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ヨブ記講解96 - おのれ自身を知ろう⑤(上)

1 日前
読了時間: 15分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記33:19-24


愛する皆さん、前回は、若い人エリフが自分より正しいヨブをさばいて罪に定める姿を見ました。自分自身もよくわからないから自分は賢いと思って、自分より賢くて知恵のあるヨブを指摘して教えようとしました。皆さんはエリフの姿を通して自分自身を発見することが重要です。まず自分に真理にふさわしくない姿があることを発見してこそ、それを認めて捨てることができるからです。発見することと認めるということは違います。イライラしたとしましょう。その時、自分の心の中に悪があることがわかるでしょう。でもイライラしたその時、自分では気づかないかもしれません。周りの人が、「なんでそんなにイライラしていますか?」と言われてこそわかる場合があります。それで私はイライラしたんだ、とこのように発見することはいいのですが、自分の中にそういう怒りという悪があること、憤りがあることを認めることも重要です。​


でもある人はそれを認めないで言い訳をします。「私イライラしていません。」と言います。でも実際自分の声が大きくなって、顔もちょっと怖くなってこわばっていて、周りの人に指摘されたから認めるしかないのですね。でも「いや、私は相手が私にあまりにもひどいことを言ったから、そう言うしかなかった」と、このように自分を正当化するのです。言い訳をするのです。このように気づいたとしても認めない悪があります。自分がイライラしたことは分かっても、自分の中にそういう憤りという悪があるということを認めない人は、変えられることができません。ですから、私たちは自分自身を発見することも重要ですが、それを認めて変えられなければなりません。ヨブ記講解を聞きながら、エリフの姿を通して自分自身の姿を発見することができます。皆さんは真理の知識を持っているし、聖められたいと思っているからメッセージを聞けば悟りますね。そして自分自身を発見した後、自分に悪がある、憤りがある、また自分の義が強いということを認めて、その後それを捨てる過程がまた必要です。真理に従って自分を打ち叩くという労苦が必要です。​


私はこういう人だとこのように認めて、私は本当に悪い人だ、自分の義が強い人だ、頑固な人だ、高ぶっている、憤りが多い人だと認めなければなりません。私には憤りがあるけれど、あまり多くはないと思ってもいけないでしょう。言い訳をしたり、自分を正当化したりしてはいけないのです。メッセージを聞きながら自分自身を発見したなら、自分の中にある悪を認めて捨てていきますように。ある程度信仰があり真理にあって生きている人でも、神様がご覧になる時の義ではなく自分の義を主張することはないのか顧みましょう。特に真理によって作られた自分の義は、神様がご覧になる時の義と区分がつかない場合がよくあります。これが、神様が試練の過程を通して練ってくださる理由の一つです。霊の心に変えられるためには、明白な悪はもちろん自分の義まで発見して打ち砕くべきですが、これは人の努力だけではできないから、神様が練ってくださり発見させてくださるのです。


ある働き人は、罪と悪をひどく犯したり、肉の行いをしたり、人を憎んだり、妬んだりするこのような姿はありません。しかし性格の枠があります。自分の性格の限界があって、神様の前でもっと忠実になって献身して相手のために犠牲する姿はありません。でも自分の中では、それが悪の属性であることがわからないのです。人に迷惑をかけたり人に害を与える姿は現れていないからです。でも心の中にはそういう性質があるのです。それを神様の前で発見して悔い改めて捨てていかなければなりません。さらに次の信仰の段階に行くのに邪魔になるものかもしれません。自分なりには献身していますが、でも人のために犠牲になったりする姿はないのです。もっと熱くならないのです。自分ができることだけしている場合があります。自分の限界にぶつかって、それ以上成長がないのです。自分に何か明白な罪とか悪とか大きい罪がなくても、自分の義とか性格の枠とかがあるということを発見しなければなりません。


それぞれの信仰の量りや器によって練られる方法と程度は違うのですが、誰でも耕作を受けている間試練に合う過程はあります。その試練の過程を通して、自分をどのくらい発見してどのくらい速やかに捨てていくかによって、その時間が短くなることがあります。ですから皆さん、メッセージを聞くとき、人のことだと思って裁くのではなくて、自分自身を発見しますように。そして火のように祈って、すべての枠と自分の義を打ち砕いて、完全な真理の人に変えられますよう、主の御名によって祈ります。前回、エリフはヨブに言いました。「神様は人が間違ったところから立ち返るように、高ぶらないようにするために、夢や幻などいろいろな方法で語ってくださる。」また、「神様を愛する正しい人は、命が危なくなる環境でも神様は救ってくださる。」と言いました。これは、ヨブが正しい人ではないから神様は答えてくださらないし、今の苦しみから救ってくださらないのだという意味で言うことでした。


続く本文ヨブ記33:19です。


あるいは、人を床の上で痛みによって責め、その骨の多くをしびれさせる。(ヨブ記33:19)


ここで人とはヨブを指しています。エリフはヨブに直接、「あなたは、神様に懲らしめられて病気で苦しんでいる」と表現するよりは、「神様は、人を悟らせるために病気で懲らしめるのだ」と、間接的な表現を使っています。そして、病気によって懲らしめられている人の苦しみがどうなのかを描写します。


ヨブ記33:20-22です。


彼のいのちは食物をいとい、そのたましいはうまい物をいとう。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる、そのたましいはよみの穴に近づき、そのいのちは殺す者たちに近づく。(ヨブ記33:20-22)


病気気や事故によって苦しんだことがある人は、この言葉を実感できるでしょう。ひどい風邪をひいたときも全身が痛いでしょう。ヨブのように重い病気ならその苦しみはどうでしょうか?皮膚病によって醜くなった皮膚と、また痩せてしまい骨と皮だけ残っている姿で、だから寝ていても痛いしよく眠れないのです。ヨブは体の痛みだけではなく、人から非難され、あざけられ、精神的に苦しんでいます。この状態では食欲もないから、食事もしたくないし、ごちそうを持ってき来ても見ることさえ嫌です。「どうすればこの苦しみから抜け出すことができるだろうか」と思いながら痛みと戦っていたら、食欲がないのです。22節に「そのたましいはよみの穴に近づき、そのいのちを殺す者たちに近づく。」とあります。これは死に近づいているという意味です。


皆さん、家族や知り合いの中で、長い間病気で苦しみを受けている人がいるならどうでしょうか?皆さんが、その家族やまた知り合いの看病する立場でなくても、長い間病気で苦しんでいる人を客観的に考えてみてください。その病気が1年、2年、3年、5年、7年と長くなるほど、当事者は体の痛みだけではなく精神的にまで苦しむようになります。韓国のことわざに、長い病気に親孝行もいなくなるという言葉があります。いくら親孝行する子どもでも、親の病気が長くなれば疲れてしまい、その心が変わることもあるという意味です。病気の家族を看病しながら大変な顔をしなくても、病気の人の立場では家族の顔色をうかがうし、お荷物になるようでいつも申し訳ないし苦しいでしょう。しかも病人を冷たい目で見たり近寄らないならば、その病人の心はどうでしょうか?私たちは病気の人を見ると、自分がその病気になったと思ってその立場を理解して、憐れんで愛の心を持って接しなければなりません。皆さんの温かい言葉と愛の配慮によって、相手の心が楽になるようにしましょう。


しかしエリフは、ヨブ慰めるどころか、「あなたが悪いから神様があなたを捨てた。あなたは死に近づいている。」と責めています。病気で寝たきりになっている人に、「あなたの罪のためこの苦しみを受けているのです。」と言っても、それが慰めになるでしょうか。エリフはヨブの三人の友達と同じやり方でヨブを責め立てているから、ヨブは何も悟れないし、怒りを刺激されるしかありませんでした。たとえヨブが罪を犯して試練にあっていても、厳しく責め立てることは善でも愛でもありません。私たちのイエス様はどうなさいましたか?イスカリオテ・ユダが裏切ることをご存知でも、あなたはこれから私を売るものだからと言わなかったし、何としてでも彼が立ち返るように最後まで愛を持って接してくださいました。今の明白な罪とそれによる結果をよく知っていますが、彼を愛していたから憐れんでくださり、諦めない愛を持って悟らせてくださいました。


このような愛がなかったなら、イエス様がそのような善を持っておられなかったならば、弟子たちの前でイスカリオテ・ユダを責めたかもしれません。後でイエス様を売るだけではなく、その時も彼は盗んでいたのではありませんか。金入れを管理させたのにその中から盗んでいたのです。これを指摘したりまたその使命を奪ったりしたのではありませんでした。また十二弟子の資格を奪ったのでもありません。イエス様は愛をもってこのように憐みを持って接してくださいました。皆さんならどのようにするでしょうか?相手の短所や相手の欠点、又良くないところを皆さんが忘れないでずっと覚えていたり、その人を見るたびにそれが思い浮かぶことはありませんか?しかし真理の人はそうではありません。普段はその人が以前した悪を思わないのです。思い浮かばないのです。だから心は善に変えられなければなりません。昔あの人に傷つけられて、またその人によって害を受けたことがあるからといって、ずっと根に持っていて、その人を見るたびに嫌な思いをすることも、心の悪を捨てなかったからです。


前の聖殿でのことですが、教会を離れた人々が、私たちが年末の事務総会をしていたとき、その場に来てちょっと騒ぎを起こしたことがあったのです。私はそのようなことが起こることは予想もできなかったし、礼拝が終わってから講壇で司式をしようとしていたら、そのような人々が聖殿で大声を出して騒ぎを起こしたりしました。私は教会を離れた人々が、聖殿でそのようなことをすることは想像もできませんでした。リバイバル聖会の時は、癒されて証をするために多くの方が聖殿の通路に立っていたり、また祈りを受けるために並んでいたりすることがあったのですが、その時は、人々がその聖殿の通路に立っていて、皆さんも立って互いに対立している姿を見ました。私は講壇の上でそれを見てちょっとショックを受けたのですが、それでもそれ以上争いにならないように皆さんを落ち着かせて、私も驚いたそぶりを見せなかったのです。そして、司式をする人として私は冷静になって落ち着いた声で、その乱入した人々にも丁寧にまた優しい言葉で、「このようなことはしないでください。」とお願いしました。


でも私はその時、そのような人々が指をさしながら大きい声で叫んでいてまた騒いでいた姿が、また思い浮かびました。主日が過ぎて月曜日になって、主日はその騒ぎがあったのでその会議はできなかったので、月曜日に再会にされることになったのですが、私は、実は主日の夜あまり眠れなかったのです。そして月曜日の会議の時その人々が来て、もし妨害するならどうしようとちょっと心の中で心配になりました。でも祈りながらそういう思いを退けました。私が今まで見たことのない場面だったのでそれが思い浮かんだのですが、でも祈りながらそれを退けたのです。そしたらだんだん心の中が平安になって、そしてそういう姿も思い浮かばないようになりました。そして神様が守ってくださることを信じていたし、また働き人の皆さんも、そのような人々が入らないように徹底的に守ってくださるだろうと思って、そうしたら不安がなくなって平安になりました。そして、送迎礼拝も平安のうちに神様の前に捧げることができました。


私はその主日、また月曜日の時間を経験しながら、これはあまりにも私にとっては大きいショックだったので、もしかして後でトラウマとして残るのではないかと思うくらいだったのです。私は、祈りながらそして神様に委ねて、そして自分の受けたショックを退けました。そしてそのように乱入して騒ぎを起こした人々の顔も忘れました。自分に何か残っていてそれを根に持っていたり、また時々浮かぶこともなかったのです。数年経って今その時のことを考えても、そのため後で何か私に悪い影響があったことはなかったのですね。それで本当に感謝でした。信仰があって神様の恵みがあったから、そのような大きいショックを受けた時、それが私に何か悪い影響を与えなかったと思ってとても感謝でした。そしてそのような人々に対しても、負の感情を抱くとかそういうのはなかったのですね。だから皆さんも誰かが自分を苦しめても、自分の心の中に愛があるならばそれによって悪い影響を受けたりすることはないのです。


誰かに例えば悪態をつかれたとしましょう。その後またその人に会った時、前のことが思い浮かんで怖いと思ったり、会いたくないなと思ったりすることがなくなるのです。皆さんも今まで過去に何か苦しいことがあったり、また家族によって傷ついたり、周りの人によって悲しい思いをしたり、ショックを受けたことがあったかもしれないのですが、それがずっと残っていて、そのためにたびたび自分にそれが良くない影響を与えたりするならば、今は神様の愛、主の愛で心を満たして、そのような記憶は忘れるようにしてください。神様の愛で心が満たされるとそういうことはなくなるのです。またどんな人も許すことができるようになり、また人を裁いたり罪に定めることもなくなります。だから人間関係で苦しみを受けたり、また環境の中で苦しみを受けることもなくなるでしょう。


イエス様は、イスカイオテ・ユダが罪を犯していることを知っていても彼を罪に定めないで、その罪から立ち返るように愛を持って悟らせてくださいました。牧者もそうでした。牧会をしながら時には聖霊様が教えてくださることがありますね。誰々は裏切る者だ。誰々は害を与える者だと。しかし牧者は一度も彼らを罪に定めたこともないし、何としてでも変えられるように、祈りながら愛をもって悟らせてくださいました。そして何度も許してくださいました。後で教会に害を与えて牧者を裏切るような人でも、その人から使命を外したことはないのです。人は自分の利益のために、周りの人の中で自分に不利益になるような人と、それ以上関係を切ってしまう人もいるのですが、牧者はそうではなかったのです。実際そのような人が後で裏切って悪を行って、教会に大きな害を与えたとしましょう。でも牧者に聖霊が前もって教えてくださったから、それに対処することができるでしょう。それでもし被害を受けたとしても、相手を許して最後まで善を行うことが愛です。牧者はそうでした。私もそのような牧者を見ながらその愛に感動しました。自分がそのような被害を受けたくないから、また裏切るような人をそばに来させたくないから、そのような人を退けるのではなくて、そのような人を救われるように、また変えられるように心に抱いて、最後まで愛をもって接する牧者の姿でした。


それで私は牧者を見習って、私もそうしようと思います。そうすれば神様が慰めてくださり、神様が認めてくださるのです。でも私の方から周りの人々の中で、もし後で害を与える人だからといって裏切る人だからといって退けるならば、それは神様の前で広い心でもないし、善でもないし、愛でもないでしょう。牧者のその愛があったので、今の私たちがいられるのではありませんか。牧者の犠牲と寛容によって今の私たちがいられるのです。これを忘れてはいけません。神様は私たちにも、このような愛と憐れみを望んでおられます。イエス様は自分に従う人だけではなく、十字架につける人のためにも、十字架で命を捧げてくださいました。


私たちは皆罪人だったし死の刑罰を受けるしかなかったのですが、神様の憐れみによって許されて天国を望むようになりました。もし私たちが相手を憐れむことができないなら、それは一万タラントの借りのある人が免除されたのに、自分に百デナリの借りのある人を許さなかったことと同じです。自分は数十億の借りがあってそれを免除されたのに、そのような恵みを受けた人が、自分に数百万の借りのある人を許さないで、その人を訴えて監獄に入れてしまう姿と同じだということです。ですからいくら欠けているところの多い人がいても、その人のために十字架を追ってくださった主の心をもって接して、愛と憐れみをもって接しましょう


続く本文です。ヨブ記33:23-24です。


もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」(ヨブ記33:23-24)


「わたしは身代金を得た。」ということは、神様がヨブの悔い改めを受け入れて許してくださるという意味です。エリフはヨブにあなたが死の直前になった時、もし多くの御使いの中からひとりが、「この人はこのように正しいことをしました」とあなたの代わりに代弁してくれるなら、神様はあなたを憐れんですぐ救ってくださるだろうと言っているのです。実際にイエス・キリストを信じて神の子供とされた人々には、助ける御使いが最小限一人はついています。ヘブル1:14に「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」とあります。また天国には地球上の全ての人、救われた人だけではなくそうではない人も含めて、全ての人の一挙手一投足を記録する御使いがいます。一人当たり一人ずつがついていて、それぞれの人が生まれて死ぬまでの全ての言葉と行いを記録しますが、これは将来白い御座の大審判の時、裁きの証拠資料として提示されます。クリスチャンでもノンクリスチャンでも、すべての人についての記録が残っているのです。


イエス様は、マタイ18:10で「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」と言われました。ところで本文でエリフがヨブに言ったことは、御使いがヨブを見て、認めるような一つの正しいこともないという意味で言っているのです。「ヨブ、もし小さい一つでも正しいことをしていたなら、神様は今でも救ってくださるだろうに」というのです。これは、ヨブはあまりにも悪がいっぱいで救われるようなところが全然ない人だと、罵倒しているのです。これを聞くヨブはどれほど悔しいでしょうか。続いてエりフはもしヨブに一つだけでもその義が認められるなら次のように祝福されるだろうと言います。

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