ヨブ記講解97 - おのれ自身を知ろう⑥(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記33:31-34:1-2
ヨブ記33:31です。
耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。(ヨブ記33:31)
エリフがヨブに「黙れ。あなたを教えよう。」と言っている言葉は、全然正しくないのです。皆さんは家族の中で、もしかしてこういう姿ではありませんか?自分が言いたいことがあるのに相手がそれを聞かないで言ってくる時、それが嫌でイライラして、「黙れ。」とか、「私の話を聞け。」とかこのように強く言う場合はありませんか?そして相手の言うことを無視したり、相手の言っていることから言いがかりをつけようとしたりしている姿はありませんか?今エリフがそうしているのです。ヨブが何かを言おうとしたら「黙れ。」と言っているのです。皆さんにはこういう姿がありませんか?親がそうしているなら、子供は親と話したくなくなってしまうでしょう。家庭内でこのように、親子の関係で平和がなかったり会話がなかったりしているなら、ギクシャクしているなら自分の姿を顧みますように。それでこれからはさらに平和を求めていきますように。皆さんも話したいことはたくさんあるかもしれないのですが、でも相手の話を聞いてあげましょう。そのようなゆとりと広い心を持ちましょう。そして自分が正しいと思っていることも、たくさんしゃべるよりは一つ行いで見せましょう。
エリフは自分自身も発見できない人だし、心に悪がたくさんあるのに、どうして人を教えることができるでしょうか。まず自分自身を発見して、肉を打ち砕いて真理で変えられた人が、相手を見て正確に見分けることができます。このような人が教えることは、人の知恵ではなく聖霊がその心と唇を導いてくださって、神様の知恵によって語るようになります。人は誰も人の心を正確にわからないし、また治すことも難しいです。これを覚えていてください。人は人の根本の心を治すことはできません。人が人の性格を直そうとしてもできないのです。でも、家族の中で、夫婦の間で、親子の間でそのようにしている姿はありませんか?相手に直してほしいところがあるから、何度も同じことを指摘したり叱ったりするのですが、でも自分でするのではなくて、神様がしてくださるようにしなければなりません。私はメッセージを伝えていて、皆さんが変えられて、また恵みを受けて悔い改めることは本当に感謝ですが、私の能力ではありません。神様がそうしてくださるのです。聖霊の御業なのです。私がすることではありません。私の能力のことではありません。私はただ皆様のために祈ってメッセージを伝えるだけで、皆さんの心を動かしてくださることは神様で聖霊様です。神様だけがおできになることです。
だから親の皆さんは、自分の子供に正確に何か問題があったり、また直してほしいところがあるならば、皆さんが神様の前に喜ばれる行いをまず見せて、そして善を持って子供のために祈りましょう。皆さんが神様に喜ばれるならば、敵である悪魔サタンが退くようになります。すると子どもが変えられるようになるのです。そうではありませんか?そうではなくて、子どもに何か不満があって直してほしいところがあるから、それを指摘したりまた叱ったりするならば、自分が感情的になってそうしてしまうならば、エリフのような姿です。神様だけが人の心を変えさせることができます。マタイ19:26で「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」とあります。私たちが変えられることも神様の力で恵みです。神様はどんなふうに働いてくださるでしょうか?
エゼキエル36:26に「あなた方に新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。ここで新しい霊とは聖霊のことです。聖霊が来られれば人々の罪に染まった固い心を柔らかい善の心に造り変えてくださるのです。聖霊が私たちの心に働きかけてくださり、罪と悪を悟らせてくださるのです。それで、私たちが火のように祈って断食しなから神様に求めると、上から力と恵みが臨み、心が変えられます。だから皆さんが自分を発見することも、真理の人に変えられることもただ神様の恵みです。神の力によって変えられる前のモーセとかヨハネ、使徒パウロの姿を見てみれば、短気な姿、性格がありました。しかし神様の恵みと力が彼らに臨むと、モーセはすべての人より謙遜な人に変えられました 。ヨハネは神様の愛を伝える愛の使徒になりました。使徒パウロは、どんな迫害や患難の中でも喜び感謝する人に変えられました。このように神の力ではいくらでも、性格の短所を直して欠けているところを満たして変えられることができます。これを信じますように。
私も自分の性格が完全だとか完璧だとか思ったことがありません。私も欠けているところがあります。それでいつもそのために祈っています。周りを見てみれば何か理解できなかったし、そしてどうしてあのようにしているのだろうと思うところもありました。それで私が目上の人だった時、また身近な人にはあれこれ指摘したり論じたりする人でした。しかしある日悟りました。私は、あの人は理解できないとか、あの人はどうしてこれをこんなふうにするのかと思っている。しかし、本当に完全な人、完璧な人はいるのかと考えてみたらいないのです。私も同じです。そして私を基準にして人を見たら、どんな人でも欠けているところはあるのですね。でも牧者はそのような人も、みんな神様に尊く用いられる人、可能性のある人、良い面がある人として受け入れてくださるのです。「私が見てはあの人は明白に間違っています。こうしてはいけないでしょう。」と牧者に報告したら先生は、「それでもこういう他のところでは熱心だから、こういう良い面もあるから。」と言ってくださいました。
それで、私は先生のそういう姿を見て、自分を顧みながら涙で自分を悔い改めたことがあります。
どうして私は人の良くないところがまず見えるのだろう。どうして相手の欠けているところが目につくのだろうと思いながら、自分の狭い器に、神様の前に申し訳なくて悔い改めました。それでそのためにさらに広い心になるために祈ったら、だんだん人を見る目が変わるようになって、この人も今、口の言葉は少しこのように乱暴かもしれないけれど、心はそうではなくて何か事情があるとか、そして理解できないようなことがあっても、その人にはこういう良いところがあるから、自分なりに教会のためにしたことだからと、このように理解できるようになりました。それで多くの人を理解できるようになって受け入れるようになるから、自分の心に平安が臨み心の中が穏やかになって、どんな人に対しても穏やかに接することができるようになりました。それでどの様な人も受け入れて理解できるようになりました。
皆さんが、 「あまりにも私は変えられるのが遅いから申し訳ない。」と思って祈っているならば、その祈りを神様聞いてくださるでしょう。そして悔い改めて涙で祈っているなら、神様がそれを見て憐れんでくださり恵みをくださると信じます。神様が私たちと共におられるからです。それを信じますように。また自分自身だけではなく周りの人も同じように、神様の恵みがあるということを信じましょう。神様の恵みと力によって、どんな人も変えられることができると、このように信じて期待して耐え忍びましょう。そうすればエリフのような見方ではなくて、神様がヨブを見ておられる、そういう神様の観点から周りの人を見るようになるでしょう。神様は、ヨブが変えられるのを期待しながら見ておられるでしょう。これから調べてみる34章では、エリフの自分の錯覚することや高ぶりがもっと明らかになります
ヨブ記34:1-2です。
エリフは続けて言った。知恵のある人々よ。私の言い分を聞け。知識のある人々よ。私に耳を傾けよ。(ヨブ記34:1-2)
エリフが、「知恵のある人々よ、聞け」と言うのは、ヨブと彼の友達と周りの人々に言っている言葉です。自分が賢いと思っている、「皆さん、私はあなたたちより優れた知識を持っているから、私から学びなさい。」と言っているのです。今エリフは錯覚していて、自分が偉そうに相手を無視してこう言っています。自分の知恵と知識が優れていると思って、目上の人々を無視している姿です。彼は知恵と知識を云々しながら、自分の言い分を聞けと言っているのですが、実はそれはとても浅い狭い人の知恵と知識で、また自分の悪から出てくる言葉です。だから相手の心を傷つけたり苦しめるだけなのです。皆さん、それでは知識と知恵とは何なのかを調べてみましょう。
人が生まれたばかりの時は、脳の記憶装置の中は、白紙のように何も入力されていません。育ちながら見て聞いて感じて考えたことや、教育を受けたことの中から、記憶装置の中に残るものが人の知識になります。その知識を思い浮かべることが思考であり、知識を思い浮かべて目的に合わせて活用できるのが知恵です。ところで、世の知識の中には真理と、真理と反対のものが混ざっています。例えば「1+2=3」これは変わらない知識です。しかしこれとは違って、一時は真理だと思われていた知識が、科学が発達するにつれて変わる場合もあります。例えば、昔、地球は平らで、地球が太陽を回るのではなくて太陽が地球を回るのだと、信じている時もありました。その当時の人々は、これが真理だと思っていたのですが、今日それを真理だと思う人はいません。このように、世の知識は歳月が流れれば変わるし限界があるし、命を与えることもできないから真の知識と言えません。
真の知識は神様がくださる真理の知識です。それでは私たちが真の知識を得るためにはどうすべきでしょうか?何よりも真理である神様の御言葉を糧としなければなりません。神様の御言葉はこの地上だけではなく、天国で永遠に尊い生き方ができるようにする、真の知識だからです。ところでこの御言葉の知識は、頭だけで覚えていて持てるものではありません。心に刻んでこそ所有できます。聖書の66巻を全部暗誦するとしても、それを頭でだけ持っているなら、かえって人を裁いて罪に定め、また高ぶってしまい、神様の御心とは反対に行うようになります。必ず、御言葉を心に刻み、実際に適応して行う時、健康になることはもちろん、いろんな事故と災いから守られて、家庭や職場、事業の場で、入る時も出て行く時も祝福されます。
また箴言1:7に、「主を恐れることは知識の始めである。」とあるように、神様を恐れかしこむ人は、真の知識を得るようになります。神様を恐れることは、悪を憎み、神様の命令を守ることで、神様を全面的に信じて信頼して神様に近づくことです。神様は天地万物を創造なさった全能なる方だから、私たちが神様を畏れかしこみ真の知識を得るなら、乏しいことはありません。神様は愛でありその方を信じて頼る人は、天国と永遠の命を得ることはもちろん、この地上でも全てのことで栄えるようになります。ですから神様の御言葉の近くにいて、心の霊の糧にして真の知識を所有しますように。
私は世の知識とか学識がある人ではありません。しかし神様の御言葉を守り行うほど、それが霊的な真の知識として私に臨んでいます。それで神様の御言葉を心の中で思い巡らす時、神様が明らかに悟らせてくださり、また示してくださって、聖霊様が教えてくださいます。私が直接経験していないことも神様は教えてくださり、悟らせて理解できるようにしてくださり、またメッセージの時、例えを挙げて伝えることができるようになります。それが、神様がくださる霊の知識であり、命となる真の知識です。それで私は世での経験が足りなくても、知識が足りなくても、神様がくださる霊的な知識があるから乏しいことがないと信じて、いつも神様に委ねて進んでいます。だから皆さんも、私には学識がないのに、経験がないのに、能力がないのにと思ったりするのではなくて、神様が下さる上からの知恵があれば乏しいことがないことを信じますように。そのような方法を神様は示してくださいます。「神様を恐れてその命令を守ること」これが神様の真の知識です。すると世の知識より優れるのです。
次に知恵について調べてみましょう。知恵も大きく2つに分けられます。人の経験や学問から得る一般的な知恵と、神様がくださる真の知恵です。私たちが生活するには一般的な知恵も必要ですが、それだけでは成功や幸福を保証できません。例えば事業が成功して豊かになったとしても、家族の間で配偶者や子どもの心が分からなくて、家族が不満を抱くかもしれません。世では成功したと言われても、家族の中の幸せがないから真の祝福だとは言えません。これは世の知恵だけがあったからです。でも神様が下さる知恵は、神様の知識、真理の御言葉に基づいているから、どんな問題も解決できます。人の心を得ることができるし、先に起こることまで予測して備えるから、全てのことで栄えます。だから神様がくださる知恵を真だと言うのです。このような天の知恵を得るためには、何よりも自分の考えだけが正しいという枠と考え方を打ち砕かなければなりません。世から来た知識は神様の真理と合わないことが多いからです。
例えば世では、手段や方法を選ばないで、お金を稼いで成功した人を賢いと思いますが、霊的に見ればこういう知恵はかえって愚かなものです。ある人は世で学んだ知識を持って、どうすればお金を儲けて世を楽しもうか。どうすれば人より豊かになるだろうかと思って、頭を回転させていろんな不法的な方法で富を積んでいきます。こういう人が多くなるならば、相対的に一般の人は生活が厳しくなるでしょう。最近も詐欺をしたりする人は、普通の人より頭の回転が優れていますね。人を騙して、そして詐欺をする人を見てみればとても頭が良いです。悪い知恵、世の知識を持って人の心を奪ったり、もっともらしく話をするのです。そして自分が言った通りに投資すれば、本当にお金を儲けるようになると思わせてしまうのです。でもそれは実は偽りなのです。それで相手が被害を受けることをこの人は悪いと思わないで、自分の利益のために人を騙して、人につらい思いをさせてしまうのです。それでそれを悪いと思わないのです。そして世の人は、それを賢いと思います。でも神様がご覧になるときは、それは知恵ではないし、愚かなものです。
不法な方法で富を得たならば、これが本当の祝福、本当の幸いなものになるでしょうか?命がなくなるとその幸せは束の間、あってなくなる霧のようなものです。ルカ16章に出てくる金持ちのように、この地上では贅沢だったとしても、死んだ後地獄に落ちるからどれほど不幸でしょうか。反対にこの地上では貧しかったとしても、神様を信じて天国に入ったラザロの方が幸せな人でしょう。この世のものを手に入れて得る幸せは、神様の子供たちが永遠の天国で得るものとは比べものにもなりません。ですから私たちが真の知恵と知識を得ることはとても大切です。世の知恵で行うことは、初めはことがうまくいくように見えても結果は良くない場合が多いです。
例えばヤコブは、自分の知識・知恵を全部使って兄の長子の権利を奪って、父親のイサクの祝福の祈りも自分が受けました。兄から逃れて叔父の家に行ったヤコブは、二十年後故郷に戻るために家族と財産を持っておじの家から出て行きました。ヤコブは知恵と知識が優れた人だから、自分のその知識・知恵を使って家族も大勢いたし財産もたくさんありました。でも故郷に到着する前、ヤボク川の渡しに至った時、復讐心で燃える兄のエサフが四百人を率いてやってくれているという話を聞いたヤコブは、その時になって初めて、自分の高ぶりと自分の姿を顧みるようになります。それで神様の心を動かしてこそ、この問題は解決されるということを徹底的に悟りました。それで腿のつがいが外れるくらいに切に祈りました。これまで自分なりに神様に頼っていたつもりでも、多くの部分は自分の知恵と自分の誠実でできると思っていたのです。その高ぶっていた姿を徹底的に打ち砕いてへり下って祈ったら、神様は兄のエサウの心を動かして和解するようにしてくださいました。
このように真の知恵は、自分の知恵を捨てて唯神様により頼むことです。ひょっとして自分には信仰がある、真理を知っていると思って、神様を愛していて忠実であり奉仕していると思っているのに、大きい試練にあっている人がいるなら、もしかして、自分が自分の知恵を使って錯覚しているのではないか顧みますように。自分の知恵や知識でしてきたことを悔い改めて立ち返るなら、神様は、憐れんでくださり回復させてくださるでしょう。何か、世の知恵とか肉的な方法で行ったということによって起こった問題だけではありません。事業のトラブルとか、世の人との人間関係の何かの問題だけを言っているのではありません。私たちはそういう事業とか人間関係以外に、自分の知恵や知識を持って教会で奉仕をする場合がありますね。自分なりにこのように忠実に仕えたのにとか、神の働きをしたのにとか、なぜこういう問題が起こったのかと思う時がありますか?でも神様がご覧になる時は、それは自分の知恵、知識だっただけで、神様がくださる知恵ではなかった場合があります。でも人は錯覚します。自分なりによくやったと思います。それなのにどうして答えてくださらないのかと思う時もあります。
大礼拝の時も伝えたのですが、自分が神様の前に、教会で奉仕も熱心で忠実に仕えているかもしれません。でもそれで本当に神様を愛しているかと思えばそうでない場合もあります。神様を愛することは、まず神様の戒めを守ることであり、心の割礼をすることであり、霊と真によって礼拝を捧げることなのです。でもそういうことはおろそかにしておいて、ただ自分の熱心で奉仕をしていたからといって、神様が祝福してくださるのではないということです。自分がこのように 肉的な面だけ忠実で自分なりに熱心だったかもしれないのですが、でも神様が本当に望んでおられることは、 霊的な面ですね。それを悟ることが霊的な知恵です。 第一コリント3:18に「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたなら、知者になるためには愚かになりなさい。」とあります。
ヤコブ3:17-18に「しかし、上からの知恵は、第一に 純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつく人によって 平和のうちに蒔かれます。」とあります。この御言葉を行う時、天の知恵を受けることができます。何よりも神様を恐れかしこみ、悪はどんな悪でも避けて聖められることが神様の知恵を得る道です。ところで私たちが世で入力した自分の考え、理屈、高ぶりを全部打ち砕いて、イエス・キリストに服従する時、世の人々はそれを見て愚かだというかもしれません。皆さんが主日を守ることや、熱心に教会で神の働きをすることを見ながら、世の人は理解できなくてそれを愚かだと言うかもしれません。他の教会に通っている人はそこまでしないのに、どうしてあんなに全部捧げるのかというかもしれません。でもこのように世の人が見るには愚かかもしれませんが、でもそれが神様の前では知恵であり幸いなものであり、そうすればその心には霊の知識が満たされて心そのものが真理に変えられます。
すると聖霊様がその心に働きかけてくださり、無限の知恵をくださり、願いごとを全部叶えてくださいます。世の知識のない人でも、知恵と知識の初めである神様が聖霊によって悟らせてくださるから、誰よりも賢く知恵ある人になれるのです。例えば世の知識が多いからといって伝道ができるのではありません。聖霊に満たされている人が伝道できるのです。聖霊様がくださる御言葉と知恵は人の心の戸を開くようにして、肉の思いを打ち砕いて愛と平和を作るからです。伝道するとき知識的に教えているばかりならば、相手の人はそれを退屈だと思ったり聞きたくないでしょう。でも聖霊に満たされて伝道すれば、相手の心に触れるから相手が興味を持ち、また関心を持つようになるのです。また相手に必要なところを聖霊様が教えてくださるから、相手が「私もそれなら行ってみたい。」と思うようになります。何よりも神様の知識は永遠の命と直結しています。コロサイ2:3に、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」という御言葉を覚えて、神様の御言葉をさらに慕って命より尊く思いますように。
結論です。愛する皆さん、今日のメッセージで私たちが覚えておくべきことは、第一、自分自身を正しく知って錯覚しないことです。自分自身を知らない人は、エリフのように身の程に合わない言葉を言って行動します。こういう人は自分の知識や知恵、経験で悟ったことが100%正しいと主張して失敗する場合があります。例えば皆さんが誰かと話をする時や会議をする時、「私はこう悟りました。」という人もいますが、これは「神様の御心です。」という人もいます。 自分の考えなのか聖霊の声なのか正確に見分けなければなりません。自分の考えなのに、聖霊の声だとか神様の御心だとか言うならば 、それは聖霊を冒涜することになり、神様の御名をみだりに唱える罪になります。
そして今日のメッセージで私たちが覚えておくべきことは、第二、まことの知識と知恵を所有すべきだということです。真の知識は神様の御言葉から出てくる霊的な知識です。また世の知恵と知識を捨てて神様の真理を悟ることが本当の知恵です。ですから世でいくら賢いと思われることでも神様の御言葉から離れていることならば、外れることは全部捨てなければなりません。世で入力された真理と反対のものを捨ててこそ、神様が下さる真の知恵を得られます。私たちが神様の御言葉に従って、下着を取ろうとする人には上着も与えて、右の頬が打たれたら左の頬も向けたり、善をもって悪に報いる姿をすれば、世の人は愚かだというかもしれませんが、神様はそれが真の知恵だと言われます。 御言葉に従うことがまことの祝福を受ける秘訣であり、真理にあって強いものになる近道です。皆さんはすべてのことにおいて、知恵と知識の始めである神様に全面的により頼み、真の祝福の主人公になりますよう主の御名によって祈ります。
