ヨブ記講解73 - 感情的になって大げさな表現をするのはやめよう(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記26:14
続くヨブ記26:14です。
見よ。これらはただ神の道の外側に過ぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない。だれが、その力ある雷を聞き分けえようか。(ヨブ記26:14)
今、ヨブはこれまで言ってきたことは、外側について言っているだけだと言いながら、一部分に過ぎないと言っているのです。ヨブが言っていることは、神様について一部分にしか過ぎないけれど、神の力は雷のようなものではかり知れないと言っているのです。ヨブは自分が恐れている神様、恐ろしい神様について表現していました。しかし、それは氷山の一角にすぎないと言っているのです。だからこれは神様に栄光を捧げるために言っている言葉ではなくて、自分の思い込みによって大げさに表現している言葉なのです。昔の人々は、雷が鳴ったり稲妻が走ったりすると恐れましたね。怖がりました。ヨブも自分のわだかまり、誤解によって、恐ろしい神様を表現しているから、雷という表現をして大げさに言っているのです。
皆さんが神様の御言葉を心に刻み、昼も夜も口ずさんでいるなら、一日の間、自分が口にした言葉から、真理と反対のものを見分けることができるでしょう。また人々が日常生活で、どれほどよく人をさばいて罪に定めていて、憶測によって決めつけていて、大げさなことを言っていて、嘘をついているのかなどを悟りますように。自分も同じようにしているということを悟らなければなりません。あの人はきっとああだこうだとかと言っていることも、決めつけでしょう。憶測によって言っていることです。あの人は確かこうだったとか、あの人がそう言っているのはきっとこんな意味なのだろうとか、自分で推測していることがあるのですが、それは人を裁くことです。それをしてはいけないということです。だから牧者はこの裁くことについて、いつも厳しくそうしてはいけないと言ってくださったのですね。自分が色々考えていることはあっていないという意味です。人の表情を見て多分怒っているだろうとか、何かがあって今心の中でいろいろ悩みがあるだろうと思って、そんなふうに言ったとしましょう。それがあっていたとしても、ほら見て、あっているでしょうと思うのではなくて、私はあの人をさばいてしまったと、悔い改めなければならないのです。
ある人の表情とか顔色とかその人の振る舞いを見ながら、今あの人は機嫌がいいとか、そうでなければ、何か機嫌が悪いことでもあるのだとか決めつけてはいけないのです。私たちは、そのように上辺を見て人を裁くことが、すでに習慣のようになっているから問題なのです。なにか気に触ることでもあるのかなとか、そうでなければ、あの人は高ぶっているからあんな振る舞いをするのだとか、よく日常生活で心の中で、どれほどしょっちゅうそのように人をさばいていますか?そして自分とは何の関係もない、テレビとかニュースに出てくる人を、ああだこうだと、どれほど私たちは人をさばいていますか?ニュースの記事を見ながらも簡単に決めつけたり、その人についてさばいたりすることがあります。それも直さなければなりません。ニュースとかも間違っている、また事実ではないこともたくさんあるのではありませんか?私たちは経験したでしょう。冤罪とか無実とかあるのに、いろんなゴシップとかニュースとかを見ながら、色々言っていることを、皆さん自分を顧みなければなりません。また自分の口の言葉にどんな感情があるのか、こもっているのか、そして自分が感情的になって大げさに言っている姿はないのか、顧みますように。自分とあまり関係が良くない人に対して悪い認識をさせるように、いろんな良くない表現を使ったりした姿はなかったのか顧みますように。
でもそれは、自分が口に出してしまって、忘れてしまうことがよくあります。だから問題です。だから私たちは自分の口の言葉に敏感になって、自分がどんな言葉を使っているのか、どんな表現をしているのかを一つ一つチェックしなければなりません。そうでなければ忘れてしまうし、それで自分は悪いことをしていないと思い込んでしまうかもしれないのです。それによって変えられるのが遅くなってしまうし、その罪の壁はそのまま残っていて、解決されていないままかもしれないのです。そういう人は真実さとはかけ離れているのです。人の話を聞く時も正確に聞いて、自分の思い込みによって変えて伝えるのではなくて、事実をそのまま伝えなければなりません。何かのことについて、よくわからなければよくわかりませんと言えばいいのに、ちょっと聞いたことがあるから、こうみたいです、ああみたいですと、自分の考えを入れて混ぜて伝える場合があります。正確なことを知っていないのに、そんなふうに事実かのように伝えてしまうこともよくあります。自分が正確に知っていなければ、よくわかりませんと言って、調べてから伝えればいいでしょう。しかし自分が知っているかのように、よく知っているかのように人にそう見せるために、伝えてしまう場合があります。それは真実ではない姿です。ただありのままで、自分が知らなければ知らないと言って、よくわからないならわからないと言えばいいでしょう。
マタイ5:37「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」とあります。自分の思い込みで人を決めつけることがあってはいけません。あの人は何か悪い意図であんなふうにしているのだと言ってはいけないのです。その人のことを、やっていることをそのまま受け入れればいいのに、きっとこんな意図があるから、こんなふうに感じているからとか、自分の思い込みや決めつけが問題なのです。そのためには心の中の悪を捨てなければならないのです。うっかりとか感情的になったり、または自分が信用できるような誰かから聞いたから、それをすぐ伝えることがあってはいけません。事実かそうでないかを確かに調べてから、正確なことを伝えなければなりません。しかしある人は、習慣のように、状況を大げさに言う場合があります。例えば自分が好きなものを誰かが食べて少し残っているのを見たら、「全部食べてしまった」とか、「一つも残っていない」とか言いますね。そしてある人は言葉を伝えるとき、必ず入れるべき内容を削ったり、反対に自分の考えで推測した内容を付け加えたりします。ですから私たちは言葉一言も、正確に真実に口にする習慣が必要です。
現代社会では、荒れていて世俗的な用語をよく使っていますが、皆さんはそういう風潮に染まらないように注意してください。エペソ4:29に「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とあります。ですから私たちは、神の子供らしく良い言葉だけ口にして、耳にして、悪いことは見てもいけないし、聞いてもいけないし、話してもいけないのです。真理の人はそうしなければなりません。皆さん、例えば自分が、機嫌が悪いとしましょう。そして何か気にさわることがあった場合、それを周りの人に喋りたがる人がいます。共有してほしいと思うのです。でも周りの人は、そんな陰口とか愚痴とか悪い言葉をあまり聞きたくないのに、その周りの人に自分は言いたくて言ってしまう、そういう場合がありますね。否定的な苦しいことを良くない話を、しょっちゅうそのように周りの人に言ってしまえばどうでしょう。空気がもっと沈んでしまうし、雰囲気が沈んでしまうし、幸せになるとか嬉しくなるとかはならないのではありませんか?周りの人も、自分のそのようなマイナスの負の感情を感じてそれが伝わるから、同じようにマイナス思考になってしまう場合があります。それは相手に対してそんなふうにしているなら迷惑なことではありませんか?家族の間でもそうです。
例えば夫婦の関係が良くない場合、お母さんがお父さんの悪口を子どもによく言うとしたらどうなるでしょう。子どもがその否定的な悪い影響を受けて、お父さんに対してマイナスの感じ、良くない感じを持ってしまうこともあるでしょう。そしてお父さんとお母さんがいつも喧嘩していたりすると、それを見ている子どもはどれほど悲しいでしょう。どれほど疲れるでしょう。お母さんがお父さんと喧嘩した場合、お父さんの悪口を子どもに言ったり愚痴を言ったりこぼしたりすると、子どもはそれを全部受けることがつらいのです。そうではないでしょうか?友達の間でもそうかもしれないのです。ですから私たちは、自分の口にする言葉が相手に勇気を与えて喜びを与えているのか、感動を与えているのか、そうでなければ、自分の言葉によって相手も一緒に鬱になったり、暗くなったり、また悲しんだり、辛い思いをさせたりすることがあるのではないか、顧みますように。
ある人は、今腹が立ったとか、また悔しい思いをして一人で消化することができなくて、周りの人に言ってしまう場合があるのですが、そうするとそれを聞いている周りの人はどうでしょう?その立場を考えてみてください。ですから私たちはいつも口の言葉を、良い言葉、また相手が勇気をもらえるような、周りがパッと明るくなるような、幸せになるような言葉を口にしますように。皆さんそのような人になりますように。ヨブのように神様が見て、練るしかないそんな人ではないように。今、ヨブが感情的になって大げさな表現をしながら、いろいろ付け加えて、悪い神様のように誤解して言っているから試練が続くのです。私たちはそうしないで、全き信仰と真心を所有して、もうそういう練られることが必要でない人になりましょう。
愛する皆さん、ヨブは自分の思い込みと誤解によって、恐ろしい神様だと感じて大げさに表現していました。私たちも日常生活でも、仲の良い人については理解して受け入れて擁護するのですが、嫌いな人に対しては、否定的なことばかり言っている姿もあります。また人に言葉を伝えるとき、内容を付け加えたり削ったりして、全然違う内容になってしまう場合もあります。それで誤解を招くこともあります。自分の憶測で大げさに言ってしまう場合もあります。そうなんじゃないのかなと言ったのに、そうだと言っていたとか、意見の対立があったということが、大喧嘩したというふうに伝えられたりします。このように自分の思い込みによって、元の内容が歪曲されてしまうことがあります。では私たちが正確に伝えるためにはどうすべきでしょうか?何よりも心が真実でなければなりません。心が真実な人は、自分の思い込みとか決めつけで伝えるのではなく、事を正確に伝えるのです。だから信頼されます。心に人を裁く真理と反対のものが少ないほど、実際のことを正確に伝えることができます。しかし心が真実でなくて、事を正確に伝えることができなければ、誤解が生じて互いに辛い思いをすることがあります。
AとBという人がいるのですが、Cという人が自分の思い込みによって言葉を伝えてしまって、そのAとBとの仲がぎくしゃくしたり、仲違いしてしまうこともあるのです。それはCの過ちなのですね。そうすればだんだん罪の壁が大きくなってしまいます。自分の悪い意図からするつもりではなかったのにと思うかもしれませんが、もちろん本当に悪意を持ってそのようにする人はあまりいないと思います。でも心に悪があればそれが口の言葉に出てしまうのです。ゴミ箱にゴミがなければ、それを倒してもこぼしても何も出てこないのですね。でもゴミ箱にゴミが入っていると、ちょっと揺すったりすると出てくるのですね。いっぱい入っていると。私たちは日常生活で自分の口の言葉によって、周りの人が互いに何か誤解が生じたり、また周りの人が辛い思いをしたりすることはないのか顧みますように。私たちは自分の言葉とか行動に責任を持たなければなりません。また何かの事実について大げさに言ったりしないで、正確に伝えることに気を付けましょう。神様の御言葉によって自分を発見して、全ての偽りと真理と反対のものを捨てて正確なことを伝える皆さんになりますように。そのためには火のような祈りによって、心が真実にならなければなりません。第一ベテロ4:11に「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り」とあるように、私たちも神様の言葉にふさわしく語り、真実だけを伝える皆さんになりますよう主の御名によって祈ります
聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが神様を悪い方のように表現していて、いろんな大げさな表現をしている姿を見ました。それは、ヨブが神様を恐ろしく感じていて、神様に対して誤解していろんな自分の思い込みによるものでした。私たちも神様に対して人に対して、そんな姿はなかったのか自分を発見するようにしてください。自分の口の言葉が大げさな表現、悪い単語を使っていたのではないか、また周りの人との間で、誤解を生じさせたりすることがなかったのか、顧みますように。それが罪の壁になっていることを悟って、今は、悪はどんな悪でも避けて真実な心になり、神様に喜ばれるようにしてください。ヨブは自分の口の言葉がそうだったので試練が続いていました。私たちはそのような愚かな姿ではなくて、速やかに罪と悪を捨てて良い口の言葉になるようにしてください。旧正月の連休の時はそのような美しい綺麗な良い言葉を使って、キリストの香りを放つようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
