朝の学び178 創世記27章

創世紀 27:13-23
母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」それでヤコブは行って、取って、母のところに来た。母は父の好むおいしい料理をこしらえた。それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、また、子やぎの毛皮を、彼の手と首のなめらかなところにかぶせてやった。そうして、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡した。ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが、
エサウの晴れ着を取り、ヤコブに着せたリベカ
リベカは、長子の権利の祝福がどのようなものであるかを知っていました。そして、その祝福は、自分が愛する息子ヤコブに与えられることを切に願っていました。それだけ霊的な祝福を慕う心があったのです。これは、リベカが息子のヤコブを変装させるために、エサウの服を選ぶ場面でも表れてきます。15節に「それからリベカは、家の中で自分の手もとにあった兄エサウの晴れ着を取って来て、それを弟ヤコブに着せてやり、」とあります。ヤコブを祝福の場に行かせるにあたって、リベカは兄エサウの晴れ着を取って来て、ヤコブに着せましたと。ヤコブはこのようにおいしい料理とともに晴れ着を身につけた後、父であるイサクの前に出て祝福を祈ってくれるように求めました。これは、今日神様の前に出て祝福を受けることを求める時も同じです。前の時間に申し上げた通り、神様の前に出て何かを求める時は、それにふさわしい信仰の行いを見せなければなりません。その代表的なものが、真心を込めて捧げる捧げものです。
ところが、今日の本文にはそれとともにもう一つを述べています。それはまさに晴れ着を着たということです。旧約時代は行為的な時代なので、行為的に良い衣服を着るということは、今日で言えば神様の前に出てくる時の心がどうであるかを表しています。服は霊的に心を意味するもので、晴れ着を着て出てくるということは、神様がお受けになるのに値する良い心で出てくるという意味です。汚れた衣服やあちこちが破れ、いつでも適当に着る衣服ではなく、本当にきれいで美しい貴い衣服のように、善良で美しい霊の心で神様の前に出なければならないということです。
ある方々は、神様の前に熱心に蒔くのに、まだその実を収穫できない場合がありますが、そのような場合がまさに神様がご覧になる時、まだその心が準備されていない場合です。マルコ4:8にも「『また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。』」とおっしゃったように、良い畑、すなわち良い心を築いた時、霊肉の間に驚くべき祝福が臨むのです。リベカは、行為的な旧約時代にどうすれば祝福を受けることができるのか、霊の世界の法則を知っていたので、このようにおいしい料理を準備すると同時に、晴れ着を取ってヤコブに着せたのです。
ヤコブとリベカの狡猾な策略に騙されたイサク
このように、ヤコブはエサウのように変装をして、父親のイサクの前においしい料理を持って行き、それを食べて思う存分祝福してほしいと求めます。ところがこの時、イサクがいくら目が悪くて年を取っていたとしても、「エサウの声」と「ヤコブの声」ぐらいは区別できます。もちろんエサウの声のように真似をしたとしても、それでも聞き分けることはできるのではないでしょうか? それで、イサクはヤコブを近くに呼んで、彼に直接触ってみることさえします。しかし、ヤコブは、すでにヤギの毛で手と首のすべすべしたところを覆い、兄の服まで着ていました。すると、イサクは「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」と言って、ヤコブに祝福を祈ることになります。このような状況が少し愚かなように見えるかもしれませんが、イサクの立場で考えてみれば、彼がこのように騙されるしかないという事が分かります。
イサクは、ただエサウにだけ祝福を祈ろうという心だったので、彼にだけ密かにおいしい料理を持って来るように言いました。そのためイサクは、おいしいごちそうを持って自分の前に出て来たのがヤコブだとは、全く想像もしていなかったのです。それで、手を触ってみるとすぐに安心して、彼に祝福を祈ってあげたのです。その心にすでに決めたことがあり、それを推し進める心だったので、自分の心に決めた通りに行っていったのです。ここで、私たちは重要なことを悟ることができます。もちろん、イサクが騙されるしかなかったのも、神様の摂理の中にあります。しかし、イサクがその心に欲がなく、善良で真実な心を持っていたなら、このような状況で、ヤコブとリベカの狡猾な策略にだまされなかったかもしれません。自分の欲の中で自分の意思、願いだけを追うために、周りの状況を分別できない中で騙されるようになったのです。
これは、今日でもよく見られる姿です。多くの人がどうして詐欺にあって、あれこれトリックにだまされるのでしょうか?結局は自分の欲のためです。欲があるので、真理を正確に見分けがつかなくなります。真理の中で正道を歩むなら、騙される理由が一つもありません。一方、心では少し不審に見えても、もう一方の心にある欲があまりにも大きいので、「少し疑わしい」という心を置いて、結局欲を追って行くのです。欲に目がくらんで分別力が落ちたのであり、欲を追っているうちに聖霊の声が聞こえてきてもそれに気づかないのです。このように心に私心があり欲があり、偏狭な心を持っていれば、正確な分別ができないという事です。例えば、まだ肉の心を持った人が、一方の人をもっと好きであったり、一方の人がもっとうまくいくことを願う状況なら、二人の間にある問題が生じた時に、公平な判断ができません。片方の言葉だけ聞いて、その言葉だけを信じたり、自分の好きな人の方の言葉にもっと耳を傾けるので、相対的にもう片方の人には不利益が及ぶこともあります。
結論
聖霊の九つの実の中に「平安」があります。その内容を簡単に要約してみると、すべての人と平和を成す心、真理の中であれもこれも加えた心、自分の信仰に合わせずに相手に余裕を与えられる心、すべての人の利益を求めて恵みを与える心、自分を表に出そうとせず引っかからない心、言行にかたよりのない心だと説明することができます。和平について見てみると、単に他の人とひっかからない心と考えることもできますが、より深い次元の和平は、自分によって他の人の和平も壊れず、むしろすべての人がより一層和平になれる心です。そのためには、先に申し上げたように、言動にかたよりのない心が非常に重要です。
例えば頭になった人が、周りの人たちをののしりながら特定の人だけを偏愛するようになれば、他の人たちの心は不快になります。もちろん、皆が霊の心なら構いませんが、肉の心が残っている以上は、私より他の人がもっと愛されて認められる時、一緒に喜ぶよりは嫉妬する心が出てくることがあります。したがって、頭になった人はこのような人の心までも推し量って、決して偏狭な心や行いがあってはなりません。「彼等が悪だから」と言うのではなく、まだ霊に変化していない人々の心までも推し量って、自分の言葉や行動、または心の偏狭によって、彼らの間に和平が崩れることがないように、もっと注意して細やかに心を使わなければなりません。 このように、自分の周りの和平まで考えて、より広い心で抱く人こそ、真の平和の実を結んだ人なのです。
もう一つ、今日の言葉を通して悟るべきことは、訓練を受ける時、その原因を決して他の人に帰してはならないということです。今日、本文の出来事のために、ヤコブは遠く離れて行くことになり、エサウがヤコブを殺そうとする心まで持つようになります。このように家族の中から始まった試練は、誰かひとりの悪によったものではありませんでした。えこひいきと自分の意思を通したいという欲、長子の権利を軽蔑する心と軽率で衝動的な心、悪賢い心など、四人のさまざまな心が入り混じって、結局、家族の不和と別れ、苦しみと悲しみをもたらす試練が始まったのです。
試練を通して、相手の非を責めるのではなく、まず自分の過ちを認め、すべての責を自分に帰そうとする気持ちになった時初めて、自分を発見して変化できる祝福の道が開かれるのです。ヤコブは二十年の訓練の末、ついに自分の限界を認め、神様の前に徹底的に砕かれた姿になった時、神様は変化した彼を用いることができました。 ですから、皆さんは訓練を受ける時に、まず最初に、原因を自分自身の内から見つけてください。そのような時、聖霊が働かれて、自ら発見できなかった根本の悪までも発見し悟ることができるようになります。このような事をよく心に銘じ、皆様は神様が許される訓練を通して、純金のように出てくるようにと神様の名前でお祈りします。



