ヨブ記講解88 - ヨブと私たちの心の比較(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記31:1-3
ヨブ記31:1です。
私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。(ヨブ記31:1)
これはヨブが自分の鉄則を明らかにしています。普通、契約を結ぶ時、誓う時、ある人は自分の良心にかけて、ある人は先祖や家にかけて、自分の名誉にかけて誓う人がいます。それぞれの価値観や信念によって一番信用できるような分野や、やり方を選ぶのです。ヨブはそのうち一つが自分の目でした。「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留めよう。」とあります。つまり、乙女に目を留めないと自分と約束したのです。ヨブは物質や名誉、権力、健康、知恵、知識など全ての面において乏しいところがない人でした。どころが、お金持ちや権力を持っている人々が 味わっている、贅沢や放蕩はしませんでした。普通権力を持っている人は、芸術、音楽、踊りのような風流を楽しんだり、また酒や女、享楽も楽しむ場合がよくあるのですが、ヨブはこのような世俗的な風流は楽しまなかったのです。それは神様の前でふさわしくないと思ったからです。それで姦淫しないと決心しました。それだけヨブの心は正しく潔白でした。
ヨブには姦淫する心がなかったので、自分の目と契約を結んで乙女に目を留めないと決心したのです。人の目は、思いが動く通りに動いて、また目で見るものが思いに伝えられて心に留められます。目で良いものを見たらそれが欲しくなり、見てはいけないものを見ることによって姦淫もするようになります。特に今日は、多くの映像やいろんな雑誌など媒体を通して、姦淫によく簡単に染まってしまうことがありますが、神の子どもたちはこういうことを注意しなければなりません。行いで姦淫することだけが罪ではなく、情欲を抱いて人を見るのも、姦淫を犯すことになります。最近は映像動画でこのようなみだらなものがどれほどたくさんありますか?自分は実際、姦淫はしていない、でもただその映像を見ているだけだとか、自分のそういう姦淫したい心をその見ることによって満たしているのではありませんか?自分の目と心を汚しているのではありませんか。そのままでは姦淫という属性を捨てることができません。世の人ならば、自分は実際やっていないから悪くないと思うかもしれませんが、神の子供たちは、目で見るもの自分が感じること耳で聞くことなども、注意して守らなければならないし汚してはいけません。
ダビデが、ウリヤの妻のバテ・シェバが体を洗っている姿を見た時、どうなりましたか?目の欲が刺激されてそれを遮断しないで受け入れたら、あの女性を自分のものにしたいという肉の欲が動き出しました。その結果、肉の行いをしてしまいました。それでその女性の夫のウリヤを戦いに出させて死なせる、大きい罪を犯しました。これによって多くの試練をもたらしてしまいました。このように、人は目で見ることによって罪を犯しやすいのです。ですからイエス様はマタイ18:9で、「もしあなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとって良いことです。」と言われました。またマタイ5:28でこう言われました。「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」ですから、このようにアダルトビデオを見ていることは、ずっと姦淫を犯しているということです。心に抱くことも根本的には姦淫という同じ罪の根から出たものだからです。
ところでヨブはおとめに目を留めないと自分と固く約束しました。どれほど正しい心でしょうか。またヨブは自分との約束を完全に守る人でした。人々は何かを決めても三日坊主で終わってしまうことがよくあります。例えば、お酒とタバコは体に良くないことを知ってやめようと思っても、その心を守れないからやめられないのです。クリスチャンの中で毎日祈ろうとか、また毎日一章以上聖書を読もうとか、これから怒るのをやめようとか、自分と約束しておいて守れない場合がよくあるのではありませんか。万民の皆さんの中で、牧者がおられ恵みを受けた時、何かを定めたことがありますか?何か誓願を立てたことがありますか?でもそれを後で破ってしまうことはなかったでしょうか?顧みますように。そして、「その時、みんながそうしていたから、私も雰囲気に流されてそうしてしまった。」と後悔する人はいませんか?牧者はいつも、むやみに軽率に誓願を立ててはいけないと言ってくださいました。
誓願もそうだし、献金をすることもそうです。何か神様の前で約束したことを人のせいにしたり、環境のせいにしたりしてはいけません。自分で選んで自分で決めたことだから、自分が責任も負わなければならないのではありませんか。もしそういう誓願を破ってしまったことがあるなら、それは神様との間に大きい隔ての壁になっています。その時は恵みを受けて、本当に心が熱くなってこうします、ああしますと約束しておいて、後でその心が冷めてしまって、それが負担になってしまい移り変わってしまう人もたくさんいたと思います。そして以前、自分がそのように約束したことを、人のせいにする人もいます。どれほど卑怯な姿でしょうか。
そしてある人が、例えば恋愛して結婚する姿を見て、自分もそうしたいと思う人もいるかもしれません。以前自分は確かに結婚しないと誓願を立てておいたのに、そして周りの人の中で誰かが結婚したり恋愛するのを見ながら、それについて良くないと思う場合があって、ちょっと非難する場合があるなら、それは自分の心の中に自分もそうしたいという思いがある反動から出てしまう、そのような反応かもしれません。皆さんはどうなのか顧みますように。恵みを受けた時はあれこれしますと熱い心で約束したのに、後でそれが移り変わってしまったり冷めてしまったり、また人のせいにしたり不満を抱いたりするならば、どれほど心に悪があるということでしょうか?ヨブと比べてみてください。自分の心にどれほど深い悪があるのか悟りますように。
ヨブは乙女に目を留めないと言った自分との約束を必ず守る人でした。私たちは人との約束はもちろん、自分との約束も守らなければなりません。皆さん、世の人々は約束をよく破るのですが、また周りの人がよく約束を破るのを見ながら、あの人もこの人もこのくらいはそうしているから、私もしてもいいと思ってはいけません。私たちは自分との約束を守って、この聖い道を歩まなければなりません。神様の前で誓願したものはなおさらでしょう。軽率に誓願を立てて後で移り変わってしまうなら、それは神様を無視することであり、神様との間に隔ての壁を作り、サタンに訴えられて試練に遭うようになります。聖書を読むと誓願について警戒しています。民数記30:2に「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、その言葉を破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」とあります。詩篇15:4には、「損になっても、立てた誓いは変えない。」とあります。伝道者5:6には、「あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。死者の前で『あれは過失だ』と言ってはならない。神があなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。」とあります。
もちろん神様の前に立てた誓願を守れば、それだけ特別に神様から祝福を受けることができます。そのために誓願を立てるのです。でもそれを破ってしまって、後でそれは過失だったとか言い訳をしてはいけないのです。軽率に誓願を立てて移り変わるよりは、一層しない方が良いということなのです。ところで自分が誓願を立てたことを破ったとしましょう。それならどうすればいいでしょうか?神様の前で赦していただくためには、前よりもっと一生懸命に信仰生活をして、前よりもっと忠実にいろいろなところで奉仕をして仕えてください。神様の前にそれで憐れみを求めなければなりません。神様との約束を破ってしまったから、そのような偽りの心を悔い改めながら、謙遜にへり下って神様に喜ばれることを行わなければなりません。神様との信頼関係を回復しなければなりません。このような誓願についてのメッセージを聞きながら、「ああ、私は破ってしまったのに。」と思って、いつも心が刺されて落ち込んで諦めてはいけません。神様の前に悔い改めながら、もっと前よりも熱心に信仰生活をして、神様に喜ばれるような行いを忠実にしなければならないし、心に割礼をしながら変えられていくならば神様は憐れんでくださるでしょう。
続く本文を読むとヨブ記31:2です。
神が上から分けてくださる分け前は何か。全能者が高い所から下さる相続財産は何か。(ヨブ記31:2)
これはおとめに目を留めるなら、その結果としてもたらされるものは何かということです。分け前とは何かに対する代価で、相続財産はそこから結ばれる実を言います。例えば父親が子供たちにそれぞれ遺産として分けてあげた土地が分け前ならば、その土地で結ばれる実を相続財産と言います。ヨブはもし自分との約束を、契約を守らなければ、神様が自分にくださる分け前はないと言っているのです。自分が自分の目と契約を結び、おとめに目を留めないと約束したのに、もしこの約束を破るなら、神様から何もいただけるものがないと言っているのです。この言葉を見ればヨブがどれ程正しい心を持っていたのかが分かります。皆さん、ここでも自分の心をヨブと比べてみますように。自分との約束を守れず、神様の前に誓願を立てたことも守れないのに、答えと祝福を受けている姿ではありませんか?
申命記23:21に「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。」とあります。ですから神様との約束を破って、罪の隔ての壁があるならば、神様の前に求めても答えを得ることができないのです。まず悔い改めて立ち返って、神様との間の罪の壁を壊した後、求めなければなりません。昔から神を認めて後の世のことを認めていた人々は、正しい良心から聞こえてくる心の声を聞いて悪を行いませんでした。反対に心が悪いほど、良心の声に背いてしまうことがよくありました。ヨブは神様を見つけた体験はないけれど、神様を恐れて自分の良心を最大限守る人でした。最近は良心が麻痺してしまった人の姿もたくさんあります。クリスチャンなのにそういう姿もありますが、旧約時代のヨブは、自分の良心を守る人で律法を守り罪から遠ざかっていました。まして私たちは聖霊を受けています。神の子供らしく心から聞こえてくる聖霊の声に耳を傾けて、いつも真理で心と行いを守らなければならないでしょう。
続く本文 ヨブ記31:3です。
不正をする者にはわざわいが、不法を行う者には、災難が来るのではないか。ヨブ記(31:3)
この言葉の中には人が過ちを犯せば、当然それに対して報いを受けるべきだというヨブの信念が込められています。これによってもヨブのまっすぐな心がわかります。ヨブはもし自分が過ちを犯したとしても、これを隠そうとしないで、当然その報いを受ける心でした。このような良い心を持っていたので、全ての財産と子供を失った時も感謝できたのです。聖書を読むとダビデ王もそうでした。ダビデ王はバテ・シェバを自分の妻にした後、これを隠蔽するために計略を立てて、その夫のウリヤを戦いに出させて敵の手で死なせました。しかし預言者ナタンが来てそれを責めて、これから大きい試練があると言った時、ダビデはどうしましたか?「すぐ私は主の前で罪を犯しました。」と悔い改めました。何か言い訳をしませんでした。「神様この試練を避けるようにしてください」と言わなかったのです。結局罪による報いによって、息子アブシャロムに追い出されて民のシムイに侮辱を受けるなど、大きい辱めを受け試練に遭いました。
しかしダビデはそれを避けようとしないで、感謝しながら黙々と受けていきました。その試練の過程を通して、結局、神様の前でさらに完全な心に変えられて、前より立派な王になっただけではなく天国でも高い地位に入ることができました。多くの人が不正なことをしておいて、それによるむくいは受けようとしないで、何としてでも隠そうとして避けようとします。これは心に偽りがあってずる賢いからです。過ちを犯したなら徹底的に悔い改めて、それによる試練も甘んじて受ける心なら、神様を認める姿でしょう。そして、悪はどんな悪でも憎むようになって、速やかに聖められるでしょう。しかし罪を犯しておいて、自分を合理化したり言い訳をして、自分を隠そうとするなら、それは悔い改めてはいないし罪が赦されないのです。罪を認めているようでも自分を合理化する人がいます。心の底から悔い改めていないからです。そして、「自分は仕方なかった」とか「やむを得ずそうするしかなかった」とか言い訳をするようになります。ダビデとは全然違う姿ですね。
そういう場合は、「申し訳ありません。罪を犯しました。」と口では言っていても、本当に心の底から自分の過ちを認めていない姿だから、それはまことの悔い改めとは言えないのです。そして頭でただ私が間違ったんだと反省しているだけで、心から立ち返っていない姿もあります。皆さんはどんな悔い改めの姿だったのか、また自分の過ちについて指摘されたりするとき、自分の心はどうだったのか、本当にへり下ってアーメンと言って受け入れて、その過ちによる報いも感謝して受けたのか、顧みますように。そのようにへりくだって感謝している人ならば、神様が赦してくださり、その後で祝福されるでしょう。心から悔い改めたなら罪による報いがやってきても、悲しむのではなく感謝します。それによって自分の罪が許されるから感謝するのです。
このような人は主の心に似て変えられることができます。そういう器です。例えば白い服に何か汚れがついたとしましょう。軽いものならばすぐ落とすことができますが、でもインクとかまた落とすのが難しいこういうものが染み付いてしまったならどうでしょう。それを消すのにいろんな手間がかかるし、また時間もかかるでしょう。そして白い布ほどそれが目につくようになって、またそれを洗って落としたとしても後でまたシミのように残る場合がよくあります。先程ダビデの話をしましたけれども、ダビデのように罪による報いとしてくる試練の過程を、本当にへりくだって感謝しながら甘んじて受けていた場合は、その罪が赦されてその罪の痕跡までも神様が拭い取ってくださるからどれほど感謝でしょうか。
ですから私たちも、もしかして何か過ちを犯してそれを悔い改めて、今そのような同じ過ちをしていなくても、後で試練にあったりする場合、その時本当に徹底的に悔い改めて、神様がその罪を拭い去ってくださったのか、顧みますように。もしかしてその時徹底的に悔い改められなくて、何か神様との間で隔ての壁が残っているかもしれません。それが原因で今病気になったり、何か試練に遭うかもしれません。それを知るためには、祈りながら聖霊に教えてくださいと求めなければならないでしょう。そうすると忘れていたことも聖霊が思い起こしてくださるでしょう。そのようなことをすれば神様に感謝するようになりますね。このように自分について一つ一つ正確に知って自分を発見することも祝福です。
ところでヨブは、人の道理に背くならば当然それによる代価を受けるべきだというまっすぐな心を持っていたのにかかわらず、今はなぜこのように悪い姿悪い口の言葉が出てしまうのでしょうか?ヨブは過去に行っていた姿を見れば本当に正しくて潔白でまっすぐな姿でした。でも、試練にあったら悪い姿が出ています。ヨブは人間として守るべき道理は守りましたが、自分の限界を超える試練にあったら、それが理解できなかったのです。皆さんがヨブの立場になって考えてみてください。ヨブは自分の良心に従って罪を犯さないで正しく生きていました。子供と全ての財産を失った時も、神様の前で自分の口の言葉を守り感謝しました。しかし今、自分の苦しみは終わりがないし、体もむちゃくちゃになって人々にあざけられて、さげすまれているからみじめになってしまい、神様を恨んでいるのです。自分なりに人間としての道理を守ったのに、現実はだんだん絶望的だから、神様に対して不満を抱くようになったのです。しかし神様は、ただヨブが人間の道理を守ることだけではなく、霊的にまことの義、真理の心になるように望んでおられるから練ってくださったのです。でもヨブはそのような霊的なことは分からないから、自分の限界を超える試練は耐えられなかったのです。
ところでアブラハムはどうでしたか?神様が人には到底理解できないような、また道理にも合わないようなことを命じました。百歳の時神様の約束の子孫としてくださった一人子を、全焼の生贄に捧げなさいと言われるのです。この時アブラムは、「神様これはあまりにも酷いことではありませんか。イサクを通して空の星のように海辺の砂のように、多くの子孫が出てくると約束なさたのではありませんか。それなのにどうして今はこのように捧げなさいと言うのですか?」と問い詰めませんでした。神様は善であり約束を守る方であり、死んだ者も生き返らせる力があることを信じているから喜んで従いました。このような完全な信頼を見せたから、神様はアブラハムを信仰の父として立てて、その約束を守ってくださいました。
使徒パウロは主に出会った後、一度も主への愛が変わらなかったし、どんな患難にあっても神様の前に賛美を捧げ、殉教する時まで命を尽くして福音を伝えました。現実を見れば理解できないいろんな患難、苦しみがありました。「自分は正しいことをして主の福音を伝えているのに、どうしてこのような厳しいひどい迫害を受けなければなりませんか?」と言ったことがないのです。神様は、ヨブもこのような霊の心、真実な心を持つようにと望んでおられたのです。ヨブとアブラハム、また使徒バウロの違いが分かりますね。ヨブはもちろんその行いとヨブがしていたことを見れば、正しくて潔白で罪から離れていたのですが、でもその深い心にあるものは、例えば信仰の父のアブラハムとかダニエルとかそして使徒パウロとかと比べてみれば、違いがありましたね。でもヨブの器そのものは本当に良かったので、神様はヨブがこのような試練の過程を通して、完全なものになることを望んでおられたのです。ダイヤモンドでも初めから輝く宝石の状態ではないのですね。原石があってそこから磨いて、それでその精錬する過程があってその後、輝く素晴らしい宝石になるのですね。神様はヨブもそのような姿になってほしいと思っておられました。
皆さんにもそのようになってほしいと思っておられるその神様の心を感じられますか?それで新しいルサレムに入ってほしいと思っておられる神様は、そのために今の私たちを導いておられ、今までの万民の歴史を導いてこられました。皆さんはヨブと自分の心を比べてみて、またアブラハムと使徒パウロやダニエルの心と比べてみますように。そして試練の時自分はどうだったのか顧みますように。それで自分を発見したならば、さらに変えられればいいでしょう。そして神様のお望み通りに完全なものになりますように。神様のその愛を感じてみますように。皆さん、ヨブと自分の心を比べてみましたか?私たちは子どもと全財産を失っても感謝を忘れないで神様を褒め讃えたヨブの心は学び、それ以上の試練にあった時は耐えられず、神様の前でつぶやいたそのヨブの姿は見習ってはいけないでしょう。神様は子どもたちが試練の中でも喜び感謝し神様を信頼できる真実な信仰を持つように望んでおられます。私たちがずる賢さと移り変わる心を捨てて真実な心になるならば、死も恐れずどんな状況でも神様に感謝できるでしょう。ヨブはこのような真実な心に変えられるような器だったので、神様は彼を練って悪を捨てるようにされました。ですから私たちもヨブの姿を鏡として自分を発見して、どんな試練にも喜びと感謝を持って耐え抜く真実な心を持ちますように。
結論です。愛する皆さん、神様は何の理由もなく苦しみに合わせる方ではありません。ヨブの言っていることを一つ一つ霊的に調べてみれば、ヨブがなぜ試練にあったのかは分かりますね。神様がヨブを潔白で正しいと褒められたのは聖霊の時代ではなく、旧約時代のヨブが、その行いが神様を恐れて非の打ち所もないように潔白で正しかったからです。しかし神様が私たちに望んでおられることは、行いだけではなく思いと心の中にある悪と、移り変わること、偽りが少しもない心、善と愛が満たされた心です。ヨブがこのような心になるためには、自分の限界を超える試練の過程を通して、本性の中の悪まで発見して捨てるその過程が必要だったので、神様はサタンの訴えを聞き入れたのです。神様は多くの子どもが神様の心にそっくりの全く聖なるものとされてほしいと思っておられます。そして聖書でその方法を教えてくださいました。ヘブル10:22に「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎ受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」とあります。ですから御言葉と祈りで、良心の悪と本性の悪まで発見して捨てて、真理と善だけで満たされた心と全き信仰を持って、神様に喜ばれる皆さんになりますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。
