ヨブ記講解96 - おのれ自身を知ろう⑤(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記33:25-26
ヨブ記33:25-26です。
彼の肉は幼子のように、まるまる太り、彼は青年の頃に返る。彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。彼は喜びをもって御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。(ヨブ記33:25-26)
今、ヨブの皮膚はどうなっていますか?傷口が塞がっては潰れて酷い状態になっていて、全身がやつれています。痩せていて、皮と骨しか残っていない状態だから、横になることも、座っていることも苦しいです。このような状態でも、もしヨブが、たった一つでも御使いに認められるようなところがあるなら、神様はヨブの体を回復させてくださると言っているのです。そしてヨブが神様に祈るなら恵みをくださって、あなたは正しい人だと認めてくださるし、神様との関係が回復するだろうと言っているのです。しかし、これは真理と合わない言葉です。なぜでしょうか?今エリフは、御使いがヨブの一つでも正しいところを認めるなら 、このように祝福されると言っています。ヨブに正しいところが一つだけでもあるなら、全部癒されて義人として認められるだろうと言っています。
しかしこれは合わない言葉です。例えば救われないような悪がぎっしりの人が、何か一つだけ良いところがあって、御使いによって神様に報告されたとしましょう。それでその一つの行いによって、永遠の死から救われることができるでしょうか?いくら悪い人でも一つくらいは良いところがあるではありませんか。例えば殺人者でも自分の親は敬う心があるでしょう。その人は大きい悪と罪があるのですが、その一つだけでその人が救われることができるでしょうか?そうではないでしょう。でもエリフはそうだと間違って言っているのです。合わないことを言っているのです。神様は私たちに一つだけ行いなさいと言われたのではありません。第一ペテロ1:16に「それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです。」とあるし、マタイ5:48には「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあります。悪の中であるものは捨てて、あるものは捨てなくてもいいと言われたのではなく、悪はどんな悪でも避けなさいと言われました。聖書66巻の御言葉を全部行って、主の心に完全に似ていきなさいと言われるのです。
私たちが御言葉を守り行うほど答えを受け祝福されます。反対に御言葉を守らなければ試練に遭うようになります。肉を脱ぎ捨てて神様の形を完全に取り戻すまで、イエス・キリストの心に似るまで変えられるための試練は続くのです。試練の過程を通して変えられて、魂に幸いを得るならば、全ての事が幸いを得、健康になるから、試練は祝福の過程です。また神様を愛する程その試練の過程も辛くありません。試練の過程で主の心をさらに深く悟るようになり、心を真理に変えていけば主への愛と天国への希望が大きくなるからです。ローマ5:3-4に「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とあります。だからといって試練にたくさん遭ってこそ祝福だという意味ではありません。試練に遭わなくても変えられることができるならそのほうがいいでしょう。試練の過程を少なくする秘訣は、「神様がしなさい、してはならない、守りなさい。」と言われた御言葉に従うことです。ローマ12:11に「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とある通りに、自分から聞き従って心の割礼のために努め、熱心に祈り、忠実であり、神様の国と義のために勤勉に行うなら、試練という過程は必要でないでしょう。
イザヤ1:19に、「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることができる。」と約束してくださったように、私たちが御言葉に聞き従えさえすればいつも栄える道に行き、霊肉ともに祝福されます。しかし、普通人は試練にあってこそ、苦しみを受けてこそ、悔い改めて立ち返って聞き従うようになるから、試練の過程が必要です。この原理を覚えておいて、すべての御言葉に喜んで聞き従って、速やかに霊的に成長する皆さんになりますように。エリフのように一つだけ行っても神様に愛される、祝福されると思ってはいけません。御言葉に聞き従って、一つ一つ変えられていく過程が必要です。そのために練られる試練という過程が必要です。一つだけ正しくなったからといって、すべての問題が解決されるわけではありません。でも特別に神様に喜ばれることをするなら、大きい祝福が望むでしょう。そのようにしてだんだん変えられていけば、だんだん祝福されて変えられるようになります。一回だけで終わってはいけません。
そして大きい問題が解決されてしまえば、その後、心が移り変わって高ぶってしまうこともあります。エリフが言っていることがなぜ間違っているのか、真理に照らして正確に悟りますように。試練という過程があってこそ自分自身を発見することができます。人はこのように愚かな姿があります。私たちが真理の御言葉を聞いて神様の御業を体験しても、それでも目に見える偶像を求めたりする姿もあります。そして御言葉を聞いていても、自分の以前の生活に戻ってしまう姿もありますね。このように移り変わってしまう属性が人にあるから、とてももどかしいのです。だから試練という過程が必要なのです。でも本当に御言葉通りにだけ行う人ならば、そのような人には試練の過程がなくてもいいでしょう。私たちは知恵を持って賢くしていきましょう。無駄ないらない試練は、受けなくてもいいのではありませんか?
皆さん、ヨブが自分の良心に照らしてみれば、何の過ちもなかったのです。神様に全焼の生贄を捧げたし、先祖から聞いた神様の御言葉を守るために努めました。貧しい人にはいつも施しをしていたし、寡婦やみなしごを顧みて良い業をよくしていたのですが、エリフはこのようなヨブの善行も、自分を自慢するために、自己満足のための見せかけだったと言うのです。これを聞いているヨブはどれほど悔しいでしょうか。腹が立つでしょうか。神様はこのようなヨブの境遇を知らないから放っておくわけではありません。神様は愛であり、神様がそれぞれの人を導く摂理は深いです。ヨブが考えているように、自分には何の過ちもないのに懲らしめる方ではありません。今までメッセージを聞いたように、ヨブはこの地上で、その行いだけを見たときは正しい人だったのですが、霊的にはいろんな欠けているところがありました。それで神様は、彼が自分を発見して悟って完全な器に変えられるように、試練の過程を通して練ってくださるのです。ヨブが祝福を受けるようにするためでした。聖徒の皆さんの中で、ヨブは多くの財産と子供まで全部失ってしまい苦しみを受けたのに、後で神様が祝福してくださるからといってそれが本当に幸せでしょうか、と思う方がいますか?これまで大きい苦しみを受けて、またいろんな人にあざけられて友達にいろいろなことを言われて、精神的にも苦しみを受けて、体もひどい病気によって苦しんでいたのに、その後、神様が現れて祝福をくださるからといって、それは本当に幸いなことなんだろうかと考えたことあるでしょうか?
しかしこの地上の人生は束の間です。肉的に今苦しみの時間が長かったとしても、神様の大きい祝福と慰めによって、以前のことは全部忘れることができます。皆さん、この地上での苦しみは束の間です。天国で永遠に生きる日と比べてみてください。詩篇90:4に「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」とあります。主の前では千年も一日のようで世の一瞬に過ぎないのです。この世で全てを味わったソロモンは晩年にどう告白しましたか。伝道者の書1:2-3です。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」と言いました。つかの間のこの世で、いくら大きい権力と名誉と富を得てそれを楽しんで、多くの子供がいたとしても、永遠の天国を得られないなら、何の役になるでしょうか。
もちろん、ヨブは神様を信じて善を行っていたから、試練を受ける前の姿でも救われたでしょう。しかし永遠の天国で、神様にお目にかかれる栄光と祝福を味わうことができないならどれほど残念でしょうか。そのようなことは永遠に続くのです。万民の皆さんは天国の中でも一番美しい新しいエルサレムについて知っています。クリスチャンの中で多くの人が、この新しいルサレムを知らないまま天国は一つだと思って救われればいいと思っています。でも私たちは罪と悪について一つ一つ細かく教えられたし、毎日ダニエル祈祷会に来て祈っています。そして新しいエルサレムを望んでいます。一日中仕事をして疲れたのにまた来て、2時間3時間も祈りました。このように労苦したのに、天国に行って神様の顔を見ることができないならどうでしょう?永遠に一天層か二天層で住むなら、どれほどもどかしいことでしょうか。神様の前で申し訳なくありませんか?主の御顔も神様の御顔も見ることができないし、会えないならどれほど残念でしょうか。
万民教会に通わないで、この聖めの福音を聞かなかった人の中でも、一天層、二天層に行くような人もいるかもしれませんが、でも私たちはこの福音を聞いて新しいエルサレムに行く道も学びました。だから必ず行かなければならないでしょう。神様を永遠に見ることができないとは、どれほど悲しいことでしょうか。それなのに10年、20年、30年、この地上で聖められる為に苦労をしたこの時間は、天国の時間と比べれば一瞬ではありませんか?永遠なる天国と比べれば、この地上でちょっと労苦すること、いくらでもそれができるのではありませんか。ちょっと労苦して永遠の天国で神様にお目にかかることができるなら、どれほど大きい祝福でしょうか。だから私たちはこの狭い道を歩んでいるのです。どうしてこんなに労苦しながら信仰生活をしなければならないのかと思いますか?そうではなくて、この道は栄光の道で、この道は祝福の道だから、喜んで感謝しながら行かなければならないでしょう。天国に比べたらこの地上での時間は束の間です。この旅路で神様が望んでおられる人に変えられて、神様の御座の近くに行けるなら、この試練の時間は祝福ではありませんか?ですから皆さんも試練の過程を与えてくださる神様の心を理解して、どんな状況でも喜びと感謝を失わないで速やかに変えられていきますように。
皆さん信仰生活をする時、自分の心が早く変えられないからもどかしいと思うかもしれませんが、この試練の過程があれば、もっと早く変えられることができるから感謝しなければなりません。私たちは人との関係で、人と比べて妬んだりまた憎んだりすることは、本当に感情的にもつらいしとてもその時間がもったいなくありませんか?それで、自分の心にある悪を捨てるように神様が練ってくださって、その過程でちょっと苦しくても、でもそれによって速やかにその悪と罪を捨てることができるなら、どれほど感謝でしょうか。そしてその過程を経た後、振り返ってみれば、 あの時は本当につらかったけれど、また厳しい試練だと思ったけれど、今になってみればそれは本当に祝福だった、またあっという間だったと思うようになるでしょう。ある人が皆さんを苦しめてひどいことをしたとしても、でも皆さんがその人を愛するために涙で祈って、その人との平和を作るためにプレゼントをしたりまたよくしてあげたり、そのようにして努力してその人を愛するようになって平和を作るようになったなら、どれほど嬉しいでしょうか。どれほど幸せでしょうか。
そして心も器も広くなったからどれほど大きい祝福でしょうか。私はたまに登山することに例えるのですが、山を登って頂上に至った人は、どれほど幸せでしょうか。そして経験がある人は、どんなふうにその険しい道を登っていくのか、すでに頭の中に知識があるから、また同じような山を登るとしても前よりは楽になりますね。そして周りの人にも教えることができるのではありませんか。教会の働き人もそのように、霊的に自分が試練にあって変えられた経験があるならば、周りの人にアドバイスもできるし導くこともできるし、そしてまた違う試練にあっても、それを乗り越えることが楽になるのです。だからそういう経験が自分にとって祝福なのです。そしてその試練にあって苦しい思いをしたり、またその時辛い思いをするかもしれないのですが、その時は長く感じるかもしれませんが、それが全部終わった後を振り返ってみれば短い時間だったのです。
愛する皆さん、エリフは、ヨブが事実を言っても聞こうとしないで偽りだと決めつけていました。それはエリフの悪い心のためでした。前回言ったように、エリフは自分の知識と常識を持ってヨブをさばいて罪に定めていました。エリフの知識では神様は公義の方だから、罪のない人は絶対に懲らしめることはないと思っていたからです。でもヨブを見たら、全財産と子供も失ったし、ひどい皮膚病によって苦しんでいるのです。それ、でその家のしもべもヨブから背を向けて、子供たちもヨブをあざけっていました。だからエリフは、ヨブがそんな目にあったのは、ヨブが重大な罪を犯したからだ、悪い人だからだと決めつけたのです。もしヨブが言っているように、ヨブが正しくて良い人ならば、神様は絶対にヨブをあんなみじめな目に合わせるはずがないと思ったのです。そしてヨブが言っている言葉を聞いてみれば、ヨブは神様を攻撃しているような発言をして、自分は神様より正しいかのように言っているから、エリフがヨブを見るとヨブは本当に悪い人のようでした。だからヨブの言っていることは偽りだ。ヨブの前の善行も、自分を自慢するための偽善に過ぎないと思っていたのです。エリフは自分の悪と自分の考えによって、ヨブを悪い人だと罵倒していました。でも実は、エリフよりヨブの方が絶対正しい人でした。私たちはただ神様だけが人の心を知っておられるということを忘れてはいけません。それで神様は、聖書に裁いてはならないと命じておられるし、裁く権限があるのは神様お一人であることを強調しておられます。
ヨブは、エリフの言っていることがあまりにもとんでもないから、その言葉に耳を傾けませんでした。またヨブの三人の友達の言葉にも耳を傾けませんでした。神様の立場でも彼らの言葉はあっていませんでした。それで結末の部分では、神様は彼らを責めて、彼らが全焼の生贄を捧げるようにと命じました。そして、ヨブが友達のために代わりに赦しを求めて祈った時、神様がヨブの祈りを聞いて彼等を赦してくださいました。民数記12章にこれと似た出来事があります。モーセの姉のミリアムと兄のアロンが、モーセを裁いて非難したら、神様はこの二人を責めました。その後、ミリアムは呪われて、ツァラアトに侵されてしまいました。ところで、その時、ミリアムとアロンが神様に直接赦しと憐れみを求めましたか?そうではありません。アロンは神様の前で答えを受ける自信がなかったので、モーセに執り成しの祈りを求めました。アロンは霊的な原理を知っていたでしょう。
民数記12:11-12です。「我が主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出てくる死人のようにしないでください。」とモーセにお願いしたら、モーセが彼らのために神様に祈りました。それで神様はモーセの祈りを聞いて答えてくださいました。エリフとヨブの友達、そしてミリアムとアロンの共通点は、自分自身をあまりにも知らない人だということです。だから自分より優れた人をむやみにさばいて罪に定めたのです。皆さん、ヨブをさばいて罪に定めるエリフの姿を見たら、愚かで悪く感じますか?でも皆さんも他の人に対して、その人の言葉とか行動、見えるところだけを見て評価するなら、それはエリフと同じ姿なのです。初心の者の時は自分の信仰の弱さを知っているから、謙遜な姿で周りの人から学ぼうとします。しかし信仰がある程度成長して、自分も真理を知っていると思ってしまい、人に対する態度が変わります。前は誰にあっても良いところを見て恵みを受けたのに、今は、あれは正しくない、あれは合っていないと評価するようになります。
人には誰でも長所短所があります。ある人は短所の方が多いようでも、あるところでは人に優れて良いところを持っていることもあります。目に見える性格が乱暴で怒りっぽいけれども、情の深い人もいるし、言葉の失敗があっても奉仕によって教会に力になる人もいるし、義と枠が強く見えるけれど、火のように祈って伝道に励んで実を結ぶ人もいます。私たちは相手の良いところを見て、褒めて励ます必要があります。もし人の長所よりは短所が目に入るならば、自分の心に人を裁く心、憎しみがあるのではないか顧みなければなりません。これはとても重要です。心に留めて覚えておいていてください。先ほども言ったのですが、殺人者にも自分の親は敬うところがあるのです。だからといってそれを肯定するわけではありませんが、私たちは相手に大きい悪があってもその人のために祈って、その人を愛で受け入れるためにも、その人にある良いところを探して、愛をもって理解して接するような姿が必要です。自分自身にも良いところがあれば悪いところもありますね。でも相手に対してはどうでしょう。その人の良いところを見て褒めたほうがいいでしょう。良くないところだけ探そうとしてはいけません。自分が相手を見たとき、その人の良くないところがまず思い浮かぶのではないか顧みますように。
その姿は、自分の中に憎しみがあるからかもしれません。人をさばいて罪に定めることは高ぶりです。また相手を愛せない姿があるなら、憎しみという悪があるからです。互いに愛し合う人ならば、その人の短所よりは長所がよく見えますね。その人を愛するからです。でも愛が冷めてしまえば、短所が大きく見えてきます。だから恋愛するときは、その人のよくないところも可愛く見えたのに、後で愛情が冷めてしまったらどうでしょう。その人の短所が目に見えるようになり、自分と合わない姿を大きく感じるようになります。それは相手のせいではなくて自分の心の悪のせいです。自分の愛が冷めたからです。だから私たちも周りの人を見るとき、その人の短所がまず見えるなら改めましょう。心の良い人は、相手の目に見える行動だけでその人をさばいたりしません。相手の心を理解しようとして事情を考えます。相手の短所を見るよりは長所を見て、その人の欠点を見るよりはその人の良いところを思い出して励まして、何としてでも赦して理解しようとします。神様はこのように良い心を持っている人を見ると喜ばれるでしょう。ですから私たちは切に祈りながら、悪はどんな悪でも避けてその根まで完全に引き抜いて、どんな人に対しても善を持って接していきましょう。
結論です。愛する皆さん、ヨブを責めているエリフの姿から多くの悪を発見することができました。自分の考えや自分の知識に合わせて解釈して、人をさばいて罪に定める姿でした。そして自分が思っていることを軽率に口に出す姿でした。伝道者5:2に「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。」とあります。神の子供たちはいろんな状況を見るとき、聖霊に働きかけられて正確に見分けて、真理にあって慎重に言葉を出さなければなりません。そうでなければ、エリフのように人をさばいて罪に定める過ちを犯してしまいます。箴言を見れば言葉に関する教訓が多くあります。箴言15:28に「正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。」とあり、箴言17:27に、「自分のことばを控える者は知恵に富む者。心の冷静な人は英知のある者。」とあります。私たちはすべてのことにおいて軽率に決めつけたり、不必要な言葉を口にしないで慎みましょう。それでどんな人に会っても、キリストの光と香りを発して、神様の栄光を捧げますよう主の御名よって祈ります。
