ヨブ記講解63 - 立ち返るなら赦しと祝福2(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:23~28
前回エリファズはヨブに、「あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。」と言いました。罪から立ち返って、神様の許しと祝福を受けなさいと忠告しました。エリファズは続けてヨブを教えているつもりです。今日のメッセージを聞いて、私たちを悟らせてくださる神様の御心を調べてみましょう。ヨブと友達が互いに争っていて、互いに悪を持って言い争っているだけだと思ってはいけません。私たちに神様が何を教えてくださるのか、何を悟らせてくださるのかを悟らなければなりません。ヨブと友達の話の中で真理もあるし、真理と反対のものもあります。合っている言葉もあって、合っていない言葉もあります。それを正確に見分けなければなりません。私たちが全ての不義を捨てて、罪から立ち返って神様に喜ばれる時、どんな祝福を受けるのか今日伝えますので、皆さんはこの御言葉を霊の糧にして、霊肉ともに祝福を受けますよう主の御名によって祈ります。
エリファズはヨブにヨブ記22:24で言います。
宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置け。(ヨブ記22:24)
ここで宝とはヨブが大切に思っていた全てのものです。家族を含め、財産と権力と名誉などです。ちりとは宝物とは対照的な意味です。何物でもないもの、無の状態低くなった状態を言います。エリファズはヨブに、以前の財産や宝と思っていた全てを全部無にして、心の苦しみがなくなるようにと言っているのです。前は成功していてうまくいった人が、今は苦しみにあって低くなっている時があります。するとほとんどの人は前の自分のことを思い出して、今の自分の状況を見ながらさらに辛くなります。でもエリファズはヨブにそうしないで、さらに謙遜な心になりなさいと言っているのです。しかしエリファズがこのように言っていることによって、神様が何を教えようとしておられるのかを悟りますように。
「オフィルの金を川の小石の間に置け」とはどういう意味でしょうか?オフィルは金がたくさん取れた地域でした。それでソロモン王は、オフィルから金を運んできて、神様の神殿を建てるために使いました。ここでオフィルの金を川の小石の間に置けというのは、金を石のように見なさいという意味です。エリファズは、ヨブが宝や金を不義な方法で貯めたと思っているから、これらは全部虚しいと言っているのです。ところが今ヨブには、蛆のわく痩せた体だけが残っているのに、何か金とか宝があるでしょうか?これはエリファズがヨブに名誉や自尊心、高くなった心などを捨てなさいという意味を込めて、例えて表現しているのです。この言葉そのものは合っています。
しかしこれを言っているエリファズはどうでしょう?エリファズに宝と金があったなら、ヨブに忠告したように、石のようにすることができるでしょうか?そうではなくて、それを自分が手に入れるために頑張ったでしょう。このように欲の多い人が、このような話をして教えようとすることはあっていないのです。それではここに込められた霊的な教訓は何でしょう?神様を信じている私たちは、金を石のように思うべきだということであり、これこそ命とならなければなりません。しかしだからといって、貧しくなりなさいという意味ではありません。ヤコブ1:15に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあるように、欲によって死に至るよりは、その欲を捨てた方がいいという意味です。富や権力名誉などが大切なのではなく、神様を恐れて御言葉を守り行うことを優先順位にしなければなりません。
マタイ6:33に、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。私たちの必要は、神の国とその義とをまず第一に求める時に満たされます。マタイ19:29に「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」とあります。ですから私たちが神様を第一に愛して、世の欲や肉的なものを捨てて、命を尽くして主のために献身するとき、神様はただ受けるのだけではなく、私たちが信仰と愛をもって行った通りに、溢れるばかりに30倍60倍100倍に報いてくださいます。続いてエリファズは24節で言ったこと、「宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置け。」こうなると、どのような祝福が望むのか具体的に説明します。
そうすれば全能者はあなたの黄金となり、尊い銀があなたのものとなる。(ヨブ記23:25)
つまり富と名誉、権力などヨブが宝のように思っていたことを捨てれば、創造者の神様がヨブの宝になり、黄金や金になるから、少しも乏しいところはなくなるという意味です。このような御言葉は命です。真実です。世でお金を追っていく人は、いつも追われるしかないのです。しかし追っていくとお金が手に入らないけれど、欲を捨てればお金が自分を追ってくるという話があります。欲を捨てるとき、神様が祝福してくださるのです。本当に欲、私心を捨てたならばどうなるでしょう?世で何か名誉や権力を求めるでしょうか?そうではありません。神様を愛して主のために忠実に仕えて、自分の時間や物質を神様のために捧げて、献身するようになります。そうすると霊的に満たされるようになり、そうすると神様が全ての必要を満たしてくださるのです。
詩編24:1に「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」とあります。天地万物は神様のものです。ですから私たちが神様に喜ばれるなら、天地万物すべてのものが自分のものにもなるのでありませんか。聖書のあちこちでは「私たちが神様を愛して戒めを守り神様に喜ばれるなら、何でも求めるものは神様からいただくことができる。」という祝福の御言葉があります。詩編37:4に「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。第一ヨハネ3:21-22には「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。
この御言葉通りに神様に喜ばれるなら、心の願いが叶えられるから、神様のものが自分のものになることができます。このような御言葉は聞くだけで嬉しいでしょう。心が幸せになるでしょう。天地万物の主人である神様のものが、私たちのものになるのです。神様は子供たちにそのような祝福を与えたいと思っておられます。そのためにはまず心から欲を捨てなければなりません。不義から離れなければなりません。御言葉を守り行っていく時、神様に喜ばれる時、心に責められない時、神様の前に大胆に出ていくことができ、求めるものはいただくのです。神様に喜ばれるなら、心の願いを神様が知って、前もって叶えてくださるのです。どれほど良い父なる神様でしょうか。このような御言葉を私たちは聞いて、祝福される道を知っています。それなのにどうして、世のものを追い求め物質を追い求め、欲張っているのでしょうか?そのようにする人は、神様がくださる祝福をいただけないのです。私たちは何が真の祝福なのか、何が知恵ある道なのかを正確に悟りますように。
続いているエリファズはヨブ記22:26でこう言います。
そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。(ヨブ記22:26)
これも前の節とつながっています。つまりヨブがすべての不義と欲をちりのように思って捨てて、神様に頼っていくなら、神様に喜ばれ神に向かって顔を上げるから、心の願いも叶えられる、祝福されるだろうと言っているのです。私たちもこのような御言葉を心に留めて、全ての欲と不義を捨てて、黄金も石のように思う欲のない心になるなら、神様が溢れるようにしてくださいます。このような人は物質の祝福を受けても、不義のために使うのではなく、神の国と義のために使うからです。物質だけではありません。地位や名誉欲もそうです。自分が高くなろうとするなら低くされるのです。なぜ私を認めてくれないの、褒めてくれないの、わかってくれないのと思いますか?神様がご存じないでしょうか?神様は全てを見て知っておられます。それで本当に必要な器なら、神様は使ってくださるでしょう。神様が認めて褒めて高くしてくださるでしょう。人に自分をアピールするから認められるのではなくて、また自分を分かってくれないと不満に思うのではなくて、神様に認められなければなりません。
主のしもべが聖徒に愛される理由は何でしょう?そのしもべが祈れば聖徒の問題が解決されるからでしょう。主のしもべが祈ればその聖徒が癒されるからでしょう。だから聖徒に愛されるのです。うちの教区長大教区長と言いながらしたって、問題があれば相談に来て、祈りを受けて癒されて答えられるから、どれほど愛されるでしょうか。このように神様が高くしてくださるのです。人に高められたいと思ってはいけないのです。自分を高くしようとする人は低くされるのです。この御言葉を覚えていますように。神様に認められ、神様が高くしてくださるようにしなければ。教会の中で、なぜ私を認めてくれないのと思うのではなくて、神様の前にふさわしい人でその心になると、自然に認められ愛されるようになります。そのような霊的な器を造っていかなければなりません。すると神様が祝福を持って満たしてくださるのです。
続くヨブ記22:27です。
あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。(ヨブ記22:27)
これはもちろん真理の御言葉です。神様に喜ばれる人が祈れば、神様は応えてくださるでしょう。だからその人は自分の誓願を果たすでしょう。しかしエリファズは、このようなことを言う資格のない人でした。自分は行っていないのに、ヨブに行いなさいと言っているのです。だからヨブに言っている言葉が真理だとしても、ヨブには何の利益も与えられないのです。もしヨブが御霊の人だったなら、肉の人が自分は行わないでこれこれしなさいと忠告してくれても、その言葉が真理なら、それを受け入れたでしょう。御霊の人はそのようにするのです。
しかしここで忠告しているエリファズも、また聞いているヨブも肉の人だから、真理の言葉でも何の役に立たないのです。それだけではなく、エリファズはヨブを裁いて罪に定めていて、自分が神様のようになっていて、呪いの言葉と祝福の言葉を言っているから、ヨブは腹が立つしかないでしょう。皆さん家庭の中でこういうことを適応して考えてみてください。親が子供に何か忠告する時、教える時どうしているのか、顧みますように。自分は真理を行っていないのに、子供にはあれこれしなさいと強く言う場合はありませんか?エリファズがそうでした。自分は御霊の人でもないし行っていないのに、ヨブにはああだこうだと教えているのです。もしかして親が子供をこのように強く言ったり、無理やり押し付けていたりする姿はないのか、あれこれ指摘しているのではないか顧みますように。
親が神様の御言葉通りに行って手本になっているなら、自然に子供がその姿を見て変えられるのではありませんか?皆さんも自分自身は日常生活でどうしているのか顧みますように。そしてエリファズが悔い改めなさいと言っても、ヨブはそれが全然心に響かないのです。ヨブは自分で自分が悪いと思っていないからです。ヨブの友達がヨブに、あなたは間違っている悔い改めなさいと言っても、ヨブは理解できないのです。なぜなら自分は神様を離れたこともないし、神様の存在を否定しているのでもないし、自分には不義もないと思うからです。自分の目には友達に誤解されていると思うのです。だから友達が悔い改めなさいと言っても、それが何の影響もないのです。
ヨブに悔い改めなさい。立ちかえりなさい。するとまた回復するだろうと言ってもなんの役にも立たないのです。それにヨブは、神様は悪い人を祝福して、良い人を無視して呪っていると誤解しています。つまり、自分は正しいのに良い人なのに、神様に呪われてすべてを失って、滅茶苦茶になっていると思っているのです。それなのにヨブに、あなたが罪を捨てれば祝福されると言っても、それが耳に入るでしょうか?エリファズがヨブを説得するためには、なぜヨブの主張が正しくないのかを、確かな証拠を持って悟らせなければなりません。肉の人は目に見えて手で触ってこそ、認めるからです。何よりもまずエリファズ自身が、御言葉通りに行っていなければなりません。
しかしエリファズはこのような御霊の人ではなかったので、その言っている言葉は正しくても、ヨブには何の影響も与えることができませんでした。皆さんが伝道する時も同じです。まずは自分が御言葉通りに行って手本になって、神様が生きておられることを相手が信じられるように、信仰の証拠を見せなければなりません。世で教えている知識とか教養理論は、神様の御言葉の真理と合わないものがたくさんあります。それなのに世で学んだことが正しいと信じている人に、あなたは正しくないと強く言うなら、反感を買うだけです。
例えば進化論を信じていて、神様はいないと考えている人々には、なぜ神様が創造主であるのかを説得力を持って説明して、神様が生きておられることを信じられる証拠を、見せなければなりません。また神様を誤解して、神様は自分だけに仕えなさいと言うから自己中心だとか、聖書を読んだら、家族と畑も捨てなさいと言っているから、神様は悪いと思っている人々には、その御言葉の霊的な意味を教えて、肉の思いを打ち砕かなければなりません。すると創造主の神様を認めて、神様は良いお方だと悟ることができるでしょう。
私たちは命の御言葉が宣べ伝えられている教会で、多くの印と不思議、神の力の業を見てきました。 それで肉の思いを打ち砕いて、霊の信仰を持つことができました。このように霊の信仰を持つためには、御言葉とともに確かな証拠が必要なのです。目に見える証拠がなければなりません。イエス様は御言葉を宣べ伝えた後、しるしと不思議を目の前で現してくださいました。信じられる証拠を見せることで、御言葉を確かなものにするためでした。ヨハネ4:48に「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と言われたように、人々は神様の全知全能なる御業を目で見なければ信じないからです。霊である神様は目には見えませんが、病人を癒すなど人にはできない御業を現わして、目に見えるしるしと不思議が現れてこそ、神様が生きておられることを信じるのです。
神の御子イエス様がこの地上に来られて、天国の御国の福音を伝えてくださり、それを確かなものにする神の力が伴ったから、人々がそのしるしと不思議を見て、イエス様の御言葉を受け入れて信じたのです。イエス様が神の御子だと信じて、神様から出た人だと認めたのです。偉大な預言者だとも思いました。この御言葉が真実であることは、神の力ある業によって、しるしと不思議が伴うことを、人々が信じるようになります。このような御業が現れることは、特別な恵みです。教会はそうしなければなりません。ただ神様は生きておられると教えるだけではなく、その証拠を見せなければならないのです。創立礼拝の時伝えたように、この教会では神様が生きておられることが目の前に現れて、手で触るようにこれまで絶えず現れてきました。ですから皆さんが信仰生活をする時、どうして辛くなるでしょう?どうして難しいと思うでしょう?神様が生きておられるという証拠がこんなに確かに現れていて、私たちはそれを信じているから、これがあればそれで十分なのではありませんか?どれほど幸いなことでしょう。
その信仰が完全になるためには、ただ神様が生きておられることを信じる、疑わないだけではいけません。それだけでは神様に認められません。神様を愛する者は神様の命令を守ることは当然です。ですからその信仰の証拠を見せなければならないのです。それは何でしょう?御言葉に聞き従うことです。悪はどんな悪でも避けることです。しかしクリスチャンだという人が、神様を信じている主を愛していると言いながら、相変わらず罪に留まっていて、世の人と変わらない生き方をしながら、自分はクリスチャンだから天国に行けると言いますが、その信仰が本物なのか神様はその行いを見て評価しておられるのです。ですから私たちは、生きておられる神様の証拠が現れている教会にいることが、どれほど幸いでしょう。そして真理の御言葉を聞いているということが、どれほど感謝のことでしょうか。
イエス様の時代に、イエス様もしるしと不思議を示して、神様が生きておられることを見せてくださいました。しかしこれを見た時、反応が二つの種類に分けられました。心の良い人々は、イエス様を信じて受け入れました。しかし心が悪くて高ぶっていた人々は、イエス様を妬み排斥しました。こういう聖書に書いてあるイエス様の時代のことが、今のこの時代にも現れていますね。私たちもそれによって試練にあっているのですが、でも感謝して勝利しなければなりません。なぜ妬まれるのでしょう?なぜ非難されるのでしょう?神の力が現れているからですね。だからそれによって、辛く思う必要はありません。イエス様も神の力を現わしていたのに、イエス様を信じないでイエス様を妬んで、イエス様を殺そうとする人もいたのです。イエス様が聖霊によって悪霊を追い出したら、悪霊の頭によって追い出したとか、とんでもないことを言っている人もいました。
だからといって、イエス様がそれによって辛くなられたり悩んだでしょうか?そうではありません。愛を持って彼らのために祈ってくださり、彼らを救うために十字架で命を捧げてくださり、救いの門を開いてくださいました。皆さんに色々試練がありますか?その時自分は神様(を)の力を見ていて幸いなものであることを忘れたのではありませんか?誤解されていろいろ非難されても、さらに愛を持ってそのような人々のために祈り仕え、善を行ったでしょうか?それなら、神様がどれほど愛してくださるでしょうか。イエス様の時代にもイエス様を妬んで罪に定めて殺そうとする人がいたのですが、今罪がはびこっている今日はどうでしょう?クリスチャンがさらにキリストの光を放ち、手本にならなければならないでしょう。そしてしるしと不思議神の力の業が伴ってこそ、信仰を与えることができるし、主のしもべと働き人、聖徒の皆さんもこのような人になるために、慕う心で進んでいきましょう。そして誤解されて、人に迫害されることを恐れてはいけません。敵である悪魔サタンの働きだということを知って大胆に出ていって、神様に喜ばれる信仰生活をして打ち勝ちましょう。
続く本文ヨブ記22:28です。
あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。(ヨブ記22:28)
これも日24節の宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置けばこうなると言っているのです。ヨブはそのように行うなら、つまり欲も捨て、高ぶりも捨てて立ち返るなら、祈ることは全部答えを受けるし、何かを決めるとそれがなり、その道の上には光が輝くと言っているのです。未来が明るいと言っているのです。皆さん、私たちが生きていていろんな問題にぶつかることもあるでしょう。問題が起こることもあるでしょう。自分があれこれ考えて計画したことを思う人の力では、うまくいくのではありません。自分の思い通りにならないこともよくあります。その時は、すべてをご存知の神様の御手に委ねた方が、一番いい方法です。そうすれば栄えるし、その道の上に光が輝きます。そのためには欲を捨てて高ぶりも捨てて、罪から立ち返らなければなりません。
これもその言葉そのものは真理ですが、エリファズは自分が行っていないのに言っているから、ヨブは悟れませんでした。先程言ったように御霊の人なら、相手が行っていないのに忠告する言葉でも、それが真理なら受け入れます。しかしヨブは肉の人だし、普段の友達の悪い点ところだけを見ていたから、エリファズがいくらそういうことを言っても虚しかったのです。そしてヨブと友達の心にはまだ聖霊がおられなかったから、自分を発見することもできなかったし、相手を正確に悟らせることもできませんでした。私たちのように聖霊が心におられ、真理を知っている人がこのようなアドバイスを聞くならどうなるでしょう。聖霊が働いて悟るでしょう。だから悔い改めて立ち返るからその試練から抜け出すことができるでしょう。厳しい言葉でもそれが真理ならそれを受け入れるのです。それで悔い改めるのです。すると回復するようになります。神様に喜ばれるなら神様は回復させてくださるのです。
不義に留まっていて罪と悪を行って、そのため試練患難にあったとしても全てを失ったとしても、徹底的に悔い改めて立ち返って、闇から出てきて光の中を歩んでいるなら、神様はそれを喜ばれ、また祝福してくださいます。第一ヨハネ3:21-22にあるように、神様の前で責められるところがなければ大胆に出ていき、求めるものは何でもいただくことができます。このような人は神様の御心に従って求めるからです。
