ヨブ記講解66 - 試練と変化(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記23:6~9
前回は、神様を切に求めていたヨブが、なぜ神様を見つけることができなかったのか、なぜヨブの試練が長引いているのかを、伝えました。今でも、神様が、ヨブの悪を悟らせてくださればいいでしょうか?しかしヨブは、自分が正しいと思う肉の思いでいっぱいだったので、真理を教えてくださっても、その場で変えることはできません。皆さんも主のしもべに助言を聞いても、いや私はそうではありませんと、受け入れない場合もあります。でも謙遜な姿でアーメンと受け入れて、自分の悪を認めたとしても、すぐ変えることは難しいでしょう。頭では悟ったし自分の悪を認めたのに、実際変えられない姿があって、自分もそういう姿をもどかしいと思う時があると思います。
自分自身を発見したとしても、本当に心から認めているのかという、程度の違いがあると思います。また、自分にはこういう悪があるのだとそれを認めたとしても、今までずっとその悪が自分のもののようになっていて、すでに自分というものを作ってきたのですね。生まれてからいろんな環境の中で、自分というものを作ってきたし、罪と悪はずっと一緒でした。それを発見して、それを捨てようとして、避けようとして、取り除こうとしても、それが短い間でできるのは難しいでしょう。この真理の御言葉を聞いて、これは悪なのだ、自分の利益を求める姿なのだと、その時は悟ったとしても、すぐ捨てられるのではないのです。もちろん簡単にすぐ捨てられればいいのですが、それは難しいのです。すでに自分の肉のようになってしまったものなのです。だからそれを取り除くには痛みも伴うし、また本当に自分がへり下って悪を憎む、そういう決断、決意が必要なのです。
そして自分なりに、私はこういう悪があるのだと思っても、でもある時は、いや私はそうじゃないと思う時もあります。例えば主のしもべが何か助言をしてくだされば、アーメンと受け入れても、自分の家族や目下の人が、自分に何か言ってくれる時は、いやと言ってそれを拒む場合もあります。また自分を弁護しようとして、言い訳をする場合もあります。するとそれを捨てることはできないでしょう。そして相手のせいにする場合もあります。あの人は私を憎んでいるから、私も避けるようになるのですと、いうふうになるのですね。
ヨブもそのように自分を認めることができなくて、神様の前でもあれこれ私は正しいと、ずっと言い張っているのです。前回ヨブが言っている言葉を聞いてみれば、神様を誤解していて、肉の思いがたくさんあることが分かりました。肉の思いというものが、どれほど神様に対して反抗するものなのか分かりました。ヨブは肉の思いをめぐらして、神様が私を苦しめていると思っていて、神様は怖い方だと、正しくないとさばいていました。だからどれほど真理に合っていないのでしょうか。肉の思いを巡らす人は、真理で照らしてみれば正しくない姿があるのに、錯覚しているのです。だから祝福されないのです。
ヨブが自分は正しいと言い張っているように、自分が真理の中にいると、自分が正しいと錯覚しているのです。そのようなだけではなくて、御言葉で自分を発見するのではなくて、他の人を見ながら、他の人の欠けているところを指摘したりします。ですから長い歳月が経っても、自己発見が難しいし、霊的な成長も遅くなるのです。このような肉の思いを捨てて御霊によって思うためには、どんなことをしても、自分を基準にして正しくない正しいと思うのではなくて、真理である御言葉に照らして、見分けなければなりません。自分の言葉と考えていることや自分の行いを、真理を基準にして照らさなければならないのです。
しかし私たちはそうしていない時がよくあります。人の関係でいろいろ練られたり、また悩んだりすることがありますね。辛い思いをしたりすると、自分を顧みるのではなくて、相手のことを言い訳にしたり、相手が悪いと思う時がよくあります。それで自分を発見することができないのです。自分が知っている御言葉をもって、相手をさばいているのです。そして、あの人は悪い、あっていないと思うのです。すると試練は終わらないのです。このようなことをよく悟らなければなりません。相手ももちろん悪いかもしれないのですが、自分も悪いのです。だから、対立したり言い争ったりするのですね。でも自分にも悪があると認めても、相手よりはマシだと思うから問題です。例えば自分には50の悪があって、相手には70か80の悪があるなら、自分の方がマシだと思うかもしれませんが、でも真理に照らしてみれば、自分の中にある悪を、まず捨てなければならないのです。だから基準を自分にするのではなくて、真理にしなければならないのです。
それで真理に従って、愛して許して憐れむ、そういう行いをするために、努力しなければなりません。そうしないで、相手が私にこんなことをするから、私はこうするしかなかったとか、言い訳をしたりしてはいけないのです。相手がどうであれ、自分は真理である神様に照らして、自分の言葉、自分の心、自分の思いはどうだったのかを、チェックしなければなりません。私もその人に対して苦手だと思っていたのだ、その人よりはマシだと高ぶっていたのだと、このように自分を悟らなければなりません。今日の本文でも、ヨブの肉の思いと誤解が続きますが、このメッセージを聞きながら、自分自身を発見しますように。それで肉の思いを徹底的に打ち砕いて、御霊による思いに変える皆さんになりますように。
22章でエリファズの忠告と指摘を聞いたヨブは、23章で口を開いて神様を切に探していました。そして神様に会ったら、今自分がされているこのような困難と苦しみ無実を、訴えたいと言っています。今日の本文では、神様が自分の訴えを聞いた後、どうしてくださるのかを、自分の考えを言っているのです。自分の立場から肉の思いを巡らして言っているのです。
ヨブ記23:6です。
神は力強く私と争われるだろうか。いやむしろ私に心を留めてくださろう。(ヨブ記23:6)
ここで神は力強いと言っています。ヨブが先祖たちから聞いた、神様の力ある御業を言っているのです。ヨブが自分は何の過ちもないけれど、苦しみを受けている。けれど神様は、それをよく分からなくて、自分を苦しめているのだ。だから自分が神様の前に行って、自分の無実を自分の事情を詳しく申し上げるなら、神様は自分と争うことがなく、自分の話を聞いてくださるだろうと、言っているのです。しかしヨブが考えている通りならば、神様は全知全能な方ではなく、一人の事情もよく分からない無能な方になってしまうのではありませんか?人に会って詳しい説明を聞いてこそ、その人の事情を分かって理解する方になってしまいます。時空を越えてどこにもおられる方でもないし、炎のような御目で人の子等を見ておられる方でもないし、人の心をご覧になる方でもない。ヨブはこのように神様を誤解しています。
神様は力強い大きい方なのに、ヨブはその神様の力を否定して、私のことをよくわからないから試練にあわせているのだと、言っているのです。今までヨブはあれこれ神様を見つけるために、自分なりにやってみたのですが無駄でした。それでもやもやしてイライラして耐えられなくて、「神様どこにおられるのですか?答えてください。」と言っているのです。神様に会ったら自分の事情を全部訴えて、自分の無実を神様の前に全部話したいと言っているのです。もし神様の御前でヨブがこのように訴えるとき、どうなるでしょうか?
ヨブはこう言うでしょう。「神様、私は今まで一生懸命、全焼の生贄も捧げました。善を施しました。でもこんなに厳しい試練にあっています。とても悔しいです。だから神様、私から呪いを取りやめてください。祝福してください。私の話が合っているでしょう?私には過ちがないでしょう。私は正しい人なのに、神様はよくわからなくて、私が試練に合うようになさったのですね。」と言うでしょう。すると神様は、「そうか、私はよくわからなかった。あなたの正しさがよくわからなくって、サタンの訴えを聞き入れた。」と、神様が過ちを認めてくださるだろうと、ヨブは考えているのです。
このようにヨブは神様を誤解していて、神様が自分のことをよくわからないと思っているのです。全知全能なる創造主の神様を、まるで人の事情がよくわからなくて間違えて、試練に合わせた無能力な方のように思っているから、どれほど愚かでしょうか。ヨブは自分なりに神様に仕えているつもりでしたが、霊的に仕えたのではなくて、肉的に仕えていました。だから神様は、ヨブの間違っているその考えを悟らせるために練っておられるのに、ヨブは逆に考えているのです。これを見ると、ヨブの肉の思いが、どれほど神様と離れているのか分かりますね。肉の思いと御霊による思いは、このように反対です。肉の思いは神様に対して反抗するものになるのです。皆さんにもこういう姿がよくあると思います。
自分に今いろんな問題があって、また人との関係で悩んで、いろいろ辛い思いをしていて、試練にあって苦しい思いをしているならどうでしょう?それで、自分は間違ってないのにと思ったり、悔しいと思う時がありますか?それで自分なりに主の僕のところに行って、自分のことを話す時もあるでしょう。そして教会の中で一緒に奉仕をする働き人同士、ちょっと意見が合わなかったり、その人が苦手だったり、また対立する時がありますか?それなら周りの人に、自分が正当であることを訴えたくなる時がありませんか?主の僕の所に行って、私はこうこうなのに相手がああだからと言ったり、自分が正しいと言い張る時はありませんか?そして神様は、又主の僕は、私のことをよく知らないから、私は自分のことを正確に言わなければ、説明しなければと思って、そのように訴えるかもしれません。
そして神様の前でもヨブのように、神様が自分をよくわからなくて、このように試練にあわせたと、このように思うかもしれません。皆さん、しかしそうではありません。神様は全知全能である方です。全てを知っておられ、全てを見ておられる方です。それなのに、正しいものを守ってくださらないでしょうか?そして正しいものがもし試練にあっているとしても、本当に正しい人は、神様の御手に全てを委ねて感謝して喜びます。それでこういう過程を通して、神様は必ず自分を導いてくださる、ご計画があると思って、感謝しながら勝利するのです。神様に、恨んだり呟いたり悔しいと訴えたりしないのです。
皆さんも日常生活でもしかして、神様の前でいろいろ私はこうじゃないのにと思ったり、神様はよくわからないと思ったり、また自分がこのような問題にぶつかっていることが、自分のせいだと思わないで、神様のせいにしたりすることはありませんか?自分は正しいのにと思いますか?もちろん正しいかもしれませんが、でも神様は私たちを全て知っておられる方です。だから今私がこのように悔しい目にあっていても、それによってその過程を通して練られて、さらに心を広くするためとか、信仰が成長するためとか、そういうご計画があるし、またそれによって自分の過ちを発見するようにしてくださることもあります。でもある人は、私はこんなに苦しんでいるのに、神様はなぜ助けてくださらないのか、分かってくださらないのかと思いますか?それは神様を無視することです。神様を認めないことです。
しかし、信仰のある人は、そのように悔しいとも思わないし、訴えようと思わないのです。ただ神様の前で、さらに完全なものになるために自分を顧みながら、この過程を通して、神様の前で金のように出ていこうと思うのです。さらに聖い器に変えられていこうと思うのです。そうではなくて、神様は今そばにおられないようだとか、神様が見てくださらないようだと思うならば、それは肉の思いです。また神様の力を認めない人なのです。信仰がある姿ではないのです。ヨブもそうでした。だからヨブが肉の思いを打ち砕くように、神様は練ってくださるのです。そしてヨブが自分の過ちを全部目で見るようにしてくださるのです。
続くヨブ記23:7です。
そこでは正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。(ヨブ記23:7)
ヨブは、自分を正しい人だと言っています。自分が自分を見ては、間違いがないと思うのです。だから神様の前に立つなら、堂々と論じ合うことができると思います。また神様は正しい方だから、公義の方だから、自分が無実を訴えるなら、神様の裁きを免れるだろうと思います。ヨブが以前、神様は正しくない、裁きを曲げる方だと言っていたのに、今は反対に神様は正しい方だから、自分の訴えを聞いて裁きを免れるだろうと言っています。人々は言い争っていれば、自分の利益によって、言葉が変わったりします。ああ言ったりこう言ったりしますね。ヨブの話にも一貫性がないのです。つまり自分には罪がなく正しいと、いつまでも言い合っているのです。このように、ヨブは試練にあっていながらも、まだ自分の過ちを悟ることができないのです。肉の思いを打ち砕かない限り、いつも自分が正しいと思っているからです。
ヨブ記1章から今まで、ヨブの姿を見たら、どれほど肉の思いが多かったでしょうか?例えばヨブの妻が、「それでもなお、あなたは自分の誠実を固く保つのですか。神をのろって死になさい。」と言った時、ヨブはどう答えましたか。「私たちは幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならないではないか。」と言いました。しかし聖書を読むと、それは間違っていることがわかります。箴言10:22に「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」とあります。神様は祝福されるような人に祝福を与えてくださる方で、災いを加える方ではありません。子どもたちに良いものだけをくださる方です。災いは敵である悪魔サタンがもたらすものです。
この他にもヨブは、神様に対して反抗する肉の思いがたくさんありました。ヨブ記23:3です。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。」とヨブは自分なりに神様を探して会いたいと思っていました。しかし今日の本文を読むと、これまでヨブがどれほど絶望していてうめいていたのかが分かります。ヨブの心を今、ヨブは訴えているのですが、皆さんも自分自身に代入してみてください。ヨブの姿が自分の姿だったかもしれません。なぜ問題が解決されないのか?なぜ神様は助けてくださらないのか?働いてくださらないのか?そのように思っていたことはありませんか?しかし神様は、昨日も今日も明日もいつもおられる方で、私たちを見ておられ、私たちのことを知っておられる方です。それなのにヨブはどこに神様がおられるのか、会いたいのに会えないとか、御座に行きたいと言っています。
ヨブ記23:8-9です。
ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。(ヨブ記23:8-9)
前に行っても後ろに行っても神様はおられないのです。左に行っても右に行っても、神様を見ることも会うこともできないのです。どれほどもどかしいでしょうか。ヨブの今の辛い心情が感じられますか?これまでヨブは、自分なりに神様に会いたいと叫んでみたり、また時には神様をなだめたり、だだをこねたり、つぶやいたり、苦しみを訴えたり、いろいろしてみました。自分なりに苦労したのです。しかし神様は人の思いのようにおられる方でもないし、肉の方法で見つけることはできません。神様は光そのものだから、私たちが闇から出てきて光の中に入らなければなりません。肉の思いを打ち砕いて、謙遜に自分の過ちを認めて、悪をやめて悔い改める時、神様がご自分を現わしてくださいます。
神様を見つける方法は簡単です。しかしヨブは、自分なりにあれこれ探していても、見つけることができなかったから、どれほど苦労していたでしょうか。先回伝えたでしょう。神様は光、真理、善だから、私たちが光、真理、善のうちにとどまっていれば、神様を見つけることができます。でも問題は、神様を呼んではいても、探してはいても、自分が悪を行っているなら、神様の光の中に入ることはできないし、だから会えないのです。闇にずっととどまっていて、光におられる神様の方に行かないで、ただ神様と呼んでいるのです。
皆さん、イライラしながら文句を言いながら、人と争ったりさばいたり憎んだりしていながら、「神様、私に会ってください。」とか、「私の問題を解決してください。」とか、「誰も私の問題を解決してくださらないのです。神様、切に呼んでいるから私の所に来て、助けてください。」と叫ぶから、神様が来てくださるのではないのです。罪の中に生きているからです。闇の中を歩んでいるからです。しかし、人々は問題にぶつかったり、試練にあったら、その原因を自分から探そうとしないで、人のせいにしたり環境のせいにしたりして、だから不平不満を言いながら争ったり、言い争ったりしてさらに悪を行うのです。
問題にぶつかったり試練にあった時は、謙遜に自分を顧みて自分を見つめるべきなのに、そうしないのです。そして、いろいろ文句を言いながら、人と言い争いながら、神様助けてくださいと言うなら、神様が働いてくださるでしょうか?そして自分は正しい、間違ってないという、肉の思いを捨てないから、サタンが働いて、その悪い思いが悪い行いにまで発展してしまうのです。サタンは、悪いその思いに働きかけるのです。だからその人はずっと悪い方に思って、ネガティブに思うようになって、負の感情を抱くようになります。それで私は悪くないのに、あの人がああだからとか、もっと良い環境だったらよかったのにとか、なぜ神様は守ってくださらないのかとか、このようにいろいろ悪い思いの方に行ってしまうのです。
試練にあったら、へりくだって神様に頼るべきなのに、そうしないで、サタンの仕業を受けてしまう場合があります。それは自分が闇の中にいるからでしょう。だからその闇から抜け出して、光である神様の方に行って、神様を見つけなければならないのです。でもそうしないで相変わらず、闇にとどまっていて、さらに悪い否定的な思いにとらわれてしまうのです。皆さん真っ暗な洞穴の中にいるなら、外に出るためには、光をまず探さなければならないでしょう。それで光を見て、光の方に進んでいかなければならないのに、逆に暗闇の方に行ってしまうと、外に出ることができないでしょう。同じように、私たちも試練にあった時、その試練から抜け出すためには、乗り越えるためには、光である神様の御言葉、真理を探して、そっちに行かなければならないのに、サタンの仕業を受けて、肉の思いを巡らしてしまうと、反対の方に行ってしまうのです。すると悪をもっと行うようになって、神様からだんだん遠ざかってしまうのです。だから問題は解決されないし、だんだんもっと苦しくなってしまうのです。
変えられたいと思う皆さんは、何か苦しみにあったり、問題にぶつかったら、人のせいにしたりつぶやいたりするのではなくて、謙遜に神様のまえに進んで行ってください。真理の御言葉を照らして、自分の過ちを探して、聖霊様に助けを求めてください。このように光の中にいる時、神様が御手を差し伸べてくださいます。ですから闇に属する肉の思いを完全に打ち砕いて、光の中を歩んでいて、いつも主と交わる皆さんになりますように。ヨブは本当に、ヨブの辛い思いを今訴えています。前に行っても後ろに行っても左に行っても右に行っても、神様はおられないと、皆さんにももしかしてそういう思いをする時はありませんか?それなら闇から引き返して、光の方に行ってください。
