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ヨブ記講解88 - ヨブと私たちの心の比較(上)

3 日前
読了時間: 13分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記30:27-30


愛する皆さん、前回は神様の思いと人の思いがどのように異なるかについて伝えました。ヨブの思いと神様の思いはあまりにも異なっていたのです。神様は祝福を与えるためにヨブを練っておられるのですが、ヨブは相変わらずその愛を悟れないまま不満が積もって神様を恨んでいました。全てをご存知の神様は人によって一番良い時に一番良いものを与えるためにそれぞれに合うように練ってくださいます。人の考えには祝福の道のようでも神様は違うと言われる場合があるし、人が見ては苦しみの道のようでも神様はその道が大きい祝福を受ける近道だと言われる場合もあります。ですから神様を本当に信頼する人は自分の思いにこだわらないで神様の御心に委ね、どんな状況でも揺れ動きません。このような人にとって苦しみは祝福のもう一つの名前であり、感謝の条件になります。


詩篇119:71に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあるよう、に苦しみにあった時自分を発見してさらに真理の人に変えられるからです。ですから試練の過程を通して、まことの基準になるように導いてくださる神様の愛を心に深く悟り、皆さんの日々にも変化の実、祝福の証があふれますように。しかし試練というものは、神様の摂理によって練ってくださる場合は祝福ですが、自分の罪による場合は、神様が私のためにこうしてくださったとは言えないでしょう。まず自分の過ち自分の罪を悔い改めなければなりません。自分のせいで問題が起こって病気にかかったから、それは神様の御手によるものだと言ってはいけません。本文を読むとヨブは自分の今の苦しみを悲しんでいます。​


ヨブ記30:27-28です。


私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。私は日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、つどいの中に立って助けを叫び求める。(ヨブ記30:27-28)


ヨブは苦しみにあっているから、今いろいろ複雑で心がかき乱されていました。私は日にも当たらず泣き悲しんで歩き回りと言っています。自分の世話をしてくれる人もいないし、汁と血と膿が出て皮膚は腐っていて汚くなっている。自分の体の状態を嘆いています。つどいの中に立って助けを叫び求めると言います。自分があまりにも惨めな状態になって、人の前で助けを求めているからどれほど悲しいでしょうか。そして、ヨブは過去多くの人に愛されて仕えられて、富と栄華を味わっていました。また知恵と知識が優れていて、首長でも彼の一言でも聞くためにその前で黙っていたというくらいでした。このように多くの人に信頼され尊敬されていたヨブが、今は人の前で助けを求めて言い訳をしているから情けないと思うのです。​


そして人々は自分を慰めて愛してくれるのではなくて、責め立ててあざけているからヨブはどれほど苦しんでいたでしょうか。辛かったでしょうか。ヨブの立場になってメッセージを聞きながら、その心を理解してまた多くを悟りますように。ヨブがそうだったと人の話だと思うのではなくて、ヨブの姿を通して自分がその立場になってみてください。ヨブの今の苦しみ、感情を感じてみてください。ヨブがどれほどつらかっただろう、苦しんでいただろうと思ってみてください。そして自分にも適応してみて、私ももしヨブのような立場になっているなら、どんなに悲しんでいただろう、どんなに辛かったんだろうと思いながら聞いてみますように。そうすればヨブと自分を比較してその心の悪を発見できるでしょう。ところで私たちがここで知るべきことは、辛い苦しいからといって人により頼んではいけないということです。​


神様は求めるものには与える、探すものは見つける、叩くものには開かれると言われました。ですから信仰のある私たちは、ただ神様の前に求めて答えを受けて問題を解決していただかなければなりません。ヨブは人の前で助けを叫び求めていました。しかし反対に非難されて嘲笑われました。どれほど惨めだったでしょうか。箴言3:5に「心を尽くして主に拠り頼め、自分の悟りにたよるな。」とあります。詩篇118:8-9に「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」とあります。私たちは全てのことにおいて、自分の知恵や方法、他の人に頼るのではなく、ただ信仰で神様により頼み、神様に求め、神様がくださる恵みによって勝利しましょう。​


皆さん、人に頼らない人がいるかもしれません。私は人を信じません。でも自分自身を信じる人がいます。「人を信頼できないから、人に自分の心を打ち明けることはない」と言っても、自分の枠の中で閉じこもっていってはいけないのです。神様は自分にもまた人にも頼らないで、神様に信頼して、神様により頼みなさいと言われているのです。神様に委ねて神様に求めて答えを受けるようにと言っておられるのです。求めても祈っても答えがないと嘆くのではなくて、私たちはなぜ答えを受けられないのか、その原因を霊的に悟って自分を顧みて、それで悟って求めて答えを受ければどれほどいいでしょうか。そしてそういう体験があるなら、周りの人も助けることができるでしょう。


神様は、信仰で神様により頼む子どもたちを喜ばれます。時によって先の雨後の雨で答えてくださいます。このように1回2回神様の恵みを体験していけば、だんだん信仰が成長して全てを全能なる神様により頼み、答えを受ける信仰になります。聖徒の皆さんはこのような霊的な原理をよく覚えておいてください。人に頼ったり自分を信じたりするのではなくて、神様により頼んでみてください。そうすれば全てのことで、道が開かれるし、答えが見えるようになります。神様の前にへり下って自分を捨てて、自分を無にして謙遜に求めると、その喜びは世が与えられない喜びです。そうすると不安も心配もないし、いつも心強いし、どれほど心が安らかでしょうか。皆さんがこのような信仰を持ちますように。このような霊的な原理をよく悟っていかれますように。


自分に何か問題があるとき、神様に求めても答えを受けられない時は、主のしもべに相談して祈りを求めることは、又知恵とも言えるでしょう。しかし自分は何もしないで、ただ主のしもべにお任せすることは良い方法ではありません。皆さん自身も神様にすがり求めてまた努力しながら悔い改めて、御言葉通りに行う行いが必要です。そしてプラス主のしもべに助けを求めて祈りを受けることがあれば、速やかにより速やかに問題が解決されるでしょう。このように自分と聖霊との個人的な関係がなっていなければなりません。自分では何もしないで人任せにしてはいけいけないのです。ですから、もちろん周りの人々に祈りを依頼したり、助けてもらうことはいい方法ですが、自分と神様の関係もいつもよくしておかなければなりません。父なる神様と子どもの関係を強くしてください。ヨブは自分の今のこのような辛い思い、苦しみを人に訴えながら、人々に助けを求めていたのですが、それでも問題は解決されませんでした。続く本文を見ればヨブは自分について面白い表現を使っています。


ヨブ記30:29です。


私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった。(ヨブ記30:29)


私はジャッカルの兄弟となりとあります。ジャッカルとはどんな動物でしょうか?性質が荒々しいし獰猛で隙を狙って獲物を奪ったり盗む、このような凶暴な属性があります。聖書を読むと、ジャッカルや狼など凶暴な性質を持っている動物を、偽予言者や神様に立ち向かう人に例えています。例えばイエス様はルカ10:3で、「さあ行きなさい、いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。」そして使徒パウロは聖徒を惑わす偽予言教師を狼に例えています。使徒の働き20:29です。「私が出発したあと、凶暴な狼があなた方の中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。」ところでヨブはここで友達をジャッカルに例えています。ヨブが自分の辛い今の心境を訴えても、友達は慰めてくれなかったし非難して責めていたでしょう。だから心がひねくれたヨブは、友達を動物の中でも凶暴なジャッカルにたとえていました。


これは悪い姿ですね。こういう姿が皆さんの中にもあるかもしれません。特に家族との関係で配偶者に対して不満があったりする場合、このように悪い表現を使ったりする場合もあります。相手が嫌いでまた相手のことが気に入らない時、このように悪い表現を使ったり、例えを挙げて非難する場合もあります。ヨブは今友達に対してそんな風に言っています。そしてヨブはだちょうの仲間となったと言いますが、これはどういう意味でしょうか?聖書で、だちょうは忌むべき動物であり、残忍で愚かな動物として表現されています。ヨブは自分をこのようなだちょうの仲間となったと表現していますが、今、写っている写真を見てみれば、遠くから見ればそんな風に感じられないのですが、このように近くで見たら目とかちょっと怖いですね。ヨブはこのようなだちょうの仲間となったと表現しています。これは全ての人に見捨てられた自分のみじめな境遇を言っているのです。私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となったと言って、動物のように価値のないものになったと嘆きながら悲しんでいます。


続く本文を読むと、ヨブ記30:30です。


私の皮膚は黒ずんではげ落ち、骨は熱で焼けている。私の竪琴は喪のためとなり、私の笛は泣き悲しむ声となった。(ヨブ記30:30)


ヨブの皮膚は黒ずんではげ落ちていました。骨はあまりにも痛くて焼けているようでした。今、ヨブの体の状態がそうでした。ひどい皮膚病だったので、傷口が裂けて、また塞いだりしながら汁が出て、血と膿が出て、どれほど苦しかったでしょうか。また骨も痛いほどで焼けているようでした。ヨブは自分の絶望と悲しみを楽器の音に例えて言っています。人々は歌や演奏で喜怒哀楽を表現したりします。嬉しくて楽しい人は幸せな歌詞の歌を歌い、楽しい感情を込めて楽器を演奏します。しかし悲しい人は、悲しい歌詞の歌を歌い、悲しい音楽を演奏します。それで悲しみを慰めます。世でも歌手が悲しい歌詞の歌をよく歌っていると、その歌詞のようにその人生の結末が悲しくなるとか、良くない結果になるとかと言いますね。皆さんも世にいた時、世の歌の歌詞の中でなんか悲しい歌詞、寂しい歌詞を聞きながら、自分の心と同じだと言いながら浸っていたかもしれませんが、ヨブも今そのような心でした。


ヨブは試練に会う前は、竪琴と笛の音を聞けば心が楽しくなりました。でも今は絶望に落ちているから、竪琴は喪のためとなり笛は悲しむ声となりました。そのくらい今絶望的で悲しい状態であることを言っているのです。皆さんここで私たちが悟るべきことは何でしょうか?完全な信仰を持っているなら、このような絶望の中でどんな行いが出てくるべきでしょうかということです。これを悟りますように。全能なる神様に目を向けて、喜びを持って賛美して祈るべきでしょう。ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた時、彼の三人の同僚が火の燃える炉の中に投げ込まれた時、少しも絶望しないで神様の前に感謝した時、髪の毛一本も害を受けなかったでしょう。このようにどんな状況でも神様の御心に従って行うと、全てを御存じの神様が働いてくださり避ける道を開いてくださり、全てを働かせて益としてくださいます。ただ御言葉に聞き従って喜び感謝し祈ること、これが問題解決の鍵になります。


今ヨブ記を聞きながら、ヨブの今の心を考えてみて、又自分の心はどうかも考えていると思います。そして真理と真理と反対のもの、善と悪の違いを説明しています。ヨブが試練にあって自分のことを嘆いている姿を見ながら、信仰のある人はそうしないと説明しているのです。万民ラジオを聞いたのですが、ある兄弟が、韓国の男性は軍隊に行くのが義務ですね。そして除退した後も定期的に訓練に行かなければならないのですが、その訓練に呼ばれた日、一日中何もしないで無駄な一日を送ったなと思ったのですが、その時、「自分が御霊の人だったならばどうだっただろう」と考えてみたと言いました。そして「そういう時も、感謝して喜びまた真理のことを考えていただろう」と言っていました。そうですね。私たちも日常生活で、このように自分を顧みながら真理を考えて、そして「自分がもっと信仰があって御霊の人ならどうするだろう」と、このように考えるようになるのです。


本当にそうだと私は思いました。同じように訓練に来ている人の中で、世の人ならば同じ時間を過ごしながら、肉のことを考えたり、また否定的に思ったり、退屈だなと思うかもしれませんが、信仰がある私達また御霊の人ならば、神様のことを思い天国のことを思うから、その時間が退屈だったり長く感じないでしょう。そして私もどこかに行く時、移動する時は、メッセージを聞いたり賛美を聞いたり、聖書を読んだりしているのですね。例えば汽車の中で周りの人を見てみれば、スマートフォンを見ていたり、世の音楽を聴いたり、雑談をしていたりするのですが、私は賛美を聴きながら天国のことを思っているから、本当に感謝だなと思う時がありました。そしてこの中で神様を信じる人はどのくらいいるだろうと思いながら、もっと熱心に福音を伝えなければと思ったりしました。


皆さんはどうしているのでしょうか?会社に行く時、バスの中で電車の中で、その時間をどんなふうに過ごしていますか?同じ時間同じ電車の中にいたとしても、このように霊的なことをしている人と肉的なことをしている人ではその結果が違いますね。また学生の場合は、学校に行く時もそして学校でのことも考えてみてください。そして特に家に帰る時、電車の中で人々を見てみれば、本当に疲れているようでみんな無表情だったり、またスマホをただ見ていたりする姿がよくあると思います。私たちはそういう時も聖霊と交わっていて聖書を読んだりすればどれほどいいでしょうか。そして心の中は平安と喜びがあるからどれほどいいでしょうか。


しかし、ヨブはそのような全能の神様、愛の神様を完全に知ってしていなかったから、現実の悲しみから抜け出すことができず、ずっと絶望していました。ここまでがヨブ記30章です。ヨブ記30章でヨブは、自分が体験している患難と苦しみを訴えていました。そして31章からは、自分が過去どれほど正しかったのか、どれほど潔白だったのかを一つ一つ言っています。ヨブ記1:8で神様はサタンにこう言われました。「お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と褒めてくださいました。神様がなぜこのようにヨブを褒めてくださったのかよくわかるヨブの話を今から調べてみましょう。


ヨブが今自分は過去こんなに正しかった、こんなに潔白だったと説明しているのです。これはヨブが自慢話をしているわけではなくて実際そうでした。ですからそういうヨブの行いは神様に褒められるような姿だったのです。皆さんはそのヨブの行いと自分の行いを比較しながら比べながら、メッセージを聞いてみてください。それで本当にヨブは神様に褒められるくらいの行いだった、でも私はヨブに比べてみれば、彼の潔白さとか正しさとか行いに比べてみれば劣っていると悟りますように。ヨブはそのような上辺の行いは完璧だったのに、それでも神様が練ってくださってさらに完全なものにするために、そのような試練の過程があったのですが、皆さんは、もし自分がヨブのような試練に遭うなら、耐えられるだろうか考えてみますように。そしてヨブと比べて自分の行いは正しいのか、どのくらい潔白なのか、罪から離れているのか考えてみますように。そして自分の心に悪がこんなにあると悟りますように。悟ったなら発見することができるし、またその悪を捨てればいいでしょう。

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