ヨブ記講解69 - 善をもって悪に打ち勝たなければ(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記24:23-25
続く23節でヨブは神様を悪い方だと言っています。
神が彼に安全を与える。それで、彼は休むことができる。神の目は彼らの道の上に注がれる。(ヨブ記24:23)
神様は悪者たちに安全を与えるから、彼らが守られて平安に生きていると言っているのです。自分はこんなに苦しみを受けているのに、悪い友達は神様が守ってくださっているので、うまくいっているように思うと、ひねくれた心の中でこんなふうに言っているのです。皆さん、人の心が悪くなると、嫌いな相手の良いところは見えないし、思い出さないのです。良いところも悪く見えるし、良い言葉も悪く聞こえるのです。過去にあった良いことも忘れてしまうのです。正しい判断力を失ってしまいます。相手は良い意図で言っているのに、自分の心が悪ければ皮肉を言っているように聞こえます。それで誤解したり揉めたりするのです。このように悪いことを考えると、自分にも害になるだけではなく、周りの人にも害を与えることもあるのです。
例えば自分が誤解するため、無実な人を裁いて罪に定めて、その噂を広めたなら、神様の前に大きい罪の壁を作るだけではなく、相手を苦しめることになります。しかし反対に私たちが善をもって見る習慣を身につければ、相手の良いところだけ見えてきて、愛を持って見るようになります。自分を苦しめて嫌なことを言う人でも、どうしてその人の良いところを見てよく考えることができるでしょうか?自分の心の中の憎しみ、妬み、そねみなどを捨てて、主の愛で満たせばそのような人も憎くないし、良いところを見つけるようになります。結局、自分の心の悪のため、その人のことを誤解したり、その人を見るとき悪い目で見るようになるのです。だから相手のせいにするのではなくて、まずは自分の心にある悪を捨てようとしなければなりません。それで、心の悪を捨てて主の愛で満たすならば、相手がどんなことをしても良い方に受け止めるようになります。すると自分の心は平安になるのです。
そして正確に聖霊が教えてくださるから、正確に善か悪かをわきまえることもできます。そして、相手が自分に悪を行っていても気づかない時もありますね。それでただ良くしてあげることもあると思います。自分の心に善、愛があるのか憎しみ、妬みがあるのかによって、全然見る観点が違うのです。全てのことにおいて、善を持って肯定的に考えてみると自分も平安だし、相手にも苦しみを与えることはありません。ここでヨブが神の目は彼らの道の上に注がれると言っています。これはどういう意味ですか?例えば、二人が互いに言い争っていた時、話が終わらないのです。仕方なく一方の人が悔しいと思いながら、一言で話を終えようとします。あなたがあんな風に言っても、神様は全部見ておられるから、というのです。ここでヨブは、神様が悪い者たちの見方をして平安を与えるように見えても、彼らの隠されている悪は全部明らかにされるだろうと言っているのです。
悪い人は、いくらあれこれ人がアドバイスしてあげても、自分の悪について悟れない時がよくあります。神様は言い争ってはいけない、善をもって悪に打ち勝ちなさいと言われます。相手の過ちや弱点を指摘したりするより、理解して、ゆずって善に従う時、神様が働いてくださるのです。自分を罵る人でも手向かうのではなく善を行うと、相手がその善を見て自分の悪に気づいて悔い改めるようになるでしょう。だから私たちは善をまず行わなければなりません。もちろん計算的にこうすれば相手がこうなるだろうとするのではなくて、ただ自然に心から善が滲み出て行う、そういう次元を言っているのです。私たちはただ神の子供らしく、神様の属性である善を行うことは当然でしょう。親なら子供を愛して子供を正しく育てること、また子供なら親を敬って仕えることが人の道理であり、それが善で正しいことでしょう。自然にそんな行いが出てこなければならないのです。
こういう御言葉を聞いて、知識で知っているからこうしなければと無理にするのではなくて、このように私たちが光の中を歩んでいれば闇が退きます。イエス様の生き方がそうでした。第一ぺテロ2:22-23です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」とあります。イエス様がこのように模範になって行いを示して下さったから、一言一言が人の心から闇が退くようになる強い光として働いたのです。これが善をもって悪に打ち勝つ生き方なのです。続く本文を読むと、ヨブは続いて自分が神様のようになったかのようにさばいています。裁く方はただお一人神様なのに、人が人をさばくなら、どれほど高ぶっているでしょうか?そうしてはいけないのです。でもヨブは今自分が神様のようになってさばいています。
ヨブ記24:24です。
彼らはしばらくの間、高められるが、消えうせる。彼らは低くされ、ほかのすべての者と同じように刈り集められる。麦の穂先のように枯れてしまう。(ヨブ記24:24)
ここで高められるとは、地位とか富・権力よりは悪い人々の勢いを言っています。悪い人々が偉そうに威張っている姿を言っているのです。でもそれはしばらくの間だと言っているのです。結局は消え失せるということです。それで低くされて、刈り集められてしまうということです。ここで、麦の穂先のように枯れてしまうということは、どういう意味でしょうか?麦の穂先は、実がしっかり結ばれていても人によって刈り取られるし、藁しか残らない虚しい存在です。このようにいくら威張っている人でも、時が来ると、わらのようにみすぼらしくなってしまうと言っているのです。悪者たちの結果はそうなると言っているのです。神様が裁かないから自分がそんな風に今呪っているのです。
ヨブは今とんでもない呪いの言葉を口にしていることも悟っていません。悪い人々の結果は、このようにみすぼらしく虚しくなることは当然だと考えているからです。先ほど言ったように、皆さんもこういう考え方を持っていたのではありませんか?自分の口から呪いの言葉が出てきて相手をさばいているのに、それを悟っていない姿はありませんか?そして自分は当然のことを考えていると思う人はいませんか?それが神様の前に善だと言えるでしょうか?義だと言えるでしょうか?神様に委ねなければならないのに、自分が裁く者になって高ぶっている姿はないでしょうか?例えをあげると、人の間で感情的になって互いの欠点をあばいたり、自分を主張しているばかりなら終わりがないでしょう。いろいろ相手を非難して相手に向かって、あなたの結果は滅びるとか、あなたは必ず天罰を受けるとか呪う人もいます。こういう言葉を口にはしなくても、心の中で相手が滅びてほしいと願う人もいるでしょう。これは本文のヨブと変わらない人なのです。
ヨブは旧約時代の目には目、歯には歯という復讐の原理によって考えています。旧約時代にこういう律法をくださったのは、厳しい規制を通して、他の人にむやみに害を与えたり殺すことがないように防ぐためにでした。神様は、自分がやられたこと以上に仕返しをしようとする、人の悪を知っておられるからです。例えば自分が一発殴られたなら、相手を一発以上殴りたくなりますね。人はそうです。また自分が何かやられたなら、2倍3倍に仕返ししようとするのです。だから神様はそうしないように、目には目、歯には歯という律法をくださったのです。むやみに害を与えたり、それ以上何倍も復讐することがないようにしてくださいました。それでも神様が本当に望んでおられることは、赦しと憐れみなのです。目には目、歯には歯という律法は、自分が個人的にこんなふうやられたから復讐してもいいという意味ではありません。悪い人の罪を罰する時もこういうちゃんとした基準があって、それによってするようにと言われたのです。そうでなければ悪い人が弱い人をどれほど苦しめるでしょうか?だからそんなことがないようにするのです。これは復讐してもいいという意味ではないのです。
本当に神様が望んでおられることは赦すことと憐れむことなのです。神様の心にかなっていたダビデはどうしましたか?自分を殺そうとするサウル王にも、決して悪をもって悪に報いるのではなく、最後までよくしてあげました。皆さん少しでも肉の思いを巡らすならどうでしょう?神様がダビデに油を注いで王として立ててくださいました。これが神様の御心だと知っています。それなのにサウル王は悪を行います。ダビデを殺そうとして、また民に対しても政治的にも、神様の御心に逆らうことをしています。肉の思いを巡らす人ならどうするでしょうか?神様の御心はダビデが王になることだからと思って、サウル王を殺せる機会が与えられたなら、これは神様の働きだと思って喜ぶではありませんか。そして自分がダビデの立場なら、私が王になることが神様の御心だからと思ってしまうかもしれません。自分を殺そうとしたサウル王だから、自分が仕返しすることは当然だと思うかもしれません。しかしダビデにはそんな悪がなかったのですね。だから最後まで善を行いました。
皆さんこういうダビデの善と自分の心を比べてみてください。自分が相手に何か悪いことをされたならば、それにし返してやりたいという気持ちはなかったでしょうか?そして相手がうまくいくのが面白くなかった時はありませんか?イエス様はこの地上に来られて愛で全ての律法を全うされました。そして「敵をも愛しなさい。」と言われました。皆さん、もしかして、相手が自分を苦しめたり、また辛い思いをさせた時、その人に対して心の中で、あの人はいずれは滅びるだろうとか思ったことはありませんか?私たちは罪人であった自分のために、十字架の苦しみを受けられた主の愛を忘れてはいけません。敵をも愛さなければならないし、悪に悪を持って報いるのではなく、善を持って悪に打ち勝たなければなりません。そうなると神様が大きい恵みと愛をくださいます。詩篇37:4に「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。神様は、神様に喜ばれるなら私たちの心の願いも叶えてくださるのです。
続くヨブ記24:25です。
今そうでないからといって、だれが私をまやかし者だと言えよう。だれが私のことばをたわごとにしようとするのか。(ヨブ記24:25)
ヨブは自分で結論を出していて、まるではんこを押すように自分の言葉の妥当性を強く言い張っています。ここで、今そうでないからといってと言っていますが、これはそうでないかもしれないという意味ではなくて、自分の言っていることは確かだと、正しいと、確信を持って言っているのです。自分の言っていることは正しいけれど、もしそうでなくても、誰も私に何とも言えないというふうに言っているのです。人々がじっと考えてみれば、結局私の言っていることが合っているとわかるだろう。自分が言っていることは当然のことだと言っているのです。私たちはこのようなメッセージを聞きながら、霊的に正確に見分けなければなりません。皆さん今ヨブが言っていることがあっていますか?ヨブは今、自分が裁判長になって、神様まで裁いているから全然正しくないでしょう。
ヤコブ4:11-12に「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」とあります。皆さんここでさばくという単語を誤解してはいけません。私はさばいていませんと思う人がいます。例えばある人が明白に悪いことをしている。それを見てあの人は悪いことをしたと自分が考える。それは事実を言っているだけだと思うかもしれませんが、でもそうではなくて、それがさばくことです。その人がどんな心なのか、どんな意図でそうしたのか分からないでしょう。結果だけを見て言っているのではありませんか?だから自分がさばいていることです。決めつけていて自分の思い込みによって、あの人はああだ、こうだと言ってしまうのです。
でも神様は全てをご存知です。その人の心もまたその人の事情も、なぜそんなふうにしたのかも知っておられるのですね。だからそれが本当に悪いことかそうでないかは、神様だけがご存知です。正確な裁きをする方は神様だけなのです。でも人が自分の目で見たことだけで、その人が悪いことをしたと、このように考えて人にも伝えるならば、それは本当に悪いことで裁くことなのです。これを悟らなければなりません。口から出さなかったとしても、考えたこともそれは正しくないのです。
主のしもべとか働き人はこういうところを注意しなければなりません。聖徒の皆さんが、もしかして病気にかかったりいろいろ問題にあったりしているならば、まずは神様の前でふさわしくないところがあるのかを発見するように、その人と話をしたりまた訪問して悟らせることは必要ですね。そのためには主のしもべがまず祈って、聖霊の声を聞いて聖霊に働きかけられて、その人のことを正確に知っていなければなりません。さばいてはいけないのです。聖霊の声を正確に聞いて聖霊が教えてくださることに従って助言もして、その人が悟るように教える必要があるのです。その人にとって何が良いいのか、正確に知らなければなりません。
例えば、ある人が自分を苦しめたという事実があるとしましょう。そういう時、自分が被害を受けて、あの人によって私はこんなに辛い思いをした、だからあの人は悪いと思ってしまう。これは人を裁くことです。なぜなら自分がその人の気を悪くすることがあったり、その人が誤解するように、自分がもしかして失礼なことを言ったかもしれないのではありませんか?自分が原因を提供しておいて、その人を悪い人のようにきめつけてしまうこともあるかもしれないのです。だから私たちはそういうところはないのか、自分を顧みなければなりません。皆さん、このようなメッセージを聞きながら、自分にはヨブのような姿はないのか顧みて、少しでもあるなら火のように祈って早く捨ててしまいましょう。2023年も後1ヶ月ですが、皆さん今年1年間、もしかして神様の前に罪の壁がそのまま残っているならどれほど申し訳ないでしょうか。これを捨てて解決して、その後新しい年を迎えればどれほどいいでしょうか。
明白な罪を犯した人がいても、その人について自分があの人は悪い人だ、ひどい人だとか考えるだけではなく、それを他の人に伝えたり、あれこれ言ったりしてはいけないのです。それは高ぶりで自分が人を裁くことだから大きい悪で、自分に何の利益もないのです。だからこのメッセージを聞いて祈りながら、聖霊様に思い起こさせてくださいと祈れば、聖霊様が些細なことでも忘れていたことでも、思い出すようにしてくださるでしょう。それで今年が終わる前にそれを解決しましょう。
結論です。
愛する聖徒の皆さん、愛の神様は一人でも地獄に行かないように望んでおられます。一日を千年のように、千年を一日のように耐え忍び、私たちが悔い改めて立ち返るように待ってくださいます。ところで、もしヨブのような人が神様になってしまうならどうなるでしょうか?ヨブのような人が神様になるならば、悪い人は容赦なくこらしめて滅ぼしてしまうでしょう。それなら人が生きていられるでしょうか?神様はローマ3:10に「義人はいない。一人もいない。」と言われました。最初の人アダムが罪を犯した後、全ての人は原罪を持って生まれるし、また自分で犯す罪があるのです。みんなが罪人だからです。ひょっとして、法律がなくても生きられるような人だと言われるほど善良に生きている人がいても、神様の御言葉に照らしてみれば、心の中に潜んでいる悪が明らかになります。神様の前では憤り、争い、盗み、不品行など表に現れる罪だけではなく、心の中の憎しみ、妬み、高ぶり、姦淫なども皆、罪だかからです。愛の神様はこのような罪を贖うために、一人子イエス様をこの地上に使わせて十字架で死ぬようにされて、私たちの罪の代価を払ってくださいました。そしてイエス様は罪が全くない方なので、死の力を打ち破って三日目によみがえられました。これを信じる人は十字架の尊い血の恵みによって、罪を許されて救われるようになるのです。
ですからこのような恵みと愛をいただいた人として、私たちはいつも感謝を忘れてはいけないし、敵でも愛さなければなりません。そしてどんな状況でも悪に負けてはいけないし、善を持って打ち勝ちますように。良い倉から良いものを取り出すとある御言葉のように、私たちが善を持って悪に打ち勝つと、それだけ善が積まれそれだけ霊的な力が強くなります。すると次には悪に打ち勝つことがやりやすくなります。皆さんは悪い人に対して善を行いたいでしょう。感動的なことを言って、相手の心を動かしたくなりますね。平安な時は私もそうできるだろうと考えるかもしれません。また聖書に記されている善を行った人の話を聞けば私もそれを見習いたい、そうなりたいと思います。でもいざとなると、自分が被害を受けたり、悔しいめにあったりすると、そんな方に善が行えないのです。なぜなら自分の心の中にある倉に良いものが積まれていないからです。良い倉から良いものを取り出すのですが、取り出すものが、善が少ないのです。だから私たちの心に善を満たして積んでいかなければなりません。
悪を行わない、そういう段階で終わるのではなくて、善と愛をさらに積んでいかなければなりません。それを蓄えておいてこそ、後でそれを取り出して使うことができるのです。罪を捨てて悪を捨てていくことで終わってはいけません。プラス善と愛を積んでいかなければなりません。そうしてこそ本当に自分が普段から善を積んでおいてこそ、何か自分がそういう環境に置かれた時、自然に善が出てくるようになります。そうでなければ知っている御言葉によって悪は言ってはいけないと我慢することはできても、相手を感動させるような善を行うことまではできないこともあります。だからそのために普段から祈りながら練習して訓練して、善を蓄えておく必要があるのです。それで自然にどんな状況に置かれても善が滲み出て、愛の行いが出てくるようにしなければなりません。
イエス様のように聖書の信仰の人々のように、そんなふうに私もこういう時に善を行えることができるのだろうかと思いながら、前もって練習しておきますね。そして聖霊様に頼っていけば、聖霊様がその時になると教えてくださるし、助けてくださるのです。でもそれも練習と経験によってだんだんできるようになります。1回2回失敗するかもしれないですが、努力していけばだんだん増えていくのです。それで完全になると自然に善が滲み出るようになるのです。そのためには祈りとともに、練習と善を行う、積む、蓄える、そのような行いの努力が必要なのです。そういう訓練も必要なのです。そうしていけばこのように善を行うことが難しくないのです。このように善を持って悪に打ち勝って、また打ち勝って、神様に認められる完全な善を行いますように。
聞いたメッセージを思いながら祈りましょう。父なる神様、今日ヨブの姿を見ました。ヨブは自分が神様のようになって人をさばいていました。悪者たちはこうなるべきだと言いながら呪っていました。そして神様が裁いてくださらないと恨んでいました。そして自分が神なら悪人どもにこんなふうにするだろうにと言っていました。私たちにもこういう悪がないのか、顧みるように発見するようにしてください。私たちには人をさばく権限がありません。神様にだけあるのに高ぶってしまい、人を裁いて人を呪ったりすることを考えたりしたことがあるなら、赦してください。ただ善と愛を行っていくようにしてください。過去こういう悪い心があったならば悔い改めるように恵みを与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
