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ヨブ記講解94 - おのれ自身を知ろう③(下)

1 日前
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記33:6-12


ヨブ記33:6-7です。エリフはこう言っています。


実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。見よ。私のおどしも、あなたをおびえさせない。私が強く圧しても、あなたには重くない。(ヨブ記33:6-7)


人々は皆同じように神様に造られた被造物です。人や地位やまたいろんな職業によって人を評価する場合があるのですが、創造主の神様の前で私たちは皆、被造物で同じ存在です。ところでエリフはヨブに「私の脅しもあなたを怯えさせない。私が強く圧してもあなたには重くない。」と言っています。神様の前で粘土で形造られた存在であることは同じでも、知識とか人柄とか富とか権力などはヨブが優れているということです。ヨブはそうでした。人柄も優れていて、富、権力もあって、貧しい人々に施しをして、しもべも尊重する人でした。しかし、そのようなヨブも神様の前で練られていてまた試練にあっていたのです。​


私たちは自分自身を顧みなければなりません。もしかして心の中で、自分が金持ちだからといって貧しい人を見下す姿はなかったのか?自分に学問や知識があるからといって、人を無視する姿はなかったのか?また信仰にあって自分は御言葉を守っているのに、守っていない人を見て気に入らないと思ったり、理解できなかった姿があるなら、それは相手を尊重しない姿かもしれません。自分を顧みなければなりません。こういう姿が無意識に出てくる場合があります。そういう姿が神様の前では正しくないのです。世の人ならば当然かもしれませんが、真理の人、神様の人はそうしてはいけないでしょう。​


子供ならばどうでしょうか?学校でいじめがある場合、いじめられている人を気にかけて助けることも必要でしょう。いじめられる子を助けて、自分もいじめられればどうしようかと思って、恐れてそうできない人もいるのですが、でも私たちは神様がご覧になるときは何が善なのかを考えて、そして人々の前でも真理を行いましょう。そして普通の生活でもしっかりしていると、いじめられることもないでしょう。そして祈っていない人を見て、祈っている人がじれったいと思ったり、また気に入らないと思ったりする姿はありませんか?これは人を無視する姿かもしれません。そういう姿があってはいけないでしょう。​


ヨブはそうではなかったから神様に認められました。ヨブは人が見ては非難されるどころのない姿でした。行いでした。しかし霊的な観点から見れば、真理と反対の姿がよくありました。例えばヨブは、自分をあざける人々に自分の羊の番犬のようだとも言いました。霊的な義人はそんなことは言えないでしょう。イエス様はマタイ5:46「自分を愛してくれるものを愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」とあります。神の子供たちは自分を愛してくれる人だけではなく、敵をも愛する霊の愛を所有しなければなりません。自分によくしてくれて愛する人を、自分が愛することは誰でもできますが、自分を憎む人や自分を苦しめる人も、喜んで助ける人はあまりいません。そのような人が苦しみを受ければ喜んだりします。​


でも神様は、自分を苦しめる人でもその人を助けるようにと言っておられます。このような人が神様に似た霊的な義人であるのです。ヨブは人間的に見るときは正しい人だったのですが、霊的には真の義人ではなかったので、神様は彼を霊的な義人に変えようと祝福の試練に遭うようにされました。ところがヨブの三人の友達やエリフは、ヨブより正しくないのに自分の考えや思い込みでヨブを決めつけて罪に定めていました。神様がヨブを懲らしめている。確かにヨブに何か罪があると、このような思い込みによってそんなふうにしました。


続く本文ヨブ記33:8-11です。


確かにあなたは、この耳に言った。私はあなたの話す声を聞いた。「私はきよく、そむきの罪を犯さなかった。私は純潔で、よこしまなことがない。それなのに、神は私を責める口実を見つけ、私を敵のように見なされる。神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張る。」(ヨブ記33:8-11)


エリフはヨブに「あなたが言っていることを私は聞いた。あなたは、『自分は清く罪もないのに神様が責める口実を見つけて苦しめている。神様が自分の足に枷をはめた。』と言っている。あなたは確かにそう言った。」と言っているのです。エリフがこんな風に言う理由は、ヨブが、自分が言った言葉を否定できないように釘付けるためです。人々が話をしている間に自分が気に入らなくて理解できなければ、相手に「あなたは確かにこんな風に言っただろう。」と責め立てる場合があります。そしてその人について、周りの人がその人の口から出た言葉によって悪く思ったことを覚えていて、後でその人に不利になるようなことで引用したりするのです。このような態度は主の姿とはかけ離れています。私たちが主の心と姿に似ているならば、言葉や行動に品があって美しくなります。誰に会ってもどんな状況に置かれても天の知恵を受けて適切に対処できます。​


エリフは今自分が真実で正しいと言っています。自分で自分を見ると正しくて真実な人だと堂々と言っているのです。これもよく考えなければなりません。周りの人が見て褒めてくれる場合があります。「あなたはとても素晴らしいです。」「愛の豊かな人です。」「正しくて真実な人のようです。」とこのように褒められれば良いのですが、自分で自分を称賛する人がいます。「私は正しいです。」「私は真実です。」と言って、「なのになぜ私を認めてくれないのですか?」と言う人がいるのですが、その人は本当の自分自身についてわからないのです。本当に実力があって正しい人、真実な人は、周りの人がみんな口を揃えてその人を褒めるでしょう。しかしそうでなくて、自分では自分は正しいと思うのに、周りの人がわかってくれないと不満を抱く人もいます。そうしてはいけないでしょう。周りの人がわかってくれないからそれで気を悪くして不満を抱くなら、それは高ぶっている姿ではありませんか。自分を高めてほしいと思っているのです。


エリフが今そうなのです。それで年上の人々の前で、怒って責めて問い詰めているのです。しかし彼の真実さを誰が保証できるでしょうか?真理で照らしてみれば悪の姿が多いので、自分を認めてくれる人は自分自身しかいないのです。周りの人はその人を非難しているのに、自分は自分を褒めているならどれほどみじめな愚かな姿でしょうか?私たちはそのような人になってはいけないでしょう。口先だけではなく実によって認められますように。もし神様の御目にエリフが本当に正しくて真実な人ならば、エリフが評価した通りにヨブは悪い人になるでしょう。しかしヨブは普通の人よりはるかに潔白で、神様に関心と注目を受けるくらい正しい人でした。ヨブはこのような良い点があったので、神様に愛されて特別に試練を受けているのです。エリフはこのことがわからない肉の人だから、自分の基準でヨブを決めつけて罪に定めています。


エリフはこれまでヨブの言うことを聞きながら、なぜ彼がそんな風に言っているのか、その心を理解しようとしないで、その言葉に込められている意図もわからなかったのです。ただ耳に聞こえる言葉の表現だけを持って、自分の考えと枠に合わせてヨブを決めつけました。自分の判断基準からヨブを見たら、ヨブの善と正しさは見えなかったし、嘘をついていて悪い人だと罪に定めているのです。それではエリフの判断基準は何でしょうか?エリフは神様がヨブを厳しく懲らしめているのは、ヨブが悪い人だからだという判断基準を持っていました。その基準を根拠にしてヨブが言っている言葉を聞いてみたら、ヨブは、「自分は正しく生きてきた。熱心に施しをした。神様より自分の方が正しい。」と言っているのです。だから「ヨブは嘘つきで悪い人だ。」とエリフは思いました。人々は相手の話、口の言葉だけを聞いて、自分の基準に合わせて決めつけることがあります。


日常生活で簡単な例をあげましょう。ある人が食事をしたばかりなのに、お腹が空いたと言いながらまた食べ物を食べているとしましょう。それなら「あの人は、少し前にご飯を食べたのにまたお腹が空いたと言っている。それは嘘だ。食いしんぼうだからだろう。」と言うならば相手を嘘つきにしてしまうでしょう。相手は本当にお腹が空いているからそのように言っているのに、それを見ている人が自分の基準で相手を決めつけているのです。ですから自分の考えで決めつけることは真の義ではないし、自分の常識であれこれいうことは真実ではないのです。


Aという人を見たら、その人は自分の前では感情表現もよくするし、乱暴な表現も使うし、自己中心的な姿があります。それで「あの人はどうしてあんなふうに言うのだろう。」と思ったとしましょう。ところでその人が、目上の人や上司の前ではとてもへり下っていて、また言葉遣いも気をつけている姿を見たとしましょう。それでその姿を見た人は、「あの人は人によって態度を変える。」と思うのです。私の前ではあれこれ乱暴の表現を使っていたのに、今は目上の人の前だからあんな風にしていると思うでしょう。でも心の良い人が見るとどんな風に考えるでしょうか?「それでも良かった。普段と違って目上の人の前では礼儀を守っている。失礼なことをしていない。」とこのように良い方に思うのです。でも心の悪い人は「へつらっている」とか、「上司の前ではあんなふうに態度を変えている」とこのように悪く思うのです。同じことを見ても自分の心に悪があるか、善があるかによってこのように違うのです。


私たちはエリフのように、自分を見て自分が真実だというのではなくて、神様の前に全ての人の前で認められる正しさと真実さを持ちますように。そのためには行いの実を見せなければなりません。教会の中でも「人々が自分をわかってくれない」とか「認められない」からといって不満を抱く姿があってはいけません。本当にその人に実力があって、その人が神様の前に認められているなら、人々も同じように感じてその人を選びまた用いられるでしょう。しかしある人はある面では実力があっても、霊的な面で神様を愛する心が足りないとか、いろんな原因があるでしょう。だから自分を顧みて、自分の欠けているところが何かを見つけようとしなければなりません。自分を主張するのではなくて謙遜になりましょう。


本文ヨブ記33:4です。


神の霊が私を造り、全能者の息が私に命を与える。(ヨブ記33:4)


エリフは創造主の神様を信じてその力を認める人でした。人がどこから来て何のために生きてどこに帰るのか、大体の知識を持っていました。死んだ後には神様の裁きがあるから、罪を犯さないで正しく生きるべきだということも先祖から聞いて知っていました。この若者はそれでも正しい良心を持っていて真実を追い求めようとしていたので、神様の存在について聞いた時、心に受け入れて認めました。今日神様の生きておられる証拠を見せて福音を伝えても信じない人に比べれば、エリフは自分なりの義を持って正しく生きようとしていました。しかし、その自分の義を持ってヨブと3人の友達の話を聞いていたら、じれったかったのです。それでヨブを悟らせてやらなければと思いました。それで自分の義を主張しているのです。私たちはエリフの言っている言葉を通して自分自身を発見しなければなりません。


自分の義というものがどれほど間違っているのかを気づかなければなりません。自分の義を発見して打ち砕いてこそ、神様が望んでおられる真の義人になるし、どんな問題も解決され心の願いも叶えられるでしょう。ここで自分の義というものについてよく悟らなければなりません。ヨブ記講解では自分の義という単語をよく使っています。自分の義ということは自分が正しいと思っていることです。神様がご覧になるとき正しいものではなくて自分が見て正しいと思っていることです。世で言う正しさと神様がご覧になる正しさは違います。また自分が見て正しいことも違います。世では高くなりたければ、人を踏みつけて上に行こうとしますね。でも神様は「低くなりなさい。」と言われます。神様の絶対的な真理を持って、私たちはこの真理を知っていることで、もしかして人を見てあれこれ裁いて罪に定めている姿はありませんか?そして自分が正しいと思っているのではありませんか?神様の義、神様の真理というものは、とても広くてとても深いです。でも私たちが持っているその知識は、とても浅いし、またとても狭いです。エリフは自分の義を持ってヨブを見てみたらヨブが間違っていると思いました。そして自分を基準にして自分が知っている知識、狭い知識を基準にしてヨブを決めつけているのです。私たちもそういう姿があるのではありませんか?


誰かが病気になった時皆さんはどう思いますか?病気になったなら必ずその人には何か罪があるだろう、過ちがあるだろう。だから、その人は自分を顧みなければならないとこのように思いますか?でもその人は特別なケースかもしれません。病気になっていることによって、その人はさらに霊的に祝福される過程にいるかもしれません。だから私たちは、自分が知っている狭い真理の知識を持って相手を決めつけてはいけません。もちろん聖霊の声を聞いて見分けることは裁きではありませんが、でも自分の考え、自分の義、自分が持っている狭い知識を持ってあれこれ決めつける場合があります。神様の御言葉にはいろんなケースによって正解が違う場合があります。だから私たちは聖霊の声をはっきり聞いて、物事をよく判別しなければなりません。今ヨブの状況はどうでしょうか?人が見るには本当にみすぼらしくて、ヨブが罪を犯したから神様の懲らしめを受けているように見えるかもしれません。しかし本当はそうではありませんでした。


そしてヨブの友達とエリフは、ヨブの今の姿を見て、ヨブが言っている言葉だけを聞いて、ヨブを罪に定めているのです。最初はヨブの話を聞こうとしたでしょう。でもヨブが自分のことを訴えながら嘆きながら、「自分は正しいのに神様が自分を苦しめている。」「神様がひどい。悪い。」とこんな風に激しく言ったら、ヨブの友達もだんだんそれを聞いて腹が立って感情的になって、互いに言い争うようになったのです。でも私たちは感情的にならないでいつも落ち着いて神様の御言葉を基準にして、まず自分を顧みることが必要です。そして相手の間違っている姿を見たとしても、それを指摘したり強く言うよりは、それを通して反面教師にして、自分にはそんな姿がないのか顧みなければなりません。そして相手のためだと思って、悟らせてあげなければと思って、自分が知っている真理の知識を持って指摘することがあるかもしれません。でもそれも自分の義によるものかもしれないし、愛がないからこのように強く厳しく言う場合もあると思います。知恵を持ってまた時を見てしなければならないでしょう。ヨブにエリフはこう言いました。


ヨブ記33:5です。


あなたにできれば、私に返事をし、ことばを並べたて、私の前に立ってみよ。(ヨブ記33:5)


自分がヨブに反論できないくらいはっきり答えをしたから、「ヨブに言い分があれば言ってみろ。」こんな風に言っています。しかし真理の人々はこのような言葉が必要ありません。バリサイ人や律法学者たちは何としてでも、イエス様から訴える口実を見つけて殺そうといろいろ試しました。しかしイエス様は、権威のある御言葉でそれ以上言い争いならないように終わらせました。「言い分があるなら言ってみろ。」とか要求されたことはありません。悪い人たちのどんな質問にも正確な答えをして彼らが黙るようにしただけで、相手を困らせることはありませんでした。イエス様が権威のある言葉で正確に答えてくださったら、彼らはそれ以上何も言えなくなりました。でも、「だからといってどうして黙っているのか。言い分があるなら言ってみろ。」とかこのように言う人もいるのですが、それは心の中の悪から出てくる姿ではありませんか?そういう表現を使うなら、自分の義を主張する人で、また相手を抑えつけようとする高ぶりの姿でしょう。真理を教えて勧めればいいでしょう。相手が過ちを認めるように強要することも直さなければなりません。これは家族の間であるかもしれないし教会の中でもあるかもしれません。ある人は自分が不利になれば黙ってしまう場合があります。相手の過ちを指摘したり、またその人が自分の過ちを認めるように強要してはいけないと言いましたが、他の面で言えば、自分の過ちは認めてこそさらに成長できるのです。でも、性格で自分のことを正直に言わないで黙ってしまう人もいるのですが、そのような人に無理に自分の過ちを口にするように強いることもいけない時があります。


家族の間で夫婦の間でもまた親子の間でも気をつけなければならないことがあります。親が子どもに何か言い聞かせたとしましょう。そして子どもの過ちとか間違っているところを教えたとしましょう。その時、親はその子供が「悪かったです。ごめんなさい。」と言ってほしいのですが、子供が黙っている場合があります。それでイライラして、「どうしてそんな風に黙っているの。」とか強く言う場合もあるし、また感情的になって怒って叩く場合もあります。親の立場では、子供が自分の口で自分の過ちを告白してほしいと思うのです。だから親は子供に何度も言うのです。「あんたが悪いでしょ。間違っていたでしょ。認めなさいよ。」このように言う場合もあります。そうすると子どもはどんなに辛いでしょうか。そして親も子どもに対してそんな風にしているならば、本当に子どもを愛して愛情を持ってしていることなのか、そうでなければ自分がじれったいからイライラするから、また子どもが自分の過ちを認めてほしいから、また子どもの前で自分が正しいことを強く言いたいからそんなふうにしているのではないのかを顧みなければなりません。自分は子どものためにというかもしれませんが、そんなふうにだんだん言葉数が多くなってそれで相手を傷つけてしまう場合があります。


ある場合は、相手の過ちを知っていてもそれを言わない場合があります。相手が恥ずかしい思いをしないように、その人のミスを指摘しない場合があります。その人の過ちを知っていてもある場合はそれを言わない方がいいかもしれません。相手にとってそれが役に立って相手が悟ったらそれでいいでしょう。それ以上の言葉で相手を傷つけたり罠にかけようとするならば、それは悪い心から出たのです。話をして、相手が自分の過ちを感じて認めて悔い改めたらそれでいいでしょう。しかし相手を屈服させようとすることは悪です。世ではこういうことがあるそうです。相手が過ちをしたことを認めさせて、またあなたのせいで私が大きい損をしたと言って相手を屈服させようとすることもあるそうですが、これはとても良くないことでしょう。そのような人と話をすれば傷つくようになるでしょう。皆さんはどんな人でしょうか?


相手の過ちを人々の前で言ったり、またストレートに指摘したりする場合があるのですが、でもそうしなくても良いことがよくあります。相手が自分で感じて自分で悟るように、知恵を持って勧めれば良いと思います。そして聖霊が働いてくだされば、相手が心で自分が感じて分かるようになるでしょう。でもそうしないで、相手を自分の下にして屈服させようとしてはいけないのです。私たちは人に仕えられる人ではなくて、人に仕える人でなければなりません。さらに謙遜になってへりくだって、また自分の言い方とか口調とか言葉遣いも気をつけなければなりません。相手の前で周りの人に上から目線で教えようとする立場なのか顧みますように。そして、一回指摘して悟らせてその人が受け入れなければ、腹を立てたりもっと強く言ったりする場合があるのですが、そうすると相手との関係も壊れるようになるでしょう。家族の間ではそれが小言になってしまうから、子どもたちは聞き従わなくなってしまうのです。だから自分の口の言葉の習慣にそういうものがあるなら直さなければならないでしょう。

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