ヨブ記講解92 - おのれ自身を知ろう①(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記32:9-13
レビ記19:32には「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い」とあります。これは変わらない真理です。エリフは短気な性格ですが、基本的にこのように年上の人を敬う、そういう面もあったので自分なりに我慢していたのですが、結局は我慢しきれずこのように怒りを燃やして意見を述べ始めました。彼の言葉には合っているものもありますが、合っていないところも多くあります。エリフは、自分の短気な性格を知って変えられなければならないでしょう。普通人の性格は変わらないというのですが、神様にあって不可能はありません。モーセは自分の同族を虐待するエジプト人を打ち殺すぐらいの短気な性格だったのですが、試練の過程を通して柔和な人に変わりました。また、イエス様の弟子ヨハネも短気な性格で、雷の子という別名もあったのですが、愛の使徒に変わりました。使徒パウロは、自尊心が強くて怒りっぽい人だったのですが、主に出会って試練に会いながら、柔和で愛のあふれる人になりました。私たちは神様の心に似ていかなければなりません。「神様は聖でありなさい。完全でありなさい。寛容でありなさい。柔和でありなさい。」と言われました。これは不可能ではありません。
エレミヤ32:27に、「見よ、わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つもあろうか。」とあります。神様にはできないことはありません。だから私たちも自分や人に対して、「こうだからダメだ。ああだからいけない。」ではなくて、神様の力を信じて頼り、その人も自分も変えられることを信じましょう。相手の過ちを見ながら、「あの人はいつまでこうなのか。いつ変えられるだろうか。」とじれったく思うのではなくて、「神様の力では必ず変えられることができる。」と、このように信仰の目で見ましょう。神様を信じて自分が変えられることも信じて、相手を見る時も同じように、信仰の目で愛の目で見なければなりません。「どうしてあんなに悪いの。」「どうしてこんなにひどいことをするの。」と、心の中でその人を裁いたり嘆くのではなくて、「このような人でも必ず神様の愛によっては、力によっては変えられる。」とこのように信じる、そういう姿が必要です。
そして家族に対しても同じです。配偶者や子どもたちにもこのように必ず変えられると信じる心が必要です。口の言葉だけではなく、本当に心からこのように信じなければなりません。 私もそうです。周りの人を見ながら変えられるのを信じます。速やかに変えられればいいのですが、それは難しいのですね。だから時間がかかるのも理解して気長に待つことも必要です。それで相手を信じて愛してそして変えられるのを一緒に待ちながら、その人のために祈らなければなりません。相手が変えられるのを信じて待ちましょう。そして「ある程度待ってあげたのにまだこれか」とこのように失望したりしないでください。寛容を尽くしましょう。
それではエリフはなぜ年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもないと言ったのでしょうか。エリフが見てみると、今ヨブと言い争っているヨブの友人は年上なのにヨブにかなわないからです。でもこれはエリフの性格が分かる言葉で、彼の考えは深くないし心も広くないのがわかります。人が年上だからといってみんな知恵があるのでもないし、年下だからといって知恵がないわけでもありません。年長者や老人は普通、経験が足りない若者よりは知恵もあるし経験もあっていろいろ知識もあるのですが、必ずしもそうではありません。まだ中高生でも若者でも大人より知恵があって思慮深い人もいます。特に信仰にあっては、子供でも神様を愛して神様を畏れ敬う人ならば、天の知恵をいただいて霊的な権威がある場合があります。
例えば、ダビデは少年時代に羊飼いだった時も、王や王の家来よりも知恵が優れていて信仰も優れていました。神様を愛して神様を畏れかしこんでいたから、神様から知恵を頂いてこのように影響力があったのです。またヨセフは、十七歳に他の国に奴隷として売られたのですが、神様がくださった知恵と悟りがあったので、主人に愛されて認められ、結局は王に次ぐ統治者になりました。ダニエルも少年時代に捕虜の身になったのですが、その知恵と悟りが優れていて、王朝が変わり国が変わっても、続けて大臣として用いられました。だから大人だからといって、年長者だからといって若者より知恵が優れるのではないのです。もう一つ考えるべきことは、年を取るほど世の文化にたくさん接するから、子どもよりは悪が多く植え付けられている可能性があります。人が大人として年長者として認められるためには、年にふさわしい品格を備えて、大人らしい大人でなければなりません。大人の皆さん、このような御言葉をよく覚えていてください。
最近はお年寄りや年長者が若者を教えようとすれば若者は嫌がりますね。自分は良かれと思って、必要だからあれこれアドバイスをするつもりだったかもしれませんが、若者はそんな風に受け入れない場合があります。それで嫌がられるかもしれません。私たちは、大人らしい大人になってまず手本を見せなければならないでしょう。子どもたちに対する時も同じです。教会の中でまた社会生活をする時も、尊重される、尊敬される大人らしい大人になりましょう。社会生活でも年齢や地位にふさわしい行動、成熟した態度と配慮、知恵のある判断力を備えてこそ尊敬されます。これは主にあっても同じです。信仰生活を長くするほど、さらに主の心に似ていなければなりません。主は神の御子という高い地位におられる方ですが、この地上に来られた時「人に仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た。」と言われました。
ですから信仰歴が長いほど、主のしもべ、長老、勧士になるほど、さらに御言葉通りに生きて謙遜で仕えて犠牲にならなければなりません。教会の中で務めが高くなるほど、リーダーになるほど、聖徒に仕えなければなりません。自分が頭なのに、何故周りの人が従ってくれないのかと不満を抱いてはいけません。そして自分が仕えられたいと思って、あれこれ要求してもいけないでしょう。「なぜこれをしてくれないのか。」と思う主のしもべや働き人がいるなら、それは高ぶりでしょう。聖徒が主のしもべに仕えてこそ祝福されると言わなくても、本当に主のしもべが神様の前にふさわしい人で、主のしもべに祝福の権威があるならば、自然に聖徒に愛されて聖徒に認められるでしょう。しかし言葉だけそのように言って、権威を振るうことがあってはいけません。それは尊重されるような大人の姿ではないでしょう。謙遜でなければなりません。自分が祝福されて施しをして聖徒を顧みる、このような働き人になって、また信仰歴が長くなるほどもっと心を広くして、多くの聖徒を顧みなければなりません。昨日子どもたちの聖書学校があったのですが、地域の方々、また男性宣教会の方々が、その行事のために参助してくださったのでとても感謝でした。このように信仰歴が長いほど、また務めが高くなるほど、私たちはもっと聖徒に仕えましょう。
モーセは真理にあって生きていたので、年を取るほど知恵が優れたし、百二十歳の年でも目もかすまず、気力も衰えていませんでした。このように誰でも神様の御言葉の中で完全に生きるなら、病気にもならないし、年を取るほど知恵が優れて健康であるのです。このような人なら神様がとても尊く思い、聖徒からも愛されて尊敬されるでしょう。ですから、人生を生きる時多くの経験も必要ですが、真の知恵と力は、神様を恐れかしこむことから得るということを心に留めてください。ですから、「私は年長者だから私に仕えなければならない」とか、「私が言うことを聞くべきだ。」と言ってはいけません。全てのことにおいて、手本になって模範になって、若者たちが相談したいと思う大人になりましょう。
万民教会では主のしもべの方々が、教区や宣教会の教区長になっていて指導教師になっています。また宣教会には部長もいます。教会で認められた人、また財力もある人が宣教会の部長になってあれこれ支援しています。でも肉的な面だけではなく、霊的にも助言するくらいの尊敬されるような品格を持って聖徒のためにも仕える、そのような信仰が成長していなければならないでしょう。それで、若者が部長にも相談したくなるように、また勧士会の方々にも話を聞きたくなるような大人になりましょう。そうではなくて、私は部長なのに、私は長老なのに、私のところに来て話を聞くべきではないかと、このように思ってはいけないでしょう。本当に尊敬されているならば、そう言わなくても周りの人々が来てくださいと招くようになるでしょう。実を結んで手本を見せているならば、自然に人々が近づくようになります。お花があれば、その香りがあれば、昆虫が集まりますね。また教会だけではなく、職場でも学校でも同じです。皆さんが上司として先輩として、そして若い人々を広い心で受け入れましょう。
続くヨブ記32:10-12です。
だから、私は言う。「私の言うことを聞いてくれ。私も、また私の意見を述べよう。今まで私はあなたがたの言うことに期待し、あなたがたの言い分を調べ上げるまで、あなたがたの意見に耳を傾けていた。私はあなたがたに注意を払っていたのに、ヨブに罪を認めさせる者はなく、あなたがたのうちで、彼のことばに応える者もいない。」(ヨブ記32:10-12)
エリフは自分が意見を述べる機会を、チャンスを待っていたのがわかります。エリフは彼らより年が下だから、今まで黙って話を聞きながら待っていたのですが、三人の友達が答えがなくなったらいよいよ自分の意見を述べるようになりました。そして「彼らの言い分を調べ上げるまで耳を傾けていた」と言います。「あなたがたが知恵のある言葉で、ヨブを認めさせるのを待っていた」というのです。「でも自分がそのように注意を払って話を聞いていたのに、まともにヨブに言い返す人はいなかった」と言うのです。「あなたがたはヨブを言いまかすことはできなかったから私がする」というふうに「今、自分が自分の意見を言う番になったと」いうのです。
ここで霊的に悟るべきことは、人が話をする時、自分が言うべき時なのかそうではないのかを正確に見分けなければならないし、礼儀を守らなければならないということです。エリフはそれでも年長者を尊重し敬う心はありましたね。それで彼らが話をしている間は、このように控えて遠慮して待っていました。こういうのは必要ですね。口があるからといって何でも言ってはいけないし、耳があるからといって何でも聞いて伝えてはいけません。たびたび人々の話の中で、私の口があって私が話すのにという場合がありますが、でも正しい言葉と正しくない言葉があり、言うべきことと言ってはいけない言葉があります。また手と足があるからといって、自分の思い通りに使ってはいけないし、自分の目だから自分勝手に何でも見ていいのでもないのです。韓国はそれでも自由があり民主主義がありますね。それで自分が見たいことを見ることもできます。
例えば、大人が自分は成人を超えたからとアダルトものを見たりするのならば、世の人はそれは、自分の自由だと思うかもしれませんが、でも見てはいけないものもありますね、常識的にも。そして私たちは信仰があるし、そういう目の欲をそそる、肉や罪になるようなことをしてはいけないのです。私たちは自分に目があるからといって、自分の手と足だからといって、自分勝手に使ってはいけないのです。私たちはこのように忍耐して実践して真理に従わなければなりません。動物の世界にも秩序があります。人は万物の霊長だから、さらに礼儀と秩序を守らなければなりません。また神様の子供らしく、心と考えも正しく、言葉と行動も正しくしなければなりません。
ヤコブ3:9-10です。「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人を呪います。賛美と呪いが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。」とあります。私たちは人の過ちを伝える言葉、さばいて罪に定める言葉、相手をつまずかせる言葉、偽り、欺く言葉、無駄な冗談などは口にしてはいけません。聞いてもいけません。さらに聖殿で言い争いがあったり真理と反対の話があるなら、これは神様の祝福と答えを妨げるものになります。ただ神様に栄光を捧げる言葉、愛の言葉、真理の言葉、善で恵み溢れる言葉、相手を励ます言葉をして、神様がご覧になるとき美しい教会になりましょう。
では教会から出ては言いたいことを言ってもいいでしょうか?そうではありません。私たちの体は聖霊がおられる聖殿です。だから私たちはいつも神様に喜ばれる言葉を口にしましょう。エリフはヨブが悪いとヨブが罪を犯したと思っているから、三人の友達がヨブの罪を認めさせるのを待っていました。これが、人が持っている負の感情です。Aという人に良くない感情のある人はAとBが言い争う時、Aの味方をするのではなく、Bの味方をするようになります。普段からAさんについて良くない感情がある人はそうなるのです。客観的に見れば、AとBのうちBの方が言っていることが正しくないのに、普段から自分がAに対して持っているその負の感情があるから、Bの見方をする場合があります。こういう負の感情があれば、自分の利益に合わなければ腹が立ち、自分の考えに合わなければ聞かないのです。
エリフは三人の友達がヨブを言いまかすのを待っていたのですが、なぜならヨブが悪いとヨブが正しくないと思っていたから、ヨブを言いまかせてやればいいのにと思って待っていたのですが、そのようにならないから腹が立ったのです。皆さんにはこういう姿はありませんか?自分の心の中でイライラしたりもやもやしたり、また腹を立てたりカッとなったりムッとしたりする、こういう負の感情があってはいけないでしょう。これは捨てましょう。ヨブは自分なりに正しく生きてきたつもりだから、誰もヨブを言いまかすことはできませんでした。ところでエリフはヨブの三人の友達に言っています。
ヨブ記32:13です。
だが、おそらくあなたがたは言おう。「私たちは知恵を見いだした。人ではなく、神が彼を吹き払った」と。(ヨブ記32:13)
ヨブの三人の友達はもう「自分ではヨブにかなわないから、神様がヨブを懲らしめてくださるしかない」と思っていました。でもエリフは、彼らがそんなふうに思っていることに対して、「それは違う。」と思って腹を立てているのです。人が、「私にはできない。神様が助けてくださらなければできない。」とか、「自分が人を変えさせることは、自分の今の信仰では難しい。神様が働いてくださらなければ」とこのように悟るのはいいのですが、もちろん友達がそんな風に悟ったわけではないのですが、自分たちがヨブを言いまかすことができないから、ヨブに答えることができず彼と話すことをやめて、神様が彼を吹き払うようにと思っていたのですね。でもエリフはそうではないと言っているのです。そうしてはいけないと腹を立てているのです。
エリフは第三者の立場で、ヨブと三人の言葉を聞きながら自分なりに考えてみました。それで考えてみたら、ヨブよりは三人の友達の方が正しいと思いました。でも三人はヨブに勝てないからそれが気に入らなくて、自分がやってみるとこのように出てきたのです。自分が見ては三人の友達が言っていることがあっているのに、どうしてそのヨブに負けるのかとこのように腹を立てるのです。しかしエリフがヨブを悟らせることはできませんでした。エリフは三人の友達と同じで、ヨブより愛と徳があるのでもないし、善でもないし、知識が優れていたわけでもないからです。このように常識的に考えても合わないのです。そんな立場でどうしてヨブを教えることができるでしょうか。ヨブより正しい方は神様だけです。結末で神様がヨブを悟らせてくださり、ヨブが変えられるようにしてくださいました。皆さん誰かを教えて悟らせようとするならば、その相手より善と義が優れていなければなりません。もし子供がぐれているならば、親は子供を叱る前にまず自分が親として手本になっていない姿を発見しなければなりません。
第一コリント7:14を読むと、親が聖められていれば子供も聖められているし、親が汚れていれば子供も汚れているとあります。親が真理を行って光の中を歩んで手本を見せれば、家庭から闇が退いて子供も親を尊敬するようになります。これは主のしもべと聖徒の関係、上司と部下の関係でも同じです。目上の人が手本を見せながら教訓すれば、目下の人も尊敬して従うでしょう。友達が友達を教訓する時も同じです。教える人が優れた善と愛があってこそ、相手が感動して変えられるのです。主が私たちを新しくして変えさせてくださる理由は、主が善、愛、真理そのものだからです。ですから家庭や職場、学校で、誰が年長者か、誰が知恵が高いかを考える前に、まず主を受け入れた人が霊的な光を放って、闇を退ける役割をしましょう。
先ほど親が子供の手本になることを言ったのですが、では子供の立場では、模範にならない親を恨みながら、ぐれていていいでしょうか?そうではないでしょう。子供の方が光の中を歩みながら親のために祈るならば、神様が親の心を動かしてくださるでしょう。マタイ5:14に「あなたがたは、世界の光です。」とあり、第2コリント2:15に「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」とあります。ですからさらに神様の御言葉を守り行い、家庭、職場どこででもキリストの香りを放ち神様に栄光を捧げましょう。
結論です。
愛する皆さん、今日はエリフという人が登場して彼が言う言葉を調べてみました。エリフはヨブを悟らせていない三人の友人に対して腹を立てながら、自分がヨブを言いまかそうと言っています。しかしこれは己自身を知らないから出てくる先走りの行動でした。人は悪を全部捨てて御霊の歩みに入る前は、他の人は勿論、自分に対しても正確に見ることはできません。だから自分の義と悪を言い張って自己主張が多いだけではなく人を裁くのです。マタイ7:5に、「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」とあります。自分も悪を持っている人が、人の過ちを指摘するなら恥ずかしい姿でしょう。あの人よりはマシだと思っているかもしれませんがそうではないのです。
必要な時は真理を持って助言する時もありますが、でも自分が完全でない場合は、まず自分を顧みてまず自分の方が変えられなければなりません。人の過ちを見て指摘したいし、一言言ってあげたいと思ってイライラしているならば、自分の中に大きい悪があるのです。こういう姿があるならばどうでしょう?人に話したくなり、一言言わなければ我慢できない、そういう姿はありませんか?自分は完全ではないけれどあの人よりはマシだ。だからこれは言ってあげなければと思う人もいます。それでずっとモヤモヤしている人もいます。でもその人の深い心を見てみれば、相手を無視する心があり、自分の義があるし、愛のない姿があります。このような悪があるのです。さらに人にそれを伝えるなら、それは本当に罪に定める大きい悪になるでしょう。そのような姿は捨てなければならないのです。神様の前でさらに大きい罪になります。だから人を指摘する人の心には、その人より大きい悪があることを悟りましょう。
そのような悪を捨てた人、自分の目から梁を取り除けた人、悪はどんな悪でも避けて御霊の歩みに入った人が、人にアドバイスをする資格があると言えるでしょう。でもそのような人は相手の過ちを見たからと言って、人に伝えたりむやみに裁いたり罪に定めたりしません。相手に助言する時もそのためにまず祈り、相手のことを調べてその事情を理解して、時を待っていて気をつけています。それでも相手が言い訳をして聞き入れなければ、問い詰めたりイライラしないで黙っていて、相手が悟るように祈るだけです。エリフの姿を見ながら自分はどんな人なのかを顧みて神様が望んでおられる心になりますように。皆さんは毎日御言葉の鏡で自分を照らして責められるところがない聖なる者になりますよう、主の御名によって祈ります。
