ヨブ記講解68 - だんだんひねくれていくヨブの心(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記24:1-11
ヨブ記23章で、ヨブは神様の前で切に神様に会いたいと求めていました。しかし前へ進んでも後ろに行っても神様はおられず、左に向かって行っても右に向きを変えても、神様を見ることができず、会うことができないと嘆いていました。もしかして皆さんの中でも、このように悩んで嘆いている方がいるでしょうか?自分の問題があって、神様の前に解決されるために祈ったのに答えがない方がいますか?ある人は癒しの集会で癒されて幸せそうな顔で証をしているのに、自分はなぜ癒されていないのかと思うなら、ヨブのように私は、前に進んでも後ろにいても神様はおられないと思いますか?そして切に求めていますか?嘆いているでしょうか?
しかし、嘆く必要はありません。神様の前で切に求めることはいいのです。神様に会いたいと思うことはいいのです。でもだからといって嘆いたりする必要はありません。この教会では、神様をどうすれば見つけることができるのか、どうすれば体験できるのか、正確に教えています。でもヨブは、それがわからないから苦しんでいるのです。ああしてもこうしても、あっちに行ってもこっちに行っても、神様を見ることができないし会うことができないから、神様が生きておられることは知っているけれど、何故自分の問題は解決してくださらないのかと思いながら、嘆いているのです。そして、心から本当に神様を信じて信頼して愛するから会いたいと思うよりは、神様への恨みとかつぶやきとか、会って問い詰めたいとか論じ合いたいという、訴えたいという心の方が大きいのです。
私たちは、ヨブがなぜ神様を見つけることができないのか、メッセージを聞いて知っています。罪と悪がまだあって、肉の思いに閉じ込められているからです。自分は正しいのに、神様が自分のことをよくわからないから苦しめていると思っているからです。こうしてはいけないのですね。私は間違っています。悪いですと自分を認めて、徹底的に低くならなければなりません。皆さんに何か問題がありますか?試練にあっていますか?その時どうすべきでしょうか?ただ、神様申し訳ありません。許してくださいと言うからといって、問題が解決されるのではありません。正確に何が問題なのか、自分が何を間違っているのかを悟らなければなりません。
人間関係においても傷ついたりすることがありますね。何か相手が言った言葉によって自分が傷つく場合があります。相手がごめんねと言っても、その心は伝わらないのです。そしてどんなことのため今自分がこんなに傷ついているのか、相手は分かってくれないのです。ただ口先だけでごめんねと言っているだけなのです。するともどかしいのではありませんか?相手が本当に心から申し訳ない心で、これこれ言い過ぎたとか、これこれひどいことを言ったと自分の非を認めて、私に謝ってこそ、それを受け入れるでしょう。神様との関係でも同じです。神様の前で、神様、私間違いました。申し訳ありませんというだけではなくて、本当に何が間違っているのか、何が悪いのかを悟って、それを本当に神様の前に申し訳なくて、へり下って心を砕いて罪を告白して徹底的に悔い改めてこそ、神様もそれを悔い改めとして認めて受け入れてくださるのです。二度とそうしてはいけないという、本当に自分の罪と悪について痛感しながら、口先だけではなく心から悔い改めなければなりません。そして実際にその罪の道から立ち返らなければなりません。
皆さんの中に、癒しの集会の時に聞いたサウル王のような心があるかもしれません。怒ったからといって、自分の息子にそのような呪いの言葉を言ったりする、そういう姿、そのような悪が自分の中にもあるかもしれないのです。だから同じその悪を持っていることだけでも神様の前に申し訳なくて、徹底的に涙を流しながら悔い改めなければなりません。でも口先だけで、または形式的に、悔い改めるべきだから、病気が癒されなければならないから悔い改める。そういう、うわべだけの行いだけでは、神様がそれを受け入れてくださるでしょうか?本当に心から切に求めている姿ではないでしょう。悔い改めたなら闇から抜け出して光の方に来なければならないのです。
しかしそうしないで、相変わらず闇に留まっていながら、口先だけで神様を助けてくださいと言うなら、それが本当の悔い改めでしょうか?今ヨブは神様を誤解して裁いています。ヤコブ書4:6です。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあります。自分がよくやっている、正しいと思っている肉の思いは高ぶりです。そのため自分を発見できないし変えられないのです。だから神様の恵みも受けられないのです。肉の思いのせいで多くを誤解して、人を裁いたり罪に定めたりそして罪を犯しているのです。それが試練をもたらすのです。前回もヨブは、自分はこれまで神様の命令を守りながらその道を歩んできたと、自分は正しいと主張していました。しかし神様はそういう自分を分かってくれない。わけもなく自分を苦しめている。そしてそのような思いを思い直さない神様は、悪い方だと言っています。だから自分は嘆いているのだと、神様を恐れているのだと、自分が苦しみを受けている理由を神様のせいにしています。
しかし私たちは、ヨブの肉の思いと不満とつぶやきなど、罪と悪のため試練にあっていることがわかります。私たちも同じです。苦しみにあったり問題があると、周りの人や環境のせいにして、不平を言ったりするなら問題は解決できません。自分がどのくらい神様の御言葉通りに守り行っているのか顧みて、自分がよくやったことは後にして、間違っていることを、過ちを犯したことを悔い改めて立ち返るとき、神様を見つけることができます。今ヨブはそれができないのです。自分がよくやったことだけを覚えていて、自分は正しいと言い張っているのです。こういう姿のままなら、自分を発見することもできません。よくやっていることは後にして、真理に比べて照らしてみて、自分が欠けているところ間違っているところを発見しなければなりません。人と比べてあの人よりはマシだと思ってはいけません。基準を真理、神様の御言葉を基準にしなければなりません。あの人は私より劣っているのにとか、私より悪いのに何故災いに遭わないのかと思ってはいけません。絶対的な基準は真理、神様の御言葉です。御言葉に、しなさい、してはならない、守りなさい、捨てなさいとあるのですが、それに照らして自分はどのくらい行っているのか、顧みなければなりません。
今日、24章でも、ヨブは心がひねくれていて、神様を悪い方のように言っています。ヨブは神様が全知全能であることは知っているけれど、そういう神様が正しい自分の問題を解決してくださらないで、ずっと苦しみを受けるままに放っておくから、イラついて神様を嫌いになってひねくれて、そういう心を表現しています。今日のメッセージを聞いて皆さんは、自分の不平や不満やイライラとか、負の感情などがあるのかを発見して、速やかに捨てますように。試練にあっている時、また試練が長くなる時、人は心がひねくれたりすることがあります。イライラしたり負の感情を抱いたりします。すると悪が出てくるのです。そういう場合は、まず口の言葉に気をつけて、黙って黙々と自分を顧みなければなりません。そういう負の感情を口に出してしまってはいけないのです。そうするともっと心が感情的になって、激しい思いをするようになります。するとそれによって病気にかかることもあるし、辛い思いをするようになります。ヨブが今、そのため試練が続いていますね。でも私たちはこのヨブの姿を通して、自分はそんな愚かな姿でいてはいけないということを悟りますように。それで試練の時も喜び感謝をもって善と愛をもって勝利しますように。
本文ヨブ記24:1です。
なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか。(ヨブ記24:1)
ここで神を知る者たちとは、ヨブ自分自身のことを言っています。つまり神様が定められた時をヨブは知らないから、精神的にもっと苦しいのです。つまりこの試練が終わる時、自分が死ぬ時がいつだと神様が教えてくださればいいのにと思うのです。するとその時までは忍耐できると思うのに。この苦しみがいつ頃終わるかわからないし、神様の答えがいつ来るという保証もないから恨めしいのです。皆さん神様はあなたにこのくらいの苦しみを与えるとか、いつまで試練に遭うようにするという方ではありません。神様は今でも皆さんが自分の過ちを悟って立ち返るなら、その時許してくださいます。その時が答えを受ける時であり、問題が解決される時です。神様が私たちを練ってくださる時、それが終わる時があります。それは、私たちの信仰がこのくらいになればその時終わるのです。
心にある憎しみによって試練に遭うならば、その憎しみを捨てた時がその試練が終わる時なのですね。でも神様はいつまでとか、このくらいの苦しみを与えるとかいって、それを変えられない方ではありません。ですから試練が10年続くか、そうでなければ1年で終わるのか、今日で終わるのかは、それぞれの心と行い次第なのです。ヨブはこのような霊的な原理がわからないから、神を知る者たちがその日を見ないと言っているのです。つまり試練や患難の中で苦しんでいる人が、神様の御業を見ないのは神様のせいだと言っているのです。自分の境遇を嘆きながらそう言っているのです。でも自分の立場がそうだと言うなら、友達がまた激しく攻め立ててくるでしょう。だから遠回しに言っているのです。
皆さんはひょっとして試練にあっていますか。試練が早く終わったらと思いますか?いつ頃終わるのかなと思いながら、ヨブのようにその時が分かれば、その時までは何となく忍耐できそうなのにと思いますか。でも神様はそういう方ではありません。いつまでだと教えてくださるのではなくて、私たちがへり下ってその試練に会う原因を悟って、信仰によって乗り越えることを待っておられるのです。万民教会もなぜ試練に会うことがありますか?私たちが新しいエルサレムに行きたいと告白したからでしょう。そして牧者も「多くの人が新しいエルサレムに入るように導きます。」と告白しました。だから神様は、新しいエルサレムに入れる人になるために、心の割礼をするようにしてくださっているのです。
そして、全世界の多くの人々が、神様が生きておられることを体験できるために、さらに大きい神の力を元老牧師先生は求めて来られました。このような驚くべき神の力を自分の目で見たのに、世が好きで離れてしまった人もいるし、相変わらず世と教会と二股をかけている人もいます。それで元老牧師先生は、どれほどそのため悲しんで苦しんでいたでしょうか。それで夜眠れないでそのために祈り、神様にさらに大きい神の力を求め、再創造の力まで受けるために祈りました。そして公義を満たしています。そして自分を犠牲にしました。それなら私たちはどうすべきでしょうか?神様が私たちに望んでおられることは、新しいエルサレムに行ける信仰です。そういう聖さです。だから私たちは、さらに信仰が成長するために、聖められるために、集中的にその道を行かなければなりません。周りからどう言われてもどんな環境に置かれても、その信仰を持っていくのです。すると答えの時が来るのです。だからいつなのかと思うのではなくて、私がまず変えられなければならないのです。
みんな平安なうちに幸せな信仰生活をしていて、そのままみんな一緒に新しいエルサレムに入ると思いますか?いいえ、試練の時、苦しみの時でこそ、その信仰が輝くのです。以前1998~99年の試みの時もそうだったし、そのような試練の時も信仰を守り、教会を離れないで一つになって信仰を見せた人は、どれほど祝福されたでしょうか。そしてその後も神様は、爆発的な聖霊のみわざによって働いてくださいました。それでみなが癒され、みなが聖められましたか?そうではないのです。みなが御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされたのでもなかったのです。だから神様はさらに聖められ、さらに新しいエルサレムに多くの人が入るように、私たちの心の割礼ができるようにしてくださるのです。
ただ目に見える神の力を見て、喜んで感謝して幸せそうに信仰生活をすることだけではなく、本当に自分自身を深く顧みて、深い根の中にあるものまでも捨てるようにしてくださるのです。短い時間で変えられるのではありません。長い時間がかかるのです。そしていろいろ自分の心を見ながら、いろんな環境の中で苦しみも受けて、心の割礼もしながらだんだん変えられていくのです。それで一段階一段階上がっていくのです。だから試練にあってもそれを信じる人は感謝するのです。だからそれを苦しいとか辛いと思わないのです。私のための過程だと思って、この過程を通して私は信仰が成長するのだと思って、信仰によって乗り越えることができるのです。
だから厳しい波のような試練があるかもしれないのですが、それでも神様の導きを信じていくのです。私たちの目標はただの天国ではなく、ただの救いだけではなく、新しいエルサレムの神様の御座の近くに行くことではありませんか。また多くの報いを天の報いを積むためではありませんか。そのために人間耕作を受けているのです。それで忍耐しながら心の割礼をしていけば、神様が霊肉ともに祝福してくださり、また健康になるようにしてくださいます。ですからこの教会の試練が終わる時も、私たちが変えられる次第なのです。
続くヨブ記24:2-3です。
ある者は地境を動かし、群れを奪い取ってこれを飼い、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質に取り、(ヨブ記24:2-3)
ヨブの意図を調べる前に、まずこの言葉に込められた意味について調べてみます。地境とは土地の境、領域の境です。所有者などの異なる土地と土地との境界のことです。昔は石で土地との境界を示していました。最近は表示板などがあるのですが、昔は石とか木などを使いました。この石をある人は壊してしまったり位置を変えてしまったりして、貧しい人を騙して苦しめることがありました。例えば所有者が、違う土地と土地との間に大きい石を置いておいて、それを境にしておいたのですが、金持ちの人が夜こっそり貧しい人の土地の石を動かしてしまうのです。それで自分の土地をもっと広くしておくのです。それで貧しい人が、次の日それを見て来て問い詰めても無視して、それでその人を苦しめたりすることがありました。
箴言22:28に「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。」とあります。本文である人は地境を動かすとありますが、これは不義な方法で人の土地を奪い取ることを意味します。今日で言えば、不動産登記とか権力を使って不当に財産を増やすことなどがあるでしょう。次に群れを奪い取ってこれを飼い、みなし子のろばを連れ去り、やもめの牛を質に取ります。昔貧しい人々にとって羊の群れは、重要な生計手段だったのですが、これを奪われたら、どれほどみじめになるでしょうか。また親のいないみなし子にとって、ろばは全財産のようだし、夫もなく一人で生きていくやもめにとって、牛は命のように大切な存在でした。このような家畜を、一日一日暮らすために色々使ったりしましたね。それが食べ物にもなったし、それを利用して畑を耕したりもしました。でもその弱者の財産を奪い取ってしまったり、それを質にとったりするなら、貧しい人々弱い人々はどれほど悲しいでしょうか。どれほど辛い思いをするでしょうか。
そしてヨブ記24:4です。
貧しい者を道から押しのける。その地の哀れな人々は、共に身を隠す。(ヨブ記24:4)
行くあてもなくさまよっていて、貧しい者が道から押しのけられるならどれほど哀れでしょうか。周りの人々から非難されて、恥ずかしくて身を隠すようになるでしょう。それではヨブは、なぜこのようなことを長々と説明しているのでしょうか?ヨブは貧しい人のためを思う心でこう言っているのではありません。神様に何か攻撃をするための作戦を立てているのです。どんな意図なのか続けて調べてみましょう。
ヨブ記24:5です。
見よ。荒野の野ろばを。彼らは、出て行き、荒れた地で獲物を求めて捜し回り、自分の子らのためにえさを求める。(ヨブ記24:5)
荒野の野ろばは、飼い主も家もないから餌を求めて、東西南北あちこちを捜し回ります。同じように、貧しくて家のない人々は、食べる物を求めるためにあちこちさまよっていくしかありません。荒れた地で自分の子らのために餌を求めるとあります。人々が野ろばのようにあちこちを捜し回り、苦労してそこから得る収入で、やっと子どもたちを食べさせるという意味です。皆さん昔のことを考えてみれば、職場が安定していたり、農作をして収入が安定していて自分の畑があったりするならいいのですが、でもそうでない場合は、他の人の畑に行ってそこで働く場合があります。
それで近くに金持ちがいて、自分が働ける畑があればいいのですが、でもそうでない場合はあちこちを転々とするのではありませんか?遠くまでも歩いて行って、苦労して働いて帰ってきたりする人もいて、家がない人は帰ってくる場所もないから、また違う働く場所を探し回ったりするのです。ヨブは以前豊かだった時、周りの貧しい人々が、金持ちや悪者のため蔑まれ卑しめられて、惨めな暮らしをしているのを見ました。今は自分がそんな惨めな境遇にあっているのです。だから神様のせいにしようと神様を非難するために、今あれこれ説明しているのです。続く本文も貧しい人々の境遇についてです。
ヨブ記24:6-8です。
飼葉を畑で刈り取り、悪者のぶどう畑をかすめる。彼らは着る物もなく、裸で夜を明かし、寒さの中でも身をおおう物がない。山のあらしでずぶぬれになり、避け所もなく、岩を抱く。(ヨブ記24:6-8)
昔は自分の畑がなければ人の畑で働いて賃金をもらいました。ここで悪者とは、悪い方法で地境を移して貧しい人々の財産まで奪って、不当に金を稼ぐ人を言います。貧しい人々がそんな悪者の畑で飼葉を刈り取り、彼らが残したぶどうを取って、やっとのことで生きていくという意味です。皆さん考えてみてください。自分を苦しめている悪い人々のぶどう畑で働かなければならないなら、どれほど惨めでしょうか?そして悪者の畑で飼葉を刈り取っているのです。そしてぶどう畑で良い実は取って商品として売ったり、そうでなければ、その地主の家族が食べたりするのです。でも良くない実があって、虫に噛まれたりまた小さかったりするそういうものがありますね。それで貧しい人々は、その残されたものを食べるしかないのです。それでやっと生きていくのです。弱者の暮らしの姿なのです。また彼らは着るものもないし裸で夜を明かし、寒さの中でも身を覆うものがないし、家がないから山のあらしでずぶ濡れになったり、避け所もなかったりするのです。
ヨブ記24:9-11です。
彼らはみなしごを乳房からもぎ取り、貧しい者の持ち物を質に取る。彼らは着る物もなく、裸で歩き、飢えながら麦束をになう。その植え込みの間で油をしぼり、酒ぶねを踏みながら、なお渇く。(ヨブ記24:9-11)
みなしごを乳房からもぎ取りとあります。ここでみなしごは父のいない子を言います。昔は借金を返せなければ、小さい子供を奴隷として売ったり、貧しい人の持ち物の中で上着を質に取ったりすることがありました。それで着るものがなく、裸で歩きながら、金持ちの家で奴隷のように労働しました。汗を流しながら麦束を担ったり、油を絞ったり酒ぶねを踏んでいっても、それを自分たちは食べることも飲むこともできないのです。哀れな姿です。続く本文でも貧しい人々のみじめな生活について説明していて、いよいよ神様の名前を言います。
