ヨブ記講解94 - おのれ自身を知ろう③(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記33:3-5
愛する皆さん、私たちが己自身を知るということはとても重要です。世を生きる時も自分の短所を知って直していけば素晴らしい人となれます。信仰にあっては、真理を基準にして欠けている自分の姿を発見して、主の善と愛に代入して、自己中心的で仕えていない自分を探して見つけて変えられる時、より優れた天国に行けます。しかし、人と比べたり言い訳をしたりしては、自分を発見することもできないし変えられません。ヨブと彼の友達が、会話の中で現れる悪を見つけて認めていたなら自分を発見できたのに、そうできませんでした。相手の言葉の言葉尻を捉えて、自分が知っている狭い知識が義になって教えようとするから、変えられないのはもちろん、相手も変えさせることもできないのです。32章から登場したエリフも、自分自身の過ちはわからないまま、自分の義で相手を悪いと決めつけています。メッセージを聞きながら、自分はそうではないのかを顧みて、自分を発見する恵みが臨みますように。
使徒パウロは、主に出会う前は自分の義が強い人でした。律法による義においては非難されるところもなく、心には神様への熱い愛があったのですが、真理を霊的に悟れなかったので、イエス・キリストに反対して迫害しました。しかし主に出会った後、神様の前で自分の姿を発見して彼は告白しました。「自分は罪人の頭だ。」と、そして「最後に月足らずで生まれたものと同様だ。」と言いました。このような自己発見があったので、使徒パウロは自分を捨てて、毎日が死の連続になりました。それで異邦人の使徒になり、神様の前に尊く用いられました。皆さんもヨブ記講解を聞いて、自分自身を発見して完全に変えられて、神様の国に尊く用いられる器になりますよう、主の御名によって祈ります。本文はエリフがヨブを責めながら言う言葉です。
ヨブ記33:3です。
私の言うことは真心からだ。私のくちびるはきよく知識を語る。(ヨブ記33:3)
エリフは自分の潔白と正しさを強調しながら、私の唇はきよく知識を語ると言いました。人々の中では、自分が正しいと自分を評価して、堂々と自分の真実さを言い張る人もいますが、中には偽りを隠して真実な人のように見せかける人もいます。特に人を騙して自分を見せかける人は、もっともらしい言葉を口にしますが、人々はその言葉を聞いて騙されます。「私は神様に支えられる人だ」という人もいますが、私たちは真理で見分けなければなりません。神様が認めてくださる人なら言葉だけではなく、彼を通して現れる実が善で真実でなければなりません。皆さん、私たちは人を見るとき、その人の口の言葉だけで評価してはいけません。もっともらしい言葉を言う人が正しいわけではありません。聖書はどう見分けるべきか答えをくださいます。信仰生活をする時だけではなくて、日常生活でもどんなふうに人々を見極めるのか、人をどんなふうに評価すべきかを顧みますように。
どんな人なのか基準がなければなりません。私は神様だけを信じる人は信じない。これもいけないでしょう。神様を信じて神様の御言葉を基準にして、正しいか正しくないかを見分けることが必要です。又、人も信じることが必要です。牧者はこのように教えてくださいました。人を信じてはいけない。しかし何を信じるべきか?人を信じてはいけないけれど、どんな人でも信じることが必要だと言ってくださいました。人をむやみに信じて信じ込んで、それで損をしたりまたいろんな苦しみにあったりすることもあるのですが、私たちが信じて頼るべき方は神様です。でも主にあってどんな人でも受け入れる広い心が必要です。まだ欠けているところが多い人でも必ず変えられると信じるのです。そして心が真実ではない人、偽りを言う人もいるのですが、そのような人でも言うことを聞いて信じることが必要です。必ず変えられる、できるとこのように信じるのです。それで助け合ってより優れた天国に行こうとするのです 。皆さんも真理にあってすべての人を信じましょう。知恵を持って神様が下さる聖書の御言葉、真理を基準にして正確に見分けていきましょう。
マタイ7:20です。「実によって彼らを見分けることができるのです。」とあり、第一コリント4:20には「神の国は言葉にはなく力にあるのです。」とあります。教会の中で「私はこのように祝福を受けました。」「私は熱心に祈って神様と交わっています。」という人がいて、そのような人に近づいて集まる人もいるのですが、その人の実際の生活を見てみればいろんな問題があるとしましょう。その実によってその人を見分けることができるでしょう。口先だけ信じると言っていても、それに伴う実がない人は本当に信頼できる人ではないでしょう。しかし口の言葉と実際の実が一致しているなら、その人は教会の中でも評価されるしまた信頼できるでしょう。神様が支えてくださる人ならば信じられるでしょう。人の口の言葉で惑わされたり騙されたりしてはいけないでしょう。そして皆さんも自分自身を顧みますように。その実によって人々を見分けることができなければなりません。「私は神様にこのようなビジョンを受けました」とか、「お告げを受けました」とか言っていても、実際の実がなければ、それを見分けることができるでしょう。その口の言葉が実際に現れているとき、行いが伴っているとき、それを見てみればその実が分かるから見分けることができます。そして周りの人から「あの人にはこのような実が豊かにあります。」「その人は信頼できます。」と、褒められる皆さんになりますように。
エリフは今自分が真実で正しいと言っています。自分で自分を見ると正しくて真実な人だと堂々と言っているのです。これもよく考えなければなりません。周りの人が見て褒めてくれる場合があります。「あなたはとても素晴らしいです。」「愛の豊かな人です。」「正しくて真実な人のようです。」とこのように褒められれば良いのですが、自分で自分を称賛する人がいます。「私は正しいです。」「私は真実です。」と言って、「なのになぜ私を認めてくれないのですか?」と言う人がいるのですが、その人は本当の自分自身についてわからないのです。本当に実力があって正しい人、真実な人は、周りの人がみんな口を揃えてその人を褒めるでしょう。しかしそうでなくて、自分では自分は正しいと思うのに、周りの人がわかってくれないと不満を抱く人もいます。そうしてはいけないでしょう。周りの人がわかってくれないからそれで気を悪くして不満を抱くなら、それは高ぶっている姿ではありませんか。自分を高めてほしいと思っているのです。
エリフが今そうなのです。それで年上の人々の前で、怒って責めて問い詰めているのです。しかし彼の真実さを誰が保証できるでしょうか?真理で照らしてみれば悪の姿が多いので、自分を認めてくれる人は自分自身しかいないのです。周りの人はその人を非難しているのに、自分は自分を褒めているならどれほどみじめな愚かな姿でしょうか?私たちはそのような人になってはいけないでしょう。口先だけではなく実によって認められますように。もし神様の御目にエリフが本当に正しくて真実な人ならば、エリフが評価した通りにヨブは悪い人になるでしょう。しかしヨブは普通の人よりはるかに潔白で、神様に関心と注目を受けるくらい正しい人でした。ヨブはこのような良い点があったので、神様に愛されて特別に試練を受けているのです。エリフはこのことがわからない肉の人だから、自分の基準でヨブを決めつけて罪に定めています。
エリフはこれまでヨブの言うことを聞きながら、なぜ彼がそんな風に言っているのか、その心を理解しようとしないで、その言葉に込められている意図もわからなかったのです。ただ耳に聞こえる言葉の表現だけを持って、自分の考えと枠に合わせてヨブを決めつけました。自分の判断基準からヨブを見たら、ヨブの善と正しさは見えなかったし、嘘をついていて悪い人だと罪に定めているのです。それではエリフの判断基準は何でしょうか?エリフは神様がヨブを厳しく懲らしめているのは、ヨブが悪い人だからだという判断基準を持っていました。その基準を根拠にしてヨブが言っている言葉を聞いてみたら、ヨブは、「自分は正しく生きてきた。熱心に施しをした。神様より自分の方が正しい。」と言っているのです。だから「ヨブは嘘つきで悪い人だ。」とエリフは思いました。人々は相手の話、口の言葉だけを聞いて、自分の基準に合わせて決めつけることがあります。
日常生活で簡単な例をあげましょう。ある人が食事をしたばかりなのに、お腹が空いたと言いながらまた食べ物を食べているとしましょう。それなら「あの人は、少し前にご飯を食べたのにまたお腹が空いたと言っている。それは嘘だ。食いしんぼうだからだろう。」と言うならば相手を嘘つきにしてしまうでしょう。相手は本当にお腹が空いているからそのように言っているのに、それを見ている人が自分の基準で相手を決めつけているのです。ですから自分の考えで決めつけることは真の義ではないし、自分の常識であれこれいうことは真実ではないのです。
Aという人を見たら、その人は自分の前では感情表現もよくするし、乱暴な表現も使うし、自己中心的な姿があります。それで「あの人はどうしてあんなふうに言うのだろう。」と思ったとしましょう。ところでその人が、目上の人や上司の前ではとてもへり下っていて、また言葉遣いも気をつけている姿を見たとしましょう。それでその姿を見た人は、「あの人は人によって態度を変える。」と思うのです。私の前ではあれこれ乱暴の表現を使っていたのに、今は目上の人の前だからあんな風にしていると思うでしょう。でも心の良い人が見るとどんな風に考えるでしょうか?「それでも良かった。普段と違って目上の人の前では礼儀を守っている。失礼なことをしていない。」とこのように良い方に思うのです。でも心の悪い人は「へつらっている」とか、「上司の前ではあんなふうに態度を変えている」とこのように悪く思うのです。同じことを見ても自分の心に悪があるか、善があるかによってこのように違うのです。
私たちはエリフのように、自分を見て自分が真実だというのではなくて、神様の前に全ての人の前で認められる正しさと真実さを持ちますように。そのためには行いの実を見せなければなりません。教会の中でも「人々が自分をわかってくれない」とか「認められない」からといって不満を抱く姿があってはいけません。本当にその人に実力があって、その人が神様の前に認められているなら、人々も同じように感じてその人を選びまた用いられるでしょう。しかしある人はある面では実力があっても、霊的な面で神様を愛する心が足りないとか、いろんな原因があるでしょう。だから自分を顧みて、自分の欠けているところが何かを見つけようとしなければなりません。自分を主張するのではなくて謙遜になりましょう。
本文ヨブ記33:4です。
神の霊が私を造り、全能者の息が私に命を与える。(ヨブ記33:4)
エリフは創造主の神様を信じてその力を認める人でした。人がどこから来て何のために生きてどこに帰るのか、大体の知識を持っていました。死んだ後には神様の裁きがあるから、罪を犯さないで正しく生きるべきだということも先祖から聞いて知っていました。この若者はそれでも正しい良心を持っていて真実を追い求めようとしていたので、神様の存在について聞いた時、心に受け入れて認めました。今日神様の生きておられる証拠を見せて福音を伝えても信じない人に比べれば、エリフは自分なりの義を持って正しく生きようとしていました。しかし、その自分の義を持ってヨブと3人の友達の話を聞いていたら、じれったかったのです。それでヨブを悟らせてやらなければと思いました。それで自分の義を主張しているのです。私たちはエリフの言っている言葉を通して自分自身を発見しなければなりません。
自分の義というものがどれほど間違っているのかを気づかなければなりません。自分の義を発見して打ち砕いてこそ、神様が望んでおられる真の義人になるし、どんな問題も解決され心の願いも叶えられるでしょう。ここで自分の義というものについてよく悟らなければなりません。ヨブ記講解では自分の義という単語をよく使っています。自分の義ということは自分が正しいと思っていることです。神様がご覧になるとき正しいものではなくて自分が見て正しいと思っていることです。世で言う正しさと神様がご覧になる正しさは違います。また自分が見て正しいことも違います。世では高くなりたければ、人を踏みつけて上に行こうとしますね。でも神様は「低くなりなさい。」と言われます。神様の絶対的な真理を持って、私たちはこの真理を知っていることで、もしかして人を見てあれこれ裁いて罪に定めている姿はありませんか?そして自分が正しいと思っているのではありませんか?神様の義、神様の真理というものは、とても広くてとても深いです。でも私たちが持っているその知識は、とても浅いし、またとても狭いです。エリフは自分の義を持ってヨブを見てみたらヨブが間違っていると思いました。そして自分を基準にして自分が知っている知識、狭い知識を基準にしてヨブを決めつけているのです。私たちもそういう姿があるのではありませんか?
誰かが病気になった時皆さんはどう思いますか?病気になったなら必ずその人には何か罪があるだろう、過ちがあるだろう。だから、その人は自分を顧みなければならないとこのように思いますか?でもその人は特別なケースかもしれません。病気になっていることによって、その人はさらに霊的に祝福される過程にいるかもしれません。だから私たちは、自分が知っている狭い真理の知識を持って相手を決めつけてはいけません。もちろん聖霊の声を聞いて見分けることは裁きではありませんが、でも自分の考え、自分の義、自分が持っている狭い知識を持ってあれこれ決めつける場合があります。神様の御言葉にはいろんなケースによって正解が違う場合があります。だから私たちは聖霊の声をはっきり聞いて、物事をよく判別しなければなりません。今ヨブの状況はどうでしょうか?人が見るには本当にみすぼらしくて、ヨブが罪を犯したから神様の懲らしめを受けているように見えるかもしれません。しかし本当はそうではありませんでした。
そしてヨブの友達とエリフは、ヨブの今の姿を見て、ヨブが言っている言葉だけを聞いて、ヨブを罪に定めているのです。最初はヨブの話を聞こうとしたでしょう。でもヨブが自分のことを訴えながら嘆きながら、「自分は正しいのに神様が自分を苦しめている。」「神様がひどい。悪い。」とこんな風に激しく言ったら、ヨブの友達もだんだんそれを聞いて腹が立って感情的になって、互いに言い争うようになったのです。でも私たちは感情的にならないでいつも落ち着いて神様の御言葉を基準にして、まず自分を顧みることが必要です。そして相手の間違っている姿を見たとしても、それを指摘したり強く言うよりは、それを通して反面教師にして、自分にはそんな姿がないのか顧みなければなりません。そして相手のためだと思って、悟らせてあげなければと思って、自分が知っている真理の知識を持って指摘することがあるかもしれません。でもそれも自分の義によるものかもしれないし、愛がないからこのように強く厳しく言う場合もあると思います。知恵を持ってまた時を見てしなければならないでしょう。ヨブにエリフはこう言いました。
ヨブ記33:5です。
あなたにできれば、私に返事をし、ことばを並べたて、私の前に立ってみよ。(ヨブ記33:5)
自分がヨブに反論できないくらいはっきり答えをしたから、「ヨブに言い分があれば言ってみろ。」こんな風に言っています。しかし真理の人々はこのような言葉が必要ありません。バリサイ人や律法学者たちは何としてでも、イエス様から訴える口実を見つけて殺そうといろいろ試しました。しかしイエス様は、権威のある御言葉でそれ以上言い争いならないように終わらせました。「言い分があるなら言ってみろ。」とか要求されたことはありません。悪い人たちのどんな質問にも正確な答えをして彼らが黙るようにしただけで、相手を困らせることはありませんでした。イエス様が権威のある言葉で正確に答えてくださったら、彼らはそれ以上何も言えなくなりました。でも、「だからといってどうして黙っているのか。言い分があるなら言ってみろ。」とかこのように言う人もいるのですが、それは心の中の悪から出てくる姿ではありませんか?そういう表現を使うなら、自分の義を主張する人で、また相手を抑えつけようとする高ぶりの姿でしょう。真理を教えて勧めればいいでしょう。相手が過ちを認めるように強要することも直さなければなりません。これは家族の間であるかもしれないし教会の中でもあるかもしれません。ある人は自分が不利になれば黙ってしまう場合があります。相手の過ちを指摘したり、またその人が自分の過ちを認めるように強要してはいけないと言いましたが、他の面で言えば、自分の過ちは認めてこそさらに成長できるのです。でも、性格で自分のことを正直に言わないで黙ってしまう人もいるのですが、そのような人に無理に自分の過ちを口にするように強いることもいけない時があります。
家族の間で夫婦の間でもまた親子の間でも気をつけなければならないことがあります。親が子どもに何か言い聞かせたとしましょう。そして子どもの過ちとか間違っているところを教えたとしましょう。その時、親はその子供が「悪かったです。ごめんなさい。」と言ってほしいのですが、子供が黙っている場合があります。それでイライラして、「どうしてそんな風に黙っているの。」とか強く言う場合もあるし、また感情的になって怒って叩く場合もあります。親の立場では、子供が自分の口で自分の過ちを告白してほしいと思うのです。だから親は子供に何度も言うのです。「あんたが悪いでしょ。間違っていたでしょ。認めなさいよ。」このように言う場合もあります。そうすると子どもはどんなに辛いでしょうか。そして親も子どもに対してそんな風にしているならば、本当に子どもを愛して愛情を持ってしていることなのか、そうでなければ自分がじれったいからイライラするから、また子どもが自分の過ちを認めてほしいから、また子どもの前で自分が正しいことを強く言いたいからそんなふうにしているのではないのかを顧みなければなりません。自分は子どものためにというかもしれませんが、そんなふうにだんだん言葉数が多くなってそれで相手を傷つけてしまう場合があります。
ある場合は、相手の過ちを知っていてもそれを言わない場合があります。相手が恥ずかしい思いをしないように、その人のミスを指摘しない場合があります。その人の過ちを知っていてもある場合はそれを言わない方がいいかもしれません。相手にとってそれが役に立って相手が悟ったらそれでいいでしょう。それ以上の言葉で相手を傷つけたり罠にかけようとするならば、それは悪い心から出たのです。話をして、相手が自分の過ちを感じて認めて悔い改めたらそれでいいでしょう。しかし相手を屈服させようとすることは悪です。世ではこういうことがあるそうです。相手が過ちをしたことを認めさせて、またあなたのせいで私が大きい損をしたと言って相手を屈服させようとすることもあるそうですが、これはとても良くないことでしょう。そのような人と話をすれば傷つくようになるでしょう。皆さんはどんな人でしょうか?
相手の過ちを人々の前で言ったり、またストレートに指摘したりする場合があるのですが、でもそうしなくても良いことがよくあります。相手が自分で感じて自分で悟るように、知恵を持って勧めれば良いと思います。そして聖霊が働いてくだされば、相手が心で自分が感じて分かるようになるでしょう。でもそうしないで、相手を自分の下にして屈服させようとしてはいけないのです。私たちは人に仕えられる人ではなくて、人に仕える人でなければなりません。さらに謙遜になってへりくだって、また自分の言い方とか口調とか言葉遣いも気をつけなければなりません。相手の前で周りの人に上から目線で教えようとする立場なのか顧みますように。そして、一回指摘して悟らせてその人が受け入れなければ、腹を立てたりもっと強く言ったりする場合があるのですが、そうすると相手との関係も壊れるようになるでしょう。家族の間ではそれが小言になってしまうから、子どもたちは聞き従わなくなってしまうのです。だから自分の口の言葉の習慣にそういうものがあるなら直さなければならないでしょう。
