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 十字架のことば
 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。 (1コリント1:18)

第 2章

神様の人間創造と人間耕作

 

2.人間を耕作される神様

人類は長い間、「なぜ生きるのだろう?」という問いへの答えを探すために、絶えず努力してきました。しかし、この人生の目的については、私たちが創造主の神様を認める時だけ、明快な答えが出ます。創造主の神様が「なぜ人間を造られて、この地上で耕作されるのか」を悟ればよいのです。ここで「耕作」という表現を使った理由は、聖書の中のたとえに由来するからです。

耕作に関するたとえ


聖書には多くのたとえがありますが、その中でも特に、地を耕して実と穀物を取り入れるたとえがたくさん出て来ます。たとえば、<マタイの福音書13章>を見ると、イエス様は人の心を四つの畑にたとえておられます。人の心の畑の種類によって、神のことばという種がその心に蒔かれる時に、真理によって実る程度が違うことを説明されました。

また、<マタイの福音書3章>の麦と殻のたとえや、<マタイの福音書13章>の麦と毒麦のたとえで、将来あるさばきについて説明されました。麦のような人々は、審判の日に天国の倉に入るけれど、毒麦と殻のような人々は、地獄の火に投げ込まれる、ということです。聖書のこのようなたとえで、神様は、この地上に人を造って人類の歴史を摂理のうちに導かれる過程が、まさに耕作のようだ、と教えてくださるのです。農夫が刈り入れるために地を耕すように、神様も農夫のように私たちを耕しておられるということです。

人間耕作の理由


それで、神様が私たち人を創造して、この地上に生きていくようにされるすべての摂理は「人間耕作の摂理」とも言えるのです。それでは、神様はなぜアダムを創造して、今日まで人間を耕作されているのでしょうか?人間耕作の目的はまことの子どもたちを得ることです。神様は愛を分かち合う子どもを得たいと願われたのです。創造主の神様は神としての驚くべき御力と、恐ろしい審判者としての権威、厳格な公義など、神性的な面を持っておられます。しかし、これと同時に、神様は愛と憐れみ、慈しみなどの人性的な面もお持ちです。喜んでうれしく思われたり、悲しんで嘆いたりもされます。このように人性を持っておられるので、神様はさびしくおひとりでいるよりは、互いに愛を分かち合う対象を願われました。それで、人間を創造して耕作することを計画されました。

もちろん、あえて人間を造らなくても、神様には多くの天使と天の軍勢がいました。彼らは神様に無条件に従う存在であり、神様を崇めてたたえて栄光をささげました。従うことも従わないこともできるけれど、神様を愛するがゆえに従おうと選択するのではなく、無条件に従う存在です。その中には、人性を与えて、自分で選べるように造っておいた天使たちもいました。その中のひとりがルシファーです。それで、ルシファーは従順ではなく、裏切りを選んだのです。しかし、神様はこういう天使たちとは別に、心からわき上がる愛で自由意志によって従う、まことの子どもたちを望まれたのです。

たとえを一つ挙げてみましょう。ある人に息子がひとりいました。その息子は時には問題も起こしたりして、親の心を痛めます。けれども、親に叱られるとすぐ悔い改めて、赦しを求めてかわいくふところに飛び込んできます。そのうち、年を重ねるほど親の心を理解して推し量れるようになります。親を理解するほど、その恵みに対する感謝と愛も深くなります。ところで、この家庭には非常に優れた性能のロボットが一体あります。このロボットは人の形をしていて、人のように声を出したりして、言われるとおり無条件に従うように造られました。難しいことも言われたとおりにすらすらやり遂げるので、とても人の役に立って、先に言った子どものように、問題を起こしたり、親に心配をかけたりしません。それでは、本当の親ならばどちらを願うでしょうか?「性能が良くてよく言うことを聞くロボットがいるから、子どもはいらない」と言うでしょうか? いくら従順で人に似たロボットだとしても、心を分かち合う実の子に比べることはできません。

神様も、このように心が分かち合えるまことの子どもたちを得ることを願われました。よく従うようにだけ造られた天の軍勢と天使たちよりは、心から神様を愛して、自ら従う子どもたちがほしいと願われたので、人を造られたのです。耕作によって神様のみこころを悟り、神様を心から愛する子どもたちを得れば、彼らを永遠の天国に導いて、そこで喜びと幸せだけを味わいながら生きていくようにされたのです。


3.麦と殻

農業をしてみると、麦だけ出て来ることはありません。たとえ農夫が最善を尽くして耕作しても、収穫の時は麦だけでなく、殻も混ざって出るものです。殻は食べられず、麦と一緒に倉に入れておくと、麦まで食べられなくなります。ですから、殻は肥料に使ったり、火で焼いたりしてしまうしかありません。同じように神様も、人間を耕作された後、最後には麦と殻とを分ける作業をされます。<マタイの福音書3:12>を見ると、「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」とあります。ここで「消えない火」とは、地獄の火を意味します。神様が定めておかれた終わりの時が来ると、神様は人間耕作を締め切って、この地上に生きたすべての人々をさばかれます。この時、麦になれなくて殻になった人々は、さばきによって地獄の火に落ちるのです。それでは、天国に行く「麦」と、地獄に行く「殻」とは、それぞれどんな人でしょうか?


「麦」とは、イエス・キリストを受け入れて、神様を愛してみことばどおりに生きていく人を言います。こまめに罪と悪を脱ぎ捨てて、聖なる神様のかたちを取り戻した人です。

一方、「殻」とは、神様を信じないで、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れなかった人であり、真理に逆らうものと暗やみの中にとどまっている人です。また、「神様を信じている」と言いながら、疑って完全に信じられない人で、やはり真理に逆らうものと暗やみの中にとどまっている人も「殻」です。口では「主を信じている」と言っても、相変わらず神様のみことばどおり生きないで、世の中の欲を追って罪と悪の中に生きる人も「麦」ではなく「殻」です。それで、
<マタイの福音書7:21>「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」と言われたのです。

<テモテへの手紙第一2:4>「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。神様は、すべての人が神様のみこころを知って、麦となって救われることを望んでおられます。それで、ひとり子イエス様まで十字架の死に渡してくださいました。それにもかかわらず、主を救い主として受け入れない人や、相変わらず罪の中に生きる人は、神のかたちに造られた人としてのまことの価値を取り戻すことができません。神様のまことの子どもになれない、ということです。こういう人々は人のすべきことを行なわないので、獣にすぎない存在であり、「麦」ではない「殻」になるのです。

このように人としての価値を失った「殻」を、「麦」になった人々と一緒に天国に入れることはできません。世の欲に従って、互いに嫌ってそねみ、欲と争いとあらゆる悪を持った人々を天国に入れると、どうなるでしょうか? それでは、天国が幸せで美しいところ、栄光のところと言えなくなります。それでは、天国に入って来ることができない人々は、どうすればよいでしょうか?ただ消滅してしまうのでしょうか?いくら「殻」のような人々でも、人の霊と魂は、霊である神様のいのちの息が吹き込まれたので、永遠不滅なもので消滅しないのです。ですから、彼らも一か所に集めて、永遠に閉じこめておかなければなりません。その場所がまさに地獄であり、「殻」になった人々は、それぞれの罪の報いにより、永遠の火の中で刑罰を受けるようになります。

私たちは、神様が耕作なさる目的にそって、良い麦になるために生きるべきです。第一に、創造主の神様を信じて、私たちの救い主イエス・キリストを受け入れなければなりません。また、神様のみことばに聞き従いながら、聖霊の力で変えられて、聖められて生きなければなりません。そのようになれば、神様は私たちをまことの愛が分かち合えるまことの子どもとして認めてくださいます。そして将来、私たちを美しい天国に導いて、永遠の幸せと喜びを分かち合われるのです。
 

第 2章

神様の人間創造と人間耕作

 


1.人間を創造された神様


私たちの神様は、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもない方であり、人の想像もできない遠い大昔から、私はある。」という方としておられました。そうするうちに、いつしか神様は一つの計画を立てるようになられました。天地創造と人間創造の計画でした。その計画を成し遂げるために、神様は永い歳月にかけて、一つ一つ準備作業を始められました。

まずは、神様がおられた霊の空間から、将来、天地万物と人間を造る、肉の空間を分けられました。そして、もともとおひとりでおられた神様から、御子と御霊の神様を分離なさり、御父・御子・御霊の三位一体の神様として存在されるようになりました。そして、その時から神様もかたちを持たれましたが、それが私たち人間と同じかたちでした。霊の世界の中には、天の軍勢、天使、ケルビムなどの霊の存在を、肉の空間の中には、将来人間が生きていく地球を造っておかれました。

このようにすべてを用意されてから、神様は本格的に天地創造のみわざを始められます。<創世記1章>を見ると、神様が六日間で天地万物を創造された過程が、おおまかに記されています。第一日には光を、第二日には大空をお造りになり、第三日には地と海を分けられた後に、植物と草、果樹などを造られました。第四日には空に太陽と月、星を造られ、第五日には海の生き物と鳥を創造されました。第六日には家畜やはうもの、野の獣を造られて、最後に人を造られました。

このように、霊の世界と肉の世界を分けられて、天と地と万物を造られたすべての過程が、結局は人を創造するためでした。まるで赤ちゃんが生まれる前に、生まれてくる赤ちゃんのために部屋を整えて、服やすべての物を用意しておく親のように、神様は人が生きるのに適する環境を造り、その後で人を造られて、すべてのものを豊かに味わって生きるようにされました。


人をお造りになった理由


では、神様はなぜ人をお造りなったのでしょうか?なぜ今日までこの地上に多くの人々が生きていくようにされるのでしょうか?この問いに答えられるなら、人がなぜ生きるのか、どのように生きるべきかについても、答えが得られるでしょう。まことの人間の価値を悟るためには、神様が人間を創造された目的を悟らなければなりません。自分が生まれた目的にかなう人生でこそ、まことに価値があり、意味のある人生です。

<伝道者の書3:11>「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」とあります。このみことばのように、神様は人の心に永遠への思いを与えられました。その心があるために、良心が正しい人々は、たとえ神様について聞いたことがなくて知らないとしても、漠然とですが、神を認めて捜すようになります。「私は神を信じない」と言っている人も、心の深いところでは「ひょっとして、本当に天国と地獄があればどうしよう」と、後の世に対する恐れを持つこともあります。それで、地獄に行かないように、自分なりに正しく生きようと努力したりします。

土地のちりで形造り、いのちの息を吹き込まれると


<創世記2:7>「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。天と地を造られるとき、神様は万物をみことばで創造されましたが、人はご自身が土地のちりで形造られました。ただうわべだけおおざっぱに造られたのではなく五臓六腑と骨と筋肉、すべての組織まで、完璧にお造りになりました。生きている姿そのままを細やかにすべて造られた後に、神様がいのちの息を吹き込まれると、その時から人は霊が生きて、動けるようになりました。

ところが、ある人はこういうみことばを聞くと「信じられない」と言います。「土地のちりで造られた形が、どうやって生きて動けるのだろうか」と疑うのです。しかし、被造物である人も、知識が発達すると人に似たロボットも作り出します。人の頭脳をまねてコンピュータを作ったり、人工臓器や人工皮膚を作り出したりします。被造物である人にもこういうことができるのに、まして全能の神様が人を創造されるのに何の難しいことがあるでしょうか? 複雑な部品を組み立てて機械を作って、それに電源をつなぎさえすれば、まるで生きているかのように動きます。これは、私たちの神様が、私たち人間の五臓六腑を含むあらゆるものを作られた後に、いのちの息を吹き込まれると、人の霊が生きて動けるようなったことと同じです。

創造主の神様は、最初の人アダムとエバをお造りになってから、人が子孫を生み出していくように、いのちの種を下さいました。それが男の精子と女の卵子です。精子と卵子の中には、親のすべての気質が結集しています。その小さいいのちの種の中に、容貌はもちろん、性格、知能、習慣などが全部入っていて、子どもたちは親に似るようになります。目でも見えない小さいそのいのちの種、精子の中に、また卵子の中に、このようなものが全部入っているのですから、どれほど不思議なことでしょうか。このように、親に似て生まれるようにいのちの種を下さった方も神様であり、その種によってみごもるようにされる方も神様です。親の精子と卵子が結びついて子どもができますが、その命が宿ることは神様がつかさどられます。

神のかたちに

子どもが親と先祖に似るとすれば、人類の先祖であるアダムは誰に似たのでしょうか?<創世記 1:27>を見ると、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。アダムとエバは、まさに聖なる神のかたちに造られた、ということです。この時、人が神のかたちに造られたとは、ただうわべの姿だけを言うのではありません。人において重要なものは霊と魂であり、からだは霊と魂を入れる器にすぎません。人が神のかたちに造られたという時に、もっと重要な意味は、人の霊が神様の霊から出て来て、神様に似た霊で造られた、ということです。それで、神様は私たちの「霊の父」と言うのです。
 

第 1章

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4. 神様は聖書の著者である 


教会に来ると、誰でも聖書に接するようになります。聖書には「救いの道」が明らかに記されています。神様がなぜ人間をお造りになったのか、人類の歴史をどう導いていかれるのか、人間耕作の始めと終わりについて説明しています。また、天国と地獄、救い主であるイエス様、人としてなすべきことなどについて 明らかに教えてくれます。
こういうみことばを信じて行なっていく時に、救いといのちを得ることができ、天国に入る資格を得るようになります。世の中には、その数を想像することもできないほど多くの本があります。しかし、人に救いといのちを与える本は、ただ聖書だけです。

 聖書は旧約39巻、新約27巻、全66巻で構成されています。そして、この聖書を記した人は、旧約26人、新約8人、計34人だと言われています。たとえば、「創世記」はモーセが、「伝道者の書」はソロモンが、「イザヤ書」は預言者イザヤが書き記しました。新約の記述者としては、四福音書を記したマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、使徒パウロ、ペテロ、ヤコブ、ユダがいます。そして、聖書が書かれた期間は、旧約が約1500年、新約が約100年、合わせて約1600 年です。約1600年という長い歳月にかけて、34人もの人々が記した書物を集めたものが、聖書です。

 ところで、この聖書全体の著者は、神様です。先に説明したように、34人の記述者がいますが、彼らは著者ではなく、ただの代筆者です。たとえてみましょう。次男と遠く離れて住んでいる母親が、次男に手紙を書こうとします。それで、母親は一緒に住んでいる長男に、手紙の内容を口で言って書かせます。では、その手紙は誰の手紙でしょうか?長男が書いたのですから、長男の手紙でしょうか?違います。たとえ書いた人は長男であっても、その内容は、明らかに母親のものです。このように聖書も、その内容は神様のみことばですが、神様がみこころにかなう人々をつかさどられ、聖霊の働きによって書き記すようにされたのです。

<イザヤ書34:16>「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」 

<テモテへの手紙第二 3:16>「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

<ペテロの手紙第二1:21>「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 聖書の記述者がいくら多くても、聖書全体は、まるでひとりが記したように、互いに矛盾するものがなく、一貫性があります。それはまさに、全知全能の神様が、聖霊の働きによってつかさどられたからです。

 聖書は、このように聖霊に感じて記された書物ですから、解釈する時も、必ず聖霊に感じて解釈しなければなりません。人間的な考えや知識で解釈すると、間違った解釈をするようになります。<ペテロの手紙第二 3:16>「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とあります。

 今日、このようにして滅びを招いている人々がどんなに多いでしょうか。そして、聖書は書かれたそのままを信じればよいのに、それを反対に教える人がどんなに多いでしょうか。一つ一つの一節に含まれた神様のみこころを正しく悟るためには、それに当たるみことばの連れ合いを知るべきであり、それによってそれによって完全に霊的な意味を悟らなければならないのです。

聖書の預言の成就

 聖書は歴史的にも証しすることができます。旧約聖書のイスラエルの歴史と、周辺民族との出来事と登場人物、場所や慣習などを見ると、一つ一つが非常に事実に基づいて書かれたことがわかります。聖書には多くの預言がありますが、その一つ一つが、実際そのまま成就されてきました。

たとえば、<ルカの福音書19:43-44>「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」とあります。これは、エルサレムの滅びについてのイエス様の預言です。
その時から40年余り過ぎたA.D.70年、ローマのティトス将軍がエルサレム城を滅ぼしましたが、その過程で、イエス様の預言がそのまま成就されたことがわかります。ローマ軍はエルサレム城の四方に土城を築き、城を陥落させました。城を占領した後は、子どもまで惨たらしく殺して、一つの石もほかの石の上に積 まれたままでは残されないほど、建物を完全に破壊しました。

 このほかにも、聖書にはいろいろな歴史的な事件が預言されています。その中でも最も重要なものは、イエス様についての預言です。聖書の核心的テーマである「救いの道」を完成するためには、罪人になった人類を救うことができる「救い主」が、必ず来なければならなかったのです。それで神様は、旧約のところどころに、メシヤ(救い主)になられるイエス様の誕生と働き、苦しみ、復活などについて詳しく預言しておかれました。そして、時が来ると、約束されたとおり、 イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。イエス様が旧約の預言を完全に成就された内容が、新約に詳しく記されています。

 その中のいくつかを調べてみましょう。まず、イエス様の誕生についてのことです。<イザヤ書 7:14>には「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『イ ンマヌエル』と名づける。」とあり、<ミカ書 5:2>には「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」と書かれています。このような預言どおり、イエス様は聖霊によっておとめマリヤに宿り、ベツレヘムのある宿屋の家畜小屋で私たちのためにお生まれになりました。

 また、イエス様がお生まれになったとき、当時ユダヤの王だったヘロデがイエス様を殺そうと、二歳以下の男の子たちを全部殺させました。ところがこの時、神様はヨセフの夢によって、イエス様があらかじめエジプトに逃れるようにされ ました。ヘロデが死んだ後、もう一度夢によって、エジプトからイスラエルへ帰るように指示されました。これについても、旧約聖書書<ホセア書11:1後半節>「わたしの子をエジプトから呼び出した。」と預言されてあります。

 イエス様がエルサレム城に入城される時も、<ゼカリヤ書 9:9>に書かれているとおり、ろばに乗って入城されました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」と書かれているとおりです。

 また、<詩篇41:9>「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」と言われたように、イエス様の最も近くでみことばのパンを与えられていたイスカリオテ・ユダが、イエス様を裏切って売りました。<ゼカリヤ書11:12>「私は彼らに言った。『あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。』すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。」とあったように、ユダがイエス様を売った値段は、銀貨三十枚だったことがわかります。つまり、旧約で預言したそのまま、銀三十枚でイエスを売ったのです。

 このように、イエス様についての旧約聖書の多くの預言は、新約時代に一つ一つ、すべてそのまま成就しました。

 新約聖書の<コリント人への手紙第一15:6>には、イエス様が死んでからよみがえられたことを直接見た証人が、五百人以上もいると書かれています。「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」とあります。このように直接目撃した証人たちによって、主の復活は世に広く伝えられました。

主と、主について記された聖書のすべてのみことばが明らかな真実であり、神様のみことばであることが、今日まで世に伝えられてきたのです。そして、この証人たちによって伝えられた内容を聞いて、心から信じた人々は、今日も聖書の著者である神様に出会って体験します。神様が与えられた聖書の約束のことば、を信じて行なうとき、その約束を守ってみことばを成就される神様のみわざが体験できるのです。

 聖書は、主の再臨が近づく時の前兆と、終わりの時に世界の情勢がどう移り変わっていくかを預言しています。これから起こる七年患難と第三次世界大戦、千年王国と大審判、そして、天国と地獄に至るまで、今後の出来事についても預言しています。また、このような歴史の流れの中を生きていく私たちが、どうすれば救われて祝福を受けるのか、どうすれば永遠の天国に至るのか、これらすべてのことも聖書には詳しく記されています。


 ところが、ある人々は「神様を信じています」と言いながら、聖書が神様のみことばであることを心の底から信じません。「聖書が神様のみことばだと信じます」と言いながら、そのみことばが完全に信じられない場合もあります。ですから、自分の思いに合わない時や自分の益に合わない時は、みことばどおり行なうことができません。

 聖書は明らかに神様のみことばであり、完全に神様が成し遂げられるみことばです。したがって、聖書に約束されたみことばを信じて行なう人には、神様が必ずその約束どおり祝福を下さいます。

これまで、神様は天地万物の創造主であり、「わたしはある。」と仰せられる方であり、全知全能の方であり、聖書の著者であられると説明しました。もちろん、そのほかにも神様についてはいろいろと説明することはできます。神様は光であり、愛であり、終わりの日に万物をさばかれる裁判長であり、私たちを愛してくださる父であられます。私たちが聖書を読んで口ずさみ、そのみことばどおり行なっていくほど、ますます神様について多くを悟るようになり、愛の父なる神様に明らかに出会うようになります。

<箴言8:17>には「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」と書かれています。私たちが誰かを心から愛するなら、喜んでその人の願いを聞いてあげます。神様を愛することも、神様を熱心に捜すことも、結局は、神様のみことばである聖書を信じて、そのみことばを守り行なうことなのです。
 

第 1章

2. 神様は 「わたしはある。」という方である 

 


神様が天地万物を創造されたと言うと、たびたびこういう質問をする人がいます。「創造主の神様は誰が造ったのですか?」「神様はいつからおられて、その前には何があったのでしょうか?」と聞くのです。

これについてを見ると、て<出エジプト記 3:14前半節>を見ると、「神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある。」という者である。』」と書かれています。誰かが神様を生んだのでもなく、誰かが神様を造ったのでもありません。神様は、人が想像できない永遠の昔からすでにおられ、これからも世々限りなくおられる方です。

ところが、人間の経験と知識では、すべてのものに「初め」と「終わり」があります。たとえば、人や動物にも初めと終わりがあります。「いつ、どんな両親か ら生まれた」という初めがあって、「いつ、どのように死んだ」という終わりがあります。いくら古くなった骨董品にも、必ずそれが作られた時があります。歴史的な事件にも、その初めと終わりがあります。

ですから、神様についても、初めにどのように存在するようになられたかがあるはずだ、と思うのです。しかし、人間の思考の限界を超えて考えるなら、創造主であり、絶対者である神様に何かの初めがあるとしたら、むしろそれがおかしいのです。

仮に神様がある時点から存在するようになられたら、それ以前には何があったかを考えるようになるでしょう。また、誰かが神様を創造したり生んだりしたなら、神様も完全な方ではないということです。ですから、絶対で完全である神ならば、その方は 当然、初めも終わりもなく、もともと「わたしはある。」という方でなければなりません。

それでは、永遠の昔から「私はある。」という神様は、どんな姿でどのように存在しておられたのでしょうか?<ヨハネの福音書 1:1>「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。ここで「初め」とは、万物が創造される前、ただ神様おひとりだけが存在しておられた大昔、はるか昔の時間を言います。

被造物である人間の限られた経験と知識では決して理解できない、永遠の昔を意味しているのです。このように永遠の昔から「わたしはある。」と仰せられる神様について、「ことばは神であった。」と書かれています。神様は何かのかたちを持っておられたのでなく、ことばそのものとして存在しておられました。

<ヨハネの手紙第一1:5>を見ると、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」とあります。ここで「光」「暗いところ」という言葉には、霊的な意味が入っています。「暗いところ」とは、不義、不法、罪と悪など、真理でないすべてのものを意味します。反対に「光」とは、罪や悪が全くないことであり、愛、 善、義など、真理に属するすべてのものを意味します。

ところが、神様は霊的な意味で光であるだけでなく、実際にも光として存在しておられました。このように、ことばである神様は、美しく妙なる光の中で、清く澄んだ声を帯びたかたちとして存在しておられました。人が想像もできないほど美しい光の中に、清く澄んで穏やかでありながらも、全宇宙にとどろくような勇壮な声としておられたのです。

このように、光と声としておられた神様は、ある時点になると、人間を創造しようと思われました。互いに愛を分かち合う対象がほしくなられたのです。このような人間についてのすべての計画を成し遂げるために、まず神様は、三位の神様に分離されます。御父である神様から、将来、人類の救い主になられる御子イエス様、そして助け主聖霊様に分離されたのです

こうして三人の方としてそれぞれ存在するようになられましたが、この三人の方の元は同じです。それで、「三位一体」と表現するのです。このように三位一体に分離されて、神様は具体的なかたちになられました。そのかたちがどんなものなのか、<創世記 1:26>でよくわかります。

「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と書かれています。つまり、神様に似るように、御父、御子、御霊の三位一体の神様のかたちに人を造られたのです。私たち人を見ると、神様がどのような方なのかわかります。もちろん、人は外見だけでなく、心も神様の心に似るように造られました。

偶像礼拝に対する警戒

被造物である人とは違って、「わたしはある。」と仰せられる神様は、永遠の昔から世々限りなくおられる方です。「わたしはある。」と仰せられる神様だけが、完全なまことの神であり、私たちが拝んで愛する対象です。ところが、ある人々はこのような神様を知らないので、人間が作り出した偶像を拝んでいます。金属や木、石などで形を作って、その前に行って拝むのです。

天には北斗七星、北極星、太陽、月もあって、また、天使もいますが、そのような天にあるものを拝む人々もいます。もし、自分が生んだ子どもが自分が親と知らずに、ほかの人のところに行って「お父さん」「お母さん」と言うなら、どれほど心が痛むでしょうか?同じように、人が自分を創造された神様を求めないで、人が作り出した偶像を拝むなら、神様の心はどれくらい痛まれるでしょうか?したがって、神様は偶像礼拝をとても嫌われるのです。

<出エジプト記20:3-5>「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形を も造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に 報い、三代、四代にまで及ぼし、」と言われました。ただ「私はある。」と仰せられる神様おひとりだけがまことの神であり、私たちはその方だけを拝んで仕えなければなりません。

 


3.神様は全知全能のお方である

聖書を見ると、信仰で全能の神の力を体験した人々について、あちこちに記されています。神の力で葦の海が分かれたり、太陽と月が動かなくなったりしました。天から火が下りて来たり、三年半の日照りの中でも激しい大雨が降ったりしました。神の御姿であられるイエス様も、全能なる神様のみわざをそのまま現されました。死んだ者を生かし、すべての病気とわずらいを治されました。風と波 を静めたり、水の上を歩かれたりしました。イエス様が復活、昇天された後も、全能の神の力は使徒たちによって続いて現れました。

特に使徒ペテロの場合は、人々が病人を大通りへ運び出し、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどでした。使徒パウロの場合は、パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行きました。使徒たちに現れる御力がとてつもなく大きいので、彼らの影や手ぬぐいによってさえ、神様のみわざが現れたのです。

<ヘブル人への手紙 13:8>を見ると、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。二千年前も、千年前も、今日も、同じように働いておられるのです。このみことばのように、イエス・キリストによる神の力も、聖書が記された当時だけあったのではなく、今日でもいくらでも現れます。

神様はこのように全能であるだけでなく、全知の方、すなわち、すべてのことをご存じである方です。人の心もご存じであって、今後起こることも、みなご存じです。このようにすべてのことをご存じの神様は、神様と明らかに交わる人々を用いて、将来の事を知らせてくださり、預言するようになさいます。

<アモス書3:7>「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」とあります。すなわち、神様が認める、神様の愛するしもべ、または預言者たちに、ご自分のはかりごとを示さないでは、何事もなさらないのです。今日も同じです。旧約時代だけでなく、今日も同じなのです。

神様が預言者たちに下さった数多くの預言が、聖書のあちこちに記されています。人類の救い主が来られること、イスラエルの滅亡と再建、また、終わりの時までの世界史の流れについても、詳しく預言されています。聖書の預言はそのまま成就されてきたし、まだ成就されていないことは、終わりの日、主の再臨までになされることです。

今日も神様は、神様と交わる人々を用いて、将来の事を教えてくださいます。人としては不可能などんなことも、神様は十分におできになるし、過去、現在、未来のどんなことでも神様はみなご存じです。このように世界史のすべての流れをご存じの神様は、人それぞれの心と将来もご存じです。ですから、全知全能の神様に人生のすべてゆだねれば、神様はどんな時にも栄える道、祝福の道にだけ導いてくださるのです。 


 

第 1章

神様はどんな方か

この世には「神はいない」と主張する人がたくさんいます。人間が想像の中で作り出した神を拝んだり、神様が造られた被造物の形を作って、それを「神」として拝んだりする人もたくさんいます。しかし、人の目で見ることはできませんが、神様は確かに生きておられます。また、私たちが崇めて拝むべき神は、天、あるいは地に唯一の神様おひとりだけです。神様は宇宙万物と人間をお造りなった方であり、万物の支配者であり、審判者であられます。

では、神様とは具体的にどんな方でしょうか? 実は、人間のほうから神様について説明することはやさしいことではありません。神様は被造物である人間を超える神であり、無限の存在だからです。限られた人間の知識の中でいくら考えてみても、神様に関してすべてわかって理解することはできません。

そして、世の中に「神様を信じている」と言う人は多いのですが、その中には神様の愛が感じられないし、救いの確信さえない人がたくさんいます。「あなたが信じている神様はどんな方ですか?」こう質問されたとき、自信を持って答えられない人もたくさんいます。子どもならば、当然お父さんについて知らなければなりません。お父さんと話をすることもできて、互いに心を交わすこともできなければなりません。

ところが、神の子どもだと言いながらも、父なる神様についてよく知らなくて、神様と交わりもないならば、救いの確信を持つことも難しいし、満された信仰生活をすることもできないのです。私たちが神様について全部は知らないとしても、神の子どもならば必ず知るべき最も基本的な内容があります。


それなら、はたして神様はどんな方であるのか、今から四つに分けて説明します。

 

1.神様は創造主である


<詩篇 53:1>を見れば、「愚か者は心の中で『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」と書いてあります。愚かで悪い人々は、自分たちが神様を見ることができないからと言って、神様を否定しようとします。進化論者たちは、生物は下等生物から高等生物に進化して、ついにヒトになったと言います。

しかし、<創世記 1:21>には「それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。」と書かれています。

また、<創世記 1:25>には「神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。」とあります。歳月が流れるにつれ、形は少しずつ変わってきましたが、神様は、初めからすべての生き物を種類にしたがって創造されました。

魚が進化して地の動物になり、地の動物が進化して鳥になったのではありません。類人猿がヒトに進化したのでなく、サルは初めからサルとして造られ、人間は初めから人間として造られたのです。

そして、ただ人間だけが神のかたちに、霊と魂と肉をすべて持った存在として造られました。いくら人間に似ていると言っても、サルが霊を持つ人のように、神様を悟って崇めることはできないのです。サルが神を捜すでしょうか? 後の世があることを知って、天国と地獄を知って、もっと敬虔に、もっと正しく生きようとするでしょうか?

<創世記 1:1>「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。そして、<創世記 1 章>には、神様は何もない無の状態から、六日の間、みことばで天地を創造された、と記されています。創造の最後の日である六日目には、人類の先祖である最初の人アダムをお造りになりました。

<ローマ人への手紙 1:20>を見ると、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。


神の力と神性は、私たちの目に見えないとしても、被造物によって知られ、はっきりと認められる、と書かれています。したがって、「私は神様とはどんな方か知らなくて、信じられませんでした」と審判の日に言い訳できないということです。

神様は直接拝見することはできませんが、すべての被造物を見ると、創造主の神様がおられることと、創造主がおひとりであることがわかります。神様が造られたすべての物の中に、創造主である神様の証拠が現れているからです。

人をはじめとする動物の構造 


その証拠として、一つ例を挙げてみます。世の中には実に多くの人々が生きています。さまざまな人種と民族があって、それぞれ言語と文化が違い、皮膚の色もさまざまです。しかし、そのすべての人に共通点があります。どんな人種、どんな民族も目は二つです。耳も二つで、鼻と口は一つです。その位置も同じです。顔の真ん中に鼻があって、顔の上のほうに目があります。口は鼻の下にあって、耳は顔の両側に一つずつあります。

ところが、人だけがこのように同じ構造と位置を持っているのではありません。地上の動物や空中の鳥と昆虫、海の魚もすべて同じです。それぞれの特性により、若干の差はありますが、基本的にはみな同じ構造を持っています。また、食物を食べて消化して排泄する過程や構造、繁殖する方法と構造なども似ています。このように同じである理由は、唯一の神、創造主の神様の設計で造られたからです。

世の人々は創造論を認めないで、進化論を主張します。しかし、仮に彼らの主張のとおり人類が進化してきたなら、人はみな同じ一つの形にはならなかったはずでしょう。いろいろな形と構造に、いくらでも多様に進化したでしょう。また、創造主がおひとりでなければ、人や動物がこのように同じ構造と機能を持つことはできません。

 

創造主が何人かいたなら、それぞれ好きな構造と機能で生物体を造ったはずだからです。しかし、このように万物が一つの構造と機能を持っていることを見ると、明らかにただひとりの創造主の神様によって正確に設計されて造られたことがわかります。

自然現象に現れた創造の証拠 


また、創造主なる神様の証拠は、自然現象を見てもあまりにも明らかです。地球は1日1回自転して、1年に1回太陽の周りを公転し、月は地球の周りを1か月に1回公転します。もちろん、自転もします。こういう自転と公転によって、地球にはいろいろな規則的な現象が生じます。昼と夜ができて、四季ももできます。満潮と干潮ができて、大気が循環するようになります。

ところで、このような天体の位置や動きは、人や生命体が生きていくのに、最も必要で適している環境に設定されています。太陽と地球の距離も、地球と月の距離も、今ぐらいが最も適当です。太陽にもっと近くても熱くて耐えられないし、もっと遠くても寒くて耐えられません。また、地球と月の距離がもっと近くてもいけないし、遠くてもいけません。今の位置が満潮、干潮に最も適した位置なのです。

 

そして、このように満潮、干潮が起きるので、温度が調節され、さまざまな自然現象が起きるようになります。それとともに、風を起こして雲を移動させ、すべての所に再び雨を降らせるようになります。これより遠くてもいけないし、これより近くてもいけません。このように最も適当な距離で、測り知れないほど永い歳月の間、一寸の誤差もなく規則的に自転と公転をしてきたのです。

進化論の虚構性 


はたしてこのようなすべての秩序が、進化論者たちの主張のように、ビッグバンによって偶然に作られたのでしょうか? たとえば、時計を分解してみると、その中には多くの部品が精巧に組み合わされて動いているのがわかります。ところが、誰かがそれを見せながら、こう言うとしましょう。「この時計は誰かが作ったのでありません。火山が爆発して、いろいろな部品が飛び出して、その部品がひとりでに組み立って、規則的に動き始めました。」それなら、この話が信じられるでしょうか? 絶対に信じられないでしょう。

ところが、この世とすべての物が進化によって造られたということは、これよりはるかに話になりません。時計とは比べられないほど精巧な宇宙が、どうしてひとりでに造れるのでしょうか? また、その精巧な宇宙が、どうしてこのように正確な秩序に従って自ら動くのでしょうか?

これは極めて優れた神様の知恵で、宇宙のすべての物が計画されて創造され、動かされているために可能なことです。創造主の神様がその御力によってすべての物を造られて、すべての物を動かしておられるのです。こういう明らかな証拠があるために、最後の審判の日には誰も弁解することができないのです。

このように創造の明白な証拠を見ながら、なぜ人は神様を信じないのでしょうか? 人は目に見えるもの、手で触れるもの、自分の知識と思いで理解できるものだけを信じようとするからです。

それでは、この自分の知識と思いはどこから来たのでしょうか? 生まれながらにして持って出て来たのでしょうか? この世に生まれて、神様を信じない人々に聞いて習った知識なのではないでしょうか? これらの知識によって、思いが働くようになったのではないでしょうか? 目に見えない神様がおられるという事実や、聖書に書かれている不思議としるしなど、人の力を超えることは認めようとしないのです。

しかし、聖書のすべてのみことばは、明らかに真実です。神様が天地を創造されたことも事実であり、不思議としるしも、御力のわざも、みな実際に起きたことです。創造主の神様だけにおできになることです。人の知識と思いでは限界があり、とうてい理解することも信じることもできないために、聖書を否認しようとしますが、聖書に記された不思議としるしと御力のわざは、すべて事実です。

<ヨハネの福音書 4:48>「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』」とあります。人の限界を超えるしるしと不思議を見ると、人の思いと枠が砕かれます。自分は全く不可能だと思っていたことを神様が行なわれるのを見て、聞いて、体験するとき、これまで自分が学んで正しいと信じてきた知識と神様のみことばが一致しなくても、神様のみことばだけがまことであり、真理であることを認めるようになります。

それで、聖書を見ると、神様は数多くの御力のわざを行なわれて、神様の生きておられることを現してくださいました。神様を信じないエジプトのパロとその家臣たちに、モーセは十の災いで神様を現して見せました。預言者エリヤは天から火を引き下ろして、三年半の日照りの中でも雨を降らせました。イエス様は、しるしと不思議によってご自分が神の御子であることを証しされました。異邦人の使徒であるパウロは、イエス・キリストの御名で病気とわずらいをいやし、悪霊を追い出し、死んだ者を生かしました。

このように創造主である神様だけが行なえるみわざを見るとき、信じなかった人々も創造主の神様を認めました。福音を受け入れて、救い主イエス様を受け入れました。私たちが生きているこの時代にも、このような神様のみわざはどうしても必要です。しるしと不思議を現す神様の御力は、信じない人々に生きておられる創造主の神様を信じるようにする、最も確かな証しになるのです。
 

はじめに:

 

「十字架のことば」は「人類の救いについての神様の摂理」を明らかに説明してくれるみことばです。人類の救いのために世界の始まる前から隠された深い奥 義であり、神様の大きい愛と公義を悟らせてくれるみことばです。

 

クリスチャン ならば誰でも知りたいと思う「神様はどんな方か?」「神様が天地万物と人を創造 して、この地上に生きるようにされた目的は何か?」「神様はなぜ善悪の知識の木を置かれたのか?」「イエス・キリストはどういう方で、なぜイエス様だけが人類の救い主であるのか?」「イエス・キリストを信じるとなぜ救われるのか?」この ようなすべての質問に対する答えがまさに「十字架のことば」に入っています。

 

今までこの説教で多くの人々が神様の驚くべきみわざを体験しました。自分の 罪を心から悔い改めるみわざが起きて、まことの信仰と確かな天国の望みを持つようになりました。罪と悪を捨てて、神様のみことばの中を歩むようになりまし た。メッセージを聞いて、自分の罪を悔い改めた後、イエス キリストの御名で祈 ると、数多くの人々が神様のみわざを体験しました。病気がいやされて、わずらいは完全になりました。

 

悪霊が出て行って、闇の勢力が退きました。十字架に含まれた救いの道を聞いて悟る人はみな、神様がイエス・キリストの御名で施される驚くべきみわざを体験してきたのです。皆さんがミカンを食べるとき、ほかの人がおいしいと言うから、ただ「おいしそうだ」と思っても、実際にミカンの味はわかりません。皮をむいて、直接食べてこそ味がわかって、栄養分を摂取してこそ益になります。信仰も同じです。

 

「主イエスを信じれば救われる。」このように頭だけでわかって救われるのではありせん。また、ただ「信じなさい」と言われるから漠然と「信じます」と言うだけでは、力ある信仰生活はできません。「なぜイエス様だけが救い主であるのか」「イエス様を信じると言うと、どのように救われるのか」その理由を確かに知らなけ ればなりません。

 

そのような人には霊的な信仰が与えられるので、敵である悪魔・サタンが惑わ せないし、伝道する時も、口に出す言葉に権威が伴います。「十字架のことば」を学んで、イエス様がなぜ救い主であるのか、確かに悟られますように。そして、 誰が尋ねても正確に説明できるように、このみことばを完全に糧とされますよう に。それで、まことにイエス・キリストのいのちが内にあって、そのいのちを多くの人々に伝えられますよう、主の御名で祝福して祈ります

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