ヨブ記講解91 - ヨブの義(3-下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記31:34-40
教会の中でも誰かが不義を行った時、それが不義だと知っていながら目をつぶったり、放っておいたりするならば、それが続いてしまって、サタンがさらに働くようになるのです。誰かの過ちを見た時、黙って心の中にそれしまっておいて、かばっておおう時も必要ですが、実際に行って責めたり勧めたりすることが必要な場合もあります。第一ヨハネ5:16に「誰でも兄弟が死に足らない罪を犯しているのを見たなら神に求めなさい。そうすれば神はその人のために死に至らない罪を犯している人々に命を与えになります。死に至る罪があります。この罪については願うようにとは言いません。」とあります。死に至らない罪の場合ならば、その人が速やかに悔い改めて立ち返るように積極的に助けなければなりません。死に至る罪については既に何回も説明しましたので、ここでは省略します。
ヤコブ5:19-20です。「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなた方は知っていなさい。」とあります。相手が不義を行っているのを見るのならば放っておくのではなくて、その人が死の道から帰ってくるように救いの道に入ってくるように進めなければなりません。マタイ18:15-17を見れば、イエス様はこのように説明してくださいました。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」と言われました。他の人に伝えるのではなくて、その人のところに行って直接言いなさいということですね。
皆さんはどうしていますか?その人の罪を見た時、その人のところに行ってその理由を聞いたり事情を聞いたりして、またその人が罪を犯したことについて正確に言う勇気がありますか?でなければ自分が何か決めつけて思い込んでしまって、他の人にそれをまず伝えることはありませんか?「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」と言ってくださいました。自分より霊的な人やまた秩序の高い地位の人のひとりかふたりと一緒に行って確認するのですね。「それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」と言われました。
そのままにしておけば、教会のほかの聖徒まで悪い影響を受けることがあるからですね。このように段階を踏んで、まず行ってそれでも聞かないなら、またひとりかふたり一緒に行ってまた行ってそれでも聞き入れない時は教会に告げるのですね。私たちもこの御言葉を通りにしなければなりません。ひとりで行ってその人のためにいろいろアドバイスをしたり助言をしたりして、それでも聞かなければ宣教会の指導教師とか教区長と一緒に行けばいいでしょう。また病気の癒しのための時も同じです。このように秩序に従って皆さんが行った時、このように段階を踏む必要があります。病気のために祈る時もいきなり私に祈ってくださいというのではなくて、秩序を踏んで自分がその人のために祈ったり、また区域長もいるでしょう。その上に組長、地域長もいて教育長もいるし指導教師もいるから、主のしもべと一緒に行って祈ることもいいと思います。また私にまでこのようなことが来るならばよほどのことでしょう。このように皆さんも段階を踏んで行いますように。私が直接誰かに何か責めたり勧めたりすることは多分あまりないと思いますが、必要な時はそうするのですが、まずはこのようにこういう秩序、段階によってしなければなりません。
それでも教会のこのように堂会長までその話が来て、それで私がもし行ったのに聞き入れないならばその時は仕方ないのです。もしそのような人々をそのまま放っておくならば、ほかの人まで罪に染まるようになり教会全体が苦しむようになるからです。このように、神様が悪を行う人を教会でこのようにするようにと言われたのは愛がないからではなくて、さらに多くの人のためにまた教会を聖なるものとして守るためなのです。第1コリント5:11-13です。「兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」その悪い人をあなた方の中から取り除きなさい。」とあります。
もちろんこの御言葉は全ての人に当てはまるのではありません。初心の者は罪が何かよく知らないし、御言葉を聞いてもそれを実践するような力もありません。このような方とは霊的に交わりをしながら信仰を植え付けて、真理の中に入るように導かなければなりません。あの人は不品行だから貪欲だからとか、酒に酔っているからと思って退けてはいけないのです。愛をもって憐れんで受け入れて変えられるように導くのが、働き人がすべきことでしょう。だから働き人がとても大切です。しかし神様を信じるという人、信仰が強いと思われる人が、このようなひどい罪を犯した場合はどうすべきでしょうか?御言葉にある通りにするのです。先ほど言ったその段階を踏んで、その人にいろいろアドバイスをしたり助言しても聞き入れない場合は、教会全体に悪い影響がいかないようにこのようにしなければなりません。ただ悪を放っておくのではなくてその人がその悪を捨てて立ち返るように助けることが善です。そして立ち返った場合は前の過ちは思い出さないで、愛を持っておおってあげなければなりません。教会全体のために、その人が教会に悪い影響を与えるような人ならば御言葉通りにしなければなりません。
ところで皆さんを迫害してまた、教会で問題を起こして教会を離れた人がいるとしましょう。その人が神様に対してまた牧者に対してありえないような悪いことをして教会離れたとしましょう。それならその人とはそれからどうすべきでしょうか?皆さん、そのような人とも今も同じように親しく会ったりまた連絡し合ったりしていていいでしょうか?そのような人に会って一緒においしいものを食べたり、またいろんな世間話をするのが楽しいからと今でも会っている人がいるでしょうか?こういうものもちょっと考えてみるべきだと思います。そういう人ならば、本当に真理を愛しているのか?本当に教会を愛しているのか?もしそれが平和を求めるためだと思うならば、それが本当の霊的な平和なのか考えてみる必要があります。例えば皆さんの両親を誰かが侮辱して、両親をひどく憎んで悪いことをしたとしましょう。それなのに、その人と親しく皆さんが付き合っているならばどうでしょう?それが神様の前で、また人が見ても良いことなのか考えてみてほしいです。こういうところももしかして、神様の前でそれが隔ての壁になっているかもしれません
続く本文ヨブ31:35です。
だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。(ヨブ記31:35)
これは、誰でも私の言い訳を聞いてくれ。私の言葉には少しも偽りがないから、全能なる神様が私に答えてほしいと言っているのです。ヨブは続けて自分の潔白を主張しています。実は肉的に見れば、ヨブは普通の人がついていけないくらいの素晴らしい義と善を持っていました。神様の前で堂々とこのように自分を主張することもできました。でも友達はどうしましたか?ヨブに罪があるから過ちがあるから、神様に懲らしめられているのだとこのように迫害してあざけっていたのですね。だからヨブはそれがあまりにも悔しかったのです。自分は正しく生きてきたのに、自分は良いことをしてきたのに、どうして神様は私をこのように苦しめるのかと問い詰めているのです。そして自分は正しいから、これを知っている神様が自分に答えてくださってほしいと思っていたのです。
でも真理で照らしてみればヨブが言っていることは高ぶっているのです。被造物がどうして神様の前で、このように訴えたり問い詰めることができるでしょうか?ヨブはこのようにとんでもないことを言いながらも自分は正しいと言い張っています。アブラハムの義とか使徒パウロの義とは違いますね。アブラハムは、神様の御言葉ならばただ聞き従いました。また使徒パウロは福音を伝えていて迫害されても神様を賛美しました。もしアブラハムの立場になったならば、ヨブはその時どんな反応をしたでしょうか?「神様、私の大事な息子をどうして全焼の生贄として捧げなさいと言われるのですか?私は過ちをしたこともないのに、なんでこの様にとんでもないことを命じるのですか?」と、このように問い詰めたかもしれません。これは真の義人の姿ではないでしょう。本当に神様が望んでおられる義を行う人々は、神様の前でこのように問い詰めたり、訴えたり、言い訳をする姿はありません。
ダニエルとその三人の友達の姿を見てみてください。これが、神様が認めてくださる義です。これを聞きながら皆さんは、私はヨブよりはマシだと思ってはいけません。なぜならヨブは神様の前で不遜にもこのように問い詰めているのかと思うかもしれません。でも皆さんも実際そうしているかもしれません。自分は神様の前ではそんなふうには言えない。でも周りの人にはどんなふうにしていますか?ヨブは人々にあれこれ言われた時、神様の前で訴えて神様にあれこれ言っているのですが、それは神様に認めてほしいから神様に答えを求めているのです。つまりそれだけ神様を信じていたのですね。そういう姿勢だったのです。でもあれこれ考えてみても自分は過ちがないのに、私は正しいのにと理解できないから神様の前でこのように言っているのです。これは世の人が神様の前で不遜にもあれこれ言ったりするのとは違います。
でもクリスチャンの中で何か問題がある時、人と解決しようとする人がいます。あの人はなぜ私にそんなことをするのかとか、それに不満を抱いたりするので終わってしまうのです。でも神様をいつも意識している人は違いますね。ある人との関係で何か問題があれば、その人に対してああだこうだと不満を抱くことで終わるのではなく、神様の前に祈りながら、「神様あの人はなぜ私にこんなことを言ったのでしょう?もしかして私がその人に前、何か失礼なことをしたのでしょうか?それを悟らせてください。」とか、このように神様に祈るようになりますね。ヨブはそこまではできなくても、それでも神様の前で、「神様何故でしょう?」とか、「どうしてでしょう?」とか、このように神様にずっと「こういう問題を解決してください。」と、神様に聞いたり、また答えを求めたり、神様との関係で解決を求めているのです。でも、友達がずっと自分にあれこれ攻撃してくるから、自分のことを悪く言ったり、また自分のことを厳しく、またきつい言い方で、「あなたは悪い。」「あなたは間違っている。」とこのように言っているから、ヨブはそれが嫌で、今かっとなってあれこれとしているのですが、でもあくまでも神様の前で何とか解決してほしいとこのように求めている姿です。ヨブは真理を知らないからこのように自分の義を堂々と主張しています。
ヨブ記31:35後半節―37です。
私を訴える者が書いた告訴状があれば、私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ、私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにして近づきたい。(ヨブ記31:35後半節-37)
ヨブは自分の過ちを記録したそのような告訴状があれば、それを自分の肩に負ってまた冠のように自分の身に結びつけたいと言っているのです。なぜなら自分にはそういう過ちはないから今まで自分の人生を顧みてみれば、神様の前で訴えられるような何か過ちがないから堂々とこう言えるのです。もし自分が気づいていない不義があって、誰かがそれを指摘してくれるなら、それを嬉しく聞くという意味です。その人を君主のように思って近づきたいと言っているのです。これはヨブが本当にそう思っているからそのように言っているのです。誰かが自分が十分に納得できるように説明してくれれば、それで自分の過ちを指摘してくれれば、それが合っているならば喜んで受け入れるという意味ですね。ヨブは自分を悟らせてくれる先生という存在がいるならとても感謝するという姿勢です。「それならヨブは友達の指摘は受け入れなかったでしょう。」と思う人もいるでしょう。でもヨブにとって友達は正しい先生ではなかったからです。彼らが指摘することを正しくないと思ったからです。でもヨブは基本的に良心が正しかったから、自分にもし過ちがあれば指摘されたいと思う人でした。私たちも霊的に成長するためには褒められたり慰められたりよりは勧められ指摘されるのを喜ばなければなりません。箴言29:15に「むちと叱責とは知恵を与える。」とあります。また箴言27:5には「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」とあります。このように相手の前で面と向かって責める方が密かに愛するより勝るということです。信仰が弱い人はそのように言われることが辛いかもしれません。そういう人に対しては愛を持って待ってあげた方がいいです。しかしある程度信仰がある人にはこのように責めてその人が過ちを悟って速やかに立ち返るようにすることも愛です。
でも心の悪い人は指摘されたら自尊心が傷ついて、相手をまた攻撃するようになります。相手にあれこれ言われるのが嫌になります。皆さんはどうでしょうか?ヨブは真理を完全に知らない人だったのですが、もし誰かが正しく自分を指摘してくれれば喜ぶような心でした。いつも聖めの福音を聞いている私たちは、どうすべきでしょうか?エペソ5:13「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」とあります。私たちは指摘されたり責められるときは、心から感謝して受け入れて速やかに立ち返ってさらに速やかに光の中に入りましょう。責められるときは感謝して受けなければなりません。でも立場が違って、皆さんがもし相手に指摘するような立場ならば、愛を持って忍耐を持ってその人を待ってあげる、そのほうがいいでしょう。厳しく指摘するよりは、優しく真理の御言葉を持ってこのように言い聞かせたりした方がいいでしょう。ですから私たちは聖書にこのような御言葉があるから、あからさまに責めようと思ってはいけないのです。立場によって違いますね
続く本文を見ればヨブ記31:38です。
もし、私の土地が私に向かって叫び、そのうねが共に泣くことがあるなら、(ヨブ記31:38)
これは、ヨブが自分の土地は呪われるようなことをしていないということを言っています。昔は重要な産業が農業だったのですね。それで土地はとても重要な財産であり、農業は生存と直結することでした。だからもし誰かがあなたの農業が潰れてほしいと言うなら、これは大きい呪いでした。今日で言うならば、「あなたがしている事業が失敗してしまえばいいのに」と言うのと同じでしょう。ところでヨブは、そのようなことを言われるくらいの悪を行わなかったと言っているのです。ここでまた私たちが知っておくべきことは、悪い人が畑に種をまくからといって、その農業がうまくいかないように願うことは悪であるということです。神様は悪い人にも良い人にも同じように太陽と雨をくださる方です。また土地は誰が種をまくかによって違うのではなくて、その人が心を込めて育てるならば、それによって収穫量が変わるのです。
世のすべてのことが同じです。悪い人でも、それなりの努力をして苦労するならば、それに対する実は刈り取るのです。だから悪い人が成功するからといって、それに対して腹を立ててはいけません。でも裁きの日には違います。ヨハネ5:29に「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者、はよみがえってさばきを受けるのです。」とあります。イエス・キリストを信じて善を行えば命を得ます。でも悪を行えば永遠の刑罰を受けるのです。だからこの地上で生きている間、悪い人がうまくいくように見えても、それに対して不満を抱くこともないし、心の良い人が悔しい目に遭うように見えるかもしれませんが、結果的に見てみれば結局は善が勝つのです。これを忘れないでください。
続く本文ヨブ記31:39です。
あるいは、私が金を払わないでその産物を食べ、その持ち主のいのちを失わせたことがあるなら、(ヨブ記31:39)
これは、ヨブが他の土地を所有している人との関係をはじめ、全ての人との関係で自分は正しく生きてきたことを言っています。以前友達がヨブに「あなたが悪いからあなたの土地と財産がなくなったのだ。」と言ったから、ヨブは「そうではない」とこのように言っているのです。そしてもし自分が正しくなかったならどんな代価を受けるべきかを次のように言っています。
ヨブ記31:40です。
小麦の代わりにいばらが生え、大麦の代わりに雑草がはびこるように。ヨブのことばは終わった。(ヨブ記31:40)
これでヨブの言葉は終わりました。食べる小麦とか大麦の代わりに茨とか雑草が生えてもいいと思うことは、もし自分に過ちがあって罪があって自分の土地が呪われても、それは仕方ないと当然のことだと言っているのです。これは、自分はそのような罪を犯していないということを強く言っているのですね。ヨブはこのように良い心を持っていて良い業をたくさんしていたのです。それで自分は正しいとずっと思っているし自分の過ちは悟っていません。でもヨブは速やかに自分の心の深いところにある悪を悟って悔い改めるべきですが、そうではないからまだ試練が続くのです。
皆さんも夏のキャンプのために備えていると思いますが、自分に何か問題があるけれど霊的な原因が分からないときは、自分ひとりであれこれ考えるよりは、教育長とか指導教師に相談した方が良いと思います。自分では分からない気づかないところもあるからです。だから周りの人に相談して聞いてみるのも良いと思います。それで悟って発見すれば祝福ではありませんか。それで悔い改めて備えれば、キャンプの時に祈りを受けてその問題が解決されるでしょう。こうやってヨブの長い長い言い訳が終わりました。32章では新しい人物が登場します。それは次の時間に伝えましょう。
結論です。ヨブは普通の人がついていけないような素晴らしい善と義を持つ人でした。心から愛を持って善行と施しに励んでいたし、もし自分に過ちがあるなら当然代価を払おうとする心でした。でも厳しい試練にあったら、神様の前で訴えたり友達と言い争ったりしました。譲ったり負ける姿はなく、人を自分の下に見る高ぶりもありました。また自分を苦しめる人には呪うこともありました。これは霊的に見てみれば決して正しい人の姿ではないでしょう。だから神様は、ヨブの心に深く潜んでいる悪の姿を一つ一つ明るみに出して、彼が悔い改めて真の義人になるように導いておられるのです。皆様、このメッセージを聞いて、心の中にある悪と自分の義を発見して完全に捨てて、神様の御目に認められる真の基準になりますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。
