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ヨブ記講解71 - 霊の声(上)

9月16日
読了時間: 15分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記26:1-4


皆さん、前回はビルダデがヨブに皮肉を言って攻撃したら、ヨブがそれに反論してビルダデを問い詰めながらあざけっている姿がありました。ヨブは誰かに嫌味を言われたら我慢できず、誰かに一言言われたら二言言い返すような人だったのです。神様に潔白で正しいと認められていたヨブから、このようにひどい悪の姿が出てくるのは、その本性の中に悪があるからだと言いました。本性の中の悪は、平安な環境ではあまり明らかにされません。試練や苦しみにあった時、明るみに出されます。神様は愛する子どもたちが、聖められるように望んでおられるので、心に潜んでいる本性の中の悪まで発見して捨てるように練ってくださいます。ある場合は、平安な時に自分の心を割礼しなければ、自分の悪がまた現れるようになります。それでも変えられなければ試練に遭うようになります。その時になって自分の悪い姿を悟るのです。その前は発見できなかったし、自分の悪を認めてなかったのですが、試練に遭ったら低くなって自分を発見して変えられるようになります。​


人それぞれ神様はその人に合うように練ってくださるのです。分からなくて変えられない時は、悟るようにしてくださるのです。知っていても変えられなければ、また試練に合うようにして自分を発見するようにしてくださいます。私たちの性分も性格も地上の環境も神様はすべてご存知です。そして自分の罪と悪のため試練に遭うことがあるなら、私たちは私が変えられる良いチャンスだと思って、感謝しながら喜びを持ってその過程を経ていきましょう。箴言17:3に「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主」とあります。神様は私たちが変えられるように、このように練ってくださるのです。金属を火で精錬すれば、不純物が抜けて純度が高くなり強くなります。このように心が試されればそれによって、自分を発見して肉を捨てるようになり変えられます。必ず試練という過程があってこそ金のような心に変えられます。ですから神様は愛する子どもたちを練ってくださるのです。​


ところで、いつも喜んでいて全てのことに感謝して絶えず祈っている人は、どんな試練にあっても信仰によって乗り越えることができます。たとえ罪によって試練にあったとしても、その過程を通して自分の罪や欠けているところを悟って、罪と悪を捨てて正しく変えられることができるから感謝できます。罪を犯したことがないのに試練に会ったなら、祝福されるためだからさらに感謝できます。ですから信仰生活をしているうちに試練に会うなら、ただ感謝して様々な試練に会うときはこの上もない喜びと思ってください。信仰が試されると忍耐が生じるからです。その忍耐を完全に働かせれば、何ひとつ欠けたところのない成長を遂げた完全なものになります。このような試練を経験しながら私たちは、父なる神様の心を理解できるようになります。それが大切な経験となり、天国に行った時はまことの感謝と幸せを感じるようになります。私たちは天国の中でも一番美しい輝く新しいエルサレムを望んで走っています。ですからローマ8:18「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」とあるように、新しいエルサレムの栄光を望みながら、全ての試練に喜びと感謝を持って勝利しますように。​


いつも喜んでいて、たえず祈り、全てのことに感謝している人は、試練を試練だと感じません。そして乗り越えるのです。誰かが自分を苦しめる時、皆さんはあの人が私を苦しめているのだと思いますか?しかしいつも目を覚ましていて謙遜な人は、私がもしかしてその方との関係の中で、平和を追い求めていなかったからではないかと、失礼なことを言ったのかもしれないと言いながら、自分を顧みるのです。相手のせいにしないのです。またそれを試練とも思いません。皆さんが信仰生活で試練や苦しみという言葉をよく使っているならば、自分がどのくらい謙遜なのか低くなっているのかを顧みてください。試練かもしれないけれど、でもそれを試練とも思わないで、喜んで感謝しながらその過程を通して、自分を顧みて発展していくことができるから祝福なのです。このように目を覚ましている皆さんになりますように。​


今日の本文はヨブが友達のビルダデを嘲笑った後、これから自分の思い込みで友達の話を論破しようとしています。25章で友達のビルダデがヨブにあれこれ言ったのですが、でもヨブはそれを間違っていると、そのビルダデの言ったことを反対して否定しようとしています。そして26章で、ヨブは自分の考えから出た言葉を持って、その友達が言っていたことを論破しようとしています。あなたが私に言ったことは何の役にも立たないと言っているのです。そのように嘲笑って問い詰めていました。そして自分の考えが正しいことを主張するために、自分なりにいろんな詩的な科学的な表現を使っています。今日の本文を読みながら、これはどういう意味なのか考えてみましたか?前もって聖書を読んできたと思います。メッセージを聞きながら面白くなると思います。メッセージでいろいろ説明を聞けば、こういう霊的な意味があるのだと悟るようになるから、メッセージを聞いている時間が楽しいですね。今日のヨブが言っていることを聞いてみれば、自分なりに科学的なことを言ったり、また詩的な表現も使ったり、そして全然合わないことを言ったりしています。


ヨブ記26:5-6です。


死者の霊は、水とそこに住むものとの下にあって震える。よみも神の前では裸であり、滅びの淵もおおわれない。(ヨブ記26:5-6)


ここで死者の霊とは闇の中にいる霊を言っています。ヨブは今、人が死んだ後の世界、または悪霊の世界を思いながら言っています。昔から人々はお化けや幽霊について怖がるし、いろんな想像の中で物語を作ったりしました。特に人通りが少ない田舎では、一人で真夜中に山道を歩いたり、水たまりを通る時、悪霊が現れるのではないかと怖くて、髪の毛が逆立ったりするそうです。また人々は、悪霊が地の中にいるのではないか、墓の中にいるのではないか、水の中にいるのではないかと、いろいろ想像をしたりするのです。これと同じようにヨブも悪霊の存在について聞いたことはあるけれど、正確に教えてくれる霊的な知識は持っていなかったので、自分の想像によって、死者の霊は水とそこに住むものとの下にあって震えると言っています。ヨブはよみを水にたとえています。幽霊などが水の中に住むいろんな生き物の下にあると言っています。そして深いよみの中でも、神様の前では裸のように全部明らかになると言っています。これはあっていることです。私たちはいくらよみの深いところや海の下に入っても、神様は全てを探っておられるということを知っていなければなりません。


ヘブル4:13です。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」とあります。万軍の主、神様の前では、誰も何者も隠れることはできません。本文で滅びの淵も覆われないとあります。ここで滅びの淵とは特別な意味はありません。ヨブが自分の考えの中で作り出した単語です。例えば人々が何か苦しみにあった時、落とし穴に落ちたと言ったり、罠にかかったと言ったりします。このようにヨブは、人が深い水の中に溺れると死ぬしかないし、また死ねばそれで終わりであることを、滅びの淵という言葉で表現しています。そしてこのような死者の世界でも神様の前ではさらけ出されていると言っています。


それではヨブはなぜこのような表現を使っているのでしょうか?神様の前ではよみも全部裸であるのに、なぜ神様は悪い者たちをなすがままにさせておくのかと問い詰めるためです。そして友達のビルダデがヨブ記25:2で「主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。」と言いながら、神様は正しい方だと説明していた言葉を否定するためです。ヨブ記24章でヨブは悪者の悪さを言いながら、神様が悪者たちを裁かない方だと、悪者たちを守っていると言いながら悪い神様だと言っています。


25章でビルダではそうではない。神様は善で正しい方だから、悪いものでも裁かないで許して平和を作っているのだと言いました。しかしヨブはそれを否定するために、自分が24章で主張していたように、神様は全てを知っていながらも悪者たちを放っておくから、神様は正しくないと言いたいのです。悪者たちが隠れてした悪を知っていながら、なぜ裁かないのかと問い詰めるために、今このように表現しているのです。皮肉を言っているのです。ヨブは自分が神様なら悪者たちはすぐ断ち滅ぼしてしまうだろうに、神様は悪者を守って助けているから公平でない、神様はよみの下までも全部見ておられるくらい全てを知っていながらも、悪者たちのやっていることを放っておかれるという意味で言っています。皆さん、ここで私たちが正確に知っておくべきことは、肉の思いと神様の思いは全然異なるということです。今ヨブは肉の思いを巡らして神様をさばいているからです。神様は悪者をただ放っておくそればかりか守っているというふうに言っています。神様に対する大きい誤解でまた肉の思いによる憶測、決めつけなのです。


神様はもちろん正確な基準を持って公義によって善と悪を裁く方ですが、神様の深い愛と憐れみがあるので彼らが立ち返るために機会をくださっているのです。ローマ8:6-7です。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。皆さんももしかしてヨブのように神様について誤解することが決してあってはいけません。このようなヨブの姿を見ていると私たちはもどかしいでしょう。でも自分自身もそういう姿があるかもしれません。例えば自分が祈ったのに神様が答えてくださらないと思うとどうなるでしょうか?病気とか問題があって、その原因を探しながら自分なりに顧みて祈っているのに、なぜ神様は癒してくださらないのか、なぜ神様は答えてくださらないのかと、神様につぶやいているのです。自分なりに頑張っているのになぜ早く答えが来ないのかと思うのです。


それはヨブと同じような姿ではありませんか?皆さんが本当に悔い改めて光の中を歩んでいるなら、神様は当然問題を解決してくださるでしょう。でもまだそういう備えができていないのです。そういう時ではないのです。それを悟らなければならないのに、自分はよくやっているのに自分なりに頑張っているのにと思いながら、神様はなぜと思ってつぶやいている姿があるかもしれません。そうしてはいけません。神様の御言葉、真理を自分に照らしてみてください。本当に愛して許していますか?本当に真理に照らして行っていますか?ある人はちょっと辛い目にあったら、すぐ自分がしたことを後悔することはありませんか?自分なりに善を行っているつもりだったのに、そうしたら損したと思いますか?人にあれこれ言われたからといって、人に認められていないからといって、自分が働いたことについて後悔しますか?虚しいと思いますか?


どれほど真理にあっていない姿でしょうか。でも自分は自分の姿を悟れないのです。だから問題です。肉の思いというものがいろんな形として出てくるのです。感謝できないし不平を言ったり不満を抱いたりするのです。本当に客観的に霊的な原因を探そうとしないで、自分はこんなに頑張っているのにと思うのです。ヨブの姿を見ながら、なんでと思いながらもどかしく思うのではなくて、自分の実生活で、もしかしてそういう姿があるのではないか、顧みますように。例えば12月には宣教会で総会がありました。その時役員として選ばれなかった人がいるかもしれません。それならどう思いましたか?あの人より私は勝っていると思うけれど、あの人はこういう本当に良くないところもあるし、あれこれ欠点もあるのに、なんであの人が選ばれたんだろうと思うなら、どれほど高くなっている姿でしょうか?自分が選ばれなかったならそれだけの理由があるでしょう。自分では分からない欠けている姿があるかもしれません。だから低くなって、選ばれた人から学ぼうとしなければならないでしょう。自分の姿は発見できないまま、なぜ人の良くない姿とか人の欠けているところを見ようとするのでしょうか?それは高ぶっているのです。そのようないろんな肉の思いがあります。そのため色々試練に会ったり、聖霊の声を聞けなかったりするのです。


今ヨブが神様の前で色々呟いている姿が自分にもあるかもしれないのです。私たちは真理で照らしてみれば、今ヨブが言っていることがどれほど肉の思いから出てくる告白なのかわかります。ヨブは神様を誤解していてさばいています。このような肉の思いがあれば神様と交わることもできないし、神様の御心に従えないし、神様に喜ばれないのです。サウル王はなぜ神様に退けられたでしょうか。肉の思いを巡らして不従順の罪を犯したからです。サウル王はペリシテ人との戦いの時焦って、自分が生贄を捧げて祭祀の権限を犯して、神様の御怒りを買いました。アマレクとの戦いでは、全てを聖絶しなさいと言われた神様の命令に逆らって、肥えた家畜を連れてきたり、アマレクの王を生け捕りにしてきました。このように肉の思いによって聞き従わなかったから、結局神様に退けられてしまいました。皆さんはどんな肉の思いを巡らしているでしょうか?


その肉の思いは神様からの答えと祝福を妨げるものになります。ですからそのような肉の思いをすみやかに打ち砕かなければなりません。サウルの立場では、自分なりに神様の前で肥えた家畜を神様に生贄を捧げるために連れてきたかもしれません。しかし自分はよくやったと思っても、神様の命令には逆らっていたのです。私たちにもこういう姿があるかもしれません。日常生活で些細なことで妥協している姿があるかもしれません。みんなこのようにこのくらいはやっているからと思ったり、あの人もこうしているからこのくらい私もやってもいいのではと思ったりするかもしれません。でも基準を人ではなくて神様の御言葉にしなければなりません。ヨナも肉の思いを巡らしましたね。神様がアッシリアの首都ニネベに行って、滅びを宣言しなさいと命じられましたが、ヨナはニネベとは反対の方向のタルシシュに行く船に乗りました。アッシリアはイスラエルを苦しめてきた敵国だから、彼らが悔い改めて許していただくことが嫌だったのです。


自分の義があって、神様の民を思って自分なりにそのようにしたのですが、神様がご覧になる時は明白な不従順でした。皆さんにもこのような肉の思いを巡らす姿があるのではないか顧みてください。神様の命令に従わないで人の基準に合わせたり、人の話を聞いたり、自分が正しいと思う道に行ってしまうのです。ニネベが滅びてしまえばと思ったのです。なぜならニネベは自分の国を苦しめる敵国の首都だからです。自分は自分の民と国を愛するからとそのように思いました。だから神様の命令に従っていない、自分が悪いということは悟れなかったのです。自分が正しいと思っていました。皆さんも肉の思いを巡らして神様の御心に逆らっている姿があるかもしれません。ヨナは自分なりに信仰があって神様と交わっていたのですが、肉の思いがあったので、神様の善と義も信じることはできなかったし、神様の愛についても理解できなかったのです。


それで神様は、ヨナが乗った船が暴風雨に遭うようにされました。くじを引いてその原因がヨナだと分かって、ヨナは海に投げ込まれました。ヨナは大きい魚の腹の中に入って3日間断食しながら、徹底的に悔い改めた後、陸地に吐き出されました。その時やっとヨナは聞き従って、ニネベの町へ行って裁きを宣言しました。それを聞いたニネベの住民が悔い改めたので神様は許してくださいました。しかし、まだ肉の思いを打ち砕いていなかったヨナは、これについて非常に怒りました。神様はこのようなヨナを悟らせるために、奇跡を体験させてくださいました。とうごまが一夜で生えてから一瞬で虫に噛まれて枯れてしまうのです。すごく暑かったのですね。暑い日差しで苦しんでいたのですが、トウゴマが生えてそれが陰になって喜んでいたのですが、でも虫に噛まれて枯れてしまいました。それでヨナはその陰によって涼しくなった時は喜んでいたのですが。それがなくなってしまった時はまた神様に怒りました。


とうごまと比べられない、多くの命を憐れんでくださる神様の心を悟らせようとしたのですが、ヨナは理解できなかったのです。このように人の肉の思いと神様の思いとは全然異なるのです。ヨナは神様が機会をくださいました。死ぬしかなかったのですが、でも海の中で、大きい魚の腹の中に飲み込まれるようにしてくださり、3日間断食して悔い改めるようにされました。それで立ち返って神様の命令に従い、ニネベに行ったのですが、ヨナの心そのものは変えられていなかったので、結局、神様の心が理解できなかったのです。心の中では相変わらず、ニネベが滅びてほしいと思っていました。でも神様が滅ぼさないで許してくださったからヨナはそれが気に入らなかったのです。それで神様の前に不満をぶちまけました。皆さんはどうでしょう?教会の働きをしたり宣教会で一緒に何か働きをしても、上辺では協力しているように見えても、心の中が変えられていなければいけません。本当に心が真理に合っていなければなりません。それでこそ神様に褒められます。上辺だけ働いてはいけないのです。


皆さんはどうでしょう?自分なりに忠実に使命を果たしたのになぜ実がないのかと思ったり、なぜ心の願いが叶えられていないのかと思うならば、上辺だけの忠実ではないのか顧みられますように。本当に心の中で信仰によって感謝しながら、喜びながら、使命を果たしたのか顧みられますように。続く本文を読むと、ヨブは、神様は公平ではないし自分勝手になさる方だということを表現するために、神様の力とそれについて説明しています。しかしこれは、ヨブが聞いた知識と自分なりの思い込みで考えたことを、混ぜ合わせて言っていることです。つまりヨブの言っていることの中には合っている内容もありますが、全然合わないこともあるのです。ヨブ記26:7を読んでみれば、ヨブは科学的なことを説明しています。それでヨブはそのように自然の理について深く悟っているところもありました。そしてその天地万物を作られた神様の力について説明をしているのですが、ヨブがどんな意図でそのように言っているのかを念頭に置いて聞かれますように。

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