための摂理でした。動物の餌を入れる飼い葉おけに寝かされたことは、イエス様が動物と違わない罪人たちを救うため、罪人にいのちを与える「まことのいのちの糧」になるために来られたことを象徴しています。この様に獣に過ぎない人類を贖って、救い出されるためでした。
このクリスマ・スメッセージを聞かれた皆さん。
天国へ行きたい人は、飼葉桶に寝かされたイエス様の摂理を悟って、自分の心の中に「獣のような考えや思いがあるかもしれない。」と、今一度よく点検してください。 私たちの命の糧となってくださったイエス様の言葉をよく食べて、真の喜びと祝福の人生を歩まれますように、お祈りいたします。
メリークリスマス!
「前に進め! 後ろを振り向くな! 」
名古屋万民教会創立31周年記念礼拝メッセージ (2025/10/26)
ヨシュア記1章2-3節、6~7節
「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」
詩篇37篇29節
「正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。」
愛する名古屋万民教会の聖徒の皆さん、創立31周年記念礼拝おめでとうございます。そしてこの場に集まってくださった皆さんにも感謝申し上げます。31年と言う事は、青年期を過ぎて壮年期に入ったという事であり、皆さんも子供や青年ではなく、大人の考えや行動をしていき、誰が見ても「あの人はクリスチャンですね! 」と他者を納得させる人格を備える人になっていかなければならないでしょう。その為、「前に進め。後ろを振り向くな!」と言うタイトルで、時間の関係もあって詳しい説明ができませんが、少しお話をさせて頂きます。
皆さんもよくご存じの通り、荒野で40年間過ごしたイスラエルの民が、モーセの弟子であるヨシュアに導かれて、いよいよカナンの地に入る時が来ました。しかし、出エジプトした全てのイスラエルの人々がカナンの地に入る事が出来たのではありません。モーセに導かれたイスラエルが、バランの荒野(民数記12-16)で宿営した時、主が「人々の族長を遣わしてカナンの地を探らせよ。」とモーセに仰せられました。そこでモーセは12名をカナンの地を偵察に送り出しました。40日が経って、彼らはバランの荒野のカデシュにいるモーセとアロン及びイスラエルの全会衆の所に行き「私たちはあなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」と報告します。(民数記13章27節~14章1節~45節)の中で、偵察隊の10人は、カナンの攻略が難しいと言い、イスラエルの人々は神とモーセに反逆しました。
それでカレブとヨシュア以外で、20歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。」と主がおっしゃった。更に主は、「『さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子供たちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなた方が拒んだ地を知るようになる。しかし、あなた方は死体となってこの荒野に倒れなければならない。あなた方の子供たちは、この荒野で40年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。』こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。」とあります。
このような神様の心を聞かされたら、皆さんは神様についてどの様に思いますか?ところで聖徒の皆さん、この時この場にいた人々の中でカナンの地に入った人は誰ですか? ヨシュアとカレブと子供たちです。そして40年の間に生まれた新しい子供たちです。モーセもアロンもカナンの地に入っていないのです。遣わされた12人の内、ヨシュアとカレブだけがカナンの地に入り、後の10人はどうして入る事が出来なかったのでしょうか? 10人の斥候隊と、彼らの報告を聞き、主とモーセに反抗したイスラエルの人々は、今までのエジプトでの生活を思い出し、悲嘆にくれて主とモーセに反逆しました。
10人の報告(民数記13章31節~14章4節)と、イスラエルの人々について話します。10人は、「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と話すと、イスラエルの全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。イスラエル人は、「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトにかえろう。」と叫びます。
愛する聖徒の皆さん、主とモーセに反抗したイスラエルの人々の心、即ちその信仰がよく表現されていますね。自分たちの利益にならない時は、平気で神様を裏切ってしまう心です。カナンとは、天国という意味であります。自分の利益ではなくて神様に忠誠して入っていく所が天国です。イスラエルが、ヨシュアに導かれてカナンの地に入る場所にようやく到着しましたが、バランの荒野のカデシュで主とモーセとアロンに反抗した、20歳以上の登録された者は、ヨシュアとカレブ以外の人は全部死に絶えていました。
聖徒の皆さん、よく考えて下さい。モアブの草原に来るまでに、「アルノン川を渡り、ヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とをあなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。」ヘシュボンに来た時、イスラエルの人々は、神様の命令でエモリ人の王シホンと戦いを始めました。何故でしょうか?彼らイスラエルは、荒野で40年の生活をすることで、神様に対する信仰が強められました。先におこる、すなわち、カナンを占領することだけを見つめていたので、神・主の命令に従う事が出来たからです。(申命記2章24節~27節)
バシャンの王オグ王国、(申命記3章3節~10節)を完全に占領しました。即ち、高原の全ての町、ギルアデの全土、パシャンの全土、サルカ及びエデレイまでのパシャンの王国の町々です。アルノン川のほとりのアロエルの一部とギルアデの山地の半分とその町々をルベン族とガド族に与え、ギルアデの残りと、オグの王国であったパシャンの全土はマナセ族の半部族に与えられました。それはアルゴブの全地域で、そのパシャンの全土はレファイムの国とよぱれてぃます。(申命記4章27節~49節)
こうして、イスラエルはヨルダン川のほとりまでやって来ました。ヨシュアは「三日のうちにヨルダン川を渡ってカナンに進んでいく。糧食の準備をしなさい。あなた方の身を清めなさい。明日、主があなた方のうちで不思議を行われるから。」と命令しました。ヨシュアは「見よ。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って水がせき止められ、せきをなして立つようになる。」とイスラエルの人々に宣言しました。そしてその通りに、契約の箱を嗅いだレビ人の祭司がヨルダン川に足を浸した時、上から流れ下る水は突っ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、即ち塩の海のほうに流れ下り、水は完全にせきとめられました。民はエリコに面するところを渡りました。
皆さん、ヨシュアはイスラエルの民たちに、モーセが紅海を分けたのと同じ様にヨルダン川をせき止めて、乾いた土の上を進ませました。このことで、民はヨシュアを信頼しました。これは、カナン征服の為の大きな信頼を勝ち得たのです。私達にとっても、教会の運営や事業や仕事、学校など、あらゆる事でも言えると思います。信仰は、真理、即ち、神様のみ言葉に従って天国に向かって歩み進む証しの一段一段の道のりです。このことを信じて天国を奪いあって走る人々に、主が与えてくれた唯一の武器です。また、皆さんが神様の愛をみつけることも信仰です。
だから、時代を前に戻すと、カレブとヨシュアはイスラエルの民たちに向かって、「私達にはイスラエルの神様が付いている。だから、カナンの地は占領できる。」と証しました。しかし、イスラエルの民たちは「戦いによって滅ぼされ、自分たちは死に、子供たちがさらわれてしまう。」と反論しました。そして、イスラエルの人たちは、エジプトでの生活を思い出し、たとえ、自分たちがエジプトの奴隷として酷使されても命と家族だけは守られると考えました。だから「一人の人を立ててエジプトに帰ろう。」と、主とモーセに叫びながら反抗しました。
創世記46章を見ると、ヤコブの家族は皆で70人(創世記46章27節)でした。しかし、エジプトのゴシェンの地で彼らは70万人という一つの民族として成長し、出エジプトしました。創世記46章1節~4節に、エジプトに下るヤコブが、ベエル・シェバに来た時、夜の幻の中で、主が、「『ヤコブよ。』と呼ばれ、私は神、あなたの父の神である。エジプトに下る事を恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。私自身があなたと一緒にエジプトに下り、また、私自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」とありますが、この予言が成就したのが、モーセによるイスラエル民族の出エジブトです。
荒野で主の「おおいなるわざ」を体験した人々が十人の斥候隊の言葉によって自分自身と家族のことを思って信仰が無い人のように行動してしまいました。彼らイスラエル人を通して、私達はこれから来る未来と、過ぎ去ってしまった過去を思い起こして考える時に、過去に経験した事・他人を通して教えられた事や学んで来た事を、最も大事な事だと考えて、それが心を支配されてはならないという事が良く分ると思います。
今、万民教会は心をTRANSFORMATION(変化・変形・変換・変革)しようという祈祷題目をダニエル祈祷会で毎晩祈っています。これは、自分の意志で心が変化する事を願って、罪の壁を取り除くために切に祈ります。聖霊に助けられて、自分の心を変化させ、心の割礼をして一段と高い信仰の段階になるように願う祈りです。
愛する聖徒の皆さん。
説教の冒頭に申し上げたのですが、名古屋万民教会も壮年期に入って、あらゆる事に分別をつけて交わり、各自が主体的な行動や考えをもって先に進んでいく時が来ました。これからが私達にとって非常に重要な信仰生活となります。皆さんは元老牧師と祈禱院長が待っている新しいエルサレムの門を目指して走っていく聖徒にならなくてはいけません。万民教会は、こと在る毎に「新しいエルサレム」を口にしますが、何故だか分りますか? それは、詩篇37篇29節「正しい者は地を受け継ごう。そして、そこにいつまでも住みつこう。」とある様に、正しい者が受け継ぐ地とは、天国の地を受け継ぐという事です。
聖書に「信仰は聞く事から始まる」と書いて在る様に、講壇から発せられた言葉の通りにしか信仰が成長しないのです。「愛」という言葉を多く発している教会の聖徒は、「愛」については多くの行動をすると思います。それは良い事ですが、クリスチャンとしては主の居られる新しいエルサレムに入って、主と共に永遠の生活をする事が大切なのです。すから、講壇から聞いた通りにしかならないという現実を、皆さんが理解してくれる事を祈って、今日のメッセージを終わります。
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イエスは答えられた。この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 (ヨハネ9:3)

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)

皆さんはこの絵をどうご覧になりますか?
背景にある近代的な高層ビルの立ち並ぶ街並は、夕暮れの最後の残滓に包まれています。一日の終わり、黄昏時、先程まで確かであったものが定かではない。獏とした闇が忍び寄ってくる予感がします。
図の右上には、時計が見えます。
時計の針は12時に至ろうとしています。
時は真夜中に近づいていることを現わしています。図の下側には、聖書と組み合わされた祈りの手が描かれています。
この絵はなにを意味しているのでしょうか?聖書の著者である神様は、み言葉を通して今が終わりの時であることを明らかに語っておられます。そして人々がこの終りの時、目を覚まし祈ることを
望んでおられます。
目をさましていなさい。
Ⅰペテロ5:8
万物の終わりが近づきました。
ですから祈りのために、心を整え
身を慎みなさい。
Ⅰペテロ4:7