ヨブ記講解65 - 肉の思いは神に対して反抗する(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記23:4~5
ローマ8:5-6です。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあります。肉の思いを打ち砕かなければ、神様がくださる霊の信仰も与えられないし、聖霊の声も聞けないし、神様と交わることもできません。肉の思いがあれば、試練の時、信仰で行えないし、現実を見ながら、苦しんで悩んで心配して真理に従えないのです。でも御霊によって思い、御霊に従う人は、祈りながら神様に助けを求めます。思い煩わらないで、喜び感謝しながら忠実に仕え、神様に喜ばれます。しかし肉の思いに従う人は、サタンの仕業を受けて、自分の思いに合わせて、人をさばいたり罪に定めます。
例えば誰かが自分の頬を打ったなら、ひどいな、叩き返したいとか、一言、言ってやりたいとか、誰かに見られたら恥ずかしいなとか思います。これは肉の思いです。これは自分の心にある、憎しみや妬み、争いから出たもので、その悪をサタンが利用して、肉の思いをするようにするのです。だから自分の思いをチェックして、それが肉の思いなら、心にある罪と悪が原因であることを悟らなければなりません。
皆さん、問題は、今自分が何かを考えている時、それが肉の思いかそうではないか、よくわからない時があることです。人を裁いたり人を罪に定めているならば、これはサタンが肉の思いを通して働いているのだと、気づかなければならないのにそれができないのです。自分は今正しいことを考えていると思うから、問題なのです。だから自分の考えも間違っているかも知れないと、いつも思っていなければなりません。そして自分の肉の思いは、心の中にある真理と反対のものによって、その肉の思いを巡らすようになるということを知っていなければなりません。だから肉の思いを巡らさないためには、心にある悪をまず捨てなければならないのですね。
そして自分が今考えたり、思っていることをチェックして、それが肉の思いかどうかを、いつも真理に照らして悟らなければなりません。これは肉の思いだ、これはサタンが働いているんだと、このように分かればいいのですが、そのように考える余裕もなく、すぐ人をさばいて、すぐあの人ひどいとか思ってしまうのですね。それは自分の心にそういう真理と反対のものがいっぱいあるから、すぐ出てしまうのです。
でも、自分の中に真理があって、真理と反対のものがあるのですが、真理の方が多い人ならば、まず真理の御言葉が思いかぶでしょう。また聖霊の声を聞くでしょう。聖書の御言葉が思い浮かんで、ああそうだ、私は今あの人が憎らしいと思ったけれど、これはダメだ、こう思ってはいけない、愛さなければと、真理に従おうとするのです。また誰かと人の噂話をしたり、ちょっと陰口を言ったりする時も、あ、これはいけないな、このように人の悪口言ってはいけないと思って、その場でやめることができますね。そしてダニエルの祈祷会の時、それを思い出して悔い改めて、そういう心の悪を捨てるために努力していくのです。
もちろん一日でやめられればいいのですが、それは難しいから、毎日そのようにしながら捨てていくのです。そうやってだんだん、心にある悪を捨てていけば、肉の思いもいずれはやめることができるようになるのです。私たちはこのような原理を知っています。でも頭で知っているだけではいけません。また口先だけで変えられたいと言ってもいけません。実際に日常生活で、ちゃんと自分の思いをチェックしなければならないのです。
御霊によって思っている人は、自分の右の頬を打たれたら、神様の御言葉が思い浮かびますね。それで左の頬も向けることができます。すると相手が自分を苦しめても、それが辛いと思わないし、それが試練だとも感じないのです。皆さんは誰かが自分の陰口を言ったとか、自分の悪い噂を立てたとかという話を耳にした時、どうでしょう?それによって辛いな、苦しいなとか、その人ひどいなとか思いますか?そしてなんでこんな試練に遭っているのだろうと思いますか?それは肉の思いです。御霊によって思う人は、それを辛いとも思わないし、試練だとも思わないのです。ただ自分はあの人が悪を行っていても、私は善を行えばいい、神様はご覧になっているからと思って、心の中が穏やかなのです。だから同じ状況に置かれても、肉の思いを巡らす人と、御霊によって思う人は、全然違う反応があるのです。だからあの人のせいで、環境のせいで、私はいつも辛いとか、悩むとか、心配する。そういう人は肉の思いを巡らしているからです。
それでその肉の思いを巡らしていて、人を憎んでいるなら問題が解決されますか?状況が変わりますか?いいえ良くなることはありません。悪くなるばかりです。それでだんだん試練が大きくなったり、また試練が続けられて終わらないのです。だから皆さんが日常生活で、また人間関係の中でも、自分がこれは嫌だとか辛いとか、ある時は悔しいとか思う時がありますね。そしてあの人を嫌いと思ったり、苦手だとか、あまり話したくないとか、そういうふうに感じて思っているならば、あ、私は今肉の思いをめぐらしているんだ、これは真理ではないと、すぐやめて悟らなければならないのです。そうしてこそ、その試練というものが早く終わるのです。でもそうしなければ長引いてしまうのです。私は今試練という言葉を使っているのですけれども、信仰の人、御霊によって思う人は、それを試練とも思わないのですね。いつも心は平安だから、喜びと感謝があるから。皆さんはどうでしょう?
1998年-99年の教会の試みの時もあったし、今の試練の時もありました。その時、肉の思いか御霊による思いかは、本当に大きい違いがあります。聖書の御言葉を思い出して、神様の摂理を信じながら御霊によって思っていた人は、聖霊に満たされていたでしょう。詩編62:11に「力は神のものだ。」とあります。だから今もこの教会では、神の力の業が現れているから、それを信じているならば感謝するでしょう。喜びを失わないでしょう。今残っている皆さんは、そういう試練の過程をうまく乗り越えてきたと思いますか。はい、それは本当に感謝のことです。では、皆さんが教区の集まりとか、宣教会の集まりで、ある人が真理と合わないことを言っていたり、否定的なことを言っていたり、信仰ではないことを言っているのを見たとしましょう。それを見た時どうでしょう?あの人は信仰があると思ったのに、熱心だと思ったのに、なんでそんなふうに言っているのかと、ちょっと心の中でもやもやする姿がありますか?
あの人とはあまり話したくないとか、ちょっと苦手だと思ったりすることはありませんか?真理と反対のことを言っているから、もう聞きたくないとか思いますか?もちろん真理でなければ聞かない方がいいのですが、でもその人に対して、もしかしてさばいているのではありませんか?その人を広い心で包みこんであげる、そういう余裕はありませんか?そのようにその人に対して、皆さんが否定的に考えてしまうと、それが裁きになることもあるし、さらに罪に定めることにもなるかもしれないし、そうしていると、自分が肉の思いを今巡らしているから、聖霊が喜ばないのですね。だから自分に霊的に損なのです。だからその時、私は今、肉の思いを巡らしていたのだと気づいて、それで真理を基準にして、自分を正確に見る、そういうことが必要です。
自分は、神の国とか牧者について、悪いことも言わなかったし、さばいたりしなかったけれど、でも、周りにいる人がそうしているのを見ながら、その人に対して、自分が裁いているかもしれないのです。その人が言っていることを聞いた時、嫌だと思ったり、ちょっと黙っていればいいのにとか、そう思ったことがあるとしましょう。でも祈りながら、なぜ私がそんな風に反応したのかと顧みたら、実はあの人と前良い関係ではなくて、その人によって、以前ちょっと傷つくことを言われたり、そういうことがあったのです。それを忘れていたけれど、祈っている時に聖霊様が思い起こしてくださって、以前その人にちょっと厳しく言われたことがあって、傷ついたことがあったんだ。だから今その人の言っていることを見ながら、そういう反応をしたんだと分かるようになりますね。
それで、もちろん真理と反対のことを言っている、その人が正しいというわけではありません。でも自分がその人に対して、ひどい、悪い、嫌だと思う、そんなふうに自分がさばいているならば、自分の心の中に悪があるということなのです。皆さんはどうでしょう?周りの人を見ながらどんなふうに感じていますか?どんなふうに考えていますか?もしある人が真理でないことをしているのを見たならば、私はそうしてはいけないと思って、私も、もしかしてそういう姿があるかもしれないと、自分を顧みなければならないでしょう。そうでなければ、あの人は前、信仰があるように偉そうに言っていたのにとか、あの人は他の人の前では、また違う態度をとっていたのにとか、このようにその人について、ああだこうだとさばいている自分の姿があるかもしれません。それを発見しなければならないのです。
そのためには自分では分からないから、聖霊様が教えてくださるように、祈らなければならないのですね。そしてそのために祈っていけば、自分の心にある憎しみとか、苦手意識とか、妬みとかを発見して、それを捨てれば、その人との関係も良くなるし、またその人を見る目も変わるようになります。神様の愛の目、また信仰の目で見ることができるようになります。だからこのような作業が必要なのですね。自分の中の悪を発見していくためには、まず自分の肉の思いをチェックしなければならないのです。こうしていけば、試練が長くなる必要はないでしょう。
でもそうしないで相手のせいにしたり、環境のせいにしたりすると、聖霊に満たされることも難しいし、試練も長引くようになってしまいます。ですから変えられたい、聖められたいと思っている聖徒ならば、いつも自分の思い、考えをチェックする習慣を身につけてください。毎日一瞬一瞬、自分がどう思っているのか、どう感じているのか、どんなふうに話しているのか、それを真理の御言葉に照らして、チェックして祈りながら、その原因となる悪を捨てていけば、肉の思いも打ち砕くようになるし、そのように努力していけば、速やかに変えられるでしょう。
そして自分なりに、罪と悪を捨てたとしても、まだ残っている肉の思いがあります。そしてそれを完全に打ち砕くための、また試練という過程が必要です。肉の思いがなければ、聖霊の声もはっきり聞けるし、また御霊に完全に従えるから、どれほど良いでしょうか?尊く用いられるでしょう。そのためには試練という過程が必要なのです。使徒パウロが、自分は毎日が死の連続だと告白したように、私たちも罪と血を流すまで戦って捨てて、自分というものを捨てなければなりません。ここで自分とは、親の気を受け継いで生まれて、成長しながら作っておいた自分、自我を言っているのです。自分の基準、自分自己中心的な考え、自尊心とか、自分の義と枠があります。これはほとんどが正しくありません。なぜなら親の罪の性質を受け継いだし、世の中で真理と反対のものを見て聞いて入力して、自分というものを作ったからです。
こういう自分を捨てるためには、神様の御言葉にただアーメンと言って、従わなければなりません。先ほど、心にある悪と罪が、肉の思いとして出てくると言いました。それでまず思いをチェックしましょうと言いました。このようにして、罪と悪をある程度捨てたとしても、神様の善・愛・信仰に比べれば、完全でない姿があるのです。自分というものがあって、罪ではないけれど、性格という枠があって、神様の働きにもっと用いられないとか、もっと深い善と愛を満たすことができなくて、より多くの人を受け入れることができない場合もあります。
ペテロは主の力を大きく現わした人ですが、ユダヤ人の長老の言い伝えを気にして、異邦人たちについての肉の思いもある時がありました。それによってまた後で、試練に会うこともあります。聖書に出てくる信仰の人々も、このような試練の過程を通して練られて、徹底的に自分を打ち砕いてから神様に尊く用いられました。信仰の父のアブラハムも、肉の思いを打ち砕くテストがありました。ヤコブの場合も、イスラエルの先祖として立てられる前に、まず自分を徹底的に打ち砕く過程がありました。特に兄から逃れて、おじのラバンの家で20年間暮らしている間、自分を低くする時間がありました。ヤコブは故郷に帰る時、兄のエサウが自分を捕まえるために、多くの人と一緒に向かってくること聞きました。それでその時、今までのすべてを無にして、ただ神様だけにより頼みました。徹底的に自分自身、自分というものを打ち砕いて、虫ケラのようになった時に、イスラエルという新しい名をいただきました。
モーセも同じです。神様は摂理を成し遂げるために、エジプトの王子としてのモーセではなくて、荒野の羊飼いとして、徹底的に謙遜になったモーセを選びました。神様がモーセを出エジプトの指導者としてされた時、モーセは自信がない姿で、「主よ、どうか他の人を使わせてください。」と言うほどでした。それは荒野で40年間練られながら、自分には価値がない、自分は何もできないということを徹底的に感じて悟って、低くなった姿だったのです。このように神様は、徹底的に自分というものを打ち砕いて捨てて、神様にただ聞き従える人を通して、摂理を成し遂げられるのです。ですから私たちはもしかして試練に会うとき、なぜ私はこんな目に合わなければならないのか?この厳しい試練をどう乗り越えるだろうと悩んだり、気を落としたりしないで感謝してください。
箴言17:3に「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。」とあります。ですから自分の心を試して、良い器にしてくださる神様に感謝しながら、悪はどんな悪でも捨てて、肉の思いを打ち砕いていきましょう。そして多くの人を受け入れることができる大きい器、どんな苦しみがあっても、神様だけより頼んで、善と信仰を持って行軍する御霊の戦士になるために、神様の摂理を悟りますように。神様は人間耕作をなさって、神の国を広げていかれますね。それは神様が人々を用いて働いてくださるためなのです。神ご自身が地上に来られてするのではなくて、ふさわしい器になった人々を用いて、神の国を立て上げてくださるのです。それで多くの人を救ってくださるのですね。
その代表的な例が教会です。神の国の働き人として用いられるためには、神様の善、神様の愛にそっくりに似た人が出なければならないのです。そしてこそ大いに用いられるのですね。自分の考え、自分の義とか枠とかを捨てて、自分というものは無にして、神様にそっくりに似た姿にしなければなりません。また神様が望んでおられる形の器にならなければなりません。神様は丸い器が欲しいのに、自分は四角がいいですと、このように言い張っていては、いけないのですね。神様がどんな姿を望んでおられるのか、神様の御手に委ねて、私をどうかお望み通りに作ってくださいと、そのようにより頼む姿でなければならないのです。そのためには、自分の肉の思いを打ち砕かなければならないし、そのためには自分の心にある、真理と反対のものを発見して早く捨てなければなりません。
そして神の国のために尊く用いられるためには、神様が望んでおられる信仰も必要だし、善と愛も必要ですね。だから神様の善と愛を心に満たしていけばいいのです。そうではなくて、今自分が試練にあっているからといって、ただ辛いとか苦しいとか、なぜあの人は、私を助けてくれないのかとか、このように人のせいにしたりしてはいけないのです。ヨブはなぜこのようにまだ練られているのでしょうかヨ?ブの心の中の深いところにあるものが、全部明らかになって、明るみに出されてこそ、ヨブはそれを見て、私は本当に悪い人です。私は本当に間違っていましたと徹底的に悟って、悔い改めるでしょう。だからそのために練っておられるのです。
私たちはこういうメッセージを聞いて、真理を知っているから、早く発見して、早く悔い改めて立ち返ればいいのではありませんか。すると試練も早く終わるでしょう。すると神様が望んでおられる器に、早く変えられるでしょう。そうしないで、私は正しいのに、私はよくやっているのになぜとか、神様はどうしてとか、ずっとこんな風に考えていると、試練は終わらないのです。ヨブはまだ神様があってくださることはできない状態でした。つまり自分というものがまだ打ち砕かれていなかったのです。だから試練が続いていました。
その試練という過程があってこそ、善と悪、また真理と真理と反対のものが何かをわきまえることができるし、自分を発見することができるのですね。また肉の思いも打ち砕くことができます。試練という過程がなくても、そのように変えられればいいのですが、それはできないのです。なぜなら人は自分を愛するから。また人は真理と反対のものの環境の中で、育ち学んで、肉の思いがあるからです。でも神様はそのような私たちを、神様と似たものとするために、このように練ってくださるのです。私たちはそれを知っています。だから試練にあった時は、これはチャンスだと思って、私には自分も知らない悪があるんだ、肉の思いがあるんだと思いながら、それを発見するために努力すればいいのです。
自分というものを無にしなさいというからといって、自己肯定感をなくすという意味ではありません。神の子供としての存在価値は持っていて、さらに神様の子供らしく、神様に似ていくために、こういう過程が必要なんだということを悟って、へり下って、神様の御手に委ねていきましょう。そして周りで、ある人が自分を苦しめていたりしても、でも相手の立場になって、その人を愛する神様の心を思いながら、自分が負けてあげれば平和を作れるでしょう。それなら試練というものもなくなるでしょう。私たちはヨブの試練を通して、自分自身に代入してみてください。それで自分は正しい、自分は合っているとか、よくやっているとか、良い人だという思い込みを、速やかに打ち砕いて捨てましょう。もうこんな時間になりましたね。あとは次の時間に伝えましょう。
皆さん、ヨブの姿を見ていると、もどかしいのではありませんか?試練はまだ終わらないし、続いているし、同じことを繰り返して間違っている姿を見ていると、もどかしいでしょう。それが皆さんの姿なのです。神様がご覧になる時、もどかしく思われるんだと思うようになります。でも私たちは、神様が望んでおられることを知っているから、さらにへり下って変えられていきましょう。聞いたメッセージを思い出して祈ります。父なる神様なぜ試練が長引くのか、自分自身を顧みるようにしてください。肉の思いがその原因でしょう。肉の思いを早く打ち砕くようにしてください。でもそのためには、自分が正しいと思う姿を早く捨てなければなりません。そしてヨブは、自分は正しいと神様の前で訴えていたのですが、私たちはそういうヨブの姿から、自分を悟るようにしてください。それでへり下って謙遜な姿で、神様の前で自分の欠けているところ、間違っているところを発見して、神様が望んでおられる姿に変えられるようにしてください。感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
