ヨブ記講解68 - だんだんひねくれていくヨブの心(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記24:12-18
ヨブ記24:12です。
人の住む町からうめき声が起こり、傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし神はその愚痴に心を留められない。(ヨブ記24:12)
人の住む町からうめき声が起こりとあります。そこには人々がたくさん住んでいるでしょう。そしてそれを目撃した人もたくさんいるでしょう。ヨブは自分が彼らの生活を見たというなら友達が素直にそれを聞き入れないと思ったから、その悪者たちの悪さと貧しい人々の哀れな姿を見た人がたくさんいるということを言っているのです。このように一言一言を知恵を持って使って、自分の言葉が確かだと強調しているのです。傷ついた者の魂は助けを求めて叫んでも、神様はその愚痴に心を留められないとあります。この言葉からこれまでヨブが貧しい人と悪者を対比して説明した理由が明らかになります。
哀れな人々がうめき声を上げながら傷ついた者が叫んでいても、神様は心を留めてくださらないと言っているのです。ヨブが言いたいことはこれです。長々と貧しい人の哀れな姿、みじめな暮らしとか、悪者たちのそのような悪さなどを説明していたのですが、それは神様がそれをただ見て知らんぷりをして、彼らの苦しみに心を留められないということを言いたかったからです。ヨブは良い意図から貧しい人々の味方をしたり、彼らのために言っているのではなかったのです。だからといって、悪者が悪いと指摘しようとそう言ったのでもありませんでした。悪者たちが貧しい人々の財産や持ち物を全部奪って、貧しい人々が惨めな思いをしているのに、神様はただ放って置くと言っているのです。そればかりか、悪者がうまくいくようにしてあげていると言っているのです。つまり貧しい人々がいくら訴えても叫んでも神様は答えてくださらないし、悪者たちの不義を裁いてくださらないという意味です。だから神様には愛もなく正しくないから悪い方だと結論をつけています。
人の心がひねくれてしまえば、このように神様を誤解して悪い言葉を口にしているのです。もちろんヨブが初めから、このように激しく悪いことを言ったのではありませんでした。友達と言い争っていたらだんだん感情的になって、時間が経つほど苦しみがひどくなるから、不平不満を抱いて心がひねくれてしまい、このようにとんでもないことを言っているのです。皆さんもこういう姿があったのではありませんか?今はそうでないかもしれないのですが、過去こういう姿があったかもしれません。ヨブのことだと思わないで、自分のことだと思ってください。ヨブは、最初は神様に感謝していたのに、神様の前で愚痴をこぼして悪を行なわなかったのに、今はどうでしょう。本当に神様の前に、言ってはいけないことを言っているのではありませんか?皆さんはどうでしょう。
自分が認められて愛されているときは喜んでいたでしょうが、自分が認められないし無視されたりしていると思って、それで周りの人のせいにしたりして、そのままではなくて、神様のせいにして神様がなぜと思ってしまう自分の姿はありませんか?それでだんだん自分の心の中でそういう不満が大きくなって、悲しみが大きくなって、それで口から愚痴をこぼしてしまうのではありませんか?今ヨブは神様を恨みながら、悪者を裁いてくださらないと、正しい人を苦しめていると、とんでもないことを言っているのですが、私も教会でこういう姿を見たことがあります。
AとBという人がいるのですが、Aは訴えます。Bが自分を苦しめているのに、なぜ教会ではBをそのまましておくのか? Bを懲らしめないのか? 裁かないのかと訴えていました。皆さん、講壇からは皆さんのために、何が善で何が悪か、何が正しいか、何が正しくないのか、正確に教えて伝えています。真理を持って説明しています。だからBという人がそれを聞いて、自分を悟らなければならないのですが、AはBになぜ直接言わないのか、それが不満なのです。それが善でしょうか?そしてBという人がなぜ務めがあって、なぜリーダーなのかと不満を抱いていて、その人をその場から下ろしたいと思って、その人が除け者にされたらと思ったりするのです。それが本当に皆さん正しいことでしょうか?善でしょうか?そしてそのAという人は、なぜ教会ではその人を裁かないのか?なぜBという人をそのまま放っておくのかと言いながら、不満を抱いて愚痴を言っているのです。
でも教会では、そのBという人にも機会を与えているし、Bという人の良い面もあるからそれを認めて、その人がよくできることを任せているのです。神様がご覧になるときBという人には認められるところもあるのです。でもAという人はそれが嫌で不満に思って訴えているのです。神様の前で何が善でしょうか?今ヨブもそのような心でした。いくら神様の裁きを待っていても答えもないし、自分の苦しさを訴えようとしても聞いてくださらないと思うのです。神様は正しい人は顧みないで、悪者がうまくいくようにして放っておくと思うのです。それで神様は正しくないと、愛もないし悪い方だと、このように決めつけているのです。つまり自分は正しいし友達は悪いのに、なぜ神様は友達を悪いと言ってくださらないのか?そしてなぜ彼らを懲らしめてくださらないのか?なぜ私だけ苦しめて私だけ懲らしめるのかと思うのです。皆さんの中でもそういう心はありませんか?
そして教会でも客観的に見ているし、そしてある人の場合は指摘して、教会からその人のために何か懲らしめることがあったり裁くことがあるなら、その人の魂が救いから離れてしまう恐れがあるから、機会を与えてそれでも待っているのです。愛のある人ならそのことについて感謝だと思うでしょう。そしてその人が変えられるために、その人が悟って変えられるように愛を持って祈ってあげるのではありませんか?しかしヨブは神様の前で、このように神様はひどいと言いながら誤解しているのです。試練に会う前のヨブの姿は、潔白で正しい人のように見えたのですが、このようにその心の中に捨てるべき悪があるから、神様は愛を持って練っておられるのです。今までヨブ記講解を聞きながら、最初ヨブは本当に潔白で正しい人のようでしたね。そして子供がなくなって財産もなくなって、それでもその時までは神様の前で愚痴をこぼして悪を行わなかったのです。
でも自分の体が病気にかかってだんだん苦しくなるから、そして友達にあれこれ言われたら、もう潜んでいた悪が出てしまって、今はとんでもないことを言っているのです。その悪が目に見えるようになっているのです。それを目で見て認めて悟ってこそ、悔い改めて捨てることができるから、このような過程が必要なのです。私たちはそれを今聞いているから、自分にも適用すればいいと思います。ヨブは12節まで、悪者が貧しい人や弱い人を苦しめても、神様はただ見て放っておられると思って、神様が悪いと言っています。13節からは悪者の行いがどうなのか具体的に言いながら、神様に向かって激しく問い詰めています。
ヨブ記24:13です。
これらのものは光に反逆するもので、光の道を認めず、またその通り道にとどまらない。(ヨブ記24:13)
光とはここで霊的には正しいこと、義の光を言っています。したがって光に反逆するものとは正しい道から離れた不義の人であり、彼らは光の道を認めないと説明しています。その通り道とは光の中を歩むことです。したがって本文で、その通り道にとどまらないということは、不義な人は当然行くべき正しい道、光の道に行かないで、暗闇にとどまっているという意味です。皆さん、この御言葉の内容は真理ですね。悪者は暗闇にとどまっていて光を憎んでいます。しかし自分は正しいと思って悪を行っています。ヨブはこの様に悪い人を、どうして神様が裁いてくださらないのかと言いながら、それなら私が裁くというふうになってしまいます。そうしながら自分は正しい人だと錯覚しているのです。このような姿が人の子らの姿です。このような大きい悪が自分の中にもあることを悟らなければなりません。どうして人が人を裁いて罪に定める権利があるでしょうか?それなのに、むやみに人を裁くことはよくありますね。あの人はなぜああなのかとか、ああすればいいのにとか、このようなことも真理ではないのです。
続く、ヨブ記24:14-15です。
人殺しは、夜明けに起き上がり、哀れな者や貧しい者を殺し、夜には盗人のようになる。姦通する者の目は夕暮れを待ちもうけ、「私に気づく者はない」と言い、その顔におおう物を当てる。(ヨブ記24:14-15)
ここで夜明けとは全ての人が眠っている時間のことです。でも悪者はその夜明けに起き上がって、哀れな者や貧しい者を殺すのです。罪がはびこっている今日は、いろんな悪行が昼も夜も起きるのですが、ヨブの時代には主に人々が眠っている時間、夜明けに犯罪が起こりました。それでは、人殺しは、夜には盗人のようになるとはどういう意味でしょうか?盗人は不義な心があるから、盗むものを探してあちこち探し回って、狙って暗い夜の中に動きます。計画的に人を殺そうとする人ならば、人の目を避けるために、どれほどしっかり準備をして計画して機会を狙うでしょうか?
例えば、イスカリオテ・ユダは、普段、人が見ていない時、金入れからお金を盗んでいる人でした。そしてイエス様を売ろうとした時も、大祭司から銀貨30万円を受け取った後もすぐ実行したのではなく、彼らに売り渡す適当な機会を狙っていました。自分の主を売り渡すということは、人の道を踏み外れた裏切りの行為だったので、昼間ではなく暗い夜の中を選んでそのことをしました。このような人の心理について、ヨブは人殺しは夜には盗人のようになると言っています。そして姦通する者の目は夕暮れを待ち儲けとあります。姦通する者はその行いが恥ずかしいことだと知っています。それで昼間ではなくて夕暮れを待っていて行動に移します。このような人は誰かに気づかれないように自分の顔に覆うものを当てます。創世記38:14-15を読むと、やもめタマルがベールをかぶって着替えして遊女のようにして舅を欺く場があります。ヨブはこのようなことについて聞いて知っていたから、姦通する者はその顔に覆うものを当てると表現しているのです。
ヨブ記24:16-17です。
彼は暗くなってから、家々に侵入する。昼間は閉じこもって光を知らない。すべて彼にとっては暗黒が朝である。彼は暗黒の恐怖と親しいからだ。(ヨブ記24:16-17)
ここで家に侵入する人は盗人を言っています。先に言ったように、盗む人々はほとんど暗い夜の中、人の家に入って盗みます。そして本文を見ると、昼間は閉じこもって光を知らないとあります。盗みなどいろんな犯罪を行う人は後ろめたいから人の目を伺って、昼は明るい光を避けて家の中で閉じこもっていることがよくあります。そして彼らにとっては暗黒が朝であるとあります。これは夜を朝のように昼のように動く時間にするという意味です。それが日常のようになっているのです。ここで暗黒とは霊的には死を意味します。命が危なくなって滅びに向かう状態を意味します。
暗闇の中真理と反対のものの中で行う人は、自分の行いが罪であり死であることを知っていて、明るみに出されることを恐れます。信仰のある人は闇が嫌いで罪を恐れる反面、信仰のない人は真理と反対に留まっているから真理の光が恐ろしいのです。ヨハネの福音書3:20に「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」とあります。闇に留まる人、罪を抱いて悪を行う人は、光である神様の前に出てくるのを恐れるのです。17節まで悪者の行いについて説明したヨブは、続く18節からは神様の代わりに自分が裁判長のようになって悪者たちを裁いています。
ヨブ記24:18です。
彼は水の面をすばやく過ぎ去り、彼の割り当ての地は国の中でのろわれる。彼はぶどう畑の道のほうに向かわない。(ヨブ記24:18)
ヨブは、悪者が洪水のような急流に流されてしまったらいいと思っています。世にはこのような人がたくさんいます。あの人が自分を苦しめているからその人が呪われたらいいのにとか、その人が失敗したらいいのにとか、滅びたらいいのにとか思うのです。でも世の人は、それが悪いと思わないのです。あの人が私を苦しめたから、私は実際復讐するのでもないし、ただ心の中でそう思っているだけだからそれを罪だと思わないのです。でも真理に照らしてみればそれは悪です。だから真理を知っているということは、どれほど幸いなことでしょうか。だから心の中で思いの中で人を憎んだり呪っている、そういう悪を捨てなければならないのです。
でもヨブは心がひねくれていて、自分が神様のようになって悪者を裁こうとしているのです。また彼の割り当ての地は国の中で呪われると言っています。悪者の財産やすべての持ち物が呪われてなくなってしまえばと思うのです。そして彼はブドウ畑の道の方に向かわないと言っています。イスラエルでは水が貴重だから、神様は発酵したブドウ汁を飲み物として飲んでもいいと言われました。本文でブドウとは乾きを解消する実です。また豊かさを象徴します。でも彼らはブドウ畑の道に向かわないと言っているから、これは悪者が呪われて、凶作になることを言っているのです。12節で「人の住む町からうめき声が起こり、傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない。」とヨブが言っていましたが、ヨブは神様が悪者を裁かないで放っておくと誤解しました。
だから今は自分が裁判官になって悪者を裁いて呪っているのです。今日も神様を信じない人々が悔しい目にあった時、自分に被害を与えた人を呪うことがあります。そして相手が平安にうまくいっていることを見れば気に入らないし、腹が立つのです。神様が生きておられるなら、どうしてあんな人をそのまま放っておくのかと神様につぶやくし、それだけではなく、自分が裁判官のようになって、あの人が大きい事故にでもあったらいいのにとか、死んでしまえばいいのにとか、滅びてしまえばいいのにとか、悪い言葉で呪ったりします。ひょっとして皆さんの中で主を受け入れる前、過去の姿がそうではなかったのかを顧みますように。
真理である神様の御言葉を知る前は、こういう姿が悪だとも分からなかったのです。しかし真理を知って聞いて知ったあとは、真理の鏡に自分を照らして過去の悪も悟るから、祈りながらそれを捨てていくことができます。変えられたいと思う聖徒なら、今の自分の心も思いも顧みなければなりません。自分を苦しめて自分を憎んで陰口を叩く人がいるなら、その人が嫌になりますか?でなければ、その人の良くないところを人に伝えたりしたことはありませんか?ヨブのようにひねくれた心でさばいたり、呪うまではいかなくても、相手がうまくいくのが嫌で、相手が褒められたりすれば面白くないなら、これも心に悪があるからでしょう。そして自分が相手をさばいてしまうこともあります。ある人が過ちをしていて悪を行っている姿を見ながら、あの人は地獄に行くようなことをしていると口に出す場合があります。そして人に話す場合もあります。それが、自分が神様のようになっていて裁判官のようになっていて、人を裁く姿ではありませんか?皆さんそれはいけません。皆さんの子供ならどうでしょう?皆さんの子供が今、悪を行っていて罪を犯しているからといって、この子は地獄に行く人だとか、地獄に行くようなことをしているとか厳しく言うでしょうか?そうでないでしょう。どれほど心痛みながら、何としてでもその子が救われるように、その罪の道から立ち返るように切なる心で神様に祈るでしょうか。この人は地獄に行くようなことをしていると考えたり口にしたりすることは、どれほど大きい悪でしょうか?それはまた、自分が人を裁いているから、罪に定めているから大きい高ぶりです。愛がない姿です。皆さんにはこういう姿はありませんか?
そしてある人が自分の言うことを聞いてくれないからといって、自分の思い通りに行ってくれないからといって不満を抱いたり、悪いとか、ひどいとか言っているなら、それも人を裁く姿です。本当に愛があるなら、そうしないでしょう。そして周りの人に、その人の噂話をしたり、あの人はあんなにひどいことを、地獄に行くようなことをしているとか言うなら、これはどれ程ひどい悪であり、高ぶりで、神様の前にありえないことでしょうか。どうしてこの様に、人のことをむやみにさばいているのでしょうか?もし皆さんそういう姿があるなら、今日祈りながら悔い改めましょう。地獄に行くと罪で定めることはなくても、もしかして自分を苦しめた人がうまくいくのを見ながら、面白くないと思ったり嫌だと思ったりするなら、それも良くない心です。そういう心を捨ててこそ、神様を見つけることができます。神様が望んでおられる善と愛の心に変えられて、神様の祝福を受けますように。聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。
父なる神様、今日ヨブの心がひねくれて、神様を誤解して神様を裁いて悪い方だと問い詰めていました。しかし神様は愛の神様、憐みの神様、赦しの神様です。そのような神様を知っているなら、どうして人を裁くことができるでしょうか?どうして恨んだりつぶやくことがあるでしょうか?人が嫌いになったり、その人の良くないところを人に伝えたりする、そういう悪い姿があってはいけないでしょう。神様の善と愛を見習っていくようにしてください。それで自分自身を顧みて悟って発見して変えられるようにしてください。感謝して、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
