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ヨブ記講解65 - 肉の思いは神に対して反抗する(上)

9月15日
読了時間: 17分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記23:4~5


私たちを、価値ある生き方ができるように導いてくださった神様に感謝します。本当に何が真の価値あるものなのか時々忘れる時があります。私たちは人によって、どこに価値を置いているのかが違います。世の人は自分の目の前の幸福とかお金とかに価値を置いて、余裕のある生活のために生きる人もいます。しかしそのようにして豊かに生きて暮らしたとしても、それが本当に価値ある生き方でしょうか?主が来られた時に救われなければ、虚しいものでしょう。そしてクリスチャンの中でも、世のもののために生きていて、やっと救われてパラダイスに入るなら、それも価値ある生き方とは言えないでしょう。皆さんは、本当に価値のある生き方、天国でも新しいエルサレムを望むことができるから、どれほど感謝でしょうか。いつも自分の目指しているところがどこなのか、自分はどこに価値を持っているのかを忘れないで、一瞬一瞬思い出してみてください。メッセージに入りましょう。​


前回は私たちがどうすれば神様を見つけることができるのかについて伝えました。私たちが神様を見つけるためには、光、善、真理のうちにとどまっていなければならないと言いました。また神様を見つけるために、熱心に探さなければならないし、神様を愛するほど大きい祝福と答えを受けると言いました。この教会では、神様を見つける方法を正確に教えています。多くの聖徒が、答えの神様、癒しの神様、問題を解決してくださる神様を体験しています。ところが、神様を見つけた体験をしたのに、また世に目を向けたり、神様の愛から離れてしまえば、神様と遠ざかって聖霊に満たされなくなって、恵みも受けられなくなります。​


そうすると、前は確信していたのに、信じていたのに、天国への希望もだんだん薄くなって、喜び感謝もなくなります。自分では解決できない試練にあって、神様に求めても答えがありません。以前、神様と親しい関係を保っていた時は、主よと呼んで、助けてくださいと言えば、すぐ答えてくださったのに、神様との関係が遠くなってしまったら、神様に求めても答えがないのです。神様の助けを求めても、聞いてくださらないことがあります。そういう方々も、再び神様との関係を回復するために、切に呼び求めますように。神様を見つければ、皆さんが抱えているどんな問題でも解決されます。心の願いも叶えられます。


第二歴代史7:14「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、私の顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」とあります。試練患難も、重い病気も、罪によって疲れた人の心も、神様は癒すことができます。ただしこういう神様の恵みと力は、自ら悪い道から立ち返ってへり下り、神の顔を慕い求める人に臨むということです。​


ところが多くの人が、試練にあった時、苦しみにあった時、へり下って自分を低くしないで、環境のせいにしたり、人のせいにしたりするのです。ある人は、神のせいにしたりします。今ヨブの姿がそうではありませんか。自分を低くしてへり下って悔い改めて、立ち返らなければならないのに、そうしてこそ、神様との関係が回復するのに、そうしないで、自分が正しいとばかり言い張っているのです。そして神様の前で、嘆いたりつぶやいたりしているのです。すると問題は解決されません。​


人の深い罪の性質まで解剖してくださるヨブ記のメッセージを聞いて、自分を発見して悪から離れ、毎日一瞬一瞬神様を見つけ体験しますように。前回ヨブは、神様の前でうめき嘆いていました。そして、ああできればどこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたいと言っていました。ではヨブが、このように切に神様を見つけたいと思っている理由は、何でしょうか?今日の本文を読めばわかります。


ヨブ記23:4-5です。


私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。(ヨブ記23:4-5)

ヨブは、もし神様にお会いできるなら、言いたいことがあまりにもたくさんありました。ことばの限り討論したいと言っています。それは自分が今無実だ、悔しいと思っているからです。だから神様がどこにおられるか、そこを知ることができるなら、その前に行って、自分の事情を全部申し上げて、自分の潔白を訴えたい、解明したいと言っているのです。ヨブは、子どもと財産を失って、ひどい病気によって苦しみを受けていて、妻も親戚もヨブを嘲って、友達もヨブが悪いと責め立てています。しもべたちもヨブを嘲笑い、尊敬してくれません。ヨブは、自分は悪い人ではなくて正しい人だと思っているから、このような試練患難にあっていることがとても悔しかったし、到底理解できませんでした。


これが肉の思いです。ですから、もし神様の前に行くことができるなら、自分の悔しさを訴えたい、弁明したい、問い詰めたいと思っています。天地万物の主人である神様の前に立った時、皆さんヨブのように、自分のことを堂々とこのように訴えることができるでしょうか?その光の前で、恥ずかしくて顔が上げられないと思います。でもヨブは肉の思いによって、自分の思い込みで神様を誤解していてこのように言っているのです。肉の思いでいっぱいの状態なのです。だから神様の前で、訴えたい、問い詰めたいと思っています。


ヨブは神様を誤解していて、自分が正しいということを主張し続けています。自分が間違っていることには気づかないのです。これが肉の思いのある人の姿です。肉の思いでいっぱいの人は、ただ自分の立場だけを考えます。そして自分が正しいとだけ考えるのです。そして、それを誰かが分かってくれなければ悔しいし、訴えたくなるのです。そして、自分のこのような心にある不平不満を、ぶちまけてしまうのですが、またそれによって、人と言い争ったりするのです。だから問題が解決されないのです。そしてこのような人は、自分の思いの枠に閉じ込められているのです。


それでは、神様がなぜこのように厳しく長い間、ヨブを練っておられるのでしょうか?本文5節で、「私は神が答える言葉を知り、私に言われることが何であろうかを悟りたい。」と言っているから、神様がヨブのところに来てくださって、悟らせてくださればいいではありませんか?でもヨブは、本当に今へり下って謙遜な姿で、神様の答えを聞きたいという姿勢ではありません。ただ自分の言い訳をしたい、訴えたいと思っている姿です。それでも神様の言われることが聞きたい、悟りたいと言っているから、神様はヨブのところに来て説明してくだされば、ヨブも悟るのではありませんかと思うかもしれません。皆さんもそうでしょう。自分の中に悪があって発見できないところもあるけれど、神様が正確に教えてくだされば、すぐ悟るだろうにと思いますか?自分が今病気で、その原因を神様が教えてくださればいいのにと思いますか?


でも神様が望んでおられる姿は違うのです。神様まず癒してくだされば、その後、私は変えられますというふうに、言っていることなのです。そのように思ってはいけないでしょう。もしかして皆さんの中でも、なぜ神様はもっと早くヨブにあってくださらないで、このように長い間試練に会うようにされるのかと思う方がいますか?そして自分の問題があって、その解決のために、神様が何とか早くしてくださればよいのに、早く悟らせてくださればよいのにと、思う人がいるのでしょうか?それは焦りでしょう。


皆さん、ヨブがもし簡単に自分の悪を悟ることができるなら、神様も早く会ってくださり、声を聞かせてくださるでしょう。しかし今神様が、ヨブに正しい正しくないを説明してくださるからといって、ヨブが理解できるでしょうか?ヨブが今試練に遭うようにされている理由は何でしょうか?ヨブが自分では分からない深いところにある悪を、ヨブが発見するようにするためです。またヨブが変えられるように導くためです。ヨブを苦しめるために、今このように試練にあうようにされたのではないのです。金のような信仰を持つように、そして神様の前でふさわしい姿になるようにと、その根本の罪、本性の中にある悪までも発見して、捨てるようにするために、このように練っておられるのです。


そのためには、ヨブがへり下って、自分を本当に徹底的に顧みる姿勢が必要です。そして自分の中にある悪、また罪を認めなければなりません。そしてこういう根本の罪とか悪、こういう性質はすでに自分の体と結びついている場合が多いです。そういうものまでも取り除かなければなりません。そのためには痛みが伴う時があります。神様はそのように自分自身を発見するようにするために、今ヨブを練っておられるのです。それで今は、ヨブが自分を発見していく過程にいるのです。


でもヨブは、謙遜に自分を顧みるよりは、今神様の前で不満を言っているのです。私たちはこのくらい時間も経ったし、友達と言い争って、また神様にあれこれ言いながら嘆いていてうめいていて、これくらい苦しみを受けているならば、もう神様が今ご自分を現わしてくださって、ヨブを悟らせてくださればよいのにと思いますか?それならすぐ変えられると思いますか?そうではありません。深いところに潜んでいる悪や、罪の性質があって、それをまだ認めるくらいの姿勢ではないのです。そしてヨブの場合は、本当に神様がこの深いところにあるものまでも全部、明るみに出されるようにしてくださったのですが、それも本当に厳しい試練の過程が伴いましたね。でも普通の人なら、そこまで厳しく練られるともう離れてしまったり、逃げてしまったりするのです。でもヨブは本当に心が良い人だから、神様がここまでしてくださるのです。


でも普通の人は、神様がそこまで練ることはないのです。ある程度を変えられたら、またその分応えてくださり悟らせてくださって、またそれよりもっと変えられるように。このように一段階一段階導いてくださるのです。玉ねぎの皮を一枚一枚向剥いていくようにしてくださるのです。でも今ヨブはこのように厳しい試練によって、心の中の深いところにある、本性の中にある姿まで全部明るみに出されて、ヨブがそれによって、徹底的に打ち砕かれるようにしてくださるのです。その時まで神様は待っておられるのです。今本当にヨブが苦しんでいることを知っておられながらも、その忍耐をもって変えられるまで待ってくださるのです。


人それぞれ試練にあう姿は違うのです。神様が練ってくださる方法は違います。だからヨブを見ながら、なぜと思うのではなくて、神様の御心と愛を悟ってみなければならないのです。私たちも、自分の心にある悪を発見する時がありますね。そしてそれを一つ一つ捨てるために、祈りながら断食していけば、また神様がその分答えてくださり、平安もくださって、それで少しずつ捨てていくことができます。祝福してくださるのですね。そしてその後また一段回アップするために、もう少し深いところの悪を発見するようにしてくださいます。


例えば、ある聖徒さんは熱心が冷めてしまって、その後それを回復して、今一年ぐらい経ったとしましょう。以前信仰が冷めていた時は、祈りも休んでいたし御言葉からも離れていたのです。でもその後悔い改めて、神様の前で回復したのですね。それでその後からは全てが恵みです。何を見ても何を聞いても神様の恵みでした。それで一年くらい経ちました。この方は今聖霊に満たされていますね。でもダニエル祈祷会に来て祈っている時、院長先生が祈ってくださったのですが、心にある深いところにある悪の姿について指摘しながら祈ってくださるのです。人を憎むことを捨てるようにしてくださいとか、このように院長先生がその人の心を読み取って、代わりに祈ってくださる場合がありますね。この方は、私は憎い人いないのにと思ったそうです。でもその後一週間くらい経った後から仕事をしている時、同僚との関係でトラブルが起きたり、また同僚が自分に嫌がらせをしたりすることがあって、その人が憎くなったのですね。それでその時悟ったのです。それで本当に辛くなったそうです。そして肉の思いも巡らしたそうです。私一年間、本当に恵みに満たされて毎日が平安だったのに、なぜこんな試練がやってくるのだろうかと思ったそうです。でもその試練があってこそ、また次の段階へ、さらに信仰が成長するチャンスがやってきたということなのですよね。


このように人をそれぞれ練られる段階、方法が違います。ヨブの場合は、一度に、本当に深いところにある悪と罪まで捨てるように、完全に変えられるように、神様がこのように厳しく練っておられるのです。人の心とか器によって違うのです。恵みに満たされている時は、自分が本当に全ての罪を捨てたかのように、今はもう憎い人もいないし、人との関係で、ただ感謝と喜びだけが溢れていると思うかもしれません。でもその後さらに成長するためには、それより厳しい試練がやってくる時もあるのです。その時落ち込んでしまったりしてはいけないのですね。その時これはチャンスだと、私を神様が今もっと成長させてくださるのだ、私の欠けているところを発見させてくださるのだと、感謝しながら祈り、神様に頼っていくならば早く変えられることができます。


しかしそうではなくて、なんでこんなに辛いことにあわせるのか。なんで平安だったのに、いろんな問題がこの様にあちこちから起こるのかと、この様に不満に思ったり、神様に呟いたりしてはいけないのです。それは肉の思いが働くからそうですね。だからまずは自分の心の中にある真理と反対のものは何かを探して、肉の思いを打ち砕くことが大切です。皆さんはイエス・キリストを受け入れて信仰生活をしていて、多くのメッセージを聞いて学んできました。もし今まで聞いた御言葉に完全に聞き従ってきたならば、今ならたましいに幸いを得ていて、すべての点でも幸いを得ていて、健康である祝福を受けているし、家庭も福音化されているし、平和を作っているでしょう。神様の御言葉の中には全ての問題の解決方法があるし、祝福の秘訣があるからです。


でもまだこういう祝福を受けていないということは、御言葉を正確に悟れていないことで、肉の思いがまだあるということです。だから聞き従えなかったのです。真理をたくさん学んで知っていても、自分の心が真理に変えられなくてその真理通りに行っていなければ、御言葉を正確に完全に悟ったと言えないのです。行いのない信仰は死んでいるのです。だから知っていながらも行っていないならば、それは大きい罪になります。だから試練というものは必要です。ただ平安なことがいいのではないのです。本当に自分の信仰が霊の信仰なのか、テストによってチェックできる、そういう試練が必要なのです。自分一人で生きることはできません。いろんな人との関係があるし、仕事もあるし、家庭でのこともあるし、このように置かれている環境の中で一つ一つ変えられていくのです。


ところで信仰歴が長くて多くの御言葉を聞いていると、自分は行ってはいないのに真理通りに生きていると錯覚する場合もあります。表に現れる悪とか何か行いで罪を犯していないし、教会でも奉仕もしているから、自分は教会を愛している、神様を愛している、真実に行っていると思います。しかし心の中で見えないところで、いろいろ悪の感情もあるし、肉の思いもあるのです。表に現れる何か大きい罪とか悪を行っていないのですが、でも悪いことを考えていたり、何かを見て悪い感情を抱いたりすることがあるのです。それを捨てなければならないのです。それを捨てるために試練という過程が必要なのです。


例えばある集まりで、自分がリーダーだった時は、一生懸命奉仕をして仕えていました。でもリーダーとして選ばれなかった時は、どうなりますか?後ろでああだこうだと言っていて、協力はあまりしないのです。自分は、この集まりの発展のために意見を言っていると言うのですが、でも周りの人はその人のため困るのです。その人の顔色を伺っているのです。その集まりの中で、みんなが気を使っているのです。そんな立場になってはいけないでしょう。以前、自分はその集まりのリーダーだったのですが、今は選ばれなくて使命がないから、みんなが気を使っているし、この人がまたあれこれ、ああだこうだと言っているから、今のリーダーも困るのですね。


でもこの人は自分がそうであることが分からないし、他の人がなぜ自分の意見を聞いてくれないのかと文句を言うのです。どれほど高ぶっている姿でしょうか?そして自分についてよく分からないし、錯覚しているのですね。周りの人にもああだこうだと決めつけてしまい、いろんな悪の姿があるのです。でも自分はそれが分からないのです。だからこういう場合は信仰の発展がないのですね。だからこの人が変えられるためには、試練という過程が必要なのです。それで自分を発見できるようになるのです。もちろんいろんな形として試練というものがやってくると思います。心の中で練られる場合もあるし、環境を通して周りの人を通してくる場合もあります。


自分が周りの人に気を使うようにする、そういう立場だということを分からなければならないのですが、そのためにはまずは祈らなければなりませんね。それで、自分の言葉とか行動を一つ一つ思い出して顧みながら、何が間違っているのか、なぜ周りの人がこのように自分の顔色を伺っていながら、困った顔をしているのか、一つ一つ聖霊に伺いながら祈ってみる方がいいと思います。こういう過程がなければ、ただ自分中心で高ぶっていて、周りの人のせいにしているならば、自分は孤立されてしまうし、霊的にも成長できないのです。そしてある場合は、病気とか具合が悪くなるとか、そういう体によって試練が来る場合もあります。でもそのような苦しみがなくても、いくらでも、私たちは御言葉があって真理があるから、祈りながら聖霊様の声を聞きながら自分を発見することができると思います。


ある場合は、先ほど言った例えと反対の場合があります。同じようにある集まりでリーダーとして選ばれなかったのですが、この人はもう自分はリーダーではないから、新しい働き人が熱心に働けるように譲ろうと、自分なりには良かれと思って集まりに行かなかったり、そしてそこで何も言わないで黙っていたりするのです。でもその心の深いところを見てみれば、自分が選ばれなかったことについてもしかして不満があったり、そのような周りの人に対して、何かちょっと虚しい、報われない物足りなさがあるから、集まりに行かなかったり、行っても黙っていたりするかもしれません。そして自分なりには、私はもう今譲っていると思うのです。そして自分なりによくやっていると思うのですね。でも本当に心の中ではそうではないのです。不満があってまた悔しいから、そういう姿として現れるかもしれません。このような微細な悪も発見しなければならないのです。自分はよくやっていると、自分をいつも弁明してはいけないのです。自分の中にそういう悪があるのに、それを自分は認めないのです。そして自分なりには祈っている、神様を愛していると思うのです。


でも実際はその心はそうでないから、神様は自分を発見するように、このような試練という過程を通して練ってくださるのです。皆さんは自分の心の中にある悪を発見して、肉の思いも発見しなければなりません。心にある悪によって肉の思いを巡らすようになって、そして苦手意識を抱いたり、人を妬んだり不満を抱いたり、憶測で物を考えたりする、いろんな形として現れます。皆さん速やかに変えられて、信仰が早く成長する人はどうでしょう。子どものように純粋で、教わったらすぐ聞き従って学ぶのを喜びます。


例えば区域長が祈りについて説明します。祈りは神様の前に祈ることだから、姿勢も服装もきちんとしてひざまずいて、手を組んで声に出して祈ってくださいと言うと、アーメンと言って従います。でも信仰歴が長いある聖徒は、私も知っている、でも状況によってはそうしなくても、神様は全部理解してくださるのに、そんな風にしなくてもいいと思うのです。それが肉の思いなのです。すると自分を発見することができないし、変えられることも信仰が成長することも遅くなるのです。だから肉の思いは早く打ち砕かなければなりません。そうでなければ、変えられることも難しいということを覚えていてください。


元老牧師先生が神様を見つけた後、早く変えられた理由は何でしょうか?それは自分を否定することです。私は正しくない、私の心には善がないと、自分を低くして自分を否定して、神様にだけ聞き従おうとして、御言葉に聞き従おうとしたからです。だから神様がこうこうしなさいと言われれば、ただアーメンと言って聞き従いました。でも肉の思いの多い人はどうでしょう。私もよくやっているのにとか、自分が正しいと思って、自分は間違っていないと思うから問題なのです。だから神様が真理を教えてくださっても、それをそのまま受け入れないのですね。だから自分の心にある悪を発見できないし、認めないのです。でも速やかに変えられたいと思う人なら、まずは自分が正しい、自分はよくやっている、自分がいい人だとか、自分は良い人でしたという、そういう自分について言い訳をする、そういう姿をまずやめなければならないのです。すると速やかに変えられます。(つづく)

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