
朝の学び
聖書の著者である神様が李載禄元老牧師に親しく解き明かしてくださったメッサージを学んでいます。
朝の学び142 創世記21章
創世記21:1-8
主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでし ょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
序論
前の時間には、父なる神様が周辺の異邦の民族にアブラハムの存在を現わし、彼の存在を確実に植えつけていく契機になった事件について調べました。まさにアブラハムが、妻のサラをゲラルの王アビメレクに奪われた事件でした。肉で考えればこの事件が心の苦しみを伴うことに見えるかもしれませんが、結果的にはむしろアブラハムに祝福でした。この事件を契機にアブラハムは、周辺の異邦人にまで、神様に愛され保証される預言者として心に刻まれるようになり、彼らにアブラハムをあえてどうすることもできない恐ろしい存在と感じるようにされたのです。それで創世記21:22に見れば「そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。『あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。』」と告白するのを見ることができます。このようにアブラハムの存在が周辺の異邦の民属の中にも植えつけられたので、アブラハムは彼らの勢力の中でも自分の人生の基盤を築き、将来形成される選民イスラエル民族の基礎を磨いていくことができたのです。
もし周辺の異邦の勢力がアブラハムを単純な族長程度だと考えたなら、彼らは自分たちの勢力を広げる過程で、アブラハムを自分たちの勢力の下に入れるために虎視眈々と機会をうかがっていたでしょう。しかし、アブラハムは周辺の異邦の民族の間でも、決してむやみに接してはならない神の預言者と見なされたため、そのような周辺の脅威から守られることができたのです。もちろんアブラハム自らも、自分と自分に属した人々を守る力を持っていましたが、それよりは神様の保証される証拠が伴ったので、周囲の人々は彼に危害を加えようとはしなかったのです。
詩篇127:1に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」とおっしゃった通り、神様が守って共にしてくだされば、完全に守られて保証されるという事です。アブラハムにはこのような証拠が伴ったので、妻のサラを奪われる事件が、以前のように肉の考えを働かせて生じたのではなく、神の摂理の中で許された事件だったことがよく分かります。もちろん以前、妻を奪われた時も、結果はすべてを働かせて益としてくださいましたが、今回妻を奪われる事件は、それ以上の祝福の実として出てきたのです。今日の本文はいよいよ約束の子孫であるイサクが生まれる内容です。
神様の定められた時期と時に生まれたイサク
1-2節に「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。」とありますが、神様がイサクをくださったのがアブラハムのためであることを明確にしていらっしゃいます。前に神様がアブラハムにサラを通して息子を産ませるとおっしゃった時、これを聞いていたサラはその言葉を信じられず、つい笑ってしまいました。だから、このようなサラの信仰では、約束の子孫であるイサクを得ることができなかったのです。しかし、神様はサラを見たのではなく、神様の言葉を真剣に信じるアブラハムを見て、ついにサラが妊娠して息子を産むようにしたのです。
これは今日も神様のはたらきを成し遂げるにあたって、頭になった人の信仰と行いがどれほど重要かを悟らせてくださいます。サラが息子を産んだのは、アブラハムの子孫として許されたことなので、たとえサラの信仰が足りないとしても、アブラハムの信仰を見て神様が働かれたことです。これと同じように、たとえ下の人たちの信仰は足りない場合だとしても、神様は頭になった人の信仰を見て働かれる場合が多いです。したがって、神様のはたらきを成し遂げるにあたって、頭になった人は神様に愛され信仰のある人でなければなりません。肉的な条件や外見を見るのではなく、霊的なことを優先して立てなければならないのです。このように神様はアブラハムの信仰を見て、彼に約束された子孫であるイサクを許されましたが、それが正確な時期に至って成就するのを見ることができます。
人の考えでは「アブラハムにもう少し早くイサクを与えても良かったのではないか?」と思うかもしれませんが、伝道者の書3:1に「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」とおっしゃった通り、すべてのことには定めた時期があり、それを成し遂げる時があるという事です。そして、それを決める方はただすべてのことをご存知の神様なので、時期と時を神様が一旦決めておかれれば、人が急いでいるからと前倒しされるのではありません。人の側では神様の御心と摂理を信じて、変わらない信仰で祈りながら願うのです。アブラハムは、約束の子孫を許した父なる神様の言葉を疑うことなく信じたので、歳月が経ってもその信仰が変わらなかったのであり、結局、神様が決めた時期が次第に目に見える実として許されたのです。このように神様の考えと人の考えは違うこともありうるということを知って、決して人の側で神様の事を判断しようとしてはいけません。
ところが、イサクを得たアブラハムについて「年老いたアブラハム」と言っていますが、神様があえて年老いたアブラハムと表現した理由は何でしょうか?これは肉で見ればすでに年を取って老いて、とうてい息子を産むことができない状況であるにも関わらず、神様は彼の信仰どおりに働かれたという事を物語っているのです。このように、肉では到底望めず考えることもできないことを願って信じることが、まさに信仰です。アブラハムはこのような信仰を持っていたので、ローマ4:18に「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」と記されています。皆さんの信仰はどれくらいですか?
神の言葉どおり従順するアブラハム
続く3-4節に「アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。」とあります。イサクという名前は、すでに神様が彼を産む前にくださった名前です。 創世紀17:19に「すると神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』」と言われたのです。このようにアブラハムは神様がくださった言葉を忘れずに、それを心に刻んで行ったことを見ることができます。
イサクが産まれてから8日後に割礼したのも同じです。創世記17:12に「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」という言葉に従い割礼を行ったのでした。前に神様が、アブラハムと彼の属したすべての男子に割礼を行うように命じた時も、アブラハムは話を受けたその当日に、割礼を行ったことを見ることができます。だから神様はこのように考えを働かせず、御言葉に完全に従順していくアブラハムを愛するしかないのです。5節には「アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。」と言って息子のイサクを産んだことが神様の摂理の中に正確な時を合わせて働かれたことをもう一度おっしゃっていらっしゃいます。
悔い改めの心と共に喜びと感謝の心で笑っているサラ
6節では肉と霊の明白な違いが表れています。「サラは言った。『神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。』」と言ったが、サラは前にも神様が息子をくださるという話を聞いた時、それを信じられず笑ってしまいました。 「どうして90歳にもなったサラと100歳にもなったアブラハムから子供が生まれるのか」とサラ自身が信じられなかっただけでなく、彼の話を聞く人々の中でも肉の人はその話を信じられず笑うことになるのです。しかし、結果的にサラは神様の言葉通り、息子のイサクを産むことになりました。そうしながらもう一度笑うことになりますが、この時笑うのは喜びの笑いでした。これまで信じられず、望めなかったことを経験することになると、感謝と喜びが押し寄せてきませんか?自分が完全に信じられなかったことが悔やまれながらも、神に対する感謝と喜びによって生きるという喜びの笑いで笑うことができたのです。
しかし、このように神様のみわざを体験して嬉しくて充満するからといって、彼女の心が変化するわけではありません。将来、以前と似たような状況に置かれることになるので、その中にあった悪の形が再び出てくることが分かりますが、その内容は次の時間に説明されるでしょう。 受けた恵みと充満さを持って、自分の心を割礼して変化させる機会にしなければならないのに、そうではなく瞬間の喜びと充満さで終わってしまうので、結局、心の割礼も果たせないまま時間が経てば、依然として以前の姿がまた出てきてしまうのです。肉に住む人たちは、直接見て聞いて体験するとしても、このようなしばらくの間の喜びと充満さがありません。あるきっかけを通して神様のわざを自分が直接見て体験した後も、依然として信じられず疑うことを見ることになります。 「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」と言った通りに、信じずに疑う人々にはいくら神様の生きている証拠を見せても依然として信じられず笑ってしまうのです。
今日の本文でもう一つ悟らなければならないことは、サラが笑ったのが一方では恥ずかしさのためだったという事です。 自分が年をとって年老いた体で子供を産んだということを人々に言うのは恥ずかしいことですね。今日もこんな方がいます。 これはまさに神様が癒してくださったのに、恥ずかしいと言って証ししようとしない方々です。 しかし、神様はそれを喜びません。証しというのは、私を癒してくださって答えてくださった神様の前に感謝の告白であり、癒しと答の確信に対する信仰の告白です。7節に「また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」」とおっしゃったのも、肉では到底不可能なことを神様が成し遂げたという事をもう一度強調するためです。人の考えではサラがその年で子供を産んで乳を飲ませるということは想像できないことでしたが、サラが子供を産んだことは明らかな事実であり、これはただ神の能力だけで可能なことだという事実です。
結論
神様が約束の子孫であるイサクを許したのは、アブラハムの信仰を見て働かれたことです。同じ言葉を聞いた時、アブラハムは信仰で受けました。反面サラは信じられなかったのですが、その違いはその後も現れるようになります。信仰で受け取れなかったサラは、息子のイサク一人を産むことで終わりますが、アブラハムはその後も6人の子供をさらに産みました。ローマ4:19に「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」と言った通り、アブラハムは百歳になった頃にすでに自分の体が死んだようであることが分かりました。そのようなアブラハムが100歳でイサクを産んでも75歳をさらに享受し、6人の子供を産んだということは、彼の体が一時的に生き返ったのではなく、若返りしたという事実を物語っているのです。これがまさに魂が幸いな人とそうでない人の違いであり、アブラハムはどんな状況と環境でも動揺しない完全な信仰を持っていることを発見することができます。
当時、彼の周辺には多くの異邦の民族が住んでいて、異邦人たちと交流しなければならないことが生じざるを得ない状況でしたが、アブラハムの信仰は周辺の環境と条件から影響を受けませんでした。アブラハムの甥であるロトは、ソドムの町の人々の中で暮らしながら、信仰に多くの否定的な影響を受けたのとは異なり、アブラハムはたとえソドムのようなところに住んでいなかったとしても、異邦人の中で信仰を堅固に守り、むしろ周辺の人々に神様の生きておられ全能であることを示し、証しする人生を送りました。私たちもたとえ世の中で世の人々と接して暮らすとしても、世の中に染まっていくのではなく、むしろ神の子供になった権勢と光りの姿を通して、神を証しできなければなりません。これは結局、どれほど揺れない堅固な信仰とまっすぐな心を持ち、光の中で生きていくのかにかかっているという事に気づき、アブラハムのように本当に揺れない盤石の信仰の所有者になりますように、主の名前で祈ります。

朝の学び141 創世記20章
創世紀20:1-18
アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。 彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。」そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。
ゲラルの王アビメレクに妻を奪われたアブラハム
ロトの二人の娘のように、自分の考えの枠組みによって肉の考えを働かす場合が多くあります。自分の限界の中で答えを探そうとすると、これが肉の考えになってしまうのです。私たちはこのような例を創世記12章に出てくるアブラムの場合を通して見てきました。飢饉を避けてエジプトに下ったアブラムは、自分の妻をそこの人々に奪われるのではないかと思い、妻に自分を妹だと言いなさいと言ったのです。もちろん、これは嘘ではありませんでした。実際、サライはアブラムの異母姉であり、これはアブラムが自分の考えの中でそれなりに最善の方法を求めたものでした。しかし、その結果はどうなりましたか?アブラムは結局、エジプトの王に妻を奪われ、自分の考えが間違っていることを悟ってから、神様の方法で再び妻を探すことになりました。このように、自分の方から見ると良い道が、時には神様の方から見ると全く違うことがあるのです。
その当時、肉の考えを働かせたことに対して大きな教訓を得たアブラハムが、再び似たような事件に出会うことになります。この事件は、肉的な状況だけを見ると、前にあった事件とあまりにも似ているように見えますが、それぞれの事件に対する霊的な意味は全く違います。以前にエジプトの王に妻を奪われるようになったのは、アブラムが肉の考えを働かせた結果であり、これによってアブラムは自分を発見し、徹底的に打ち砕かれる契機にすることができたのです。しかし、この事件は、アブラハムが肉の考えを働かせて始まったことではなく、神様がアブラハムを現わすためにお許しになったことなのです。
アブラムがエジプト王に妻を奪われた時と、今再びゲラルの王アビメレクに妻を奪われた時とは、アブラハムの信仰が全く違う状態でした。すでに長い歳月の訓練を通して肉の考えが徹底的に砕かれたので、全能な神様を全面的に信じて頼る信仰になりました。このようなアブラハムが、どうして以前の信仰状態で肉の考えを働かせて行ったことを再び繰り返すことができますか?だから今日の本文の事件は、神様の摂理の中で神様がすべてを導かれてなされた事件だという事です。これは将来、アブラハムとその子孫たちが一つの民族を形成していけるように徐々に準備させる過程でした。
神様は今回の事件を通してアブラハムがどんな人物であり、彼がどんな権勢を持った人なのかを周辺に確実に植え付けてくださったのです。このような神様の摂理の中で行われたことなので、結果を見ればすべてが働いて益とされ、祝福として出てくることを見ることができます。たとえアブラハムが彼の妻サラをアビメレクに奪われてしまったとしても、神様はアビメレクに決してサラに近づけないように夢を通して働かれます。創世記20:3に「ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。『あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。』」とおっしゃいました。しかし、アビメレクの立場では言いたいことがありました。4-5節に「アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」」と言ったのです。これは、アビメレクが、サラが他人の妻であることを知っていながら、邪悪な心から近づこうとしたのではないことを示しています。アビメレクのこのような心を神様も知っていたので、6節に「神は夢の中で、彼に仰せられた。『そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。』とおっしゃいました。
アブラハムに祝福を与えるための訓練
続く7節には「『今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。』」とおっしゃいます。先程、神様が今回の事件を許された目的が、アブラハムがどんな人なのかを周辺にはっきりと知らせるためのものだと言いました。まさにアブラハムを預言者だとおっしゃって、アブラハムの祈りによって彼が生きられることをおっしゃっています。夢を見たアビメレクは恐れるしかなかったし、彼の話を聞いた臣下たちもひどく恐れるようになります。これはすなわちアビメレクと彼の臣下たちが夢の内容を信じたという意味であり、その心に善良な良い心があったことを物語っています。心が悪い人たちだったら、このような状況でむしろもっと悪を行うはずなのに、アビメレクと彼の臣下たちは夢に働かれた神様の言葉を信じ、この状況を解くことができる善良な方法を探すことになります。
アビメレクは、自分はたとえサラがアブラハムの妻ではなく妹だと思って娶ろうとしたとしても、これによってサラとアブラハムが体験しなければならなかった心の苦痛を何とか補償しようとしました。これもまた、アビメレクが善良な良い心を持った人だったことを示しているのです。もし邪悪な心を持った人だったら、むしろアブラハムとサラに嘘をついたと怒鳴りながら、ただ何もなかったように終えたはずですが、アビメレクはそうではありませんでした。14-16節に「そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。『見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。』彼はまたサラに言った。『ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。』」と言いました。アブラハムにはもちろん、サラにも最大限の誠意を見せ、善で状況を解決していこうとしています。それ故に神様はアブラハムにこのようなアビメレクに恵みを施すようにされました。
祝福してくださるための神様の方法
アビメレクはゲラルという一国の王として、彼にとって最大の関心事は何でしょうか?物質が乏しいのでもなく、名誉と権勢が足りないわけでもない彼にとって、最も大きな関心事は、まさに代を受け継ぐ跡取りに関する問題です。したがって、神様はアビメレクにとって最も大きな関心と問題になりそうな分野を、アブラハムの祈りによって解決されるようにされたのです。これによってアブラハムの存在が彼らの心に深く刻まれるようにされました。すべての状況をご存知の神様は、このように最も確実な方法でアブラハムがどんな人であり、どんな権勢を持った人なのかを周辺に確実に植え付けてくださったのであり、共に大きな祝福までも許してくださいました。
これはアブラハムが肉の考えを働かせて起きたのではなく、神の摂理の中で行われたことだったことを確実に示す証拠になっています。神様の摂理の中で行われたことは、たとえすぐには損をするように見えるとしても、結果を見れば祝福であり、神様に栄光を捧げることになるという事実です。1999年に教会にあった試練も同じです。その当時は悔しい濡れ衣を着せられるようでしたが、私たちが神の摂理を信じて従順で忍耐し、善の方法で出た時に、今日の結果を見るとどうなりましたか?すべての誤解が解けており、私たちは以前よりさらに立場が高くなり、現れる実を通して私と本教会を確実に保証してくれています。今日、本教会で現れている数多くの神の力の働きを通して、父なる神様はどれほど栄光を受けておられますか?だから私たちはすべてのものを、実を通して分別しなければならないのです。次の時間は、約束の子孫であるイサクの生まれる内容についてみていきます。
結論
愛する皆さん、先に申し上げた通り、アビメレクは善良な良い心を持った人として、夢に働かれた神様の言葉を信じ、アブラハムを預言者として信じたので、彼にも結局はすべてを働かせて益とされる結果として出てくるようになりました。 彼がたとえ神の摂理を成し遂げるための道具として用いられた人であったとしても、善良な良心を持った人だったので、結果は祝福として出てきたのです。一方、出エジプトの当時、エジプトの王はどうでしたか?彼はモーセを通して働かれるその無数の神様の働きを見ても、むしろ心をかたくなに強くするので、結局は悲惨な最後を迎えてしまいました。それでエジプトの王は悲惨な最後を彼だけでなく、彼の民、臣下、エジプトの兵が共に悲惨な結果を迎えてしまったのです。アビメレクと比べてみると、あまりにも大きな違いがあることが分かります。
これがまさに善良な心を持った人とそうでない人との違いです。神様は人間耕作の摂理を成していくにあたって、様々な人々を用いますが、その中には神様を知らないが、善良な心を持った人もいれば、時には神様を知っていると言いながらも悪の心を持った人もいます。結局はその心の器なりに使われるようになります。ですから、ある人は羊の間に入っているヤギのような形で使われる人がいて、まるで映画の悪役のような役割で使われる人もいます。それでは皆さんはどんな形で使われているのでしょうか?当然、肉の考えを働かせた結果として出てきたモアブ人とアモン人のように、神の人々を訓練する杖のような役割ではなく、神の摂理を成し遂げる上で主導的な役割を果たさなければならないでしょう。 そして、神の国を成すにあたって、必ず必要な主人公たちとして出て来られるようにと主の御名で祈ります。

朝の学び140 創世記19章
創世紀19:30-38
その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。創
序論
ロトと彼のふたりの娘たちが、火のさばきが迫ったソドムを抜け出して、急いで避ける場所を探して入ったところがツォアルでした。元々ふたりの御使いたちは、ロトとその家族たちに「山に逃げなさい。」と言いましたが、さばきの兆候が現れ始めるとロトは恐ろしくなり、ひとまず急いでソドムから近いところにあるツォアルに避けて入ったのです。ところが、ツォアルにしばらく身を避けるようになったロトは、その町の人々の暮らしの姿を見ながら、ここは少しでも長く留まってはならない所であることを感じるようになります。火のさばきを受けるしかなかったソドムの町の悪によってねじれた状態を目の当たりにしたロトは、ツォアルの町の人々の姿を見ながらソドムの町を連想するようになったからです。
ツォアルもソドムとゴモラとはそう遠くない所に位置する町で、ツォアルの町は自然にソドムとゴモラから多くの影響を受けるようになりました。ですから、ソドムとゴモラとまったく同じではなくても、ツォアルの人々もやはり享楽的な文化にずいぶん染まっていたのです。ロトはこのようなツォアルの様子を見ながら、何とかそこを早く離れたいという気持ちでした。もうそのような霊的にねじれている世で一緒に暮らしたいという気持ちがなかったからです。むしろ山の中に入って暮らしてでも、世の情欲に染まって生きていく人々の中にとどまりたくなかったのです。
ソドムの滅亡を通して罪悪の結果について心に徹底的に刻まれたロトは、ツォアルの姿を見ながら滅亡を余儀なくされたソドムの姿が浮び上がると、彼らの中に住むことが恐ろしくなったのです。ツォアルも彼らのねじれた生き方から立ち返らなければ、結局ソドムとゴモラがそうだったように滅亡してしまうからです。それで、ロトはふたりの娘たちと一緒に山に登り、ほら穴の中に住むようになります。彼らが山に登って暮らしたということは、霊的に世の中とは区別される新しい人生を生き始めたという意味でした。
このように、ロトと彼の娘たちが、ある意味で楽に生きていける小さな町を離れ、あえて苦労せざるを得ない山に登ったということは、肉的な不便さや苦労を喜んで受けてまでも、世の中とは区別された新しい真理の人生を生きるために、努力したということです。ロトのこのような姿は、今日を生きるクリスチャンたちにも同じように要求される姿です。まことのクリスチャンならば、世の人々と同じように世に浸って生きるのではなく、当然区別された人生を生きなければなりません。世の情欲を追い求めて生きていくのではなく、世を断ち切ろうと努力して、み言葉通りに生きようと火のように祈って、聖霊に満たされなければならないのです。
ところで、ロトは世と区分された人生を生きるために山に登ってほら穴に住んでいましたが、世とすべてを断絶したまま、世捨て人として生きたという意味ではありません。そこでの生活を実現するために、時には近くの町や近隣の人々との交流が必要な場合もありました。 それでも、ロトは決してその心を世に注ぎ出さず、ロトの娘たちもこのような父の意向に従いました。そのため、ふたりの娘たちは彼らの配偶者を求める方法がありませんでした。ねじれた世の中で生きていく人々には心も渡さなかったので、まして彼らの中から配偶者を見つけることは考えられないことでした。世の人々の中で配偶者を求めるということは、ロトはもちろん、父親のロトの心をよく知っているふたりの娘たちもやはり決して望まないことでした。
父ロトを通して子孫を伝えたロトの二人の娘
本文19:31-32節を見ると、上の娘が下の娘に「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」と言いますが、これが肉の考えであり、その結果が子孫代々に至ることが分かります。もちろん異邦の民族もやはり人間耕作の摂理の中に必要な役割を担うことでしたが、モアブ人とアモン人は後日イスラエルの歴史において、イスラエルが神の意思から抜け出した時は彼らを悟らせる杖として使われ、イスラエルが神の意思の中で栄える時は、イスラエルから支配を受け貢ぎを捧げる属国になったのです。このように、ロトの娘たちが肉の考えを働かせて産んだモアブ人とアモン人は、神様が選民イスラエルを通して人間耕作の摂理を繰り広げていく過程において、一つの周辺要素として使われたのです。
しかし、ロトと彼の娘たちが、将来、自分たちが生んだ子孫と叔父アブラハムの子孫が、このように互いに敵対する関係になるだろうと果たして考えられたでしょうか?しかし、肉の考えを働かせた結果が、後日このように心が痛む結果を生んでしまいました。ロトのふたりの娘たちが世と相容れないために彼らの中で配偶者を求めないようにしたのはとても良いことです。第二コリント6:14によれば「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」と記されています。神様を愛し、霊を慕う人なら、どうして世を愛し肉に染まっている人と共にしたいと思いますか?したがって神様の子供なら、配偶者を求める時も神様の御心が何かを悟らなければなりません。
旧約聖書を見ると、何度も異邦の女性を妻として娶ることに対して警戒しています。しかし、この言葉がただ肉体的に異邦の女性を娶ることが神様の前にふさわしくないという意味ではありません。神様が異邦の女性を妻として娶るなとおっしゃる根本的な理由は、それによって現れることになる結果のためです。ネヘミヤ13:26-27によれば「『イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。』」と言っています。それは、異邦人の女性が惑わすので、彼らが行う罪悪に一緒に染まることになるからです。
ところが今日、神様を信じる子供たちの中にも、信じない世の人と結婚する場合があります。もちろん、神様を信じない人と結婚すること自体が無条件に駄目だという意味ではありません。たとえ神様を信じない人と結婚するとしても、相手を主に導き、一緒に信仰生活をよくしていけば良いでしょうが、もし神様を信じない人と結婚して、自分も世に落ちて神様を遠ざけるようになれば、むしろ結婚しない方が良いのです。もちろん結婚した当時は、「私がこの人を伝道して信仰生活ができる人にしなければならない」と思うでしょうが、実際に結婚してからは状況が思ったほど容易ではない場合が多いのです。信仰生活がよくできた人も、結婚してからはなまぬるくなる場合がありますが、まして信じない世の人と結婚して、以前のように熱く信仰生活をするということが思うようにならないということです。
ロトのふたりの娘たちも、以前はソドムの人の中で配偶者を求め婚約までしていた状況でしたが、今は新しい人生を始めようと決心して、世の人の中で配偶者を求めようとせず、不便さと苦労に耐えながらも、世と区別した生き方をしようと努力しました。しかし、自分たちの限られた考えの枠の中で方法を探しているうちに、結局は肉の考えを働かしてしまったのです。もし、ロトのふたりの娘たちが考えを働かす前に、先に自分たちの気持ちを父親に率直に明らかにしていたらどうなったでしょうか? 真理の中から良い方法が見いだせたでしょう。ロトは叔父のアブラハムを思い浮かべたはずです。つまり、今自分たちが住んでいる周辺では、娘たちの配偶者になるような人を求めることはできませんが、あえて配偶者を求めるには叔父のアブラハムを訪ねればいいと考えるのです。アブラハムと共にする人々の中には、それでもアブラハムから教えを受け、世に染まらず真理の中で生きていこうと努力する人がいるはずだからです。
また、ロトの娘たちも肉の考えを働かせず、神様に道を導いてもらうために祈ったとすれば、父親と相談しなかったとしても、父親のロトの心と同じように導かれたはずです。しかし、ロトのふたりの娘たちは一つの方法以外は考えられず、結局自分たちの枠の中で肉の考えを働かせ、今日の本文のような出来事が発生してしまったのです。

朝の学び139 創世記19章
創世紀 19:23-38
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。
徹底した災のさばきを受けたソドムとゴモラ
神様のさばきがどれほど徹底したものだったのか、25節に「これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」とあります。地面に生えているものだけでなく、地の中まで打ち返すような大惨事に見舞われてしまったのです。だから、ソドムとゴモラに途方もない災いが臨んでいた時、遠く離れたところにいたアブラハムもその事実を知ることができました。27-28節に「翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」とあります。この時、アブラハムがその朝早く起き、神様と会ったところに立ってソドムとゴモラの方を眺めたということは、アブラハムがすでに、いつソドムとゴモラに審判が行われるかを知っていたことを物語っています。アブラハムは一度おっしゃったことを必ず行う真実な神様を知っていたので、時が来て正確にさばきが行われることも分かりました。しかし、どうしてじっと座っていられたでしょうか。ソドムにいる甥のロトを思い、また滅亡の中におかれているソドムとゴモラの人々を思い、そこを眺めていたのです。
「翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」アブラハムはどんな人でしょうか?何とかソドムに臨むさばきがおさまることを願う切実な気持ちで、最後まで神様の前に、ソドムに義人10人だけいても滅さないでほしいと申し上げ懇願しました。父なる神様に似て、憐みと慈悲の心が臨んでいたので、一人でも滅ぼさずに救いに至ることを願う気持ちでした。父なる神様がこのようなアブラハムの心をどうして知らないでしょうか。しかし、すべては正確な公義の中で行われるため、ソドムは結局、義人10人がいないためさばきの災いに遭ってしまったのです。
神様は愛と憐みと赦しがない方なのでしょうか。それも必ず公義の線を越えない範囲内でなされるほかはないということを皆さんは肝に銘じ、常に公義の中に留まり、神様から守られ愛され祝福を受けていくことをお願いします。アブラハムが残念な気持ちでソドムとゴモラの方を眺める時、そこでは煙がかまどの煙のように立ち上っていました。まるで陶器を焼くために焚いた火が煙を立てて燃えるように、ソドムとゴモラも火と硫黄の雨の中で燃えていたのです。まさに黙示録21:8に「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」」とおっしゃったように罪の結果は永遠の地獄なのです。
このようにソドムとゴモラとその周辺は徹底した災いのさばきを受けたので、今日までその土地が死んだ土地になってしまいました。土地が生命力を失って、これ以上何も住めない土地になったのです。神様の呪いが臨むとき、どんな結果を生むことになるかをはっきりと示す手本になっているのです。イエス様から呪いを受けたカペナウムとベッサイダもこれと同じです。ここは以前は栄えた都市でしたが、イエス様の呪いを受けた後、土地が生命力を失い、その周辺で水も見つけられない土地となり、ここもやはり呪われた土地の手本になってしまいました。ところが、私たちがソドムとゴモラの審判で一つ注意しなければならないことは、そこに臨んだ審判がソドムとゴモラに属した周辺の状況にまで該当したという事です。これはつまり何を意味するのでしょうか?私一人の犯罪が時には自分だけでなく、自分に属した周りにまで影響を与えかねないという話です。
申命記28:15-19によれば、「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。」とおっしゃいました。
数週間にわたって大礼拝を通して聞かれた通り、自分に来るべき懲らしめや災難が、霊的な紐がつながっている他の人におこったり、関連した周りのこととして現れることがあるのです。ですから、時には家族の中で一人が病気だと言った時、その人にだけ原因があるのではなく、家族全体に悟らせるための場合もあれば、時には夫婦や親と子供という霊的な絆の中で代わりに病気を患う場合もあります。だからといって、すべての病気がこのような理由だというわけではありません。ただ、病気や何らかの問題を解決してもらおうとする時、「もしかしたら、私はこのような関係の中で問題が臨んだのではないか?」と点検してみてくださいという意味です。家族の中の誰かに問題がある時、それを通して自分をもう一度点検してみる機会を与えてくださるという意味です。
アブラハムによって救われたロト
続く29節には、ロトが救われたのは、神様がアブラハムを覚えておられたためであることが明らかに出ています。 「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」と言いました。 皆さんもアブラハムのように神様から愛される人になれば、皆さんに属したすべてのものが一緒に祝福を受けるようになります。ヤコブ5:16に「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」という言葉のように、神様から義人だと認められた人の祈りはそれだけ霊的な力と権勢が伴うことになります。
ヨセフはまさにそのような人だったので、創世記39:3-5に「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」と記されています。
ソドムとゴモラのように悪でねじれていたツォアル
30節を見ると、「その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。」とあります。御使いたちがソドムの滅亡を避ける場所として最初にロトに示したのは山でした。しかし、ロトがツォアルを選んだため、ツォアルの町とそこの民はソドムとゴモラの審判とともに滅亡する状況でしたが、もう一度機会を得ることになりました。ロトと彼の家族がツォアルに入ったので、神様はロトと彼の家族を救おうとツォアルの町は審判の災いから除外してくださったのです。ツォアルもソドムとゴモラの影響で、すでに悪でねじれていたところでしたが、ロトによって審判を免れる機会を得たのです。ところで、ロトがこのツォアルに住むことを恐れたのはどういう理由でしょうか?それは、ツォアルがどんな状況だったのかを物語っているのです。ツォアルはソドムとゴモラの審判を見たにもかかわらず、依然として立返らずに悪でねじれた人生を生きていたのです。だから、それを見守るロトには、再び恐怖が迫るしかないのです。
ソドムがなぜ審判を受けたのかをあまりにもよく知っているロトとしては、ツォアルの状況を見ながら、ここも例外ではないということに気づいたのです。審判を避けてソドムを離れてきたが、ここツォアルで再びソドムの人々が行っていたねじれた人生の姿を見ることになると、「これ以上ここに留まってはいけない」という気がしたのです。ロトはソドムの審判を見ながら、罪悪の中から徹底的に去ることを誓ったので、ねじれたツォアルには少しでも滞在したい気持ちがありませんでした。それで最初、御使いたちが指定してくれた通り、山に登って洞窟に住んでいたのです。山は霊的に世と区別された人生を送ることができる所で、ロトが山に登って暮らしたということは、もう世を断ち切って新しい人生を生きようと決心して努力したということを物語っています。このように山でふたりの娘と暮らしていたロトに、人の考えでは少し理解できない事件が発生することになります。ロトのふたりの娘たちが父親のロトを通して種族を保存し、繁栄させることになる事件です。それでは、ロトのふたりの娘たちがなぜこのような行動をしたのか、次の時間に続けて説明します。
結論
時には神様が罪の行いに対して、苛酷なほど大きな訓練や懲戒を許す場合がありますが、これは神様が愛と憐みと赦しが不足しているためではありません。神様が大きな訓練や懲戒を許すのには大きく2つの理由があります。一つ目は罪の結果に対する手本です。他の人々に罪の結果について徹底的に悟らせることで、同じ罪の中に落ちないように警戒するためです。ソドムとゴモラのような場合です。一方、ニネベの民はソドムとゴモラと同じ道を行くようでしたが、徹底的に悔い改め立返った結果、審判の災いを避けることができました。神様が聖書にこのような事件を記録しておいたのも、まさに後代の人々に手本として決して滅びに至ってはいけないことを願うからです。
二つ目は、徹底的に悔い改め、元に戻すためです。神様は愛する子供が間違った時、むしろより大きな代価を払わせます。ダビデ王の場合も、忠誠した民を異邦人の手によって死なせた罪により、苛酷なほど激しい訓練を受けることになります。しかし、これがダビデにとっては祝福でした。その訓練を通して徹底的に自分を発見し、神様の前に心合わせる者に変化することができたためです。
ですから、皆さんの中にも試練や訓練の中にいらっしゃる方がいれば、これを通してむしろ自分を発見し、変化する祝福の機会にして下さい。 すべての試練や訓練には必ず理由があるのであり、それをどれほど霊で悟り、価値あることとして受けるかによって、同じ試練や訓練を受けた人の間にも大きな違いが生じるのです。ただ、過ちに対する代価を払う次元にとどまってしまう人もいるわけですし、それをきっかけに二度と同じ姿が出ないように、自分の中にある肉を見つけて脱いでしまうので、霊に変化する機会にする人もいるのです。
私たちが信仰生活をするとき、必ず訓練を受けるようになりますが、どのように受けるかが霊的な成長に大きく影響を与えかねないという事実に気づき、自分に近づく小さな訓練一つでも疎かにせず、自分を完全にさせる契機にして下さい。そのため、ソドムの滅亡を通して、ロトがしばらく滞在しようとしたツォアルからもすぐに去ることができたように、訓練を通して得た悟りが能力となり、迅速に肉から離れ、霊に全き霊に入って行かれますよう、神様の御名によって祝福してお祈りします。

朝の学び138 創世記19章
創世紀 19:23-30
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。
四つの生き物
創世記8:1-2に、洪水のさばきが終わるとき、「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。」とあります。神様はまず、洪水のさばきのために張り裂いた水の源をふさがれました。また、第二の天の水がこれ以上第一の天の地球に降らないように、天の水門も閉じられました。ところが、第一の天と第二の天の間の空間を、完全に閉ざされたのではありません。神様が「地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」と書いてあります。ここでいう「風」とは、自然の風ではありません。神様が用いておられる四つの生き物によって、途方もない風を起こされたのです。それで、地球をおおっている水が、水蒸気などの形で再び第二の天のエデンに上がるようにされました。このようなわけで、聖書には、天の水門が「閉ざされた」と書かれているのです。このように、第二の天のエデンにある物が、第一の天に出たり入ったりするとき、神様は四つの生き物を用いられます。この点も皆さん、覚えておかれますように。
神の七つの御霊と四つの生き物は人の心の奥まで探ります。黙示録5:6後半節を見ると、使徒ヨハネが小羊、すなわち、主を見て、「これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」と言いました。ここで七つの御霊を「七つの目」にたとえましたが、これは七つの御霊が「探って測る役割」をするからです。四つの生き物も、神を護衛するだけでなくて、人の行ないと心を探る役割も果たします。特にわしの生き物は、各人が神のみことばをどれほど心に刻んで、それを実践しているのか調べます。わしは視力がとても良くて、遠くにいる小さい餌食も正確に捉えます。このように、わしの生き物は一寸の誤差もなく、おのおのの心を調べるのです。心の奥まで正確に見分けます。
私たちは聖書を通して、御使いと神の七つの御霊、四つの生き物のような霊的な存在がおのおのの一挙手一投足を調べていることがわかります。神は仕える霊を遣わされ、私たちの言葉と行ないはもちろん、心の奥までご覧になります。神がこのように正確に測るために力を注がれる理由は、けちをつけて信仰を低くしたり、罰を与えるためではありません。少しでも多くの機会を与えて、さらに進んで報いを与えたいという心で正確に測られるのです。
黙示録4:5-9「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」
四つの生き物は、ケルビムのかしらとして、護衛の大将のように最も近くで神様に仕える存在のひとつです。その権威もやはり大したものであり、その下にいる数多くのケルビムを指揮します。時によっては、神様の命令を直接受けて遂行したりします。四つの生き物については、黙示録とエゼキエル書にも詳しく説明されています。しかし、その内容だけを見ては、四つの生き物の姿を正確に描き出すことはやさしくありません。霊の目が開かれて、直接見てこそわかります。たとえば、預言者エゼキエルは、エゼキエル1:6で、「彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」とありますが、使徒ヨハネは、黙示録4:8で「それぞれ六つの翼があり、」と言いました。
これは四つの生き物が合体された姿を見て、それぞれの翼がつながったり重なったりする姿を表現したので、ふたりの記録に差があるのです。だからといって、聖書が間違って書かれたという意味ではなく、むしろこのように違って書かれることによって、四つの生き物の姿をさらに正確に伝えてくれるのです。合体された時と分離された時、また、どの方向から見るのかによって、その姿が変わるということです。四つの生き物は、文字どおり生き物四つが一つになっているケルビムです。四つが合体されたり、それぞれ分離されたりします。全体の形は人に似ていて、頭は一つですが、頭の四面にそれぞれ四つの顔があります。四つの生き物は後ろに背を向けて行ったり、頭を左右に回したりすることがないので、分離された四つの生き物の正面から見える顔が、それぞれその生き物を代表する顔になります。四つの生き物の顔はおのおの、人、獅子、牛、鷲です。
黙示録4:7に、「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」とあります。実際、四つの生き物を正確に見ることはやさしくありません。それほど霊の目が明らかに開かれた人であるべきで、神様が許されてこそ見ることができます。四つの生き物は特別な場合を除いては、神様の御座の周りを離れないし、その役割がかなり重要で隠密なので、神様もよく表に現さず、隠されるのです。ところが、私たちの教会には、数年前に、この四つの生き物の姿と役割について明らかに解き明かされ、霊の目が開かれた何人かに見せてくださいました。四つの生き物は、一般の天使や天の軍勢とは違って、とても怖くて、見ている人に脅威までも感じさせます。全体の色も少し暗くて濃く、非常に強くてがっちりした感じを与えます。一つに合体されていた四つの生き物が、何かの命令を遂行しようとする時は、あっという間に解体され、四方に飛んで行きます。四つの生き物はいつも前にだけまっすぐに行き、その速度がとても速いのです。
エゼキエル1:12に、「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。」とあり、エゼキエル1:14には、「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」とあります。そして黙示録4:8節に、「この四つの生き物には、その回りも内側も目で満ちていた。」とあるように、この四つの生き物は全身が目で満ちているのです。これは、彼らの役割が神様の近くで守ることですから、当然周りをもれなく見回すためですが、もう一つの目的は、神様の命令を受けて、この地上をあまねく見回すためでもあります。四つの生き物は、神様と直接関連した罪があるとき、神の命令に従って動きます。たとえば、聖霊をけがし、冒涜し、逆らう罪や、神様にひどく立ち向かって公義の線を超えた場合、この四つの生き物が直接災いや患難の審判を下すのです。ソドムとゴモラの審判の時も、四つの生き物が直接命令を受けて遂行したのであり、将来、七年患難の時にも四つの生き物が直接かかわるようになります。
ところで、四つの生き物には全体的な使命もありますが、おのおのが持つ固有の使命と役割があります。まず人間の顔をした生き物は、ケルビムに命じて彼らを動かす権威があります。彼が口を開けて命じるとき、ケルビムが動きます。第二の天にいるケルビムも、この人間の顔をした生き物の命令に従って動きます。次に、わしのような生き物は、天の扉を開いたり閉じたりする権威があります。彼の羽ばたきによって霊の世界の扉が開きます。したがって、天から雲が出たり入ったりするのも、まさにこの生き物が第二の天に通じる扉を開いてこそ可能なのです。また、霊の世界の扉を開いて、移動する星や、二重以上の丸い虹が見られるようにするのも、まさにこの鷲のような生き物が関わるのです。獅子のような生き物は、災いを働かせる権威があります。彼が口を開けて火の災い、疫病の災いなどが臨むようにするのであり、またその災いを収める権威もあります。最後に、雄牛のような生き物は、第一の天で天気をつかさどる権威があります。雲を集めたり雨を降らせたりすること、または雨を止ませたり台風を動かして消滅させたりすることなどが、まさにこの生き物の権威でなることです。
四つの生き物は、このようにそれぞれの使命と役割がありますが、四つの生き物が連合して、その途方もない権威で同時に働く場合も多いです。神様はまさにこのような途方もない権威を持った四つの生き物をつかさどられ、公義に従って天気を動かして、災いを下すことも、また収めることもあり、霊の世界の扉を開いて驚くべき現象を現すこともあるのです。ところで、もしかしてある方々はこのような四つの生き物の姿についての記録を読むとき、「ちょっとおかしい形だな」と思うかもしれません。しかし、実際に見ればそうではありません。もちろんその威厳と権威がものすごくて、見ている人に恐れまで感じさせますが、彼らは神様のそばで直接警護する存在ですから、当然近づけない威厳と権威があるべきです。世の王も、最もすばらしくてりりしい者を選んで護衛させるように、神様を警護する任務を任された四つの生き物も、実際に見れば、とても威厳があって立派でありながら美しい姿なのです。
このような四つの生き物が神様の御座の前で告白する内容が、黙示録4:8-9に出てきます。「彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」とあります。天国では、神様の栄光の光が新しいエルサレムからパラダイスまでいつも照らしているので、暗やみや夜がありません。それでも「昼も夜も」と表現したのは、この地上に生きている人が理解できるように表現したからです。つまり、休まずにいつもそうする、という意味です。聖書には、人が肉的に考えると、誤解する表現がたびたびあります。たとえば「休まずに祈りなさい。」とあるからといって、それが24時間、一年中ずっと祈りなさい、という意味ではありません。いつも祈る心であり、その心が神様に向かっていなさい、という意味です。祈る時間には当然、心を尽くして神様の前に祈るべきであり、祈らない時間だといっても、心だけはいつも神様に向かっていなさい、という意味です。
このように、四つの生き物が昼も夜も神様の御座の前で栄光と誉れと感謝をささげて賛美をするとは、ただの1秒も休まずにそうするという意味ではなく、いつも心を尽くして神様を賛美して崇める心でいる、という意味です。時には実際に聞こえる声で告白したり、時には聞こえないけれど、心から告白したりする時もあります。ところで、天国では実際にいつも賛美が絶えません。四つの生き物のほかにも、賛美だけのために造られた天使もいて、何よりも救われて天国に行った神様の子どもたちからは賛美が絶えないのです。永遠に休まずに神様を賛美して崇めても、どうして神様から受けた恵みへの感謝を全部表すことができるでしょうか?天国の所々ではいつも宴会が開かれるので、そこで誰でも思いきり賛美して、神様に心から香りがささげられるのです。また、宴会でなくても、いくらでも賛美で神様に栄光を返すことができます。音のある賛美でも、心の香りでも、心の感動でもささげるのです。このように四つの生き物も、その心を尽くしていつも神様を恐れ敬い、賛美しています。彼らは神様の前に「聖なるかな」と告白しています。

朝の学び137 創世記19章
創世紀 19:23-30
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。
序論/ソドムが火の審判で滅亡する中で
ロトと彼の家族が救われた最大の理由は、まさに神がロトの叔父であるアブラハムを覚えられたからです。義人アブラハムがロトを常に心に抱いているので、彼と霊的な紐がつながっていたロトには救いの機会が与えられたのです。しかし、ロトにいくら機会が与えられたとしても、ロト自らがその機会をつかまなければ、決して救いの道が開かれることはできませんでした。ロトの家族も同じでした。ロトの家族がロトの言葉を信じて、ソドムにあるすべてを後にしたままロトと一緒にソドムを離れたので、彼らにも救いがあったのです。このような救いの原理は、今日も同様に適用されます。私たちが救い主なるイエス·キリストを信じる時、イエス様の血によってすべての罪を赦され救いに至ることになるのです。
ヨハネの手紙第一1:7によれば「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と記されています。唇だけで「信じます」と言って私たちのすべての罪が許されるのではなく、光である父なる神様に似て私たちも光の中で生きる時だけ、イエスの血が私たちのすべての罪をきよめるということばです。したがって、救われた神様の子供なら、当然、以前身を置いて生きてきたソドムのような闇の世界から出てきて、真理の光の中で生きていかなければならないのです。自らはいくら「信じる」と告白しても、その姿が以前と変わらず世の中に留まっているとすれば、彼はまだソドムを離れたのではありません。
ところが、ロトと彼の家族がソドムを離れたように、一旦世の中を後にして去ったとしても、それで完全な救いを成し遂げたわけではありません。ロトの妻は御使いたちの警告を覚えられずつい後ろを振り向くと、塩の柱になってしまいました。これは今日も同じです。イエス·キリストを迎えて聖霊を受け新しい被造物として生まれ変わったとしても、心から世に対する未練と欲を完全に脱ぎ捨てなければ、いつかそれによって世を再び振り返る場合が起こりえるのです。再び闇が好きになり、昔の姿に戻ってしまうのです。聖書にはこれを警戒する言葉が色々な所に出てきます。
ローマ6:6によれば「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」とあり、またガラテヤ5:1にも「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」とおっしゃいます。
ロトと彼の家族たちに「「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」」と警告したように、私たちが行かなければならない最終目標である天国に至るまでは、決して世を振り返ったり、信仰の行軍を止めてはいけません。 ロトと二人の娘たちも、自分たちが長い間生きてきたソドムの町を、もう一度振り向いて見たかったのではありませんか?しかし彼等は、御使いたちの警告に従いその誘惑に勝つことができ、結局救いに至ることになったのです。
このように皆さんも天国に向かって走っていくにあたって、時には近づいてくる誘惑と迫害に勝たなければなりませんが、そのために最も重要なのが祈りです。マルコ14:38にイエス様も弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」」と言われました。心の中では「それはやめよう」と切に願っていますが、まだ捨てられていない罪の性質によって結局、肉に負けることになれば誘惑に陥ってしまうのです。ですから、肉に負けないためには目を覚まして祈り常に聖霊に満たされて、上から供給してくださる恵みと力を受けなければならないのです。信仰生活をしながら祈らない方々は、いくら信仰の年輪が古いとしても心に割礼ができず、聖霊の御声と主管と導きを受けることができないのです。
ソドムとゴモラに火の審判を執行した四つの生物
ソドムとゴモラの審判は、後代の人々に罪の結果がどんなものかを示す手本のようなものです。新約においてもソドムとゴモラが何度も引用されるほど、ソドムとゴモラとは罪と悪の象徴であり、将来あるべき罪の裁きに対するモデルなのです。このように重要な意味を持つできごとなので、神様はソドムとゴモラを審判する時、単に御使いたちを送られたのではなく、御霊の神と二人の御使いのかしらを遣わされました。直接ソドムとゴモラの状況を観察し正確な公義の中でさばきをするためでした。後代にまでその影響が及ぶとても重大なさばきなので、御霊の神ご自身が御使いのかしらたちを伴って来られたのです。正確な公義の中で最後の審判が下されると、それに従ってさばきを執行したのは、まさに「四つの生きもの」でした。
四つの生きものとは、文字通り生きもの四つが一揃いになっているケルビムのことです。それぞれの生き物に頭が一つありますが、頭の四面に人(人の子)、獅子、子牛、鷲の顔があります。このように四つの顔を持つ生きものが計四つありますが、これを総称して「四つの生きもの」と言います。四つの生きものは神様を護衛し、その命令に従って親衛隊のように動く存在です。彼らの権勢もまたすごくて、神様の意思によって審判する権勢まで持っています。彼らがどれほど大きな権勢を持っていて、神様と直接関連があるかについては、エゼキエル1:24-26のことばを見ただけで分かります。「彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。」また、エゼキエル1:14には「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」と記録しています。四つの生きものは、神の命令が下されれば、少しの遅滞もなく稲妻のひらめきのように走って、その命令を遂行するのです。
では、四つの生きものが遂行する使命はどのようなものでしょうか?四つの生きものは、神と直接関連した罪がある時、神の命令に従って動きます。例えば、聖霊の妨害、冒涜、反逆のような罪です。また、四つの生きものは、ある民族や国があまりにもひどい悪を行ってその罪の代価としてさばかれる時、直接さばきを遂行する役割をします。今日の本文に出てくるソドムとゴモラの審判のような場合です。ところで、四つの生きものがそれぞれ果たす役割がそれぞれ違います。もちろん、四つの生きものは別々でありながら、まるで一つのようにいつも一緒に動くのを見ることができますが、それでも状況によって主導的な役割をする生きものがいるのです。
ソドムとゴモラに火の審判を下した時、四つの生きものの中で、火を吐き出す権勢を持った獅子の生きものが、主導的な役割を果たしました。このように災いをもたらす権勢を持った獅子の生きものは、どんな時でも口を開くのではありません。その口を開く場合は災をもたらす時、または災いを収める時です。その他に、人の子の生きものはケルビムに命じて働かせる権勢、鷲の生きものは天の門を開けて閉じる権勢、子牛の生きものは天気の変化と気候に関することをつかさどる権勢があります。ソドムとゴモラに雨のように下った硫黄と火のさばきの場合は、硫黄と火を吐き出す災いを主導する獅子の生きものと、天の門を開けて閉じる権勢を持った鷲の生きものも補助的な役割を果たしたのです。

朝の学び136 創世記19章
創世記19:15-22
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。0 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
ロトがツォアルに入ることを許した神様
このように災いの兆しに怯えて震え、近くにあったツォアルへ逃げようとするロトの願いに、21-22節に「その人は彼に言った。『よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。』それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。」とあります。 ロトがより完全に神様を信じて頼って「山に逃げなさい」という言葉に最後まで従順だったら良かったのですが、ロトにはそれだけの信仰がなかったのです。このようなロトの言葉を聞いて神様はもう一度慈しみを施して、ロトがツォアルに入ることを許されます。そして、ロトがツォアルに入ることも、結局はすべてを働かせて善を成すきっかけになります。 当時、ソドムとゴモラは、川とは言えないほど小さな河川を隔てた都市で、多くの民と文明が発達した大きな町でした。一つの町のように、人々が互いに自由に行き来し、生き方の姿や風習もまた世的な享楽文化も似ていました。つまり、ソドムのねじれた悪は、またゴモラの悪をそのまま示しているのです。
ツォアルもソドムとゴモラからさほど離れていない場所で、ソドムとゴモラと同じではないとしても、ここもやはり、すでに享楽的な文化にずいぶん染まっている状態でした。したがって、ツォアルもソドムとゴモラのさばきとともにいくらでも裁かれうる状態でした。 ところが、このようなツォアルをロトがその町を避け所に選んだので、そこは裁きから抜け出すことができました。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。」という言葉には、その町、すなわちツォアルも滅ぼすしかない所であるが、ロトの願いを聞き入れ滅ぼさないという意味が込められています。 結局、ツォアルはもう一度機会を得たのです。
もし、ロトがツォアルに逃避することを懇願しなかったら、ツォアルはソドムとゴモラに降った途方もない災いによって、一緒に滅ぼされたことでしょう。ところが、ロトがツォアルに入ったことで、神様はロトを救うために、その町もまた滅びから救ってくださったのです。そして、ツォアルの民はソドムとゴモラに降った災いをはっきりと見守ることができました。自分たちが住んでいた町に比べると、あまりにも大きくて華やかで多くの人が住んでいたソドムとゴモラが、一瞬にしてその跡形もなく消えてしまいました。ツォアルはソドムとゴモラから近い場所だったので、空からソドムとゴモラに降る赤い硫黄と火の雨を直接見ることができました。その上、ツォアルに逃げてきたロトと彼の家族からソドムとゴモラがなぜさばきを受けなければならなかったのか、その裁きを下した方が誰なのかを聞くことになります。 ツォアルの人々は罪と悪の結果が何なのか、ソドムとゴモラの災いを通して、あまりにもはっきりと見るようになったのです。
ソドムとゴモラに下った火の裁き
ロトがツォアルに着いたとき、待っていたかのように、ついに神は天から硫黄の火を雨のように降らしてソドムとゴモラの町を滅ぼします。 25節に、「これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」とあります。城と周辺の人々と民だけでなく、土地から出たものをすべてひっくり返して滅ぼすことで、ソドムとゴモラの土地を二度と人々が住めない荒廃した場所にしてしまいます。審判の結果がどんなものなのかを後代の人々もやはり明確に見て悟ることができるように、このように徹底的に審判されたのです。ところが、ソドムとゴモラの地にはもう一つ災いが加わります。それはすぐに地に塩分を加えて死んだ土地になってしまいました。前にロトがソドムの土地を選んで行くときは、その土地がどんな状態だったかが創世記13:10によく出ています。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」と言ったのです。
まさにこのような土地が今日ではどうなっているのでしょうか?今日、ソドムとゴモラの土地のそばには死海が位置しています。文字通り死んだ海で、この海にはどんな生物も生きていくことができません。昔は水が豊かで肥えていて、主の園のようでエジプトのようだったその土地の周辺には、もう死んだ水が溜まっているだけです。そして当時のソドムも地盤の沈降によって、今は死海の中に沈んでいると推定されています。それで、今日はその町のあった跡までも見つけられずにいる状況です。何も育つことができない死んだ土地になるようにすることで、誰も二度とそこで以前のように文明を起こしたり、生活の基盤を成すことさえできないようにされたのです。
ソドムの町を振り返ったロトの妻
ロトと一緒にソドムの町を抜け出したロトの妻は、二人の御使いの言葉に従わず、後ろを振り返ってしまいました。その結果、ロトの妻は塩の柱になってしまいました。これは世の未練を捨てなかった結果がどんなものかをよく示してくれるのです。ルカ9:62に見ると、『するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」と言われました。主を信じて、主の中に入ってきた人が再び世を見つめることはふさわしくありません。また、ペテロ第二2:20-21には、「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」
結論
神様の愛と公義はコインの両面のようで、お互いに切っても切れないものだと言いました。今日の本文に出てくるソドムとゴモラのさばきにも、このような神様の属性がよく現れています。正確な公義の中でソドムとゴモラを裁きますが、彼らと共に滅亡させることもできたツォアルには、もう一度機会を与えているという事です。これは何としても哀れみと慈悲を施して、一人でも滅ぼさずに救われるようにしようとする神様の御心でもありますが、このような愛が適用されたのは、ツォアルの町にロトが入ったためです。ロトに適用される救いの公義によって、ロトが入ったツォアルまでも公義の枠の中で機会を得たということです。アブラハムによってロトが救われ、ロトによって彼の家族まで救われ、今はロトとその家族によってツォアルの民にも機会が与えられたのです。
これだけ見ても、神様がどれほど愛の神様であり、どれほど最後まで機会をくださる方なのかをよく感じることができるでしょう。しかし、このように無限の愛があるにもかかわらず、最後までその愛を受け入れない人は、結局公義の審判を受けることになります。神様の愛と哀れみと慈悲が足りないからではなく、人の側でその愛を受け入れるように少しの心の扉も開かなかったからです。皆さんはこのような神様の愛と公義を悟り、常に神様の愛の中に住んでください。 また、公義の中に溶け込んでいる神様の愛に気づき、皆さんを通して周りの人々が救われ、神様の愛が伝えられる貴重な道具になりますように、主のお名前によって祈ります。

朝の学び135 創世記19章
創世記19:15-22
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。0 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
序論
愛する聖徒の皆さん、ついに審判の時間が近づくと御使いたちはロトを催促して家族と一緒に町を抜け出すようにします。父なる神様が決めたことは、すべてが正確な時と時限に合わせて働かれるので、誰も任意に変えられるものではありません。使徒の働き1:7に「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とおっしゃっています。人間耕作の6,000年の歴史もやはり最初から始まりと終わりに対するすべての計画が出ていて、いかなる理由であれ変更できるものではありません。 もし、途中である理由で変わったら、すべてのことを知っている神様とは言えません。しかし、神様は予知予定の全能な方として、これからのことの全てを知って決めたことなので、一寸の誤差もなく叶うことになります。
したがって、神様は必ずあることを行うにあたって、あらかじめ兆候を示してくださったり、神の人に知らせてくださったという事です。アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われた通りです。ソドムとゴモラのさばきも、やはり神様はアブラハムにあらかじめ知らせて下さり、ロトにも知らせて下さっているのです。ここで重要なことは、このようにあらかじめ教えてくださった時、その言葉を受ける人の心と態度です。前回申し上げたとおり、ロトは自分たちの娘と婚約した婿たちにもソドムに迫った審判について伝えました。しかし、この言葉を聞いた婿たちはどうだったのでしょうか?「しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」と。だから、いくらこれからあるさばきについて教えても、婿たちは全く準備もせず、結局はソドムとともに滅びてしまいました。反面、ロトはどうでしたか?すぐに御使いたちの言葉に従い、ソドムを離れたことが分かります。自分がこれまでソドムで築き上げた多くの財産と生活の基盤を放棄したまま、ソドムの町を脱出して出てきたのです。
このように、ロトと彼の婿たちとには大きな違いがあります。ロトの婿たちは、ロトの言葉を信じることもできなかっただけでなく、たとえその言葉を信じようとしたとしても、ソドムの町の暮らしと自分たちの生活の基盤を放棄できる人々ではなかったのです。結局は世が良くて、そして自分たちが築いてきた肉のものに対する未練が残っているため、あきらめることができないのです。 今日もこんな人たちがいます。日曜日に教会に行かなければならないことを知りながらも、お金を稼ぐことに未練があり、主日を完全に守れない人がいます。神様の言葉に従って祈るべきで、捨てるものは捨てて、切るものは切るべきであることを知っていながらも、世を愛し、肉を愛するので、世を断ち切ることができずにいる人もいます。しかし、ロトはそうではありませんでした。考えを働かせたり、未練を持っているのではなく、すぐに従順して行ったことが見られます。
このようにアブラハムを覚えて神様がロトに恵みを与えてくださったこともありましたが、ロト自らも神様の言葉に直ちに従う信仰、行いの信仰があったために、救いの恩寵を受けることができました。前にも申し上げたように、当然、従うことができるものだけに従うことは、霊的な意味で完全な従順ではありません。人の考えを働かせれば従順できないこと、現実を見れば従順できないことに従うことが真の従順です。聖書を一度ずっと読んでみてください。アブラハム、モーセ、エリヤ、ダニエルと3人の友人など、信仰の先輩たちは一様に信仰でなければ従順できないことに従順しました。自分の命をかけなければならない状況、自分の力と能力では到底できない状況、「自分」が残っている以上は、決して従順できない状況で従順が出てきたのです。それでは皆さんご自身はいかがですか? 当然すべきこと、いくらでもできることに従順でない姿はありませんか?もし、皆さんにも、ロトのように人生のあらゆる基盤を放棄したまま去るように言われたら、喜んで「アーメン」として従うことができますか?それとも、あれこれ言い訳と理由を言いますか?
ところが本文の16節を見ると、「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」ロトがしばらくためらっている場面が出てきます。しかし、ロトがこのようにためらったのは、ソドムに対する未練があったり、従う気持ちがないからではありません。 この時、ロトがためらったのは、まさに自分に属した人々を一人でも多く救うためだったと言いました。ノアが箱舟の扉が閉まる瞬間まで、さばきが迫っていることを叫んだように、ロトも最後の瞬間まで、どうしても自分に属していた人々に審判が迫っていることを知らせ、彼らと一緒にソドムの町を離れようとしたのです。当時、ロトはそれでも、ソドムである程度富を持って住み着いていたので、当然彼に属した人たちもたくさんいました。ソドムの滅びを知るロトとしては、彼らをそのまま置いていくことができなかったのです。それで何とか一人でも連れてこようとしましたが、結局はやっと妻とふたりの娘だけを連れて町を抜け出さなければならなかったのです。このようにいくら「さばきが近い、最後が近い」と叫んでも、救いは自らの自由意志の中で従う人にだけ与えられるのです。
うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。
17節に「彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。『いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。』」とあります。状況が緊迫したあまり、御使いたちはひとまずロトと家族を町の外に引き出した後、もう一度お願いをしているのです。ところが、この時、御使いたちがロトと彼の家族を町の外に連れ出したということは、瞬間的に霊の空間に乗る力を表したことを意味します。先に16節に「その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」とおっしゃったように、御使いたちは霊の空間に乗る力でロトとその家族たちを導き出したのでした。
ふたりの御使いのかしらがこの地に来る時は肉の制限的な空間をまとわなければならず、また制限された肉の法則に従わなければならなかったのですが、すでにソドムの町の罪悪を自ら体験して目的を成した後だったので、これ以上肉の限界の中に留まる必要がなかったのです。それで、ロトの家に集まってきたソドムの町の民の目を目つぶしで暗くした時から、すでにふたりの御使いのかしらは、本来の能力に回復した状態だったのです。そして、今災いが差し迫っている状況で、再び自分たちの能力を発揮し、ロトと家族を一瞬で、町の外に導いたのです。
それでは御使いたちが頼んだ「うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。」という言葉はどういう意味でしょうか?「振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。」というのは、罪悪で満ちた世を徹底的に断ち切り、振り返ってはいけないという意味です。また、自分の中にある肉的なものを徹底的に断ち切ってしまえという意味です。ソドムは霊的にねじれている世を意味します。そのため、ソドムの町を振り返ったり、いったんソドムの町を離れた後でも、低地にとどまることは、世から完全に出てきたのではありません。依然として世の中に対する未練を持っているのであり、再び世の中に戻ることもできるのです。
今日もこのような人々がいます。世を捨てて主の中に入ってきたといっても、再び世の中に落ちる人がいて、依然として世の中を捨てられないまま、片足は世の中に片足は教会の中に置く人もいます。このような人たちがソドムの町を抜け出しましたが、後ろを振り返ったり、途中に留まる人です。「山に逃げなさい」というのは、世の中と区分された新しい人生を始めなさいという意味です。山は世の中と区分されて生きていく場所で、このような山に逃げろということは、世の中と接していないところから新しく始めろという意味です。
ロトがたとえ最初に選択を誤ってソドムという曲がった世に陥ってしまったが、神様の言葉に従い世の中のすべてを捨てて新しい人生に向かって出てきた時、救いが許されました。ただ体だけが世の中から抜け出したのではなく、後ろを振り返ったり、留まるなという言葉によって心から完全に世に対する未練を捨て、徹底的に切れたのです。心から断ち切らなければ、いつか再び心が世に向かうこともありうるということを悟らなければなりません。満たされている時は、そのような心が現れなくても、満たされていない状況になると、押し込められていた世を愛する心が現れるようになります。ですから、皆さんは行いと共に心から完全に真理に変化させてください。それで心がただ父なる神様への愛でいっぱいに満たされている時だけが、世の中のどんなことにも心動かされず、サタンの働きを受けないという事です。
災いの兆候が迫ると、ツォアルに行くことを頼むロト
「山に逃げなさい」という御使いのかしらたちの言葉に、ロトは18-19節に「ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。」と答えました。これにより、私たちはソドムに降りる災いがどれほど差し迫っていたかを知ることができます。あまりにも災いの兆しが差し迫った状況になると、ロトは恐怖のため山まで逃げる気力を持たず、より近いツォアルに逃げることを許してほしいと要請したのです。
20節に「『ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。』」と懇願したのは、ロトがソドムに対する未練が残っていたり、「山に逃げなさい」という言葉に不従順しようとしたのではありません。ソドムとゴモラに降る火のさばきの兆候だけを見ても、ロトがこのように恐ろしく震えながら急いで避ける所を探そうとしたのかを見るとき、そのさばきがどれほど途方もないものだったかを推察することができます。
ところが、このような兆候の前でも、実際にソドムとゴモラの民は気づかなかったという事です。まさに最後の時もこのようです。マタイ24:37-39に「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」とおっしゃいました。ところが、テサロニケ第一5:4-6によれば「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」とおっしゃっています。
眼を覚ましていたロトがソドムの町から出ることができたように、目をさまして、慎み深く、光の中を生きていく人には決して主の日が盗人のように臨むのではありません。霊と魂と体が傷もなく守られた状態で、新郎になられる主を迎える準備をして迎えることになります。ヨハネの手紙第三1:2「 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」それでは皆さんは神様の再臨をどのように迎えたいですか?世のことに酔って眠っていて、その日を盗人のように襲われる方は一人もいないようにお願いします。

朝の学び134 創世記19章
創世記19:9-16
しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
アブラハムを覚えてロトに憐みを施された神様
12節に「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」とあります。この時ふたりの御使いのかしらが、ロトの身内がここにいるのかを知らなくて尋ねたわけではありません。それでもふたりの御使いのかしらがこのように尋ねたのは、神様がアブラハムを覚えられて、ロトと彼の身内の者にまでも、どれほど憐みと恵みとを施しておられるのかを感じられるようにされたのです。ロトの立場では、たとえふたりの御使いのかしらが自分を救うために来たとしても、彼の身内の者まですべて助けてくださいと、先にお願いできることではなかったのです。ソドムが今どんな状況に達したのかを感じ、自分自身がこうしたところを選択してきたことに対して、神様の御前であまりにも申し訳なく心苦しいなかで、とても家族と自分の身内まで助けて下さいとお願いできる状況ではなかったということです。
ところが神様はふたりの御使いのかしらを通し、ロトにあらかじめ「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」とおっしゃられて、憐みと慈悲の中で救いの幅をひろげて下さったのです。アブラハムを覚えてロトを救われた神様は、ロトの家族とその身内までも救われる機会を与えておられたのです。ロトは救いを受けたとしても、かりに彼の家族たちと彼の身内に、ただ一度の悔い改める機会も与えられないまま、直ちに滅びが臨んだとすれば、ロトがどれほど後悔して心痛く感じますか?神様はこれらすべてのことまでご存知であるので、アブラハムを覚えられて、ロトだけでなく彼の身内にまでも、恵みを施しておられるのです。神様はどのようにしても滅ぼされようとする方ですか?いいえ、どのようなたましいでもさらに救い、天国に導こうとあまりにも願う方であるので、公義から抜け出さない範囲内で、なんとか救いの幅を広げていかれたのです。この一つの事実をみる時、神様の愛される人に属しているということだけでも、如何に多くの機会を得ることができるかを悟るようになります。
ロトの話を冗談だと思ったロトの婿たち
13-14節を見れば「『わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。』そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」とおっしゃっています。このように、御使いのかしらが説明する時に、ロトは彼らの話を全て信じたので救いの道に従います。その救いの道は、まさに御使いのかしらたちが提示した通り、町の外に出て行くことです。もうすぐソドムには火の審判が臨むようになります。したがってその町にずっと残っていながら、「私はどうしたら救われるだろう」と考えることは、あまりにも愚かです。これは霊的にも同じです。聖書を見れば、神様はある罪に対しては、その中でずっといるようになれば救いを受けられないことを明確におっしゃいます。
ガラテヤ5:19-21に「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。またヨハネ第一5:16-17には「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。そして、まったく死に至る罪もあることをおっしゃいます。したがってロトがソドムを離れた時救いがあるように、私たちも罪から離れた時、救いがあることであり、特に肉の行いや死に至る罪には決して陥ってはいけません。
ロトはソドムを離れろという御使いのかしらの言葉を聞いた時、その言葉を信じたので、家族たちにも救いの道を提示してあげます。「私だけ救われれば良い」としたことでなく、何とか自分の家族と自分に属した人々を、皆救いに導こうとしたことです。家族を愛して自分の周りの人々を愛したら、どうして滅亡が差し迫ったという事を分かりながらも、伝えられないことがありますか?結局、ロトの娘たちと妻はロトの話に従ったが、婚姻を定めていた婿たちには冗談のように思われたのです。救いの機会が与えられたが、彼ら自らがその機会を捨ててしまったのです。彼らにはソドムを離れるべきだという言葉が耳に入ってこなくて、悪で染まっていた彼らの心にはソドムの人生があまりにも良かったし、それをあきらめる心が全くなかったのです。
ヨハネ第一2:15に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とおっしゃられた通り、神様が先ず、愛をもって御手を差し伸べて、救いの機会を与えて下さったにもかかわらず、世を愛する心がいっぱいだから、世の中に陥ってしまうのです。神様の愛がその心の中に入ってくる余裕がないためです。これは現在でも同じです。この祭壇に現れる数多くの御力の働きらと、あまりにも明らかな神様の御心を伝える生命の御言葉があるにもかかわらず、世を愛する人はこの中に入って来られないのです。かりに教会は行き来しても心がすでに世にある時、心の中をご覧になる神様も神様を愛する心がないとおっしゃいます。
また皆様が周りの方にこの祭壇に現れる神様の働きを伝えた時、信じて来る人がいるかと思えば、ある人はロトの婿たちのように冗談や嘘だと思う人もいるでしょう。救いの恵みを施していたとしても、神様の働きを信じられないことによって、その機会を自らが逃しているのです。しかし私たちは最後まであきらめないで伝えなければなりません。テモテ第二4:2に「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」とおっしゃられたように、私たちはまず神様の御心により福音を伝えなければなりません。
ソドムを抜け出すロトと彼の家族
15-16節に「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。『さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。』しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」もうすぐさばきが差し迫った時点になって、これ以上の機会は与えられません。ここで「ロトがためらっていた」ということは、ロトが最後まで自分に属した人々の中で、ひとりでも救いに達するようにするために努めていたという意味です。
ロトには家族と婚約をしていた婿以外にも、家で使っていた多くの人々がいました。ロトは彼らにも救いの機会を与えたかったのですが、彼らはソドムの町に対する未練を捨てられなくて、離れることができなかったのです。ついに決められた期限がすべて満ちてしまったら、ふたりの御使いのかしらは、急いでロトと彼の妻とふたりの娘たちを率いて町の外に連れ出します。ただロトの話を信じて従う準備ができていたロトの妻とふたりの娘たちだけが、ロトと一緒に救われるのを見ることができます。このように救いとは、自分自身の選択の中で得られるものであって、誰かが代わりに救ってくれたり、強制的に救われるようにすることではないという事です。
それでは皆様はこのような状況でどのようにしますか?もちろん皆が「ロトのように町の外に出て行きます。」と答えるでしょう。しかし現実には、そうではない方々を見るようになります。その当時ソドムの町を離れるということは、これまで自分自身が築いてきた生活の基盤を全て放棄することを意味します。自分が持っている富と名誉と権力も未練なく置いていかなければならないのです。また「私はロトに従います。」と言っても、もし家族が引き留めたりするなら、一緒に従わないこともあります。こういう場合には家族までもあきらめなければなりません。今すぐには滅びが差し迫っているという兆しが目に見えるわけでもありません。かりに滅びが臨んだとしても、これまで集めた財産を少しでも手に入れる時間はありそうですね。それでも全てのものを捨てて、からだだけ抜け出しなさいということです。
この状況で皆様は果たしてどんな選択をしますか?もしかしてロトの妻のようにすぐには町を抜け出したが、未練を捨てられなくて後ろを振り返りますか?決してそのような方がいてはならないでしょう。ソドムの滅びに対して次の時間に引続き調べるようにします。
結論
今日、私たちはあたかもソドムの町と同じ状況で生きています。新聞やテレビに出てくるニユースを見ればあまりにも恐ろしく、人としては考えにくい多くのことが起きています。ペテロ第二2:8に「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」という御言葉のように心が傷むほかない現実です。だからといって、私たちが世に背を向けたまま生きていけるのではありません。私たちの使命はむしろ世の光と塩になることですから、世でも正しいキリスト者としての光を放ち、味を出さなければならないのです。
また神様の子供としてこの世の生活を送る間にも、祝福され人々からも認められる生活を送らなければなりません。しかし覚えておくべき明らかな事実は、ただ旅人のように通り過ぎる人生だということです。いつでも神が「来なさい」と呼べばこの地の人生に少しの未練もなく、主のふところに抱かれなければならないのです。こういう人ならばこの世でも世にあることに心を寄せません。ただ主に向かった愛と天国に対する希望でいっぱいになります。そうして将来、主が私たちを迎えに来られる時、先頭に立って主のふところに抱かれることが出来ますように、主のお名前で祈ります。

朝の学び133 創世記19章
創世記19:9-16
しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
序論/
創世記講解は人の知識や理論または考えの中で出てくる内容では決してありません。それと共に、世の知識や理論では全く説明できない部分までも、すがすがしくひも解いてくださる御言葉です。また創世記講解を初めからお聞きになった方々は感じているでしょうが、今までのすべての内容が互いに正確に一致して、同じ脈絡の中で続いているという事です。これをどうして人が作り出せるでしょうか?まず天地万物を創造して、全てのものを皆ご存知の父なる神様だけが解いてくださる内容です。
さらに創世記講解は、ただ単に御言葉の解き明かしだけで終わるのではなく、御言葉を通し説明された霊の世界の明らかな姿が、私たちの前に繰り広げられています。第二の天があるという証拠として、雲が突然現れて消える姿をはじめとして、星の移動とUFOが数えることができないほど目撃されて、カメラにもおさめられました。もちろん霊の目が開き、直接第二の天にあるエデンの空を見られる聖徒も、たくさん出てくるようになったのです。また創世記講解を通し、ノアの洪水のあらまし、恐竜の存在と滅亡、古代文明のなぞも解けるようになりました。私が考古学を勉強したことでもなく、天体物理学や地質学等世の学問を勉強したことでもないのですが、父なる神様が解いて下さると、世の学問では説明されないことを、このように明快に解いていけたのです。
しかし何よりも重要なのは、創世記講解を通し、初めに対して知るようになったという事です。この世の誰が、どこで、初め以前からの初めに対して、そして初めの神様に対してこのように解いてくださるのでしょうか?マタイ13:16-17に「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」とおっしゃられた通り、皆様自身が見て聞く全てのものが、どれくらい大きい神様の恵みの中で与えられたことかを、心の中心から悟って感謝できるよう願います。それでヨハネ第一2:13前半節に「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」とおっしゃった御言葉のように、皆様の信仰も迅速に父の信仰に出てこられるように主のお名前で祈ります。
人としての道理もなくしたソドムの人々
9節を見れば、「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」と言いました。この御言葉を通し、私たちはソドムの人々がどれくらい悪なのかがわかり、その一方で、自らは自分たちの悪を悟れずにいるという事が分かります。ロトは自分の家に入ってきた二人が、神様に属する尊い方々であることを分かったので、どのようにしてでもその方たちを守るために、自分の娘を代わりに差し出すという提案までします。しかしソドムの人々は頑として、自分たちの行動がどれくらい誤ったことかを悟らせてくれるロトの話に、むしろ更に悪の姿として出てきます。
ロトはソドムの人々に、理性を持った人としての当然の道理を悟らせているのであり、ロトの話や行動が全く悪のことでなかったにもかかわらず、ソドムの人々は自分たちの思い通りにならないので、今はロトまで害しようとしたのです。私たちは現在でもこのような姿がしばしば見られます。悪の人々は、善の話をして善を教える人を見れば、かえって悪がさらに発動したりもします。善の中で自分たちの悪が耐えられないためです。
それでヨハネ3:20にも、「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」とおっしゃいました。光の中に居て心が善良な人ならば、当然善なるものが好きで、光の中にさらに出ていくことを願うようになるけれど、反対に闇の中に居る人は、自身の闇が明らかにされることを恐れて、光の方に出ていこうとしないのです。それと共にむしろ光を嫌うのです。
ソドムの人々もまさにこういう状況だったので、ロトが正しい話をしたのにも、それが自分たちの闇を表して刺す言葉になって、このように悪の反応が出てきたのです。更にロトの行動を言い訳にして、すべての責任をロトに返しています。あたかもロトが自分たちの上に君臨する裁判官になろうとするために、自分たちがこのように行動するほかはないという論理です。しかしこれは単なる言いがかりであって、結局は、自分たちの行動が阻止されたことに対して恨みを抱いて、ロトに悪で返すという構図です。人が悪で染まるようになれば、これと共に人としての道理も忘れるようになるので、善を悪で返すようになるのです。
サウロ王がまさにそうでした。サウロ王は、自分を助けて敵をしりぞけ、国に大きい功績を立てたダビデに対して、善を悪で返した人です。ダビデの功をほめて、それに感謝することであるにもかかわらず、民が「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」という話を聞いて、思わず悪を発動して、人としての道理も忘れてダビデを殺そうとしたのです。何が正しくて誤っているかを分別できなくて、かりに分別するとしても、結局は自分の心の悪で行っていくようになるのです。皆様の中にはあるいはこういう姿があってはなりません。
明らかに正しい話であると思いながらも、その話が自分の欠けていることを指摘するとか、自分の利益に役に立たないことである時、それによって話をする人を嫌うようになって、悪の企みや行動でその人を倒そうとしてはいけないのです。特に自分が力を持っていて、より大きい権力を持った場合ならば、より一層下の人や周りの人の話に耳を傾けるべきです。たとえ子どもの話でも、その話が真理に照らし適当なことならば、謙虚に受け入れられる姿勢にならなければなりません。
ソドムの人々は性的に堕落していた悪だけでなく、すでに人としての道理さえもなくしたまま、道徳的にも倫理的にもあまりにも荒廃している状況でした。それ故に、ロトはかつて目に見るのに良いソドムの地を自ら選んで行ったのですが、実際に彼らの中で生きていくうえで、彼らと同化して暮らすことはできなかったのです。自ら信仰があったロトの立場では、悪に染まって生きていくそれらの人々と相反し,多くの分野で困難な状況に直面しました。またソドムの人々の立場からも、ロトは自分たちの放蕩な生き方にならう人でなかったので、いつも異邦人のようにみなしていたのです。だから普段お互いの間で円満でなかった関係が、今回のことを契機にしてより一層悪化しながら、ソドムの民たちはロトに害を与えようとする状況にまでになったのです。しかし彼らがロトを害するということが彼らの目的ではなかったのです。本来の目的はロトの家に入った二人を自分たちの望むとおりにしようとすることであったし、これに邪魔になるロトを先に害を与えようとしたのです。
空間を分離して、入り口を探せないソドムの人々
このように状況が急迫するとついに二人の御使いのかしらが隠していた能力を表します。10-11節に「すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。」ここで目つぶしをくらったことがあたかもしばらくの間、目があけられないようにしたという意味ではありません。仮りに、一時的でありながらしばらくの間、目が見られなかったのだったら、目も見えない状況で継続して、入り口をさがそうとする人はないでしょう。彼らが入り口を探すのに困難だったということは、彼らの目にははっきりと入り口が見えるようだが、それにもかかわらず、実際にさがそうとすればさがせない状況であったということです。これはまさに空間を分離させたので可能な現象でした。
もう少し簡単に説明をするなら、例えば私たちがいるこの空間の中に数多くの御使いたちが共にいるとしても、霊の目が開かれなければ見られないですね。もちろん肉の空間と霊の空間が違うけれど、霊の目が開かれた人が見ると、私たちのすぐ近くにいる天使であっても、霊の目が開かれなければ見られないのです。二人の御使いのかしらが、人々の目を暗くしたということは、まさにロトとロトの家族たちがいる空間と、ソドムの人たちがいる空間を分けるため、ソドムの人たちには、ロトが入っている空間の中にある入り口をさがすことをできなくしたという意味です。そうなるとあたかも霊の目が開かれない人は天使を見ることができないように、ソドムの人々にはロトの家の入り口が明らかに彼らと同じ空間の中にあるにもかかわらず、さがせなくなるという事です。同じ空間にいるようでも、実際には全く違う空間に入っているためです。
一つ比喩をあげれば、犬か猫のような動物に生まれて初めてテレビを見せるとしましょう。するとテレビで見せる場面が、あたかも今自分たちと同じ空間で形成されている状況として受け入れます。それでもしテレビで彼らが好きなおいしい食べ物を見れば、犬や猫はそれが画面の中にある食べ物なのかを知らないまま、その食べ物をとろうと努めるようになります。しかしいくらつかもうとしても、テレビの中にある食べ物が犬や猫の足で捕まえられますか?初めは犬や猫が、テレビの中に映る食べ物を捕らえようと、ありったけの力をふりしぼるでしょうが、後にはおのずと疲れてあきらめるようになります。これと同じようにソドムの人々も空間が分離した状況で、これを全く感じられないまま、熱心にロトの家の入り口をさがそうとしましたが、結局は探せなくてあきらめてしまいました。このようにして急に悪化した状況からまぬがれて出て、ついにロトと彼の家族たちのソドム脱出が始まります。

朝の学び132 創世記19章
創世紀 19:1-8
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
ソドムの人々の反逆性
このように、ロトが二人の御使いのかしらに仕えていた時、当時ソドムがどれだけ道理に反していたかがよく分かる事件が発生します。4-5節に「彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。『今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。』」と話しています。ここでソドムの人々が二人に対して「彼らをよく知りたいのだ。」というのは彼らの性的な腐敗をよく示す場面です。先程も申し上げたように、ロトの家に入った二人はルシエ-ルとルシヤ天使長です。この二人の御使いのかしらは、天でも三位一体の神様に仕える立場にいる方々で、その容貌の美しさは表現できません。人々が普通、外見が美しい人を見ると「あの人はまるで天使のようだ。」と言ったりもしますが、今この二人は普通の御使いではなく、御使いたちの中でも一番美しくて優れた御使いのかしらなので、この地上のことばでは表現できないほど美しいです。
このように二人の御使いのかしらが人の形をしたとしても、外見の美しさはこの地の人々とははっきりと区別されました。ところが当時、ソドムには性的堕落が非常に激しかったのです。ユダ1:7によれば「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」と言っています。聖地巡礼の時、ポンペイというところに行かれた方はご存知ですが、そこの性的堕落は今日と比べてもその程度が非常に激しかったことが分かります。ソドムもまさにそのような状況にあり、そんな中、ソドムの人たちが今まで見たことのないとても美しい二人を見ることになり、ソドムの人たちが興奮しました。「若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。」とあるように、ロトの家を囲んでは二人を出せということですね。情欲に目がくらみ、前後のいかなる状況も見ずに、ひたすら二人を出せと脅したのです。
この時、ロトはどうしましたか? 6-7節に「ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。『兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。』」と言ったのです。 興奮している多くの人々の前にこのように出るということは、実は生命の脅威までも犯す行動でした。 自分の家に来られたお二人がどんな方々だということをあまりにもよく知っているロトは、どんな状況でもお二人を守ろうとしたのです。
二人の御使いのかしらを守るために二人の娘を手放そうとするロト
しかし、状況が落ち着く気配が見られないと、ロトは彼らにあまりにも意外な提案をします。 8節に「『お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。』」と言ったのです。まだ嫁いでいない二人の娘を代わりに出してでも、自分の家に来られた二人を守ろうとしたのです。このようなロトの姿を見て、ある人は「娘たちを手放すとどうなるかを明らかに知りながら、どうして娘たちを手放すことができるだろうか?」と思うかもしれません。また、「娘たちにも自分たちの意志があるのに、どうして父親だと言って自分の思い通りにできるのか?」と思うかもしれません。
聖書にはこれと似たような状況が出てきます。それは、娘を神様の前に燔祭として捧げると誓願したエフタの場合です。しかし、エフタの場合と今のロトの場合とは全く違うことを知る必要があります。エフタの場合は、その心が善良でそのように請願をしたのではないですね。士師紀11:8によれば「すると、ギルアデの長老たちはエフタに言った。『だからこそ、私たちは、今、あなたのところに戻って来たのです。あなたが私たちといっしょに行き、アモン人と戦ってくださるなら、あなたは、私たちギルアデの住民全体のかしらになるのです。』」ギルアデの長老たちがエフタに答えるが、「今私たちがあなたを訪ねてきたのは、私たちと一緒に行ってアモン人と戦ってくださるなら、そうすればギルアデの住民の全体の頭になるのです。」と言って、エフタに助けを求めに来た人々が、エフタに条件を付けることが分かります。まさに自分たちの頭になるようにしてあげるというのです。
これに対し、エフタが答える9節に「もしあなたがたが、私を連れ戻して、アモン人と戦わせ、主が彼らを私に渡してくださったら、私はあなたがたのかしらになりましょう。」と言って、自分を本当に頭に立たせてくれるのかを尋ねます。その心が純粋ではないことを示しています。こんな気持ちだったので、何とか戦争に勝とうとしたエフタは、いざ戦争に臨むと軽率な請願をすることになります。士師紀11:30-31に「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』」と言ったのです。
ところが、エフタのこのような請願には、多分に計算的な心が込められていました。一般的に主人が外から帰ってくると、誰が一番先に出てきますか?まさに僕です。エフタもそれが分かったので、自分が勝利して帰ってきた時、自分を一番先に自分に迎えてくれる人は、僕の中の一人だろうと思ったのです。だから、このように人の命がかかっている請願をすることができたのです。ところが、実際にエフタが勝利して帰ってきたとき、彼を一番最初に迎えたのは一人娘でした。しかし、すでに神様の前に誓願した後だったので、エフタは結局、自分の誓願を守りましたが、これが決して善良な心ではなく、自分の益を求める心から始まったものでした。
しかし、ロトの場合は全く状況が違います。ロトは娘たちを手放す代わりに、自分の何かの利益を求めるのではありませんでした。ただ神様に属した方々を守ろうとする気持ちでそのようにしたのでした。また、娘たちの意思をまったく無視したまま、自分勝手にやろうとしたわけでもなかったのです。
結論/
愛する聖徒の皆さん、もし二人の御使いのかしらがソドムに着いた時、ロトが門のところに座っていなかったらどうなっていたでしょうか?たとえ座っていたとしても、二人を見た時に彼のように彼らの前に出て手厚くもてなして、自分の家に泊めていなかったらどうなっていたでしょうか?また、家にお連れしたとしても、ソドムの民が集まってきて脅して二人を出せと言った時に、もし二人を彼らに差し出したらどうなったと思いますか?その中でどれか一つでも該当していたら、ロトが救われるのは容易ではなかったでしょう。
しかし、ロトが救われた理由は、第一に、恵みの機会をつかむことができるところに出ていたという事です。ロトは心の虚しさを癒すところがなくて、門のところに座っていたのですが、そこがまさに恵みの機会に出会うことができる祝福の場所になったのです。それでは皆さんは、果たして自分がいるべき恵みの席にいつもいらっしゃいますか? 自分がいるべき席を守っていますか?
二番目に、ロトは恵みの機会が来た時、それを逃さずに捕えました。これは皆さんにとっても同じことです。神様は誰にでも最後まで機会を与えることを望んでいます。その機会の時が人によって違うことはありますが、皆さんが慕う心で信仰を示せば、機会が来た時に必ずその恵みの機会をつかむことができます。ただ礼拝や祈りの時間に座っているだけで良いのではなく、私に与えられた恵みと祝福の機会を私が必ず逃さずにつかまなければならないという心と、それに伴う行いがなければならないのです。
第三に、ロトは最後まで信仰を守りました。たとえ生命の脅威が来るとしても、自分の最も貴重な二人の娘たちを犠牲にしてまで、神に対する信仰と道理を守ったのです。 神様は祝福をくださる時、先にテストを許可される時があります。「果たして最後まで信仰を示せるのか?」「その信仰が変わらぬ霊的な信仰なのか」をご覧くださいます。それで、そのテストに合格したら必ず祝福が与えられるという事です。 このようなテストは様々な形で来ることがありますが、この時間にいちいち申し上げることはできませんが、皆さんはいつも目を覚ましていて、どんなテストが来るとしても通過することで、父なる神様が皆さんに与えようとする祝福を全て受けることができることを願います。
それで、ロトを滅亡するソドムから救うように、皆さんの最も難しい問題の中でも皆さんを救う神様の助けの手を、自ら体験する皆さんになってください。リバイバル聖会を通してあまりにも多くの方が答えを受け、問題解決を受けましたが、もしまだ答を受けていない方々がいたら、すべてが美しく答えられますように神様の名前で祈ります。

朝の学び131 創世記19章
創世紀 19:1-8
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
序論/御霊の神を「神である主」と記録した理由
聖書に記されている人間耕作の歴史は、大きく3つに分けることができます。御父の神ご自身がつかさどって、導いて働かれた時代、御子イエス様がこの地上に来られて働かれた時代、御霊の神が聖霊として来られて働かれる時代です。旧約聖書を見れば神である【主】の御名によって働かれる場面が多くあります。ご自身で声や幻で働かれたり、仕える御使いを使者として遣わして働かれたりもしました。もちろん、今も人間耕作のすべての歴史は御父の神がつかさどっておられますが、旧約時代にはご自身で前面に出て働かれたということです。
その後、御子イエス様がこの地上に来られて、救い主としての使命を果たされる働きがあり、天に上っていかれた後は、働きのバトンを聖霊様に渡されました。将来、主が私たちを連れに再び来られるまで、聖霊様が働かれる時代が繰り広げられます。だからといって、旧約時代には御父の神おひとりだけが働いて、御子と御霊の神は何もしなかったのではありません。また、聖霊時代だからといって、父なる神と主が静かにご覧になっておられるだけではありません。三位一体の神はいつもご一緒に働かれるので、旧約時代であっても、御子と御霊の神が時に応じて御父の神の働きを助けられたし、今日聖霊の時代にも、父なる神と主が活発に働いておられます。ただし、各時代に主体となる方がいらっしゃるので、その時代にはおもにその方の御名によって働きが行われます。
したがって、旧約時代には御子と聖霊様がなさったことでも、父なる神様の御名で働かれる場合が多く、聖霊時代に至っては、父なる神様と主の働きも、聖霊様の御名によってなされる場合が多いです。 旧約時代の主体は父なる神様なので、御子と聖霊様の働きは、あくまでも父なる神様に代わる役割になるのです。それで、前回学んだ通り、ソドムとゴモラをさばくために来られた御霊の神を、聖書にはその方を「神である【主】」と表現した理由がまさにここにあります。 実際、御霊の神が来られたのですが、これはあくまでも父なる神様に代わって、その御こころを授かって来られたのですから、「神である【主】」と表現しているということです。 例えば長男が父親に代わってある仕事を見に行き、父親の名前で契約をして判子を押したとすれば、それについては、当然父親に責任があり権限もあるようにです。今、なぜ聖書に、アブラハムの前に現れた神様を御霊の神と言わず、「神である【主】」と言ったのか理解できましたね。
肉の空間の法則に従ってソドムに到着した二人の御使い
創世記18:22によれば「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」として御霊の神と共に人の形でこの地に降りてきた二人、すなわちルシエールとルシヤの御使いのかしらは、自分たちの使命を遂行するために、ソドムに向かって出発しました。そして、創世紀19:1に「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」とある通り、正午頃にアブラハムの前に現れ、食べ物をもてなされてしばらく対話した後、ソドムに向かって出発した二人の御使いのかしらが、日が暮れる頃にはソドムへ至ったのです。
イスラエルはその土地の面積が我が国の江原道(カンウォンド)より少し大きく、アブラハムが住んでいたマムレの近くとソドムとはそれほど遠い距離ではありません。もし御使いたちがこの街を霊の空間に乗って行くとか、あるいは肉の法則を跳び越える能力で行ったとすれば、このように多くの時間がかからなかったでしょう。使徒の働き8:36-40を見ると、「道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。『ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。』そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。」とあります。ここで主の霊に導かれたピリポが、他の場所に現れることが分かります。まさに霊の空間の中で、霊の流れに乗ってあっという間に移動したのです。
二人の御使いのかしらもいくらでもこうできるのに、日が暮れる頃になってようやくソドムに至ったということは、彼らが霊の空間に乗ったり、肉を超越する能力を使ったのではなく、完全に肉の法則に従ったことを物語っています。つまり肉の体をまとった人が歩くように、彼らも同じように歩いて行ったということです。これは、二人の御使いのかしらが限られた肉の空間をまとっていたために可能でした。そして、彼らがこのようにしたのは、まさに人と同じ条件の中ですべてを調べるためでした。ただ「さっと」飛んで行って、ソドムの町だけを見て火のさばきを決めたのではなく、人と同じように歩き、感じながらソドムの周辺の情況までも細かく調べたのです。
ソドムでの人生に疲れ果てて空虚だったロト
ちょうど町の門のところに座っていたロトがソドムに到着した二人の御使いのかしらを見て、すぐに立ち上がって迎えに行き、地面に顔を伏せてお辞儀をします。 ロトがどのようにしてこのように手厚く出迎え、お辞儀をしたのかは前にすでに説明をしました。 自分が捕虜になった時、自分を助けに来た叔父アブラハムと一緒にメルキデゼクに会うことができたロトは、その時、霊の眼が開かれ、メルキデゼクと共にしていた御使いのかしらたちを見ましたが、彼らがまさに今日の本文でロトの前に現れた御使いたちでした。 御父の神はこれからのすべてをご存知なので、あらかじめロトに2人の御使いのかしらを見ることができるように、彼の霊の眼を開いて働かれたのです。
では、ロトが門のところに座っていたということは、何を物語っているのでしょうか? それは、ロトがソドムの人生にどれほど疲れていて、彼の心が空虚だったかを物語っています。ペテロの手紙第二2:6-8によれば、「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」と述べています。
叔父のアブラハムのそばで真理を見て聞いて学んだロトだったので、たとえ自分の目に良いところを選んで、ソドムに彼の人生の基盤をつくったとしても、その中で行われることが神様の前にどれほど正しくないのかを心に感じて、苦しみを受けていたのです。 さらに神様のさばきが迫り、罪と悪で染まっているソドムの姿を見守るロトの心は、どれほど痛んだでしょうか?だからソドムでの生活に疲れたロトの心には、虚しさがこみあげてきたのです。前に叔父のアブラハムと一緒に暮らした時と今の自分とを比べてみて、今あまりにも価値なく生きていく自分の人生に対する悔恨が押し寄せてきたのです。 ちょうどこのような時に、二人の御使いのかしらが彼の前に現れました。 これはロトに訪れた貴重な恵みの機会でした。
心があまりにも貧しくなっていたロトは、彼らがどんな方なのか知っているので、この機会を逃すことができませんでした。二人の御使いのかしらが、どんな目的をもってソドムを訪ねてきたのかは知らなくても、ロトはこの時こそ自分が失った恵みを取り戻せる機会だと考えたので、二人をそのまま去らせることができるわけではありませんでした。 これが結局はロトにとって救いの機会になりました。
恵みの機会を逃さないロト
それで、ロトは二人の御使いのかしらに懇願して、自分の家で泊まるようにお願いします。 2-3節に「『さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。』すると彼らは言った。『いや、わたしたちは広場に泊まろう。』」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」とあります。まさにロトに仕えの行いがあったから、これが、ロトが救いに至るもう一つのきっかけになったという事です。もちろんロトが救いに至ったのは、アブラハムを覚えておられる神様の恵みでしたが、ロトがこのように神の使いを手厚くもてなして、恵みを求める心があったので、公義に外れることなく救いの道が開かれたのです。これはまるで私が病人たちに祈る時、私の神の力がいくら大きいとしても、祈りを受ける側からも、少しの信仰は示さなければならないのと同じ理屈です。何の信仰も誠意もなく、幸運や奇跡を願う気持ちで私の前に出て祈りを受けようとするなら、心を見る神様がどのように働いてくださるでしょうか?
ロトが救われたことには、叔父アブラハムの恵みがあまりにも大きかったのですが、救いは結局、個人の信仰によるものなので、ロト自らも救いの枠の内に入ることができる、彼の信仰を見せなければならなかったのです。このようにロトの立場では、自分に訪れた恵みの機会を逃さずにつかんだという事です。 例えば、以前は主のしもべを見れば何とか仕えることを望み、恵みを受けることを望み、恵みの席があれば何とか訪ねて恵みを受けようとする姿だった方が、恵みが落ちれば、今は恵みの席があっても避けようとするのです。しかし、本当に信仰のある人ならどうすればいいですか? むしろ恵みが落ち充満さが落ちた時に、さらに恵みを慕わなければならず、満たされる道を探さなければならないでしょう。恵みの席があればさらに訪ねていかなければならず、恵みの機会が来た時につかまなければならないのです。
したがって、ロトは二人の御使いを見た時、彼らに懇願して家に迎えて仕えるほどの信仰があり、その信仰を行いに現わしたので、恵みの機会をつかんだのです。 アブラハムがロトを心に抱くことの上に、このようなロトの信仰の行いが加わったため、火のさばきの中でも救われることができたのです。

朝の学び130 創世記18章
創世記18:20-33
そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。
ソドムとゴモラを視察された神様の意図
神様はアブラハムに非常に重要な約束の言葉をした後、直ちにソドムとゴモラについて話してくださいます。20-21節に「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』と言われました。
この言葉には3つの意図が込められています。第一に、神様はすべてを知っているにもかかわらず、もう一度慎重に調べることで、決して公義に外れないようにしようとすることです。ソドムとゴモラに下されるさばきは、すべてを滅ぼしてしまう途方もない災いであったので、このように最後まで繊細に調べて、わずかな間違いもないようにしようとしたのでした。
第二に、この言葉の中には罪の結果が何なのか、したがって罪悪に陥ることをどれほど警戒しなければならないのか、これをアブラハムが確実に心に刻むようにしようとする意味が含まれています。アブラハムに驚くべき祝福の契約を下さいましたが、その約束が完全になされるためには、彼の子孫の中に決してソドムとゴモラのような誤った前轍を踏むことがあってはならないので、このようにソドムとゴモラが滅亡に至ってしまう過程をアブラハムの心に確実に植え付けることで、また彼の後の子孫の心に刻み、後々まで警戒するようにされたのです。
第三に、神様はアブラハムにソドムとゴモラの滅亡についてあらかじめ教えてくださることで、そこに住むアブラハムの甥ロトに救いの道を開こうとされました。アブラハムがソドムとゴモラに差し迫ったさばきについて知った時、一番先に誰が思い浮かんだでしょうか?それは甥のロトでした。いつも心に留めていたロトでしたが、このロトが住んでいるソドムが滅亡される状況に置かれたので、これを知ったアブラハムはより一層ロトを心に抱いて祈るしかないのです。そしてアブラハムがこのように心に抱いて祈ることで、神様は甥のロトに救いの道を開いてくださいます。これはどういう意味でしょうか?これはまさにロトの救いが全面的にアブラハムによるものであることを確実にしていらっしゃるのです。
霊の世界の法則は、求めてこそ答えられるのです。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」の言葉のように、愛と信仰をもって捧げる義人の祈りは、働くと大きな力があります。したがって、神様はアブラハムにソドムに差し迫ったさばきのことを教え、アブラハムがロトを心に抱いて祈るようにされるのです。その祈りに答えてロトに救いの道を開いてあげようとなさるのです。
私もこのようなケースをよく体験してきました。例えば、神様が主のしもべや働き人についてあることを教えてくださる時がありますが、これはそれを教えてくださることで、私があらかじめ知って対処するようにしようとする意味もありますが、私にこのように知らせてくださると、私が心に抱いて祈ることを知っておられるからでもあります。たとえば、ある聖徒が死の道を進んでいると教えてくださったとしたら、それを知った私がどうしますか?知った瞬間から、その魂のために哀痛し、心に抱いて父なる神の前にしがみつくようになります。では、神様はなぜ私がこのように悲痛で心を痛めることを知りながらも、私にそのようなことをあらかじめ教えてくださるのでしょうか?それはまさにその魂に一度でも多くの機会を与えるためです。
もし神様が教えてくれなくて、結局その魂が死に行くことになったとしたら、その時は私がどれほど心を痛めて哀痛するでしょうか?だから、私がその魂について知った時、あまりにも心を痛めることを知っていますが、それでも私が心に抱いて祈らせるようにされ、その魂に救いの道を開いてあげようとするのです。羊飼いを見て、与えていただく機会なのです。これがまさに神様の愛であり、同時に神様の公義です。アブラハムを覚えて、甥のロトと彼の家族を救う時も、最後まで機会を与えておられるのです。アブラハムにあらかじめソドムとゴモラの審判について知らせることで、ロトを心に抱くようにしたように、神様は牧者を考えて、もう一度心に抱いて祈ることができるように機会を許すということです。
ロトと彼の家族だけに与えられた最後の救いの機会
ところが、これはまさにアブラハムが神様の愛される人なので、ロトに与えられた機会です。ソドムとゴモラには、アブラハムの甥であるロト以外にも、他の多くの人々の家族がいたでしょう。それでも神様はただアブラハムを覚えて、彼の甥ロトと彼の家族に最後まで機会を与えていらっしゃるという事です。これを肉で見れば公平ではないように見えるかもしれませんが、霊的にはあまりにも正確な公義です。神様の公義は愛の中で完全になるので、まさにこのような機会も与えられるのです。
たとえば、神の前に非常に忠実な家族がいます。神様をとても愛して愛される家族です。ところが、この家族の中で一人の子供が神様の前に怒りを買うようなことをしました。 それなら当然、公義よって懲戒が伴わなければならないのですが、時には神様が彼を懲戒せずに、もう一度機会を与える場合があります。まさにその家族のことを考えていたからです。神様の前に怒りを買った個人としては、直ちに懲戒を与えても当然だが、そのようにされた時に、家族が体験することになる苦痛を考え、神様の前に忠誠して愛される家族を見て、機会を与えるのです。このように神様は、公義の中で全てのことを成し遂げますが、あることを成し遂げる時に一つだけ考えるのではなく、それによって派生されることまで全て考慮するという事です。
しかし、ほとんどの人がこのように様々な面まで考慮できないまま、すぐに過ちだけを問題視して機会も与えず、二度と回復できない状況にまで至らせることを見ることになります。もし神様が皆様にもこのように行われたと考えてみてください。誰が再び機会を持つことができ、誰が今日の神様の愛される人として出てくるでしょうか?ただ神様の愛があったからであり、公義も愛の中で行われたので、皆さんが機会を得て、また機会を得て、今日にまで至ることができたという事です。これがまさに愛の中での正確な公義であり、公義の中での愛です。先にも申し上げたように、神様の公義は愛の中で完全になるので、公義が愛によって調和を成すのです。神様に愛される祭壇に属した羊の群れの時、神様からもう少し特別な保護を受けることができ、時には召天された方々が自分の信仰で行ける天国の所よりもっと良い所に行ったりすることがあるのは、すべてこのような愛の中での公義によるものです。
したがって、神様の公義はある一面だけを見てはならないことであり、決して人の考えや知識で判断してもいけません。しかし同時に、神様の公義は必ずおっしゃる通り正確に行われるという事実も肝に銘じてください。このような公義については、来週から始まるリバイバル聖会の際に「公義」というタイトルの言葉を通して、さらに詳しい説明が出ていきます。
ソドムとゴモラを調べるために御霊の神を送られた理由
父なる神様は、ソドムとゴモラについて調べるために御霊の神を送られましたが、その理由は何でしょうか?これは少しでももっと人性的な面で状況を察して、最大限に恵みを施して下さるためです。例えば、ある交渉のために代表が行く時に同じ目的を持って行くとしても、代表として行く人の性格によって、いくらでも温柔に交渉することもでき、時には強硬に交渉することもできます。父なる神様がソドムとゴモラのさばきの時に御霊の神を送られたのも、まさに少しでももっと人性の心を推し量るためです。三位一体の神様は人性と神性を全て持っておられますが、その中で御霊の神は人性の分野がもう少し大きいです。ですから、より人性的な面で配慮して、憐みを施そうとする属性があります。反面、神様は神聖な面がより強いので、神様は御霊の神を送ったのです。
本文に出てくるアブラハムと御霊の神の対話を見れば、アブラハムは神様の前にあえて5回も言葉を変えながらソドムのために求めます。 最初は義人50人がいれば、それによってソドムを滅ぼさないようにと懇願したが、次は45人、40人、30人、20人、ついには10人まで下がります。 アブラハムがこのようにできたのは、まさに人性的な面が強く、人性の分野をよく理解する御霊の神が来られたために可能だったことです。 したがって、神様が御霊の神を送られたのは、公義の法則上、いずれにしてもソドムとゴモラを滅ぼさなければならない状況でしたが、それでも少しでも人性的な面で顧みて、救いの機会を与えようとした父なる神様の心が込められていたのです。
私もあることを決める時、父なる神様の公義をあまりにもよく知っていますが、時には相手の心をもっと深く察してあげようとするので、公義よりは愛に偏るようになる場合が多かったのです。もちろん、公義を行う方は父なる神様なので、すべてを父なる神様に任せようとする気持ちですが、私の方ではきっぱりと切って、公義どおりに処理するのは難しいです。それで父なる神様はいつも私に神性と人性の調和について話してくださったのであり、この前に7年患難と地獄について知らせてくださるのもまさに、公義の善がどこまでなのかを私が悟って心に抱くことができるようにするためでした。 それで赦されるまで抱くようにするが、ある限界を越えて「赦せない」と決定が出る時は、父は抱くことができないようにします。私の心は赦してまた赦そうとする心ですが、父は私に正確な公義の善を知らせてくださって、神性と人性の完全な調和を成すことを願われるのは、これが父の心であり父の意思だからです。
父なる神の心も主の心も聖霊の心も愛そのものですが、いずれにしても公義という正確な法則の中で、霊の世界と肉の世界が存在し運営されます。そのため、霊の次元を完全に所有するためには、正確な公義の線がどこまでなのかを明確に知る必要があります。まさに神様はこのような公義の線を外れない範囲内で、最大限愛で働かれることを望んでいるので、ソドムとゴモラを審判する時も、人性の分野をより多く知って感じる聖霊様を送って、憐みと慈悲を施すことを望んだのです。 次の時間には、アブラハムの前に現れた神様を御霊の神と言いましたが、なぜ御霊の神と記録せずに神である主と言ったのかについて説明したいと思います。
結論
愛する皆さん、私たちが神様の公義について知れば、心の願いに答えてもらうことはあまりにも簡単です。公義は即ち、答の公式とも同じで、公義に従って正確に適用していけば必ず答が与えられるからです。その方法を申し上げますと、多くありますが、代表的なものの一つがまさに七つの御霊です。神様の公義に照らして答を与えるかどうかを決めるために、各人の準備された状態を測量する秤のようなものがまさに七つの御霊です。それでリバイバル聖会を控えて主日大礼拝と夕方礼拝の時には、7つの御霊についてもう一度証しすることになります。今日の御言葉を通しても神様の公義についてお聞きになりましたが、次の日曜礼拝を通しても語られる御言葉をよく糧にしてください。そして神様の公義に従って、ヨハネ15:7に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」という祝福の言葉が皆さんに臨むことをイエス・キリストのお名前で祈ります。

朝の学び129 創世記18章
創世記18:9-19
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」
序論
前回、アブラハムの前に、御霊の神と2人の御使いのかしらが、制限的ではあるが肉の空間をまとって出てこられたとお伝えしました。霊の存在が肉の限られた空間に出てくるためには、肉の空間に合うかたちをまとわなければならないので、御霊の神と2人の御使いのかしらは、このように人のかたちをして現れたのです。しかし、私たち人間と同じ体を持っていたわけではなく、ただ必要に応じてしばらく人のかたちをされていたのです。4次元の空間を所有している三位一体の神様は、思い通りに気体、液体、固体、どんな形にもなることができますので、肉の空間の制限を受けた人と同じかたちをすることができるのです。それでも霊の眼が開かれた人は、その中に込められた本来の霊の姿を見ることができます。まさにアブラハムはこの3人を見る時、同時に霊の姿としても見ることができたので、直ちにその方々が誰なのかを悟り、その前に伏して手厚く仕えることができました。
このように霊の眼が開かれると、肉の体で遮られたとしても、その中にある霊の体を見ることができますが、イエス・キリストを迎え聖霊を受けて霊が生き返った人々は、霊が成長すればするほど霊体から出る光もさらに強くなります。私たちが光である神様に似ていくつれ、そして失われた神様の姿を取り戻すにつれて、私たちの霊的な体からより強い光が放たれるようになります。それで、霊的な体から出てくる光を見れば、彼がどれほど光である神様に似て、霊で働いたのかが分かります。敵である悪魔サタンもまさにこの光を見るので、その人がどの程度、霊の次元に入っているかが分かるので、明るい光の前では恐ろしく震えることになります。ヨハネ第一5:18に「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とおっしゃった通り、罪を犯さない人は神様が守ってくださるだけでなく、その明るい光のために敵である悪魔サタンがあえて接近することもできないのを見ることができます。
神の約束を信じないサラ
本文9節から神様がアブラハムの前に現れた目的が出てきています。まさにアブラハムの妻サラに約束された跡取りがいつ頃生まれることになるのか、正確な時を教えてくださっています。ところが、このような神様の言葉を聞いたサラは心の中で笑って、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう、それに主人も年寄りで。」と言います。この内容を一見すると、前にアブラハムが創世記17:17で「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」とおっしゃったことと似ているように見えます。しかし、アブラハムが告白した心と内容は、今日の本文のサラとは全く違うという事です。アブラハムが笑ったのは、ついに契約が成就する時が来たことに気づき、喜びで笑ったことだと言いました。また、アブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言ったのは、人には到底できないことだが、神様は十分おできになることなので、このような神様を完全に信じてした告白だとお伝えしました。
しかし、本文のサラの告白は違います。サラは、今、肉の考えを働かせて全能な神様の能力を疑っているのであり、自分に信仰がないことを表しているのです。それで13節に「そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。」と言いながら、14節にもう一度契約の時を明確にしてくれます。「【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラはこのように自分の心の中までもよく知っている神様が恐ろしく、続く15節に恐ろしかったので、「私は笑いませんでした。」と答えてしまいます。 しかし、人はだましても神をだますことができません。神様はもう一度「いや、確かにあなたは笑った。」と言って、これ以上否認できないようにします。
神様はすべてのことを知っているので、たとえ神様のお言葉が自分の考えに合わなくても、決して「いいえ」があってはなりません。神様は私自身も知らない私の深い心の中までも見抜いていらっしゃるからです。これがまさにすべてを知っている、全知全能の神様の属性です。人が神様の人性、人格的な面においては柔らかさと優しさなどを感じるようになるが、反面このような神聖な面に接することになれば、恐ろしくて震えるしかないですね。また、神様はこのように全てのことを知っているので、神様の前に唇でいくら「アーメン、信じます。」と告白したからといって、それで信仰があると認められるわけではありません。 「本当に自分の心の中心にはどんな気持ちがあって、 どんな考えがあるのか」が重要です。自分の考えと合わず、自分の心に合わないことに対して、表面ではいくらでも「はい」と言えますが、その瞬間、神様は心の中心を見ているからです。
わたしのしようとすることをアブラハムに隠すのか
ふたりの御使いのかしらはソドムとゴモラに向かって去り、御霊の神だけが残ってアブラハムと対話をします。17節に「【主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」とし、今後のことについてアブラハムに明らかにして下さいます。神様はアブラハムに深い奥義まで明かしてくださるほど信頼しておられました。このような親密な関係が、一日で成されたわけではありません。訓練の過程を経てアブラハムが肉の思いを打ち砕いて、父なる神様を完全に信じて信頼するようになるほど、神様の方でもアブラハムを信頼されるようになったのです。このようにアブラハムは一段階、一段階、信頼を積んできたので、神の友と呼ばれる完全な信頼の段階にまで至ることができたのです。
私も今から30年前に、神様を迎えて以来、神様を100%信頼し、ただアーメンと信仰で走ってきました。そうしながら、神様との間の信頼関係を日々さらに築いてきました。信頼を失うようなことはせず、神様との信頼関係のためには、何でもすべて後にしたまま、神様との信頼を第一に考えてきました。 このように行ってきたからこそ、今日、神様は、私に想像できないほどの深い霊の世界についてまで教えてくださっているのです。また、これから起こることについても明らかにしてくださいます。
正義と公正を行うことによって成就するアブラハムへの契約
続く18-19節に「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」」とおっしゃっています。彼に下さった契約が必ず成就すること、将来、彼の子孫を通して計画されたこと、すなわち神様が生きておられること、救い主が生まれること、そして聖霊の働きを万民に伝えようとする神様の計画について再び確認しておられるのです。
ところが、神様がこのようにアブラハムを通して計画されたことが、ただ無条件になされるわけではありません。「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため」とおっしゃった通り、神様の計画はただ主の道を守り、正義と公正を行う者たちを通してのみなされることができます。このために最もふさわしい人物としてアブラハムが選ばれたのです。それでアブラハムが信仰にあって、神様のみことばにどのように従うのかを見せるようにされ、後代の人々がこのようなアブラハムを見習って、神様の御心を実現することを望んでおられたのです。このように神様のわざは、ただ神様の命令に従う人々を通して実現されるという事を悟らなければなりません。

朝の学び128 創世記18章
創世記18:1-9
主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
霊と肉の空間での神様の形
それでは、神様はどのようにして、このように人のような姿で現れることができたでしょうか?これは以前に、少し説明をしたことがありますが、第四の天の空間を所有している神様は、心に抱いている通りにその形状を変化させることができるためです。例えば、第四の天の空間では、ある物質の状態が固体、液体、気体などに固定されているのではなく、その空間を所有している神様が、心に抱いている通りにいくらでも変えることができるということです。
それで神様は本来、ある形のない光と声でいらっしゃった方ですが、第三の天に降りてくる時には、具体的な人のかたちをまとわれるのです。それがまさに私たちが将来天国に行けばお目にかかれる神様のかたちです。そして、そのかたちに沿って最初の人、アダムが造られたのです。もちろん、第四の天でも人のかたちをされているかもしれませんが、そこでは主に光と声でいらっしゃいます。
ところが、同じように人のかたちをしている時でも、根本的に第四の天にいた時と第三の天にいた時の姿は違います。次元によって現れる光と栄光、威厳などすべてが違うからです。正確な例えではありませんが、理解を深めるためにクリスタルピースを考えてみます。クリスタルで美しく削られた彫刻があるとすれば、同じ彫刻でも、どんな光と雰囲気に展示するかによって、大きく異なる姿に見えることができます。とても明るい光がある空間で見ると、様々な色できらめいて華やかに輝き、まるで神秘的な光の塊のように見えます。しかし、光が暗くて薄暗いところで見ると、あまり光も出ず、形だけが見えます。
これと同じように、第四の天にいらっしゃる、はじめの神様の栄光と姿が、それより制限された下の次元の空間の中では、異なるように見えるという事です。このように、霊の世界であっても、第四の天と第三の天ではその姿が大きく違って現れます。まして神様が、第一の天に臨んで肉の空間をまとった時は、その差がさらに大きくなるしかありません。さらに、肉の空間に降りてくる時も、霊の空間を開いてその中にいる姿を見るのと、完全に制限された肉の空間をまとって、肉の空間に出てきた姿を見るのとは違うということを知らなければなりません。
ところが、預言者や天使たちは、自ら制限された肉の空間をまとうことができません。肉の空間に現れるとしても、依然として霊の空間に乗っているのであり、霊の空間に属する存在なのです。しかし、神様はすべての空間を創造された創造主として、心に抱く通りに、どんな次元の空間でもまとうことができます。霊の空間に乗ったまま、肉の空間に臨むこともでき、肉の空間の限界を自らまとうこともできるので、人の目に見える形で現れることもできるのです。
今日の本文でアブラハムに現れた聖霊様は、このように限られた肉の空間を自らまとって現れた場合なのです。聖霊様は神様と一つである方として、このように心に抱く通りに、肉の空間をまとって人の姿で現れることが可能だったのです。また、共にした二人の天使長も、自ら肉の空間をまとって人のかたちで現れることができるわけではありませんが、この瞬間だけは聖霊様の空間の中で、聖霊様と共に肉の空間をまとったので、このような姿で現れることができたのです。しかし、聖霊様とお二人の天使長たちが、このように肉の空間をまとって人の姿で現れたからといって、人と同じではないという事です。肉のからだはまとっていますが、霊に属する肉のからだに近いと言えますね。
今日の本文によれば、三人、すなわち聖霊様と二人の天使長が、アブラハムがもてなす料理を食べたとありますが、これは私たち人が食べることとは違います。人が食べ物を食べるように、食べ物を噛んで細かく砕いて分解し、消化して吸収するのではなく、ただ散らばって消えるようになります。まるで復活した主が、食べ物を召し上がったのと似ていると言えるでしょう。復活した主は食べ物を召し上がった後、呼吸を通して食べ物を分解しましたが、神様と二人の天使長もこれと似ていたということです。しかし、肉の空間をまとった状態が、復活のからだと同じだというわけではありません。復活のからだは、この地で耕作されたからだが霊の体に変えられたものですが、今日の本文に三人が人のかたちをしたのは、しばらく必要に応じて肉の空間に適した形のからだとして存在していただけです。
では、なぜ神様は、二人の天使長と一緒にこのように肉の空間をまとった状態で、この地に降りてこなければならなかったのでしょうか?以前のように、霊の空間の中にいる姿でアブラハムに現れてもいいのですが、その理由は、ソドムとゴモラの地を注意深く調べなければならなかったからです。もちろん、霊として降りてきて調べることもできますが、今回は自らソドムとゴモラの地の人々の中に入って、直接彼らに接しなければならなかったからです。
これから19章に入って再び説明致しますが、二人の天使長がこのように人のような形で直接彼らの前に現れたので、彼らのはい逆した(道理に背く)悪の程度を確認することができたのです。彼らは人の姿で現れた天使長たちを見て、自分たちにふさわしい悪行をもって、天使長たちに関わろうとしたのです。ただ霊で来ていたら、彼らの悪を肌で感じることができなかったはずなのに、人の姿をして来たので、このように彼らの悪を直接体験して感じることができたということです。次の時間には、神様とアブラハムの間にあった会話の内容について見てみましょう。
結論
今週は苦難週間として過ごしています。イザヤ53:5に「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」という言葉のように、イエス様は私たちの罪と過ちによって代わりに苦難を受け、十字架にかけられ亡くなりました。この時、イエス様が、私たちが想像できないほど大きな苦難と苦痛を受けなければならなかったという事も重要ですが、より重要なことは、まさにその苦痛は「私」のために受けたという事です。
今日2部の時間、復活祭カンタータ公演をご覧になると思いますが、イエス様の苦難にあう姿が出てきます。その場面を見ながら、ほとんどの方々が涙を流すことになりますが、涙が出る理由が、単にイエス様が受けた苦難があまりにも残酷だということではありません。そのような涙は世の人々も流すことができます。私と皆さんが涙を流すしかない理由は、イエス様が受けた苦難が、本来は私と皆さんが受けなければならないことだからです。
ところが、イエス様は私と皆さんのために、その苦難を代わりに受け入れてくださるほど、私たちを愛してくださったという事です。その愛に感謝し、感動して涙を流すことであり、そのような愛を受けながらも、神様をさらに愛せなかったことが申し訳なくて、涙を流すことになるのです。神様の息子が人の体を着て、そのような残酷な十字架の苦痛に遭ったという事実が、あまりにも心が痛むのは当然なことです。
一週間の間もイエス様の苦難をよく黙想されたと思いますが、今日2部にある公演を通して、もう一度イエス様の苦難の意味を再確認し、私と皆様を救った血の功を考えながら、恵みと感動になることを願います。それでローマ14:8に「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」という御言葉のように、私たちのために生命をくださった主のために、自身の生命も惜しみなく捧げることができるという告白が、心の中心から湧き出る皆さんになられますように、主の御名でお祈りします。

朝の学び127 創世記18章
創世記18:1-9
主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
序論
本文の第18章を見ると、アブラハムがもう一度主なる神様と会う場面が出てきます。日の暑いころ、天幕の入り口に座っていたアブラハムは、3人の人が彼に向かって立っているのを見ることになります。ところが、彼らを見たアブラハムは、直ちに天幕の入り口から駆けつけて、彼らを出迎え、体を地にひれ伏して礼をします。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」
アブラハムが今三人に話す言葉を見ると、不思議に感じられるほど謙虚に手厚い仕えの姿勢が現れています。当時は、遠くへ旅をする人たちが適当に泊まれる旅館のようなところが多いわけでもなく、人口が多くないので、人家もまばらだったので、一般的に自分の家の近くを通る旅行者を見ると、自分の家に入れて接待するのが風習でした。したがって、アブラハムのように善良で施しをする心を持った人なら、通り過ぎる旅行客を見て、自分の家に招待して、もてなすのが当然の姿かもしれません。ところが、今日の本文の内容を見れば、アブラハムが今、普通の旅行者を接待する水準ではないことが分かります。妻のサラに直接、上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作れと言い、自分が直接、牛のところに走って行って、柔らかくて、おいしそうな子牛を取ってきたのです。また、お客さんに食べ物をもてなすことも、自分で直接口を出して接待しました。8節をみると「それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。」とあります。理解しやすく言えば、アブラハム自身が直接そばに立って、給仕までしたという事です。
アブラハムは非常に裕福で、力でも連合軍と戦って勝利するほど勢力のある大きな族長でした。創世記14:23によれば、アブラハムがソドムの王に対する時も「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」と、王に接しながらも、非常に堂々と威厳のある態度で話していることが分かります。また、霊的にもアブラハムは神様から愛され、信頼され、保証される本当に尊い人です。このようなアブラハムが、通り過ぎる旅行者たちを見て、このように慌てて走って行き、地面にひれ伏してお辞儀をし、彼らを家に呼び、自分が直接そばで食べ物までもてなしたのです。しかも彼らを「ご主人」と呼び、アブラハム自身を彼らのしもべだと低くしています。また、この3人がアブラハムに対する態度を見ても、普通の人ではないことが分かります。9節によればアブラハムに「あなたの妻サラはどこにいますか。」と言って、まるで目下の人に対するように尋ねています。 また普段よく知っているように話しています。では、果たしてアブラハムがこのように仕えるほどすごい人は誰でしょうか?
アブラハムに再び現れた聖霊の神様
創世記18:13を見ると、この3人が誰なのか分かる手がかりが出てきます。アブラハムが3人と対話する内容ですが、突然「主がアブラハムに仰せられた。」と言って、アブラハムに話している方が、主なる神であることが分かります。 3人のうちの1人が、主なる神様であることを言っているのです。それでは、主なる神様と親しく同行できた残りのお二人は誰だったのでしょうか?創世紀18:22によれば、主なる神様はそのまま残って、アブラハムと対話を続けますが、その人たちまもなくして、残りの2人はソドムに向かって行きました。
そして続く、創世記19:1によれば「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」とあります。まさに主なる神様と同行した二人が御使いだったことを語っているので、ロトは前にも会ったことがあるということを物語っています。すでに知っているという事です。アブラハムの甥であるロトは彼らに気づきました。そのため、地面に顔を伏せてお辞儀をしてまで、彼らを手厚く出迎えたことが分かります。
では、この二人の御使いは果たして誰でしょうか?それも主なる神様が同行してこの地に降りてくるような位にある御使いなら、普通の天使ではないということを推察することができます。この二人はルシエールとルシヤ天使長です。したがって、この日にアブラハムの前に現れた3人は、主なる神様と2人の天使長が人の形で現れたのであり、アブラハムはこの方々が誰だということをすぐに知ったので、このように手厚く最初から出迎えたのです。もちろんアブラハムの甥であるロトも、この2人の天使長を一目見てわかりました。では、どうやってアブラハムと甥のロトは、このように人の形で現れた神様とお二人の天使長を知ることができたのでしょうか?
その答えは、前にアブラムが戦争の捕虜として連れて行かれた甥のロトを救って帰る途中、メルキゼデクに会った出来事から見つけることができます。前に創世記14章で説明したように、メルキゼデクの形でアブラムの前に現れ、彼に会ってくださった方は聖霊の神様でした。そして、今日の本文にアブラハムの前に人の形で現れた方も、まさに聖霊の神様だったのです。アブラハムは以前、メルキゼデクという形で現れた聖霊の神様にすでにお会いしたことがあったので、このように再び聖霊の神様にお会いした時、すぐに見分けることができたのです。もちろん、前にメルキゼデクの形で現れた時と、今の人の形で現れた時とは全く違う状況です。これについては、後ほど詳しく説明されます。
そして、前に聖霊の神様がメルキゼデクの姿で現れた時も、今日の本文に出てくる二人の天使、すなわちルシエールとルシヤ天使長が一緒にしました。それでアブラハムは聖霊の神はもちろん、共にした二人の天使長も見たのです。また、ロトもやはり二人の天使長をみましたが、これは今後おこるすべてを知っている神様が、アブラムがメルキゼデクと会っている時、ロトにもしばらく霊の眼を開いてその状況を見えるようにしたためです。その時、ロトはメルキゼデクと一緒にした2人の天使長を見たので、創世記19:1でソドムを訪ねてきた2人の天使長を見てすぐに分かったのです。
「三人の人を見た」と記録した理由
愛する聖徒の皆さん、それなら聖書にはこの地に降りてきた聖霊の神様と2人の天使長に対して「アブラハムが神様と天使たちを見た」と言わずに「3人の人を見た」と記録した理由が何でしょうか?これはまさに神様がアブラハムの前に現れる時に、どんな方法と姿で現れたのかを分かるようにするためのものです。神様がアブラハムに現れる時は、色々な方法がありました。夢や幻で、声を通して会ってくださった時もありました。また、メルキゼデクというかたちとして来られたこともありました。ところが、今までのすべての場合は肉の世界にあるアブラハムの前に霊の空間を開いて見せてくださるので、霊の空間の中にいる神様に霊で会って感じさせてくださった状況でした。このような場合には霊の眼が開かれ霊の耳が開かれてこそ神様に会い、その声を聞くことができました。霊の眼が開かなかった人は、いくらそばに一緒にいたとしても、霊的にどんなことが起きているのかわかりません。しかし、霊の眼が開かなかったからといって、全く霊的な状況を感じないわけではないのです。霊的な気運とともに御霊によって感じることはできるのです。
ところが、今日の本文に神様が二人の天使長と一緒に現れた場合は、以前とは全く違う状況でした。この時は、単に肉の空間の中に霊の空間を開き、その中にいる姿を見せてくださった次元ではなく、ご自身で肉の空間に出て来られたのです。まるで以前はテレビの中に出てくる神様の形にお目にかかったのなら、今回は直接テレビの外に出てきた神様の形にお目にかかったのと同じです。このように神様が制限的ではありますが、肉の空間をまとって現れたということです。このような場合、霊の眼が開かれていない人にも神様の姿が見えることもありますが、まるで人の姿のように見えるのです。アブラハムも三人がこのように肉の空間をまとって人のかたちをして現れたのを見たので、本文に「三人の人」を見たと記録しているのです。ところが、アブラハムの場合は三人を見ると、人のかたちとしてだけ見たのではありません。 アブラハムは同時に霊の眼が開かれて見えたので、肉の空間をまとったかたちと、本来のかたち、つまり霊の姿も同時に見ることができました。
これについてもう少し詳しく説明します。霊の世界にいる預言者や天軍、天使のような霊的な存在が、私たちが住む肉の世界、すなわち第一の天の空間の中に現れる時、これらは霊の時間と霊の空間が流れる流れに乗って現れるのが一般的です。この時は、霊の時間の流れが止まり、霊の世界と肉の世界を結ぶ通路のようなものに乗ってくるのです。しかし、この時に肉の世界に降りてくるとしても、空間は依然として霊の空間の流れに乗っています。つまり、肉の空間の中に霊の空間とつながる通路が開かれ、霊の空間が部分的に形成され、その中に入っていると言えます。
したがって、このように霊の空間に乗っている預言者や霊的な存在は、肉の目で見ることができるのではありません。肉の世界に来たとはいえ、依然として霊の空間の中にあるので、霊の眼が開かれてこそ彼らを見ることができるのです。彼らが肉の空間に属する存在ではなく、依然として霊のからだとして霊の世界に属する存在として来るからです。
しかし、同じ霊の空間だとしても、第二の天のエデンに住む人々が肉の世界に降りてくれば、彼らは霊の眼が開かなくても見ることができます。もちろん、この地の人とは少し違いますが、それでも彼らは霊のからだではなく、土で作られた肉と骨がある存在なので、肉の空間でも見え、触れることができるのです。それで創世記6章で説明したように、エデンの園に住んでいた神様の息子たちがこの地に降りてきて、人の娘たちとも結婚することができたのです。前にも説明したように、第二の天は霊の空間ではありますが、完全な霊の空間ではないのです。しかし、第三の天以上の空間は完全な霊の次元に属する空間なので、このような霊の次元に属している存在を肉の人々が見るためには必ず霊の眼が開かれなければなりません。
ところが、今日の本文の場合には、神様が霊の空間の中にいらっしゃるのではなく、自ら第一の天の肉の空間をまとうので、制限された肉の空間に合うかたちで現れたという事です。この時は霊の眼が開かれていない肉の人たちも神様を見ることができるようになります。霊の世界にいた時のかたちとしてではなく、肉の空間の制約を受けている、まるで人のような姿に見えるのです。

朝の学び126 創世記17章
創世紀 17:15-27
また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。
序論/割礼
神様はアブラムの年齢が99歳になった時、彼の前に現れ驚くべき約束の言葉を与られます。まさに彼の名前がアブラムからアブラハムに変わり、多くの国民の父として立てられたことで、信仰の父としての地位が約束されたのです。もちろん、彼が神様の前に完全であることを認められるようになるのは、将来一人子のイサクを捧げる試練を通過した後です。しかし、神様がアブラハムを多くの国民の父として立ててくださるこの出来事を通して、これを契機に本格的な人間耕作の歴史が始まります。この時までもすべてを主管された神様が、今後アブラハムの子孫を通して、人間耕作の歴史をどのように成し遂げていくかに対する輪郭が明らかになっているのです。こうして人間耕作の歴史の流れは、神様を信じる人と信じない人のこのように大きく2つの種類に分かたれ進行されていくでしょうが、それでも結局は、人間耕作の歴史の流れは、神様が選んだ者たちを通して主導されていきます。神様が選んだ者たちとは、まさにアブラハムの子孫です。
このように重要な意味を持つ出会いなので、父なる神様は息子たちを同行させ、自らアブラハムの前に現れ、約束の言葉を与えているのです。ところが、このような契約の言葉を受けたアブラハムの方でも契約に対する確証の証を見せなければなりませんでした。神様の側でいくら大きな祝福の言葉を与えても、受ける側でそれを信仰で受けなければ意味がありません。それで、この信仰を示す行いの証として示すようにしたのが割礼です。創世記17:11によれば割礼について神様が「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」とおっしゃいました。旧約聖書ではこの割礼が必ず行為的なものとして現れなければならなかったのですが、聖霊の時代になってはそうではないことを見ます。肉的な割礼を行い、それで神様との間の契約のしるしとするのではなく、キリスト・イエスに属したのかをもって神様との契約のしるしとすることになります。肉的な割礼をしてこそ、アブラハムの子孫と認められ神の約束の民になるのではなく、イエス·キリストを信じることによってなされるということです。
ガラテヤ3:26-29に「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」とあります。誰でもキリスト・イエスにあって洗礼を受けるので、キリストをその身に着た人がアブラハムの子孫です。約束による相続人なのです。では、キリストをその身に着たということは、どういう意味でしょうか?まさに心の割礼です。「服」は霊的に「心」を意味するが、私たちが神様を知る前に持っていた肉的な心の服を脱ぎ、今はキリスト・イエスの心で新しく服を着なければならないということです。罪と悪、古い習慣を心から取り除き、神聖で聖潔な神様の心に変化しなければなりません。このように行為的な割礼ではなく、まさに心に神様との契約のしるしを持った人だけが、約束された救いに至るという事です。割礼を行うことは、すなわち、私たちの方から印鑑を押すようなものです。
それでヘブル10:15-16にも「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。」とあります。今は神の法を肉体の割礼や行為に置くのではなく、まさに心に留めて記し、その法どおりに生きていかなければならないのです。ここで思いに書きつけるということは、魂にも刻むという意味です。このように割礼に込められた霊的な意味をよく悟り、熱心に心の割礼を成し遂げ、アブラハムのように神様の祝福を受けられる器を準備して下さい。
神様の契約を聞いて喜びで笑ったアブラハム
神様は、アブラハムの名前だけをアブラハムに変えてくださったのではなく、サライの名前もサラに変えてくださいます。今日の本文の15-16節に「また、神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。』」と話しています。サラもやはり夫のアブラハムによってこのように驚くべき祝福を受けるに至ったのです。もちろん、ある祝福を受けるためには当然、自分の方での努力と器の準備が必要ですが、時には義人と共にするだけでも神様の祝福を受ける場合があるのです。ところが、今日の本文17節を見ると、多くの人が誤解している言葉が出てきます。神はサラによって、「あなたにひとりの男の子を与えよう。」おっしゃると、これを聞いたアブラハムが意外な反応をします。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」と言ったのです。
この言葉を文字的に誤って解釈すると、アブラハムが笑った理由や考えたことについて誤解することがあります。「百歳にもなった自分と、九十歳にもなったサラの体でどうやって子供を産むことができるか」と、神様の言葉を信じられず笑ったと勘違いすることがあるという話です。とんでもないことを聞く時、呆れて笑うような笑いとして考えるのです。しかし、決してそうではないという事です。アブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と考えたのは、むしろ神様の全能であることをより信頼する告白を心の中で成し遂げているのでした。つまり世の中の理屈通りなら、これほど年上の夫婦から子供が生まれるということは不可能なことです。しかし、今アブラハムはこのように不可能なことであるにもかかわらず、全能な神様がすべてを成し遂げることを明確に信じたという事です。
これに対してローマ4:18-20によれば「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、」あります。それでは本文でアブラハムがこのような考えをしながら笑った理由は何でしょうか? これはまさに喜びの笑いです。神様が跡取りを約束した後、たとえ長い歳月が過ぎても、アブラハムはその歳月の間、変わらず神様の約束を信じ、またその約束の成就がハガルを通して産んだイシュマエルではないという事を知っていました。ところが、もうサライの名前を変えてくださり、彼に息子を約束する祝福の言葉を聞く時、アブラハムはついに神様の約束が成就する時が来たことを心に悟るので、喜びの笑いが出たのです。
皆さんもこういうことを体験される時がありますね。切に願う願いがあって祈る時、その祈りの内容が神様の前にふさわしい場合、神様は心に平安と喜びで答の確信を与えます。ところが、祈るとすぐに心に確信が来て平安が来たとしても、常にその答の実をすぐに取ることになるわけではありません。その答の実を目にしたところ、手に触れたところになるまでには、最も適切な時期を待たなければならない場合があります。もちろん、このように時期を待たなければならないとしても、マルコ11:24に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とおっしゃった通り、すでに受けたと信じるので、心には答に対する確信と平安があります。そうするうちについに答の時が目の前に近づくと、聖霊の感動の中でこれを感じるので、より一層喜びが充満するのを体験することができます。
例えば、春になって種を蒔いた農夫は、秋になると実を結ぶことを信じているため、希望とやりがいを持って秋を待ちます。そして、ついに秋になって穀物が黄色く熟し、田に黄金の波が立ち、収穫する時が間近になると、農夫の心は以前とは比べられないより大きな喜びで満たされるようになります。実がすぐ目の前に見えるからです。これと同じように、アブラハムも長い間待ってきた跡取りに対する約束が、今や実際になされる時が近づいてきたことに気づくと、その喜びによって笑うようになったのです。したがってアブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言った言葉には、そのことが不可能だという否定的な告白の意味ではなく、「しかし神様はできる」という信仰の告白の意味が含まれているという事です。

朝の学び125 創世記17章
創世紀 17:15-27
また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。
序論/割礼
神様はアブラムの年齢が99歳になった時、彼の前に現れ驚くべき約束の言葉を与られます。まさに彼の名前がアブラムからアブラハムに変わり、多くの国民の父として立てられたことで、信仰の父としての地位が約束されたのです。もちろん、彼が神様の前に完全であることを認められるようになるのは、将来一人子のイサクを捧げる試練を通過した後です。しかし、神様がアブラハムを多くの国民の父として立ててくださるこの出来事を通して、これを契機に本格的な人間耕作の歴史が始まります。この時までもすべてを主管された神様が、今後アブラハムの子孫を通して、人間耕作の歴史をどのように成し遂げていくかに対する輪郭が明らかになっているのです。こうして人間耕作の歴史の流れは、神様を信じる人と信じない人このように大きく2つの種類に分かたれ進行されていくでしょうが、それでも結局は、人間耕作の歴史の流れは、神様が選んだ者たちを通して主導されていきます。神様が選んだ者たちとは、まさにアブラハムの子孫です。
このように重要な意味を持つ出会いなので、父なる神様は息子たちを同行させ、自らアブラハムの前に現れ、約束の言葉を与えているのです。ところが、このような契約の言葉を受けたアブラハムの方でも契約に対する確証の証を見せなければなりませんでした。神様の側でいくら大きな祝福の言葉を与えても、受ける側でそれを信仰で受けなければ意味がありません。それで、この信仰を示す行いの証として示すようにしたのが割礼です。創世記17:11によれば割礼について神様が「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」とおっしゃいました。旧約聖書ではこの割礼が必ず行為的なものとして現れなければならなかったのですが、聖霊の時代になってはそうではないことを見ます。肉的な割礼を行い、それで神様との間の契約のしるしとするのではなく、キリスト・イエスに属したのかをもって神様との契約のしるしとすることになります。肉的な割礼をしてこそ、アブラハムの子孫と認められ神の約束の民になるのではなく、イエス·キリストを信じることによってなされるということです。
ガラテヤ3:26-29に「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」とあります。誰でもキリスト・イエスにあって洗礼を受けるので、キリストをその身に着た人がアブラハムの子孫です。約束による相続人なのです。では、キリストをその身に着たということは、どういう意味でしょうか?まさに心の割礼です。「服」は霊的に「心」を意味するが、私たちが神様を知る前に持っていた肉的な心の服を脱ぎ、今はキリスト・イエスの心で新しく服を着なければならないということです。罪と悪、古い習慣を心から取り除き、神聖で聖潔な神様の心に変化しなければなりません。このように行為的な割礼ではなく、まさに心に神様との契約のしるしを持った人だけが、約束された救いに至るという事です。割礼を行うことは、すなわち、私たちの方から印鑑を押すようなものです。
それでヘブル10:15-16にも「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。」とあります。今は神の法を肉体の割礼や行為に置くのではなく、まさに心に留めて記し、その法どおりに生きていかなければならないのです。ここで思いに書きつけるということは、魂にも刻むという意味です。このように割礼に込められた霊的な意味をよく悟り、熱心に心の割礼を成し遂げ、アブラハムのように神様の祝福を受けられる器を準備して下さい。
神様の契約を聞いて喜びで笑ったアブラハム
神様は、アブラハムの名前だけをアブラハムに変えてくださったのではなく、サライの名前もサラに変えてくださいます。今日の本文の15-16節に「また、神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。』」と話しています。サラもやはり夫のアブラハムによってこのように驚くべき祝福を受けるに至ったのです。もちろん、ある祝福を受けるためには当然、自分の方での努力と器の準備が必要ですが、時には義人と共にするだけでも神様の祝福を受ける場合があるのです。ところが、今日の本文17節を見ると、多くの人が誤解している言葉が出てきます。神はサラによって、「あなたにひとりの男の子を与えよう。」おっしゃると、これを聞いたアブラハムが意外な反応をします。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」と言ったのです。
この言葉を文字的に誤って解釈すると、アブラハムが笑った理由や考えたことについて誤解することがあります。「百歳にもなった自分と、九十歳にもなったサラの体でどうやって子供を産むことができるか」と、神様の言葉を信じられず笑ったと勘違いすることがあるという話です。とんでもないことを聞く時、呆れて笑うような笑いとして考えるのです。しかし、決してそうではないという事です。アブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と考えたのは、むしろ神様の全能であることをより信頼する告白を心の中で成し遂げているのでした。つまり世の中の理屈通りなら、これほど年上の夫婦から子供が生まれるということは不可能なことです。しかし、今アブラハムはこのように不可能なことであるにもかかわらず、全能な神様がすべてを成し遂げることを明確に信じたという事です。
これに対してローマ4:18-20によれば「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、」とあります。それでは本文でアブラハムがこのような考えをしながら笑った理由は何でしょうか? これはまさに喜びの笑いです。神様が跡取りを約束した後、たとえ長い歳月が過ぎても、アブラハムはその歳月の間、変わらず神様の約束を信じ、またその約束の成就がハガルを通して産んだイシュマエルではないという事を知っていました。ところが、もうサライの名前を変えてくださり、彼に息子を約束する祝福の言葉を聞く時、アブラハムはついに神様の約束が成就する時が来たことを心に悟るので、喜びの笑いが出たのです。
皆さんもこういうことを体験される時がありますね。切に願う願いがあって祈る時、その祈りの内容が神様の前にふさわしい場合、神様は心に平安と喜びで答の確信を与えます。ところが、祈るとすぐに心に確信が来て平安が来たとしても、常にその答の実をすぐに取ることになるわけではありません。その答の実を目にしたところ、手に触れたところになるまでには、最も適切な時期を待たなければならない場合があります。もちろん、このように時期を待たなければならないとしても、マルコ11:24に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とおっしゃった通り、すでに受けたと信じるので、心には答に対する確信と平安があります。そうするうちについに答の時が目の前に近づくと、聖霊の感動の中でこれを感じるので、より一層喜びが充満するのを体験することができます。
例えば、春になって種を蒔いた農夫は、秋になると実を結ぶことを信じているため、希望とやりがいを持って秋を待ちます。そして、ついに秋になって穀物が黄色く熟し、田に黄金の波が立ち、収穫する時が間近になると、農夫の心は以前とは比べられないより大きな喜びで満たされるようになります。実がすぐ目の前に見えるからです。これと同じように、アブラハムも長い間待ってきた跡取りに対する約束が、今や実際になされる時が近づいてきたことに気づくと、その喜びによって笑うようになったのです。したがってアブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言った言葉には、そのことが不可能だという否定的な告白の意味ではなく、「しかし神様はできる」という信仰の告白の意味が含まれているという事です。

朝の学び124 創世記17章
創世記17:1- 15
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
神様と契約の証、割礼
「割礼」とは「男の生殖器の先にある包皮の肉を切り捨てる儀式」として、神様は生まれて8日目に割礼することを命じました。その後、イスラエルの民はこの言葉に絶対的に聞き従い、さらには安息日にも割礼だけは行いました。ヨハネ7:22-23には「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。・・ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです。・・それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」というイエス様のお言葉あります。
では、神様がこのように割礼を命じた理由は何でしょうか?これは神を信じる者として、神の前にそれを行いで表すことをおっしゃるのです。先にも申し上げたように、信じるなら当然行いも従わなければならないので、神様はそのしるしとして割礼を命じたのです。そして、このように割礼をするということは、もう全てのことを神様のお言葉に従って行っていくという、人の方での契約を意味します。割礼だけしたからといって、それで『神を信じる。』と認められるのではなく、割礼を通して、神様を信じるということを証明して見せると同時に、これから神様を信じる人として、神様のお言葉どおりに生きていくという約束のようなものです。
これに対してガラテヤ5:3で使徒パウロは、「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。」と語っています。だから、たとえ割礼をしたとしても、彼が神様の御言葉通りに生きていかなければ、彼は結局、神様と関係のない人になってしまいます。それでローマ2:25にも「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。」と言っています。また、続く26節に「もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。」つまり、無割礼の者が律法の制度を守れば、その無割礼を割礼のように考えられるのではないかとして、無割礼の者でも律法に従って生きれば割礼したように考えることができると言います。
しかし、この言葉はローマ2:14-15に「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」という言葉と対になる言葉で、これは神を知らず、割礼を受けられなかった異邦人でも、良心に律法の行為を表す時は、それで救いを得ることができることをおっしゃったのです。
しかし、神様を信じる人なら、神様との間で結んだ契約の証として、旧約時代にはこれが必ず行為的な割礼としても出てこなければならなかったのです。ところが、新約聖書の時代においても、ユダヤ人は、割礼を受けていない人々には救いがないと考えました。主を信じるユダヤ人の中にも、割礼をまるで救いの証であるかのように考える人がいました。使徒の働き15:1に「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。」とあります。
ガラテヤ5:6に「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」、ローマ2:28-29には「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と話しました。だから、肉体の割礼が救いの基準ではなく、肉体の割礼をした表面的なユダヤ人だからといって、皆が霊的に神が認めるユダヤ人ではないことを知らなければなりません。肉体の割礼をしたユダヤ人だからといって、皆が救われるわけではないということです。もし約束の民として、割礼をしたイスラエルの民だけが救いの対象なら、神様は異邦人まで割礼の対象に含まれなかったでしょう。
しかし、今日の本文の12-13節を見ると、「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。」とおっしゃいました。これは救いの御業が、イスラエルの民族に限ったことではないことを示唆しています。すべての民族とすべての国の中で割礼を受けた者、すなわち神様と契約が立てられた人は誰でも、救いに至ることができることを旧約聖書においても語っているのです。
イスラエルの民であれ、異邦人であれ、割礼を受けたということは、霊的に神の契約の中に入ってきたことを意味するもので、救いの枠の中に入ってきたことを意味します。割礼を受けたかどうかということは、肉体の割礼を受けたかどうかということで決まるのではなく、彼が神との契約の中にいる人か、そうでない人かで決まるのです。だから救いはイエス様を救い主として迎え、神様の子供になった約束を受け、神様のお言葉の中に生きていく人なら誰にでも与えられるものです。アブラハムはすべての国と民族の中で信仰の父になるために、多くの国民の父と呼ばれるようになったのです。
このようにアブラハムがイスラエルの民だけでなく、すべての信じる人の父として立てられたという事について、ローマ4:9後半節-13節にはっきりと述べています。 「私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた。』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」
したがって、アブラハムが信じるすべての者の父になったのが割礼を受けた後ではなく、割礼を受ける前だということです。アブラハムは割礼を受ける前でも、信仰によって義と認められたのです。アブラハムが割礼を受けたからといって、割礼者の父だけになるのではなく、彼が割礼を受ける前に持っていた信仰の跡を追う人なら、誰であっても父になるという意味です。 したがって神様との間の契約は、割礼や律法の行為だけによるものではなく、信仰の義によるという意味です。今日の本文は、神様とアブラハムとの出会いを通して、このように重要な霊的な意味が込められた契約が結ばれる時点であったので、神様は自ら息子たちを同行して、アブラハムの前に現れて話してくださったのです。 次の時間には、ほとんどの人が誤解している聖書の内容が解かれます。神様から約束の子孫を与えるという話を聞いたアブラハムが笑ったという言葉の意味が何なのか、次の時間に説明させていただきます。
結論
今日の本文14節によれば「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」と話しました。神様との間に契約を結んだ人は、その証拠として必ず割礼を受けなければならなかったし、このように割礼を受けた人にだけ神様の契約も効力があるのです。この地上で、人と人との間でどんな契約を結ぶ時も、片方だけに印鑑を押した契約書は無効であるように、神様と私たちの間の契約においても、私たちの側で印鑑を必ず押さなければ、この契約が完全になれないのです。印鑑を押すような役割をするのがまさに割礼なのです。割礼を受けていない人は神様と関係のない人として神様から断ち切られることになるのです。
それでは、今日はどのように割礼をすべきでしょうか? コロサイ2:11に「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」イエス様が、私たちの罪を代わりに負って、十字架にかけられ亡くなることを信じる人ならば、その信仰の証として、これ以上罪の中で生きてはいけなくて、肉を脱いで霊に変化する人生を生きなければなりません。「私は教会に通っているから」、「私は教会にこんなに長く通っていたから」、「私はこのような職分を持っているから」、「私はこのように多くの仕事をしているから」このようなことは、ただ自分がキリスト教徒であることを表面的に示そうとする肉体の割礼に過ぎません。
神様はキリストの割礼を受けた者として「どれほど悪を捨てて、どれほど主に似せられて聖められて、神に似せられた御霊に属する心を持っているのか」まさにこのような心の割礼を望んでいらっしゃいます。第一ヨハネ3:18に「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とおっしゃった通り、言葉や口先だけで神様を愛すると言ってクリスチャンだと自認するのではなく、ただ行いと真実をもって愛さなければならないのです。

朝の学び123 創世記17章
創世記17:1- 15
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
序論
今日の本文17章では、神様がついにアブラムの名前をアブラハムに変えてくださる内容が出てきます。ついに多くの国民の父として立てられるのです。ところが、この祝福の瞬間のために神様はもう一度アブラムに親しく現れてくださいます。神様はかつてアブラムにくださった約束の言葉を叶えようとアブラムに準備させるために、このように彼の前に現れて会ってくださったのです。この出来事は人間耕作の歴史においても非常に重要な瞬間なので、神様は御使いを代わりに遣わされたり、御声だけで働かれたりしたのではなく、アブラムの前に自ら現れてくださったのです。
ところがこの時、神様がアブラムの前にご自身を現わされたのは、幻想や幻の中で見るものとは違いました。夢や幻の中で神様にお目にかかるのは、この肉の空間の中に霊の空間の扉が開かれ、その中にある霊の世界を見ることですが、今日の本文で神様がアブラムに現れたのは、肉の空間の中に霊の空間が形成され、霊の通路を通って降りて来られたのです。しかし、父なる神様が自ら降臨したからといって、天にいらっしゃる本体が直接いらっしゃるわけではありません。簡単に言えば分離体でいらっしゃったのですが、もちろん本体、すなわち神様の根本そのものにお目にかかることと、霊の分離を通して来られた方にお目にかかることとは大きな違いがあります。
しかし、このように分離体でいらっしゃるからといって、天にいらっしゃる本体と姿が違うわけではなく、お目にかかる側から分離体だと感じるわけでもありません。時間空間を超越する神様は、その本体は天にいながらも、同時に分離された体を通して同じ姿と感じで、この第一の天に降りてこられたのです。しかし、いくら本体のような姿と感じだとしても、4次元の空間にいらっしゃる神様が、1次元の制約された空間に降りて来られお会いすることと、将来私たちが天国に行ってお会いすることとはその意味が全く違うという事です。
例えば、皆さんが王に会う時、その王が皆さんの家に来て会うのと、皆さんが王宮に行って会うのとはいろいろ違うでしょう。また、高画質の鮮明なテレビであっても、実物を見ることとは差があるように、神様を本体で見ることも、やはり本体の姿や感じ、威厳と権勢などは同じだとしても、将来実物である本体を見る時に感じる感動と歓喜、充満とは次元が違います。ところが、父なる神様が、このようにアブラムに会いに来られる時に、神様お一人でいらっしゃるのではないですね。とてつもない群れの天軍と天使を連れて護衛を従えていらっしゃるのです。
霊の眼が開かれた方々は、父なる神様がこの第一の天に降りてくる時、どんな姿でどのようにいらっしゃるのかご存知でしょう。天軍天使たちが予め降りてきて、忙しく動きながらどれほど多くの準備をするのか、そのお出ましがどれほど華やかで雄大で、権勢と威厳が感じられるのかをご覧になりました。また、補佐官と一緒に降りて来られるのを見ます。さらに、父なる神様が自ら動かれる時は、息子たちが同行する場合が多いのです。まさに本文にアブラムに会った時も父なる神様お一人で来られたのではなく、息子たちを同行して降りて来られたという事です。だから、この出会いがどれほど重要な意味を持っていたかをよく知ることができます。
あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ
このように重要な意味を持った出会いのためにアブラムの前に現れた神様は、彼に先に「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」という言葉を与えます。75歳の時に彼を召して、今まで多くの試練の過程を通して練りに練って、信仰を成長させてこられたのに、もう一度強調して「全き者であれ。」とおっしゃったのです。信仰の父という地位には決して責められるところがあってはならないからで、神様はこのように神様の前に完全であることを要求されたのです。
神様は公義の神様なので、懲戒や災難だけでなく祝福を下さる時も、公義の中で働かれます。アブラムにも、多くの国民の父として立てていかれる驚くべき祝福を与えながらも、まず彼に完全であることをおっしゃったように、皆さんに祝福を与えるためにも、まず皆さんに準備された器を望んでおられます。聖書に名前が記された信仰の人々が、神様に用いられて祝福されるためには、それだけ器を備えて神様の前に認められなければならなかったのです。では、このような器を準備する上で最も重要なことは何でしょうか?それは本文に神様がアブラムに「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」とおっしゃったように、神様に似せられた聖なる、完全な姿になることです。行為によって救われた旧約時代にはこの言葉が行いの完全さを意味しますが、聖霊を受けて心に割礼していく聖霊の時代は、心が聖められることと、完全さまで含まれています。だからといって、旧約時代は心の割礼をしなくてもいいという意味ではありません。本当に神様が望んでおられるのは旧約時代も今の聖霊時代も皆、心の割礼をすることでした。
申命記30:6を見ても「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」と言われたのです。まさに心に割礼をして、心を尽くし精神を尽くして神様を愛する時に生きるようにすると言われました。これが神様が人間耕作を通して得ることを望まれるまことの子供であり、神様はこのような子供たちを天国に入れて、永遠のいのちを与えることを望んでおられるという事です。このような神様の御心をよく知っているアブラハムだったので、彼は行いでだけ神様の御前に全き者だったのではなく、心までも完全だったことを見ることができます。
したがって、今日の本文に神様が「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とおっしゃったことは、単に外形的な行いの完全さではなく、完全な心から湧き出る行いの完全さという事を知らなければなりません。行いも重要だが、もっと重要なことは心だということです。ところが、信仰において行いの重要性を強調すると、ある人々は信じると言いながらも、これをまるで誤った律法主義であるかのように言ったりもします。しかし、聖書は明らかに心と共に行いの重要性を指しています。
アブラハムが最後の関門であった、一人子のイサクを捧げる試練を通過した時も、神様はアブラハムに祝福を与え「あなたがわたしの声に聞き従ったからである」とおっしゃったのです。これについてヤコブ2:21-24では「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」とあります。
多くの国民の父アブラハムを立てた永遠の契約
今、本文の2-8節には神様がアブラハムにくださる約束の言葉が出てきています。「『わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。』アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。『わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。』」
その中で5節を見ると、「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」神様がアブラムの名前をアブラハムに変えてくださいます。 "アブラハム"という名前の意味は多くの人の父という意味で、本文には"多くの国民の父"と表現しています。信仰の父であるアブラハムを通して、将来どれほど多くの信仰の子孫が出てくることになるのかを言っているのです。
それと共に7節に「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」「わたしがわたしの契約を、あなたと世々の子孫の間に立てて永遠の契約とし、あなたと代々の子孫の神様になるだろう」とおっしゃいます。今日、アブラハムを通して立てた契約によって、将来最後までのすべての歴史の流れの中で、神様がすべてを主管しながら導いていくという意味が込められています。皆さんもすでにご存知のように、イスラエルに福音が回帰し、人間耕作の歴史が終わる瞬間まで、神様はアブラハムとの約束によって最後までイスラエル民族を捨てずに、彼らの神様になってくださるのです。
ところが、神様はこのような約束を与え、人の側でもこの約束を確証する証として割礼することをおっしゃいました。9-10節に「ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。」とおっしゃいます。この言葉に従って割礼をする人だけが神との間の契約が効力を発揮することになるのです。

朝の学び122創世記16章
創世紀 16:4-16
彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
道理に従ってすべてを神に託したアブラム
6節に「アブラムはサライに言った。『ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。』それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」とあります。では、アブラムはなぜハガルをサライの手に任せて、このような結果が出るようにしたのでしょうか?ハガルは自分の大切な子供を妊娠している状況なので、彼女の行動がちょっとやり過ぎだと思っても、サライを説得してなだめて、最後までハガルの肩を持って守ってあげてもよかったのではないでしょうか?今、アブラムは人の考えと方法を働かせたのではなく、すべてを父なる神様の御手にゆだねているのです。アブラムは一家の長として、いくらでもサライを説得してなだめたり、あるいは指示してでも何とかハガルを守ることができる状況です。しかし、これはあくまでも人の考え方と方法です。
アブラムがそうしたなら、たとえ表向きには問題が解決されたように見えても、心の中では2人の心がどれほど気まずくなり、互いに憎んでわだかまりを持つようになるでしょうか。サライに「我慢しなさい」と言って問題が解決されるわけでもなく、ハガルに「我慢しなさい」と言ってできる状況でもなかったのです。どちらか一方の手を挙げなければなりませんが、どちらの手を挙げても問題が解決できる状況ではありませんでした。アブラムはこれをあまりにもよく知っていたので、自分がしようとしたのではなく、問題の解決を父なる神様にゆだねたのです。家長として権限があるからといってその権限で、「あなたはこのように、あなたはああしなさい」と指示して決定を下したのではなく、道理に従って行うことで、神様がすべてを解決してくださるようにゆだねたのです。
ハガルは本来サライに属する女奴隷で、ハガルに対する権限がサライにあるのでそのまま任せるのが道理です。その結果、すぐにハガルがサライを避けて荒野に逃げてしまう結果が現れましたが、これがむしろ解決の糸口になります。肉から見れば問題がさらにこじれるように見えるかもしれませんが、霊的にはこれがまさに問題解決の始まりでした。主の使いが現れ、自らハガルに「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言うと、ハガルも他に方法がなかったのです。もしアブラムがハガルに「どんなことがあってもあなたは女主人サライのもとで身を低くしなさい」と言ったとすれば、ハガルはその言葉を聞こうとしなかったでしょうし、そのように話すアブラムに対しても、むなしさやわだかまりを持つこともあり得たのです。しかし、このように主の使いが現れて指示すると、ハガルはその言葉に従うしかありませんでした。
だからといって、ハガルにただ帰ってサライに服従するように言ったのではありません。将来彼女が産むことになる子供に対する、祝福と約束の言葉をくださいます。ただ無条件に帰りなさいと言うなら、帰って後に耐えなければならない苦痛を思うと、ハガルの心はどれ程苦しかったでしょう。しかし、「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」という約束の言葉を下さったので、ハガルは希望の中でその言葉に従い、素直に帰ることができたのです。また、サライも実際にハガルをひどく虐待し、ハガルが逃げる状況にまでなると当惑せざるを得ず、夫のアブラムにも申し訳ない気持ちになります。「私がちょっとひどかったようだ。それでも夫のアブラムの子供を妊娠しているのに。何か問題でも起こったらどうしよう。…···」こんなことを考えながら、自分を振り返る時間になったのです。
だから、ハガルが戻ってきたときは、以前のようにひどく虐待はできないですね。このようにアブラムが自分の力と方法でしたのではなく、道理に従ってすべてを神様にゆだねたので、神様はすべてが平和の中で解決されるように働いてくださったのです。そして、神様がこのように働いて下さったのは、まさに愛するアブラムの心を考えたからです。もし、サライとハガルの間の葛藤が日に日にさらに激しくなっていけば、これを見守るアブラムの心がどれほど痛んだでしょうか?だから神様は愛するアブラムを考えて、結局すべてが平和の中で解決されるように導いていったのです。ところで重要なことは、この時、アブラムがこのように神様が働かれるように、すべてを神様に任せたという点です。
それでは皆さんの姿はどうですか?「大小いろいろあることの中で、もしかして私が持っている権勢と力を持って、道理から外れて問題を解決しようとしなかったのか?その過程で他の人の心を傷つけ、平和を壊したりはしなかったのか?」このようなことを振り返ってみてください。また、すべてを神様にゆだねるのではなく、自分の考えと自分の方法の中で解決しようとしませんでしたか?今日の本文のアブラムの姿を通して、皆さん自身の姿と比べてみてください。
イシュマエルのへ予言
続く12-16節では、ハガルを通して産まれることになるイシュマエルに対する神様の預言的な言葉が出てきています。12節に「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」と言われました。ここでろばのような人になるという意味は、彼が荒れた環境の中で自ら開拓していく人生を生きることを言います。その暮らしが簡単で平坦なものではなく、領土と暮らしの基盤を得るために、自ら開拓していかなければならないことをいうのです。そして、その過程では「すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。」と言われた通り、他の人々とぶつかりながら戦っていくことを言います。他の民族を侵略したり、他の民族から侵略されたりするこのような過程があるという意味です。
また「彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」とありますが、これは神様が彼の領域を正確に区分してくださったのです。イシュマエルは、神様がアブラムに約束した正統性を継続する跡取りではなかったので、彼は約束の子孫であるイサクと共に暮らし、神様の祝福を享受できるのではありませんでした。それで神様はイシュマエルにも領土を下さるが、そこは神様がアブラムの跡取りに約束された土地とは離れたところでした。アブラムを考えてイシュマエルにも恵みを与えられましたが、彼は完全な祝福の跡取りではなかったので、約束された地とは離れた所に区分された領域を与えて、その中で自らが開拓して人生を築いていくようにしたのです。
ご覧になる神様
そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。サライの虐待に耐えられず荒野に逃げてきたハガルは、主の使いから約束の言葉を受けた後、主の名を「あなたはエル・ロイ。」と告白します。自分のすべての事情と境遇をご覧になって、たとえ奴隷の身ではあっても、自分から生まれてくる子孫までも顧みられる神の御手を感じたからです。このように神様は人生の生死禍福を主管し万物を治める方として、いつでもどこでもすべてを監察していらっしゃいます。
詩篇33:13-15には「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。」とあります。 また詩篇139:1-4では「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」このように私たちの人生をご覧になる神様は、各人が行った通りに公義に従って正確に働いていかれるのです。ハガルはまさに主の使いを通して、このようにご覧になる神様に対して悟り感じるようになり、これからはその心に神様を信じて仕える人に変化していきます。しかし、ここで私たちが悟らなければならないのは、神様がこのようにハガルと彼の息子イシュマエルに恵みを与えられるのも、結局はアブラムをご覧になったためだという事です。
ハガルを通してイシュマエルを得ることになるこのすべての過程が、最初から神様のご計画ではありません。人の考えの中で行われたことでしたが、それでも神様は義人のアブラムを見て、すべてが平和の中で行われるように、イシュマエルにもこのように約束の言葉で、共にしてくださっているということです。こうしてアブラムがイシュマエルを得た時、彼の年齢は86歳でした。アブラムが約束の子孫に対する約束の言葉を受けて、10年が過ぎた頃になってからだったのです。それなら人の考えでは「この息子のイシュマエルが神様の約束の子孫なのだ」と考えることもできます。しかし、約束された子孫である本当の跡取りは、それから14年後に生まれるのです。
このように、約束の子孫に対する約束の言葉を受けてから10年が過ぎて、息子のイシュマエルを得て、以後も14年間も他の跡取りがいなかったにもかかわらず、アブラムは神様の言葉に対する信頼が少しも揺れたり弱くなったりしませんでした。そのため、ついに100歳になり、人の考えでは到底不可能な時に、約束の子孫であるイサクを得ることができたのです。これから17章で神様が99歳になったアブラムに現れ、彼を多くの国民の父であるアブラハムとして立ててくださる内容は、次の時間に見てみることにします。
結論
エレミヤ33:2によれば神に対して「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。」と言っています。すべてを一寸の誤差もなく計画し、その計画に従って必ず成し遂げられる神様です。まさにこのような神様を信じると言いながらも、今日多くの人々が自分の考えと方法を頼る場合が多いです。真理である神様の言葉に照らしたり、先に神様の前にひざまずいて祈るよりは、すぐにも自分が見て良い道と方法を選びます。しかし、今日の本文で見たように、アブラムは家庭のこと一つまでも、自分の任意に考えと方法を働かせたのではなく、道理に従って神様の前にゆだねたのです。皆さんも大きなことでも小さなことでもすべての事に神様を信じてゆだね、聖霊の導きを受けて下さい。家庭の頭も主ですし、教会のすべての組織の頭も主になることで、常に祝福の中で暮らす皆さんとなられますよう、主のお名前によって祈ります。

朝の学び121創世記16章
創世紀 16:4-16
彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。
ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
序論
アブラムの妻サライは70歳を超えていましたが、まだ子供を持てないでいました。彼女は自分がみごもれない状況のなかで、自分なりの考えと方法を働かすことになります。自分の女奴隷であるハガルを夫に妻として与え、ハガルによって子を得ようしたのです。ところが、実際にハガルが妊娠するようになると、自分が思っていたこととは違う結果が現れ、これによってサライは自ら訓練に陥ることになります。神様を信じる人として、何かの問題があるとすれば、当然、神様の前に祈って神様の御心を悟り導かれるべきでしたが、サライは人の考えと方法を働かせて、結局、訓練を自ら招いてしまったのです。したがって、私たちは人の考えと方法というのが神様の前ではどれほど無益なものであり、むしろ神様の働きを阻む障害物になるという事を知らなければなりません。
イザヤ55:8-9に「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」と述べています。だから、どんな状況でも、人の考えと方法を働かせるのではなく、まず神様の考えは何であり、どのような意味と摂理があるのかを悟らなければなりません。それで、自分に問題があれば発見して悔い改めればよいので、そうではないとしても、常に感謝の気持ちで神様の善良な御心を悟らなければならないのです。
では、サライが自ら招いた訓練とは果たしてどのようなものなのでしょうか?サライは自分の計画通りにハガルという女奴隷を夫に与え、彼女はみごもるようになります。しかし、実際にハガルが妊娠するようになると、思いもかけなかった問題がサライとハガルの間に生じました。ハガルは自分がみごもったことを悟ると、女主人のサライを見下げるようになったのです。サライはハガルが自分に属する奴隷であったので、彼女を思いのままにすることができると思っていましたが、ハガルは自分がたとえ奴隷であっても、跡継ぎのいない家に跡継ぎの子を宿したのですから、自ら自分を高めるようになったのです。サライの立場で感じる時には、ハガルの小さな行動や言葉一つも自分を見下げるように感じられる状況でした。これもサライに自尊心と悪があるからです。相手はそのような意図で行った行動や言葉ではないのに、自分自らが相手が私を無視すると考えるようになるのです。
人の高慢というものが一般には、自分の境遇が低い時には現れないのに、実際に権勢が与えられ認められる立場に立つと、その時になって初めて現れる場合が多いです。ハガルもやはり奴隷の身分だった時は、たとえ高くなろうとする心があったとしても、どうしてそれを明らかにすることができたのでしょうか?しかし、主人のアブラムの子供を宿すと、抑えていた高慢の心が明らかになり、このように女主人のサライを見下げるまでに至ったのです。これは必ずしもハガルの場合だけでなく、真理に完全に変化する前には誰からでも出てくる姿です。 したがって、仕えられる立場にいる人はもちろん、仕える立場にいる人だとしても、常に自分を振り返り「私には仕えられようとして、自分を表わし高めようとする高慢の心があるのではないか?」と顧みなければならないでしょう。全き霊に入るまでは、箴言16:18に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」という言葉が心に常に肝に銘じられていなければならないのです。
訓練の責任をアブラムに転嫁すること
本文5節を見れば、サライも自らが自ら招いた訓練を通して悪の形が一つ一つ現れるのが見られます。 「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」と言っています。事実、すべてのことを最初から計画したのもサライです。そして、ハガルを夫に与えたのもサライ本人ですが、それによって自分に害が返ってくることになると、その責をすぐに夫のアブラムに帰しています。当の夫には一言の相談もせず、自分の考えと方法どおりに行ったことであるにもかかわらず、その結果に対する責任を夫に転嫁しているのです。
また、自分の方ではハガルに寛大に恵みを施したと思っていたのですが、ハガルの方で自分を見下げるように出てくると、ハガルに対しても寂しさと感情が溢れ出ています。それだけでなく「主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」と神様の名前を使ってまで、自分は全く誤りがなく、悔しいことを訴えています。それでは、このような「サライ」の姿を通して、私達が気づくべきことは何でしょうか?第一に、自分の行動に責任を負わなければならないということです。サライは最初からすべてのことを自分の考えと計画通りにしたにもかかわらず、実際に結果が自分の望む通りに出てこないので、その責任を夫に転嫁するのを見ます。結果が良くなかったら「私は何が間違っていたのだろうか。神様の御心から外れたことは何だろうか?」とこのようなことを祈って悟らなければならないのに、サライは自分を振り返るよりはその責任を他人に転嫁しているのです。
例えば、ある人は自分の考えが全て正しく、自分がすることは全て神様の御心であるかのように考えます。それであることを成し遂げるにあたって、常に自分の考えと計画に固執し、何とか推し進めようとします。他の人々の意見は無視したまま自分の意見だけを前面に出すのです。このような場合、他の人たちが平和を追うためにその人の意見に従ってあげたりすれば、さらにいい気分になって自分の主張どおりに導いていきます。ところが、このように自分の好きなようにしたにもかかわらず、実際にその結果が良くなかったりすると、責任を他の人に押し付けようとするのです。自分が神様の意思を明らかに悟れなかったし、他の人々とも和平できなかったことを振り返り、自ら責任を負う姿ではなく、自分の考えが正しかったし、自分は依然として上手にしたが、他の人々がよく助けてくれなかったとか、自分の計画通りに100%ついていけなくて結果がこのように出たというのです。
預言者モーセの場合は、自分の救いを担保にしてまで、同族の罪に代わって責任を負おうとした姿だったことを考える時、このように自らした行動に対してさえ責任を負おうとしない姿は、あまりにもふさわしくない姿です。サライも自分の計画によって生じた結果ならば、自分が謙虚に受け入れて解決していかなければならなかったのですが、そうではなく、むしろその責を夫に転嫁する非真理の心が如実にあらわれています。したがって、皆さんも常に自分の言葉と行動に自ら責任を負うことができなければならず、自分によって良くない結果が生じた時は、それを他人のせいにしようとするのではなく、神の前で謙虚に自分の姿を発見して、何が間違っているのかを悟らなければなりません。そのような時、その一度の過ちが何の意味もなく通り過ぎるのではなく、むしろその過ちを通して自分を発見し、変化できる祝福の機会にすることができるのです。
第二に、悟らなければならない点は、最後まで善を施すことができる善の心です。サライはハガルに対してそれなりに善と恵みを施したと思っていましたが、自分に戻ってくることが考えと違うので、その心から悪が出てくるのを見られます。サライが本当に良い心でしたことなら、ハガルがみごもった時に一緒に喜び、もっと彼女のためにしてあげるべきだったでしょう。ハガルがサライを見下げたのは明らかに間違っていますが、だからといってその責を夫に帰しながら自分の悔しさを神様の前に訴える姿は決して善良な心から出たものではありません。
例えば、リーダーになった人が目下の人に善を施し、彼がうまくいくように熱心に導いてあげました。それで、目下の人がすくすく成長し、いつの間にか自分と比べられるような位置に立つようになったのです。以前は自分が管理していたメンバーだったとすれば、今は同じ役員になって同等の立場で仕事をしていくことになったのです。さらに、今は自分よりも認められて愛される人になりました。それではこの時、リーダーになった人の心はどうあるべきでしょうか?善良な心を持った人なら一緒に喜び、相手がもっとうまくできるように引き続き助けてあげなければならないでしょう。そして、このような善良な心を持った人ならば、たとえ相手が自分より高い位置にまで上がっても、今はその人を目上の人として丹念に仕えることができるのです。神様の前にも「あの方があのように成長して、神様の前に大きな働き人になるようにしてくださってありがとうございます。」と感謝の祈りを捧げることができます。
しかし、サライのような気持ちがある人は、このような状況で感謝が出てきません。相手がいつの間にか成長して、自分よりもっと認められ愛される位置に立つようになると、嫉妬する気持ちになります。 また、ひょっとして自分の考えに相手が自分を少し無視するような姿が見えれば、「いや、私があんなに育ててあげたのに、その恵みも知らずに私を無視するなんて」と心が傷つくこともあるのです。皆さんの中にもこういう状況がありますか。例えば、私は教会に来てからずっと長いのに、私より遅く来た人がいつの間にか自分よりもっとリーダーになっているのです。そのため、以前は私が仕えられる立場にあり、相手を訪問して多くのことを教える立場だったのですが、今は反対に、私が相手に仕え、時には指示を受けなければならない状況になったのです。もちろんこの時、リーダーになった人も、以前に受けた恵みを忘れない人ならば、たとえ今は自分がもっと上の立場にいたとしても、以前自分を助けて恵みを与えてくださった方に対して、変わらずに仕えて感謝しなければなりません。
しかし、以前は仕えられていたが、今は仕えなければならない立場に立った人の方では、相手にそれを望んでばかりいてはいけません。「以前は私がまとめ役をしていたのに、以前は私の方が信仰が良くて認められていたのに」このような考えに浸って、依然として仕えられようとしてはいけません。今は秩序に従ってリーダーになった方に熱心に仕え、「あの方は遅く来ていたのにどうして、あんなに早く神様の前に認められて働き人になったのだろうか?」このようなことを学ぼうと努力しなければならないのです。マタイの福音書19:30の「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」という言葉のように、誰が先に来たかが重要なのではなく、誰がより先に霊に入ってくるのかが重要だという事です。
だからといって、肉的な秩序を無視しなさいという意味ではなく、肉の秩序に縛られて、霊的な秩序を悟れないのはいけないということです。さらに、皆さんが善と恵みを施したなら、それ自体喜んで感謝し、最後まで善で接することを願います。サライもやはり自分がハガルに恵みを与えた時、ハガルがそれを善で返せなかったからといって、同じように自分も悪を発するのではなく、もし続けて善で接していったとすれば、結局、神様がハガルの心を動かし、主の事の全てが平和の中で解決されたでしょう。

朝の学び120 創世記16章
創世記16:1-5
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
自ら訓練を招いたことについて(つづき)
しかし、今日の本文のサライはどうでしたか?最初からすべてを自分の考えと自分の考えの中で自分が決めたことを貫いていったのです。それは父なる神様の御心でも、アブラムの心でもありませんでした。 ところが、このような状況で、アブラムは妻のサライの話を聞いてあげたという事です。「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」とあります。アブラムは妻のサライに、自身が悟っている神様の御心をうちわけたり、「もう少し待ってみよう。」となだめたのでもありませんでした。ただ静かに妻の言葉に従ってあげました。では、アブラムはなぜそうしたのでしょうか?
私たちはここでまずアブラムとサライの二人の性格の違いを知ることができます。今日の本文に出てくるサライの姿だけを見ても、彼女が普段どんな姿だったのかを十分に推測することができるでしょう。自分の主張、自分の考え、自分の意思があれば、それをなんとしても貫いていく姿でした。アブラムは、まさにこれらの妻サライの性格についてよく知っていました。だから今日の本文の状況でも、アブラムは自分が望まないからといって、妻のサライが、すでに決めたことを変えることはないことを知っていました。自分がいくらあれこれ話しても、サラは結局自分の望み通りにする人だったのです。
一方、アブラムは先に甥のロトに土地を譲る姿からも分かるように、すべての人との和平を望み、相手が望むことを聞いてあげることを願う気持ちです。罪でなければ、相手の思いに寄り添い、これもよし、あれもよしの心であり、自分が正しいとしても相手に合わせてあげる心です。自分の信仰に合わせず、相手に余裕を与えられる心です。これがまさに和平の心ですが、アブラムにはこのような和平の実が結ばれていたので、今日の本文のような状況で、素直に妻のサライの意見に従ってあげたのです。何かの欲や利益を求めたのではなく、すでに妻のサライの性格をよく知っている状況で、何とか相手の心に合わせてあげようとしたのです。もしこのような状況で、アブラムが妻のサライの言葉を断ったと考えてみてください。妻のサライが「そうですね、あなたの言う通りですね。あなたの意見に従います。」と、このように従ったでしょうか?
私たちは本文5節の御言葉を通して、そうではなかったという事を推測することができます。「そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』 自分自身が自ら招いた訓練によって苦痛を受けることになると、サラは夫のアブラムに「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」と言って、むしろ夫のせいにしていることが分かります。ですから、その心が温柔であり、すべてにおいて和平に従おうとするアブラムは、当時の状況で妻のサライの言葉に従うしかなかったという事です。もちろん、そのようにすることが神様の御心ではなく、神様が許すことでなかったら、アブラムは当然、サライの言葉を聞き入れなかったでしょう。しかし、アブラムがこのように、ハガルという女性を通して息子のイシュマエルを得ることも、結局は人間耕作の大きな計画の中に入っていることだったので、神様はアブラムがハガルを妻とすることをお止めにならなかったのです。
続いて続く3節に「アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。」とあります。このお言葉は、当時の状況をより具体的に感じられるように説明してくださるお言葉です。アブラムがハガルを妻に迎えた時が、アブラムがカナンの地に住んでから10年後だと言ったのは、その当時すべてが安定し、豊かで平和な状況だったことを意味します。人が不慣れなところに行って定着する時、最初は色々な困難にも出会うことになりますが、それを一つ一つ克服していくと、次第に安定した状況に入ることがあります。これと同様に、アブラムもカナンに定着して十年ほど経ち、今では戦争の記憶も消えつつあり、力強い基盤の中で安定した生活を送っていたということです。
このような時に、本文のできごとが発生したのです。試練にあって練られていた時は心に余裕がなく、サラも自分が子どもを産むことができずにいるという事に、それ程気をつかわなかったのですが、今はすべてが安定して基盤が整うようになると、いつも心に持っていた不妊に対する問題が表面に現れてきているのです。しかも、自分の年齢も75歳を超えたということです。このような状況で、サライは自分の考えと方法に合わせて、自分の奴隷を夫のアブラムに妻として与えたのです。しかし、先にも申し上げたように、自分の考えと人の方法を働かせた結果は、まもなく訓練として返ってくることになります。
女主人サラを見下げるハガル
4-5節に「彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』」とあります。サラはハガルが自分に属する奴隷だったので、たとえハガルがみごもっても、まさかその影響が自分にまで及ぶとは思いませんでした。自分に属する奴隷なので、サラはハガルを自分の思いのままにすることができると考えたのです。子供さえ産めば、子供は自分のものであり、アブラムの子になるから、自分勝手にできると思ったのです。しかし、ハガルが実際に妊娠すると、その影響はすぐにサライにまで及ぶようになります。ハガルは自分が妊娠したことに気づくと、主人であるサライを見下げたのです。
エジプトの女性であるハガルは主人のアブラムを通して、神について知ってはいたが、神を心から信じる人でもなく、真理に変えられた人でもなかったのです。そのため、自分が身ごもったことを知った時に、その心の中にあった悪が主人を見下げる姿で出てきます。自分が高くなろうとする心であり、恵みに感謝することもしない心です。とにかく奴隷の身分だったハガルが、主人であるアブラムの子供をみごもるようになったのは、女主人であるサライの恵みがあったからです。もちろん、サライが良い心で、ハガルを夫のアブラムに与えたわけではありませんでしたが、ハガルの立場では確かに恵みを受けたのでした。さらに、自分がアブラムの子供をみごもったからといって、まだ自分の身分に何らかの変化があったわけではありません。それでもハガルは女主人のサライを見下げることをしたので、これはハガルの心をよく表しています。
しかし、今日もこのような姿を見ることができます。例えば、ある人が認められる立場になった時に、今日の自分になるまで自分に恵みを与えてくれた人に対して感謝できず、受けた恵みを忘れてしまうのです。サウル王の場合がそうでした。自分を訪ねてきて、王として油を注いでくれたサムエル預言者に対して、最初は極めて謙遜な姿でしたが、後には、サムエル預言者がサウル王の前に出ることを嫌うほど、無礼な姿になってしまいました。それでは皆さんはどうですか?「私はサウル王のようではない」と言うのではなく、私を伝道してくれた人、私が初信者の時に恵みを与えて導いてくれた人、私が訓練の中にいる時に力を与えてくれた人、このような方々に対して変わらない心で感謝しているのか、皆さん自身の姿を点検してみて下さい。
今は、私がそのような人たちよりもっと高い職分にいるからといって、または、私が今は教える立場にいるからといって、その人たちに初めの時に対していた心が変わって、高ぶった心を持っているのではないでしょうか?恩を受けて助けられた方々に対して、「もうこれくらい感謝して、恩を返せばよいだろう。」という気持ちではないでしょうか?自分が目上の人に認められ愛されるからといって、それをもって、他の人の上に君臨しようとして、秩序を無視したまま高くなってはいないでしょうか?
今日の本文のハガルの姿を通して、このような自分の姿を一度点検してみることで、ロ-マ12:16に「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」という言葉のように、常に心を低いところに置いて、兼備した姿ですべての人に仕えることができる皆さんであることを願います。ところが、5節の御言葉を見れば、「そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』」とあります。ハガルだけではなく、サライからもその悪があらわれています。自分の方からは善を施したと思っていましたが、それが予期せぬ結果になると、すぐに悪が出てくるのを見ることができます。自ら招いた訓練を通して明らかになるサライの心を、次の時間に続けて見ていくことにしましょう。
結論
ある方々は、自分が知っている神様の御心が全てであるかのように話す人がいます。しかし、神様の御心は単純にAかBかというふうに分けられない場合も多いという事です。各人の信仰の分量と状況、そしてこれまで神様の前に積み上げてきた善と信仰の行いによって、同じ状況でも神様の御心は異なって適用できることを知らなければなりません。これを考えずに、無条件に自分が知っていることだけをもって神様の御心だと主張するならば、これによって周りの他の人々が大変になることがあります。
だから私は今までいくらよさそうなことだとしても、私の見方で一方的に決めて指示して命令したことがありません。また、もっと良い道があるからといって、その道を行くように相手に強要したこともありません。神様の御心が何なのかを教え、受ける側で、本人の信仰で決めて選択していけるようにしてあげました。それでは皆さんはどうしますか?私がリーダーだと言って、自分の考えだけが正しいと主張されるのですか?それとも、自分の考えが正しいと思ったら、たとえ自分が目下の者であっても、秩序を無視したまま、無条件に推し進めますか?
今日の本文のアブラムはそうではありませんでした。自分の信仰に合わせるよりは、自分の見方に正しいものを追うよりは、相手に合わせてあげる平和の気持ちでした。それが非真理や罪だったら、断固として拒否し、決して妥協しなかったでしょうが、そうでなければ、アブラムは自分の妻の言葉にも耳を傾け、その考えに従ってあげたのです。皆さんもすぐに夫婦の間や親子間で、このように平和を求める家庭になってください。教会の働きの分野の中でも、皆がこのようにお互いに相手の心に合わせて、相手のための平和の心を成すならば、そのようなところはリバイバルしかないという事です。

朝の学び119 創世記16章
創世記16:1-5
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
序論
ローマ4:18-22を見ると、「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」アブラハムが神様の前にどんな信仰を持ったかがよく出ています。
アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫がこのようになる。」という御言葉どおり、あらゆる国の人々の父になるためでした。彼が百歳にもなって自分の体が死んだも同然で、サラの胎の死んでいることを認めても、信仰が弱りませんでした。不信仰にならず、信仰に堅く立って神様に栄光を捧げ、約束されたことをまたよく成し遂げることを確信したから、それが彼の義とみなされたのです。このようにアブラハムは、望むことができない中で望んで信じたという事です。現実を見たのではなく、神様の御言葉に頼って結果を見ました。もし望むことができることを願ったり、現実にいくらでもできることを望むのであれば、これは信仰がなくてもいくらでもできます。しかし、アブラハムは自分の体が死んだも同然であることや、サラの胎が死んだようなものであることを知っていながら、信仰が弱らず、神様の約束を疑わなかったとあります。このように望むことができない中で願って信じること、これがまさにちょうどマルコ9:23に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とおっしゃったように不可能のない霊的な信仰なのです。
それなら、この一つの事件だけを見ても皆さんは、自分の信仰がアブラハムと比較する時、果たしてどんなものかを見分けることができます。この教会に与えられた御言葉はもちろん、皆様一人一人に与えられた祝福と約束の言葉を、皆様は果たしてどれほど信仰の目で見つめましたか?もしかして信仰が弱くなってはいないでしょうか?もしかして疑わなかったですか?望めない中でも神様の言葉に頼って信仰の目で眺めることができる人、このような霊の人を作るために、神様は皆さん一人一人を今まで訓練し整えてこられたという事です。アブラハムも神様が彼の信仰を義とされるまで、一日で出来たのではありませんでした。彼を選んで呼び、自らすべての人生を主管し、訓練し、また訓練して、完全な信仰の分量に達するように導いてこられたのです。このようなアブラハムの訓練の過程の中に、いつも彼と一緒にいた人がいました。それは彼の妻のサライでした。エジプトの王、バロの手に妻を奪われる事件の主人公でもあり、神様が一緒にいることで祝福を受けていく過程でも、いつもそばでアブラムを見守っていた人であり、アブラムが甥のロトを救って来る時も、彼と一緒にいる神様を見たのでした。
自ら訓練を招いたことについて
このように、アブラムとすべての訓練の過程の中で一緒に過ごした者でしたが、だからといって彼女の信仰が、アブラムと同じだったわけではありませんでした。確かに神様のみわざを一緒に見て体験し、神様についても知っていましたが、サラはそれが心に信じられる信仰として完全に成長できなかったのです。 心の中心で神様を信じていたのではなく、これまで見て聞いて体験したことが、知識的な信仰として積もってきたのです。これは今日も同じです。同じように神様のみわざを見て聞いて体験したからといって、共にしたすべての人の信仰が同じように成長するわけではありません。もし、見て聞いて体験するだけで同じように信仰が成長できるなら、この場にいらっしゃる皆さんの信仰もすでに大部分は信仰の5段階に入っていなければなりません。
ところが、同じ時期に信仰生活を始めたとしても、ある人は霊に深く入っていて、ある人は依然として足踏みをしています。海外の聖会に一緒に行って、同じように神様のみわざを見たとしても、ある人はその聖会を通して霊的に大きく変化する場合があり、ある人はあまり変化がない場合もありますね。では、なぜこのような違いがでるのでしょうか?それは神様のみわざを見て聞いて体験することによって、どれほど自分の考えと枠組みと理論を破り、またどれほど心を割礼していくかによるのです。「ああ!神様のみわざはこんなにすごいな」と、単純にこのように知識的な次元に留まってしまえば、いくら多くの神様のみわざを見ても、いざとなると自分のものにすることができません。
サライはまさにこのように、神様のみわざを自ら見て聞いて体験しながらも、その信仰は知識的な次元にとどまっていました。
このようなサライの姿が今日の本文によく出ていますね。1節では、今日の事件の背景と事件発端の原因となるハガルについての説明が出ています。アブラムの妻サライは、70歳をはるかに超えていましたが、まだ子供を産んでいませんでした。ところが、このようなサラにはエジプト人の奴隷のハガルという女性がいました。サライがなぜ知識的な信仰の次元に留まっていたと言ったのか、その理由が続く2節に出ています。それは、サライは「主は私が子どもを産めないようにしておられます。」と言っているという事です。自分が子供を産めないことが、まるで神様のみこころであるかのように話しており、その責任を神様になすりつけているのです。
さらに続くサライの言葉を見れば、サライが今どれほど自分の考えの中で事を決め、それを主張していくのかがよく分かります。サライの考えでは、自分の女奴隷であるハガルを夫に与えてでも子供を得る、ということでした。ところが、サライはこのように重要なことを決定するにあたって、神様に伺って神様の御心を求めたわけでもなく、夫に一言相談をしたわけでもありませんでした。「主は私が子どもを産めないようにしておられます。」と自ら決めつけて、アブラハムに今後の計画を通知しています。すでに心に決めて話しているのです。
神様を信じるという人々の中にも、多くの人々がある試練や患難、または問題が迫った時に、その原因を神様に返します。簡単に言えば「神様がこうなさった」と言って、すべてを神様のせいにするのです。それと共に、さらに「これが神様のお考えだ。」と言ったりもします。しかし、聖書のどこにも、神様の子供たちが試練患難に遭い、問題の中で絡み合うことが神様の御心だと言うところはありません。むしろ、常に子供たちに良いものを与えることを望み、試練患難と問題の中より救い出すことを、切実に願う神様であることを聖書は述べています。それでもこのような神様を誤解して、ある問題に出会った時、自分を振り返るよりは神様のせいにしてしまうのです。
ヨブがまさにそうでした。まるで自分は何の過ちもない義理堅い人なのに、神様が訳もなく自分に苦痛を与るようだと神様を誤解していました。しかし、神様が彼に御言葉の中で悟らせてくださると、ヨブはついに自分の誤りに気づき、神様の前に次のように告白します。ヨブ記42:3に「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」として、続く6節に「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」とあります。そして、ヨブがこのように神様の前に自分の姿を発見し、悔い改め変化した時に、神様はヨブに以前よりさらに驚くべき祝福で返してくださったのです。
したがって、皆さんが問題の中に置かれることになれば、まず「私がなぜこのような問題に会ったのか?」その原因を神様の言葉に照らして探さなければなりません。それで、その原因を発見して悟った時に、神様は子供である皆さんを問題の中から助けることができます。ところが、ある場合は何の原因もないようですが、何らかの問題が訪れる場合もあります。それは祝福を与えるための訓練です。この時もやはり神様の言葉に従って、最後まで感謝と喜びで勝利しなければなりません。そして、このように神様の善良な御心を、信仰で喜びと感謝で訓練を通過した時、神様の備えられた祝福が与えられるということです。
ところが、本文のサライにはこのような姿が全くありませんでした。サライが本当に夫のアブラムと共にする神様を信じていたなら、自分がこのように身ごもれずにいる状況で、先に夫に話して原因を探そうとしたはずで、神様の御心を悟ろうとしたでしょう。また、これからどうするべきかについても、夫と相談して方法を見つけたでしょう。しかし、サライはすでに「神様はこういう神様だ」と自分自身で断定した状態で、次にどうすべきかまで自分の考えの中で決め、これを夫のアブラムに通知しているという事です。これは霊的な秩序を離れ、肉的な秩序の中でも全く理にかなっていない場合です。家庭の小さなことでもなく、サラが自分の権限の中で自ら決められないことを、家庭の頭である夫に一言の相談もなく、自ら決めて後から知らせるということは、家庭の肉的な秩序上でも相応しくないということです。
さらに霊的な秩序を考えてみれば、神様と明らかに交り、誰よりも神様の御心をよく知っている夫のアブラムに、神様の御心がどこにあるのかを当然尋ねるべきでしたが、そうではなく、肉の考えを働かせて人の方法を探したということは、霊的にもあまりにも無知な姿でした。だから、このように人の考えと方法を働かせたことが、結局は自らが負わなければならない訓練の苦しみに至ったことが分かります。このように肉の考えと人の方法を持って、神様の意に反して行った時は、訓練が伴うことを知らなければなりません。アブラムはすでに妻のサライを奪われる訓練を通して、人の考えの中で方法を働かせることがどれほど神様の前に愚かなことであり、その結果がどうなるかということを徹底的に悟りましたが、同じ事件を一緒に体験した妻のサライは、その訓練の教訓が心に霊として植えられなかったので、このように同じ失敗を繰り返しているのです。
神様の子供として皆さんがある問題に出会ったとすれば、まずは当然、神様の前に祈って神様の御心を悟らなければなりません。この問題をどのように乗り越えていくべきか、神様の導きを受けなければならないのです。ところが、ある方々は少し祈りをしてみて、すぐに目に見える道が現れなければ、すぐに人の考えと方法を働かせます。そして、結局は訓練の道を自ら招くことになります。ですから、神様の前に任せたなら、全面的に信じて頼らなければならないという事です。少し頼ってみて早く答が来ない場合、疑って世の方法を探す人なら、このような人には神様が答えることができません。
ヤコブ書1:6-8で「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」と言われた通りです。また、皆さんが神様に本当に信じて任せたとすれば、答が来なくても来るまで待たなければなりません。待っている間に神様の御心を悟ることもでき、直ちに行動で動かないことが神様の御心なので、何の答も与えない場合もあるのです。(つづく)

朝の学び118 創世記15章
創世紀15:12-21
日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」
公義の中で働かれる神様
本文16節によれば、神様はアブラムの四代目の子孫たちが帰ってくる、「それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言いました。これはまさに父なる神様は、すべてを正確な公義の中で働かれるという事を、よく表している言葉です。イスラエルの民には四代という期間が、彼らにとってカナンの地に入るほどの信仰の成長を成し遂げる時間だったとすれば、当時カナンの地に住んでいた異邦の民族には、神の哀れみの中で悔い改め立ち返るように与えられた時間だったのです。ニネベの民に預言者ヨナを送り、悔い改める時間を与え、ソドムとゴモラにも自ら御使いを送り、彼らの罪と悪が蔓延する状況を探ることで最後の機会を与えたようにです。
このように神様は、異邦の民族といって無条件に滅ぼすのではなく、彼らにも神様の公義を適用させます。したがって、神様を信じる人々にはもちろん、神様を信じない人にも神様の公義は適用されるという事です。そのため、たとえ神様を信じない世の人でも、神様が定めた法則の中で生きていけば、その中で祝福されることもあり、大きな災いや事故に遭わないこともあります。世の中でもそれなりに善を行う人がいて、熱心に救済して良いところに物質を使う人もいて、悪に染まらないように生きていこうとする人がいますが、このような人たちは公義という法則の中で、彼らが行って蒔いた分だけ集めることになるのです。
もし神様を信じない人々には公義が適用されなければ、彼らは常に敵である悪魔サタンの餌となって全く祝福も受けられず、常に試練患難の中で生きなければならないでしょう。もちろん、世の人々が受ける祝福はそれが完全なものではないので、敵である悪魔サタンはいつも隙をねらって、何とか自分たちの餌にしようとしていきますが、神様の公義はこのように世のすべての人に同じように適用されるため、この肉の世の中にも正義と秩序が成り立つということです。それで神様を信じない世の人々も、「善は必ず勝利する」という神様の公義を知ってはいます。ただ、自分たちの欲に導かれるため、善で勝利していく人が珍しいだけです。まさにこのような神様の公義があったので、神様はイスラエルの民にカナンの地を一気に征服させなかったのです。カナンの地に住む人々の悪が公議のさばきの限度を越えるまで、寛容を尽くして、耐え忍んで機会を与えられたのです。
もちろん当時の肉的な状況を見た時、ヤコブとその息子たちと家族70人ではカナンの地を征服することは不可能だったので、神様はヤコブの子孫たちが大きくて強い民族を形成していけるように、時間を与えられたのでした。また霊的には、神様の公義の中で、まだカナンの地に住んでいた異邦の民族を滅ぼす時に至っていないということでした。したがって、私たちは神様が常に善の中で働かれ、必ず公義の法則に従って働かれるという事を知らなければなりません。皆さんにいくら良いものを与えようとしても、また皆さんを試練患難から守ろうとしても、すべてを公義の中で働かれます。神様の子だからといって、無条件に祝福してくださり、守ってくださることができるわけではないということです。もちろん、敵である悪魔サタンが訴えることがなければ、どんな呪いや試練患難も臨みません。
箴言26:2に「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」とおっしゃったように、何の理由もない、呪いや試練患難は決して臨まないのです。 したがって、皆さんにある問題が訪れたなら、それには必ず理由があるのです。その理由を探して神様の前に悔い改めた時、問題が解決されることであり、以前のように回復することができます。ところが、今日の本文にエモリ人にもそうであったように、ある問題が明らかになり結果として現れるまで、神様の側から下さる猶予期間があります。もちろん問題の原因が何かによって、問題が明らかになるまでの時間の差はあるでしょうが、神様は皆さんがどんな過ちをしたとしても、一気にこらしめや試練患難を許すのではありません。自ら悟り、立ち返る機会を繰り返し与え、それでも立ち返らないなら、敵である悪魔サタンの訴えをお聞きになるのです。
しかし、敵である悪魔サタンに渡すことも結局は神の愛であることを知らなければなりません。そうしてでも悟り、立ち返ることを願うからです。まさにこのような神様の公義と愛の中で、エモリ人には悔い改めの機会が与えられます。しかし、結局彼らは悔い改めて立ち返るよりも、さらに悪に突き進んだので、結局四代の後には、さばきの限界線に至ることになり、結局神様はイスラエル民族を用いて彼らをさばかれたのです。これがイスラエル民族のカナン征服の過程です。イスラエル民族にはカナン征服は、約束された地を信仰で取る祝福の過程ですが、当時カナンの土地に住んでいた異邦の民には、罪と悪に対するさばきの過程になったのです。
神様は公義の神様であるため、自らも公義の中で働かれます。そのため、イエス様がこの地に来て救い主になってくださるためにも、その多くの訓練と苦痛を受けなければなりませんでした。イエス様をこの地に送って一気に救い主として立てたのではなく、徹底的に人間の姿で苦難に遭い、救い主としての資格を備えるようにしたのです。しかし、イエス様は、その過程を従順に通過していったので、救い主になることができ、主の主として栄光の座に就くことができたのです。
ピリピ2:9-11に「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。しかしこの栄光は、イエス様が神様の息子であるとしても、無条件に与えられたものではありません。ピリピ2:6-8に「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」と言われたた通り、自分を徹底的に低くして死ぬまで服従されたので、今は公義の中で神様が思う存分、主を高めることができたという事です。
アブラムの全焼のいけにえを喜び、契約した神様
本文17節のお言葉を見れば「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」とあります。これは神様が、アブラムのいけにえを、どれほどかぐわしい香りとして喜んでかがれたのかを、しるしとして見せてくださったのです。このように神様は、どの人がどれほど心から信頼と真心で神様の前に捧げたかによって、御心を行ったかによって、確信を与え会ってくれます。「私はあなたの祈りを嬉しく受けた。私があなたの真心と信仰を喜んだ。」という証拠を示してくれるということですね。ですから、父なる神様とこのような関係になれば、より一層、確信の中で嬉しく幸せに信仰生活ができます。
続く18節には「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」と言われます。この言葉もやはり前に神様がアブラムに創世記13:14-17「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」と言われた言葉をもう一度確かにする言葉です。
アブラムという一人の人物を通して、将来彼の子孫がどれほど大いに伸びていくのかを言われたのです。 現実を見ると、まだ跡取りも生まれておらず、周辺には当時のアブラムとしては侮れない強い民族が住んでいる状況でした。このような状況で神様は、アブラムにこのように途方もない約束を与えたのであり、アブラムはその約束を信じたのです。アブラムがこのように神様のみ言葉を少しも疑わずに信仰として受けたので、ヘブル11:1に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」という言葉に従って、時がくれば時間を超えて契約のみ言葉が成就されたのです。
19-21節のお言葉には、神様が許可された地に当時住んでいた異邦族の中の名前が列挙されています。「ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」この言葉からも分かるように、このように多くの異邦族がそれなりに力を育てて定着しているカナンの地を、人の力だけで征服していくことができるのではありません。神様が一緒でなければ、人の力だけでは不可能なことでした。だからこそ、信仰が必要だったのです。これら異邦の民族を追い出し、神様がお与えになった地を手に入れるには、人の力ではなく神様の力が必要ですが、このような神様の力を引き下ろすためには、まさに信仰が必要だったのです。
ところが、アブラハムの子孫たちがこのような信仰を持つまでには時間が必要でした。皆さんがカナンの征服史を見れば分かると思いますが、ヨルダン川を渡ってエリコの城を崩しながら、カナンの地に住んでいた異邦の民族を一つ一つ征服していくのは、信仰によってのみ可能なことでした。ですから、神様はイスラエル民族が、肉的には強く大きな民族に成長するようになさり、霊的にはカナン征服に必要な信仰を育てようと、エジプトでの400年間を奴隷とされ、また、40年間を荒野で暮らすようにされたのです。
結論
神様は当面の現実ではなく、今後のすべてを知って備え、神様の子供たちを導いていきます。したがって、すぐに見るには難しい道のようで苦難の道のようですが、その結果を見てみると祝福の道であり、願う道になるという事です。ところが、多くの人は自分が見て良い道、自分が見て楽な道だけを選ぼうとします。神様は私たちに良いものをくださることを望んでいるのに、すぐにはその道が大変そうに見えるからといって従順できないのです。ただ「アーメン」と「はい」と、神様の導きに従っていけば祝福ですが、直ちに現実を見るために従順が出てこないのです。そのため神様は、現実を見ずに信仰で結果を眺めることができる信仰の義を望んでいます。
アブラムが現実を眺めず、信仰で神様がくださった約束の言葉を受けることで、結局、約束された言葉が完全に成就したように、皆さんも迅速に神様が望む信仰の義を成し遂げ、与えられた約束の御言葉が完全に成就されますように主の御名で祈ります

朝の学び117 創世記15章
創世紀15:12-21
日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」
序論
本文12節からはアブラムが夢を通して神様と交わりをしている場面だと説明しました。深く眠っているアブラムに、神様は将来、彼の子孫たちが体験することになることを見せてくださっているのです。ところが夢とはいえ、アブラムは実際に起こる状況のように、自分の目の前に広がっている光景を見ながら、恐怖が臨むのを感じるようになります。将来、彼の子孫たちが体験することになる出来事を見ると、決して平坦な道ではなく、多くの逆境と困難があることを知ることになり、瞬間、恐怖が臨むようになったのです。アブラムが信仰の父として立てられ、本格的な人間耕作の歴史の中で、今後彼の子孫たちが、アブラハムを目標として信仰の中に入ってくるまで、その道がどれほど険しかったか、イスラエルの歴史だけを見てもよく分かります。
神の計画の中にあるアブラムとその子孫たち
このように、神様はアブラムに子孫の将来のことについてあらかじめ知らせてくださいましたが、続く本文を見れば、非常に具体的な内容までも知らせてくださっています。13-14節に「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」と言いました。この言葉の中には、将来ヤコブを通して始まるイスラエル民族が、エジプトに入って四百年間、奴隷とされてから、出エジプトすることになることまでの内容が含まれているのです。
これを通して私たちはヨセフという人物がエジプトの奴隷として売られ、後日エジプト全土を支配するようになること、彼の兄弟たち、すなわちヤコブとヤコブの息子たちがエジプトの地に移住して生きていくこと、後にそこで奴隷となって四百年を過ごすこと、モーセを指導者としてエジプトを出ることも、このすべての過程が人の力や計画によるものではなく、父なる神の摂理と計画の中で行われたことであることが分かります。
エジプトが強くなって、イスラエル民族が400年間、彼らの奴隷として生きてきたのではなく、短い時間内に、イスラエル民族を大きい民族として形成させていくための、摂理の中で許された時間だったのです。イスラエルの民たちが奴隷となった期間が、なぜ400年間だったのかについては、続く16節の御言葉と関連して説明しますが、このように父なる神様は、アブラムに今後行われることについて具体的な時間までも話して下さり、そのお言葉どおり正確になされたという事です。
アブラムは信仰が完全な者として信仰の父として立てられましたが、彼の子孫たちは、それぞれの信仰の分量通りに彼らの信仰が成長していくだけ、神様を体験しながら導びかれていくことになります。彼らの信仰では、すぐにカナンの地を侵略して入ることも、神の言葉に従うこともできませんでした。そのため、神様はアブラムの子孫たちに、アブラハムに約束したカナンの地を与えるために、信仰の訓練の過程を一つ一つ摂理し、その計画に従って導いていかれたということです。それで正確な時になってイスラエル民族に出エジプトさせ、すべてが公義の法則に合う時点になった時にカナンを征服して入らせたのです。
15節に「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。」とあります。アブラハムは信仰の父であり、神様の友と認められるほど欠点がなく、完全な人でした。ですからアブラハムは、エリヤやエノク、またモーセと比べてみた時、いくらでも生きたまま、父なる神様のそばに行ける人物でした。それでもアブラハムは、この地で生命が尽きる死を迎えることになります。ところが、ここにまさに父なる神の摂理があります。人がこの地の人生を終えると、その中で救われた魂はひとまず上のよみに行き、救われなかった魂は下のよみに行きます。まさにアブラハムは、イエス様が、この地上に来られた救い主としての使命を終えて昇天する時まで、上のよみにいて救われてくる魂をその胸に迎える使命を担ったのです。
ルカ16:22によれば「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」と記され、救われた乞食のラザロが、アブラハムのふところに入ったことを言っています。なぜ神様のふところと言わずに、アブラハムのふところと言うのですか?イエス様が私たちの救い主になってくださる前までは、すべての人の信仰を測る基準が、まさに信仰の父であるアブラハムだったからで、救われた魂は信仰の父となったアブラハム預言者の胸に抱かれたのです。
しかしイエス·キリスト以後には、救いの基準がイエス·キリストになるので、この時からは救われた魂が、主の胸に抱かれるようになりました。もちろん、イエス様が救い主として来られる前に、この地の人生を終えて救われた魂も、皆がイエス様のお名前によって救われました。旧約時代に救われた魂は、たとえ行為によって救われたものでしたが、彼らにもイエス様を救い主として迎える機会が与えられます。そうしてこそ、信仰によって義を得て、霊界の法則に従って、これ以上罪人ではなく義人として救いを受けることができるからです。それでイエスが救い主として出てくる前は、旧約に救われる魂はアブラハムの胸に抱かれたのです。ペテロ第一3:19に「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」と言われた通り、イエスは十字架にかかって死んだ後、その霊がよみに降りて福音を伝えることで、まだイエスを知らずに死んだ魂の中で救われた魂たちにイエスを救い主として迎えることができる機会を与えたのです。
四代と400年の意味
本文16節のお言葉を見ると、「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」というのです。先の13節でも「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。」として4という数字と関連がありましたが、400年や四代に出てくる4という数字は苦難を意味する数で、これは今後イスラエル民族が体験する苦難を意味するものです。しかし、アブラハムの子孫たちには、神様が許したこの訓練を通して、父なる神様の選んだ民である選民として、完全に出てくることができる道が開かれることになります。神様について知るようになり、悟りながら信仰が成長するきっかけが作られるようになります。
では、どうやってアブラハムの子孫は四代目にこの地、つまりカナンの地に戻ってくるのでしょうか?ここで四代とは、ヤコブの息子たちの世代から始まり、出エジプトした時の世代のことです。つまり、エジプトに移住したヤコブの息子たちを第一世代とし、出エジプトの世代が第四世代になるのです。例えば、モーセの系図を見れば、ヤコブの三男レビが第一世代、レビの息子ケハテが第二世代、ケハテの息子アムラムが第三世代、アムラムの息子アロンとモーセが第四世代になります。
アブラハムの子孫であるヤコブと彼の息子たちが、カナンの地を離れてエジプトに移住してから正確に四代目にして、彼の子孫たちは神の言葉どおり再びカナンの地に戻ることになったのです。13節では、このようにアブラハムの子孫たちが再びカナンの地に戻るまで、自分たちのものでない国で寄留者になって彼らに仕え、苦しめられる期間を400年と言いました。使徒の働き7:6にも「また神は次のようなことを話されました。『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』」と、ステパノ執事も400年について言及しています。
ところが、出エジプト12:40-41によれば、「イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。」とし、出エジプト記の著者であるモーセはイスラエルの子孫がエジプトに居住した期間を430年と記録しています。ガラテヤ3:17にも、「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」として使徒パウロもやはり四百三十年を言及しています。では、なぜこのような違いが出るのでしょうか?
400年とおっしゃった理由は、当時の人々の平均寿命を考えると、一世代を100年と計算し、四代目つまり400年になったことです。そのため、400年は「四代目に帰ってくるだろう」という言葉と対になってアブラハムの子孫であるヤコブとその息子たちがエジプトの地に定着した時からモーセによって出エジプトすることになる時までを言います。ところが400年という数字は、四代と対になるための概算の数字であり、実際にイスラエルの民がエジプトに居住した期間は430年になります。430年の始点と終点についてはいくつか異なる主張がありますが、一般的にヤコブが家族と一緒にエジプトに移住した時をB.C.1876年とし、出エジプト記の事件が起きたB.C.1446年までが正確に430年になることが分かります。それだけなく、神様がなぜある時は400年で、またある時は430年と記録させたのか、その理由が分かれば良いのです。

朝の学び116 創世記15章
創世記15:4-12
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。 」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
傷のない供え物を神様に捧げるアブラム
もしアブラムが神様の言葉を信じられず、このようにしるしを求めているのであれば、神様がアブラムの信仰を義とすることもなかったでしょう。しかし、アブラムは疑って求めたのではなかったので、神様は続く9節にアブラムにしるしを見せるために、彼に全焼のいけにえの準備をさせます。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」と言いました。 ここで、三歳の雌牛と三歳の雌ヤギ、三歳の雄羊とその山鳩とひなは、アブラムの全財産を代表するものです。つまり、これを通してアブラムは自分の全財産を神様の前に捧げたという意味になります。
そして、三歳というのは傷のないという意味です。また、雌牛と雌ヤギと雄羊は、それぞれ生産を意味します。つまり、将来アブラムが神様から与えられた土地に生業(くらしを立てるための仕事)を立てていくことで、祝福されることを象徴しているのです。当時は牧畜が主な生業だったので、雌牛と雌やぎと雄羊が増えてこそ、それがすなわち祝福になることができたからです。
このようにアブラムが供え物を取るにあたって、10節を見ると「彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。」とあります。雌牛と雌やぎと雄羊は真っ二つに切り裂いたが、鳥は切り裂かなかったのです。では、これにはまたどんな意味が込められているのでしょうか?雌牛と雌やぎと雄羊を真っ二つに切り裂いたということは、アブラムと父なる神様の間の約束を正確にするという意味が込められています。正確に真っ二つに切り裂くので、一方でも偏りのない神様との正確な約束を意味することです。
しかし、鳥を切り裂かなかったのは、父なる神様とアブラム自身との関係が上下関係にあることを示すものです。他の供え物は、その中間を分けることで、父なる神様とアブラム自身の間に立てた約束が、互いに双方の間でなされた正確な約束であることを示しましたが、同時に鳥は切り裂かなかったことで、神様とアブラム自身が対等な関係ではなく、アブラム自身は神の下で仕える者という上下の秩序が、必ず守られなければならない関係であることを明確にしているのです。供え物の中間を分けるということは、まるで父なる神の側のものと、アブラムの側のものを分けるように感じられるが、このように鳥は切り裂かずにそのまま置いたとは、すべてが完全に父なる神様から出たということを意味するのです。
そして11節に「猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。」とあるのは、父なる神様とアブラムの間の約束を誰も破る者がいないという意味です。レビ記11:13によれば、「また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、」とありますが、猛禽が、神との契約を象徴する全焼のいけにえの上に降りて来るということは、神との契約を敵である悪魔サタンが妨害することを表しています。 アブラムはこのような猛禽を追い払うことで、誰も神との約束を妨げないようにしたのです。アブラムはこのことをよく知っていたので、神の前に全焼のいけにえを置くことで、自分の役目を果たしたと思わなかったのです。
15章17節に「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」とあるように、神様が自ら火を下し、アブラムの全焼のいけにえをかぐわしい香りとして喜んでかがれるまで、アブラムは、目を覚まして全焼のいけにえを守ったのです。 これは今日私たちが答えられることにおいてもとても重要です。神に答えられるために私たちの方からすべき道理をつくしたとしても、敵である悪魔サタンは素直に答えられるように放っておかないでしょう。従って、アブラムが猛禽を追い払ったように、答えられる瞬間までいつも目を覚ましていて、敵である悪魔サタンの妨害を退けなければならないのです。決して油断せず、いつも目を覚まして祈らなければならないということです。
夢を通して将来のことを見せてくださる
さて、12節の御言葉を見ると、「日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」とあります。今までアブラムは神様と声を通して、または幻を通しても交わる体験をしてきました。ところが、12節では夢を通して神様と交わる体験が記録されています。同時に13節からは夢と共に父なる神様が声で働きかけていらっしゃいます。5:13「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。」
ここで「深い眠り」ということは、神様が今アブラムに夢で働いていることを示しています。そしてこの時、神様はアブラムにこれから子孫たちにおきることについて見せてくださいました。その内容は、彼の子孫たちがこれから乗り越えなければならない前途が決して平坦ではないということでした。 近いところでは、将来、自分たちのものでない国で寄留者となり、400年間奴隷の暮らしをすることになり、その後も、彼の子孫たちに迫ってくる逆境の瞬間が、アブラムの夢の中に広がって見えたのです。その内容が明るくて、平安なものではなかったため、「ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」と表現しているのです。暗黒という単語からも感じられるように、アブラムの子孫たちが将来経験する逆境と困難が、決して容易な道ではなかったということを、私たちはイスラエルの歴史を通してもよく知ることができます。そして、たとえ夢ではあったが、それがまるで実際に見ているかのように見えたので、その内容はアブラムに「ひどい暗黒の恐怖」として訪れることになったのです。
しかし、アブラムの子孫たちが体験することになる逆境は、決して敵である悪魔が神より能力があって、そのように働いているわけではないという事です。すべてが神様の手の中で神様の主管の中で許されることです。したがって、敵である悪魔の方では自分たちに力があって、アブラムの子孫たちをそのように逆境に導いていくと思うが、実はすべてが神の主管の中にあるのです。今も敵である悪魔は、自分たちは神様が選んだ民族であるイスラエルを、永遠の亡びに導いていると思うでしょうが、イスラエル民族には最後にもう一度父なる神様が隠しておかれた摂理があります。
神様は選民イスラエルをそのまま死に追いやるのではなく、福音の回帰を通して、もう一度彼らに救いの機会を許すことになります。最後の時のために備えられた二人の証人もいるのです。しかし、このような救いの火を灯すみわざが、彼ら自身によって起こるわけではありません。まさに福音の回帰を成し遂げることになる聖霊の火のようなみわざが、その地に施されることになるのです。この全てのこと一つ一つが父なる神様の摂理の中で正確にかみ合っているという事です。ところが、今はその終わりが見えてきているので、時がどれほど近いかということを知らなければなりません。
聖書を見ると、神様が夢としてはたらかれる場合があります。神様が夢として働かれる時は、誰にでも働かれるのではありません。自分の思いや考えがなく、父なる神様を真に信じる人、このような人に夢として働かれることになります。もちろん、神様は時に従って子供たちに夢を通して、近づいてくる試練をあらかじめ知らせたり、祈りの答に対する確証を見せたり、自分の信仰状態を悟らせてくれたりします。しかし、肉の考えが残っている人は、夢の中でも自分の考えが入るので、神様がくださる意味を正確に見分けることができない場合があるのです。したがって、神様が夢として働かれる場合も多いですが、だからといってすべての夢を神様がくださったものだと考えてはならないということです。
自分の考えの中に見る夢もいくらでもあり、時には敵である悪魔サタンが与える夢もあることを知らなければなりません。したがって、夢を解釈する場合には、さらに霊的な分別力が必要です。夢の内容を御言葉で照らし、よく分別しなければならず、自分が見た夢が正確に合っているのかも点検しなければなりません。肉の考えが完全に砕かれ、神様との真実な信頼関係が築かれるまでは、夢に自分の考えが入ることもありうることを知らなければなりません
結論
アブラムは神様が約束の言葉をくださった時、神様の言葉に頼って、現実ではなく結果を見る信仰の義を成し遂げました。そして後に、この信仰の義が約束の種であるイサクとして現れるまで、アブラムは決して神の言葉を疑ったり、移り変わったりしませんでした。神様はアブラムの信仰の義を認め、彼に約束の種であるイサクを与える時、「あなたは私の前を歩み、全き者であれ」とおっしゃいました。アブラムに驚くべき祝福の言葉を与えましたが、その言葉を叶えるまでは、アブラムが神様の前で完全な行いを成し遂げる時を待っておられたということです。

朝の学び115 創世記15章
創世記15:4-12
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠り がアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
序論
創世以来これまで多くの人々が神様を信じ、自分たちの見方ではそれなりに最善を尽くして神様を信じると考えてきたはずです。ところが、神様はアブラハムを信仰の父に立てたという事です。アブラハムが生まれる前にも信仰の良い人々がいたはずで、アブラハム以後にもいたはずですが、神様はアブラハムを選びました。そして、アブラハムを信仰の父にするために、神様は彼の道を自ら導いていきました。訓練を通して自分の考えを徹底的に破るので、神様の前に完全な従順に至らしめ、同時にアブラハムの子孫を通して、選民イスラエル民族を成し遂げていく計画も一つ一つ進めていきました。
アブラムの後継ぎの約束
本文の4-5節に「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」と述べています。前にも神様はアブラムに跡取りに関する契約のみことばをくださったことがありますが、その言葉をくださった後も長い時間が経ちましたが、依然としてアブラムには跡取りがいませんでした。そうするうちにもう一度、跡取りに対するより具体的な約束をしてくださっているのです。それでは、アブラムが以前にくださった約束を信じられなかったので、このようにもう一度約束の言葉をいただいているのでしょうか?違います。
アブラムは、神様が以前にくださった約束の言葉を信じられなかったり、疑ったりしたのではなく、誠実な神様の約束を固く信じていました。それでも神様はもう一度約束の言葉をくださることで、アブラムとの約束を確証してくださったのです。しかし、アブラムがこのように約束の言葉を受けた後、すぐに約束の子孫である跡取りが生まれたわけではありません。その後、サライの女奴隷ハガルからイシュマエルが生まれましたが、彼は約束された跡取りではありませんでした。この時、アブラムの年齢が86歳でした。ところが、その後も14年が過ぎて、アブラハムの年齢が百歳になって初めて、約束の子孫であるイサクが生まれたのです。初めて故郷、親戚、父の家を離れ、命をかけて約束の言葉をくださった時からは25年が過ぎた後でした。このように神様が約束の御言葉を下さっても、それが実現されるまでには長い歳月が流れなければならなかったという事です。ところが、その長い歳月の間、アブラムは変わらず父なる神様の契約を信じていました。
信仰の義
まさに本文の6節に「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。これに対してローマ書4:13には「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」と述べています。では、信仰の義とは何でしょうか?信仰の義とは、神様の言葉に頼って現実を見ないで、信仰の目でその結果を望むことを意味します。自分の思いや力に頼らないで、ただ御言葉だけを頼りにするのです。このように神様の言葉に頼るかどうかを見るために、神様は時にテストを許可される時があります。テスト試験を受けると、これまで築いてきた信仰の義が明らかになります。
出エジプトしたイスラエルの民の中で、カナンの地を偵察して帰ってきた12人の偵察者の告白を聞いてみると、それぞれの人の信仰の義がよく表れています。12人の偵察者のうち、ヨシュアとカレブを除く10人は、民数記13:32-33に「彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」とあります。「私たちが巡り歩いて探ってきた地は、その住民を食い尽くす地であり、そこで見たすべての民は、背の高い者であり、そこでまたネフィリム人の子孫のアナク人を見たのだから、私たちは自分が見てもいなごのようだから、彼らの目にもそのように見えたはずだ」と言いました。
一方、ヨシュアとカレブは、民数記14:7-9に「「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」」と言ったのです。
神がイスラエルの民に与えると約束されたカナンの地を、同じように偵察して帰ってきたにもかかわらず、このように信仰の告白が違ったのです。これはつまり、10人の偵察者は現実を見たのですが、ヨシュアとカレブは御言葉に頼って、信仰の目で結果を眺めたという事です。そして、このように信仰の目で眺めたことが、最後まで変わらなかったのです。これがまさに、父なる神様が認めてくださる信仰の義なのです。そして、このような信仰の義は、真実という結果として出てくるのです。
一つ例を挙げてみましょう。世の中でも子供が危急の状況に置かれると、ほとんどの母親は、誰かがさせなくても子供を救うために、死を辞さずに身を投じるのを見ることができます。ところで、こうしたお母さんでも、お子さんが成長してお母さんの心に合わずに外れると、どうなりますか?お互いに争ったり、ひどい場合は仇同士にもなります。母親が望む結婚をしないからといって、母親が望む進路を選択しないからといって、母親と子供の間にひびが入ってしまいます。それならこれが真実ですか?真実は変わらないものなのに、命までかけることができた母性愛があったとしても、歳月が経って自分の意思と義に合わなければ、仇になることもあるなら、これは真実ではないですね。これがまさに人の義の限界なのです。
そのため、神様は自分の利益に合わなければ変質し、結局裏切ってしまう人の義ではなく、永遠に変わらない信仰の義を望むのです。神様は現実ではなく、結果を眺めることができる信仰を要求されるのであり、このような信仰を示す時、神様との関係でも信頼性が与えられるという事です。アブラムはまさにこのような信頼関係に至ったので、本文15:6「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と神様はアブラムの信仰の義を認めてくださっているのです。しかし、このような信仰の結果が実として現れたのが、その時、すぐではないと言いました。皆さんもこのような法則に気づいてください。父なる神様が下さった言葉が成就して実として出てくるまで「誰が変わらない信仰の目で眺めるのか?」父なる神様はこれをご覧になります。
神様が何かを言われた時、すぐに目に見える実を見せてくださるなら、誰が神様を信じないでしようか?しかし、すぐに現れるものもありますが、そうでないものもあるので、神の側ではこのような状況で、各人の信仰の義を測られるのです。そして、その信仰の義が、希望する分量に満たされた時、すぐに答という実が与えられるのです。したがって、私たち働き人は、神様の仕事をする時、このような事をよく悟って肝に銘じなければなりません。"行って見える実を取って来い"と言えば、それは誰でも簡単にできますよね。しかし、"見えない実を取って来い"と言われた時、信仰の目で結果を眺めることで、御言葉に頼って行って、実を取ってくることができる人、父なる神様はまさにこのような働き人を探します。この御言葉がいつも聞いて知っていた御言葉であっても、もう一度皆さんが心で悟る時間になってください。
神様のしるしを求めるアブラム
続く7節に「また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」」と言われると、8節にアブラムが「彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」」と答えます。この言葉も皆さんが誤解してはいけません。アブラムが神様の言葉を信じられず「それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」として、しるしを求めるのではありません。アブラムがこのようにしるしを求めた理由は、神の言葉を信じられなかったからではなく、神との間の約束をはっきりと結ぶためのものでした。
例えば、愛し合っている二人が互いに、愛のしるしを取り交わすことがありますね。この時、そのしるしそのものが愛なのではありませんが、このしるしを見ながら、お互いの愛を確認しながら、感じることができるからです。お互いを愛することは心から出るものですが、確認させてくれる証拠として、しるしを交わすことになるのです。これと同じように、アブラムもやはり心から父なる神様の言葉を信じましたが、これをしるしでもう一度確かにすることで、神との約束は誰も奪うことができず、決して消えることもできないという事実を、確実にしようとしたのです。神様の言葉を信じられず、試してみるのとは全く違うという事です。
ところが、今日ある人々は、神様の言葉を信じられず、試しながらも自らは気づかない場合があります。例えば「神様、これだけ答えてくだされば、私が今後これをします。」とか、あることを決めるにあたって「事がこのようになれば、神様の御意思だと思ってやります。」ということです。例えば、店を売るべきかどうか決定を下さなければならない人が、「神様、私が一週間祈るので、その中に買う人が出てきたら、売るのが神様の意思で、その中に買う人が出てこなければ、売らないのが神様の意思だと理解します。」もしこのように祈ると考えてみてください。もちろん、神様をたった今信じるようになった初信者や、真理をよく知らない場合には、このようなこともあります。また、ギデオンが、神様の意思を確証してもらうために、2回神様にしるしを求めたように、神様の意思を知るために、確実な証拠を求める場合もあるのです。
しかし、今申し上げようとするのは、神様を信じて求めるのではなく、自分の考えの中に答えを決めておいて、むしろ神様を試す場合があるということです。その一方で、自らは気付いていないのです。マルコの福音書11:24によれば「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と明確におっしゃいましたが、この言葉のように、神様の答を信じて、信仰で一週間決心して祈りながら、神様の証拠を求めることと、自分の考えの中で神様を試すこととは、全く違うという事を知らなければなりません。

朝の学び114 創世記15章
創世記15:1-11
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
祝福の契約
アブラムの幻の中に現れた神様は、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃいました。アブラムは神様の召命を受けて以来、今までひたすら信仰と従順で行ってきました。しばらく自分の考えを働かせたこともありましたが、すぐに立ち返って悔い改め、神様の前にさらに完全に従う姿になりました。神様は、まさにこのように従う人にいつも盾となり、驚くべき祝福で共にされるという事です。神様は、常に私たちに祝福を与え、守ることを願う方ですが、同時に公義の神様であるため、正確な公義の中で働かれるしかありません。ですから、ある祝福を与える時は、まず祝福される器を作らせます。アブラムは、このような祝福を受ける器を、十分に準備していったので、神様はもう一度、祝福の約束をしてくださったのです。
私たちが祝福を受ける器を作るのは、意外にとても簡単です。神様は難しくて複雑なことを求められ、それを通過できないようにする方ではなく、霊的な信仰があり、また真に従う心があれば、いくらでも行なうことができることを求められます。もちろん、信仰の分量によって次第に要求していく水準も高くなりますが、信仰の分量に合わせて高めていきます。例えば本教会の聖徒の中で、完全な主日の出席と、完全な十分の一の献金を捧げる方であれば、一年中決して災いや事故に遭いません。特にある重い肉の事を行うような罪を犯すことがなければ、事故に遭わないように守ってくださいます。もし自分のミスである事故が起きても、体は傷まないように守ってくださいます。神様の子供として最も基本である主日の出席と、十一献金だけでも神様は盾になって守って下さるのです。
しかし、信仰のある方なら、また信仰の三段階以上にある方なら、このような完全な主日の出席と、十分の一だけで、自分のやることを尽くしたとは言えないでしょう。信仰の一、二段階にいる方々は、御言葉通り生きようと努力すれば、神様は祝福も一緒にくださいますが、信仰の三段階以上なら、どれほど神様の御言葉の中に完全に生き、従順していくかによって祝福が変わります。もちろん、信仰の一、二段階でも、信仰と従順によって祝福が変わりますが、神様が望まれるのは、本当に心の中心から湧き出る愛と、それに伴う従順の行いです。ですから、皆さんが中心から神様を愛し、信じて従順していけば、神様は必ず皆さんの盾と大きな報いになってくださるという事です。アブラムは訓練の過程を経て、心の中心から神様を愛し、畏れ敬い、その言葉を信じて服従する器を作っていったので、このような祝福の言葉を受けることができたのです。
続く2-3節を見ると、「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」幻のうちに神様と交わっていたアブラムは、突然、神様に相続人に関する話を伝えます。アブラムは神様に、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げたとありますが、アブラムがどれほど正確に神様の心を伝えられて、心につかさどられているのかがよく現れています。
これはどういう意味でしょうか?以前、神様はアブラムに、創世記13:16で「あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」という約束の言葉をくださいました。それでは、アブラムがこの約束の言葉を忘れているか、心に完全に信じられなかったりして、今自分の家にいる僕であるダマスコのエリエゼルを、相続人と言っているのでしょうか?そうではありません。アブラムは一度神様がおっしゃった言葉を、決して疑ったり忘れたりしなかったのです。それでもアブラムが、神様にこのように尋ねているのは、何故、神様が今、自分に現れて、「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃっているのか、心につかさどられたからです。アブラムは、神様が自分に現れたことが、自分の後とりについて約束してくださることだと知りました。今がその約束の時だと感じて、相続人について先に話をもちだしたのです。
例えをあげると、父が息子に新しい車を買ってあげると約束しました。そして歳月が経って、父の心に「さあ私が新しい車を買ってあげよう」と思うようになったのです。それで息子にその話を言い出そうとしたところ、このような父親の心を感じた息子の方から、先に、父が話し始める前に「私はこの車にずっと乗り続けても構いません。」と言います。息子は、新しい車を買ってあげるという父親の言葉を、信じなかったからではなく、むしろ息子がこう言ったことによって、息子は父親から「いや、その車に乗り続けるのではなく、もうすぐ私が新しい車を買ってやる。」という言葉を聞くことができるようになるという事です。息子は、父親が何を言おうとしているのか、正確に心に働きかけられていたので、父親から確かな約束の言葉を受け取ることができたのです。
アブラムも神様の言葉を信じられないからではなく、相続人についての言葉を先に言い出すことによって、父なる神様から後とりについて、確実な契約の言葉を受け取っているのが見られます。4-5節を見ると「主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」という、確かな契約の言葉を受けています。これは、アブラムが神様と心が通じ合い、神様の心を正確に心につかさどられたので可能な、二人だけの対話だったのです。このような契約の言葉を受けとったアブラムが、これから神様の前でどのように行ったのかについては、次の時間に続いて説明することにします。
結論
親と子の間でお互いに心が通じ合って感じることができれば、お互いに誤解することはありません。子供は親が望むことを自ら行い、親も子供が望むことを叶えてくれます。相手がなぜこのようなことを言うのかを感じるので、それに合った答えをしてあげることができます。まさにこのような関係が父なる神様と皆様の間にも成り立つことを願います。そのためには、ピリピ2:5に「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とおっしゃったように、皆さんの心の中に主の心を抱かなければなりません。御父の神と完全に一つである主の心を、皆さんの中に抱く時、御父の神の心とも一つを成すことができます。
アブラムは、このような訓練の過程を通して、自分を徹底的に捨て、ただ主の心、御父の心を抱いていったので、御父の心を明らかに悟り主管を受けることができ、御父の神との対話を通して、驚くべき祝福の言葉も受けることができました。皆さんが、迅速に霊の心を築き、霊の空間に住むことで、御父の神の心もつかさどられることができ、聖霊様とももっと明らかに交わりができるようになることを願います。それで、神様が自ら皆様の盾であり、報いになってくださり、常に凡ての事に通じる道にだけ導かれていくことを神様の名前で祈ります

朝の学び113 創世記15章
創世記15:1-11
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
序論
私たちがイエス様を救い主として迎え、神様の子供になれば、私たちの中には聖霊様が内住されるようになります。このような聖霊様の働きによって、様々な霊的な賜物を受けたり、体験をすることになりますが、聖霊の御声を聞いたり、異言の賜物を体験したり、幻を見る場合もあります。このような霊的な賜物と体験は、すべての人に一律に現れるのではなく、人によって少しずつの違いがあり得ますが、明らかなのは、霊に入るとますます多くの霊的な体験をすることになるという事です。霊の空間の中に入ってきたので、霊の空間の中で現れる現象を体験していくことができるのです。
このような霊的な体験の中で容易ではないのが、神様の声を直接聞きながら対話をすることです。聖書によれば神様の御声を直接聞く場合が出てきますが、それが普通に起きたことではなく、誰でも体験できるものでもなかったのです。それだけ神様の前にふさわしい人々が、神様の声を直接聞くことができ、その中でもごく少数だけが神様の形を見ました。
今日、神様を信じる人々の中に、「神様の御声を直接聞いて対話した」と話す人々がよく出てきますが、その中には自ら神様の御声を聞いた人もいるでしょうが、神様や聖霊の御声または天使の声を父なる神様の御声と誤って考える場合も多くあります。また、サタンの働きを受ける場合もあるので、聖霊の働きの中で霊的な体験をしていくことは重要ですが、必ず霊的に先んじていて、先にその道を体験していった人が、正しい道を行けるように導いてあげることが必要です。
幻と幻想の違い
本文を見れば、アブラムは幻の中で神様と交りをすることが出てきますが、皆さんの中で、どれが幻でどれが幻想なのか、区分できる方は多くないでしょう。もちろん、今日、ほとんどの人が体験するのは、幻想の方に近いことが多いですが、ある場合はアブラムのように幻を見ても、幻想だと分かる場合もあります。では、幻想と幻の違いは何でしょうか?まず、2つの現象は、いずれも神様が肉の空間の中で霊の空間の門を開いてくださると、一瞬霊の空間に入りながら現れる現象という共通点を持っています。また、霊の目と霊の耳を開いて、見て聞くようになさる体験的な現象は、両方とも似ています。しかし、幻想と幻は、霊の空間をどれほど広く、あるいは狭く、活用して広げてくれるかという違いを持っています。
幻は幻想に比べて、相対的に霊の空間を狭く活用して表してくださるので、幻を通して働かれる時は、多くのことを見せたり感じさせたりするよりは、声を通した対話形式で働かれます。肉の空間の中に霊の空間が広がり、光で囲まれ、その中で声が聞こえるのです。本文にアブラムが体験したのも、肉の空間の中に霊の空間の扉が開き、アブラムが瞬間、霊の空間に入るようになり、アブラムが光で囲まれた状態で、光の真ん中から聞こえてくる声を聞いたのです。その声は確かに神様の声でしたが、この時神様が自ら臨在され、アブラムが神様の形象を見たわけではなく、神様は光の中に留まっている声として、アブラムに働かれた場合です。
そして、この時、光で囲まれている姿や光の中から聞こえてくる声は、周りの他の人が見たり聞いたりできるものではなく、ただ自分だけが見たり聞いたりすることができます。それで、誰かが幻を見ている時、周りの他の人が見る時は、まるで祈っているように見えますが、感じは受けるようになります。使徒パウロも主をダマスコで迎え、声を聞く時も周辺の人々がこのように感じたことを見ることができます。
反面、幻想は幻に比べて、活用される霊の空間がより広いと言えます。肉の空間の中に霊の空間の扉を開くことは、幻として働かれる場合と同じですが、幻想の場合は、あるものを自ら見て触ったように、自らそこに行って経験したように、働いてくださいます。霊の空間を開いて、様々な形や角度から見ることができるようにするのです。黙示録を書いた使徒ヨハネの場合は、霊の目が開かれ幻想を見て、多く記録するようになります。それで幻想は、まるで映画のフィルムを見るように見えたり、自分が直接その中に入っているように見えたりします。ところが、同じ幻想でも、ある人はただ場面だけを見る場合があり、ある人は場面と共にそれに対する解釈までも、霊感で受ける人がいます。また、同じ場面の幻想でも次元が違うのです。
例えば、子供にある映画を見せてあげれば、子供は内容がよく分からないが、どんな場面を見たのかは説明できます。反面ある人が見たなら、場面だけを見るのではなく、内容までも把握することができるので、ある場面がどんな内容だったのかも説明できます。このように同じ幻想を見ても、霊的な水準によって差があるということです。まだ信仰が幼い子供の段階であるにもかかわらず、聖霊が充満している時は、恵みの中で霊の眼が開かれ、幻想を見る方々もいますが、ややもすると考えが働いて、神様が見せてくださったことを、誤って解釈することがあるということを知らなければなりません。
したがって、幻想を見てもそれが完全になるためには、心を割礼して肉の考えが全くなく、ただ明らかな聖霊の声と主管によって、霊感を通して解釈を共に受ける次元に至らなければなりません。そして、幻想は広げてくれる霊の空間の幅が広いので、どの方向や角度から見せてくれるかによって、同じ場面を見ても見る人によって内容が少しずつ違うことがあります。霊の目が開かれ、同じ場面を見た人たちが、全体的な脈絡は正確に一致しながらも、細部的な面においては若干の差が出るのが、まさにこのような理由からです。一人が見たものを他の人は見なかった場合があり、他の人が見たものをまた他の人は見なかった場合があります。
例えば、小さな画面であるものを見る時は、その内容が一目で入ってきますが、とても大きな画面であるものを見る時は、視線をどこに置くかによって同じ内容でも、人によって見た内容が少しずつ差が出ることがあるようにです。そしてこの時も、霊的な水準によって、見る内容に差が出ることがあります。霊的な水準が低い次元で見る人は、部分的なものだけを見ることができますが、霊的な水準が高い次元で見る人は、全体的なものも見ることができる能力があるからです。
このように幻と幻想が、霊的に見れば似ている面もありますが、霊の空間を活用する面において、違いがあるという事が分かりました。ところが、幻が霊の空間を狭く活用するからといって、幻を見るより幻想を見る方が、より霊的に次元が深いと言えるわけではありません。神様が幻として働かれるか、あるいは幻想として働かれるかは、それぞれその時の状況と、与えようとする内容によって違います。本文でも分かるように、神様が幻を通して働かれる場合には、もう少し個人的に親密に近づいてくるのを感じることができます。
私も主のしもべに呼ばれた後、神様の意思をもう一度確認しようとした時、神様が直接声で話してくださったことがあります。空の門が明るく開き、明るい光の中で神様の声が聞こえてきましたが、私がその時に体験した現象は幻だと言えます。その時も私が体験したことを私のそばにいた祈祷院長は、見て聞くことができませんでした。もちろん霊的な雰囲気は祈祷院長も感じましたが、その体験は私と父なる神様との間にあった個人的な親密な体験だったのです。
このように、幻は幻想よりも個人的で親密な体験であるだけでなく、より深い霊の次元を体験する通路にもなります。それは、幻にはほとんど対話的な交りが伴いますから、幻想がある場面を見せてくれて、霊感で説明してくれるとすれば、幻はある場面を見せてくれて、霊の耳を開いて声で一緒に説明してくれる場合です。それで聖書を見ると、将来に起こることや深い霊的な秘密を教えてくださる時は、幻を通して働かれる場合が多かったです。
ただし、ダニエル7:1-2を見ると、「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、」と言ったのです。これは将来最後の時になることについてダニエルが幻の中に啓示を受ける場面です。ところが、続く内容だけを見ると、まるでダニエルが幻想を見ているように見えるかもしれませんが、このような体験を幻だとおっしゃるのは、アブラハムのように幻で見られる対話形式の交わりが行われているからです。ダニエル7:15-16によれば、「私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。」と言いました。
これは神様がダニエルに今後のことについての内容を見せてくださる次元ではなく、天使を通して解釈まで教えてくださっているのです。この時、神様から送られた天使がまさに天使長ガブリエルでした。ダニエル9:21によれば「すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、」として、先に神様が前のことについて啓示してくださる時、幻の中で見たのがガブリエルだったことを語っています。
このように、幻の中に啓示を受けて記録したダニエル書と共に、やはり未来に対する予言書であるエゼキエル書を見ても、エゼキエル1:1に「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」として、エゼキエル書の内容もやはり幻を通して受け取ったことが分かるようにしてくれます。霊の眼を開いて霊の深い秘密と未来について明らかにしてくださっただけでなく、エゼキエル1:28後半節に「私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」として、以後に続く内容はエゼキエルが声を通して啓示されることを話しています。
このように幻には幻想とは区別される要素があり、その内容が幻想を通して体験できるものだとしても、その中に幻だけで体験できる要素があるとすれば、神様の側ではそれを幻と表現されるのです。したがって、幻と幻想が持つ共通点と相違点については分別をするものの、神様が最も適した方法を通して働いてくださるという事を悟らなければなりません。
本教会は開拓以来、これまで幻想と幻、啓示と代言、予言など、様々な霊的な賜物と体験を通して私と聖徒たちにいつも働いてくださいました。私に直接働いてくださったのは今まで一度も間違ったことがありませんが、私たちの聖徒たちに働かれる場合を見れば、まだ霊的に完全ではないだけに、時には自分の考えや感じが入る場合もありました。そのため、常に相互点検して補完できるように、神様は同じ内容について多くの人に同時に働いて、私の方でその方々を分別できるように働いてきました。いくら明らかに働かれるという人だとしても、心に割礼がされていなければ、それは完全なものではありません。
それで、私の方では聖徒たちが霊として分別できるように、いつも講壇から御言葉を通して悟るように導いてきましたが、それに気づかない場合もあって、色々な副作用を起こしたりもしました。このようなことが怖くて、霊の世界を休止させることができるわけではないので、私は聖徒たちが霊の世界を体験して進むことができるように、霊の世界の扉を開けておきました。その結果、今は数多くの検証過程を通して認められる方々が明らかになり、あちこちで使われるようになりました。ここで必ず肝に銘じなければならないことは、何よりも心の割礼が一緒に伴わなければならないという点です。そんな時、傲慢やこの世の誇りもないし、肉の考えや感じが入ることもないし、神様がくださった賜物がただ神様の栄光と神の国のためだけに美しく使われることができるのです。そうしてこそ、主が来られるまで使われ続け、大きな賞になるという事です。
また、神様が貴重な賜物を与えた時は、自ら「神様が私にこのような賜物を下さった。」と言ってできるのではなく、神様は霊的な秩序の中で、必ず牧者にも共に働いて下さるという事です。皆さんの中でいくら霊的な体験が多くて深いとしても、それが牧者を通して連結される時だけが、霊的な秩序に従うことであり、秩序の中で働かれる神様の意思になることです。本教会は霊の世界が無限に開かれている祭壇であるだけに、皆さんがこのような事をよく肝に銘じ、霊的な秩序の混乱がないように、常に秩序に従って出てくることをお願いします。

朝の学び112 創世記14章
創世記14:17-24
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
アブラムと聖霊様との出会い
今までの説明を聞いて、聖霊様について少しお気づきになりましたでしょうか?今日の本文にメルキゼデクとアブラムとの出会いは、まさにこのような聖霊様が父なる神様の特別な指示を受け、この地に自ら降りてきて、将来、信仰の父になるアブラムに会ってくださる場面です。ところが、私たちは後日アブラハムが体験することになるもう一つの不思議な出来事を通して、今日の本文に出てくるメルキゼデクの存在についてもっとはっきりと悟ることができます。それは創世記18章に出てくるアブラハムと聖霊様との出会いです。
創世紀18:1-4に「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。」とあります。この御言葉の中では、三人とありますが、続く内容を読むとここで三人と言ったのは、人の形をした神様と、やはり人の形をした二人の御使いであることが分かります。
22節に「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」とあります。神様はアブラハムが住んでいるところに残り、彼と対話をする場面が出てきて、他のふたりすなわちふたりの御使いは、神様の指示に従って、ソドムの町を探りに行ったのです。それで続く創世記19:1には「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」と言って、人の形をし三人のうちふたりの御使いだけがソドムの町に現れているのです。
このように、創世紀18章の内容まであらかじめ先に説明する理由は、創世紀18章に現れた神様と、今日の本文に出てくるメルキゼデクと密接な関連があるためです。先に読んだ創世記18:1-4によれば、アブラハムは三人の人物、すなわち人の形をした神と人の形をしたふたりの御使いを見るやいなや、自分を極めて低くし、あまりにも丁寧に迎えます。もちろん、いくら人の形をしていたとしても、三人の形が普通の人とは異なり、その形から発する霊的な光や気運によって、神様と交りをしていたアブラハムは、その方々が平凡な人ではないという事実をすぐさま悟って、丁寧に迎えることができたのです。このように真心で迎えることができた理由は、まさにその中の一人、すなわち人の形をされた神様を見分けることができたからです。
では、果たしてどこでお会いしたのでしょうか?アブラムは、すでに創世記14章に記録されたように、メルキゼデクとして現れた聖霊様にお会いしたのです。また、創世記18章で自らこの地に降りてきて、アブラハムと対面して言葉を交わされた方も聖霊様、すなわち聖霊の神様でした。私たちは主なる神様を見れば死ぬと言われますが、神様の息子として来られたイエス様、聖霊様を見ても死ぬわけではありません。それで、私たちが対面して見ることができる神様の息子たちを送って働かれたのです。ある時はイエス様を、ある時は聖霊様を送って働かれることで、その前に立つことができ、対話することができたのです。
モーセのような場合も後ろ姿を見て衣の裾を見ることはできましたが、自ら神様の顔を対面して見ることはできませんでした。アブラムはすでに人の形をした聖霊様にお会いしたことがあり、聖霊の神様が再びこの地に来られた時、その方を一瞬で見抜き、このようにその前に体を地面に曲げて、極めて手厚く出迎えたという事です。ところが、アブラムが同じ聖霊の神様にお会いしたとしても、今日の本文でメルキゼデクという姿で会ったことと、創世記18章で会ったこととは状況が違いました。
今日の本文の状況は、アブラムが敵との戦争のために共にした人々と帰る途中に起きたことです。つまり、シャレムの王メルキゼデクがアブラムの前に現れた時、アブラムの周辺には多くの人々が一緒にいたのです。しかし、この時、アブラムと甥のロト以外には、シャレムの王メルキゼデク、つまり聖霊様を見た人がいませんでした。これはイエスを信じる人々を迫害していたサウルが、ダマスコへの途上で神様に会った場面を考えると、簡単に理解することができます。ダマスコに近づいていたサウルは、忽然と空から光が照らされ、その中から聞こえる声を聞きます。そして、神様と対話をしているのに、サウルがこのような霊的な体験をしている間、一緒にいた他の人々は、今どんな状況が起きているのかわかりませんでした。
使徒の働き9:7に「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」とあります。今日の本文の状況もこのようで、神様の助けで大きく勝利をおさめて帰ってきたアブラムは、神様に感謝して祭壇を作って、感謝の生贄、祭祀を捧げていましたが、極めて高い神様の祭司であるメルキゼデクが現れたのです。周辺にいた人々の目にはただ神様の前に生贄、祭祀を捧げているアブラムの姿だけが見えましたが、アブラムは聖霊様と深い霊的な交わりを分かち合っていたという事です。もちろんこの時、アブラムが聖霊様だけに会ったわけではありません。三位一体の神様の一人である聖霊様がいらっしゃったので、彼を護衛しながら召使になる天軍と天使は、またどれほど多く降りてきたのでしょうか。霊の目が開かれ、その場面を見ているアブラムにとっては、彼の一生忘れられないあまりにも恍惚として胸いっぱいの感動の瞬間でした。自分に直接現れた神様に会い、信仰の父として神様の前に完全に立つことができる、祝福の契機をもう一度迎えたのです。神様もアブラハムを信仰の父として立てる前に、このように出会いのみわざを通して、信仰と確信を植えつけ、信仰の父になれるように導いたことを見ることができます。
義の王、平和の王メルキゼデク
「メルキゼデク」という単語の、肉的な意味は「私の王はゼデク」ですが、霊的な意味は「分かれた者のひとり」です。まさに初めに一人でおられた御父の神が、人間耕作の大きな摂理と計画の中で分離して下さった、御子の神と御霊の神様のうちのお一人であられるのです。旧約時代は御父の神ご自身が、親しくつかさどって導いていかれた時代ですが、だからといって、旧約時代の間、主や御霊の神が何もしないでおられたのではありません。特に、御霊の神は、御父の神の御旨を受けて、[主]の霊として活発にその働きを助けておられました。その中の一つとして、今日本文のメルキゼデクの姿で現れ、アブラムと交わり彼を祝福してくださったのです。
ヘブル7:2にはメルキゼデクについて、「またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」と書いてあります。その名の意味を義の王と平和の王と訳しています。それなら、御霊の神が義の王、平和の王と呼ばれる理由は何でしょうか?
私たちがイエス様を救い主として受け入れて、真理の御霊である聖霊を賜物として受ければ、この時から心の中におられる聖霊は、罪と義とさばきについて一つ一つ悟るように導いていかれます。真理と真理でないもの、義と不義、罪と悪が何かを見分けて、義と善の中に入って来るようになさるのです。また、神の深みにまで及ばれる御霊は神の御目に正しいことが何か教えてくださいます。コリント第一2:10に「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」とあります。それで、完全な義を行うようになさるのが聖霊の働きであり、これが義の王と呼ばれる理由です。
それだけでなく、私たちが聖霊を賜物として受けると、明白に現れる変化が心の平和を感じることです。罪人として死んで永遠に地獄に行くしかなかった人が悔い改めて、罪の赦しを受け神の子どもとされて天国に行けるようになったしるしが、まさに聖霊を賜物として受けることです。聖霊を受ければ天国に行ける神の子どもと認められたので、自然に心に平和を感じるようになるのです。聖霊を受けた神の子供たちが、御霊に導かれ従って生きていく時に、世が与えられない平和を味わえるので、御霊の神を平和の王と呼ぶのです。
アブラムは、このようなメルキゼデクに自分が得た物の十分の一を捧げることで、メルキゼデクを認めると同時に、自分に属するすべてのものが、ただ創造主の神から出てきたという事を認めるのです。さらに、神の御前にささげる十分の一献金がまだ律法として決まったことでもないし、誰かから学んだことでもないのに、アブラムは心に働きかけられて、神の御前に十分の一を捧げました。神はアブラムにより大きい祝福、すなわち、信仰の父として完全に立てられる祝福を与えようと、彼の心をつかさどって下さったのです。次回からは、神様がアブラムに与えた契約の種についての約束と、彼の子孫に渡すとおっしゃったカナンの土地に対する具体的な約束について見ていきましょう。
結論
アブラムがメルキゼデクに出会う驚くべき祝福を受けることができたのは、彼が父なる神様の前に積み上げてきた信仰の義が認められ、さらに一段階昇華される(ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)時点を迎えたためです。ロ-マ4:2-3に「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。」とあります。このように、アブラムが、神様の前に義と見なされることができたのは、単に表に現れる行為としてではなく、彼の心の中心から出てくる信仰の行いによるものでした。律法による行為だけで救われた旧約時代に、アブラムはすでに神様が本当に望む、心に信じられる信仰を所有していたのです。
言い換えれば、アブラムが神様の前に行った行為は、単に肉的な行為の次元で終わったことではなく、心の中心から神様を信じることによって、それを行いでも表したのです。そのため、アブラハムは旧約時代に限っての信仰の父ではありません。聖霊時代にも依然として信仰の父として、すべての信じる者にとって信仰の表象になりうるのです。もちろん、アブラムがメルキゼデクに会った時点で、アブラムの信仰の義が完全だったわけではありません。しかし、神様はアブラムの信仰の義を認め、さらに一段階昇華された義の次元に達するように、愛する子の中の一人を送ってアブラムを祝福されたという事です。
そして、アブラムは、このような祝福のきっかけを通して、より迅速に信仰の父として準備されていくことで、神の前に認められて出ることができました。アブラムのように皆さんの信仰が成長していき、霊に入っていくことにも段階があります。それで皆さんが一段階を突き抜ければ、次の段階に向かっていけるように神様は力と恵みを与えられます。アブラムにメルキゼデクを送ることで、彼の義が御父の神の前に告げられたことを認めてくださったように、ある祝福や恵みの体験を通して、霊で一段階入り込んでいることを感じさせてくれるということです。例えば、祈りを一段階踏み込む時も、ある瞬間、以前と変わった自分の祈りを自らが感じながら、「私がもう一段階祈りの能力を受けたのだな」と悟ることができるようになるということです。

朝の学び111 創世記14章
創世記14:17-24
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
序論
聖書において、イスラエル民族の中に、公式に祭司という職分が登場するようになるのは、出エジプト記の事件以後です。出エジプト記28:1によれば、神様がモーセに告げたのは「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」と話しています。レビ族として生まれたアロンとその息子たちであるナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルが、祭司として立てられた最初の人々だったのです。しかし、このように聖所が建てられる前だからといって、聖所の職務を担う人がいなかったわけではありません。神様の前に生贄を捧げる祭祀は、アダムが罪を犯してこの地に追い出されて以来、ずっと行われてきました。
創世記4章を見ると、アダムの息子たちが供え物を取って神様の前に生贄を捧げる場面が出てきます。彼らは両親のアダムとエバからすでに神様の前に生贄を捧げることについて学び、生贄に込められた意味についても知っていました。その後もノアとアブラム、そしてアブラハムの子孫であるイサクやヤコブも、やはり神様の前に生贄を捧げる場面が、聖書のあちこちに記録されています。そのため、祭司の職分が正式に生まれる前にも、神様の前に生贄を捧げる祭祀は続けられ、ノアやアブラムのように祭司長と呼ばれることはなくても、祭司長の職分を果たす人々がいたのです。
前回から説明するメルキゼデクには、正式に祭司長の職分が生まれる以前に、「極めて高い神の祭司」という表現が使われたという事です。もちろん当時、他の異邦民族の中には、彼らが仕える異邦の神のための宮がありましたが、神様の前に生贄を捧げるための宮の職分は、モーセの兄アロンが初めてだったにもかかわらず、メルキゼデクは祭司長という職分として記録されています。
そしてメルキゼデクについて記録したヘブル書の著者は、へブル人への手紙7:3で「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」とし、へブル人への手紙6:20には「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」とし、イエスをメルキゼデクの位に等しい神の大祭司と表現しています。つまり、イエス様とメルキゼデクを同等のレベルに置いて、イエス様について説明していますが、このような条件にふさわしい方は果たして誰でしょうか?ただ一人、三位一体の神様の中の一人である聖霊様という事が分かりますが、この時間に聖霊様について明らかに悟ってください。
メルキゼデクとして来られた御霊の神
ガラテヤ4:6によれば「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」として、聖霊を「その息子の霊」すなわち「御子の御霊」と言っています。「その息子の霊」というから「ひょっとして主の霊ではないですか?」と尋ねる方がいらっしゃるかもしれませんが、私たちの心の中に送られた霊は、皆さんもよくご存知のようにまさに聖霊様です。コリント第一3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とおっしゃったように、神の御霊はまさに私たちの心の中に住んでいるのです。父なる神様は救われた神様の子供たちに聖霊を贈り物として下さいますが、聖霊を受けた人は神様を父と呼ぶことができるのです。ここで私たちは、聖霊様を「御子の御霊」と表現したことに注目しなければなりません。よく人々はイエス·キリストだけを神の子だと思っています。しかし、聖書には必ずしも主だけが神の子だと表現しているわけではありません。
へブル人への手紙1:6には「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」として主を長男(firstborn)と表現しています。また、ヨブ記38:7には「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」とあり、神様が天地万物を創造される時に、神の子たちはみな喜んで声をあげたと言いました。神様の子たちと複数として出てくるということです。しかしもしかして、神の子たちを御使いと思ってはいけません。へブル人への手紙1:5に「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。神がかつて、御使いの中の誰かに、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」また「わたしは彼の父となり、彼は私わたしの子になる。」と言われたでしょうかとして、神が御使いを子と呼ばないことをはっきりと言っています。
したがって、天地万物を創造される時、神が神の子たちと表現したのは、私たちの主の他にもう一人の子がいることを明確に言っているのです。そして御使いではないこともはっきり言っているのです。それでは天軍ですか?もちろん天軍はさらに違いますね。したがって、ヨブ記に記録された神の子たちは、長男の神様ともう一人の方である聖霊様を指すのです。聖霊様も主と同じように神様の息子の地位を持っていらっしゃるのです。
ひとり子
イエス様と神様の子である聖霊様、それなら聖書にはなぜイエス様に対して「ひとリ子」または「ひとり」という表現を使ったのでしょうか?まるで息子が一人であるかのようにです。しかし、皆さんが聖書において、イエス様に対してこのように「ひとり」という表現を使った御言葉を調べれば、まさにイエス様がこの地に救い主の資格で来られたことについて話す時に、使われたことが分かります。すなわち人間耕作の摂理の中で、私たちの罪の身代わりとなって下さるために、人の体を着て救い主としてこの地に生まれたイエス様を修飾する表現として、「ひとり子」という単語が使われたということです。例えば、ヨハネ3:16の御言葉一つだけ見てみると、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言いました。この御言葉は使徒の働き4:12に「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」という御言葉と対になって、私たちが信じて救われることができる唯一の名前は、ただ「イエス様」一人だけであることを言っています。
したがって、このヨハネ3:16の御言葉では、この地に救い主の資格として来られた神様の息子が、ただ一人だけだという意味で、ひとり子という表現を使っているという事です。もし聖書に救い主として来られたイエス様に対して、このようにひとり子という表現を使わなかったとすれば、イエス様以後にも多くの人が現れ、「私が救い主だ」と話すこともできたでしょうが、聖書はすでに救い主はただ一人イエス様だけであることを明確に記録しています。だからイエス様以外には誰も、自らを救い主と言えないことであり、信じる人々は決してそのような迷いに陥らないことができるのです。したがって、私たちはイエス様をひとり子と表現したことが、天でも息子がただイエス様一人だけいるという意味ではないことを知らなければなりません。
聖霊様もまた、主と同じように父の神様から分離して出てきた方で、主のように父の神様の息子の位置にいらっしゃる方だという事です。それで聖書は聖霊様に対して表現する時、「神の聖霊」という表現を使います。聖霊様はまさに父なる神様から来た方であることを明確にしているのです。このように聖霊様は主と同じように父なる神の子であり、独立した個体として実体を持っていらっしゃいますが、今日、信じている人たちが大部分この事実を知らずにいます。神様はある形の実体があると思いながらも、聖霊様は実体があると考えられないのです。しかし、聖霊様もやはり一つの個体として、聖霊の本体を持っていらっしゃるという事です。ただ、その姿がいくらでも変形することがあります。
今後、皆さんが父なる神様の根本の次元である四次元について学ぶことになれば、三位一体の神様は、心に抱く通りにその姿が変わることができるという事を、知ることになるでしょうが、聖霊様は働きの特性上、人々の中で色々な姿で働かれます。主はほとんどの場合、人の子の姿で見られるので、霊の眼が開かれた人々が主にお会いする時には、人と同じ形で見ることになります。反面、聖霊様は、本体の形状だけを着て現れるのではなく、時には鳩の形で、時には火や風の形でも働かれます。
本文のメルキデゼクのように、聖霊様が人の形で働かれた場合もありますが、聖霊様の働きはあまりにも多様で幅広いため、大部分が霊の分離を通して別れた色々な姿で働かれるのです。 このように聖霊様が分離して働かれる時は、それぞれの働きに合わせて形を変えたり、時には特定の形がなく働かれたりします。そのため、聖霊様が多くの働きをされたにもかかわらず、人の形、すなわち私たちのような人の形で感じる人はほとんどいません。たとえ聖霊様が人の形で現れても、当然神様や預言者として考えてしまうのです。だから今まで聖霊様の存在に対して多くの部分が隠されているしかなかったのです。

朝の学び110 創世記14章
創世記14:17-24
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」
シャレムの王メルキゼデクは果たして誰なのか?
それでは、神の一人子であり、神様と根本的に一つであるイエス様に匹敵する人物であるメルキゼデクは、果たして誰でしょうか?もしメルキゼデクが被造物の中の一人なら、どうしてあえて神様の息子であるイエス様に対して、メルキゼデクの位に等しいと言えるでしょうか?位とは先にも説明したように、職位、身分、等級の順番を意味しますが、神の息子であるイエス様が彼の位に等しいと言えるためには、メルキゼデクもやはり、神の息子であるイエス様に劣らない位置にいらっしゃる方でなければならないという事を、私たちは十分に知ることができるのです。
果たしてこのような方は誰でしょうか?父なる神様と主様と同等の隊列に立つことができる方なら、その方は当然、聖霊様であることが分かります。このように申し上げると、考えを働かされる方々は「本文に明らかに「シャレムの王メルキゼデク」と書いてあるのに、どうしてその方を御霊の神様だと言うのですか?」と反問されるかもしれません。私たちはここで「シャレム」の意味をよく知らなければなりません。「シャレム」がヘブライ語では、安全な、平和なという意味を持っており、肉的には後のエルサレムになる都市の地名を表しますが、霊的にシャレムとは神の国を意味します。
詩篇76:1-2によれば「神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。」とあり神様の仮庵がシャレムにあると言います。また、詩篇135:21には「ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。」と記されています。ここでもエルサレムとは、肉的な地名のエルサレムではなく、天にある神の城を意味する言葉で、エルサレムはヘブライ語で「平和の城」または「サレムの城」という意味を持ちます。したがってシャレムの王とは、神と等しい方であり、神の国を治められる方、すなわち、御霊の神のことです。それで、黙示録21:2を見ると、「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」このように天にある神の都エルサレムをこの地の都エルサレムと区分するために、新しいエルサレムと表現しています。
したがって「シャレムの王」とは単純にこの地上の都市を治める王ではなく、父なる神と同等な方として神の国を治める聖霊様を意味します。それでは、メルキゼデクがなぜ聖霊様なのかについて、もう少し調べてみます。ヘブル人への手紙ではメルキゼデクについて少し具体的に説明されています。へブル5:10によればイエス様に対して「神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」とあり、イエス様がメルキゼデクの位に等しい大祭司長になったことを言及しています。ところが、続く、へブル人への手紙5:11には「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」と述べています。つまり、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、メルキゼデクについて多くのことを知っていましたが、それを話したときに聞く側は霊的に理解しにくいので、言葉を慎んでいるのです。
ペテロ第二3:16に「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とある言葉のように、霊の知識がなく霊的な分別力がなければ、ややもすると神の言葉を誤って解いて、自分自身に滅びを招くこともありうるからです。
しかし、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、聖書を読む人たちに、霊感の中でメルキデゼクについて悟るように、へブル人への手紙7章にいくつかの手がかりを提供しているという事です。まずヘブル人への手紙7章4節に「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」としながら続く7節に「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と話しました。これはどういう意味でしょうか?
本文、創世記14:19-20節によれば、「彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」とあります。メルキゼデクがアブラムに祝福を祈ってあげていて、アブラムはこのようなメルキゼデクに自分が得たものから十分の一を差し上げています。ヘブル人への手紙7章では、まさにこの場面を説明しながら、「下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と言いました。当然、高い者が低い者に祝福を祈るということです。
ところがアブラムは将来、信仰の父であり、よみでも頭として、旧約時代には救われる魂が死ぬとアブラハムのふところに抱かれたことが分かります。また、神様の友と称えられるほど、神様の前に完全な人でした。彼の霊的な水準や天国での序列を考える時、あえて被造物として誰もが「それより優れている」「もっと高い」と言えるわけではありません。では、アブラムを祝福するほど高い位置にいる方なら誰でしょうか?さらにアブラムは、メルキゼデクに神様に捧げなければならない十分の一を捧げたとあります。十分の一というのが、まだ律法によって決まってもいない時でしたが、アブラムは心の主管を受けて、このようにメルキゼデクに十分の一を差し上げたという事です。これはつまり、アブラムはメルキゼデクがどんな方だということを知ったという意味にもなります。
へブル7:3では、メルキゼデクについて非常に決定的で重要な説明が出ています。「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」と言ったのです。それで、父も母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもないと言いましたが、この条件に合う被造物が果たしてどこにいるでしょうか?続くへブル7:24を見ると、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」と言い、主が持っている祭司長の職分が永遠であることを物語っています。そしてヘブル10:21には「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」と言い、主が神様の家を治める偉大な祭司だと言っています。ところが、メルキゼデクもやはり常に祭司であり、神様の子を彷彿させるということです。「彷彿」というのは目の当たりに見る思いをするという意味で、ヘブル書の著者がメルキゼデクをこのように表現したのには理由があります。
すでに「創世記講解」を通して霊的な言葉を聞いた方々は、聖霊様がどんな方であり、また三位一体の神様との関係がどうなのかを知っていますが、このような霊的な知識がない人に、仮に御霊の神についてはっきりわかるように言うなら、理解できないだけでなく、色々なとんでもない誤解を生むこともあります。それで、メルキゼデクを「神の子に似たものとされ」とだけ言って、正確な表現を避けたのです。しかし、このようにメルキゼデクについて明らかに悟っていたヘブル書の著者だったので、ヘブル1:6によれば「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」と、主を長子(firstborn)と表現しています。ここでなぜ主を長子と表現したのか、また主を一人子と表現した理由は何なのかについては次の時間に説明したいと思います。
結論
今日はメルキゼデクについて少し説明しましたが、おそらく霊的なことを考える方々は、今日の言葉を通してすっきりと解ける分野があったと思います。私たちが祈って聖霊の導きの中で悟るようになれば、深い霊的な分野に対しても聖書の中でいくらでも解答を見出すことができます。次の時間にもメルキゼデクについての説明が続きますが、皆さんが次の時間の言葉を聞くと、聖書を通してより明確に確証できるようになります。そしてお願いしたいのは、皆さんが霊的な言葉を聞く時は、決して人の考えや知恵を働かせてはいけないということです。
コリント第一2:12-13には「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」と語っています。したがって、神様の言葉を人の知恵の中で解こうとしたり理解しようとせず、神様から来た霊である聖霊様の導きを受けて悟って下さい。皆さんがこのような霊の知識を知り、霊の世界についても知ってこそ霊に入ることができ、三位一体の神様についても明らかにすることができるのです。今日の御言葉が皆さんに大きな能力になり、信仰になって、迅速に父なる神様が望まれる霊の人々として完全に出てこられますように主のお名前で祈ります。

朝の学び109 創世記14章
創世記 14:1-16
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
アブラムの神に対する信頼
甥のロトが、先に見た目に良さそうなヨルダンの低地全体を選んで去った後、カナンの地に留まり、平安と祝福の中で暮らしていたアブラムにある日、一人の人があわただしくやってきます。そしてアブラムに甥のロトが戦争の中、捕虜として連れて行かれたという知らせを伝えます。北方にある四つの国の王の連合した軍隊が、当時ロトが住んでいたソドムの地まで攻め込み、ロトと彼に属した所有の人々までも捕虜として、全財産と食料を分捕り物として持っていったのです。この知らせを聞いたアブラムは、すぐに自分の家で生まれて育て訓練した人々を従え、敵の軍隊を追撃していきます。この時、アブラムと一緒にいた人の数はそれほど多くありませんでした。自分のしもべ318人を招集して、また自分と同盟を結んでいたアモリ人の人を合わせても、四人の王が連合した敵の軍隊に比べると、その数が多いわけではありませんでした。
本文24節にも、アブラムと共に戦争に出た人の名前が、彼と同盟したアネルとエシュコルとマムレの3人だけが記録されています。しかし、アブラムはこのような数的な劣勢にもかかわらず、少しの躊躇もなく敵の軍隊を追いかけて敵を破り、甥を救ってきたのです。では、アブラムがこのように大胆に出て戦って勝つことができた理由は何でしょうか?アブラムは現実を見ずに、ただ信仰の目で眺めました。自分といつも共におられ、守って導いていかれる父なる神様への全面的な信頼があったので、アブラムは兵士が多い少ないにこだわらず、神様だけにより頼んで、大胆に出ていって敵と戦うことができたのです。
詩篇20:7に「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」と言われた通り、兵士が多いか少ないかというのは人の側では重要だが、神様の側では大きな意味がないためです。士師記7章を見ると、さばきつかさギデオンは彼に従うたった300人の兵士で、いなごのように大勢のミデヤン人やアマレク人や他の東の人々との連合軍を、大破したことが分かります。神様が知恵を与えて助けてくださるので、たった300人の兵士をもって、海辺の砂のように多くて数えきれない数の敵軍を、退けることができたのです。この時、神様がギデオンに与えた戦略が、まさに陣営を3つの群れに分けて夜に乗じて敵をかく乱させ、敵が自ら自滅させる方法でした。
創世記14:15に「夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。」とおっしゃった通り、アブラムもやはり敵を倒すために、神がギデオンに命じた方法と似た方法を使いました。ひたすら信仰を持って大胆に進み、敵と対抗して戦ったが、だからといって無条件に力だけで戦ったのではなく、このように神様の知恵を受けて、敵を打ち破ったことがわかります。まるでダビデ王があることを決める時に、ひとつひとつ父なる神様の前に尋ねて応答を受けたように、神の人であるアブラムもやはり、自分自身の力と知恵を頼ったのではなく、父なる神様の前に尋ねて道を導いてもらったのです。
アブラムの善良な心
前回、アブラムが甥のロトを救う姿を通して、彼の善良な心をもう一度感じることができると言いました。自分の甥に対して最後まで責任を取り、自分ができる最善を尽くす善の心です。アブラムは甥のロトから何かの恵みを受けたわけでもなく、むしろ大きな恵みを与えた立場であるにもかかわらず、恵みを与える心が変わらなかったのです。ところが、今日は恵みを受けた人の側でも、どれほど簡単に恵みを忘れて変改してしまうのでしょうか。私たちはダビデ王の場合を通して、一度恵みを受け愛の心を受けた人に対して、どのようにするのが真理なのかを見ることができます。
ダビデにはヨナタンという親しい友人がいましたが、彼はまさに自分を殺そうとしたサウル王の息子として、サウルの後を継いで王になる人でした。ヨナタンの立場から見れば、ダビデはヨナタン自身が得るべき王位を、代わりに占めることになる人だったにもかかわらず、ヨナタンはこのようなダビデをとても愛していました。サムエル第二1:26にダビデが告白する「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。」というほど、二人は互いに愛し合う仲でした。そしてヨナタンはダビデを殺そうとする父サウル王から最後までダビデを保護し、助けてあげました。
このような恵みと愛を受けたダビデもやはり、後日王になった時以前に受けた恵みを決して忘れなかったという事です。王になったダビデは、すぐに恩返しの方法を見つけました。ヨナタンはすでに戦争で死んだ後だったので、サムエル紀第二9:1によれば「ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」」と言ったのです。こうして見つけたのが、ヨナタンの息子、メフィボシェテでした。メフィボシェテはヨナタンの息子でしたが、同時に自分を最後まで殺そうとしたサウル王の孫であり、ヨナタンが死んだ状況ではサウル王の後を継いで、自分の王位を狙うこともできる人でした。だから王位を堅固にしなければならないダビデ王の立場では、警戒しなければならない人物で、場合によっては跡継ぎをなくすためにも、いくらでも殺すことができる人でした。しかしダビデ王はこのようなメフィボシェテをあまりにも手厚くもてなしてあげます。
サムエル記第二9:7に「ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」」と言ったのです。彼の祖父サウル王の所有だった畑をすべて返すということだけでも、彼にはあまりにも過分な仕打ちだと思いますが、ダビデはメフィボシェテに自分と同じテーブルで食事をする恩寵まで施したのです。それでサムエル記第二9:11の後半節に「メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。」と言っています。
もちろんダビデ王がヨナタンの生前に、彼から何度も助けられて恵みを受けたが、ダビデ王はこのように一度恵みを受け、また心の中心で愛したヨナタンに対して、彼が死んだ後でも彼の子孫を通して、最後まで恵みを返そうとする善良な心を持っていたという事です。人々の中には実際に恵みを受ける時は頭を下げて、「ありがとうございます。この恩を絶対忘れません。恩を必ず返します。」 このように言っていても、後で時間が経って自分の状況が悪くなれば、いつそうだったのかのように恵みを忘れる人々が多いです。しかし、ダビデはそのような人々とは全く違う、真理の善良な心が臨んでいたのです。
アブラムの場合は、なおさら甥のロトからどんな恵みを受けたわけでもなく、ハランを去った後、常に世話をしながら恵みを施してきたにもかかわらず、このように甥のロトが大きな困難に直面することになると、再び自分の身を惜しまずに彼を助けに駆けつけたのです。神様はこのように善良で美しい心を持ったアブラムといつも共におられ、守って導いていかれました。皆さんもまさにこのような心だけを持つようになれば、誰もが神様から愛されるようになり、祝福されるようになるという事です。
アブラムとメルキデゼクとの出会い
本文を見ると、ソドムの王が敵の連合軍を破り、すべて奪われた財産と、自分の甥であるロトとその財産とまた婦女と民を取り戻してきたアブラムを迎えます。ところが、前後の状況の説明もなく、突然シャレムの王メルキゼデクが登場しています。では、なぜここにメルキゼデクとの出会いが突然記録されているのでしょうか?この中には大きな霊的な秘密が込められていますので、一つ一つ説明していきましょう。本文18節によればメルキゼデクについて「いと高き神の祭司」とあります。ところが、実はイスラエル民族で祭司という職分が正式に登場し始めるのは、アブラハムの時代からかなり後のモーセの兄アロンからでした。神様はヤコブの12人の息子たちの中で三番目だったレビの系図の子孫の中でアロンを始め、彼の子孫たちに祭司の職分を遂行させたのです。 ところが、このように祭司の職分が生まれるずっと前に、今日の本文には祭司という職分が登場しています。
使徒パウロはまさにこれについてヘブル7:10で説明するとき「というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」と話しています。つまり、極めて高い神様の祭司メルキゼデクがアブラムに会ったその当時、祭司が輩出されるレビ族の先祖であるレビはまだ生まれてもいないということです。これはつまり、メルキゼデクは肉的な系図を追って立てられた祭司とは異なり、彼に祭司という職分が与えられたのには何か特別な理由があることを示しています。
ヘブル7章11節ではこれについて、「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです。―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。」と述べています。「位」とは、ある集団での地位、身分の上下関係などを意味します。ここでメルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司とは、大祭司でありながら、自分を神様の前になだめの供え物として捧げ、ただ一度で神と私たち人類との間にあった罪の隔ての壁を壊してくださったイエス様を指すのです。
続くヘブル7:15-17では、「もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」」とあります。イエス様はメルキゼデクの位に等しい祭司として、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのですと言われました。イエス様がレビ部族ではなく、その流れではないユダの子孫として生まれ、私たちの大祭司になられた根拠が、まさにメルキゼデクから探しているのです。詩篇110:4にも将来この地に来られるメシヤの神イエスについて預言していますが「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」と述べています。

朝の学び108 創世記14章
創世記 14:1-16
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
アブラムの善良な心
アブラムは祝福を受け、かなりの勢力を持っていたとしても、いざ甥のロトが北方の連合軍によって捕虜になったという話を聞いた時、肉的に考えてみれば快く気軽に出られる状況ではありませんでした。北方の王たちの連合軍が、すでに周辺の様々な国と属国を次々と攻撃し、勢いに乗っていた時に、アブラムが連合軍を相手に戦争を遂行するということは、決して容易なことではありません。しかし、アブラムは肉的な状況を見たのではなく、すべてを信仰の目で見つめ、ロトに対しても最後まで道理を尽くす善良な心でした。もし邪悪な心を持った人だったら、「それを見ろ、良いものを先に選んで行って、結局そのような災いに遭ってしまったんだ」と、ただ知らんふりをすることもできたでしょう。また、すでに自分の方ではできる道理を尽くしたと考え、責任がないとそっぽを向くこともあるのです。ここまでは考えなくても、しぶしぶ甥っ子を助けに行く人もいるでしょう。
アブラムには悪の心が全くなかったので、どうしても甥のロトを救わなければならないという善良な心で、すぐにしもべを従えて駆けつけました。自分は抜けたまま、しもべだけを送ったわけでもなく、「こんな戦争の渦中に私がここを去ったら、私の天幕はどうなるのか…···」と、自分の所有を先に心配したわけでもありませんでした。自分の所有については振り返る暇もなく、自ら先頭に立って軍を率いていきました。アブラムには何の邪心もなく、たとえロトが自分の利益を追って自分から去っていったとしても、一度自分に属した人に対しては、最後まで責任を果たそうとする善良な心があったのです。ここで私たちは神様の心を感じることができます。
ヨハネ13:1によれば「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と記されているが、これはまさにイエスが自分を売るユダに対してまでも、最後まで愛の心を抱いていたことを物語っています。イエス様は、イスカリオテ·ユダが時がくれば自分を売ることを知りながらも、「彼は私を裏切って売る人だ」と、彼を遠ざけて憎んだのではなく、最後の瞬間までも愛と哀れみの心で彼に接して下さったという事です。イスカリオテ・ユダだけでなく、将来イエス様を知らないと3回も否認することになるペテロに対しても、またイエス様が十字架を負う時になれば、恐怖で散ってしまう他の弟子たちに対しても、イエス様は最後まで愛を注いでくださいました。このような主の心のように、アブラムもまた、ロトが一時自分の利益を追って自分を去ったからといって、それによっていかなる感情も抱かなかったのです。ロトを先に理解してあげる気持ちで、たとえロトが遠く離れていても、いつも彼に気を配って、いつでも助ける気持ちを持っていました。
私もこのような神様の心を成し遂げようと努力し、今まで過ごしてきた歳月を振り返ってみると、いつもこのような気持ちで行ったと申し上げることができます。単純に自分の利益だけを追う人だけでなく、裏切って去って悪を行った人々までも、私はいつも彼らに善で接し、憎む心を全く持ったことがありませんでした。彼らの中に災いに遭ったり、試練や患難によって苦痛を受ける人がいるという便りでも聞くと、私の心もとても痛くて残念でした。また、特別に神様が私のそばに付けてくれて、私を助けるようにした人々に対しては、いつも彼らの細かいことまでも調べて、私の方で先に彼らに必要なもので満たしてあげたりしました。たとえミスがあって過ちがあったとしても、私はいつもそれを許して覆ってあげ、彼らがもっと力を出して果たすことができるように、最後まで愛で接してきました。主がご自分に属した人々に対して最後まで愛と善で接したように、アブラムが甥のロトに対していつも気を配って責任を負おうとしたように、私もマンミンという名前で一つになった皆さんをいつも私の心に抱いて祈っています。
アブラムの私心のない心
さらに本文22-24節を見ると、アブラムがどれほど私心なくきれいな心で戦争に出たかがよく表れています。アブラムが戦争に出て勝利し、奪われたすべての所有物を探して帰ってくる時、ソドムの王がその前に出て「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」と言うのでした。 これに対してアブラムは、「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」と言ったのです。
アブラムは戦争の勝利者であり、ソドムの王に大きな恵みを与えた者として、戦争で得た戦利品を取るとしても、これが決して悪の心から始まったわけではありません。さらに、ソドムの王が直接自分からアブラムを迎えに来て「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」と言ったので、アブラムが戦利品を取るからといって、これが非真理の心ではないということです。それでもアブラムは、自分に入ってくるいかなる私益も取ろうとしませんでした。ある財物に対する欲や私的な利益を求めようとする非真理の心が彼には全くなかったからです。
また、彼はすべての祝福を父なる神からだけ受けようとしました。人の側で自分の利益を追って富を築いていくのではなく、魂が幸いであるときに、上から父なる神様から与えられる祝福だけで富を築いていったということです。ところが、アブラムがこのようにソドムの王の提案を断ったのは、人の心をあまりにもよく知っていたからです。人の心というものが真理に変化する前には、いつでも自分の利益を追って変わっていくという事をアブラムはよく知っていたのです。つまり、ソドムの王が今すぐにはアブラムに感謝し、嬉しい気持ちですべての物品をアブラムに渡そうとしたが、後で歳月が過ぎれば、その心に財物に対する欲心によって違う話をすることがあるからです。
例えば、「自分は望んでいなかったが、アブラムが代価を望んだので与えた。」このように話す言葉が出てくるかもしれないということです。アブラムがこのような人の心を知っていながら、どうしてソドムの王の提案を直ちに受け入れることができるでしょうか?「若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」ただ戦争に動員された若者たちの糧と、自分を助けた同盟軍に返す分け前の他には、どんなものも取らなかったのです。ここで私たちは、自分を助けた人々に対して責任を持って苦労に報いようとするアブラムの配慮する心も、十分に伺い知ることができます。次回は、これまで見てきたアブラムの肉的な祝福とは比較にならないほど、あまりにも大きな霊的な祝福であった神秘の人物、メルキゼデクとの出会いについて見ていきます。
結論
アブラムは心に少しの私心や欲がなかっただけでなく、人の心までも十分に推し量ることができたので、ある選択をするにあたって常に正しい道を追い、善の知恵を受けました。それで、創世記23章を見ると、アブラハムは後日、妻のサラの埋葬地を求める時も、埋葬地の洞穴をただで渡すというヘテ人の提案をそのまま受け入れたのではなく、あえてそれに該当する相当な値段を払って埋葬地であるマクベラの洞穴を手にしたことが分かります。もしアブラハムが与える通りに全て受け取ったとすれば、その後に多くの困難を経験したでしょう。これは彼の心に少しの欲もなく、正当でないものを受けようとする心もなかったためであり、またこのように値段を払って確実に自分の所有にすることで、後日その所有に対していかなる是々非々もないようにしようとしたのです。
皆さんもこのことをよく知って、すぐにいい提案が入ってきたということで、それを絶対に取るような姿はお控えください。さらに、相手が真理に変化した人でなければ、自分の利益を追っていつでも言葉と行動が変わることがあるということを、常に真理で分別しなければならないのです。また、自分が苦労して頑張った以上を受けようとする、欲の心も捨てなければなりません。常に正当な代価だけを望むべきであり、それから行き過ぎたことはいくら良いことでも、慎んで断るのが当然の道理です。
箴言22:1に「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。」という言葉のように、財物よりも名誉を、銀や金よりも愛顧を選ぶべきだということです。そして何よりも、すべての祝福は父なる神様からもたらされるという事を必ず心に留めておいてください。人の知恵と方法で祝福を受けるには、どうしても肉的な限界があり、またそれがいつ消えるか分からないからです。ただ神様から来たものであってこそ、それが永遠のことであり、この地だけでなく天にも祝福で積むことができます。今日お聞きになった御言葉が知恵となり能力になって、常に正道を追いながら善の道を選ぶことができる皆さんになることを願います。そんな時、箴言5:21に「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」という御言葉のように、すべての人生の道を主管する父なる神様が善の道、義人の道を追う皆さんの行く道を、常に守り保障し、祝福に導いていかれますように、主の御名によってお祈りします。

朝の学び107 創世記14章
創世記 14:1-16
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。
はじめに
創世記13章ではアブラムとロトが別れて、それぞれの住む所に行くことになる過程を見てみました。アブラムは相手に良いものを先に譲るという広くて善良な心で行っていったが、一方ロトは自分の見る方にもっと良いものを選んで自分の利益を追っていってしまったのです。創世記14章には、このようにそれぞれ霊と肉を選んで去ったアブラムとロトが、その後にどのような結果が出るのかがよく出ています。肉を追っていったロトは戦争に巻き込まれ、大きな災いの中に陥ることになりますが、霊を追ってきたアブラムは肉的な祝福はもちろん、極めて高い神様の祭司であるメルギゼデクに出会うという、驚くべき霊的な祝福まで受けることになります。
神様の声を聞くことができず、導かれることができないまま、自分の見た目に良いように肉を追った結果は、多くの困難に遭うことになり、絡み合った状況に陥ってしまいました。反面、善の中で神様の導きを受けた結果は、神様の守りと保護の中で、富と名声まで得る幸いな結果として出てきたのです。
肉を追うロトと霊を追うアブラムの違い
本文1節に出てくる「時代」とはバベルの塔の事件以後、人々が言語と種族によって散らばって暮らしながら、それなりに勢力を育てていた時を言います。そのため、当時はそれほど広くない領土の中に数人の王がいて、それぞれ自分の領土を管轄していたことが分かります。彼らは自分の勢力をさらに育てるために、時には利益を求めて互いに連合したり、時には互いに戦争をしたりしましたが、本文の背景も北方に住んでいた四人の王の連合軍とソドム、ゴモラを中心とする五人の王の連合軍との戦争から始まります。
当時、ソドムとゴモラをはじめ、カナンの地境を占めていた王たちは、この戦争に敗れ、北方の王たちの中でもエラムの王ケドルラオメルに12年間仕えるようになりましたが、13年になると裏切るようになります。そして、そのケドルラオメルと彼と同盟した王たちは、再び連合軍を構成し、破竹の勢いでカナンの地境に向かって降りてきます。レファイム人、ズジム人、エミム人、ホリ人を順に打ちながら降りてきます。そして再び方向を変え、アマレク人とエモリ人を攻撃した後、ついにソドムとゴモラの王をはじめとする5つの王の連合軍まで敗北させてしまいます。
本文の11-12節に「そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。」とあるとおり、ソドムの王が北方の四つの王に敗れた時、当時ソドムの地に住んでいたロトに災いが降りかかったのです。それでは、このように北方の四人の王の連合軍によってカナンの地境と周辺一帯がほぼ占領された状況で、アブラムは果たしてどうなったのでしょうか?
本文13節に「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。」とあります。これは、おびただしい戦争の渦の中でもアブラムは安全に守られていたし、戦争によっていかなる被害も受けていないことを物語っています。当時、アブラムが住んでいた場所は、エモリ人のマムレの樫の木の近くでしたが、先ほどお話しした通り、エモリ人までも北方の四人の王の連合軍によって害を受ける状況でしたが、近くに住んでいたアブラムは守られていたという事です。さらに、アブラムは滞在していた地域はもちろん、周辺で影響力を行使している人々と親交を深め、同盟していたことが分かります。
アブラムは戦争の渦中にも完全に守られただけでなく、周辺の勢力とも良い関係を維持し、自身の勢力を育てていくことができたのです。では、アブラムはどのようにして周辺の勢力とも円満な関係を維持することができたのでしょうか?これは、アブラムが神から守られ、保証される人だったからであり、常に仕える人だったからです。私たちは本文の御言葉を通して、当時のアブラムがエモリ人の人々と非常に近くに住んでいたことが分かりますが、この時、エモリ人の立場では、異邦人のようなアブラムとどうして最初から素直に良い関係を結んだのでしょうか?周辺の異邦民族がアブラムをどうすることもできなかった理由は、彼と共におられる神様を見たからです。
以前、エジプトの王に妻のサライを奪われた時に、彼がどうやって妻を探すようになったのか、噂に噂が加わったはずで、そうしながら周辺の人々も自然にアブラムと共にしながら、彼を守る神様について聞くようになりました。また、アブラムを保証しながら祝福する神様の御手を彼らも感じることができました。そのため、簡単にアブラムに触れることができず、むやみに接することもできなかったのです。アブラムはこのような状況でも、いつも周りに仕え、配慮する心でした。「私はこのように神様から守られる人だ。」と、周辺の異邦民族を無視したり、ぞんざいに接するのではなく、善良な心の中心から常に先に相手に仕えて施したのです。周りの人たちもこのようなアブラムに良い感情を持つようになり、お互いに力になってあげる関係に発展するようになったのです。
アブラムの受けた祝福
14章24節 「ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」を見ると、アブラムが甥のロトを助けに出征する時に、アブラムには自分が育てて訓練した者300人だけでなく、アネルとエシュコルとマムレもいたことが分かります。彼らはアブラムと同盟を結んだ人々で、戦争という危険な状況でもアブラムを助けるほどアブラムと強い関係を持っていたという事です。だから、アブラムが普段どれだけ周辺に仕えたかがよく分かることであり、またアブラムを保証して共にする神様が、アブラムの周辺の人々にもどれほどよく働かれていたかが分かります。このようにアブラムがいつも周りに仕えていたからといって、これが彼の力が弱かったからそうしたのではありませんでした。肉的に見てもアブラムには周りの人たちがむやみに接することのできない力と富があったことが分かります。
このような事を裏付ける内容が14-16節に出てきます。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。」アブラムが三百十八人の勇士をしもべとして従えていたということは、その他にもどれほど多くの人々がアブラムに属していたかをよく表しています。勇士たちと一緒にいる家族や、その他の必要な人材まで考えると、この時アブラムがどれほど大きな集団を成して大きな勢力を持っていたかが分かるのです。だからアブラムがどれほど大きな祝福の中で富と権勢を享受して暮らしていたかが分かります。アブラムはこのように心強い基盤を形成し、神様がくださる祝福を思う存分受けていったので、多くの異邦の民族の間でも彼らと肩を並べて生きていくことができました。
ここで私たちが一つ悟らなければならないことは、アブラムは人の側でする道理もやはり全てをする人だったという事です。もちろん、アブラムがこのように大きな勝利を収めることができたのは、何よりも神様を全面的に信じて頼りにしたからですが、それでもアブラムは人の側ですることを決して疎かにしませんでした。「神様が守ってくださるだろう」と自分がしなければならないことを疎かにしたのではなく、自分自身も熱心に人々を育て訓練し、自身と自身に属した所有を守ることを疎かにしなかったということです。
ところが、たまにある方々は、神様の前に信頼を示すと言いながら、人の側でしなければならないことまでもしないまま、無条件に「信じます。」というケースを見ることがあります。例えば事業の場で祝福を受けることを望む方が、事業の場の世話をすることは疎かにしたまま、神様の前に「祝福して下さると信じます。」と祈るなら、これは公義に照らしてみても当たらないものです。人の側から見て回ることができるのは、あちこちを見て回って、肉的にも隙間なく仕事をしていかなければならないのです。もちろん神様の仕事で忙しくて、事業の場や仕事の場を世話できない場合もあるでしょうが、だからといってこういう場合、「知らない」と自分のすべきことまでしないならば、これは正しい信仰の姿勢とは言えません。
普段から分野をよく見て、時には自分が席を外しても仕事がうまくいくようにしておかなければならず、必要な時は、自分の代わりに信じて仕事を任せられる人を育てておくことも重要なことです。だから神様の前に信仰で委ねると言って、人の方でできることまでしないまま、口だけで「信じます」と言ってはいけないことですし、人の側でやるべきことはやるべきです。人の側ですることまでしなければ、これはまるで柿の木から柿が落ちることだけを待つ、愚かな人だと知らなければなりません。しかし、アブラムは人の側ですることに対しても常に最善を尽くす人だったので、神様がくださる祝福をよりよく管理することができ、必要な状況に直面した時に、いつでも使える人たちもよく準備ができていたので、直ちにロトを救うために出征することができたのです。

朝の学び106 創世記13章
創世記13:10-18
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。
アブラムに与えた祝福
14-15節を見ると、ロトと別れたアブラムに、神様からの祝福の言葉が出てきます。「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」とおっしゃったのです。この御言葉の中には、すでに神様の計画の中に、将来アブラムの子孫として出てくるイスラエル民族を通して、どのように働いていかれるのかが含まれています。アブラムに至るまで受け継いでこさせた正統の系図を通して、選民イスラエルが出てくることになり、神様は彼らをすべての民族の上に優越して立てることで、彼らを通してすべてに完全で優れた主の名前を、人々の心に鳴り響かせるということです。イスラエル民族を通して、世界の万国の民に神様を知らせながら、計画された人間耕作の摂理を成し遂げようという意味が込められているのです。
このような遠大な計画と摂理を成し遂げるために、神様が選ばれた人物がアブラムだったのであり、神様はアブラムにそれだけ大きな愛と祝福を約束してくださっているという事です。彼に与えた祝福の誓約が、単にアブラム個人だけに該当するのではなく、将来出てくることになる選民イスラエル全体に対するものなので、祝福の誓約はそれだけ大きくて遠大だったということです。そして、一度与えられた祝福の約束は、この世が終わるまで永遠のものなので、神様は最後の時にもう一度聖霊の火のような働きを通して、福音がイスラエルに回帰させることで、アブラムに与えた約束を成就していらっしゃるということです。
「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」13章15節の言葉が、単に肉に見える地を永遠に与えるという意味ではなく、彼らに向けられた救いの摂理までも含む霊的な意味の約束なので、神はその約束を成し遂げようと、選民イスラエルを通して救い主が出るようにしたのであり、もう一度、聖霊の働きを通して父の摂理を示しているということです。続く16節では,より具体的な契約の言葉が宣言されます。「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。」と言われましたが、最初アブラムを呼びながら、創世記12:2に「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」という言葉がどのようになされるのかをおっしゃっているようです。
人としては地のちりを数えることが不可能なことであるのと同様に、アブラムの子孫も多すぎて数えることが不可能なほどであるという意味が、まさに16節の御言葉に含まれているのです。「数えることができれば」と言われたのは、「もし数えるなら」という意味で、結局は数えられないことを強調することでしょう。ですから、この御言葉の中には、将来アブラムを通してどれだけ多くの子孫が出てくるかがよくあらわれています。ここで言われる「子孫」とは、肉の系図を追う子孫ではなく、信仰で従っていく信仰の子孫です。アブラムは将来、諸国の信仰の父としてすべての信仰の父になるので、今日に至るまで信仰によって救われたすべての人はアブラムの子孫になるのです。アブラムは、信仰によって救われる人が出るたびに、信仰の中で父となる栄光を世界の終わりまで受けるようになります。このように、信仰の父という立場がどれほど栄光の場所であり、どれほど貴重な場所なのでしょうか。神様がアブラムに与えられた約束の言葉は決して小さな祝福ではなく、人間耕作の歴史の中に一度だけある、空前絶後の祝福の契約です。
しかし、祝福の約束はその当時のアブラムに与えた約束ではありません。彼がこれから通過しなければならない訓練までもすべて通過した後に、父なる神様の前に完全な者として出てきたときに、初めて彼を通してなされる約束なのです。しかし、神はアブラムがこれからのすべての訓練を通過し、完全な信仰の父として立つことを知っていたのでこの言葉をくださったのであり、アブラムもやはり一度神様がくださった言葉をひたすら信仰で固く掴んでいったので、この約束の言葉は一寸の誤差もなく叶うことになります。13章18節「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。」アブラムが驚くべき約束の言葉を受けた時も、神様の前に祭壇を築いたので、神様との間の約束を確証しました。前にも申し上げたように、アブラムはただ唇だけで神様に感謝したのではなく、このように神様の前に祭壇を築いたので、神様がくださった契約を完全に自分のものとして受け取ったという確証が神様との間にあるのです。
アブラムの告白
その当時、アブラムが神様の前にさしあげた告白をしばらく紹介します。「父よ、すべてのことの根本である方、すべてのことにおいて完全であり、すべてのことを主管しておられる、父なる神様の御前にひれ伏し賛美をお捧げ致します。小さく低き者であり、何ものでもない存在のわたしでしたが、父がわたしを愛しわたしを選び、わたしをその心に抱いて完全な者として成し遂げて下さり、唯、父の栄光の為に生きるようにして下さり感謝申し上げます。わたしに多くのことを約束し、それを忠実に守られ、この息子を通して父の永遠のご計画、そのご意思を完全に成し遂げるよう導いて下さり、心から感謝と栄光をお捧げ致します。」
この告白の中には自分を選んで完全に整え、神様の摂理のための道具として使われるようにする父なる神様に対する感謝と畏敬、そして神様の誠実な約束に対する中心からの信頼が込められています。皆様の人生の中でも毎日このような称賛と告白が溢れますように主の名前で祈ります。このように祝福の道に入るアブラムとは異なり、肉を追っていったロトがそれによって体験する苦痛の過程については、次の時間に続けて説明することにします。
結論
私たちが人生の中で一瞬一瞬、父なる神の前に感謝する条件はあまりにも多いです。また、必ずしも個人に直接与えなかったとしても、祝福の約束は講壇を通して常に宣布されています。それを自分のものにして信じていけばいいのです。それで、私は父なる神様がある祝福の御言葉をくださった時、いつも私への御言葉として信じて受けました。実際に現実には見えるものが一つもない時も、誠実な神様の御言葉を信じて変わらない心で最後まで行っていった時、神様は必ずおっしゃったことを叶えてくださいました。
それでは、皆さんはどうですか?「目に見せてくれないと信じられない」という方がいらっしゃいますか?「手のひらほどの雲でも見えれば信じる」とおっしゃる方はいらっしゃいますか?エリヤ預言者が3年半の日照りの中で雨を引き降ろすために祈りに行ったとき、彼は雲が見えて祈りに行ったのではありません。何も見えない中でも信仰で出て行き、そうした時に神様が手のひらほどの雲を送ってくれました。
アブラムも同じです。彼の子孫が地の塵のように多いことをおっしゃった時に、彼に息子がいたわけではなく、息子が産まれる約束があったわけでもありませんでした。また、東西南北の見える地を与えるというお話も、今すぐ目に見える実があったわけではありません。アブラムが神様から多くの祝福を受けていくとはいえ、目に見える四方の地を取っていくには、まだ彼の力が足りない時でした。
このようにエリヤやアブラムは現実に何も見えない状況でも、神様の御言葉を信仰として受けたので、神様は結局彼らの信仰通りに働いてくださったという事です。ですから、皆さんはヘブル11:1に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」という言葉のように、望むことが実状として現れ、見えないものが証拠として現れるまで変わらない心を守っていくことを願います。このような霊的な真の信仰を所有することにより、皆さんの人生の中で「あなたの信仰通りになる」という御言葉が日々成就していきますように主の御名でお祈りします。

朝の学び105 創世記13章
創世記13:10-18
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。
はじめに
創世記講解を通して、信仰の父アブラハムは、果たしてどんな心を持っていたので、神に愛され、保証された偉大な人物として出てきたのかを見ています。過去の時間には、アブラムとロトの姿を通して大きな器と小さな器の違いについて調べてみましたが、アブラムは穏やかさと一緒に寛容と柔和の心によってすべてを抱くことができる大きな器だったと伝えました。私の所有、私の立場だけを考えるのではなく、私の周りのすべての人と私によって、周囲に及ぼされる影響までも考える広くて大きな器を持つアブラムだったので、彼は自分の既得権をあきらめてまで甥ロトに先に良いものを選ぶ機会を与えます。
甥のロトに「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。」という感動的な善の告白が出たのです。皆さんもこのような状況で、アブラムのような告白が心の中心から出ることができるでしょうか?マタイ5:39-41に、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」とおっしゃったように、皆さんも心の中心で喜び、このように行なうでしょうか?
皆さんの人生の中で「私は果たしてどんな姿なのか?」振り返ってみると、この質問に対する答えが出てきます。皆さんがとても欲しいものがあるのに、皆さんは我慢してそれを手放そうとした時に他の人が来てそれを手にしたとしましょう。この時、皆さんの気持ちはどうですか?私がいくらでも先に取れるものを他の人が取ったとしても、まったく寂しがったり、感情を抱かずに一緒に喜んで与えたりすることはできますか?また、こうすれば私が損をすることは明らかなのですが、相手は私にそれを要求します。相手が自分のほうに有利な方に引っ張ろうとするのです。この時、皆さんは明らかに損をすることだと知りながら、相手の利益を先に与えてあげられますか?二つのうち一つを先に選ぶ機会が来たとき、皆さんは躊躇せずに良いものを先に選びますか。それとも他の人の立場までも考えてみますか?皆さんの人生の中で、このような状況と選択の瞬間は頻繁に訪れるでしょう。それなら、この時皆さんは「私はアブラムのようにすることができます。」と大胆に告白することができますか?
心では成し遂げず、頭に知識だけで知っているからといって、真理として行えるわけではありません。実際に自分の利益がかかった現実に接すると、心の中にあるものが出てくるので、本当に心が霊になったときだけが、心の中心から湧き出る心で真理を行うことができるのです。たとえ心からではないが行いだけでするとしても、心の中心を見てくださる神様が、それを受けることもないのです。ですから、「こうしなければならないのだなぁ」と頭で知ることで自分を評価するのではなく、皆さんの人生の中で実際にどんな選択をしているのか、自分の姿を謙虚に点検してみてください。それで、足りない部分を発見し変化することで、皆がアブラハムのような大きな器に出てこられますように主の御名で祈ります。
肉に従いアブラムのところを去ったロトの結末
私たちが本文を通してもう一つ悟らなければならない点は、何を選択しても肉でしてはいけないということです。ロトは自分に先に選択権が与えられると、肉に従っていったのを見ることができます。この時ロトがもし神様の前に祈って導きを受けたとすれば、たとえその心に神様がご覧になるのにふさわしくない部分に対しては、訓練を受けるだろうが、災いだけは避けることができたでしょう。しかし、ロトは自分の欲通りに肉に従っていったので、神様から守られることができませんでした。箴言5:3-7を見ると、自分の見た目に良いとおりに肉に従っていった人の結果について出ています。「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。子どもらよ。今、私に聞け。私の言うことばから離れるな。」
まさにロトもすぐに自分の見た目に良い方を選んだのが、まるで蜜のように甘く、油よりもなめらかな、みだらな他国の女の唇を追いかけたこととなり、後で途方もない災いにまでつながってしまったのです。したがって、私たちはある選択をするときに、常に霊として考えなければならないことであり、祈って聖霊の導きを受けなければなりません。教会の中で何かを成し遂げる時もそうですし、世で事業や仕事を成し遂げる時も同様です。そうでなくて肉を選んで決めていった時は、訓練が従うようになり、苦痛を受けることになるという事です。
ところが、本文10節で非常に興味深い事を見つけることができます。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」ロトが選択しようとしたヨルダンの方を、主の園のように、またエジプトの地のようだったと言いました。では、ロトが選んだ豊かで見栄の良い土地を、なぜエジプトの土地と比較したのでしょうか?
今日のエジプトを考えると、たいしたことはないように見える土地ですが、アブラハムの当時、エジプトの土地がどれほど豊かな土地だったのかがわかります。前に創世記の講解で申し上げたように、アダムが罪を犯す以前にエデンの園に住んでいた時も、アダムは私たちが住んでいるこの土地を頻繁に訪れていましたが、その時一番好んで訪れていたところがエジプトの地だったと言いました。エジプトの地は、エデンの園に住んでいたアダムが見るときにも、異国的な趣とともに美しい環境によって彼の心を引くほど魅力的な土地でした。
それでロトが選ぼうとしていた土地が、当時としては水が豊かで、肥えていて肥沃な土地だったので、今そこをエジプトの地にたとえているのです。これは、エジプトの地が今日のように砂漠化する前にはどれほど美しい場所であり、さらに遠い昔はどれほど水が豊かで肥えた土地であったかをよく教えてくれています。エジプトの地はアダムから最も愛されるほど美しく豊かな土地だったという神様のみことばが、今日の本文のみ言葉を通してもう一度確証されています。このように豊かで見事なヨルダンを選んでアブラムを離れたロトは、ついにソドムの地までたどりつきます。肉の考えを働かせて自分の見た目に良いものを選んでいったロトは、将来やってくる災いに気づかないまま、ますます深い苦しみのどん底に落ちてしまいました。
本文13節を見ると、「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」と言うほど、ソドムの土地は罪で染まった所であったにもかかわらず、神様の導きを受けられないロトは、そのような所に向かってさらに深く入っていたのです。創世記18章と19章を見ると、ソドムが神の前にどれほど悪を行っていたかがよく出ていますが、ユダの手紙1:7には「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」と話しています。当時、ソドムは霊的な姦淫と偶像崇拝に浸っており、その影響により、享楽的で退廃的な雰囲気の中で神様の目に大きな悪を行っていました。バベルの塔の事件以後、民族と言語が分かれてバラバラになった人々はそれなりに集団を形成して生活していくようになりました。その中には、神様の選びの中で系図を継承しながら、神様を畏敬する正統性を維持するところもありましたが、逆に神様の存在さえ忘れて情欲を追い、偶像崇拝と享楽に陥って暮らすところもありました。代表的なところがまさにソドムだったのです。そしてロトは肉を追っているうちに、このようなソドムにまで至ったのです。
一方、アブラムはどうでしたか?甥のロトに対して最後まで善を行ったアブラムは、ロトが彼を去った後、むしろより大きな祝福の中に出ていくのを見ることができます。ロトがアブラムを離れると、ロトはますます困難の中に陥りましたが、アブラムはますます大きな祝福を受けていきました。 これは逆に考えてみると、アブラムはこれまでロトと一緒にいることによって、より大きな祝福を受けることもできずにいたということになります。これはどういう意味でしょうか?例えば、ある家庭の中に神様の目には愛らしい人がいるにもかかわらず、その家庭全体で見れば祝福を受ける器にならないので、より大きな祝福を受けられない場合があります。もちろん愛される人に対しては個人的に祝福をくださるが、家庭全体に祝福を与えることは出来ないということです。このような場合、むしろ個人が独立をすることになれば、その後に神様が個人的にもっと思う存分、祝福を与えることができるのです。
これは他のすべての分野でも同様です。神様の前に合わない人とあることを共にする場合、それによって私が受ける祝福も阻まれる場合があるのです。ですから、コリント第二6:14に「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」と言われるのです。アブラムの場合は、一緒にいるロトが神様を知っているとは言え、ロトには神様の前に合わなかった分野があったので、神様はこのようなロトがアブラムを離れた後に初めて、アブラムにもより大きな祝福として働らかれたという事です。ところでロトが普通の人よりも劣る人ではありませんでした。それでも叔父アブラムのそばで見て学んだロトだったので、ペテロ第二2:8を見れば、「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」と言われた通り、それなりに神の義の中に住みたいと思った人です。それでもアブラムと比べるとあまりにも不足し、結局、肉を追いかけて去ってしまったのです。

朝の学び104 創世記13章
創世記13:5-13
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
器の大きさに関連する温順の心
器の大きさに関連するもう一つの徳目は温順です。温順とは、心の中から出てくる美しい善と香りによって相手を楽にし、相手の心を動揺させないようにして真理で治めていける心です。このような温順の心が臨むと、心に余裕ができ、すべてに落ち着いて施せる姿が出てくるのです。温順の心になると、安らかで、すべてが豊かな時だけでなく、困まったことになっても、心が揺れ動きません。「こうだからつらい、ああだから難しい」と気を落として不平を言うのではなくて、感謝と喜びをもって十分できます。目の前の困難より、その心に臨んでいる神様の恵みのほうがもっと大きいからです。
コリント第一8:13に出てくる使徒パウロの告白の中に、このような温順の心がよく含まれています。「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」としたのです。使徒パウロは他のすべての人々と同じように、自分が肉を食べたり食べなかったり、自分の思い通りできる権利がありました。しかし、弱い魂のために必要ならば、一生肉を食べないというくびきを、自ら背負わなければならないと言っても構わない、温順な心でした。また彼は主のために自分のすべてを捧げただけでなく、福音を宣べ伝えるのに益になるならば、主が許された権利までも取りませんでした。
それで、コリント第一9:18-19に、「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」 これは「私がこんなことを言ったら、私がこんな行動をしたら他の人にはどのように影響を与えるのだろうか?」こんなことまでも気を配る心です。皆さんもこのような温順の心を叶え、常に相手の立場を先に考え、相手のために喜んで自分を犠牲にしてあげることで、多くの人を包容して抱くことができる大きな器にしていくことをお願いします
最後まで和平を追ったアブラハム
大きな器を持った人と小さな器を持った人とは、自分の功を表に出そうとするのか、あるいは他の人に功を回そうとするのかでも、その違いが出てきます。ロトは確かに叔父のアブラムと一緒にいたことで祝福を受けた者なのに、これに気づくこともできず、感謝することもできませんでした。しかし、この時、アブラムはロトが自分によって祝福されたという事に気づかないといって寂しがらず、ロトにそれを表そうともしなかったのです。「あなたが受けた祝福は、あなたが私と一緒にすることによって受けたものです。」と一言ぐらい言ってあげることもできますが、アブラムはそうしませんでした。これがまさに大きな器を持った人の姿です。
アブラムは自分の功は表に出さないまま、すべてを神の恵みとだけ受けました。神様が守ってくださらずに、一緒にいらっしゃらなかったなら、どうしてアブラムやロトが祝福を受けたでしょうか?したがって、アブラムはロトが自分の恵みを理解できないからといって、寂しがったり感情を抱かなかっただけでなく、すべての感謝と栄光を神様だけに返したのです。ところが、ある人たちは、主の中で何かをしたとき、それを自分自身がうまく行ったように言います。自分の器が認められることを望み、他の人に自分のことを知ってもらいたいのです。これがまさに小さな器を持つ人の姿です。このように小さな器の人は、他の人が自分がしたことを分かってくれないと、それによって寂しがったり、心を痛めたりします。
逆に自分が負うべき責任を他の人に回そうとします。これは結局人に見せようとするものにしかなりません。私たちが何かをするにあたって、人に見せようとしてはいけません。誰も分かってくれなくても、神様が認めてくださって知っていただければ良いのです。それで、イエス様はマタイ6:1-2に「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
アブラムは、自分の家畜の羊飼いと甥ロトの家畜の羊飼いが互いに争ったときに、責任を他の人に転嫁しようとせず、それをまるで自分の責任であるかのように心を痛める、善良で大きな器を持っていました。そのために、まずロトに手を差し出して、平和にできる道を提示します。相手を理解して、面倒を見て平和を追う美しい心を持っていたのです。このような状況でもロトは、自分の過ちは気づかないまま、結局自分の利益を追いかけていくのを見ることができます。それも目に見えるものを選びます。つまり、肉で選んだということです。本当に神のこどもであれば、この時どうするべきかを神様に尋ねて、神様の導きを受けて行かなければならなかったでしょう。しかし、自分の欲に目がくらむと、神様の導きを受けることができません。
このように、自分というものが先に出て、自分の欲が先に出るようになれば、聖霊の声を聞くことができず、聖霊の声を聞かせても聞こうとしません。ロトもこのようにして肉を追っていった時、結果は実に悲惨なことが見られます。これから14章以下を見ていきますが、自分の見た目に良い土地を選んだロトは、ついに戦争に巻き込まれ、ロト自身が敵に捕らえられただけでなく、すべての所有までも奪われる災いに遭います。ソドムとゴモラに下された神様の審判によって、自分のすべての所有と妻までも失う悲惨な結果を迎えます。
一方、ロトに良い土地を与えて、カナンの地に住むようになったアブラムは、その後も万事に祝福を受けていきます。アブラムは甥ロトが捕虜として捕えられた時、自分の手元で育てたしもべどもを連れて行って、四人の王が連合した敵の軍隊を破り、甥と彼の所有まで取り戻すほど、力と富と権威をあまねく備えていました。自分の利益を追い求めたロトと、善を追ったアブラムの結果がこのように差が出ているという事です。次回は、アブラムが甥ロトに譲って善を選んだときに与えられた神の契約と甥のロトを危険から救う内容について調べます。
私たちはしばしば二つの選択の分かれ道で、どんな道を選ぶべきかを決めなければならない状況にしばしば接します。ところが、この時どんな道を選ぶのかは、結局、心に臨んだ真理によって決定されます。自分の利益だけを考える人は、当然自分の見た目に良いものを選ぶでしょう。しかし、周りのすべての人のことまでも考える人なら、たとえ自分に不利益が来ても、すべての人と一緒に平和を成し遂げることができる道を選びます。たとえ私に不利益が来るとしても、相手の利益を先に考えてあげるのです。
これは、事業を行う時や使命をやり遂げるときも同様です。自分の考えで良い道を選ぶのと、祈って聖霊の導きを受けて、父なる神の御心を追うのとは、全く違う結果を得るという事です。いい道がすぐには得になると思うとしても、公義の中で働かれる神様は結局、蒔いた通りに刈り取るようにするのです。善を蒔いた人には善で返してくれますが、悪を蒔いた人は自分の悪によって困難に直面してしまうのです。箴言4:18-19に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。」という御言葉のように、義人は神様が握って保証するので万事順調の道を行くことになりますが、悪人は闇をさまよい苦痛に遭いながらも、なぜそうなのかさえ気がつかなくなります。
私たちは、アブラムとロトの姿を通して、大きな器と小さな器の違いについて見てきました。大きな器を持つアブラムはすべてのことに善を追ったので、彼の道は父なる神様が保証されましたが、小さな器を持つロトは自分の利益だけを追っていったので、神様の守りも保証も受けられませんでした。ですから、器の大きさが結局は神様の愛と保証を受ける祝福の大きさになるという事を悟ることができます。器の大きさが大きい時は神様が注いでくださる祝福も多いのですが、器の大きさが小さいときは神様のほうで与えたくても受け取る器が用意されていないのです。
ですから、アブラムのように広くて大きな器を作って行ってください。 箴言3:6に「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」という言葉のように、凡ての事を神様に任せて導かれていくことを願います。このように、主が皆さんの道を導いて、心から準備された大きな器の中に、日々溢れる祝福でいっぱいになっていきますように主の御名によってお祈りいたします。

朝の学び103 創世記13章
創世記13:5-13
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
はじめに
人の心を器に例えると大きな器と小さな器があるように、人の心も大きな心と小さな心があります。
また、器ごとに材質が違うように、それぞれの人の心を構成する要素も異なり、器の綺麗さが違うように、それぞれの心もきれいさの程度が違います。それでは、父なる神様が人を選ぶ器の最初の基準は何でしょうか。それはまさに器の聖潔さです。
テモテ第二2:20-21に、「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とおっしゃいます。器の材質も重要で大きさも重要ですが、何よりもまず綺麗な器になってこそ、貴重な器だと言われます。ところが、聖書を見ると、神様はある大きな事のために器を選ぶ時、聖潔さと共に、器の大きさも非常に重要だと見ている事が分かります。
例えば、出エジプトした200万人に近いイスラエルの民を導く指導者として立てられたモーセは、器が非常に大きい人でした。もちろん最初から大きい人ではありませんでしたが、神様はその器を見て呼んで、訓練して大きな器にしていったのです。それで、モーセは民数記12:3に、「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と言うほど、柔和が勝れていたことがわかります。柔和は器の大きさと直接関係する御霊の実 聖霊の実なので、徳と愛を兼ね備え、霊的な柔和が臨んだ時に、多くの人を抱くことが出来る大きな器になることができるのです。このように柔和が勝れていたモーセなので、200万に達する民を率いて、40年という荒野の生活をする間、数多くのことを経験しながらも民を抱いて忍耐し、自分の使命に耐えることが出来ました。
大きな器アブラハムと小さな器ロト
アブラムも信仰の父として立てられるためには、それほど大きな器を持たなければなりませんでした。今日の本文に出てくる事件を通しても、アブラムがどれだけ大きな器を持った人なのかを知ることができます。一方、ロトは叔父アブラムと比べると、あまりにも小さな器であることが明らかになっています。カランを離れる時から一緒にいたアブラムとロトは、所有が増え、彼らが住んでいた土地にこれ以上一緒に同居できない状況になります。多くの家畜が一緒に住むには水も不足し、牧草地も不足していたのです。そのため、アブラムとロトの羊飼いたちが互いに争う状況にまで至ります。この時、アブラムは秩序上いくらでも自分が取れる優先権を放棄し、先に甥のロトに選択権を与えます。
本文9節に「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。前の時間に申し上げたように、ロトが受けた祝福はアブラムと共にすることで得たものでした。さらに、肉の秩序から見ても年少者であり、甥であるロトの立場では、もし自分の家畜の羊飼いと叔父アブラムの家畜の羊飼いが争ったことを知っていたら、当然どうすべきでしょうか。自分の家畜の羊飼いたちを厳しく取り締まり、あえて叔父の耳に良くない声が入らないように行動しなければならなかったでしょう。しかし、ロトは小さな器だったので、叔父のことを先に考え、叔父の所有まで考えるほど心を広げることができませんでした。自分の所有だけに関心があり、自分の立場を先に考えました。そのため、叔父のアブラムが先に選択権を与えると、すぐに自分の目により良い肥えた土地を選んで去るのがわかります。
本文10-11節に言った、「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。」とあります。では、皆さんがロトの立場になってみてください。「私は果たしてこのような状況で選択権が与えられたとき、ロトのような姿だったのだろうか?それとも叔父さんに譲る姿だったのだろうか?」
もちろん、ロトが譲歩をしたとしても、アブラムは再びロトに先に選ぶようにしたはずです。しかし、このようにアブラムが何度もロトに先に選ぶよう勧めたとしても、ロトはどうすべきだったのでしょうか?本当に道理を知って恩、恵みを知っているなら、自分が不毛な土地を先に選んででも、叔父のアブラムに良い土地を譲るべきだったでしょう。何度断ってもアブラムが引き続き薦めるからといって「私は十分道理を尽くした。」と言って、早く自分が見るのに良い土地を選ぶならば、これは本当に心の中心で恩、恵みを知っているとは言えず、自分の道理を尽くしたとは言えません。もちろん、最初から一度に良いものを選ぶ人よりましだと思いますが、本当に叔父のアブラムに対する恩を知り、感謝するならば、たとえ先に選ばなければならない状況になったとしても、決して自分にとって良い土地を選ぶことはできません。ところが、ロトは拒絶や譲歩も一度もなく、自分の見た目に良い土地を選んで去って行ったので、彼の誤りがどんなことなのかがよくあらわれています。
しかし、このような状況でも、アブラムの心はどうでしたか?ロトがこのように自分の見た目にもっと良さそうな土地を選んで去ったからといって、その心が悲しんだり感情を抱いたのではなく、ロトに対して何も引っ掛かるものもなかったのです。それは彼の心に平安がいっぱいなので、与えてもまた与えることができる心だったからです。心の中心で相手に仕えるので、自分が受ける権威を与えることが出来、むしろもっとくださいと言っても喜んで与えられる寛大さがあったのです。
これがまさに柔和と共に、器の大きさを決定するのに直接関わる、寛容の心に該当するものです。寛容は、心が真理に変化するだけに臨む、豊かで余裕のある心から出てくるもので、真理が心に豊かに臨みながら、同時に真理の自由さがあるため、自分が持っているものをすべて、出してあげられる心のことを言います。このような寛容の心が臨めば、すべての人とともに和平を成し遂げ、徳を立てようと努力するので、結局多くの人を抱く大きな器になるのです。
器の大きさを決める柔和と寛容の心
それでは、皆さんの心はアブラムと比べて、果たして寛容の心がどれだけ臨んでいるのでしょうか?例えば、皆さんが10を持っているとしたら、それを求める人には、果たしていくつまで渡すことができますか?たった1つか2つだけ与える方もいるでしょうし、5つくらいまではあげる方もいるでしょうし、本当に心を広げて9つまであげることができる方もいるでしょう。しかし、アブラムは心の中心で相手が10をくれと言えば10を全部与えられる心でした。
各組織のリーダーが新しく選出され、教区や宣教会を担当する主のしもべも新たに任命されたり、席を変える場合がありました。そのため以前にリーダーだった方々の中に、来年はしばらく使命を離れるようになった方もいて、数年間担当した所を他の方に渡さなければならない場合もありました。そのような時、皆さんの心を一度チェックしてみてください。だからといって、必ずしもそのような方だけを点検してみるのではなく、皆さんが「私が果たしてその立場だったら、私はどうしたのだろうか」と自分の心を点検してみてください。
私は以前、使命を10個持っていましたが、その中の1つを渡すようになった時、または2つを渡すことになったとき、皆さんの心はどうでしょうか?または、5つを渡すことになったら、もし10個をすべて渡すことになったら、皆さんの心はどうでしょうか?このようなそれぞれの状況で皆さんの心がどうなのかを点検してみると、「私の心の器はどの程度なのか」ということを自らが悟ることができるでしょう。また、ある人が受けもっていた使命や立場を他の人が代わりにすることになった時に、その人の次の行動がどうなのかを見ても、その人の誤りが分別されます。
例えば、使命が他の人に移った時に、「あの仕事はこれ以上私の仕事ではないから、私は何の関係もない」として、以後全く関心さえ持たない人と、「私がたとえその使命を手離したとしても、新しく引き受けた方が使命をうまく担えるように、私が助けられることは最善を尽くさなければならない」という人とは、その器が天と地の違いです。ところが、もし他の人に使命を渡した時、もしも「まあ、どれほど上手なのか見てみよう」というこのような心を持った人がいるならば、彼は自分自身の心がどれほど非真理なのかを悟って、今からでも真に神様の前に悔い改めなければなりません。
では、新たに使命を任された方の立場としては、どのような心を持つべきでしょうか?新たに使命を任され引き受けた方でも、自分の心に誤りを点検することができます。例えば、新しい使命を引き受けた時、「今は私がリーダーになったから」という気持ちで、もし以前のリーダーの方に仕えることが出来なければ、これもまた自分の誤りを自ら表すのです。また、使命に対して選択権が与えられた時、目に見える良いものだけを選んで持とうとすれば、これを通してもまたその心を点検することができます。
大きな器を持った人なら、なんとか力を合わせてもっとうまくやっていけるように、前にリーダーだった方に対してももっと仕える心で行っていきます。そして、目に見える使命だけを引き受けようとするのではなく、むしろ他人が引き受けようとしない使命があれば、それに仕える心で先に選択できなければなりません。このような状況を迎えた時、皆さんの心がどうなのかを点検してみることで、皆さん自らが「私の心には寛容がどれだけ臨んでいるのか?」「私はどれくらいの大きさの器を持っているのか?」を発見することができます。
皆さんはたくさんの言葉を聞いたので、どうしなければならないのかを頭では理解できます。しかし、いざ現実に直面すると、各人のあやまちが如実に明らかになります。アブラムのように行う人もいれば、ロトのように行う人も多いのです。本当にアブラムのように行える人なら、彼は神様から愛されるしかなく、祝福されるしかないのです。自分のもの、自分の所有だけを考える小さな器の心なら、このような人は神様の前でもケチにならざるを得ず、結局神様から祝福を受けることも難しいということを知らなければなりません。このように祝福も結局は器の大きさに合わせて与えられるのです。

朝の学び102 創世記13章
創世記13:1-10
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
祭壇を築いて祭事を捧げたアブラム
本文3-4節に「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」彼がネゲブから旅を続けてベテルに至り、ベテルとアイの間に天幕を張った所に来ると、彼が初めて祭壇を築いた所なので、「その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」とありますが、これは彼が以前に祭壇を築いたところに至り、再び神様に祭壇を築き、感謝の祈りを捧げたことを物語っています。
これまで心深く悟ることができなかった繊細で優しい神様の心を悟ったことに感謝し、自分の道を導いて試練から救ってくださり、むしろ以前よりもさらに大きな祝福を与えてくださった神様の前に感謝の祭壇を築いたのです。ただ、唇だけで「神様、ありがとうございます。こんなことに気づきました。」と告白したのではなく、このように父なる神様の前に祭壇を積み上げたことで、自分の告白と悟りを確証したのです。自分がした感謝の告白を自らも自分の心の中心に刻むと同時に、神様の前にも、自分の感謝の心を神様が喜んでもらえるような美しい香りを捧げたということです。
ところが、今日多くの人々は、神様の恵みを体験し、神様の祝福を受けながらも、神様の前に祭壇を築くのを惜しいと見ています。ただ唇だけで「感謝します」と言ったり、神様の前に適当に感謝することで終わってしまいます。しかし、真の感謝は一方的なものではなく、相互に行われなければならないという事です。私の側でだけ「この程度の感謝をすればいいだろう」ということではなく、受け取る側でもその感謝の気持ちを感じて認められるようにしなければならないということです。
ですから、私たちの方で適当に感謝を表したからといって、神様の方で無条件に受けるのではありません。本当に神様に欽香のような香り(杉粉をベースにした古典的な香り)で神様の前に捧げた時に、神様もその心の香りを受けられて、私たちの感謝を認めてくださるのです。そして、このように神様が認めてくださる時こそ、真の感謝として天にも積まれるのです。アブラムはこのような事実をよく知っていたので、創世記12:7を見ると、神様が現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言われた時も、そこに自分に現れた主のために真心をこめて祭壇を築きました。
創生記12:7 「そのころ、主がアブラムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。このように祭壇を築き、祭事を捧げることで、神様が自分に与えた約束の言葉を神様との間で確証したのです。
ところが、今日の本文にアブラムが初めて祭壇を築いたところに至って、もう一度祭壇を築いて祭事をささげながら、主の名を呼んだ時は、彼の心が以前に祭壇を築いた時とはかなり違いました。もちろんアブラムは以前にも神様の前に熱心に祭壇を築く人でしたが、その時はただ祖先から聞いて学んだ通りに行ったのでした。「このような時はこのように祭壇を作って、祭事をささげるべきだ」と先祖から聞いて教えられたとおりに行ったという言葉です。しかし、今は心の中心を載せて祭壇を築き、感謝で賛美し、聖なる神様の御名をお祝いしたという事です。
まさに訓練を受ける前と訓練を受けた後に、このように驚くべき変化が起こったのです。祭壇を築くその中心、心が以前と今は全く違っていました。以前は学んできたとおり行なったと思いますが、今は心の中心で感謝する気持ちで祭壇を築いたのです。このように、アブラムは一度の訓練を通して多くのことが砕かれて壊れ、神様に対する愛と信頼も、まさに神様が望んでおられる心の香りとして捧げ、神様に認められる者になったのです。そして今はすべてをただ父なる神様の御心と導かれることに任せていく人になりました。
訓練の後に成熟したアブラムの信仰
本文5節以下を見れば、アブラムの成熟した信仰の姿がよく現れる事件が出てきます。アブラムには甥ロトが一緒にいたのですが、アブラムの所有と甥ロトの所有がしだいに増えると、彼らが住んでいた土地に二人の所有の者たちが同居できない状況に至りました。6節に「その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。」と話しています。そうするうちについにアブラムの家畜の羊飼いとロトの家畜の羊飼いが互いに争う事態まで発生します。
これに対しアブラムが最初に出て、ロトに言った8-9節に「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ということでした。するとロトは目をあげて周りを見回した後、自分の目で見て良い土地を先に選んで選択しました。彼が選んだ土地はソドムの土地でした。
アブラムが初めてカランを去ったとき、ロトは叔父に従う状況でした。自ら独立できる立場でもなく、豊かな所有を持ったわけでもありませんでした。ところが、今日の本文に見ると、ロトも多くの牛や羊と幕屋を所有し、アブラムと一緒に同居できなかったことを見ます。これはロトがアブラムと共にカランを去った後、それだけ多くの祝福を受けていったことを物語っています。アブラムの所有が豊かになったことで、一緒にしたロトも所有が増えることができたのです。つまりロトの祝福は結局アブラムと共にすることによるものだということです。ロトがアブラムと共にし、アブラムに属した者になったので、彼の所有がアブラムの所有と共に神様から守られることができたという事です。
では、このようなロトの立場で、自分の牧者と叔父アブラムの羊の牧者が互いに争う状況になったとき、どうすべきだったのでしょうか。当然、自分が先に叔父に譲って退くのが秩序の上でも道理の上でも当然なことでした。しかし、ロトはそうではありませんでした。これは肉的な面から見てもまったく秩序に従ったことではなく、目上の人に仕えることもできないことでした。霊的な面から見ると、なおさら真理に合わないことでした。霊的な秩序上においても、ロトは当然アブラムに仕えるべきだったが、そうではなかったということです。結局、ロト自ら、自分がアブラムによって受けた祝福に対して感謝を悟ることもできずにいたことを知らせているのです。
このような状況でも、アブラムは「ロト、あなたが私によって裕福になり、あなたが私によって神様から守られた」とは言わず、少しの寂しさや感情も抱いていませんでした。むしろ甥に先に選択権を与えながら「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。ところでロトは一度の遠慮や譲歩もなく、すぐに自分の目に映る良い土地を選んでしまいました。これがまさに器の違いから来る様子です。アブラムの器とロトの器がはっきりと比較される事件でしょう。ロトもアブラムに劣らず、祖先から神様について聞いて学び、真理について聞いて学んだにもかかわらず、アブラムと比べるとあまりにも小さな器であることが明確にあらわれているのです。
もちろん、ロトが目に見える大きな罪を犯したわけではありませんが、彼は器が小さい人だったので、すぐに目に見えるもの、すぐに自分の利益に合うことだけを考えていたので、このように自分の欲を追った結果、結局、苦痛の道に進んでしまったのです。もしアブラムがロトと同じような立場であったなら、おじの立場を先に考えたはずで、自分の所有だけを考えるのではなく、おじの所有までも調べたはずなのに、ロトはそうしなかったのです。今度は、アブラムとロトを比較しながら、大きな器と小さな器の違いを見て、ロトの選択が後日どのような結果をもたらすかを見ていくことにしましょう。
結論
人々の中には物質を十分に持つようになったときに心に余裕を持ち、自分の所有を他人にも施すことができる人がいるかと思えば、むしろ物質に余裕ができるほど心が固くなり、ケチになる人もいます。これがまさにその器の違いです。器の小さい人は、私のもの、私の所有、私の立場、私の都合など、自分と関連したものだけに視野を限定させるので、それ以上のものを見ることができません。他の人の立場を考えることもできず、他の人の境遇や立場を振り返ってみることもできず、他の人の心を理解することもできません。自分の利益だけを考えて執着するのです。だから他の人ともぶつかるしかなく、その中に人々が宿ることができません。このような人が権勢や力を持っている時、表向きにはその前に従うように見えても、本当に心の中心から従う人を得ることは難しいのです。
反面、器が大きい人は私の立場、私の都合、私の所有、私のことだけを考えずに、私よりも先に他の人の都合と立場までも察しながら、私の所有、私のことだけを主張するのではなく、他人の所有と利益までも調べることができる広い視野を持っています。だからこのような人の中には、多くの人が宿るようになり、ともに、豊かな祝福を受けていくようになります。アブラムと一緒にいたロトが祝福を受けたように、大きな器を持った人と一緒にすれば、一緒にいる人までも祝福を受けるのです。
それでは、皆さんの人生はどうですか?多くの人が皆さんの中に宿っていますか?皆さんと一緒にいる人たちが祝福を受けていますか?続く創世記講解を通して、信仰の父アブラムがどのようにしてすべての信仰者の父として立てられたのか、また、彼と一緒にした人までも祝福を受けていくことができたことを悟って、皆さんの人生の中にも、神様に愛され、保証された証拠が 、毎日あふれることを願います。それで皆さんを通して、御父の神様が栄光を受け、皆さんにも限りない祝福が下されるように、主の御名でお祈りします。

朝の学び101 創世記13章
創世記13:1-10
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
はじめに
人々は時々あまりにも重要なことであるにもかかわらず、それが周りに常にあるという理由で、その大切さを普段はよく感じられないことがあります。そうしているうちに、ある日それが突然消えてしまうと、その時になってようやく、その大切さに気づき、後になって後悔したりもします。また、大切なことも知っていて、貴重なことだとあまりにもよく知っているのに、あるきっかけを通して、もう一度その大切さと貴重さを心の底から感じて悟る場合もあります。
例えば、家族はいつも一緒にいる人なので、普段は家族一人一人がどれほど大切なのかをよく感じることもできません。そうしているうちにある日、家族の中の一人が何らかの事情によって遠く離れてしまうと、普段気付かなかった大切さを感じるのです。このような場合、別れが、その時は心に寂しさや悲しみを伴うものですが、それがむしろ家族の大切さを悟らせてくれる大切な機会になり得るのです。もちろん、この時家族だからといって、必ずしも肉的な家族だけを意味するわけではありません。マタイ12:50に、イエス様は「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と、おっしゃったとおり、真の家族とは、主の中で共に神様の子供になった信仰の兄弟、姉妹たちです。将来、天国でも永遠に共に生きていく人々は、まさに信仰の中で兄弟、姉妹の聖徒たちなのです。ですから、家族だからといって必ず肉的な家族だけを考えるのではなく、主の中で兄弟、姉妹になった一人一人がどれほど貴く大切であるのかを知らなければなりません。
ところが、このように大切な存在に対して、普段は心に深く感じることができず、ある試練や訓練を通して感じられるようになったとすれば、その試練や訓練は本当に貴重なものだと言えます。試練や訓練がすぐにはちょっと大変で、心が痛むことがありますが、それをうまく通過すれば、他の何ものでも得られない、貴重な悟りと能力を得ることになるからです。アブラムも妻のサライをエジプトの王に奪われましたが、再び訪れる訓練を通して、とても重要な悟りを得るようになりました。それはまさに神に対する悟りでした。
奪われた妻を再び得たアブラムの告白
アブラムは幼い頃から祖先を通して、神について多くのことを聞いて学んできたので、自分自身は「神についてよく知っています」と考えることができました。しかし、いざ現実に試練が迫ってくると、アブラムはそのようによく知っている神様、すなわち全知全能であり、すべてを主管していく神様だけを全面的に頼れないまま、自分の知恵と考えを働かせてしまいました。そうするうちに、自分の力では解決できない大きな困難に直面することになったとき、まさに神様が彼を救ってくださったのです。これから、神様の知恵と方法で大きな困難から劇的に抜け出したアブラムが、神様にささげた告白をしばらく聞いてみましょう。神様が教えてくださったアブラムの告白です。
「人の知恵が愚鈍であり、神の知恵に従うことができないことを悟らずに、人がどうして真実に神の心を知ることができるでしょうか。今やまことに私の心に深く刻まれた、その方に対して悟ったことがあり、それ故に私の魂が満ち足りて喜びと感謝であふれるのだ。たとえ人の考えが奥深いとしても、神様のお考えと計画と比べてみると、それは鈍くて愚かなことに過ぎず、それをもっては、すべてが十分に成し遂げることができないことを私は悟った。神様のお考えと計画なさることはとても奇しく深みがあって、人間の知恵では及びもつかない。あまりにも高く偉大なるその方に私の愛と感謝の賛美をささげます。
私といつも共におられ、私を治め導いて下さるその方のその心を、今まで私は知ることができなかったが、私を愛して下さるその方の心をこのように深く悟れるようにして、人の考えがどれほど愚鈍で愚かなのかを悟らせて下さった、その方の御名を讃えます。以前から私の心の奥深くにおられ、いつも私と共にいてくださったその方に対して、今になってその深い愛と忍耐と慈しみを感じるようにされた、その方の御名を褒めたたえ、深く称賛します。
私の魂を満ちたらせ、わたしを導かれるお方、その方にわたしのすべてを頼ってお願いすると、その方は一寸の誤差もなく、すべてのことを完全になしとげられる。それ故、私の唇は私の心の中心から、私の愛するその方への告白で満ちています。わたしの魂を満ちたらせ、私の魂を幸いにされ、私の心の奥深くにその方を刻み、愛するようにされたその方の麗しい御名を賛美し、すべてのことで栄光を捧げ感謝申し上げます。」
私たちはアブラムの告白を通して、彼が訓練を通過しながら、どれほど貴重な悟りを得たかが分かります。第一に、人の知恵と考えというものがどれほど愚鈍で愚かなものなのかを悟り、第二に、父なる神様の広大さと偉大さが極めて高い方であることを心から悟るようになりました。また、三番目には、このような神様が自分を守り、保護して下さり、とても良くて、優しくて、繊細な父なる神様の心を悟りました。アブラムは、神様がいつも自分と共におられるということを知っていましたが、この訓練を通過して、初めて神様がどれほど繊細で優しく、今まで自分のすべてを導いてくださり、また今も導いて行っておられるかを心の中心で悟るようになったのです。
喜びと感謝で訓練を受ければ祝福
このようにアブラムにとって今回の訓練は、これまで聞いて学んで知っていた神様に対して、本当に心深く悟り、心の中心に刻み、これからは神様だけに全面的により頼むことになる大切な機会となったのです。そして、自分を発見して徹底的に自分を壊す機会になりました。それだけでなく、アブラムはこの訓練を通過し、その所有物が豊かになる祝福まで受けました。この一度の訓練を通して、霊肉間に驚くべき祝福を受けるようになったのです。これがまさに訓練を許される父なる神様の深い御心です。訓練を許す理由は、私たちを大変にさせて難しくしようとするのではなく、アブラムのように私たちにも、霊肉間に祝福を与えるためだということです。ところが、アブラムのように、訓練を通して霊肉間に祝福を受けるためには、まさに訓練を喜びと感謝で通過しなければならないという事です。
アブラムは妻のサライを奪われる試みの中でも、神様の前に喜んで感謝しました。もちろん、自分の知恵と考えを働かせ、結局妻を奪われるようになったことについては煩悶して苦しみましたが、「なぜ私にこういう訓練がやって来るのですか?神はなぜ私を守ってくださらなかったのですか?」このように神様の前に寂しがるとか不平をいうことは、決してなかったのです。アブラムはこのように喜びと感謝で、神様が許された訓練を受けたので、訓練を通して大きな霊的な祝福を受けることができたという事です。
そして、このように霊的な祝福を受けることになると、魂が幸いとなるように、すべての点で幸いとなる法則によって、肉的な祝福も自然に一緒についてきたのです。アブラムがエジプトに入る時よりはるかに多くの所有物を得て、それを持ってエジプトから出ることができたのです。これも神の計画された摂理でした。アブラムが神の御言葉に従い、生まれ故郷の父の家を離れる時、彼がカランから集めたすべての財産を持って出たとはいえ、当時彼の財産は多くのものではありませんでした。そのため、神様はアブラムが訓練を通過し、魂が幸いとなると同時に、肉的な祝福もあふれるようにするために、エジプトの最高の権力者であったバロを訓練の道具として使ったのです。
それほどまでの権力者を通して訓練を受けられるようにしたのですから、祝福もまた大きいものではないでしょうか?ダニエルや三人の友人も、王を通して訓練を受けているので、素晴らしい祝福を受けました。創世記12:16「パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。」を見ると、エジプトの最高権力者であったバロは、サライを取りながら、その代価としてアブラムに多くの羊と牛とろばと男女の奴隷、雌ろば、らくだを与えたが、妻を再び取り戻すことになったアブラムは、この時得た所有までも一緒に持ってエジプトから出ることができたのです。
それで、今日の本文2節を見ると、「アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」と語っています。このように、神様は神様の知恵の中で、人が想像できない方法で、アブラムに霊肉間に祝福の道を開いてくださいました。人が神様の前に何か過ちがあったり、悪を行なって災いが来たときは、神様の前に悔い改め立ち返ったとしても、以前の状態に回復するだけがぎりぎりです。しかし、ある悪を行ったり過ちがあったからではなく、霊的な祝福を与えるために許された訓練は、その訓練を通過した後に必ず、以前より加えられた祝福が与えられるようになります。
アブラムの場合は、神様の前にある悪を行ったわけでもなく、大きな過ちがあって訓練を受けたのではなかったので、彼が訓練を通して自分の弱さを悟り、神様の前にすべてを頼った時、神様はアブラムに以前より大きい祝福で返してくださったのです。ところが、アブラムがこのように訓練を通過し、霊肉間で祝福をともに受けることができた理由は、訓練を受けるアブラムの心の態度でした。先ほどお話しした通り、アブラムは訓練の中で文句を言ったり、恨んだりせず、喜びと感謝で訓練を受け入れました。そしてこのように感謝で訓練を受けていくアブラムに、神様は訓練の中でも不足することなく、常に溢れる祝福を与えて下さったのです。
誰もが完全になるまで訓練は受けるのですが、その訓練をどのような姿、どのような態度で受けるかによって、祝福の中で訓練を受けることもあり、あるいは困難の中で訓練を受けることもあるのです。また、アブラムはその後も信仰の父として立てられるまで、自分に与えられた訓練を喜んで感謝して受けています。アブラムはその心の中心がまっすぐで誠実で正直な人として、常に喜びと感謝で訓練を通過していったので、彼は訓練の中にも神様の愛を受け、すべてにおいて善を成しとげ、物質の祝福も溢れるように受けることができたのです。
それでは、みなさんは自分自身を振り返るときに訓練の中でどんな思いをされたでしょうか?「私はアブラムのような心の中心ではないから…」と言いますか? 私は今までどんな訓練が来た時でも、一度も恨んだり文句を言ったり、「つらい」と言いませんでした。真実な神様を信じて、ただ喜びと感謝で勝利していきました。人としては耐え難い訓練の時間もありましたが、神様はそれが「祝福の訓練だ」とおっしゃったので、一度もその言葉を疑ったことはありませんでした。私の力では私の能力ではできませんが、「私に能力をくださる御方の中では、私はすべてのことができる」と告白し、すべての訓練を通過してきたのです。それで、たとえ訓練を受けている中だとしても、私はいつも不足することなく祝福を受けて行き、権能も日に日に増していきました。ですから、皆さんも「私もできます。」と告白し、どんな訓練でも喜びと感謝で受けて、神様に栄光を返してくださることを願います。
同じ訓練が与えられたとき、それを感謝で受ける人と労苦して受ける人とは、訓練を通過した後、祝福の程度も違うだけでなく、神様を愛する心もまったく異なるという事を悟らなければなりません。本当に真っ直ぐな中心を持つ人なら、本当に父なる神様を愛する人なら、アブラムのように、他に聖書上の多くの人物のように、訓練を感謝することで受け取るでしょうし、このような人には、神様も必ず訓練の中でも、常に愛の証拠を示してくださいます。訓練の中でも感謝と喜びで蒔いたので、神様もこのような人には感謝の条件をあふれるように、蒔いた通りに収めるようにするのです。

朝の学び100 創世記12章
創世記12:10-20
さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
妻を奪われる二番目の類似事件との違い
ところが、アブラムの場合は、後日、本文に出てくる事件と非常に類似した事件をもう一度体験することになります。創世記20章に出てくる事件として、今回はアブラハムがゲラルに住むとき、そこの王アビメレクに再び妻を奪われる事件が発生したのです。この時も原因を見ると、本文に出てくる事件のようなことがわかります。まさにアブラハムが自分の妻を「私の妹」と言ったのです。ですから、ゲラルの王アビメレクはアブラハムの妻サラを取ろうとしたのです。
それならおかしくないですか?創世紀20章では、すでに神様がアブラムに諸国の父という意味で、その名をアブラハムと直してくださった後でした。さらに本格的な訓練を受け始めたばかりの初期の時でもなく、すでに訓練が始まってから24年が経って、完全な信仰にそれほど近づいた後でした。それでも、アブラハムは以前に肉の考えを働かせて経験したのと同じ訓練をもう一度受けていたのです。
それでは、なぜこのことが起こったのでしょうか? 表面的には、同じように見える2つの出来事が霊的には非常に大きな違いがあることを知らなければなりません。ある人々はアブラハムが同じ間違いを2回もしたと言いますが、なぜアブラハムのような人物が神の前に同じ間違いを2回もしたのでしょうか?今日の本文に出てくる事件は、アブラハムが肉の考えを働かせて自ら招いた訓練だとすれば、創世記20章に出てくる事件は、神様の御心と摂理の中で許された訓練であり、この訓練は神様が目的としたところがあり、アブラハムをそのように主管して行なわれたという事です。すなわち、アブラハムが再び以前のように肉の考えを働かせて、妻を妹と言うことで妻を奪われるようになったのではなく、むしろこの事件を通してアブラハムを広く知らせ、神様が栄光を受けるために許された神様の摂理の中にある事件だったということです。
今、創世記20章全体の内容をすべて見ることはできませんが、この時も神様が直接干渉することで問題を解決していきました。アビメレクの夢に自ら現れ、彼が取ろうとした女性が誰であり、アブラハムが誰であるかを教えてくださいます。創世記20:7に、「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とこのように恐ろしい話をされたのです。本文の場合のように、アブラムが神様に懇願して神様が干渉してくださったのではなく、神様の側でまず夢を通して働かれたのです。
ですから、創世記20章の事件が起きた時は、アブラハムは今日の本文のように慌てたり苦しんだりしませんでした。すでにすべてが神様の摂理の中で、神様が主管していらっしゃるという事をアブラハムも感じていたので、すべてを神様に任せたまま、神様の導かれるとおり従ってゆきました。そして時がたつと、アブラハムは神様の導きに従順し、問題を解く決定的な役割を果たすようになります。
まさに創世記20:17-18に示すように、「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」アブラハムは神に祈りました。 そうです。この言葉を通してわかるように、神様はアビメレクがアブラハムの妻サラを取ろうとしたことで、その家のすべての胎を閉じました。そして、このようなアビメレクにアブラハムを送り、彼らのために祈るようにすることで、再びその家の胎を開いてくださいました。
これはまさに、アブラハムにとってアビメレクの家の問題を解決してあげる解決者のような役割を果たすことで、彼らにアブラハムがどんな人なのかを分かるようにするための、神様の計画された摂理だったことを知らせてくれます。家のすべての胎が閉じられて苦しんでいたアビメレクに、アブラハムが行って祈ったとき、胎が開く癒しのみわざが現れたので、これを見たアビメレクとその周辺の人々にアブラハムがどんな人に見えたのでしょうか。
さらにアビメレクの夢にまで、神が自ら現れて、アブラハムが預言者であることをおっしゃって、アブラハムの祈りに直ちに答えてくださったので、彼らは、アブラハムは神様の保証を受ける人で、敢えて自分たちが手をつけられないすごい人だという事が、彼らの心に深く植え付けられるようになったのです。また、このようなアブラハムと共におられる神様に対しても、彼らは恐ろしくて震えるしかなくなり、神様の力の前に栄光を捧げざるを得ませんでした。
このように、一見すると同じ事件のように見える二つの事件が、霊的には非常に大きな違いを持っているという事です。霊的な分別力なしに見れば、同じミスを犯したように見える二つの事件ですが、一つ一つの過程と結末を調べれば、今日の本文の事件と創世記20章の事件は、アブラハムに対する神様の保証と愛が全く異なる次元で起こった事件であることがわかります。このような事をよく知って、たとえ表向きには、同じ訓練のように見えても、その訓練を許される神様の摂理と計画は全く異なることがあることを知らなければなりません。
例えば、同じ試練が二人に来たとしても、ある場合は罪を犯して、神様との行き詰った壁のために守られなかった場合があるかと思えば、ある場合は十分に守ってくださるにもかかわらず、より大きな信仰と成熟した信仰に成長させようとして、守ってくださらない場合があります。その事情は神様だけがご存じです。したがって、人の側で何かを持って自分の任意に判断したり、罪に定めることが、神様の前にどれだけ大きな罪であるかを知らなければなりません。妻のサラを奪われる大きな訓練を、神様の繊細な愛と導きの中で通過してきたアブラムは、以前とは違う、より成熟した信仰の段階に入ることになります。次回は、続けて13章から見てみましょう。
結論
アブラムはこの訓練を通してこれまで聞いて学んで知っていた父なる神様という方の繊細で優しい干渉を身近に感じるようになります。神様はアブラムが考えを働かせたからといって叱責して、叱ったのではなく、アブラムが神様に対して感じて悟ることができるように、彼の道を一つ一つ繊細に導かれました。皆さんもこのような神様に会って体験してください。神様はあまりにも愛が多く、優しくて、繊細に私たちを導いていかれる、私と皆さんの父であるという事です。もちろん、お父さんであるので、皆さんが肉の考えを働かせて、父なる神様の御心と反対に行っていくときには、それによって神様が叱責したり叱ったりする時があります。 ただ、アブラムの場合は考えを働かせて悪を行ったり、神様のみことばに従順しないことはなかったので、神様があえて叱責する必要はありませんでした。アブラム自身が気づくように導いていったのです。
しかし、肉の考えを働かせて神様の御心に不従順になったり、悪が発動すれば、これによって神様の責めや叱責を聞いたとき、むしろ喜んで感謝しなければならないでしょう。へブル人への手紙12:7-8に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とおっしゃるとおり、時には懲らしめられるのが神様の愛であるからです。ですから、本当に父を愛する子供なら、自分が間違って懲戒を受けたときに、それによって寂しがったり落胆するのではなく、その中に込められた父の愛を感じなければなりません。
子供がある過ちをしたときに、それを見てもそのままにしておく親がいるならば、子供の立場でそれがしばらくの間は楽に感じられるかもしれませんが、時間が経つと自分に無関心な親に対して「親は私を愛していないようだ、私がこんなに悪い道に行くのにそのままにしておくのだ」と言って親の愛からさらに遠ざかることになります。すぐには責められて懲戒されることが心に辛く感じられるかもしれませんが、それが愛であることを知らなければなりません。ですから、皆さんも、すべてのことにおいて皆さんを干渉しながら、導いていく父なる神様の愛を感じることで、常に父なる神様の恵みの中に住むことを主の御名でお祈りします。

朝の学び99 創世記12章
創世記12:8-20
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。。
妻を奪われる訓練を受ける前、アブラムの告白
神様があることをおっしゃる時、人の側で従順できなかったり、信仰にならない場合には、御言葉が成就するのが遅れることもあります。しかし、神様がおっしゃった御言葉は、創造の初めの声なので必ず成就されます。ただ、それがすぐに成就することばなのか、それとも時間が経ってから成就することばなのか、こういう違いはあります。
例えば、イエス様が病気を治す時も、常に初めの声を発せられましたが、ほとんどその場で直ちに癒され、神様に栄光を捧げましたが、ルカ17章に出てくる十人のらい病人の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われた御言葉に従順して行った途中で綺麗に癒されました。このように、本文に神様がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」とおっしゃった御言葉も、すぐに成し遂げられる言葉ではなく、400年余りが過ぎた遠い後日、モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を征服していくようになって、なされる御言葉だったのです。
私が初めの声を発する時もこんな感じです。すぐにその場で行われ、働かれることが多いですが、時には時間を置いて待たなければならない場合もあります。そして、この時御言葉を受ける働き人の方が、どれほど信仰を持って受けて自分のやるべきことを行っていくかによって、御言葉が成就する時間がさらに長くなることもあり、短縮されることもあります。この時も問題になるのがまさに自分の考えを働かせることです。だから、神はアブラムにこの考えを破る訓練をさせてくださいます。まさに妻のサライを奪われる訓練でした。この訓練を通して、アブラムは自分の考えを徹底的に壊すきっかけになりました。
神様のみことばに直ちに従順だったアブラムでしたが、実際に自分の命がかかった状況になると、神様だけを全面的に頼ることができず、つい自分の考えを働かせたのです。これは、アブラムが神様はどんな方なのか分からないからではありません。アブラムが妻を奪われる訓練を受ける前に、彼が神様の前に祭壇を築いて告白した内容を聞いてみると、アブラムが幼い頃から神様についてどれほどよく聞いて学んで知っていたかがよくわかります。神様が私に教えてくださったアブラムの告白を皆さんにお知らせします。
「すべてのことに信実で完全であり、すべてを導き、働かれる全能なる神様、すなわち私の先祖の神様なる方を、このように賛美致します。まことに、すべてのことを信実で完全に行なわれるその方の御名を賛美し、このようにすべてを指示し、すべてを導いてくださったその方の御名の前にひれ伏します。その方の御名は高く、広大であり、すべてを建てられ、私たちの先祖の主と神となられた、その方の御名を賛美致します。私はその方の御前にこのようにひれ伏し、その方の御名によって私はすべてを信じて従順します。その方の御名の前に、すべてが恐ろしく震え、すべてがその方の足の下にあるからです。その方の御名は広大であり、その方は完全であり、すべての道を指示して導かれます。その御言葉に従順し仕えることが当然であり、すべてがその方の御名の前にあるのです。」
このような告白を通して分かるように、アブラムは神様がどれほど絶対的な存在であり、広大で全能な方なのかを知りました。しかし、このように神について知り、その方の言葉に従ったからといって、彼が完全な者ではありませんでした。皆さんの中にも、おそらく神様がどんな方なのか分からない方はほとんどいないでしょう。しかし、このように知っている次元を越えて、本当に神様の能力を体験し、自分のすべてを見守りながら導いていく神様を体験した時、初めて神様に対する信頼が生まれるのであり、神様との信頼関係も完全になっていくことができるのです。
アブラムも知っていることを完全な信仰に変えていくために訓練が必要だったのです。そのためにはすぐに考えを破る作業が必要だったのです。それで神様はいくらでも先にアブラムに避ける道を与えることができましたが、彼が自分の考えを働かすように放っておいたのです。アブラムが考えを働かし始める過程はこうです。飢饉を避けてエジプトの地に降りて行ったアブラムは、自分の妻のサライのために自分の命が脅かされることもありうるという考えで、妻に「どうか、私の妹だと言ってくれ。」と言います。しかし、この言葉自体が間違っているわけではありませんでした。創世記20:12を見ると、アブラハムが妻のサラについて「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」と言っています。実際にはサライがアブラムの妹であったことがわかります。腹違いの妹だったということです。
ところが問題はこの言葉が事実かどうかは別として、アブラムが妻を妹だと言わせた動機です。自分なりに知恵を働かせて危機を避けようと考えたのです。そして、果たしてアブラムが思ったように、アブラムは妻を妹と言って命は救うことができました。しかし、アブラムは次に何が起こるかまでは考えていませんでした。これがまさに一寸先も見通せないし、自分の能力で不可能なことの前ではどうしようもない人の限界です。神様はまさにアブラムにこのような事実を徹底的に悟り、以後はただ神様にだけに頼るようにするために、妻のサライを奪われる訓練を許されたのです。前述のアブラムの告白のように、全能で真実であり、すべてを導いていく神様について直接感じ、体験しながら悟らせてくださったのです。アブラムが妻のサライを奪われた訓練については、次の時間に続けてみましょう。
結論
皆さんがあることをするとき、「これが考えを働かせるのか」と、自らは気付かない場合が多いです。自分自身は「知恵がある」と言い、「こうすればうまくいくだろう」と思うのです。あまり原則通りにするのがややもすれば愚かに見えることもあり、「こうすればもっと簡単で早いのに…」 とそれなりに知恵と知識を働かせることもあります。しかし、コリント第一3:18-20には、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』」と言いました。私たちが主の中では当然賢くなければならないが、世の中の知恵においてはむしろ愚かな者にならなければならないのです。世の知恵は結局肉の考えを働かせ、神様とは敵となる方向に導いていくからです。主の中の知恵は、ただ聖潔で善良なところから来るという事です。
また、箴言16:9に「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」という言葉のようにすべてを主管し、導かれる方はただ一人の神です。アブラムもこれを悟るために訓練が必要だったのです。皆さんもやはり訓練を通してこれを速やかに悟り、世から来る知恵を捨てて、主の中で賢い人にならなければならないのです。人の知恵がどれほど限られたのかを悟り、ただ知恵の根本であり、万物の主管者である神様だけに任せてより頼むことです。従って人の知恵と方法ではなく、神の知恵と方法でいつも凡てのことに通じるように導かれることを主の御名でお祈りします。

朝の学び97 創世記12章
創世記12:4-7
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
信仰の訓練をよく通過するには
前の時間には、アブラムが神様の召命を受け、信仰の父として立てられるための本格的な訓練が始まる過程をお話しました。信仰の父とは、文字通りすべての信じる人々の父を意味します。もちろん、アブラハム以前にも神様を信じる多くの人々がいましたが、神様は初めてアブラハムの時に至って信仰という基準を提示してくださったのです。アブラハムの信仰はすべての人の信仰の基準です。比較の対象としてアブラハムの信仰と比較してみれば、自ら自分の信仰を点検することができるようになったのです。したがって、イエス様がこの地に来て、すべての人の救い主になってくださる前には、救われることが出来る信仰の基準もまさにアブラハムを通してでした。救い主として来られた主を信仰によって、義とされ、救いに至るまでは、アブラハムの信仰と従順と行いが基準となり、救いの線が決まったということです。このように重要な役割を果たさなければならないアブラハムの信仰はどれほど完全でなければならないでしょうか。
したがって、神様はアブラハムの信仰が、どんな傷もしみもない完全な分量に至らせるために、自ら訓練を始めていかれたのです。もちろん、アブラムは、以前からも神様を愛し、畏敬の念をもって仕える人でしたが、以前に聞いて知っていたことを、今は実戦して訓練を受けて行くことで、完全に力にすることができたのです。人がいくら良い環境で神様について聞いて学びながら育ったとしても、神様が望む完全な霊になるためには、とにかく気を通して先祖から伝えられた性格的なものや、本性の中に内在したもの、また肉の環境の中で育つ過程で自分も知らない間に入力された肉的なものを、すべて脱いで捨てなければならないので、訓練が必要にならざるを得ないという事です。このような訓練をよく通過するには、何よりも「自分」があってはなりません。自分が正しいと思って主張する自己的なものがない時こそ、神様のみことばに無条件に従うことで、自分の中にある肉的なものを迅速に取り出してしまうことができるからです。
ところが、私はまさに神様を迎える前に、すでに「自分」というものが徹底的に崩されていました。自分に何かができるという自信も、自分を主張しようとする義も、自分が正しいという知識や考えなど、自己のすべてが徹底的に破られ、なくなった状態で主を受け入れることになったのです。世の中に頼るところもなく、世の中では真の愛もないということを徹底的に悟った状態で主に会ったのです。ですから、主を受け入れて以来、私のすべての心と考えと力と真心も、持っているすべてが誰に向けられたでしょうか。ただ父なる神様だけに向かうようになりました。
これは聖書に出てくるマグダラのマリアも同様でした。前にマグダラのマリアについて説明したように、マグダラのマリアは誰一人頼るところがなく、心身の苦しみによって最も悲惨な状態で主に会うことになりました。家族からも徹底的に捨てられ、さらに七つの悪霊によって苦しんでいたのですから、その苦しみはどうだったでしょうか?このようなマグダラのマリアが主に出会い、すべての問題を解決され、新しい人生を始めることができたのです。だからマグダラのマリアは主に会って以来、自分のすべてをただ主のみのために献身することができたのです。
このように「自分」が徹底的に壊れた状態、心の中に世の中の何もない状態、心が貧しくて心が極めて低くなった状態で、まさにこのような状態になったために、主をまず第一に愛し、主の御言葉にただ従順だけが出てきたという事です。そして、このような心が最初だけそうだったのではなく、最後まで変わらなかったので、マグダラのマリアは神からそのように愛される女性になることができました。ですから皆さんも霊に、全き霊に迅速に入るためには、まず世で作ってきた「自分」というものを、徹底的に壊してしまわなければなりません。世の中のどんなものも愛したり頼ろうとしてはならず、ただ主だけが人生の全てであり、頼る対象にならなければならないのです。アブラムもまさにこのような姿になるために訓練を受け始めたのです。
神様と交わりを遂げ、ただちに従順したアブラム
神様はアブラムと交わるとき、自ら御声を通して働かれることが多かったのです。旧約時代には内には聖霊様がいらっしゃるのではないので、神様が自ら御声で交わりをされたり、外部から聖霊の感動を通して働かれました。そしてアブラムは神とこのように交わることについて、すでに先祖を通して聞いて知っていたので、神が彼に御声で働かれた時、その声を疑うとか躊躇したりしませんでした。聞いた瞬間、「これは神様の声だ」と分かりました。もちろん、神様に直接対面したこともあります。ソドムとゴモラを審判する前には、神様が直接アブラハムに会ってくださるのを見ることができます。
さらに、本文7節のように「そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」とあるように、神様がアブラムに現れておっしゃる場合は、神様の御声だけでなく、一緒におられるという兆しを感じることができます。もちろん、この時、神様がアブラムに現れておっしゃったからといって、神様の本体が直接来られたわけではありませんが、まさに神様の栄光の光の中の声音として働かれました。栄光の光は肉のことばで説明すると、まるで白い煙のようで、このような煙のようなものが垂れ下がった中から音声が聞こえてくるのです。このように、アブラムは神様との交りを通し、あるお言葉や指示を受けた時に直ちに従順が出たのを見ることができます。
しかし現実から見ると、ある言葉や指示を受けたときにすぐに従う場合は多くありません。自分の考えを働かせて、従うことができる限界内でのみ従順だったり、最初から考えに阻まれて従順になれない場合が多いです。肉の考えを働かすだけに、完全な従順から遠ざかるという事です。
しかし、アブラムは考えを働かせれば従順しにくい言葉であるにもかかわらず、本文4節に「主がお告げになったとおりに出かけた。」と言われたとおり、すぐに従順したことがわかります。 彼の父テラが205歳を生き、アブラハムが175歳を生きたことを考えると、75歳は年齢が多い年ではありませんでしたが、カランに定住して経済的な基盤を固め、先祖代々生きてきて多くの親戚が共にする生活の基盤を一日で後にして去るということが肉の考えを働かせるならば決して容易なことではありません。しかし、アブラムはすぐに神様のみことばに従いました。この時、神様は再び現れて契約の言葉をくださいます。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言ったのです。これはまさに父なる神様のはじめの声であり、この御言葉はそれから約400年余りが過ぎた後にそのまま成就されることがわかります。

朝の学び96 創世記12章
創世記12:1-3
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
アブラムの従順と祝福
アブラムは最初から従順の信仰を示してはいましたが、だからといって彼が完全なわけではありませんでした。彼がたとえ良い器として生まれ、良い環境の中で教育を受けながら成長したとしても、今、霊の人として完全に立つためには、これまで限られた肉の空間で学び会得された多くのものを、全部捨てなければならなかったのです。つまり、肉の環境によって入力された肉のものと、それによって出てくる肉の考えを、一つ一つ訓練を通して抜き出さなければならなかったのです。もちろん、アブラムに肉の考えが多かったり、肉のものが多く入力されていたわけではありません。しかし、彼に与えられた訓練は、決して簡単なものではなかったという事です。皆さんも罪を発見して捨てるために、いろいろな訓練を受けたと思いますが、霊にもっと近づくために受けなければならない訓練は、それだけより高次元的な水準になります。
だから「誰々の訓練はもっと簡単だ」言えるものではありません。信仰が少ない人は信仰が少ないまま訓練を受けることで、信仰が大きい人は信仰が大きいように訓練を受け、ますます完全に変化していくのです。また「私は生まれた時から畑が良くなく、器が良くないので、私だけこういう訓練を受ける」と考えてはいけません。器が良くて畑が良いとしても、それに合うそれなりの訓練があるわけで、むしろ良い器、良い畑を訓練するためには、普通の人よりも過酷な訓練が許される場合もあるからです。モーセやアブラハム、ヤコブやヨセフのように、神様の前に大きく使われた方々は、ただ生まれた時から器が良く、心の畑が良くて使われたのではありません。それだけ人より数倍、数十倍も大変な厳しい訓練までもよく受けて来たので、神様の前に大きく使われる器になったのです。そして、このように神様の前に大きく用いられた人々のもう一つの共通点は、神様がくださった祝福の契約を変わらない信仰の目で眺めていったという点です。
本文2-3節を見ると、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。神様がアブラムに与えられた祝福の約束でした。しかし、この言葉はすぐに行われるのではなく、アブラムが訓練の過程をよく通過し、信仰の父として立てられた時に行われる御言葉でした。神様がアブラムに望む完全な信仰の分量を満たした後に、このすべての祝福の御言葉が成されるということです。
アブラムはまさにこの言葉を信仰で受けました。そして、信仰の父として立てられるまで、この祝福の約束の言葉をつかんで進みました。しかし、今日、このような人を見つけるのは簡単ではありません。祝福の言葉をいただいても、信仰で受けとめることができなかったり、すぐに叶わないと、またはしばらく経っても叶わないと、心で疑って揺れてしまうのです。また、いくら大きな祝福の言葉をいただいても、すぐに現実には難しく不可能に見えれば、肉の考えを働かせて不従順になるのです。皆さん、神様がくださった御言葉は必ず成され、保障されます。しかし、その言葉がすぐに成されることもありますが、それを成し遂げて保障されるために訓練の過程を経なければならないこともあります。
前にも話したことがありますが、開拓する頃、神様が祈祷院長に聖潔の賜物を与えられました。当時は私も聖潔の賜物を受けていたので、すぐに聖潔にされると思っていました。ところが、実際に聖潔の賜物を受けてからは、思っていたのとは違っていました。むしろその時から根本に内在していた悪の形まで一つ一つ取り出して訓練して捨てるようにされるのでした。時にはその訓練があまりにも大変に感じられる時もありましたが、祈祷院長が祈りも休まずに、それでも最善を尽くし信仰に出てきたので、今は神様に愛され、認められ、権能を行う段階に至るようになったのです。
それでは、皆さん自分自身を振り返ってみてください。皆さんそれぞれにも、確かに神様がくださった祝福の約束の御言葉があったはずです。個人的にまだなかったとしても、教会的にくださった祝福の約束が、すなわち皆さん一人一人に与えられた契約のようなものです。先週に少し証したように、地方の教会の財政を担当するある執事が、万民の聖徒たちに祝福して下さると言われた神様のみことばを信仰で受けてから、大きく物質に祝福されているようにです。ところで、皆さんはこのように神がくださった祝福の約束の言葉を、どれだけ信仰で受け取ったでしょうか?まだ実現されていないということで、たぶん忘れてはいませんか?机の引き出しの深いところに入れていませんか?
皆さんにくださった神様のみことばを皆さんが確かに信仰で受け、それを成し遂げるために休まずに祈りながら今まで進んできたとすれば、成し遂げられない言葉は一つもありません。それでも成し遂げられなかったら、信仰で受け取れなかったか、ある瞬間から忘れてしまったのではないかと振り返ってみてください。エゼキエル36:36-37に、「あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。」という言葉のように、成し遂げることを変わらない気持ちで求めてきたのかを振り返ってみてください。
私は今まで神様がくださった御言葉を決して疑ったり忘れてしまったことがありません。そして、いただいた御言葉が成し遂げられるまで、変わらず信仰を持って求めてきました。そうすると、今になって振り返ってみると、開拓の時からいただいた御言葉がそのまま行われています。また、新しくくださったおことばがあり、それらも今後も必ずそのままなされるでしょう。ですから、問題は自分にあることを悟らなければなりません。同じ祝福の言葉をくださっても、誰かには成し遂げられ、誰かには成されないのは、他の誰のせいでもありません。神様がそのようにされたわけでもなく、まさに私自身がするかどうかなのです。
自分自身の器が用意される分だけ、神様の祝福の御言葉もそのまま臨むことになるという事です。これから、本格的に訓練を受けて行くようになるアブラムも、最初のテストはよくパスしましたが、信仰の父としての祝福を受けるためには、少しの肉の考えもあってはならないので、すぐに続くテストを通して肉の考えが徹底的に崩れるきっかけを迎えることになります。まさに妻のサラを奪われる試みでした。これについては、次の時間に続けてみましょう。
結論
私と本教会がこれまで世界宣教を行っていく過程を見れば、今日の本文に出てくるとおり、生まれ故郷の父の家を離れて指示されるところに行くような状況でした。何の縁故もない国だとしても、神様が「行け」と言われれば従うときに道が開かれ、助ける者たちが現れ、聖会が行われてきました。また現実的には漠然としているように見えることも、やはり神様が「成される」となれば必ずそのようになってきました。ところが、先日、神様は私たちの働き人たちに、今はあなた方が牧者の信仰となって仕事を成し遂げなければならないことをおっしゃいました。
これまでは、神様があることをおっしゃれば、頭である牧者を見て、牧者の信仰によって神様が保障され、成し遂げられたので、働き人たちはただ従うだけでよかったが、これからは働き人たちも自らが信仰を持って牧者に信頼される者になって仕事をしていかなければならないとおっしゃったのです。これは皆さんにとっても同じです。モーセの信仰だけでも、十分にカナンの地に入っても有り余る程でしたが、神様が望んだのは民全体の信仰でした。神様が私と皆さんに望むのも、私一人だけの信仰ではなく、私たち全員の信仰です。
ロシアに直接行くのは私と宣教チームの一行ですが、ロシア聖会が、神様の御心の中で美しく成就するためには、ここに残っている皆さんの信仰もとても重要だという事です。皆さんが真心を尽くして捧げた宣教献金と祈りと断食などがすべて合わされ、世界宣教を成し遂げる信仰の力になるのです。文句を言い疑いながら荒野の道を行った、出エジプトしたイスラエルの民とは異なり、心強い信仰の力になってくださる、本教会や支教会をはじめとするすべての聖徒たちに感謝し、皆さんのための贈り物として、ロシア聖会を通して神様に大きく栄光を捧げて、嬉しいニュースを持ってくるようにします。皆さんの行ないと真心を父なる神様が喜ばれて、驚くべき祝福で返してくださり、将来、天国でも美しい賞と栄光が与えられるように主の御名でお祈りします。

朝の学び95 創世記12章
創世記12:1-3
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
はじめに
今日からは、創世記の講解を通して信仰の父であり、祝福の源となったアブラハムについて説明していきます。純粋な血統を受け継ぎ、正統の系図を通して生まれたアブラムが75歳で神から召された後、信仰の父として立てられるまでの過程が説明されます。もちろん、これからのタイトルの説教を通しても、アブラハム預言者をはじめ、エリヤ、モーセ、使徒パウロについて、彼らは果たしてどんな心を持っていたので、神からそのように大きな愛と恵みを受けることができたのか、その理由が説明されます。それとは別に、創世記の講解では、アブラハム預言者が信仰の父として立つまで瞬間、瞬間に経験しなければならなかった訓練と、試練をどのように信仰と従順で通過していったのかについて、具体的に説明されているのです。続く創世記の講解を通して、皆さんもアブラハム預言者のように信仰の人であり、従順の人として出てこられることを主の御名で祈ります。
人間耕作の摂理の中で生まれたアブラハム
神様が人間耕作を計画して天下万物を造った後、人間耕作の働きの中には何度も新しい出発点がありました。初めの人アダムが生きた霊となって人間耕作のための最初の出発点となりました。その後アダムが罪を犯してエデンの園から追い出され、この地に降りてきてからは、実質的な6千年の人間耕作が始まりました。そして、罪悪が蔓延し支配したその当時の世界が洪水の審判で滅亡し、ノアという人物を通して人間耕作が再び新たに始まります。洪水の審判とともに、創世記1:3に、神が最初に地球を創造しながら囲んでくださった光が取り込まれ、今はすべてが根本的な肉の属性に戻った状態で本格的な人間耕作がはじまるようになったのです。
そして人間耕作の歴史がもう一度新しく始まるきっかけがあったのですが、それがまさにバベルの塔の事件でした。バベルの塔の事件を契機に人類の言語と民族が分かれるようになり、人間は初めて神様が計画された人間耕作の環境が完全に整った状態で、人間耕作を受け始めます。すべてのことを予知予定される神様が、真の人間耕作のために摂理された環境が、バベルの塔事件を契機に行われるようになったということです。又人間耕作の歴史において、霊的に非常に重要な意味を持つもう一つの新しい転機を迎える事件が、まさに今日の本文に出てくるアブラムの誕生でした。
将来信仰の父となるアブラムの誕生が持つ霊的な意味については、後ほどに説明されますが、彼の誕生はこれまでにあったどんな事件よりも霊的に非常に大きな意味を持っています。それでは、神はこのように重要な意味を持つ信仰の父アブラハムという人物を、なぜこの時点で生まれるようにされたのでしょうか。彼が少し早く生まれるようにして、もっと前に信仰の父が立てられるようにすることもできたと思いますが、神様はなぜ人間耕作が始まって2000年余りが過ぎた後に、信仰の父が生まれるようにされたのでしょうか?例え、人間耕作が始まって間もなく、信仰の父が立てられるようにしておけばもっと良かったと思うのですが。しかし、それは人の側からの考えに過ぎず、神様の考えと御心は人とは違うという事です。
人間耕作が始まり2000年余り後に、信仰の父アブラハムが生まれたのも、その後また2000年余りが経った後に、救い主となるイエス様が生まれたのも、最初からすべてをご存知である神様の摂理の中で、最も適当な時点で起きたことです。それより速くても遅くなってもいけなかったのです。先ほど、人間耕作の歴史において新しい始点となったいくつかの事件を概略的にお話しましたが、その事件一つ一つがすべて人間耕作の歴史を成していく上で、なくてはならない重要な事件でした。神様は公義の中ですべてを成し遂げるので、ある日突然信仰の父が生まれるようにしたのではなく、人間耕作の環境もやはり一気に作られたのではありませんでした。神様は人間耕作の環境を段階的に作りあげ、人間耕作の歴史において最も適当な時点に合わせて信仰の父が生まれるようにされたということです。
アブラムの誕生と信仰の訓練
先ほどアブラムの誕生が非常に重要な意味を持つと言ったのですが、その理由は何でしょうか?それはまさにアブラムが人間耕作の摂理のなかで、「信仰の父」として立てられる人だからです。「信仰の父」という言葉の意味を少し簡単に説明すると、それは将来、すべての人の信仰に耐える対象であり、信仰の基準になるという意味です。つまり、それぞれの人の信仰がどれくらいなのかを、まさにアブラハムの信仰に比べて比較することになるということです。このように信仰という面で、完全な者として立てられなければならないアブラハムだったので、神様は彼の誕生から直接干渉されたので、時が達して訓練されて彼を信仰の父として立てていくのです。
そして彼が信仰の父として少しの不足もない完全な分量に達するためには、彼が受けなければならなかった訓練も、神様が直接関与される最高の水準でなければなりませんでした。信仰の父として立てられなければならない人が、ただおおよそに訓練されて出てくるのではないので、アブラハムは神様の手に引かれて一段階、一段階、信仰の成長を成し遂げることになります。もちろん、アブラムは本格的な訓練を受ける前にも神について知り、信じ、神を恐れる人生を送った人です。しかし、彼が以前に知っていることと、体験を通して親しく神様について感じて悟っていくのとはまったく異なります。
これは私たちが信仰の中に入ってきて、信仰が成長していく過程も同じです。最初はただ聞いてみてわかる水準ですが、次第に信仰の訓練と体験を通して、信仰の充分な分量にまで成長していくのです。エペソ 4:13に「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」と言われるように、神は私たち全員にキリストの満ち満ちた身丈にまで信仰の成長を成し遂げることを願うのです。
そのためには時に火のような訓練が必要なのであり、そのため、ペテロ第一1:7では、「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」と語っているのです。アブラムは信仰の父らしく神様がくださったテストを、最初からすぐに通過していくのを見ることができます。本文1節に「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と言ったとき、アブラムは直ちに従いました。私たちは当時の状況で、「生まれ故郷父の家を離れて、指示される土地に行きなさい」という言葉に従うのは決して簡単な言葉ではないことを知らなければなりません。
今日、多くの人々が「私もアブラムのように従うことができます。」と告白するかもしれませんが、実際にそのような状況になれば、従順する人がそれほど多くはないという事です。自分のすべての生活の基盤と経済的な基盤、また家族との関係までも全て後にして、それも目的地が決まっていない状態で、むやみに見知らぬところに向かって離れなければならないということが、肉の考えを働かす人ならば、決して従うことはできないことでしょう。しかし、アブラムは最初からこのようなテストを軽くパスしたという事です。
それでは、皆さんも自分自身を一度振り返ってみてください。生まれ故郷の父の家を離れるというわけでもないのに、「私は果たしてどれほど神の言葉に、仕える方の言葉に従ったのか」ということです。行きなさいと言われれば、行けばいい。後ろに戻りなさいと言われればそうすればいいのですが、その小さな指示一つにもどれだけ多くの考えを働かせているのでしょうか?これまで聞いてみて、頭では確かに従順でなければならないということを知っているのに、実際に現実では従順が出てこなかったということです。
またあまりにも小さくて簡単なことの一つも、完全に従うことができないことがまたどれほど多いでしょうか?一日に御言葉を一章以上読んで、一節ずつ暗唱しなさいと言ったことも、依然として従順できない方々はできずにいます。神様は祈りを休まないようにと言われましたが、普段は言うまでもなく、今回のように特別徹夜が行われても、依然として祈らない方はしていません。しかし、アブラムは決して小さなことではないにもかかわらず、神様の御言葉にすぐ従順しました。これまで先祖たちを通して聞いて学んだ神様について、頭に知識だけを詰め込んでいたのではなく、このようにまさに従順の行いで神様に対する信仰を示したという事です。

朝の学び94 創世記11-12章
創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
バべルの塔の事件後の人間の寿命の短縮
ノア洪水の後、この世界は肉の法則に従ってすべてが運行されていましたが、バベルの塔の事件の後は、より完全に肉の法則に支配されるようになってしまいます。その結果、病気も多くなり、先天的な障害や弱い者も現れます。もちろんこのすべては、世の中がますます悪に染まり、その罪の結果として現れる現象でもありますが、バベルの塔の事件を契機に、それがさらに激しくなったということです。このような変化を最もよく表しているのが、人間の寿命の短縮です。
本文を見てみると、セム以降に寿命が少しずつ減ってはいるのですが、それでもエベルの代までは寿命が四百年をはるかに超えています。ところがぺレグの代からは寿命が二百年代に急速に下がります。エベルだけ見ても三十四歳でベレグを産んで後、四百三十年を生きたのです。つまり四百六十四歳を生きたのです。セムを見ると洪水以前の世代であったのですが、洪水後も五百年をさらに生き、総六百年を生きました。それに比べるとエベルの寿命は大幅に縮まりましたが、それでもかなり長い歳月を生きたと言えます。しかし、ベレクからは二百三十九歳、レウも二百三十九歳、セルグは二百三十歳を生きます。急に、平均寿命が200年以上減ったのです。
ところで、寿命が急に縮まったベレグは、どのような事件に関連して生まれた人物でしたか?創世記10:25を見ると、「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。」とあるように、ペレグはまさに地が分けられた時、すなわちバベルの塔の事件があった時に生まれた人物です。これはつまり、バベルの塔の事件が、この地の人々の言語が混乱することによって、民族が分裂して分かれる決定的な契機になっただけでなく、人間の寿命にも大きな影響を与えるほど途方もない結果をもたらしたということです。また、このことは神様の怒りを買ったということも言えるでしょう。
したがって、バベルの塔の事件以後、この世界は肉の法則に完全に支配されるようになり、さまざまな病気や弱さが生まれ、また人々がより一層罪悪に関与し、人間の寿命の短縮にまで影響を与えるようになったのです。生きた霊であったアダムの犯罪以後、人が罪悪に染まって肉に落ちれば落ちるほど、人々の命もさらに短縮されてきたのです。しかし、逆に失った神様のかたちを取り戻していけば、それだけ人は年を取ってもむしろ健康になることができ、若返りして長生きすることができるという事です。
信仰の父アブラハムの誕生と成長
本文27節からはアブラムが生まれる具体的な背景が出てきます。本文を通して、私たちはアブラムがカルデヤのウルで生まれたことが分かりますが、ウルは古代メソポタミア文明の発祥地であるユーフラテス川下流の西岸に位置した古代シュメールの都市でした。ここウルで生まれ成長したアブラムは、そこで妻のサライを迎えましたが、サライは妊娠できないので、子供がいなかったのです。そんな中、アブラムの父テラはアブラムと孫のロトとアブラムの妻のサライを連れて、カルデヤのウルを離れてカナンの地に向かう途中、ハランという場所にたどり着きます。
では、アブラムはどのような背景で成長したのでしょうか?本文の系図からわかるように、アブラムが生まれた当時、セムをはじめとする彼の祖父たちは皆、生存していました。したがって、セムやエベルの場合は、アブラハムが死んだ後も生きていました。そのため、アブラムは生まれてから成長する間、直接洪水に見舞われたことをはじめ、多くの先祖から教えられる機会がありました。神様について学び、神様の御心と摂理についても、アブラムは先祖を通して学ぶことができました。このように、アブラムは神様を恐れ敬う雰囲気の中で成長し、神様に対する信仰と愛を育てていくことができました。
ところが、アブラムが生まれ故郷の父の家を離れなければならなかったときは、状況が以前とは少し変わったということをヨシュア24:2-3の言葉を通して知ることができます。「ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。」ということから、アブラムの父テラが他の神々に仕えたことがわかります。
当時アブラムが生まれたカルデアのウルはもちろん、テラとその家族がカナンに向かう途中に住んでいたハランというところも、偶像崇拝が盛んであった所でした。そのような中でも、屈せず純粋な血統を守りながら神様を恐れてきたが、ある瞬間、アブラムの父テラであっても当時の雰囲気に浸ってしまいました。まさにこのような時点に至った時、神様はアブラムを故郷の親戚の父の家から一人で独立させたのです。アブラムまでも、そこの雰囲気に染まらないようにするためであると同時に、アブラムを信仰の父にするための本格的な訓練を始めたのです。
もちろん、これまでアブラムが育ってきた環境は、神様を恐れて仕える雰囲気の中で神様について学び、悟ることができましたが、それだけでアブラムが信仰の父になれたわけではありませんでした。これまでは、親と祖先の保護の中でそれなりに神様について学び、悟りながら訓練を受けたとすれば、これからは自ら神様が干渉しながら、アブラムを信仰の父として訓練していくのです。肉の父を離れ、広い世界の中で以前とは全く違う人生を生き、神様の手によって訓練されるのです。神は本格的な訓練の始まりとともに、アブラムに莫大な祝福の言葉を与えてくださいます。本文の創世記12章2-3節に、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。
彼が将来どうなるのかをあらかじめおっしゃってくださったのであり、まさにその言葉を成し遂げようと訓練されたのです。もちろん、アブラハムは最初から神様のみことばにすぐ従順しましたが、神様が望む分量はその程度ではありませんでした。信仰の父という最高の水準に達するために、今後彼が体験しなければならない信仰と従順の訓練に比べれば、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」という言葉は始まりに過ぎませんでした。信仰の父であるアブラハムが今後どのような信仰と従順の訓練を体験していくのか、次の時間に引き続き見ていきましょう。
結 論
旧約時代は行いや形式が重要な時でした。行いや形式を通して、神様に対する信仰と従順が表現されたのです。ところがこのように行いと形式自体も重要ですが、旧約時代といっても神様が本当に望んでいたのはその中に込められた心でした。神様が純粋な血統を維持する中で正統性をつなげ、それを重要に考えられたのも、神様の御心に従う心を望んだのです。
ところがイエス様がこの地に来られた時、人々はいざ重要な心には関心がなく、ひたすら外面的な面だけに関心を持っていました。自分たちは血統的に「アブラハムの子孫」という意識の中で、選民である自分たちと異邦人たちを徹底的に区分し、自分たちだけが救われた民だと思いました。イエス様はこのような考えで固まっていたユダヤ人たちに向かって、ヨハネ8:39を見ると、「彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」とおっしゃいました。アブラハムの子孫ならば、アブラハムが行った信仰と行いを見せろということです。形式や血統が重要なのではなく、どんな心で行っているのかが重要だという事です。
ですから、ローマ2:28-29を見てください。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と言っているのです。今日みことばを聞いた私たちも「私はこのような職分を持っていましたが…」「私はこのように長い間信仰生活をしました… 私はこんなに頑張っていますが…。」とこのように話す前に、「私は果たしてどんな心で行っていて、どれだけ心に割礼しているのか」を先に振り返ってみてください。それで、神様から褒められる皆さんになることを主の御名でお祈りします。

朝の学び98 創世記12章
創世記12:8-20
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。。
妻を奪われる訓練を受ける前、アブラムの告白
神様があることをおっしゃる時、人の側で従順できなかったり、信仰にならない場合には、御言葉が成就するのが遅れることもあります。しかし、神様がおっしゃった御言葉は、創造の初めの声なので必ず成就されます。ただ、それがすぐに成就することばなのか、それとも時間が経ってから成就することばなのか、こういう違いはあります。
例えば、イエス様が病気を治す時も、常に初めの声を発せられましたが、ほとんどその場で直ちに癒され、神様に栄光を捧げましたが、ルカ17章に出てくる十人のらい病人の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われた御言葉に従順して行った途中で綺麗に癒されました。このように、本文に神様がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」とおっしゃった御言葉も、すぐに成し遂げられる言葉ではなく、400年余りが過ぎた遠い後日、モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を征服していくようになって、なされる御言葉だったのです。
私が初めの声を発する時もこんな感じです。すぐにその場で行われ、働かれることが多いですが、時には時間を置いて待たなければならない場合もあります。そして、この時御言葉を受ける働き人の方が、どれほど信仰を持って受けて自分のやるべきことを行っていくかによって、御言葉が成就する時間がさらに長くなることもあり、短縮されることもあります。この時も問題になるのがまさに自分の考えを働かせることです。だから、神はアブラムにこの考えを破る訓練をさせてくださいます。まさに妻のサライを奪われる訓練でした。この訓練を通して、アブラムは自分の考えを徹底的に壊すきっかけになりました。
神様のみことばに直ちに従順だったアブラムでしたが、実際に自分の命がかかった状況になると、神様だけを全面的に頼ることができず、つい自分の考えを働かせたのです。これは、アブラムが神様はどんな方なのか分からないからではありません。アブラムが妻を奪われる訓練を受ける前に、彼が神様の前に祭壇を築いて告白した内容を聞いてみると、アブラムが幼い頃から神様についてどれほどよく聞いて学んで知っていたかがよくわかります。神様が私に教えてくださったアブラムの告白を皆さんにお知らせします。
「すべてのことに信実で完全であり、すべてを導き、働かれる全能なる神様、すなわち私の先祖の神様なる方を、このように賛美致します。まことに、すべてのことを信実で完全に行なわれるその方の御名を賛美し、このようにすべてを指示し、すべてを導いてくださったその方の御名の前にひれ伏します。その方の御名は高く、広大であり、すべてを建てられ、私たちの先祖の主と神となられた、その方の御名を賛美致します。私はその方の御前にこのようにひれ伏し、その方の御名によって私はすべてを信じて従順します。その方の御名の前に、すべてが恐ろしく震え、すべてがその方の足の下にあるからです。その方の御名は広大であり、その方は完全であり、すべての道を指示して導かれます。その御言葉に従順し仕えることが当然であり、すべてがその方の御名の前にあるのです。」
このような告白を通して分かるように、アブラムは神様がどれほど絶対的な存在であり、広大で全能な方なのかを知りました。しかし、このように神について知り、その方の言葉に従ったからといって、彼が完全な者ではありませんでした。皆さんの中にも、おそらく神様がどんな方なのか分からない方はほとんどいないでしょう。しかし、このように知っている次元を越えて、本当に神様の能力を体験し、自分のすべてを見守りながら導いていく神様を体験した時、初めて神様に対する信頼が生まれるのであり、神様との信頼関係も完全になっていくことができるのです。
アブラムも知っていることを完全な信仰に変えていくために訓練が必要だったのです。そのためにはすぐに考えを破る作業が必要だったのです。それで神様はいくらでも先にアブラムに避ける道を与えることができましたが、彼が自分の考えを働かすように放っておいたのです。アブラムが考えを働かし始める過程はこうです。飢饉を避けてエジプトの地に降りて行ったアブラムは、自分の妻のサライのために自分の命が脅かされることもありうるという考えで、妻に「どうか、私の妹だと言ってくれ。」と言います。しかし、この言葉自体が間違っているわけではありませんでした。創世記20:12を見ると、アブラハムが妻のサラについて「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」と言っています。実際にはサライがアブラムの妹であったことがわかります。腹違いの妹だったということです。
ところが問題はこの言葉が事実かどうかは別として、アブラムが妻を妹だと言わせた動機です。自分なりに知恵を働かせて危機を避けようと考えたのです。そして、果たしてアブラムが思ったように、アブラムは妻を妹と言って命は救うことができました。しかし、アブラムは次に何が起こるかまでは考えていませんでした。これがまさに一寸先も見通せないし、自分の能力で不可能なことの前ではどうしようもない人の限界です。神様はまさにアブラムにこのような事実を徹底的に悟り、以後はただ神様にだけに頼るようにするために、妻のサライを奪われる訓練を許されたのです。前述のアブラムの告白のように、全能で真実であり、すべてを導いていく神様について直接感じ、体験しながら悟らせてくださったのです。アブラムが妻のサライを奪われた訓練については、次の時間に続けてみましょう。
結論
皆さんがあることをするとき、「これが考えを働かせるのか」と、自らは気付かない場合が多いです。自分自身は「知恵がある」と言い、「こうすればうまくいくだろう」と思うのです。あまり原則通りにするのがややもすれば愚かに見えることもあり、「こうすればもっと簡単で早いのに…」 とそれなりに知恵と知識を働かせることもあります。
しかし、コリント第一3:18-20には、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』」と言いました。私たちが主の中では当然賢くなければならないが、世の中の知恵においてはむしろ愚かな者にならなければならないのです。世の知恵は結局肉の考えを働かせ、神様とは敵となる方向に導いていくからです。主の中の知恵は、ただ聖潔で善良なところから来るという事です。
また、箴言16:9に「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」という言葉のようにすべてを主管し、導かれる方はただ一人の神です。アブラムもこれを悟るために訓練が必要だったのです。皆さんもやはり訓練を通してこれを速やかに悟り、世から来る知恵を捨てて、主の中で賢い人にならなければならないのです。人の知恵がどれほど限られたのかを悟り、ただ知恵の根本であり、万物の主管者である神様だけに任せてより頼むことです。従って人の知恵と方法ではなく、神の知恵と方法でいつも凡てのことに通じるように導かれることを主の御名でお祈りします。

朝の学び93 創世記11-12章
創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
はじめに
愛する皆さん、本文の創世記11:10-26までは、セムから始まり、信仰の先祖アブラハムに至るまでの系図を示しています。洪水から9代目に至り、将来、信仰の先祖となるアブラムが生まれる過程を正統性の立場から記録しています。セムの様々の息子たちの中で、まさにアルパクシャデがセム家の純粋な正統性を受け継いだので、アルパクシャデの息子たちの中ではセラが受け継いで、このように純粋な正統性を受け継いだ息子たちを通してついにアブラムが生まれたのです。
神様は信仰の先祖アブラハムが、このように洪水後ノアの正統性を受け継いだセムの系図を通して、それも純粋な血統に従う正統性が維持される中で生まれるようにしたのです。神様はこのように、セムの系図が純粋に維持されるように徹底的に守り、保存することで将来、選民として選ばれることになるイスラエル民族を備えられたという事です。もちろん、セムだけでなく、ハムやヤペテの場合にもそれぞれ彼らだけの正統性を持った系図が続き、彼らも将来民族から国へと発展していきます。また、このように正統性を受け継いでいない人たちも、それなりに繁栄し集団を形成していきます。
本文に出てくる系図には入っていませんが、彼ら以外にも多くの息子と娘がいて、彼らはたとえ純粋な血統を継ぐことはできなくても、人間耕作の歴史を作っていく重要な構成要素に成長することになるのです。セムの純粋な血統を受け継いで出てくる選民イスラエル民族だけでなく、将来イスラエル民族との関係の中で道具として使われる周辺の多くの民族も、一つ一つ形成されていったのです。ところで、セムの純粋な血統が記録された今日の本文の中には一つの重要な事件が隠されていますが、果たして何でしょうか。
純粋な血統を維持できなかった子孫カイナン
当時の家門の純粋な血統を維持し、正統性を継続するのは、大部分長男の役目でした。しかし、長男がその分をうまく出来なかったときは、他の息子たちの中で正統性を続けた場合もあります。本文と同じ内容を記録している第一歴代誌1:24-27とルカ3:34-36に見ると、1つの違いが見られますが、第一歴代誌1:24-27では「セム、アルパクシャデ、シェラフ、エベル、ペレグ、レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラム、すなわちアブラハム。」とあり、本文と系図が正確に一致しています。
ルカ3:34-36では、「ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子、テラの子、ナホルの子、セルグの子、レウの子、ペレグの子、エベルの子、サラの子(シェラフ)、カイナンの子、アルパクサデの子、セムの子、ノアの子、ラメクの子、」と記されています。皆さんが詳しく比較してみると分かるように、ルカの福音書ではサラとアルパクサデの間に「カイナン」という人物がもう一人入っています。おそらく以前にも聖書を読んで、これらの違いを見つけた人もいると思います。確かに同じ内容を記録しておいたにもかかわらず、創世記や第一歴代誌にはない人物の名前が何故ルカの福音書にだけ入っているのでしょうか。
それで聖書学者たちもこれについて多くの研究をし、その中で多くの人がルカによる福音書の記録が間違っていると主張するようになりました。つまり、筆写する者が聖書を移して記録する過程でミスがあったということです。 あるいは、もともとカイナンという人物がいたのですが、どういう理由でかわかりませんが、その名前が系図から削除されたと主張する人もいます。韓国で言えば系図から名前が消されたということです。それでは、果たしてカイナンについての真実は何でしょうか?まず、わたしと皆さんは、聖書のすべての記録が真であり、たとえ聖書の中で互いに記録の違いがあるとしても、聖書の著者である神様がそれを許されたのには明らかな理由があるという事実を信じなければなりません。
今日の本文とルカによる福音書の記録に違いがあるのも、まさにこのような理由の一つです。
ある人々の主張のように、聖書を記録する過程で人の間違いがあったり、聖書の内容が互いに矛盾するのではなく、神様はこのように違いのある内容を通して当時あった重要な一つの事件に対して隠しておられたという事です。神様の側では人間耕作の働きの中で、今後誰かが神様と明らかに交わりをし、神様から啓示を受け取ることができる人を通して、まさにこの部分に隠された秘密を教えたかったのです。このように違いが出る部分についても、人の考えの中で解くのではなく、神様のみことばである聖書を完全に信じて祈ることで、その中に込められた神様の御心と摂理を解くことができる人を待っていたということです。
それでは、神様が教えてくださった重要な事件というのは何でしょうか。実際にカイナンという人物はいました。彼はセムの正統性を受け継ぎ、純粋な血統を受け継いでいくように選ばれた人でした。ところが、カイナンはまさにこの役割をまともに果たせなかったのです。カイナンは性質が柔弱な人で、肉の考えが多い人でした。神はセムの血統を受け継いだ純粋な系図が維持されることを望み、その系図を通してアブラムが生まれることを望んでおられました。それで、セムからアブラムにつながる系図が純粋に保たれるように守られ、保護されました。もちろん、この地に救い主として来られるイエス様に至るまでのすべての過程も、神様の徹底した干渉と摂理の中に行われます。
「誰の子孫として生まれるのか、なぜそれほど重要なのでしょうか。」と考えることもできますが、それはすなわち人間耕作の歴史が偶然や勝手に動くのではなく、すべてが神様の計画の中で始まり、終えられるという事から非常に重要な意味を持っています。アダムの犯罪の後、この世界は敵である悪魔サタンの主管の下に置かれているため、敵である悪魔サタンは肉の人々を主管し、自分たちが望むように世界を導いていこうとします。このような中で神様の御心と摂理を成し遂げるためには、神様の御心を正確に受けて広げていく人物が必要です。
ところが、このように神様の御心の中で使われる人物一人が出てくることは、容易になるわけではなく、それだけ長い歳月を経て準備されなければなりません。そのためには、悪が蔓延したこの世の中で、それでも神様の御心を知って従順する純粋な正統性を持った人々が必要です。ノアという一人の人物が存在するまで、神様は彼の古くからの先祖から主管し、神様の御心が続くようにしたので、洪水の裁きの中でも生き残って人間耕作を続けるノアが出てきたように、神様の御心を純粋に続けるためには、純粋な血統を通した正統性を保存することも非常に重要だということです。それで、神様の方でも正統性を重視し、純粋な血統が続くようにしたのです。
このような事実をよく知っていたアブラハムは、息子のイサクの妻をさがすときに異邦人の中でさがしたのではなく、彼の信頼する僕を故郷に送り、自分の民族の中でさがすようにしたのを見ることができます。ところが、セムの純粋な血統を受け継いで生まれたカイナンは、このような神様の御心を悟らないまま、少し違った考えをしていました。「とにかくみんなが一人の祖父であるノアの子孫であり、ノアの三人の息子から広がってきたので、自分たちはみんなが一つの民族だ」と考えたのです。あえて「誰の子孫だ」と問い詰め、純粋な血統を受け継いでいくことはあまり意味がないと考えたのです。
結局、カイナンは純粋な血統を維持できないまま、他の兄弟の子孫と混ざり合い、一つに融和し、正統性を失ってしまいました。これは当時の状況で非常に大きな衝撃でした。系図の純粋さを受け継ぐ義務を持つ長子として、このように正統性に正面から挑戦する姿は、彼をこれ以上純粋な血統を受け継ぐ資格にとどまることが出来ないようにしたのです。結局、カイナンはセムの純粋な血統を受け継いだ正統の系図から抜け落ちてしまいます。彼が特に悪事や大きな罪を犯したからではなく、正統性の流れから完全に抜け出した人物だったため、正統の系図から名前が抜けてしまったのです。創世記や歴代誌にも、このような理由で彼の名前は記録されなかったのです。
バベルの塔の建築に参加したセムの子孫ベレク
ところが、後にセムの子孫であるベレクの代に至り、外形的には似たような状況が再び再現されます。それは、セムとハムとヤペテの子孫たちが「全地に散らばるのを避けよう」と連合して立てたバベルの塔の事件でした。バベルの塔の建築を主導したハムの子孫たちは、神様に対抗しようとする本音は隠したまま、表面的には三つの種族が一つになろうという意味で、バベルの塔の建築を推進するように話したのです。この時、セムの子孫たちは以前、先祖カイナンが正統性を無視してすべてを一つに混ぜようとしたが、系図から名前が除外される事件があったことを知っていたにもかかわらず、このようなバベルの塔の建築に参加しました。
しかし、セムの子孫たちが三つの種族がひとつになるためのバベルの塔の建築に参加するようになったのは、本質的にカイナンが持っていた考えとは違いました。カイナンは血統と血統とを混ぜて結局一つの民族を作ろうとしたのですが、バベルの塔の建築に参加したセムの子孫たちは単に「セムの子孫であれ、ハムの子孫であれ、ヤペテの子孫であれ、自分たちはみんなが一つの先祖から生まれた」ことを記念する意味で、バベルの塔の建築に参加したのです。すでにバベルの塔の事件について説明したように、バベルの塔の建築を通して自分たちが力で主導し、セムとハムとヤペテの子孫を一つにまとめようとしたハムの子孫とは異なり、セムやヤペテの子孫は単にバベルの塔を通して、自分たちが根本一つのルーツであったことを忘れずに記念しようという意図で、バベルの塔の建築に参加することになったのです。しかし、それぞれの子孫がバベルの塔の建築にどのような目的で参加したとしても、それは神様の御心には合わないことであったので、バベルの塔の事件は再び人間耕作の働きにおいて大きな転機となります。

朝の学び92 創世記11章
創世記11:5-9
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
三位一体の神様が自ら降臨される
続く7節を見ると、「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」と言いましたが、これはこの地に降りてくる主体が一人ではないことが分かります。父なる神様が一人でこのことを成し遂げたのではなく、三位一体の神様が一緒に成し遂げた事を物語っています。太初に天地を創造するためにこの地に降りてくる時も、3人が一緒にいたように、この時も3人が直接一緒に来て、すべてをご覧になり決定したのです。
このように、神様はあることを成し遂げるにあたって一人で決めて行なうのではなく、三人が一緒に話し合い、決定しています。三位一体の神様は、お互いがお互いを尊重され、別々ではなく、おひとりとして働かれます。もし三人がそれぞれの思い通りにされて違うならば、人間耕作の歴史は一貫性がなく進むこともできたでしょうが、いつも心を一つにして物事を成し遂げるためにすべてが一寸の誤差なく摂理され、計画されたとおりに成し遂げられるのです。
ここで私たちがただ通り過ぎてはならないことがありますが、まさに三位一体の神様が自らこの地に来られたという部分です。神様はこの地にあえて降りてこなくても、人々がなぜ町と塔を築いており、その心に何が含まれているのかまですべてを知っておられます。また、直接降りてこなくても、いくらでも人々の言語を混乱させることができます。それでも、三位一体の神様が自ら降りて来られたのは、すべてのことを直接もう一度確認し、正確な公義の中で事を成し遂げるためです。
神様はソドムとゴモラの地を審判される時も、すでに彼らの罪悪を知っていましたが、もう一度使者を送って確認させています。創世記18:20-21に「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』」この地の状況を直接調べるために、自ら二人の天使を連れて降りてこられた神様は、まずアブラハムに現れ、将来ソドムとゴモラにある審判について教えてくださいます。そして、二人の御使いを直接ソドムに送り、そこの状況を調べさせました。二人の御使いを通してソドムの罪悪がどれほど蔓延していたのかを直接確認した後、硫黄と火でそこを審判されたのです
。
このようにバベルの塔の事件の時にも、三位一体の神様は、自らこの地に降りてきて、すべてのことを察して決定されたのです。これは、三位一体の神様が自ら見て決定するほど、バベルの塔の事件が人間耕作の歴史の中で重要な事件であることを教えていると同時に、神様がすべてのことを処理するにあたって、どれほど正確な公義の中で成し遂げられるかを示しています。詩篇96:10に、「国々の中で言え。『主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。』」とおっしゃったとおり、神様は少しの偏りもなく、ただ公議の中で公平に行なわれるという事です。
言語の混乱
では、神様は果たして人々の言語をどのように混乱させたのでしょうか。また、言語が混乱した人々の反応はどうだったのでしょうか?神様はあっという間に言語を混乱させました。これから時が来れば説明しますが、神様がこの肉の空間の中で霊の働きを行う時は、それぞれ時間を伸ばしたり、時間を減らしたり、時間を停めたりする中で一つの場合を通して繰り広げられます。ところで、言語を混乱させたのは、その中でまさに時間を停めて起こったことでした。これは簡単に言って、あまりにも早く瞬時に起こったと理解してください。それで人々は自分たちの言語が変わったという事実さえ感じられず、依然として以前に使っていた言語をそのまま使っていると思いました。
このような状況の中で、人々はお互いの言うことを理解できなくなると、「以前は私たちがお互いに会話するときに通じたが、今はなぜ会話が通じないのか?変だな」こう思いながら離れ去っていくしかありませんでした。そして自然にバベルの塔を積むことが中断され、人々は言語が通じる人同士が集まって、散らばっていくようになりました。8-9節に、「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」とある通りです。
また、神様は言語を混乱させ、部族や部落別に言語が分かれるようにしましたが、彼らは一つの集団を成して、それなりの正統性と特殊性を維持しながら、ますます大きな集団に成長することになります。そうしながら、一つの民族となり、一つの国を形成していきます。
神様が彼らを地の全面に散らされたという言葉のように、言語が混乱するこの事件を契機にして人類は初めて全地に広がり、多様な民族と国家を形成するようになったのです。ところが、人々がこのように散らばったことで、それぞれ定着する土地を探して移住することが、表向きには、自分たちの意志によって望む所に行くように見えました。しかし、その中には彼らの先祖を通して、それぞれの種族に与えられた祝福と呪いの言葉を叶えるための摂理が含まれていたという事です。つまり、セムとハムとヤペテに与えられた祝福と呪いの言葉に従って、彼らは自分たちが耕作される土質に合った場所に正確に移動したのです。
もちろん、種族と種族が混ざり合ったり、共存したり、また同じ種族から離れていった群れもいたはずです。しかし、それぞれの種族の主流は、セムとハムとヤベテに与えられた父ノアの言葉に従って、そのまま応じていったということです。そうしながら、強くて裕福な国と民族が出たり、相対的にそうでない国と民族が出たりして、今日のように人間耕作の歴史が続いてきたのです。10節からはノアの正統性を受け継いだセムの子孫たちの系図が出ていますが、次の時間には信仰の先祖アブラハムが出るまでの過程について見てみたいと思います。
結論
最初に先立って父なる神様はこの地に自ら降臨しながら、自らも公義の法則を破らないように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通られたと話しました。万物の主菅者であり、主人であり全能者ですが、神様は持っていらっしゃる権勢を勝手に使う方ではなく、自らが定めた法則もまた正確に守られるという事です。私もこのような父なる神様の属性をよく知っているので、私自身も教会の法の枠を外れたこともなく、堂会長として私に与えられた権勢だとしても、それを任意に行使したことがありません。
しかし、世の中ではどうですか?権威や名誉が与えられると、それを利用して法の枠を超えることもあり、自分が定めた規範や約束さえも自分の利益に合わないとあまりにも簡単に変えてしまいます。しかし、主の中では権勢があり高い地位にあるほど、法と秩序をよく守り、他の人々の手本にならなければなりません。「私は例外だから」と思ってもならず、自分の利益を追って法と秩序を崩すこともあってはなりません。
また、父なる神様は霊の法則だけでなく、この地に立ててくださった肉の法則も尊重されるように、皆さんも霊的な面ではもちろん、肉的な面でもひっかかることがないように、霊肉間に秩序と法をよく守ってください。もちろん、霊的なことが常に優先されなければならないが、肉的にも欠けていないように、すべてをあまねく調べなければならないということです。
そして、みことばを通してもうひとつ悟らなければならないことは、父なる神様があることを決めるにあたり、公義の中で正確に判断されるように、皆さんも何事にもそうでなければならないということです。三位一体の神様は、バベルの塔を積むところに親しく降りてこなくてもよかったのですが、それにもかかわらず、自ら降臨されて、もう一度すべてを調べて決められました。
このように私たちもあることを決定するにあたって決して片方の言葉だけを聞いてはいけないのです。必要に応じてもう一度確認して確認しなければならない時もあるという事です。決定を下したほうで簡単に行うことができますが、ややもすると不公平な決定のために当事者が受けなければならない苦痛を考えるならば、レビ19:36に「正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。」とおっしゃった通り、すべてのことに公平でなければならないのです。
それでも、最後まで忍耐して我慢し、信仰で見てくださる神様の心のように、どうすれば「相手を生かせるか」という心で決定を下さなければならないのです。肉的なことだけを考えるなら、左右に偏らないように公平にすればいいのですが、霊的には公平でなく、ヨハネ6:63に「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」という御言葉通り、常に生かす「霊」を選ばなければならないという事です
私も今まで教会を治めてきて、いつも公平に物事を処理してきましたが、それでも結局はいつも生かす側、何とかもう一度機会を与える側、このように霊の方法を選択してきました。このような私の姿を見ながら、時には周りの働き人が理解できない場合もあったでしょう。しかし、私がこのように、父なる神様の心でいつも霊の方法を選択してきたので、今の主のしもべと働き人が出てくることができたという事です。ですから、皆さんも愛と公義の調和の中で神様の働きを成し遂げますが、何が本当に神様の国のためのことか、何が本当に父なる神様の意志なのかをよく見て下さい。それでいつも父なる神様が望む道にだけ導かれていくことを主の御名でお祈りします。

朝の学び91 創世記11章
創世記11:5-9
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
はじめに
父なる神様は、初めに天地を創造するために、自らこの地に降りて来られました。霊の空間におられる神様が肉の空間であるこの地に降りて来られたのです。創世記1:2後半に、「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と言われた言葉は、その時の状況を示しています。そしてその後も人間耕作の歴史上の働きの中で神様が自らこの地に降臨された場面が聖書には何度も記録されています。
例えば,出エジプト記19:18に「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」とあります。民数記 11:25には、「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。」創世記17:22には、「神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。」とあり、神様がアブラハムと対話するために自らこの地に降りてこられたという事を話しています。本文5節以下にも、神様が自らこの地に降臨された事件が記録されていますが、果たしてどのようにしてこの地に降りて来られたのでしょうか。
神の降臨事件
以前に霊の空間と肉の空間の間を行き来するためには、通路のような場所を通過しなければならないと言いましたが、父なる神様もこの通路を通って降りてきました。もちろん、神様はあえてこの通路を通る必要もなく、いくらでもこの地に降りてくることができます。神様は時間の流れの変化にいかなる拘泥(他に選びようもあるのに、一つのことにこだわること)も受けられないだけでなく、いずれにしても肉と霊のすべての空間は神様に属している空間だからです。それでも、神様がこのように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通ってこの地に降臨された理由は、まさに自らも公義の法則を破らないようにしたのです。
このように神様が自らこの地に降臨された時、当時の肉の人々は神様にお会いすることも、神様の降臨を感じることもできなかったという事です。神様は肉の目でお会いできる方ではないからです。しかし、霊の目が開かれて神様と交わる人々は、霊に入った深さによって違いはありますが、神様にお会いすることができます。もちろん、親しく対面して神様の形状を見ることができるのではなくても、神様が許される範囲内で神様にお会いして感じることができるのです。
例えば、モーセ預言者の場合を見れば、出エジプト記33:20-23に、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」
神様と明らかに交わっていたモーセ預言者でしたが、父なる神様の本体が降臨された時は、その形状を正面から直接お会いできたのではなく、後ろ姿だけ見ることができたという事です。ところが、民数記12:8の前半には、「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。」とおっしゃったので「神と対面する」という言葉の意味をよく分別しなければなりません。出エジプト記33:11にも「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。」とありますが、実際に神様の本体が降臨された時はモーセが直接神様と対面できなかったことを知らなければなりません。
なぜでしょうか?
これは神様がエデンの園のアダムと同行してくださる時や、エノク預言者と同行してくださる時を考えてみてください。以前に創世記の講解で説明したように、神様はエデンの園のアダムと同行してくださいましたが、だからといって神様の本体が直接エデンの園に降りて来て一緒にしたわけではないと話しました。第二の天と第三の天を結ぶ通路を通して、まるで顔と顔を会わせながら一緒にいるように明るく交わることができましたが、これを指して同行してくださったのだと話しました。
エノク預言者の場合も同様です。神様はエノク預言者と300年間同行してくださいましたが、この時もいちいち毎回この地に降りて来てエノク預言者と同行してくださったわけではありません。霊である父なる神様は、霊を分離することができるので、ほとんどの場合、本体が直接動くのではなく、分離された霊の分体が働かれるのです。したがって聖書に同行してくださるということは、直接神様の本体が降りてくるのではなく、分離された神様の霊が常に共にしながら交わってくださることを意味するのです。
預言者モーセもこのような場合です。神様がモーセと対面して明確におっしゃるからといって、いつも本体が直接降りてきて対話したのではなく、霊に交わってくださるのです。しかし、被造物として父なる神様と霊で交わることは、簡単な霊の次元でできるわけではありません。まさにモーセ預言者のような方であったので、神様と霊でまるで対面するように明らかに交わることができたという事です。しかし、このようなモーセ預言者でも、父なる神様の本体がいらっしゃった時は状況が変わったのです。いくら穏やかさが地のすべての人よりも優れて全家に忠実だったモーセでしたが、復活体の体を着ているのではない限りは、肉の体を着ているという肉の限界によって、父なる神様の本体に親しく会うことは出来ませんでした。
これは預言者エリヤを見てもわかります。天国では序列が高い預言者エリヤでしたが、父なる神様に直接お会いすることはできませんでした。列王記第一19:11-13「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。『エリヤよ。ここで何をしているのか。』」
父なる神様は預言者エリヤの前を通り過ぎましたが、預言者エリヤもやはり神様に親しくお会いしたのではなく、ただ父なる神様の臨在を感じることができ、声だけを聞くことができたのです。しかし、預言者エリヤや預言者モーセのように聖潔にされ、神様に似た人々であったので、神様は後ろ姿を見せてくださるか、臨在していることを感じられるように兆し(しるし)として示したのです。しかし、肉の人々は肉の目で神様にお会いすることもできないだけでなく、見せてくださるとしても、それに耐えられません。
また、神様が降臨される時、肉の目で見られる証拠を一緒に示してくださらなければ、肉の人々は神様が降臨されたという事実さえも感じることができません。それで、神様はシナイ山に降臨される時は、火と煙と山の振動で働かれ、民たちに神様の降臨を間接的にでも分かるようにしてくださったのです。しかし、霊の人であれば、たとえ神様が降臨される時に、どんな目に見える証を示さなくても、霊的な気配オーラ(オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギー を意味する。転じて、ある人物や物体が発する独得な、または霊的な雰囲気や、なんとなく感じる力、威圧 .)を通して感じることができます。
さらに、聖霊の時代なら、当然内住される聖霊様が神様の降臨を聖霊の感動の中で感じられるように働いてくださいます。ところが、本文の背景になる当時は、神様が降臨しても、その場面を見られる人がいなかったし、感じられる人さえいなかったという事です。神様の方でも彼らに目に見える兆しとして働いてくれませんでした。
神様が自ら降臨して言語を混乱させた理由
続く6節では、神様が自らこの地に降臨して、言語を混乱させた理由が出ています。「「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」と話しています。父なる神様は初めて人間耕作を始め、すでに最後の時まですべてを摂理しておきました。だからといって、あらかじめ予定しておいたという意味ではなく、ただ神様はすべてを知っているので正確な時点に合わせて必要な状況と条件が成されるようにされるのです。
例えば、神様は、人類の救いのために救い主となるイエス様がいつ生まれるべきかを既にご存知なので、イエス様が生まれるべき正確な時点に合わせて、周辺の状況と条件を作っていきました。イエス様がどこで生まれるべきか、誰がイエス様の誕生を予備するようにすべきか、どんな親の下で生まれるようにすべきかなどを一つ一つ予備されたのです。バベルの塔の事件をきっかけに言語を混乱させたのもこれと同じです。
神様は人々がバベルの塔を建てることを全く知らずにいましたが、その時になって、突然人々がバベルの塔を建てるのを防ぐために言語を混乱させたのではありません。すでにすべてを知っていて、その時に合わせて言語が混乱するように働かれたのです。父なる神様の計画の中で人間耕作のためには人類が一つの言語、一つの民族になってはならなかったので、神様は人間たちが自らの傲慢さの中でいつ頃バベルの塔の事件を起こすことになるかをあらかじめご存知で、その時に合わせて人類の言語と民族が分かれるように働かれたということです。
したがって、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。という言葉が文字的に見ると、人々が一つの民であり、一つのことばであるため、バベルの塔の建築も計画できたので、これ以上バベルの塔を建てることができないようにするために言語を混乱させるという意味に見えます。
しかし、実際にはすべての将来のことを知っている神様が、時を正確に合わせて言語と民族を分けることで、今後進行される人間耕作のための環境を、完全に整える契機にしたという事です。また、全世界に多様な民族と言語を持った人々を通して人間耕作を成し遂げようとする父なる神様の摂理された御心が、バベルの塔の事件を契機になされるようになったということです。
もう少し具体的に説明すると、父なる神様は太初に人間耕作を始めてから、すでに人類の歴史の最後まですべてを知って計画し摂理されました。例えば、人間耕作のモデルとなる選民イスラエル民族が必要であることも、そのイスラエル民族を通して救い主が生まれ、救い主を通して福音が全世界の民族と国々に伝えられなければならないことも、すでにご存知で摂理しておいたのです。また、将来、人類の歴史の中で数多くの国と民族が出てきて、彼らがお互いにどんな関係の中で最後まで至るようになるかも摂理しておきました。
これを何かにつけて誤解すれば、まるで神様の側で一方的にすべてを決めておいて成し遂げられると考えられるが、これはあくまで予定ではなく予知予定だという事を知らなければなりません。人類がどうなるかを既に知っている中で、それに合わせて摂理しておいたということです。このような神様の摂理を成し遂げるためには、全人類が一つの民族として一つの言語を使う状態ではありませんでした。ですから、すべてを予知される神様は、バベルの塔の事件があることと、それがいつに起こるのかを既にご存知であり、その時に合わせて言語と民族が分かれるように予知予定の中で働かれたのです。
これは、皆さんが予定と予知予定の間の明確な違いに気づいたときにのみ理解できる内容ですが、簡単に例を挙げて説明します。もし神様がある学生に「今回の試験で一位になるだろう」とおっしゃったとしたら、これが予定でしょうか。そうではありません。予定なら全く勉強をしなくても当然1位にならなければならないでしょう。しかし、この学生が勉強をしなければ、公義によって決して試験で1位になることはできません。しかし、神様がこの学生に1位になるとおっしゃったなら、それは彼がこれからどれほど熱心に勉強することまであらかじめ知っておられておっしゃった御言葉なので、この学生は結局一生懸命勉強して1位になることになります。
そのため、予知予定には自由意志が入るという事です。予定なら既に決まったことなので、自由意志の中で従順しなくても行われますが、予知予定は従順になることまでご存知で決めたことなので、必ず自由意志の中で従順の行いを見せるときに行われることになるのです。したがって、神様がある御言葉を下さった時、自由意志の中で自ら従順でなければ、御言葉通りに成し遂げられないことであり、これは神様のみことばが間違っているわけではないという事を知らなければなりません。
