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ヨブ記講解73 - 感情的になって大げさな表現をするのはやめよう(上)

4 日前
読了時間: 17分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記26:11-13


前回、ヨブは自分の思い込みとわだかまりがあったから、友達の前に神様を悪い方のように言っていました。人が罪の壁によって神様を見ることができないのに、ヨブは神様が御座の面をおおって人との間で隔ての壁を作ったと言いながら、神様の責任にしました。その罪の壁は人が作ったものです。神様が作ったものではありません。そして神様は人のために昼と夜を造り、水の境も定めて、雲と雨、また東西南北の位置も造ってくださったのですが、ヨブはこれらを神様が独裁者のように、一方的になさったかのように裁いていました。今日もヨブは、自分の思い込みと決めつけで神様について説明しながら、大げさに表現しています。メッセージを聞きながら、自分はヨブのような姿はなかったのか顧みて発見したなら、真理に変えられる皆さんになりますよう、主の御名よって祈ります。皆さんが祈祷課題にするように、今日のタイトルをこのようにしました。「感情的になって大げさな表現をするのはやめよう」です。これが今日のポイントです。皆さんもこういう姿はないのか、顧みながら祈ってください。どんな姿なのか今日のメッセージで悟りますように。​


ヨブ記26:11です。


神がしかると、天の柱は震い、恐れる。(ヨブ記26:11)


神様の力について説明していたヨブは、今は神様の恐ろしさについて言っています。神がしかると、天の柱は震い、恐れると言っています。これはヨブが感情的になって、大げさな表現をしているのです。ヨブは、神様が何の過ちもない自分を打ったと思い込んでいたから、それを恐れていて驚いて、このように大げさな表現をしているのです。これは人と人との間でよくある現象です。自分の思い込みや誤解、わだかまりがあるから、大げさな表現とか陰口につながるのです。それによって、人を悪い人のように他の人に認識させたり、事実を歪曲して伝えることもあります。​


例えば、相手が指摘やアドバイスをしたのですが、自分はそれを聞き入れたくないのです。それでその人がちょっと苦手なのです。それで他の人に、その人について、あの人はいつも叱ってばかりだとか、指摘しているばかりだと言いながら、厳しい人のように認識させるのです。そのように指摘してくださる人に対して、あの人はいつもトゲがあってチクチク刺すとか、このように他の人に話すと、周りの人もそれを聞きながら、その人について認識をちょっと悪くすることになるのではありませんか。そうしてはいけないでしょう。少し何か言われて気にさわったり、嫌な気持ちになったから、そのように大げさな表現をして言う場合があるのです。このようなことがよくあると思います。​


例えば、子どもたちが親にこういう場合があります。最近のことでは、スマホを買ってほしいと。すると親は、今持っているものも最新のものなのに、どうして最新のものばかり求めるのとか。親がそんなふうに諭す場合がありますね。すると子供たちがどう言いますか。うちのクラスでは、みんな最新のものを持っているというのです。それは嘘ですね。みんな持っているわけではないでしょう。でもよくそんなふうに表現するのでありませんか。自分が欲しいものを買ってほしいから、みんな持っているとか、このように大げさに表現することがよくあると思います。小さい時からこうだから、大人になったらどれほど嘘が身についてしまうでしょうか。私たちはヨブのように、自分の誤解とかわだかまりがあるから、神様に対して感情的になって、大げさな表現を使ったりして悪く認識させたりすることがあってはいけないでしょう。​


これは魂の働きでサタンが働くことです。神様の御言葉を聞く時も、ある人は喜んで感謝して受け入れます。神様の愛を感じます。しかしある人は、恐れを感じます。例えば講壇で罪を指摘したり、責めるような内容が伝えられる場合、ある人が喜んで感謝して申し訳ないと思いながら受けて、自分を顧みて従おうとします。しかしその御言葉を聞いて、心が刺されて怖く思ったり、そして聞くのが嫌だったり誤解したりする人もいます。そうすると立ち返ろうとしないで、罪と悪を加えていくのです。私たちは何か指摘されたり責められても、喜んで感謝して受け入れて、神様に喜ばれる子供になりましょう。続く本文でもヨブは愛の神様を感じることができず、神様に対して恐れている姿がわかります。​


ヨブ記26:12です。


神は御力によって海をかき立て、神の英知をもってラハブを打ち砕く。(ヨブ記26:12)


海をかき立てるとあります。つまり神様が海をかき立てて、波が強く激しくなるという意味です。ヨブは、神様がそのようにしておられると言っています。皆さんは海を連想してみれば、何が思い浮かびますか?今ちょっと考えてみてください。海といえばある人は、静かで穏やかな海、また水面が日差しによって宝石のようにキラキラ輝く様子とか、広い砂浜の美しい様子とかが思い浮かびます。ある人は、広い海と高い波、また海岸にぶつかって生じる白い水しぶきなどを連想したり、ある人は青い海の上に飛んでいるカモメとか、また海に浮いている小舟とかを思い浮かべます。また夕焼けで赤く染まった水平線の美しさとかを連想します。こういう人は海に憧れたり、海について良い感じと思い出を持っている人でしょう。でも過去、海で溺れて命が危なくなったり、水を怖がる人は、激しい波とか嵐の中で船が破船、難船する、また壊れる、そのような様子とかが思い浮かんで恐れを感じたりします。


このように海という同じ単語でも、それぞれの心によって感じることと表現が違うのです。では本文でヨブはどんなふうに海について感じているでしょうか?神は御力によって海をかき立てると言っています。それで激しい波とか嵐とかこのように怖く感じています。自分の思い込みで、海を通して神様に対する恐れを表現しているのです。ヨブが神様を愛しているならば、愛の神様を感じているなら、こんなふうに表現しないでしょう。広い穏やかな海、また美しい海の光景を表現するでしょう。でもヨブはそうではなくて、激しい波とか、海を神様がかきたてて被害を受けるとか、このようなことを思い浮かべているのです。それが神の力によるものだと言っていて、神様の恐ろしい力について表現しているのです。ヨブは正しい自分を、神様が一方的にこのような苦しみに合わせていると思うから、海の激しさも神様の恐ろしい力によるものだと思い込んでいます。でもこれは誤解です。神様が海を創造なさったのですが、海の荒れている姿とかは、神様の力によるものよりは、風とか雲、また自然現象によって起こるものです。このような自然現象を、まるで神様の力でかき立て自分を恐ろしく怖がらせるために、わざとそうされるように思ってしまうのです。


空を黒い雲がおおってきて雨が降りそうな場合、それを見ていてある人は、神様への恐ろしさを感じる場合もあるみたいです。それなら自分の心に、神様を怖がる自分がいるのではないか、顧みますように。どんなものを見ても、神様が創造なさった自然を見ながら、神様の愛を感じて神様の摂理を感じている人ならば、そんな風には表現しないでしょう。心の良い人は、自然万物を通して、神様の力や、神様の愛と善、偉大なる神様の御心などを感じて表現します。今日地球のあちこちで異常気象とか、生態系の破壊など、また自然災害が起こる理由は何でしょうか?神様がそうなさったのではなくて、人々が無分別に開発して環境を破壊したことによるものでしょう。地球温暖化によって世界のあちこちで、いろんな自然災害が頻繁に起こっています。これを神様に責任を負わせることがあってはいけないでしょう。もちろん人の過ちによって自然災害が起こったとしても、私たちが神様を信じて祈れば、神様は被害が最小限になるように守ってくださり、すべて働かせて益としてくださいます。


それでは本文で、「神の英知をもってラハブを打ち砕く。」とありますが、これはどういう意味でしょうか?ヨブ記9:13に「神は怒りを翻さない。ラハブを助ける者たちは、みもとに身をかがめる。」とあります。ここでラハブとはエジプトを意味していると説明しました。それを裏付ける御言葉があります。イザヤ30:7です。「私はエジプトを『何もしないラハブ』と呼んでいる。」とあり、イザヤ51:9には、「ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。」とあります。本文でのラハブもエジプトを意味しています。そしてエジプトとは霊的に世を意味しています。したがって、本文に神の英知をもってラハブを打ち砕くとは、神様の敵である世の知恵とかはかりごと、企み、計略などを神様の知恵をもって、完全に打ち砕くという意味です。ところが、ヨブが神の英知を持ってラハブを打ち砕くと表現した理由があります。それは、自分は正しい人で知恵の多い人だと思っているからです。神様には、ラハブを打ち砕くほどの英知があるから、世のどんな人もその知恵には勝てない。だから正しい人である自分の知恵も、神様によって強制的に打ち砕かれたと言っているのです。


しかし神様は人に自由意志をくださいました。だから全ての選択は人にかかっています。もし神様が強制的にむりやり人の知恵を打ち砕くなら、人間社会で、悪い知恵とか計略、悪い企みはあってはいけないでしょう。神様は悪を憎み、善を愛しておられる方だから、ただ神の英知で全ての悪を打ち砕き、善だけ残るようにすれば良いのではありませんか。しかし世の中には善だけがあるのではなく、あらゆる悪い計略、企み、はかりごとがあります。それは人が自由意志によって、自分が悪を選んでそのように行っているからです。それなのに、神様が強制的にそうなさっていると言っているのです。神様はそんな方ではありません。もしそうなるなら人間耕作をする理由がないのではありませんか。人間耕作のために、神様は人には自由意志をくださり、人が自分の意志によって善か悪を選ぶようになるのです。それでその結果によって、世の中に悪い、いろんなはかりごと計略、企みが溢れているのです。ローマ6:23に、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」とあります。自由意志によって罪を選んだ人は滅びに行き死に至り、イエス・キリストを選んだ人は永遠の命を得るようになるのです。


もちろん神様が、人の罪とか悪に関して、全く関わらないという意味ではありません。カナンの地の住民とか、ソドムとゴモラの街の人々のように、その罪と悪が満ちると裁かれるのです。しかし、それも神様が一方的に強制的になさるのではなくて、正確な公義に従って、神様の英知をもって悪を消滅させていくのです。私たちは信仰生活をしていて人間耕作を受けています。しかしその中で誤解することもあります。自分は真理を選んで善を行っているのに、周りを見てみると悪い人が成功しているとか、悪い人が自分を苦しめているのに、なぜ神様が放っておかれるのかと思うことがあります。ヨブもよくそんな風に考えていますね。私たちは、自分の利益によって自分の都合に合わせて、神様についてああだこうだと思います。自分が神様のように裁いているのです。しかし裁きというものは神様の権限で、神様が正確な公義によってなさるものです。そして悪いものがまだ裁かれていないのは、神様の赦しであり、神様の憐れみであり、愛です。それなのに人は、自分が神様のようになって高ぶっていて人を裁いているのです。どれほど悪い姿で、自分の利益を求めている姿でしょうか。


例えば皆さんの子どもが信仰生活をしていて、教会を離れてしまって、今は世を愛していて世の人のようになっているとしましょう。それなら皆さんは、その子どもに災いが臨んで、裁かれてほしいと思うでしょうか?なぜ懲らしめられないのかと思いますか?そうではないでしょう。早く悔い改めて立ち返って、裁きから免れるようにと思ってそのために祈るでしょう。子供を愛するからです。そうです。でも他の人に対してはどうでしょう?あの人はあんな悪いことをしたのになぜまだ裁かれていないのかと思いますか?なぜ栄えていて、なぜうまくいっているのかと思いますか?それは愛がないということだし、自分が裁いているということです。今ヨブは、自分を懲らしめ、自分に災いをもたらした神様だと誤解しているのです。でも神様はそうではなくて、ヨブがより完全なものになるように練っておられるのです。しかしヨブ自分の憶測によって自分を苦しめているのです。


続く本文ヨブ記26:13です。


その息によって天は晴れ渡り、御手は逃げる蛇を刺し通す。(ヨブ記26:13)


神様の息によって天は晴れ渡りとは、神様の力によって繰り広げられている天の美しさを言っています。広くて高い空を見ると、神様の美しさと広さを感じます。透き通っている空に明るい日差しが照らされる姿とか、夕暮れの美しい夕焼けとか、夕日を見る時美しさを感じたりしますね。また空にはいろんな形の雲が浮いています。巻雲とか綿雲とかひつじ雲とかもあるし、時にはいろんな形を作っていますね。動物の形とかハートの形とかどれほど不思議で美しいでしょうか。また飛行機に乗って空を見るともっと美しいですね。このような空を見ていると、とても不思議で美しいです。また太陽と月と星が調和している天、銀河系などの美しさも感じてみることができます。また、空から雪が降ったり、雨が降ったりして、旧約時代にはイスラエルの民のために、マナも降ってきました。また、天には、御使いもいるし天の軍勢もいるから、それを想像するとどれほど美しいでしょうか。また皆さんは道を歩いていて空を見たら、美しい虹がかかっているならどれほど嬉しいでしょうか。今日も虹がかかって、写真を送ってくださった方もいましたが、私たちはその虹を見ながら、美しい虹色を見ながら、神様の愛を感じますね。そして秋空はとても高くて、また青いその色はとても素晴らしいですね。心が清らかになるような感じがします。それで世の人々も、青空を見るとなんだかわからない恐れとかを感じますね。神様を感じて、それで悪いことをしている人を見ると、天が見ているとか天を恐れないのかとか言ったりします。


そして伝道者の書3:11に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」とあります。神様は人の心に、故郷である天国を慕う心を下さいました。それで霊的に天国を意味する空を見ていると、何か懐かしさを感じたり、恋しい感じがしたりします。このように神様が造られた世のすべてのものには、霊的な意味が込められています。ですから創造者の神様を信じる人は、花一本を見ても、私たちのために美しい花を造ってくださった神様の愛を感じて感謝します。それでは、ヨブはこのように空を見ながら神様の力を表現したから、それは神様の素晴らしい御手を感じて、神様の御力を褒めたたえるための表現でしょうか?いいえ、ヨブは感謝するのではなくて、神様を恐ろしいと思う表現をしています。


次の聖句を読めば、「御手は逃げる蛇を刺し通す。」と言っています。これはどういう意味でしょうか?ヨブが感じている神様について、つまり神様は悪い方で恐ろしい方だという表現をするためのヨブの感情的な表現です。心が悪くて神様を誤解している人は、神様について表現する時も感情的に表現します。つまり神様を信じない人々に伝道すれば、「神がどこにいるのか見せてくれれば信じる。」と言ったりします。このように神様の存在を認めなかった人が、何か試練にあったら、「神様はひどい。」と言いながら、神様のせいにしたりします。またクリスチャンと言う人も試練にあったり、長い間祈っても答えを受けなければ、感情的になっていろんな言葉を口にするのです。神様が自分を打ったとか、神様が自分の事業の場を潰させたとか、神様が雨をたくさん降らせて農作物がだめになったとかいうのです。


それなら心が良くて神様との関係が正しい人は、神様についてどう表現するでしょうか?慈しみ深い神様、愛と公義の神様、良いものをくださる神様、祝福してくださる神様と表現するでしょう。皆さん、皆さんのミスで、皆さんの過ちで今苦しみにあっているのに、なぜ神様につぶやくのでしょうか?自分がうまくいって成功すれば感謝するけれど、失敗したり何か苦しい目にあったなら、なぜ神様の前に恨んだりするのでしょうか?それが罪の壁になってしまうのです。世の人はこう言います。「神様は愛だと言いながら、なぜ地獄を置いて人々を苦しめるのか。」と誤解したり、また神様について悪く言ったりします。いいえ神様は一人も地獄に行かないように思っておられます。そのために御子イエス・キリストをなだめの供え物として渡してくださいました。私たちを愛して御子まで死に渡してくださったのに、そのように伝えても信じないで、罪を犯した人が地獄に行くのであって、神様がわざと人を苦しめるために地獄を造ったわけではないのです。しかし人々は自分の心が悪いから神様を悪く言って、このように誤解して呟いたりするのです。そういうことをもしかして口にしたならば、徹底的に悔い改めなければなりません。もし神様を信じる以前、昔そんな風に言ったことがあるなら、祈れば聖霊様が思い起こさせてくださり、それを悔い改めてこそ罪の壁は壊れるのです。


現実を見て何か理解できないことが起こるかもしれませんが、神様を裁いたり、そんな不遜なことを口にしてはいけません。理解できないなら黙って待っていれば、また神様の御心を求めながら祈ればいいのではありませんか?口の言葉で罪の壁を作ってはいけません。今ヨブはあまりにも苦しいから、神様が自分を苦しめていると言いながら、神様を恐ろしいと思って誤解しているから、こんな風に表現しているのです。神様が叱ると天の柱が震い恐れるとか、神は力によって海をかき立てるとか、神は英知を持ってラハブを打ち砕くとか、神は逃げる蛇を刺し通すとか、このように激しい表現を使っています。また大げさに言っているのです。自分が好きな人や愛する人について表現するときは、こんな風に表現しないでしょう。でも誤解して嫌だから、嫌いだからこんな風に悪い表現が出てくるのです。元老牧師先生は講壇で例えを挙げて説明する時も、ちょっと汚い単語とか荒々しい単語を使う場合もあるのですが、その時も皆さんにまず申し訳ないと言ってから例えをあげたりするのですね。だからそういう単語を口にすることも申し訳ないと思うのです。でもそうではなくて、平気でそんな風に汚い言葉を神様に対して使ったり、激しい表現を使ったりする場合は、心の中にそれだけの悪があるということですね。


また自分に何か被害を受けたならば、悔しくていろいろ悪い表現を口にしたりするのでありませんか?元老牧師先生は、本当にそのように被害を受けたとしても、自分を訴えた悪い人々に対しても、少しもそんな風に悪い表現は使ったこともないし、そしてその人々を恨んだり、何かその名前を挙げて悔しいとか言われたことは一度もありません。ただみんな悔い改めて戻ってくるから帰ってくるからと、赦してほしいと言ってくださいました。心に善だけがあるからです。でも私たちは少し自分が被害を受けたり、また何か悪く言われたとしても、すぐその人に対して腹を立てたり、またその人に対して厳しい表現が出てきたりすることはありませんか?ヨブは神様に対して、神様を恨んでこんなふうに大げさに、厳しい、激しい言葉を使っています。皆さんの口の言葉はどうでしょう?自分が好きで愛している人に対してではなくて、少し苦手な人とか、自分に何か厳しく当たった人とか、また元老牧師先生に対してもどんなふうに感じているのか顧みますように。


ここで、「御手は逃げる蛇を刺し通す。」と言っています。この蛇とは、イスラエルの民が荒野で燃える蛇によって噛まれたことを、ヨブが連想したからです。民数記21章ですね。十字架の言葉のメッセージでその霊的な意味は聞きました。つまり律法の呪いから私たちを救うイエス・キリストについての印として、旧約にそういう出来事がありました。つまり神様の命令に従って、青銅の蛇を見た人は死ななかったように、罪によって死の道に向かっていた人も、十字架にかけられたイエス様を主として信じて受けいれてこそ、救われて命を得るようになるという意味です。もちろんヨブがこのような霊的な意味を知っていたのではありません。ただイスラエルの民が、荒野で聞き従わなかった罪によって、燃える蛇によって噛まれて死にかけていた時、神様が力で救ってくださった出来事を聞いて知っていたから、このように蛇を刺し通すと表現したのです。では神様はどんなものを刺し通すのでしょうか?神様は悪を憎んでおられるから、悪また不義を刺し通すでしょう。


第一テサロニテ5:22には「悪はどんな悪でも避けなさい。」とあります。神様は悪をとても嫌われているからです。また善をとても愛しておられるから、詩篇37:3では「主に信頼して善を行え。」と命じられました。ローマ2:10に「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。」とあります。神様は私たちのささやかな善の行いも全部覚えておられ、褒めて祝福として報いてくださる方です。また私たちが罪から立ち返れば赦してくださり、前の罪を思い出せない愛のある方です。それで聖書を読むと、神様は良い人を救ってくださり。正しい人に答えてくださったことが分かります。12年間、長血を患っていた女性が、イエス様の衣の裾に触っただけで信仰によって癒されました。また貧しい中でもレプタ銅貨2つを献金した女性の信仰を喜ばれて、ほめてくださいました。皆さんは神様の愛がどれほど美しいもので大きいものなのかを悟って、小さい悪でも完全に脱ぎ捨てて善を行い神様に喜ばれますように。

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