ヨブ記講解97 - おのれ自身を知ろう⑥(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記33:27-31
愛する皆さん、色眼鏡で見るという言葉があります。人や物事を先入観や偏見を持って見るという意味です。このような人は、歪曲した視覚で見るから物事の本質を把握できないし、人を簡単に誤解したり評価したりします。ヨブを見ているエリフがそうでした。エリフは、神様は決して正しい人を苦しめる人ではないという枠と、自分の常識でヨブを見ているから罪に定めているのです。彼の間違っている指摘はヨブを悟らせるのではなくて、ヨブを苦しめました。このように、自分の常識や考えに合わせて状況を解釈して人を理解しようとすれば、正確に判別できないということを覚えていてください。第1コリント2:15に「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」とあります。全ての悪と真理と反対のものを脱ぎ捨てて、真理である神様の御言葉に完全に留まっている人だけが、相手を正確に見ることができるし、変えさせることもできます。したがって今日もメッセージを聞いて自分自身を発見して変えられて、速やかに神様に認められる完全な御霊の人に変えられますよう主の御名によって祈ります。
メッセージを聞きながら、このメッセージは誰々さんが聞くべきだと思ったり、それによって雑念にふける場合がありますが、皆さんはそういう姿勢ではなくて自分のことだと思って、エリフの姿が私の姿だったと悟っていますね。またヨブがしている姿を見ながら、自分の過去の姿を発見するようになります。これも神様の恵みです。その恵みが神様の愛によって注がれています。そうでなければ真理の御言葉を聞いても、自分のこととして受け入れません。でも、皆さんはへり下ってこのように恵みを受けているから、この時を逃しませんように。聖められることも悟れることも神様の恵みです。その恵みに頼っていきましょう。そして聞いて悟ることだけで終わってはいけません。自分に実際に適応して、その御言葉を実行しなければなりません。そして日常生活でも一瞬一瞬自分を顧みて過去の自分の姿を振り返ってみることも必要です。
人は自分を愛して自分には寛大です。ほこりが目の中に入ろうとすると、無意識に目を閉じるのではありませんか?それは自動的です。このように私たちは自分をとても大事に思っていて、自分を愛しています。だから自分のことは言い訳をして正当化したり合理化したりして、自分の過ちを認めようとしません。でも変えられるためには、自分の間違っているところを客観的に見て認めなければなりません。そして自分の過去の姿とか自分の家族の姿を見ながら、鏡のように自分を見ることができます。私にもこういうところがあると、このように発見して自分を低くして認めれば変えられるでしょう。本文を読むとエリフは続けて、自分より優れているヨブを裁いて罪に定めて教えています。
ヨブ記33:27-28です。
彼は人々を見つめて言う。「私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私の命は光を見る。(ヨブ記33:27-28)
これはどういう意味でしょうか?もしヨブが神様の恵みを受けて、体が苦しみから解放されるなら、多くの人々の中で次のように言うようになるだろうと言っています。「以前私は、悪くて多くの罪を犯していた。友達と争っていた。しかし全ては無益なことだった。しかしエリフの話を聞いて悔い改めて良いことを一つだけしたら、御使いがそれを神様に報告して、私は救われて命を得るようになった。」と言うだろうと、エリフが言っているのです。実際そんなことがあるという意味ではなくて、エリフが「あなたが悔い改めれば、あなたはこのようになるだろう」と言っているのです。エリフは神様の御名まで借りて、むやみにヨブを裁いて罪に定めて責め立てています。こう言われているヨブの心はどれほど悔しいでしょうか?エリフの目には、ヨブのすべてのことが偽りのようで悪く見えました。
だから、あなたが一つでも悔い改めて立ち返るなら、神様はあなたを黄泉の穴から救ってくださりまた命をくださるだろうと、自分で結末を決めているのです。この結末は神様の権限なのに、エリフが神様の地位になってこう言っているのです。
エリフは自分の考えに合わせて真理を言っているつもりでも、真理で照らしてみれば正しいことはないし、ヨブを傷つけているばかりでした。皆さんこれをよく覚えていてください。自分なりに真理を語っていて真理を基準にして人を見ているのですが、それは間違っていることがよくあります。皆さんに完全な真理が臨んでいるならば、真理を思い出してそれを持って正しく見分けることができますが、でもエリフはそうではなかったのです。エリフが言っていることは正しいことのように見えても実際は間違っていました。皆さんもこのような過ちをすることがよくあるでしょう。それで人を裁いたり罪に定めることがあります。自分の考えが合っていると思うからです。でも間違っているところも多いのです。
私たちの思いの中には御霊による思いもありますが、肉の思いの方が多い場合がよくあります。真理を頭で知っていても、それをどんな風に適用するかによって結果が違います。エリフを通してそれを悟りますように。エリフには、公義と愛の神様は、罪のない人には絶対にヨブが経験しているような苦しみを与えるはずがない、という固定した考え方があるから、ヨブを裁いて罪に定めていてその考え方は変わらないのです。ヨブは自分の善行と施しのことを、事実を言ったのに、エリフはそれを信じようとしなかったし、それが偽りだと言っているから、エリフが何を言ってもヨブが受け入れるでしょうか?相手が、自分が言っていることを否定して偽りだと言っているのに、どうして相手の話を受け入れるでしょうか?夫婦の間でも家族の間でもこういうことがあるかもしれません。互いに相手が間違っているとして、相手の話を聞いてあげないのです。
そして、例えば子どもが何か過ちを犯したと人から話を聞いて、子どもには本人には確認もしないで叱るならば、子どもはどれほど傷つくでしょうか。実際子どもがそうやったわけでもないし、何か事情があったのに、親がそれを聞かないで、ただ人に言われたことだけで子どもを叱るなら、子どもは反抗するようになるでしょう。家族の中で、互いにそんなことがないように気をつけなければなりません。これまで問題を起こしていた子どもでも、子どもにそうするしかなかった事情があるかもしれないから聞いて、その子供の話を信じてあげることが必要です。そのためには子供への愛が必要です。そうでなければ相手の話を信じようとしないのです。そして相手が何か過ちをしたならば「ほら、見て!」と言ったりするのです。愛がないからでしょう。今エリフはそうです。愛も善もなく、ただ悪をもってヨブを裁いているのです。だからエリフが何を言っても、真理を引用して言っていても、ヨブには受け入れられないのです。皆さん、ここで私たちは何を悟るべきでしょうか?エリフのような考え方では、絶対に相手を変えさせることもできないし、相手のためにならないのです。神様の御言葉をもって相手にアドバイスをしていますが、その心の中には相手を誤解して裁いて罪に定めるから、相手は心の戸を開かないのです。
自分なりに良い意図で言っていても、相手が受け入れなければ何の役にも立ちません。たとえ真理の御言葉を言っていても、それが聖霊に働きかけられたのではなく肉の思いから出てくるものなら、平和と喜びを与えるのではなくて相手を苦しめるだけです。肉は肉を産むから、敵である悪魔サタンが働いて互いに争うようになるのです。これは皆さんが子供を教育する時や、聖徒を訪問する時気をつけなければならないところです。自分は真理を教えただけなのに、相手が自分の意図を誤解すると思うのではなくて、自分の基準と考えに合わせて言っているのではないのか、顧みなければなりません。私たちが真理を引用して教えていて、相手の過ちがあるからそれを指摘しています。それで自分は正しいと思っていますが、でもそれは自分の義によるものかもしれません。相手が心を開いて受け入れる時でなければ、相手にとってそれは傷になるかもしれないし、相手が反発するかもしれません。だから気をつけなければなりません。
しかしある人は、今これを言ってやらなければと思って心が焦って、また自分の義が強いから相手を待ってあげられないのです。今これ言わなきゃと思うのです。でも相手が落ち着いて心開いて受け入れる時まで、その人のために愛を持って祈って待ってあげることが必要です。特に子供に対して何か叱るようなことがあってもそうです。何か過ちがあるならそれを指摘するのは、正すために必要かもしれませんが、以前のことまで何度も繰り返して叱るならば、子どもも反発するようになるかもしれません。それは、相手に対して不満があるからでしょう。子どもが自分の言うことを聞いてくれないからイライラして、そんなふうに感情的に言うこともあります。それは善ではありません。私たちはいつも祈って聖霊の明らかな声を聞いて、聖霊に働きかけられて伝えなければなりません。
イエス様はどんなふうに会話なさったのでしょうか?イエス様は霊的な言葉を伝える時、相手が受け入れられなければその場を避けました。しかしニコデモとかスカルの町の女性のように心の良い人は、イエス様のお言葉を慕って聞こうとしたので、イエス様は続けて霊的な会話をすることができました。それで彼らは御言葉を通して新しい生き方ができました。ところでもしかして、自分は教える姿勢で人を指摘している姿が多くはないのか悟ってみますように。エリフは続けて神様のなさることを自分の考えに合わせて説明します。
ヨブ記33:29-30です。
見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。(ヨブ記33:29-30)
先ほどエリフは、「神様はヨブのように悪い人でも、一つだけでも小さい善を行ったら黄泉の穴から引き上げて救ってくださる。」と言いました。そして「神様がこのようなことを二度三度行われる理由があるけれど、それは彼に命の光を照らすためだ。」と言っています。しかし神様は、一つだけの行いだけでなさる方ではないということを覚えておいてください。詩編112:4に「主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。」とあります。 神様は直ぐな人に公義を表して正しい人に光を照らしてくださり、多くの人がその光を見て従うようにします。神様は公義に従ってなさる方です。罪と悪の多い人が小さい善一つを行うからといって、すぐ祝福してくださるような方ではありません。動物も自分の子供は守ろうとするでしょう。人として良い行いをただ一つ行ったからといって、どうして彼に命の光を照らすでしょうか?神様は、私たちが全ての悪から立ち返って光の中に出てくるように望んでおられ、そのように導いてくださいます。
光の方に来るほど闇は退くようになります。神様は、私たちの心が50%は闇に50%は光にいることを望んでおられません。神様が光ですから私たちも神様に似て心全体が光になって、全ての行いが光の実を結ぶように望んでおられます。つまり私たちの心が完全に神様に向かっていて、天国への希望があふれていて、完全な善、完全な義を所有するように望んでおられます。しかし、今エリフは自分の考えの中で、真理と反対のものを真理だと教えているから、ヨブは苦しいだけでした。エリフが言っていることは何でしょうか?あなたが百の罪を犯したとしても、一つだけ善を行うなら神様は祝福してくださるだろうと言っているのです。神様の前に出て行って悔い改めれば、神様は答えてくださいます。悔い改めて、まだ完全でなくても頑張っている姿を信仰としてみなしてくださる方ですが、エリフが言っていることはそれとは違います。
例えば私に憎しみ、争い、妬み、姦淫などたくさんの悪があるのですが、その中で一つだけ悔い改めます。だから祝福してくださいと言うならば、神様が聞いてくださるでしょうか?本当に悔い改める心ならば全部悔い改めて立ち返るでしょう。憤りも憎しみも争いも姦淫も妬みも全部悔い改めて立ち返ることが、本当の悔い改めでしょう。しかしたくさんの罪があるのに、自分が捨てやすいこと一つだけ、例えば姦淫は捨てるのが難しいから、喧嘩することとか口喧嘩することくらいは捨てられるだろうと思って、神様これ一つ捨てるから祝福してくださいと言うならばそれが話になりますか?そして悔い改めたらすぐ神様が祝福してくださるでしょうか?1%また5%、7%だんだん真理を行っていけば、その分だけ神様は恵みをくださるでしょう。どんな罪でも捨てなければなりません。
自分に簡単なことを、しやすいことだけ一つぐらいしておいて祝福を求めることは、神様が望んでおられる姿ではありません。悪はどんな悪でも避けなければなりません。心全体が神様の前に完全でなければなりません。そして毎日そのように変えられるために努力している姿ならば、神様は憐れんでくださいます。それでだんだん、5%、10%、20%とこのように真理を満たしていて変えられている過程ならば、神様も喜んでくださるのですが、100の中で1つだけしておいて、私これくらいしたから祈りに応えてくださいとこのように言っても、神様は祝福してくださるというふうにエリフは言っているのです。だからエリフが言っていることと霊的な原理、真理とは違うのです。変えられている過程、努力している姿を神様は喜ばれます。しかし自分の都合に合わせて自分の利益に合うことだけしておいて、それが努力だと言ってはいけないのです。自分の限界の中でだけしている姿です。あまりにもとんでもない言葉に呆れたヨブ、はそれ以上黙っていられなかったので言い返そうとしました。しかしエリフはすぐヨブの言葉を遮ります。
ヨブ記33:31です。
耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。(ヨブ記33:31)
つまり、何も言わないで私の話を最後まで聞きなさいと言っているのです。ヨブより年下の人として、とても無礼で高ぶっている姿です。尊敬されていた地位にいたヨブが今惨めなことになっているから、エリフは思い上がって偉そうにヨブを攻め立てているのです。それだけでなく、
ヨブ記33:32-33です。
もし、言い分があるならば、私に言い返せ。言ってみよ。あなたの正しいことを示してほしいからだ。そうでなければ私に聞け。黙れ。あなたに知恵を教えよう。(ヨブ記33:32-33)
「黙りなさい。あなたより賢い私が、あなたを教えるから黙って私の言うことを聞きなさい。」と言っているのです。エリフがヨブをどれほど無視して見下しているでしょうか?ヨブを教えようとしています。自分の知恵でヨブを教えて正しくすると言っていますが、これは自分の考えだけで本当の知恵ではありません。相手の言葉を遮って自分だけ正しいと熱く語っても、相手の心はイライラするしかありません。ヨブを悟らせることはできず、辛い思いをさせて怒らせてしまい、仲違いするようになります。これは肉的な知恵に過ぎないのです。神様の知恵は人を怒らせたり苦しめるものではありません。反対に喜びと慰めと平安を与えるものです。
このような御言葉を聞いて悟ることは恵みです。また自分のことだと思って、心に刺さることも恵みです。でも罪についてこのように指摘された時、それを恐れたり怖いとか思っていないでしょうか?あぁ厳しい、きついとか、このように皆さんにとってそれが心に刺さるかもしれませんが、それでもこれは神様の恵みで愛で、これを受け入れて変えられれば、祝福への道ではありませんか。だからこういうメッセージを伝えている私を、皆さんは慕ってくださるし愛してくださるからとても感謝です。メッセージを聞いて、罪が指摘されて自分の悪を発見したら、恥ずかしいと思って私のところに来ない方はいないでしょう。近づいて一言でも聞こうとするから、私も皆さんの前でこのように安心して伝えることができます。このように、主のしもべと聖徒の関係がこのような関係になればどれほどいいでしょうか。又、働き人と聖徒の間の関係も、互いにこのような信頼の関係ならばどれほどいいでしょうか 。どんなことを言われてもそれを喜んで受け入れることができれば祝福です。そうでなければ互いに辛いでしょう。また遠ざかるようになるでしょう。そうしてはいけないでしょう。どんな宣教会でも教区でもこのような愛によって、互いに助け合って、仕え合って励まし合っていきましょう。皆さんはそうなっていると思います。
最近幸せな証を聞きました。夏のキャンプの時、アブラハムの信仰について伝えました。メッセージの中で私が、「アブラハムのように祝福されたいならば、アブラハムのように生き方をすればいいです。」と言いました 。そうしたら中高生の皆さんがなるほどと悟ったそうです。そうなんだ と悟ったそうです。私は夏のキャンプのメッセージを準備しながら、このように霊的に深く、また信仰の優れたアブラハムの水準になろうと伝えること、これは大したメッセージだと思いました。聖徒の皆さんがこれを聞けるということもとても感謝でした。このように高い目標を目指しているから、本当に私はメッセージ準備するときも幸せでした。そしてもしかしてこのメッセージを聞きながら、自分とはあまりにも離れているから、目標がレベルが高いから、すっと自分のことのように受け入れられない方がいるかもと思いました。でも子どもの皆さんが、中高生の皆さんが、それをすんなり受け入れてくださってとても感謝でした。アブラハムのような祝福を受けるためには、アブラハムのような生き方をすればいい、それをなるほどと思って私もやってみるというふうに、このように受け入れてくださって、それを私は聞いて、とても感謝で感心しました。幸せでした。
万民の子どもの皆さんも、こんなに霊的な水準が高いのだと思いました。大人の皆さんも同じですね。当然知ってはいるけれど、実際やるのは難しいかもしれません。でも皆さんが、これを難しい厳しいと思ったのではなくて、私もできる、私もやってみるというふうに、受け入れてくださってとても感謝でした。子どもの皆さんがこのように頑張っているから、親の皆さんも一緒に助け合っていきましょう。神様の御言葉は重荷ではありません。聞き従おうとすれば神様が強くしてくださり、できるように助けてくださいます。でもメッセージを聞く時心に刺さって、いやーきついとかつらいとか思ってばかりいて、それ以上聞きたくないと思っているなら、どれ程もどかしいでしょうか。でも知っていて行わないことは神様が喜ばれないから、私たちは実行しましょう。そして互いに指摘するのではなくて、まだできていない人をできるまで助けましょう。待ってあげましょう。そして感謝と悟り、問題解決と祝福が溢れますように。各宣教会でも教区でもそういう愛が溢れますように。今日、代表祈祷してくださった教区長にはとても感謝です。担当している教区の皆さんが、「私がエリフでした。」「いえ、私がエリフのような人でした。」と、互いに自分がへりくだって、このように悔い改めて仕えている姿だと伝えてくださり、とても感謝でした。(つづく)
