ヨブ記講解93 - おのれ自身を知ろう②(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記32:19-33:2
ヨブ記32:19です。
今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。(ヨブ記32:19)
良い品質のぶどう酒は、古くなったほど熟成過程が長いから価格が高くなるそうです。本文にある抜け口のない葡萄酒とは、大切なもので貴重なものです。葡萄酒が好きな人は、葡萄酒がよく発酵するのを待つでしょう。抜け口のない葡萄酒を見るたびにその栓を開けて飲んでみたい心でしょう。でも我慢するのです。エリフも早く口を開いて言いたくてむずむずしていたのですが、それを抜け口のない葡萄酒に例えています。言いたいことがいっぱいあるのに、まるで抜け口のない葡萄酒のように溜まっているから、耐えられなかったのです。また新しい葡萄酒の皮袋のように今にも張り裂けようとしていると言いましたが、これはどういう意味でしょうか?新しいぶどう酒を皮袋に入れれば、ぶどう酒が発酵しながらガスが生じます。このガスによって皮袋は膨らむようになります。古い皮袋は発酵ガスによって伸びる膨張に耐えられず裂けてしまいますが、新しい皮袋は耐えられます。しかしエリフは自分の心境を今にも張り裂けようとしていると言っています。
新しい皮袋は裂けるのが簡単ではないのに、それが今にも張り裂けようとしているというくらいだから、どれほど言いたくてたまらないという意味でしょうか。口を出したくて言い返したくて我慢できなかったのです。よく喜びや感動によって胸がいっぱいになった時、胸が張り裂けそうと表現します。反対に大きい衝撃を受けたり、悲しみ、怒り、つらいことを感じる時も、胸が張り裂けそうと表現します。エリフは後者でした。エリフが「胸が張り裂けそう」と言ったことは、どうすればヨブを負かすことができようかとムズムズしていたからです。皆さん、私たちは、肉的なことによって抜け口のない葡萄酒のように今にも張り裂けようとしているのではなくて、義に飢え渇いていなければなりません。食べても飲んでも何をしても神様の栄光を表したい心、心を霊に変えたい心、善を行いたい願いによって心が熱く膨らまなければなりません。エリフはこれまでどれほど言いたいことを我慢していたか。
ヨブ記32:20です。
私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。(ヨブ記32:20)
言いたいことを言えないまま我慢しているとイライラする人がいます。後で後悔するのです。私はこの言葉を言ってやったらよかったのにと、夜眠れないくらいになってしまうのです、「あの時、ああ言ってやったらよかったのに。あの時どうしてその表現が思い浮かばなかったのだろう。私もこういう言葉で言い返せばよかったのに。」と思って、夜眠れないでイライラしているのです。エリフはそのようだったのです。今にも胸が張り裂けようとしているような感じでした。最近はスマホというものがあるから、直接言えなかったことを思いついたら、後でメールを送る場合があります。自分がその人にあれこれ言ってやりたかったことをメールで送る人もいますが、そうしてはいけないでしょう。葡萄酒が熟成しているのに皮袋が裂けてしまうなら、どれほどもったいないでしょうか。それはもう何も使い道がないでしょう。皆さんの口からそのように悪い言葉を出してしまってはいけないのです。それは肉の行いになります。心の中で持っていることでも悪いことですが、それを口に出してしまって相手を傷つけて、相手につらい思いをさせること、そうしておいて自分はスカッとしたと思うならそれは大きい悪でしょう。直接口で言わなくても、メールで送っても同じことです。
最近はこのようにネット上でコメントとか人を誹謗中傷する内容を投稿したりして、人々を傷つけることもよくあるのではありませんか?人との間で家族の間で腹が立って、言ってやりたいと思って言えなかったことがあるなら、このようにメールで送って後で攻撃したりすることがあるでしょうか?そんなことがあってはいけません。エリフも今そんな気持ちですが、それは全部悪いことです。悪です。でも最近は、人々がこのようにいろんな誹謗中傷をする投稿をしたり、またコメントをしたり、メールとかで攻撃することがあるのですが、本当に殺伐とした世の中になってしまいました。しかしそのようにしておいて、自分が悪いと思わない人もいます。どれほど悲しいことでしょうか。昔の人は我慢して一人でイライラしていたのですが、それでも一晩寝た後はまた心が落ち着いて許したりするのですが、最近の人々は我慢できないのですね。
そのようなことがあって、教会の中でもいろんな問題が起こったと思いますが、皆さんはもしかしてそのようなことをしたことはありませんか?ある人は感情的になって、長文のメールを送って相手を誹謗中傷したりすることもあるようですが、そうでなければ相手を苦しめる指摘するような内容を長文で送る人もいるそうですが、それを読んで傷つく人もいると思います。そんな本当に悪い誹謗中傷とかは送る人も悪いし、それを読んでまた伝える人も悪いでしょう。 もしそのようなことがあるならいっそブロックした方が良いと思います。 神様がご覧になってどう思われるでしょうか?最近はこのように言葉だけではなく、ネット上での声SNSでこのように誹謗中傷することがよくあるのですが、本当に大きい問題になっています。その文章に自分の心の中にある悪が全部現れているのではありませんか?高ぶり、怒り、憎しみ、痛みなどが全部その中に入っているのです。自分が神様のように人を裁く人になっているのです。そのようなことがあってはいけません。
もしあったならば徹底的に悔い改めなければなりません。相手がひどいことを言ったから私もそのように言ってやったと思ってはいけません。世の人はどうでしょう?自分が言いたいことを相手に言ってやったらスカッとしたとか、スッとする人もいますが、どれほど大きい悪でしょうか。ある人は目上の人に突っかかって怒鳴って、何か言い合った後スカッとしたと思いますが、これも大きい悪でしょう。最近の若者の中では、職場で上司が自分の気にいらなかったらすぐ辞めてしまう人もいるそうです。自分がその会社に入って自分が向いていないと思うと、すぐ辞めて転職してしまう人もいるそうです。でも辞める時、今まで自分に例えば嫌味を言ったり、自分の気に入らなかった上司の前で、人の前で攻撃したりまた言いたいことを全部言い放ってから辞める人もいるそうです。でも自分が後で転職して自分が先輩になって、自分も後輩にそのようなことをされるかもしれないのです。私たちはこのように、互いを配慮して相手を傷つけることはしてはいけないでしょう。そして上司に自分が言いたいことを全部言ったからスカッとしたと思うならば、その人の心をも本当にそれが善なのかを顧みた方がいいと思います。神様を信じる人ならば、もしそんなことをしたならばすっとするのではなくて、聖霊が呻かれるから苦しくなるでしょう。そういう時はどうすべきでしょうか?相手のところに行って心から許しを求めて、神様の前で悔い改めたら、まるで暑い夏に冷たい風が吹くようにすっきりするようになるでしょう。私がそのようにしたことは悪かった。悪だったと思って神様の前に悔い改めて、人のところに行ってまた和解することが必要です。そして自分の心にある悪を発見したならば、それを捨ててこそ神様がくださる平安を感じるようになります。
続くヨブ記32:21-22です。
私はだれをもひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから。そうでなければ、私を造った方は今すぐ、私を奪い去ろう。(ヨブ記32:21-22)
ひいきするということは、相手の顔を立てること、互いの関係を考慮するという意味です。例えばあなたの親に免じて今回は目をつぶってやると言うならば、あなたの親の対面を考えて過ちを許すという意味でしょう。本文でエリフが私はだれをもひいきしないということは、誰かの味方をしたり忖度しないという意味です。これはとても正義感が強い言葉のようですが、人の心を考慮しないで言いたい放題にするという、このような姿勢を善だと言えるでしょうか。正しいと言えるでしょうか。皆さんの日常生活でもこのような姿があるかもしれません。私は人の顔色を伺わないとか、忖度しないとか、ひいきとかしないとか言うからと言って、自分なりに自分が正しいと思うかもしれませんが、それは錯覚かもしれません。このような人ばかり集まっているなら、平和というものはないでしょう。少しも譲らないで互いに自分だけが正しいと主張するから言い争うようになるでしょう。
十人なら十人とも生きてきた環境や経験、考え、教養が違うのです。だから自分だけ正しいと主張しないで、互いに相手の立場を配慮して言葉と行いに気をつけなければなりません。皆さんもある人のことを見ながら理解できないとか、どうしてあんなふうにするのかと、気に入らないと思うならば、そのように考えている自分も顧みなければなりません。人によって好き嫌いが違うし好みが違うし性格が違うのではありませんか?違うからといって相手を否定してはいけません。私は院長先生とたまに話をするのですが、院長先生と私の性格は正反対です。合わないです。もし同い年で学校の同じクラスにいたならば、友達にならないような性格です。でも私は院長先生を愛しているから、院長先生も私を愛しているから、互いに性格が違ってもとても仲が良いし、何の問題もないのです。いつも平和です。でも性格が違うからと言って、世でも夫婦の間で喧嘩したりまた離婚することもあるのですが、でも恋愛するときは性格が違っても、互いにそれが好きで愛して結婚したのではありませんか?結局、性格が違うからといって別れるならば、愛が冷めたということではありませんか。
人によって好みが全部違います。タイプが違います。私は買い物に行って、たまにあんなスタイルの服を着る人いるのかなと思ったこともあるのですが、後で私は本当に自分が間違って考えていたと悟りました。人によって好きなスタイルがそれぞれ違うしまた好みがあるから、そのようなスタイルが好きな人もいるでしょう。それを否定してはいけないのです。どうしてとか否定したりしてはいけないのです。自分の好みでなければ選ばなければいいし、どうしてそれを選ぶ人に対してああだこうだと言うのでしょうか。そして味が口に合わないお店でも、自分の口に合わなければ次に行かなければいいでしょう。どうして味がああだこうだとか文句を言うのでしょうか?周りの人に何かを伝えたり話をする時も気をつけなければなりません。また個人の好みとかがあるから、それについても敏感なところは気をつけなければならないのです。だから言いたいことを全部言ってはいけないし、私たちは慎重に考えてしなければなりません。
エリフは自分がへつらうことを知らないと言っています。私たちは、へつらうことが何かをよく理解しなければなりません。へつらうとは人の気に入るように振る舞うこと、またお世辞を言うことを言います。人に気に入られるためにそうするのですね。そしてお世辞を言うこともへつらうと言います。相手に過ちがあってそれを指摘しなければならないのに、その人に嫌われたくないから言わないこともあります。それは自分の利益のためにする真実ではない行動でしょう。今へつらうことを説明しているのですが、それと一緒によく使う告げ口という言葉もあります。この意味も正しく知っていなければなりません。告げ口は人の過失や秘密をこっそり別の人に告げ知らせることです。これは相手に害を与え悪い状況に落とし入れるために意図的にする行動です。しかし告げ知らせる目的が相手の誤っている道を正すためなら、それは告げ口ではなく正しいこともあります。
例えば教会の中である人が不義を行っているのですが、それをずっとなすがままにしておくなら、その人が滅びの道に行き、神様の栄光を遮ることもあるでしょう。この時もし彼が悔い改めるように助けて、神様の栄光を遮らないように目上の人や教会に知らせるなら、それは告げ口ではなくて正しい行動でしょう。もし相手に嫌なことを言われたくないから嫌われたくないから、それを隠しておいて黙っているなら、それがへつらうことになってしまうのです。昔の忠臣たちは、自分の命を失うことがあっても国のために王に進言をしたり、臣下たちの汚職を暴いたりしたのですが、これは正しい行動でしょう。ある人は、「私は告げ口をする人になりたくないから言えません。」と言ったりするのですが、それは、愛ではなく卑怯さかもしれません。ところで、相手の不義を他の人に告げ知らせて、相手が非難されて後ろ指を刺されるように仕向けるなら、これは告げ口であり争いを起こし中傷することです。大きい悪です。私たちは全てのことにおいて真理を持ってよく見分けなければなりません。何が真実か偽りか、何が善か悪かをよく見分けなければなりません。そうしてこそ光の中を歩めるし、サタンに勝てます。
皆さん、エリフが言ったように、他の人を考慮しないで自分が言いたいことを言ってしまうなら、それが、正義感があることでしょうか?反対に我慢して負けてあげて仕えることは、人にへつらうことでしょうか?イエス様はどうなさいましたか?悪い人々の言葉にいちいち手向かわなかったし、人々が殺そうとした時はその場を避けて行かれました。これは卑怯さとかへつらうことではなく本当の正しさでした。悪とぶつかることが義ではなくて、かえって低くなって仕えることが真の義なのです。エリフは、私は誰をもひいきしない、どんな人にもへつらいはないと自慢しながら、もしそうでなければ、私を造った方は今すぐ、私を奪い去ろうと言っていました。それくらい自分は正しい人だと自慢していました。まるでとても正義感が強い人のように大口を言っているのですが、神様がご覧になるときはどれほど愚かな人でしょうか。自分は言いたいことは必ず言ってこそスッとする人、せっかちな人だという人間性を明らかにしているのです。神様は子どもたちが神様の栄光を表す生き方、神様を恐れかしこむ生き方、謙遜で仕える生き方、ただ真理の中に留まっている生き方を、本当に価値があって美しい生き方だと認めてくださるということを心に留めましょう。
皆さんは人との関係で、また社会生活をする時、こういうところを心に留めてください。何か相手に指摘してやらなければ、これは言ってやらなければと思うとき一度考えてみてください。これが本当に正しいことなのか、善なのか、これによって平和が作れるのか、これが全体のための利益になるのかを考えてみてください。強く厳しく言うのではなくて、気をつけて柔らかい口調でまた柔和な心で謙遜に言うならば、必要な時はそのように言うならば、相手も感じるでしょう。しかし私が正してやらなければ、相手はそれを直さなければと、自分の義によって強く言うことも気をつけなければならないし、でも必要な時は黙っていてはいけないということも覚えていてください。周りの人に、「あの人はいつも慎重だ、重みがある、その人の口の言葉はいつも意味がある」とか、このように思われるならどれほど良いでしょうか。普段からあの人は軽いとかおしゃべりだとか噂話が好きだとか、このように思われるよりは、本当にあの人は寡黙で必要なことは言って、その人の言葉は信用できると思われるならどれほど良いでしょうか。これから33章ではエリフがどんなことを言っているのか調べてみましょう
ヨブ記33:1です。
そこでヨブよ。どうか、私の言い分を聞いてほしい。私のすべての言葉に耳を傾けてほしい。(ヨブ記33:1)
エリフはこれまで、年上のヨブと友達の話に口を出すことができなかったのですが、やっと機会が来ました。でも彼の言うことを聞くべき当事者のヨブは、これまで友達と言い争ってきたからとても疲れていました。エリフの方では、ヨブがしっかりして自分の話を聞いてくれればいいのに、そうではなかったから、「どうか私の言い分を聞いてください」と注意を喚起させているのです。皆さん、私たちが真実なら、互いに話をするとき多くの言葉数が必要ではありません。いくつかの言葉で終わることもいくらでもあります。人々が話をするとき不必要に言葉が長くなり、的外れの答えをすることは真実でないからです。
マタイ22:15-22にこうあります。「そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。彼らはその弟子たちをイエスのもとにやってこう言わせた。『先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見られないからです。』」と言っています。本格的に質問する前にまずイエス様を褒めているのです。イエス様を言葉の罠にかけようとする意図を隠すために、心にもない尊敬の言葉でお世辞を言っているのです。そして続いてこう言います。「『それでどう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。』」と質問します。イエス様がもしカイザルに税金を納めることはかなっていると言うなら、当時ローマの圧制に強い反発心を持っていた民に敵と思われるしかなかったでしょう。しかしかなっていないと言うなら、ローマ政権に正面から反対する発言になってしまいます。パリサイ人達は、イエス様があれもこれも困るような答えになる質問を投げたのです。すでにその計略を全部知っておられたイエス様は、とても素晴らしい知恵を持って答えてくださいました。
パリサイ人たちはイエス様を言葉の罠にかけようと何か悪い意図を持ってお世辞を言いながら、そしてイエス様が答えに困るような質問をしてきました。周りの人にイエス様がどんなふうに答えるのか、イエス様が困る姿を見せるために、イエス様が何か言葉を発するならそれに言葉尻を捉えようと待っていたのです。それでイエス様がどんなふうに答えても人々に非難されるしかない、そのような質問を準備して持ってきたのです。しかしイエス様は、彼らの悪い意図を知っておられました。そして知恵を持って答えられました。納め金にするお金を私に見せなさいと言われました。そこで彼らはデナリを一枚イエス様のもとに持ってきました。そして彼らに言われました。「これは誰の肖像ですか?誰の銘ですか?」と聞かれました。コインを見れば人物の顔があり何か絵がありますね。「これは誰の肖像ですか?誰の銘ですか?」と聞いたら彼らはカイザルのですと言いました。
そこでイエス様は言われました。「それならカイザルの者はカイザルに返しなさい。そして神の物は神に返しなさい。」とこのように知恵を持って答えられました。いちいち長々と説明されるのではなくて質問をして彼らが答えるようにして、自分で認めて悟るようにとても知恵ある方法で答えられたのです。そしたらパリサイ人たちはエス様の前で何も言えなかったのです。これを聞いて共談してイエス様を残して立ち去ってしまいました。皆さんは普段話をする時や電話で会話する時、相談にのる時、不必要な説明を長々とすることはないのか顧みますように。神様の前に祈る時も同じです。マタイ6:7に「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」とあります。私たちは神様の前で心を尽くして信仰で祈るものの、具体的に求めなければなりません。しかしこれは不必要な言葉を長々と言い、同じ言葉をただ繰り返しなさいという意味ではありません。内容が正確でありながらポイントを押さえて祈るなら、短い間でも多くの量の祈りを捧げることができます。互いに話をする時も、イエス様のように簡略ながらも正確に知恵を持って答える習慣を身につけますように。エリフは疲れているヨブを自分に集中させた後、
ヨブ記33:2です。
さあ私は口を開き、私の舌はこの口の中で語ろう。(ヨブ記33:3)
エリフはヨブと友達の言い争いを聞きながら、自分なりに考えておいて準備しておいた言葉がたくさん積まれていました。それで口を開いたら舌は語るとこのように表現しているのです。それだけ自分は言いたいことがたくさんあるということで耐えられないくらい心が興奮している、意気込んでいる状態を言います。ヨブと友達の話を聞く間、自分なりに裁いて自分の判断基準を持って、正しい正しくないと思っていたから口を出したかったでしょう。イライラしていたでしょう。このようなエリフの行動を真理で見分けてみれば3つの短所があります。第一、すべてを軽率に決めつけること第二、自制できないところ第三、自分の言いたいことを全部言ってこそすっきりすると思うところです。人が心に真理と反対のものがあって舌が語るようになれば、自分の感情に任せて興奮したり、すぐ怒ったり、喜んでいたのにすぐ悲しんだり、いろんな現象が起こります。落ち着いて相手の話を最後まで聞いてそれを理解して、適切な答えができなければならないのに、自分が感情的になってしまい、いろんな言葉でいろいろ絞り出して答えを探します。もしかして思いついた言葉を忘れたらどうしよう。言いたいことを全部言えなかったらどうしようと焦るようになります。
先ほど言ったように、イエス様は人々がいろいろ質問を投げて言葉の罠にかけようとしても、手向かわずに感情的にならず相手を怒らせることもなく、どうしても必要なことだけを言われました。真理そのものだから、人々の悪意を正確に見抜いて正確な答えだけを言われました。人の心を読み取ってその考えを見抜いていたから、彼らに支配されるのではなくて、かえって彼らを支配することができました。皆さんも真理で心を満たして、イエス様の性分と話し方を見習って、どこでも尊重され認められ、社会生活でも勝利しますように。特にこのようなメッセージを心に留めて、職場で、学校で適用すれば役に立つと思います。先ほども言いましたが皆さんの言葉に重みがあって相手がそれを信用できるように大切に思うならどれほどいいでしょうか。
結論です。
愛する皆さん。粉はふるいにかけるほど細かくなり、口数は多いほど荒くなるということわざがあります。口数が多ければだんだん荒くなって争いになることがあるから、口を慎みなさいという意味です。エリフが年上のヨブと友達に叱るように言うのは、それが正しいと良いことだと思ったからです。しかし本当に真理で照らしてみれば、自分の義が強い人で、自分の中にある悪を全然気づかない人だったのです。愛と徳のある人は、言葉一言、行動一つにも重みがあります。行ってはいけないところには行かずに、自分が正しくても相手が悟れそうでなければ、言葉を自制して無益な言い争いは避けます。このような人は恵み深い言葉と行動によって徳を高めるので、どこに行っても平和を作ります。ですから皆さんはいつも自分の口の前に見張りを置いて、一言、一言を真理にあって慎重に出しますように。また全ての行いからキリストの光と香りを放って、皆さんが行くどころではどこででも闇が退いて、平和と赦しがありますよう、主の御名によって祈ります。
