ヨブ記講解98 - さばく者にならないようにしよう
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記34:3-6
愛する皆さん、前回エリフは、ヨブとヨブの友達、そして周りの人々にとても高ぶっていて、「あなた方は私から学びなさい。私から聞きなさい。」と言いました。自分より年上で徳のある人々にこう言えるということは、エリフも自分なりに賢くて学識があると言われていたことが分かります。しかし、彼が持っている知識や知恵は、肉的なものであり自分の悪から出たものなので、聞いている人が何か悟ったり役に立つこともできなかったし、かえって怒らせるばかりでした。私たちは、霊的な知識と知恵をいただいてこそ神様に喜ばれるし、人の間でも平和を作ることができ成功することができるのです。これは悟らなければなりません。神様は聖書の中に知恵と知識を込めておかれました。それは数え切れないほどのものです。詩篇107:9に、「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」とあります。ですから谷川の流れを鹿が慕いあえぐように、私たちは霊的な恵みを慕い、御言葉の中から宝を得ますように。本文は、エリフが前の節で、知恵のある人々や私の言い分を聞けと注意を喚起させたという言葉です。
ヨブ記34:3-4です。
口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分ける。さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で何が良いことであるかを見分けよう。(ヨブ記34:3-4)
口が食物の味を知るということは、私たちが物を食べると口の中の舌が、しょっぱい、味が薄い、甘い、辛い、苦いなど味を区別するという意味です。このように、耳は人の言葉を聞き分けることができるから、互いに話を聞き、何が正しいか正しくないか、わきまえようと言っているのです。エリフは、自分では自分が賢くて上品だと思って自信を持って言っているのですが、この例えは適切ではありません。なぜなら耳は人の言葉を聞き分けるよりは、ただ単純に聞く作用をするからです。音は耳を通して聞くのですが、それを聞き分けることは耳ではなく、脳細胞に入力された知識を使う思いと心です。皆さんが何かを聞くとき自分は聞き分けると思いますが、それは耳ではなく自分の考えや心でそれを聞き分けるのですね。わきまえるのです。
しかし口の舌は違います。生まれたばかりの赤ちゃんは味に関する知識がなくても、辛いものや苦いものしょっぱいものを口に入れたらすぐ本能的に反応するようになります。その物を食べた時、舌が感覚を感じるからです。それで刺激のある味を感じると、顔をしかめたり泣いたりするのです。それでしょっぱいレモンをちょっと口に当てたら、赤ちゃんがそれを出したり泣いたりするのですが、でもその味を好む赤ちゃんもいます。それは脳にある知識によるものではなく、本能的に感覚で味を知るということです。しかし耳はそうではありません。赤ちゃんの耳に何かの言葉を聞かせたからといって、その意味が分かるのではないでしょう。ただ音の大きいか小さいかだけを感じるのです。大きい音を聞いたらびっくりするでしょう。でも優しい声で柔らかい声を聞かせるとそれを感じるでしょう。そうしていて、成長して見て聞いて教わったことによってそれが自分の知識になり、また経験して感じたことによって心が形成されるようになります。すると何かを聞いた時それは合っている、合っていない、好き、嫌いとこのように判断するようになります。小さい赤ちゃんにあなたは可愛くないと言うからと言って、その生まれたばかりの赤ちゃんがわかるでしょうか?そういう知識がないからわからないのです。その音の大きいか小さいかはある程度わかるのですが、でも自分でそれが好き、嫌いとか判断することはできないのです。
エリフは学識があると自分で思っていたのですが、彼の言葉から知恵が足りないことが分かります。またエリフは私たちの間で、何が良いことであるかを見分けようと言っていますが、こう言えるくらいなら、まず自分が正しい、正しくないかを正確に見分けていなければなりません。またこのように私たちの間で見分けようと言っていることは、実は賢いことではありません。なぜなら自分にも正確な判断力がないのに、そういう人同士で、私たちで見分けようと言うならどうなるでしょうか?教会生活をする時もこのような姿があるかもしれません。人を裁く人々が集まって、何かを議論したり論じるならば、そこから出る結論は何になるでしょうか?真理と反対のものになってしまうでしょう。イエス様の時代の律法学者たちユダヤ人たちもそうしたのではありませんか?姦淫の現場で捕まえられた女性を連れて来て、罪人だと裁いて罪に定めていました。でもイエス様はそうではありませんでした。「罪のない者が先に石を投げなさい。」と言われました。皆さんはもしかして人と話をする時、また何人かが集まって何かについて話し合う時、どうなのか顧みますように。
それが本当に正しいか正しくないか、正確に真理にあって見分けることができるのか顧みますように。私たちは真理に基づいて正確にわきまえていなければなりません。そして何よりもこのためには人の本分を行っている人でなければなりません。そういう人に正確な判断力があるのです。伝道者12:13に、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」とあります。神を恐れるとは悪を憎むことであり、悪を捨てることです。悪はどんな悪でも避けて神様の御言葉を守り行い、真理の人になることが、人がすべきことです。ところがエリフは、人の本分を備えていないから高ぶってしまい、自分の知識と知恵で人を教えようとしています。これは自分自身を知らない無知による行いです。自分自身もわからないまま、正しい正しくないを論じて、また自分より徳があり知恵のある人々を教えようとして責めるということは、高ぶりであり身の程をわきまえない人です。私たちは善か悪か、正しいか正しくないかを正しく見分けるためには、真理である神様の御言葉を基準にしなければなりません。
人の良心は、善悪を判断する絶対的な基準になれないからです。良心は人が自分で作った判断基準であり、その中には真理と、真理と反対のものが混ざっています。ですから、自分の良心を基準にすれば、まかり間違えば善を悪にみなしたり、悪を善にみなしたりする過ちがあります。人の本分を守っている真理の人、霊的な人、御霊の人になってこそ、真の知恵を得て霊的に正しく見分けることができます。しかしエリフは肉の人であり神様の前では愚かな人なのに、自分では知恵があると錯覚してヨブとヨブの友達を教えようとしています。私たちは一つを教えるとしても、聖霊の御業でなければ、人は悟らせることができないということを覚えていてください。自分が真理を基準にして、正しくわきまえているのかをいつも顧みなければなりません。そのような人なら人の本分を守っているでしょう。つまり神様の御言葉を守って神様を恐れているから、人を裁いたり罪に定めることはしないでしょう。正確な判断力を持っているとしても、それによって人を責めたりすることはしないのです。徳と愛を持ってすべてのことを見分けることができなければなりません。
例えば、憎んではならないという教えは、ほとんどの人が家庭でも学校でも繰り返し聞いてきたでしょう。幼稚園でも友達と喧嘩してはならないと教えるのではありませんか。憎んではならないとこのように教わるでしょう。それで大人なら二十年以上聞いてきたでしょう。四十歳ならもう三十年以上聞いてきたでしょう。しかもイエス・キリストを受け入れたクリスチャンなら、一般の人よりずっと多く憎んではならないという教えを聞いたでしょう。しかし人々は歳月が流れるほど、年を取るほどさらに心の中の憎しみが大きくなり、よく怒る人になります。その理由は何でしょうか?皆さん、これに共感していますか?人が年を取ると頑固になって、よくイライラしたり、また怒りっぽくなりますが、年をとって「もうそういう憎しみは全部無益なものだ。欲も虚しいものだ。」と言ってそれを全部捨てますか?そうではありませんね。人を憎みながら生きると辛いから、赦して理解して何でも譲ってあげた方がいいと、このように自分が何かを悟ったかのように口では言っているのですが、実際はどうでしょう?そうできないのです。
人はもっと手に入れようとして、また欲を持って自分を主張して、自分と合わない人とは関係を立ってしまったり背を向けたりするのです。なぜでしょうか?世の支配者である敵である悪魔サタンが人の思いと心を操っているからです。また心の深いところでは、教わった通りに憎まないで愛したいと思っていても、その通りにならないのは、知識的な教えを受けた場合がほとんどだからです。つまり人を憎んでいる人が「憎んではならない。」と教えているから、聞いている人は聖霊の御業が起こらないのです。自分が実践していながらそれが良いから教えるならば、聞いている人が納得して受け入れるでしょう。でも自分は行っていないのに人を教えるなら、聞いている人は何様と思ったり偉そうにと思ったりするのです。両親の方々も悟りますように。子供の前で、自分が手本になっていないまま教えるなら、それが役に立つでしょうか?子供が二人三人いて、それで互いに」喧嘩してはならない、仲良くしなさい。」と親は教えます。それなら親は自分の兄弟と親と関係が良いでしょうか?仲良くしていますか?自分の親に心尽くして仕えていますか?それなら子どもにもそう教えることができるでしょう。
私は子どもの時、院長先生が、姑、つまり私には祖母ですね、祖母のところにしょっちゅう行くのを見ていました。地方に住んでいて結構時間がかかったのですが、でも院長先生は時間さえあれば訪ねて行って、そしてダニエル祈祷会があるから急いで帰ってくるのです。そしてお正月の時や中秋節の時だけではなく、しょっちゅう行っていました。そしてそのようなお正月とか中秋節の連休の時も、日曜日、主日があるならば行けないから前もって行くのですね。それでプレゼントとか、祖母が好きな食べ物とか、また服とか、このようなものを用意して買って持っていくのです。私がそのように子供の時から母が祖母に仕えている姿を見たから、それをあえて教えなくても自然に、私もこのように親に仕えるというのを学ぶようになりました。そして兄弟とも、親が兄弟とも仲良くして互いに誕生日とかの時はちゃんと祝っていたから、そういう姿を見ながら自然にそれを学ぶようになりましたね。それで私たちも自然に行うようになりました。だから皆さんも子どもに自分に仕えてほしいと思ったり、兄弟で仲良くしなさいという時は、自分はどうしているのかを考えますように。
例えば、お正月とか中秋節の時、田舎に行って家族や親戚に会ってから帰ってくる車の中で、誰かの親戚の悪口を言ったり不満を言ったりするなら、子どもたちが何を学ぶでしょうか?憎しみという悪を捨てた人が聖霊に満たされてそれを教えると、聞いている人も聖霊の働きによって恵みを受けて憎しみを捨てて、愛する人に変えられるようになります。ところが、私たちは世で何かを教わった時、それが真理でないこともたくさんあったし、また正しいことを教わったとしても、実際行っていない人の教えだから命にならないこともあります。私たちの心と良心は、真理と反対のものから作られたということを覚えていなければなりません。このような間違った良心で誰かを判断したり、何かを見分けようとしてもそれが正しいでしょうか?正確でしょうか?私たちはこのようにメッセージを通して人の良心がそれぞれ違うし、またこれが絶対的な判断基準にはならないことを学んでいます。だから自分の良心が間違っているところがあるということを、まず覚えておかなければなりません。
だから自分の良心を基準にして何かを見て、ああだこうだと言わなくなりますね。そうしていけば、だんだん真理の人に変えられるようになります。私たちは偉そうに人を裁くものになってはいけません。それは高ぶりであり、神様のようになることだから大きい罪になります。そうならないためにはどうすべきでしょうか?私の判断基準は間違っているかもしれない。私の良心は聖くないと、このようにまず前提を持って物を見なければならないのです。でも私たちは、自然に肉の思いを巡らすことがよくあります。無意識にしている場合がよくあります。それを真理に照らして気づかなければならない、悟らなければなりません。いつも良い方に考えて、善をもって人に接する皆さんになりますように。
エリフは、自分は行っていないのに、ヨブを指摘して裁いて教えようとしていました。また自分なりに最大限知恵と知識を導引してヨブを訓解していますが、それはヨブをもっと怒らせることでした。この世の知識は、この世を生きていく時必要な方法と手段だけで、私たちに命や真の知恵を与えるものではありません。それは真理である神様の御言葉だけです。人が世で見て入力した真理と反対のものの知識を判断基準にしているから、高ぶってしまい滅びの道に行くようになります。それでは世の知識を学んではいけないのでしょうか?私たちはこの世の中で生きているから、必要な知識は当然学ばなければなりません。ただし、神様の真理にあって、判断基準が正しくなっている状態で学び、正しく見分けて正しく使う時でこそ、その知識が輝くのです。ですから何よりも心を割礼して、心を速やかに真理に変えなければなりません。真理の心になれば何を見て聞いても聖霊が働いてくださり、正しく見分けるようにしてくださいます。このような人は真理が基準になり、悪いものは入力しないで正しいことだけ知識として入力して心に入れるから、だんだん神様が望んでおられる美しい心に変えられていきます。
私たちの魂の働きにおいても真理に属するものがあり、真理と反対のものに属するものがあります。私たちは神様の御言葉を基準にして何かを見て聞く時も、真理に合うものだけを受け入れましょう。例えば、世の中では人をいじめたりすることもありますね。それである人は、自分が学生の時いじめられたら、後でその人に仕返しをする場合もあります。ドラマとか映画を見ると後で復讐するそういう内容もありすね。世の人はそれを見ながらそれは正しいと思います。それで、今は弱いけれども、後で自分が強くなってお金があるなら、また権力があるなら、仕返ししようとか思うようになります。そして今貧しくて人にあれこれ無視されるならば、後でお金を儲けた後、自分を無視した人を今度は自分が踏みつけるとか、そのように思うようになります。世ではそれが賢い、また正しいと思うのですが、でも私たちはそのようなものを見ても、これはいけない。このように仕返ししたりまた復讐しようとしたりすることはいけない。私は神様の子供だから、主の愛をいただいた人だから、どんな人でも許さなければと思うのです。そして自分が悪いこと悔しいことされても、それをずっと根に持っているのではなくて、それを忘れて主の愛によって昇華させるのです。そして相手のために祈るようになりますね。どれほど素晴らしい姿でしょうか。
自分を憎んでいる人、自分を苦しめた人のことをずっと覚えていて、ずっと根に持っていて、その傷がずっと残っているなら、どれほど辛いでしょうか。でもそれを主の愛によってその傷も癒えて、その人への悪い感情とか負の感情も捨てて忘れて、それで広い心で愛の心で受け入れてその人を許すことができるなら、それこそが真の勝利ではありませんか?でも、世ではそのように教えていないのです。だから私たちは神様の御言葉によって、 物事を見て聞いて感じなければなりません。いつも真理というフィルターにかけて、良いものだけを受け入れましょう。世の人の話を聞くとき、そこから何を取るべきかなのです。そのように真理を基準にして私たちに必要なものを取っていけば、心もさらに聖くなるでしょう。でも心の割礼をしない人は数十年間信仰生活をしていても、相変わらず見て聞いている真理と反対のものが心に植え付けられてしまいます。大人の皆さんは、自分の子供が良いものを聞いて見て感じて、心が良くなるのを望んでいるでしょう。自分はそうできなかったから子供にそうしてほしいのですね。でも大人の皆さんも、年をとっても続けて心の割礼をすることができます。
心に善を満たして悪を捨てていけば、いくらでも速やかに変えられることができます。今皆さんが会っている人を、また今皆さんが何をどう見て聞いて話しているのかを、一つ一つチェックしてみてください。それで私たちは心がそれ以上悪に固まらないように、悪いものがそれ以上入らないようにしなければなりません。でも世の人はそうできないのですね。だから年を取るほどもっと頑固になって、いじっぱりになったり、厳しくなったり、心が荒れたりするのです。それで厳しい姑に苦労をした嫁が、後で自分の子供の嫁に厳しくするという話もありますけれども、私たちはそうしてはいけないでしょう。真理と反対のものを入れないことがとても重要です。自分の心の割礼をするということは、自分の心の中にある悪を捨てることも重要ですが、それ以上受け入れないこともとても重要です。
心の割礼をしていない人は神様の御言葉を聞く時も、心の糧にしないでただ頭にだけ知識として積んでおくから、それをもって人を裁いたり罪に定めるようになるのです。そうするとだんだん悪が加わるようになるのです。自分なりに自分は正しく判断していると思うかもしれませんが、それが実はむやみに裁いて罪に定めることになってしまうのです。自分の欲があってまた自慢したいと思っている人ならば、自分よりお金を持っている人や、自分より何か優れている人を見ながら羨ましいと思うのですが、その中には妬みがあり憎しみがあるのです。それを、根本的なその根を捨てて、どんな人を見ても真理を基準にして感じて受け入れましょう。エリフは何が良いかを見分けようと言って、またヨブが前に言ったことについて指摘していきます。
ヨブ記34:5-6です。
ヨブはかつてこう言った。「私は正しい。神が私の正義を取り去った。私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は直らない。」(ヨブ記34:5-6)
エリフは、これまでヨブが言っていたことを三つにまとめています。エリフが今、ヨブを指摘しているこのことは事実です。ヨブは神様が自分の正義を奪ったと言ったし、自分は決して偽りを言わないと言ったし、何の過ちもないし罪もないのに、厳しい病気にかかったと言っていました。このようなことをヨブが堂々と言えたのは、自分の良心にただしてみれば自分は正しかったからです。ヨブの常識では、自分のように正しい人には祝福をくださるのが神様の公義でした。しかし神様は悪人に接するように、自分の子供も全ての財産も取り去ってしまい、またひどい病気で悲惨な状態になったから、神様は正しくないと嘆いていたのです。また自分は正直に正しく生きてきたのに、神様が悪人扱いをしながらまるで偽りを言う横しまな者のようにして、自分を打ったと誤解しました。だからヨブは、神様は正しくないと考えたのです。
また自分には何の過ちも背きの罪もないのに、神様が罪人扱いをして大きい病気を与えて、自分を治してくださらないと思いました。だからヨブはそれが悔しくてたまらなかったし、何の理由もなく、わけもなく自分を惨めな状況にさせた神様が悪いと決めつけました。今日、信仰生活をするクリスチャンの中でもヨブのように誤解する人がいます。自分は主日も守って十分の一献金も捧げて、熱心に信仰生活をしているのに、なぜ答えをくださらないのか、祝福をくださらないのかと、神様の前で不満を抱きます。他の人はすぐ答えを受けているのに、神様が愛してくださっているのに自分はそうしてくださらないと、えこひいきをしている神様として誤解するのです。自分は正しいと錯覚しているからです。神様の御目では悪が多いのに、自分はその悪を発見できず、また自分に愛と徳が足りないことがわからないのです。そして人の過ちはよく目に見えるのです。皆さんにもこういう姿はありませんか?人と比べて不満を抱いたり、また自分が何か責められたり叱られた時や、いやあの人もあの人も間違っているけど、あの人には悪いところがあるのになぜ私ばかりこのように責めるのかと思った姿はありませんか?
誰も神様の前で自分の義や善を主張することはできません。神様の公義と善は人よりはるかに高いし深いからです。だからどんな状況でも、神様が悪いとさばいたり恨んではいけないのです。自分の目では自分が正しく見えても、光そのものである神様の御目では欠けているからです。皆さんは癒されるのも答えられるのも遅かったりする時、面と向かって神様の前で文句を言うことはないと思いますが、もしかして恵みを受けられなくなったりもやもやしているなら、ヨブと似た姿かもしれません。天よりも高い神様の思いを、被造物である人がどうして分かるでしょうか?計り知れるでしょうか?自分はよくやったことばかり考えて祝福を求めるのですが、まだ欠けているところが多いのです。だから自分がその祝福や答えの時を決めるのではなく、いつも真理に照らして自分を発見しようとしなければなりません。ヨブは神様の前で恨んで、神様より自分が正しいと言っていたから、エリフが見るにはヨブはとても悪い人でした。だから続く本文で、ヨブのように悪い人はこの世に他にいないと言っています。ここからは次の時間に伝えることにしましょう。
結論です。愛する皆さん。今日のメッセージは、エリフが自分は正しいと主張しながら、自分の言い分を聞きなさいと見分けなさいとヨブに言っていました。しかし人が正しいと思っても真理でないことが多いし、人が判断することがむやみに人を裁くことになってしまう場合もあります。結婚している皆さんは、愛して結婚した配偶者の考えや性格を全部理解して共感していますか?恋愛していた時は、相手に合わせようとするから自分と違う姿が見えなかったり、あってもあまりそれが問題ではなかったのですが、結婚して一緒に暮らしてみたら、自分と違うところもたくさんあるし、理解できないところもたくさんあるでしょう。だから、喧嘩したり、憎んだり、恨んだりするのです。なぜあんなふうに言うのか、なぜあんなふうに行動するのか、理解できないこともあると思います。このように人は、それぞれ育った環境が違うし、性格も好みも考え方も違います。また判断基準である良心も違います。
このように違う考えと良心を持って、それぞれ自分の基準を作って相手を評価するのです。皆さん、物差しがあるとしましょう。1センチ2センチこのように長さを測ってみれば、全部同じですね。その1センチという基準は全部同じですね。だから物差しを買うとその長さは同じなのです。でも人はそれぞれの物差しを持っていて、それが全部違うのです。人の顔がそれぞれ違うし、指紋が違うように、人の考えも性格も好みも全部違うのです。自分の基準が全部違うのです。これを悟っているならば家族の中でも平和を作れるし、夫婦の間でも相手を理解できるようになります。相手が自分と違うことは当たり前なのです。自分はこれが正しい、これが良いと思っても、相手はそれが正しくない良くないと思うのは当然なのです。
また、このように連休の時とか家族が集まった時は、料理をしてみんなで食べる時があるのですが、でもそれを食べて、もしかして姑がこれはおいしくないとか、またしょっぱいとか辛いとかいろいろ文句を言うかもしれません。その時ムッとなったり、またカッとして怒ったりイライラしたりするのではなくて、当然なことだと思ってください。人それぞれ口に合うものが違うし好みが違うから、それを当たり前のことだと思ってください。それで最大限相手に合わせようとすれば良いのではありませんか?このように家族が集まった時、互いにギクシャクしたりまた喧嘩したりすることがないように、皆さんが自分の思いと考えをちゃんと守りましょう。十人がいれば、十人それぞれ全部違うのです。政治家の間では特にそうですね。このように頭が良くて賢い人が集まっているのに、それでも争いが起こるのではありませんか。どこでも同じです。だから相手が自分と違うということをまずべースにしておいて、むやみに相手を裁いたり罪に定めることがないようにしなければなりません。
神様は聖書で正確に教えてくださいました。裁くものになってはならないと。そして自分の心を神様の御言葉に照らして変えられなければなりません。そして自分が知っている真理の知識を持って人を裁いてもいけません。だから私たちは自分がまず光になって、キリストの香りを放つようになると周りの人は自然に変えられるようになります。今週連休の時家族に会った時、自分の考えに合わせて嫌だとか思わないで、主の愛を持って仕えて低くなって理解しますように。それで幸せな連休を過ごしますように。
