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 十字架のことば
 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。 (1コリント1:18)

第 1章

神様はどんな方か

この世には「神はいない」と主張する人がたくさんいます。人間が想像の中で作り出した神を拝んだり、神様が造られた被造物の形を作って、それを「神」として拝んだりする人もたくさんいます。しかし、人の目で見ることはできませんが、神様は確かに生きておられます。また、私たちが崇めて拝むべき神は、天、あるいは地に唯一の神様おひとりだけです。神様は宇宙万物と人間をお造りなった方であり、万物の支配者であり、審判者であられます。

では、神様とは具体的にどんな方でしょうか? 実は、人間のほうから神様について説明することはやさしいことではありません。神様は被造物である人間を超える神であり、無限の存在だからです。限られた人間の知識の中でいくら考えてみても、神様に関してすべてわかって理解することはできません。

そして、世の中に「神様を信じている」と言う人は多いのですが、その中には神様の愛が感じられないし、救いの確信さえない人がたくさんいます。「あなたが信じている神様はどんな方ですか?」こう質問されたとき、自信を持って答えられない人もたくさんいます。子どもならば、当然お父さんについて知らなければなりません。お父さんと話をすることもできて、互いに心を交わすこともできなければなりません。

ところが、神の子どもだと言いながらも、父なる神様についてよく知らなくて、神様と交わりもないならば、救いの確信を持つことも難しいし、満された信仰生活をすることもできないのです。私たちが神様について全部は知らないとしても、神の子どもならば必ず知るべき最も基本的な内容があります。


それなら、はたして神様はどんな方であるのか、今から四つに分けて説明します。

 

1.神様は創造主である


<詩篇 53:1>を見れば、「愚か者は心の中で『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」と書いてあります。愚かで悪い人々は、自分たちが神様を見ることができないからと言って、神様を否定しようとします。進化論者たちは、生物は下等生物から高等生物に進化して、ついにヒトになったと言います。

しかし、<創世記 1:21>には「それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。」と書かれています。

また、<創世記 1:25>には「神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。」とあります。歳月が流れるにつれ、形は少しずつ変わってきましたが、神様は、初めからすべての生き物を種類にしたがって創造されました。

魚が進化して地の動物になり、地の動物が進化して鳥になったのではありません。類人猿がヒトに進化したのでなく、サルは初めからサルとして造られ、人間は初めから人間として造られたのです。

そして、ただ人間だけが神のかたちに、霊と魂と肉をすべて持った存在として造られました。いくら人間に似ていると言っても、サルが霊を持つ人のように、神様を悟って崇めることはできないのです。サルが神を捜すでしょうか? 後の世があることを知って、天国と地獄を知って、もっと敬虔に、もっと正しく生きようとするでしょうか?

<創世記 1:1>「初めに、神が天と地を創造した。」とあります。そして、<創世記 1 章>には、神様は何もない無の状態から、六日の間、みことばで天地を創造された、と記されています。創造の最後の日である六日目には、人類の先祖である最初の人アダムをお造りになりました。

<ローマ人への手紙 1:20>を見ると、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。


神の力と神性は、私たちの目に見えないとしても、被造物によって知られ、はっきりと認められる、と書かれています。したがって、「私は神様とはどんな方か知らなくて、信じられませんでした」と審判の日に言い訳できないということです。

神様は直接拝見することはできませんが、すべての被造物を見ると、創造主の神様がおられることと、創造主がおひとりであることがわかります。神様が造られたすべての物の中に、創造主である神様の証拠が現れているからです。

人をはじめとする動物の構造 


その証拠として、一つ例を挙げてみます。世の中には実に多くの人々が生きています。さまざまな人種と民族があって、それぞれ言語と文化が違い、皮膚の色もさまざまです。しかし、そのすべての人に共通点があります。どんな人種、どんな民族も目は二つです。耳も二つで、鼻と口は一つです。その位置も同じです。顔の真ん中に鼻があって、顔の上のほうに目があります。口は鼻の下にあって、耳は顔の両側に一つずつあります。

ところが、人だけがこのように同じ構造と位置を持っているのではありません。地上の動物や空中の鳥と昆虫、海の魚もすべて同じです。それぞれの特性により、若干の差はありますが、基本的にはみな同じ構造を持っています。また、食物を食べて消化して排泄する過程や構造、繁殖する方法と構造なども似ています。このように同じである理由は、唯一の神、創造主の神様の設計で造られたからです。

世の人々は創造論を認めないで、進化論を主張します。しかし、仮に彼らの主張のとおり人類が進化してきたなら、人はみな同じ一つの形にはならなかったはずでしょう。いろいろな形と構造に、いくらでも多様に進化したでしょう。また、創造主がおひとりでなければ、人や動物がこのように同じ構造と機能を持つことはできません。

 

創造主が何人かいたなら、それぞれ好きな構造と機能で生物体を造ったはずだからです。しかし、このように万物が一つの構造と機能を持っていることを見ると、明らかにただひとりの創造主の神様によって正確に設計されて造られたことがわかります。

自然現象に現れた創造の証拠 


また、創造主なる神様の証拠は、自然現象を見てもあまりにも明らかです。地球は1日1回自転して、1年に1回太陽の周りを公転し、月は地球の周りを1か月に1回公転します。もちろん、自転もします。こういう自転と公転によって、地球にはいろいろな規則的な現象が生じます。昼と夜ができて、四季ももできます。満潮と干潮ができて、大気が循環するようになります。

ところで、このような天体の位置や動きは、人や生命体が生きていくのに、最も必要で適している環境に設定されています。太陽と地球の距離も、地球と月の距離も、今ぐらいが最も適当です。太陽にもっと近くても熱くて耐えられないし、もっと遠くても寒くて耐えられません。また、地球と月の距離がもっと近くてもいけないし、遠くてもいけません。今の位置が満潮、干潮に最も適した位置なのです。

 

そして、このように満潮、干潮が起きるので、温度が調節され、さまざまな自然現象が起きるようになります。それとともに、風を起こして雲を移動させ、すべての所に再び雨を降らせるようになります。これより遠くてもいけないし、これより近くてもいけません。このように最も適当な距離で、測り知れないほど永い歳月の間、一寸の誤差もなく規則的に自転と公転をしてきたのです。

進化論の虚構性 


はたしてこのようなすべての秩序が、進化論者たちの主張のように、ビッグバンによって偶然に作られたのでしょうか? たとえば、時計を分解してみると、その中には多くの部品が精巧に組み合わされて動いているのがわかります。ところが、誰かがそれを見せながら、こう言うとしましょう。「この時計は誰かが作ったのでありません。火山が爆発して、いろいろな部品が飛び出して、その部品がひとりでに組み立って、規則的に動き始めました。」それなら、この話が信じられるでしょうか? 絶対に信じられないでしょう。

ところが、この世とすべての物が進化によって造られたということは、これよりはるかに話になりません。時計とは比べられないほど精巧な宇宙が、どうしてひとりでに造れるのでしょうか? また、その精巧な宇宙が、どうしてこのように正確な秩序に従って自ら動くのでしょうか?

これは極めて優れた神様の知恵で、宇宙のすべての物が計画されて創造され、動かされているために可能なことです。創造主の神様がその御力によってすべての物を造られて、すべての物を動かしておられるのです。こういう明らかな証拠があるために、最後の審判の日には誰も弁解することができないのです。

このように創造の明白な証拠を見ながら、なぜ人は神様を信じないのでしょうか? 人は目に見えるもの、手で触れるもの、自分の知識と思いで理解できるものだけを信じようとするからです。

それでは、この自分の知識と思いはどこから来たのでしょうか? 生まれながらにして持って出て来たのでしょうか? この世に生まれて、神様を信じない人々に聞いて習った知識なのではないでしょうか? これらの知識によって、思いが働くようになったのではないでしょうか? 目に見えない神様がおられるという事実や、聖書に書かれている不思議としるしなど、人の力を超えることは認めようとしないのです。

しかし、聖書のすべてのみことばは、明らかに真実です。神様が天地を創造されたことも事実であり、不思議としるしも、御力のわざも、みな実際に起きたことです。創造主の神様だけにおできになることです。人の知識と思いでは限界があり、とうてい理解することも信じることもできないために、聖書を否認しようとしますが、聖書に記された不思議としるしと御力のわざは、すべて事実です。

<ヨハネの福音書 4:48>「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』」とあります。人の限界を超えるしるしと不思議を見ると、人の思いと枠が砕かれます。自分は全く不可能だと思っていたことを神様が行なわれるのを見て、聞いて、体験するとき、これまで自分が学んで正しいと信じてきた知識と神様のみことばが一致しなくても、神様のみことばだけがまことであり、真理であることを認めるようになります。

それで、聖書を見ると、神様は数多くの御力のわざを行なわれて、神様の生きておられることを現してくださいました。神様を信じないエジプトのパロとその家臣たちに、モーセは十の災いで神様を現して見せました。預言者エリヤは天から火を引き下ろして、三年半の日照りの中でも雨を降らせました。イエス様は、しるしと不思議によってご自分が神の御子であることを証しされました。異邦人の使徒であるパウロは、イエス・キリストの御名で病気とわずらいをいやし、悪霊を追い出し、死んだ者を生かしました。

このように創造主である神様だけが行なえるみわざを見るとき、信じなかった人々も創造主の神様を認めました。福音を受け入れて、救い主イエス様を受け入れました。私たちが生きているこの時代にも、このような神様のみわざはどうしても必要です。しるしと不思議を現す神様の御力は、信じない人々に生きておられる創造主の神様を信じるようにする、最も確かな証しになるのです。
 

はじめに:

 

「十字架のことば」は「人類の救いについての神様の摂理」を明らかに説明してくれるみことばです。人類の救いのために世界の始まる前から隠された深い奥 義であり、神様の大きい愛と公義を悟らせてくれるみことばです。

 

クリスチャン ならば誰でも知りたいと思う「神様はどんな方か?」「神様が天地万物と人を創造 して、この地上に生きるようにされた目的は何か?」「神様はなぜ善悪の知識の木を置かれたのか?」「イエス・キリストはどういう方で、なぜイエス様だけが人類の救い主であるのか?」「イエス・キリストを信じるとなぜ救われるのか?」この ようなすべての質問に対する答えがまさに「十字架のことば」に入っています。

 

今までこの説教で多くの人々が神様の驚くべきみわざを体験しました。自分の 罪を心から悔い改めるみわざが起きて、まことの信仰と確かな天国の望みを持つようになりました。罪と悪を捨てて、神様のみことばの中を歩むようになりまし た。メッセージを聞いて、自分の罪を悔い改めた後、イエス キリストの御名で祈 ると、数多くの人々が神様のみわざを体験しました。病気がいやされて、わずらいは完全になりました。

 

悪霊が出て行って、闇の勢力が退きました。十字架に含まれた救いの道を聞いて悟る人はみな、神様がイエス・キリストの御名で施される驚くべきみわざを体験してきたのです。皆さんがミカンを食べるとき、ほかの人がおいしいと言うから、ただ「おいしそうだ」と思っても、実際にミカンの味はわかりません。皮をむいて、直接食べてこそ味がわかって、栄養分を摂取してこそ益になります。信仰も同じです。

 

「主イエスを信じれば救われる。」このように頭だけでわかって救われるのではありせん。また、ただ「信じなさい」と言われるから漠然と「信じます」と言うだけでは、力ある信仰生活はできません。「なぜイエス様だけが救い主であるのか」「イエス様を信じると言うと、どのように救われるのか」その理由を確かに知らなけ ればなりません。

 

そのような人には霊的な信仰が与えられるので、敵である悪魔・サタンが惑わ せないし、伝道する時も、口に出す言葉に権威が伴います。「十字架のことば」を学んで、イエス様がなぜ救い主であるのか、確かに悟られますように。そして、 誰が尋ねても正確に説明できるように、このみことばを完全に糧とされますよう に。それで、まことにイエス・キリストのいのちが内にあって、そのいのちを多くの人々に伝えられますよう、主の御名で祝福して祈ります

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