ヨブ記講解64 - どうすれば神様を見つけられるか(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記23:1~3
前回は、私たちが全ての不義を捨てて罪から立ち返る時、神様に喜ばれる時、どんな祝福が臨むのか伝えました。罪を悔い改めて立ち返るなら神様は許してくださるだけではなく、慰めて回復してくださいます。ただここでは死に至らない罪を犯した時という前提条件がありました。悔い改めれば救われ許される罪もありますが、悔い改めようとしても悔い改めの霊が与えられない重い罪があります。決して死に至る罪を犯してはいけないのです。
今日から始まるヨブ記23章では、もう一度ヨブが口を開いて答えます。これまで神様は、ヨブのように潔白で正しい人であっても、その本性の中にある悪がこのように出てくる姿を見せてくださいました。だからといって誤解してはいけません。霊的に完全に心を割礼して聖められた子供が、試練にあったからといって、悪がまた出てしまうという意味ではありません。ヨブのような場合は、本性の中にある悪を捨てるための試練にあっているのです。聖められた段階にまで行く過程なのです。行いとしては神様の前で潔白で正しい姿でした。神様に褒められる姿があったのですが、心の中の深いところにある悪があったので、それによって練られるようになります。
それで試練にあって、それが表に現れるようになります。心にある悪を全部捨てたのに、試練にあったからといって、またそれが出てくるという意味ではありません。霊の信仰を持っている人、聖められている人ならば、どんな試練にあっても悪が表れることはありません。それは御霊の人の姿ではないでしょう。上辺では平安な時は、その人が肉の人か御霊の人かよくわからない時もあります。しかし試練にあってみれば、自分の心がどのくらい聖められているのか、自分の信仰が霊の信仰なのか、肉の信仰なのかが明らかになるのです。そのために神様が練ってくださるのです。
それで皆さんは、ヨブは神様の前に潔白な人だったのにどうしてと思ってはいけません。ヨブの友達の言葉と行動を通して、人の心がどれほど醜くて悪賢いのか分かるようになりました。このようにヨブと友達の姿から、自分自身の姿を発見して変えられて聖められてほしいという、神様の願いがあるからです。平安な時、良い環境に置かれている時は、みんな人に優しいでしょう。誰かが嫌味を言っても笑顔で対処することができると思います。かっとなる時も我慢することができます。信仰生活をしていて恵みに満たされているからです。しかし試練にあっている時、心が練られる時の自分の姿が、自分の本当の姿であるということを悟らなければなりません。潜んでいる罪、悪の根の根まで発見して、捨てなければならないのです。
皆さんも教会が平安な時、幸せな時、神様の驚くべき力ある業を見ていた時は、自分の中にある悪を治めていたでしょう。そしてある程度捨てたと思っていたでしょう。しかし試練にあって苦しみにあったら、捨てたと思っていたものがまた出てくることがありますね。それは自分が捨てたというよりは、まだ残っていたものが出てくるのです。その罪の性質の根が残っていたのです。それがまだ伸びてくるのですね。だから私たちは根こそぎに抜かなければなければなりません。ある人は信仰の量りが御霊の人だと認められていたのにと思うかもしれませんが、その時は牧者が私たちのために99%の公義を満たしてくださったからです。自分だけでの信仰ではなかったのです。
だから自分の今の現住所を正確に見つめ直さなければならないのです。自分がどれほど神様の前で欠けている姿が多いのかを、見るようにしてくださるのです。数年前は自分がある程度変えられた、聖められたと思っていたし、どんな人も受け入れると思ったし、心の割礼をしていると思ったのですが、教会の試練の時、いろんなことにあって、落ち込んだり熱心が冷めたり、人に対してあれこれわだかまりを持っていたし、イライラしたし噂話をしたし、こういう姿はないのか、顧みる時間だったと思います。そして本当に、神様が望んでおられる聖い姿にこれから変えられていけばいいと思います。
このメッセージを聞くとき、これは誰々が聞いて悟るべきだと思うのではなくて、自分のこととして受け止めて変えられますように。今日からヨブが言い訳をする内容があります。ヨブは神様の前にうめき、嘆き、自分は悔しいと訴えています。このヨブの姿を通して、私たちの日常生活での姿を代入してみてください。自分の心の中で高ぶりもあって、そして分かってもらえないから認められないから、落ち込んでしまう姿もあって、移り変わる姿もあって、人を憎む姿もあるということを、謙遜に認めなければなりません。ヨブのように言い訳をしていれば、変えられるのが遅いでしょう。本文を読むとヨブの嘆きはますますひどくなっていることが分かります。
ヨブ記23:1-2です。
ヨブは答えて言った。きょうももまた、私はそむく心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い。(ヨブ記23:1-2)
ヨブがどれほど苦しい思いをしているのかわかりますね。試練にあって、自分はこんなに苦しい、こんなに辛いと言いながら訴えているだけで、本当に自分を顧みて自分を発見しようとはしていないのです。環境のせいにしていて、人のせいにしているのです。これも私たちの姿でしょう。ヨブの子供たちがみんな死んで財産を失った時も、ヨブは忍耐して感謝しながら、神様に対して呟かなかったのです。しかし自分の体に悪性の腫物ができて、耐えられない苦しみによって、神様に対して恨み嘆き始めます。その時から神様に訴え続けてきたのですが、だんだん苦しくなったら背く心で呻いていると表現しているのです。ヨブが神様に背く心で呻いている理由は何でしょう?自分の手は自分の嘆きのために重いと言っています。友達に自分はわけもなく嘆いているのではないと言っているのです。今、自分が受けている苦しみがあまりにもひどいから、神様に背く心で呻くしかないと言っているのです。
皆さんは日常生活で、自分が被害を受ける時があるかもしれません。人との関係で、または会社で仕事の関係で、自分が損をしたり害を受ける時もあります。しかし心の良い人は、それについてあれこれ文句を言わない人がいます。理解して、そして自分が受け止める人がいますが、ある人は自分が損したことや害を受けたことについて、不満を抱いてそれを訴えて相手の悪さを暴露したりする人もいます。また自分が受けた害の分だけ復讐したいという心もあります。でも私たちは、善と真理を学びました。だから人が自分を苦しめる時も、私たちは同じように悪を行うのではなくて、善を行わなければならないことを知っています。誰かに叩かれたら叩き返すべきでしょうか?復讐すべきでしょうか?それが善でしょうか?そうではないのですね。そのようにしたいと思っていることは、心に悪があるからでしょう。
ヨブの場合は、神様の愛を深く分からなかったし、また誤解していたし、自分の苦しみがあまりにもひどいから、神様を恨んでいるその心境を表現しているのです。自分の苦しみがあまりにもひどいからといって、自分が背く心で呻いていることは当然だという風に言っているのです。そして自分がどんなに苦しいか嘆いているのです。このように、人に自分の今の苦しいことをわかってもらいたいと訴えている姿を見ると、その心の悪がわかりますね。神様に委ねて神様をより頼んで、神様が解決してくださるように祈ればいいのでありませんか?そして自分はただ善を行っていることが、神様の子供らしい生き方でしょう。しかしヨブはそうできませんでした。そして自分はあまりにも悔しいと辛いと、このように人の前で、その恨み嘆きをぶちまけて吐き出しているのです。ヨブは耐えられない苦しみを受けているから、それを訴えているのです。人々はあまりにもひどい耐えられない苦しみを受けた時は、いっそ死んだ方がマシだと表現するようなものです。
皆さん、それでは皆さんがヨブと同じ境遇に置かれているならどうするでしょうか?皆さんの子供と財産を全部失っただけではなく、全身にひどい皮膚病によって耐えられない痛みを受けています。それに配偶者も親戚も皆さんから離れてしまって、目下の人にも無視されています。また信じていた友達は慰めるどころか、悪いと言いながら責め立てて嘲笑っています。このような惨めな目にあったならどうでしょう?ヨブのように神様につぶやいて、呻き嘆きながら教会を離れるでしょうか?そうでなければ、神様を信じるから感謝しながら祈るでしょうか?本当に神様を恨むこともなく、神様を離れることもないと自信を持って言えるなら、信仰のある人でしょう。しかし、人は、本性の中にある悪賢さや移り変わる属性を完全に捨てて聖められる前は、自分の心は自分もわからないのです。
神様が潔白で正しいと褒めておられたヨブも、耐えられない試練と患難の前では色んな悪が現れました。完全に聖められる前は誰も明日どうなるかわからないのです。皆さんはヨブのような境遇に置かれているならどうでしょう?自分は神様を離れはしないだろうと思うでしょうか。それでヨブよりはマシだと思うでしょうか。ヨブは旧約時代の人です。聖霊が臨んでおられない時でした。でも私たちは新約時代だし聖霊を受けていて、このような聖めの福音も聞いています。霊の知識もたくさん知っています。だから環境が違うのではありませんか?私たちは以前、牧者が満たしてくださった公義のおかげによって、その恵みのうちに幸せな信仰生活をしていました。そして神様が信仰の量りも測ってくださった時がありました。でもそれが本当に自分のものだったのか?今になって一つ一つチェックする時だと思います。
ヨブとはその置かれている環境が違うのです。だから自分はヨブよりマシだと思ってはいけないでしょう。自分自身をさらに正確に見つめていなければなりません。教会の試練の時、万民を離れてはいなくても、皆さんの信仰生活を顧みてください。前より熱心なのか熱いのか、積極的なのか、そうでなければ怠けているのか、落ち込んでいるのか、いろいろ噂話をしたのではないか。不満を抱いていたり熱心が冷めた姿はありませんか?神様がご覧になる時どうでしょう。毎週礼拝に出席はしていたとしても、思いと心の中でいろんな罪を犯していたり、また神様の前で言ってはいけないことを口にしたりしたことはありませんか?私たちはヨブのうめきと嘆いている姿を見ながら、また神様に訴えている姿を見ながら、自分自身を発見しなければなりません。
私たちが覚えておくべきことは、自分の苦しみがひどいからといって、いくら恨み嘆いていても、それが問題を解決するのではないということです。心の良い人は苦しいことにあったとき、何とかして自分で耐え抜こうとして、他の人にまでその重みを負わせようとしません。でも心の悪い人は苦しいことにあったら、自分を苦しめるだけではなく、自分の苦しい心を相手にもぶつけて迷惑をかけます。自分が苦しいからといって辛いからといって、人に強く当たったり怒鳴ったり、人を捕まえて愚痴をこぼしたりして、相手を嫌な気持ちにさせることもあります。そして、自分が被害を受けていると思いながら訴えるのです。でも客観的な目で見れば、自分も相手に悪くした姿があるかもしれないのです。そしてそもそも心に悪がなければそんなことも考えないでしょう。
神様は私たちにどうしなさいと言われましたか?第一テサロニケ5:16-18に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言われました。詩編50:15では「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」と言われました。ですから、神様が全能であることを信じる人はこの御言葉に従って、いつも喜んでいて感謝し、試練の時も神様を呼び求めるでしょう。大小を問わず自分が置かれている状況で、人間の方法を使わないで神様により頼むのです。人の生死禍福は神様が司っておられ、神様の力は無から有を創造し、死んだ人も生き返らせることができるからです。ですから、御言葉に従って行なっている信仰、霊の信仰を見せる時、その信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものになります。
続くヨブ記23:3を見てください。
ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。(ヨブ記23:3)
ヨブが神様を見つけたいという切なる心が表れています。ところで私たちはヨブのこの言葉を聞いて、これまでヨブは神様に心から仕えることができず、神様は遠くおられる方だと思っていたことが分かります。ヨブは自分と共におられる神様ではなく、いつも遠く離れている神様に仕えていました。自分なりに神様の前に生贄を捧げていたのですが、それは霊的な生贄ではなく、肉的な生贄だけだったのです。もし子どもが形式的に親に親孝行して、口先だけで仕えているなら悲しいことでしょう。また夫婦の間でも、甘い言葉で愛を告白すると言っても、その心が他の異性にいっているなら役に立つでしょうか?同じようにヨブが神様に仕えているつもりだったのですが、心から出てくる仕えではなかったのです。しかし神様はヨブの潔白で正しい行いをご覧になり、彼を練って神様に心から仕えるように導いてこられました。この試練の中でヨブは耐えられない苦しみの限界にぶつかってしまい、できればどこで神に会えるかを知りその御座にまで行きたいと言いながら、神様の前に出て行って訴えたいと言っているのです。
元老牧師先生は、世界のあちこちに集会を導くために行かれました。そこで、「神様をどうすれば見つけることができますか?」と聞く牧会者がたくさんいたと言われました。長い間牧会をしていたのですが、自分で神様を見つけた経験もなくただ知識を教えていて、どれほど真理に飢え渇いていたでしょうか?元老牧師先生は神様の心で御言葉を教えてくださるから、彼らが深い霊的な意味を悟るようになるのです。それでメッセージを聞いて、この方は神の人だと分かるようになって、また伴う神の力の業を見ながら、これは人にはできないものだと、神様から出たものだと認めるしかなかったのです。海外聖会に行けば牧会者セミナーを開く時がありますね。そこでは創造主の神様と救い主イエス・キリストについて、人間耕作などについて伝えてくださいました。私たちにとっては信仰生活の基礎的なメッセージですが、それを聞いた牧会者たちがみんな驚いて深く悟ったと言いながら、元老牧師先生に感謝していました。
そしてみんな興奮して、こんなに素晴らしいメッセージがあるのだと言いながら、喜んでいて感謝していたでしょう。皆さんもその姿を見たでしょう。今までどこでも聞くことができなかった霊的に深いメッセージだと言いながら、なぜ自分はこういう霊的な奥義が悟れなかったのだろうと言いながら、驚いていたでしょう。そして、牧会者セミナーの時も癒しのために祈ってくださった時、その場で癒されて証をしているから、みんなどれほど驚いたでしょう。それで、これこそ神様を見つける信仰生活なのだ、これこそクリスチャンとしての生き方なのだ、こういう神の力を行うべきなのだと告白するしかなかったのです。牧会者のリーダーも総会長も、元老牧師先生の前で、謙遜に告白していたでしょう。数十年間自分なりに祈ってきて、聖書の御言葉を教えてきたのですが、このような聖めの福音は聞いたことがないと、こういう神の力の御業を見たことがないと言っていました。
聖書に記されているものだと思っていたけれど、今のこの時代にも本当に神様が生きておられる御業が現れているのですねと言いながら、悔い改めて助けてくださいと言っていたでしょう。聖徒を教える立場にいる牧会者がそのように告白していたのです。信仰生活をしている時、自分が神様を見つけて神様の業を体験する、そういう経験がなかったから、どれほどもどかしかったでしょうか。でも元老牧師先生はその国に来て、神様が生きておられる証拠を見せてくださり、深い福音を伝えてくださるから、どれほど喜んだでしょうか。それで神様をどうすれば見つけることができるでしょうかと聞いて、その答えを受けたからみんな心がすっきりして、感謝していたのですね。牧会者なのにどうしてと思うかもしれませんが、実際そういう人がたくさんいたのです。目の前で神様が生きておられる証拠を見たでしょう。そして神様が共におられ支えてくださる神の人はどういうことを行うのかを、目の前で見たのです。
ですから私たちは、神様を見つけるということを学んだ人として、自分は分からなかったとは言えないのです。だから聞いた御言葉に従って行わなければならないのです。元老牧師先生は海外の集会に行くたびに、このように牧会者が告白したので、元老牧師所先生も驚いたと言われました。これまでこういう神の力を見たこともないし、自分は牧会者なのに、このようなメッセージを伝えることもできなかったと言っていたでしょう。だからあちこちからこのような集会とセミナーを開いてほしいと、そういう依頼が殺到していたのです。ここで神様を見つけるとは、神様の実態を見ることではなくて、病気の癒しや問題が解決されることや、心の願いが叶えられるなど、いろんな形で神様の御業を体験することです。それでは私たちはどうすれば神様を見つけることができるでしょうか?ヨブはできればどこで神に会えるかを知りたいと言っていました。神様はどこにおられるでしょうか?(つづく)
