朝の学び
聖書の著者である神様が李載禄元老牧師に親しく解き明かしてくださったメッサージを学んでいます。
朝の学び81 創世記9章
創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
わたしはあなたがたのいのちのためには、必ずいのちの血の値を要求する
ノアの洪水の後、神様が生きた動物を食物として許してくださった時、善良な心を持った人は、その良心からどんな肉も食べることが受け入れられませんでした。ローマ2:14-15に、「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」とおっしゃったとおり、律法のない異邦人が本質的に律法の行いをする時、この人は律法がなくても自分が自分自身に律法になるのです。言い換えれば、良心が善い人は、神様の律法がなくても、彼の良心が自ら律法の行為を示すことができる基準になるからです。
しかし、人々の心がますます悪くなるので、神様が「どんな肉の血も食べてはならない」と命じられたにもかかわらず、徐々に時間が経つにつれて破ることになり、初め決めてくださったきよい動物の範囲を超えるようになると、神様はイスラエルという一国の基礎を用意しながら、具体的な律法の枠組みを制定してくださいました。このような枠組みを外れたときには必ず応報を受けるように律法を定められたので、5-6節に「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とおっしゃっています。ここで血を流すという御言葉は、命の主菅者である神様が定められた一定の線を越えるという意味です。簡単に言えば神様のみことばに背くのです。
4節に「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」とあるように、血がついたまま肉を食べてはいけませんでしたが、血がついたままを食べたり、糧食のためではない目的で殺生することも、また人と人の間で互いに傷つけたり殺すことなど、すべてのことが神様が定められた線を越えて神様のみことばに背く行動です。このように神様のみことばを破った時は、それに対する応報が従うことになりますが、動物に行ったのは動物に、人に行ったことは人として応報を受けるようにしました。
ここには、つまり行ったとおりに返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という神様の公義が込められています。しかし、行ったように返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という公義の法則に対するより細かく具体的な規定が、まさに出エジプト記に記録された事例を通して宣言されます。律法は十戒の具体的な適用規則として与えられました。出エジプト記 21:12‐14には「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」と言われました。
神様の形の通りに創造された人を殺すことは、神様の主権の下にある生命を任意に奪う罪なので、その結果は必ず死で返さなければなりませんでした。ただし、ミスによる殺人に対しては、神様の憐れみの中で自分の命を保存できるように例外的な規定を許していただきました。すなわちイスラエルの町の中で特別に逃避のための町を別々に区分して、誤って殺人したことが認められる人は、逃避の町の中に住むことで命を維持することができたのです。これを通して、私たちは神様が殺人に対しては、神様の形に造られた人を殺すという、神様の主権に挑戦する行為を防ぐため、死刑という厳しい代価を払わされると同時に、殺人の行為だけを見るのではなく、殺人者の心をより重要に見ておられるという事がわかります。
これは今日も同じです。人が完全になるまではいつも間違いを犯すことがあるので、神様は同じ非真理の姿の中でも、各人の心を察してくださいます。これが本当に悪い心から出てきたのか、単に真理を知らずに誤ってそうしたのか、真理の通りに行おうとしましたが、心に意図したものとは違って出てきたのかなどをご覧になられます。それで、同じ非真理の姿についてでも、神様が許される応報は異なることがあるのです。律法を与えられた目的自体が人を苦しめて罰するためのものではありません。真理の中に住まわせるためなので、神様の公義は各人のおかれた状況と心の中までも探って正確に適用されます。
目には目、歯には歯
旧約時代の律法を見ると、愛の神様とはすこし似合わないような内容が出てきます。例えば、出エジプト記 21:23-25 によると、「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」ということです。これを「同害報復法」ともいいますが、簡単に説明すれば、人がある害を受けることになったとき、それに対する同じ害として相手に返すという意味です。これは、人が悪を行うと、報いを受けなければならないという公義の法則でもあります。しかし、この法に込められたより深い神様の心はまさに愛であることを知らなければなりません。
「目には目」という内容だけを見ると、まるで悪を悪で返すようですが、実際に皆さんが世の中の人々を一度見てください。他人が私に害を一つ与えたら、それを二つ、三つ、それ以上に返そうとし、悪に突き進んでいるのが現実です。目に受けた害を目だけに返すのではなく、より大きなもので報復しようとする心でしょう。ですから、このような悪の世代の中で、目には目で返すという言葉は、むしろ受けた害以上に報復することを禁止するという意味が込められているという事です。報復を最大限抑え、複数の乱用を防ぐ効果があるのです。さらに、聖霊時代ではなく旧約時代には自分の心を治めることができないので、ややもすると報復の悪循環に突き進むことがありますが、同害報復法という律法の枠組みの中に縛っていただくことで、それ以上の悪を防ぐことができたのです。「愛の神様がなぜこのような恐ろしい法を人々に与えられたのか」を考える前に、「なぜ神様がこのような法律まで定めてくださるしかなかったのでしょうか?」を考えてみれば、悪が蔓延した世の中でも、なんとか魂を保護し守ろうとする父なる神様の愛を感じることができます。
このような愛を感じるなら、決して神様のみことばを軽く考えたり、通り過ごしてしまうことはできません。小さなこと一つを軽く考えると、後には大きな罪を犯しても悟ることができないからです。それで、へブル12:5に「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。』と勧めるのです。
地に群がり、地にふえよ
7節に「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と言います。父なる神様がこの地に人間を耕作される目的は真の子どもを得るためのものですが、人間耕作を始めて以来、人間の悪によって心を痛め、地上に人を造ったことを悔やまられたほどでしたが、洪水以後に新しく始まった人間耕作を見ながら、もう一度真の子どもを得るための期待と希望を持つようになります。再び人間がこの地に生育し、繁栄していくと、人間が結局悪に突き進むことになり、そうすればまた心を痛めることを知りながらも、その中から出てくる真の子どもを期待されるので、もう一度人間に「地に群がり、地にふえよ。」と言われて、祝福を与えておられます。
農夫が一年の収穫が不振だからといって、翌年に農作業をあきらめるのではなく、また希望と抱負を持って農作業をするように、父なる神様も新しい人間耕作を通して喜びと栄光になることを願う心で、人間たちに祝福の言葉を与えているのです。そして人々はこの言葉に従い、早いスピードで世界中に広がっていきます。人と獣がどのようにして世界中に広がることができたかについては、すでに前の時間に詳しく説明しました。次の時間には、神様が虹を置いて、これを通して人間と結ばれた契約の意味について見てみましょう。
結論
皆さん、血は命であるだけでなく、血の中にはそれぞれの性質と属性までも含まれています。それで人の血が異なり、動物の血が異なり、どんな血を持っているのかによってそれぞれの属性と性質が変わるのです。このように血は各人の性質や属性までも決定する非常に重要な要素ですが、世の中の理論がすべて正しいわけではなく、合っているとしてもあくまでも肉の法則に該当します。もし親がせっかちで血気が多い場合、子どももせっかちで血気が多い確率が非常に高いのは事実です。しかし、このような子供でも、彼が真理の中に入って神様の能力を力にすれば、肉の法則とは関係ありません。「私は親からこういう気を受けて生まれたから仕方がない」「私はもともと性質や属性がこうなの」と言いながら自ら断定してしまう人は、自分を依然として肉の空間の中に縛っておく人です。肉の空間の中に自分を縛っておくと肉の法則から抜け出すことができません。
しかし、肉の空間から抜け出して霊の空間に入ると、肉の法則とは関係ありません。だからといって、「私はもはや肉の空間ではなく、霊の空間に属している人である」と言葉で告白して出来るのではありません。肉の空間を離れて霊の空間に属するためには、以前に肉の空間で持っていた肉に属していたすべてのものを脱ぎ棄てなければなりません。このような過程には罪を血を流すまで戦って、捨ててしまわなければならない痛みもあり、自分を徹底的に否認していく忍耐の歳月もありますが、すべての過程を通過すれば、血の中に込められた性質と属性までも超越する霊の次元に入ることができます。へブル 12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」
こういう人は親からどんな気を受け継いだのか、血の中にどんな性質と属性が含まれているか、これらは関係ありません。コリント第二5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とおっしゃったとおり、これ以上肉の空間や法則に縛られているのではなく、新しい被造物になって神の形を完全に回復した真の子供たちとして出てくることを主の御名で祝福してお祈りいたします。
朝の学び80 創世記9章
創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である
3節に「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と述べています。ノアの洪水の後に神様が人に動物までも食べられるように許される場面です。ところがこのように動物を食べるように許されたのが実は祝福ではなく、むしろ呪いだと言いました。最初の人アダムには果物だけが許され、罪を犯した後呪われてこの地に追いだされ、野菜類のような植物が許され、ついに動物まで食べることが許されましたが、これは結局、人がそれほど悪くなったからです。人が肉に変質していくほど、人は体を維持するためにそれほど多くの肉のものを摂っていかなければならないので、ますます強い肉の食べ物が必要になったのです。
このように動物を食べることを許されたことを呪いというには、より深い霊的な意味があります。それはまさにこの時から殺生(せっしょう)が始まったということです。洪水の前までは、全焼のいけにえのためのもの以外は任意に動物を殺すことは許されていませんが、この時からは人が食べるために動物を殺すだけでなく、動物の間でも弱肉強食の法則に従って互いに殺しあうことが発生するようになります。
さらに、歳月が経つにつれて人々がさらに悪くなると、糧のためだけでなく、自分の悪の中で動物を殺すことまで起こります。それで人々が面白さや娯楽として動物を狩って殺すのも、結局は人々の心がどれほど悪くなったかを示す証拠です。ところが、人々が次第に悪くなって生まれたもう一つの現象は、人々が最初許されたきよい動物以外にも、自分の見た目に良い動物を取って食べることになったということです。そうしながら次第に神様が禁じられた、けがれた動物まで食べることになり、神様を離れた異邦人の間では、このような現象がさらにひどくなっていきました。しかも動物を血のあるままで食べてはいけないという命令も時間が経つにつれて次第に守られなくなりました。
肉を血のあるままで食べてはならない
4節には「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」と言われましたが、ここには霊的な意味があります。レビ17:14に「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』とおっしゃるとおり、血はいのちと一体だからです。
神様が初めのアダムを土で造り、その鼻にいのちの息を吹き込む時も、体に血が回り循環し始め、人は初めて生きている霊となりました。動物もやはり血は命であり、血があるので命が維持されますが、神様もやむを得ず人間に肉を食べるように許されはしましたが、それがいのちをとる権勢まで人間に許されたわけではありませんでした。したがって、神様は人々に肉は食べるものの、血がついたままでは食べられないようにすることで、血すなわちいのちを主管する権勢はただ神様だけにあるという事実を明確にしてくださったのです。このような神様の命令を守るとき、それがすなわち、いのちを主管される神様の権勢と創造主としての権威を認めることです。
結局「どんな肉の血も食べてはならない」という神様のみことばは、人の生命を司る神様の権威と威厳を侵してはならないという境界線のような意味を持っています。誰が万物の創造主であり、このように恵みを施す人が誰なのかを、人に明確に記憶させたのです。ノアの洪水の後には、父なる神が光で囲まれ、親しく干渉された時とは全く違う状況になってしまったので、このように越えてはならない線を引いてくださることで、人々がこれを意識しながら同時に神の存在を意識して、生きていけるようになったということです。
たとえこの地のすべてが今は肉の法則の中で、根本の肉の属性によって回るしかない状況になりましたが、すべての根本は父なる神様によるものであり、すべての主菅者は神おひとりであることを、明らかに教えてくださる方法になったのです。そして、このように決めてくださった線を人々が破る時には、それがすなわち神様の主権に対する挑戦となるので、そこには必ず応報が従い、神様とは関係のない者になってしまいました。結局、肉の空間と霊の空間が徹底的に分かれるようになった状況で、神様のみことばに従う者は、肉の空間にあっても神様と関係があると認められますが、従わない者は神と関係がなくなったのです。これは今日でも同じように適応されます。
ヨハネ15:7に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とありますが、これがまさに霊の空間に父なる神様と共にとどまる人に与えた祝福の言葉です。たとえ体はこの肉の空間にあっても、皆さんが主の中に、主の言葉の中にあるとすれば、これが主と共に霊の空間に留まる道になります。そして、この時は主と皆さんが霊の空間の中で一つに通じているので、何でも心に抱くことさえすぐに主に伝わります。主の応答もすぐに来ることができます。
一方、皆さんが信じると言いながらも、主の中に居らず、主の言葉が皆さんの中にとどまっていなければ、主と皆さんは全く別の空間に居ます。主は霊の空間におられますが、皆さんは依然として肉の空間にいます。そして霊の空間と肉の空間は互いに通じることができないので、結局主と皆さんが交わることができず、皆さんの心の願いに主が答えてくださることもできないのです。まさにノアの洪水以後からは完全に肉の空間になってしまったこの世の中で、ただ神様のみことばに従う人だけが神様に属する人になることができるのです。肉の人とは、神様が共にしたくても共にすることができないという事です。まるで水と油が混ざらないように、肉の空間にいる人と霊の空間におられる神様とは通じることができないからです。
朝の学び79 創世記9章
創世記9:1-4
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
進化ではないという証拠
これまでいくつかのケースを見てきたように「人によって移動したのか、それとも自ら移動したのか?」「地形や気候の障害を克服することができたのか、そうではなかったのか?」によって今日、世界中に広がっている動物たちの分布が決定したという事です。もし進化論で言うように、進化によって今日のような動物が生まれたなら、気候や環境条件が似ているところでは、同じ種類の動物が現れる可能性が非常に大きかったでしょう。しかし、アフリカ大陸と南アメリカ大陸で互いに気候と環境が似ているところを比較しても、この二カ所に住む動物の種類が大きく異なります。人によって移動したか、自分で移動できた動物は、両方に住むことになるでしょうが、そうでないものは海を渡ってまで移動することができなかったからです。それで猛獣やからだの大きい動物たちの中には、アジアとアフリカ大陸にだけで生きているものが多いのです。
ちょっと荒々しい動物でも、小さいものは子どもの時に人が十分に移動させることができたでしょう。このような事実だけを見ても、進化ではなくノアの洪水以来、新たに動物が広がっていったことがわかります。また、洪水以前は動物たちがどこに住んでも良い環境でしたが、洪水後に肉の性質が明らかになってからは、それぞれの動物に合う環境を探すようになり、これによる影響もあるのです。ノアの洪水以来、気候とすべてが変化しすぎてしまいました。
そして、動物の中でも今日は、一種類の動物の中でも再び様々な種類に少しずつ変形が起きた場合が見られますが、これは決して進化によるものではなく、ただ長い年月が経つにつれ、それぞれの動物が生きていく地域の気候と餌、そして地形に適応するために生じた若干の変化に過ぎません。このような少しずつの変化を「小進化」といいます。人の場合もどんな気候でどんな食べ物を食べながら適応して生きていくかによって、外見に少しずつの変化が生まれるかのようです。
進化ではないというもう一つの証拠は、まさに恐竜の化石を通してです。恐竜の化石は現在世界中で発見されていますが、化石が見つかるところを見ると主にその周辺一帯で集中的に発見されます。大陸別に見ると、北アメリカでは米国とカナダ、南アメリカではアルゼンチン、ヨーロッパではイギリス、アジアではモンゴルと中国で発見される化石が世界中で発見される化石の75%と言われています。この他にも化石が発見される国々を見ると、世界各地に広がっているにもかかわらず、その国の中でも特定地域に密集しています。これは、すなわち何を物語っているでしょうか?
私が前に説明したように、恐竜がエデンの園から追い出され、この地に降りてきてからこの地にそれほど長く住んでいなかったという事実です。彼らが広がる前に、すでに神様の裁きをこの地で受けてしまったのです。火の審判を受けてしまったということです。とても短い時間しか生きられませんでした。そのため、恐竜が初めてこの地に降りてきた時は、世界中のあちこちに広がったにもかかわらず、その短い時間の間に、さらに広域には広がっていくことはできなかったのです。言い換えれば、神が恐竜をこの地上のあちこちに世界各地に分散しておかれたので、恐竜の化石が世界中で発見されていますが、同時に恐竜がこの地に住んでいた時間が短いため、その間に最初に定着したところから遠くまで広がっていけなかったということです。韓国の場合も恐竜の化石が多く発見されてはいますが、そこが主に数箇所に集中しています。
そしてこれを通して、私たちは恐竜の絶滅も非常に突然のことだったことを知ることができます。恐竜の絶滅がもし餌が足りなかったり、気候の変化が原因であった場合、恐竜は当然餌を求めて散らばったり、より良い気候を見つけて移動したはずですが、そうしなかったことを見ることができます。恐竜の化石が主に集団的に発見されるというのは、一箇所に集まって暮らしていた群れが災いや危険を避けて散らばる時間の余裕さえなく、突然、死を迎えたということ、それだけ膨大な災害があっという間に迫ったという証拠です。
したがって、私たちはこれらの証拠を通して、恐竜がこの地に降りてきて世界中に散らばって暮らすことにはなりましたが、最初に定住した場所から遠くまで広がっていくほど長い時間、この地に住んでいたわけではなく、また突然の審判によって滅亡したという事を知ることができます。そして、日本をはじめとする島国でも恐竜の化石が発見されていますが、これは恐竜が自ら移動したのではなく、最初から神様がそこに置いたという事実を物語っています。
もちろん当時は今と地形が違っていたかもしれませんが、陸地に住む恐竜が泳いで海を渡ることができるわけではないので、お互い離れた大陸や島を恐竜自ら移動していくことはできません。それでも、互いに遠く離れた大陸と島でも似たような種類の恐竜化石が発見されるということは、神様が最初からそこに定着するように散らばしておかれたことを示しています。
これと共にもう一つ考えなければならないのは、現在知られている恐竜の化石のうち、わずか20%が完全な骨格を備えたものであり、57%は不完全だったり部分的な頭骨などによって、その名前がつけられた恐竜だということです。また、残りの500種以上の恐竜たちも特徴のない骨に基づいて名前がつけられました。これは言い換えれば、進化論で化石に基づいて進化したと主張する恐竜のほとんどが、まだ化石でさえまともに確保されていないという状況であり、それほど不十分な資料をもとに、自分たちが立てた仮説と考えの中で恐竜の進化を説明しているということです。しかし、神様がしてくださった説明では、今発見されている恐竜の化石に対する疑問点が明らかになる可能性があるという事です。次の時間には、神様が人々に生きた動物を食物として与えながら、血のあるままで食べないように命じられた霊的な意味について見てみましょう。
創世記9章2節に「野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」とありますが、これはこれだけ悪があるということを表しています。動物と人の間に、動物と動物の間にも互いにも悪があるので、お互いを恐れて怖がっているのです。ヨハネの手紙第一4:18にも「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。
人の心の中にも悪がなく、相手に対する完全な愛の心だけがあれば、決して恐れたり恐ろしいことはありません。いくら私を苦しめ、私を害しようとする人がいても、私の方で先に彼を完全に愛してしまったら、決してその人について不快な気がしません。そうではなく、相手が私を苦しめる時、それによって私の心が傷ついて感情が生じるので、そのような人を見ると怖くて嫌で避けるようになるのです。心の中に完全な愛があれば、むしろそのような人を見るとき、より憐れみと慈悲の心で扱い、どんな状況でも抱いてあげることが出来るのです。
ですから、ローマ13:10に、「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」と言われたように、心の中に完全な愛を成し遂げ、律法の完成を成し遂げることができることを願っています。それで、この地でも皆さんの心が天国を成し遂げ、日ごとに、新しいエルサレムの希望の中でさらに熱く駆け付けることができますように主の御名でお祈りします。
朝の学び78 創世記9章
創世記9:1-4
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
イエス・キリストによる霊の再生
最初の人アダムは父なる神に代わってエデンとこの地のすべての万物を支配し、征服し、治めることができる絶対的な主菅者でしたが、この地に光が取り込まれ、肉の空間になってからは、人がただこの地で肉の序列上1位の位置に転落してしまったのです。最初の人アダムは霊として霊の次元である4次元に属した存在であったので、無次元から一次元、二次元、三次元に属するすべてのものと第二の天までも支配して治めることができました。ところがアダムの犯罪以後、人はまさに死という言葉通り、霊が死んでいき、もはや霊的な存在ではなく肉の存在に変質していきます。
そうするうちに、洪水の裁きに当面すると、創世記6:3に「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と言われるほど、人々は肉の人になったのです。だから人がもはや万物の主菅者としての立場に立つことができなくなったのです。父なる神様はこのように転落した人の立場を再び回復できるように道を開いてくださったのです。それはイエス・キリストを通して死んだ霊が生きかえる道を開いてくださり、聖霊を私たちの心に送ってくださり、水と御霊によって生まれ変わるようにしてくださったのです。このようにして、神様の子どもになった私たちは、失われた神様の姿を取り戻して、再び霊的な存在に回復していく時、霊の人になっていくほどに、再び万物の主菅者として、肉の世界を支配し、征服し、治めて生きていくことができるという事です。
人類の移動
創世記9:1に「それで神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と言われたので、ノアとその家族は速いペースでこの地に広がっていくことになります。創世記9:7にも、「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。』」と言われたように、人は新たに全地にいくつかの集団になって広がり始めたのです。多くの子どもたちを生みながら人口が増えはじめ、それとともに東西南北四方に新しい場を探し求めて旅立ったのです。それでは、ノアの洪水後に人と動物がそれぞれどのようにして全世界に広がっていったのか、その過程について見てみましょう。
創世記8:4にノアの箱舟がとどまったというアララテ山は、今のトルコ領土の中にあります。アララテ山の位置はいくつかの異なる説がありますが、その場所が今のトルコ地域からそれほど遠くない場所であることには概ね意見が一致しています。したがって、人類の新たな始まりは今のアララテ山の周辺から始まります。西はヨーロッパとつながっており、南は中東とアフリカ、東はアジアとつながる地理的には要衝の地から出発していたのです。
人が移動するのに最も簡単な方法は、陸地につながる道を通して移動することです。それで人々はここアララテ山の周辺を中心に四方に広がってゆきました。しかし、陸地での移動には限界があります。他の大陸に移動をしたり、また地形が険しいところを避けて行くには、海を利用しなければならなかったのです。ところが、創世記講解を通して説明したように、ノアの洪水があるまで、人々は海にあまり馴染みがありませんでした。海に進出したり、海を渡る移動のようなことはほとんどありませんでした。
しかし、ノアの洪水後は状況が変わります。洪水に備えるために箱舟を造りながら、ノアと彼の息子たちは自然に船を造る技術を身に着け、それも非常に優れた技術者になりました。これにより船を造る技術が積み上げられ、海に対する自信も得られ、洪水後には海を通しての進出も活発に起こります。これらの事に基づいて、ひとつの具体的な移動経路を見てみましょう。
アララテ山の周辺から始まり、陸地に沿って北西に移動し続けていた人々は、今の大西洋と接している海岸沿いに至るようになります。この時、海を通っての進出を考えなかったら、人々はもはや広がっていないでしょう。しかし、すでに船を作る技術を伝授された人々は、ここで船を作って新しい土地に進出することになります。今でも北西ヨーロッパの側には鬱蒼(うっそう)とした森がありますが、これらの材料がまさに船を作るのに利用されました。
それで船を作ってついに海に進出するようになった人々は、まもなく、今のイギリスの地にたどり着きます。時間が経つにつれて、一部はそこに残って定住しましたが、一部は再び船に乗って西に進出するようになります。そうして結局、今のアメリカ大陸にまで至るようになったのです。アメリカ大陸が世界に知られているのは1492年にコロンブスの発見によるものでしたが、コロンブスがアメリカ大陸に到着したときに、そこにはすでに彼らなりの伝統と歴史を持つアメリカインディアンが住んでいました。
それでは、彼らはどうやってここアメリカ大陸に住むようになったのでしょうか。先ほど申し上げたとおり、洪水後に広がり始めた人類が、すでにずっと前に大西洋を渡ってここに来て定住したことを語っている証拠です。そして今の北アメリカに到着した人々は、ここで再び陸を通って南に南に移動し、南アメリカに定住して暮らすことになったのです。アララテ山から出発して船に乗って南アメリカまでまっすぐに行こうとしたら、そこはあまりにも遠い道のりだったと思いますが、このように陸地を移動できる場所は陸を移動し、そこから船で移動できる場所に行き、再び陸を移動するという方法で、人々は世界中のどこにも広がることができたという事です。
そして人々がこのように広がっていく上で大きく役立ったのが、まさに北極星や北斗七星のような星座でした。当時の人々が船に乗って航海するためには当然方角を知る方法がなければなりませんでしたが、星座がその役割を果たしてくれたのです。それで、神様はこうして道案内までする星までも、すでにご存知で摂理しておかれたのです。
動物たちの移動経路
では、動物たちはどのように移動したのでしょうか?動物の移動は、大きく二つの方法がありました。一つ目は人々によって運ばれ、二つ目は動物たち自らが移動したのです。
ノアの洪水の後、人に動物が食物として許され、一部の動物は非常に貴重な財産になります。洪水の前からすでに家畜と呼ばれる動物たちがいて、これらの動物たちは人々と共に生きていきました。ところが、洪水後には、糧食として使われる家畜まで加わり、家畜は人にとって切っても切れない存在となります。だから人々は新しい土地を探して移動しながら、これらの家畜を当然連れて行くようになります。それで今日、世界中の人々が住んでいる場所には、ほとんど共通して存在する動物がいます。例えば牛、鶏、犬、豚、馬、アヒル、ウサギ、ヤギなどがこれに属します。もちろん、この中で地域や気候によって少しずつ差が出るのですが、人々が住んでいるところではほとんどこれらの動物を見ることができます。
今日だけではなく、歴史を見てもすでにずっと前から、これらの動物たちは人と一緒に住んでいました。その理由は、まさに人々が世界中に広がり、これらの動物を一緒に連れて行ったからです。もしかして「家畜の中には、神様が忌むべきと言われた動物たちも含まれていますが、そのような動物たちはなぜ一緒に連れて行かれたのでしょうか。」と考える方がいるかもしれませんが、洪水後、人々は急速に悪に染まっていき、次第に神様と遠ざかるようになりました。それで、将来、選民として選ばれるイスラエル民族として存続する系図の人々を除いては、神様とは関係のない異邦人になっていったのです。
そして、これらの異邦人たちには、神様が最初に決めてくださった動物以外にも、自分たちの目に良いと思う動物をとって糧にしていったのです。そのため、神様がご覧になったときに忌むべき動物たちまでもが家畜に含まれ、人々と共に世界中に広がっていきました。
しかし、必ずしも家畜だけが人々によって移動したわけではありません。動物の中でおとなしいものや連れて移動しやすいものは、必ずしも家畜ではなくても、人々の手によって世界中に広がっていくことができました。たとえば、ハトは世界中のどこにでもいます。ハトは人が愛し、人に従う属性があるので、人が連れて移動しその地で繁殖させることによって、世界各地に存在するようになりました。鹿のようなおとなしい動物の場合は、南北アメリカはもちろん、ヨーロッパやアジア全体に非常に広く分布しています。
しかし、虎の場合は全世界に分布しているわけではありません。シベリアやインド、韓国、マレーシアなど、主にアジア地域にのみ分布しています。これは洪水後に弱肉強食の法則が生まれた為、家畜たちに害となる虎のような猛獣まで、あえて一緒に連れて移動する必要がなかったからです。したがって、人が連れて移動したのではなく、獣たちは自ら移動したという事を知る必要があります。
ノアの箱舟から出てきた動物たちは、陸を通って移動できる場所に徐々に広がり始め、その中でもそれぞれの動物たちに合った地形や気候を探して移動するようになりました。そのため、今日世界中に広がっている動物の分布を見ると、それぞれの動物がどのように移動したのかがわかります。例えば、象のような場合です。象のように大柄な動物は人々が連れて移動するのが容易ではなかったため、象自らが移動した場合です。そのため象は陸を通って移動し、現在アジアの熱帯地域とアフリカだけに住んでいます。
前述の虎やライオンも同様です。自ら移動しなければならなかったこれらの猛獣は、全世界に広がることができず、一部の地域に限定されるしかなかったでしょう。またライオンのような動物は水が嫌いなので、泳いで渡ることもできません。その為北アメリカや中南米へはライオンが移動できず、アフリカとアジアの一部の地域でのみ生息することになります。
この他にも、カバ、キリン、サイなどのような大きさの動物たちも自らが移動しなければならなかったため、世界的に広く分布しているのではなく、ほとんどアフリカとアジアから抜け出せない地域にだけ住んでいます。このようにして自ら移動して広がった動物たちは、海や大きな川や山脈などのような地形の障害物を自ら克服できなかった場合には、最初に広がり始めたアジア大陸、そしてアジアと陸でつながったアフリカを除いてはもはや広く広がらなかったのです。
ノアの洪水によって生じた気候の変化や地形の変化が、動物たちが広がって生きていく上で非常に大きな変数として作用するようになったからです。もちろん、空を飛ぶ鳥や、地形や気候の障害を乗り越えた動物たちの中には、世界中に広がった場合も多いです。その中でクマの場合はアフリカ、オーストラリア、南極を除くほぼ全世界に分布して住んでいますが、水を恐れずに種類を選ばない食性のため、それだけ地形や気候の障害を克服して広く広がることができたのでしょう。
朝の学び77 創世記9章
創世記9:1-3
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのもの-それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
これから創世記9章に入ります。9章では、まず、新たに人間の耕作を始めるノアと彼の家族、そして子孫たちにくださる父なる神様の契約の御言葉が出てきます。創世記9:1-2に、「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」
本格的な人間耕作の始まりとともに、もう一度人間に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という祝福の言葉を与えておられます。ところが、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という御言葉が、以前アダムがこの地で生活を始めたときに初めていただいた御言葉と非常に似ていますが、その内容を詳しく見てみるとまったく異なる次元の御言葉であることがわかります。
創世記1:28を見ると、神は男と女、すなわちアダムとエバを創造し、彼らに祝福を与えながら、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命じられました。最初の人アダムには、地を従えよという言葉と共にすべての生き物を支配せよという言葉も与えられましたが、ノアには地を従えよという言葉もなく、「あなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」と言われただけです。それでは、神がアダムに与えられたみことばと、ノアに与えられたみことばはどのような違いがあるのでしょうか?
まず、最初の人アダムに与えられた言葉は、神に代わってすべての万物を治める主権者としての権限を与えられました。第一の天だけでなく、第二の天のエデンにあるすべてのものの中でも一番上に立てて征服して治めるようにしたのです。しかし、ノアにくださった言葉はそのような意味ではありません。今は、ただすべてのものの上に頭になった者として、序列上一位の位置に立てるという意味です。
野の獣についても治める次元ではなく、獣が人を恐れて怖がるように秩序が立てられたに過ぎないのです。秩序上、すべての獣が人間の序列を越えることはできませんが、これ以上人がすべての獣の主権者ではなく、ただ序列上一番上に置かれただけです。例えを挙げれば,アダムとすべての野の獣との関係がまるで王と民の関係であったとすれば,ノア以後は民の中から選ばれ、最も頭として立てた臣下と民との関係と言えます。臣下の位置がいくら高いとしても王とはまったく次元が違うように、ノア以後は人々がもはや万物の主権者ではなく、万物の中で序列上一番上に立つようになったのです。簡単に言えば、人と万物の関係が垂直の関係から水平の関係に変わったのです。
次に、すべてが変わった肉の環境の中で、病原菌や病気が本格的に人に乗じてくるようになったという事です。もちろん、このようなものはアダムの罪によってこの土地が呪われた時、生じ始めましたが、ノアの洪水までは活動できない環境にありました。しかし、この土地が完全に肉の空間になると、多くの病気や病原菌が急速に現れ始めました。つまり、病原菌の発生や、すべての病気の最も根本的な原因が人々の罪のためであることがわかります。人々の罪により審判が臨み、初めの光が取り込められ、人々がより速く悪に染まることによって、本格的に病気がこの地に登場したのです。
このように光のあることと光のないこととはあまりにも大きな違いがあることを知る必要があります。ところが、神様はこのように光が取り込められた肉の空間に生きていくようになった人々を、そのままにしておいたのではありません。霊の空間と通じる人々を見つけて、彼らを士師として、または預言者、使徒として立てられ、彼らを通して父なる神様の御心を絶えず宣言し、導いてきました。もし父の側で、ただ何の干渉もなく置かれたら、人々は心に望む通りに行って、ますます濃い闇の中に陥って行ったでしょうが、父なる神様は一人子の息子まで渡してくださり、失った父との関係を回復できるように道を開いてくださったということです。
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物になるので
創世記9:3を見ると、「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と言われました。これもやはり、初めの人アダムがこの地に住み始めたとき、神様がくださった御言葉と対比されています。
創世記1:29では、「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。」としてくださったのですが、ノアの洪水以降は動物までも食べられるように許されます。ここで「種を持つすべての草」とは、白菜や大根のような種類の野菜を言うのではなく、スイカやメロンのような果物を言うことであり、「種を持って実を結ぶすべての木」の果実とは、リンゴ、柿、桃、梨などの果物をいうのです。神様はアダムが犯罪する前には果物の種類だけを食べさせましたが、アダムが罪を犯して呪われてから野菜が付け加えられました。
ノアの洪水の前までは、いけにえとして捧げるためのもの以外に、任意の獣を殺すことは許されていませんでした。しかし、洪水後には殺生ということが現れ、獣の間にも弱肉強食という自然の法則が存在するようになります。人だけが獣を捕まえて殺して食物としたのではなく、獣の間でもお互いを殺して強者が弱者を捕まえて食べることになるのです。
これらの姿を父なる神様が見られる時は、あまりにも心が痛くて嘆くしかないのですが、肉に戻ってしまった空間の中では、徐々にこのような状況が激しくなっていきます。人にも、神が動物を食物として許されたとしても、そこには守らなければならない線があります。しかし、何度もこの線を越えて変質していくと、神が後には、呪われた獣とそうでない獣に分け、獣の中でも食べてよいものと、食べてはいけないものを分けるしかない状況に至ってしまいます。つまり、洪水後に神が食物として許された動物は、聖い動物に属する数少ない種類でしたが、人々に悪が加わりつつ定められた線を越えると、レビ記に出てくるように食べてはならない動物の範囲を確かに決めるしかなかったのです。
結論
皆さん、この土地が肉の空間になるにつれて、すべてが以前と同じではなくなりました。神様との交わりも容易ではなくなり、神様の御心を悟っていくことも容易ではなくなりました。それでも心が善い人々はこの肉の空間で悪に染まっていくのではなく、自分を守り、神様の御心を追って生きていくことになります。このように、以前にも善良な人々は必ず神を探し、神の声を聞いたことを見ることができます。まして、イエスを救い主として受け入れ、聖霊を賜物として受け取った神様の子どもたちが、聖霊の声を明らかに聞くこと、また父なる神様の声を明らかに聞くということは、とても正常なことです。ですから、父なる神様がこうして神様の声を聞き、神様の御心を求めて生きていく人を発見された時、どれほどその心が喜ばれるでしょうか。こういう人は、神様の方でも愛してくださり、思いっきり祝福してくださるしかないのです。それだけでなく、アダムの罪の後に失われた万物の主管者としての位置も取り戻せるようにしてくださいます。
万物の主管者として立てられた人間は、アダムの罪以後その資格を失うことになり、洪水後には万物との関係が、垂直の関係から水平の関係に転落してしまいました。しかしその心が肉に染まらず霊の空間に属する者になれば、再び失った万物の主管者としての権威を回復していくことができるという事です。神様が上からくださる霊の権威と力が従うようになり、万物を支配し、征服し、治めることができるのです。創世記講解を通して語られるみことばが、この祝福の場に出て行くことができる道を明らかにしています。神様がくださるすべての御言葉を、皆さんが完全に心の糧とされ、力となり、霊の空間に属する霊の人々として出てくるように、主の御名でお祈りします。
朝の学び76 創世記8-9章
創世記8:22-9:3
地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、 ― 地の上を動くすべてのもの — それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
自由意志の重要性
以前には、私たちがこの地で人間耕作を受けながら、訓練という過程を通して、その本性の中にある悪まで発見して捨て去るとき、父なる神様が喜ばれる真の子どもとして出てくるとお伝えしました。ところで、悪を捨てて聖潔に向かって走っていくにあたって、皆さんにとって大切なこと、顧みなければならないことは、自由意志を果たしてどのように使っているのかということです。
自由意志とは簡単に言って皆さん自らが自由に選べる意志のことです。するのか、しないのか、守るのか、守らないのか、持つのか、持たないのか、従うのか、従わないのかなど、数々の状況の中で、皆さんにはまさに自由意志があるので、自分が望むものを選んで生きていくことになります。もちろん、とても幼い子供たちはまだ自分の自由意志を勝手に使えるわけではなく、少なくとも6歳くらいを越えてこそ、自分の意志の中で善と悪を選ぶことができるようになります。それで、救いもこのくらいの時から自らの信仰の選択によって決まるのです。
このような自由意志は、皆さんが心をどれほど真理で霊として働かせたかに応じて、霊の働きとして出てくることもあり、逆にどれだけ非真理と肉があるかによって、魂の働きとして出てくることもあります。だから、非真理と肉の多い人は、いくら自由意志の中で霊を選ぼうとしても、敵である悪魔サタンが主管する魂の働きによって、結局は罪の奴隷の役割をするようになります。しかし、心を完全に霊で満たした人は、霊の働きによって、すべてのことにおいて、父なる神様の御心に100%合わせることができます。
自由意志の中で、神様の御心に完全に従う真の子どもを望んで人間耕作を始められた神様は、ノアの洪水以後から、人の根本の肉の属性まで現れる環境の中で、本格的な人間耕作を始められました。洪水以前は、まるで温室で花を栽培するのと同じでしたが、これからは温室の外に出て、完全に世の中と接する環境の中で花を栽培するようになったのです。このように、人の根本に内在していた肉の属性が明らかになり始めると、義人と呼ばれていたノアにさえも、洪水以前には発見できなかった悪の形が現れ始めました。
人々は、気を通して先祖から伝わる肉の属性が積み上げられ、以前よりもさらに急速に悪に染まりました。創世記9章にはノアの息子ハムが父の過ちを兄弟たちに伝えると、その声を聞いてノアがその息子を呪ってしまうのを見ることができます。このような状況を知っておられるので、父なる神様は、創世記8:21に「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」とおっしゃったのです。
根本の肉の属性が明らかになった地
ノアの洪水以後、光が収められて根本の肉の属性があらわれたのは、人にだけ該当するものではありませんでした。人々が生きていくこの地も光が取り込まれて、根本の肉の属性を持つ完全な肉の空間に戻ることになりました。それで、自然のすべてが根本の肉の法則に従って運行されているので、22節に「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」とおっしゃったのです。
最初の人アダムが罪を犯してこの地に追い出されてから、この地は人によって呪われ、初めの神様が取り囲まれた光が多く取り込まれ、以前とは違う肉の法則が適用され始めました。創世記3:17後半または19節に、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と言われた通りです。
しかし、ノアの洪水以前までは、それでも神様が囲んでくださった光がすべて取り込められたわけではないので、この地が完全な肉の法則が適用される空間ではありませんでした。しかし、光が完全に取り込められた後からは、現在のような肉の空間になるので、以前とはまた違う肉の法則が生じたのです。光が残っている間は、神様の力でこの地は人が生きていくのに最も適した環境として維持されましたが、完全な肉の法則が適用されてからは、寒さと暑さ、夏と冬が明確に現れるようになり、地域によっても肥沃なところと痩せたところ、平和で美しいところとそうでないところがあらわれるようになりました。地が持っている根本の肉の属性に従うことになったのです。
例えば、根本の土地の土質がやせているところでも、以前は光の能力によって現れなかったのが、光が取り込められるにつれて、根本的な土質が明らかになり、徐々にやせた土地に変わっていったということです。人も根本にあった肉の属性が出てくるので、次第に悪に染まっていくのと同じことです。特に現在の中東の土地は、人間耕作の始まりとともに悪がひどく満ちたため、洪水の審判の原因となったところであり、罪悪による呪いのため、他の土地よりも肥沃でない厳しい環境の中に置かれたことがわかります。かつてはアダムが初めて定住した場所であり、多くの人々が集まって暮らすほど、肥沃で豊かに見えた土地でしたが、神様の恵みが去り、呪いが臨むと、根本の属性が明らかになって呪いを受けた土地になってしまったのです。
洪水以後、ノアと彼の家族は新しい人生を始め、心の中では「これからは神様が望むように行っていきます」と決心しましたが、完全に肉の空間に戻り、根本の肉の属性が明らかになり始めた土地で生きていくので、決心したこととは異なり、むしろ次第に悪に突き進んでいきます。ですからこういう環境の中で数千年が過ぎた今日、根本に内在した肉の属性を取り除き、聖潔にされて霊に入ってくるということは、簡単にできることではありません。
ですから、父なる神様はこのような世でも悪を脱いで変化し、霊に入った人をとても喜ばれるのです。このような人には、たとえ肉の空間にいるにもかかわらず、霊の空間で行うことが出来る能力を与えてくれるのですが、これがまさに御力です。つまり、心を霊に耕した人は、肉の空間でも霊の空間の働きができるのです。この時、霊の空間の働きとは、肉の空間では不可能なこと、ただ肉の空間と法則を超越する神の力だけで出来ることです。
皆さんは、この教会を通して、このような霊の空間の出来事をこれまで数えきれないほど見てきました。不思議な虹、雲が現れ消えること、星の移動などをはじめとしたしるしと、見えない人の目を開け、聞こえない人が言葉を聞き、耳が聞こえ、動けない体が起きあがるなど、計り知れないしるしがまさにその証拠でしょう。そして今は皆さんの中でも心を霊に耕した方々を通して、霊の空間のはたらきが起きています。
たとえ自らはまだ完全ではないとしても、この教会にはすでに霊の空間の出来事が起こり得る道が開かれているので、その道を知って出てくる方々には同じ働きが現れているのです。これらの働きが皆さんにも信仰になって、迅速に肉を脱いで霊に入り、これ以上肉の空間に縛られているのではなく、一次元高い霊の空間に属して肉を支配して治める者になることを主の御名によって祈ります。
朝の学び75 創世記8章
創世記8:20-22
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
心が善な人々
アダムの犯罪以後、子孫には気を通して先祖から伝わる肉の属性が積み上げられ、ノアの洪水後にさらに急速になりました。ところが、気を通して人の本性の深いところに内在する肉の属性は、容易に発見して捨てることが出来るものではありません。それを発見してしまうためには厳しい訓練が必要な場合があります。例えば、自分自身について「もうある程度悪の形を捨てた」と思っていた方々の中にも、父なる神様が訓練を許されれば、自分も知らなかった心の深いところにある悪の形があらわれる場合があります。
ヨブの場合がまさにそうでした。神様がヨブに試みを許されると、その訓練を通して心の深いところに潜在していた肉の属性が、膨大な悪の形にまでなって出てくるのを見ることができます。だからヨブにこのような訓練がなかったならば、ヨブ自身は決して自分の中にある根本的な肉の属性を発見して捨てることができなかったでしょう。
このように訓練がすぐには大変で心の痛みも伴いますが、その訓練の時こそ自分の深い心の中まで解剖し、気の中にある肉の属性を発見して捨てることができる祝福の機会だという事です。訓練を通して気の中にある肉の属性まで発見して捨ててしまうと、その後与えられる祝福は素晴らしいものだからです。
またこのような訓練がある時だけ、訓練の中から出てくる自分の姿を見て、「まだ私の中にこのような悪の形が残っている」と自らを発見するだけでなく、その悪がどれほど汚れて醜いかを心の中心で感じて悟ることができるのです。訓練を通して、悪の形を神様がどれほど嫌がっているのかをまさに悟られなければ、その悪の形を脱いで聖潔になることができないのです。ですから父なる神様は、訓練を受けることができる器である人には、自分の本性の中の悪まで発見することができる訓練を許されるのです。
ダビデ王もそうでした。ダビデ王は自分の部下であるウリアの妻を身ごもらせ、その事実を隠そうとし、結局は忠実な部下であるウリアを異邦人の手によって死なせる、途方もない悪まで行なうようになります。ところがもし父なる神様が、ダビデ王がウリアの妻バテシェバを身ごもらせることを最初から阻止されたなら、ダビデ王がそのように大きな悪まで行なうことはなかったでしょう。しかし、父なる神はダビデ王の行動を妨げませんでした。まさにその事件を通して、ダビデ王が徹底的に自分を発見し、変化し、より完全な姿に出てくることが分かっていたからです。
しかし重要なのは、まさに訓練を受ける人の姿です。ダビデ王は神がナタン預言者を通して彼の罪を指摘すると、すぐにその場で悔い改め、立ち返りました。そして、自分が行った悪のために、後に自分にやって来たすべての報いまでも喜んで感謝の気持ちで受けました。自分に与えられた報いを避けようとせず、一度も文句を言ったり、不満を吐露したこともありません。
一方、ヨブの場合はどうでしたか?友達が訪れて自分の姿を指摘すると、自分を発見して悔い改めるよりは、友達と弁論して悪を発しました。もちろん、後には神様が親しくヨブを悟らせてくださると、その場で悔い改めて立ち返りましたが、それまではあまりにも多くの言葉を発して悪を行ったのです。結果的にはダビデ王とヨブの両方が訓練を通して自分を発見して変化し、神様の祝福の中に至りましたが、訓練を受ける姿はこのように互いに異なっていたのです。
ダビデは指摘を受けるとその場で悔い改め、ヨブは友人たちが指摘をしても弁論だけをして、神様ご自身の親しい声を聞いたときになって、ようやく目が覚めたのです。自分に与えられた訓練と自分の悪のために受けた報いまでも感謝の気持ちで受けたダビデ王は、今天国の序列の非常に尊い場所に至りましたが、そうではなかったヨブは、ダビデ王とは比較できない位置にあるという事実です。
これがまさに心の地の違いです。もし神様がダビデ王にヨブのような訓練を許されたとしても、ダビデ王は決してヨブのように話したり行動したりしなかったでしょう。ダビデ王もヨブも神様が過酷な訓練であっても許されるような器でしたが、その心においてはこのように差があったのです。このように心の地も良く、従順であり、御言葉どおり守って行なう人であっても、その心がどれほど善良なのかによって、神様から愛と認められる程度が変わるという事です。
ノアもこのような観点から見ると、彼が天国の高い序列に上がった人々とは、その心の地が違うことがわかります。本格的な人間耕作とともに、ノアからも本性の中に内在していた肉の属性が明らかになりますが、これを物語っている代表的な事件が創世記9章で、自分の過ちを現した息子ハムのことを呪う場面です。葡萄酒に酔って裸で自分の恥をさらす行動を見せただけでなく、このような自分のあやまちをあらわにした息子まで呪ってしまう、悪い姿が出ています。
しかし、もしアブラハムや預言者モーセがそのような状況になったとしたら、果たして彼らは自分の息子をノアのように呪いましたか?そうではありませんでした。これがまさに心がどれほど善いかどうかかの違いであり、ノアの心がアブラハムや預言者モーセに続くことはできないのです。
預言者エリヤと彼の弟子であった預言者エリシャを見ても、その2人の心がどれほど違うのかがわかります。預言者エリシャは師であるエリヤから二倍の霊の分け前を受け、また聖書を見れば驚くべきしるしをたくさん行ったにもかかわらず、天国でのその位置が預言者エリヤとは比較になりません。その理由が分かる事件が列王記第二2章に出ています。
ベテルに上っていた預言者エリシャに向かって小さい子どもたちが集まってきて、「上って来い、はげ頭、上って来い、はげ頭。」とからかいます。するとエリシャがこれに我慢できず、子供たちに向かって呪いをかけると、森の中から二頭の雌熊が出てきて、子供たちの中で四十二人をかき裂きました。
ところで、この瞬間に預言者エリヤがその場にいたとしたら、果たしてエリヤもそのようにしたでしょうか?決してそうではなかったでしょう。エリシャと師であるエリヤの心の善の違いが分かるのです。エリシャも大きな権能を行って、神様の道具として使われた人でしたが、彼がそうすることができたのには、まさに師のエリヤを通して神様が下された恵みが大きかったという事です。
神様は各人の心を見て、その心が善良な人をもっと喜ばれます。ところが、このような善良な心はある程度、生まれつきの傾向もありますが、まさに心を変化させてくださる神様を信じて、神様の御心の中で行っていく時、善良な心に変化することができます。もちろん、心というものが変化することは容易ではないので、心を変化させるためには、神様が許される厳しい訓練の中でも、訓練に耐え抜く変わらない心を持たなければなりません。そして、このような変わらない心が積み重ねられながら、その心の中心が善に変化できるという事を知らなければなりません。
しかし、皆さんが一つ知っておくべきことは、自分自身が早く良い心に変化するためには、厳しい訓練をも受けなければならないということです。だから誰でも訓練が許されるわけではないということです。先ほど申し上げたように、訓練とは神様が受ける人の器を見て、それに合わせて許されます。本当に神様が大きく使われる器には、時が来れば神様が許される訓練が訪れます。それで、それぞれの器と信仰の分量に合わせて許される訓練の過程を通して、御父の神様が喜ばれる善い心に変化されますように願います。
結論
皆さん、ノアと彼の家族は新しい世界で新しい人生を始め、心に多くの誓いをしたはずです。なぜ洪水の裁きがきて、その結果が何であったのかをあまりにもよく知っている彼らであったので、自分たちが今後どのように神様の御心の中で生きるべきかを誓ったのです。
ところが、いざ完全に肉の空間になってしまったこの世の中で実際に生きていくようになると、最初の思い通りのようにはいきませんでした。根本の悪が明らかになり、それが様々の悪の形で現れ、人々は速いスピードで悪に染まっていったのです。このように心の中にある悪というのは、心に誓うからといって簡単に捨てられるわけではありません。ただ神様の真理に照らして、自分を徹底的に発見して、自分を否定して捨てて行かなければなりません。
そのため訓練が必要なのであり、訓練を通して自分の義が砕かれていき、心の中に潜在した細かい悪の形までも発見してしまうことができるのです。しかし訓練を受けていく時に、必ず必要なのが祈りです。訓練の中でも休まないで祈る時、自分を発見することができ、発見された悪の形を捨てる力も与えられます。
ですから、みなさんはみことばと祈りでどんな訓練でもすばやく通過し、純金のような信仰を持った霊的な勇士たちになって出てきますように。それで終わりの時に、神様の国のために大きく用いられる貴い神様の道具になるだけでなく、将来天国でも太陽のように輝く席に多くの方々が至るようになることを主の御名でお祈りいたします。
朝の学び74 創世記8章
創世記8:20-22
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
全焼のいけにえの霊的な意味
ノアが箱舟から出た後、最初にしたことは、神の前に祭壇を築き、全焼のいけにえを捧げることでした。家畜を取って全焼のいけにえとしてささげるということは、私たちの命そのものを神様に捧げるという意味であり、神様が私たちに命じられたすべての戒めを守ることを意味します。すなわち、神様のみことばを完全に守り行い、聖潔で神聖に生きて、私たちのすべての人生を神様の前にささげることが、全焼のいけにえの霊的な意味です。ノアが捧げた全焼のいけにえには、このような霊的な意味がそのまま込められていました。
ノアは箱舟から出て、新しい世界に最初の足を踏み出しながら、自分の命を救ってくださった神様に心から感謝しました。そして今、自分の命は完全に神様のものであることを告白する霊的な意味を込めて、全焼のいけにえを捧げたのです。また、万物に対する神様の主権と、今後のすべての人生を神様に任せるという意味が込められていました。
すなわち、これからの生活の中で、ただ神様の御言葉の中に生き、神様の御心を受け入れていくということです。又これと共に、後の日に子どもたちのすべてまでも神様の前に任せるということが含まれていました。このように、ノアが捧げた最初の全焼のいけにえの中には、様々な霊的な意味が込められていました。
洪水以後、ノアの最初の全焼のいけにえと告白
ノアが洪水の前に捧げた全焼のいけにえと、洪水の後に捧げた全焼のいけにえとは大きく異なる点があります。それはまさに神とノアの関係性です。以前、ノアが神様にささげた告白を紹介したことがありますが、その時、ノアは神様を「父」と呼びました。しかし、洪水が終わった後からは、神様を「ヤーウェ神様」と呼ぶようになりました。洪水以後の光が収められ、この地が徹底的に肉の空間になるにつれて、人間と神様との関係も新しい関係で確立されたのです。
以前は神様を父として接しいつも交わり、すべてを細かく伝えながら答えられましたが、洪水の後からはこのような交わりが制限されます。努力して苦労して汗を流して祈る時であってこそ交りが行われ、神様の特別な御心がある時だけ交わりが成されるようになりました。人間と神様との間に神様が畏敬の対象であり、仕えの対象であり、主権者として接することになる垂直的な関係が形成されたからです。それで、ノアの洪水以後、神様の前に最初の全焼のいけにえをささげたときの告白は、以前の告白とは大きく異なっていたことがわかります。
「神様が私たちすべての命を救い、救われたことに感謝します。今、新しい地と新しい世界が広がっています。わたしたちの命を生かし、救われ、新たにこの世界を造っていかれる神様に、このように全焼のいけにえをお捧げします。私たちの命を救い、私たちの家族を救い、このように新たに始めていただきまことにありがとうございます。」
ノアは徹底的に神の主権の前に自分を低くして、神様が施してくださった全面的な救いの恩恵に感謝を表現しています。もはや父親と子どもとしての関係というよりは、主権者と被造物としての関係が感じられます。このような神様との関係性の再確立と共に、人間に現れた大きな変化は、まさに本性の中に内在していた肉の属性が現れ始めたことです。
ノアの洪水以後、明らかになった根本の肉の属性
ノアが義人であり、当世に完全な者だと言っても、それは神様が囲まれた光の中に住んでいた時の姿でした。ノアを義人と言ったのも、父なる神様の側から見るときには、ノアが完全に義人の資格を備えているのではなく、ノアの時代の水準では義人であることであり、当世に完全な者と言われたのも同様です。神様の基準から見て絶対的に完全な者という意味ではなく、全て罪悪でつかさどられた当時の状況の中で見ると、相対的に完全な者と考えられたということです。
しかし、当時としてはノアほど神様の前にその心を合わせた人はおらず、結局、神様はノアを選んで新しい人間耕作の始まりを導いていくことになります。そして、人の心の中に潜在した根本の肉の属性まで開墾していく本格的な人間耕作が始まると、ノアからも洪水以前には見られなかった悪の形が一つ一つ明らかになります。
心に訓練を受けて霊に変化したものは、どんな肉の環境が与えられたとしてもまた変わりません。しかし、ノアはまだ心の奥底まで訓練を受ける本格的な耕作を受けて、霊が育てられたわけではないため、新しい肉の環境に置かれることになると、本性の中に内在していた肉の属性が出てきたのです。
まるで温室の中で育てた花や草が温室の中ではよく成長しますが、温室の外に出すと新しい環境にうまく適応できず、色々な問題が現れることと同じだと言えます。このようにノアの洪水以前に光で囲まれていた世界とノアの洪水以後、光が取り込まれた世界とは全く違うという事です。
創世記8章21-22節です。
「主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。』」
今後人間耕作が終わる瞬間まで、再びノアの洪水のような審判としてこの土地を呪うことはしないという言葉です。神様がこの地を呪われ、水で裁かれた理由は、まさに人間の悪のためでしたが、実は洪水後からは人間の悪が以前よりはるかに増すことになります。神様が「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」とおっしゃったのも、まさに神様は、今後人々がどのようになるのかをご存知だからおっしゃったことです。
神が「初めから悪である」と言われた理由は、光が取り込まれると、それだけ人々が悪に染まりやすくなり、ここに祖先から気を通して伝わる悪が積もり、歳月が経つにつれて人々はさらに悪くなることを教えてくださるのです。また、人々が迅速に悪に突き進んでいくという意味も込められています。それだけ幼い時から悪に染まっていくという意味です。だから、この地は歳月があまりたたないうちに、むしろノアの当時よりも悪が染まっていくしかありませんでした。
父なる神様もまさにこれらの事実を当然知っておられるので、たとえ人々がノアの当時のように悪くなるとして、それによってこの地を再び呪い、裁きをしないようにするという意味で、「わたしは決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」とおっしゃったのです。もし人々が再び悪になるとして、神様がノアの洪水のような審判をまた再び下すなら、この地は継続して審判と新しい人間耕作が繰り返されるしかないでしょう。
しかし、ノアの洪水の審判は、人間の耕作の摂理の中で一度の出来事として計画されたものであり、その後の最後の審判まで、ノアの審判のような呪いはもはやありません。創世以来、すべての人類を審判する最後の審判だけが残っています。
だからといって、人によってこの地が呪われる事が全くないわけではありません。この地全体が呪いを受けることはありませんが、神様が見る時、人々の罪悪が公義の限界線を越えた場合には、それにふさわしい代価を払わせます。例えば、今日世界的に見て、国家や地域的に偶像崇拝が激しくそのうちの重い所は呪いの地になっていくことがわかります。
目に見える肉的な呪いももちろんですが、目に見えない霊的な呪いによって、邪悪な霊の巣窟に転落していくことが見られます。かつては、神様を愛して、国が繁栄して旺盛だった国々が、今はますます神様を遠ざけていくことで、それと共に国々も疲弊し、悪に染まり難しくなっていくのを見ることになります。
神様はノアの洪水という大審判を通して神様を離れて罪悪の中に暮らすことがどんな結果をもたらすのかという事を十分に悟らせてくださいました。それでも人々はノアの洪水が与える教訓を忘れたまま急速に悪に染まっていき、今日のような状況に至ったのです。それで、神はノアの洪水後も時を追って預言者たちを立て、彼らを通して父の御心を宣言されました。心が善良な人々を選んで、預言者として、使徒として立て、彼らを通して人間耕作の最後の瞬間まで、父なる神様の摂理を成し遂げていくのです。
朝の学び73 創世記8章
創世記8:13-20
ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
ノアの洪水で光が取り込まれた後の姿
箱舟から出てきたノアと彼の家族たちには、今やまったく新しい世界が繰り広げられるようになります。肉的な環境が変わったのはもちろん、光が取り囲まれていた時とは多くのことが変わりました。このような新しい世に出てきたノアは、最初に父なる神様の前に祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげます。この瞬間、ノアの心にはどれほど恵みと感謝があふれていたでしょうか?
洪水の審判があることを知った時から箱舟を準備していた長い時間、箱舟の中で生活していた時間、その時間の中にあった数多くの事がらが走馬灯のように過ぎさり、ノアと彼の家族は自分たちを救われた神様、自分たちを通して新しい人間耕作を繰り広げられる神様に、心から湧き出る感謝の祭壇を築いたのです。
しかし一方では哀痛の気持ちもありました。箱舟に入る時は、数多くの人々でにぎわっていた土地でしたが、今や箱舟から出てみると、自分や家族以外には誰もいません。洪水の審判がどんなものだったのかが実感する瞬間です。洪水の中に絶叫して死んでいった数多くの人々の姿が通り過ぎて、ノアの心がどれほど痛かったでしょうか?
「私がそのように審判があると叫んだとき、彼らが私の言葉に耳を傾けていたら…」 「私がもっと熱心に彼らに伝えたら…」 と言うことです。しかし、私と皆さんには、このような後悔があってはなりません。
やがて、私たちの主が私たちを迎えに来られたときにこの地に残された人々を見ながら、私たちもノアのような後悔と哀悼をしてはならないということです。ですから、その時が来る前に、私たちは地の果てまで、まだ主の福音を聞いていない魂たちに熱心に聖めの福音を伝えなければなりません。
ところがノアに押し寄せるもう一つの心はまさに寂寞(せきばく)でした。今、光が取り込められた世界の中で、一人残されたようなところから来る寂寞さでした。これはアダムの場合を考えてみるとわかります。アダムが罪を犯し、第二の天から追い出され、第一の天に降りてきたとき、すべてが見慣れないもので、第二の天とは光もまったく違う第一の天の人生がどれほど寂しくて寂寞としていたでしょうか。それでいつも第二の天に憧れて生きるしかなかったのです。
もちろん、ノアの場合はアダムのように罪を犯して呪われたわけではありませんが、それでも光が取り込められた後のこの世界は、前とはあまりにも感じが違いました。これにより来る静けさと恐怖が心の片隅にあるしかなかったのです。このようなノアには洪水がある前よりも神様の恵みがもっと必要でした。ですから、光が取り込められた後でしたが、父なる神様はノアとの交わりを完全に断ったのではなく、時に応じて恵みを与えて、神様の御心を教えてくださいました。
アダムが罪を犯し、第二の天から追い出され、第一の天に降りてきた時も、随時アダムと交わりをしてくださり、父の御心を教えてくださって導いていったようにです。それにもかかわらず、アダムは肉の空間に出てきた後、次第に肉に変質することができる属性が現れるようになります。肉の空間に出て耕作を受け始めると、心の中にあった様々な肉の属性が現れ始めたのです。しかし、洪水が起こるまでは、それでも根本的な肉の属性が明らかになったわけではありません。ノアと彼の家族が箱舟から出てきてから、根本に内在していた肉の属性が現れ始め、この時から本格的な人間耕作が始まったのです。
そしてその時代の義人と称されたノアでしたが、このように根本の肉の属性が出始めると、以前に発見できなかった姿が一つ一つあきらかに現れ始めます。次第に肉に変質していったという意味です。彼がどのように変質したのかは今後、第9章で説明されますが、ここで私たちは何故ノアがその時代の義人であるのかその理由を悟ることができます。
光で囲まれた状態で耕作されたノアの姿は完全に見えたが、いざ光が取り込まれた肉の空間で試練が与えられると、根本の中にあった肉の属性が発見されたのです。ノアはこれらの根本にある内在した属性までは、この地で完全に捨てることができずに人生を終えたので、彼がやり遂げた使命と立場に比べて天国での序列がそれほど高くなかったのです。ここで、なぜ人間耕作が必要であり、試練 訓練がなぜ必要なのかを理解することができます。
エデンの園でのアダムの姿が彼の真の姿ではなかったかのように、光で囲まれている間のノアの姿も彼の真の姿ではなかったでしょう。依然として、根本の中には変質しうる肉の属性を持っているまま、ただ光の能力の中でそれが押しこめられていただけでした。このような根本的な肉の属性を引き出し、変わらない霊に変えるために、まさに人間耕作が必要であり、その過程には必ず試練がなければなりません。
ヨブも神がなぜ試練を許されましたか。彼の根本の中にある肉の姿まで引き出し、彼を完全に霊に変化させようと許されたのです。ヨブ記 1:1 に、「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と言われたヨブも、神様が訓練を許されると、根本の中に内在していた悪の形がどれほど明らかになるかを見ることができます。
もしヨブに父なる神様が試練を許されなかったならば、ヨブはどうなりましたか。自らはいくら完全だと思っても、根本に潜在する悪を発見できないので、結局聖潔に至ることができなかったでしょう。ですから、ヨブが自分自身を発見し、破り、変化することができるように試練を許されることが、父なる神様の愛であり、人間耕作の真の意味であるという事です。ですから皆さんも完全に聖められ、神様の姿を回復するまでは絶え間ない試練が許されるのです。もちろん、聖められた後も試練はありますが、それは罪を発見して捨てるための訓練とは次元が異なります。次回は、ノアの姿を通して試練がなぜ必要であるのかを見てみましょう。
結論
皆さん前述のとおり、ノアは当代の義人であり、人間耕作の歴史においてとても重要な役割を果たした人物です。神様の御心に完全に従順だった人であり、自分に任された使命も忠実に果たした人です。それにもかかわらず、彼が天国でそれほど高い序列に至らなかった理由は、まさに根本の中に内在していた悪のためだと言いました。以前は知らずに過ごしていた悪の姿が新しい人間耕作と共に発見されたのですが、ノアはそれを完全に脱することが出来なかったのです。
これは今日も同様に当てはまります。いくら神様の前に使命に耐え、忠実な働き人であっても、また頭になっていて重要な職責を務めているとしても、それで天国の位置が決まるわけではありません。試練を通して自分を発見して変化するので、その心にどれくらい主の心を成し遂げたのか、どれくらい父なる神様が望む真理の心を成し遂げたかによって、天国での位置は決まるという事です。
天国で24名の長老に入る方々を見ると、聖書上で彼らがどれほど重要な役職を務め、どれくらい大きな役割を果たしたのかによって決まるのではありません。たとえ執事だとしても、聖書上にしばらく記録された人だとしても、その心と行いが神様の前に認められた人々です。これらの事実を悟り、試練を通して素早く自分を発見し、霊に全き霊に変わりますように。
それが祝福であり、天国でも永遠の栄光になるのです。そして、急速な霊の波の中で「私は毎日が死の連続です」という使徒パウロの告白のように、毎日自分を発見し、主を見習う賢い聖徒になりますように主の御名でお祈りします。
朝の学び72 創世記8章
創世記8:13-20
ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
公義の中で働かれる神様
ノアの洪水が止まって水が渇いて、水が完全に引いて乾燥するまでのすべてのことも肉の秩序と法則に従ったことを見ることができます。神様の力で瞬間に水が消えて地が乾いたのではなく、肉の法則によって水が蒸発して乾くには風も必要であり、十分な時間もかかったのです。洪水とともに光が取り込められ、この地には肉の根本的な属性が現れ、これと共に肉の秩序と法則も生まれるようになりますが、父なる神様はまさにこのような肉の秩序と法則を自らも尊重して従ったのです。
神様は、万物の主菅者として望めば何でもできるのにもかかわらず、真の子どもを得るための人間耕作を成し遂げるために、このように自らも公義の中で肉の秩序と法則に従っておられるのです。これは今日も同じです。もし父なる神様が肉の秩序と法則を無視され、無限の権威と力を存分に現わしているなら、今日神様を信じない人はおそらくほとんどいないでしょう。
例えば、自然の法則を破って、しばしば天気を主管していかれたり、初めに地球を創造する時のような創造のみわざを、今でも世界中のあちこちに現わしているとしたら、今日、神様を信じない人はおそらくほとんどいないでしょう。神様の力の前に恐れても信じるでしょう。しかし、神様は肉の空間の中では、自ら肉の秩序と法則に従われるので、そのように肉の秩序と法則に反することは行われないのです。
確かな公義の中で働かれる神様の力
それでは、聖書に肉の秩序と法則にはずれる奇跡としるしが何度も現れたのはなぜでしょうか。例えば、空から火が降ってきたり、風と波が一瞬にして静まり、死んだ者が生き返るなどのことが出てくるのですが、これを通して人々が神様を信じて認めるようになりました。
それでは、これらのことは神の力を示し、人々が主を信じて救いに至るようにするために神が肉の秩序と法則を破ったのでしょうか。そうではありません。これは公義に反するものでもなく、肉の秩序と法則を破ったものでもありません。
神様の力は正確な公義の中で働かれます。例えば、神様が天に火で文字を刻んだり、何人かに直接現れ人々に神様を信じさせるならば、これに対しては敵である悪魔・サタンも訴えることが出来ます。「公義に反する」と言います。そうして、神様を信じない人がどこにいるのかと問い詰めることになるということです。
しかし、公義の中でふさわしい資格を持つ人が神様の力を示すことについては、敵である悪魔・サタンも訴えることができません。そしてこの時、神様の力が肉の法則と秩序の限界を越えても、これは公義からはずれるものではありません。このように肉の空間の中では肉の秩序と法則に従うことになりますが、時には肉の空間の中でも肉の秩序と法則とは例外的なことが起こる場合があります。これは、肉の秩序と法則を破ったものではなく、その瞬間だけは、霊の空間での秩序と法則が適用されるからです。
たとえを見てみましょう。今日、世界の国々は、相互に外交関係を結び、相手国に外交官を派遣することになります。ところが、これらの外交官が居住する大使館や領事館は国内法の適用を受けません。大使館と領事館内の空間については、その国の領土として認めてくれるからです。そのため、もし我が国の法に違反する人が他の国の大使館や領事館の中に入ると、我が国の法に基づき任意に入ってその人を逮捕できるわけではありません。我が国の領土の中にありながらも、法の適用はその国の法と原則に従うことになります。このように、たとえ肉の空間の中にあっても、肉の秩序と法則に例外があるかもしれないということでしょう。
それがまさに神の力の働きであるという事です。
したがって、肉の空間の中でも、霊の空間のように霊の秩序と法則によって、肉では想像できないことが起こります。肉の秩序と法則にはずれて見えますが、その瞬間だけは肉の空間ではなく霊の空間の法則として働かれるからです。例えば、イエス様が命じられた瞬間に風と波が静まったのは、風と波が肉の法則に従ったのではなく、その瞬間だけは霊の空間の霊の流れに従順したからです。たとえ肉の空間であっても、肉の法則と秩序に適用されない霊の空間が形成され、このような御力のみわざが起こるのです。他国の大使館が我が国の領土内にあるにもかかわらず、我が国の法律に適用されないかのようです。
肉の空間の中でも霊の空間の適用を受けることになると、肉の秩序と法則を超越する現象が起こることができるのです。そしてこれは公義に反するものでも肉の秩序と法則を破るのでもありません。しかし、誰もがこれらのことを現わすことが出来るわけではありません。肉の空間にありながらも、霊の空間で起こることができることを示すためには、そのような資格条件を備えなければなりません。
ノアの完全な従順
このように、父なる神様は、自分が作られた秩序と法則であってもそれを尊重し、その中で行う方であるので、すべてのことは正確な公義の中で成し遂げられます。したがって、父なる神様の公義によって、肉の空間で霊の空間の働きが現れるためには、人の方での従順が必ず必要です。ノアを通して新たに人間耕作が始まることができたのも、まさにノアの従順があったからです。ノアが父なる神の言葉にどれ一つも従わなかった場合、洪水の裁きの後の新しい人間耕作は始まりにくかったでしょう。
今日の本文を見ると、ノアがどれほど神の御言葉に完全に従順であったかがわかります。ノアは六百一年の正月すぐにその月の日に地面に水が引いたからといって、すぐに箱舟の扉を開けて外に出たわけではありません。父なる神様が「もう出なさい」と言われるまでは、依然としてまだ箱舟の中にとどまっていました。私たちはここで完全な従順が何かをもう一度考えてみなければなりません。
ノアと彼の家族は一年近く箱舟の中で生活し、一日も休めないまま動物たちの世話をしなければなりませんでした。一日でも早くその生活から抜け出したいのが人の当たり前の心でしょう。また箱舟という限られた空間の中で生活してみると、当然広くて涼しい外の世界が恋しくなるでしょう。だからノアと彼の家族は、「洪水が終わって地が乾いたら、一日でも早く外に出なければならない」という考えをいくらでも抱くことができます。
ところが、ノアと彼の家族は、水が引いたことを確認しても、任意に出たのではなく、最後まで神様のみことばを待っていたという事です。ノアは最後まで神様の御心を察し、神様の御心に従いました。
では、今日の皆さんの姿はどうですか?
皆さんもいつも父なる神様の御心を察しながら、その御心に最後まで従い続けていますか? 最初はいくら従順だったとしても、途中で変化したり、最後の瞬間にでも変化していれば、これは完全な従順にはなりません。結果は不従順になります。
例えば、今年は教会の方針が前半期には祈り、伝道、使命に力を入れ、一切教育や行事を行わないということでした。ところが6月29日まではよくやっても、もし6月30日にある組織で行事を持っていたら、これまでどんなに頑張っていても、結果は不従順になってしまうということです。
これは一例ですが、教会の中で見ると、時間が経つにつれて最初に指示されたことから変質することがあちこちにあります。指摘してあげればすぐには直すようであっても、少し時間が過ぎるとまた再び以前の姿に戻る場合があります。そして従順についてもう一つ悟らなければならないことは、本人の側ではいくら従うとしても、それが神様の御心と合わなければ不従順になってしまうという事です。
前の時間に説明をしましたが、ノアは水が減ったかどうかを知るために鳥を飛ばしたとき、カラスは水が地面に乾くまで行き来したにもかかわらず、結局ノアが望む答えを持ってくることが出来なかったでしょう。カラスは熱心に外の世界と箱舟の間を行きましたが、いざノアが望む心に合わせられなかったのです。
しかし、ピレモン1:21に、「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。」と言われたように、神様があなたの従順を信頼でき、皆様も父なる神様のおっしゃった以上をやり遂げられる忠実な主の働き人にならなければなりません。
朝の学び71 創世記8章
[創世記8:6–14]
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」
信仰には行いが伴う
ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を放ったということから、いくつかの教訓を得ることができると言いました。その第一は、信仰には行いが伴うということでした。ノアは、大洪水のさばきの前、神のことばに完全に聞き従っていたのがわかりました。ただ、その時の従順は、神がすべてを備えてくださった状況の中で、そのまま聞き従う次元でした。たとえば、箱舟をどう造るかもいちいち具体的に教えてくださったのです。また、動物を箱舟に乗せることも、神ご自身が働いてくださいました。
ところが、大洪水のさばきの後からは、人間耕作が新たに始まります。それで、神は大洪水が終わるところで、ノアが自分から進んで「行い」を見せることができるように導いておらます。これからは、ノアがそれぞれの状況に合わせて、自分か行うべきことを心に働きかけられて行うことで、神のみこころを実現するように導かれるのです。
エジプトから出て来たイスラエルの民も、葦の海は全く神様の恵みで渡りましたが、カナンの地を前にしてヨルダン川を渡る時は、信仰の行いを見せなければなりませんでした。神は民の信仰が成長しただけ、それにふさわしい行いを見せるように導いていかれたのです。イエス様も御力を施されるとき、相手が最小限の信仰を見せるように導かれるのがわかります。
ヨハネ9章で、生まれつき目の見えない人を見えるようにするとき、そうされました。イエス様は泥を作り、その人の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。
こう言われたのは、イエス様がただおことばだけでは、その人の目をいやすことがおできにならないからでしょうか? シロアムの池に目が見えるようにする特効成分があるからでしょうか? そうではありません。その人がイエス様のおことばを信じて、そのとおりに聞き従う行いを見せるように、その道を提示してくださったのです。そうしてこそイエス様を救い主として信じられるし、永遠のいのちも得られるからです。
このように、皆さんは神の御前で当然すべきことを行うとき、または思いを働かせないで聞き従うとき、それを信仰と認められて神のみわざを体験できるのです。その過程を通して神に対する信仰が育ち、信仰の結果である救いに至るようになります。皆さんも、信仰が成長する過程で、以前ほど答えがそのつど直ちに来ないと感じられる時があるでしょう。このような場合の原因が、もちろん罪の壁にあることもあります。ところが、自分を顧みて罪の壁がないなら、それだけ神への信頼が強くなったのかをご覧になる過程かもしれません。
親が赤ちゃんを育てるとき、ひとりで歩けない時は、抱っこしておんぶしてあげます。しかし、子どもがもうひとりで歩くべき時になれば、しょっちゅう転んで痛くて泣いても、抱っこしてあげません。泣くのがかわいそうで、いつも親が抱っこしてあげるなら、その子はいつまでもひとりで歩けない子になるからです。
私たちの霊のお父様、神様も、このように私たちを育てられる時があります。ですから、皆さんが訓練を受けている間、まるでひとりでいるように感じられる時は、このことばを思い起こしてください。私たちに向けられた父なる神様の良きみこころと深い愛が悟れますように。それで、気を落としたり絶望しないで、もう一度立ち上がる力を振り絞りますように。
第二、大洪水以降は神と交わることがいっそう簡単でなくなった。
ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を使ったことから、私たちは、第二に、大洪水以降は神と交わることがいっそう簡単でなくなったことがわかります。ノアは大洪水の前までは、父なる神と明らかに交わりながら、多くを聞いて悟れました。ところが、大洪水が始まった後は、状況が変わりました。初めの光が、大洪水が始まると同時にこの地上から完全に取り込まれると、この地上では肉の気運がさらに強くなっていきました。
天地創造の第一日に、神が「光があれ。」と仰せられたとき、初めの光がこの地上を取り巻いたと言いました。ところが、アダムが罪を犯したことでエデンの園からこの地上に追い出されて来た時から、初めの光は取り込まれ始めました。この地上にいるすべての被造物も、その時から初めの光が取り込まれるほど、肉の根本の属性が現れ始めました。それでも初めの光のほうが強くて、神と交わることには支障はありませんでした。
しかし、大洪水の後は、初めの光がすっかり取り込まれたので、肉の根本の属性のほうが強くなったのです。それで、神と交わるためには、以前とは違って、より多くの努力と行いがなければならないのです。前は、神の恵みのうちに楽に交われたとすれば、今はそれだけ努力して切に求めてこそ霊の世界を突き抜けられるようになりました。
まして、罪と悪がさらにはびこったこの終わりの時はどうでしょうか。霊の世界を突き抜けて神と交わるためには、数えきれないほどの祈りと断食を積まなければならないのです。幸いなことに、今は旧約時代と違って、聖霊が神の子どもたちの心に住まわれています。ですから、聖徒の皆さんは絶えず御霊によって目を覚まして祈っていてください。聖霊の声を聞いて明らかに働きかけられて、霊的に真っ暗なこの世でいつも明るい光へと導かれますように。
カラスと鳩の2種類の鳥から得ることができる霊的な教訓
皆さん、ノアは水が引いたかどうかを知ろうとしたとき、烏と鳩を選んで使いました。[7節]を読むと、まず「烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。」とあります。烏は、このように水が地からかわききるまで飛び回っていたのに、ついにノアが望んでいる答えを持ってきませんでした。結果的に、烏はノアにとって何の役にも立てなかったのです。
ノアが望んでいる答えを持ってきた鳥は烏ではなく、鳩でした。ノアが鳥を箱舟の外に放った目的は何でしょうか?「水が引いて地がかわいて、自分たちが生きていける環境になった」という、うれしい知らせを得ることです。烏はその知らせを持ってきませんでしたが、鳩はノアが望んでいる知らせを持ってきました。ノアは烏でなく、鳩を通して箱舟の外の世界について知ろうとしたことを知ることができたのです。
皆さんは、神の国において、「烏」のような働き人でしょうか?「鳩」のような働き人でしょうか? 組織の秩序に従って何かを指示されたとき、自分がどうしたのか顧みますように。指示されただけのことをする人だったのか、指示されたこともしない人だったのか、そうでなければ指示されたこと以上をやり遂げる人だったのか。この三つの中で、目上の人の心に満足を与える人は、いったい誰でしょうか? 指示されたこと以上をやり遂げる人です。
これは、教会の中でだけでなく、世のどの組織でも同じです。皆さんが職場で認められて成功するためには、自分に任された役割以上をやり遂げなければなりません。ところで、会社勤めがつらいと言うほとんどの場合は、自分に任された役割さえまともに果たせないでいるのが見られます。ですから、能力が足りないなら、まめに努力して能力を育てなければなりません。これに心の器を広げなければなりません。
これは信仰にあっても同じです。父なる神様は、命じたことをそのとおりに聞き従うことはもちろん、それ以上をやり遂げる子どもをご覧になると、感動して愛の表現をしてくださるのです。[箴言25:13]に「忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。」とあります。皆さんが父なる神様の心を生き返らせるなら、皆さんが求めるものは何でも答えられるでしょう。
ところで、烏と鳩の行いが違っていたのには、心の器の違い、土質の違いもありました。同じ種類の種でも、どんな土質に蒔くかによって、実の味や性質が違ってくるのが見られます。このように、同じ「みことば」の種が人の心に落ちても、各人の心の地によって反応が違うのです。ちょうど蒔いた分だけ実を結ぶ人もいれば、平均以下の実を結んだりもします。反対に、三十倍、六十倍、百倍に実を結ぶ人もいます。これは各人の心の地によって違うし、また、同じ心の地でも、その大きさによって決定されるのです。
ですから、皆さんは心の地を良い地に、まめに耕しますように。これと同時に、自己的な義と枠を打ち砕いて、心の器を大きくしますように。それで、そのつど父なる神様が自分に望んでおられることが何かを知って、お心にぴったり合わせて行うなら、どれほど父なる神様のお心が生き返られるでしょうか。さらに進んで、それ以上もやり遂げるなら、父なる神様は感動して「わたしは何を与えようか」と言われるでしょう。このように、神様の前で忠実な使者のような皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
朝の学び70 創世記8章
[創世記8:6–14]
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」
ノアが水は引いたかどうかを知るために鳥を放った
大洪水のさばきの時、全地を覆っていた水はますます減り続け、水位が下がりました。ノアが600歳になった年の10月1日には、山々の頂が見えるほどになりました。ノアはその日からまた四十日経った後、水が引いた程度を知るために鳥を箱舟の外に放ちました。初めは一羽の烏を放ちました。ところが、その烏は水が地からかわききるまで、あちこちを飛び回っていました。烏はノアにとって結果的に何の役にも立たなかったのです。
それで、ノアは今回一羽の鳩を放ちました。その鳩は足を休める場所が見あたらなくて、舟に帰ってきました。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の中に入れました。これでノアはまだ地の面から水が完全に引いていないことがわかりました。
それから七日後、ノアは再び鳩を放ちました。鳩はその日夕方になって帰って来ましたが、くちばしに「オリーブの若葉」をくわえていました。オリーブの木から若葉が出るぐらいなら、水がほとんど引いたという証拠です。ノアはそれからなお七日経つと鳩を放ちましたが、今度は鳩も戻って来ませんでした。
ノアは箱舟で新年を迎えました。601歳になった年の1月1日になって、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、地の面はかわいていました。それでも箱舟から出なかったのです。神が何も仰せられなかったからです。やがて2月27日になると、地がかわききって、神はノアに箱舟から出なさいと仰せられました。皆さん、ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を放ったということから、私たちはいくつかの教訓を得ることができます。
第一、信仰には行いが伴うということです。
神は水が引いた程度をすべて知っておられます。それなのに、神はノアにそのつど教えてくださったのではありませんでした。ノアが自分から進んで鳥を使って水が引ききったのかを確認するようにされました。神は全知全能のお方なので、神を信じる人は神と交わることですべてを知ることもできるし、どんなことでもできます。
ところが、全き信仰を持つ人は自分が神に助けていただくために何を行うべきかを心に働きかけられます。人のほうで行うべきことは全くしなかったり、当然踏み行うべきことはしないで、「信じます」とだけ言うのではありません。「全き信仰」は「真心」に変えられた人に上から与えられるからです。
「真心」は父なる神が望んでおられる善、愛、真理で満たされた心です。公義を犯しながら、むやみに自分の利益ばかり求めることはないのです。善の心、真心に変えられた人は、自分が一つを答えられるために、公義に合わせて満たすべきことが何か知っています。それで、それにふさわしく、なすべきことはして、蒔くべきものは蒔きます。
父なる神が人間を耕作される理由は、このように真心に変えられた子どもを得るためです。そして、このように真心を持つ子どもたちに、上から「全き信仰」を与えてくださって、その信仰によって神の栄光を現すように望んでおられます。
ところで、もし、聖徒が真心に変えられていないのに、「信じます」とだけ言うとすべてが答えられるなら、どうなるでしょうか? これは、まるで子どもが当然すべきことをしていないのに、親がすべてを聞いてあげるようなものです。
たとえば、子どもが学校から宿題を出されて帰ってきました。宿題したくない、遊びたいと言います。すると親が代わりに宿題をしてあげて、学校にも代わりに行ってあげるでしょうか? 子どもがいくらつらくても、このようなことを代わりにしてあげる親はいないでしょう。子どもは当然自分がすべきことを自分でしてこそ、知識も積まれるし、実力も伸びるのです。社会で立派に一人前の働きをする人に成長できるのです。
もちろん、その過程で親は子どもを助けてあげることはあります。宿題をするとき、手伝ってあげることもあるし、励ましてあげることもあるでしょう。このように、子どもが宿題をするとき手伝うことと、はじめから代わりにしてあげることは、確かに違います。同じように、父なる神も信仰の子どもたちが困難にあったり、試練にあう時に、求める者に力を施してくださるのです。しかし、まったく困難も、試練も、訓練もやって来ないように、全部さえぎられるのではありません。困難を乗り越える過程を通して神の愛も感じられるし、訓練を通して真心に変えられるからです。
新たな人間耕作の始まりーノアの信仰の行い
本文のみことばは大洪水のさばきが終わる状況を示しています。これから人間耕作が新たに始まります。神は、新たな人間耕作が始まるとき、ノアが自分から進んで「行い」を見せることができるように導いておられるのです。
もちろん、ノアは以前も神のことばに完全に聞き従って行う人でした。ただ洪水の前は、神が備えてくださった状況の中で、おことばにそのまま聞き従う次元でした。神は、箱舟を造ることも、どうすべきかいちいち教えてくださいました。このように全部教えながら導かれました。動物を箱舟に乗せることも、神ご自身が働いてくださいました。ところが、これからは、ノアがそれぞれの状況に合わせて、自分か行うべきことを心に働きかけられて行うことで、神のみこころを実現するように導かれるのです。
聖書に記された驚くべき信仰のみわざは、確かに神が成し遂げてくださったことです。ところが、詳しく調べてみると、そこに必ず昔の人々の信仰の行いがあったことがわかります。
たとえば、エジプトから出て来たイスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、どうしたでしょうか? 神が氾濫するヨルダン川の流れが止まるように、先にしてくださったでしょうか? それで、イスラエルの民が川の底が現れたのを確認してから、足を踏み入れたでしょうか?
エジプトを出て最初の頃、葦の海を渡る時は、イスラエルの民があまりにも信仰が弱かったので、海を分けた後に入るようにしてくださいました。しかし、四十年間、荒野で訓練を受けた出エジプト第二世代は違います。それだけ信仰が成長したのです。それで、氾濫するヨルダン川に契約の箱をかついだ祭司たちがまず足を踏み出すようにされました。
カナンの地の最初の関門であるエリコを征服する時も、神は全部してくださったのではなく、イスラエルの民がすべきことを指示されました。神の力ではいくらでも一度でエリコの城壁を崩せますが、信仰の行いを見せるようにされたのです。つまり、町の周囲を六日間一度ずつ回り、七日目には七度回った後、ときの声をあげなさいと仰せられたのです。
イスラエルの民はおことばどおりに行って、エリコの城壁は神の力で崩れ落ちました。これを通して、イスラエルの民の心に神への信頼がどれほど加わったでしょうか。この後入って行くカナンの地も、自分たちはおことばどおりにだけ行えばよいという強い信仰が生まれたでしょう。
朝の学び69 創世記8章
[創世記8:3–14]
「そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」
17という数字の霊的な意味
本文[3-14節]には、大洪水の水が引いて、地がかわくまでの過程が記されています。大洪水はノアが600歳になった年の2月17日に始まりました。ノアたちが箱舟に入ったのは、7日前の2月10日でした。雨は40日間降りましたが、それによって150日間水が地球全体を覆っていました。2月17日から150日目になる7月17日から水が減り始めました。そして、次の年の1月1日になると、水がみな引いて地の面はかわいていました。それでもノアは箱舟から出なかったし、2月27日になってやっと箱舟から出ました。
それでは、ノアが箱舟で過ごしていた期間は、合わせてどのぐらいでしょうか? ノアが箱舟に入った時は洪水が始まる7日前で、ノアが600歳の2月10日でした。箱舟から出た日は601歳の2月27日です。したがって、ノアたちが箱舟で過ごした期間はちょうど1年と17日間です。
ノアの洪水と関連する数字の中から、特異な点を発見したでしょうか? 重要な日に「17」という数字が登場しているのです。洪水が始まった日が2月17日で、水が減り始めた日は7月17日でした。また、ノアたちが箱舟で過ごした期間も1年と17日間でした。父なる神は、なぜこの「17」に合わせて、重要な事をなされたのでしょうか? それは「17」という数字が霊的に特別な意味を持っているからです。
「17」は霊的に「父なる神のみこころと摂理に合わせて、父なる神ご自身が事を成し遂げられる」という意味を持っています。ノアの洪水は父なる神の摂理のうちに、時が来て正確になされた出来事です。それで、神は、洪水が始まった日と水が減り始めた日を「17」という数字を持つ日にされたのです。
ノアの洪水以後、段階的に水を減らした理由
本文[3節]には「そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、」とあります。神は、ただ一度で水を引かせることも、減らすこともおできになる方です。しかし、そうなさったのではなく、150日間で段階的に引いていくようにされました。神がこのようにされた理由は何でしょうか?
これは、神もご自分が定めておかれた秩序と法則に従うためです。大洪水のさばきが始まると、神の初めの光が取り込まれたので、この地上には肉の属性が現れるようになりました。初めの光で取り巻かれた状態では、霊の流れと法則が適用される部分がありましたが、大洪水以降は、肉の流れによる肉の秩序と法則が適用されるようになったのです。それで、神もこの時からは、肉の秩序と法則に合わせて働いていかれるのです。
それなら、肉の秩序と法則に従うことと、水が段階的に減るようにされることには、どんな関連があるでしょうか? ノアと彼の家族が箱舟から出る瞬間から、この地上では新しい人間耕作が始まります。このために、この地上には人が生きていくために適切な環境が備えられていなければなりません。すっかり洪水で覆われていたこの地上から水だけ減るからといって、すぐに人にとって良い環境になるのではありません。
夏の集中豪雨や台風、津波などによる浸水家屋を思い浮かべてみてください。水につかった家から水だけ引かせれば、すぐ人がその家に入って住めるのではないでしょう。これと同じように、大洪水の後のこの地上も、水だけ引くからといってよいのではなく、人が生きていけるための準備が必要でした。
もし、神がただ一度で水が全部なくなるようになさったなら、ノアと彼の家族はまだ準備できていない世に出て行かなければなりません。ですから、神はそうなさったのでなく、ノアたちが箱舟から出る時に合わせて、この地上を新しく造られたのです。箱舟から出た人々と動物、鳥と家畜が生きていくのに最も良い環境が、肉の法則によって自然に造られるまで、段階別に水が減るようにされたのです。
父なる神がことばで天と地を創造された時も、一瞬にしてすべてを造られたのではなかったでしょう。六日間で、段階別に一つ一つ創造されました。私たちが肉のからだを着て肉の空間で生きている間は、肉の法則と秩序を完全に無視することはできないということを知らなければなりません。それで、神が病気をいやしてくださる時も、からだの秩序に合わせて働かれるのです。
たとえば、以前、盲腸が破裂して腹膜炎で苦しんでいたある聖徒が、信仰によっていやされたことがあるでしょう。神が幻でその聖徒がいやされる過程を見せてくださいました。盲腸が破裂して出たお腹の中の汚物を、直ちにそこで消滅させたのではありませんでした。まず腸に吸収されるようにしてから、からだの外に排出するようにされたのです。
また、全身が3度のやけどを負って、神の力によっていやされたキム・ウンドク勧士のケースも同じでした。父なる神は、一瞬で完全にさせる力を持っておられます。ところが、神は間を置いて段階的にいやしてくださるのがわかりました。からだの中に血管と筋から造っていって、次に新しい皮膚ができるようにされました。私はその過程を見守りながら、「胎児が成長する過程が’このようだろう」と思いました。やけどで損傷した皮膚が新しくされて、その中には血管まで鮮明に見えました。このように正常に回復する期間も、世で治療にかかる時間よりずっと短かったのです。
もちろん、世では3度のやけどを負った皮膚が正常に回復することは不可能です。しかし、このように不可能なことが神の力によっては可能ですし、肉の法則に従っても、その速度がずっと早いのです。それにもかかわらず、父なる神はこの肉の空間の法則と秩序に従って、過程を飛び越えずにすべて踏まれます。
神様がその愛する子どもに物質の祝福を下さる時も同じです。「蒔けばその刈り取りもする」という基本法則を踏まえた上で、各人の信仰に応じて祝福してくださるのです。ある人には押しつけ、ゆすり入れ、あふれるまでに、ある人には三十倍、六十倍、百倍に刈り取るようにされます。
ですから、蒔かないで刈り取ろうとするのは、神様を侮るようなものです。誰も「蒔けばその刈り取りもする」という法則において、例外はありません。必ず祝福の種を蒔かなければならないし、祝福される器を備えてこそ、神が下さる祝福をいただけるのです。このような過程を通して祝福されてこそ、肉的な満足とともに霊的なまことの幸せも味わえるのです。
したがって、自分が見て分に過ぎる祝福だと思われる時は、かえってそれが災いの種になることもあるということを知らなければなりません。肉的な満足は味わったとしても、霊的には自分のたましいが疲れて弱ることがあります。霊的に貧しい心にならないから、恵みを切に慕う心もなくなるのです。しかし、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得る祝福をいただく人は安全です。いくら豊かな祝福をいただいても、心が世に向うのではなく、神の国のためを思う心がつのるのです。
皆さん、父なる神様もご自分でこの地上に立てた創造の秩序を守られると言いました。肉の秩序と法則を無視しないで、公義に合わせて働かれるのです。ただし、霊的な公義に合う時は、肉の空間で可能な速度を超えることができます。だからといって、過程を飛び越えるのではありません。過程は踏むけれど、スピードが速くなるのです。
この地上でなされる信仰のみわざは、いつも霊的にでも肉的にでも「公義」に合わなければなりません。御霊の歩みに深く入るほど、このような公義を詳しく深く悟れます。皆さんはこのことを必ず覚えて暮らしの中に適用し、まことに父なる神様に祝福をいただきすように、主の御名によって祝福して祈ります。
朝の学び68 創世記7章
創世記7:24–8:2
水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。
本文[24節]に「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。人類の歴史にあって、地球全体が150日間水につかっていたというこの記録はまことで事実です。ノアの大洪水は神話や伝説ではなく、実際にあった大変な出来事です。これを証明する証拠は多くあります。きょうはノアの洪水の証拠を三つに分けてお伝えします。
ノアの洪水が実際にあった出来事であることを証明する証拠
第一、歴史的な証拠
全世界的に古代文明の歴史には洪水に関する伝説があります。学者たちが世界のあちこちから収集した「洪水伝説」は270余りにもなります。洪水伝説が収集された地域はヨーロッパ、アジア、オーストラリア、東インド、アラスカ、ギリシャ、フィンランド、アイランド、太平洋の島々、フィリピン諸島、南アメリカ、中央アメリカ、北アメリカ、東アフリカでした。
これは洪水伝説が全世界的に広がっているという意味です。収集された洪水伝説には、次のような共通点がありました。「洪水は後にも先にもない規模だった。洪水を避けるために大きい船を造った。船には人だけでなく、あらゆる種類の動物も乗せた。洪水から生き残った人は少数だった。」
その中でアメリカのインディアンは、何と58の洪水伝説を持っています。「インディアン」とは、コロンブスが新大陸を発見する前からその地に住んでいた先住民のことです。インディアンが多く住んでいたミシガン州一帯では、古い石版がたくさん見つかりました。その石版には、いくつかのコマにストーリーのある絵が描かれています。石版ごとにコマの数や絵が多少違っても、だいたい似た内容が書かれているのです。その中でよく整理されている、一番大きい石版の絵の内容を説明いたします。
この石版には五つのコマに分けられた絵があります。一番上の絵の真ん中には太陽があって、ある人が天に向かって拝んでいます。二番目のコマには、人々が水でもがいている様子が描かれています。三番目のコマには、大きい船が水に浮いていて、計40個のマスが見えます。(雨が40日間降ったことを意味するでしょう。)四番目のコマには、太陽が見えて、船から動物が出てきているし、男性4人が万歳をしています。(それはノアと3人の息子です。)五番目のコマには、七つの線の虹がはっきりと刻まれています。
古代インディアンはどうしてこんな物語を知って、石版に彫っておいたのでしょうか? ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住して、インディアンに聖書を手渡す、ずっと前にすでに知っていたからです。このような石版が中東地域で見つかったなら、「距離が近いからそうだろう」と思うかもしれません。しかし、中東とは地球の反対側のアメリカで、それも古代インディアンの遺物から洪水の物語が出てくるということは、何を意味しているのでしょうか? 彼らはすでに先祖から洪水の物語を伝え聞いていたということです。
一方、多くの洪水伝説の中で、ノアの箱舟がとどまっていたアララテの山から比較的近い地域ほど、詳しいところまで聖書と一致しています。たとえば、バビロニアのギルガメシュ叙事詩には、すべての動物を雄と雌一つがいずつ乗せたとか、洪水の後、「鳩」を放って、水が引いた程度を確認してみたという内容もあります。このようにアララテの山から近ければ近いなりに、遠いところは遠いなりに、多様な洪水伝説があるのです。
このように世界の多くの国に洪水伝説が言い伝えられているということから、そのすべての伝説の母体になった一つの洪水の出来事があったことがわかります。それがまさに聖書に記されたノアの洪水です。
歴史的な証拠をもう一つ挙げれば、ノアの子孫の名前が都市や国、民族の名前として使われているということです。創世記10章には、大洪水の後、ノアの子孫の名前と彼らがふえ広がった地域が詳しく記されています。そして、最後の[32節]に「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」とあります。人類の歴史のルーツを探していけば、このみことばと一致するのです。
たとえば、今日イスラエルがあるところを「カナンの地」と呼ぶでしょう。ここで「カナン」とは、もともとノアの次男ハムの息子の名前です。ハムの何人かの息子の中で「カナン」という人がその地域に定着してふえました。ところで、洪水が終わって約400年が流れたとき、神がその地をアブラハムと彼の子孫に与えると約束されました。
その約束のとおり、ヤコブ、すなわち、イスラエル民族がその地域を占領して国を建てたのです。このカナンの地の他にも、ノアの子孫の名前が民族、都市、国の名前として使われています。これはノアの洪水が確かに実際あった出来事であることを証明しています。
第二、地質および地形学的な証拠
まず、地球表面の75%以上が水によって作られた堆積地層であることです。地球が水に完全につかった状態で、太陽―地球―月の引力によって起こる引き潮と満ち潮によって、短い期間で地球全体に堆積層が形成されたのです。高い地帯は水の流れによって削られ、削られた土は低い地帯に積まれながら、堆積物の成分によって層を形成します。
実際、地球表面に存在する堆積層はとても広範囲にわたっています。また、それぞれの堆積層は、まるでゴムシートを積み重ねたように、堆積物質の成分が非常に均一で、各層の境界面もほぼ平行になっています。研究者たちは「地球表面にこんな堆積地層が形成されるためには、ノアの洪水のような全地球的な大洪水がなければならない」と結論を出しました。
ノアの洪水のもう一つの地形学的な証拠として、世界各地の深海から発見される古代遺跡が挙げられます。科学技術が発達しながら、人々は各種の装備を利用して、海の中を探査できるようになりました。または、地震波を利用して海底地形構造をスキャンできるようになりました。その結果、世界各地の深海から、確かな文明の痕跡をもつ古代都市が発見されているのであります。大洪水の時、地殻の大激変によって、そういった地域は永遠に海水面の下に沈むようになったのです。
これと反対の現象も起きました。それは、本来は海だった地域が大洪水の時、大激変によって後には山になったことです。それで、ヒマラヤやアルプスのような高い山脈から、貝類、魚類、海草類など、海の生物の化石がたくさん見つかりました。また、アメリカ西部のグランドキャニオン、海抜1600メートルの高さの岩石層も、ほとんど海の生物の化石を含んでいます。
ペルーのアンデス山脈、4000メートルの高地帯でも、およそ500個のカキの化石が発見されました。これは、アンデス、ヒマラヤ、アルプス山脈が昔は水の下にあったことを証明するものです。ところが、大洪水の時、「隆起」現象によって、今日は高い山脈になったのです。
三番目の証拠、世界人口
洪水の後、八人で始まった世界人口は、統計学的な見地から見ると、今日の人口とびったり合っています。人口成長率の計算はとてもややこししくて難しいので、この時間、詳しく説明はいたしません。この教会の創造科学会で、国連が使う計算式を利用して計算してみました。その結果、ノアの洪水が終わった時点の約4,360年前、八人から人類がふえていったことを規定の事実として計算してみたら、現在の世界人口と一致したというのです。
もし、ノアの洪水がなかったとか、進化論が正しいとするなら、世界人口は今よりはるかに多くなければなりません。しかし、聖書はまことであり、ノアの洪水から生き残った人はたった八人だったので、今日の世界人口に達したということです。
ノアの洪水をとおして悟る霊的な意味
ノアの洪水を確かな事実と信じて、その霊的な意味を悟ることは、そうできないことと比べて大きな違いがあります。終わりの時を生きている人にとってはさらにそうです。
[第二ペテロ3:6-7]に「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。
ノアの時は洪水によるさばきがあったように、今、この世はもう一度それと同じみことばによって、火に焼かれるようになります。その日には、不敬虔な者どもがさばかれて滅びるようになるのです。ノアの洪水が迫ってきた時も、神から遠ざかったまま、不敬虔な生き方をしていた人々はみな、さばきによって滅びました。
今日も、神を遠ざけて不敬虔な生き方をしている人々には、ノアの洪水の時と同じさばきがだんだん近づいているのです。したがって、私たちは聖書を通して、ノアの洪水がなぜあるべきだったか、そしてどんな人が救われたのかを心で悟らなければなりません。心で悟る人は、やがて来るさばきによく備えることができます。滅びでなく、救いに至れるのです。
一方、「ノアの洪水」を信じない人は、やがてさばきがやって来るとしても、相変わらず罪と悪の中を歩んでいきます。ノアの時代、箱舟が造られていくのを見ながらも、かえってノアをからかって、自分勝手に生きていた人々と同じなのです。
これについてイエス様は[ルカ17:26-27]で「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」と言われました。
皆さんは、なぜ大洪水のさばきがあったのか、また、それがどれほど確かな事実なのかを知りました。ですから、さらに霊的に目を覚ましていてください。ひょっとして信仰生活がつらいとか、いつも教会の囲いの中にいることが窮屈な方がいるでしょうか? そんな方がいるなら、ノアの家族のことを考えてみてください。
ノアの家族は、肉的には箱舟の中が窮屈だったかもしれないし、その中での暮らしもきつかったです。だからといって、箱舟の外の世にあこがれたでしょうか?「箱舟に乗らないほうがよかった」と後悔したでしょうか? そうではありません。救いの箱舟に乗ったことに感謝しながら、そのすべての時間に耐えられました。
皆さんも、神様から救いの恩寵を受けたことにいつも感謝できますように。また、霊的な箱舟である神のことばの中に完全にとどまって、いつも神様から守られますように。これとともに、まだ救いの箱舟に乗っていな人々に幸いな知らせを伝えてください。それで、すべての人が救われるように望んでおられる父なる神様に喜ばれますように、主の御名によって祝福して祈ります。
全てを計画され、つかさどられた神様
本文[8:1]には「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」とあります。ここで「心に留める」とは、「いつも意識して、忘れないでおく」という意味です。
それでは、父なる神が箱舟に乗った彼らを心に留めて、水を引かせたというみことばは、どんな意味でしょうか? 父なる神は公義によって大洪水のさばきをなさいましたが、ノアと彼の家族を通して人間耕作を新たに始めたいと望んでおられました。ところが、大洪水の後は、この地が完全に肉の自然法則が適用されるようになりました。神の初めの光が、洪水が始まると同時に、残らず取り込まれたからです。
父なる神は、水がいつ引いてこそ大洪水の生存者たちが生きていくのに一番良い環境が造られるか存じでした。ノアと彼の家族はもちろん、獣と家畜までも心に留めておられ、最も良い時に合わせて働いてくださったのです。それで、父なる神は150日間、地球を覆っていた水が引き始めるようにされました。神が水を引かせた方法は、地の上に風を吹き過ぎさせることでした。
ところで、その前に、本文[2節]に「また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。」とあります。これは40日間降っていた雨がやむ時の状況です。第二の天、エデンにある「大いなる水の源」と第二の天につながる門を閉ざしたので、それ以上雨が天から降ってこなかったのです。
ここで、大いなる水の源と天の水門が「閉ざされた」という表現に注目しなければなりません。実は「閉ざされた」とは、完全に閉まったという意味ではなく、一時的に閉まったことを意味するからです。これはどういう意味でしょうか? もしこの時、神様が天の水門を完全に閉ざされたなら、この地に降ってきた雨が第二の天に戻っていける通路が完全になくなってしまうのです。つまり、風が吹いて水が蒸発しても、第二の天に昇っていく道がないのです。
ですから、神は大いなる水の源と天の水門を、完全にではなく、これ以上雨が降ってこないように一時的に閉ざされたのです。つまり、第二の天と第一の天の間の通路は開いておいたまま、第二の天の水がそれ以上第一の天に下りてこられないようにされたのです。この役割を四つの生きものが果たしました。
また、地球に降った水が蒸発して第二の天に吸収されるように風を吹かせる働きも、四つの生きものが担当しました。この時、四つの生きものが吹き過ぎさせた風はとても強い風でした。それで、地球の水がすみやかに出てきたところに吸収されて入っていけたのです。だからといって、台風のように恐ろしいとか激しい風ではなかったと教えてくださいました。
このように、神は洪水で地球を覆った水を引かせた時も、公義の法則どおりになさいました。神は力の大きい方ですから、第一の天のどこにでも空間を開いて、第二の天につながるようにおできになります。しかし、そうされたのでなくて、水が降りてきたその通路に吸収されて、元の場所に戻っていくようにされたということです。まるでこの場面を描写しているような表現が[詩篇33:7後半節]に出てきますが、「深い水を倉に収められる。」とあります。
今日起きる洪水は人が予想できない場合が多くあります。無理な開発で自然がひどく破壊されて異常気象現象が起きるので、自然災害が頻繁に発生しています。誰かが計画したのでもないし、誰も予想できない時が多いのです。
ところが、ノアの大洪水のさばきは、始めから終わりまで、神のご計画のうちになされました。雨はいつから降り始めて、いつまで降るべきか、水はどのぐらい増し加わるべきか、また、水はいつから引いて、引く速度はどのぐらいになるべきかも、すべて神がつかさどられました。神が定めた日と期間に合わせて、そのとおりに進められたのです。
そして、ノアは神と明らかに交わっていたので、このような神のご計画を知っていました。洪水が一日、二日で終わるのではないことと、また、水が地を覆っている期間、その後引くまでにかかる時間も、ある程度心に働きかけられていたのです。このように、神の人は神と明らかに交わっているうちに、先のことを知ることができます。ですから、神のみこころに合わせて、神のわざを実現していけるのです。
皆さんも、自分の悟りに頼らないで、心を尽くして神により頼みますように。[箴言3:6]にも「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。このようにして、人生のすべての状況で父なる神様にその道をまっすぐにしていただく皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
朝の学び67 創世記7章
創世記7:16–24
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。
埋葬された人と動物の死体によって中東地域に生成された石油
前回は大洪水のさばきの時の地形の変化についてお伝えしました。地球を覆った洪水の水圧によって、地層には隆起と沈降現象が起きました。また、引力の影響を受けて地球をかき回す水の力によって、短い間でも地表面には幾重かの堆積層が形成されたと言いました。その結果、地球の地形が洪水以前とはとても違う形に変わったのです。
それでは、大洪水のさばきの時に死んだ、数えきれない人の死体と動物の死体はどうなったのでしょうか? 今からはこれについて説明いたします。アダムがこの地上に降りてきて定着した所は今のイスラエルの地です。人類はここを中心に増え広がって、だんだんその領域を広めていきました。今日で言うと、中東地域が初期人類の主な根拠地になったのです。そして、さらに進んで、エジプトがある北アフリカ地域にも移住して行きました。言いかえれば、中東地域と北アフリカ地域は当時、人口密集地域だったということです。
ひょっとして、今日その地域の気候を知っている人は「どうしてあんな所に、あれほどたくさんの人が住めたのか」と思うかもしれません。大洪水のさばきの前は、全地球的に気候が今とは違っていました。極地域でも今のように寒くなかったし、赤道地域でも今のように暑くありませんでした。したがって、中東と北アフリカも、今と違って人が住むのにずっとよい気候だったということです。また、樹木と草原も茂っていました。当時は人口が密集して住むのにちょうど良い所だったのです。
これに人に従う家畜まで考慮すれば、大洪水のさばきによってこの地域ではものすごい数の死体が発生するしかありませんでした。これらの死体は、大洪水によって地形の変化が起きるにつれて、地層の中に埋もれるようになりました。地層が沈んだり盛り上がったりする過程で、死体が地層の間に埋もれたのです。これは肉的には単に地の中に埋もれたということですが、霊的には「神のさばき」を意味します。
[民数記16:31-33]を読むと、エジプトから出た民のうち、モーセに立ち向かった仲間が神にどう呪われて滅び去ったのかがよく記されています。「モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。」とあるのです。
このように、神が大洪水のさばきをなさる時も、一時的には人と動物が水葬されるようにして、次に彼らの死体は地が口をあけてのみ込むようにされたのです。これは単に地層変化による埋葬でなくて、霊的には「よみ」を意味する地を開いて、その中に投げ込んでしまわれたのです。
こうして埋葬された人と動物の死体によって、今日、中東地域から石油がたくさん出てくるようになりました。実際に中東地域は世界の石油埋蔵量の75%を占めているそうです。
「石油がどのようにできたのか」については、今日いろいろな理論がありますが、一般的な主張は、生物体の堆積によって生成されたというものです。動物の死体とともに、ものすごい量の植物が堆積されたのです。これは聖書を解き明かしてくださった神のおことばと一致しています。
それなら、中東地域に石油がたくさん埋蔵されているから、その地域を祝福の地と言えるでしょうか? 今すぐは祝福に見えるかもしれませんが、それは決して祝福ではないことを知らなければなりません。今日、その地域がどれほど多くの戦争とテロの舞台になっているでしょうか。かえって石油資源のために外国から頻繁に侵略されているのです。物質的な目先の利益を除いては、現在その地域は祝福の地ではなく、呪いの地になっています。
父なる神の強権的な保護と聞き従う心に臨む祝福
本文[16節の後半節]には「神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」とあります。「【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」この表現には少し強権的な感じが込められています。だからといって、父なる神がノアを強制に箱舟の中に入れられたという意味ではありません。ここには「神ご自身がすべてをつかさどって、ノアと彼の家族、そして箱舟に入った動物を支えて守られた」という意味が込められています。このような父なる神の強権的な保護があったので、箱舟の中にいたノアと彼の家族はどんな動揺もなく過ごせました。
私たちも神様が強く支えて守ってくだされば、どんな状況でも平安でいられます。たとえ訓練を受けても、祝福のうちに練っていかれるのです。アブラハムも訓練の過程の中でも、いつも祝福が臨んだことがわかります。妻を奪われる試練がありましたが、父なる神ご自身が強く働いていかれるから、むしろ祝福として報いてくださったのです。
ヨセフも訓練のうちにいつも祝福が臨んだし、【主】がすべてを成功させてくださいました。[創世記39:3]に、ヨセフが奴隷として売られた状況では「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」とあります。濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時も、[創世記39:23]に「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。」とあります。
それでは、アブラハムやヨセフはどうして訓練の中でもこのように祝福を受けていけたのでしょうか? ある人は訓練を受けるとき、祝福を全く受けられないで、困難にだけあうこともあります。これは「聞き従う心になっているか、そうでないか」の違いによるものです。
私たちがこの地上で金のような信仰に変えられて、天国の新しいエルサレムに入れるまことの子どもになるためには、訓練が必要です。この時、訓練の中で自分を発見して、神のことばに聞き従って変えられる人は、祝福されながら練られるのです。訓練は必要だから、神様が受けることを許されます。この時、訓練を感謝をもって受けていくなら、神様はそれに対しては祝福を与えてくださるしかないのです。
ところが、ある人は訓練を受けながら、自分を発見して変えられるよりは、つぶやいて不平を言いながら嘆きます。環境と人を恨んで、自分の身の上について不平を言い、それどころか教会と神様に対してまでつぶやく人がいるのです。さらに進んで、罪によって試練や患難がやって来れば、この時も悔い改めて立ち返るのでなく、言い訳をしようとします。続けてこのような心と態度をとるなら、訓練の中に決して祝福が来ることはないでしょう。
もちろん、時によって物質で訓練なさる間は、物質の祝福が来ないこともあります。しかし、このような場合も、いつも喜んで感謝している人には、神様がどんな方法を通してでも食べる物と着る物を与えながら導いていかれます。物質の訓練の間は、たとえ豊かな物質の祝福はなくても、あれこれの方法で満たしてくださるので、結局成功するように導いていかれるということです。
ですから、訓練中に困難にあう人がいるなら、「私は本当に聞き従う心構えでいるのか」と自分でチェックしてみますように。聞き従う心構えでいる人は、なぜ訓練がやって来たのかを発見して、その原因をすみやかに解決していきます。一方、そうでない人は、原因を発見することもやさしくないだけでなく、発見しても変えられようとしないのです。
しかし、皆さんはアブラハム、ヨセフ、ノアのように、完全に聞き従う人になりますように。いつも父なる神様に強く守られて、祝福も受けていかれますように、主の御名によって祝福して祈ります。
大洪水のさばきと白い御座の大審判
ノアが600歳になった年の2月17日に降り始めた雨は、40日間続きました。これによって海水面がだんだん上がりました。初めはノアの箱舟が地から水面に浮かび上がるぐらいになりました。ますます水かさが増していくと、箱舟は水面を漂うようになりました。いよいよどの高い山々も水につかるほどに水かさが増していきました。
ところで、本文[20節]を読むと、水はこのようにすべての山を覆ってから、さらに十五キュビト増し加わったとあります。十五キュビトは、今日の単位に換算すれば、約7.5メートルです。これはノアの箱舟の高さの三十キュビトのちょうど半分です。したがって、大洪水の時、水かさがすべての山々を覆う程度から、さらに十五キュビト増し加わったとは、箱舟がどんなものにも引っかからないで自由に漂うようになったという意味です。
船が水面に浮いているとき、ふつう下の部分は水の中につかっています。船が人や荷物で満たされるほど、その重さだけ沈むのです。ノアの箱舟は動物と食料でぎっしりでした。したがって、少なくとも箱舟の高さの半分ほどの水が増し加わるなら、箱舟が安全に漂っていられるのです。
もしこのような余裕がなかったなら、まかり間違えば、水面を漂っていた箱舟の底が高い山の峰に引っかかることもあるでしょう。すると、船が暗礁に乗上げて事故にあうように、危険な状況におかれることもあるのです。
このように大洪水のさばきの時、水は高い山より十五キュビトも増し加わりました。その結果、本文[21-23節]のように、地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えました。鳥は飛べても、高い山まで水で覆われて止まるところがなくなると、結局はすべて水に落ちて死ぬようになったのです。陸地にあるすべてのものの中で、鼻で息をするすべての肉なるものが死んだのです。箱舟に乗れなかった人や動物は、どんなものも避けられなかった完全なさばきでした。
やがてある白い御座の大審判も同じです。その日には、世界の創造された時以来のすべての人が神の審判台の前に立つようになります。 (ただしエリヤ、エノク、アブラハム、モーセ、この四人は例外です。この方々は霊の序列の最上位におられる方で、大審判の時、三位一体の神を補佐します。)
いのちの書に名が記されていない人は、例外なく大審判の時、永遠の死という判決を受けて、地獄の火の池や硫黄の池に落ちることになります。[第二コリント5:10]に「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあるとおりです。
本文[24節]に「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。ノアが600歳になった年の2月17日から降り始めた雨は、40日間続きました。それによって、7月17日から150日間、水が全世界を覆うようになりました。このように天の下にあるどの高い山々も水で覆われた状態は初期地球の様子と似ています。まさに[創世記1:2]に「神の霊が水の上を動いていた。」とあるのです。本格的な六日創造のみわざが始まる前、地球はすっかり水で覆われていました。
ところで、大洪水のさばきの時、その当時の状況が再現されたのです。人類の歴史において、地球全体が150日間水につかっていたというこの記録はまことで事実です。ノアの大洪水は神話や伝説ではなく、実際にあった大変な出来事です。これを証明する証拠は多くあります。
朝の学び66 創世記7章
創世記7:13–16
ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。
大洪水の裁きから逃れた水中動物
本文を読むと、大洪水のさばきの時、ノアの箱舟に、まずはノアと彼の妻、三人の息子と三人の嫁、合わせて八人が乗りました。また、あらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、箱舟の中のノアのところに入りました。もちろん、神が指定された数だけ、初めの声を聞いて出てきました。
この時、箱舟に乗れなかった動物はみな大洪水のさばきによって死を免れませんでした。しかし、例外もありました。それは水中動物です。魚をはじめ水の中で暮らす動物は、ノアの箱舟に乗らなくても、大洪水のさばきの時、種族が保存できました。
「ああ、当然水の中で暮らす動物だから、洪水の中でも生き延びることができたんだろう」と簡単に考える人がいるでしょうか? 地球全体を覆う大洪水の中で水中動物が絶滅しなかったのは、実は「奇蹟」です。これがどうして奇蹟でしょうか? その理由を簡単に説明いたします。
水中動物は大きく二つの種類に分けられます。海水中で生活する魚(海水魚)と、淡水で生活する魚(淡水魚)です。ごく一部の種類を除いては、海水魚は淡水で生きられないし、淡水魚は海で生きられません。海の魚が淡水のほうに来たり、淡水が海水のほうへ行けば、あまり経たないうちに死ぬようになります。淡水と海水の塩分濃度の差によって「浸透」という現象が起きるからです。
浸透とは、細胞の内部と外部の塩分濃度のバランスをとるために、水が外に出ていったり、入ったりする現象のことです。簡単に言えば、細胞の内部より外部の塩分濃度のほうが高ければ、細胞の中の水が外に出ていきます。反対に、細胞の内部より外部の塩分濃度のほうが低ければ、水が細胞の中に入るようになります。簡単な例として、皆さんが手を水に長い間つけていると、ふやけてくる経験をしたことがあるでしょう。それも浸透の結果です。体液より外部の水の塩分濃度のほうが低くて、水が皮膚の中に吸収されて起こった現象です。
ところで、淡水魚と海水魚は浸透圧調節システムが全く違うのです。これについて簡単に説明しますが、内容が少し難しいかもしれません。この内容を知識的によく理解するなら、ノアの洪水の時、どんな魚も絶滅しなかったということがまことに驚くべきことだと悟れるでしょう。
淡水に住む魚は体内より外の塩分濃度のほうが低いです。それで、本来であれば、人が風呂に長く入っているとふやけてくるのと同じ現象が起きるはずです。しかし、淡水魚はそうならないで、元気に生きているのです。それは、淡水魚に特殊な浸透圧調節システムがあるからです。淡水魚は続けて尿として内部に吸収された水分を排出すると同時に、塩分は積極的に吸収します。それで、体内の塩分濃度を一定に保てるのです。
一方、海水魚は体内よりずっと塩分濃度の高い海水で生活しています。もし何の浸透圧調節機能もなければ、白菜を塩漬けすると水が出てくるように、海水魚は体内の水分が抜けて、脱水状態になって死んでしまうでしょう。しかし、海水魚は海で生きていけます。その理由は、塩辛い水をたくさん飲む代わりに、尿は少しだけ出すからです。ですから、脱水状態にならないのです。これとともに、摂りすぎた塩分はえらの特殊細胞を通して外部に出してしまいます。その結果、海水魚の体内の塩分濃度が一定水準に維持できるのです。
父なる神は、このように淡水魚と海水魚に、それぞれの環境で生きていける能力をすでに与えてくださったということです。ですから、淡水魚と海水魚を同じ環境で一緒に住むようにするということが、常識的に可能でしょうか? 世の常識では不可能なことです。
ところで、ノアの洪水の時は、まさにこの不可能なことが起こりました。ノアの洪水は地球全体を覆いました。地球の高い山まで完全に水に浸かるようになったのです。淡水と海水の境界がなくなったのです。淡水魚と海水魚が同じ環境で住まなければならなくなりました。それも一日、二日でなく、地の面から水が引くまで、少なくとも300日余りもそうでした。それなのに、どんな水中生物も絶滅しないで、その種族が保存されたのです。これがどうして可能だったのでしょうか?
常識では不可能なことですが、実際にこれが可能だった理由があります。それは、当時この地上を覆った水は、この地上の淡水や海水ではなく、第二の天から降りてきた水だったからです。その水には神の力が込められていたのです。
大洪水によってもたらされた地形、気候、生態系の変化
大洪水のさばきによって、地球にも多くの変化があるようになります。地球の地形、気候、生態系の環境が、洪水以前とずいぶん変わったのです。その原因は、まず、神が初めの光を取り込まれたからです。ところで、もっと大きい原因は、全地球的大洪水そのものにあるのです。
大洪水のさばきがあるずっと前、人間耕作が始まる前に、地球上には一度さばきがありました。それは、エデンの園から追い出された恐竜たちに対する火のさばきでした。しかし、その時の火のさばきと大洪水のさばきには、いろいろな面で違いがあります。
大洪水のさばきの対象は、ノアの箱舟に乗らなかったすべての人と陸上動物でした。しかし、火のさばきの対象はただ恐竜だけでした。また、大洪水のさばきの時は、全地球的に霊の世界の門が開かれて、第二の天から水が降りてきました。一方、火のさばきの時は、恐竜たちが集まって暮らしていた所にだけ、集中的に火が下りました。したがって、火のさばきでは、恐竜意外の動物は大きな被害を受けませんでした。しかし、大洪水のさばきによっては、箱舟に乗った人と動物を除いたすべてのものが一時に滅ぼされたのです。
今からは、このような大洪水のさばきによって、地球にどんな変化が起きるようになったのかをお伝えします。人が水の中に深く入れば入るほど、だんだん水圧が強くなるのを感じるようになります。水の外でのように自由に動きにくいのです。ところで、大洪水のさばきの時は、水が一番高い山まで達したのですから、その水圧がどれほど大きかったでしょうか。その水の圧力によって、地球の地殻は変形しました。
理解を助けるために、地球の内部構造を簡単に説明いたします。地表面の下には「マントル」層があり、もっと深いところには「核」があります。言いかえれば、私たちが足をつけて生きている地層は、マントルの上に浮いているようなものですこのマントルの温度は地上に近い最上部が約500度で、核と境界面の最下部は5000度にもなります。
[ヨブ28:5]に「地そのものは、そこから食物を出すが、その下は火のように沸き返っている。」とあるとおりです。地球の内部構造が明きらかにされたのは近代ですが、数千年前に記された聖書には、すでに地球の内部が火のように熱いということが記されています。
ところで、地層の厚さは位置によって違うし、地層を構成する成分も違うので、安定性も違います。ある所は硬くて安定した地層でも、ある所はやわらかくて不安定な地層です。この時、二つの所に同じ水圧が作用するなら、どんな現象が起こるでしょうか?
空気を入れた風船のある所を指で押せば、他の部分がもっと膨らんでくるのを見たことがあるでしょう。さらに強い力をずっと加えれば、膨らんできた部分がバーンと破裂してしまうのです。
このように、大洪水のさばきによって地層にものすごい水圧が加わると、地層が硬い所はそれに耐えながら沈みましたが、やわらかい所は膨らんで破裂したりもしました。全地球的にあちこちでこのような現象が起きました。地層がある力の作用で盛り上がる現象を「隆起」と言います。反対に、沈んで下がっていく現象は「沈降」と言います。
地層に変形が起きた理由は、ただ水圧だけでもありません。大洪水のさばきの時、地球は150日間、完全に水に浸かっていましたが、穏やかな湖のような状態ではありませんでした。地球は太陽と月の間に挟まっていて、互いに引き合う力、すなわち「引力」が作用するようになります。太陽と月が地球を引く力によって、地球を覆った水が両側に膨らむようになります。
それに、地球は一日に一回回ります。地球は回るのに、引力によって水は引かれているから、水が地中をかき回すようになります。このように地球をかき回す水は、山のような高い地帯を崩します。そして、崩した土を押し流して、低くて広いところに来ると、高く積んでおきます。この現象が五か月間、地球全体に起きました。その結果、地層には幾重かの堆積層が形成されました。地球の地形が洪水以前とはとても違う形に変わったということです。
科学者たちは一つの堆積層が形成されるにはとても長い時間がかかると言って、それを進化論の根拠にしています。もちろん、地上で堆積層ができるには長い時間がかかります。しかし、全地球的な大洪水によっては、1年にもならない短い時間でも、幾重かの堆積層が形成されることができます。ですから、世の学者たちがノアの大洪水を排除して研究した結果は正しくないのです。
彼らが聖書がまことであることを認めて、大洪水の出来事を考えに入れて研究するなら、地球の歴史について正確な結果を得るでしょう。大洪水によって地層の隆起と沈降が起きうることと、短い期間でも堆積層が生成できることを認めるなら、地球科学分野の多くの疑問が解けるでしょう。
朝の学び65 創世記7章
創世記7:11–12
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
ノア時代の大洪水の裁きは白い御座の大審判のしるし
前回は[11節前半節]についてお伝えしました。ノア時代の大洪水のさばきは、白い御座の大審判のしるしとなると言えるでしょう。ただし、さばきの道具が一つは水で、もう一つは火です。これについて[第二ペテロ3:6-7]には「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。
大洪水のさばきの時、正しい人ノアの家族を除いては、みな洪水におおわれて滅びたのです。白い御座の大審判の時は、主を信じなくて正しいと認められなかった人々は火と硫黄との燃える池に落ちることになります。したがって、大洪水のさばきについてメッセージを聞くとき、単に昔々にあったことと思ってはいけないでしょう。将来の白い御座の大審判に皆さんはどのように備えるべきか、これについて答えを見つける尊い時間になりますように、主の御名によってお願いします。
大洪水の始まり
次に、[11節後半節]には「その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とあります。大洪水のさばきが始まったのです。この時、父なる神の御目からはポトポトと涙のしずくが落ちました。そのしずくは御衣のすそに「期待」という字として縫い取られました。そこには「もう一度期待しながら待つ、必ず成す」という意味が込められています。何を期待しながら待っておられたのでしょうか? それは、ノアからもう一度始める人間耕作を通して「まことの子ども」が出てくることでした。また、「必ず成す」という意志を、涙で御衣のすそに縫い取られたのです。
本文には、地球を完全に覆った洪水がどんなふうに起こったのかが、詳しく記されています。「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とあります。今日、ほとんどの人はこれを地球の中で起こったことだと解釈しています。つまり、海の水の源が張り裂けて、天から大量の雨が降ったということです。
ところが、その当時、洪水で地球の一番高い山も完全に水につかりました。これは海の水の源が張り裂けて、天から雨が降るからといって可能なことでしょうか? そうでないことが常識的にわかるでしょう。もし、海の水の源が張り裂けて大雨が降って大洪水になったとすれば、洪水がやんだ後は、そのたくさんの水はどこに消えたのでしょうか?
人の知識と常識では明快に答えられないでしょう。したがって、このみことばの答えを、この肉の世界から探そうとしてはいけません。これは霊の世界であるエデンと深く関連しているということを知らなければならないのです。
第二の天のエデン
ここでしばらく以前のメッセージを復習してみましょう。私たちが生きている地球は第一の天に属していて、エデンの園は第二の天、天国は第三の天に属しています。第二の天は二つに分けられていると言いました。それは「エデン」という光の空間と、悪い霊どもの領域のやみの空間です。
最初の人アダムとエバが生きていた「エデンの園」は、光の空間の「エデン」の中に特別に設けられた領域です。「園」だからといって、その領域が狭いのではなくて、地球とも比べられないほどものすごく広いです。エデンの園もこんな広いのに、エデンの全体はどれほど広いでしょうか。私たちの目に見える宇宙が果てしなく広いように、第二の天のエデンも無限に広い空間です。
このように広い広いエデンには、川の源もあります。[創世記2:10]に「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。」とあるとおりです。まさにエデンにある川の水が、ノアの大洪水のさばきの時に用いられたのです。本文の「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、」というみことばは、エデンにあった水の源が張り裂けたという意味です。
第二の天と第一の天の間の通路が開かれる
また「天の水門が開かれた。」というみことばは、第二の天と第一の天の間の通路が開かれたという意味です。その結果、第二の天のエデンにあった水がこの通路を通って、第一の天にあるこの地上に降りてくるようになったのです。ここで「水門」とありますが、第二の天と第一の天をつなぐ通路は一つだけでなく、いくつもあって、地球のあちこちにある通路が同時に開かれたのです。それで、一時にものすごい量の水が第二の天からこの地上に降り注いできたのです。
聖書には、このように第二の天にあるものが第一の天に降ってきた記述がたびたび出てきます。[詩篇78:23-24]に「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。」とあります。つまり、エジプトから出てきたイスラエルの民が荒野で食べた「マナ」も、第二の天から降ってきたものだったのです。
また、預言者エリヤがバアルとアシェラの預言者850人と対決したとき、天から引き下ろした火も、第二の天から下ってきたものです。皆さんも、多くの不思議を通して第二の天があることを目で確認したでしょう。つまり、雲が吸い込まれるように消える場面を、ほとんどの皆さんが見たのです。
「四つの生きもの」鷲の生き物のはたらき
このように第二の天に属するものが第一の天に現れるためには、天の門が開かれなければなりません。こうして天の門が開かれる時は「四つの生きもの」がかかわるようになります。第二の天にあるものが第一の天に出てくるためには、次元が違う空間の流れに乗らなければなりません。まさにこのようにできる権限が四つの生きものにあるのです。
第一の天と第二の天の概念を、建物の上の階と下の階ぐらいに思ってはいけません。建物の上の階と下の階がつながるためには、上の床と下の天井に穴をあければよいのです。しかし、第二の天と第一の天は互いに次元の違う空間です。このように互いに次元が違う空間である、第一の天と第二の天の間の霊の世界の門を開閉する権限が、四つの生きものの一つにあります。それは鷲の生きものです。大洪水のさばきのために、エデンの水の源から流れ出た水が地球に降ってくる時も、鷲の生きものが主な役割をしました。
「四十」という数字に込められた特別な意味
本文[12節]に「そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」とあります。神は地球を水で覆うために、四十日四十夜、雨を降らせられました。神はたった一日でも地球を水で覆うことがおできになるのに、なぜ四十日間雨を降らせたのでしょうか? それは「四十」という数字に特別な意味が込められているからです。神が地球を創造する前、霊の世界でルシファーによる大きな反乱事件がありました。神が一番愛しておられた御使いのかしらルシファーが、御使いの3分の1と一緒に神に立ち向かう反乱を起こしたのです。
これについて[第二ペテロ2:4]に「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」とあります。[ユダ1:6]にも「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」
このようにルシファーの反乱は直ちに平定されました。しかし、このことで父なる神は深い心の苦しみを受けなければなりませんでした。ひどくうつろさを感じられました。この時、霊の世界はしばらく茫漠とした状態になりました。この状況が[創世記1:2]では「地は茫漠として何もなかった。」と表現されているのです。霊の世界でのこの茫漠とした時間を、肉の世界の時間に表現したのが、まさに「四十」という数字です。
だからといって、ルシファーの反乱の後、ちょうど四十日間、霊の世界が茫漠としていて、神のお心が痛まれたという意味ではありません。霊の世界でのその時間に当たる数を、この地上での数の概念で表現したとき、それが「四十」になるという意味です。このような意味が込められた「四十」という数に合わせて、大洪水のさばきの時も、四十日間雨を降らせたのです。
したがって、大洪水のさばきのとき、四十日間雨が降ったことには、まるでルシファーの反乱の時と同じ神のお心の苦しみが宿っているということです。まことの子どもを得ようと始めた耕作だったのに、こんなふうにすべての人を水でさばかれたとき、父なる神のお心はどうだったでしょうか? もどかしくて、いても立ってもいられない心の痛みが、四十日間雨を降らせたことにそのまま込められていたのです。
文明の痕跡の保存
神が四十日間雨を降らせる方法を選ばれたことには、もう一つの重要な理由があります。それは、当時地球にあった、洪水以前の痕跡を最大限保存させるためでした。もし神が一日、またはたった数日で、ものすごい量の水を降り注がれたなら、どんな現象が現れたでしょうか? 夏の集中豪雨だけでも、あちこちが洪水で被害が発生します。ところが、それよりずっと強力な集中豪雨なら、どれほど多くが壊されるでしょうか? 当時、地球に残っていた文明の痕跡は、完全に破壊されてしまったでしょう。
ノアの洪水は、まるでコップに水がゆっくり満たされるように、四十日間の雨によって地表面から水がだんだん増えていきました。それで、洪水以前の文明の痕跡がそれでも保存できたのです。代表的な例として、エジプトのピラミッドを挙げることができます。この他にも、古代文明の痕跡が今も地球のあちこちに残っているのです。これを通して、神はノアの子孫がエデンの園と霊の世界についての手がかりを見つけるようにしてくださったのです。このようにノアの洪水にはまことに多くの意味が込められています。
新たな間耕作を通して「まことの子どもたち」が出てくることを願われる父の心
きょうは大洪水のさばきが始まる場面を調べてみました。大洪水のさばきをなさる父なる神のお心はあまりにも痛かったのです。[エゼキエル18:23]に「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあるとおりです。
ところが、ノアの時代の罪と悪は、公義の基準によってさばくしかない限界に達しました。それで、父なる神は涙を流しながらさばきを断行なさいましたが、新たな期待をいだかれたと言いました。それは、ノアから新たに始まる人間耕作を通して「まことの子どもたち」が出てくることでした。
皆さんは父なる神様がこんなに長く待っておられることを、どれほど心で知っているでしょうか? まことに心を分かち合えるまことの子どもを得るまで、「千年を一日のように、一日を千年のように」変わらず待ちに待っておられる父のお心。皆さんがこのような父なる神様のお心を知って、すみやかに御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされますように。それで、父なる神様にまことに喜ばれるまことの子どもになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
朝の学び64 創世記7章
創世記7:11–12
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
神はさばきに備えて方舟を準備する時間を十分あたえられた。
本文[11節前半節]には「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、」とあります。聖書には、大洪水のさばきがいつ起こったのか、このように日まで正確に記されています。それでは、ノアはだいたいいつ頃、大洪水のさばきがあるのか知っていたでしょうか?
ノアは正確な日までではなくても、「いつ頃」くらいかは知っていました。また、自分の役割も知っていたのです。つまり、当時のすべての人類は大洪水で死ぬようになり、自分を通して人類がまたふえ広がるようになるということでした。
ノアはこのことを知る前まで、結婚しないでひとりで暮らしていました。罪がはびこっている世で、聖別された生き方をするためでした。しかし、神のご計画を悟るようになったあと、子孫を残すために妻をめとりました。それで、ノアは五百歳になってからやっと息子たちを生んだのです。
私たちはこのことから、ノアが大洪水のさばきがあるということをだいたいいつ頃知ったのか、推測できるでしょう。言いかえれば、神がノアに洪水のさばきに備えるように下さった時間が、わずか数十年ではなかったこともわかります。
神はさばきに備えて箱舟を準備する時間を十分与えられたということです。これはノアにだけ当たるのではなく、ノアが生きていた当時の人々も、救いの機会をつかめるように、同じように与えられた時間でした。
ノアはその長い時間を信仰によって忍耐しながら、神のおことばどおりに行いました。箱舟を造り、食料を用意しました。また、人々に大洪水のさばきがやって来ることを一生懸命に知らせました。しかし、大洪水のさばきから救われた人は、ただノアの八人家族だけでした。
「終わりの時」の摂理
この「終わりの時」の状況がノアの洪水の時ととても似ています。父なる神は、世界の始まる前から、あらかじめ「終わりの時」の摂理を定められました。そして備えられました。
ここでちょっと用語を整理してみましょう。「終わりの時」とは「主の再臨が近づいた時」を意味します。「終わりの日」とは「イエス様がお生まれになった時から再臨の時までの世」という意味です。世では「末世」とも言い、同じ意味で使われています。「世の終わり」とは、「主が再臨するその時点」と、もう少し広い意味で「その時点が含まれた世代」のことだと覚えておけばよいでしょう。
父なる神は、終わりの時に多くの魂を救うために、どんな教会と牧者が必要かをご存じなので、ずっと昔から備えてこられました。ノアにだいたいいつ頃大洪水のさばきがあるかを教えて、備えるようにされたのと同じです。終わりの時にも、主が再臨する時点がいつか、その日と時間までではなくても、だいたいいつ頃かは教えてくださいます。空中の婚宴にあずかるにふさわしいように、花嫁の備えをする時間を下さるのです。
神はノアに箱舟を造るようにされたように、終わりの時にも多くの魂を救う箱舟を備えるようにされました。まずは霊的な箱舟であるいのちのみことばを下さったし、次は大聖殿を建て上げるようにされたのです。霊的な花嫁の備えや大聖殿建築は短い期間でできるものではありません。
もし、皆さんが主の再臨の時を1年前に知ったら、たった1年で花嫁の備えが完全にできるでしょうか? その時までまめに花嫁の備えをしていた人なら、あと1年間で終えればよいでしょう。しかし、その時まで信仰生活を適当にしていた人や、まともに始めたばかりの人なら、1年という期間は十分ではありません。心はせいていても、完全に備えるにはどうしても時間が足りないということです。
大聖殿建築のための準備も同じです。実際に聖殿を建築する工事は主の再臨の時点に近いこともあります。しかし、このための事前作業はずっと前からしなければなりません。まず霊的な準備が必要です。
ノアがその時代にあって正しい人と認められるまで時間が必要だったように、皆さんも大聖殿を建て上げるにふさわしい資格を備える時間が必要なのです。父なる神は「大聖殿はきよい子どもたちを通して建て上げる」と開拓の時から言われました。このような霊的な条件が備えられるとき、神様も公義に従って大きい財政の祝福を与えることがおできになるからです。
ノアが父なる神のおことばを信じて、そのとおりに行ったように、皆さんもただ信仰で行軍しながら、みことばどおりに花嫁の備えをしてください。信仰は今すぐ目に見えないし、手に触れなくても、変わらずに望むことです。それが公義によってまことだと認められるとき、望んでいる事がらが保証されるのです。この霊的な原理を必ず覚えて、変わらない信仰をきよく守るすべての皆さんになりますように、主の御名によって祈ります。
朝の学び63 創世記7章
創世記7:8–12
きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。
箱舟の中での動物たちとノアの家族の暮らし
前回は本文[8,9節]を説明して終わりました。すべての動物は基本的に雄と雌二匹ずつ、きよい動物は基本的に雄と雌七匹ずつが種族保存のために箱舟に乗りました。これに特別な用途のために、きよくない動物は一つがいをさらに乗せて、きよい動物は七匹をさらに乗せました。
こうして箱舟に乗った多くの種類の動物は、一年以上、どうしてその限られた空間で一緒に暮らせたのでしょうか? 強い動物が弱い動物を攻撃したり、互いに戦って害を与えるようなことが起こったなら、箱舟の中は無秩序になったでしょう。
ところが、結果的に見れば、箱舟の中でそんなことは起こりませんでした。神は洪水が終わるまで、ノアの箱舟だけは初めの光で取り巻いてくださったからです。
ノアは洪水の後も、初めの光で取り巻かれた空間に生きていました。洪水が終わる時まで、ノアの箱舟を神は初めの光で取り巻いてくださいました。それで、動物が箱舟から出てくるまで、根本の悪い属性を現さないで、ノアの言葉に素直に従ったのです。動物は自分に割り当てられた空間で、おとなしく過ごしていたのです。
ここで、動物に割り当てられた空間について、もう少し詳しく申しあげましょう。神は箱舟の中の限られた空間を一番効率的に使えるように、それぞれの動物の空間を配置されました。[創世記6:16]に記されてあるとおり、箱舟は一階と二階と三階に作られています。一番下の階から、体重が多い順にとどまるようにしました。たとえば、ゾウ、カバ、ライオン、トラのように、体が大きくて体重も多い動物です。これは箱舟の全体の安定性のために必要な配置でした。下のほうが重い時こそ、箱舟がより安定して、バランスもよく取れるからです。
二階にはその次の大きさの動物が、一番上の三階には鳥と「地をはうもの」、そしてノアの八人家族が住みました。ひょっとして「どうしてノアと彼の家族は鳥と地をはうものと同じ階で暮らせたのか」と思う方がいるでしょうか? 同じ階に住むとしても、空間がちゃんと分けられていたのです。ノアと彼の家族が暮らすのに不自由なことはありませんでした。
この他にも、箱舟の内部は空間がとても効率的に区切られていました。たとえば、食物を蓄える空間が各階にありました。もし一つの階にだけ食料倉庫があったなら、動物にえさをやるたびに上り降りする苦労がどれほど大きかったでしょうか。
神はノアに動物の食料倉庫を各階の一番右端に作るようにされました。動物に一日に一回だけえさと水が与えられました。これはみながおなか一杯になったと感じるほどの量ではありませんでしたが、だからといって、ひもじさを覚えるほど少ない量でもありませんでした。箱舟の中は神の初めの光で取り巻かれていたので、動物は一日に一回、一定量を食べるだけでも生きるのに十分だったということです。
ノアと彼の家族にとって、すべての動物にえさをやることは、一日にたった一回でも楽ではありませんでした。ところで、動物にえさをやることより大変だったのは、彼らの排泄物を処理することでした。いくら一日に一食だけだとしても、動物の数があまりにも多くて、排泄物もその量が実際とても多かったでしょう。ノアと家族がいちいち動物の囲いにある排泄物を片づけなければならないなら、これはどんなに大変でしょうか。
救われた恵みに感謝して、与えられた仕事を誠実に果たすノアの家族たち
それなら、ノアと家族はこの問題をどう解決したでしょうか? 父なる神はこれまであらかじめ知っておられて、ノアが箱舟を造るとき、排泄物の処理施設を作るようにされました。動物が囲いの中のある地点で排泄すると、その排泄物が一つの所にたまるようになっていました。ノアと家族は一つの所にたまった排泄物だけ、箱舟の外に捨てればよかったのです。
ノアと家族は箱舟暮らしの間じゅう、動物の世話をするのにたくさんの時間を割いて、とても忙しく過ごさなければなりませんでした。ですから、実際退屈になる暇も、他のことを考える余裕もありませんでした。実は肉的には骨の折れる労働をしながら一日一日を忙しく過ごしていたのです。
しかし、彼らはそれについて不平を言うことも、嘆くこともありませんでした。むしろさばきから救われたことに感謝しました。ですから、自分たちがすべきことをいやいやながらしたのでもなかったし、適当にしたのでもありませんでした。ある面ではあまりにも骨の折れる仕事でしたが、箱舟暮らしの間じゅう、感謝と喜びをもって誠実に与えられた仕事を果たしたのです。
救いの恩寵をいただいた皆さんも、このような心と姿で信仰生活をしなければなりません。今は多くの方が信仰のまことの意味を悟って、そのように行っているでしょう。各種の礼拝と祈りも自発的にしていて、奉仕することを自ら探してしている方もたくさんいます。たとえば、トイレの掃除や聖殿の掃除も、自ら進んでしている方もけっこういます。暑い時も寒い時も、変わらずに食堂や交通、掃除の奉仕をしている方も多いのです。肉的には骨の折れる仕事でも、救われた恵みに感謝して、喜んでしている方が本当に多くいます。そのすべての方々に心から感謝いたします。
ところで、このように感謝な心で始めた奉仕を、ひょっとして今は義務感から、いやいやながらしている方はいないでしょうか? 「主の恵みに感謝して奉仕する」というその心が決して変わってはいけません。
ひょっとして人に傷つけられたり、気に触ることにあっても、それによって主への心が移り変わってよいでしょうか? 主が自分をつらくさせたのでもないのに、なぜ主への心が変わらなければならないのでしょうか? 人との関係においてつらいことにあえば、それは自分の心に真理に逆らうものを発見する機会です。その機会をよくつかんで、主が願われる心にもっと美しく変えられなければならないでしょう。
ノアは家族とともに救われた恵みに感謝して、決して楽でない箱舟の中での暮らしを黙々と誠実に送りました。皆さんが霊的な箱舟の中で生きたいと願うなら、救いの恵みに感謝する心がいつまでも変わってはいけません。この一つだけ最後まで握っていても、荒波が立つ海のような世の中で、十分勝利する生き方ができるのです。これを必ず覚えて、私たちを救うためにすべてを渡してくださった父なる神様と主に喜ばれる皆さんになりますように、主の御名によって祈ります。
大洪水―新たな人間耕作の始まり
次は、本文[10節]を調べてみましょう。「それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。」とあります。神は、前の[4節]でも「あと七日たつと」雨を降らせると仰せられました。この「七日」は、神の公義を完全にする猶予期間だと言いました。神のほうで洪水のさばきを下されるとき、霊の世界に定めておいた公義のとおり、少しもつけ足したり、取り去ったりすることもなく、正確になさったことを表しています。どれほど深く思い、じっくり考えられたのかがわかります。
ところで、神が「あと七日たつと洪水のさばきをくだす」と仰せられたみことばには「ノアと彼の子孫をとおして新しく人間耕作をする」という意味も込められています。世にも「卒業は終わりではなく、新たなスタート」という言葉があるでしょう。これと同じように、大洪水のさばきで耕作の歴史が終わるように見えましたが、それは終わりではなく、新たなスタートでした。
本文の「大洪水の大水が地の上に起こった。」というみことばにも霊的な意味が込められています。「地」とは「やみ」のことで、「大洪水の大水」、すなわち「水」とは「みことば」のことです。したがって、「大洪水の大水が地の上に起こった。」というみことばには、「やみの勢力によって染まったこの地を、神のことばである水でさばいて新たに平定される」という意味が込められているのです。
敵である悪魔・サタンは、人の心にやみ、すなわち、悪を蒔くことで、この地上に彼らの世界を築き上げようとしました。世にはすっかり罪がはびこって、彼らの計画がほぼ成功したかのように見えました。しかし、父なる神はこの時のために、その時代にあって正しい人、ノアを備えさせました。そして、公義が満ちると、大水で地を覆って世を新たに平定されました。これによって、人間耕作の歴史は続くようになりました。
朝の学び62 創世記7章
創世記7:4-9
「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。」
神が下さった最後の猶予期間「七日」
本文[4節]で、神はノアに「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」と仰せられています。これは、洪水のさばきがこれから「七日後に」起こるという意味です。逆に、さばきの瞬間までまだ「七日」あるという意味にもなります。
父なる神は洪水のさばきがある前に、すでに数回悔い改めの機会を下さいました。そのたびに人々は罪と悪から立ち返らなかったので、結局洪水のさばきにあってしまいました。「さばき」を取り消せないところに至ったのです。
それなのに、父なる神は直ちに世をさばかれたのではなく、もう一度「七日」という時間を下さいました。完全数の七に相当する日を加えてくださったのです。ここにまさに父なる神の正確な公義が込められています。これがなぜ神の公義なのでしょうか?
神が下さった七日は、誰かが立ち返って救いの箱舟に乗ろうとするなら、その人に与えられた最後の猶予期間でした。神がこのように時間を下さったのに、この機会をつかまないなら、どこの誰も神を恨むことはできません。
したがって、この「七日」という時間は、神のほうで洪水のさばきをくだすまで、公義の法則からはずれないように、どれほど多くのことを問いただして、どれほど一つ一つをチェックしてみたのか、どれほど細やかにくまなく調べて、どれほど徹底的に点検されたのかを表しています。
一方、[5節]に「ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。」とあるのは、ノアのほうでも洪水のさばきのための備えが全く足りないところがなく、どんな間違いもなくできるようにしたということを表しています。
最後の瞬間まで悔い改める機会を下さる神様