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ヨブ記講解70 - 本性の中の悪(上)

9月16日
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記25:1-6


ヨブ記24章で、ヨブは、神様は悪者たちを罰しないで、かえって助ける悪い神様だと裁いていました。神様が悪者たちを守っているから、死んで当然の者が、かえってうまくいっていると誤解していました。ヨブはこのように悪者は死ぬべきなのにと思っているのです。そしてどう言いましたか?私だったら悪者はすぐ断ち滅ぼしてしまうのにと言いながら、悪者に対して呪っていました。そして、それが正しいと思っていて、堂々と自分の主張をしていました。ここで考えてみたいと思います。皆さん悪者に対してヨブはさばいていて呪っていました。ヨブはそうしていました。そして自分が神様のようになって裁いていました。罪に定めていました。ヨブにそのような権限がありますか?そしてヨブが呪ったからといって呪いが臨むのでしょうか?そうではないでしょう。しかしヨブはそのような呪いを口から出してしまいました。またその悪者たちは死んで当然だと思っていました。そして裁いてくださらない神様が正しくないと言っていました。そして自分が正しいと言っていました。​


皆さん、これを自分自身に代入してみてください。皆さんは悪者たちに対してどんなふうに考えていましたか?悪い人なのになぜうまくいっているのかとか、悪をひどく行った人がなぜ成功するのかとか、それについて腹を立てたことはありませんか?それはヨブと同じ姿ではありませんか?ヨブは今、あまりにも厳しい試練にあって苦しんでいるから、心の深いところにある本性の中の悪が現れているのですが、皆さんはどうでしょう?自分なりに御言葉を聞いて悟ったと思って、自分なりに祈っているのに、なぜ答えもないし祝福もないのかと思っていますか?それなら神様に対して不満を言っているようなことです。それはヨブと同じ姿ではありませんか?ヨブはこのように神様につぶやきながら、自分は正しいと思っていました。私たちにもそういう姿があるかもしれません。人を見てああだこうだと心の中でさばいているのではありませんか?あれは正しい、あれは正しくない、あれは間違っていると、自分が裁判長になって、そのように裁いているのではないでしょうか?​


自分は自分の義によって正しいことをしていると思っているのです。でもそれは神様の御目には正しくないのです。自分の義に過ぎないのです。だから徹底的に自分の義を打ち砕かなければならないのです。教会の試練の時も自分と意見が合わない人や、教会に対して悪いことをした人を見る時どう思いましたか?どんなふうに言っていましたか?それを顧みますように。それで徹底的に悔い改めて、自分の心に潜んでいる悪も捨てなければならないでしょう。ヨブは自分の立場で自分の悪で持って悪者たちだと言いながら裁き、神様が彼らを守っているから罰してくださらないから、神様が悪いと言っていました。ところが神様の心をあまりにも知らないのです。誤解しているのです。父なる神様は一人を全世界より尊く思われる善と愛の心です。しかしそのような心がわからないのです。だからヨブは神様を誤解していて、自分が神様より正しいと思っているのです。一人も地獄に行かないように望んでおられ、悪者でも立ち返る機会をくださり、忍耐を持って待ってくださる神様の善と愛を悟って、敵をも愛して善をもって悪に打ち勝たなければなりません。​


25章ではヨブの友達ビルダデがまた登場して、ヨブの言葉に対して反論していきます。一人の話が終わったらすぐもう一人がその話に反論していく、そのような激しい戦いはいつ頃終わるでしょうか?私たちはヨブと友達の話を聞きながら、霊的に見分けて自分を発見しなければなりません。ヨブと友達の言い争いがいつ終わるのでしょうか?今ヨブ記講解を聞きながら、ヨブ記講解って長いなぁ、いつ終わるのかと思ってはいけないでしょう。メッセージを聞いたなら日常生活で自分を顧みて、家庭の中で私は配偶者とまた子供たちの間で、いつ頃このような喧嘩が終わるのだろうとか、もめ事がなくなるだろうとか、一緒に働いている人々の中で、いろんなぎくしゃくがいつ終わるのだろうかと思っていますか、早く終えてください。​


それでは今からビルダデがどんな言葉でヨブに反論するのか顧みます。25章は短いので今日は26章まで見てみます。26章ではヨブがまた反論していきます。これまでヨブは自分の考えの中で神様を裁いて罪に定めて、自分が神様のようになって悪者を呪っていました。ところで本文を見るとヨブの友達のビルダデもヨブのように自分の思い込みの中で神様について、ああだこうだと言います。でもその言葉は合ってないし矛盾しているのです。


ヨブ記25:1-2です。


シュアハ人ビルダデが答えて言った。主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。(ヨブ記25:1-2)


これは神様が悪者を懲らしめないで、助けて守っている悪い方だと言っていたヨブの言葉に、反論するための言葉です。つまり神様が悪者を罰することがないのは、神様が正しくないからではなく平和を作るからだと言っています。ヨブの友達は、前にはヨブに立ち返りなさい、悔い改めなさい、あなたが悪いから罪を犯したから、神様が懲らしめて呪っているのではないかと言いました。でも今はその話を翻して全然違うことを言っています。このように言っていることがコロコロ変わるのです。こういう現象は自分が正しいと主張する人々によくある姿です。


例えば、韓国の朝鮮時代には、政治家の中で強硬派とか穏健派とか党派があって、党派争いが絶えなかったのです。歴史ドラマを見てみると、そのような人々は、自分の党の人々の話は全部正しい、相手の党の話は全部違う、間違っていると主張していました。客観的に判断できないのです。今日も同じです。どの党にも良い面と悪い面があるのに、自分が属している党に合わなければ、相手の党をけなして非難するのです。そして相手がいくら正しいことを言っても、それを認めないし、何とかして欠点とか言いがかりを見つけて、相手を否定しようとします。こういう場合は、その目的が相手の話、主張を握りつぶそうとするから、つじつまが合わないことを言ってしまうのです。


ビルダデもそうでした。ヨブが言っていることが間違っていると反論しようとしたら、前と反対のことを言っていて、神様の御心も知らないまま、真理を自分の都合に合わせて引用しています。ヨブが、神様は悪者を懲らしめないと言っていたから、それを否定するためにそうでない、神様は平和を作っているのだと言っているのです。でも神様は決して悪者と妥協する方ではありません。ただし、悪者でも悔い改めて立ち返ってほしいから、機会を与えて待ってくださる愛と憐れみの神様です。神様が悪人をすぐ罰することがないという理由は、ただ平和を作るために妥協するからではないのです。それはその悪者でも愛して悔い改めるために機会を与えることです。でもビルダデはそれを間違って解釈して、このように真理の言葉を引用しています。私たちはこんなことがあってはいけません。真理の御言葉は必ず御霊によって悟って、自由をもって適切に使わなければなりません。自分の利益のために御言葉を引用してしまえば、相手を裁いてしまうかもしれないし、その中にある下心が結局は明らかになります。


ビルダデは真理を引用していますが、その心の中を見てみれば悪い意図を持って使っていました。ヨブの言っていることを否定するために、それを握りつぶすために、このように自分が知っている真理を引用しているのです。私たちは真理の御言葉で正確に照らさなければならないのです。ヨブ記講解を聞いていると、ヨブと友達の心の中を見ることができますね。でも真理の御言葉の霊的な意味を悟れずに、文字面だけで解釈してもいけません。御霊に感じて解き明かしてくださる真の牧者がおられることに、どれほど感謝でしょうか。ある単語がその文章の中でどんな意味を持っているのか、そしてそれを言っている人がどんな意図でその表現を使っているのか、そしてそれは文字面だけでは真理のように見えても実際はそうでない、また文脈とか単語によって何が正確な真理なのかも、私たちは正確に知っていなければなりません。ですから神様の御言葉を引用する時も気をつけなければなりません。聖霊によって正しく悟って伝えているのか、そうでなければ自分の都合に合わせて自分の利益のために引用しているのではないか、顧みなければなりません。そうすればそれは命にならないのです。


続く本文を読むとヨブ記25:3です。


その軍勢の数ほどのものがほかにあろうか。その光に照らされないものがだれかいようか。(ヨブ記25:3)


とあります。ここで軍勢とは神様が働かれるすべての力と権威を言っています。神様は数え切れない天の軍勢と御使いを治めているほど、その力と権威が大きいのに、悪いものを断ち滅ぼさないのは平和の神だからと言っています。これはビルダデが、自分が言っていたことの裏付けをするためでした。2節3節をまとめて解釈してみれば、神様は大きい力と威厳を持っていて、高きところで平和を作る方だから、悪者でもみんな許してくださるのではないか。神様の権威と力をどうして数えることができるのか。神様には多くの軍勢と御使いがいて力があっても、良い人でも悪い人でも誰にも光を照らしてくださり、平和をくださる方ではないかと言っているのです。よく人々が言い争う時、自分が言ったことを裏付けるためにいろんな知恵を絞るのですが、すると悪も出てきて嘘が次々と出てくる場合があります。すると後にはものすごく悪い結果をもたらすのですが、自分は嘘をついたと認めないのです。


ビルダデは自分の言っていることが正しいということを主張して、ヨブが言っていることは一つも合わないし、とんでもないことを言っているとヨブをけなしています。以前ヨブはヨブ記24:13で、「これらのものは光に反逆する者で、光の道を認めず、また、その通り道にとどまらない。」と言っていました。その時ヨブが言った光に反逆する者とは、霊的な意味として、正しい道から離れた不義な人だと言いました。しかしビルダデは、その光に照らされない者が誰かいようかと言って、24節でヨブが言ったことを否定しているのです。二人とも光という言葉を使って言っているのですが、それぞれ意味が違うのです。ヨブは霊的な意味の光、つまり正しさ、義を意味する光を表現したのですが、今ビルダでは肉的な意味として、つまり太陽の光として説明しています。ヨブが言っている時その意味がわからないから、そのように自分なりに反論しているのですが、ビルダデが言っていることは合わないのです。


私たちはこういう姿を自分自身に代入しなければなりません。人と話をするとき相手は霊的な意味で話をしているのに、聞いている人は肉的な意味として受け入れるから、互いに話が通じないとか誤解する時があります。今ビルダデはヨブを悪い人として攻めようとしているから、ヨブがどんな意味で言っているのかも正確に知らないまま、攻撃しているのです。これは人々が話をする時よくある現象です。自分は霊的な意味で言ったのに、相手は肉的な意味として受け入れるのです。また広い知識がないまま、自分の知識の限界の中で、自分の考えだけが正しいと思って主張する姿もあります。それで教会の中でも話をするときそういうことがあります。信仰の話をしても相手はそれを理解できないし、人の思いの中で誤解する場合があります。24章で、ヨブは光を霊的な意味として言ったのですが、ビルダデはそれがわからない、理解できていないから、肉的な意味で自分なりに言っているのです。


教会でも神の働きをするとき、信仰で話をしているのに、聞いている人はそれが理解できないから誤解することがあります。それなら一緒に働く時困りますね。だから信仰も同じくらいの信仰の人と一緒に働く方が楽でいいでしょう。しかし肉の人はその信仰がわからないし、理解できないから協力しないし、いろんな問題を起こすのです。皆さんも宣教会とかいろんな団体で、もしかして自分が神様の御心を理解できないまま、人々を困らせる人ではないか顧みますように。1年間どうだったのか顧みますように。ある人はごく一部分を知っていながら、全体を知っているかのように言って、言い争ったりするのです。ですから私たちは、自分が知っていることがいくらでも、事実と違うこともあるし、ある一つの分野だけかもしれない、ということを知って、いつも謙遜な心で聖霊によって見分けましょう。


続く本文ヨブ記25:4です。


人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか。(ヨブ記25:4)


昔、韓国には男尊女卑という思想がありました。男性を重く見て女性を軽んじること、そういう考え方ですね。ヨブが生きていた時代にもそうだったようです。それで本文に女から生まれた者とは、とても低い卑しい存在という意味で言っているのです。友達が考える時は、ヨブが悪いから呪われているのは確かなのに、ヨブは自分が正しいと主張しているから、あなたは低い卑しい者なのに、どうして正しいと言うのかという意味で、女から生まれた者が、どうしてきよくありえようかと、皮肉を言っているのです。続く本文を読むと、ビルダではまるで詩を読むように言っています。


ヨブ記25:5-6です。


ああ、神の目には月さえも輝きがなく、星もきよくない。ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである。(ヨブ記25:5-6)


多くの人が、夜空でキラキラしている星を見たり、光を照らしている月を見ると美しいと思い、いろんな想像をします。韓国にはこういう童謡があります。青空銀河水の白い船に、カツラの木と兎一匹という歌詞の歌です。最近もこういう歌を歌ってますか?まあ、こういう歌を知っているか分かりませんが、私の子供の時はこういう歌をよく歌っていました。このような歌詞のように、子供の時は月の中にはカツラの木があって、その下で兎が餅をついていると想像していました。そして、今も夜空を見てみると、キラキラしている星を見たり、大きい月を見たりすると、いろんなことを想像したりするのですね、子どもたちは。ヨブの友達ビルダデはそういう宇宙、月とか星を、神秘的な憧れの対象として思っていました。それで人の子らを星よりも月よりも劣っている存在と思っていました。


それで人間をうじや虫けらに例えているのです。高き所におられる神様の目には、普段ビルダデが憧れていたその月も輝かないし、星も綺麗と言えないと言いながら、人はうじや虫けらのような存在だと言っています。皆さんこれは合っていますか?これは全体的に合っていない内容です。主客転倒した表現だと言えます。神様は私たち人のために太陽と月や星を作ってくださいました。親は生まれてくる赤ちゃんのために部屋も用意して、服とかベビーカーとか靴とか必要なものを用意しておきますね。そして子供が生まれたら、とても喜んであまりにも可愛くて、目に入れても痛くないほどだと表現したりします。そして親にそっくりの子供なら、もっと喜ぶでしょう。神様もそうです。6日間天地万物を創造して、人が生きていける環境を美しく造ってくださった後、神様の形に人を造ってくださいました。神様に似た子供として造ってくださったから、神様が私たちを愛してくださるのは当然でしょう。一人の人を全世界より尊く思うくらいです。そして人を万物の霊長として立ててくださったことを知っているなら、どうして人の子らをうじや虫けらに例えることができるでしょうか。


もちろん神様は肉の人ではなくて、神様に似た真理の人、御霊の人をさらに尊く思われます。それで私たちが御言葉通りに生きてきよめられればさらに喜ばれ、限りない恵みと愛を施してくださいます。それでは聖なる神様に似た子供を、月とか星と比べられるでしょうか?神様が人より月と星をもっと大切に思うことは合っていますか?それは自分が産んだ子供より、子供のために用意したものをもっと愛するという言葉のようです。子供を愛するから子供のために、服とかおもちゃを用意したのですね。創世記を読むと神様は6日間創造されたのですが、悪い霊どものある大空を造った2日目を除いては同じように、神は見てそれを良しとされたと言われました。創造の第4日には太陽と月と星を造られて、それも神は見て良しとされたとあります。だから神の目には月さえも輝きがなく星もきよくないのではなくて、大切な子供のために創造されたものだから、月も星も大事にされるのです。そして第6日目、人を創造した後は、見よ。それは非常に良かったと表現してあります。


ただ良しとされたのではなくて、人を創造された時は非常に良かったと言われました。これは神様がアダムを通して多くの真の子供を得ることを信じて期待しておられたからです。ところで神様が人間耕作の中で悪い人、ひどい罪を犯す人が出てくることをご存知ではなかったのでしょうか?知っておられました。そんな悪い人もいるのにと思って、人を作ったことを後悔したのではありません。真の子供を得ることを信じて期待しておられるのです。今も。だから皆さんも神様の前で自分自身はあまりにも価値のない存在だ、あまりにも自分は欠けているところが多いから愛されていないだろうと思ってはいけません。神様は皆さんをとても愛してくださる方です。だから一人子イエス・キリストを犠牲にしてくださいました。もちろん他の人全ての人の救いのためですが。皆さん一人ひとりのためにそのような大きい犠牲を払ってくださった方です。そして今まで人間耕作をしておられるから、必ず真の子供に変えられようと決心して努力しなければなりません。


罪を捨てるのがきつい、辛いと、なぜこんな人間耕作があって、私をどうして生まれるようにしたのでしょうかと、ヨブのように神様の前につぶやいてはいけないのです。どれほど神様が悲しまれるでしょうか。人間耕作は神様の愛です。その心を悟って真の子供になるために、今日も明日も変えられていきましょう。私たちは必ず神様に似た真の子供になり、神様に喜ばれるためにさらに努めていきましょう。そして自分だけではなく兄弟姉妹も神の形に作られた大切な存在であることを忘れないで、互いに尊く思って愛し合いましょう 。ヨブと友達のように互いにけなして非難したり傷つけたりしないで、互いに慰め合って力づけて仕えましょう。第一ヨハネ4:20です。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。つまり自分が属している家庭や職場、教会で、目に見える人も愛していないのに、どうして目に見えない神様を愛することができるのかという意味です。


ですから神様を愛するなら、自分の隣人を自分自身のように愛さなければなりません。皆さん周りの人を、身近な人を、家族だけではなく、職場の同僚とか教会の宣教会の働き人とか、よく会っている人がいますね。そのような人々をどのくらい愛しているのでしょうか?本当に愛しているのに、どうして良くないところが目に入って気に入らないと思ったり、イライラしたりするのでしょうか?相手に問題があるのではなくて、自分の心に愛がないからです。ヨブのような姿があるのです。私たちはそういうヨブの姿を見て、もどかしいと思いますが、自分自身もそうかもしれないのです。愛する人の良いところを見るようになって、その人の良くないところはかばってあげようとしますね。そのような心になりますように。25章でビルダデが話を終えると、26章ではヨブがまた反論し始めます。

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