ヨブ記講解72 - 神様の主権は善に基づく
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記26:9-10
前回、ヨブは正しい良心があったので霊の声を聞くことができ、科学が発達していなかったその時代にも、地球が宇宙空間に浮いている事を悟ることができました。ところが雨が降る現象については、「神が水を濃い雲の中に包まれるが、その下の雲は裂けない。」と不思議に思って、自分の思い込みによって間違った解釈をしていました。このようにヨブは霊の声を聞ける正しい心もあったのですが、まだ完全でない肉の人だったので、万物を見るとき、自分の考えの中で間違って判断することがありました。そして神様についても誤解していました。それでヨブが、「神は北を虚空に張り地を何もない上に掛けられる。」と、正しく悟って、神様の威厳と力を口にしてはいましたが、その目的は神様を高めるためではありませんでした。それは、神様は、あれほど驚くべき威厳と力を持っているのに、悪い人々を罰することがなく、かえって悪い人々を守って祝福していると皮肉を言うためでした。今日、神様を信じるクリスチャンの中でも真理を正しく知らず、神様の愛を悟れなければ、このように誤解することがあります。
自分が見るには悪くひどい人なのに、成功していてうまくいっているように見えるなら、神様はどうして放っておかれるのだろうかと思います。自分の考えと基準で神様について誤解して、恐ろしい神様、独裁者のような神様、不公平な神様と裁くのです。そしてある人は、自分が思う通りになれば、また祈りに答えを受ければ、神様に感謝して良い神様と言いながら、自分の祈りに答えを受けられなければ、神様に対して不満を抱いて、以前受けた恵みまで否定してしまう人がいます。自分に悪いことをしたり、自分に不利益を与えた人が、クリスチャンではないのにどうしてうまくいくのかと腹を立てたりします。なぜ神様は放っておくのかと思います。悪い人が成功する姿を見ると不満を抱きます。しかし神様は、人がはかり知れないくらい大きい愛と憐れみを持っておられる方です。そして正確な公義に基づいて、善であれ悪であれ全てを裁き、それぞれの人が行ったことに応じて報いる方です。このように、愛と公義が一つになって調和をなしている神様の心を知っているなら、神様を愛するようになるでしょう。
この時間、ヨブが自分の考えや憶測で、神様をどんなふうに悪く言っているのか調べてみます。メッセージを聞きながら、ヨブのように神様を誤解するのではなく、神様の大きくて広くて深い心と愛を悟って、心に刻む皆さんになりますように。時には人の考えと、また願うことと、神様がなさることが違う場合があります。自分なりに計画してこうなるだろうと思ったけれど結果がそれと違う時、神様はなぜ助けてくださらないのかと言ったり、神様の約束を疑ったりする場合もあります。また自分が描いた自分なりの計画があったのに、その通りにならなかった時、もしかして神様に不満を抱く人はいませんか?しかし本当に神様を信じる人ならそんな風にはしません。自分なりに祈って正しいと思って、その道を行ったけれどそれが成功しなかった時、神様に不満を抱くのではなく、自分を顧みて神様の御心を悟ろうとしなければなりません。
しかしヨブは自己中心的に考えて、自分は正しい人なのになぜ神様は自分を苦しめるのかと、神様を誤解して悪い方だと言っているのです。私たちにもそういう姿があるかもしれません。ですから自分を深く顧みなければなりません。天地万物を創造して、私たちは愛して導いてくださる神様の愛と公義を悟りますように。
本文ヨブ記26:9です。
神は御座の面をおおい、その上に雲を広げ、(ヨブ記26:9)
今日多くの人が、まるで神様が人との間に仕切りを作って、人が神様を見ることも会うこともできないようにしたかのように誤解をしています。今ヨブも、神様がご自分で御座の面をおおって、人との間で壁を作ったと誤解しています。ヨブは神様に出会って自分の悔しさを訴えたかったのですが、思い通りにならないから、神様の方から、自分と神様との間に仕切りを作ったと主張しています。しかし決してそうではありません。それでは神様と人との間にどうして隔ての壁が作られたのでしょうか?
神様は最初の人アダムを創造して、動物、鳥、魚などすべての生き物を支配して治めるように万物の霊長としてくださいました。アダムのために美しいエデンの園を作ってくださり、そこでアダムと共に歩み、善と真理の知識を教えてくださいました。そして神様はただ聞き従うように造られた御使いとは違って、人には自分の意志によって従うことも従わないこともできるように自由意志をくださいました。その理由は、ロボットのように機械的に服従する存在ではなく、理性と感情を持って心から喜んで従うまことの子供を得るためでした。そしてエデンの園にある各種の木の果物は思いのまま食べても良いが、善悪の知識の木は取って食べてはいけない、もし食べるなら必ず死ぬと教えてくださいました。アダムには自由意志があるから、この御言葉に聞き従うことも聞き従わないこともできました。
神様は人を愛しておられるから、自由意志をくださったということを悟らなければなりません。自由意志がなければどんなことでも自分の意志でできないし、ただ命令された通りに動くならどれほど理不尽でしょうか。もし人に自由意志をくださらないで、善悪の知識の木から取って食べてはならないと命じられたなら、絶対権力を振るう独裁者のような神様ではありませんか?長い歳月が流れて、アダムとエヴァは、自由意志によって神様の御言葉に聞き従わなくて、善悪の知識の木から取って食べる罪を犯してしまいました。それによって美しくて豊かで悩みも苦しみもない、永遠に生きられるエデンの園から追い出されてしまいました。それ以上神様と共に歩むことができなくなりました。
第1ヨハネ1:5に「神は光であって、神の内には暗いところが少しもない。」とあるように、神様は光です。闇と光が共存できないように、罪人は光である神様を見るなら死ぬしかありません。ですから神様と人との間で、どちらが先に隔ての壁を作ったのでしょうか?人の方で罪の壁を作り、神様を見ることができなくなりました。神様の方から仕切りをされたのではありません。ですから、イザヤ59:1-2に、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。あなた方の咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、あなた方の罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。ところで聖書には、神様との間にどんな隔ての壁もなく親密な関係を持っていた義人たちがいます。マタイ5:8に「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。」という御言葉を実現した人です。代表的な例として、心が良くて聖かったエノクです。エノクはこの地上で300年間神様と共に歩み、365歳の時、死を見ずに天に移されました。
またモーセは、神様と口と口とを合わせて語り、神様の御姿を見上げて声を聞きました。ところがモーセも完全になる前は神様を見ることができませんでした。出エジプト33:18に、「するとモーセは言った。『どうかあなたの栄光を私に見せてください。』」と言って神様の姿を見たいと言ったら、神様は20節で「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」と言われました。モーセは荒野で40年間、数百万人の民を導きながら、だんだん父なる神様の心を深く悟り完全に似ていきました。それで民数記12:8で神様は、「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。」と言われました。モーセはこの地上で謙遜が一番優れていたし、全家を通じて忠実だと認められるほど完全な人になっていたので、神様と口と口とで語り、神様の姿を仰ぎ見ることができました。このようなメッセージを聞くと皆さんも心が熱くなるでしょう。私もそんなモーセのようになりたいと、神様と口と口とで語りたい、神様の姿も見たいと思うでしょう。神様の心を知って、神様のために思う存分用いられる御霊の戦士になりたいという望みがさらに大きくなると思います。
旧約時代だけではなく、新約時代のステパノ執事はどうでしたか?福音を伝える自分に石を投げる人々のためにも、執り成しの祈りを捧げるほど、心に罪がない聖い人でした。ですから神の栄光と、神の御座の右に立っておられる主を見ることができました。私たちも心が聖くなるほど、このような祝福を受けることができます。ところで心が聖くて神様を見るということは、ただ神様の姿を目で見るという意味だけではありません。私たちが心の穢れを捨てて聖くなるほど、祈れば答えを受けて心の願いが叶えられるということです。またいろんな御霊の賜物を受けて、神様が生きておられることと、神様の助ける御手を体験することが、神様を見る祝福にあたるのです。神様は私たちにこのような祝福を下さるために、つまり人と神様との間の隔ての壁を打ち壊すために、ひとり子イエス様をなだめの供え物として渡してくださいました。イエス様が私たちの全ての罪を代わりに負って十字架で死なれることで、神様と人の子らの間の隔ての罪の壁を壊してくださいました。それで誰でもイエスキリストを救い主として受け入れれば、罪が許され救われるようになりました。
人が罪を犯して神様との間に隔ての罪の壁を作ったのですが、愛の神様はその壁を壊すために、全てをあらかじめ計画なさいました。イエス様を人としてこの地上に来るようにされて、神の力を見せながら信じるようにしてくださいました。そして死に渡して、神様との間の罪の壁を壊してくださいました。これを信じる私たちは、これからすべきことがあります。私たちが神様に直にお目にかかる日は、人間耕作が終わって、主の花嫁として花婿なる主を出迎える日でしょう。その時までに、神様の前に立つのにふさわしい光の人に変えられなければなりません。創世記6:3に「そこで、主は、『私の霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」とあります。人が罪によって肉の人になり神様を見ることができないので、神様は人間耕作を通して、神様に似た光の子供、御霊の人になるように導いてくださいます。つまり神様を見ることができるまことの子供に変えさせるために、人間耕作が必要なのです。このような神様の心と愛を悟った私たちは、これから聖められるために努めなければなりません。人が罪の壁によって神様を見ることができないのに、ヨブは自分の考えと憶測で、神様がわざと御座をおおったと言いながらすべてを神様のせいにしています 。
続く内容も同じです。ヨブ記26:10です。
水の面に円を描いて、光とやみとの境とされた。(ヨブ記26:10)
ここで水の面に円を描くとは、水平線のことを意味しています。光とやみとは昼と夜を意味しています。水平線は昼と夜の変化と密接な関係があります。昼と夜は、地球の自転と公転によって作られるのですが、昼は太陽が地平線、または水平線の上に出ている時間です。そして太陽が水平線あるいは地平線の向こうに沈む時、夜が始まります。ヨブはこのような現象について、神様が水の面に円を描いて、光とやみとの境とされたと説明しています。ヨブの説明通り、神様は創造主として何か境を定めてくださいました。人ができないことを造り境界を作られました。人のために昼と夜を分けて、水の面を境として雲と雨、東西南北の位置を定められました。
もし昼と夜の周期がなければ、人をはじめ全ての生き物がどうして休むことができるでしょうか。どうして子を産んで増えるでしょうか。また、東西南北の位置が定まっていなければ、どうして道の方向がわかるでしょうか。科学が発達する前、人々は空にある北斗七星を探してそれを基準にして、東西南北の方向を知ることができました。北斗七星は航路を探したり、位置を把握するのに役に立ちました。また羅針盤が発明されて、南と北か分かるから、東と西は自動的に分かるようになりました。羅針盤は航海、探検、地図の作成、建築などいろんな分野で使われました。それで人類は道の方向が分かるようになり、地の果てにまで広がっていくことができました。このすべては、創造主の神様が、既に必要によって計画して造っておかれたものであり、すべてが人のためでした。しかしヨブは神様が、思いのままに独裁者のように、一方的に定めておかれたというふうに言っています。
それでは、ヨブはなぜこのように独裁者の神様だと決めつけているのでしょうか?ヨブは神様が悪いものを祝福して、正しい人は蔑すんで呪っていると悪く言っていました。なぜならヨブは、自分は正しい人なのにこのように滅びてしまったことが、偶然の一致だと思えないからでした。偉大な力を持っている神様が、こんな風に仕向けたと思って、腹が立って神様が悪いと言っているのです。また友達がヨブを、あなたが悪いからこんな風に苦しみを受けているのだと責め立てているから、悔しくなってイライラして神様が悪いと言っているのです。皆さん神様は決して独裁者ではなく、愛をもって自由意志をくださったし、いつも善に基づいて全ての業をなさっている方です。ですから神様の主権は、人の自由意志に任せてまた全てを働かせて益としてくださることです。もし神様が絶対権力を強制的に振るう方なら、人間耕作をする必要もないでしょう。世のすべての人を思いのままに救ってしまえばいいのではありませんか。そうでなければ、神様の御目に気に入る人だけ選んで救われるようにして、気に入らない人は滅ぼすかもしれません。しかし神様は人に自由意志をくださったし、人々は自由意志を持って、神様を信じれば救われるし、信じなければ滅びるのです。
神様は全知全能な方ですが、公義を定めた方なので、その法を犯すまで主権を行使する方ではありません。全てを霊の世界の法則に従ってなさる方です。ですから人間の救いの道も、霊の世界の法則に従って、世界が始まる前から備えられました。霊の世界の法則によると罪から来る報酬は死です。反対に罪を犯さなければ、死に至ることはありません。しかし敵である悪魔は、何の罪もないイエス様を十字架につけて殺しました。それで敵である悪魔サタンは霊の世界の法則を犯して、その代価を払うしかありませんでした。つまりイエス様を救い主として受け入れて、イエス様を信じる人は誰でも、神様の子供として手放すしかありませんでした。このように神様が主権を使われる時は強制ではなくて、必ず真理と善に基づいてなさいます。神様ご自身が真理そのものなのに、どうしてご自分で真理を犯すことがあるでしょうか。神様は人間耕作のために天地万物を創造されたのですが、それはまずは人のためであり、またご自分のためでもあります。
例えば親が子どもたちに一生懸命勉強しなさい、運動もしなさい、本もたくさん読みなさいと言いながら、全部あなたのために言っているのだ、勉強ができればあなたが成功するだろう、私のためではないだろうと言うのです。そして子どもを育てるために、一生懸命苦労しながらお金を稼ぎ、犠牲になります。ところで子どもが成功するなら、子ども自身も祝福されてよいのですが、親もそれによって栄光を受けるでしょう。またやりがいもあり喜びもあります。同じように神様が天地万物を造り、人をこの地上で耕作なさる理由は、私たちのためです。そして神様がまことの子供を得て栄光をお受けになるためです。だから神様ご自分のためでもあります。つまり互いのためだからどちらも益となるのです。皆さん、私たちの神様は独裁者でもないし、自己中心的な方でもないし、ただ愛と善を持ってなさる方です。また私たちが神様の愛を理解するためには、皆さんが、神様は善と愛だと告白しながら祈りますね。だから私の問題を解決してくださいと祈って、神様が答えてくださるなら神様は愛だと思います。しかし答えがない時はどうでしょう。神様には公義があります。その公義によって全てがなされるのです。だから皆さんが善と真に光の中を歩んでいってこそ神様に祈ることができるし、そうしてこそ神様も応えることができるのです。体験することができます。神様の力、神様の主権を、神様が思いのままにいくらでも使えるものではありません。公義というものがあって、霊の世界の法則があって、それに基づいて神様はなさる方です。だから皆さんがそれを悟って、神様の前でふさわしい姿になって求めるなら、神様は答えることがおできになるのです。それが神様の愛と公義を理解することです。
自分の問題を神様が解決してくださらなければ、神様は愛でもないし良い方でもないと思うなら、今ヨブと同じような考え方ではありませんか?しかし神様の善と愛、又公義も同時に悟らなければなりません。そうしてこそ神様の心を理解することができます。私たちが神様の愛を理解するためには、受けるより与える喜びがより大きいということを心で感じなければなりません。まず神様がそのような愛をくださったからです。私たちを罪から救うために、ひとり子イエス様をこの地上に遣わせてくださり、イエス様は十字架で血を注ぎ出して死なれることで、なだめの供え物となられました。皆さん、罪人のために御子を渡してくださった神様の愛、罪人の代わりに自分を捧げた犠牲の主の愛をどのくらい理解していますか?
この驚くべき愛をくださった神様の心、主の心には言葉ではできない喜びが溢れていました。永遠の滅びに行く人の子らを救い出して、美しい天国に移したからどれほど喜ばれたでしょうか。そのような神様の心を知っておられたイエス様も、神様の御心に従って、十字架を追ってゴルコダの苦しみの道を歩まれました。ですから神様の前にその心を慰めながら、そしてご自分が命を捧げ、人を救ったその結果を知っておられ、その時喜ばれる神様の心を思いながら、喜んで十字架につけられたのです。しかし神様は、御子が十字架につけられて苦しみを受ける姿を見ていることができず、涙を流しておられました。イエス様もその心を知って、その苦しみの中でも喜びながら神様の心を慰めて、愛を持って祈っておられました。私たちもそのような愛の次元に入ればどれほど良いでしょうか。このような霊の愛を持ちますように。
使徒パウロは使徒の働き20:35で「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与える方が幸いである。』と言われた御言葉を思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」と言いました。このように受けるより与える方が幸いだし、人のために犠牲になる時大きい喜びを感じます。自分が犠牲になって相手が命を得るなら、自分が祈って相手が強くされ神様の働きができるなら、それだけで喜ぶのです。相手の利益を求めて妬んだりしないで真理を喜ぶ心、このような心が、神様が望んでおられる霊の愛です。私たちがこのように美しい愛の次元に入れば、神様の愛を悟るようになり、その心を知るようになるのです。いくら悪い人でも誰かが良いものをくれれば喜んで感謝しますね。でもその良いものをある時からくれるのをやめるなら、すぐ不満を持って、前受けた恵みまで忘れてしまうのです。しかし心の良い人は、受けるよりは与える方を喜ぶだけではなく、誰かが自分にしてくれたことをある日やめてしまっても、前に受けていた恵みを決して忘れないし、その心は変わりません。自分が受けるべきものを受けたのではなく、ただで受けていたのでしょう。だからそれがなくなったからといって、どうして不満に思ってそれについて悪を行うのでしょうか?ただでいただいたならその恵みを忘れないで、恵みに報いようとしなければならないでしょう。私たちは恵みを忘れないで報いなければなりません。
自分を愛して自分に良くしてくれる人を愛することは、神様を信じない人も、悪い人もできます。しかし神様が私たちに望んでおられる善は、悪を行う相手のために命まで与える次元です。例えば、神様の御言葉に逆らって聞き従わないイスラエルの民のために、自分の命を引き換えにして神様に切に求めたモーセ、そして自分を迫害する人のために自分が呪われることがあっても、彼らが救われるようにと心から願っていた使徒パウロが、このような善の次元でしょう。私たちもこのように美しい愛の段階、深い善の段階に入って、神様の心を深く理解するまことの子供になりますように。今、ヨブは自分の憶測と自分の心の悪のため、友達の前で神様は悪い方だと強調しています。神様の愛と心がわからないから、神様を誤解しているのです。
このように心に悪があれば誤解と罪を生むようになります。また自分の思い込みで裁くから、相手を良い方に見ることができないのです。自分が嘘をついていれば人も嘘もついているだろうと思い、自分が人を騙しているから人も騙すだろうと思うのです。しかし自分が悪いからといって、全ての人が悪いわけではありません。10人のうち9人が嘘をついていても、そのうち1人は嘘つかない人もいるのです。人の心は神様だけがご存知で、正しく裁くことができます。何よりも心にある悪を捨てなければ、敵である悪魔サタンが真理と反対の思いと心を支配して、人との間で仲違いするようにして、神様にも立ち向かうようにして、世の闇と妥協するように仕向けるのです。ですからサタンの計略に陥らないように、いつも自分を真理でチェックして悪は全て捨てなければなりません。
結論です。愛する皆さん、私たちが神様の心と愛を悟れなければ、ヨブのように神様について誤解することがあります。神様が人を造りこの地上で耕作なさる理由は、神様の愛と心を本当に知るまことの子供、心を分かち合うことができるまことの子供を得るためです。神様が愛と心を尽くして、最初の人アダムを造られるとき言われたことがあります。その内容の一部をお読みしましょう。ヨブのように神様を誤解してはいけません。皆さん自分を造ってくださった方、自分を生んでくださった方、私たちの父なる神様、創造主の神様の愛を悟りますように。神様がアダムを造られる時どんな思いだったのかを聞いてみましょう。
「私の長い間の念願と私の希望が誠にこの中に込められているのだ。私が成し遂げるこの美しいことによって、私が期待して計画した全てのことが完全になされるように、美しく造られているこの人を通して私は栄光を受けるであろう。その子孫とその代々の子孫を通して、我が麗しさと慈しみ深さ、柔和さと我が愛の豊かさと全知全能なることが述べ伝えられるであろう。まことにこの人が私の心を知るだろうか。体のすべての器官と細胞を造っている、父のこの愛の心を知るだろうか。私の長い間の念願が、この日を誕生させたのであるから。すべてが私の栄光のために後の日まで続くであろう。」と言われました。父なる神様がどれほど大きい期待と愛を持ってアダムを造られたのか分かります。父なる神様は、アダムに期待しておられたように私たちにも期待して、栄光を受けになることを望んでおられます。神様のその心と大きい愛を私たちが悟るように望んでおられます。
ですから、私たちはどんな環境に置かれても、このような神様の心を知っているなら、気を落とすことがないでしょう。2024年第1の祈祷課題は「義人は信仰によって生きる」です。今日送迎礼拝の時に伝えますが、どんな環境に置かれても義人には信仰があるから、神様に頼って神様のために生きることができます。しかしヨブは神様の心がわからなかったから、神様を誤解して、神様の前に不満を言ってつぶやいたり攻撃しているのです。どれ程もどかしいことでしょうか。私たちは神様の心と愛を悟りますように。私たちを造ってくださった方、天国に導くために、この終わりの時この教会に導いてくださった神様の心を知って、その望みを叶える皆さんになりますように。ホセア6:3に「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」とあります。私たちもそのような人になりますよう。それで速やかに御霊の歩みに入り全く聖なるものとされて、神様の長い間の望みを叶える皆さんになりますように。
聞いたメッセージを思い出して祈ります。父なる神様感謝いたします。今日ヨブが神様を誤解して、神様の威厳と力について言ってはいるけれど、それは神様に不満を抱いて誤解して、神様に皮肉を言っている姿でした。しかし私たちは神様の愛と善を悟るようにしてください。それでどんな状況、環境に置かれても、自分の憶測によって神様を誤解して裁くのではなく、神様を信じて神様の愛により頼むようにしてください。イエス・キリストの御名よってお祈りいたします。アーメン。
