top of page

ヨブ記講解69 - 善をもって悪に打ち勝たなければ(上)

9月16日
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記24:19-22


前回ヨブは、神様が自分をいつまで苦しめるのか、時でも教えてくだされば耐えられるのに、そうしてくださらないから何の希望もないと嘆いていました。そしてみなしごや、やもめなど弱者たちが苦しめられることと、悪者たちがどんなふうに虐待しているのかについて説明しました。ヨブは悪者の行いについて言いながら、神様は、このように悪い者たちが弱者を苦しめているのに、見て見ぬふりをしている方だと決めつけていました。貧しい人々が、生きるためにいくら訴えて叫んでも神様は聞いてくださらないし、悪者たちの不義を裁かないと言いながら、正しくない方だと裁いています。人々は自分が何か悔しい目にあって訴えていても、相手が聞いてくれないとか、周りの人があなたのせいでしょうと言うと悔しいですね。それで腹が立ちます。それで自分の周りにいる困っている人や、貧しい人や苦しみを受けている人々の例を挙げて説明します。そして私もこういう立場だから力になってくれればいいのにと思うのです。なぜ助けてくれないのかと恨んでいるのです。​


ヨブはみなしごや、やもめや弱者などの苦しみについて説明していましたが、それはその人のためを思って言うのではなく、自分がそんな風に苦しんでいるのに神様は助けてくださらないと、文句を言っていたのです。不遜にも創造者の神様を裁いて、自分が神様より正確に知っているかのように言っているから、どれほど高ぶっているでしょうか。しかしこれはヨブの姿だけではありません。神様を信じない世の人の中では、悔しい目にあったら神を恨むこともあります。自分を苦しめている人がうまくいって成功している姿を見れば、天に向かって文句を言ったりします。ヨブが言ったように、神様は悪者が弱者を苦しめても放っておくと考えるのです。そして神が悪人を裁かないから自分がやると思って、相手を非難したり懲らしめたり、自分は悪人を裁いただけだ、間違いはないと言います。こういう姿は真理を全く知らない人の考えなのです。全知全能の神様を信じて、神様の御言葉に人を裁いてはいけないという御言葉、真理を知っている人なら、いくら悔しい目にあっても苦しいことにあっても、ヨブのように言ってはいけません。​


すべてをご存知の神様が、もし悪い人が自分を苦しめているのをただ見ておられるなら、自分で何か悟って変えられるべき姿があるということです。そうではなくて、神様を恨んだり相手を憎んだり敵意を抱くなら、それは光の子供ではなく、闇に属する人の姿でしょう。ヨブはまだ自分の間違っている姿を悟っていないのです。しかし、後になって神様を見つけて、自分の罪と過ちを悟って悔い改める御業が起こります。もし神様がヨブにこのように厳しい試練に遭うようにされなかったなら、ヨブはただ自分が正しい潔白だと思っていたでしょう。心の深くに潜んでいる悪を発見することはできなかったでしょう。しかしヨブが完全な祝福を受けるためには、本性の中の悪まで発見して脱ぎ捨てるべきだから、神様が愛をもって練っておられるのです。​


今、神様を愛して熱心に走っている方々の中でも、まるで試練に会う前のヨブのように、自分が正しいと思い込んで、自分の欠けているところがわからない方もいるかもしれません。詩編19:12に、「誰が自分の数々の過ちを悟ることができましょう。どうか隠れている私の罪をお赦しください。」とあります。ですから今日メッセージを聞いて自分を発見して、隠れている罪までもきれいに神様が洗ってくださる恵みが臨みますように。​


ヨブ記講解を伝えていますが、たまにこのような質問をされることがあります。教会の試練の時、皆さんはどんな祝福を受けましたかと言われる時があります。私は自分を顧みたらとても霊的に祝福をたくさん受けていたのだと思います。元老牧師先生がそばにおられた時は、問題があれば元老牧師先生が解決してくださったし、いろんな苦しみがあれば、元老牧師先生にお祈りをお願いして解決していただきました。しかし自分が神様にすがって問題を解決していただくことはあまりなかったのではないかと思います。しかし今は、自分自身が神様の前に切に祈って神様を呼んで答えを受けるべき時期だと思います。​


こういう時に信仰がない人は見せる信仰がないから、どれほど答えを受けるのが遅くなって、それでそれを自分のせいにしないで、環境のせいにしたり、人のせいにしていて、もしかして神様の前に呟いている姿はありませんか?しかし、この試練の時間を通して、前より信仰が成長した方もいると思います。前は牧者の空間の中で守られていたのですが、今は自分が信仰を見せて、神様の前に教会を守って聖徒を守るべき時だと思って頑張ってきたら、自分の信仰が成長する祝福があったと思います。するとこの試練は結果的に祝福になりましたね。そういう方もたくさんいると思います。そしてこういう試練の過程がなかったなら、自分の中に潜んでいる悪を発見できなかったでしょう。


自分はある程度信仰がある、自分は正しいと思い込んでいたでしょうという人もたくさんいます。試練がなければ自分を苦しめる人もいないから、平安だから、自分の中にどんな悪があるのかわからないのです。それで自分がよくやっている、信仰があると錯覚するのです。でも試練にあって、人によっていろいろ悩まされて苦しみを受けて誤解されて、それでそのために辛い思いもして、そうしながら自分の心を顧みるようになって、自分の中にあった悪が出てくる姿も見ながら、自分を発見するようになるのです。それでさらに変えられるために、悔い改めるようになるのです。それは祝福ではありませんか、霊的に。ですから皆さんもこのような試練は祝福だと告白できますように。


今日のメッセージを聞いてヨブの姿を通して、自分の姿を発見しますように。それで、もしそういう姿があったならば徹底的に悔い改めますように。悪人たちを呪っているヨブの姿を見ながら、私にもそういう悪があるのだと悟りますように。今自分はそうやっていないと思うかもしれませんが、誰かが皆さんを厳しく苦しめたりすると、隠れている悪が出てくる時もあると思います。それを祈りながら、自分の悪を認めながら、へり下って変えられますように。心がひねくれていて自分が裁判長になって神様を裁いていたヨブは、だんだん裁き罪に定めることの程度がひどくなっています。本文で悪者へのヨブの呪いは続いています。


ヨブ記24:19です。


ひでりと暑さは雪の水を奪い、よみは罪を犯した者を奪う。(ヨブ記24:19)


ここで雪の水とはとても少ない量の水を言います。雪は体積が大きいから、地面にふんわり積もると量が多いようにも見えますが、溶けた場所を見てみれば水の量が多くないのがわかります。それで雪が溶けた後残った水は、日照りと暑さが来ると乾いてしまいます。ヨブは不義なものの豊かさもこのように一瞬で消えてしまってほしいと思うのです。よみは罪を犯したものを奪うとは、雪が溶けた後の水が痕跡もなく消えてしまうように、その人もよみに飲み込まれてしまうことを言っています。ここでよみは死んだ状態を言います。恐怖と恐れの死を言っています。つまり悪くて不義な者は、このようなよみのような呪いが臨んでほしいと思っているのです。皆さん、もしかして皆さんにはヨブのようなこういう姿はなかったでしょうか?自分を苦しめて自分を悩ましている人がいる時、あの人はあまりにも悪いから苦しみに遭うのは当然だと思ったりするなら、ヨブと同じように呪っているような考え方です。


自分は真理を持って見分けていると思っているかもしれません。あの人は悪いことをたくさんしているから、その人は必ず滅びる、結果は良くないに決まっていると考えました。そして周りの人にその人についてあれこれ言いました。でも自分が間違っていると思わないのです。真理によって自分は見分けていると思って、その人の悪は明白だから、悪い人を悪いと言っているのは当然だと思うのです。しかしそれは自分が裁くものになっているのです。それはその人を呪う心なのです。だから悔い改めなければならないのです。死に向かう罪を犯している人を見ていても、善と愛があって真理を知っている人ならば、その人は滅びると罪に定めるのではなくて、その人が悔い改めて立ち返るように、救われるように祈るでしょう。もどかしく思うでしょう。皆さんの家族ならどう思うでしょうか?早く悔い改めて救われるように望むでしょう。神様に代わりに許してくださいと祈るでしょう。それが善と愛です。


しかしヨブはそうではなくて、その人を裁いているのです。呪っているのです。皆さんの心の中にもこのような考え方があったのではないか、顧みますように。自分を苦しめる人、あの人は悪いから苦しみに遭うだろうと思うなら、それは真理ではありません。それは真理と反対の考え方です。自分が神様のようになっていてさばいているのです。今ヨブは真理とはあまりにもかけ離れた考え方をしています。私たちは教える立場にいて聖徒に何が悪なのか、信じると反対のものなのか、その結果について教える必要がある場合はあります。本当に愛する人が、罪の中で地獄に行くようなことをしているなら、何も言わないで放っておくことはないでしょう。そうしてはいけないと、もどかしい心で言うでしょう。そうではなくて、感情的になって悪意を持って相手に、あなたそんなことすれば地獄に行くとか、このように言ってはいけないということです。だから自分が悪意を持って人をさばいて罪に定めているのか、そうでなければ愛をもって正しているのか、その違いも知っていなければなりません。


それでは真理はどのように教えていますか。自分を苦しめている人、悪を行っている人を見ればどうしなさいとありますか。マタイの福音書5:44です。「しかし私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とイエス様は言われました。ローマ12:20-21、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。悪い人に善と愛をもって接すると損をするようですが、真理にあってはそうではありません。最後まで善をもって行うと神様が働いてくださり、闇が退き状況が逆転するのです。ここで大切なことは、最後まで善をもって行うと神様が働いてくださり、闇が退き状況が逆転するのです。ここで大切なことは最後まで善を行うことです。心から善をもって行うことです。


そうでなければ、ある程度自分なりに善をもって、犠牲になって譲っていたけれど、それでも相手が変えられない時、そして相手がもっと悪を行ったりすれば、そこで善を行うのをやめてしまうのです。そして自分がよくしてあげたことを後悔するのです。そしてその人に冷たくしたり、その人との関係を断ったりすることもあります。これはいけません。私たちが善を行うのならば最後まで行い続けなければなりません。途中でやめてはいけないのです。神様が働いてくださるようにするためには、最後まで善を行わなければなりません。自分の中に真理・愛・善に従う姿がどのくらいあるのか、顧みられますように。あの人があまりにもひどいからというのではなくて、私の心にはまだ善が足りないのだと悟らなければなりません。完全な善、真理に従うとき神様が働いてくださいます。イエス様も信仰の人々もいつも善に従って行いました。善をもって悪に打ち勝つことが勝利、誠の勝利だからです。私たちもいつも善をもって悪に打ち勝つべきでしょう。


しかしある程度善を行っていて、それでも相手が変えられないし、相変わらず悪を行っていたりすれば、自分が善を行って良くしてあげたことが損をしたように、もったいないと思ったりすることがあるかもしれません。自分はこんなに良くしてあげたのに、譲ってあげたのに犠牲になってあげたのにと思いますか?でもそれを後悔してはいけません。その善の行いは神様の前に積まれるものです。でも私はこれだけ善を行っているのに、なぜ神様が働いてくださらないのかと呟くなら、それは善ではないでしょう。最後まで善を行わなければなりません。心から犠牲になって、相手のために低くなって仕えるのです。だから自分が低くなって仕えるのが辛いのではありません。聖霊が喜ばれるのです。そうすると神様が働いて相手の心に触れてくださり動かしてくださるのです。それでいたる所で神様が祝福して慰めてくださるのです。決して善と真理を行うことは損することはありません。


ヨブ記24:20です。


母の胎は彼を忘れ、うじは彼を好んで食べ、彼はもう思い出されない。不正な者は木のように折られてしまう。(ヨブ記24:20)


母の胎は彼を忘れとは、その生まれたことそのものが認められないという意味です。その人が生まれることがないように望んでいる表現です。相手を呪う程度がひどくなっています。うじは彼を好んで食べるとは、ヨブがよく使う表現の一つです。悪者たちが死んだら人々がそれを忘れてしまい、死体はうじが食べるようになることを言っています。そして折られた木は、根から離れているから枯れてしまうでしょう。したがって彼はもう思い出されない。不正な者は木のように折られてしまうとは、不義な人は折られた木のように滅びて、誰にも覚えられないということを言っています。神様が本当に生きておられるなら悪者たちを裁かなければならないのに、そのまま放っておくから間違っている。もし自分が神様なら、こんな悪い者たちは立ち滅ぼしてしまうだろうに。そう思ってヨブは自分が神様より優れていると思い、悪い人々を裁いて彼らに対して軽蔑して呪っているのです。それを表現しているのです。


悪い人が悪を行っているからといって、それによって自分が被害を受けたからといって、その人々を非難して軽蔑して呪うでしょうか。心の中に悪があるからでしょう。ヨブが言っているその言葉、その単語に悪が混ざっているのではありませんか。本当に善と真理を行っている人を見ながらも、悪い人々はそれを理解できません。それで自分がもっと偉いと思って、そのような人々を裁く場合があります。例えば心が良い人は、悪い人にも機会を与えて待ってあげる場合があります。しかしその悪い人によって被害を受けた人は、それが気に入らないのです。早くさばいてほしいと思うのです。そして善を持って機会を与えて待っている人に不満を抱くのです。なんであんな人を放っておくのかと思うのです。あの人のため私はこんなに辛い思いをしたのに、どうしてさばいてくれないのとか思うのです。ヨブが今、神様に対してそんな風に思っているのです。


教会でも元老牧師先生が、ある人たちの悪を暴かないでそれを覆ってくださって、そしてそれでも教会で働き人として認めて使って用いられるようにしてくださったなら、周りの人がそれについて元老牧師先生の善を誤解して、不満を抱いたりすることもあったかもしれません。でも神様がご覧になるときはどちらが正しいでしょうか?そしてある人々は、教会で問題を起こした人をなぜそのまま放っておくのですか?なぜ追い出さないのですか?という人もいるのですが、そして教会を本当に苦しめている人なのになぜ法律を持って裁かないのかという人もいますが、でも神様の憐れみと許しを理解しないからそんなふうに言うのです。それならそのような人はみんな滅びてしまうことがいいでしょうか?なぜそんなふうにひどく言うのでしょうか?それは自分がその人のため被害を受けたことがあるから、個人的な恨みがあるから、そんなふうに言う人もいるのです。だから自分の利益を求める心がありますね。自己中心的に言っているのです。そしてあんなに悪い人なのに教会ではなぜそのままにしておいたのかと不満を抱いたりするのです。でもその人がそのように機会を与えられて、それで自分を顧みて悔い改めて神様の前に赦されたなら、その人を裁いていた人は神様の前でどう問われるでしょうか?どれほど神様の愛を理解しないで申し訳ないことをしてしまったのでしょうか?それは自分が神様のようになって人をさばいている姿です。


私たちは潔めの福音を聞いているから、そんな過ちをしてはいけないでしょう。そして自分が人をさばいてはいけないのです。真理を知らない世の人の中でもヨブのように自分が裁判長になって、神様が生きておられるなら、悪い人々をみんな断ち滅ぼすべきなのになぜ放っておくのかと思う人もいます。それで神様は死んでいると言う人もいます。それならこんなふうに言っている人々は本当に心が良い人でしょうか?真理で照らしてみれば彼らの悪は大きいのです。人を悪いという立場ではないのです。彼らの言葉の中には裁き罪に定めることを、霊的な無知、不平不満、憎しみ高ぶりなど大きい悪があります。私たちは真理そのものの神様の御言葉で全てを見分けて、神様に喜ばれる善を心に所有していきましょう。


続くヨブ24:21-22です。


彼は子を産まない不妊の女を食いものにし、やもめによくしてやらない。しかし、神は力をもって暴虐な者たちを生きのびるようにされる。彼はいのちがあるとは信じられないときにも立ち上がる。(ヨブ記24:21-22)


ここで彼とは悪者を言います。ヨブが見てみれば、不妊の女ややもめは、哀れな人で当然助けるべきなのに、悪者たちは彼らを虐待してよくしてやらないと思います。暴虐な者たちとありますね。ヨブが考えるには、このように弱者で哀れな人々を苦しめている悪い人々は殺されて当然だと思うのです。でも、命があるとは信じられない時にも、彼らは神様によって守られて生き延びていると思うのです。ヨブがひねくれた心で悪をむき出しにしているから、神様を裁いている言葉が口から出ていて一線を越えているのです。今までヨブは悪者たちについて説明してきましたが、彼らは当然裁かれるべきなのに神様は裁かないし、彼らを守ってやっていると思っているのです。神様を悪い神様のように裁いているのです。


ヨブは自分と友達の間で、神様が自分の味方になって自分の正しさを認めてくださればよいのに、悪い友達の味方になっているように感じました。これはヨブの誤解です。ヨブと友達が互いに、今自分が正しいと言いながら言い争っているのです。自分は正しい、相手は正しくないと、相手が悪いと裁いて、罪に定めて言い争っているのです。それなら神様がどちらの味方に立っているのでしょうか?ただ見ておられる状況です。でもヨブは自分ではなくて悪い友達の味方をしていると思うのです。だから神様に対して不満があるのです。そして友達は悪い人たちなのにうまくいっているように見えるのです。神様が彼らを守ってくださっているように感じていて、神様を恨んでいるのです。友達がヨブにあなたは悪い、あなたの罪を悟れと責め立てているのに神様は黙っておられるから、神様は悪いものの味方をする悪い方だと罵倒しているのです。皆さんにもそういう心がないでしょうか?


自分の味方をしてくれなければ不満を抱く人がいます。二人が言い争っていて何かで揉めている時、目上の人が自分ではなくて相手の味方をすれば悔しいでしょう。不満を抱くのですね。でもそうではなくて、目上の人は両方の立場を理解して公平に接しているのに、自分の心がひねくれていれば、全てを客観的に見ることができなくて、自分の立場で誤解して思い込みによって見るようになるから、あの人相手の味方をしている。自分を認めてくれないと思うのです。会社の中でまた家庭の中でもこういう時があるかもしれません。自分の味方をしてくれない人によって不満を抱いているなら心が狭い人でしょう。この不満というものによって色々誤解をしてしまうことがよくあります。そしてもちろん、目上の人が正しく判断できない時があるかもしれないのですが、でもそれでも神様が全てを見ておられるから私たちは善を行っていけばいいのです。

関連記事

ヨブ記講解99 - 神様の心を正確に知ろう(上)

説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記34:7-12 前回エリフは、自分で知恵ある人のふりをして、私たちの間で何が良いことであるか見分けてみようと言いました。しかし、相手の意見を本当に聞こうとしたのではありません。ヨブと友達が、色んな言葉で互いに言い争っていたのですが、答えがでなかったから、今からは自分が言うべきだと思ってヨブを教えようとしていて、このように言ったのです。皆さんもこのようなことがあると

 
 
ヨブ記講解98 - さばく者にならないようにしよう

説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記34:3-6 愛する皆さん、前回エリフは、ヨブとヨブの友達、そして周りの人々にとても高ぶっていて、「あなた方は私から学びなさい。私から聞きなさい。」と言いました。自分より年上で徳のある人々にこう言えるということは、エリフも自分なりに賢くて学識があると言われていたことが分かります。しかし、彼が持っている知識や知恵は、肉的なものであり自分の悪から出たものなので、聞いて

 
 
ヨブ記講解97 - おのれ自身を知ろう⑥(下)

説教:イ・スジン牧師 本文:ヨブ記33:31-34:1-2 ヨブ記33:31です。 耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。(ヨブ記33:31)​ エリフがヨブに「黙れ。あなたを教えよう。」と言っている言葉は、全然正しくないのです。皆さんは家族の中で、もしかしてこういう姿ではありませんか?自分が言いたいことがあるのに相手がそれを聞かないで言ってくる時、それが嫌でイライラして、「黙れ。」とか、「

 
 
イエス・キリスト日本連合聖潔会
名古屋万民教会
Nagoya Manmin Church

〒 465 - 0014

名古屋市名東区上菅一丁目916番地

TEL/Fax: 052-774-8874

E-Mail: qqrb5br9k@gaea.ocn.ne.jp

2017 Nagoya Manmin Church,All rights reservde.

bottom of page