ヨブ記講解74 - まことの義人は(1)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記27:1-2
前回は、ヨブが自分の感情や思い込みによって、神様を恐ろしく思い、大げさに表現している姿を見ました。神様を怖い神様、悪い神様のように大げさに表現していました。これも神様がヨブを練るしかない理由だと言いました。皆さん、私たちにもこういう姿がよくあります。自分が嫌いなことがあれば、自分だけではなくみんな嫌いだと思います。みんながそう思っているかのように、大げさに言う場合もありますね。自分の感情や思い込みによってそんなふうにします。自分が好きな人のことならば、その人の何か過ちについて言われたら、そんなこと絶対ないと思います。でもちょっと自分が苦手な人や嫌いな人のことならば、前もあの人は、そんなことがあったと言いながら、大げさにその人が本当に悪い人のように言ってしまうことがあるかもしれません。
私たちはこれまでヨブ記1章から26章を調べてきました。神様が、ヨブを練るしかない多くの理由を悟ることができました。ところで多くの人は、ヨブ記講解を誤解しているようです。ヨブには何の過ちもないのに神様が試練に合わせて、ヨブが我慢していたら結局は祝福された。だから私たちも試練にあったら、ヨブのようにギュッと我慢していれば、いずれは祝福されるというふうに教えるのです。しかしただ我慢しているからといって、祝福が臨むのではありません。なぜ試練がやってきたのか原因を把握して、神様との間の罪の壁を壊して、悔い改めなければなりません。潔白で正しいと認められていたヨブも試練にあって、練られて本性の中の悪を発見して徹底的に悔い改めて立ち返ったら、前より2倍の祝福を受ける主人公になりました。今日から始まる27章でも、ヨブが神様の前で練られるしかない肉の姿が出てきます。皆さん、メッセージを聞いて自分を発見して、完全に変えられて、神様に認められるまことの義人に速やかに変えられますよう、主の御名によって祈ります。
本文ヨブ記27:1-2を見ましょう。
ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。私の権利を取り去った神、私のたましいを苦しめた全能者をさして誓う。(ヨブ記27:1-2)
ここで格言とは、人間の生き方を端的に言い表した昔の人の言葉です。「時は金なり」などですね。人生の真実などを、万人への戒め、教訓となるように簡潔にした言葉です。ヨブがこのように格言を取り上げて言ったのは、神様のため低くなって戒められた自分の状態と、その中で苦しんでいる心の苦しみを表すためです。感情的になって神様を悪い方のように言うためです。もしヨブがひねくれた心で自分の立場をストレートに言うなら、また友達に責められるでしょう。だから格言を取り上げて、自分の感情をこのように表現しているのです。まずヨブは私の権利を取り去った神と言っています。もしある権力や力のある人が、人の財産を力づくで奪ったならその人は悪い人でしょう。しかし財産は有っても無くなったり、また無かったものが有ったりするのです。でもヨブは財産ではなくて、自分が命のように尊く思っている自分の権利を、神様が取り去ったと言っています。
ここで権利とはヘブライ語の原文を見れば正義、公正、裁判という意味として使われています。
それならヨブはなぜ神様が自分の正義、義を取り去ったと言っているのでしょうか?ヨブは自分で自分を見れば、良心的に正しく生きてきたのに、このように試練にあったから、自分の口から非常に激しい言葉が出てくるのです。自分を産んでくれた親を恨んだり、友達も無視して、神様を裁いて、神様は悪者を助けて正しいものを呪うとまで言っていました。自分がこのように悪くなってしまったのは、神様が自分を呪って自分を苦しめたからだと神様のせいにしているのです。自分は正しく自分は良い人だったのに、神様がわけもなく自分を打ってこんなふうにしてしまったと、自分の義を、自分の正しいと思っていることを神様が奪ってしまったから、自分は悪者のようになってしまったと嘆いているのです。これは自己の合理化であり、また言い訳にすぎません。
ヨブのこのような心を例えてみましょう。世では普段とても教養があるようで、柔和に見えていた人が突然、何か悔しい状況にあったり大きい苦しみにあったら、突然変わって顔が怖くなったりする場合があります。また口の言葉が激しくなったりしますね。普段とは全然違うその姿を見て周りの人がびっくりして、前はあんな方ではなかったのにどうなったのだろうという場合もあります。 その人が、私はそんな人ではありません。もともと正しくきちんとしている人なのに、悪い世が私をこんなふうにしてしまいましたという場合もあります。
他の例です。いい子で勉強もできていた子が、ある日からぐれてしまいます。理由を聞いてみたら、前は模範生だったのですが、お父さん、お母さんがいつも喧嘩しているから傷ついて、私がこんなになってしまったという場合もあります。このように自分の失敗や自分の過ちを、社会や親、周りの人のせいにする姿が今のヨブが言っている姿と同じです。皆さんもそういう姿はありませんか?信仰生活をしていて何か試練にあったり、周りの人によって悔しい思いをしたりした場合どうでしょう?自分の言い訳をしながら声が大きくなったり、口の言葉が激しくなったりする場合があって、自分で自分のそういう姿に驚く場合もあると思います。そうすると普通、人は自分の過ちをすぐ認めて謝るのではなくて、自分の言い訳をします。それで私はこんな人じゃないのに、誰々のせいで、周りのせいで、世のせいでとか、親のせいでとか言いながら、私がこんなふうになってしまったと言い訳をする姿がよくあります。
皆さんにもそういう姿はありませんか?自分が信仰のない人のように言ってしまったり考えてしまったり、また人をそんな目で見たりする自分を見つけた時があると思います。そういう時、私はこんなに悪いとすぐ認めるのではなくて、いや環境のせいにしたり、あの人がああだったからとか、こんなことを言われたから仕方なくとか、このように自己を合理化したり言い訳をしたり人のせいにする自分の姿があるならば、それは自分に信仰がまだまだ弱いということでしょう。ヨブがそうでした。だからヨブは今、自分がこんなふうに悪いこと言ってしまう、また悪をむき出しにしている、そういう姿は神様のせいだと言っているのです。ヨブは今までの品位とか上品さとか知恵とか自分の地位を守る人だったのです。それで、それを正義だと思っていて、自分は正しい人だと思っていました。でも今はそういうものを全部失ってしまって、低くなって卑しめられているから、それは神様が自分の義を奪ってしまったからだと、それを取り去ってしまったからだと言っているのです。しかしこれはヨブがまことの義というものが何かわからないからこう言っているのです。霊的に説明すれば、神様がヨブのそういう義を取り去ったのではなく、もともとヨブにそんな正しさがなかったのです。私たちはまことの義が何か正しく知って、よく見分けなければなりません。クリスチャンの中でも、前は信仰が良かったとか、前は教会でいろいろ働き人だったのに、教会で担任牧師と何か仲が悪くなってしまってとか、人に傷ついてそれで熱心が冷めてしまって、今は教会から離れているとかいう人もいます。
前は熱心だったとか、信仰が良かったとか言いますが、でも私たちは、信仰というものはそんなふうに変わるものではないことを知っていますね。だから人は自分の基準で、自分が見て正しいと思っていることを言っているのですが、神様の側から見てみると、それは義でもなく信仰でもなかったということです。肉の信仰だったのですね。霊の信仰ではなかったのです。自分の信仰は立派だったのにと言っていますが、実はそうでなかったのです。ヨブも同じですね。自分は正しい人だったのにとか、自分は正義があったのにと言っているのですが、そうではなかったのです。世の人はもちろんクリスチャンだという人の中でも、まことの義がよくわからない人もいます。例えばある聖徒は自分の両親を紹介するとき、こういう場合があります。「うちの親は、信仰生活をしていないけれど、心はとても良くて何かの過ちとか罪も犯したことがないし、正しく生きてきました。」と言います。でもその両親が、神様を信じていないならば、それを正しいと言えないということです。神様は、義人はいない。一人もいないと言われました。
そして本当の善と義は、真理である神様の御言葉から見つけることができます。でもこの聖徒さんはその義、正しさについて誤解しているから、自分の親は正しいと表現したのです。世にはいろんな人々が、自分の経験や背景や信念、価値観に基づいて義とか正しさを主張します。しかしいくら世で尊敬される人でも、神様を信じていない人は実は、その義を論じる資格はないのです。神様はひとり子まで私たちに下さって罪を贖ってくださり、救いの道に導かれました。ですから主を受け入れていない罪は、一番大きい罪なのです。自分のためにひとり子までくださった神様の愛に背いて、十字架の愛で自分の罪をあがなってくださったイエス・キリストを信じない人に、どうして義とか正しさが出てくるでしょうか?例えば皆さんのために、誰かが代わりに命をくれたならと仮定してみましょう。それなら皆さんはその人のために、自分は命を与えられなくても感謝するでしょう。それなのに、そのように自分を救ってくれた人の心を知ろうともせず、その命に報いようともしないで、背いて裏切って自分勝手に生きていても、自分は正いと思う人がいます。これがイエス・キリストを受け入れていない人が、自分は正しく生きていると思っていることと同じでしょう。
それではまことの義とは何でしょうか?世でも義というものは、人間の行動、思想、道徳で良い、正しいとされる概念と定義していますが、神様にあっての義も、神様の御言葉を守り行って人の本分を尽くすことを言います。伝道者の書12:13に「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」とあります。神様を畏れかしこむ人は悪を憎みます。世の人は誤解することもあります。神様は妬む神だとも言うし、他の宗教とかを持ってはいけないとか、他の神々を信じてはいけないと言うから、神様は自分だけを信じなさいと言うから独裁者のようだと言います。でもそれは誤解です。神様から出てくるものがまことの義であり、救いの道だから、それは唯一のものだから、その道に来てほしいと言われるのです。神様を信じて主を受け入れてこそ救われるからです。その道しかないから、だから信じなさいと言われるのです。神様を畏れなさいと言っているのです。そして神様を畏れることは悪を憎むことです。
聖書にははっきり書いてあります。つまり神様、善と愛そのものである神様の御言葉に背き反する不義を憎んで、神様の命令に従って御言葉を守り行うことです。神様の御言葉は、罪を犯しなさいとか憎みなさいとか教えません。敵をも愛しなさい。憤りを捨てなさい。平和を作りなさい。犠牲になりなさいと教えています。まことの義を持っている人は、このような御言葉を義務感からとか無理やりに、いやいやながら従うのではなく、アブラハムのように神様を信じるから、喜んで自分から進んで聞き従うのです。
聖書66巻の御言葉の中に、しなさい、捨てなさい、してはならない、守りなさいとあるそういう御言葉を守ることですね。そして神様の御言葉を守る時、義務感からとか嫌々ながら守るのではなくて喜びながら愛して、また自分から進んで神様を愛するから守る、これがまことの義人の姿なのです。神様を愛するから御言葉に従って、悪はどんなことでも避けて、敵をも愛して自分を迫害する人のために祈るのです。それで聖書を読むと、モーセやエレミヤ、ペテロと使徒パウロなど神様に認められる預言者や使徒人たちは、正しいことだけをしていて、迫害されても悪を行わなかったのです。これが、神様がご覧になるとき正しいと認めてくださる義人の姿です。
でも皆さんどうでしょうか?自分と考え方が合わない人がいたり、自分と意見が合わない人がいたり、話が通じない人だと思う時はちょっと距離を取ったり、相手にしたくないとか思う人はいませんか?その人のそばにいたくないとか思っていますか?それは心の中に憎しみがあるからです。それは神様がご覧になるとき正しいと認められない姿です。神様の義です。神様の基準は自分が見て正しい正しくないかではなく、神様の御目にどうなのかです。そのように正しくない、そのような不義を持ったまま、神様なぜ祝福してくださらないのですか、なぜ私を守ってくださらないのですかと問い詰めるなら、ヨブのような姿なのではありませんか?神様の義を守り従い、神様のために善と真理を行っていても、迫害されても、まことの義人はその心から悪が出てこないのです。皆さんはどうでしょうか?自分を顧みますように。
ステパの執事は福音を伝えたら、悪い人たちが彼を迫害して石を投げて殺そうとしました。もしヨブがステパノ執事のような、こういう状況に置かれたらどんなふうに反応したでしょうか?神様、私にこんなことをするのですか?どうして私を守ってくださらないのですか?私は福音を伝えただけなのに、なぜ私が悪い人の手によって石打ちにされて殺されるしかないのですかと、問い詰めたかもしれません。しかしステバの執事はそう言ったのではなく、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。そして死にました。このようにまことの義を持っていた人々は、誰かを憎んだり恨んだりしなかったのです。かえって自分を迫害する人も赦して愛しました。だから義人だというのです。私たちも神様が認められるまことの義を持たなければなりません。
ローマ3:23-24です。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」とあります。このように誰でもイエス・キリストを受け入れて罪を赦されれば、価なしに義と認められるのです。神様の恵みによるものです。だから私たちは主の尊い血によって救われたから、価なしに義と認められたのですね。神様を信じる、それ自体が義として認められたからです。しかしそこで終わってはいけません。聖霊を受けて神の子供として生まれ変わったならば、その次からは御霊によって霊を生んでいかなければなりません。つまり聖霊に働きかけられて御言葉通りに行っていって、霊が成長していかなければならないのです。そうするとまことの義人になっていくのです。
ローマ10:10に「人は心に信じて義と認められ」とあります。私たちが主を信じて救い主として受け入れれば、価なしに義と認められるとありますね。ここローマ10:10では心に信じて義と認められるとあります。つまり心にある罪と悪を捨てて真理を行っていく人が義と認められて、そういう人が口で告白して救われるとあるのです。ですからイエス・キリストを信じることによって、価なしに義と認められたことで終わってはいけないし、神様を恐れかしこみ、心の罪と悪を脱ぎ捨てて、信仰を持って神様の御言葉に聞き従わなければなりません。そうするとローマ2:13に「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」とあるように、まことに正しいと認められるようになります。神様が望んでおられることは、私たちがこのようにまことの義人になることです。ヤコブ2:22に、「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、」とあります。私たちがまことの義人になるためには、必ず行いが伴わなければなりません。
信仰歴が長くなって、5年10年20年30年間、御言葉を聞いている人がいるとしましょう。するとそれは御言葉が知識として積まれますね。でもそれを心の糧として霊の糧として、自分を変えさせなければなりません。それなのに自分が知っている御言葉を持って、人を裁く人がいます。それは正しいと認められないのです。だから律法を聞くものが正しいのではなく、律法を行うものが正しいと認められるのです。いくら口で信仰があると告白しても行いが伴わなければ、それは本物として認められないのです。万民の皆さんは、目に見えるしるしと不思議、神の力と業を体験して、また証をいつも聞いて見ているから、神様が生きておられることを信じています。それは疑わないのです。でも本当に信仰がある、義と認められるためには、その御言葉を行わなければなりません。喜べない時も喜ぶことです。ただ神様の恵みに感謝して、天国への希望が変わらない、そういう姿ですね。それが、信仰がある姿であり、そしてそれが神様の前で正しいと認められるのです。でも知識だけ持っている状態のままならば、それは霊の信仰とも言えないし、正しいとも認められないのです。
ヨブが知っている、自分を守っているその義というものは、行いがないものでした。つまりヨブは自分自身だけ守っていただけで、誰かに一言言われたら、自分は二言返すそのような心だったし、敵でもない友達がアドバイスしてくれても、受け入れないで言い争ったりする人でした。でも神様が望んでおられるのは、赦しと憐れみです。右の頬を打たれたら左の頬も向けること、下着を取ろうとするなら上着もあげること、憎い人が1ミリオン行けと強いるなら、2ミリオンを一緒に行くこと、相手のために自分の命まで与えることです。ですから霊的に見てみれば、ヨブには本当の義というものはなかったのです。私たちはこういう御言葉をよく知っています。神様が望んでおられるまことの義、まことの信仰、まことの愛が何か、私たちは御言葉をたくさん聞いているからよく知っています。
マタイの福音書にある、先ほども言ったのですが、右の頬を打たれたら左の頬も向けるとか、下着を取ろうとする人には上着も与えるとか、このように頭で覚えていますね。でも実際に皆さんが実生活でそうしているかどうかです。右の頬を打たれることは、日常生活ではないと思いますが、もしそうされたらどうでしょう。すぐカッとなって悔しく思って、自分も相手の頬を叩くかもしれないし、そこまでいかなくても、心の中で腹を立てるかもしれないし、その人を憎むかもしれないですね。それならヨブと同じような姿ではありませんか?それは本当の義と認められないのです。神様がご覧になる時の正しさではないのです。
本当に御言葉が自分のものになっていて、自然にその御言葉を行える、本当に下着を取ろうとする人にも上着までも脱いであげる姿、右の頬を打たれたら自然に左の頬も向けるような姿なら、自分の方が痛いし、また自分の服も取られたら損をしたでしょうか?そうではありません。その姿を神様が喜ばれるから、神様がさらに祝福してくださるのです。これが本当の祝福でしょう。でもヨブには、まだそういう神様に認められる義というものがなかったのです。だから神様を誤解して、神様が自分を苦しめていると言い続けているのです。でも私たちは客観的にヨブを見ているから、ヨブの今していること、考えていること、言っていることが、正しくないことを知っていますね。ヨブとヨブの友達が言い争って、本当に激しい言葉で互いに攻撃している姿を見てもそうではありませんでしたか?そしてヨブは友達が言っていることは全然受け入れなかったし、ずっと高ぶっていて無視していて友達を攻撃していました。だからそれを義とは言えないですね。
またヨブは本文で、自分のたましいを苦しめた全能者をさして誓うと言っています。ここでたましいとはヨブの心を言っています。ヨブはもちろん体の苦しみも激しかったのですが、心、精神的な苦しみがとても大きかったのです。だから自分のたましいを神様が苦しめていると言っていました。ヨブは、自分は正しい人なのに、神様が自分のそういう正義を取り去ってしまったから、今こんなふうに体も心も苦しんでいると言っているのです。ここでヨブが神様を全能者と表現しているのですが、これは神様をほめたたえる表現ではありません。神様は大きい力で自分の義を奪ってしまい、自分のたましいを苦しめているのだと言いながら、神様は力づくで自分をこんなに苦しめている、わけもなくいじめているというふうに皮肉を言っているのです。神様が悪い方だとこのように言い切っているのです。神様が自分の権利を取り去ってしまった、自分の魂を苦しめていると、このように感情的で悪い表現を口にしているのです。そしてこんなふうに自分を苦しめている神様をさして誓うことを言っているから、これは本当に合わないでしょう。辻褄が合わないのです。これはヨブの心が今どれほど傷んでいるか、苦しんでいるかが分かります。
例えば皆さん、自分の上司がいて、その人が本当にいつも自分をいじめているとか、本当にわけもなく自分を苦しめているとかそういう場合、皆さんが本当に悔しいと思って、その人が憎くてたまらなくて、他の人にその人の陰口を言いたい時もあるし、愚痴を言いたい時もあるでしょう。でも上司だから仕方なく、その人の言うことを聞くとかそう思うかもしれませんが、今ヨブもそんなふうに神様に対して、神様はこういう悪い方だと言いながら、でも神様だから、自分は力がないから従うしかないというふうに言っているのです。ヨブには知恵があったから、彼の言葉の一言一言には多くのことが含まれていて、自分なりにいろんな表現をしています。でも神様の前に心を尽くしていけにえを捧げていたヨブが、今は神様をこんなふうに嘲笑って皮肉を言っているから、彼の義がどこにあるのでしょう?皆さん、ヨブは神様をまだ見つけていないし、体験がないし、真理を正しく知っていないから、このように誤解していろいろなことを言っているのですが、私たちは潔めの福音を聞いて神様についてよく知っています。また神様の愛をいつも体験しています。だから試練にあった時も変わらない神様の愛を忘れてはいけません。
私たちに永遠の命を下さるために、ひとり子を十字架に渡してくださった神様の愛、それを本当に悟って信じている人は、環境によって信仰が揺らぎません。自分の義に合うなら神様を信じる、合わなければ神様に立ち向かう。そういうことは決してないのです。ですから、もし試練に会ったなら、神様に呟いたり嘆いたり恨んではいけません。まず自分を顧みなければなりません。神様は天地万物の支配者であり、だからスズメ一羽も神様のお許しがなければ地に落ちることもないし、私たちの全てのことを知っておられ、髪の毛一本も数えておられる方です。また蒔いたら刈り取りをするようにしてくださり、私たちが魂に幸いを得ていると、全てのことで幸いを得て健康になるように祝福してくださり、私たちの小さい行いも必ず報いてくださる方です。詩篇37:4に「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。私たちが神様に喜ばれるなら、私たちはもちろん、家族にもその祝福がいくようになります。例えばノア一人が神様の前で正しい人と認められたら、家族も洪水の裁きから救われました。またアブラハムをご覧になって、甥のロトと家族も救ってくださいました。またエリコの町が陥落される時は、遊女ラハブとその彼女の正しさと義を見て、その家族まで救ってくださいました。私たちはこのような神様の心の広さ深さその愛を悟って、まことの義をもって神様に喜ばれましょう。
愛する皆さん、ヨブは自分が命のように尊く思っていた自分の正義を神様が取り去ってしまったから、自分を苦しめていると言っていました。しかしヨブは実は正しい人とは言えない人でした。私たちは自分が見て正しいことと、神様がご覧になって正しいことが違うということ、神様が認める義人でなければならないことを覚えておきましょう。神様が認めてくださる義というものは、全ての御言葉を喜びと感謝を持って守りを行うことです。皆さんの中で「自分の心にある罪と悪の中で、これだけは捨てるのが難しいのです。だから他の悪とか罪をまず捨てて、これは後で捨てます。」という人もいるのですが、そうしてはいけません。反対に今、本当に捨てにくいと思っている一番大きいと思っているものをまず捨てなければなりません。それをまず捨てたら、それにつながっている他の罪とか悪も一緒に捨てられるのです。今自分が一番大変だと思っているその大きい罪を捨てるために祈りながら進めていけば、それが神様の前で義と認められ、信仰と認められるのです。
でもそうしないで、今やりやすい罪とか悪をまず捨てて、一番大きい問題は残しておいて先延ばしにするなら、それが原因で大きい病気になったり、また大きい試練にあったりすることもあります。だから神様がご覧になってどれほどもどかしいでしょうか?そしてそのため命が危なくなって、本当に治らない病気にかかってしまったりするなら、どれほど愚かな姿でしょうか?だから私たちは、大きい罪をまず捨てなければならないのです。それが厳しいから辛いからまたきついから、後回しにしたいと思うかもしれませんが、そうしないで、まず捨てにくいと思う自分の一番苦手な、自分が一番難しいと思うことから始めなければならないのですね。そうすると神様も喜んで助けてくださるのです。自分の力だけでするのではなくて、神様が恵みを下さるのです。聖霊が助けてくださいます。なぜなら神様がそれを信仰と認めてくださるからです。だから皆さんも信仰が成長するためには、また変えられるための近道は、大きい罪大きい悪をまず捨てることです。すると速やかに義人となれるのです。
私たちはこれまでこのような義人になるために、自分を発見するため火のように祈り務めてきました。皆さん、しかし未だに自分の義というものがあって、間違った生き方をしているかもしれません。御言葉を、メッセージで聞いた義はこういうものだと知っていても、実生活で自分はどうなのか、自分は何を正しいと思って何をどんなふうに行っているのかを、顧みますように。世の義とか自分の義というものは、例えば自分を苦しめる人、自分に辛い思いをさせる人を避けたり、またその人が嫌いになることを、世ではそれを悪いと思わないのです。自分は何かしたこともないし悪いこともしていないのに、相手が勝手に自分を嫌っていじめたり、また自分に悪いことを言ったりしても、神様がご覧になる時の正しいことは、そういう人でも赦して愛で受け入れることなのです。
皆さん、今ヨブを見ながら、なんでヨブは神様を誤解しているのだろう。ヨブはなぜ神様の心が分からないのだろうと、思うかもしれません。でも自分の日常生活でもヨブと同じような姿があるかもしれません。またヨブを見る時は客観的に見て、御言葉を基準にして、ああだこうだと思うかもしれませんが、自分に関してはまた違うのですね。自分は、自分には理由があるとか、仕方なかったとか、相手の人がまずこうしたのでそうするしかなかったとか、このようになってしまう姿があります。でも私たちは、いつも神様がご覧になる時の義というもの、真理を基準にして、自分を客観的に見なければなりません。そして人との関係でもまず平和を作らなければならないし、御言葉、真理に適応して人を受けなければなりません。そして祈る時もイエス様のように、ステパノのように、自分を迫害する人に、その人のためにも命を与え、その人のためにも愛を持って祈る、そういう人になるために祈らなければならないでしょう。そうすれば神様が働いてくださり、平和を作るようになって、皆さんを助けて皆さんを高めてくださるのです。
皆さんの日常生活で、まだ自分の義を言い張って相手のせいにしたり、自分を合理化している姿はないのか顧みますように。今ヨブがそういう姿だったのですね。自分の義と権利を神様が奪ってしまったから、自分は今悪いことを言っているとか、神様のせいにしています。今自分がこのように悪くなってしまったのは、神様のせいだと言っているのです。でも世の人は普通そういうふうに考えていますね。でも私たちは世の人ではなく神様の子供として、そういう考え方があってはいけないのです。前はヨブのように周りのせいにして、自己合理化をして変えられるのが遅かったならば、今からは全てを自分のせいにしてみてください。そうすれば聖霊が助けてくださり、自分を発見することができます。そして主の善、神様の義に似ていくことができます。神様の義を追い求め、まことの基準になって、神様に愛され恵みを受けますように。旧正月の連休なので、今日夕方礼拝のメッセージはちょっと短くしました。聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。
主なる神様、今日ヨブは神様を恐ろしい方、怖い方、悪い方のように表現していました。自分が命のように大事に思っていた、自分の正しさを神様が取り去ってしまったから、自分は悪くなったと言って、神様のせいにして自分を合理化していました。これが私たちの姿でもあるでしょう。試練に会っている時、人間関係において、人のせいにしたり、環境のせいにしたり、神様のせいにしている姿がありました。あれこれの理由で、私はこうするしかなかったと言い訳をしていた姿は、まことの義でもなかったし、信仰でもなかったのです。こういう姿を悟って、これからはこういう自分の義を主張していた姿を捨てるようにしてください。神様が認められる義を行うように、信仰がさらに成長するようにしてください。明日も神様の愛によって家族と楽しい連休を過ごすようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
