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ヨブ記講解90 -ヨブの義(2-上)

3 日前
読了時間: 12分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記31:16-22


愛する皆さん、前回はヨブがなぜ自分を正しいと主張できたのか、根拠になるような姿を調べてみました。ヨブがしもべに接する姿だけ見ても、その人柄が普通の人と比べられないほど良くて正しかったのが分かります。ヨブは、自分を造られた神様がしもべたちも造られたと信じていたので、彼らの人格を尊重しました。これは私たちが学ぶべきところでしょう。全ての人を同じように神様の形に造られた、尊い存在として尊重しなければなりません。またイエス様が、自分のためだけに十字架につけられたのではなく、相手のためにも尊い血を注ぎ出してくださったことを信じるなら、どんな人も無視しないで尊く思うでしょう。信仰の兄弟、真理にあって一緒に信仰生活をしている方々は、さらに大切に思わなければなりません。家族もそうです。今は子供であり配偶者かもしれませんが、天国に行けば同じ兄弟姉妹です。彼らを守っている御使いがいるのですが、もしその人と喧嘩したり相手を憎んでいたりすれば、その人についている御使いが悲しむでしょう。もどかしいと思うでしょう。相手が霊的に秩序を乱したり、間違った行いをするならどうでしょう。御使いがそれを見ていて、何かそれについて罰することはできなくても、それでも悲しむのではありませんか。​


反対に、霊的に神様に認められている人がいるなら、その人についている御使いも誇らしく思うでしょうし、喜んで微笑んでいるでしょう。これは、霊の世界でこのようなことが起きているというのを皆さんが信じているならば、相手を憎むことはできないし、ぞんざいに扱うこともできないでしょう。このような霊的なことを無視してしまい、相手を憎んだり、その人の悪口を言ったりしてはいけないでしょう。世の人に対する時も同じです。大きい器で受け入れたらいいでしょう。自分と関係ない人でも、人々はそれぞれ誰かに大切な家族であり、友達であり、一人だけのたっとい存在です。このような目で全ての人を見るなら、世の中で大切ではない人は誰もいないでしょう。まだ救われていない世の人でも、イエス様はその人々のために、十字架の尊い血を注ぎ出してくださいました。その人が救われることを祈りながら、天国に一緒に行く兄弟姉妹だと思ってください。​


ところで、ヨブは旧約時代の身分社会で、しもべたちに対して人格体として尊重していたから、自分でも自分を見て正しいと思っていたでしょう。主人がしもべたちを無視したり、また罰を与えたり、鞭で打ったりすることもあったのですが、ヨブはそうではなかったのです。だからそれを誇ることができるのです。この時間も、ヨブがどのように自分の正しい生き方を守ってきたのか説明します。皆さんもヨブと自分の姿を比べてみて学ぶところがあるなら学び、欠けているところは満たしますように。以前、ヨブは普段から困っている人々のために力になり、みなしごややもめを慰めていたと言いました。今日の本文でもヨブは、施しに励んでいた自分の生き方をもう一度説明します。


ヨブ記31:16-17です。


もし、私が寄るべのない者の望みを退け、やもめの目を衰え果てさせ、私ひとりだけで食物を食べて、みなしごにそれを食べさせなかったのなら。(ヨブ記31:16-17)


貧しい人は、経済的に豊かになりたいと思います。ヨブは彼らが助けを求める時、積極的に助けました。またやもめを見たら、もどかしく思って力になってあげました。かわいそうなみなしごも、愛をもって育てました。自分一人で贅沢していたのではありません。弱くて疎外されていた人々を助けて、面倒を見たのです。神様は聖書のあちこちで、私たちが貧しい隣人に施しをして、やもめやみなしごを顧みるようにと言っておられます。箴言3:27-28です。「あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな。あなたに財産があるとき、あなたの隣人に向かい、『去って、また来なさい。あす、あげよう。』と言うな。」とあります。ヤコブ1:27に、「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っている時に世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」とあります。​


神様を恐れかしこんでいると口では言っているのに、孤児ややもめを顧みていないのならば、それは神様の前で認められないのです。神様はみなしごとやもめを慰め、貧しい人、病人を助けて治してくださいました。また多くの人にさげすまれていた遊女や取税人にも、御国の福音を伝えて、彼らが悔い改めて救われるようにしてくださいました。人々は彼らを罪人扱いしていたのですが、イエス様は、彼らも救われるようにしてくださいました。取税人と一緒に食事をしているから、周りの人にあれこれ言われたり迫害されたこともありますが、イエス様は神様に喜ばれる善と真理を行いました。大礼拝の時もイエス様の善について伝えているのですが、皆さんはどうだったのか自分を顧みますように。初代教会の聖徒は、自分の持ち物を売って貧しい人々に施しをし、互いに持っているものを共有しました。使徒の働き4:32「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた。」とあります。皆さんはどういう生き方をしているのか顧みますように。


施しをすることが神様の御心だと知っていながら、実行しない人がいます。または、御言葉だから義務感から形式的に施しをする人もいます。しかし神様が望んでおられることは、憐みの心をもって、愛をもって、真実をもって施しをすることです。初代教会の聖徒のように、自分の持ち物を自分のものと言わず、喜びながら周りの人と共有することを神様は喜ばれます。神様に捧げる献金も同じです。第二コリント9:7に、「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあるように、私たちが喜んで捧げるとき、かぐわしい供え物としてお受けになるのです。忠実も献身も祈りもそうです。信仰生活のいろんな面で神様は心の香りをお受けになる方です。うわべではありません。人に見せるためにしてはいけません。神様の前で受け入れられる香りを捧げなければなりません。神様を愛する心で祈り、奉仕をして集まっているのか顧みますように。そうでなければ、「私がこれをすれば、人々に認められて褒められるだろう。こうすれば神様が祝福してくださるだろう。」と計算してはいけません。


続く本文31:18です。


―私の若いときから、彼は私を父のようにして育ち、私は、母の胎にいたときから、彼女を導いた。― (ヨブ記31:18)


ヨブは若い時からみなしごを助けていました。若い時も裕福だったことがわかります。年を取った後施しをすることを悟ったのではなく、若い時から心に愛があるから、父が子供の世話をするようにみなしごを顧みました。そして、「私は、母の胎にいたときから、彼女を導いた。」とあります。これは自分を産んでくれた母を見ながら女性の苦労を知ったから、一人で生きていくやもめのことを世話したのです。私たちは施しを喜ばれる神様の心を知って悟ったなら、さらに行いと真実を持って分かち合い施しをする皆さんになりますように。特に教区の働き人の皆さんは、自分が担当している方々が近所の方々ですね。ですから聖徒の皆さんの本当にいろんな面を世話して、面倒を見てくださっていて、とても感謝です。


最近断食についてメッセージを伝えたのですが、夏のキャンプの時、答えを受けるために断食をする聖徒の皆さんもいると思います。教区の区域の聖徒のために、また地域のある聖徒のために断食をする方がいて、とても感謝でした。自分のためではなくて、このように聖徒の皆さんのために断食をするんだと思って、私はとても幸せでした。マンミンの聖徒らしいと思いました。一緒に祈りますではなくて、一緒に定めて祈りながらその方のために断食しますという話を聞いて、とても素晴らしいと思いました。とても感謝します。皆さんが誰かのために祈り、誰かのために断食をするということは神様が喜ばれることです。自分のためではなく、他の聖徒のためにこのように断食をするならば、神様の前でとても美しい行いだと思います。すると神様が喜ばれ、皆さんの必要も満たしてくださるでしょう。ですからこのように喜びと感謝を持って行いますように。


そして、今は梅雨が始まっていて毎日のように雨ですが、こういう時期になると私は思い出すことがあります。以前私は主のしもべになって、施し委員会の委員長として使命をいただいて働きました。施し部の部長だったのですが、牧者が聖徒のために施しをする重要性について教えてくださって、心を込めてその使命を果たそうとしました。その時は、施しをする方々の家を訪問して手渡していました。そして梅雨の時期になると、聖徒の皆さんの家が大雨によって被害を受けるのではないかと、いろいろ顧みるようになりました。それで施しをするために訪問しながら、そのことも調べたりチェックしたりしました。教職者会長になった時も、主のしもべの皆さんにそれぞれ担当している方々が、もしかしてこの大雨によって被害を受けるところがないように、綿密に顧みるようにと言いました。特にお年寄りの方とか一人暮らしをしている方、また半地下に住んでいる方々も、その大雨のため被害を受けないように、このようにお願いしたことがあるのですが、今も皆さんも同じような心で顧みていると思います。


このように愛を持って聖徒を顧みるということは、神様がとても喜ばれることです。そして教区や宣教会の働き人ならば、例えば聖徒を訪問するときも手ぶらで行くのではありませんね。果物1個でも買って行ったり、また飲み物でも持っていたりするのではありませんか。区域長ならば、区域の聖徒の皆さんの家を訪問するなら、いろいろ自分のお金を使われることがあるでしょう。院長先生も区域長として区域の聖徒を顧みたり伝道するときは、このように些細なものでもおいしいものを作っていったり、いろいろ本当にきめ細かく顧みていました。このすべては良い行いで神様が喜ばれることであり、またそのような使命を果たしながらいけば、神様が霊肉共に祝福してくださるでしょう。ヨブは続けて自分の正しい生き方を説明します。


ヨブ記31:19-20です。


「もし、私が、着るものがなくて死にかかっている者や、身をおおう者を持っていない貧しい者を見たとき、彼の腰が私にあいさつをせず、私の子羊の毛でそれが暖められなかったのなら、」(ヨブ記31:19-20)


昔貧しい人々は、冬に温かい服や掛ける布団がなくて、凍え死にすることがよくありました。ヨブは服がなくて苦労している人々には自分の服を与えて、また身を覆うもののない人にもそのようにして、自分自身のように愛しました。このように愛を持って顧みたら、その人々がヨブのために祝福を祈って、ヨブの前で挨拶をしながら頭を下げたのです。皆さん、神様に物質の祝福を求めることは、ある人は正しくないかのように言うのですがそうではありません。第二コリント8:9に「あなた方は私の主イエスキリストの恵みを知っています。すなわち主は富んでおられたのにあなた方のために貧しくなられました。それはあなた方がキリストの貧しさによって富むものとなるためです。」とあります。イエス様は私たちの貧しさも贖ってくださいました。ですから、私たちは主の恵みによって物質の祝福を受けて、施しと宣教、聖殿建築など良い技のために使わなければなりません。


聖書を見ると、神様が豊かにしてくださるという祝福の御言葉がたくさんあります。ただしその条件があります。第三ヨハネ1:2に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸い得、また健康であるように祈ります。」とあります。このように魂にまず幸いを得ていなければなりません。申命記28:2に「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」とあります。神様の御言葉通りに生きることが祝福の秘訣です。アブラハムをはじめイサクヤコブヨセフなど昔の信仰の人々は、神様を恐れかしこみ御言葉に聞き従って、豊かな生き方をしました。私たちもそのような生き方を見習って、霊肉共に祝福され施しに励み、神様に栄光を捧げましょう。


牧者は、教会を開拓する前から、いつも施しに励んでいました。余裕があったら施しをすると思ったのではありません。貧しい時も自分のものを節約して施しをしました。自分の食べるもの、着るものを節約してこのように施しをしました。それを自分のために使う自由もあるのですが、そうしないでこのように施しをして献金をしたのです。余裕があって、いろいろ使うもの食べるものを全部食べて使った後施しをしたのではありません。貧しい生活の中でも、このように節約して施しをして献金したのです。だから神様が祝福してくださいました。教会を開拓した後は、教会の祈祷課題の第三を施しにして、さらに施しを広くしてきました。これを喜ばれた神様は、思う存分祝福してくださいました。教会のいつも祈るべき祈祷課題を見てみれば、第三は施しです。皆さんはこれが神様の御心であることを知って、皆さんも施しに励みますように。牧者を喜ばれた神様は、世界宣教と神の国を広げるように、思う存分祝福してくださいました。私たちもこのような善行を見習って施しをして、神様に喜ばれますように。続けてヨブは自分が正しかったことを言っています。


ヨブ記31:21-22です。


あるいは、私を助ける者が門のところにいるのを見ながら、みなしごに向かって私の手を振り上げたことがあるなら、私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。(ヨブ記31:21-22)


私を助ける者が門のところにいるのを見るとは、権威や影響力のある人に頼ることです。ヨブは自分を助けてくれる人がいても、その力を信じて高ぶって弱い人をいじめることはしなかったと言っているのです。人の肩とか腕は力を象徴します。それで自分の力を誇示するとき、腕を高く上げることがあります。また人々は肩とか腕を使って、重いものを持ち上げたりします。もし肩が落ちて骨が折れるなら、腕が折れるなら、何の力も使えませんね。ところでヨブは、もし自分が後立てを信じて不義を行ったならば、自分の肩の骨が落ちて腕が折れても良いと言っています。これは自分を呪うことなのですが、このように堂々と言えるのは、それだけ自分の生き方は正しかったということを言うのです。


ヨブは、普段から自分の良い技を自慢しなかったし、当然すべきことだと思っていました。このように、代価を求めないで純粋な心で施すことが、神様が認められる真の施しです。肉の人々は、自分のよくやったことを認められたいから、それとなく自慢したり褒められたいと思う心があります。誰も分かってくれなければ不満に思ったりします。ところがイエス様はマタイ6:3-4で「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」と言われました。人の目を意識して行うことは報いになりませんが、心から沸き上がる愛をもって施しをすれば、神様は喜ばれ豊かに祝福してくださいます。

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