ヨブ記講解70 - 本性の中の悪(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記26:1-4
ヨブ記26:1-2です。
ヨブは答えて言った。あなたは無力なものをどのようにして助けたのか。力のない腕をどのようにして救ったのか。(ヨブ記26:1-2)
ヨブがこのようにビルダデに言っているのです。あなたは無力なものをどのようにして助けたのか。力のない腕をどのようにして救ったのか。皆さん、これを聞いてどんなふうに感じますか?問い詰めているように皮肉を言っているように聞こえますね。ここで無力なものとはヨブ自身のことを言っています。ヨブは全ての財産も子供も失って、周りの人からさげすまれ嘲られ、悪性の腫もつによって苦しんでいました。このような無力な自分に、友達のビルダデがあれこれ言ったけれど、全然自分には響かなかったのです。24章でヨブは、神様は公平ではない方で、悪い人を守って助けている。自分のような正しい人を苦しめていると言っていました。これを聞いたビルダデは、そうじゃない。神様は平和をつくる方だから、誰にも公平に太陽の光を照らす方だと否定していました。
でもヨブにはこの言葉は何の響きもなかったし、何の助けにもならなかったのです。だからヨブはビルダデに、あなたは無力なものをどのようにして助けたのかと問い詰めながら、皮肉を言っているのです。あなたが言ったことによって私は勇気づけられた、助けてくれてありがとうと言っているのではありません。どのようにして助けたのか。つまり助けてくれなかったということを言っているのです。力のない腕をどのようにして救ったのかという言葉も同じです。よく男性は腕の筋肉を見せながら、自分の力と健康を自慢しますね。ヨブは今、自分には何の力もないということを表現するために、力のない腕と言っています。ところが、魂に幸いを得ているように体も健康になるということを知っている人なら、自分の力とか健康を自慢しません。ひょっとして今病気にかかっていても失望しません。魂に幸いを得ていれば、心も思いも聖霊に満たされて、自然に健康になることを知っているからです。できないことがない神様、いつも良いものを下さる神様を信じて頼るから、心の中でも大胆になって元気になるのです。
反対に心が聖霊に満たされていなければ、体の調子も悪くなって健康をも失うようになります。皆さん、御霊の人でも心の中であまりにも悲しんだり悩むことがあれば、体にも影響がでる場合があります。それで元老牧師先生は、以前ある主のしもべが何か悲しいことがあったり、魂が死に至る姿を見て悲しんでいたのですが、それをやりすぎると自分の体に悪い影響があるから気をつけてくださいと言われたのです。元老牧師先生は、自分を全然顧みないで、私たちのために代わりに苦しみを受けて、公義を満たすために犠牲になってくださったのですね。そのような公義を無視したのではなくて、公義を遥かに超える愛を持って、自分のことは全然顧みる暇もなく、ただ魂の救いのために、聖徒のためにすべてを尽くしてくださったのです。それで命が危なくなることもよくありました。数えきれない日々を、このような犠牲を払ってくださいました。皆さん元老牧師先生のことを思いながら、先生が早く公義を満たして、幸せな日が早く来ればいいのにと思いますか。それは子どもが親の苦労がわからないのと同じです。命を捧げるような時間を過ごしています。神様の愛と心がなければ、それは人にとってできないことです。ただ信仰によって、そのような日々を過ごしているのです。それは苦労です。本当につらいことです。でもそれを後にして、それをものともしないで、ただ神様のために全てを捧げているのです。
今ヨブは、病気になっているし心も苦しんでいるから、何の力もないのです。それで力のない腕をどのようにして救ったのかと問い詰めたのは、ビルダデが言ったことがバカバカしいと思ったからです。ヨブが見ては、自分はもうこれ以上何の可能性もないのに、ビルダデは口では可能性があるかのように言っているから、それは何の役にも立たないことを言っているのです。ヤコブ2:15-16に「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなた方のうちのだれかが、その人たちに、『安心して行いきなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。」とあります。このような言葉を100回1000回するよりは、実際食べるものと着るものを与えてこそ、それが役に立つでしょう。このように行いがなければ何の役にも立たないように、ヨブは今もっともらしく言っている友達にこのように問い詰めているのです。
それでヨブはひねくれた心で、このように皮肉を言っていて、恨み嘆きを吐いているのです。友達はいろんな知恵を絞って、ヨブを悟らせようとしたのですが、その言葉はヨブを助けるどころか逆効果だけでした。ですから皆さんも話をする時や相談にのる時、気をつけてください。正しい言葉でも、相手に恥ずかしい思いをさせたり、傷つけるようなことがあるなら知恵と言えないでしょう。相手が気にさわりそうだったり、誤解を招くようなことがあるなら、話を中断した方がいいでしょう。24章でヨブは、神様は悪者を守っている、助けていると言っていました。そして自分なら悪者をすぐさばいて懲らしめてしまうだろうにと思っていて、自分が正しいと言っていました。皆さんにもこういう考え方があるかもしれません。それで周りの人に、その人にはこれは言ってあげなければと思う時があります。これを必ず言って悟らせなければと思う時があります。その人が今気づいていないから、私が悟らせてその人のためになるようにと、言ってあげようと思うのです。
でも、その時相手がそれを受け入れないで、気を悪くしたりすると、相手のせいにするのです。なんで私が正しいことを言ってあげるのに、それを受け入れないのかと思うのです。でもそのような姿は正しくないでしょう。ですから、自分がどんな心を持ってそのような話をしたのか、顧みなければなりません。つまり相手が感動して心から受け入れるような時があるのです。また相手のそういう事情もあるでしょう。反対に自分が助言を聞く立場ならば、謙遜にどんなことでも受け入れなければならないでしょう。ヨブ記講解で聞いたけれど、相手は何で私の立場とか考えてくれないで、そのようにがみがみ言ってくるのかと思ってはいけないのです。自分がそういう場合は、低くなって素直に受け入れて、でも自分が相手に何か必要なことがあって言う時は、その相手のためを思って時をよく見て神様に祈りながら、知恵を持って、助言する必要があるときはするのです。もしこれは一言言ってあげなければと思ったとしても、十分祈ってじっくり考えて、本当に今言うべきなのかと思って、神様に祈りながら、良い時を示されてしましょう。ローマ12:3に「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。信仰の弱い人、初心の者に負担を与えてはいけません。主日には必ず店をたたんで下さいとか、十分の一献金をしなければならないとか、むやみに言ってはいけないでしょう。その人の信仰の量りに合わせて知恵を持って教えなければなりません。
ヨブ記26:3です。
知恵のない者をどのようにしていさめ、豊かなすぐれた知性を示したのか。(ヨブ記26:3)
このようにまた問い詰めています。ここで知恵のない者とは、ヨブ自分自身を指しています。もちろんヨブは、自分を知恵が優れていると思っている人です。でも友達が、ヨブが何か言ったら、それを全部否定して反対して攻め立てて、ヨブを教えようとしているから、ヨブはもう腹が立って心がひねくれて、そのように皮肉を言っているのです。知恵のないものをどのようにしていさめたのかと言って、自分より知恵があるかのように、自分を教えている友達を見ながらおかしいと思って、心の中で反論しながら問いかけています。豊かな優れた知性を示したのかも同じです。元老牧師先生がヨブ記講解を伝えた1980年代に、韓国ではテレビとか世の中で流行っている‶偉いね、偉い。″という流行語がありました。これは本当に偉いという意味ではありません。よくやったという褒め言葉ではないのですね。偉くもないのに偉ぶっていると皮肉を言っているのです。そんなふうにヨブも友達に言っているのです。豊かな優れた知性を示したのか。つまり示していないということを言いたいのですね。
このようにヨブは自分が正しいと思っていたから、誰かが言葉で攻撃すれば我慢できず、一度言われたら二度言い返すような人でした。また自分の知恵を使って神様を問い詰める、悪い姿もありました。皆さんにもこういう姿があるのではないか、自分を顧みますように。メッセージを聞きながら自分を発見していると思います。でも、ただ発見したことで終わってはいけません。その次の段階が必要です。発見したなら次は実際、そういう心も行動も直さなければならないのですね。変えられなければならないのです。メッセージを聞きながら、私とは関係ない話だとか、あの人の話だとかは思わないと思います。私もそういうところがある。私もヨブのような姿があると、自分を発見することは上手ですが、でもヨブ記講解を今この様に長く伝えているのですが、どのくらい変えられていますか?実際自分の姿をどのくらい真理に比べて変えられているでしょうか?
人に何か嫌味を言われたり、ちょっとでも一言言われたりすればすぐムッとしたり、そうでなければ、かっとなって違うと言ったり、そうじゃないと思って、そのように自分に言う人が嫌いになったりする姿はありませんか?そして以前、その人が自分に何か迷惑をかけたり、自分に害を与えたことをずっと覚えていて、あの人は以前私にそんなことをしたのにとか、偉そうに私にあれこれ言うのかと思ってはいけないのです。本当に変えられた人はそういう人のした悪を覚えていません。全部忘れてしまうのです。だから、そのような人に何か言われても、素直に受け入れるのです。ああそうですか。申し訳ないですと言って、私が何か失礼なことを言ったのかと、自分を顧みるようになるのです。そのような人に対して何の悪い感情もないのです。でもそうでなくてずっと覚えている人がいますね。根に持っている人がいます。だから本当の平和を作れないのです。その人を許していないから。でも本当に心からそういう憎しみとか、以前のそういうわだかまりとかを捨ててしまえば、自分も平和だし、心の中が安らかだし、その人との関係もどれほど平和でしょうか。穏やかでしょうか。どれほど幸せでしょうか。
でもヨブはそうでなかったから、悔しくて辛くてもう友達が憎いのです。皆さん、潔白で正しいと認められているヨブなのに、なぜこのようなひどい悪の姿が出てくるのでしょうか。これは本性の中に悪があるからです。人は苦しみにあったり試練にあうと、心の中の深く隠されている悪が明るみに出されます。平安な時は分かりません。みんなよくしてくれるし豊かだし、するとわからないのです。自分の中にそういう悪があるのが。でも人にあれこれ厳しく言われたり、苦しみにあったり、試練にあうと、そういう潜んでいる悪が明るみに出されるのです。それを見て自分を発見するのですね。神様はヨブがそのようになってほしいと思って、この様に練っておられるのです。でも、ヨブはまだ自分の過ちを悟っていないし、相変わらず自分が正しいと思っています。でもそういう自分の過ちを悟ったなら、すぐ悔い改めて立ち返る心だから、神様はその時を待っておられるのです。
皆さんの中でもこのメッセージを聞きながら、私も前そういう姿があったと思う方もいるし、今私に同じような悪があると発見する方もいるでしょう。子供の時から親とか先生、またいろんな本を通して学んで、判断の基準にした善と義というものがあって、それは正しいと思うのですが、神様の御言葉の光で照らしてみれば、悪に属するものがたくさんあります。ですからただ神様の御言葉を基準にして自分を発見して、また自分の義と枠も完全に捨てて、神様の目の前で、傷も染みもない真心を持ちますように。
続く本文ヨブ記26:4です。
あなたは誰に対してことばを告げているのか。だれの息があなたから出たのか。(ヨブ記26:4)
ヨブが見るには、ビルダデが言っていることがあまりにも合わないしおかしいのです。だからあなたは、誰に対して言葉を告げているのかと言っているのです。誰の息があなたから出たのか。これは、あなたは誰からそういう話を聞いたのか。誰がそんなことを作り出したのか。とんでもない話だというふうに言っているのです。これは相手を無視してあざける姿です。皆さん、ヨブは友達が言っていることがおかしい、話にならないと言っていますが、私たちが真理で照らしてみれば、ヨブが言っている言葉もそうではありませんか。相手をあざけって皮肉を言っていることは悪なのです。
自分の中に悪がなければ相手の話を聞くとき、苦しいと思ったり気にさわることはないでしょう。逆に言えば、相手の言葉に反応して気を悪くするなら、それだけ自分の中に悪があるのです。そのため互いに平和が壊れたり仲違いするのです。私たちはヨブ記講解を聞きながら、真理と反対のものを正しく見分けて、御言葉に照らして自分を発見しましょう。それで悪を発見したならすぐ捨てましょう。それで真理と善を心に満たしていて、全ての人と平和を追い求め、聖められますように、聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。
父なる神様、感謝いたします。今日はヨブの友達ビルダデが、ヨブの言っていたことを否定しながら反論している姿がありました。また、自分なりに神様について説明しているのですが、それは自分の知識の限界の中で、間違って真理を引用していました。そしてそのビルダデに対してヨブは、また自分の立場で反論するのですが、ビルダデに皮肉を言いながら問い詰めたり、またおかしいと、このように無視して高ぶった姿で言っている姿を見ました。ヨブは潔白で正しいと認められていたのに、本性に悪があったのです。私たちにもそういう、ヨブとヨブの友達のような悪はあるのではないか、自分を発見して変えられるようにしてください。それで聖められるようにしてください。感謝して、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
