ヨブ記講解63 - 立ち返るなら赦しと祝福2(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:29~30
続くヨブ記22:29です
あなたが低くされると、あなたは高められたと言おう。神はへりくだる者を救われるからだ。(ヨブ記22:29)
ここで低くされると高められたと言うとは、自分はもう高められるからと高ぶりなさいという意味ではありません。自分を低くする時、神様がその人を高めてくださることを信じなさいという意味です。高ぶりを捨てなさいという意味です。この御言葉を聞いて誤解してはいけません。今自分は低くなっている、人に誤解されている、無視されている、でも神様はいずれは高くしてくださるだろうとだけ思うのではなくて、人にあれこれ言われて今ただ我慢していて、自分がじっとしているから問題が解決されるのではなくて、自分を顧みて、自分の欠けているところを探して見つけて悔い改めて、本当に謙遜な人、本当に神様の前で低くへりくだっている時、神様が高めてくださるのです。
後半節にこうあります。「神はへり下るものを救われるからだ。」と。へり下っている時、神様が高くしてくださるのです。これは真理でしょう。聖書のあちこちに似た内容が書いてあります。マタイ23:11-12です。「あなたがたのうちの一番偉大なものは、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされます。」とあります。
世では、人々は自分が高くなるためにいろいろ方法を使う場合があります。しかし神様の子供たちが自分を高くするなら、神様はかえって低くされるのです。なぜなら高ぶってしまえば、今まで神様の前に積んだものが全部無になってしまったり、救いからも離れることがあるからです。
箴言16:18に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。この他にも聖書には高ぶりを警戒して謙遜を強調する御言葉がたくさんあります。箴言18:12です。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。心を低くして謙遜であってこそ、栄誉を受けることができます。また箴言22:4には、「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」とあります。へりくだって主を恐れる人は、当然神様の御言葉に聞き従うでしょう。だから富と誉れが臨み、それがいのちとなるのです。高ぶりと謙遜についての聖句をもっと調べてみましょう。
箴言29:23です。「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」とあります。 第一ぺテロ5:5には、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」とあります。このように神様は、高ぶらないで謙遜な心を喜ばれるということを心に留めて、神様の前で心からへりくだる皆さんになりますように。皆さん、へリくだっていますか?謙遜な心を持っていますか?そうでなければ高ぶっていますか?一つチェックしてみましょう。誰かに指摘された時、今エリファズがあれこれ教えているように、人にそんなふうに指摘されているならどうでしょう?皆さんの心はどうでしょう?相手を見てみたら自分より劣っているのに、自分にあれこれ偉そうに言っているのです。それでもそれが真理ならアーメンと受け入れて、自分を顧みる人なら謙遜な人でしょう。こういう人は速やかに変えられます。聖霊の声も正確に聞けるでしょう。
でも高ぶっている人は、それを受け入れません。私はよくやっているのにと思います。自分が正しいと思っているのです。でも謙遜な人は、自分をまず顧みるのです。だから誰に何と言われても、指摘されても、そういう謙遜な心で受け入れようとするのです。だからといって神様の前で、自己肯定感が低いという意味ではありません。私はこんなにダメな人なのにとか、ずっと落ち込んでいるのではなくて、神様の前でへりくだって低くなって、さらに神様に頼ろうとして、聖霊の声を聞こうとするのです。だから自分を発見するようになります。
そして何かを自分がやったと思わないから、神様がさらに高くしてくださるのです。こういう人を神様は喜ばれるのです。しかし自分なりに熱心に走ってきて、あれこれ奉仕をしてきたのに、人に認められないとか、人が分かってくれないと思うとき、それによって不満を抱いたりする人がいるならば、それ以上発展がないでしょう。それで辛くなってしまい、熱心が冷めてしまう人がいるのですが、そういう人は、神様がその人がさらに変えられるようにするためには、それに必要な試練に合うようにする時もあります。ですからさらにへりくだる皆さんになりますように。
それではエリファズがヨブに、「あなたが低くされるとあなたは高められたと言おう。神はへりくだるものを救われるからだ。」といった理由は何でしょう?これまで言い争ってきている間、エリファズが見たらヨブは自分だけ知恵があるように、自分だけ正しい人のように、とても高ぶっているように見えました。それでエリファズは考えてみたら、以前ヨブはとても良い人だと思っていたのにそうではないのだと思って、それで妬んでいるところもあったから、これまで心に持っていたことを今ぶちまけているのです。ヨブ、あなたは自分は知恵があって正しいと思っているけれど、あなたは本当に愚かだ、高ぶっているのだ。だから神様があなたを低くしてくださったことに感謝しなさい。低くなってこそ、あなたは神様に救われるのだと、言っているのです。
しかしこれはエリファズの誤解です。間違った考えでした。ヨブの生き方を顧みると、ヨブは高ぶっている心で人々に対したのではありませんでした。神様はヨブの行いを見て、潔白で正しく神様を恐れ悪から離れていると、認めてくださったのです。だから本性の中の悪までも捨てるように、祝福のための試練の過程を経ているのです。それなのにエリファズはヨブのことをよく知らないのに、悪意を持ってさばいて自分なりに間違っている考えで、偉そうに教えているのです。
ヨブ記22:30です。
神は罪ある者さえ救う。その人はあなたの手のきよいことによって救われる。(ヨブ記22:30)
エリファズが神は罪ある者さえ救うと言っています。罪があっても、ただ神様が救ってくださるという意味ではありません。あなたの手のきよいことによってという条件がついています。つまりヨブが罪を犯したとしても、立ち返って不義を捨てて、神様の前に謙遜に立っているなら、神様が回復させて救ってくださるという意味です。ここで手とありますが、これはただ目に見える手を意味するのではなく、人の全身、体を言っているのです。つまり手をきよくするということは、ただ手で犯した罪だけを言っているのではなくて、全ての不義と罪を捨てるという意味です。
人の体を見てみると、口は顔の固定された場所にあるでしょう。目や耳の方に動くこともできません。このように自由に動けないものは、目もそうだし、耳も鼻も同じです。足は上に上げることもあるし、前後に動かすこともできますが、限界があります。でもそれに比べて手はどうでしょう。もっと動けますね。でもそれに比べて手はどうでしょう。もっと動けますね。体のどこにでも行くことができますね。だから体全体をきよくするという意味で、手をきよくすると表現しました。ヤコブ4:8に、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいてくださいます。罪ある人たち、手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」とあります。だから手をきよくすることは、人が全ての悪を捨てて心を清くするという意味です。
また人が手で働いて、権力とか富やいろんなものを手に入れますね。だから手をきよくしなさいと表現しました。つまり全ての不義を捨てて立ち返って、神様を恐れて聞き従っていくなら、魂に幸いを得るようになって、それによって全てのことで幸いを得、健康になるという意味です。もちろんエリファズはこのような霊的な意味を知っていたのではありません。先祖から聞いた教えによって、あれこれ引用しているだけです。ヨブよ、神様は人に罪があってもただ捨てる方ではないと、自分なりに慰めているつもりでもあります。これは言葉そのものはあっていますが、ここで私たちが悟るべき重要なことがあります。神様について、裁く神様、公義の神様なら恐ろしい神様のように感じますね。でも神様には、公義と愛があります。神様の愛の面も知っていなければなりません。ここで罪を悔い改めて立ち返れば、神様はそれを許してくださいますね。
そういう神様の愛もありますが、同時に私たちが覚えておくべきことは、神様の公義です。罪を犯してももちろん悔い改めて立ち返るなら許してくださる方です。ところが第一ヨハネ5:16に「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」とあります。この御言葉を覚えていなければなりません。つまり罪には悔い改めれば許される罪もありますが、死に至る罪、つまり悔い改めることもできないし、立ち返ることもできない罪もあるのです。死に至る罪とは、聖霊を受けた神の子供が、真理を知っていながら、救われないような重い罪を犯すことを言います。ただし信仰の弱い初心の者の場合は、救われないような重い罪を犯したとしても、悔い改めて立ち返った後、その罪の性質まで捨てるために努力していけば、また救いの機会が与えられます。
それでは死に至る罪にはどんなものがあるのか簡略にお伝えします。皆さんこの御言葉は1980年代に伝えてくださった内容です。このように開拓の時からこの教会では、神様の御言葉を正確に伝えてきました。いろんな教会で神様について、ただ赦してくださる神様、救ってくださる神様だけを教えています。しかし神様には公義があります。主を受け入れて罪が許されたとしても、その後で死に至る罪を犯してしまえば救われないこともあります。それも教えなければなりません。でもそれを教えなくて、聖徒がその真理を知らないまま、死に至る罪を犯してしまう場合もあります。それでも自分は救われると錯覚しているなら、どれほどもどかしいことでしょうか。だから教会は正確に神様の御言葉を伝えなければなりません。この教会ではこのように救われる罪と救われない罪について、また罪の中でもその重さによって、それぞれ違う結果になることも教えています。だから私たちはその公義の中に込められた神様の愛を感じて、さらに変えられていかなければなりません。
死にたる罪について第一、神の子をもう一度十字架にかけて恥辱を与えることです。ヘブル6:4-6に「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」とあります。誰でもイエス・キリストを受け入れれば。神様が心に聖霊を賜物としてくださいます。そして聖霊に頼って信仰生活をしていけば、いろいろな体験をします。聖霊を受けて病気が癒されたり、霊的に深みのある御言葉を心に悟れます。聖霊を受ける前と後ではこのように大きい違いがあります。聖霊を受ける前は御言葉を聞いても理解できなかったのに、聖霊を受けたらそれが悟れて信じるようになります。これが聖霊の御業です。また聖霊に満たされていろいろな問題が解決され、聖霊の賜物を体験することもあります。こうやって聖霊にあずかるものとなり、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落してしまう場合があります。これが神の子をもう一度十字架にかけて恥辱を与えることです。
具体的な例では熱心に信仰生活をしていて、ある時から世に心が奪われてしまって、世の人より劣った生き方をする場合があります。天国と地獄があることを知っていて、真理の御言葉を聞いて知っていながらも世の誘惑に負けてしまい、教会と神様を離れて堕落して、神様の栄光を遮る明白な罪を犯す場合です。こういう場合、サタンの働き、仕業を受けて、いろんな罪を犯すことはもちろん、神様まで否定してしまいます。教会とクリスチャンをひどく迫害する、罵る場合もあります。このように変わってしまうのです。特に主のしもべや教会の働き人だったのに、大きい恵みを受けて聖霊の御業を自分で体験したのにもかかわらず、神様を裏切ってしまう場合もこのケースにあたります。このようにその悪が度をすぎて神様の栄光を遮る人々には、悔い改めの霊が与えられません。
代表的な霊でイスカリオテ・ユダがいます。自分の主であるイエス様を売り渡した後後悔しましたが、悔い改めの霊が臨まなくて、罪が許されないで惨めな死を迎えました。このように悔い改めの霊が与えられなければ、悔い改められないから罪が許されないし、死に至るしかないのです。イスカリオテ・ユダは2000年前の人でした。その時は今の終わりの時と比べてみれば、罪と悪がこれほどまでには染まっていなかったのです。だから自分がイエス様を売り渡したことについて、罪悪感を感じていました。後悔しました。でも今終わりの時では、そういう良心さえもなくしてしまった人がどれほどたくさんいますか。こういう姿に堕落してはいけません。そして世の中でも、みんながあれは悪いと、あれはひどいと言われるようなこともあるのでありませんか。それなのにどうして道理を裏切ってしまうことをするのでしょうか?自分の主であり自分が恵みを受けた人を裏切ってしまい、その人に害を与えるこのようなことは、世で言う道徳的にもありえないことでしょう。
死に至る罪の第2は、真理の知識を受けてのち、ことさらに罪を犯し続けることです。ヘブル10:26です。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあります。ことさらに罪を犯し続けるとは、神様が許されない罪だと知っていながらも故意で行うことです。第2ペテロ2章に出てくる偽予言者がそうでした。偽予言者たちは、好色で嘘をついて聖徒を誘惑して私的な利益を得るなど、いろんな不義を行いました。福音を巧妙に変えてしまい、救われないような大きい罪を繰り返し犯しました。このように神様を信じると言いながらも、ことさらに罪を犯し続ける人々は、神様が御顔を背けられるから、聖霊が消えてしまうし、その名前が命の書から消えてしまうし救われないのです。
死に至る罪の第3は、聖霊を冒涜し逆らい続ける罪です。イエス様はマタイ12:31-32でこう言われました。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は許されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」とあります。ルカ12:10は、「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。」とあります。イエス様の時代のパリサイ人たちは、聖霊を冒涜し逆らい汚した人々でした。イエス様が御霊によってなさる神の国の業を妨げました。またイエス様について良くない噂を立てて、民がイエス様をメシアとして信じないようにしました。例えばイエス様がある病人から聖霊によって悪霊を追い出したら、パリサイ人たちは悪霊の頭によって追い出したと冒涜しました。イエス様の行われている業が、聖霊の御業であることが確かに分かる証拠があるのに、それを見ても冒涜し逆らいました。それならば罪の赦しはないのです。
聖霊は三位一体の神様だから、聖霊を冒涜することは神様を冒涜することになります。聖霊の御業を汚し逆らうことは、神様を冒涜することになります。今日も聖霊の御業が起きている教会を異端だと非難する人々がいます。悪意をもってとんでもない悪い噂を立てて、教会と牧会者をなき者にしようとする人もいます。これは教会で働いておられる聖霊を汚すことと同じであることを覚えていてください。もちろん聖書で明白に異端である場合もあるし、聖徒に真理の御霊ではなく、他の霊を受けるようにする場合は警戒しなければなりません。しかしむやみに異端だと罪に定めてその御業を妨げることは、聖霊を冒涜する大きい罪です。
このように皆さんも、ある教会やある団体について、むやみに異端だと言わないのですね。なぜなら、神様の御業が現れると言っているなら、私たちがそれが事実かどうか確認できないなら、あれこれそれについて言う必要がないでしょう。神の御業が現れるという教会があるなら、ちょっと教理が違うからといってどうして異端だと罪に定めるのでしょうか?イエス・キリストが救い主であることと、神様が創造主であることを認めているところを異端だと言ってはいけないのです。だから私たちはむやみにそういうことを言ってはいけません。この教会で現れている聖霊の御業、癒しと答えの御業は、神様の御業です。ここで癒されて答えを受けて証することが、偽りでしょうか?決してそうではありません。もしこれが作り話ならばとっくに明らかになっていたでしょう。しかしここで現れている、しるしと答えの御業は真実です。神様の働きです。聖霊の御業です。それなのにこれを否定して異端だと罪に定めることがあるなら、どれほどもどかしいことでしょうか?とても心痛むことです。それは神様の前で大きい罪になるからです。そうすると救われにくいのに、どうしよう、神様、悔い改めるように、立ち返るように助けてくださいと祈るしかありません。
それで私は神様にとても感謝しています。神様が今も変わらずに見せてくださる驚くべき神の力、人にはできない御業が現れているからです。聖徒の皆さんが事故にあったり病気にかかったりする時、病院に行って治療を受けたのに治らなかったという方が、癒しの集会で祈りを受けて、また神の力が込められたハンカチに祈りを受けて、癒されましたと証しする方がいますね。皆さん偽りで言うことはありません。証しがたくさんあるのですが、全部を紹介しきれないことがもどかしいだけです。神様は死に至る罪を一度犯したからといって、すぐ見捨てるのではありません。何回も悔い改めて立ち返るように機会をくださり悟らせてくださいます。しかしそれでも続けて罪を犯して、良心が麻痺してしまうと救われないのです。ですからイエス・キリストを信じると言っても不法を行い死にたる罪を犯すならば、救われないことがあるということを覚えていてください。
結論です。今日は罪から立ち返る時、許して回復させてくださる神様について伝えました。欲を捨てれば物質の祝福をくださり、高ぶりを捨てて謙遜になれば高くして認めてくださる神様の御業が体験できます。何よりも罪を悔い改めて立ち返るなら、救いと平安をもって慰めてくださる愛の神様です。しかし許されない罪もあることを確かに知っておくべきです。これが神様の公義であり、神様は愛と公義を持って正確に裁く方です。神様は、子どもたちが神様についてさらに深く知って、さらに近づくように望んでおられます。私たちは神様の愛と公義を正確に悟って、さらに神様の前に近づいていきましょう。それで求めるものは何でも答えを受け、良いものだけを与えようとする神様の恵みを、体験する皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。
父なる神様、今日はエリファズがヨブに忠告している内容を聞きながら、神様が私たちに悟らせてくださることを調べてみました。私たちが罪から悪から立ち返るように、悔い改めるように望んでおられます。また欲を捨て高ぶりを捨てる時、神様は祝福してくださり、私たちを高くしてくださるのです。祝福をくださるために私たちにそう言われているのです。その神様の愛を悟って、それに従って神様に近づくようにしてください。このような許しと愛の神様を信じていますが、許されない罪もあるということを知って、決してそのような罪を犯さないようにしてください。死に至る罪を犯してはいけないでしょう。もしこのような姿があったなら、徹底的に悔い改めて立ち返って光の中を歩んでいて、赦しの神様の恵みを受けるようにしてください。この御言葉を聞いている人々が悟るように、助けてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
