ヨブ記講解87 - 私の思いと神様の思いは異なる(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記30:22-26
ヨブ記30:22です。
あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私をきりもみにされます。(ヨブ記30:22)
弱い風は軽いものを吹き飛ばしますが、強い風は大きい木を根ごとに引き抜いたり建物を倒したりします。ヨブはこのような自然現象を例えて、神様は自分を竜巻に巻き込むようにして地面に叩きつけられると言っています。これは自分の健康や財産と名誉、家族など、全てがまるで風に崩れ落ちる砂の城のように、丸ごと取り上げられてしまったからです。ヨブには霊の信仰がなかったので、自分の今の境遇を見ながら、嘆いて絶望してこのように表現しました。しかし私たちは、全てがお出来になる神様の力を信じなければなりません。
人が神様の前で苦しみにあっても信仰でみれば、神様が私たちの傷を包み、打たれた傷を癒し、壊れたものも立ち直してくださることを信じなければなりません。神様の摂理を信じて、その試練が終わった後に臨む慰めと祝福を信じなければなりません。イザヤ30:26に、「主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。」とあります。このような神様の祝福と愛を完全に信じて、どんな試練にも喜びと感謝を持って耐え抜きましょう。
続く本文ヨブ記30:23です。
私は知っています、あなたは私を死に帰らせ、すべての生き物の集まる家に帰らせることを。(ヨブ記30:23)
ヨブは、「私は知っています。」と言いましたが、何を知っているということでしょうか。ヨブは試練に会う前は、自分の人生は価値があり、やりがいがあると思っていました。しかし今は、無価値な者のように死に向かっているから、そのように言っているのです。神様の憐れみも受けることができず、全ての生き物が死に向かっているように、虚しく終わってしまう自分の姿を表現しています。皆さん、全ての生き物は自然の理の中で公義に従っています。人の思いでは、「あの人は正しく生きたから祝福されて長生きするだろう」と思っても、早く死ぬ場合もあるし、「あの人は悪いことをたくさんしたからすぐ潰れるだろう」と思っても、そうでない場合もあります。全ては神様の公義と愛の法則の中にあります。人がむやみに決めつけてはいけません。ところがヨブは、自分の道をよく知っているかのように言っています。しかしこれはヨブの考えだけで、実は全然わからないのです。
私たちは聖書を通して、神様がヨブに後でどんな祝福をくださったのか知っています。しかしヨブは知らないから、神様が自分に価値のない死を迎えるようにさせるだろうと決めつけていました。私たちは自分に対しても他の人に対しても、このような思い込みや憶測で決めつけることが、どれほど愚かなことなのかを悟らなければなりません。皆さんが試練に遭っている時、人々に蔑まれていると思った時があるかもしれません。それでもう回復する見込みがないと思ったり、もう終わりだと自暴自棄になってしまったことがありましたか?それでも人生というものは、生きていればまた回復するようになります。上がったり下がったりして、またさまざまな苦しみや問題や試練があっても、そこからまた回復する道があるのです。このように肯定的に考えればいいのですが、そうではなくてちょっとした試練にあった時、すぐ絶望して落ち込んでしまい否定的に考えたりするならば、だんだんマイナスになって、だんだん悪くなってしまいます。
私たちは真理を知っている神様の子供だからなおさらでしょう。抜け出すことができないように見える沼のような状況でも、神様が御手を差し伸べて救い出してくだされば一瞬です。私たちはこのような愛の神様、そして全知全能なる神様を信じて頼らなければなりません。自分に対しても他の人に対しても決めつけてはいけません。
ヨブ記30:24です。
「それでも、廃墟の中で人は手を差し伸べないだろうか。その衰えているとき、助けを叫ばないだろうか。」(ヨブ記30:24)
人が困難に遭った時、手を差し伸べて助けを求めて、弱くなった時助けてくださいと叫ぶことは自然なことです。ヨブは自分がこのように苦しみに遭っているから、助けを叫び、反論して訴えていることは、正しいと当然なことだと言っています。でもこれは肉の人の考えです。肉の人は真理が心にないから、自尊心が傷つくことが耐えられないし、自分の主張を曲げないし、一度殴られたら二度殴ってこそ胸がすっとします。しかし神様は、「争ってはいけない。低くなりなさい。人に仕えなさい。右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい。下着を取ろうとする人には上着もやりなさい。迫害する人のために祈り祝福しなさい。敵を愛しなさい。」と言われます。このような真理の御言葉を心に糧としている人ならば、どんな試練にあっても訴えたり嘆いたりしないで、真理で自分を守り、善で悪に打ち勝つでしょう。これが肉の人と御霊の人の生きる生き方の違いです。
肉の人はどうでしょうか?御霊の人が黙々としているのを見ながら、理解できないと思います。それならどうでしょう?悔しいから訴えた方がいいでしょうか?反論しながら言い争った方がいいでしょうか?自分の口から悪い言葉を出したりした方がいいでしょうか?このように肉の人と御霊の人の生き方は違います。肉の人は、「大変です。辛いです。厳しいです。できません。無理です。悔しいです。」とか、このように全部言いたいことを口にしてしまうのですが、御霊の人は黙々と祈りながら、神様により頼んで祈りながらまた感謝して喜びます。このように違いがあります。人の義と神様がご覧になる時の義は違います。
続く本文を読むとヨブ記30:25です。
私は不運な人のために泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい者のために悲しまなかっただろうか。(ヨブ記30:25)
ヨブは過去、貧しい人や困っている人、衰え災難に遭った人のために、涙を流しながら悲しみました。施しを求める人には愛をもって施しをしました。でも今は自分が災いにあって惨めな姿になってしまったから、私も助けを求めること、叫ぶことは間違っていることではないでしょうと言っているのです。自分がこのように苦しみを訴えて助けを求めることは、妥当だと言っているのです。でも先ほど言ったように、これは神様の御目には義ではありません。ヨブの自分の義なのです。私たちはいつも真理で見分けなければなりません。どんな状況でも真理と反対のものは正当化されないのです。
続く本文ヨブ記30:26です。
私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。(ヨブ記30:26)
過去にヨブは、神様の前に一生懸命いけにえを捧げて、良いものを望んでいました。光を望んでいました。でもその結果は悪いものだったし暗やみでした。つまり自分は、神様を恐れて正しく生きていたのに、結局災いが臨んだと言っています。これはあっていることでしょうか?これは神様の御言葉を正面から否定することです。神様は詩篇145:19で、「また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。」と言われました。また詩篇37:4には「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。このように聖書では、神様を恐れて神様に喜ばれる人の心の願いを、神様は叶えてくださるとあります。皆さんの中でもしかして、私は神様を愛して礼拝もして祈っていたのに、結果的に試練患難がやってきたという人がいてはいけないでしょう。
ある人は、このように言っているそうです。「自分が証をしたのにその後また試練がやってきた。」と。自分が証をして神様に栄光を捧げたら、その後違う試練がやってきたというのです。神様の力によって癒されて答えを受けて証しをしたことは、よくしたことなのですが、その後光の中を歩んでいなかったとか、御言葉に反することをしたから試練や患難が来たでしょう。でもその人は、自分が証しをして神様に栄光を捧げたら、神様がそれをテストするために試すために、また試練に合わせた場合があると言うそうですが、そうではありません。本当に神様を愛して御言葉通りに行う人には、決して試練患難がやってくることはありません。神様の摂理によるものならば、その結果はまた祝福でしょう。ヨブは神様の摂理と御心がわからなかったから、自分が真理から外れていることもわかりませんでした。神様の心を悟れないままこのように絶望的な表現をしているのです。
この姿を見ておられる神様の心は、どれほどもどかしかったでしょうか。すべての試練が終わった後、神様の御心と摂理を悟ったら、ヨブは、「こういう神様の御心がありましたね。感謝します。祝福してくださって感謝します。」と告白するでしょう。だから今のヨブの姿を見ながら、どれほどもどかしいでしょうか。皆さん、ヨブは今神様を見つけるために叫びもがいています。そしてついに神様を見つけて全ての問題が解決されます。ヤコブ5:11に「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」とあります。ですから皆さんは何か試練にあった時、ヨブの姿を教訓として、どんな状況でも神様につぶやくことなく、憐れみ深い神様を信頼して忍耐をもって感謝しますように。ただ我慢しているのではなく、その過程で自分を発見して変えられることが重要です。神様につぶやかないで、聖霊によって自分を顧みて悟って、神様の御心に従って変えられて祝福を受けますように。
またここで私たちが悟るべきことは、人の義によって祝福を求めることがあってはいけないということです。神様は真理そのものだから、私たちが真理に留まっている時、神様を見つけることができ答えを受けることができます。神様は光そのものだから、私たちが光の中を歩んでいる時、悪魔サタンが働けないし試練患難も退くようになります。ヨブは自分の義を持って、神様の前に自分なりにいけにえを捧げていたのですが、結果は良くなかったのです。それで悪い結果になって、光ではなく暗やみが来たと嘆いています。しかし私たちが信仰と真実を行いながら光を望めば、必ず光が臨み幸せが臨みます。善と真理に留まっていてこそサタンが働くことができないのです。でもまだ捨てていない真理と反対のもの、肉というものがあるからサタンが働くようになります。自分の中に暗やみがあるし悪があるから結果が悪くなるのです。
イエス様はヨハネ14:14でこう言われました。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」ですから私たちはイエス・キリストの御名によって求めれば受けることができます。しかし祈っても答えを受けられないのは、自分が真理に従っていないからでしょう。闇の中を歩んでいるからでしょう。すべてを神様のせいではなく自分のせいにしてこそ問題が解決されます。
先週、癒しの集会が終わった後、主日大礼拝の時に背中に汗をかいていました。癒しの集会で、本当に全身全霊を尽くし体の気力が尽きたように、全てのエネルギーを使い切ったように感じました。ただ祈るのではなくて、もちろん神様の力によって支えられるのですが、このように私の気力もエネルギーも全部使い、全身全霊を尽くしたのです。それで主日メッセージを終えてその後また賛美の録画があったのですが、その時もまだ体力が回復していないように感じたのです。そして火曜日ダニエル祈祷会までして、水曜日はちょっと体力の管理のために休んだ方が良かったのですが、いろんな業務があったので続けてやりました。そうしたらちょっと喉がかゆくなってきて、その時私が悟ってすぐそのようなものを退けて立ち切るべきだったのですが、まだ回復していないのではと少し否定的に思ったのです。それから次の日は休日で、中高生部の役員に会う面会の時間があったのですが、その日のスケジュールを終えて後からちょっと熱が出て、ちょっと体がだるくなるような、久しぶりにそのような感じがしました。
でも金曜日家族に会った時は良くなっている状態でした。土曜日まで何かそれ以上調子が悪くなったりしたのではなく少しずつ良くなったのですね。今朝も随分良くなって、それで声も昨日よりはよく出ていました。大礼拝の時は、それで平気に声が出てメッセージも伝えることができて本当に感謝しました。でも今このように突然声が出てこなくなって、皆さんの前で仕方なく説明をするようになりました。それで私は今回、本当に悟りました。私が何か否定的なことを認めて受け入れてはいけないということですね。少し体がだるい、私はあまりにも体力を使いすぎたのかというふうに、このような肉の思いをしてしまったということです。大礼拝の時も実際私の声の状態はよくなかったと思うのですが、今私の状況を説明するつもりではなかったのですが、このように説明をすることになりました。
もちろん、私が癒しの集会で全身全霊を尽くすことは当然のことだし、そしてすぐ神様が回復させてくださるのですね。今までそのようにしてきました。今回神様が大いなる御業を現してくださって本当に感謝です。私が何か労苦したとか何か私が前より頑張ったとかというのではないのですが、私は今回このような肉の思いをしたことを本当に神様の前で申し訳ないと思います。他のところは大丈夫ですが、突然このように声が出なかったので申し訳ないですが、でも今は良くなりましたね。
はい。祈っても答えを受けることができないのは、自分が真理に聞き従わないからであり、闇の中にいるからです。全てを神様のせいではなくて自分のせいにしなければなりません。そうしてこそ問題が解決されます。ですから自分の思いや自分の知識、自分の理屈を主張する前に真理を基準にして、それに照らして神様が正しいと行われることを行わなければなりません。
結論です。
ヨブは相変わらず自分が正しいと主張していて、自分があっている試練を神様のせいだと言っています。しかし神様を信じる人、心に善がある人は、試練患難にあった時自分のせいにして自分を顧みます。そして神様が自分を発見できる恵みをくださり、すべてを働かせて益としてくださることを信じます。すると神様はその通りに守ってくださいます。第二コリント10:5に「私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」とあるように、全ての肉の思いを打ち砕いてただ御言葉に聞き従い、神様が正しいと見られることを行いますように。それで第二サムエル22:29に「主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。」という御言葉が皆さんの生き方において光として臨みますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。
父なる神様、今日はヨブの思いヨブの義が、神様の思い神様の義と異なることについて伝えました。そのため答えを受けられないし問題が解決されないのです。私たちも自分の日常生活を顧みて神様の前で神様と違う自分の思い、義があるならば徹底的に打ち砕くようにしてください。私がこのように声が出なかったり咳が出た姿があったのですが、私が告白したように、どんな肉の思いもまた体の調子について認めてしまうのではなくて、御霊による思いだけをするようにしてください。神様の前にこのように告白します。さらに強くしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
