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十字架のことば

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。 (1コリント1:18)

第2部 世界の始まる前から隠された奥義​

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第3章


十字架に含まれた摂理

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イエス様は、罪人たちの罪を贖うために死なれて、三日目に死の力を打ち砕いてよみがえり、私たちに救いの門を開いてくださいました。私たちを闇から光へ移し、悪魔の奴隷から神の子どもへ、地獄から天国へ導いてくださいました。このように救いを全うするまで、イエス様の生涯のすべては徹底した霊の世界の法則によって、神の摂理に従って完成されました。

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すなわち、罪人たちのために殺されましたが、「木にかけられなければならなかったこと」は、罪人たちが受ける呪いを贖うための摂理であり、「血を注ぎ出して死なれたこと」は、血を注ぎ出すことによってだけ罪の赦しがあるからだと先に述べました。これだけでなく、イエス様がこの地上に来られてから、十字架の苦しみを受けるまでのすべての過程の中に、細やかな神の摂理が含まれています。

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イエス様は家畜小屋でお生まれになり、飼葉おけに寝かされて、一生を貧しく生きられました。そして、死なれる時は、全身にむち打たれて、頭にはいばらの冠をかぶって、手と足は十字架に釘づけられました。裸のままで十字架につけられました。イエス様が着ていた着物は、ローマの兵士たちが四つに分け合い、下着はひとりがくじを引き、取りました。また、イエス様はローマの兵士に槍でわき腹を突き刺され、血と水を注ぎ出されました。

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このような一つ一つの過程にも、それぞれ神の摂理が含まれています。これが神の恵みと恩寵であり、私たちを祝福してくださるための摂理です。私たちがこのような摂理を悟り、その中に含まれた祝福を信仰をもって求めていくとき、その祝福を味わって生きられます。

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 1.    飼葉おけに寝かされた摂理

 

<ルカの福音書 2 章>にはイエス様の誕生についての記事があります。聖霊の力によってイエス様をみごもったおとめマリヤは、夫のヨセフとともにベツレヘムに行きました。当時、ベツレヘムの宿屋には彼らのいる場所がなかったので、マリヤは、ある宿屋の家畜小屋で出産しました。布にくるまれたイエス様を寝かせる所がないから、家畜の餌を入れる飼葉おけに寝かせました。ふつう、赤ちゃんは暖かい部屋で生まれて、居心地の良いベッドに寝かせられます。ベッドがなかった昔でも、床に毛布を厚く敷いて、そこに赤ちゃんを寝かせて布団をかけました。ところが、万軍の主、神のひとり子イエス様は、なぜこのように家畜小屋で生まれて、飼葉おけに寝かされたのでしょうか? これも、神様が私たちに祝福を与えられるための摂理でした。 


1)獣にすぎない人の子ら 

 

<伝道者の書 3:18>に「私は心の中で人の子らについて言った。『神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。』」とあります。神様が人を試みると、獣にすぎなかったということです。こういうみことばを聞くと、ある人は「なぜ人が獣にすぎないのだろうか?」と不思議に思うかもしれません。​

 

しかし、実際、人の悪さを考えてみれば、獣にも及ばないことも多くあります。ライオンやヒョウのような猛獣も、空腹だったり、自分が危ないと感じたりする時でなければ、余計な殺傷はしません。また、動物の中にも、一度つがいになれば一生相手を裏切らない動物がいて、子のために大きな犠牲を払ったりします。家で飼う犬は自分の主人に忠誠を尽くして、時には主人のために命をささげたりします。犬が裏切ったという話はあまり聞いたことがありません。

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しかし、私たち万物の霊長と言われる人は、主人をどんなによく裏切るでしょうか?自分の欲望をさらに満たすために戦争を起こして、女、子ども、病人などの区別なく、数多くの人々を殺します。家族や隣人との間にも、まことの愛が見つけにくいのです。離婚率は日がたつにつれて増加し、物質の欲のために親子の間、兄弟の間でも互いに争って、告訴して、はなはだしくは殺したりもします。自分の益にならなければ、親や恩師、長年の友だちも裏切って、恩をあだで返す場合も数多くあります。

 

​人が人を金で売り買いして、はなはだしきは自分の子どもまで売り渡したりします。子どもたちも暴力組織を作り、とても口にしにくいことを行なったりします。このほかにも、毎日伝えられるニュースを見ると、想像しがたいような惨たらしい事件が絶えず報道されています。このような姿を見ると、人が獣よりましだとは言えないのです。

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本来、神様は善で聖なる神様のかたちに人を造られました。ところが、アダムが罪を犯して以来、罪人になった人々は、神様の善なるかたちを失ってしまいました。霊が死んで、魂と肉だけで生きていくので、魂と肉だけで造られた獣のような存在になってしまいました。そして、心が罪と悪で染まっていくほど、ますます世の欲に従って、自分の欲に従って、あらゆる罪を犯して生きていくようになりました。

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このように罪と悪に染まり、獣のようになってしまった人々が、どうして聖なる天の御国に入れるでしょうか?人の元の姿を取り戻してこそ神の子どもになり、天国に行けるのです。イエスさ様がこの地上に来られて、飼葉おけに寝かされたことは、このように獣にすぎない人類を贖って、救い出されるためでした。
 

2)いのちの糧であるイエス様 

 

<ヨハネの福音書 6:51>に「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパ ンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」とあります。人が天から下って来た生けるパンを食べる、ということは、神のみことばを心に糧とすることを意味します。人のからだが糧を食べてこそ生きていけるように、人の霊も霊の糧を食べてこそ生きていけます。霊の糧をどれだけよく消化して、霊に耕したかによって、それだけ霊に、また、全き霊に入るのであり、魂に幸いを得ているということです。

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魂に幸いを得ているほど、すべての点で幸いを得、健康である祝福が臨むのです。 イエス様は、神のことばが人となってこの地上に来られた方です。みことばであるイエス様がこの地上に来られて、獣のような人類にとっていのちの糧になってくださいました。イエス様によって人は自分の元の姿を取り戻し、失った神のかたちを取り戻すようになりました。これを教えてくださるために、神様はイエス様を、家畜の餌の器である飼い葉おけに寝かせるようになさったのです。

 

3)人のすべて 

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それでは、これから私たちはどうすれば獣のような人生から抜け出して、まことのいのちが得られるのでしょうか?私たちが人のすべきことをすべて行なって、人間らしく生きられる道とは何でしょうか?<伝道者の書 12:13>に「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」とあります。人間にとってすべてとは、神を恐れて、神の命令を守ることだ、ということです。

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<箴言 8:13 前半節>には「主を恐れることは悪を憎むことである。」ともあります。そして、神の命令を守ることは、神のことばである聖書に記された命令を守ることです。「いつも喜んでいなさい。」「絶えず祈りなさい。」「すべての事について、感謝しなさい。」その他、そねんではいけない、憎んではいけない、酒に酔ってはならない、安息日を守りなさい、誓願したことは守りなさい、悪はどんな悪でも避けなさい、愚かな議論を避けなさいなど、聖書にはこういう命令が数多くあります。

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聖書で「しなさい」と言われたことはして、「してはならない」と言われたことはせず、「守りなさい」と言われたことは守って、「避けなさい」と言われれば避けるべきです。このように聖書の戒めに従うことが、すなわち神の命令を守ることです。ところが、口では「神様を信じます」「神様を恐れ敬います」と言うけれど、実際に神の命令は守らない人々がたくさんいます。口では神のことばを教えますが、いざ自分はと言うと、みことばどおり行なわない人も多いのです。また、聖書のみことばどおり行ないなさい、と言うと、「そんな数え切れないほどの命令をどうしてすべて守れるんですか?それでは信仰生活が本当に大変です」と言ったりします。

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しかし、神様は私たちに苦労させるために、これらのみことばを命じられるのではありません。世の親たちも子どもに多くのことを要求します。「一生懸命勉強しなさい」「好き嫌いせずに食べなさい」「行儀良くしなさい」「きれいに洗いなさい」などと言のは、親が子どもに苦労をさせるためでしょうか?違います。子どもにとって益になると思うので要求するのです。子どもを愛するからといって、「勉強は難しいから、遊んでいてもいいよ」「掃除は面倒くさいから、そのままにしておいてもいいよ」と教えることはできません。「毎日お風呂に入る必要はない。二、三日に一回でもかまわない。手と足は一日に何回も洗わないで、一回だけ洗いなさい」とは教えないのではありませんか? 

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本当に子どもを愛するなら、人のすべきことを教え、最善を尽くして人間らしく生きることを教えなければなりません。「しなさい」と言われることをするとき、祝福されて答えられ、天国に行けるので「しなさい」と言われるのです。つまり、神様は子どもたちが地獄へ行かないために「してはならない」「避けなさい」と言われるのです。そして、天国へ行くために「守りなさい」「しなさい」と言われるのです。そして、光の中を歩んで、失った神様 、つまり、御父のかたちを取り戻しなさい、と言われるのです。

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私たちがそのように聞き従うとき、結局私たちに健康の祝福、物質の祝福、すべての祝福を下さるのです。肉の子どもたちも、親を愛して信頼するなら、親の言うことを聞きます。同じように、私たちのためにあまりにも大きい愛を施してくださった神様を愛するなら、そして、十字架につけられて死なれた主を愛するなら、神様のみことばに聞き従うことが難しくありません。尊い神の御子がみすぼらしい家畜小屋でお生まれになり、飼葉おけに寝かされた摂理を明らかに悟って、心から神様を恐れ敬い、神様のかたちを完全に取り戻さなければなりません。

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2.  家畜小屋で生まれて、貧しく生きられた理由

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イエス様は王の王、主の主であり、創造主なる神の御姿であられる方です。< ヨハネの福音書 1:3>に「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあり、<ヨハネの福音書 3:35> に「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」とあります。このように万物の主人であられるイエス様が、天のすべての栄光を後にして、荒れ果てた地上に来て、みすぼらしい家畜小屋でお生まれになりました。 生まれた時だけそうなのでなく、一生、イエス様は貧しく生きられました。

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私たちはそれでも貸間もあって、自分の家もあるけれど、私たちの主には家がありませんでした。<マタイの福音書 8:20>で「狐には穴があり、空の鳥には巣がある が、人の子には枕する所もありません。」と言われたように、イエス様は福音を宣べ伝えて病人をいやすために、住む所もなく、あちこちをかけ回られました。時には飢え渇きながら、時には休むこともできずに、みことばを宣べ伝えられました。

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イエス様は豊かに生きる力がないから、貧しく生きられたのではありません。イエス様は水でぶどう酒を作られたこともあり、五つのパンと二匹の魚で五千人以上を食べさせても、パン切れの余りが十二のかごにいっぱいになる奇蹟も行なわれました。また、ペテロがイエス様に命じられたとおり、魚を釣って、口をあけると、魚の口からお金が出て来たこともあります。もし、イエス様がご自分のために力を使われたなら、いくらでも豊かな人生が味わえたはずです。

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1)イエス様があえてこの地上で貧しく生きられた理由は何でしょうか? 

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<コリント人への手紙第二 8:9>に「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とあります。富んでおられたイエス様が、私たちの代わりに貧しくなられて、私たちには富む者となる祝福を下さった、という意味です。

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人には初めから貧しさゆえの苦しみがあったのではありません。エデンの園で暮らしていた時は、あらゆるものが豊かであり、地が豊かな実を生み出したので、その実をただ取って食べればよかったのです。ところが、アダムが罪を犯してからは、人とともに万物も呪われて、土地はいばらとあざみを生えさせたので、額に汗を流して、ようやく糧を得るようになりました。このように人類が貧しくなった原因は、アダムが罪を犯したので呪われたからです。もちろん、貧しさそのものは罪ではありませんが、結局、これはアダムが罪を犯したことによる呪いの一つです。 

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したがって、イエス様はご自身が貧しく生きられたので、人の貧しさを贖ってくださり、私たちが豊かになるようにしてくださったのです。貧しさは罪ではないので、私たちの主が血を注ぎ出される理由はありませんでした。それで、私たちの主が貧しく生まれて、ご自身で一生を貧しく生きられて、私たちの貧しさを贖ってくださったのです。

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しかし、罪によることならば、血を注ぎ出さなければなりませんでした。罪から来る報酬は死です。まさに血によってだけ罪が赦されるので、原罪も、自ら犯した罪もない、私たちの主の尊い血が注ぎ出されなければなかったのです。それで、私たちが思いで犯した罪に対しては、主が頭にいばらの冠をかぶられて、私たちが手と足で犯した罪に対しては、主が手と足に釘を打たれ、また、私たちが全身で犯した罪に対しては、主が裸になってむち打たれ、全身に血を流して、横腹を槍で突かれて、水と血をすべて注ぎ出されたのです。
 

​2)物質の祝福を受ける方法 

 

ある人々は、神様に物質の祝福を求めるのは間違っている、と言います。しかし、聖書には、神様 が私たちを富む者にされるという数多くの祝福のみことばがあります。また、信仰の父アブラハムをはじめとして、イサク、ヤコブ、ヨセフ、 ダニエルなど、神を恐れ敬い、そのみことばに従った人々は、豊かで富んだ人生を送ったことがわかります。私たちも、貧しさを贖ってくださった主の恵みのうちに、富む者になる祝福を受けなければなりません。イエス様を正しく信じて、富む者になってこそ、神に栄光が返せるのです。

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自分が貧しく生きていながら「イエス様を信じれば祝福されます」と伝道したら、相手の人は何と言うでしょうか? 「自分が祝福されれば?」と言うでしょう。 伝道する者がからだの具合が悪いのに、「主を受け入れれば、いやされます」と言えば、「自分がいやされれば?」と言うでしょう。むしろ栄光をさえぎるようになるのです もちろん物質の欲をもって祝福を願うのではなく、神様の栄光のために願わなければなりません。

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<ヤコブの手紙 4:2 後半節-3>に「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして悪い動機で願うからです。」とあります。信仰のある人ならば、財政で祝福されてどこに使うでしょうか? 欲に従って贅沢するのではなく、みなしごややもめに施して、宣教して、聖殿を建築するなど、魂の救いのために使うはずでしょう。ですから、このように願って祝福されることによって、神様に栄光をささげて、祝福された物質を神の国のためにささげて、天国に尊い報いを積み上げていくのです。 

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<マタイの福音書 7:7-11>に「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」とあります。親なら当然、愛する子どもが願うものを与えようとするでしょう。愛の豊かな父なる神 も、子どもたちが信仰で求めるものはみな与えたいと願われます。

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ところが、無条件に「お父さん、祝福してください」と祈るからといって、祝福されるのではありません。それには条件があります。<ヨハネの手紙第三 2 節> には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも 幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあり、すべての点で幸いを得、また健康であるためには、たましいに幸いを得ていなければならないことがわかり ます。ここで「たましいに幸いを得ている」とは、神のみことばのとおりに生きていくことによって、失った神のかたちを取り戻すことを意味します。

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また、< 申命記 28:2>に「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」とあります。このように神様のみことばに聞き従う人は、「はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される」のであり、「貸すであろうが、借りることはない」し、「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」と約束されました (申命記 28:6-13)。<ガラテヤ人への手紙 6:7>に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」 とあります。蒔かずに刈り取ろうとする人は、神様の法則に逆らおうとすることであり、神様を侮る人です。農夫が農業をする時も、豆を蒔けば豆を刈り取り、米を蒔けば米を刈り取ります。

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また、<コリント人への手紙第二 9:6-7>に「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、 いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあります。農夫が百坪の良い土地を 持っているとしても、十坪だけに種を蒔くなら、それ以上は刈り取れません。いくら信仰が大きい人だといっても、豊かに蒔いた時でこそ豊かに刈り取るのであって、少しだけ蒔いた時は、少ししか刈り取りません。

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ところが、神が与えられる祝福は、蒔いただけ下さるのではありません。押しつけ、ゆすり入れ、あふれるまでにして、すなわち、倍以上を下さり、たましいに幸いを得ているほど、三十倍、あるいは六十倍、あるいは百倍にして報いてくださいます。また、同じものを蒔いたとしても、すぐに刈り取る時より、長く待って刈り取る時は、その祝福がよりいっそう大きくなるのが見られます。ちょうど、もやしのようなものはすぐ育ちますが、高価な果物や高麗人参のようなものは、収穫まで長く待たなければならないのと同じです。このように霊肉ともにすべての祝福が、まさに信仰をもって蒔くすべての人に臨むのです。
 

3.   全身にむち打たれ、血を注ぎ出された摂理

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「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則のとおり、人類は罪によって死の道を歩むようになりました。イエス様は私たちを生かしてくださるために、木にかかられて、血を注ぎ出してくださいました。木にかけられたことは、律法の呪いから私たちを贖うためであり、いのちそのものである血を注ぎ出して、私たちを死から贖ってくださったのです。

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ところが、家畜小屋で生まれて、飼葉おけに寝かせられた時や、貧しく生きられた時は、血を注ぎ出すことがありませんでした。貧しさそのものは罪ではないので、イエス様が貧しさを贖うために、血を注ぎ出す必要はなかったのです。しかし、罪を贖うためには、血を注ぎ出すことがなければならず、病気とわずらいも罪によるものなので、これらをいやすためにも、血を注ぎ出さなければなりませんでした。

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神様の摂理のうちに十字架を負われる時になると、イエス様はユダヤ人の手に渡されて、ユダヤの総督ピラトの法廷に連れて行かれました。ピラトはイエス様が何の罪もないことがわかりましたが、群衆の力に押されて、イエス様をむちで打ち、十字架につけるように引き渡してしまいました。 十字架も残酷な刑罰ですが、むちで打たれるのも決して軽い刑罰ではありません。当時、世界最強国であったローマの、よく訓練された兵士がむちを打つと、むちがからだを一回転半して絡み、皮膚を切り裂くだけでなく、むちの端にある鉛のかたまりがからだの中に食い込みます。このむちをまた強い力で引っ張ると、肉がむちについてはがれていきます。イエス様はこういう激しい刑罰を受けて、骨が見えるほどの傷を負って、多くの血を注ぎ出されました。

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1)病気をいやされる
 

では、なぜイエス様はこのようにむち打たれ、ひどい苦しみを受けて、血を注ぎ出さなければならなかったのでしょうか?なぜ神様はひとり子イエス様がこういう苦しみを受けるように許されたのでしょうか? <イザヤ書 53:5-6>「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」 イエス様がむち打たれて、血を注ぎ出されたのは、私たちがいやされるためでした。

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<出エジプト記 15:26>で、私たちが戒めを守って罪を犯さなければ、どんな病気も臨まないと約束されています。したがって、病気がいやされるためには、みことばどおり生きていなかったことを悔い改めて、まず罪の赦しを受けなければならないのです。<マタイの福音書 9:2>にも「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかり しなさい。あなたの罪は赦された。』と言われた。」とあります。その後でイエス様が命じられると、中風の人がいやされて、起きて歩きました。病人をいやされる前に、まず罪の問題を解決してくださったのです。 

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<ヨハネの福音書 5:14>では、いやされた人に「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」と言われました。一度いやされたけれど、もっと悪い事が起こるのは、また罪を犯すからなのです。ですから、また罪を犯さないならば、病気が再発しないし、また、もっと悪い事が起こることもないのです。

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したがって、病気を贖うためには、血を注ぎ出すことがなければならないのです。イエス様はむち打たれて、血を注ぎ出して罪を贖い、私たちの代わりに苦しみを受けられて、私たちをすべての病気の苦しみから自由にしてくださいました。<マタイの福音書 8:17> に「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」とあります。ここで「わずらい」とは、何かの菌による病気とは違って、医学でどうすることもできないもの、生まれつきからだが不自由なことで、 たとえば、歩けないこと、小児マヒなどを指します。

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2)  信仰の告白の重要性 

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<ペテロの手紙第一 2:24 後半節>に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。「いやされる」ではなく、「いやされた」と書かれています。完了形を使っています。ですから、イエス様がむち打たれて、血を注ぎ出されたので、私たちの病気が贖われたことを信じる人は、これ以上わずらいや病気で苦しみを受ける理由がありません。ところが時々、信仰があると言いながらも、「私は弱いから倒れる時もあるし、罪を犯す時もあります。人がすべてみことばどおりに生きるのは難しいです」と言う人もいます。自ら「私は弱い」と口に出すと、弱くなるしかなく、「罪を捨てるのは難しい」と口に出すと、信仰生活をすることがつらくなるしかありません。

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<箴言 18:21>に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあるからです。どんな状況でも「私は神様の恵みで健康です」「満たされています」と告白する時は、その信仰の告白のとおり、神様の恵みと力が臨み、疲れにも十分勝てるし、不可能が可能に変わるのです。 私たちがいやされるために祈りを受ける時も、「祈りを受けたので、いやされると信じます」ではなく、「すでにいやされたと信じます」と告白するとき、その信仰のとおり神様が働いてくださいます。

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「祈りを受けたのでいやされると信じますが、今はやっぱり痛みがあります。まだ痛いです」と言うなら、これは信仰ではありません。「相変わらず痛いのに、どうしていやされたと言うんですか? それでは嘘にならないでしょうか?」と言う人もいます。しかし、霊の信仰が何かを理解すれば、そのようには言いません。<マルコの福音書 11:24> に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」 とあります。

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この時も、祈って求めるものは何でも「受けると信じなさい」ではなく、「すでに受けたと信じた」とき、そのとおりになると言われました。<ヘブル人への手紙 11:1-2> に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあります。信仰は、すでになされたことを見て告白するのではなく、見えないものを信仰で望むとき、実際に現れるのです。信仰で望むとき、見えない無から見える有が創造されます。

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かといって、心では信じてもいないのに、口だけで「信じます」と言うからそのままなされる、という意味ではありません。心から真実に信じられる信仰を口で告白するとき、その信仰のとおりになります。ですから、「私はすでにいやされたと信じます」「答えられたと信じます」と告白することは嘘ではなく、霊の信仰の告白であり、真実を語ることです。たとえをあげて説明してみましょう。花の茎を切って花びんに生けると、その花は死んでいるでしょうか?生きているでしょうか?今は生きているようですが、根から離れているので、すでに命を失っています。ですから、この事実がわかれば、「死んだ」と答えます。ですから、命から、根から離れたので、もう一 日、二日たてば、しおれていき、数日後には枯れてしまいます。今も死んでいくところなのです。

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このように、主を受け入れない人々について、聖書では「死んだ」と表現します。明らかに呼吸をして、飲み食いして、欲を満たしているのに、「死者」だと言われるのです。今は生きているようですが、その中には永遠のいのちがないので、結局地獄に行きます。それで、「死者」だと聖書は表現するのです。

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病気の治療についても同じです。このように信仰で望むとき、「神様の力で病原菌が、がん細胞がすでに焼き尽くされた。病気とわずらいが私から離れてしまった」と告白すれば、その信仰のとおり主が働かれます。すでにイエス様がわずらいと病気を贖うためにむち打たれて、血を注ぎ出してくださったからです。

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ところが、これが信じられずに信仰で告白できないなら、相変わらず病気が離れません。いくら祈りを受けても、自分の心では「私は痛い、まだいやされていない」と信じるから、相変わらず痛いのです。このような否定的な思いを打ち砕かない限り、神様のみわざを体験することはできません。肉の思いを働かせずに「信じます」と言うと、すぐその場でもマヒしたからだが動いて、立ち上がって歩いて走ることもできます。

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3)信じると告白したのに病気が離れない理由  

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イエス様がむちで打たれて病気を贖われましたが、その事実を信じるという人の中でも、相変わらず病気で苦しむ人が多くいます。これは、神様が正しいと見られることを行なわなかったからです。<出エジプト記 15:26>に「そして、仰せられた。『もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。』」とあります。 ここで「エジプト」とは、霊的に世の中を指し、エジプトを出たとき、エジプトに下した「病気」とは、世の中のすべての病気を総称しています。私たちが神様の命令を守り行なうなら、どんな病気にもかかることはなく、ひょっとして病気にかかったとしても、悔い改めて立ち返るなら、「わたしは主、あなたをいやす者である。」と仰せられたように、全能の父なる神様がいやしてくださるのです。

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ところが、ここで正しいことを行なうといっても、人のほうで自分が見て正しいことを行なうのではなく、神様が正しいと見られることを行なわなければならない、と言いました。人が見て正しいことは、人によって違います。世のすべの人が、生まれて育ちながら見聞きして習ったことが違って、育った環境と価値観が違うからです。この人は正しいと思うことも、あの人は正しくないと言うこともあります。したがって、真理そのものであられる神様のみことばを基準として、神様が正しいと言われたことだけが、まことに正しいのです。

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たとえば、子どもがほかの子どもに叩かれてきたら、人によって反応が違います。ある親はとても気を悪くして、相手のところに行って問い詰めたりもします。それで、子どものけんかが親、つまり、おとなのけんかに発展することも見られます。ある親は泣く子を叱りつけながら、「お前はなぜ叩かれてばかりいるのか?お前も叩きなさい」と言います。はなはだしきは「一回叩かれたら、お前は二回、三回と叩きなさい」と言う親もいます。

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しかし、真理は何と教えているでしょうか? 「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」「平和を追い求めなさい。」「敵を愛しなさい」と言います。これがまさに神様 が正しいと見られることです。もし、人が小さい時から神様が正しいと思われることを追い求め、教えられて成長するなら、その人は将来、多くの人々をいだいて理解して、先立って導ける大きい器になるでしょう。神様が正しいと思われることを追い求めるとき、人が見てその時は損をするようでも、結局は神様がその人を認めて、高めてくださるからです。

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神様のすべての命令を守りなさい、という言葉を聞くと、ある人は「その多くのおきてを、どうやってすべて守れるのだろうか?大変だ」と思います。しかし、私たちが神様の命令を守り行なうことは、難しいことではありません。「神様が命じられたので聞き従える。私がするのではなく、聖霊が助けてくださり、神様が恵みを下さり、力を下さるので、十分にできる」と、このように信じて行なうと、とても簡単です。

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しかも、いくら命令が多いようでも、要約すれば十戒になります。また、御霊の九つの実、愛の章にある霊の愛、八つの幸いを心に耕していくなら、神様が正しいと見られることが行なえるのです。これらを耕せば、残ったものはすべて耕せるということです。本当に神様を愛して、天国の望みがあるなら、天国の栄光と報いを望むなら、命令を守ることが難しくもなく、従えない理由もありません。

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ひょっとして「私にはあまりにも捨てることが多いから、いつすべて捨てられるのだろうか」と言う方がいても、心配することはありません。憤りであっても、憎しみであっても、姦淫であっても、一番捨てにくいものを心に置いて、集中的に祈って断食して捨てたら、残りはとても簡単に捨てられます。まるで、木を引き抜くにしても、大きい根を引き抜くと、小さい根は一度に抜けるようなものです。

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<歴代誌第二 16 章>に、南ユダのアサ王に関しての記事があります。もともとアサ王は神様によく仕えた王です。ところが、アサ王の治世の第三十六年にイスラエル王国の王がユダに上って来ると、神様だけにより頼んでいた信仰が変わってしまいました。異国に賄賂を送り届けて、イスラエルを攻めるように願ったのです。これに対して、予見者が来て王を責めました。以前は、もっと強い異国の軍隊が攻めて来た時も、王が神様により頼んだ時は、神様が彼らを王の手に渡されたのですが、今度は、王が異国の軍隊に頼ったので、神様が王に御顔を隠されるようになった、と知らせてくれました。

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すなわち、神様にだけより頼んだ時は神様が守ってくださったのに、神様により頼まないで、今は世に頼って人に頼るから、神様が御顔を隠してしまわれたのです。<歴代誌第二 16:9>を見ると「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の争いに巻き込まれます。」とあります。神様の御目は地球の果てまで、全宇宙をあまねく見渡しておられます。ですから、心と思いと力といのちを尽くして神様を愛する者に、御力を現してくださるのです。このように責められても、アサ王は悔い改めませんでした。むしろ預言者を迫害して、神様と罪の隔ての壁を積み続け、結局、治世の第三十九年に、両足とも重い病気にかかってしまいました。

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では、どうすればよいでしょうか?その時でも魂を砕いて罪を告白し、神様にすがらなければならないのに、王は相変わらず神様を求めるのではなく、逆に医者を求めました。しかし、<歴代誌第二 16:13>に「アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。」とあります。つまり、結局は病気で死んでしまいました。神様により頼んだならば、神様が完全にいやしてくださり、もっと長生きしたはずなのに、世と人に頼るから、神様のみわざが見られなくて、結局、病気で死んでしまったのです。神様が彼のことをとても残念に思われたので、こういう記録を聖書に残しておかれたのです。

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今日も同じです。多くの人が口では「全知全能の神様を信じます。生死禍福をつかさどる神様を信じます」と言います。しかし、実際に自分に何かの問題が起こると、どうするでしょうか? 神様により頼むのではなく世に頼り、祈って神様に求めるのではなく、病院に行って、医者に頼る人がたくさんいます。いくらみことばをたくさん聞いて知っていても、命令を守り行なわないから、また、神様を心から愛さないから、いやされる霊の信仰が与えられないのです。

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私たちが聖霊を受けて、神の子どもとされる特権を受けたら、これからは闇から出て、光の中で正しいことを行なっていけば、神様との間に詰まった罪の隔ての壁が打ちこわされます。打ちこわされるほど、自分の中に信じられる信仰が与えられます。この信仰が与えられるほど、すべてのことに神様のみわざを体験していけます。病気にかからなくなり、たとえ病気にかかったとしても、すでにいやされたと信じると、直ちにいやされるのです。​​​

第2部 世界の始まる前から隠された奥義​

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第2章


なぜイエス様を信じると救われるのか


1. イエス様による救いの摂理

 

 ―世界の始まる前から隠された神の奥義 


1)世界の始まる前から備えられた人間の救いの道 


神は世界の始まる前から人間の救いの道を備えて、すでに旧約聖書の最初の書、創世記に、イエス・キリストの現れと十字架による救いの奥義について預言されました。<創世記 3:14-15>に「神である主は蛇に仰せられた。『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕 き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』」とあるのです。

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ここで「蛇」とは、霊的に敵である悪魔・サタンを意味します。「蛇がちりを食べる」とは、敵である悪魔・サタンがちりで造られた人を支配するという意味です。そして「女」とは、霊的に「イスラエル」を意味して、「女の子孫」とは、メシヤ、すなわち、「イエス・キリスト」を意味しているのです。また、「蛇が女の子孫のかかとにかみつく」とは、イエス様が十字架につけられて死なれることを意味します。「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」とは、十字架につけられたイエス・キリストによって、敵である悪魔・サタンの陣が打ち砕かれることを預言しているのです。

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一般に蛇は、尾が踏まれたり体が切られたりしても力を失いませんが、頭を捕まえられれば少しも動けません。したがって、蛇と女との間に敵意があり、女の子孫がその頭を踏み砕くというみことばは、霊的に、敵である悪魔・サタンがイエス・キリストによってその権力を失うという意味です。一方、「蛇が女の子孫のかかとにかみつく」とは、霊的に、敵である悪魔・サタンがイエス様を十字架につけて処刑させることを意味します。これはそのまま成就されました。

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2)イエス様が人となってこの地上に来られた理由 


霊の世界の法則により、アダムとエバは罪を犯したので、悪魔・サタンの子どもになりました。もう一度神の子どもになるためには、罪があってはなりません。したがって、人類には彼らの罪を赦してくれる人が必要でした。しかし、この世では誰も人類の罪を赦してくれる人がいなかったのです。それで、イエス様が私たちを贖ってくださるために、天の御座を捨てて、人となってこの地上に来られました。


3)悪魔・サタンはついにイエス様を十字架刑にする

 
イエス様はこの地上におられた間、ただ良いことだけを行なわれた方です。罪人を赦してくださっただけでなく、さまざまな病気にかかった者をいやし、罪のきずなを解き、平和と喜びと愛を与え、天国の望みを下さいました。しかし、敵である悪魔・サタンは何の罪もないイエス様を、あらゆる手段と方法を使って、結局十字架につけて殺してしまいました。なぜそうしたのでしょうか?

 

アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べる不従順の罪を犯したので、天地万物を治める権力は敵である悪魔に任されていました。しかし、将来女の子孫が現れて、敵である悪魔に任されていた権力を取り戻すことを、神様は知らせてくださいました(創世記3:15)。敵である悪魔はこのようなことを知っていたので、女の子孫が現れて、自分を踏み砕く前に殺そうと決意しました。それでこそ、不従順になったアダムから任されていた権力が永遠に持てると考えたのです。

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しかし、敵である悪魔は女の子孫とは誰なのかわからなかったので、旧約時代から神様に愛される預言者が現れるたびに、さまざまな方法で殺そうとしました。モーセが生まれた時も、エジプトの王パロをそそのかして、当時イスラエルの女性が産んだ男の子はすべて殺すように働いたし(出エジプト 1:15-22)、イエス様が人となってこの地上に来られた時には、ヘロデ王を操りました(マタイ 1:13-18)。敵である悪魔・サタンはまた、祭司長と律法学者とパリサイ人たちをそそのかして、イエス様を殺すためにあらゆる策略を巡らせました。ついに全く罪がないイエス様をむごたらしく十字架刑で殺した後に、敵である悪魔はこれ以上自分を妨げる者がいないので、とこしえに世の王になれると思って、勝ち誇りました。

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4)イエス・キリスト、神の知恵


<コリント人への手紙第一1:18>に「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」とあるように、全能の神の御子が被造物にさげすまれて殺されることは、非常に愚かに見えます。しかし、このような愚かに見える神様の計画が、実はどの人の計画よりも賢いのです。それで、<コリント人への手紙第一1:25>に「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とあるのです。

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5)世界の始まる前から隠されたイエス・キリストによる救いの道 


神様に不従順になり、死の道を歩んでいたすべての人類を救いの道に導くために、神様が備えられた方法がまさに、イエス様を十字架につけて死ぬようにすることでした。それで、<コリント人への手紙第一 2:7-8>に「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」と書いてあるのです。

 

敵である悪魔は、このように隠されていた神様の知恵が悟れなかったので、イエス様を殺したことで自分が勝ったと思いました。ところが、これは「罪から来る報酬は死」(ローマ 6:23)という霊の世界の法則、すなわち、神様のみことばに完全に背くことでした。なぜなら、イエス様は聖霊によって宿り、アダムの血を引かなかったので原罪がなく、律法どおり行なわれたので自ら犯した罪もないので、死に至ることがありえない方だったからです。ところが、敵である悪魔はこのような霊の世界の法則に逆らい、ローマ総督ピラトを使って、傷もしみもないイエス様を十字架につけたのです。

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<ルカの福音書4章>には、悪魔が四十日断食なさったイエス様を三度試みる過程が記されています。その中の一つは、国々を治める権力についての試みでした。また、悪魔はイエス様を連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言いました(ルカ 4:6)。すでに悪魔は、神様のみことばに聞き従わないで罪の奴隷になったアダムから、すべての権力が任されていたのです。

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ところが、今度は敵である悪魔が神様との約束である霊の世界の法則、すなわち、罪によって死に至るという霊の世界の法則を破ったので、再びその権力を神に返すしかなかったのです。結局、敵である悪魔はイエス・キリストを信じる人々を治める権力を失ってしまったのです。そうして、驚くべき神の知恵と十字架につけられて死なれたイエス様の愛により、イエス・キリストを信じる人ならば誰でも、悪魔のふところから神様のふところに移ることができるようになりました。これがすなわち、世界が始まる前から備えられたイエス・キリストによる救いの道、すなわち「十字架のことば」なのです。

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<ローマ人への手紙 5:17-19>「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」

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神のひとり子イエス様は人となってこの地上に来られましたが、聖霊によっておとめマリヤの胎に宿られ、ご自身を犠牲にして十字架を負うことができる愛を現してくださいました。したがって、誰でもイエス・キリストの御名によって救いに至るのであり、ただその御名によってだけ救われるのです。それで、<使徒の働き 4:12>に「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と書かれているのです。

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2.なぜイエス様は木の十字架にかけられて、血を注ぎ出さなければならなかったのか

 

1)律法の呪いから私たちを贖うため


死刑の方法にはさまざまなものがあるのに、なぜイエス様はあえて木の十字架にかけられて、血を注ぎ出さなければならなかったのでしょうか?<ガラテヤ人への手紙 3:13>に「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」とあります。これは、イエス様が木の十字架にかけられて死なれたことによって、すべての人類を律法の呪いから贖い出されたということです。

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最初の人アダムの不従順により、すべての人は罪人になり、呪われて死の道を行くほかありませんでした。<ローマ人への手紙6:23>に記されたとおり、「罪から来る報酬は死」という律法に呪われていたのです。このような律法の呪いから贖い出すためには、霊の世界の法則に従って、呪われた者となって木にかけられなければならなかったので(申命記21:23)、神様はすべての人の身代わりとして、神の御子イエス様を木の十字架に渡されるほかありませんでした。

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<申命記21:23>「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」したがって、イエス様はすべての人を律法の呪いから救おうと、代りに呪われて、木の十字架にかけられて血を注ぎ出されたのです。これによってすべての人は律法の呪いから贖い出されて、神の子どもとされる特権を得る道が開かれたのです(ローマ 5:17-19)。

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2)血を注ぎ出すことがなくては罪の赦しがない 


<レビ記17:11-14>に「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。……すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」と書かれています。すべての生き物は血があってこそいのちが維持できるし、血がなければ死ぬので、いのちそのものであると書かれているのです。しかし、肉のいのちは、結局は朽ちてひと握りの土へ帰るのであり、霊のいのちが得られない罪人は、永遠の死である地獄に行くようになります。

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したがって、永遠に生きられる霊のいのちを得るためには、罪が赦されなければなりません。そのためには<ヘブル人への手紙9:22>に「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあるとおり、必ずいのちそのものである血を注ぎ出さなければならないのです。そのために旧約時代には、罪を犯すたびに動物の血でいけにえをささげなければなりませんでした。しかし、イエス様がただ一度、原罪と自ら犯した罪がないきよい血、すなわち霊に属する血を注ぎ出して、すべての人々が完全に罪が赦されて、永遠のいのちを得る道を開いてくださったのです。ですから、もうそれ以上、動物をほふっていけにえとしてささげる必要がないし、ただイエス・キリストを信じることで罪が赦されて、救われるのです。

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3.なぜイエス様を信じると救われるのか


1)信仰で心の戸を開き、主イエス様を受け入れて罪が赦される 


<ヨハネの黙示録3:20>に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。霊的に「戸」とは、思いのことを言います。主が私たちの思いの外で、たびたび「思いの戸を開けなさい」とたたかれるのです。誰でも主の御声を聞いて戸を開けさえすれば、主はその人とともにおられると約束されました。心の戸を開くためには、まず「思いの戸」を開かなければなりません。神様のみことばを聞くとき、自分の思いと知識にこだわらず、それを認めて受け入れなければなりません。

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「目に見えない神様をどうやって信じるのか?」「おとめがみごもったとか、死んだ人が生き返ったとは、理解できない。」このように疑って否むのではなく、自分の知識と思いを超える神の力を認めなければなりません。天下万物を見ても、神様を信じることができる証拠がいくらでもあります。また、本教会に現れる数え切れない神様の力を見ても、人の力ではできないことが神様にはいくらでもできることがわかります。人がいくら賢くて能力があるとしても、神様の知恵と力に比べれば、あまりにもつまらない存在なのです。

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2)聖霊を賜物として受けて、死んだ霊がよみがえる 


ですから、へりくだった心で自分の思いを打ち砕いて、「神様は全知全能の創造主で、神様のみことばはまことだ」と認めなければなりません。このように認めて心の戸を開ければ、神様が私たちの心に聖霊を与えてくださり、死んだ霊が生き返ります。<使徒の働き2:38>で「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と約束されました。

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3)神の子どもとして天の国籍を得るようになる 


<ヨハネの福音書 1:12>には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と書かれています。心の戸を開いて、悔い改めて、聖霊を受ければ、聖霊の働きでまことの信仰を持つようになります。みことばどおり生きる力も受けて、聖霊が働きかけるので、今後の事に関する知恵も得るのです。これがすなわち、水と御霊によって新しく生まれるということであり、このように新しく生まれた人は、神の子どもになります。神様が「私の息子よ、娘よ」と呼んでくださって、私たちは神を「父」と呼べるのです。また、神の子どもは天国のいのちの書に名が記されて、天国の国籍を持つようになります。

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4)天国の民ならば、天国の法を守るべき 


この地上でも、どの国でも守るべき法があるように、天国の国籍を持った天国の民ならば、天国の法を守らなければなりません。つまり、創造主であり、私たちの父であられる神様のみことばを守り、行なうべきなのです。ところが、「主を信じます」と言って、聖霊を受けたとしても、みことばどおり生きないで相変わらず罪を犯せば、敵である悪魔・サタンがその人を訴えて、試練や患難をもたらします。試練や患難にあいながらも、罪を犯し続けながら生きていると、結局、いのちの書からその名が消されて、天国にも行けなくなります。私たちが天国の法に従って生きる時だけ、敵である悪魔・サタンに訴えられず、天国に至る時まで、神様に守られて祝福されるのです。

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4.「イエス」と「イエス・キリスト」 


ところで、ここでもう一つ覚えなければならない、重要なことがあります。それは、「イエス」という名と、「イエス・キリスト」あるいは「主イエス」という名には、大きい差があるということです。

 

1)イエス-ご自分の民をその罪から救ってくださる方 


<マタイの福音書1:21>に「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」とあります。このみことばどおり「イエス」という名前の意味は「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」、すなわち、「これから救ってくださる」という意味です。つまり、これから十字架を負って、血を注ぎ出し、私たちを救ってくださる方だと、今言われているのです。

 

2)キリスト-油そそがれた者、救い主の資格を得た人 


一方、「キリスト」とは「油そそがれた者」という意味で、「救い主の資格を得た人」を言います。ギリシャ語では「キリスト」、ヘブライ語では「メシヤ」と言います。日本語では「救い主」、あるいは短く「主」と表現します。したがって、「主イエス」あるいは「イエス・キリスト」と言うと、これは「救い主としてご自分の民をその罪からすでに救ってくださった方」という意味が含まれているのです。

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では、イエス様はいつ救い主になられたのでしょうか?十字架につけられて死なれた後、死の力を打ち砕いてよみがえられた時です。したがって、「イエス」という呼び方は、十字架を負う以前のことで、よみがえられた後は「イエス・キリスト」と言わなければなりません。それで、主がよみがえられた後は、弟子と使徒たちが祈ったり、みことばを語ったりするとき、ただ「イエス様」と言わずに、必ず「主」や「キリスト」を付け加えました。

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たとえば、<使徒の働き3:6>で、ペテロとヨハネが宮の門で生まれつき足のきかない男をいやす時も、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言いました。「イエスの名によって歩きなさい」と言ったのでなく、明らかに「イエス・キリストの名によって」と命じました。<エペソ人への手紙 5:20>にも「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」とあります。この時も「イエスの名によって」ではなく、「主イエス・キリストの名によって」感謝しなさい、と書かれています。

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3)「イエス・キリスト」あるいは「主イエス・キリスト」の御名による祈り 


これには霊的にかなり重要な意味が含まれています。私たちが正確に救いの摂理を悟って、「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言う時と、漠然と「イエス様の御名によって祈ります」と言うのとでは、その祈りの力が全く違います。自分にはできないことも、救い主になられたイエス・キリストにあってはできることを信じて、その信仰を告白して祈るので、さらに大胆で力ある祈りになります。私たちが祈って災いを退ける時も、イエス・キリストがすでに敵である魔・サタンの死の力を打ち砕かれたことを知って、勝利された主の御名で命じることになるので、敵である悪魔・サタンが恐ろしくて震えて退くようになります。これらのことを必ず覚えて、「イエス様の御名によって」でなく、「イエス・キリストの御名によって」、または「主イエス・キリストの御名によって」祈らなければなりません。

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5. 信仰は敵である悪魔・サタンの策略に打ち勝つ


1)救いの摂理が完成された後の敵である悪魔・サタンの策略 


救いの摂理は、誰も知らない奥義として、神の恵みと主の愛によって完成されました。ところが、敵である悪魔・サタンは、この奥義を悟らずにイエス様を殺した後に、むしろ自分の死の力を失ったことを知ったとき、どれほど悔しかったでしょうか?だからといって、敵である悪魔・サタンがおとなしくあきらめて、人々が救われるように放っておきません。今度は作戦を変えて、人々が救い主を受け入れないように疑いを与えて、正しい信仰生活をしないように惑わしています。それで、自分のように滅びに引きずって行こうとしているのです。

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2)信じない人々への戦略 


信じない人々には、思いに働きかけて、「創造は科学的でなくて信じられない」「死んだ人がどうやってよみがえるのか?」とか、「十字架につけられて死なれたイエス様を信じるからといって、どのように救われるのだろうか?」と疑いを吹き込むのです。しかし、<コリント人への手紙第一1:21>に「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」と書かれています。いくら敵である悪魔魔・サタンが妨げて惑わしても、神様は善良な人々が福音を聞くようにされます。それで、今日まで数多くの人々が主を受け入れて、信仰によって救われました。

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3)主を受け入れた聖徒たちへの戦略


敵である悪魔・サタンは、すでに主を受け入れた聖徒たちも惑わします。「『主よ。主よ。』と言いさえすれば、世の人々と同じように罪を犯しても救われる」と、罪を犯したい誘惑を吹き込みます。ただ信仰によってだけ、敵である悪魔・サタンの策略に勝てることを心に刻まなければなりません。
 

第2部 世界の始まる前から隠された奥義
第1章
 

なぜイエス・キリストだけが私たちの救い主であるのか

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エデンの園で蛇に惑わされたアダムとエバは、結局神のようになろうとする欲から、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。それによって、罪を犯したアダムとエバだけでなく、すべての子孫も罪人になるという人類の悲劇が始まったのです。 

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1.敵である悪魔に任されていたアダムの権力と栄光 

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<ルカの福音書 4:5-6>を見れば、悪魔が四十日断食なさったイエスを試みるとき、またたくまに世界の国々を全部見せて、「この、国々のいっさいの力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」と言っています。これは、誰かが持っていたいっさいの権力が敵である悪魔に任せれたので、悪魔も思いどおり誰かに渡せるということを意味します。それでは、世界の国々を治めるいっさいの権力と栄光が、どのようにして敵である悪魔に任されたのでしょうか?

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<創世記 1:28>に「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。 『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」と書かれています。このように最初の人アダムは、もともと神から万物を支配して従わせる権力を受けて、万物の霊長として生きていたのです。ところが、サタンに操られた蛇に惑わされて、神が禁じられた善悪の知識の木の実を取って食べ、不従順の罪を犯した後からは、状況が全くかわってしまいました。

 

<ローマ人への手紙6:16>に「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」とあるので、私たちが罪に服従すれば、罪の奴隷となって死の道を行き、義に服従すれば、義の奴隷となり、天国に行くのです。

 

したがって、不従順の罪を犯して、罪の奴隷となって死に至るようになった最初の人アダムは、神から受けたいっさいの権力と栄光を敵である悪魔に奪われるしかありませんでした。奴隷のものが主人のものになるのは当然だからです。このように、アダムひとりの不従順のゆえに全人類が堕落するという途方もない結果を招きました。また、アダムの子孫はみな、あらゆる試練と患難をもたらす敵である悪魔の奴隷になって、死の道に向かうようになりました。 

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2.土地の買戻しの法

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福音を伝えれば、世の人々は「なぜイエス キリストを信じなければ救われないのか?」「世の中には多くの偉人がいて、多くの宗教があるのに、なぜイエス・キリストだけが唯一の救い主で、なぜキリスト教にだけ救いがあるのか?」という質問をしばしばします。イエス様は<ヨハネの福音書14:6>で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。

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また、<使徒の働き 4:12>にも「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」とあります。イエス以外には世のどんな人も人類の救い主になれないし、イエス様を救い主として受け入れなくては、誰も救われないのです。

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1)すべてのことは霊の世界の法則による 

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それなら、なぜイエス様だけが私たちの唯一の救い主なのでしょうか?それは、霊の世界の法則によるからです。この世にも法があるように、霊の世界にも法則があります。人が死の道を歩むのも、罪が赦されて救われるのも、みなこの霊の世界の法則によるのです。アダムが罪を犯した後、人類が死に向かうようになったのも「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則によったからでした。罪を犯して敵である悪魔・サタンの奴隷になったのも、「人が誰かに奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷である」という霊の世界の法則に従ったからでした。同じように、人が死という刑罰から解放されて救われるのも、霊の世界の法則に従わなければなりません。

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2)土地の買戻しの法とは? 

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死に至るようになったすべての人の罪を贖い、敵である悪魔に任されていたいっさいの力と栄光が取り戻せる霊の世界の法則が、まさに土地の買戻しに関する法です。神はこの法則に従って、隠された奥義として世界の始まる前に、人間の救いの道を備えておかれました。

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<レビ記 25:23-25>を見れば「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」と書かれています。つまり、土地はみな神のものであるから、買戻しの権利を放棄して売ってはならず、貧しくなって土地を売ったとしても、親類や本人が買い戻せるようにすることが土地の買戻しの法です。 

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神の選民であるイスラエルの民は、このような神の法を守り、他の国の土地法とは違って、土地を売買する時に永久に売ることができないように、土地売買契約書を作成します。どんな経路で売買するのかという契約過程と、後で返してもらえるように、土地の買戻しの内容を詳細に書いた契約書を2部作成した後、買う人と売る人の印鑑を押して証人を立てます。その後、契約書の1部は、規定どおり封印して聖殿の倉に保管し、もう1部は、封印しないで聖殿の入口に広げておきます。それで、いつでも親類が来て、代わりに土地を買い戻せるようにしておきます。また、親類の中に買い戻せる人がいなければ、本人が豊かになって買い戻す力ができたとき、その土地を買い戻せるようにしたのです。

 

一般に世では、土地の持ち主が一度売ったら、その後は買った人の心にかかっています。買った人がお金を受け取って返してくれれば幸いですが、お金をあげても売ろうとしなければ、どうすることもできません。お金をもっとたくさんあげるから売ってくれと言っても、売るつもりがなければどうすることもできないのです。ところが、イスラエルの法では、土地を買った人が売りたくなくても、売った人の親類が来て代金を支払えば、必ずその土地を返さなければならないのです。

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3)それなら、土地の買戻しの法と人類の救いとには、どんな関係があるでしょうか?

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土地の買戻しの法に、罪人になった人類が救われる道が示されている、とはどんな意味でしょうか?それは、神の所有である土地を売り買いする法は、もともと土で造られた人にも直接関わる法だからです。

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<創世記 3:19>には「あなたは、額に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と仰せられた神のみことばがあります。そして、<創世記 3:23>には「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」とあります。また、<マタイ13章>や<ルカ8章>を見ると、イエスは人の心を畑、すなわち、土にたとえて説明しておられます。

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神はみことばに聞き従わなかったアダムに「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と言われました。これにより、「土」の霊的な意味は、土で造られた「人」であること、人は土から取り出されたので、結局土へ帰ることを教えてくださいました。このように、土地のちりで造られた人が敵である悪魔の手に渡されて、再び神に取り戻される霊の世界の法則は、売った土地を再び買い戻す法に、直接関わっているのです。

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(ア)土地の買戻しの法によれば、すべての土地は神の所有であるから、人が永遠に売ることができません(レビ

25:23-25)。

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(イ)これは霊的に、土で造られた人はみな神に属しているために、永遠に売れないということを意味します。

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(ウ)また、アダムが神から受けた権力も、本来神の所有であるから、人が永遠に売ることができないのです。土

地を買い戻すにふさわしい資格を備えた人が現れれば、土地を返さなければならないように、敵である悪魔に任されていた権力を取り戻すにふさわしい資格を備えた人が現れれば、敵である悪魔はいっさいの権力を再び返さなければならないのです。


4)土地の買戻しの法に完璧に基づいた救い主 

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公義の神はこのような土地の買戻しの法に基づき、アダムが敵である悪魔に奪われたいっさいの権威を取り戻せる資格を持った、ひとりの人を備えておられました。これがまさに人間の救いの道です。救いの道を開くために必要なのは、罪の報酬として売られたアダムのいのちを贖うにふさわしい資格を備えた人です。その人がすなわち、人類の救い主になるのです。

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まことの子どもを得ようと人間耕作を計画された神は、すでにアダムを贖うことのできる救い主についても、計画を立てておかれました。アダムが善悪の知識の木の実を取って食べることもご存じであって、救い主としてふさわしい人が必要なこともご存じだったので、その条件にかなう人を備えておかれたのです。その方がまさに、イエス・キリストです。

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3救い主の条件にふさわしいイエス・キリスト 

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どんな契約でも互いに守るべき条件があるように、土地の買戻しの法に従って、敵である悪魔に任されていたアダムの権威を取り戻すためには、罪を贖うことのできる条件を備えなければなりません。すべての人は不従順の罪を犯したアダムの子孫なので、自分の力では罪の問題 を解決することができません。ただ罪を贖うことのできる資格を備えた人がいてこそ、すべての罪の問題を解決してくれるのです。それでは、土地の買戻しの法に従って、罪の問題を解決する条件とは具体的に何で、なぜイエス・キリストだけがふさわしい資格を備えたと言えるのでしょうか?

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1)一番目に、アダムの親類である「人」でなければならない

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<レビ記 25:25>に「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったな ら、買い しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。」とありました。土地の買戻しの法によれば、お金がなくて土地を売るよ うになっても、親類が代わりに買い戻してくれるのです。したがって、敵である悪魔に任されていた権威を取り戻すための一番目の条件は、アダムの親類である「人」でなければならない、ということです。

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<コリント人への手紙第一15:21-22>にも「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」と書かれています。これについては、使徒ヨハネが記した<ヨハネの 示 5:1-5>にも書かれています。 

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「また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、『巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。』と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。

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巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に 言った。『泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。』」

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 ここで「七つの封印で封じられた巻き物」とは、アダムが神に聞き従わず罪人になって、神 と悪魔との間に交わされた契約書の束のことです。ところが、 この巻き物を開いて、その七つの封印を解くのにふさわしい人を探しても、天にも、地にも、また、地の下にもいなかったということです。

 

まさに土地の買 しの法にふさわしい資格を備えた人でなければならないのに、天には天使がいるけれど、人ではなく、地の上を見ると、すべての人がアダムの子孫なので罪人にすぎず、地の下のよみには、地獄に行く罪人と悪魔に属するも のしかいないからです。

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このために使徒ヨハネが激しく泣いたので、長老のひとりが「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」と言います。「ダビデの根」とは ユダヤ部族からダビデの子孫として来られたイエス を意味します(使徒 13:22-23)。すなわち、イエス が救い主の条件にふさわしい人だということです。 

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ある人は「神 が神だから、神の御子であるイエス も神ではないか? どう して神が人の親類になれるのだろうか?」と思うかもしれません。しかし、<ヨハネ福音書1:1>に「ことばは神であった。」とあり、14 節には「ことばは人となっ て、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。」と書かれています。

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このように、ことばである神 が、私たちのような人となってこの地上に来ら れた方がイエス 様です。イエス様 は神の御子として神性と人性をともに持たれた 方です。しかし、私たちのような肉と骨があるからだを持ってこの地上に生まれ、 成長の過程を経 られました。 

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イエス の誕生を基点として世界史が紀元前(B.C.)と紀元後(A.D.)に分けられ ていることだけ見ても、イエス 様がからだを持ってこの地上に来られたことは、 歴史的に明らかな事実です。したがって、神の御子として人となってこの地上に 来られたイエス 様は、アダムの親類、すなわち、「人でなければならない」という 救い主の条件にふさわしい資格を備えられた方です。

 

2)二番目に、アダムの子孫であってはならない 

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兄弟の借金を返そうとするなら、まず自分に借金があってはならないように、 ほかの人の罪を贖おうとするなら、本人に罪があってはなりません。ところが、アダムの不従順により、アダムの子孫はみな罪人になったので、いくら飛び 抜けた人格を備えた聖人であっても、ほかの人の罪を代わりに負ってあげられないの です。

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 それなら、イエス は救い主の条件の二番目の条件にふさわしい資格を備えた 方でしょうか? <マタイ福音書1:18-21> てには、イエス の誕生の過程につい て記されていますが、決して男女が結ばれて宿ったのでなく、聖霊 によって宿ら れた方だということを強調しています。 

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「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と 決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖 によって身重に なったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはし たくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしてい たとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなた の妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖 によるのです。マリヤ は男の子を みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を その罪から救ってくださる方です。』」

 

このように、イエス は肉的にはダビデの子孫ですが、マリヤがヨセフとまだ いっしょにならないうちに、聖霊 によって宿られた方ですから、どんな罪の性質もありえません。しかし、不従順の罪を犯したアダムの子孫は男女が結ばれて宿 りますから、気質を通じて罪の性質を受け継 いで生まれます。これを「原罪」と 言いました。このような原罪がある限り、決してすべての人類の罪を贖うことは できません。それで、イエス は人となってこの地上に来られた時に、おとめマ リヤのからだを借りて、聖 霊によって宿られたのです。

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3)三番目に、敵である悪魔に勝てる力がなければならない 

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<レビ記 25:26-27>を見れば、「その者に買い戻 しの 利のある親類がいないと きは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い す余裕ができたなら、売っ てからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に 帰る。」と書 かれています。これは売った土地を買い 戻すなら、それほどの力がなければなら ないという意味です。

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 ほかの人の借金を返してあげたいといくら切実に思っても、自分にそれほどの 財力がなければ、何の役にも立ちません。このように、罪を贖うためには、罪を 犯した人を取り戻 す力がなければなりません。霊 の世界では、罪がないことが力 です。 したがって、敵である悪 魔に奪われたアダムの 権力を取り 戻すためには、罪が あってはならないのです。罪がなくてこそ、敵である悪 魔を支配する 権力が与え られるからです。

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 それなら、はたしてイエス には少しも罪がなかったでしょうか? イエス は聖霊 によって宿られたので、人の気質を通じて受け継 いだ原罪がありませんで した。また、幼い時から律法を完全に守られたし、愛で律法を全うされた完全な 方です。生後八日目に割礼を受けて(ルカ 2:21)、公生涯に入る前の 30 歳になる まで両親を敬い、33 歳で十字架につけられて死なれるまで、何の罪も犯さず、た だ神 のみこころに従われました。 

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<ペテロの手紙第一 2:22-24>「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何 の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめら れても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして 自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが 罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 

<ヘブル人への手紙 7:26> 「また、このようにきよく、 罪も汚れもなく、罪人か ら離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方 です。」

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 このようにイエス は全く罪がなかったので、敵である悪 魔に勝てたし、人類 を救い出す力を持っておられました。イエス が現された数多くの御力のわざが、 このような事実を証ししています。イエス は 悪霊を追い出し、目が見えない、 耳が聞こえない、歩 けないなど、人の力ではどうすることもできないわずらいで も、みことばで完全に癒されました。はなはだしきは風をしかりつけ、湖に「黙れ、 静まれ。」と言われると、風はやみ、大なぎになるみわざが現れたのです(マルコ 4:39)。

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4)四番目に、命までも与えられる愛がなければならない 

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たとえ土地を買い 戻せる力がある親類がいるとしても、その人に愛がなければ、 土地を取り戻すことができません。このように、罪の問題を完全に解決するため には、自分を完全に犠牲にできる愛がなければなりません。<ルツ記 4:1-6> を見れば、ボアズが貧しかったナオミのことを知って、最も近 い親類に土地の買 戻しを勧める場面が出て来ます。

 

しかし、土地を買い 戻す者が 「私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わっ て買い 戻してください。私は買い すことができませんから。」と答えます。この ように、最も近い親類が土地を買い戻 せる力があるとしても、愛がなければ買い 戻せないのです。結局、ナオミの次の親類ボアズが土地を買い戻 せる力があって、 愛があったので、彼の代わりをしました。 

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このように、ボアズは土地を買い 戻せる愛があったので、合法的に土地を買い 戻す者となりました。そして、ルツと結婚して、彼女との間に生まれた息子がダ ビデの先祖になるという、途方もない祝福を受けました。ボアズはダビデ王の曽 祖父として、イエス 様の系図 に載せられるようになったのです。イエス は人となってこの地上に来られ、聖 霊によって宿られたので、アダム の子孫ではないし、罪が全くないので、罪を贖う 霊的な力を持っておられました。 このような三つの条件を完全に備えたとしても、仮に霊 的な愛がなかったとすれば、人類の罪を贖うことができなかったでしょう。なぜなら、人類の罪を贖うと いうことは、罪人になった人類が受けなければならない死の刑罰を代わりに受け ることを意味するからです。 

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全く罪がない身でありながら、この世で最も凶 悪な罪人のように木の十字架に かけられ、あらゆるあざけりとさげすみを受け、水と血をすべて注ぎ出して代わ りに死ななければならないという、途方もない犠牲が伴うのです。 何の罪もない王の息子が、無知で 悪い民の代わりに死んだということは、歴史 上、例がありません。まして、この地上の王とは比べることもできない、全知全 能で天下万物を治められる神のひとり子イエス 様が、罪人になった人類の代わり に木の十字架にかけられ、血を注ぎ出して死んでくださったのですから、その愛 をどうして言葉ですべて表現できるでしょうか。 

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しかもイエス 様は、この地上におられる間、ただ善だけ行なわれた方です。罪 人を赦してくださっただけでなく、さまざまな病気にかかった者をいやしてくだ さり、悪 のきずなを解いて、平和と喜びと愛を下さり、天国の望みと救いを与え てくださいました。

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 したがって、<ローマ人への手紙5:7-8>に「正しい人のためにでも死ぬ人はほ とんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょ う。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでく ださったことにより、神は私たちに 対するご自身の愛を明らかにしておられま す。」とあるのです。神 は義人でもなく、善人でもない罪人たちのために、ひと り子イエス様 を十字架に渡してくださることにより、私たちを愛するという証 を確かに現されたのです。

第4章

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自由意志で不従順になったアダム​​​

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4. なぜ神様は善悪の知識の木を置かれたのか? 
 
アダムが罪を犯したことと、その結果について聞いた人は、一つ疑問を持つようになります。「神様は善悪の知識の木をなぜお造りになったのだろうか?」「初めから神様が善悪の知識の木を置かれなかったら、アダムが取って食べなかったのではないか? それなら罪を犯さなかったし、死の刑罰にあわなくてもすんだのに。」しかし、神様は明らかにアダムが善悪の知識の木の実を取って食べることをご存じでした。そして、アダムをとても愛しておられたのに、善悪の知識の木の実を置かれたのです。その理由は何でしょうか? 結論から言えば、善悪の知識の木の実を置かれたのは、アダムにまことの幸せを与えるためでした。

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1)まことの幸せが悟れなかったアダム 


アダムが住んでいたエデンの園は、とても美しくて平安で、どんな乏しいこともない所でした。このような所で暮らしていたアダムは、とても幸せだったはずです。ところが、そうではなかったのです。アダムは幸せではなかったのです。もう少し正確に言えば、アダムは幸せというものが感じられなかったのです。つまり、幸せというものを知らなかったのです。

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2)まことの幸せは相対性を体験して 

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なぜなら、アダムは幸せの反対になる不幸を体験したことがなかったからです。エデンの園で暮らしていた時のアダムは、病気や死、事故などを体験したことが一度もなくて、それによって悲しみや苦しみにあったこともありませんでした。もちろん、不幸がどのようなことかを説明すれば、頭で理解することはできます。しかし、不幸を直接経験しなかったら、不幸というものがどれほどつらいことなのか、心から悟ることができません。人があるもののまことの価値を知るためには、それと反対になるものを体験して、相対性を悟らなければなりません。

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仮に、私たちが生まれてから今まで病気にかかったことが一度もない、としてみましょう。そうすると、病気による苦しみや悲しみがどんなことなのか、いくら説明を聞いても、心からは感じられません。ほかの人が病気にかかって苦しんでいるのを見ると、少しは感じますが、病気にかかった人の苦しみをそのまま感じることはできません。こういう人は、自分の健康についても、その分感謝が少ないのです。

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しかし、健康だった人が病気にかかって苦しむと、健康の重要性を心から悟って感謝するようになります。すべて同じです。飢えで苦しんだ人でこそ、豊かな食べ物を見て心から感謝できます。悪があってこそ善がどれほど良いものなのかを知り、闇があってこそ光がどれほど大切なのかがわかります。貧しさがなければ富に感謝することがないし、憎しみがなければ愛が良いものなのかもわかりません。

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不幸が全くないエデンの園に住んでいたアダムは、自分の幸せが悟れなかったのです。死を見たことがないので、「善悪の知識の木から、取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われても、そのみことばの意味を心から悟ることはできませんでした。神様はアダムをとても愛して、彼にすべてのものを与えてくださったのですが、アダムはまことに心の底から感謝できなかったのです。

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3)世で苦しみを味わって幸せを悟ったアダム 

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しかし、善悪の知識の木の実を取って食べて、エデンの園から追い出された後は、すべての状況が変わりました。アダムは呪われた世で生きていきながら、前は知らなかったいろいろな苦しみを味わうようになりました。飢えと疲れ、寒さと暑さ、死、別れ、そして、罪と悪による悲しみや苦しみを経験しながら、アダムはエデンの園に住んでいた時がどれほど幸せだったのかを悟るようになりました。

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4)親の心で人間を耕作される神様 

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もし人がまことの幸せと不幸が何かも知らないまま永遠に生きていくなら、どんな意味があるでしょうか? たとえつかの間苦労をしても、後で「これがまさに幸せなんだなあ」と感じられるなら、それこそ価値ある幸いな人生です。子どもたちが勉強が大変だからと学校にやらないで、思いのまま遊ばせる親がどこにいるでしょうか? 本当に子どもを愛するなら、たとえつらくて疲れても、より良い明日のために、学んで経験を積むように助けるでしょう。この地上に人間を置いて耕作される神様の心も、まさにこのような親の心と同じです。

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それで、神様は善悪の知識の木を置いて、アダムが自由意志により善悪の知識の木の実を食べても放っておかれたのです。そして、人間耕作を受けて、この地上ですべての喜怒哀楽を経験するように、摂理のうちに計画されました。相対性を体験して、まことの愛と喜び、感謝が何かを悟ったとき、愛そのもの、真理そのものであられる神様を心から愛して、恐れ尊ぶことができるからです。

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5) 神の子どもたちは天国で永遠にまことの幸せを味わう 

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この地上で人間耕作を受けてまことの幸せを悟った人が、永遠の天国に至るとき、その喜びと感激は口で言えないでしょう。この地上では、人は朽ちて死ぬしかないけれど、永遠の国、天国に行けば、死や別れもなく、苦しみも朽ちることもありません。また、この地上では黄金や宝石が貴重だと思いますが、天国では道が全部純金で、家もとても美しく尊い宝石で建てられています。

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使徒パウロは神様の摂理のうちに第三の天を見たので、喜びと感謝をもって異邦人の使徒になり、苦しみの道を歩んだのです。この地上で福音を伝えて、むちで打たれて血を流すことも、牢に入れられることも、神様が報いてくださるのですから、むしろ祝福の道でした。このように、神様を信じる人々の希望はこの地上にあるのではなく、ただ天国にあります。この地上の人生はつかの間ですが、天国は永遠の国です。涙、悲しみ、苦しみ、病気、死がない幸せな国なので、この地上でも、報いを望みながらいつも喜んで生きていけるのです。

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もし、エデンの園でまことの愛と幸せを知らないまま永遠に生きることと、相対性を知って人間耕作を受けた後、永遠の天国に入ってまことの幸せを味わうことのうち、一つを選べと言われれば、どちらを選ぶでしょうか? まことに神様が善悪の知識の木の実を置かれた愛と摂理を悟ったとすれば、しばらくの間、涙、悲しみ、苦しみ、死を体験しても、この地上で人間耕作を受けて永遠の天国に入るほうを選ぶでしょう。
 

第4章


自由意志で不従順になったアダム

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3. アダムの不従順の結果-罪から来る報酬は死 


神様が禁じられた善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは、神様のみことばどおり必ず死ぬようになりました。<創世記2:17>で「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われたとおりになったのです。<ヤコブの手紙 1:15>に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」と書かれています。また、<ローマ人への手紙 6:23>を見れば「罪から来る報酬は死」という霊の世界の法則が出て来ます。それなら、はたして死が、不従順の罪を犯したアダムとエバにどのように臨んだのでしょうか?

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1)霊が死ぬと神様との交わりが途絶える 

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神様は明らかに「必ず死ぬ。」と言われましたが、聖書を見れば、アダムとエバは不従順になった後、すぐに死んだのではなく、永い歳月を生きて子どもを生んだことがわかります。それでは、神様が言われる「死」とは、はたして何を意味するのでしょうか?ここで「死」とは、単に呼吸が絶える肉体の死でなく、霊の死を意味します。もともと人は霊の生きた者として、神様と交わりができる「霊」と、霊の支配を受ける「魂」、そして、霊と魂を入れる「からだ」で創造されましたが(第一テサロニケ 5:23)、神様の命令を破ると、人の主人である霊が死ぬようになったのです。

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神様は全く罪がおありにならないし、ただ光の中におられる聖なる方ですから、罪人は神様とともにいることができません。したがって、霊の生きた者だった時は、霊である神様と交わりができましたが、罪によって霊が死ぬと、神様との交わりが途絶えてしまったのです。人の霊は神様と交わりながら、神様からいのちを与えられてこそ生きるのですが、アダムが罪を犯して罪人になった後は、それ以上聖なる神様と交わることができなくなりました。

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ですから、神様との交わりが途絶えてしまった人を、敵である悪魔・サタンは自分のものにして、罪を犯すようにさせて、ついには地獄へ引いて行くようになったのです。人のからだは死んだら朽ちてなくなりますが、人の霊と魂は消滅しないので、結局、地獄に入り、永遠の刑罰を受けるのです。このようにアダムと神様との間に交わりが途絶えたことを「アダムの霊が死んだ」と言うのです。

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2)エデンの園から追い出されて、労苦と死が避けられない人生になる 

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そうしてアダムとエバは、とても美しくて豊かなだけでなく、いのちの木の実があって思う存分食べて、心配や憂いや苦しみもなく永遠に生きられるエデンの園から追い出されるようになりました。この時から人間耕作が始まり、労苦と死が避けられない人生になります。

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 女に臨んだ呪い 

<創世記 3:16>に「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」とあるとおり、この時から人類の苦しみが始まりました。女はみごもりの苦しみが大いに増し、苦しんで子を産まなければならなくなり、夫を恋い慕うが、彼に支配されるようになりました。

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 男に臨んだ呪い 
男は呪われた土地で、一生苦しんでようやく食を得られるようになって、結局はひと握りの土へ帰る人生になってしまいました。
<創世記 3:17-19>に「また、アダムに仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」とあるとおりです。

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 人だけでなく万物も呪われる 
このように万物の霊長である人が罪を犯して呪われると、人が治めていた土地だけでなく、すべての家畜と野の獣も、ともに呪われるようになりました。それで、ハエや蚊のように病気をもたらす害虫が生じるようになったし、土地からはあざみといばらが出て来て、人が汗を流して畑を耕してようやく糧を得るようになりました。
<ローマ人への手紙 8:20-22>に「それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあるとおりです。

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3)すべてのアダムの子孫は罪人として生まれ、死の道に向かう 

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それだけではなく、最初の人アダムが不従順の罪を犯すと、アダムの血を受け継いだすべての人も罪人として生まれ、罪の報酬である死の道に向かうようになりました。<ローマ人への手紙 5:12>の「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」のみことばどおりです。

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すべての人は原罪を持って生まれる 
神様は人を創造されたとき、いのちの種を与えて、生んでふえるようにされました。それで、人はいのちの種である精子と卵子が結びついて生まれますが、精子や卵子の中には親の気質が入っていて、親の顔つきや性分はもちろん、好み、習慣、食の好み、はなはだしきは歩き方まで似たりします。

このように親の気質を受け継いですべてが似るように、人間の先祖アダムが罪を犯した後、彼の罪の性質は子孫に自然に遺伝したのです。これを「原罪」と言います。不従順になったアダムの血を受け継いだすべての人は原罪を持って生まれるのです。

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原罪の証拠 
真理をよく知らない人は、「えっ、私がなぜ罪人ですか? 私は何の罪も犯さなかったんですが」と反問するかもしれません。または「アダムが犯した罪がどうして私の罪になるんですか?」という疑問が起こるかもしれません。理解を助けるために、まだ 1 歳にもなっていない子どものことを考えてみましょう。もし、自分のお母さんがほかの子にお乳を飲ませているのを見たとすれば、どうするでしょうか? ほとんどの子は自分のお母さんのお乳を飲んでいるほかの子を押しのけようとします。それでもお母さんがお乳を飲ませるのをやめなければ、その子を叩いたり、お母さんを叩いたりするのが見られます。それでもお母さんが知らないふりをすれば「ワーン!」と泣いてしまいます。このように、親が子にそねみや嫉妬、憎しみと欲を教えていなくても、すでに心の中に罪の性質が宿っていることが見られます。それで、人は生まれた時から親から受け継いだ原罪がある、ということを悟らなければなりません。

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自ら犯した罪 
また、この世を生きていきながら自ら犯した罪がどれほど多くあるでしょうか? 光であられる神様の前では、ただ行ないに現れる不法だけでなく、憎しみ、さばき、欲など、心にいだいた悪さえも暗やみであり、罪です(マタイ 5:28)。したがって、聖書には、律法を行なうことによっては、誰ひとり神の前に義と認められないし、すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない、と書かれているのです(ローマ 3:20,23)。

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4)一生、ちりを食べなければならない 

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それでは、サタンに操られてエバを惑わした蛇は、どんな呪いを受けたでしょうか?<創世記 3:14>に「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」と書かれています。「おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とありますが、実際に蛇はちりを食べるのでなく、鳥や昆虫、カエルやネズミを食べます。

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ここで「ちり」とは、霊的に土地のちりで創造された私たち人のことを言い(創世記 2:7)、「蛇」とは敵である悪魔・サタンを意味します(黙示録 20:2)。ですから、神様が蛇に「ちりを食べなければならない。」と言われたのは、暗やみの中にとどまる人々が敵である悪魔・サタンの餌食になる、ということです。

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ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めている 

したがって、たとえ神の子どもといっても、悪を行なって罪を犯せば、敵である悪魔・サタンが働くので(第一ペテロ 5:8)、試練や患難がやって来るのが見られます。また、「神様を信じている」と言いながらも、神様のみことばを確かに信じられない人々を惑わし、死の道に導きます。まるでサタンがエバを惑わしたとき、親しかった蛇を使って働いたように、妻や夫、友だちなどの周りの人々を通して働きます。

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たとえば「主日大礼拝だけでいいのに、どうして夕方礼拝までささげるの?」「どうしてそんなによく集まるの?」「神様は心の中までみんなご存じなのに、何であんなに声を出して祈るの?」と言って惑わすのです。しかし、神様は、安息日を覚えて聖なる日とせよ(出エジプト 20:8)、集まることに努めて(ヘブル 10:25)、わたしを呼べ(エレミヤ 33:3)と言われました。このような神様のみことばが心に完全に臨んでいる人ならば、サタンが惑わすこともできないだけでなく、いくら惑わしても倒れません(マタイ 7:24-25)。

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第4章


自由意志で不従順になったアダム

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1.善悪の知識の木からは取って食べてはならないと命じられた神様 

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神様は、豊かなエデンの園で思いきり神様の子どもとしての権勢を味わって生きていけるように、最初の人アダムに自由意志を下さいましたが、ただ一つ禁じられたものがありました。それは、善悪の知識の木から取って食べてはならないと命じられたことでした。

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<創世記 2:15-17>「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」

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まことに神様を愛して信頼するなら、仮に善悪の知識の木の実を食べたい心があっても、神様の命令なので食べないでしょう。反対に、神様を愛さないならば、結局は命令が守れないという結果を生みます。したがって、神様はエデンの園の中央に善悪の知識の木を置いて、創造主である神様と被造物である人との間に秩序を立てられましたが、同時に自由意志も下さったのです。これは、心の底から聞き従う子どもを得るためでした。

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2.聞き従わなかったアダム 


愛の神様は最初の人アダムに、神様のみことばに聞き従えば永遠のいのちと幸を得て、反対に、聞き従わなければ死に至ることを知らせて、善悪の知識の木の実を食べないように、細かく教えてくださいました。しかし、永い歳月が流れていくうちに、アダムとエバは神様のみことばをないがしろにするようになり、結局、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。神様に立ち向かおうと虎視耽々、機会をうかがっていたサタンが、野の獣のうちで一番狡猾だった蛇を操ってエバを惑わすと、結局アダムも神様のみことばに聞き従わなくなったのです。(創世記 3:1-6)

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1)どのようにしてアダムは神様の命令に聞き従わなくなったか? 

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(ア) エデンの園を耕して、そこを守る権威を受けたアダム 


<創世記 2:15>を見れば、神様はアダムにエデンの園を耕して、そこを守るようにされました。これは敵である悪魔・サタンの侵入を防ぐためです。<創世記 2:15>「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」

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(イ) サタンが蛇を操ってアダムとエバを誘惑 


それにもかかわらず、どのようにしてサタンがエデンの園にいる蛇を操ることができたでのしょうか?

サタンは実質的な形がある存在でなく、空中の権威を持って支配している悪い霊のことです。したがって、サタンはまるで空中に飛び交っている電波のようなものなので、エデンの園にいる蛇の思いに働きかけて、人を惑わすことができたのです。<創世記 1 章>を読むと、神様の創造の過程で一つ特異な点が発見できるでしょう。毎日新しいものを創造された後に、必ず「神は見て、それをよしとされた。」と記されているのに、唯一大空を創造された第二日だけは、そのようなことばがありません。これにはとても重要な理由があります。<エペソ人への手紙 2:2>に「空中の権威を持つ支配者」すなわち「今も不従順の子らの中に働いている霊」が出て来ますが、このように悪い霊どもが将来、大空で空中の権威を持って支配することを予知されたからです。

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(ウ) 蛇がどのようにエバを惑わしたか? 

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エバと非常に親しかった蛇 


家族や親しい友人、あるいは愛する人が神様の戒めを破るように惑わすと、人はもっと簡単に真理から抜け出てしまうものです。敵である悪魔・サタンがエバを惑わす時も、ふだんからエバと親しかった蛇を利用しました。サタンが単なる野の獣にすぎない蛇を使ってエバを惑わすことができたのは、エデンの園では人が花や木、動物など、すべての生物と話ができたからです。その当時、蛇は今日とは違って、人に愛されて親しかったのです。すべすべしていてきれいだし、長くて丸い上にさとくて(マタイ 10:16)、エバの心がよくわかって楽しませたので、いつもエバの近くにいてかわいがられたのです。今日、犬がほかの動物より人の言うことをよく聞いて利口なので、主人から愛されるのと同じことです。

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ところで、今日はほとんどの人が「蛇は考えただけでも気味が悪くて、鳥肌が立つんですが」と言って嫌います。それは、蛇が人間の先祖エバを誘って、滅びの道に向かわせた張本人なので、本能的に嫌うからです。私たちが蛇の狡猾な属性を理解するためには、もともと持っている土質について知らなければなりません。どの土もそれぞれ成分が違います。成分自体は時間が経っても変わりませんが、どんな物質が加えられるかによって土の質が変わり、荒くて悪い土になったり、やわらかくて良い土になったりするのです。

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<創世記 2:19>を見れば、神様が土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとありますが、それぞれ野の獣にふさわしい土を選んで創造されたのです。かといって、蛇の場合、初めから神様が狡猾に造られたのではありません。人から愛されるほどさとく造られましたが、蛇の土質にサタンの悪い成分が入ったので、狡猾な動物になったのです。したがって、もし蛇がサタンの声を聞かないで、ただ神様のみこころにだけ従って行なったとすれば、さとくて良い動物になったのに、サタンの声に従っていったので、結局人を惑わし、死に導く狡猾な動物になったのです。

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神様のみことばを心に留められなかったエバ 


サタンに操られた狡猾な蛇は、神様がアダムに善悪の知識の木の実だけは取ってはならないと命じられたことを知っていました。それで、エバに「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と尋ねたのです。この時、エバは「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」と答えました。(創世記 3:1-3)

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神様は明らかに「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。(創世記 2:17)それなのにエバは「『死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と、神様のみことばを変えて答えたのです。これは、神様のみことばを心に留めることができないという証拠であり、明らかに信じられないという疑いの表現です。

ですから、不確かな答えを聞いた蛇は、さらに積極的にエバを惑わしたのです。<創世記 3:4-5>を見れば、「あなたがたは決して死にません。」とまで言って、神様のみことばを完全に否定するだけでなく、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言って、再度惑わしたことがわかります。

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肉の欲と目の欲、暮らし向きの自慢が入り込む 


このようにサタンがエバの思いに欲を吹き込むと、善悪の知識の木が以前と違って見えました。<創世記 3:6>に記されているとおり、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったので、エバはた夫にも与え、彼も食べてしまいました。サタンの働きを受けている蛇の誘惑を、神様のみことばではね除けられないから、結局、肉の欲と目の欲、暮らし向きの自慢が入り込み、神様のみことばに聞き従わなくなったのです。

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ある人は「人に悪があったので、善悪の知識の木の実を食べたのではないか?」と言います。しかし、アダムが不従順になる前は、全く悪がなくて、ただ善だけがありました。ただし、自ら選択できる自由意志によって、善悪の知識の木の実を食べることも、食べないこともできたのです。
ところが、永い歳月が流れるうちに神様のみことばを心に留めていられなくて、サタンが蛇を使って惑わすと、神様が立てられた秩序に不従順になり、悪が入って来たのです。

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これは、子どもが悪に染まっていく過程を見れば、簡単に理解できます。言葉と行動が乱暴な子どもがいるとすると、これは初めから悪いからそうなったのではありません。初めは、ほかの人の乱暴な言葉や悪口を聞いて、どんな意味かも知らないまままねしたり、誰かが人を叩くのを見て、自分もまねして叩いてみたりするようになったでしょう。ところが、相手が泣く姿を見るたびにおもしろくなって、これが一度、二度と続くと、悪が芽生えて育ったということです。同じように、霊が生きた者として創造された人に初めから悪があっのではなく、自由意志で善悪の知識の木の実を食べたので悪が入ったのであり、その時、初めて罪が芽生えたのです。

第3章


エデンの園でのアダムとエバ

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1.    エデンに園を設けて、アダムを導かれる


<創世記 2:8>「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」


<創世記 2:15-17>「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」

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2. アダムを教えられた神様 


最初にアダムが造られたとき、アダムの姿は成長したおとなのかたちでしたが、知識の点では、まるで生まれたばかりの赤ちゃんのようでした。これは、たった今生まれたばかりの赤ちゃんを考えれば簡単に理解できます。赤ちゃんには知識や知恵がありません。神様が脳細胞の中に記憶装置を下さいましたが、まだ見て聞いて教えられたものがない無の状態ですから、本能的なこと以外には何もできません。

同じように、アダムが初めて霊の生きた者として造られた時は、たった今生まれたばかりの赤ちゃんのように、何も入力されていない無の状態だったので、霊の知識や知恵がなかったのです。

 

まるで、新しく買ってきた高性能のコンピュータの中に、まだどんなデータも入力していないようなものです。こういう状態から、アダムはだんだんと神様からいろいろな知識を学んでいきました。神様について、霊の世界について、真理と善と光について、多くの霊の知識を学んで、万物を治められる知識なども学びました。こうして多くの知識を学んだアダムは、ついに万物の霊長として、すべてのものを従えて支配する資格を備えるようになりました。

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<創世記 2:19>には「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。」と書かれています。今日、いくら優れた鳥類学者でも、地球上のすべての鳥の形と特性全部は知らないでしょう。ところが、アダムは鳥だけでなく、あらゆる野の獣まで、彼らの特性と生態を知って、それぞれに最もふさわしい名をつけました。アダムは万物の霊長として、すべてのものが治められる資格を備えていたのです。

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3. 生んでふえたアダムとエバ


神様は、このようなアダムがひとりでいるのは良くないと思われて、アダムのあばら骨一つを取り、助け手として女であるエバを造られ、その後、一体となるようにされました。これは、アダムが自分でさびしいと感じたのでなく、永い歳月、おひとりでおられた神様がアダムのことを考えて施された愛であり、生んで、ふえて、地を満たすように祝福されたのです。

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<創世記 2:20-25>に「こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」と書かれています。

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また、<創世記 1:28>には「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」とあります。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と仰せられたとおり、彼らは多くの子どもたちを生んでいきました。アダムとエバがエデンの園で生きながら子どもを生んだということは、聖書でも明らかに確認できます。

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<創世記 3:16 前半節>に、罪を犯して、エデンの園から追い出されるエバに「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。」と言われた神様のみことばがあります。みごもりの苦しみを「大いに増す。」ということは、以前にもみごもりの苦しみが少しはあったという意味です。子どもが生まれてくるには、骨盤が広がる痛みが伴うものです。ただ、呪われる前はその苦しみが少なかったけれど、その後からは苦しみが大いに増す、ということを言われているのです。それで、今日、子どもを産む時は、多くの苦しみと痛みが伴うようになりました。

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4. 数え切れない歳月をエデンの園で生きたアダム 

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それならば、アダムとエバはエデンの園ではたしてどれほど生きたでしょうか? 聖書に具体的に記されていませんが、彼らがそこで生きた歳月は、人が想像できないほど永い期間でした。エデンの園は病気も、老いも、死もない所です。このような所でアダムとエバは、人には計れないほど永い歳月を過ごしました。しかし、聖書はこのような過程をただの数節で記しています。したがって、神様がアダムをエデンの園に導かれた後、すぐに善悪の知識の木の実を取って、滅びの道に向かったと誤解する人々がたくさんいます。それで「神様を信じている」と言いながらも、「人間耕作の歴史は六千年にしかならないのに、数十万年前のものと推定される化石が出て来るのはなぜですか?」と質問することもあります。

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聖書に記された人類の歴史は、最初の人アダムが創造されてからの歴史を意味します。これはアダムがエデンの園で生きた歳月を含んでいるのですから、本当に数え切れない歳月だということを悟らなければなりません。しかし、人間耕作の歴史は、アダムが善悪の知識の木の実を取って食べ、呪われて、エデンの園からこの地上に追い出された後の歳月だけを意味するのです。エデンの園でアダムが神様のみことばに聞き従って生きていた数え切れない歳月は、人間耕作の歴史の中には含まれません。

 

したがって、アダムがエデンの園で数え切れない歳月を生きていく間、地球の地殻と地質などに多くの変化があったし、各種の生物にも繁殖、または絶滅の過程があったので、このような痕跡が化石として残っているということを悟らなければならないでしょう。神様が<創世記 1:28>で祝福されたとおり、最初の人アダムはエデンの園で多くの子孫を生んで、万物の霊長としてまことに永い歳月、生きたのです。
 

第2章

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神様の人間創造と人間耕作

 

2.人間を耕作される神様

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人類は長い間、「なぜ生きるのだろう?」という問いへの答えを探すために、絶えず努力してきました。しかし、この人生の目的については、私たちが創造主の神様を認める時だけ、明快な答えが出ます。創造主の神様が「なぜ人間を造られて、この地上で耕作されるのか」を悟ればよいのです。ここで「耕作」という表現を使った理由は、聖書の中のたとえに由来するからです。

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耕作に関するたとえ


聖書には多くのたとえがありますが、その中でも特に、地を耕して実と穀物を取り入れるたとえがたくさん出て来ます。たとえば、<マタイの福音書13章>を見ると、イエス様は人の心を四つの畑にたとえておられます。人の心の畑の種類によって、神のことばという種がその心に蒔かれる時に、真理によって実る程度が違うことを説明されました。

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また、<マタイの福音書3章>の麦と殻のたとえや、<マタイの福音書13章>の麦と毒麦のたとえで、将来あるさばきについて説明されました。麦のような人々は、審判の日に天国の倉に入るけれど、毒麦と殻のような人々は、地獄の火に投げ込まれる、ということです。聖書のこのようなたとえで、神様は、この地上に人を造って人類の歴史を摂理のうちに導かれる過程が、まさに耕作のようだ、と教えてくださるのです。農夫が刈り入れるために地を耕すように、神様も農夫のように私たちを耕しておられるということです。

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人間耕作の理由


それで、神様が私たち人を創造して、この地上に生きていくようにされるすべての摂理は「人間耕作の摂理」とも言えるのです。それでは、神様はなぜアダムを創造して、今日まで人間を耕作されているのでしょうか?人間耕作の目的はまことの子どもたちを得ることです。神様は愛を分かち合う子どもを得たいと願われたのです。創造主の神様は神としての驚くべき御力と、恐ろしい審判者としての権威、厳格な公義など、神性的な面を持っておられます。しかし、これと同時に、神様は愛と憐れみ、慈しみなどの人性的な面もお持ちです。喜んでうれしく思われたり、悲しんで嘆いたりもされます。このように人性を持っておられるので、神様はさびしくおひとりでいるよりは、互いに愛を分かち合う対象を願われました。それで、人間を創造して耕作することを計画されました。

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もちろん、あえて人間を造らなくても、神様には多くの天使と天の軍勢がいました。彼らは神様に無条件に従う存在であり、神様を崇めてたたえて栄光をささげました。従うことも従わないこともできるけれど、神様を愛するがゆえに従おうと選択するのではなく、無条件に従う存在です。その中には、人性を与えて、自分で選べるように造っておいた天使たちもいました。その中のひとりがルシファーです。それで、ルシファーは従順ではなく、裏切りを選んだのです。しかし、神様はこういう天使たちとは別に、心からわき上がる愛で自由意志によって従う、まことの子どもたちを望まれたのです。

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たとえを一つ挙げてみましょう。ある人に息子がひとりいました。その息子は時には問題も起こしたりして、親の心を痛めます。けれども、親に叱られるとすぐ悔い改めて、赦しを求めてかわいくふところに飛び込んできます。そのうち、年を重ねるほど親の心を理解して推し量れるようになります。親を理解するほど、その恵みに対する感謝と愛も深くなります。ところで、この家庭には非常に優れた性能のロボットが一体あります。このロボットは人の形をしていて、人のように声を出したりして、言われるとおり無条件に従うように造られました。難しいことも言われたとおりにすらすらやり遂げるので、とても人の役に立って、先に言った子どものように、問題を起こしたり、親に心配をかけたりしません。それでは、本当の親ならばどちらを願うでしょうか?「性能が良くてよく言うことを聞くロボットがいるから、子どもはいらない」と言うでしょうか? いくら従順で人に似たロボットだとしても、心を分かち合う実の子に比べることはできません。

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神様も、このように心が分かち合えるまことの子どもたちを得ることを願われました。よく従うようにだけ造られた天の軍勢と天使たちよりは、心から神様を愛して、自ら従う子どもたちがほしいと願われたので、人を造られたのです。耕作によって神様のみこころを悟り、神様を心から愛する子どもたちを得れば、彼らを永遠の天国に導いて、そこで喜びと幸せだけを味わいながら生きていくようにされたのです。

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3.麦と殻

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農業をしてみると、麦だけ出て来ることはありません。たとえ農夫が最善を尽くして耕作しても、収穫の時は麦だけでなく、殻も混ざって出るものです。殻は食べられず、麦と一緒に倉に入れておくと、麦まで食べられなくなります。ですから、殻は肥料に使ったり、火で焼いたりしてしまうしかありません。同じように神様も、人間を耕作された後、最後には麦と殻とを分ける作業をされます。<マタイの福音書3:12>を見ると、「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」とあります。ここで「消えない火」とは、地獄の火を意味します。神様が定めておかれた終わりの時が来ると、神様は人間耕作を締め切って、この地上に生きたすべての人々をさばかれます。この時、麦になれなくて殻になった人々は、さばきによって地獄の火に落ちるのです。それでは、天国に行く「麦」と、地獄に行く「殻」とは、それぞれどんな人でしょうか?

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麦
「麦」とは、イエス・キリストを受け入れて、神様を愛してみことばどおりに生きていく人を言います。こまめに罪と悪を脱ぎ捨てて、聖なる神様のかたちを取り戻した人です。
殻
一方、「殻」とは、神様を信じないで、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れなかった人であり、真理に逆らうものと暗やみの中にとどまっている人です。また、「神様を信じている」と言いながら、疑って完全に信じられない人で、やはり真理に逆らうものと暗やみの中にとどまっている人も「殻」です。口では「主を信じている」と言っても、相変わらず神様のみことばどおり生きないで、世の中の欲を追って罪と悪の中に生きる人も「麦」ではなく「殻」です。それで、
<マタイの福音書7:21>で「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」と言われたのです。

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<テモテへの手紙第一2:4>に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。神様は、すべての人が神様のみこころを知って、麦となって救われることを望んでおられます。それで、ひとり子イエス様まで十字架の死に渡してくださいました。それにもかかわらず、主を救い主として受け入れない人や、相変わらず罪の中に生きる人は、神のかたちに造られた人としてのまことの価値を取り戻すことができません。神様のまことの子どもになれない、ということです。こういう人々は人のすべきことを行なわないので、獣にすぎない存在であり、「麦」ではない「殻」になるのです。

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このように人としての価値を失った「殻」を、「麦」になった人々と一緒に天国に入れることはできません。世の欲に従って、互いに嫌ってそねみ、欲と争いとあらゆる悪を持った人々を天国に入れると、どうなるでしょうか? それでは、天国が幸せで美しいところ、栄光のところと言えなくなります。それでは、天国に入って来ることができない人々は、どうすればよいでしょうか?ただ消滅してしまうのでしょうか?いくら「殻」のような人々でも、人の霊と魂は、霊である神様のいのちの息が吹き込まれたので、永遠不滅なもので消滅しないのです。ですから、彼らも一か所に集めて、永遠に閉じこめておかなければなりません。その場所がまさに地獄であり、「殻」になった人々は、それぞれの罪の報いにより、永遠の火の中で刑罰を受けるようになります。

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私たちは、神様が耕作なさる目的にそって、良い麦になるために生きるべきです。第一に、創造主の神様を信じて、私たちの救い主イエス・キリストを受け入れなければなりません。また、神様のみことばに聞き従いながら、聖霊の力で変えられて、聖められて生きなければなりません。そのようになれば、神様は私たちをまことの愛が分かち合えるまことの子どもとして認めてくださいます。そして将来、私たちを美しい天国に導いて、永遠の幸せと喜びを分かち合われるのです。​

第2章

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神様の人間創造と人間耕作

 


1.人間を創造された神様


私たちの神様は、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもない方であり、人の想像もできない遠い大昔から、私はある。」という方としておられました。そうするうちに、いつしか神様は一つの計画を立てるようになられました。天地創造と人間創造の計画でした。その計画を成し遂げるために、神様は永い歳月にかけて、一つ一つ準備作業を始められました。

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まずは、神様がおられた霊の空間から、将来、天地万物と人間を造る、肉の空間を分けられました。そして、もともとおひとりでおられた神様から、御子と御霊の神様を分離なさり、御父・御子・御霊の三位一体の神様として存在されるようになりました。そして、その時から神様もかたちを持たれましたが、それが私たち人間と同じかたちでした。霊の世界の中には、天の軍勢、天使、ケルビムなどの霊の存在を、肉の空間の中には、将来人間が生きていく地球を造っておかれました。

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このようにすべてを用意されてから、神様は本格的に天地創造のみわざを始められます。<創世記1章>を見ると、神様が六日間で天地万物を創造された過程が、おおまかに記されています。第一日には光を、第二日には大空をお造りになり、第三日には地と海を分けられた後に、植物と草、果樹などを造られました。第四日には空に太陽と月、星を造られ、第五日には海の生き物と鳥を創造されました。第六日には家畜やはうもの、野の獣を造られて、最後に人を造られました。

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このように、霊の世界と肉の世界を分けられて、天と地と万物を造られたすべての過程が、結局は人を創造するためでした。まるで赤ちゃんが生まれる前に、生まれてくる赤ちゃんのために部屋を整えて、服やすべての物を用意しておく親のように、神様は人が生きるのに適する環境を造り、その後で人を造られて、すべてのものを豊かに味わって生きるようにされました。

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人をお造りになった理由


では、神様はなぜ人をお造りなったのでしょうか?なぜ今日までこの地上に多くの人々が生きていくようにされるのでしょうか?この問いに答えられるなら、人がなぜ生きるのか、どのように生きるべきかについても、答えが得られるでしょう。まことの人間の価値を悟るためには、神様が人間を創造された目的を悟らなければなりません。自分が生まれた目的にかなう人生でこそ、まことに価値があり、意味のある人生です。

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<伝道者の書3:11>に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」とあります。このみことばのように、神様は人の心に永遠への思いを与えられました。その心があるために、良心が正しい人々は、たとえ神様について聞いたことがなくて知らないとしても、漠然とですが、神を認めて捜すようになります。「私は神を信じない」と言っている人も、心の深いところでは「ひょっとして、本当に天国と地獄があればどうしよう」と、後の世に対する恐れを持つこともあります。それで、地獄に行かないように、自分なりに正しく生きようと努力したりします。

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土地のちりで形造り、いのちの息を吹き込まれると


<創世記2:7>に「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。天と地を造られるとき、神様は万物をみことばで創造されましたが、人はご自身が土地のちりで形造られました。ただうわべだけおおざっぱに造られたのではなく五臓六腑と骨と筋肉、すべての組織まで、完璧にお造りになりました。生きている姿そのままを細やかにすべて造られた後に、神様がいのちの息を吹き込まれると、その時から人は霊が生きて、動けるようになりました。

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ところが、ある人はこういうみことばを聞くと「信じられない」と言います。「土地のちりで造られた形が、どうやって生きて動けるのだろうか」と疑うのです。しかし、被造物である人も、知識が発達すると人に似たロボットも作り出します。人の頭脳をまねてコンピュータを作ったり、人工臓器や人工皮膚を作り出したりします。被造物である人にもこういうことができるのに、まして全能の神様が人を創造されるのに何の難しいことがあるでしょうか? 複雑な部品を組み立てて機械を作って、それに電源をつなぎさえすれば、まるで生きているかのように動きます。これは、私たちの神様が、私たち人間の五臓六腑を含むあらゆるものを作られた後に、いのちの息を吹き込まれると、人の霊が生きて動けるようなったことと同じです。

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創造主の神様は、最初の人アダムとエバをお造りになってから、人が子孫を生み出していくように、いのちの種を下さいました。それが男の精子と女の卵子です。精子と卵子の中には、親のすべての気質が結集しています。その小さいいのちの種の中に、容貌はもちろん、性格、知能、習慣などが全部入っていて、子どもたちは親に似るようになります。目でも見えない小さいそのいのちの種、精子の中に、また卵子の中に、このようなものが全部入っているのですから、どれほど不思議なことでしょうか。このように、親に似て生まれるようにいのちの種を下さった方も神様であり、その種によってみごもるようにされる方も神様です。親の精子と卵子が結びついて子どもができますが、その命が宿ることは神様がつかさどられます。

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神のかたちに

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子どもが親と先祖に似るとすれば、人類の先祖であるアダムは誰に似たのでしょうか?<創世記 1:27>を見ると、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。アダムとエバは、まさに聖なる神のかたちに造られた、ということです。この時、人が神のかたちに造られたとは、ただうわべの姿だけを言うのではありません。人において重要なものは霊と魂であり、からだは霊と魂を入れる器にすぎません。人が神のかたちに造られたという時に、もっと重要な意味は、人の霊が神様の霊から出て来て、神様に似た霊で造られた、ということです。それで、神様は私たちの「霊の父」と言うのです。

第1章

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4. 神様は聖書の著者である 


教会に来ると、誰でも聖書に接するようになります。聖書には「救いの道」が明らかに記されています。神様がなぜ人間をお造りになったのか、人類の歴史をどう導いていかれるのか、人間耕作の始めと終わりについて説明しています。また、天国と地獄、救い主であるイエス様、人としてなすべきことなどについて 明らかに教えてくれます。
こういうみことばを信じて行なっていく時に、救いといのちを得ることができ、天国に入る資格を得るようになります。世の中には、その数を想像することもできないほど多くの本があります。しかし、人に救いといのちを与える本は、ただ聖書だけです。

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 聖書は旧約39巻、新約27巻、全66巻で構成されています。そして、この聖書を記した人は、旧約26人、新約8人、計34人だと言われています。たとえば、「創世記」はモーセが、「伝道者の書」はソロモンが、「イザヤ書」は預言者イザヤが書き記しました。新約の記述者としては、四福音書を記したマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、使徒パウロ、ペテロ、ヤコブ、ユダがいます。そして、聖書が書かれた期間は、旧約が約1500年、新約が約100年、合わせて約1600 年です。約1600年という長い歳月にかけて、34人もの人々が記した書物を集めたものが、聖書です。

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 ところで、この聖書全体の著者は、神様です。先に説明したように、34人の記述者がいますが、彼らは著者ではなく、ただの代筆者です。たとえてみましょう。次男と遠く離れて住んでいる母親が、次男に手紙を書こうとします。それで、母親は一緒に住んでいる長男に、手紙の内容を口で言って書かせます。では、その手紙は誰の手紙でしょうか?長男が書いたのですから、長男の手紙でしょうか?違います。たとえ書いた人は長男であっても、その内容は、明らかに母親のものです。このように聖書も、その内容は神様のみことばですが、神様がみこころにかなう人々をつかさどられ、聖霊の働きによって書き記すようにされたのです。

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<イザヤ書34:16>「主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」 

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<テモテへの手紙第二 3:16>「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

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<ペテロの手紙第二1:21>「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

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 聖書の記述者がいくら多くても、聖書全体は、まるでひとりが記したように、互いに矛盾するものがなく、一貫性があります。それはまさに、全知全能の神様が、聖霊の働きによってつかさどられたからです。

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 聖書は、このように聖霊に感じて記された書物ですから、解釈する時も、必ず聖霊に感じて解釈しなければなりません。人間的な考えや知識で解釈すると、間違った解釈をするようになります。<ペテロの手紙第二 3:16>に「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とあります。

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 今日、このようにして滅びを招いている人々がどんなに多いでしょうか。そして、聖書は書かれたそのままを信じればよいのに、それを反対に教える人がどんなに多いでしょうか。一つ一つの一節に含まれた神様のみこころを正しく悟るためには、それに当たるみことばの連れ合いを知るべきであり、それによってそれによって完全に霊的な意味を悟らなければならないのです。

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聖書の預言の成就

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 聖書は歴史的にも証しすることができます。旧約聖書のイスラエルの歴史と、周辺民族との出来事と登場人物、場所や慣習などを見ると、一つ一つが非常に事実に基づいて書かれたことがわかります。聖書には多くの預言がありますが、その一つ一つが、実際そのまま成就されてきました。

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たとえば、<ルカの福音書19:43-44>に「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」とあります。これは、エルサレムの滅びについてのイエス様の預言です。
その時から40年余り過ぎたA.D.70年、ローマのティトス将軍がエルサレム城を滅ぼしましたが、その過程で、イエス様の預言がそのまま成就されたことがわかります。ローマ軍はエルサレム城の四方に土城を築き、城を陥落させました。城を占領した後は、子どもまで惨たらしく殺して、一つの石もほかの石の上に積 まれたままでは残されないほど、建物を完全に破壊しました。

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 このほかにも、聖書にはいろいろな歴史的な事件が預言されています。その中でも最も重要なものは、イエス様についての預言です。聖書の核心的テーマである「救いの道」を完成するためには、罪人になった人類を救うことができる「救い主」が、必ず来なければならなかったのです。それで神様は、旧約のところどころに、メシヤ(救い主)になられるイエス様の誕生と働き、苦しみ、復活などについて詳しく預言しておかれました。そして、時が来ると、約束されたとおり、 イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。イエス様が旧約の預言を完全に成就された内容が、新約に詳しく記されています。

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 その中のいくつかを調べてみましょう。まず、イエス様の誕生についてのことです。<イザヤ書 7:14>には「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『イ ンマヌエル』と名づける。」とあり、<ミカ書 5:2>には「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」と書かれています。このような預言どおり、イエス様は聖霊によっておとめマリヤに宿り、ベツレヘムのある宿屋の家畜小屋で私たちのためにお生まれになりました。

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 また、イエス様がお生まれになったとき、当時ユダヤの王だったヘロデがイエス様を殺そうと、二歳以下の男の子たちを全部殺させました。ところがこの時、神様はヨセフの夢によって、イエス様があらかじめエジプトに逃れるようにされ ました。ヘロデが死んだ後、もう一度夢によって、エジプトからイスラエルへ帰るように指示されました。これについても、旧約聖書書<ホセア書11:1後半節>に「わたしの子をエジプトから呼び出した。」と預言されてあります。

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 イエス様がエルサレム城に入城される時も、<ゼカリヤ書 9:9>に書かれているとおり、ろばに乗って入城されました。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」と書かれているとおりです。

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 また、<詩篇41:9>に「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」と言われたように、イエス様の最も近くでみことばのパンを与えられていたイスカリオテ・ユダが、イエス様を裏切って売りました。<ゼカリヤ書11:12>に「私は彼らに言った。『あなたがたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。もし、そうでないなら、やめなさい。』すると彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。」とあったように、ユダがイエス様を売った値段は、銀貨三十枚だったことがわかります。つまり、旧約で預言したそのまま、銀三十枚でイエスを売ったのです。

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 このように、イエス様についての旧約聖書の多くの預言は、新約時代に一つ一つ、すべてそのまま成就しました。

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 新約聖書の<コリント人への手紙第一15:6>には、イエス様が死んでからよみがえられたことを直接見た証人が、五百人以上もいると書かれています。「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」とあります。このように直接目撃した証人たちによって、主の復活は世に広く伝えられました。

主と、主について記された聖書のすべてのみことばが明らかな真実であり、神様のみことばであることが、今日まで世に伝えられてきたのです。そして、この証人たちによって伝えられた内容を聞いて、心から信じた人々は、今日も聖書の著者である神様に出会って体験します。神様が与えられた聖書の約束のことば、を信じて行なうとき、その約束を守ってみことばを成就される神様のみわざが体験できるのです。

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 聖書は、主の再臨が近づく時の前兆と、終わりの時に世界の情勢がどう移り変わっていくかを預言しています。これから起こる七年患難と第三次世界大戦、千年王国と大審判、そして、天国と地獄に至るまで、今後の出来事についても預言しています。また、このような歴史の流れの中を生きていく私たちが、どうすれば救われて祝福を受けるのか、どうすれば永遠の天国に至るのか、これらすべてのことも聖書には詳しく記されています。


 ところが、ある人々は「神様を信じています」と言いながら、聖書が神様のみことばであることを心の底から信じません。「聖書が神様のみことばだと信じます」と言いながら、そのみことばが完全に信じられない場合もあります。ですから、自分の思いに合わない時や自分の益に合わない時は、みことばどおり行なうことができません。

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 聖書は明らかに神様のみことばであり、完全に神様が成し遂げられるみことばです。したがって、聖書に約束されたみことばを信じて行なう人には、神様が必ずその約束どおり祝福を下さいます。

これまで、神様は天地万物の創造主であり、「わたしはある。」と仰せられる方であり、全知全能の方であり、聖書の著者であられると説明しました。もちろん、そのほかにも神様についてはいろいろと説明することはできます。神様は光であり、愛であり、終わりの日に万物をさばかれる裁判長であり、私たちを愛してくださる父であられます。私たちが聖書を読んで口ずさみ、そのみことばどおり行なっていくほど、ますます神様について多くを悟るようになり、愛の父なる神様に明らかに出会うようになります。

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<箴言8:17>には「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」と書かれています。私たちが誰かを心から愛するなら、喜んでその人の願いを聞いてあげます。神様を愛することも、神様を熱心に捜すことも、結局は、神様のみことばである聖書を信じて、そのみことばを守り行なうことなのです。

第1章

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​​2. 神様は 「わたしはある。」という方である 

 


神様が天地万物を創造されたと言うと、たびたびこういう質問をする人がいます。「創造主の神様は誰が造ったのですか?」「神様はいつからおられて、その前には何があったのでしょうか?」と聞くのです。

これについてを見ると、て<出エジプト記 3:14前半節>を見ると、「神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある。」という者である。』」と書かれています。誰かが神様を生んだのでもなく、誰かが神様を造ったのでもありません。神様は、人が想像できない永遠の昔からすでにおられ、これからも世々限りなくおられる方です。

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ところが、人間の経験と知識では、すべてのものに「初め」と「終わり」があります。たとえば、人や動物にも初めと終わりがあります。「いつ、どんな両親か ら生まれた」という初めがあって、「いつ、どのように死んだ」という終わりがあります。いくら古くなった骨董品にも、必ずそれが作られた時があります。歴史的な事件にも、その初めと終わりがあります。

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ですから、神様についても、初めにどのように存在するようになられたかがあるはずだ、と思うのです。しかし、人間の思考の限界を超えて考えるなら、創造主であり、絶対者である神様に何かの初めがあるとしたら、むしろそれがおかしいのです。

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仮に神様がある時点から存在するようになられたら、それ以前には何があったかを考えるようになるでしょう。また、誰かが神様を創造したり生んだりしたなら、神様も完全な方ではないということです。ですから、絶対で完全である神ならば、その方は 当然、初めも終わりもなく、もともと「わたしはある。」という方でなければなりません。

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それでは、永遠の昔から「私はある。」という神様は、どんな姿でどのように存在しておられたのでしょうか?<ヨハネの福音書 1:1>に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。ここで「初め」とは、万物が創造される前、ただ神様おひとりだけが存在しておられた大昔、はるか昔の時間を言います。

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被造物である人間の限られた経験と知識では決して理解できない、永遠の昔を意味しているのです。このように永遠の昔から「わたしはある。」と仰せられる神様について、「ことばは神であった。」と書かれています。神様は何かのかたちを持っておられたのでなく、ことばそのものとして存在しておられました。

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<ヨハネの手紙第一1:5>を見ると、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」とあります。ここで「光」と「暗いところ」という言葉には、霊的な意味が入っています。「暗いところ」とは、不義、不法、罪と悪など、真理でないすべてのものを意味します。反対に「光」とは、罪や悪が全くないことであり、愛、 善、義など、真理に属するすべてのものを意味します。

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ところが、神様は霊的な意味で光であるだけでなく、実際にも光として存在しておられました。このように、ことばである神様は、美しく妙なる光の中で、清く澄んだ声を帯びたかたちとして存在しておられました。人が想像もできないほど美しい光の中に、清く澄んで穏やかでありながらも、全宇宙にとどろくような勇壮な声としておられたのです。

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このように、光と声としておられた神様は、ある時点になると、人間を創造しようと思われました。互いに愛を分かち合う対象がほしくなられたのです。このような人間についてのすべての計画を成し遂げるために、まず神様は、三位の神様に分離されます。御父である神様から、将来、人類の救い主になられる御子イエス様、そして助け主聖霊様に分離されたのです

。

こうして三人の方としてそれぞれ存在するようになられましたが、この三人の方の元は同じです。それで、「三位一体」と表現するのです。このように三位一体に分離されて、神様は具体的なかたちになられました。そのかたちがどんなものなのか、<創世記 1:26>でよくわかります。

「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と書かれています。つまり、神様に似るように、御父、御子、御霊の三位一体の神様のかたちに人を造られたのです。私たち人を見ると、神様がどのような方なのかわかります。もちろん、人は外見だけでなく、心も神様の心に似るように造られました。

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偶像礼拝に対する警戒

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被造物である人とは違って、「わたしはある。」と仰せられる神様は、永遠の昔から世々限りなくおられる方です。「わたしはある。」と仰せられる神様だけが、完全なまことの神であり、私たちが拝んで愛する対象です。ところが、ある人々はこのような神様を知らないので、人間が作り出した偶像を拝んでいます。金属や木、石などで形を作って、その前に行って拝むのです。

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天には北斗七星、北極星、太陽、月もあって、また、天使もいますが、そのような天にあるものを拝む人々もいます。もし、自分が生んだ子どもが自分が親と知らずに、ほかの人のところに行って「お父さん」「お母さん」と言うなら、どれほど心が痛むでしょうか?同じように、人が自分を創造された神様を求めないで、人が作り出した偶像を拝むなら、神様の心はどれくらい痛まれるでしょうか?したがって、神様は偶像礼拝をとても嫌われるのです。

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<出エジプト記20:3-5>で「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形を も造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に 報い、三代、四代にまで及ぼし、」と言われました。ただ「私はある。」と仰せられる神様おひとりだけがまことの神であり、私たちはその方だけを拝んで仕えなければなりません。

 


3.神様は全知全能のお方である

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聖書を見ると、信仰で全能の神の力を体験した人々について、あちこちに記されています。神の力で葦の海が分かれたり、太陽と月が動かなくなったりしました。天から火が下りて来たり、三年半の日照りの中でも激しい大雨が降ったりしました。神の御姿であられるイエス様も、全能なる神様のみわざをそのまま現されました。死んだ者を生かし、すべての病気とわずらいを治されました。風と波 を静めたり、水の上を歩かれたりしました。イエス様が復活、昇天された後も、全能の神の力は使徒たちによって続いて現れました。

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特に使徒ペテロの場合は、人々が病人を大通りへ運び出し、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどでした。使徒パウロの場合は、パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行きました。使徒たちに現れる御力がとてつもなく大きいので、彼らの影や手ぬぐいによってさえ、神様のみわざが現れたのです。

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<ヘブル人への手紙 13:8>を見ると、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。二千年前も、千年前も、今日も、同じように働いておられるのです。このみことばのように、イエス・キリストによる神の力も、聖書が記された当時だけあったのではなく、今日でもいくらでも現れます。

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神様はこのように全能であるだけでなく、全知の方、すなわち、すべてのことをご存じである方です。人の心もご存じであって、今後起こることも、みなご存じです。このようにすべてのことをご存じの神様は、神様と明らかに交わる人々を用いて、将来の事を知らせてくださり、預言するようになさいます。

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<アモス書3:7>に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」とあります。すなわち、神様が認める、神様の愛するしもべ、または預言者たちに、ご自分のはかりごとを示さないでは、何事もなさらないのです。今日も同じです。旧約時代だけでなく、今日も同じなのです。

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神様が預言者たちに下さった数多くの預言が、聖書のあちこちに記されています。人類の救い主が来られること、イスラエルの滅亡と再建、また、終わりの時までの世界史の流れについても、詳しく預言されています。聖書の預言はそのまま成就されてきたし、まだ成就されていないことは、終わりの日、主の再臨までになされることです。

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今日も神様は、神様と交わる人々を用いて、将来の事を教えてくださいます。人としては不可能などんなことも、神様は十分におできになるし、過去、現在、未来のどんなことでも神様はみなご存じです。このように世界史のすべての流れをご存じの神様は、人それぞれの心と将来もご存じです。ですから、全知全能の神様に人生のすべてゆだねれば、神様はどんな時にも栄える道、祝福の道にだけ導いてくださるのです。 

第1章

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神様はどんな方か

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この世には「神はいない」と主張する人がたくさんいます。人間が想像の中で作り出した神を拝んだり、神様が造られた被造物の形を作って、それを「神」として拝んだりする人もたくさんいます。しかし、人の目で見ることはできませんが、神様は確かに生きておられます。また、私たちが崇めて拝むべき神は、天、あるいは地に唯一の神様おひとりだけです。神様は宇宙万物と人間をお造りなった方であり、万物の支配者であり、審判者であられます。

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では、神様とは具体的にどんな方でしょうか? 実は、人間のほうから神様について説明することはやさしいことではありません。神様は被造物である人間を超える神であり、無限の存在だからです。限られた人間の知識の中でいくら考えてみても、神様に関してすべてわかって理解することはできません。

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そして、世の中に「神様を信じている」と言う人は多いのですが、その中には神様の愛が感じられないし、救いの確信さえない人がたくさんいます。「あなたが信じている神様はどんな方ですか?」こう質問されたとき、自信を持って答えられない人もたくさんいます。子どもならば、当然お父さんについて知らなければなりません。お父さんと話をすることもできて、互いに心を交わすこともできなければなりません。

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ところが、神の子どもだと言いながらも、父なる神様についてよく知らなくて、神様と交わりもないならば、救いの確信を持つことも難しいし、満された信仰生活をすることもできないのです。私たちが神様について全部は知らないとしても、神の子どもならば必ず知るべき最も基本的な内容があります。


それなら、はたして神様はどんな方であるのか、今から四つに分けて説明します。

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1.神様は創造主である


<詩篇 53:1>を見れば、「愚か者は心の中で『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」と書いてあります。愚かで悪い人々は、自分たちが神様を見ることができないからと言って、神様を否定しようとします。進化論者たちは、生物は下等生物から高等生物に進化して、ついにヒトになったと言います。

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しかし、<創世記 1:21>には「それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。」と書かれています。

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また、<創世記 1:25>には「神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。」とあります。歳月が流れるにつれ、形は少しずつ変わってきましたが、神様は、初めからすべての生き物を種類にしたがって創造されました。

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魚が進化して地の動物になり、地の動物が進化して鳥になったのではありません。類人猿がヒトに進化したのでなく、サルは初めからサルとして造られ、人間は初めから人間として造られたのです。

そして、ただ人間だけが神のかたちに、霊と魂と肉をすべて持った存在として造られました。いくら人間に似ていると言っても、サルが霊を持つ人のように、神様を悟って崇めることはできないのです。サルが神を捜すでしょうか? 後の世があることを知って、天国と地獄を知って、もっと敬虔に、もっと正しく生きようとするでしょうか?

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<創世記 1:1>に「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。そして、<創世記 1 章>には、神様は何もない無の状態から、六日の間、みことばで天地を創造された、と記されています。創造の最後の日である六日目には、人類の先祖である最初の人アダムをお造りになりました。

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<ローマ人への手紙 1:20>を見ると、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。


神の力と神性は、私たちの目に見えないとしても、被造物によって知られ、はっきりと認められる、と書かれています。したがって、「私は神様とはどんな方か知らなくて、信じられませんでした」と審判の日に言い訳できないということです。

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神様は直接拝見することはできませんが、すべての被造物を見ると、創造主の神様がおられることと、創造主がおひとりであることがわかります。神様が造られたすべての物の中に、創造主である神様の証拠が現れているからです。

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人をはじめとする動物の構造 


その証拠として、一つ例を挙げてみます。世の中には実に多くの人々が生きています。さまざまな人種と民族があって、それぞれ言語と文化が違い、皮膚の色もさまざまです。しかし、そのすべての人に共通点があります。どんな人種、どんな民族も目は二つです。耳も二つで、鼻と口は一つです。その位置も同じです。顔の真ん中に鼻があって、顔の上のほうに目があります。口は鼻の下にあって、耳は顔の両側に一つずつあります。

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ところが、人だけがこのように同じ構造と位置を持っているのではありません。地上の動物や空中の鳥と昆虫、海の魚もすべて同じです。それぞれの特性により、若干の差はありますが、基本的にはみな同じ構造を持っています。また、食物を食べて消化して排泄する過程や構造、繁殖する方法と構造なども似ています。このように同じである理由は、唯一の神、創造主の神様の設計で造られたからです。

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世の人々は創造論を認めないで、進化論を主張します。しかし、仮に彼らの主張のとおり人類が進化してきたなら、人はみな同じ一つの形にはならなかったはずでしょう。いろいろな形と構造に、いくらでも多様に進化したでしょう。また、創造主がおひとりでなければ、人や動物がこのように同じ構造と機能を持つことはできません。

 

創造主が何人かいたなら、それぞれ好きな構造と機能で生物体を造ったはずだからです。しかし、このように万物が一つの構造と機能を持っていることを見ると、明らかにただひとりの創造主の神様によって正確に設計されて造られたことがわかります。

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自然現象に現れた創造の証拠 


また、創造主なる神様の証拠は、自然現象を見てもあまりにも明らかです。地球は1日1回自転して、1年に1回太陽の周りを公転し、月は地球の周りを1か月に1回公転します。もちろん、自転もします。こういう自転と公転によって、地球にはいろいろな規則的な現象が生じます。昼と夜ができて、四季ももできます。満潮と干潮ができて、大気が循環するようになります。

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ところで、このような天体の位置や動きは、人や生命体が生きていくのに、最も必要で適している環境に設定されています。太陽と地球の距離も、地球と月の距離も、今ぐらいが最も適当です。太陽にもっと近くても熱くて耐えられないし、もっと遠くても寒くて耐えられません。また、地球と月の距離がもっと近くてもいけないし、遠くてもいけません。今の位置が満潮、干潮に最も適した位置なのです。

 

そして、このように満潮、干潮が起きるので、温度が調節され、さまざまな自然現象が起きるようになります。それとともに、風を起こして雲を移動させ、すべての所に再び雨を降らせるようになります。これより遠くてもいけないし、これより近くてもいけません。このように最も適当な距離で、測り知れないほど永い歳月の間、一寸の誤差もなく規則的に自転と公転をしてきたのです。

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進化論の虚構性 


はたしてこのようなすべての秩序が、進化論者たちの主張のように、ビッグバンによって偶然に作られたのでしょうか? たとえば、時計を分解してみると、その中には多くの部品が精巧に組み合わされて動いているのがわかります。ところが、誰かがそれを見せながら、こう言うとしましょう。「この時計は誰かが作ったのでありません。火山が爆発して、いろいろな部品が飛び出して、その部品がひとりでに組み立って、規則的に動き始めました。」それなら、この話が信じられるでしょうか? 絶対に信じられないでしょう。

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ところが、この世とすべての物が進化によって造られたということは、これよりはるかに話になりません。時計とは比べられないほど精巧な宇宙が、どうしてひとりでに造れるのでしょうか? また、その精巧な宇宙が、どうしてこのように正確な秩序に従って自ら動くのでしょうか?

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これは極めて優れた神様の知恵で、宇宙のすべての物が計画されて創造され、動かされているために可能なことです。創造主の神様がその御力によってすべての物を造られて、すべての物を動かしておられるのです。こういう明らかな証拠があるために、最後の審判の日には誰も弁解することができないのです。

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このように創造の明白な証拠を見ながら、なぜ人は神様を信じないのでしょうか? 人は目に見えるもの、手で触れるもの、自分の知識と思いで理解できるものだけを信じようとするからです。

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それでは、この自分の知識と思いはどこから来たのでしょうか? 生まれながらにして持って出て来たのでしょうか? この世に生まれて、神様を信じない人々に聞いて習った知識なのではないでしょうか? これらの知識によって、思いが働くようになったのではないでしょうか? 目に見えない神様がおられるという事実や、聖書に書かれている不思議としるしなど、人の力を超えることは認めようとしないのです。

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しかし、聖書のすべてのみことばは、明らかに真実です。神様が天地を創造されたことも事実であり、不思議としるしも、御力のわざも、みな実際に起きたことです。創造主の神様だけにおできになることです。人の知識と思いでは限界があり、とうてい理解することも信じることもできないために、聖書を否認しようとしますが、聖書に記された不思議としるしと御力のわざは、すべて事実です。

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<ヨハネの福音書 4:48>に「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』」とあります。人の限界を超えるしるしと不思議を見ると、人の思いと枠が砕かれます。自分は全く不可能だと思っていたことを神様が行なわれるのを見て、聞いて、体験するとき、これまで自分が学んで正しいと信じてきた知識と神様のみことばが一致しなくても、神様のみことばだけがまことであり、真理であることを認めるようになります。

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それで、聖書を見ると、神様は数多くの御力のわざを行なわれて、神様の生きておられることを現してくださいました。神様を信じないエジプトのパロとその家臣たちに、モーセは十の災いで神様を現して見せました。預言者エリヤは天から火を引き下ろして、三年半の日照りの中でも雨を降らせました。イエス様は、しるしと不思議によってご自分が神の御子であることを証しされました。異邦人の使徒であるパウロは、イエス・キリストの御名で病気とわずらいをいやし、悪霊を追い出し、死んだ者を生かしました。

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このように創造主である神様だけが行なえるみわざを見るとき、信じなかった人々も創造主の神様を認めました。福音を受け入れて、救い主イエス様を受け入れました。私たちが生きているこの時代にも、このような神様のみわざはどうしても必要です。しるしと不思議を現す神様の御力は、信じない人々に生きておられる創造主の神様を信じるようにする、最も確かな証しになるのです。

​​はじめに:

 

「十字架のことば」は「人類の救いについての神様の摂理」を明らかに説明してくれるみことばです。人類の救いのために世界の始まる前から隠された深い奥 義であり、神様の大きい愛と公義を悟らせてくれるみことばです。

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クリスチャン ならば誰でも知りたいと思う「神様はどんな方か?」「神様が天地万物と人を創造 して、この地上に生きるようにされた目的は何か?」「神様はなぜ善悪の知識の木を置かれたのか?」「イエス・キリストはどういう方で、なぜイエス様だけが人類の救い主であるのか?」「イエス・キリストを信じるとなぜ救われるのか?」この ようなすべての質問に対する答えがまさに「十字架のことば」に入っています。

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今までこの説教で多くの人々が神様の驚くべきみわざを体験しました。自分の 罪を心から悔い改めるみわざが起きて、まことの信仰と確かな天国の望みを持つようになりました。罪と悪を捨てて、神様のみことばの中を歩むようになりまし た。メッセージを聞いて、自分の罪を悔い改めた後、イエス キリストの御名で祈 ると、数多くの人々が神様のみわざを体験しました。病気がいやされて、わずらいは完全になりました。

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悪霊が出て行って、闇の勢力が退きました。十字架に含まれた救いの道を聞いて悟る人はみな、神様がイエス・キリストの御名で施される驚くべきみわざを体験してきたのです。皆さんがミカンを食べるとき、ほかの人がおいしいと言うから、ただ「おいしそうだ」と思っても、実際にミカンの味はわかりません。皮をむいて、直接食べてこそ味がわかって、栄養分を摂取してこそ益になります。信仰も同じです。

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「主イエスを信じれば救われる。」このように頭だけでわかって救われるのではありせん。また、ただ「信じなさい」と言われるから漠然と「信じます」と言うだけでは、力ある信仰生活はできません。「なぜイエス様だけが救い主であるのか」「イエス様を信じると言うと、どのように救われるのか」その理由を確かに知らなけ ればなりません。

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そのような人には霊的な信仰が与えられるので、敵である悪魔・サタンが惑わ せないし、伝道する時も、口に出す言葉に権威が伴います。「十字架のことば」を学んで、イエス様がなぜ救い主であるのか、確かに悟られますように。そして、 誰が尋ねても正確に説明できるように、このみことばを完全に糧とされますよう に。それで、まことにイエス・キリストのいのちが内にあって、そのいのちを多くの人々に伝えられますよう、主の御名で祝福して祈ります

イエス・キリスト日本連合聖潔会
名古屋万民教会
Nagoya Manmin Church

〒 465 - 0014

名古屋市名東区上菅一丁目916番地

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TEL/Fax: 052-774-8874

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