朝の学び35(創世記講解) 創世記4章
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「『それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じな い。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。』 カインは主に申し上げた。『私 の咎は、大きすぎて、にないきれません。』」 創世記 4:12-13「『それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じな い。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。』 カインは主に申し上げた。『私 の咎は、大きすぎて、にないきれません。』」 創世記 4:12-13
いくら大きい罪を犯したとしても、それによって心がへりくだって、その償いをするなら、 私たちの神はその人を退けることも、忌みきらうこともなさいません。また、絶ち滅ぼさな いと言われています。神はカインにも救いの恵みを施してくださいました。私たちの父なる 神は愛であられます。ひとりでも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んで おられます。このような愛でカインにも悔い改める機会を与え続けられました。
カインの悔い改め
カインは、神が自分の悪行を現して、それによって臨む刑罰について言われると、恐れを感 じます。そして、初めて悔い改める姿勢を見せます。本文[13 節]に「カインは主に申し上 げた。『私の咎は、大きすぎて、にないきれません。』」と告白したのです。
ところが、カインのこの告白は心の底から出た悔い改めではなかったのです。単に自分が受 ける罰が怖くて、罪を認めただけです。神はこういう悔い改めを願われるのではありません。 心の底からにじみでる悔い改めを願われるのです。まさに、愛の悔い改めを望んでおられる のです。
愛の悔い改め
愛の悔い改めとは、何でしょうか? たとえば私たちが親をとても愛して、心から尊敬して いるとしましょう。ところが、思わず親が最も嫌いな行動をしてしまいました。これを親が 知るようになりました。この時、親をまことに愛する子どもなら、当然親の前に出て行き、 心の底から赦しを求めます。
愛する親の心を痛めたことがあまりにも申し訳なくて、胸を裂いて後悔し、親のところに行 って徹底的に悔い改めます。この時、子どもが親を愛するほど、心に感じる苦しみも大きい です。
一方、ある子どもたちは、自分のミスや過ちのゆえ親に嫌われるようになるのか心配で、す ぐ悔い改めます。親に嫌われたら、財産を分けてくれるとき不利になるかもという計算で、 うわべだけひざまずくこともあります。
私たちの父なる神が信仰の子どもたちに望まれる悔い改めは、愛するがゆえに心から立ち 返ることです。すぐ何か処罰されるのが怖くて、罪を告白して悔い改めるのは、まことの悔 い改めではありません。このような場合は、心から立ち返ったのではないので、いつでも同 じ罪を犯すことがあります。「恐れ」を与える環境がなくなると、心から捨てられなかった 悪が再び表に出てくるからです。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴ってい るからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。 第一ヨハネの手紙 4:18
刑罰を恐れて、無理に戒めを守る人は、神を愛すると言えません。愛するがゆえに戒めを守 ることがまことなのです。 私たちのイエス様も、[ヨハネ福音書 14:15]で「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あ なたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言われました。御霊の歩みに入って、神を第 一に愛する人は、罪を犯しません。
ところが、御霊の歩みに入る前でも、神を愛する人は、ひょっとして罪を犯しても、すぐ悟 って悔い改めます。「私がなぜ父なる神様のお心を痛めたのだろうか」と重ね重ね後悔して、 再びそのような罪を犯さないために、身を慎んで生きます。
ダビテ王の悔い改め
このような愛の悔い改めをした代表的な人物として、ダビデが挙げられます。ダビデがバ テ・シェバを取って、彼女の夫ウリヤを策略を立てて殺したことについて、神に厳しく責め られたことがありました。その時、ダビデは何の言い訳もせず、その場で悔い改めました。
その当時のダビデの心が、[詩篇 51 篇]に書いてあります。
神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの 罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよ めてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目 の前にあります。 詩篇 51:1-3
ダビテは自分の罪を率直に認めて、罪の赦しを求めています。 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あ なたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。 詩篇 51:11-12
ダビデは恐れによって神を遠ざけたのでなく、むしろ子どもがお母さんのふところにしが みつくように、神の恵みを求めました。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげ すまれません。 詩篇 51:17
ダビデ自身が心からわき上がる愛の悔い改めをしたから、神も聞いてくださるだろうと確 信しています。
父なる神様が望まれる悔い改め
私たちの父なる神が望まれる悔い改めは、まさにこのような愛の悔い改め、まことの悔い改 めです。当座の状況を免れるために、口だけで「間違っていました」と言って、心から立ち 返らないのは、まことの悔い改めではないのです。
人はだますことができますが、神をだますことはできません。敵である悪魔・サタンも、肉 の人について、どんな罪を犯したかを詳しく知っています。それで、サタンがまだ赦されて いない罪を種に訴えるなら、神はその人が試練を受けることを許されるしかありません。そ の結果、そのわざに応じて報いられる公義に従って、代価を払うようになるのです。 カインも心からまことに悔い改めなかったので、罪に対して代価を払うようになります。
これまで、神がカインに下された二つの呪いとそれに対するカインの反応を学びました。私 たちの父なる神は愛であられます。そのわざに応じて報いてくださる神の公義も、結局は神 の愛から始まったものです。公義が欠けている愛は、一方に偏りやすいので、完全ではあり ません。したがって、私達はどんな状況でも神の愛のひもをつかみますように。
しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避 け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。 詩篇 73:28
私達が訓練を受けていても、試練にあって苦しんでいても、もっと神の近くにいますように。 慈しみ深い私たちの父なる神を私達の避け所としますように。それで、父なる神の愛に包ま れて、十分にすべての訓練を通り抜けて純金のような信仰を持つことができますように。
