top of page

ヨブ記講解95 - おのれ自身を知ろう④(上)

1 日前
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記33:13


愛する皆さん、箴言29:20「軽率に話をする人を見ただろう。彼よりも愚かな者のほうが、まだ望みがある。」とあります。何も考えずに軽率に話をする人よりは、愚かな者の方がまだ望みがあると言われています。せっかちで軽率に話をする人は、愚かな者より劣っていると聖書に書いてあります。せっかちな性格、軽率に話をする人は、顧みなければなりません。このような人は、一瞬自分が感じたことをそのまま言ってしまいます。それで、相手を傷つけたり、相手に不満をぶちまけたりします。その時、我慢すればいいのに、相手のことを理解しようとしなければならないのに、そうしないで待てないまま軽率に話をしてしまいます。感情的になって言いたいことを言ってしまうのです。そうすれば人間関係においても誤解されたり、また雰囲気も悪くなったりすることがあります。相手の心を理解しようとするよりは、自分が思うことをそのまま口にしてしまうからよくミスをするのです。誤解されたりするのです。そして自分の思い込みで、相手のことを決めつけてしまうこともよくあります。そのようなことが繰り返されると信頼が失われるのです。​


ヨブ記講解に出てくるエリフがこういう人でした。若いエリフは、ヨブと友達の話を黙って聞いていたのですが、突然口を開いてヨブを責め立て始めました。ヨブが「自分はきよい。罪がないのに神様が自分を苦しめている。」と言っていたからです。それは、神様が自分より正しくないという意味で、悪い神様として裁く言葉になるから、エリフはそれ以上我慢できずこのように言ったのです。もちろん、自分が神様より正しいと主張しているヨブの言葉は明確に間違っています。しかし自分自身をわからないのはエリフも同じです。エリフは、年上のヨブと友達の前で堂々と言うほど自分を正しいと思っていたのですが、実は自分の義の強い人でした。それで自分の義によって神様の御名をみだりに唱えながら、間違った言葉でヨブを訓解していきます。​


これはエリフの問題だけではなく、誰でも完全な御霊の人になる前は、自分の義があるということです。このような自分の義を打ち砕いてこそ、すべてのことで神様の御心に従い神様に喜ばれるのです。今日もメッセージを聞いて自分の義を発見して打ち砕いて、神様の御目に正しいことを行いますように。今日の本文は、エリフが、自分が知っている知識を使って、ヨブの義を打ち砕いて言いまかそうとしています。​


ヨブ記33:13です。


なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。(ヨブ記33:13)


これは、神様は思い通りにできる方だから、ご自分で言いたいことをヨブに語らなかっただけなのに、ヨブはなぜ神様の前に言い争っているのかというのです。エリフのこの言葉は、以前ヨブが、「神様、私に罪があるなら言ってください。私には罪がないのにどうして私にこんなことをするのですか?」と問い詰めたからです。そして、自分は正しくて神様は正しくない方だと主張してきました。これに関連するヨブの言葉を調べてみましょう。ヨブ記12:6です。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神はご自分の手でそうさせる者は。」とあります。これは、神様が悪者を栄えるようにして、自分のような正しい人は苦しめているという意味です。またヨブ記12:20では、「神は信頼されている者の弁説を取り除き、長老たちの分別を取り去り、」とあります。悪い神様として言っているのです。そして自分自身についてはとても正しく評価していました。ヨブ記13:18-19「今、私は訴えを並べたてる。私が義とされることを私は知っている。私と論争する者はいったいだれだ。もしあれば、そのとき、私は黙って息絶えよう。」とあります。自分は正しい人なのに自分と論争する者がいるのか?もしいるなら私は黙って降参するというのです。自分がこのように正しいと主張してきても、神様は何も答えてくださらないから、ヨブは自分のことをずっと言い張ってきました。


エリフはそれについて言っているのです。ヨブが自分の言葉に神様が答えてくださらないと言って、どうして神様と言い争っているのかと言っているのです。ヨブはまたこう言いました。ヨブ記13:22-23「呼んでください。私は答えます。あるいは、私に言わせ、あなたが私に答えてください。私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。」自分に不義と罪があると認めているのではなくて、「自分には不義と罪がないのに、どうして私を苦しめるのですか」と言っているのです。「私にもし過ちがあるなら言ってください。何の咎もない私をどうしてこのように苦しめるのですか?」と訴えているのです。人が喧嘩するとき「私の何が悪いの?言ってみて。」と、問い詰めるように神様の前にこう言っていたのです。​


そうしながら、「自分には何の過ちもないから、神様がそれについては何も言ってくださらない」と思いました。そして何の答えもない神様を恨み、ヨブ記19:7では、「見よ。私が、『これは暴虐だ』と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。」と嘆きました。このようにヨブは、神様が正しい自分を苦しめていると言いながら、つぶやいて不平を言って嘆きながら、神様は悪い神様だと主張しました。このような言葉をエリフは聞いていたから、ヨブに自分が神様を代弁して説明しているのです。「神様はあなたに何も答えてくださらないこともできる。それなのにあなたは、自分の言葉にいちいち答えてくださらないからと言って、どうして自分に過ちがないから神様が何も言わないというのか。どうして神様が正しい人を苦しめるのかと訴えることができるのか。」と責めているのです。そして、「神様はあなたのような悪者には答えてくださらない方だから黙っていなさい」と厳しく言っているのです。


ではエリフのこの言葉は合っているでしょうか?エリフが考えている神様は、思いのままに答えることも答えないこともできる方で、そのような神様の前で人は黙っていなければならないのです。彼の言う通りなら、神様の疎通のやり方は権威的な独裁者のスタイルでしょう。ここで私たちはエリフの性分を見ることができます。人は人の心は分からないのですが、相手の言葉と行動を見ればある程度分かります。もちろんある人は心の中では憎んでいるのに唇では愛するとも言えるし、心の中で怒っているけれど顔は笑っているかもしれません。しかし、ほとんど心にあるものが言葉と行動に出てくるから、ある程度はわかるのです。本文のエリフも彼の言葉を見れば彼の性分がわかります。彼は自分で考える時、自分は正しくて真実な人だったのですが、実際は自分の考えの枠で固まっていました。このような人は自分の考えに合わなければ、人の話は聞こうともしないし、融通が聞かないのです。自分の考えとあってこそ相手の話を聞くから、意地っぱりとか頑固な人、自己中心的な人と言えるでしょう。自分が見て正しいことが正しいし、自分の常識から外れるなら到底理解できない人です。自分の義で固まった人です。


心が広くて愛と徳のある人は、自分だけ正しいと言わないで相手の主張にも耳を傾けます。先ほど自分の義が強い人は、自分の考えにあってこそ相手の話を聞くと言いましたが、問題は、自分が正しいと思っているということは、間違っていて正しくないことです。でも心の広い愛と徳のある人は自分だけ正しいと思わないのです。心が広いし器が大きいから自分の基準で相手を評価しようとしません。相手に明白な真理と反対のものがあって、悪があって間違いがあるなら正しく見分けてその人と同調はしないのですが、相手を無視したり相手を裁いたりすることはしないのです。私たちは真理をたくさん学びました。それで自分が知っている真理を持って人を裁くことがあるかもしれません。でも心に愛と善がある人は、何が正しいか正しくないか見分けていても、相手を裁くことはしません。真理という正しい基準を持っていて何が真理なのかは知っていても、相手の過ちを指摘しようとしたり相手と論争して言いまかそうとはしないのです。


人と話をするとき言葉の失敗をよくする人がいます。単語とか表現を間違える場合もありますが、すぐそれを指摘する人がいます。そのくらいはその場の流れで指摘しなくてもいいのに、言葉じりを捉えて、このように相手を攻撃しようとしたり、相手に恥をかかせる人もいます。それは善ではなく悪でしょう。人を裁く姿です。ヨブ記講解を通して、そういう姿が自分にあるのではないか顧みければなりません。自分が正しいと思っていることが間違っているかもしれません。真理の心を持っている人は、自分の考えと違って理解できないような人がいても、あなたは間違っていると指摘するのではなくて、あの人は私とはちょっと好みとか考えが違うと認めて受け入れるのです。


皆さん、私たちは外に行って食事をする時があるのですが、韓国では中国料理屋に行けば、ジャジャンメンがあってチャンポンがあります。それでメニューを選ぶとき、それぞれ好みがあって、ある人はジャジャンメンが好きで、ある人はチャンポンが好きな人もいます。それなのに、自分と違う好みを持っているからといって相手を否定するなら、それはいけないでしょう。自分が食べておいしいと思うものも、相手にとってはおいしくないかもしれません。自分は味が濃いものが好きかもしれないのですが、相手は薄い味が好きな人もいるでしょう。それは相手が間違っているのではなくて、ただ自分と違うだけでしょう。このようにそれぞれ好みが違うだけなのですが、でも自分を主張する人がいます。例えば夫婦の間で一緒に食事をするとき、ある人は「なぜこのように味付けが合わないのか」とか言ったり、またある人は、薄味が好きだから自分は薄味にして食べればいいのに、相手に「あなたはどうして健康にも良くない、そのような濃い味にして食べるのか。」とか、このように相手を責めたりするのです。そうしてはいけないでしょう。それぞれ自分の好みで好きなものを食べればいいのではありませんか?また人によって味の好みが違うし、そして人によって体質も違うのではありませんか?だから相手の好みも理解して合わせればいいし、相手が美味しいと言ったら自分も食べてみても良いのではありませんか?


また服もそうですね。デザインとか自分が見てはあまり良くないと思うけれども、相手はそれが好きで好んで着る物もあるのです。だから私たちはこのようなことも、家族や職場での日常生活の場でも、自分を基準にして人を見るのではなくて、自分を主張してはいけないのです。罪ではなければ、自分と違う性格や考え方、好みがあることについて、正しい正しくないと決めつけないで、裁かないで理解しなければなりません。そのような大きい心の器を持ちましょう。性格も様々な性格の人がいるのではありませんか?ある人はゆとりがあって落ち着いているのですが、ある人はせっかちの人、短期な人もいるでしょう。そしてある人は、ちょっと余裕を持ってゆっくりしようと思う人もいるのですが、早くしておきたい人もいるでしょう。それで互いに何か一緒に働く時、それぞれやり方が違うかもしれないのです。それでぎくしゃくすることもあるかもしれません。でも、相手を否定して相手のやり方が間違っていると思って、それを表現したり指摘してはいけないでしょう。自分はどのくらい高ぶっているのか、また狭い心を持っているのかを顧みなければなりません。相手のために合わせてあげることも必要でしょう。全体のために自分が譲ることも必要でしょう。


平和を作るためにどうすべきかを祈りながら、神様に知恵を求めながらしていけば、私たちはどんなところでも平和を作れます。ヨブ記講解を皆さんは聞いています。今日が95回目ですね。今33章を伝えているのですが、あと少しです。ヨブ記講解をこのように聞いたならば、皆さんは自分の義と自分の主張する姿、自分の思いなどを早く捨てなければ、打ち砕かなければなりません。自分を無にして神様の基準に合わせて、相手も受け入れるそのような広い心を持ちましょう。私たちがヨブ記講解を聞くのは自分を発見するためです。変えられるためです。もしかして、自分にはエリフのような性分があるのではないのか、顧みますように。真理は自分の利益を求めず、相手の利益を求めることです。相手の利益を求める心なら、相手に合わせて自分が知っている知識も変えることも必要でしょう。自分が正しいと考える理由があるように、相手も自分が正しいと思う理由があるからです。これを悟るならとても役に立ちます。


今伝えたように私は最近いろいろ考えているのですが、ある人は自分の義が強い人がいます。それでいつも自分が正しいと思って相手のミスとかちょっと間違っているところをすぐ指摘する人がいるのですが、私はその姿を見ながら自分を顧みるようになりました。神様の恵みでした。あの人が、自分が正しいと言っているように、私も自分が正しいと思い込んでいる姿はないのかと思うようになりました。見て考えること感じることは人それぞれではありませんか。そして、自分が正しいと思っていることが正しくないかもしれません。自分を基準にしているからです。真理を基準にして客観的に見てみることが必要です。相手と話をしているとき、互いに意見が違うとしましょう。それで互いに自分が正しいと言って、でも論争にまではならないようにしなければなりません。元老牧師先生は、メッセージの時言ってくださったでしょう。自分が学校で教わったことをそれは正しいと思っていたのに、実際行ってみたらそうではなかったことがあって、その時多くのことを悟ったと言われました。このように私たちが、それが合っているとこのように思っていることも、実際は合っていないかもしれません。だからずっと言い張るのではなくて、相手の言葉も聞いて耳を傾けてそれを受け入れて、それについて理解しようとしなければなりません。そして、自分が考えていることが合っていないかもしれないと思わなければなりません。神様の真理の御言葉に照らして、人をさばいてはいけないということをいつも覚えていてください。相手のミスとか相手の間違っているところを探そうとするのではなくて、自分の姿を顧みて、自分の間違えているところを探そうとするなら平和を作ることができるでしょう。


このような人は話をする時、相手を無視しません。また相手の話に耳を傾けます。相手がどんな人でも知識があってもなくても尊重することができます。自分の考えと合わないからといって拒否するのではなくて、相手の言葉を1回2回3回考えてみれば、その心が理解できて包容できるでしょう。 そのためには、相手の立場になってみることが必要です。「 どうしてあの人はあんなに頑固なの」と思うのではなくて、「私もその人の立場ならそうなるかも」と、このように理解しようとしなければなりません。ただ「あの人は理解できない、苦手だ」とか、「あまり相手にしたくない」とか、このように拒否してはいけないのです。 自分がとうてい理解できないと思っていた人も、自分の心に善が満たされれば、その人の事情を理解しようとするようになります 。本当に悪いことをして裏切って離れた人でも、あの人の事情がこうだからやむをえずそうしたかもしれないとか、 もしかして私が何かミスしたかもしれないとか、このように自分を顧みるようになって、相手の身になって考えられるようになります。自分を主張だけするのではなくて、相手の考えも受け入れることができる寛大な開かれた心を持つと平和を作れます。


エリフは自分が持っている知識と、自分の考えだけが正しいと固く信じていたから、ヨブが何を言っても耳に入りませんでした。ヨブが「私は正しく生きていた」と言っても、エリフは神様が罪のない正しい人を懲らしめるはずがないと固く思っていたから、ヨブの話をそのまま受け入れられなかったのです。エリフは祝福をくださるために練ってくださる神様の愛はわからなかったのです。ただ全ての苦しみは罪の報いとしてやってくるものだという自分の考えの枠が固かったのです。このように人の考えと知識は視野を狭くして相手を傷つけることもあります。もしかして皆さんはエリフのような姿ではないのか顧みますように。まず誰かが試練患難に遭っている時、それを見て裁いて罪に定める姿はなかったでしょうか?また自分の考えだけ正しくて、自分と合わない人は間違っていると決めつけてはいなかったでしょうか?こういう姿がたくさんあれば、自分は気づいていなくても、相手につらい思いをさせたり、不愉快な思いをさせたりすることもあります。傷つけることもあります。しかし自分はそれがわからないのです。


どうすれば自分を発見することができるでしょうか。私はある人に対して苦手な意識があるならば、それは「私の義が強いからだ」、「私の中に悪があるからだ」と思いました。自分の義を打ち砕いて心を広くしていけば、どんな人でも理解ができて受け入れるようになりました。もっと余裕があって何か苦手な人がいなくなるのです。相手の間違っている姿が目に入らないのです。すると心の中がとても安らかでした。「どうしてこうするの?」「あれはひどいなぁ」とか、このようにいちいち相手のことが目に入って嫌な思いをするなら、自分が苦しいのでありませんか 。でも相手の良くない姿が目に入らないし、良い姿だけ目に入るならばどれほど良いでしょうか。そして一緒に食事をするとしても相手に合わせる人なら、相手がとても心が楽でしょう。そして自分の好みだけを主張しない人ならば、一緒に食事をするのが楽しいでしょう。何でもよく食べられる人と食事をする方が楽しいでしょう。


そうでなくていちいち嫌いだとかまずいとか、このようによく言う人とは、食事に一緒に行くことにちょっと悩むようになります。これは一つの単なる例ですがいろんな分野で同じです。皆さんはもしかして周りの人に辛い思いをさせたり悩ませる姿はないのか顧みますように。こういう人もああいう人もどんな人も受け入れて、ああだこうだと決めつけたり裁いたりしないで、全ての人を包容できる、そのような人なら周りの人もとても心が楽でしょう。居心地が良くなるでしょう。でも気に入らないことがたくさんあるし、あれこれ好き嫌いがひどい人は周りの人も困るのではありませんか。


もう一つ悟るべきことは、神様が私たちに答えてくださらない時、あらかじめ何かを教えてくださらない時は、必ず理由があるということです。アモス3:7に 「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」とあります。神様は愛する人々にこのように先に示してからなさるのです。必要な時は優しく教えてくださり説明してくださり、 細やかに導いてくださいます。このように愛の豊かな方が答えてくださらない時は、それが人に有益にならないし必要でないからです。


例えば試練があるとしましょう。神様がもしあらかじめその答えを全部教えてくださるなら、霊の世界の法則に合わないでしょう。例えばアブラハムに「ひとり子イサクを全焼の生贄として捧げなさい。」と命じました。その時、「あなたがそのイサクを捧げるならば、私が前もって羊を用意するから」と教えたので ありません。そのように前もって答えを教えてからテストをするのではないのです。時には、その時もまた方法も過程も教えないで命じる場合があります。それがテストになり試みになるのです。神様はアブラハムに夢をくださり約束をくださいました。そしてアブラハムはそれを信じました。そしてテストがやってきた時、見事に合格したのです。霊の世界の法則がありまた神様の愛のゆえ理由があるのです。


だからエリフがヨブに、「自分の言葉に神様がいちいち答えてくださらない。」ということは、自分で神様を決めつけることで神様の御名をみだらに唱えるような罪です。自分が神様の御言葉と愛を正しく知って悟る分、人にも正しく伝えることができます。ですから神様の御言葉を伝えるときはいつも聖霊により頼み、もしかして真理を間違って引用することがないように気をつけてください。神様は子供である私たちに教えてくださり答えてくださるのですが、でもあるときは何も教えてくださらないときもあります。それには理由がありますね。でもエリフはそれを誤解したのです。ヨブが悪い人だから神様を答えてくださらないとこのように言ったのです。

関連記事

ヨブ記講解99 - 神様の心を正確に知ろう(上)

説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記34:7-12 前回エリフは、自分で知恵ある人のふりをして、私たちの間で何が良いことであるか見分けてみようと言いました。しかし、相手の意見を本当に聞こうとしたのではありません。ヨブと友達が、色んな言葉で互いに言い争っていたのですが、答えがでなかったから、今からは自分が言うべきだと思ってヨブを教えようとしていて、このように言ったのです。皆さんもこのようなことがあると

 
 
ヨブ記講解98 - さばく者にならないようにしよう

説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記34:3-6 愛する皆さん、前回エリフは、ヨブとヨブの友達、そして周りの人々にとても高ぶっていて、「あなた方は私から学びなさい。私から聞きなさい。」と言いました。自分より年上で徳のある人々にこう言えるということは、エリフも自分なりに賢くて学識があると言われていたことが分かります。しかし、彼が持っている知識や知恵は、肉的なものであり自分の悪から出たものなので、聞いて

 
 
ヨブ記講解97 - おのれ自身を知ろう⑥(下)

説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:31-34:1-2 ヨブ記33:31です。 耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。(ヨブ記33:31)​ エリフがヨブに「黙れ。あなたを教えよう。」と言っている言葉は、全然正しくないのです。皆さんは家族の中で、もしかしてこういう姿ではありませんか?自分が言いたいことがあるのに相手がそれを聞かないで言ってくる時、それが嫌でイライラして、「黙れ。」とか、「

 
 
イエス・キリスト日本連合聖潔会
名古屋万民教会
Nagoya Manmin Church

〒 465 - 0014

名古屋市名東区上菅一丁目916番地

TEL/Fax: 052-774-8874

E-Mail: qqrb5br9k@gaea.ocn.ne.jp

2017 Nagoya Manmin Church,All rights reservde.

bottom of page