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ヨブ記講解64 - どうすれば神様を見つけられるか(下)

9月15日
読了時間: 19分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記23:1~3


ここで神様を見つけるとは、神様の実態を見ることではなくて、病気の癒しや問題が解決されることや、心の願いが叶えられるなど、いろんな形で神様の御業を体験することです。それでは私たちはどうすれば神様を見つけることができるでしょうか?ヨブはできればどこで神に会えるかを知りたいと言っていました。神様はどこにおられるでしょうか?神様は光であり善であり真理そのものです。そのうちにおられます。第1、私たちが光・善・真理のうちに留まっていれば、神様を見つけることができます。死んで天国に行って、神様にお目にかかるのではなくて、この地上でも神様を見つける方法があります。これは目で見るという意味ではないと言いましたね。問題が解決され病気が癒されるし心の願いが叶えられるなど神様の御業を体験することを言っています。


そのようになるためには、光であり善であり、真理である神様がおられるそのうちに留まることです。第一ヨハネ1:5に「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」とあります。ヨハネ1:1「ことばは神であった。」とあります。つまり光は神様であり神様の御言葉です。したがって、私たちが真理である神様の御言葉通りに行うことが光の中を歩むことです。反対に闇は敵である悪魔に直しています。闇に属する悪と真理と反対のものを捨てて、御言葉に従うことが神様を見つける道になります。​


また善の内にとどまっていてこそ、神様を見つけることができます。善には肉的な善と霊的な善があります。肉的な善は、人が生まれてから、親や兄弟、先生、隣人を通して学びます。そして偉人の教えを通して学んだり、本を読んで学んだりします。これは善だ、あれは悪だ、これは正しい、あれは正しくないと教わって、自分が見て聞いて感じながら、自分というものを作っていきます。この様に世で学んだ善と悪、正しさなどを、自分の脳細胞にある記憶装置に入力して、心の中にも植えつけておきます。その過程で、自分が善だと思うことを良心と言い、善悪の判断基準にします。ところで人々はそれぞれ違う親、違う環境、違う教育によって教わったから、それぞれ違う肉的な善の基準を作って、だから人によって良心が違うのです。​


例えば、ささいなものでも人のものを黙って使ってはいけないと、教わった人がいるかと思えば、そんな風に教わらなかったし、そのような良心がない人は、このくらいは盗みではないから、大したことではない、悪いことではないと思う人がいます。例えば幼稚園で、友達のおもちゃを黙って使ったり、黙って持ってきたりする場合もあります。それでお母さんが、「これ誰の?どこから持って来たの?」と言うと、幼稚園の友達のだと言いながら、それを欲しいから持ってきたという場合もあります。もちろん、誰のものか分からないまま持ってくることがあるかもしれません。こういう場合は、お母さんがよく正しく教えなければならないでしょう。「人の物を黙って使ってはいけないよ。」と言って、もしそのおもちゃを持って遊びたかったならば、友達に「一日借りてもいい?」と言うとか、「一緒にこれで遊ぼう。」と言いながら、友達に了解を得ることを、教える必要があるでしょう。そして人のものを盗むということがないように、正しく教えなければならないでしょう。するとこの子どもは人のものを欲しがらなくなるでしょう。​


でも親がそれを知っていても、そう大したことでないから、明日返せばいいからと思って、それが悪いということを教えなければ、その子どもはどんなふうに育つでしょうか?些細なことだと思うかもしれませんが、そんなふうにして育ってしまうと、人のものを盗んでおいて、それが悪いと思わなくなってしまいます。元老牧師先生は例えでこういう話をされたことがあります。道を歩いていて、お金が落ちている場合がありますね。そういう場合、それをどうすべきかについて言われたことがあります。ある親はそのお金を警察に届けるようにと、このように教える場合もあるし、そうでなければ、コインとか小さい金額とかで、それを届けても、持ち主を見つけることができない場合がありますね。そういう場合は、子どもがもしそれを持ってきたならば、献金に捧げるようにとか、このように子どもが正しい良心を持つように教えなければと言われました。​


そうでなければ、その金額が大きいとかお札とかならば、ラッキーと思いながらそれを持ってしまう、そういうことがあってはならないように教えなければならないと言われました。人によって良心が違いますね。それを自分がこっそり取ったのに、良心の呵責を感じない人もいるし、そうでない人もいるのです。また良心は、時代や国、また文化や地域によって多くの違いがあります。ですから、人の良心は善悪を判断する絶対的な基準にはなれません。人によって違うし、時代や国、文化や地域によって違います。だから自分は正しいと思っていることは、正しくないかもしれない、自分が間違っているかもしれないと、いつも思っていなければなりません。そうではなくて、自分は正しいと強く思っていて、それを基準にして、相手は正しくない、間違っていると裁いてはいけないのです。


そうでなければ、その金額が大きいとかお札とかならば、ラッキーと思いながらそれを持ってしまう、そういうことがあってはならないように教えなければならないと言われました。人によって良心が違いますね。それを自分がこっそり取ったのに、良心の呵責を感じない人もいるし、そうでない人もいるのです。また良心は、時代や国、また文化や地域によって多くの違いがあります。ですから、人の良心は善悪を判断する絶対的な基準にはなれません。人によって違うし、時代や国、文化や地域によって違います。だから自分は正しいと思っていることは、正しくないかもしれない、自分が間違っているかもしれないと、いつも思っていなければなりません。そうではなくて、自分は正しいと強く思っていて、それを基準にして、相手は正しくない、間違っていると裁いてはいけないのです。


大礼拝の時に聞いたでしょう。善の基準について、また善悪を判断する絶対的な基準について説明しています。それなのに自分の義とか自分の良心をもって、それだけが正しいと思う人がいます。人はみんなそうですね。自分が見て聞いて感じてそれが正しいと思って、自分というものを作ったからです。その自分というものを捨てなければなりません。そうしてこそ神様、真理に従うことができます。私たちは真理そのものである神様の御言葉だけが、善悪を判断する基準にしなければなりません。だから自分の良心を基準にして善だと思っても、神様はそれを悪いと言って、正しくないと言われるなら、それは善ではありません。肉的な善であり自分の義にすぎません。人の良心は、真理と真理と反対のものが混ざっていますが、ほとんどは真理と反対のものです。


でもヨブと友達は互いに自分が正しいと言い張って、互いに言い争っているのです。人をさばいているのです。家庭の中でもこういうことがあるかもしれません。夫婦の間でも相手の性格が気に入らないでしょうか?相手の好みが気に入らないでしょうか?世では、歯磨き粉をどう使うのかによって、喧嘩することもあるそうですが、いつも自分が正しいという基準を持っているから、人は間違っていると強く責めるようになるのです。ある人は、後ろから押す場合もありますが、ある人は、真ん中を押して使う場合もあります。それは本当に些細なことですが、それが気に入らなくて、イライラしてダメ出しをする場合もあるのです。それで夫婦喧嘩になってしまうこともあります。


親子の間でも、もちろん世代の差はあると思いますが。ある方に聞いた話ですが、その方の子供さんが犬を飼いたいと言っていました。でも親の立場では、子どもがちゃんと責任を持って飼うかどうかわからないし、何か理由があるから反対していたのですね。子どもは飼いたいと言っているのに、お母さんはダメだと言って、いけないと言っていて、このように意見が合わなかったのですね。でも子供の方からあまりにも強く何度も言うから、「じゃぁ飼ってもいいよ。」とは言ったのですが、でも心の中ではずっとそれが気に入らないし、モヤモヤしているのです。その話をしていて、私は子どもの立場を理解してあげるようにと言いました。世で悪いことをしたり、世に出て行って世のものに接するよりは、家に可愛いワンちゃんがいるから、家に早く帰って楽しく遊んだりすれば、その方がいいのではありませんかと言いました。


けれども、第一に愛するべきは神様ですね。それをちゃんと教えなければならないのですが、でもその犬を飼うことによって子どもと喧嘩したり、それによってイライラしたりしてはいけないでしょう。私がそのように言っても、その方はあまり喜んでそれを受け入れていないような感じでした。だから親子の関係でも、子どもに対して強くダメだとかいけないとか言う前に、まず子どもの立場を理解して、ちゃんと話し合うことが必要でしょう。そして会社で仕事の関係でもいろんなことがあると思います。自分だけ仕事をたくさん任されたりすることによって、不満に思う人もいるかもしれませんが、でも神様がご覧になるとき、正しいこと、善、真理を思いながら、それを行っていれば、神様が解決してくださるでしょう。もっと心を広くして大きくして、余裕のある心を持って物事を見て感じたらいいと思います。


ヨブと友達は、自分が正しいとだけ思って人をさばいていました。でも神様がご覧になる時は、両方とも良くなかったでしょう。自分の価値基準によって作っておいた肉的な善は、神様とは関係ないから、私たちは霊的な善を所有しなければなりません。霊的な善を持ってこそ、神様を見つけることができるからです。ある働き人はこういう話をしました。うちの担当の教区長は、心にある善ではない姿、また真理と反対のものを正確に教えてくださっていて、とても感謝ですという話をしていました。それで本当に感謝して嬉しかったです。霊的にこのように正確に教えているのだと思って、しかし肉的な人間的な善を持っているだけならば、ただ慰めて大変でしょうとか言ってあげるだけで、実際その人がどうすれば問題を解決することができるのか、その霊的な問題を正確に教えることができない人もいるのです。そういう場合、相手がその場では喜んで受け入れることができないかもしれません。心に刺さってちょっと抵抗感があるかもしれません。しかし後で祈りながら自分を顧みたら、その主のしもべのアドバイスが、本当に正確だったのだと思って受け入れるようになるのですね。そして愛も感じるようになります。


でもそうではなくて、ただお人よしで人間的に優しく接しているだけならば、その聖徒の信仰が成長できないこともあります。ですから皆さんは、自分は霊的な善を持って正確に真理を教えているのか、そうでなければ、ただ肉的な善を持って人に対しているのか、顧みられますように。霊的善は真理そのものである神様から出るものです。神様の本質が善であり、神様の心が善だからです。霊的な善は神様そのもので、真理の御言葉です。変わらないもので真実です。ですから私たちが霊的な善を持つためには、御言葉を聞いて自分の悪と義と枠を発見して捨てていかなければなりません。神様の善に似ていく私たちでなければならないのです。そうすれば神様の子供らしい姿で、神様に愛されるようになりますね。


癒しの集会の時、善について伝えていて、その人物について伝えていますが、その深い善を聞くだけでどれほど感動するでしょうか?そのような善を持っている人は、死を前にしても神様の前に信仰を見せて助かったり、また命を捧げても神様の栄光のために生きたりしました。使徒パウロが毎日が死の連続だと告白したように、私たちも自分というものを発見して、真理と反対のものを捨てて、主が私の心におられるようにしなければなりません。そして神様の御言葉に従って善を行っていけば、真理が根を下ろすようになります。そうすれば主が共にいてくださるようになります。


そして御言葉は神様そのものだから、私たちが御言葉通りに行えば、神様が私たちを守ってくださいます。ヨハネ15:7に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とあります。ですから私たちは自分の肉的な善を捨てて、霊的な善を所有して、善である神様を見つけて体験しますように。


神様を見つけるためには第2、神様を熱心に探し求めなければなりません。箴言8:17に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に探す者は、わたしを見つける。」とあります。どうすれば神様を熱心に探すことができるでしょうか?エレミヤ29:12-13「あなたがたが私を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」とあります。神様の御前で呼び求めて祈れば、神様は聞いてくださり、私たちが神様を心を尽くして探し求めるなら、見つけるようにしてくださるのです。


ルカ18章を読むと一人のやもめと不正な裁判官の例えがあります。あるやもめが裁判官のところにひっきりなしに尋ねて行って、うるさいくらい訴えたら、裁判官がそのやもめのために裁判をしてやりました。そのやもめがずっと来て何度も何度も訴えるから、結局聞いてあげたのです。イエス様もこの例えを言って、ルカ18:7-8でこう言われました。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために、さばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」と言われました。不正な裁判官も、やもめが切に助けを求めたら聞いてあげたのに、まして愛の神様が、子どもたちが信仰で呼び求めているとき、どうして聞いてくださらないでしょうか?ですから必ず神様を見つけようという覚悟で、心を尽くして切に神様を呼び求めて祈り、神様を見つけますように。


自分では解決できない様々な問題があると思います。病気とか色々な問題がある時、それを解決してもらうために、祈りを受けに出てくる場合があります。神様が言われた通りに、神様の前に切に求めて、神様にまずは祈らなければなりません。ただ人任せにして、何が何でも祈りをお願いするよりは、霊の世界の法則があるから、まずは自分が神様を信じて御言葉通りに行いながら、悔い改めるべきところは悔い改めて、罪の壁を壊してから、また神様に切に祈ってから、主のしもべに祈りを依頼すれば、神様が速やかに答えてくださるでしょう。でもそうしないで、ただ人任せにしてはいけないのです。初心の者でまだ信仰がない人に言っているのではありません。皆さんには信仰がありますね。だから神様にその信仰を見せて、神様の前で呼び求めて、切に探し求めなければなりません。霊の世界の法則があります。


次に私たちが神様を愛すれば、神様を見つけることができます。箴言8:17に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。」と言われました。だからそれが神様を見つける道です。でもある人は、愛する者を愛すると条件を付けているからと誤解して、神様を自己中心的だと思うかもしれません。しかし第一ヨハネ4:19には「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあるように、神様は、私たちが神様を愛する前に、まず愛してくださったのです。イエス様の十字架の恵みですね。ローマ5:8に「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」とあります。


神様は私たちを愛するという確かな証拠を、イエス・キリストをこの地上に使わして、十字架で苦しみを受け、私たちの罪をあがなって死なれることによって、救いの道を開いてくださったのです。罪によって死ぬしかなかった私たちのために、イエス・キリストの血の恵みによって救い、永遠の天国に行くようにしてくださいました。このような神様の愛を心から悟っている人ならば、神様を愛するしかありません。それでは神様を愛するとはどんなことでしょう?第一ヨハネ5:3に「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」とあります。皆さんがある人を心から愛しているなら、その人がお願いすることならば何でも聞いてあげようとするでしょう。それが難しい大変なことでも、愛するから喜んで聞いてあげようとします。同じように私たちが神様を愛するなら、当然神の命令を守り、喜んで従うようになります。聖書の御言葉を見れば、守りなさい、捨てなさい、しなさい、してはならないという御言葉があります。神様の御言葉は全て真理であり、光であり、善であり、永遠の命の道に導くものです。だから神様を愛するならその命令を守るでしょう。


信じると言いながら命令を守らない人は、神様を愛することでもないし、信仰もないでしょう。クリスチャンは多くいるのですが、自分なりに神様を信じている、主を信じていると言っています。救い主を受け入れたと言っています。しかし本当に信じているのか、愛しているのかと考えてみれば、そうでない場合もあります。神様がお認めになる信仰はただ頭で知っているだけではなく、御言葉を行う信仰です。だから自分は神様を愛している、信じていると思っているのに、神様を体験していないという人はいないでしょう。御言葉を聞いて知っているだけの信仰、肉の信仰の場合は、答えを受けることができないのです。神様を見つけることもできないでしょう。御言葉を知っているだけではなく、それを行う霊の信仰が必要です。


イスラエルの民はモーセを通して、エジプトで十の災いが臨むのを見て、葦の海が分けられるのも見て、天からマナが降ってくるのも見ました。昼には雲の柱で夜は火の柱で、神様が守ってくださったし、こういう雲の中で、モーセと交わり信じられる証拠を見せてくださったでしょう。だから神様を信じると言っていたでしょう。でもいざ神様がカナンの地に入りなさいと命じられた時はどうでしたか?カナンの住民を恐れて従いませんでした。その時神様は、あなた方は私を信じないから従わなかったと言われました。民が心から本当に神様を信じていたなら、聞き従ってカナンの地に早く入れたでしょう。しかし信仰がなければ、御言葉に従えないし、御言葉に従えないことは神様を愛することではないということを悟りましょう。


イエス様はヨハネ14:21で「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」と言われました。神様が私たちにご自身を現わしてくださることは、私たちが神様を愛して神様も私たちを愛してくださる時です。互いに愛し愛される関係でなければならないのです。私たちが神様を愛して戒めを守り行うなら、神様は必ず私たちを愛するという証拠を表してくださいます。いつも私たちと共におられ、心の願いを叶えてくださるだけではなく、いろんな病気や事故から守ってくださるなど、私たちの日常生活でも祝福が溢れるようにしてくださいます。この生き方が神様を愛することであり、神様を見つける道なのです。


ところが、私たちが熱心に神様を探して求めても、見つけることができない場合もあります。イザヤ59:1-2に「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。神様には全ての問題を解決することができる力がありますが、私たちが罪を犯して罪の壁を作ってしまえば、それは仕切りになって、いくら断食して祈っても神様は聞いてくださることができないのです。ですから神様を見つけるためには、まず罪の壁を壊して、神様がおられる真理と善と光のうちにとどまっていなければなりません。


ところで神様を自分の目で見てこそ信じるという人もいますが、皆さん暑い夏の日に、昼の太陽を直視すれば、失明してしまうのですね。同じように罪がある人が、光そのものである神様を見ると死ぬのです。光と闇は共存できないように、罪のある闇の人が光である神様を見ることはできません。ですから神様は、私たちが光の中を歩んでいて真理でとどまっている分だけ、ご自身を現わしてくださいます。ですから悪はどんな悪でも避けて完全な善を所有しますように。


結論です。愛する皆さん、神様は愛する子どもたちに霊肉ともに良いものを与えようといつも備えておられます。誰でも自分から心の扉を開いて、心から神様を熱心に探し求めれば、ご自分を現わしてくださり、祝福してくださいます。ヨハネ黙示録3:20で主はこう言われました。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」ところで、神様を見つけることにおいて、一番基本的であり重要なことは、熱心です。まず心にある世のもの、虚しい情欲など、神様を探すことができないようにするものを捨てなければなりません。


今、神様を見つける方法について伝えています。初心の者の方に言っている内容とは違います。初心の者なら、礼拝や賛美などで神様を見つける方法を伝えますが、今はそれよりも深い内容です。既に神様を見つけて体験した皆さんが、時には神様との関係が遠くなったり神様から遠ざかったりする時、神様との関係を回復するために、神様を見つけるための方法を伝えています。初めて見つける方法を提案しているのではありません。神様を見つけて体験したのに、ある時からその関係が前とは違って、信頼性が落ちてしまったとか、遠ざかったとかそういう場合、その関係を回復するために、初めの愛の時の熱さを回復したいと思っていますか?それならばもっと熱心でなければなりません。もっと切に神様の前に出ていって、呼び求めなければなりません。


大礼拝の時も聞いたでしょう。世の肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などをまず捨てなければならないのです。私たちの周りにはいろんな証拠があって、神様は生きておられるという証があります。そして頭では知っています。神様を見つけて体験しなければならない。それが幸せな道だと知っています。でも自分の心に肉が多いから、悪が多いから、欲があるから、それを握っていて捨てることが嫌なのです。でもそれを捨ててこそ、神様への心が熱くなり、熱心に神様を探して求めるようになります。すると神様はご自身を現わしてくださるのです。謙遜に神様の前に出てきて求める時、神様が心に臨んでくださるのです。


ところで、人々はほとんど試練にあったり苦しみにあった時、心が貧しくなって謙遜になります。今皆さんに何か問題があるならば、神様を熱心に探して見つける機会にしてください。イザヤ55:6に「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」とあります。ですから神様を熱心に探し求めて、御言葉と祈り、賛美と礼拝を通して、神様がおられるところに近づいていきますように。そうすれば神様がご自身を現わしてくださるでしょう。詩編40:2に「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」とあるように、どんな試練の中でも救い出してくださるでしょう。そして毎日一瞬一瞬、善、光、真理のうちにとどまっていて、神様を見つけて体験し、恵みと平安、答えと祝福がいつも溢れますよう、主の御名によって祈ります。


聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様感謝します。今日ヨブが言い訳をしている姿を見ました。神様の前で嘆いていて訴えていて恨みの心がありました。私たちはヨブの姿を見ながら自分自身を発見するようにしてください。神様に対してだけではなく、人間関係でも自分が置かれている環境に対しても、それによって怒ったり嘆いたりうめく姿があるのか、顧みられますように。そして神様の温かい御手を体験して神様の懐に抱かれるためには、神様が望んでおられる善と光と真理にとどまるようにしてください。私たちの祈りを聞いてください。感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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