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ヨブ記講解91 - ヨブの義(3-上)

3 日前
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記31:29-34


ヨブ記講解が90回を超えて、今日で91回目です。説教する立場でこのような長編のメッセージは初めてです。90回を超えたら、長い間、長編のメッセージを伝えてきたんだと思って嬉しくなりました。このメッセージを皆さんも聞いて、多くの方が変えられると信じます。ヨブの正しいところ、良いところは見習って、欠けているところはそれを通して自分を発見して、変えられていきましょう。愛する皆さん、私たちはヨブ記31章を通して、ヨブが普段からどれほど正しい生き方をしていたのか具体的に調べています。ヨブは貧しい人やみなしご、やもめに施しをしたし、宇宙万物何を見てもそれを拝んだり、人間的な感情の中で誘惑されなかったと言いました。又、自分がもしかして過ちを犯したことがあるなら、その代価を堂々と払う心であり、物欲もなく、神様に対する自分の道理を守ったと言いました。​


ヨブの生き方は、今日聖霊を受けて信仰生活をしている私たちの観点から見ても、とても学ぶところが多いです。しかしヨブは、神様の心を推し測ることができず、神様の愛を感じるよりは災いを恐れる信仰でした。愛の神様を見つけることができなかったので、神様を誤解して恐れながら義を守っていきました。私は若者に会う時がありますが、神様を見つけた体験があるのか聞く場合があります。ご両親は神様を見つけた体験があるから、変わらずに信仰生活ができますが、若者は、万民教会に通っている親の下で育って教会生活をしているから、何か劇的に神様を見つける体験がない時もあります。知識的な信仰だけ持っていて、何か大きいきっかけがあって神様を見つけたり経験したりする、そのようなことはない場合もあります。そのような人々は、自分の信仰を捨てたり、またすぐ心が揺れたりする人もいるのですが、そうでない万民の子どもと青年もいるでしょう。それでそのような若者に会って聞いてみたら、皆さんにいろんな証があってとても嬉しかったです。でも「まだそういう体験がないです。」という方もいました。それでその方々のために祈るようになります。​


目で何かを見たり、神様の姿を見ることはできないのですが、霊の目が開かれて見るとしても光ぐらい見るでしょう。神様の光はあまりにも眩しいからそれも難しいかもしれません。でも、自分の日常生活で神様を体験することはあります。それによって神様の愛を感じるということはとても重要だと思います。人が人と会ってその手を握るとその温もりを感じるように、神様も主も、私たちが神様を感じて主を感じて、近くにおられることを感じているならどれほどいいでしょうか。祈る時も、遠くに天におられる神様に漠然とした感じで祈るのではなくて、すぐそばで優しく聞いてくださる神様の前で祈るならば、どれほどいいでしょうか。私は皆さんに会う時やまたダニエル祈祷会をする時、 私が祈る内容を皆さんが録音して聞くという方もいるでしょう。私は驚きました。私は、聞いたメッセージを自分が思い出しながら、そのためにいつも御言葉を握って祈っていました。例えば霊の愛についてのメッセージを聞いたならば、その愛は寛容でありという御言葉について説明してくださったその内容を思い出して、祈る時そのために祈るのです。愛は寛容でありとあるのですが、私はどのくらい人に対して寛容であるのか、どのくらい広い心で受け入れているのか、どのくらい愛を持って耐えしのんでいるのかなどを、自分自身を顧みながら毎日祈りました。それがただ一日二日で終わったのではなくて、数年間そのように祈っていました。​


もちろんいつも同じ内容を繰り返しているわけではなくて、そのような霊の愛を所有するために祈っていたら、だんだん祈りが深くなり、だんだん悟ることも深くなりました。今は個人の祈りのために、愛の章とかのメッセージで祈ることはないのですが、私の願いを神様に捧げるのですが、その内容は聖徒のため教会のため神の国のためになりますね。それを皆さんが恵みを受けて、その真似をしようと録音するという話を聞きました。私は何か考えて、これを祈ろうとかあれを祈ろうとかすることはありません。祈る時はただ跪いて神様に委ねて、また御霊によって聖霊が示してくださる通りに祈るのです。集中して祈っていればそのように雑念はなくなり、自分の考えとか思いもなくなり、聖霊に導かれて御霊によって祈ることができます。霊の祈りができます。​


そのような時は、本当に神様の御前で、神様に祈りを捧げていることを感じます。皆さんもそのような体験をすれば、祈る時間がとても幸せになります。仕事で一日中疲れた体で祈るとしても、祈る時は神様が新しい力をくださり、また聖霊に満たされれば自分の力で祈るのではありません。聖霊に支えられて、また御霊によって神様の前でこのように幸せな心で祈ることができます。しかし、ヨブにはこのような神様を見つけた体験がなかったのですね。神様の愛を感じる体験もなかったのです。ただ自分が先祖から神様について聞いて、神様が命令する通りに律法を守ってきました。でも厳しい試練にあって自分が苦しみにあったら、神様に対してつぶやくようになりました。ですから皆さんは神様を見つけること、体験することがどれほど重要なのかを悟り感謝しますように。


神様をただ恐れて御言葉を行うのではなく、神様を愛して神様が正しいと見てくださることを守るのです。しかしヨブはそうではなかったから、このように試練にあって練られているのです。神様が人間耕作をなさる理由がこれです。神様の心を悟って神様と真の愛を分かち合うことができる真の子供になるためです。神様とのそのような親密な関係になっているならどれほど良いでしょうか。そして聖霊様がすぐ答えをくださいます。何かについて疑問があったり気になったりして祈れば、神様が教えてくださり聖霊様が教えてくださいます。そして神様への信頼、信仰が確かならば、どんな状況でも神様を信じるから、神様に全てを委ねることができます。アブラハムがそうでした。自分のひとり子を神様が全焼の生贄として捧げなさいと言われた時も、アブラハムは、神様が死んだ人も生き返らせてくださる方であることを信じていたので、神様の命令に喜んで従うことができました。ですから皆さんもどんな状況に置かれても、神様を完全に信じる皆さんになりますように。そのような神様との信頼関係が強くなっているならば、どんな状況に置かれても、悲しんだり嘆いたりつぶやいたりしないでしょう。神様の御心がその時は分からなくても、神様を信じているならば神様に委ねて進んでいくことができます。今日のメッセージを聞いて、ヨブの姿から自分自身を発見して変えられて、神様の心を悟って、真の愛を分かち合う真の子供になりますように。今日もヨブが語っている彼の義について調べてみましょう。


ヨブ記31:29-30です。


あるいは、私を憎む者の衰えているのを私が見て喜び、彼にわざわいが下ったとき、喜び勇んだことがあろうか。私は自分の口に罪を犯させなかった。のろって彼のいのちを求めようともしなかった。(ヨブ記31:29-30)


ヨブは、自分を憎んでいる人が災いにあったり、衰えるのを喜んだことはないと言いました。又、その人が死ぬのを望んだこともない、呪ったこともないと言っています。では、これはあっているでしょうか?前のメッセージの内容を覚えている皆さんなら、そうではないということがわかるでしょう。31章29-30節でヨブはそうではなかったのにと思う方がいるでしょう。ヨブは、以前自分を迫害して自分を非難する人々に対して、いろんなことで呪ったり、恐ろしい呪いの言葉を口にしたり、非難したり、あざけたりしていました。友達に対してもそうだったでしょう。ヨブ記30:1に、「しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。」と言いました。自分をあざ笑う若者たちだけではなく、その父親までこのように侮辱しているのです。皆さんもこういうことはありませんか?誰かが皆さんを憎んで、皆さんの悪口を言ってその人と喧嘩をするようになるならば、皆さんも相手の悪いところ相手の弱点を攻撃したり、相手の家族のことまでも非難したりすることもあるのではありませんか?夫婦喧嘩をする時も、配偶者にだけ不満を言うのではなくて、その配偶者の親まで悪く言う人もいます。このように互いに憎んで感情的になってしまうとこのような場合があります。


ヨブ記27:14-15では、「たとい、彼の子どもたちがふえても、剣にかかる。その子孫はパンに飽きたることはない。」と言っています。15節「その生き残った者も死んで葬られ、そのやもめらは泣きもしない。」とあります。これは悪い当事者だけではなく、その子孫まで裁かれるべきだと言っていることだから、どれほど悪い言葉でしょうか。本文で、私は自分の口に罪を犯させなかったという言葉とは完全に矛盾しています。ヨブは施しもたくさんして善行も行ったのですが、これは自分に反対しない人、自分の味方になってくれる人に施しをする限界のある善でした。皆さんはどうでしょうか?周りの人に自分が良くしていると思いますか?それは、自分と気が合う人、自分が好きな人にだけしているのではありませんか?自分と合わない人、苦手な人、また自分が嫌う人はどうでしょう?もちろん私たちは自分の家族を顧みてそして親戚を顧みて、その他、いろんな知り合いとか近所の人とかまでもこのように顧みればいいと思いますが、皆さんを憎んで皆さんに悪い事をする人でも私たちは愛さなければならないのです。


もしヨブが、自分を迫害して自分を苦しめる人も理解して赦して、憐れむことができる心だったならば、今のような試練に合わなくてもよかったでしょう。しかしヨブはこのような霊的な次元の義はわからなかったのです。普通の人よりは良くて正しかったのですが、ヨブは完全な義ではなかったのです。霊的な義はどうでしょう。誰かが右の頬を打ったら左の頬を向けるような心。誰かが下着を取ろうとすると上着までも与える心。また敵が一ミリオン行こうと強いるならば二ミリオン一緒に行く。そういう心です。これが、神様が望んでおられる義です。神様はヨブにこのような義の心を持つように望んでおられました。


初信の者の皆さん、メッセージを聞きながら、神様が望んでおられる義というものはこんなにレベルが高いのか。そのように次元が高いのか。ヨブはそのような義ではなかったからこんなに厳しい試練にあったのかなと思って、神様を信じることは難しいと思わないでください。神様は信仰の量りに合わせてくださいます。ヨブはそれだけの器だったのですが、今、ここに来たばかりの人に、そのような義を求めるのではありません。ただしこのような次元の義というもあることは知っておいて、このようにだんだん信仰が成長して、そこまで至ればいいでしょう。神様はこのように、神様を愛して正しくなるために頑張っている人ならば喜んでくださり、助けてくださいます。神様は私たちにイエス様の心のようになるように望んでおられます。自分を十字架につける人々のために、「彼らを赦してください。」と祈ってくださったでしょう。そしてステパノ執事のように自分を殺そうとする人のために、とりなしの祈りをされたでしょう。このような完全な霊の次元に至るように神様は望んでおられます。私たちにもこのような心になるように望んでおられます。


皆さんも挑戦しましょう。私もそうなりたいです。神様が望んでおられる心を持ちたいです。神様の心、主の心に似ていきたいです。そうやって実現するなら、どれほど神様が喜ばれるでしょうか。神様にさらに心が似たそっくりの人ならば神様の近くにいるでしょう。そしてこの地上でも、どれほどあふれる祝福を神様がくださるでしょうか。その祈りも聞いてくださるし、神の力も授けてくださるでしょう。そのために私たちは走っています。悪い人だからといってその人が悪くなるのを望むのではなくて、主の心で憐れみ赦して、その人も救われるようにと祈らなければなりません。ヨブは聖霊を受けていなかったので、霊的な次元の義と善を悟るのは難しかったのです。しかし私たちは聖霊様が心におられ助けてくださるので、ヨブのような厳しい試練に遭わなくても、悟ることができるからどれほど感謝でしょうか。ただ悟ることで終わるのではなくて、速やかに義の実を結びましょう。続く本文を読むと、ヨブがどれほど徳を高めて慈悲深い人だったのか分かります。


ヨブ記31:31です。


いったい、私の天幕の人々で、「だれか、彼の肉に飽き足りなかった者はいないか」と言わなかったことがあろうか。(ヨブ記31:31)


ヨブは、自分の家で働いているしもべでも差別しないで食べさせました。十分に。隣人を、自分の体のように愛する心で善を施しました。皆さんの姿はどうでしょうか?目下の人だからといって失礼なことを言ったり、又みすぼらしい姿だからといって差別することはなかったでしょうか?神様は差別されない方です。同じ愛と救いの恵みを施す方です。ローマ3:22です。「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」とあります。私たちも全ての人に対して平等に対して心から仕えなければなりません。また困っていて弱い人、疎外された人ならば、もっと憐れみと愛を持って祈りながら顧みなければならないでしょう。もっと祈らなければなりません。続けてヨブの正しい生き方を調べてみましょう。


ヨブ記31:の32です。


異国人は外で夜を過ごさず、私は戸口を通りに向けてあけている。(ヨブ記31:32)


ヨブは異国人が外で夜を過ごさないように自分の家に入れました。今日は、ヨブのように愛を持って行う人もあまりいません。愛があっても自由に助けることもできないと思います。異国人、また旅人を自分の家に入れ泊めることも今は難しい時代になってしまいました。世の中にあまりにも罪がはびこっていて隣人の間でも信頼できないし、知らない人を家に入れることは今の時代では難しいでしょう。しかし愛と配慮の心があるならば、善を行う方法はいくらでもあります。元老牧師先生は、このメッセージをする時、教会を開拓する前に市場でお店を運営していた時のことを言ってくださいました。その時代には精神異常者とか、寝るところがなく夜さまよっている人もいました。彼らの中で店の前で寝ようとする人がいるならば、中に入ってくださいと勧めました。それでも入らない場合は、布団を出して道に敷いてかけてあげました。皆さんはどうでしょう?最近誰かが皆さんの家の前で野宿をするならばどうでしょう?普通の人なら、通報したりまた追い出したりすることもあると思います。そして、このように家の中に入れたり、また布団をかけてあげたりすることは今の時代にはあまりないと思います。元老牧師先生はこのような善を行いました。


でも先生は、このメッセージをする時、このような行動をこれは善だと言わないで、人の基本的な道理だと、当然なことをしたまでだと言われました。神の子供たちは隣人を自分自身のように愛して、相手が悲しむ時同じ心で悲しみ顧みてキリストの香りを放たなければなりません。私はこのような善の行いについて考えてみれば、子供の時のことを思い浮かぶようになります。その時は家の中に浴場がなかったので、主日に備えて土曜日は母と一緒に銭湯に行って、体をきれいにして帰ってきたことを覚えています。母はこの時銭湯に行って、お年寄りの方が一人で来ている方がいれば、私たち娘に「行って、その方の背中を洗うのを手伝いなさい。」とこのように言いました。私たちも何度かそのようなことをしてみたら、そのような方々が喜んでくださったので、私たちも嬉しくなって、その次からは自分たちがまずそのように行って、お年寄りの方々の背中を洗ったりしました。このように母は人に仕える、年配者に仕える、このようなことを教えてくださいました。そしてある時は私より小さい子がいて、「私が背中を洗ってあげる」とこのように聞いてみたりしたこともあります。もちろん知らない子です。このように些細なことですけれども、その時は互いにこのように助け合っているのが当然だったのですね。


そして坂道で例えばお年寄りの方が重い荷物を背負っていくならば、当然私たちはその荷物をかわりに持ってあげたりしたのですが、今はそういうのも難しいのですね。だんだん個人主義になってしまって、互いにこのように自分の荷物とかカバンとかを任せることができなくなってしまいました。私たちは日常生活で些細なことでも相手に配慮すること、そしてまず自分が何かすべきことを探してすることが、キリストの香りを放って良い行いを見せることだと思います。会社に早く出勤して周りの人のデスクの周りを片付けたり掃除したりすることもいいでしょう。また学校でもそうですね。新学期を迎えると新しいクラスになって、私はいつも伝道する対象を探しました。その中でもちょっと優しそうな人がいれば、あの子に伝道しようかと思って話しかけたりしたのですが、私たちがこのように日常生活で小さいことですけれども、善を行っていれば周りの人も関心を持ってくるでしょう。ヨブは聖霊を受けていなかったのですが、その愛の心をもって善を行っていました。私たちは聖霊を受けたしイエス・キリストの愛と恵みをいただいたから、より大きい愛を行わなければならないでしょう。


ヨブ記31:33-34です。


あるいは、私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか。私が群衆の騒ぎにおびえ、一族のさげすみを恐れて黙り、門を出なかったことがあろうか。(ヨブ記31:33-34)


ヨブは多くの人が問題を解決してくださいと助けを求める時も、そのようなことで隠れたり、人の言葉を恐れて外に出なかったりしたことはなかったと言っています。大礼拝の時も言いましたけれども、学校でも会社でもそうです。例えばのけものにされる人がいるとしましょう。いじめの対象になる人がいるならば、周りの人もその子を助けようとしないのですね。なぜならその子を助けたならば、自分がいじめられるようになってしまうからです。ヨブはそういう場合、それを恐れて人を助けるのをやめなかったと今言っているのです。自分が被害を受けるのではないかと思って、善を行うことをためらわなかったと言っているのです。またヨブは、自分の過ちとか罪を隠したこともないと言っています。そういうことは重い罪だと思ったからです。自分が正しいと思うことを行わなければ、自分を罪人だと思うくらい正しくて真実な心を持っていました。


皆さん私たちはどんな状況でも卑怯だったり、ずる賢い人になってはいけません。人々の中で自分の過ちを隠したり、人のことに関して事実を言うことをためらう人がいます。事実をそのまま言えば、もしかして自分が誤解されることはないのかと思ったり、目上の人に目をつけられて、何か不利益が自分に来るかもしれないと恐れてためらうのです。相手を本当に愛するなら、自分が損することを恐れずに真実を教えなければならないでしょう。もし相手が秩序で上の方ならば、祈って善の知恵をいただいて、道理から離れないくらいの助言をしなければならないでしょう。上の人が下の人に言う時も同じです。気をつけて、その人が傷つかないようにしなければならないでしょう。怒鳴ったりまた厳しく言ったりするのではなくて、相手が受け入れるように優しい口調で言って、でも正確に説明すれば相手も聞くでしょう。そして目上の人に何か必要なことがあって助言をするならば、その人の機嫌が良い時や雰囲気が良くなった時、ストレートにではなくてちょっとその人が分かるくらいにして説明すれば、多分相手の人も分かると思います。受け入れると思います。真実は通じ合うからです。愛をもって、善を持って、相手に仕える心で進めるならば、その相手も気分を悪くしないで耳を傾けるでしょう。(つづく)

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