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ヨブ記講解66 - 試練と変化(下)

9月16日
読了時間: 15分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記23:10


続く本文10節です。


しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出て来る。(ヨブ記23:10)


この御言葉は試練にあっている聖徒がよく引用する御言葉です。ヨブのように、神様の祝福を受けられるだろうと希望を持って言うのです。しかし大切なのは、どんな心でこの御言葉を引用するかです。本当に信仰を持ってする告白なのか、そうでなければ、ただ自分を慰める心なのかです。今自分が置かれている状況があまりにも苦しいから、辛いから、でもじっと我慢しているのです。でもじっと我慢していれば、この時間も過ぎ去るだろう。いい日が来るだろうと、ただそう思って自分を慰めているのなら、これは信仰ではありません。


ヨブの今の言葉もそうでした。自分の行く道を神様が知っておられ、自分を調べられる。また自分は金のように出て来ると言っているのですが、これは自分が今あっている試練の原因は、全て神様のせいだと言っているのです。つまり神様は、私が正しい人だと潔白な人だと知っておられる。だから、神様はこういう過程を通して自分を練ってくださるからと、本当に信仰を持って言うのではなくて、自分は正しいのに神様はよく分からないから、私を苦しめておられる。そして何か神様の御手で、神様の何か思いがあるから、私はこのように試練にあっているのだと、自分なりに自分を慰めているのです。


もちろん、ヨブが本当に正しい人ならば、神様の御手によって練ってくださるでしょう。もちろんそうでしょうが、ヨブはそこまで信仰で言うのではなくて、今あまりにも苦しいから辛いから、神様が何とかしてくださるだろうと思っているのです。それは自分の信仰から言うのではなくて、先祖たちを通して聞いた良い話、良い言葉を覚えているから、こんなふうに言っているのです。何か苦しい時、以前聞いていた良い話を思い出して、自分を慰めることがありますね。ことわざとか、「苦は楽の種」とか、「待てば海路の日よりあり」とか。こういう言葉を思い出して自分を元気づけようとするのです。今ヨブがそのような姿でした。水に溺れた人がわらをもつかむ心で、神様が私を調べてくださるなら、私は金のように出てくるだろうと、自分を慰めているのです。


もちろん、神様が自分の行く道を知っておられるという言葉はあっています。神様は、私たちの過去も現在も未来も全部知っておられるし、一番良い道に導いてくださる、そういう方です。マタイ10:30「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」とあるように、神様は私たちの行い、また考えることも、心の中で思っていることも、全部知っておられる方です。しかし本文でヨブが、「神は私を調べられる。私は金のように出て来る。」と言ったのは、信仰の告白ではなかったのです。​


そして、今までヨブが神様を誤解してどんなふうに言っていたのかを、考えてみれば分かりますね。ヨブは神様を恨み、呟いて、わけもなく自分を苦しめていると言っていました。神様は正しくない、自分は正しいと主張していました。だから自分が良い言葉を引用して言っていても、これは本当の信仰の告白ではなかったのです。皆さんもこういう時があると思います。いろいろ文句を言って、いろいろ自分のことを愚痴ったり、また訴えたりしておいて、後で良い言葉を引用したりして、自分を見せかけようとする場合もありますね。人が試練にあったり練られたりするケースは、いくつか原因があるのですが、これはヨブ記講解2回目で詳しく伝えましたので、今は簡単に説明します。


第一、自分の過ちのせいで自ら試練を招く場合があります。これは神様の摂理とか御手のためとかと言ってはいけません。ある人は試練や患難にあったら、神様が自分をこのように試練にあわせたとか、神様が病気にかかるようにされたとかいうのです。ヨブが神様のせいにしていたようにです。しかしヤコブ1:13を読むと、「だれでも誘惑にあったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれも誘惑なさることもありません。」とあります。神様は公義の神様であり、子どもたちに良いものをくださる愛の神様です。このような神様が、理由もなく子どもたちを誘惑にあわせて苦しみを受けさせるはずがないでしょう。​


ヤコブ1:14-15です。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。人の欲のせいでサタンに誘惑されて、苦しみに遭うようになります。例えば、職場で怠けて不誠実で上司によく叱られるとしましょう。しかし自分の間違っているところを直さないで、上司がわけもなく自分を憎んでいると思ったり、神様が私を変えさせるために、こういう悪い状況におかれ、試練にあわせてくださるのだというなら、どれほど間違っている考えでしょうか。皆さんも日常生活でこういう考えがあるなら、直してください。


家族との関係でもそうです。自分がもっと仕えたり低くならないで、例えば自分が父だからといって、子供に指示したり命令したりする場合があります。子供が小さかった時は言うことは聞いたとしても、だんだん大きくなったりすると反抗するようになりますね。手本にならないで、ただ強く言ったり命令したり指示したりする、そういうお父さんなら、子どもが見習おうとしないで、反抗してしまうでしょう。仕えようと思いません。言うことも聞きたくないでしょう。でも親は子どもを叱るのです。そうしてはいけないでしょう。そして神様の前で、子どものことで私を変えさせてくださるのだと、思ったりしてはいけないのです。自分が自分の言い方を変えたり、自分がもっと低くなって子どもに仕えるようになれば、自然に子どもは親を尊敬するようになるでしょう。自分が今過ちをしておいて、それによって家族との関係が良くないのに、神様が自分を変えさせるためにこんな風にしてくださったと、言ってはいけないのです。


また事業をしている人が、欲張って正しい道から離れてしまい、苦しみをもたらす場合があります。自分の悪によって、それが罠になって、敵である悪魔サタンが試練をもたらすのです。でも神様が私をもっと祝福してくださるために、こういう問題に合わせたのだと錯覚してはいけないのです。それは問題を解決する道ではありません。自分の過ちとか悪によってそれが原因になるのです。だからそれをまず解決しなければなりません。


家事をする時、夏場にコバエが飛んでいたりする場合があります。夏場は下水溝からそういうものが出てきたり、また家の中に生ゴミがあったりすると、すぐコバエが湧いてきますね。だから夏場は生ゴミとかは早く捨てた方がいいでしょう。確かにゴミを捨てたのにコバエが飛んでいる時もあります。私もそういうことがあったのですが、見てみたらゴミは捨てたのですが、でも果物を常温で置いておいたのですが、それがちょっと傷んでいたら、すぐコバエがどこかからか飛んできたのです。その匂いを嗅いでコバエがすぐ湧いてくるのですね。同じように、私たちの心に罪と悪があれば、敵である悪魔サタンが試練をもたらすようになります。


これは霊の世界の法則なのです。創世紀3:14を見ると、エデンの園で、蛇がエバを誘惑して善悪の知識の木の実を取って食べるようにしました。そしたら神様は蛇を呪って、一生チリを食べなければならないと言われました。しかし実際に蛇はチリではなくて、カエルとかネズミを食べて生きています。これは蛇とは霊的に敵である悪魔サタンのことで、チリとはチリで作られた肉の人を指しています。つまり人が真理の中に生きていないと、敵である悪魔サタンがいろんな試練患難、病気をもたらすということです。このような霊の世界の法則があって、人が真理に逆らうと、サタンは神様の前に訴えます。すると公義の神様は、神の子供でも罪を犯したら、御顔を背けるしかないし、敵である悪魔サタンが試練患難をもたらすのです。


ヨブの場合は、上辺では潔白で正しく見えても、その心の中にはまだ潜んでいた悪があったから、神様はそれまでも引き抜くようにするために、サタンの訴えを聞き入れて、試練に遭うようにされました。私たちは霊の世界の法則をよく知っています。塵で作られた肉の人を、敵である悪魔サタンがその罪を犯した時、また悪があると神様の前で訴えるのです。それでいろんな試練患難をもたらすのです。私たちが神様を信じて主を受け入れたとしても、私たちが罪を犯したり悪を行ったりすれば、霊の世界の法則によって試練患難に遭うようになるのです。


特別にヨブの場合は、行いで罪を犯したり何か悪を行ったりしたのではなくても、心の中にある悪があって潜んでいたのですが、このように厳しい試練にあったらそれが明るみに出されるようになりました。サタンは、神様がヨブを祝福してくださるから、ヨブがそのように仕えていただけだと訴えたのです。それでヨブを試練によって打つと言いました。上辺には見えない、その心の中に罪と悪の性質があるからでした。それが実際に行いとして現れるなら、自動的にサタンが試練患難をもたらすのですが、ヨブの場合は特別なケースだったのですね。それでヨブの心の中にあるその悪とか罪が明らかになって、結局は完全な姿になるようにするために、神様はそのサタンの訴えを聞き入れてくださったのです。


それでヨブも、自分の目の前で自分の悪を目で見て、自分の罪を認めてそれで悔い改めて、完全に変えられるようにしてくださいまし。た皆さんこういう過程がなくて、平安に生きて何の試練もないのならその方が幸いでしょうか?試練にあってその過程を通して変えられて、自分の悪が発見されてそれを捨てて聖められて、より優れた天国に行った方が幸いではありませんか?神様はそのように祝福してくださるために、ヨブのためにこのようにしてくださったのです。そして、サタンはヨブがその試練にあったらそこで負けてしまう、神様から離れてしまうだろうと思って訴えたのですが、神様はさらに深いヨブの心を知っておられたから、ヨブがそういう過程を通して、結局は変えられることを期待して信じておられたから、そのようにサタンの訴えを聞き入れてくださいました。


第二に、神様が祝福をくださろうとするテストがあります。第一は自分の過ちや自分の罪悪のため、敵である悪魔サタンがもたらす試練がありました。第二は神様が祝福をくださるために、テストとして試練がやってくる場合があります。創世記22:1を読むとアブラハムの場合はこうあります。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練にあわせられた。神は彼に『アブラハムよ』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります。』と答えた。」この時、神様はアブラハムにひとり子イサクを捧げなさいと命じられました。それはアブラハムに大きい祝福をくださるためのテストでした。アブラハムは大事なひとり子を動物のように屠って、全焼の生贄として捧げなさいと言われても、信仰によって聞き従ったから信仰の父になる祝福を受けました。


このように神様がご自分で試してくださるテストは、私たちを苦しめるためではなく、祝福をしてくださるためです。また、私たちが魂に幸いを得て、信仰が成長するように練ってくださいます。子どもが小学校を卒業して、中学校、高校、大学に入るためには、テストに合格しなければなりません。小学校から中学校に入る場合はテストがない場合もありますが、私立とか良い学校に入るためにはテストが必要ですね。また高校、大学に入るときもそうです。同じように神様も、子どもたちが祝福を受けるような器になっているのか、祝福を受ける資格を持っているのか調べられるのです。


それでテストに合格するなら、心の願いを神様が答えてくださり祝福してくださいます。また、私たちがこういうテストに通るときに、信仰が成長して完全な信仰の量りに達するようになります。受験生が大学入試試験に合格すれば入学できるのですが、不合格ならまた準備しなければなりません。霊的にも神様のテストで合格できないならば、合格するまで練られることがあります。それで、聖徒の皆さんが、自分の心の変化のために祈りながら努力している場合がありますが、何か死に至る罪もないし、上辺にあまり目立つ罪とか悪はなくても、さらに深い善を所有するために、さらに深い愛を所有するために祈る場合がありますね。


それでそのために努力したり、悔い改める場合もあります。じゃあそのようにダニエル祈祷会の時、来て祈ったのに、次の日また自分は人の前でイライラしたり、それで負の感情を抱いたりする場合があります。自分は善を行いたいのに愛を抱いて接したいのに、短い間でそれがすぐできるものではないのです。でも諦めてはいけません。大人ならもう40年50年以上そういう性格の人として生きてきたのに、それが一瞬で変えられるでしょうか?


また人は自分の利益を求めるものでしょう。そういう考え方を持っていて、また自分も無意識で習慣になってしまったそういう姿があるのです。それをすぐ発見することも難しいし、発見したとしてもすぐ直すことも本当に難しいです。だからそれを握って、今日も明日もまた、1ヶ月2ヶ月1年2年、このように努力しながら、祈りながら断食しながら、神様に助けを求めながら生きなければなりません。その過程で心の中で練られるそういう過程があっても諦めないでください。第一コリント10:13に、「あなた方のあった試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。


神様のお許しの試練は、私たちが耐えられるほどのものです。だから神様が祝福と答えをくださるためにテストなさる時は、必ず脱出の道を下さり、全てを働かせて益としてくださいます。それなら私たちが試練にあった時、耐え抜ける道は何でしょう。もし過ちがあって試練にあったなら悔い改めて立ち返ればいいでしょう。罪を犯したのではなくても、否定的な肉の思いを巡らしたり、信仰で見ることができなかったところがあるかもしれません。真理をどのくらい行ったのかチェックしてみれば、試練の過程を経れば信仰の成長もできます。またさらに深い善と愛を持つようにするために、練って下さる場合もありますが、主の善また信仰の人々の善を基準にして、自分の狭い心を発見すれば祝福に変わるでしょう。


また神様の御言葉通りに生きているのに試練に遭ったなら、喜んで祈り感謝すれば試練が退きます。神様が祝福するためにくださるテストがある場合、私たちが勝利して乗り越えれば、霊肉どもに祝福されます。ここで注意すべきところは、自分の過ちによって受けている試練を、まるで神様が祝福をするためにお許しになったもののように、錯覚してはいけないのです。例えば、世と共になって真理と反対のものを行っていって、それで試練にあったのに、神様が私の信仰をテストしておられるという人がいます。これは自分の過ちによる試練なのに、神様のせいにする姿です。ガラテヤ6:7-8です。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種をまけば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔くものは、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とあります。ですから、私たちはどんなことでも種をまけば、その刈り取りもすることを覚えていなければなりません。


悪や真理と反対のものを蒔くならどうなるでしょうか?その肉から滅びを刈り取るのです。神様の御言葉に逆らって生きているならば、いろんな試練患難病気など、肉から出てくる実を結びます。今自分が行っていることが種になって、それによって自分に試練艱難という実としてやってくるということ、その意識がない人もいます。どれほど愚かでしょうか。今自分が悪を蒔いていて真理と反対のものを蒔いているから、その種を蒔いたから、滅びというものを刈り取るようになるのです。自分が行った通りにその報いを受けるのです。これを覚えていなければなりません。


今すぐ何か懲らしめがないからと言って安心していてはいけません。善と真理を蒔くなら、霊肉ともに健康になり、家庭も祝福され、事業の場も祝福され、心の願いもかなえられるでしょう。このように、種を蒔けばその刈り取りもする霊の世界の法則を覚えていて、肉のために蒔くのではなく、いつも御霊のために蒔いて、御霊の実を刈り取りますように


結論です。


農作物は雨や風、熱い太陽に耐えて良い実を結びます。私たちも試練に耐えて、良い実として結ばれる過程を通して神様の真の子供になるでしょう。ですから試練は祝福です。神様の愛です。だから罪によって試練にあったとしても、喜びと感謝を持って、信仰と希望、愛を持って勝利しましょう。罪の壁が大きくても、謙遜になって神様の前でへりくだって求めながら、悔い改めて立ち返るならば、神様が憐れんでくださるでしょう。多くの罪を犯した人でも、悔い改めて心を砕いて罪を告白して正しい道に帰ってくると、神様は許してくださいます。


詩篇73:28です。「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」とあります。皆さんがもしかして試練にあっていても、苦しみにあっていても、神様の近くにいて、父なる神様を皆さんの避け所にしてください。それで父なる神様の愛によってすべての試練を乗り越えて、金のような信仰を持ちますよう、主の御名によって祈ります。


聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの話を聞きながら、そしてヨブが神様は自分の道を知っている。神様が自分を調べられる。金のように出てくると言っていました。ヨブがどんな心でそのような告白をしたのか調べてみました。私たちは神様の前で自分を顧みて本当に試練の過程を通して変えられるようにしてください。試練にあっていても感謝して喜びながら、自分自身を顧みて、信仰と希望と愛を持って勝利するようにしてください。それで変化の実を結び、祝福を受ける私たちになるようにしてください。感謝して、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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