ヨブ記講解67 - 神を恐れているヨブ(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記23:11-12
前回は神様の子どもたちが試練に遭う理由について伝えました。ところで多くの場合、神様が試練に遭わせられたとは言えない、自分の罪と悪のため苦しみに遭うことがあります。また変えられたいと思いながら、目に見える肉の行いは行っていない聖徒でも、心の中で肉的なことをもっぱら考えることがあるのですが、それを悟れないまま信仰が停滞する時、試練が必要です。自分は忠実で祈っていてあまり大きい過ちがないと思うから、信仰生活をちゃんとしていて天国を激しく責めていると思います。しかし肉の思いを打ち砕いて、本性の中の罪の性質まで捨ててこそ聖められるのです。自分はあまり大きい罪も犯していないし、目に見える行いとしては忠実に仕えていて祈っているから、奉仕もしているからよくやっていると思います。
しかしそういう人が、忠実でない人や祈っていない人を見ると理解できないし、御言葉通りに行っていない人とは距離を置いたりします。それは自分の中に愛がないことを気づかなければならないのに、そうでないから試練を通して、自分を発見するように神様がなさるのです。自分はよくやっているけれど、自分より劣っている人や、御言葉通りに行っていない人を見ると、指摘したくなるのですね。でなければ避けたいと思うのです。もちろん教える立場にいる人もいますが、同じように教えていてもその心が違うのです。主のしもべや働き人はこれをよく覚えてください。
自分の言うことをよく聞いてくれる聖徒は好きで、それで会いたいけれど、そうではなくて問題を起こしたり、自分の言うことを聞かない聖徒を見たら、距離を置きたいとか会いたくないとか思ってはいけないのです。自分なりに信仰生活をちゃんとしていると思っても、その心の中には愛が足りないのですね。自分が好きな人にアドバイスをしたり助言する時の自分の言葉遣いや言い方と、自分が好きではない人に対する時の態度とか、言葉遣いが違うのではありませんか?自分が好きな人、自分に良くしてくれる人には優しく言ったりするのですが、そうでない人に対してはちょっと厳しく冷たくなるかもしれないのです。自分の言うことを聞いてくれないし、いつも反対する人に対してどんなふうに話をしているのか?どんな態度をとっているのか顧みますように。
もしかして言葉遣いが厳しくなったり、ちょっときつい言い方をするかもしれません。でも自分はそれに気づかないのです。でもそれを発見しなければなりません。全ての人に同じように愛の心を持って接するべきなのに、そうでない姿があるのですね。私たちは神様に愛されているから、全ての人を愛さなければなりません。神様は何の理由もなく、一方的に試練にあわせて苦しめる方ではありません。神様は独裁者のように、ご自分の思う通りに苦しめるのではなくて、公義に従って調べられるのです。ですから試練が早く終わるためには、心を霊に変えなければなりません。
もちろん罪を捨てて御霊の歩みに入ったとしても、試練に遭う場合がありますが、それはさらに大きい祝福のために神様が練ってくださる場合があります。聖められたとしても心の器が小さい場合は、もっと心の器を広く大きくするために、また、より多くの人を受け入れるようにするために、練られる場合があります。それは祝福ですね。祝福と言うと物質の祝福だけではなくて、このように霊的な祝福の面もあるのです。皆さんに必要な試練の時があるのです。それは祝福です。感謝すべきところです。ただ心に悪がない次元ではなくて、さらに大きい愛と完全な善を持つように神様が導いてくださる試練もあります。ですから私たちは試練に会うと神様の愛を信頼しなければなりません。
信仰生活をしていると、より美しい姿に変えられるように神様が練ってくださる場合があります。こういう時ローマ8:32に「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とあるように、私たちに良いものを与えてくださる、愛の神様を信じてより頼む人は、心が平安です。ですから私たちを救うために、一人子を使わせてくださった神様の愛、私たちの罪の身代わりに、十字架につけられたイエス・キリストの愛を決して忘れないで、どんな試練にあっても、神様を信頼することで、完全に勝利する皆さんになりますように。
今日の本文を読むとヨブは、自分が神様にどれほど仕えていたのかを言っています。ヨブ記23:10節ではどう言っていますか。「自分の道を神様は知っておられる。」と言って神様が自分の行いを知っていると言っていましたね。続く11節で自分がどんなふうに神様に仕えていたのか言っているのです。10節と繋がる11節です。
ヨブ記23:11です。
私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。(ヨブ記23:11)
ここで自分の足は神の歩みにつき従ったとは、ヨブが神様にいけにえをちゃんと捧げていたということを言っています。また神の道を守ってそれなかったということは、神様に生贄を捧げることを変わらずに続けてやったということです。ところが神様がヨブの生贄を完全に喜んでお受けになったのでしょうか?旧約は新約の影ですが、神様はただ生贄を捧げるそのうわべの行いだけを受けたのではありません。旧約は行いで救われる時代だと言うのですが、神様がその行いだけをお受けになったのではないのです。人と人との間では、行いで立法を守っていても、神様は認めてくださいました。まだ聖霊が臨む前の時代だし、心に真理と反対のものがあっても、行いで実際盗んだり姦淫したり人を殺したりしなければ、それは罪と問われなかったのです。
しかしこれは、人が霊的なことを理解できないからお許しになっただけで、神様は人との間で、うわべだけの行いだけをお受けになったのではないのです。もちろんその行いも見るのですが、その心をご覧になるのです。例えば神様はアマレクとの戦いで、全てを聖絶するようにと言われましたが、サウル王は肥えた家畜は神様に生贄として捧げるためと言って、連れてきました。しかしそれによってサウル王はどうなりましたか?褒められたのではありません。厳しく叱責されて神様から退けられました。うわべだけを見ると、肥えた牛や羊を連れてきて神様の前に生贄を捧げようとしたのに、なぜ退けられたのでしょうか?神様はその生贄を望まれたのではなく、聞き従うことが生贄に勝るという霊的な心を望んでおられました。ですから、神様はうわべではなくて、真実な心から神様を信じて信頼して従うことを望まれます。
アダムの息子カインは、神様の御心を知っていながらも従わないで、適当に地の産物を捧げ、アベルは信仰で聞きしたがって、羊の初子とその油で血の生贄を捧げました。確かに父親のアダムは神様がどんな生贄をお受けになるのかを、二人の息子に教えました。でもカインはそれに従わなかったのです。自分は穀物を育てる人だから、その作物のものを神様に捧げました。信仰生活で私たちもよく見分けなければなりません。自分ができること、自分が良いと思うことをしておいて、神様、祝福してくださいと言ってはいけないのです。神様が何を望んでおられるのか、神様が何を受けられるのかを知って、それに合わせて捧げなければなりません。神様は1から100までを望んでおられるのですが、自分は10だけをしておいて、「答えをください。」と言っても、神様は与えることはできないのです。
カインの生贄はそうでした。神様に受け入れられないものでした。それで神様はアベルとその生贄は喜ばれましたが、カインのものは受け入れられなかったのです。カインは肉的な生贄を捧げましたが、アベルは神様が望んでおられる霊的な生贄を捧げました。このように血の生贄を捧げなければならないのです。アベルが捧げた血の生贄は、今日で言えば霊と真によって捧げる霊的な礼拝です。しかし、カインは自分が見て良いもので捧げた生贄は、形式的なうわべだけの礼拝です。そして心を変化させないで世と友になっていて、教会にただ出席しているばかりの形式的な信仰生活のことです。
私たちがただ行いだけで教会に出席しているからといって、神様がお受けになるのではありません。イエス様が私たちの罪をあがなうために、血を注がれたということを信じるならば、霊と真によって礼拝を捧げることはもちろん、自分の生き方そのものを、生ける供え物としなければなりません。ローマ12:1に「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。」とあります。完全に献身する生き方でなければなりません。つまり聖書66巻の御言葉に従って神様の御心通りに生きること、それで心の中の悪を捨てて善と真理で心を満たすこと、これこそ神様が私たちに望んでおられる生きた供え物で血の生贄です。
ヘブル11:4を読むと、「信仰によってアベルはカインよりも優れた生贄を神に捧げ、その生贄によって彼が義人であることの証明を得ました。」とあります。このように神様は信仰で捧げる生贄をお受けになります。アブラハムは死者からも蘇らされる神様を信じたから、ひとり子イサクを捧げなさいという試みの時もアーメンで聞き従い、信仰の父になりました。エリヤは異邦の預言者たちと対決する時、神様にまず心思いを尽くして信仰で祭壇を築きました。3年半の間、日照りが続きました。それで貴重な水ですが、エリヤはその水を4つの瓶に満たして、3回も祭壇の上に注ぐ信仰を示して、ただ神様に喜ばれました。
今、異邦の預言者たちと火を引き下ろす霊的な戦いをしているのです。それでまず神様に喜ばれるために、その時一番貴重なもの、日照りが3年半も続いたからどれほど貴重だったでしょうか、そのたっとい水を神様にこんなに捧げました。そして火を引き下ろす時、このように水を祭壇の上に全部注いでこんなにたくさん注いだから、神様が天から火を下ろしてくだされば、誰もそれについて文句を言えないでしょう。例えば焚き木が乾いたところがあるから火がついたと言うかもしれませんが、そう言えないように水を満たしたのです。まず神様に喜ばれるためでした。そして神様で切に祈ったら天から火が降ってきて、祭壇の生贄とたきぎを焼き尽くして、溝の水を舐め尽くしました。
それだけではなくエリヤは、3年半の間雨が降らなかった時祈って、雲の一片が昇るのを見ながら、大雨になることを信仰の目で見て告白しました。アブラハムとエリヤがこのように神様に生贄を捧げる時、彼らには本当に信じる霊の信仰があったのです。しかしヨブは信仰ではなくて自分の思いの中で、上辺の形式的な生贄を自分なりに熱心に捧げていました。そしてヨブは普段自分の人格を頑張って守っていたし、行いとしては潔白だったから、自分では自分の悪を発見することができませんでした。だから神様は試練にあうようにして、ヨブの心の潜んでいる悪が明らかになるようにしてくださるのです。それで後で、ヨブが自分で私は罪人ですと悟って悔い改めるようにして、本当の霊的な生贄を捧げられるように導いておられるのです。
皆さん、ヨブの姿を見ながら自分の姿を発見してください。今ヨブは自分がよくやったことを覚えていて、自分は正しいと思っています。それなのになぜ神様は私を苦しめるのかと、神様を恨んでつぶやいています。だから祝福されていないのです。皆さんはどうでしょう?皆さんの中にも熱心な方がいます。そして自分が格別に熱心なところがありますね。ある人は奉仕に熱心で、ある人は伝道に熱心で、ある人は祈りに熱心で、ある人は施しに熱心な人もいます。その分野では自分がよくやっていると思います。それで自分なりに誇りと思っています。神様の前でもそういうところ、そういう面では大胆です。でもその他のところはどうでしょう?
本当に神様が望んでおられる心の割礼はどうでしょう?人を愛すること、そういう神様が望んでおられる御言葉は守っていないで、自分ができる分野だけ熱心で、だから神様、私はこんなにやっているから応えてくださいとか言うのでしょうか。もちろん神様は、信仰が弱い時はそれを見て、信仰が成長するように導いてくださるのですが、でもある程度信仰が成長して務めもあって、御言葉も知っているのに、心の割礼はしないで相変わらず、人を憎んでいながら愛していないまま、神様はなぜ私は頑張っているのに奉仕もこんなにしているのに、祝福してくださらないのですかというのでしょうか。神様がご覧になる時はどう思われるでしょうか。
私たちがもしそういう人を見るなら、私たちでも分かるのですね。そのままでは答えを受けることはできない。でも本人はそれを分からないのです。自分はよくやっていると思うからです。だから問題なのです。ヨブもそうでした。自分が行いは潔白だったし、正しかったし、罪から遠ざかっていたのですね。だから自分はよくやっている、正しいと思っていたのです。自分の心の中の悪は悟れなかったのです。また神様との間で、どんなことが罪の壁になっているのかも知らなかったのです。もちろん神様の前や教会で、いろいろ熱心であること、熱いこととか奉仕とかはいいのですが、でももっと大切なものがありますね。
学校で勉強する時いろんな科目がありますね。ある人は国語、数学とか英語が得意な人がいます。ある人は音楽とか体育とか美術とかが得意な人もいます。ある人は音楽や美術で100点満点を取ったとしても、認められるためには全体の成績が高くならなければならないですね。国語とか英語はもう10点20点なのに、私は音楽が100点なのに、なぜ賞をもらえないのかと思ってはいけないのでしょう。だから私たちも同じように、自分がよくやっているところだけを考えて、こんなにやっているのにと思ってはいけないのです。ヨブもそうでした。狭い目線で自分を見ているから分からないのです。こういう姿を通して皆さんも自分の姿を悟ってみてください。
私は、こういうところは神様の前で熱心なのにとか思うのではなくて、自分が欠けているところ、自分ができていないところは何なのか?また神様が本当に望んでおられる心の割礼は、どのくらいしているのかを顧みますように。ヨブの姿が自分の姿であることをまず認めなければなりません。それで霊的に何がもっと大切なのかを、まず考えなければなりません。それで自分を顧みて、欠けているところを満たして直していけば祝福でしょう。続く本文を読むと、ヨブは自分がやってきたことについて自負心を持っていることが分かります。
ヨブ記23:12です。
私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。(ヨブ記23:12)
ところがこれは辻褄が合わないことです。ヨブはこの前までヨブ記23:2で「きょうもまた、私はそむく心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い。」と言っていました。神様に背く心でうめいて嘆いていたのに、でも今は「自分は神様の命令を守った。」「御口の言葉をたっとく思った。」と言っているのです。どれほど合わない言葉でしょうか?これも私たちの姿かもしれません。皆さんも相手に対して何か不満を抱いていながらも、唇では愛すると言っている場合もあるかもしれません。元老牧師先生も前言われましたが、悔い改めの手紙を書く人が、愛する先生とかこのように書くのですが、本当に愛すると言えるのかと言われました。本当に愛するなら言うことを聞くでしょう。聞き従うでしょうと言われました。皆さんもこういうことを覚えているでしょう。
そしてある人は申し訳ありません。私はこんなに悪いことをしました。でも愛しています。もちろんその心は感謝ですが、でも今ヨブの姿を見ていると、このようにこう言ったりああ言ったりしながら変わってしまうのですが、自分はこんな風に一貫性がないこと、事実が合わないことさえわからないのです。だからヨブが今言っていることは合っていないということですね。私たちにもこういう姿があるのではないか顧みなければなりません。自分は神様の前で命令を守らないで、愛されるようなことをしていないのに、「私は神様を愛しています。」とか、「私は神様の御言葉を守っています。」とか、このように思い違いをしている場合があります。そういう時、私は真理にとどまっていないのだと、自分を悟らなければなりません。自分を基準にするのではなくて、真理を基準にしなければならないのです。
でも信仰生活を長くしていても、こういう自己発見というものができない人もいます。自分なりに信仰生活はしていても、神様がご覧になる時認められるような発展もないし、心の割礼もしていないから、後で結果を見てみれば、思ったより優れた天国に行けない場合もあるのです。神様の前で私はこれしかならなかったのかと、低い天国に行って申し訳ないと思うよりは、今自分を発見して変えられて、それでより優れた天国に行った方がいいのではありませんか。私が人を見る時も同じです。その人の良いところではなくて、良くないところだけを見ている人もいますが、その人について私たちはよくわからないし、何を思ってどんなことを考えているのかよくわからないのですね。でもああだこうだと決めつけて、さばいてしまう時があります。それも注意しなければなりません。
ですから全ての人の前で低くなって、その人の良いところを見ようとしなければなりません。でなければ自分は高ぶっていて、人をさばいているかもしれないのです。だから自分のそういう欠けているところをまず認めなければならないし、だからといって失望して落ち込んでしまうのではなくて、さらに変えられるというその希望と信仰を持って、信仰によって頑張らなければならないのです。でもヨブはまだ真理で自分を発見することができないから、相変わらず自分は正しいのにと思っています。そして自分は神のくちびるの命令から離れなかったと思います。それは自分が変わらずに熱心に生贄を捧げていたからです。でも先ほど言ったように、神様はうわべの生贄ではなくて、心から真実の心で仕える礼拝を望んでおられます。人は心の中で相手を憎んでいても、うわべでは相手を愛していますという言葉で、ごまかすことはできます。しかし神様は心をご覧になります。だから中身のないうわべの愛ではなくて、真実な心の香りをお受けになるのです。
ところで今日、心ではなくてうわべだけの形式的な信仰生活をする人がいます。主日には教会に出てきて礼拝を捧げて、十分の一献金も捧げて奉仕もします。でも天国に希望を置かないで、欲とか憤りなど心の悪を捨てないまま、自分の欲に従って生きるのです。このような心で捧げる礼拝は霊的な生贄ではなくて、肉的な生贄になるのです。マタイ23:23でイエス様は、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし十分の一もおろそかにしてはいけません。」と言われました。
主日を守り、十分の一を捧げ伝道して奉仕することも重要ですが、心の割礼をして悪を捨てて聖められる方がもっと大切だということです。ですからうわべだけではなく心が聖められて、良い実にならなければなりません。神様は天国の倉に殻ではなく麦を入れる方です。ここで麦とは主に似た真理の人を言います。しかし殻はイエス・キリストを受け入れていない人、また神様を信じるといっても、世の人のように罪を犯しながら心の割礼をしていない肉の人を言います。ですから私たちは決して殻になってはいけません。麦の中でも最上の実になって、一番美しい新しいエルサレムに入らなければならないのです。
