
朝の学び
聖書の著者である神様が李載禄元老牧師に親しく解き明かしてくださったメッサージを学んでいます。
朝の学び114 創世記15章
創世記15:1-11
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
祝福の契約
アブラムの幻の中に現れた神様は、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃいました。アブラムは神様の召命を受けて以来、今までひたすら信仰と従順で行ってきました。しばらく自分の考えを働かせたこともありましたが、すぐに立ち返って悔い改め、神様の前にさらに完全に従う姿になりました。神様は、まさにこのように従う人にいつも盾となり、驚くべき祝福で共にされるという事です。神様は、常に私たちに祝福を与え、守ることを願う方ですが、同時に公義の神様であるため、正確な公義の中で働かれるしかありません。ですから、ある祝福を与える時は、まず祝福される器を作らせます。アブラムは、このような祝福を受ける器を、十分に準備していったので、神様はもう一度、祝福の約束をしてくださったのです。
私たちが祝福を受ける器を作るのは、意外にとても簡単です。神様は難しくて複雑なことを求められ、それを通過できないようにする方ではなく、霊的な信仰があり、また真に従う心があれば、いくらでも行なうことができることを求められます。もちろん、信仰の分量によって次第に要求していく水準も高くなりますが、信仰の分量に合わせて高めていきます。例えば本教会の聖徒の中で、完全な主日の出席と、完全な十分の一の献金を捧げる方であれば、一年中決して災いや事故に遭いません。特にある重い肉の事を行うような罪を犯すことがなければ、事故に遭わないように守ってくださいます。もし自分のミスである事故が起きても、体は傷まないように守ってくださいます。神様の子供として最も基本である主日の出席と、十一献金だけでも神様は盾になって守って下さるのです。
しかし、信仰のある方なら、また信仰の三段階以上にある方なら、このような完全な主日の出席と、十分の一だけで、自分のやることを尽くしたとは言えないでしょう。信仰の一、二段階にいる方々は、御言葉通り生きようと努力すれば、神様は祝福も一緒にくださいますが、信仰の三段階以上なら、どれほど神様の御言葉の中に完全に生き、従順していくかによって祝福が変わります。もちろん、信仰の一、二段階でも、信仰と従順によって祝福が変わりますが、神様が望まれるのは、本当に心の中心から湧き出る愛と、それに伴う従順の行いです。ですから、皆さんが中心から神様を愛し、信じて従順していけば、神様は必ず皆さんの盾と大きな報いになってくださるという事です。アブラムは訓練の過程を経て、心の中心から神様を愛し、畏れ敬い、その言葉を信じて服従する器を作っていったので、このような祝福の言葉を受けることができたのです。
続く2-3節を見ると、「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」幻のうちに神様と交わっていたアブラムは、突然、神様に相続人に関する話を伝えます。アブラムは神様に、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げたとありますが、アブラムがどれほど正確に神様の心を伝えられて、心につかさどられているのかがよく現れています。
これはどういう意味でしょうか?以前、神様はアブラムに、創世記13:16で「あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」という約束の言葉をくださいました。それでは、アブラムがこの約束の言葉を忘れているか、心に完全に信じられなかったりして、今自分の家にいる僕であるダマスコのエリエゼルを、相続人と言っているのでしょうか?そうではありません。アブラムは一度神様がおっしゃった言葉を、決して疑ったり忘れたりしなかったのです。それでもアブラムが、神様にこのように尋ねているのは、何故、神様が今、自分に現れて、「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃっているのか、心につかさどられたからです。アブラムは、神様が自分に現れたことが、自分の後とりについて約束してくださることだと知りました。今がその約束の時だと感じて、相続人について先に話をもちだしたのです。
例えをあげると、父が息子に新しい車を買ってあげると約束しました。そして歳月が経って、父の心に「さあ私が新しい車を買ってあげよう」と思うようになったのです。それで息子にその話を言い出そうとしたところ、このような父親の心を感じた息子の方から、先に、父が話し始める前に「私はこの車にずっと乗り続けても構いません。」と言います。息子は、新しい車を買ってあげるという父親の言葉を、信じなかったからではなく、むしろ息子がこう言ったことによって、息子は父親から「いや、その車に乗り続けるのではなく、もうすぐ私が新しい車を買ってやる。」という言葉を聞くことができるようになるという事です。息子は、父親が何を言おうとしているのか、正確に心に働きかけられていたので、父親から確かな約束の言葉を受け取ることができたのです。
アブラムも神様の言葉を信じられないからではなく、相続人についての言葉を先に言い出すことによって、父なる神様から後とりについて、確実な契約の言葉を受け取っているのが見られます。4-5節を見ると「主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」という、確かな契約の言葉を受けています。これは、アブラムが神様と心が通じ合い、神様の心を正確に心につかさどられたので可能な、二人だけの対話だったのです。このような契約の言葉を受けとったアブラムが、これから神様の前でどのように行ったのかについては、次の時間に続いて説明することにします。
結論
親と子の間でお互いに心が通じ合って感じることができれば、お互いに誤解することはありません。子供は親が望むことを自ら行い、親も子供が望むことを叶えてくれます。相手がなぜこのようなことを言うのかを感じるので、それに合った答えをしてあげることができます。まさにこのような関係が父なる神様と皆様の間にも成り立つことを願います。そのためには、ピリピ2:5に「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とおっしゃったように、皆さんの心の中に主の心を抱かなければなりません。御父の神と完全に一つである主の心を、皆さんの中に抱く時、御父の神の心とも一つを成すことができます。
アブラムは、このような訓練の過程を通して、自分を徹底的に捨て、ただ主の心、御父の心を抱いていったので、御父の心を明らかに悟り主管を受けることができ、御父の神との対話を通して、驚くべき祝福の言葉も受けることができました。皆さんが、迅速に霊の心を築き、霊の空間に住むことで、御父の神の心もつかさどられることができ、聖霊様とももっと明らかに交わりができるようになることを願います。それで、神様が自ら皆様の盾であり、報いになってくださり、常に凡ての事に通じる道にだけ導かれていくことを神様の名前で祈ります

朝の学び113 創世記15章
創世記15:1-11
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
序論
私たちがイエス様を救い主として迎え、神様の子供になれば、私たちの中には聖霊様が内住されるようになります。このような聖霊様の働きによって、様々な霊的な賜物を受けたり、体験をすることになりますが、聖霊の御声を聞いたり、異言の賜物を体験したり、幻を見る場合もあります。このような霊的な賜物と体験は、すべての人に一律に現れるのではなく、人によって少しずつの違いがあり得ますが、明らかなのは、霊に入るとますます多くの霊的な体験をすることになるという事です。霊の空間の中に入ってきたので、霊の空間の中で現れる現象を体験していくことができるのです。
このような霊的な体験の中で容易ではないのが、神様の声を直接聞きながら対話をすることです。聖書によれば神様の御声を直接聞く場合が出てきますが、それが普通に起きたことではなく、誰でも体験できるものでもなかったのです。それだけ神様の前にふさわしい人々が、神様の声を直接聞くことができ、その中でもごく少数だけが神様の形を見ました。
今日、神様を信じる人々の中に、「神様の御声を直接聞いて対話した」と話す人々がよく出てきますが、その中には自ら神様の御声を聞いた人もいるでしょうが、神様や聖霊の御声または天使の声を父なる神様の御声と誤って考える場合も多くあります。また、サタンの働きを受ける場合もあるので、聖霊の働きの中で霊的な体験をしていくことは重要ですが、必ず霊的に先んじていて、先にその道を体験していった人が、正しい道を行けるように導いてあげることが必要です。
幻と幻想の違い
本文を見れば、アブラムは幻の中で神様と交りをすることが出てきますが、皆さんの中で、どれが幻でどれが幻想なのか、区分できる方は多くないでしょう。もちろん、今日、ほとんどの人が体験するのは、幻想の方に近いことが多いですが、ある場合はアブラムのように幻を見ても、幻想だと分かる場合もあります。では、幻想と幻の違いは何でしょうか?まず、2つの現象は、いずれも神様が肉の空間の中で霊の空間の門を開いてくださると、一瞬霊の空間に入りながら現れる現象という共通点を持っています。また、霊の目と霊の耳を開いて、見て聞くようになさる体験的な現象は、両方とも似ています。しかし、幻想と幻は、霊の空間をどれほど広く、あるいは狭く、活用して広げてくれるかという違いを持っています。
幻は幻想に比べて、相対的に霊の空間を狭く活用して表してくださるので、幻を通して働かれる時は、多くのことを見せたり感じさせたりするよりは、声を通した対話形式で働かれます。肉の空間の中に霊の空間が広がり、光で囲まれ、その中で声が聞こえるのです。本文にアブラムが体験したのも、肉の空間の中に霊の空間の扉が開き、アブラムが瞬間、霊の空間に入るようになり、アブラムが光で囲まれた状態で、光の真ん中から聞こえてくる声を聞いたのです。その声は確かに神様の声でしたが、この時神様が自ら臨在され、アブラムが神様の形象を見たわけではなく、神様は光の中に留まっている声として、アブラムに働かれた場合です。
そして、この時、光で囲まれている姿や光の中から聞こえてくる声は、周りの他の人が見たり聞いたりできるものではなく、ただ自分だけが見たり聞いたりすることができます。それで、誰かが幻を見ている時、周りの他の人が見る時は、まるで祈っているように見えますが、感じは受けるようになります。使徒パウロも主をダマスコで迎え、声を聞く時も周辺の人々がこのように感じたことを見ることができます。
反面、幻想は幻に比べて、活用される霊の空間がより広いと言えます。肉の空間の中に霊の空間の扉を開くことは、幻として働かれる場合と同じですが、幻想の場合は、あるものを自ら見て触ったように、自らそこに行って経験したように、働いてくださいます。霊の空間を開いて、様々な形や角度から見ることができるようにするのです。黙示録を書いた使徒ヨハネの場合は、霊の目が開かれ幻想を見て、多く記録するようになります。それで幻想は、まるで映画のフィルムを見るように見えたり、自分が直接その中に入っているように見えたりします。ところが、同じ幻想でも、ある人はただ場面だけを見る場合があり、ある人は場面と共にそれに対する解釈までも、霊感で受ける人がいます。また、同じ場面の幻想でも次元が違うのです。
例えば、子供にある映画を見せてあげれば、子供は内容がよく分からないが、どんな場面を見たのかは説明できます。反面ある人が見たなら、場面だけを見るのではなく、内容までも把握することができるので、ある場面がどんな内容だったのかも説明できます。このように同じ幻想を見ても、霊的な水準によって差があるということです。まだ信仰が幼い子供の段階であるにもかかわらず、聖霊が充満している時は、恵みの中で霊の眼が開かれ、幻想を見る方々もいますが、ややもすると考えが働いて、神様が見せてくださったことを、誤って解釈することがあるということを知らなければなりません。
したがって、幻想を見てもそれが完全になるためには、心を割礼して肉の考えが全くなく、ただ明らかな聖霊の声と主管によって、霊感を通して解釈を共に受ける次元に至らなければなりません。そして、幻想は広げてくれる霊の空間の幅が広いので、どの方向や角度から見せてくれるかによって、同じ場面を見ても見る人によって内容が少しずつ違うことがあります。霊の目が開かれ、同じ場面を見た人たちが、全体的な脈絡は正確に一致しながらも、細部的な面においては若干の差が出るのが、まさにこのような理由からです。一人が見たものを他の人は見なかった場合があり、他の人が見たものをまた他の人は見なかった場合があります。
例えば、小さな画面であるものを見る時は、その内容が一目で入ってきますが、とても大きな画面であるものを見る時は、視線をどこに置くかによって同じ内容でも、人によって見た内容が少しずつ差が出ることがあるようにです。そしてこの時も、霊的な水準によって、見る内容に差が出ることがあります。霊的な水準が低い次元で見る人は、部分的なものだけを見ることができますが、霊的な水準が高い次元で見る人は、全体的なものも見ることができる能力があるからです。
このように幻と幻想が、霊的に見れば似ている面もありますが、霊の空間を活用する面において、違いがあるという事が分かりました。ところが、幻が霊の空間を狭く活用するからといって、幻を見るより幻想を見る方が、より霊的に次元が深いと言えるわけではありません。神様が幻として働かれるか、あるいは幻想として働かれるかは、それぞれその時の状況と、与えようとする内容によって違います。本文でも分かるように、神様が幻を通して働かれる場合には、もう少し個人的に親密に近づいてくるのを感じることができます。
私も主のしもべに呼ばれた後、神様の意思をもう一度確認しようとした時、神様が直接声で話してくださったことがあります。空の門が明るく開き、明るい光の中で神様の声が聞こえてきましたが、私がその時に体験した現象は幻だと言えます。その時も私が体験したことを私のそばにいた祈祷院長は、見て聞くことができませんでした。もちろん霊的な雰囲気は祈祷院長も感じましたが、その体験は私と父なる神様との間にあった個人的な親密な体験だったのです。
このように、幻は幻想よりも個人的で親密な体験であるだけでなく、より深い霊の次元を体験する通路にもなります。それは、幻にはほとんど対話的な交りが伴いますから、幻想がある場面を見せてくれて、霊感で説明してくれるとすれば、幻はある場面を見せてくれて、霊の耳を開いて声で一緒に説明してくれる場合です。それで聖書を見ると、将来に起こることや深い霊的な秘密を教えてくださる時は、幻を通して働かれる場合が多かったです。
ただし、ダニエル7:1-2を見ると、「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、」と言ったのです。これは将来最後の時になることについてダニエルが幻の中に啓示を受ける場面です。ところが、続く内容だけを見ると、まるでダニエルが幻想を見ているように見えるかもしれませんが、このような体験を幻だとおっしゃるのは、アブラハムのように幻で見られる対話形式の交わりが行われているからです。ダニエル7:15-16によれば、「私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。」と言いました。
これは神様がダニエルに今後のことについての内容を見せてくださる次元ではなく、天使を通して解釈まで教えてくださっているのです。この時、神様から送られた天使がまさに天使長ガブリエルでした。ダニエル9:21によれば「すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、」として、先に神様が前のことについて啓示してくださる時、幻の中で見たのがガブリエルだったことを語っています。
このように、幻の中に啓示を受けて記録したダニエル書と共に、やはり未来に対する予言書であるエゼキエル書を見ても、エゼキエル1:1に「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」として、エゼキエル書の内容もやはり幻を通して受け取ったことが分かるようにしてくれます。霊の眼を開いて霊の深い秘密と未来について明らかにしてくださっただけでなく、エゼキエル1:28後半節に「私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」として、以後に続く内容はエゼキエルが声を通して啓示されることを話しています。
このように幻には幻想とは区別される要素があり、その内容が幻想を通して体験できるものだとしても、その中に幻だけで体験できる要素があるとすれば、神様の側ではそれを幻と表現されるのです。したがって、幻と幻想が持つ共通点と相違点については分別をするものの、神様が最も適した方法を通して働いてくださるという事を悟らなければなりません。
本教会は開拓以来、これまで幻想と幻、啓示と代言、予言など、様々な霊的な賜物と体験を通して私と聖徒たちにいつも働いてくださいました。私に直接働いてくださったのは今まで一度も間違ったことがありませんが、私たちの聖徒たちに働かれる場合を見れば、まだ霊的に完全ではないだけに、時には自分の考えや感じが入る場合もありました。そのため、常に相互点検して補完できるように、神様は同じ内容について多くの人に同時に働いて、私の方でその方々を分別できるように働いてきました。いくら明らかに働かれるという人だとしても、心に割礼がされていなければ、それは完全なものではありません。
それで、私の方では聖徒たちが霊として分別できるように、いつも講壇から御言葉を通して悟るように導いてきましたが、それに気づかない場合もあって、色々な副作用を起こしたりもしました。このようなことが怖くて、霊の世界を休止させることができるわけではないので、私は聖徒たちが霊の世界を体験して進むことができるように、霊の世界の扉を開けておきました。その結果、今は数多くの検証過程を通して認められる方々が明らかになり、あちこちで使われるようになりました。ここで必ず肝に銘じなければならないことは、何よりも心の割礼が一緒に伴わなければならないという点です。そんな時、傲慢やこの世の誇りもないし、肉の考えや感じが入ることもないし、神様がくださった賜物がただ神様の栄光と神の国のためだけに美しく使われることができるのです。そうしてこそ、主が来られるまで使われ続け、大きな賞になるという事です。
また、神様が貴重な賜物を与えた時は、自ら「神様が私にこのような賜物を下さった。」と言ってできるのではなく、神様は霊的な秩序の中で、必ず牧者にも共に働いて下さるという事です。皆さんの中でいくら霊的な体験が多くて深いとしても、それが牧者を通して連結される時だけが、霊的な秩序に従うことであり、秩序の中で働かれる神様の意思になることです。本教会は霊の世界が無限に開かれている祭壇であるだけに、皆さんがこのような事をよく肝に銘じ、霊的な秩序の混乱がないように、常に秩序に従って出てくることをお願いします。

朝の学び112 創世記14章
創世記14:17-24
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
アブラムと聖霊様との出会い
今までの説明を聞いて、聖霊様について少しお気づきになりましたでしょうか?今日の本文にメルキゼデクとアブラムとの出会いは、まさにこのような聖霊様が父なる神様の特別な指示を受け、この地に自ら降りてきて、将来、信仰の父になるアブラムに会ってくださる場面です。ところが、私たちは後日アブラハムが体験することになるもう一つの不思議な出来事を通して、今日の本文に出てくるメルキゼデクの存在についてもっとはっきりと悟ることができます。それは創世記18章に出てくるアブラハムと聖霊様との出会いです。
創世紀18:1-4に「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。」とあります。この御言葉の中では、三人とありますが、続く内容を読むとここで三人と言ったのは、人の形をした神様と、やはり人の形をした二人の御使いであることが分かります。
22節に「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」とあります。神様はアブラハムが住んでいるところに残り、彼と対話をする場面が出てきて、他のふたりすなわちふたりの御使いは、神様の指示に従って、ソドムの町を探りに行ったのです。それで続く創世記19:1には「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」と言って、人の形をし三人のうちふたりの御使いだけがソドムの町に現れているのです。
このように、創世紀18章の内容まであらかじめ先に説明する理由は、創世紀18章に現れた神様と、今日の本文に出てくるメルキゼデクと密接な関連があるためです。先に読んだ創世記18:1-4によれば、アブラハムは三人の人物、すなわち人の形をした神と人の形をしたふたりの御使いを見るやいなや、自分を極めて低くし、あまりにも丁寧に迎えます。もちろん、いくら人の形をしていたとしても、三人の形が普通の人とは異なり、その形から発する霊的な光や気運によって、神様と交りをしていたアブラハムは、その方々が平凡な人ではないという事実をすぐさま悟って、丁寧に迎えることができたのです。このように真心で迎えることができた理由は、まさにその中の一人、すなわち人の形をされた神様を見分けることができたからです。
では、果たしてどこでお会いしたのでしょうか?アブラムは、すでに創世記14章に記録されたように、メルキゼデクとして現れた聖霊様にお会いしたのです。また、創世記18章で自らこの地に降りてきて、アブラハムと対面して言葉を交わされた方も聖霊様、すなわち聖霊の神様でした。私たちは主なる神様を見れば死ぬと言われますが、神様の息子として来られたイエス様、聖霊様を見ても死ぬわけではありません。それで、私たちが対面して見ることができる神様の息子たちを送って働かれたのです。ある時はイエス様を、ある時は聖霊様を送って働かれることで、その前に立つことができ、対話することができたのです。
モーセのような場合も後ろ姿を見て衣の裾を見ることはできましたが、自ら神様の顔を対面して見ることはできませんでした。アブラムはすでに人の形をした聖霊様にお会いしたことがあり、聖霊の神様が再びこの地に来られた時、その方を一瞬で見抜き、このようにその前に体を地面に曲げて、極めて手厚く出迎えたという事です。ところが、アブラムが同じ聖霊の神様にお会いしたとしても、今日の本文でメルキゼデクという姿で会ったことと、創世記18章で会ったこととは状況が違いました。
今日の本文の状況は、アブラムが敵との戦争のために共にした人々と帰る途中に起きたことです。つまり、シャレムの王メルキゼデクがアブラムの前に現れた時、アブラムの周辺には多くの人々が一緒にいたのです。しかし、この時、アブラムと甥のロト以外には、シャレムの王メルキゼデク、つまり聖霊様を見た人がいませんでした。これはイエスを信じる人々を迫害していたサウルが、ダマスコへの途上で神様に会った場面を考えると、簡単に理解することができます。ダマスコに近づいていたサウルは、忽然と空から光が照らされ、その中から聞こえる声を聞きます。そして、神様と対話をしているのに、サウルがこのような霊的な体験をしている間、一緒にいた他の人々は、今どんな状況が起きているのかわかりませんでした。
使徒の働き9:7に「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」とあります。今日の本文の状況もこのようで、神様の助けで大きく勝利をおさめて帰ってきたアブラムは、神様に感謝して祭壇を作って、感謝の生贄、祭祀を捧げていましたが、極めて高い神様の祭司であるメルキゼデクが現れたのです。周辺にいた人々の目にはただ神様の前に生贄、祭祀を捧げているアブラムの姿だけが見えましたが、アブラムは聖霊様と深い霊的な交わりを分かち合っていたという事です。もちろんこの時、アブラムが聖霊様だけに会ったわけではありません。三位一体の神様の一人である聖霊様がいらっしゃったので、彼を護衛しながら召使になる天軍と天使は、またどれほど多く降りてきたのでしょうか。霊の目が開かれ、その場面を見ているアブラムにとっては、彼の一生忘れられないあまりにも恍惚として胸いっぱいの感動の瞬間でした。自分に直接現れた神様に会い、信仰の父として神様の前に完全に立つことができる、祝福の契機をもう一度迎えたのです。神様もアブラハムを信仰の父として立てる前に、このように出会いのみわざを通して、信仰と確信を植えつけ、信仰の父になれるように導いたことを見ることができます。
義の王、平和の王メルキゼデク
「メルキゼデク」という単語の、肉的な意味は「私の王はゼデク」ですが、霊的な意味は「分かれた者のひとり」です。まさに初めに一人でおられた御父の神が、人間耕作の大きな摂理と計画の中で分離して下さった、御子の神と御霊の神様のうちのお一人であられるのです。旧約時代は御父の神ご自身が、親しくつかさどって導いていかれた時代ですが、だからといって、旧約時代の間、主や御霊の神が何もしないでおられたのではありません。特に、御霊の神は、御父の神の御旨を受けて、[主]の霊として活発にその働きを助けておられました。その中の一つとして、今日本文のメルキゼデクの姿で現れ、アブラムと交わり彼を祝福してくださったのです。
ヘブル7:2にはメルキゼデクについて、「またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」と書いてあります。その名の意味を義の王と平和の王と訳しています。それなら、御霊の神が義の王、平和の王と呼ばれる理由は何でしょうか?
私たちがイエス様を救い主として受け入れて、真理の御霊である聖霊を賜物として受ければ、この時から心の中におられる聖霊は、罪と義とさばきについて一つ一つ悟るように導いていかれます。真理と真理でないもの、義と不義、罪と悪が何かを見分けて、義と善の中に入って来るようになさるのです。また、神の深みにまで及ばれる御霊は神の御目に正しいことが何か教えてくださいます。コリント第一2:10に「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」とあります。それで、完全な義を行うようになさるのが聖霊の働きであり、これが義の王と呼ばれる理由です。
それだけでなく、私たちが聖霊を賜物として受けると、明白に現れる変化が心の平和を感じることです。罪人として死んで永遠に地獄に行くしかなかった人が悔い改めて、罪の赦しを受け神の子どもとされて天国に行けるようになったしるしが、まさに聖霊を賜物として受けることです。聖霊を受ければ天国に行ける神の子どもと認められたので、自然に心に平和を感じるようになるのです。聖霊を受けた神の子供たちが、御霊に導かれ従って生きていく時に、世が与えられない平和を味わえるので、御霊の神を平和の王と呼ぶのです。
アブラムは、このようなメルキゼデクに自分が得た物の十分の一を捧げることで、メルキゼデクを認めると同時に、自分に属するすべてのものが、ただ創造主の神から出てきたという事を認めるのです。さらに、神の御前にささげる十分の一献金がまだ律法として決まったことでもないし、誰かから学んだことでもないのに、アブラムは心に働きかけられて、神の御前に十分の一を捧げました。神はアブラムにより大きい祝福、すなわち、信仰の父として完全に立てられる祝福を与えようと、彼の心をつかさどって下さったのです。次回からは、神様がアブラムに与えた契約の種についての約束と、彼の子孫に渡すとおっしゃったカナンの土地に対する具体的な約束について見ていきましょう。
結論
アブラムがメルキゼデクに出会う驚くべき祝福を受けることができたのは、彼が父なる神様の前に積み上げてきた信仰の義が認められ、さらに一段階昇華される(ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)時点を迎えたためです。ロ-マ4:2-3に「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。」とあります。このように、アブラムが、神様の前に義と見なされることができたのは、単に表に現れる行為としてではなく、彼の心の中心から出てくる信仰の行いによるものでした。律法による行為だけで救われた旧約時代に、アブラムはすでに神様が本当に望む、心に信じられる信仰を所有していたのです。
言い換えれば、アブラムが神様の前に行った行為は、単に肉的な行為の次元で終わったことではなく、心の中心から神様を信じることによって、それを行いでも表したのです。そのため、アブラハムは旧約時代に限っての信仰の父ではありません。聖霊時代にも依然として信仰の父として、すべての信じる者にとって信仰の表象になりうるのです。もちろん、アブラムがメルキゼデクに会った時点で、アブラムの信仰の義が完全だったわけではありません。しかし、神様はアブラムの信仰の義を認め、さらに一段階昇華された義の次元に達するように、愛する子の中の一人を送ってアブラムを祝福されたという事です。
そして、アブラムは、このような祝福のきっかけを通して、より迅速に信仰の父として準備されていくことで、神の前に認められて出ることができました。アブラムのように皆さんの信仰が成長していき、霊に入っていくことにも段階があります。それで皆さんが一段階を突き抜ければ、次の段階に向かっていけるように神様は力と恵みを与えられます。アブラムにメルキゼデクを送ることで、彼の義が御父の神の前に告げられたことを認めてくださったように、ある祝福や恵みの体験を通して、霊で一段階入り込んでいることを感じさせてくれるということです。例えば、祈りを一段階踏み込む時も、ある瞬間、以前と変わった自分の祈りを自らが感じながら、「私がもう一段階祈りの能力を受けたのだな」と悟ることができるようになるということです。

朝の学び111 創世記14章
創世記14:17-24
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
序論
聖書において、イスラエル民族の中に、公式に祭司という職分が登場するようになるのは、出エジプト記の事件以後です。出エジプト記28:1によれば、神様がモーセに告げたのは「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」と話しています。レビ族として生まれたアロンとその息子たちであるナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルが、祭司として立てられた最初の人々だったのです。しかし、このように聖所が建てられる前だからといって、聖所の職務を担う人がいなかったわけではありません。神様の前に生贄を捧げる祭祀は、アダムが罪を犯してこの地に追い出されて以来、ずっと行われてきました。
創世記4章を見ると、アダムの息子たちが供え物を取って神様の前に生贄を捧げる場面が出てきます。彼らは両親のアダムとエバからすでに神様の前に生贄を捧げることについて学び、生贄に込められた意味についても知っていました。その後もノアとアブラム、そしてアブラハムの子孫であるイサクやヤコブも、やはり神様の前に生贄を捧げる場面が、聖書のあちこちに記録されています。そのため、祭司の職分が正式に生まれる前にも、神様の前に生贄を捧げる祭祀は続けられ、ノアやアブラムのように祭司長と呼ばれることはなくても、祭司長の職分を果たす人々がいたのです。
前回から説明するメルキゼデクには、正式に祭司長の職分が生まれる以前に、「極めて高い神の祭司」という表現が使われたという事です。もちろん当時、他の異邦民族の中には、彼らが仕える異邦の神のための宮がありましたが、神様の前に生贄を捧げるための宮の職分は、モーセの兄アロンが初めてだったにもかかわらず、メルキゼデクは祭司長という職分として記録されています。
そしてメルキゼデクについて記録したヘブル書の著者は、へブル人への手紙7:3で「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」とし、へブル人への手紙6:20には「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」とし、イエスをメルキゼデクの位に等しい神の大祭司と表現しています。つまり、イエス様とメルキゼデクを同等のレベルに置いて、イエス様について説明していますが、このような条件にふさわしい方は果たして誰でしょうか?ただ一人、三位一体の神様の中の一人である聖霊様という事が分かりますが、この時間に聖霊様について明らかに悟ってください。
メルキゼデクとして来られた御霊の神
ガラテヤ4:6によれば「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」として、聖霊を「その息子の霊」すなわち「御子の御霊」と言っています。「その息子の霊」というから「ひょっとして主の霊ではないですか?」と尋ねる方がいらっしゃるかもしれませんが、私たちの心の中に送られた霊は、皆さんもよくご存知のようにまさに聖霊様です。コリント第一3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とおっしゃったように、神の御霊はまさに私たちの心の中に住んでいるのです。父なる神様は救われた神様の子供たちに聖霊を贈り物として下さいますが、聖霊を受けた人は神様を父と呼ぶことができるのです。ここで私たちは、聖霊様を「御子の御霊」と表現したことに注目しなければなりません。よく人々はイエス·キリストだけを神の子だと思っています。しかし、聖書には必ずしも主だけが神の子だと表現しているわけではありません。
へブル人への手紙1:6には「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」として主を長男(firstborn)と表現しています。また、ヨブ記38:7には「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」とあり、神様が天地万物を創造される時に、神の子たちはみな喜んで声をあげたと言いました。神様の子たちと複数として出てくるということです。しかしもしかして、神の子たちを御使いと思ってはいけません。へブル人への手紙1:5に「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。神がかつて、御使いの中の誰かに、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」また「わたしは彼の父となり、彼は私わたしの子になる。」と言われたでしょうかとして、神が御使いを子と呼ばないことをはっきりと言っています。
したがって、天地万物を創造される時、神が神の子たちと表現したのは、私たちの主の他にもう一人の子がいることを明確に言っているのです。そして御使いではないこともはっきり言っているのです。それでは天軍ですか?もちろん天軍はさらに違いますね。したがって、ヨブ記に記録された神の子たちは、長男の神様ともう一人の方である聖霊様を指すのです。聖霊様も主と同じように神様の息子の地位を持っていらっしゃるのです。
ひとり子
イエス様と神様の子である聖霊様、それなら聖書にはなぜイエス様に対して「ひとリ子」または「ひとり」という表現を使ったのでしょうか?まるで息子が一人であるかのようにです。しかし、皆さんが聖書において、イエス様に対してこのように「ひとり」という表現を使った御言葉を調べれば、まさにイエス様がこの地に救い主の資格で来られたことについて話す時に、使われたことが分かります。すなわち人間耕作の摂理の中で、私たちの罪の身代わりとなって下さるために、人の体を着て救い主としてこの地に生まれたイエス様を修飾する表現として、「ひとり子」という単語が使われたということです。例えば、ヨハネ3:16の御言葉一つだけ見てみると、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言いました。この御言葉は使徒の働き4:12に「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」という御言葉と対になって、私たちが信じて救われることができる唯一の名前は、ただ「イエス様」一人だけであることを言っています。
したがって、このヨハネ3:16の御言葉では、この地に救い主の資格として来られた神様の息子が、ただ一人だけだという意味で、ひとり子という表現を使っているという事です。もし聖書に救い主として来られたイエス様に対して、このようにひとり子という表現を使わなかったとすれば、イエス様以後にも多くの人が現れ、「私が救い主だ」と話すこともできたでしょうが、聖書はすでに救い主はただ一人イエス様だけであることを明確に記録しています。だからイエス様以外には誰も、自らを救い主と言えないことであり、信じる人々は決してそのような迷いに陥らないことができるのです。したがって、私たちはイエス様をひとり子と表現したことが、天でも息子がただイエス様一人だけいるという意味ではないことを知らなければなりません。
聖霊様もまた、主と同じように父の神様から分離して出てきた方で、主のように父の神様の息子の位置にいらっしゃる方だという事です。それで聖書は聖霊様に対して表現する時、「神の聖霊」という表現を使います。聖霊様はまさに父なる神様から来た方であることを明確にしているのです。このように聖霊様は主と同じように父なる神の子であり、独立した個体として実体を持っていらっしゃいますが、今日、信じている人たちが大部分この事実を知らずにいます。神様はある形の実体があると思いながらも、聖霊様は実体があると考えられないのです。しかし、聖霊様もやはり一つの個体として、聖霊の本体を持っていらっしゃるという事です。ただ、その姿がいくらでも変形することがあります。
今後、皆さんが父なる神様の根本の次元である四次元について学ぶことになれば、三位一体の神様は、心に抱く通りにその姿が変わることができるという事を、知ることになるでしょうが、聖霊様は働きの特性上、人々の中で色々な姿で働かれます。主はほとんどの場合、人の子の姿で見られるので、霊の眼が開かれた人々が主にお会いする時には、人と同じ形で見ることになります。反面、聖霊様は、本体の形状だけを着て現れるのではなく、時には鳩の形で、時には火や風の形でも働かれます。
本文のメルキデゼクのように、聖霊様が人の形で働かれた場合もありますが、聖霊様の働きはあまりにも多様で幅広いため、大部分が霊の分離を通して別れた色々な姿で働かれるのです。 このように聖霊様が分離して働かれる時は、それぞれの働きに合わせて形を変えたり、時には特定の形がなく働かれたりします。そのため、聖霊様が多くの働きをされたにもかかわらず、人の形、すなわち私たちのような人の形で感じる人はほとんどいません。たとえ聖霊様が人の形で現れても、当然神様や預言者として考えてしまうのです。だから今まで聖霊様の存在に対して多くの部分が隠されているしかなかったのです。

朝の学び110 創世記14章
創世記14:17-24
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
シャレムの王メルキゼデクは果たして誰なのか?
それでは、神の一人子であり、神様と根本的に一つであるイエス様に匹敵する人物であるメルキゼデクは、果たして誰でしょうか?もしメルキゼデクが被造物の中の一人なら、どうしてあえて神様の息子であるイエス様に対して、メルキゼデクの位に等しいと言えるでしょうか?位とは先にも説明したように、職位、身分、等級の順番を意味しますが、神の息子であるイエス様が彼の位に等しいと言えるためには、メルキゼデクもやはり、神の息子であるイエス様に劣らない位置にいらっしゃる方でなければならないという事を、私たちは十分に知ることができるのです。
果たしてこのような方は誰でしょうか?父なる神様と主様と同等の隊列に立つことができる方なら、その方は当然、聖霊様であることが分かります。このように申し上げると、考えを働かされる方々は「本文に明らかに「シャレムの王メルキゼデク」と書いてあるのに、どうしてその方を御霊の神様だと言うのですか?」と反問されるかもしれません。私たちはここで「シャレム」の意味をよく知らなければなりません。「シャレム」がヘブライ語では、安全な、平和なという意味を持っており、肉的には後のエルサレムになる都市の地名を表しますが、霊的にシャレムとは神の国を意味します。
詩篇76:1-2によれば「神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。」とあり神様の仮庵がシャレムにあると言います。また、詩篇135:21には「ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。」と記されています。ここでもエルサレムとは、肉的な地名のエルサレムではなく、天にある神の城を意味する言葉で、エルサレムはヘブライ語で「平和の城」または「サレムの城」という意味を持ちます。したがってシャレムの王とは、神と等しい方であり、神の国を治められる方、すなわち、御霊の神のことです。それで、黙示録21:2を見ると、「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」このように天にある神の都エルサレムをこの地の都エルサレムと区分するために、新しいエルサレムと表現しています。
したがって「シャレムの王」とは単純にこの地上の都市を治める王ではなく、父なる神と同等な方として神の国を治める聖霊様を意味します。それでは、メルキゼデクがなぜ聖霊様なのかについて、もう少し調べてみます。ヘブル人への手紙ではメルキゼデクについて少し具体的に説明されています。へブル5:10によればイエス様に対して「神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」とあり、イエス様がメルキゼデクの位に等しい大祭司長になったことを言及しています。ところが、続く、へブル人への手紙5:11には「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」と述べています。つまり、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、メルキゼデクについて多くのことを知っていましたが、それを話したときに聞く側は霊的に理解しにくいので、言葉を慎んでいるのです。
ペテロ第二3:16に「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とある言葉のように、霊の知識がなく霊的な分別力がなければ、ややもすると神の言葉を誤って解いて、自分自身に滅びを招くこともありうるからです。
しかし、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、聖書を読む人たちに、霊感の中でメルキデゼクについて悟るように、へブル人への手紙7章にいくつかの手がかりを提供しているという事です。まずヘブル人への手紙7章4節に「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」としながら続く7節に「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と話しました。これはどういう意味でしょうか?
本文、創世記14:19-20節によれば、「彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」とあります。メルキゼデクがアブラムに祝福を祈ってあげていて、アブラムはこのようなメルキゼデクに自分が得たものから十分の一を差し上げています。ヘブル人への手紙7章では、まさにこの場面を説明しながら、「下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と言いました。当然、高い者が低い者に祝福を祈るということです。
ところがアブラムは将来、信仰の父であり、よみでも頭として、旧約時代には救われる魂が死ぬとアブラハムのふところに抱かれたことが分かります。また、神様の友と称えられるほど、神様の前に完全な人でした。彼の霊的な水準や天国での序列を考える時、あえて被造物として誰もが「それより優れている」「もっと高い」と言えるわけではありません。では、アブラムを祝福するほど高い位置にいる方なら誰でしょうか?さらにアブラムは、メルキゼデクに神様に捧げなければならない十分の一を捧げたとあります。十分の一というのが、まだ律法によって決まってもいない時でしたが、アブラムは心の主管を受けて、このようにメルキゼデクに十分の一を差し上げたという事です。これはつまり、アブラムはメルキゼデクがどんな方だということを知ったという意味にもなります。
へブル7:3では、メルキゼデクについて非常に決定的で重要な説明が出ています。「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」と言ったのです。それで、父も母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもないと言いましたが、この条件に合う被造物が果たしてどこにいるでしょうか?続くへブル7:24を見ると、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」と言い、主が持っている祭司長の職分が永遠であることを物語っています。そしてヘブル10:21には「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」と言い、主が神様の家を治める偉大な祭司だと言っています。ところが、メルキゼデクもやはり常に祭司であり、神様の子を彷彿させるということです。「彷彿」というのは目の当たりに見る思いをするという意味で、ヘブル書の著者がメルキゼデクをこのように表現したのには理由があります。
すでに「創世記講解」を通して霊的な言葉を聞いた方々は、聖霊様がどんな方であり、また三位一体の神様との関係がどうなのかを知っていますが、このような霊的な知識がない人に、仮に御霊の神についてはっきりわかるように言うなら、理解できないだけでなく、色々なとんでもない誤解を生むこともあります。それで、メルキゼデクを「神の子に似たものとされ」とだけ言って、正確な表現を避けたのです。しかし、このようにメルキゼデクについて明らかに悟っていたヘブル書の著者だったので、ヘブル1:6によれば「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」と、主を長子(firstborn)と表現しています。ここでなぜ主を長子と表現したのか、また主を一人子と表現した理由は何なのかについては次の時間に説明したいと思います。
結論
今日はメルキゼデクについて少し説明しましたが、おそらく霊的なことを考える方々は、今日の言葉を通してすっきりと解ける分野があったと思います。私たちが祈って聖霊の導きの中で悟るようになれば、深い霊的な分野に対しても聖書の中でいくらでも解答を見出すことができます。次の時間にもメルキゼデクについての説明が続きますが、皆さんが次の時間の言葉を聞くと、聖書を通してより明確に確証できるようになります。そしてお願いしたいのは、皆さんが霊的な言葉を聞く時は、決して人の考えや知恵を働かせてはいけないということです。
コリント第一2:12-13には「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」と語っています。したがって、神様の言葉を人の知恵の中で解こうとしたり理解しようとせず、神様から来た霊である聖霊様の導きを受けて悟って下さい。皆さんがこのような霊の知識を知り、霊の世界についても知ってこそ霊に入ることができ、三位一体の神様についても明らかにすることができるのです。今日の御言葉が皆さんに大きな能力になり、信仰になって、迅速に父なる神様が望まれる霊の人々として完全に出てこられますように主のお名前で祈ります。
