ヨブ記講解89 - ヨブの義(1-下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記31:9-15
続く本文ヨブ記31:9-10です。
もしも、私の心が女に惑わされ、隣人の門で待ち伏せしたことがあったなら、私の妻が他人のために粉をひいてもよい。また他人が彼女と寝てもよい。(ヨブ記31:9-10)
これもヨブが自分の潔白を訴えているのです。歴史を見てみれば、人が安定して富を持つようになると、その次は異性の誘惑がついてくるようになります。ダビデ王もソロモン王もそうでした。国が安定して経済的に豊かになった時、女性に溺れてしまい大きい試練に遭うことがありました。ところがヨブは富、名誉、権力どれをも持っていたのですが、女性の誘惑に陥らないで自分を守っていました。でももし、自分が女に惑わされて不義なことがあったならば、妻を他人のために奴隷にしてもいいというふうに、今堂々とそんなことは絶対ないと言っているのです。続く本文にはその理由が分かります。
ヨブ記31:11-12です。
これは恥ずべき行い、裁判にかけて罰せられる罪だ。実に、それは滅びの淵まで焼き尽くす火だ。私の収穫をことごとく根こそぎにする。(ヨブ記31:11-12)
女性に心を奪われて誘惑されて、もし隣人の門で待ち伏せしたならば、それは恥ずべき行いで罰せられる罪だと言っています。またその結果は滅びになり、自分の収穫も根こそぎにされてしまうと言っているのです。このようにヨブが恐ろしい単語まで使って言っているのは、姦淫という罪はそれだけ重い代価を受けるべき大きい罪だということを強調するためです。だからヨブは姦淫を行わなかったし、心もそのような罪によって汚されないように自分なりに潔白に守っていたのです。ヨブは続けて、自分の正しさ自分の善行を訴えています。
ヨブ記31:13です。
私のしもべや、はしためが、私と争ったとき、もし、私が彼らの言い分をないがしろにしたことがあるなら、(ヨブ記31:13)
過去しもべと主人という身分制度があった時、しもべは主人に口応えをすることはできなかったし、自分を主張したりすることもできず、ただ服従しなければならない身分でした。でもヨブのしもべやはしためは、ヨブと争うことがありました。これを見れば、ヨブが彼らにどれほど良くしてあげたのか、寛容だったのかが分かります。ヨブはしもべたちが口応えをしても聞き入れて、従わなくても許したし、兄弟のように愛していました。それでしもべたちは、自分の身分を忘れてヨブと気楽に話をすることができました。時には文句も言って、あれこれぐちもこぼしたり言い争うこともありました。
ヨブはしもべだからと言って無視したのではありません。彼らの言い分を言う自由を与えて、彼らの意見を聞き入れるようにして、人格的に接していたのです。これはすべての分野において、頭になっている人が学ぶべきことでしょう。皆さんの中で、もしかして主のしもべだからと言って、長老や勧士または認められている働き人だからといって、自己中心的であったり、自尊心をかざして権威的な振る舞いをしたのではありませんか?イエス様はマタイ20:28で、「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」と言われました。そして仕えの見本を見せてくださいました。弟子たちの足を洗い、罪人の代わりに十字架につけられて死なれることで、救いの道を開いてくださいました。このように自分を低くして仕えたら、神様が主を高めてくださり、王の王、主の主となるようにされました。
イエス様は、私たちも神様に認められる人になる道を教えてくださいました。マタイ23:11「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」マルコ9:35に「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」とあります。特に勤めが高くリーダーになるほど、主に似た器の大きい人でなければなりません。今から器の大きい人と小さい人の違いを説明しますので、自分の姿を発見しますように。器の大きい人は謙遜で相手の立場に立って理解します。自分を反対する人も受け入れることができます。私心を抱かないし自分の心を認められたいと思うよりは、組織全体の利益を先に考えます。このような人の言葉と行動には善と徳があって、争いもなくなるようにします。多くの人が心を開きます。些細なことで動揺しないし、褒められるからといってうぬぼれることもないし、叱られることがあるからといって落ち込むこともありません。
しかしこれとは反対に、いろんなことで一瞬の怒りによって我慢できず争ったりするなら、それは愚かな心の小さい人の姿でしょう。器の狭い人は、高ぶっていて自分の自尊心を先に出して、自分だけが正しいと思います。人と言い争います。自分と違う相手を理解できず許さず仕えません。このような姿があるならば器の狭い人、心の小さい人でしょう。人との関係でもそうです。広い心でいろんな人を受け入れるのではなくて、自分の意見に反対する人は排斥してしまったりする姿はありませんか?もしある集まりで自分の意見を出したのですが、相手の人が反対する時、その人を無視したりする姿があるのではありませんか?それで、実際にそれを口に出して言わなくても、表情がこわばったり、またその人を見る目つきが変わったりする姿はありませんか?不満そうな表情で、無愛想な言葉遣いで、その人に対する姿、接する姿はないのか、顧みますように。それは本当に心が小さい、器の狭い人の姿ではありませんか?自己中心的な姿です。このような姿があってはいけません。直さなければなりません。口に出さなくても自分の表情はどうなのか、自分の目つきはどうなのか、顧みますように。人に仕える姿ではありませんね。自分の悪とか自分の過ちは発見しようとしないし、発見されたのに認めようとしないで、あれこれ言い訳をして捨てようとしません。
皆さんも信仰生活をする時、このように自己の合理化とか言い訳があってはいけません。自分なりに言い訳があって、理由があって、事情があってそれを理解してほしいと思うかもしれませんが、でもまずは自分の過ちを認めて悔い改めなければならないでしょう。このように自分の欠けているところをいつも正確に見て、認めなければなりません。よく言い訳をする人は、心の器の小さい、狭い人だということを知っておいて、自分の姿を顧みますように。些細なことでもよくイライラしたり怒鳴る人もいます。愛と徳がなくていろんな人を受け入れることができず、自分より劣っているような人の話は聞こうとしません。また人の話によく口出しをします。思い込みや決めつけによって噂話をしたりする人も、心の狭い、器の狭い人です。このような人は、目上の人の前ではへつらうのですが、目下の人の前では偉そうに言ったり、指示したり命令したりします。また目上の人の前でもつっかかったり、秩序を乱す場合もあります。よく嘘を言ったり、ずる賢くて裏切ったりする人、自分の利益を求める人も心の狭い器の狭い人です。でも自分では気づかないことがよくあります。
何人かと一緒に外で食事をするとき、自分が好きなメニューをまず選ぶ人がいますね。そして、自分が食べたいところにみんなを連れて行く場合があります。そしてそれぞれメニューを選ぶときも、自分が食べたいものを選ぶのはいいのです。でもある人は、自分が何か食べたいと思って選んだのですが、相手はどうなのか配慮しないのですね。みんなで一緒に食べる場合もありますが、それぞれメニューを頼む時もありますね。例えば目上の人をもてなす場合、その人の好みとかその人が好きなものではなくて、自分が食べておいしいものを強く勧めたりする場合もあります。このように日常生活でいろんな姿があると思うのですが、それを発見しますように。今説明したさまざまな姿があるのですが、それに一つでも当たるならば、私は心が狭い人だと悟りますように。もちろん一つだけあるのではなく、いろいろ複合的にあると思うのですが、こういうメッセージを聞きながら、思い当たるところがあるならば、そういうところは直していきましょう。皆さん神様の心はとても大きくて深くて広いです。全宇宙万物を抱いておられ治めておられます。神様は全世界の8億を超える人々の、全ての心と思いを全部知っておられます。それぞれの人の髪の毛の数まで数えておられる方です。ですから私たちは神様の子供として、心の狭い人ではなく神様の心に似た大きい広い心を持ちますように。
続く本文ヨブ記31:14です。
神が立たれるとき、私はどうすればよいか。また、神がお調べになるとき、何と答えられたらよいか。(ヨブ記31:14)
もし自分が、しもべやはしための言い分をないがしろにしたなら、神様の前でどうすればよいのか、何と答えたらよいのかと言っています。ヨブはこのように行いでは潔白だったのです。皆さんもこのような姿勢でいつも生きているなら、どれほどいいでしょうか。神様がご覧になるとき主の前でこれは本当に正しいのかと思うようになりますね。私はもし牧者ならこういう時どうされるだろうかといつも思っています。また牧者の前ならば、私はどんな風に振る舞うかとよく思います。人の目を意識するという意味ではなくて、神様、主が私の前でおられるように、また牧者はどのようになさったのか、それを基準にして自分の今していることを考えるようになります。それである時は何か働き人に助言したり、何か指示をする時も、牧者ならばこんな時どんな風に表現されるだろうかと思いながら、自分の言葉選びとか自分の表情とかに気をつけるようになります。ヨブは神様の前に自分が立っているならと、いつも思っていたのですね。しもべとかはしための言い分をないがしろにすることをしなかったのです。どれほど素晴らしいでしょうか。
皆さんも日常生活で、また人間関係において神様がご覧になるときどう思われるだろう、主の前ならば自分はどんな風に行うのだろうと、このように考えてみたらいいと思います。するとああと思って、これは気をつけなければと、口の言葉とか自分の表情とか行いをさらに善にまた霊に良い方に正しい方に向けると思います。そして自分の姿に善と愛の欠けているところがあるなら、それを発見するようになったから、まず感謝して悔い改めて直していけばいいのですね。そして今のヨブのように堂々と、このように私は潔白だと言うくらいになればどれほどいいでしょうか。ヨブは、しもべとの関係までも神様の前でどう答えようかと思いながら生きていたから、彼が人格者であったことが分かりますね。しもべにもこのように接していたから、他の人にはどれほど丁寧に礼儀正しく接していたでしょうか。続くヨブの話を聞きましょう。どんな姿勢で彼らに接したのか具体的に言っています。
今日の本文の最後の15節です。皆さん、このメッセージを聞きながら、最近百人隊長の善についても聞いたのですが、その人が問題が解決された大きい理由は、自分の病気のためではなく、しもべの病気のために、そのしもべを愛して、イエス様の前に来てお願いをしたという善意について説明しましたね。今は身分制度とかがないのですが、でも昔の歴史ドラマとかを見てみれば、時代劇とかを見てみれば、身分があって主人としもべとか奴隷がいる場合、どれほどその差が大きかったでしょうか。主人に何か突っかかって、主人の一言で殺されてしまう、そのような時代だったのですが、でもヨブは自分のしもべ、はしためにこのように人格的に接して尊重してあげていたのです。どれほど正しい姿でしょうか。私たちもこういう姿を、自分を顧みながら考えてみたらと思います。今はもちろん身分制度とかはない国が多いですね。もう周りの人との関係で自分と比べて自分より劣っているように見える人や、いろんな分野でかけている姿が多い人がいるかもしれません。そのような人に接するとき、自分の姿はどうなのかを顧みますように。ヨブと自分を比べてみたら、私はどのくらい人格的にまた尊重して丁寧に人に接していたのか、顧みれば多くを悟るようになるでしょう。ヨブは今自分が正しいとこのように訴えていて、堂々と自分はこうだったと言っています。
ヨブ記31:15です。
私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか。私たちを母の胎内に形造られた方は、ただひとりではないか。(ヨブ記31:15)
彼らとはしもべとはしためのことですね。私たちを母の胎内に形造られた方はただひとりではないかと言っています。どれほど素晴らしいことでしょうか。ヨブは自分を造られた方は、神様はおひとりで、その方がしもべたちも造られた方だと、このように全ての人の人格が同じだと、同じというのは平等だと言っているのです。つまり人を差別しないで、彼らの意見を無視しないで、このように尊重していたからどれほど素晴らしい心でしょうか。私たちも日常生活で自分の姿を顧みたらと思います。例えば飲食店で従業員に接するとき、何か失礼なことを言ったり命令するように言ったりする姿はありませんか?そういう姿があるならば、全ての人に対して差別をしなかった主の姿とはほど遠いでしょう。大きい心とは言えないでしょう。ピリピ2:5に「あなた方の間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とあります。主は神様と一つですが、仕えるものとなってこの地上に人として来られ、自分を低くして死にまで従われました。ですから私たちは主の心に似て、すべての人を愛して謙遜に仕えなければならないでしょう。これが百人隊長の善とつながるところでしょう。またナアマン将軍の善ともつながっていますね。
皆さんは小さい子供にも仕えていて、その話を聞いてあげましたか?そして自分が見て本当に取りえのないような人がいても、神様が作ってくださった人格体として尊重しているのか顧みますように。私は世の人と接することがあまりないのですが、たまに運転をして行く時とかまた買い物をする時があります。その時道路である車は、ちょっと危ないのに割り込んでしまったりする時もあるのですね。信号を無視したりする車もあります。こういう場合世の人ならば腹を立てたりまた怒鳴なったりする場合もあるのですが、でも私はその人が今割り込んできたのですが、何か急ぎのことがあるようだと思うようになりますね。どんなに急いでいるのだろう、何か急なことがあって今このようにするしかなかったんだろうと思うようになります。
そして買い物をしたりどこかに行ってある方に接する時も、その相手の人が後で万民教会に来るかもしれない、うちの聖徒になるかもしれない人だし、また神様が造ってくださった尊い人ですね。その方がクリスチャンかノンクリスチャンか分からなくても、でも救われて万民教会に来るかもしれない可能性はありますね。そしてその方がそうでなくても一人の魂として考えるようになるからどんな人に接する時も私はいつも何か相手に対して理解できないということとか、また無視するとかは決してないのですね。
ヨブが告白したように、自分のしもべも自分と同じ神様に造られたものだと、胎内で形造られた方だというのを、いつも皆さんも認識していますように。会社で自分に意地悪をする上司がいるとしましょう。その上司も神様が形造られた人ではありませんか。そしてその人もいずれは救われて万民教会に来るかもしれないし、同じ救われた人として天国に行く兄弟姉妹になる可能性があるから、どんな人に対しても私たちは、広い心で受け入れて理解しましょう。仕えましょう。
結論です。愛する皆さん。ヨブは真理をよく知らない人でも、自分の目の誘惑から自分を守ったし、しもべだとしても無視しないで尊重するほど優れた人柄を持っていました。でも私たちは真理の御言葉があふれている環境で信仰生活をしていて、心の中に聖霊がおられ、真理の道を教えてくださっています。だから当然ヨブの心や行いよりもっと優れていなければならないでしょう。ヨブの良い姿を学び、これで終わるのではなくて、最高の善と仕えを示してくださった主の姿に似ていき、神様に認められる大きい器になりましょう。心はいくらでも広く大きくすることができます。
憎しみ、欲、妬みなど悪を捨てて、善と愛で満たすほど心は大きく広くなります。大きい器になれば、自分に合う人だけ受け入れるのではなくて、いろんなタイプの人を受け入れることができます。多くの人を受け入れて抱いているということは、それだけ柔和な心で低くなっていることですね。皆さんは、多くの人を受け入れる大きい器になって、詩篇37:11に「貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」とあるように、天国で偉大なものになりますように。
