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ヨブ記講解75 - まことの義人は(2-上)

4 日前
読了時間: 13分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記27:3-4


前回は、相変わらず自分を義人だと錯覚しているヨブの姿を調べてみました。自分は正しく生きていたのに、恐ろしい怖い神様が自分を苦しめたと言っていました。今、ヨブは神様を恨み、裁き、友達と言い争っていながら、それは自分が悪いわけではなく、神様がこんなふうにしたからだと言いました。しかしそう言っていることが全然正しくない姿であり、悪い姿ですが、ヨブは自分自身について全然悟れないのです。私たちもこういう姿があるかもしれません。相手が憤ったり言い争ったり、自分を主張しているなら、私たちはどうでしょう?それを見て聞いて、イライラしたり、もやもやして、その人に言い返したりすることはありませんか?そういう場合、私は悪くない、相手がそんなふうにしているから我慢できず、一言、言ってやったとか言うかもしれません。しかしそう思っていては霊的に変えられないのです。​


相手が悪くてもどんなに激しいことを言っていても、自分はそれに全然影響を受けないのが、神様の前では良いのです。感情的になったり、かっとなったり、イライラしたりしてはいけないでしょう。ですから私たちは、いつも真理を基準にして、落ち着いて穏やかな心で相手にもアドバイスをする時もあるし、時には黙っていた方がいい時もあります。しかし我慢できず一言、言ってやらなければと思ったり、イライラして言い返したりすることもありますね。相手が悪いのにと思ったり、あの人があまりにもひどいことをするからとか、このように相手のせいにしてはいけないのです。今、ヨブが神様につぶやいていて不平を言っていて、また誤解している姿がありますが、神様に対してはそうでなくても、私たちは周りの人に対してはどうしているのか顧みますように。ヨブのように自分を言い張っている時は、目が遮られていて、自分が正しくないことがわからないのです。私たちは自分を正確に見つめなければなりません。​


そのためには、神様が正しいと認めてくださるまことの義というものが何かを知って、真理を基準にして自分を顧みなければなりません。今日メッセージを聞いてまことの基準について悟り、自分が見て正しいことではなく、神様がご覧になるとき正しいことを行う皆さんになりますように。今年の教会の祈祷課題の第一は、「義人は信仰によって生きる」ですね。だからその義人というものが何かを悟りますように。自分の日常生活で、自分はこれが正しいと考えてそれをしているのに、なぜ神様は私を助けてくださらないのかとか、なぜ人は認めてくれないのかと思ってはいけないのです。皆さんが属している宣教会とか教区があると思いますが、教会で何かを決定して進めるときは、人が見て正しい方ではなく、神様が御覧になって正しいことが何かを悟って、その方向に行かなければなりません。そうでなければ、人の思いによって間違った道に行ってしまえば、神様が共にいてくださらないのです。ですから、私たちは何かを決める時や何かをする時も、自分が見て良いと思うことをしているのか、そうでなければ神様がどう思われるだろうか、神様が見て正しいのかをまず考えなければなりません。


本文ヨブ記27:3です。


私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり(ヨブ記27:3)


2節でヨブは自分の権利、自分の義を神様が奪い取ったと、自分のたましいを苦しめたと言っていたのに、どうして今は神の霊が自分にあると言っているのでしょうか?また自分の息が自分のうちにあるというのでしょうか?これは今、自分は死にかけている人ではなく、まだ生きている、まだ話せる力があるということを表現するためです。また友達が、今、自分にどんなふうに言ってくるか予想されるから、それを前もって防御するためです。例えば、人がとんでもないことを言えば、周りの人が、「あなた正気ではないのね。おかしいよ。」とか言うかもしれません。今もヨブが言っていることを友達が納得できなくて、「あなたは狂っているのか。」というかもしれないでしょう。でもヨブは、「そうではない。私は今正気だと、私はきちんと自分の言いたいことを言っているのだ。」と、主張しようとしているのです。


皆さんはどうでしょうか?相手が自分の話を聞いてくれない時がありますね。自分が主張していることや、自分が正しいと思っていることを言っているのに、相手が無視したり受け入れない時があります。それならどう言いますか?私はそれでも働き人なのに、教会でこれくらいはやっていたのに、なぜ私を認めてくれないのかとか、私の話を聞いてくれないとかという人もいます。前だったら、元老牧師先生は私を認めてくれたのに、なぜあなたは私の言うことを聞かないのかとか、こんなふうに思う人もいたかもしれません。自分は今正しいことを言っているのに、友達が自分の言うことを聞いてくれないし無視するから、ヨブは、私は今間違っていないと、自分は正気で言っている、おかしいのではないと言うのです。ヨブは2節では、神様が自分の権利を取り去ったと言いながら、自分のたましいを苦しめていると言ったでしょう。それを聞いた友達がどんなに激しく反論してくるでしょうか。もうあなたを相手にしたくないと言って、話を聞こうとしないでしょう。だからヨブはこれからも「自分が正しい、神様は悪い」と言いたいのに、友達が聞いてくれなければいけないから、「私の話を聞いて」というふうに、友達を集中させるために、こんなふうに言っているのです。それではヨブが友達の関心を引いた後、どんなことを言うのか調べてみましょう。


ヨブ記27:4です。


私のくちびるは不正を言わず、私の舌は決して欺きを告げない。(ヨブ記27:4)


不正とは辞書では、正当とみなされる手段や方法を用いないことです。また欺きとは、言葉巧みに嘘を言って、相手に本当だと思わせることだとあります。ところで今ヨブが言っている不正とは、事実ではないことを事実のように言っていることです。また、欺きは不正よりも悪いことで、偽りをでっちあげて、それによって人に害を与えることです。ヨブはこれまで友達が言っていることを見たら、それは不正だし欺きだと思ったのです。なぜならヨブは自分自身を見れば、自分は正しくないところもないし人を欺いたこともないからです。だからこんなふうに言っているのです。でも霊的に見てみればヨブが言っていることは、今までとても正しくないことをたくさん言ってきました。神様の観点から見れば、寛容できないことも、我慢できないことも、人を憎むことも全部不正ではありませんか?でもヨブは人が自分を憎むから私もその人を憎む、人が自分を叩いたら私も叩き返すことは不正ではない、悪くないと思っています。自分を正しいと思っています。誰かが自分を欺かなければ私も欺かない。誰かが自分を攻撃しなければ私も攻撃しない。つまり自分の方から先に相手に被害を与えないから、自分は悪くないと思っているのです。


友達との関係でもそうでした。友達がまずヨブの神経を刺激して攻撃してきたから、自分もそれに言い返しただけだと思うのです。なぜならヨブは肉の人だったからです。もちろん旧約時代には目には目、歯には歯というのが律法でした。例えば誰かが自分の目に傷をつけたなら、自分もそう相手にやり返すこと、また歯を折ったなら自分も相手の歯を折ることが正しいと思っていました。でも神様がこういう律法をくださったのは、人の頑なな心のせいでした。旧約時代には聖霊が来られる前だったから、人は自分の力では心の割礼ができませんでした。だから人が感情的になって、自分が被害を受けたこと以上に復讐することを防ぐために、神様は厳しい律法をくださったのです。


でも新約時代には主を受け入れて聖霊を受けた聖徒はどうでしょうか?復讐しないで敵をも愛しなさいという戒めも、いくらでも心で理解できるし、また行うことができるのです。それはイエス様がまず十字架の犠牲を通して、手本を見せてくださったからです。また心に聖霊がおられるからできるのです。新約時代では心の割礼ができるのです。右の頬を打たれたら左の頬も向けることができるようになったのです。このような旧約と新約の違いを、聖書の一つの例を挙げて調べてみましょう。マタイ19章を読むと、イエス様は結婚と離婚について言われたことがあります。男性と女性は2人ではなく結婚したなら1人になると、神様が結び合わせたものを人が引き離すことはできないと言われました。しかしパリサイ人は、「では、モーセはなぜ離婚状を渡して妻を離別せよと命じたのですか?」と言いました。イエス様はマタイ19:8で、「モーセはあなた方の心がかたくななので、その妻を離別することをあなた方に許したのです。しかし初めからそうだったのではありません。」と言われました。神様は男女が結婚して夫婦になったならば、変わらずに愛し合って幸せに生きることを望んでおられます。しかし律法に、離婚状と離別することが書いてあることは、人は心が変わるしまた悪いからです。


例えば、奥さんが姦淫したこと貫通したことを主人が知って、到底許すことができなくて苦しいとしましょう。その心が愛の心に変わらない限り、離婚しないで一緒に暮らすからといって幸せにはなりませんね。いつもそのため喧嘩するでしょう。また憎んでいるままなのです。許したと口では言っていても、それをずっと覚えていて、許さないままずっと憎んでいるとしましょう。すると二人ともどれほど辛いでしょうか。苦しいでしょうか。許せばいいのに、でも人の心はそうでないから悪い心があるから、神様はこのような人のかたくなな心を知っておられるから、一方で離婚について規定をくださったのです。人を憎んで互いに争って、互いに一生敵として生きることを思えば、それ以上一緒に暮らさず別れた方が良いということを言われたのです。でも神様が本当に望んでおられることはそうではないのです。離別しないことですね。許すことです。相手の欠点や相手の過ちがあっても、愛を持って覆って許す心を神様は望んでおられます。


例えば旧約の律法によれば、姦淫した女性は石を投げて殺すことになっています。姦淫した女性がいるならば、村の人々がその女性を殺すことになっています。ところで乙女マリアと結婚を約束したヨセフはどうでしたか?まだ二人は一緒になっていませんでした。しかしマリアが妊娠したことがわかったのです。それなら、それは姦淫したと考えられることではありませんか。しかしヨセフはどうしたのでしょうか?律法通りにしましたか?旧約の律法には姦淫した女性は石で打って殺すことになっていましたが、ヨセフはそうしませんでした。ヨセフは正しい人だから、心の良い人だから、マリアをかわいそうに思ったのです。それで人にそれを伝えないで内密に去らせようとしました。律法通りに罪に定めなかったのです。周りの人にその話をしなかったのです。内密に去らせようとしました。つまり結婚すること、約束したことをやめることだったのですね。静かに人に言わないまま。ヨセフの心が良かったから、正しい人だったからです。神様はこのような心を望んでおられます。これが、神様が正しいと認めてくださる義なのです。


私たちはこのような御言葉によって、自分の心を変えさせなければなりません。御言葉通りにするなら損することばかりだと思いますか?どんな人でも赦すべきなのかと思うかもしれませんが、しかしそうするからといって損することはありません。神様が認めてくださり、神様が高くしてくださいます。もしかして、ヨセフがマリアを律法にある通りにしたからといって、それが罪になるのでもありませんでした。しかしヨセフの心はそうではなくて、愛があったから、神様の愛を持っていたから、そのように良い業が出たのです。だから神様もその心を喜ばれました。イエス様がこの地上に来られて愛によって律法を全うされた後は、「敵をも愛しなさい。」と言われました。イエス様が十字架の愛で私たちの罪をあがなってくださり、それを信じる人には聖霊を遣わしてくださいました。聖霊が悟らせてくだされば、光である神様の心が理解できるし、私たちの心が真理によって変えられます。神様が律法に込めてくださった愛を悟って心から聞き従って行うことができます。


旧約時代には、人の力では心の割礼ができませんでしたが、新約時代には聖霊が心に来られておられるので、聖霊に助けられて心の割礼ができます。人を赦して譲って犠牲になって仕えることができます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実を結ぶことができます。生まれつきの性格は直せないとも言いますが、聖霊に助けられれば性格を直すこともできます。イスラエルの指導者モーセは、前は自分の感情に負けて人を殺す人だったのですが、神様の力によって変えられて、地上の誰にも勝って非常に謙遜だと認められる人になりました。イエス様の弟子ヨハネは、短気な性格だったのですが、主の愛に似て、穏やかな優しい人になりました。このように神様の恵みと力によって、聖霊に助けられれば、私たちは性格も変えられるし、どんな人も赦すことができるし、敵をも愛することができます。ですから、神様の御言葉を守ることが難しい、きついと言わないで、私も変えられると、必ず正しくなれると決心して努力する皆さんになりますように。神様は旧約の律法をくださるときは人の頑なな心を知っているから、復讐するとき、自分がやられたこと以上に復讐しないように、そのような律法をくださったのですが、その律法通りにすることを人々は罪だと思わないで、それが正しいと思ったでしょう。旧約の人々はそうでした。また行いで罪を犯さなければ、それは罪だと思わなかったのです。


でも新約で聖霊が来られている今の時代ではそうではありません。心にある悪も捨てなければならないし、実際に何か悪いことをしなくても、心の中で考えることとかも罪なのです。私もこのメッセージを聞いたときは、とても恵みを受けて、自分を顧みて悟りました。そして悔い改めました。私が人に何か迷惑をかけたり悪を行うことはなかったのですが、でも周りの人の中で誰かが私のことを嫌がったり憎んだりしていたなら、私はその人を避けたりしていました。そして私は何かあの人にしたこともないのに、なぜ私にあんなことを言うのだろうかとか、なぜ私を無視しているのかと考えたことはありました。私はそれが悪いと思わなかったのですが、このメッセージを聞いた後は、私は本当に悪い人だったのだと分かるようになりました。神様が本当に正しい良いと思っておられることは違うのだと思いました。どんな人に対しても、同じように善を行って、愛を行って、また赦すことができる心が、神様が望んでおられる心だったのです。でも私は、そうできなかった姿がありました。私は自分なりに自分は正しいことをしていて、御言葉通りに生きている、人様に迷惑もかけないし、何か悪い行いをしたこともないけれど、それでいいと思っていたのです。


でも神様が望んでおられる善はそれだけではありませんね。人のために犠牲になることで、命まで与えることです。また自分に悪を行う人も、愛すること受け入れることなのです。それで私はその時メッセージを聞いて悟って悔い改めて、もっと高い次元の善を所有しなければ、もっと心を広くして、もっと神様の善と愛に似ていかなければと思いながら祈りました。そのような恵みの時間がありました。皆さんはどうでしょうか?ヨブのように考えている人もいるかもしれません。自分が先に人に害を与えていないから、自分は正しいと思っているかもしれませんが、でも人から害を受けた時、自分はどうしているのかを、顧みなければならないのです。敵を愛するということが簡単なことではありません。皆さん、神様が望んでおられる義というもの、神様が正しいと見られることをさらに深く悟りますように。それでまことの義人になりますように。

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