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ヨブ記講解99 - 神様の心を正確に知ろう(上)

1 日前
読了時間: 18分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記34:7-12


前回エリフは、自分で知恵ある人のふりをして、私たちの間で何が良いことであるか見分けてみようと言いました。しかし、相手の意見を本当に聞こうとしたのではありません。ヨブと友達が、色んな言葉で互いに言い争っていたのですが、答えがでなかったから、今からは自分が言うべきだと思ってヨブを教えようとしていて、このように言ったのです。皆さんもこのようなことがあると思います。ある人とあまり仲が良くなくなったとしましょう。それで時間が経って何か思いついたことがあるなら、その人のところに行って、ちょっと話をしましょうと言うのですが、それは自分が思ったことを一方的に言おうとすることでしょう。エリフもそんなふうに言っているのです。これから私が言うから聞きなさいという意味です。そして以前ヨブが言っていたことをまとめて、ヨブが悪いとヨブを罪に定め始めます。​


ここで私たちが考えてみることがあります。互いに集まって何が正しいか正しくないかを見分けると言っても、多くのところで裁き罪に定めることをしてしまうのです。人が集まって何が正しいか見分けようと言っても、それは愚かなことがよくあります。教会の試練の時も、互いに集まっていろいろ話をしたり、噂話をしたりして罪の壁を作ってしまったこともあると思います。何が正しいか正しくないかを論じるために集まっただけなのにと思いますか?正しいという基準が人によって違うからです。ひょっとして集まった人が、意見が合ってこれが正しいと思っても、それが神様の御目には、正しくないということがあるのです。神様の善と愛と真理に合わないことがよくあります。これを必ず心に留めてください。​


今までヨブとヨブの友達が、いろいろ自分なりに真理を引用して話したり、エリフもそうしていたのですが、真理を間違って引用する場合もよくあります。また相手の心の深いところまではわからないから、自分で決めつけてあれこれ言うのです。そして、私たちの目の前に見えることが実際はそうではない、真実が違う場合もよくあります、親が自分で産んだ子供でも、その心の中はわからないのでありませんか?数十年一緒に暮らした夫婦も、互いの心の深いところまでわからないでしょう。それなら兄弟でもなく他人ならどうでしょう?ある人に対して、正しい正しくないと、このように決めつけることがどれほど合わないか、また自分の高ぶりなのかを悟らなければなりません。


エぺソ5:17に、「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」とあります。神様の御心を知らないことが愚かなことです。そして、神様の深い心も知らないのに、知っているふりをすることは、もっと愚かな姿でしょう。ですから、何かを見て聞いて感じて考える時、自分の意見を主張しないで、他の人の話もうのみにしないように気をつけなければなりません。自分で考えて感じて口にすることは、全部が正しくはないのです。自分では正しいと思っているのですが、でも真理に合わない言葉がよくあるのです。これを覚えていてください。​


魂が働いて自分なりにあれこれ考えるのですが、でもその基準が何かをよく知らなければなりません。本当にこれが神様の御目に正しいかそうでないか、自分の考え、自分の決めつけではないか、思い込みではないか、憶測ではないかをもう一度考えてみますように。神様の善を基準にすれば、神様の愛、真理を基準にすれば、悪いことは思わないでしょう。相手の良くないところについて、あれこれ指摘しないでしょう。このように悪いことは思わないで、良いことを思いましょう。良いふうに善を持って人を見て考えて、それで人の良いところはみんなと分かち合って、良いところを見て褒めて、祝福されたならそれも分かち合いましょう。でもある人が祝福されたのを聞いて、それは良いのですが、「けれど、あの人はこういうところは欠けているから」とか、「以前、このように良くないことをした」とか、このような余計なことは言わないようにしましょう。自分が正しいと主張することも直しましょう。また人の話に簡単に影響を受けてしまうことも気をつけましょう。​


教会の試練の時もそういうことがよくあったでしょう。自分より信仰が上の人、勤めが上の人、働き人の人が、何かについて自分の意見を言った時、それを聞いてそのままうのみにしたことはありませんか?本当にそれが真理に合っているか合わないか、祈りながら聖霊の声を聞こうとしたのでしょうか?神様は、そのように自分の考えで人の思いで、自分が正しいと思って人に伝えることをやめなさいと言われます。聖霊の声を聞いて神様の前に祈らなければなりません。そしてよく分からないときは、善、良い方に聞いて話して考えましょう。そうすると罪を犯すことはなくなるでしょう。私たちは、自分が正しいと主張したり、また相手の話をうのみにするとか、こういうことも気をつけて、全てにおいて真理を基準に考えましょう。今日もメッセージを聞いて自分を発見して、神様の御心をよく悟る皆さんになりますように。本文はエリフが、ヨブが言っていた言葉、つまり神様につぶやいていたことをまとめて伝えた後、続いてこう言うのです。


ヨブ記34:7です。


ヨブのような人がほかにあろうか。彼はあざけりを水のようにのみ、(ヨブ記34:7)


ヨブがいろいろ無礼な言葉で神様につぶやいたら、これを聞いていたエリフは、ヨブが水を飲むように、神様をあざけっていると表現するのです。エリフが見て、ヨブは正しい神様を侮辱する虫けらのような人で、罪人でした。それで、以前ヨブがしていた善行と徳も、全部偽善で偽りだったと決めつけているのです。しかしエリフは、一つだけは知って二つは知らない人でした。神様は公義であり正しい方、善であり正しい方であることは合っているのですが、神様の深い御心は読めなかったのです。それで自分が裁く者になって、ヨブを罪に定めていました。皆さんもこのような過ちがないようにするためには、いつも聖霊の声を聞かなければなりません。たとえある人が明白な悪を行ったとしても、あの人はそんな人だと思っていたとか、どうしてそんなひどいことをするのかと考える前に、神様がその人をどんなふうに見ておられるのかを考えましょう。神様がその人を憐れんでおられ、悔い改めの道を開こうとされることを、聖霊の声を聞きながら悟らなければなりません。


例えば、ダビデ王がバテシェバと寝て罪を犯してしまいました。もしそれを知ったとすると、人々はすぐ罪に定めますね。でも神様は、ダビデを退けたり捨てたのではありません。神の預言者を遣わせて厳しく責めてくださり、それによって悔い改めて立ち返るように機会を下さいました。これは神様の愛です。でもそれを知らない人はダビデを罪に定めて、ダビデが試練にあっている姿を見て、ダビデは神様からもう見捨てられたと思うのです。これは裁きであり罪に定めることです。皆さんの日常生活でもこういうことはありませんか?ある人の明白な悪でも罪でもそれを見て、自分がああだこうだと考えることが裁くことになってしまうかもしれません。その人の明白な悪を見たとしても、私はそうしてはいけないと反面教師にしなければなりません。


その人を罪に定めてはいけないのです。どうしてあんなひどいことをするのかとか、前からそんな人だと思っていたとか、このようにしてはいけないのです。あの人は本当に罪が大きいからもう神様に捨てられたとか、このようにむやみに言ってはいけません。考えてもいけません。聖霊の声を正確に聞かない限り、人の過ちとか罪について、あれこれ自分の考えで決めつけたり言ってはいけません。全てそれを自分の訓解にして自分を顧みなければなりません。そうしないで、自分の良心とか常識、自分の考えを基準にして決めつけるなら、エリフのように裁くものになってしまいます。


続くヨブ記34:8-9です。


不法を行う者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩んだ。彼は言った。「神と親しんでも、それは人の役に立たない。」(ヨブ記34:8-9)


エリフはヨブが不法を行う者どもとよく交わり、悪人たちと共に歩んだと言っています。これはどういう意味でしょうか?類は友を呼ぶという言葉がありますね。人々はこのように正しい人は正しい人同士、悪い人は悪い人同士付き合うようになります。心の良い人は、心の良い人同士集まって恵みを分かち合い、ギャンブル好きな人はギャンブル好きな人と集まり、噂話が好きな人は、そんな人と集まってあれこれ陰口を言います。ヨブは、試練に遭う前は、自分の地位にふさわしい人々、富と名誉と権力があり、学識がある人々と交わっていたでしょう。しかし試練に遭ってしまい、彼が持っていた栄華がなくなって健康まで失ったら、以前自分に近づいて交わっていた人々がみんな離れてしまいました。代わりにヨブの今の姿を見物しに来た人や、あざける人々が集まっていました。正しくて徳のある人々が離れてしまい、悪い人たちがヨブの周りに集まっていたから、こういう姿を見たエリフは、「ヨブが不法行う者どもとよく交わり、悪人たちと共に歩んだ。」と言いました。


ヨブはこのように集まっていた悪い人々に、「私は、前は神様と親しんでいたのに、神様はかえって私を傷つけて、罪ある人にしてしまった。神様のせいで私は役立たなくなってしまった。」と嘆いていました。ところがエリフが見るには、神様は絶対にヨブが言っているように悪い方ではありません。公義正しく善であり、愛の豊かな方であり、その方がなさることは全部正しいです。このような神様を、ヨブが正しくないと言いながら、無礼な言葉で神様を侮辱しているから、エリフは、ヨブのような悪い人は他にあろうかと言いながらこう言っています。そしてエリフは、ヨブと友達に「皆さんが私の言っていることを聞いてみたら、全部合っているでしょう。正しいでしょう。どれほど私が言っていることが正しいでしょうか。」という意味でこう言うのです。これはヨブの立場ではとんでもないことでした。神様がご覧になるときも正しくなかったのです。エリフは自分では自分に知恵があると思い、悪い言葉でヨブを苦しめました。神様の前でも罪の壁を積んでいくのです。自分で裁く者になったエリフは続けて偉そうに主張しています。


ヨブ記34:10です。


だから、あなたがた分別のある人々よ。私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。(ヨブ記34:10)


ここで分別があるという意味を調べてみましょう。分別があるとは、物事の理解が早く賢いことを言います。ところが神様は、価値観が人より優れていて、判断能力が速やかで正確で、目標が確かで、この全てが善による時に、本当に分別があると言われるのです。皆さんもそのような人になりたいのですね。分別がある人になりたいでしょう。価値観も正しくて優れている人、また判断能力も正確な人です。私は学校に通っていた時、道徳という科目でもこのような言葉を聞きながら、私は分別のある人になろうと思いました。人として正しい価値観を持っていなければならないと思いました。ただお金を儲けて、自分と自分の家族だけお金持ちになり贅沢に生きるのではなくて、人として正しい価値観を持って、何を追い求めるべきかについて私は考えました。人生で何が正しいか、豊かな人生なのかを考えてみました。それで神様がご覧になるとき、正しいと見られる価値観を持つことが本当に重要だと思いました。


皆さんはどういう価値観を持っていますか?どういう人生の目標を持っていますか?神様がご覧になる時、優れていると言われるくらいの価値観を持ったら良いのですね。そういう人が本当に分別があると言えるでしょう。そして、人としていろいろ決めなければならない時があると思います。何か集まりがあって会議する時も、何を決めるか選ぶかという時があります。何か重要な事があって、それを解決するためにどうすべきかを決める時も、分別のある人は正しい道を選ぶことができるのです。皆さんもそういう人になれたら周りの人に益を与えることができます。みんながどうすれば良いのかとわからない時、聖霊に働きかけられて、また神様がくださる上からの知恵をもって、一番みんなに益になる、徳を高める、そのような正しい道を見つけることは、分別があることでしょう。そのすべては善によるものでなければなりません。つまり賢さはあるけれど悪く活用されれば、これは本当に分別があると言えないのです。


世では愚かなものになってこそ、神様にあっては知恵ある者になれます。賢さも悪ではなくて善によって活用される時、本当に分別があると言えるのです。神の人々は真理にとどまっていて祈る時聖霊が心に働きかけてくださり、知恵をくださって発展的な人になります。しかしエリフは神様が言われるその分別がわからないのです。だから分別という言葉は使っているのですが、その本当の意味はわからなかったのです。ただ彼は、周りの人々が自分の話に耳を傾けるようにするために、お世辞で言っていたのです。あなた方は分別があるでしょう。だから私の話が正しいとわかるでしょうというのです。エリフは、「だからあなたがた、分別のある人々よ。私に聞け。」と言っているのです。あなた方はそれだけの知識もあってまた分別があるから、私の話に耳を傾けてくださいというのです。そして「神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。」と言っています。これは当然のことです。悪い人々は権力を握ったら自分勝手にふるまって、自分の利益のために、他の人を踏みつけたり不当に扱う場合があります。しかし神様は、絶対的な主権を持っている方であり、全てができる力と権利を持っている全能者にもかかわらず、決して不正をすることはありません。エリフは、神様がこのように公義正しい方であることを言っているのです。しかしエリフが悟っていることは浅い次元です。その理由が何かは次の本文を調べた後に説明しましょう。


ヨブ記34:11-12です。


神は、人の行いをその身に報い、人に、それぞれ自分の道を見つけるようにされる。神は決して悪を行わない。全能者は公義を曲げない。(ヨブ記34:11-12)


これを前の節と一緒に問うてみれば、「ヨブ、あなたは悟りなさい。神様は悪を行わないし不正をしないし、それぞれの行った通りに報いてくださる方だ。蒔いた通りに刈り取るのだ。神様は全能者であるが不義に裁く方ではない。そういう神様があなたを打ったのは、あなたが悪くて義がないし偽り者だからだ。」と言っているのです。エリブは、ヨブが言っていた言葉だけを聞いて、ヨブを裁いて罪に定めています。また神様に対しても、自分の考えで理解して評価しています。誰でも神様の御心を深く悟らなければ、こういう過ちをします。エリフは、愛する子供をさらに良い器にするために練ってくださる神様の心も知らないし、さらに大きい祝福を与えるために、試練に遭うようにされる神様の心はわからなかったのです。


もしエリフのような人が、獅子の穴に投げこまれたダニエルや、燃える炉の中に投げこまれたダニエルの三人の同僚を見たなら、どう思うでしょうか?その過程を見ないで、ただ今、目の前に起こったことだけを見たならどう思うでしょうか?彼らが大きい罪を犯したから、こんな惨めな目に遭ったと決めつけるでしょう。でもダニエルは獅子の穴から救い出されましたね。その結果を見た時は喜ぶでしょうが。でもその前に、彼らについていろいろ自分の考えで決めつけたり、思い込んでああだこうだと言ってしまうのです。何かを見たらその瞬間、自分の考えであれこれ決めつけてしまうのです。それが問題です。ダニエルやダニエルの3人の同僚が今、このように苦しい目に遭いました。彼らが救い出される前にそれを見たならば、ダニエルを罪に定めていたでしょう。でも次の日見たら、ダニエルは救い出されました。それならそれを見て喜ぶでしょう。しかし問題は、自分はすでに神様が嫌われる罪を犯してしまったのです。


人をさばいて罪に定めることをしてしまったのです。でも自分では気づかないのです。一瞬でした。一日でもなく半日くらい、ダニエルが獅子の穴に投げこまれるのを見た時、ダニエルを罪で定めて裁きました。でもその後、ダニエルが救い出された時は喜ぶのですが、でも自分が人を裁いて罪を犯したことには気づかないのです。だから悔い改めもできないのですね。それで何か問題が起こったのに、何が公義なのか罪の壁なのか分からない人がよくいるのです。裁くことがすでに習慣のようになっていて、自分が思いの中で考えたことだから、何か大きい肉の行いでもないから、目に見える大きい罪でもないから、それを大きい罪だと思わないのです。でも皆さん考えの中で裁いたり罪に定めたり、また二、三人くらい集まって、ああだこうだと言ったとしても、それは軽い罪ではありません。神様は、それを大きい罪だと言われるのです。なぜでしょうか?神様だけが持っている特権である裁くことをしてしまったから、それは大きい高ぶりなのです。人は神のようになって人を裁くことがあってはいけません。それは大きい罪になるのです。


でも人はそれを深刻に思わないのです。ただ思いの中で考えただけだしと思うので、それを悔い改められなくて、後でそれによって問題が起こる場合があるのです。そして、口にしたならもそれはもっと深刻な罪になります。でも自分が口にした言葉を忘れてしまうことがよくあります。だから私たちは、いつまで私が悔い改めるべきなのかと思わないで、本当に悔い改めにふさわしい心になるなら、忘れていたことまでも聖霊様が思い起こさせてくださり、悔い改めることができるのです。そうすると本当にすっきりするのです。心が軽くなります。もしかして皆さん、このように裁いて罪に定めたことがあるのではないのか、顧みますように。そしていつも気をつけなければなりません。自分の考え自分の口の言葉に気をつけましょう。このようにエリフのように、神様の御心を誤解して自分の考えで当てはめてしまう人は、裁きと言う大きい罪を犯す恐れがあります。


たとえば、使徒パウロが福音を伝えていて、鞭で打たれて牢に入れられていろいろ迫害される姿を見たなら、どう思うでしょうか?使徒パウロはそのまま殉教してしまいました。生き返り救い出されたのではありません。それならエリフのような人はどう思うでしょうか?神様は正しい人をあんなに苦しめる方ではないから、使徒パウロはきっと悪の多い人だ、罪人だと思うでしょう。神様の御心も知らないし、使徒パウロの心も知らないし、ただ目の前にあることだけを見て、そんなふうに決めつけてしまいます。でもダニエルや使徒パウロがこの地上で経験した苦しみは、神様の御心の中にあったし愛の試練だったし、永遠の祝福と栄光を下さる愛の摂理でした。使徒パウロが殉教したのは大きい栄光になりました。主の御名のために迫害されて、侮辱を受けて殉教しました。それで天国での大きい報いを得るようになります。人々は使徒パウロが死ななければ良かったのにと思うかもしれません。でも神様はその人にとって、使徒パウロにとって、一番幸いなこと祝福になること栄光になることのためにそうされたのです。そして使徒パウロの殉教によって、その血によって、多くの人々が福音を聞くようになり、全世界に福音を伝えられるようになるのです。


使徒パウロが迫害された時一緒に苦しみを受けた聖徒も、一緒に祝福を受けるようになります。神様のこのような深い摂理があるのにそれを悟らなければ、誤解したりまた人の考えで決めつけたりします。今、ヨブが受けている試練も災いではなくて、神様の大きい愛によるものだったのですが、エリフは全然わからなかったのです。皆さん、私たちは神様に対して正確に知りましょう。神様は悪い人でも何としてでも立ち返るように、機会をくださる方です。ダビデは、自分を妬んで殺そうとしたサウル王を殺せる機会が二回もあったのですが、神様の心を知っていたので赦して我慢しました。それでもサウル王は立ち返らないで、相変わらずダビデを殺そうとしました。このようなサウルは、神様の前でどれほど悪い人でしょうか。しかし神様は、サウル王が罪を犯すからといって、すぐ処罰されたのではありません。忍耐深くおられ待ってくださいました。第二ペテロ3:9に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを送らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおらるのです。」とあります。神様は悔い改めて立ち返ることができる人のために、最後まで赦して待っておられる方です。


しかも、神様が潔白で正しいし、神様を恐れ悪から遠ざかっていると認めてくださったヨブを、どうして憎んで厳しく打つでしょうか?エリフが言った通りに、神様は人の行いをその身に報い、それぞれ自分の道を見つけるようにされる方だから、神様は、ヨブが施しと善行に励んでいた人だから、大きい祝福をくださるでしょう。エリフは、自分は神様をよく知っているように言っているのですが、実はあまりにも分からない人でした。私たちは神様の心を正確に知らなければなりません。御言葉を読む時も、文字づらだけではなくて、その中に込められている霊的な意味を悟らなければなりません。


例えば聖書を読むと、神様がアマレク人を老若男女かかわらず聖絶しなさいと命じられました。これは、アマレクがそれだけ神様の前に多くの罪を積んだ為であり、罪に対する報いとして彼らは滅ぼされるのでした。しかし霊的な意味がわからない人や、神様の愛と公義がわからない人は、神様を残忍な方のように誤解します。人と比べられないほど深い善そのものである神様が、どうして人が滅ぼすのを喜ばれるでしょうか?どの民族、どんな環境に置かれている人でも、その心が良いならば神様は必ず救ってくださる方です。そのために良心裁きもあるのです。私たちが人への神様の深い愛、善を理解するためには、何よりも主の善の心に似ていかなければなりません。そして火のように祈って、神様の深みにも及ぶ聖霊の声を聞いて、神様の御心を悟らなければなりません。ですから皆さんは、悪はどんな悪でも避けて速やかに聖められて、神様の深い愛と善を正確に理解する真の子供になりますように。

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