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朝の学び

聖書の著者である神様が李載禄元老牧師に親しく解き明かしてくださったメッサージを学んでいます。

キリストにはかえられません
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我が魂の深き奥より
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朝の学び114 創世記15章  

創世記15:1-11

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。

祝福の契約  

    
アブラムの幻の中に現れた神様は、
「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃいました。アブラムは神様の召命を受けて以来、今までひたすら信仰と従順で行ってきました。しばらく自分の考えを働かせたこともありましたが、すぐに立ち返って悔い改め、神様の前にさらに完全に従う姿になりました。神様は、まさにこのように従う人にいつも盾となり、驚くべき祝福で共にされるという事です。神様は、常に私たちに祝福を与え、守ることを願う方ですが、同時に公義の神様であるため、正確な公義の中で働かれるしかありません。ですから、ある祝福を与える時は、まず祝福される器を作らせます。アブラムは、このような祝福を受ける器を、十分に準備していったので、神様はもう一度、祝福の約束をしてくださったのです。 

 

私たちが祝福を受ける器を作るのは、意外にとても簡単です。神様は難しくて複雑なことを求められ、それを通過できないようにする方ではなく、霊的な信仰があり、また真に従う心があれば、いくらでも行なうことができることを求められます。もちろん、信仰の分量によって次第に要求していく水準も高くなりますが、信仰の分量に合わせて高めていきます。例えば本教会の聖徒の中で、完全な主日の出席と、完全な十分の一の献金を捧げる方であれば、一年中決して災いや事故に遭いません。特にある重い肉の事を行うような罪を犯すことがなければ、事故に遭わないように守ってくださいます。もし自分のミスである事故が起きても、体は傷まないように守ってくださいます。神様の子供として最も基本である主日の出席と、十一献金だけでも神様は盾になって守って下さるのです。 
    
しかし、信仰のある方なら、また信仰の三段階以上にある方なら、このような完全な主日の出席と、十分の一だけで、自分のやることを尽くしたとは言えないでしょう。信仰の一、二段階にいる方々は、御言葉通り生きようと努力すれば、神様は祝福も一緒にくださいますが、信仰の三段階以上なら、どれほど神様の御言葉の中に完全に生き、従順していくかによって祝福が変わります。もちろん、信仰の一、二段階でも、信仰と従順によって祝福が変わりますが、神様が望まれるのは、本当に心の中心から湧き出る愛と、それに伴う従順の行いです。ですから、皆さんが中心から神様を愛し、信じて従順していけば、神様は必ず皆さんの盾と大きな報いになってくださるという事です。アブラムは訓練の過程を経て、心の中心から神様を愛し、畏れ敬い、その言葉を信じて服従する器を作っていったので、このような祝福の言葉を受けることができたのです。
   
続く
2-3節を見ると、「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」幻のうちに神様と交わっていたアブラムは、突然、神様に相続人に関する話を伝えます。アブラムは神様に、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げたとありますが、アブラムがどれほど正確に神様の心を伝えられて、心につかさどられているのかがよく現れています。 
    
これはどういう意味でしょうか?以前、神様はアブラムに、
創世記13:16「あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」という約束の言葉をくださいました。それでは、アブラムがこの約束の言葉を忘れているか、心に完全に信じられなかったりして、今自分の家にいる僕であるダマスコのエリエゼルを、相続人と言っているのでしょうか?そうではありません。アブラムは一度神様がおっしゃった言葉を、決して疑ったり忘れたりしなかったのです。それでもアブラムが、神様にこのように尋ねているのは、何故、神様が今、自分に現れて、「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃっているのか、心につかさどられたからです。アブラムは、神様が自分に現れたことが、自分の後とりについて約束してくださることだと知りました。今がその約束の時だと感じて、相続人について先に話をもちだしたのです。

  

例えをあげると、父が息子に新しい車を買ってあげると約束しました。そして歳月が経って、父の心に「さあ私が新しい車を買ってあげよう」と思うようになったのです。それで息子にその話を言い出そうとしたところ、このような父親の心を感じた息子の方から、先に、父が話し始める前に「私はこの車にずっと乗り続けても構いません。」と言います。息子は、新しい車を買ってあげるという父親の言葉を、信じなかったからではなく、むしろ息子がこう言ったことによって、息子は父親から「いや、その車に乗り続けるのではなく、もうすぐ私が新しい車を買ってやる。」という言葉を聞くことができるようになるという事です。息子は、父親が何を言おうとしているのか、正確に心に働きかけられていたので、父親から確かな約束の言葉を受け取ることができたのです。 
    
アブラムも神様の言葉を信じられないからではなく、相続人についての言葉を先に言い出すことによって、父なる神様から後とりについて、確実な契約の言葉を受け取っているのが見られます。
4-5節を見ると「主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」という、確かな契約の言葉を受けています。これは、アブラムが神様と心が通じ合い、神様の心を正確に心につかさどられたので可能な、二人だけの対話だったのです。このような契約の言葉を受けとったアブラムが、これから神様の前でどのように行ったのかについては、次の時間に続いて説明することにします。

結論


親と子の間でお互いに心が通じ合って感じることができれば、お互いに誤解することはありません。子供は親が望むことを自ら行い、親も子供が望むことを叶えてくれます。相手がなぜこのようなことを言うのかを感じるので、それに合った答えをしてあげることができます。まさにこのような関係が父なる神様と皆様の間にも成り立つことを願います。そのためには、ピリピ2:5に「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とおっしゃったように、皆さんの心の中に主の心を抱かなければなりません。御父の神と完全に一つである主の心を、皆さんの中に抱く時、御父の神の心とも一つを成すことができます。   

 

アブラムは、このような訓練の過程を通して、自分を徹底的に捨て、ただ主の心、御父の心を抱いていったので、御父の心を明らかに悟り主管を受けることができ、御父の神との対話を通して、驚くべき祝福の言葉も受けることができました。皆さんが、迅速に霊の心を築き、霊の空間に住むことで、御父の神の心もつかさどられることができ、聖霊様とももっと明らかに交わりができるようになることを願います。それで、神様が自ら皆様の盾であり、報いになってくださり、常に凡ての事に通じる道にだけ導かれていくことを神様の名前で祈ります
 

朝の学び113 創世記15章  

創世記15:1-11

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。

序論

私たちがイエス様を救い主として迎え、神様の子供になれば、私たちの中には聖霊様が内住されるようになります。このような聖霊様の働きによって、様々な霊的な賜物を受けたり、体験をすることになりますが、聖霊の御声を聞いたり、異言の賜物を体験したり、幻を見る場合もあります。このような霊的な賜物と体験は、すべての人に一律に現れるのではなく、人によって少しずつの違いがあり得ますが、明らかなのは、霊に入るとますます多くの霊的な体験をすることになるという事です。霊の空間の中に入ってきたので、霊の空間の中で現れる現象を体験していくことができるのです。

このような霊的な体験の中で容易ではないのが、神様の声を直接聞きながら対話をすることです。聖書によれば神様の御声を直接聞く場合が出てきますが、それが普通に起きたことではなく、誰でも体験できるものでもなかったのです。それだけ神様の前にふさわしい人々が、神様の声を直接聞くことができ、その中でもごく少数だけが神様の形を見ました。 
    
今日、神様を信じる人々の中に、「神様の御声を直接聞いて対話した」と話す人々がよく出てきますが、その中には自ら神様の御声を聞いた人もいるでしょうが、神様や聖霊の御声または天使の声を父なる神様の御声と誤って考える場合も多くあります。また、サタンの働きを受ける場合もあるので、聖霊の働きの中で霊的な体験をしていくことは重要ですが、必ず霊的に先んじていて、先にその道を体験していった人が、正しい道を行けるように導いてあげることが必要です。

幻と幻想の違い

本文を見れば、アブラムは幻の中で神様と交りをすることが出てきますが、皆さんの中で、どれが幻でどれが幻想なのか、区分できる方は多くないでしょう。もちろん、今日、ほとんどの人が体験するのは、幻想の方に近いことが多いですが、ある場合はアブラムのように幻を見ても、幻想だと分かる場合もあります。では、幻想と幻の違いは何でしょうか?まず、2つの現象は、いずれも神様が肉の空間の中で霊の空間の門を開いてくださると、一瞬霊の空間に入りながら現れる現象という共通点を持っています。また、霊の目と霊の耳を開いて、見て聞くようになさる体験的な現象は、両方とも似ています。しかし、幻想と幻は、霊の空間をどれほど広く、あるいは狭く、活用して広げてくれるかという違いを持っています。 
    
幻は幻想に比べて、相対的に霊の空間を狭く活用して表してくださるので、幻を通して働かれる時は、多くのことを見せたり感じさせたりするよりは、声を通した対話形式で働かれます。肉の空間の中に霊の空間が広がり、光で囲まれ、その中で声が聞こえるのです。本文にアブラムが体験したのも、肉の空間の中に霊の空間の扉が開き、アブラムが瞬間、霊の空間に入るようになり、アブラムが光で囲まれた状態で、光の真ん中から聞こえてくる声を聞いたのです。その声は確かに神様の声でしたが、この時神様が自ら臨在され、アブラムが神様の形象を見たわけではなく、神様は光の中に留まっている声として、アブラムに働かれた場合です。

そして、この時、光で囲まれている姿や光の中から聞こえてくる声は、周りの他の人が見たり聞いたりできるものではなく、ただ自分だけが見たり聞いたりすることができます。それで、誰かが幻を見ている時、周りの他の人が見る時は、まるで祈っているように見えますが、感じは受けるようになります。使徒パウロも主をダマスコで迎え、声を聞く時も周辺の人々がこのように感じたことを見ることができます。 
   
反面、幻想は幻に比べて、活用される霊の空間がより広いと言えます。肉の空間の中に霊の空間の扉を開くことは、幻として働かれる場合と同じですが、幻想の場合は、あるものを自ら見て触ったように、自らそこに行って経験したように、働いてくださいます。霊の空間を開いて、様々な形や角度から見ることができるようにするのです。黙示録を書いた使徒ヨハネの場合は、霊の目が開かれ幻想を見て、多く記録するようになります。それで幻想は、まるで映画のフィルムを見るように見えたり、自分が直接その中に入っているように見えたりします。ところが、同じ幻想でも、ある人はただ場面だけを見る場合があり、ある人は場面と共にそれに対する解釈までも、霊感で受ける人がいます。また、同じ場面の幻想でも次元が違うのです。

  

例えば、子供にある映画を見せてあげれば、子供は内容がよく分からないが、どんな場面を見たのかは説明できます。反面ある人が見たなら、場面だけを見るのではなく、内容までも把握することができるので、ある場面がどんな内容だったのかも説明できます。このように同じ幻想を見ても、霊的な水準によって差があるということです。まだ信仰が幼い子供の段階であるにもかかわらず、聖霊が充満している時は、恵みの中で霊の眼が開かれ、幻想を見る方々もいますが、ややもすると考えが働いて、神様が見せてくださったことを、誤って解釈することがあるということを知らなければなりません。 
    
したがって、幻想を見てもそれが完全になるためには、心を割礼して肉の考えが全くなく、ただ明らかな聖霊の声と主管によって、霊感を通して解釈を共に受ける次元に至らなければなりません。そして、幻想は広げてくれる霊の空間の幅が広いので、どの方向や角度から見せてくれるかによって、同じ場面を見ても見る人によって内容が少しずつ違うことがあります。霊の目が開かれ、同じ場面を見た人たちが、全体的な脈絡は正確に一致しながらも、細部的な面においては若干の差が出るのが、まさにこのような理由からです。一人が見たものを他の人は見なかった場合があり、他の人が見たものをまた他の人は見なかった場合があります。 
    
例えば、小さな画面であるものを見る時は、その内容が一目で入ってきますが、とても大きな画面であるものを見る時は、視線をどこに置くかによって同じ内容でも、人によって見た内容が少しずつ差が出ることがあるようにです。そしてこの時も、霊的な水準によって、見る内容に差が出ることがあります。霊的な水準が低い次元で見る人は、部分的なものだけを見ることができますが、霊的な水準が高い次元で見る人は、全体的なものも見ることができる能力があるからです。 
   
このように幻と幻想が、霊的に見れば似ている面もありますが、霊の空間を活用する面において、違いがあるという事が分かりました。ところが、幻が霊の空間を狭く活用するからといって、幻を見るより幻想を見る方が、より霊的に次元が深いと言えるわけではありません。神様が幻として働かれるか、あるいは幻想として働かれるかは、それぞれその時の状況と、与えようとする内容によって違います。本文でも分かるように、神様が幻を通して働かれる場合には、もう少し個人的に親密に近づいてくるのを感じることができます。

私も主のしもべに呼ばれた後、神様の意思をもう一度確認しようとした時、神様が直接声で話してくださったことがあります。空の門が明るく開き、明るい光の中で神様の声が聞こえてきましたが、私がその時に体験した現象は幻だと言えます。その時も私が体験したことを私のそばにいた祈祷院長は、見て聞くことができませんでした。もちろん霊的な雰囲気は祈祷院長も感じましたが、その体験は私と父なる神様との間にあった個人的な親密な体験だったのです。
    
このように、幻は幻想よりも個人的で親密な体験であるだけでなく、より深い霊の次元を体験する通路にもなります。それは、幻にはほとんど対話的な交りが伴いますから、幻想がある場面を見せてくれて、霊感で説明してくれるとすれば、幻はある場面を見せてくれて、霊の耳を開いて声で一緒に説明してくれる場合です。それで聖書を見ると、将来に起こることや深い霊的な秘密を教えてくださる時は、幻を通して働かれる場合が多かったです。
   
ただし、
ダニエル7:1-2を見ると、「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、」と言ったのです。これは将来最後の時になることについてダニエルが幻の中に啓示を受ける場面です。ところが、続く内容だけを見ると、まるでダニエルが幻想を見ているように見えるかもしれませんが、このような体験を幻だとおっしゃるのは、アブラハムのように幻で見られる対話形式の交わりが行われているからです。ダニエル7:15-16によれば、「私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。」と言いました。

これは神様がダニエルに今後のことについての内容を見せてくださる次元ではなく、天使を通して解釈まで教えてくださっているのです。この時、神様から送られた天使がまさに天使長ガブリエルでした。ダニエル9:21によれば「すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、」として、先に神様が前のことについて啓示してくださる時、幻の中で見たのがガブリエルだったことを語っています。   

このように、幻の中に啓示を受けて記録したダニエル書と共に、やはり未来に対する予言書であるエゼキエル書を見ても、エゼキエル1:1に「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」として、エゼキエル書の内容もやはり幻を通して受け取ったことが分かるようにしてくれます。霊の眼を開いて霊の深い秘密と未来について明らかにしてくださっただけでなく、エゼキエル1:28後半節に「私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」として、以後に続く内容はエゼキエルが声を通して啓示されることを話しています。 
    
このように幻には幻想とは区別される要素があり、その内容が幻想を通して体験できるものだとしても、その中に幻だけで体験できる要素があるとすれば、神様の側ではそれを幻と表現されるのです。したがって、幻と幻想が持つ共通点と相違点については分別をするものの、神様が最も適した方法を通して働いてくださるという事を悟らなければなりません。
    
本教会は開拓以来、これまで幻想と幻、啓示と代言、予言など、様々な霊的な賜物と体験を通して私と聖徒たちにいつも働いてくださいました。私に直接働いてくださったのは今まで一度も間違ったことがありませんが、私たちの聖徒たちに働かれる場合を見れば、まだ霊的に完全ではないだけに、時には自分の考えや感じが入る場合もありました。そのため、常に相互点検して補完できるように、神様は同じ内容について多くの人に同時に働いて、私の方でその方々を分別できるように働いてきました。いくら明らかに働かれるという人だとしても、心に割礼がされていなければ、それは完全なものではありません。

それで、私の方では聖徒たちが霊として分別できるように、いつも講壇から御言葉を通して悟るように導いてきましたが、それに気づかない場合もあって、色々な副作用を起こしたりもしました。このようなことが怖くて、霊の世界を休止させることができるわけではないので、私は聖徒たちが霊の世界を体験して進むことができるように、霊の世界の扉を開けておきました。その結果、今は数多くの検証過程を通して認められる方々が明らかになり、あちこちで使われるようになりました。ここで必ず肝に銘じなければならないことは、何よりも心の割礼が一緒に伴わなければならないという点です。そんな時、傲慢やこの世の誇りもないし、肉の考えや感じが入ることもないし、神様がくださった賜物がただ神様の栄光と神の国のためだけに美しく使われることができるのです。そうしてこそ、主が来られるまで使われ続け、大きな賞になるという事です。 
    
また、神様が貴重な賜物を与えた時は、自ら「神様が私にこのような賜物を下さった。」と言ってできるのではなく、神様は霊的な秩序の中で、必ず牧者にも共に働いて下さるという事です。皆さんの中でいくら霊的な体験が多くて深いとしても、それが牧者を通して連結される時だけが、霊的な秩序に従うことであり、秩序の中で働かれる神様の意思になることです。本教会は霊の世界が無限に開かれている祭壇であるだけに、皆さんがこのような事をよく肝に銘じ、霊的な秩序の混乱がないように、常に秩序に従って出てくることをお願いします。

朝の学び112 創世記14章  

創世記14:17-24 
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

アブラムと聖霊様との出会い


今までの説明を聞いて、聖霊様について少しお気づきになりましたでしょうか?今日の本文にメルキゼデクとアブラムとの出会いは、まさにこのような聖霊様が父なる神様の特別な指示を受け、この地に自ら降りてきて、将来、信仰の父になるアブラムに会ってくださる場面です。ところが、私たちは後日アブラハムが体験することになるもう一つの不思議な出来事を通して、今日の本文に出てくるメルキゼデクの存在についてもっとはっきりと悟ることができます。それは創世記18章に出てくるアブラハムと聖霊様との出会いです。

創世紀18:1-4「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。」とあります。この御言葉の中では、三人とありますが、続く内容を読むとここで三人と言ったのは、人の形をした神様と、やはり人の形をした二人の御使いであることが分かります。 

22節「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」とあります。神様はアブラハムが住んでいるところに残り、彼と対話をする場面が出てきて、他のふたりすなわちふたりの御使いは、神様の指示に従って、ソドムの町を探りに行ったのです。それで続く創世記19:1には「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」と言って、人の形をし三人のうちふたりの御使いだけがソドムの町に現れているのです。 

このように、創世紀18章の内容まであらかじめ先に説明する理由は、創世紀18章に現れた神様と、今日の本文に出てくるメルキゼデクと密接な関連があるためです。先に読んだ創世記18:1-4によれば、アブラハムは三人の人物、すなわち人の形をした神と人の形をしたふたりの御使いを見るやいなや、自分を極めて低くし、あまりにも丁寧に迎えます。もちろん、いくら人の形をしていたとしても、三人の形が普通の人とは異なり、その形から発する霊的な光や気運によって、神様と交りをしていたアブラハムは、その方々が平凡な人ではないという事実をすぐさま悟って、丁寧に迎えることができたのです。このように真心で迎えることができた理由は、まさにその中の一人、すなわち人の形をされた神様を見分けることができたからです。

 

では、果たしてどこでお会いしたのでしょうか?アブラムは、すでに創世記14章に記録されたように、メルキゼデクとして現れた聖霊様にお会いしたのです。また、創世記18章で自らこの地に降りてきて、アブラハムと対面して言葉を交わされた方も聖霊様、すなわち聖霊の神様でした。私たちは主なる神様を見れば死ぬと言われますが、神様の息子として来られたイエス様、聖霊様を見ても死ぬわけではありません。それで、私たちが対面して見ることができる神様の息子たちを送って働かれたのです。ある時はイエス様を、ある時は聖霊様を送って働かれることで、その前に立つことができ、対話することができたのです。

モーセのような場合も後ろ姿を見て衣の裾を見ることはできましたが、自ら神様の顔を対面して見ることはできませんでした。アブラムはすでに人の形をした聖霊様にお会いしたことがあり、聖霊の神様が再びこの地に来られた時、その方を一瞬で見抜き、このようにその前に体を地面に曲げて、極めて手厚く出迎えたという事です。ところが、アブラムが同じ聖霊の神様にお会いしたとしても、今日の本文でメルキゼデクという姿で会ったことと、創世記18章で会ったこととは状況が違いました。

今日の本文の状況は、アブラムが敵との戦争のために共にした人々と帰る途中に起きたことです。つまり、シャレムの王メルキゼデクがアブラムの前に現れた時、アブラムの周辺には多くの人々が一緒にいたのです。しかし、この時、アブラムと甥のロト以外には、シャレムの王メルキゼデク、つまり聖霊様を見た人がいませんでした。これはイエスを信じる人々を迫害していたサウルが、ダマスコへの途上で神様に会った場面を考えると、簡単に理解することができます。ダマスコに近づいていたサウルは、忽然と空から光が照らされ、その中から聞こえる声を聞きます。そして、神様と対話をしているのに、サウルがこのような霊的な体験をしている間、一緒にいた他の人々は、今どんな状況が起きているのかわかりませんでした。

使徒の働き9:7「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」とあります。今日の本文の状況もこのようで、神様の助けで大きく勝利をおさめて帰ってきたアブラムは、神様に感謝して祭壇を作って、感謝の生贄、祭祀を捧げていましたが、極めて高い神様の祭司であるメルキゼデクが現れたのです。周辺にいた人々の目にはただ神様の前に生贄、祭祀を捧げているアブラムの姿だけが見えましたが、アブラムは聖霊様と深い霊的な交わりを分かち合っていたという事です。もちろんこの時、アブラムが聖霊様だけに会ったわけではありません。三位一体の神様の一人である聖霊様がいらっしゃったので、彼を護衛しながら召使になる天軍と天使は、またどれほど多く降りてきたのでしょうか。霊の目が開かれ、その場面を見ているアブラムにとっては、彼の一生忘れられないあまりにも恍惚として胸いっぱいの感動の瞬間でした。自分に直接現れた神様に会い、信仰の父として神様の前に完全に立つことができる、祝福の契機をもう一度迎えたのです。神様もアブラハムを信仰の父として立てる前に、このように出会いのみわざを通して、信仰と確信を植えつけ、信仰の父になれるように導いたことを見ることができます。

義の王、平和の王メルキゼデク


「メルキゼデク」という単語の、肉的な意味は「私の王はゼデク」ですが、霊的な意味は「分かれた者のひとり」です。まさに初めに一人でおられた御父の神が、人間耕作の大きな摂理と計画の中で分離して下さった、御子の神と御霊の神様のうちのお一人であられるのです。旧約時代は御父の神ご自身が、親しくつかさどって導いていかれた時代ですが、だからといって、旧約時代の間、主や御霊の神が何もしないでおられたのではありません。特に、御霊の神は、御父の神の御旨を受けて、[主]の霊として活発にその働きを助けておられました。その中の一つとして、今日本文のメルキゼデクの姿で現れ、アブラムと交わり彼を祝福してくださったのです。 
    

ヘブル7:2にはメルキゼデクについて、「またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」と書いてあります。その名の意味を義の王と平和の王と訳しています。それなら、御霊の神が義の王、平和の王と呼ばれる理由は何でしょうか? 
    
私たちがイエス様を救い主として受け入れて、真理の御霊である聖霊を賜物として受ければ、この時から心の中におられる聖霊は、罪と義とさばきについて一つ一つ悟るように導いていかれます。真理と真理でないもの、義と不義、罪と悪が何かを見分けて、義と善の中に入って来るようになさるのです。また、神の深みにまで及ばれる御霊は神の御目に正しいことが何か教えてくださいます。
コリント第一2:10「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」とあります。それで、完全な義を行うようになさるのが聖霊の働きであり、これが義の王と呼ばれる理由です。

 

それだけでなく、私たちが聖霊を賜物として受けると、明白に現れる変化が心の平和を感じることです。罪人として死んで永遠に地獄に行くしかなかった人が悔い改めて、罪の赦しを受け神の子どもとされて天国に行けるようになったしるしが、まさに聖霊を賜物として受けることです。聖霊を受ければ天国に行ける神の子どもと認められたので、自然に心に平和を感じるようになるのです。聖霊を受けた神の子供たちが、御霊に導かれ従って生きていく時に、世が与えられない平和を味わえるので、御霊の神を平和の王と呼ぶのです。 
    
アブラムは、このようなメルキゼデクに自分が得た物の十分の一を捧げることで、メルキゼデクを認めると同時に、自分に属するすべてのものが、ただ創造主の神から出てきたという事を認めるのです。さらに、神の御前にささげる十分の一献金がまだ律法として決まったことでもないし、誰かから学んだことでもないのに、アブラムは心に働きかけられて、神の御前に十分の一を捧げました。神はアブラムにより大きい祝福、すなわち、信仰の父として完全に立てられる祝福を与えようと、彼の心をつかさどって下さったのです。次回からは、神様がアブラムに与えた契約の種についての約束と、彼の子孫に渡すとおっしゃったカナンの土地に対する具体的な約束について見ていきましょう。

 

結論


アブラムがメルキゼデクに出会う驚くべき祝福を受けることができたのは、彼が父なる神様の前に積み上げてきた信仰の義が認められ、さらに一段階昇華される(ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)時点を迎えたためです。ロ-マ4:2-3「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。」とあります。このように、アブラムが、神様の前に義と見なされることができたのは、単に表に現れる行為としてではなく、彼の心の中心から出てくる信仰の行いによるものでした。律法による行為だけで救われた旧約時代に、アブラムはすでに神様が本当に望む、心に信じられる信仰を所有していたのです。 

言い換えれば、アブラムが神様の前に行った行為は、単に肉的な行為の次元で終わったことではなく、心の中心から神様を信じることによって、それを行いでも表したのです。そのため、アブラハムは旧約時代に限っての信仰の父ではありません。聖霊時代にも依然として信仰の父として、すべての信じる者にとって信仰の表象になりうるのです。もちろん、アブラムがメルキゼデクに会った時点で、アブラムの信仰の義が完全だったわけではありません。しかし、神様はアブラムの信仰の義を認め、さらに一段階昇華された義の次元に達するように、愛する子の中の一人を送ってアブラムを祝福されたという事です。

  

そして、アブラムは、このような祝福のきっかけを通して、より迅速に信仰の父として準備されていくことで、神の前に認められて出ることができました。アブラムのように皆さんの信仰が成長していき、霊に入っていくことにも段階があります。それで皆さんが一段階を突き抜ければ、次の段階に向かっていけるように神様は力と恵みを与えられます。アブラムにメルキゼデクを送ることで、彼の義が御父の神の前に告げられたことを認めてくださったように、ある祝福や恵みの体験を通して、霊で一段階入り込んでいることを感じさせてくれるということです。例えば、祈りを一段階踏み込む時も、ある瞬間、以前と変わった自分の祈りを自らが感じながら、「私がもう一段階祈りの能力を受けたのだな」と悟ることができるようになるということです。
 

朝の学び111 創世記14章  

創世記14:17-24 
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

序論

聖書において、イスラエル民族の中に、公式に祭司という職分が登場するようになるのは、出エジプト記の事件以後です。出エジプト記28:1によれば、神様がモーセに告げたのは「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」と話しています。レビ族として生まれたアロンとその息子たちであるナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルが、祭司として立てられた最初の人々だったのです。しかし、このように聖所が建てられる前だからといって、聖所の職務を担う人がいなかったわけではありません。神様の前に生贄を捧げる祭祀は、アダムが罪を犯してこの地に追い出されて以来、ずっと行われてきました。

 創世記4章を見ると、アダムの息子たちが供え物を取って神様の前に生贄を捧げる場面が出てきます。彼らは両親のアダムとエバからすでに神様の前に生贄を捧げることについて学び、生贄に込められた意味についても知っていました。その後もノアとアブラム、そしてアブラハムの子孫であるイサクやヤコブも、やはり神様の前に生贄を捧げる場面が、聖書のあちこちに記録されています。そのため、祭司の職分が正式に生まれる前にも、神様の前に生贄を捧げる祭祀は続けられ、ノアやアブラムのように祭司長と呼ばれることはなくても、祭司長の職分を果たす人々がいたのです。 
    
前回から説明するメルキゼデクには、正式に祭司長の職分が生まれる以前に、
「極めて高い神の祭司」という表現が使われたという事です。もちろん当時、他の異邦民族の中には、彼らが仕える異邦の神のための宮がありましたが、神様の前に生贄を捧げるための宮の職分は、モーセの兄アロンが初めてだったにもかかわらず、メルキゼデクは祭司長という職分として記録されています。 
    
そしてメルキゼデクについて記録したヘブル書の著者は、
へブル人への手紙7:3「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」とし、へブル人への手紙6:20には「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」とし、イエスをメルキゼデクの位に等しい神の大祭司と表現しています。つまり、イエス様とメルキゼデクを同等のレベルに置いて、イエス様について説明していますが、このような条件にふさわしい方は果たして誰でしょうか?ただ一人、三位一体の神様の中の一人である聖霊様という事が分かりますが、この時間に聖霊様について明らかに悟ってください。

メルキゼデクとして来られた御霊の神

ガラテヤ4:6によれば「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」として、聖霊を「その息子の霊」すなわち「御子の御霊」と言っています。「その息子の霊」というから「ひょっとして主の霊ではないですか?」と尋ねる方がいらっしゃるかもしれませんが、私たちの心の中に送られた霊は、皆さんもよくご存知のようにまさに聖霊様です。コリント第一3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とおっしゃったように、神の御霊はまさに私たちの心の中に住んでいるのです。父なる神様は救われた神様の子供たちに聖霊を贈り物として下さいますが、聖霊を受けた人は神様を父と呼ぶことができるのです。ここで私たちは、聖霊様を「御子の御霊」と表現したことに注目しなければなりません。よく人々はイエス·キリストだけを神の子だと思っています。しかし、聖書には必ずしも主だけが神の子だと表現しているわけではありません。 

へブル人への手紙1:6には「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」として主を長男(firstborn)と表現しています。また、ヨブ記38:7には「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」とあり、神様が天地万物を創造される時に、神の子たちはみな喜んで声をあげたと言いました。神様の子たちと複数として出てくるということです。しかしもしかして、神の子たちを御使いと思ってはいけません。へブル人への手紙1:5「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。神がかつて、御使いの中の誰かに、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」また「わたしは彼の父となり、彼は私わたしの子になる。」と言われたでしょうかとして、神が御使いを子と呼ばないことをはっきりと言っています。

したがって、天地万物を創造される時、神が神の子たちと表現したのは、私たちの主の他にもう一人の子がいることを明確に言っているのです。そして御使いではないこともはっきり言っているのです。それでは天軍ですか?もちろん天軍はさらに違いますね。したがって、ヨブ記に記録された神の子たちは、長男の神様ともう一人の方である聖霊様を指すのです。聖霊様も主と同じように神様の息子の地位を持っていらっしゃるのです。 

 

 

ひとり子 


イエス様と神様の子である聖霊様、それなら聖書にはなぜイエス様に対して「ひとリ子」または「ひとり」という表現を使ったのでしょうか?まるで息子が一人であるかのようにです。しかし、皆さんが聖書において、イエス様に対してこのように「ひとり」という表現を使った御言葉を調べれば、まさにイエス様がこの地に救い主の資格で来られたことについて話す時に、使われたことが分かります。すなわち人間耕作の摂理の中で、私たちの罪の身代わりとなって下さるために、人の体を着て救い主としてこの地に生まれたイエス様を修飾する表現として、「ひとり子」という単語が使われたということです。例えば、ヨハネ3:16の御言葉一つだけ見てみると、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言いました。この御言葉は使徒の働き4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」という御言葉と対になって、私たちが信じて救われることができる唯一の名前は、ただ「イエス様」一人だけであることを言っています。 

したがって、このヨハネ3:16の御言葉では、この地に救い主の資格として来られた神様の息子が、ただ一人だけだという意味で、ひとり子という表現を使っているという事です。もし聖書に救い主として来られたイエス様に対して、このようにひとり子という表現を使わなかったとすれば、イエス様以後にも多くの人が現れ、「私が救い主だ」と話すこともできたでしょうが、聖書はすでに救い主はただ一人イエス様だけであることを明確に記録しています。だからイエス様以外には誰も、自らを救い主と言えないことであり、信じる人々は決してそのような迷いに陥らないことができるのです。したがって、私たちはイエス様をひとり子と表現したことが、天でも息子がただイエス様一人だけいるという意味ではないことを知らなければなりません。 
   
聖霊様もまた、主と同じように父の神様から分離して出てきた方で、主のように父の神様の息子の位置にいらっしゃる方だという事です。それで聖書は聖霊様に対して表現する時、
「神の聖霊」という表現を使います。聖霊様はまさに父なる神様から来た方であることを明確にしているのです。このように聖霊様は主と同じように父なる神の子であり、独立した個体として実体を持っていらっしゃいますが、今日、信じている人たちが大部分この事実を知らずにいます。神様はある形の実体があると思いながらも、聖霊様は実体があると考えられないのです。しかし、聖霊様もやはり一つの個体として、聖霊の本体を持っていらっしゃるという事です。ただ、その姿がいくらでも変形することがあります。 
 
今後、皆さんが父なる神様の根本の次元である四次元について学ぶことになれば、三位一体の神様は、心に抱く通りにその姿が変わることができるという事を、知ることになるでしょうが、聖霊様は働きの特性上、人々の中で色々な姿で働かれます。主はほとんどの場合、人の子の姿で見られるので、霊の眼が開かれた人々が主にお会いする時には、人と同じ形で見ることになります。反面、聖霊様は、本体の形状だけを着て現れるのではなく、時には鳩の形で、時には火や風の形でも働かれます。

本文のメルキデゼクのように、聖霊様が人の形で働かれた場合もありますが、聖霊様の働きはあまりにも多様で幅広いため、大部分が霊の分離を通して別れた色々な姿で働かれるのです。 このように聖霊様が分離して働かれる時は、それぞれの働きに合わせて形を変えたり、時には特定の形がなく働かれたりします。そのため、聖霊様が多くの働きをされたにもかかわらず、人の形、すなわち私たちのような人の形で感じる人はほとんどいません。たとえ聖霊様が人の形で現れても、当然神様や預言者として考えてしまうのです。だから今まで聖霊様の存在に対して多くの部分が隠されているしかなかったのです。
 

朝の学び110 創世記14章  

創世記14:17-24 
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

シャレムの王メルキゼデクは果たして誰なのか? 

それでは、神の一人子であり、神様と根本的に一つであるイエス様に匹敵する人物であるメルキゼデクは、果たして誰でしょうか?もしメルキゼデクが被造物の中の一人なら、どうしてあえて神様の息子であるイエス様に対して、メルキゼデクの位に等しいと言えるでしょうか?位とは先にも説明したように、職位、身分、等級の順番を意味しますが、神の息子であるイエス様が彼の位に等しいと言えるためには、メルキゼデクもやはり、神の息子であるイエス様に劣らない位置にいらっしゃる方でなければならないという事を、私たちは十分に知ることができるのです。 
    
果たしてこのような方は誰でしょうか?父なる神様と主様と同等の隊列に立つことができる方なら、その方は当然、聖霊様であることが分かります。このように申し上げると、考えを働かされる方々は「本文に明らかに
「シャレムの王メルキゼデク」と書いてあるのに、どうしてその方を御霊の神様だと言うのですか?」と反問されるかもしれません。私たちはここで「シャレム」の意味をよく知らなければなりません。「シャレム」がヘブライ語では、安全な、平和なという意味を持っており、肉的には後のエルサレムになる都市の地名を表しますが、霊的にシャレムとは神の国を意味します。
 

詩篇76:1-2によれば「神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。」とあり神様の仮庵がシャレムにあると言います。また、詩篇135:21には「ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。」と記されています。ここでもエルサレムとは、肉的な地名のエルサレムではなく、天にある神の城を意味する言葉で、エルサレムはヘブライ語で「平和の城」または「サレムの城」という意味を持ちます。したがってシャレムの王とは、神と等しい方であり、神の国を治められる方、すなわち、御霊の神のことです。それで、黙示録21:2を見ると、「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のためにられた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」このように天にある神の都エルサレムをこの地の都エルサレムと区分するために、新しいエルサレムと表現しています。


したがって「シャレムの王」とは単純にこの地上の都市を治める王ではなく、父なる神と同等な方として神の国を治める聖霊様を意味します。それでは、メルキゼデクがなぜ聖霊様なのかについて、もう少し調べてみます。ヘブル人への手紙ではメルキゼデクについて少し具体的に説明されています。へブル5:10によればイエス様に対して「神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」とあり、イエス様がメルキゼデクの位に等しい大祭司長になったことを言及しています。ところが、続く、へブル人への手紙5:11には「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」と述べています。つまり、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、メルキゼデクについて多くのことを知っていましたが、それを話したときに聞く側は霊的に理解しにくいので、言葉を慎んでいるのです。 

ペテロ第二3:16「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とある言葉のように、霊の知識がなく霊的な分別力がなければ、ややもすると神の言葉を誤って解いて、自分自身に滅びを招くこともありうるからです。 
    
しかし、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、聖書を読む人たちに、霊感の中でメルキデゼクについて悟るように、へブル人への手紙7章にいくつかの手がかりを提供しているという事です。まずヘブル人への手紙章4節に
「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」としながら続く7節に「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と話しました。これはどういう意味でしょうか?

本文、創世記14:19-20節によれば、「彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」とあります。メルキゼデクがアブラムに祝福を祈ってあげていて、アブラムはこのようなメルキゼデクに自分が得たものから十分の一を差し上げています。ヘブル人への手紙7章では、まさにこの場面を説明しながら、「下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と言いました。当然、高い者が低い者に祝福を祈るということです。 
    
ところがアブラムは将来、信仰の父であり、よみでも頭として、旧約時代には救われる魂が死ぬとアブラハムのふところに抱かれたことが分かります。また、神様の友と称えられるほど、神様の前に完全な人でした。彼の霊的な水準や天国での序列を考える時、あえて被造物として誰もが「それより優れている」「もっと高い」と言えるわけではありません。では、アブラムを祝福するほど高い位置にいる方なら誰でしょうか?さらにアブラムは、メルキゼデクに神様に捧げなければならない十分の一を捧げたとあります。十分の一というのが、まだ律法によって決まってもいない時でしたが、アブラムは心の主管を受けて、このようにメルキゼデクに十分の一を差し上げたという事です。これはつまり、アブラムはメルキゼデクがどんな方だということを知ったという意味にもなります。

 

へブル7:3では、メルキゼデクについて非常に決定的で重要な説明が出ています。「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」と言ったのです。それで、父も母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもないと言いましたが、この条件に合う被造物が果たしてどこにいるでしょうか?続くへブル7:24を見ると、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」と言い、主が持っている祭司長の職分が永遠であることを物語っています。そしてヘブル10:21には「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」と言い、主が神様の家を治める偉大な祭司だと言っています。ところが、メルキゼデクもやはり常に祭司であり、神様の子を彷彿させるということです。「彷彿」というのは目の当たりに見る思いをするという意味で、ヘブル書の著者がメルキゼデクをこのように表現したのには理由があります。

  

すでに「創世記講解」を通して霊的な言葉を聞いた方々は、聖霊様がどんな方であり、また三位一体の神様との関係がどうなのかを知っていますが、このような霊的な知識がない人に、仮に御霊の神についてはっきりわかるように言うなら、理解できないだけでなく、色々なとんでもない誤解を生むこともあります。それで、メルキゼデクを「神の子に似たものとされ」とだけ言って、正確な表現を避けたのです。しかし、このようにメルキゼデクについて明らかに悟っていたヘブル書の著者だったので、ヘブル1:6によれば「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こうわれました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」と、主を長子(firstborn)と表現しています。ここでなぜ主を長子と表現したのか、また主を一人子と表現した理由は何なのかについては次の時間に説明したいと思います。 

結論


今日はメルキゼデクについて少し説明しましたが、おそらく霊的なことを考える方々は、今日の言葉を通してすっきりと解ける分野があったと思います。私たちが祈って聖霊の導きの中で悟るようになれば、深い霊的な分野に対しても聖書の中でいくらでも解答を見出すことができます。次の時間にもメルキゼデクについての説明が続きますが、皆さんが次の時間の言葉を聞くと、聖書を通してより明確に確証できるようになります。そしてお願いしたいのは、皆さんが霊的な言葉を聞く時は、決して人の考えや知恵を働かせてはいけないということです。

  

コリント第一2:12-13には「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」と語っています。したがって、神様の言葉を人の知恵の中で解こうとしたり理解しようとせず、神様から来た霊である聖霊様の導きを受けて悟って下さい。皆さんがこのような霊の知識を知り、霊の世界についても知ってこそ霊に入ることができ、三位一体の神様についても明らかにすることができるのです。今日の御言葉が皆さんに大きな能力になり、信仰になって、迅速に父なる神様が望まれる霊の人々として完全に出てこられますように主のお名前で祈ります。
 

朝の学び109 創世記14章  

創世記 14:1-16 
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

 

アブラムの神に対する信頼


甥のロトが、先に見た目に良さそうなヨルダンの低地全体を選んで去った後、カナンの地に留まり、平安と祝福の中で暮らしていたアブラムにある日、一人の人があわただしくやってきます。そしてアブラムに甥のロトが戦争の中、捕虜として連れて行かれたという知らせを伝えます。北方にある四つの国の王の連合した軍隊が、当時ロトが住んでいたソドムの地まで攻め込み、ロトと彼に属した所有の人々までも捕虜として、全財産と食料を分捕り物として持っていったのです。この知らせを聞いたアブラムは、すぐに自分の家で生まれて育て訓練した人々を従え、敵の軍隊を追撃していきます。この時、アブラムと一緒にいた人の数はそれほど多くありませんでした。自分のしもべ318人を招集して、また自分と同盟を結んでいたアモリ人の人を合わせても、四人の王が連合した敵の軍隊に比べると、その数が多いわけではありませんでした。 
 
本文24節にも、アブラムと共に戦争に出た人の名前が、彼と同盟したアネルとエシュコルとマムレの3人だけが記録されています。しかし、アブラムはこのような数的な劣勢にもかかわらず、少しの躊躇もなく敵の軍隊を追いかけて敵を破り、甥を救ってきたのです。では、アブラムがこのように大胆に出て戦って勝つことができた理由は何でしょうか?アブラムは現実を見ずに、ただ信仰の目で眺めました。自分といつも共におられ、守って導いていかれる父なる神様への全面的な信頼があったので、アブラムは兵士が多い少ないにこだわらず、神様だけにより頼んで、大胆に出ていって敵と戦うことができたのです。  

 

詩篇20:7「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」と言われた通り、兵士が多いか少ないかというのは人の側では重要だが、神様の側では大きな意味がないためです。士師記7章を見ると、さばきつかさギデオンは彼に従うたった300人の兵士で、いなごのように大勢のミデヤン人やアマレク人や他の東の人々との連合軍を、大破したことが分かります。神様が知恵を与えて助けてくださるので、たった300人の兵士をもって、海辺の砂のように多くて数えきれない数の敵軍を、退けることができたのです。この時、神様がギデオンに与えた戦略が、まさに陣営を3つの群れに分けて夜に乗じて敵をかく乱させ、敵が自ら自滅させる方法でした。 

創世記14:15「夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。」とおっしゃった通り、アブラムもやはり敵を倒すために、神がギデオンに命じた方法と似た方法を使いました。ひたすら信仰を持って大胆に進み、敵と対抗して戦ったが、だからといって無条件に力だけで戦ったのではなく、このように神様の知恵を受けて、敵を打ち破ったことがわかります。まるでダビデ王があることを決める時に、ひとつひとつ父なる神様の前に尋ねて応答を受けたように、神の人であるアブラムもやはり、自分自身の力と知恵を頼ったのではなく、父なる神様の前に尋ねて道を導いてもらったのです。

アブラムの善良な心


前回、アブラムが甥のロトを救う姿を通して、彼の善良な心をもう一度感じることができると言いました。自分の甥に対して最後まで責任を取り、自分ができる最善を尽くす善の心です。アブラムは甥のロトから何かの恵みを受けたわけでもなく、むしろ大きな恵みを与えた立場であるにもかかわらず、恵みを与える心が変わらなかったのです。ところが、今日は恵みを受けた人の側でも、どれほど簡単に恵みを忘れて変改してしまうのでしょうか。私たちはダビデ王の場合を通して、一度恵みを受け愛の心を受けた人に対して、どのようにするのが真理なのかを見ることができます。 

ダビデにはヨナタンという親しい友人がいましたが、彼はまさに自分を殺そうとしたサウル王の息子として、サウルの後を継いで王になる人でした。ヨナタンの立場から見れば、ダビデはヨナタン自身が得るべき王位を、代わりに占めることになる人だったにもかかわらず、ヨナタンはこのようなダビデをとても愛していました。サムエル第二1:26にダビデが告白する「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。」というほど、二人は互いに愛し合う仲でした。そしてヨナタンはダビデを殺そうとする父サウル王から最後までダビデを保護し、助けてあげました。 

このような恵みと愛を受けたダビデもやはり、後日王になった時以前に受けた恵みを決して忘れなかったという事です。王になったダビデは、すぐに恩返しの方法を見つけました。ヨナタンはすでに戦争で死んだ後だったので、サムエル紀第二9:1によれば「ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」」と言ったのです。こうして見つけたのが、ヨナタンの息子、メフィボシェテでした。メフィボシェテはヨナタンの息子でしたが、同時に自分を最後まで殺そうとしたサウル王の孫であり、ヨナタンが死んだ状況ではサウル王の後を継いで、自分の王位を狙うこともできる人でした。だから王位を堅固にしなければならないダビデ王の立場では、警戒しなければならない人物で、場合によっては跡継ぎをなくすためにも、いくらでも殺すことができる人でした。しかしダビデ王はこのようなメフィボシェテをあまりにも手厚くもてなしてあげます。
 

サムエル記第二9:7「ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」」と言ったのです。彼の祖父サウル王の所有だった畑をすべて返すということだけでも、彼にはあまりにも過分な仕打ちだと思いますが、ダビデはメフィボシェテに自分と同じテーブルで食事をする恩寵まで施したのです。それでサムエル記第二9:11の後半節「メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。」と言っています。 
    
もちろんダビデ王がヨナタンの生前に、彼から何度も助けられて恵みを受けたが、ダビデ王はこのように一度恵みを受け、また心の中心で愛したヨナタンに対して、彼が死んだ後でも彼の子孫を通して、最後まで恵みを返そうとする善良な心を持っていたという事です。人々の中には実際に恵みを受ける時は頭を下げて、「ありがとうございます。この恩を絶対忘れません。恩を必ず返します。」 このように言っていても、後で時間が経って自分の状況が悪くなれば、いつそうだったのかのように恵みを忘れる人々が多いです。しかし、ダビデはそのような人々とは全く違う、真理の善良な心が臨んでいたのです。 

アブラムの場合は、なおさら甥のロトからどんな恵みを受けたわけでもなく、ハランを去った後、常に世話をしながら恵みを施してきたにもかかわらず、このように甥のロトが大きな困難に直面することになると、再び自分の身を惜しまずに彼を助けに駆けつけたのです。神様はこのように善良で美しい心を持ったアブラムといつも共におられ、守って導いていかれました。皆さんもまさにこのような心だけを持つようになれば、誰もが神様から愛されるようになり、祝福されるようになるという事です。 

アブラムとメルキデゼクとの出会い


本文を見ると、ソドムの王が敵の連合軍を破り、すべて奪われた財産と、自分の甥であるロトとその財産とまた婦女と民を取り戻してきたアブラムを迎えます。ところが、前後の状況の説明もなく、突然シャレムの王メルキゼデクが登場しています。では、なぜここにメルキゼデクとの出会いが突然記録されているのでしょうか?この中には大きな霊的な秘密が込められていますので、一つ一つ説明していきましょう。本文18節によればメルキゼデクについて「いと高き神の祭司」とあります。ところが、実はイスラエル民族で祭司という職分が正式に登場し始めるのは、アブラハムの時代からかなり後のモーセの兄アロンからでした。神様はヤコブの12人の息子たちの中で三番目だったレビの系図の子孫の中でアロンを始め、彼の子孫たちに祭司の職分を遂行させたのです。 ところが、このように祭司の職分が生まれるずっと前に、今日の本文には祭司という職分が登場しています。 

使徒パウロはまさにこれについてヘブル7:10で説明するとき「というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」と話しています。つまり、極めて高い神様の祭司メルキゼデクがアブラムに会ったその当時、祭司が輩出されるレビ族の先祖であるレビはまだ生まれてもいないということです。これはつまり、メルキゼデクは肉的な系図を追って立てられた祭司とは異なり、彼に祭司という職分が与えられたのには何か特別な理由があることを示しています。 

ヘブル7章11節ではこれについて、「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです。―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。」と述べています。「位」とは、ある集団での地位、身分の上下関係などを意味します。ここでメルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司とは、大祭司でありながら、自分を神様の前になだめの供え物として捧げ、ただ一度で神と私たち人類との間にあった罪の隔ての壁を壊してくださったイエス様を指すのです。 
 
続く
ヘブル7:15-17では、「もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」」とあります。イエス様はメルキゼデクの位に等しい祭司として、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのですと言われました。イエス様がレビ部族ではなく、その流れではないユダの子孫として生まれ、私たちの大祭司になられた根拠が、まさにメルキゼデクから探しているのです。詩篇110:4にも将来この地に来られるメシヤの神イエスについて預言していますが「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」と述べています。 

朝の学び108 創世記14章  

創世記 14:1-16 
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

 

アブラムの善良な心       


アブラムは祝福を受け、かなりの勢力を持っていたとしても、いざ甥のロトが北方の連合軍によって捕虜になったという話を聞いた時、肉的に考えてみれば快く気軽に出られる状況ではありませんでした。北方の王たちの連合軍が、すでに周辺の様々な国と属国を次々と攻撃し、勢いに乗っていた時に、アブラムが連合軍を相手に戦争を遂行するということは、決して容易なことではありません。しかし、アブラムは肉的な状況を見たのではなく、すべてを信仰の目で見つめ、ロトに対しても最後まで道理を尽くす善良な心でした。もし邪悪な心を持った人だったら、「それを見ろ、良いものを先に選んで行って、結局そのような災いに遭ってしまったんだ」と、ただ知らんふりをすることもできたでしょう。また、すでに自分の方ではできる道理を尽くしたと考え、責任がないとそっぽを向くこともあるのです。ここまでは考えなくても、しぶしぶ甥っ子を助けに行く人もいるでしょう。 
    
アブラムには悪の心が全くなかったので、どうしても甥のロトを救わなければならないという善良な心で、すぐにしもべを従えて駆けつけました。自分は抜けたまま、しもべだけを送ったわけでもなく、「こんな戦争の渦中に私がここを去ったら、私の天幕はどうなるのか…···」と、自分の所有を先に心配したわけでもありませんでした。自分の所有については振り返る暇もなく、自ら先頭に立って軍を率いていきました。アブラムには何の邪心もなく、たとえロトが自分の利益を追って自分から去っていったとしても、一度自分に属した人に対しては、最後まで責任を果たそうとする善良な心があったのです。ここで私たちは神様の心を感じることができます。

ヨハネ13:1によれば「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と記されているが、これはまさにイエスが自分を売るユダに対してまでも、最後まで愛の心を抱いていたことを物語っています。イエス様は、イスカリオテ·ユダが時がくれば自分を売ることを知りながらも、「彼は私を裏切って売る人だ」と、彼を遠ざけて憎んだのではなく、最後の瞬間までも愛と哀れみの心で彼に接して下さったという事です。イスカリオテ・ユダだけでなく、将来イエス様を知らないと3回も否認することになるペテロに対しても、またイエス様が十字架を負う時になれば、恐怖で散ってしまう他の弟子たちに対しても、イエス様は最後まで愛を注いでくださいました。このような主の心のように、アブラムもまた、ロトが一時自分の利益を追って自分を去ったからといって、それによっていかなる感情も抱かなかったのです。ロトを先に理解してあげる気持ちで、たとえロトが遠く離れていても、いつも彼に気を配って、いつでも助ける気持ちを持っていました。
   
私もこのような神様の心を成し遂げようと努力し、今まで過ごしてきた歳月を振り返ってみると、いつもこのような気持ちで行ったと申し上げることができます。単純に自分の利益だけを追う人だけでなく、裏切って去って悪を行った人々までも、私はいつも彼らに善で接し、憎む心を全く持ったことがありませんでした。彼らの中に災いに遭ったり、試練や患難によって苦痛を受ける人がいるという便りでも聞くと、私の心もとても痛くて残念でした。また、特別に神様が私のそばに付けてくれて、私を助けるようにした人々に対しては、いつも彼らの細かいことまでも調べて、私の方で先に彼らに必要なもので満たしてあげたりしました。たとえミスがあって過ちがあったとしても、私はいつもそれを許して覆ってあげ、彼らがもっと力を出して果たすことができるように、最後まで愛で接してきました。主がご自分に属した人々に対して最後まで愛と善で接したように、アブラムが甥のロトに対していつも気を配って責任を負おうとしたように、私もマンミンという名前で一つになった皆さんをいつも私の心に抱いて祈っています。 

アブラムの私心のない心

      
さらに本文22-24節を見ると、アブラムがどれほど私心なくきれいな心で戦争に出たかがよく表れています。アブラムが戦争に出て勝利し、奪われたすべての所有物を探して帰ってくる時、ソドムの王がその前に出て
「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」と言うのでした。 これに対してアブラムは、「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」と言ったのです。 
    
アブラムは戦争の勝利者であり、ソドムの王に大きな恵みを与えた者として、戦争で得た戦利品を取るとしても、これが決して悪の心から始まったわけではありません。さらに、ソドムの王が直接自分からアブラムを迎えに来て
「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」と言ったので、アブラムが戦利品を取るからといって、これが非真理の心ではないということです。それでもアブラムは、自分に入ってくるいかなる私益も取ろうとしませんでした。ある財物に対する欲や私的な利益を求めようとする非真理の心が彼には全くなかったからです。 
    
また、彼はすべての祝福を父なる神からだけ受けようとしました。人の側で自分の利益を追って富を築いていくのではなく、魂が幸いであるときに、上から父なる神様から与えられる祝福だけで富を築いていったということです。ところが、アブラムがこのようにソドムの王の提案を断ったのは、人の心をあまりにもよく知っていたからです。人の心というものが真理に変化する前には、いつでも自分の利益を追って変わっていくという事をアブラムはよく知っていたのです。つまり、ソドムの王が今すぐにはアブラムに感謝し、嬉しい気持ちですべての物品をアブラムに渡そうとしたが、後で歳月が過ぎれば、その心に財物に対する欲心によって違う話をすることがあるからです。 
 
例えば、「自分は望んでいなかったが、アブラムが代価を望んだので与えた。」このように話す言葉が出てくるかもしれないということです。アブラムがこのような人の心を知っていながら、どうしてソドムの王の提案を直ちに受け入れることができるでしょうか?「
若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」ただ戦争に動員された若者たちの糧と、自分を助けた同盟軍に返す分け前の他には、どんなものも取らなかったのです。ここで私たちは、自分を助けた人々に対して責任を持って苦労に報いようとするアブラムの配慮する心も、十分に伺い知ることができます。次回は、これまで見てきたアブラムの肉的な祝福とは比較にならないほど、あまりにも大きな霊的な祝福であった神秘の人物、メルキゼデクとの出会いについて見ていきます。 
   

結論


アブラムは心に少しの私心や欲がなかっただけでなく、人の心までも十分に推し量ることができたので、ある選択をするにあたって常に正しい道を追い、善の知恵を受けました。それで、創世記23章を見ると、アブラハムは後日、妻のサラの埋葬地を求める時も、埋葬地の洞穴をただで渡すというヘテ人の提案をそのまま受け入れたのではなく、あえてそれに該当する相当な値段を払って埋葬地であるマクベラの洞穴を手にしたことが分かります。もしアブラハムが与える通りに全て受け取ったとすれば、その後に多くの困難を経験したでしょう。これは彼の心に少しの欲もなく、正当でないものを受けようとする心もなかったためであり、またこのように値段を払って確実に自分の所有にすることで、後日その所有に対していかなる是々非々もないようにしようとしたのです。

 

皆さんもこのことをよく知って、すぐにいい提案が入ってきたということで、それを絶対に取るような姿はお控えください。さらに、相手が真理に変化した人でなければ、自分の利益を追っていつでも言葉と行動が変わることがあるということを、常に真理で分別しなければならないのです。また、自分が苦労して頑張った以上を受けようとする、欲の心も捨てなければなりません。常に正当な代価だけを望むべきであり、それから行き過ぎたことはいくら良いことでも、慎んで断るのが当然の道理です。

箴言22:1「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。」という言葉のように、財物よりも名誉を、銀や金よりも愛顧を選ぶべきだということです。そして何よりも、すべての祝福は父なる神様からもたらされるという事を必ず心に留めておいてください。人の知恵と方法で祝福を受けるには、どうしても肉的な限界があり、またそれがいつ消えるか分からないからです。ただ神様から来たものであってこそ、それが永遠のことであり、この地だけでなく天にも祝福で積むことができます。今日お聞きになった御言葉が知恵となり能力になって、常に正道を追いながら善の道を選ぶことができる皆さんになることを願います。そんな時、箴言5:21に「人の道は主の目の前にあり主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」という御言葉のように、すべての人生の道を主管する父なる神様が善の道、義人の道を追う皆さんの行く道を、常に守り保障し、祝福に導いていかれますように、主の御名によってお祈りします。


   

朝の学び107 創世記14章  

創世記 14:1-16 
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

 

はじめに
創世記13章ではアブラムとロトが別れて、それぞれの住む所に行くことになる過程を見てみました。アブラムは相手に良いものを先に譲るという広くて善良な心で行っていったが、一方ロトは自分の見る方にもっと良いものを選んで自分の利益を追っていってしまったのです。創世記14章には、このようにそれぞれ霊と肉を選んで去ったアブラムとロトが、その後にどのような結果が出るのかがよく出ています。肉を追っていったロトは戦争に巻き込まれ、大きな災いの中に陥ることになりますが、霊を追ってきたアブラムは肉的な祝福はもちろん、極めて高い神様の祭司であるメルギゼデクに出会うという、驚くべき霊的な祝福まで受けることになります。

神様の声を聞くことができず、導かれることができないまま、自分の見た目に良いように肉を追った結果は、多くの困難に遭うことになり、絡み合った状況に陥ってしまいました。反面、善の中で神様の導きを受けた結果は、神様の守りと保護の中で、富と名声まで得る幸いな結果として出てきたのです。 

肉を追うロトと霊を追うアブラムの違い       
本文1節に出てくる「時代」とはバベルの塔の事件以後、人々が言語と種族によって散らばって暮らしながら、それなりに勢力を育てていた時を言います。そのため、当時はそれほど広くない領土の中に数人の王がいて、それぞれ自分の領土を管轄していたことが分かります。彼らは自分の勢力をさらに育てるために、時には利益を求めて互いに連合したり、時には互いに戦争をしたりしましたが、本文の背景も北方に住んでいた四人の王の連合軍とソドム、ゴモラを中心とする五人の王の連合軍との戦争から始まります。

 

当時、ソドムとゴモラをはじめ、カナンの地境を占めていた王たちは、この戦争に敗れ、北方の王たちの中でもエラムの王ケドルラオメルに12年間仕えるようになりましたが、13年になると裏切るようになります。そして、そのケドルラオメルと彼と同盟した王たちは、再び連合軍を構成し、破竹の勢いでカナンの地境に向かって降りてきます。レファイム人、ズジム人、エミム人、ホリ人を順に打ちながら降りてきます。そして再び方向を変え、アマレク人とエモリ人を攻撃した後、ついにソドムとゴモラの王をはじめとする5つの王の連合軍まで敗北させてしまいます。
 
本文の
11-12節「そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。」とあるとおり、ソドムの王が北方の四つの王に敗れた時、当時ソドムの地に住んでいたロトに災いが降りかかったのです。それでは、このように北方の四人の王の連合軍によってカナンの地境と周辺一帯がほぼ占領された状況で、アブラムは果たしてどうなったのでしょうか? 
    
本文
13節「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。」とあります。これは、おびただしい戦争の渦の中でもアブラムは安全に守られていたし、戦争によっていかなる被害も受けていないことを物語っています。当時、アブラムが住んでいた場所は、エモリ人のマムレの樫の木の近くでしたが、先ほどお話しした通り、エモリ人までも北方の四人の王の連合軍によって害を受ける状況でしたが、近くに住んでいたアブラムは守られていたという事です。さらに、アブラムは滞在していた地域はもちろん、周辺で影響力を行使している人々と親交を深め、同盟していたことが分かります。

アブラムは戦争の渦中にも完全に守られただけでなく、周辺の勢力とも良い関係を維持し、自身の勢力を育てていくことができたのです。では、アブラムはどのようにして周辺の勢力とも円満な関係を維持することができたのでしょうか?これは、アブラムが神から守られ、保証される人だったからであり、常に仕える人だったからです。私たちは本文の御言葉を通して、当時のアブラムがエモリ人の人々と非常に近くに住んでいたことが分かりますが、この時、エモリ人の立場では、異邦人のようなアブラムとどうして最初から素直に良い関係を結んだのでしょうか?周辺の異邦民族がアブラムをどうすることもできなかった理由は、彼と共におられる神様を見たからです。

以前、エジプトの王に妻のサライを奪われた時に、彼がどうやって妻を探すようになったのか、噂に噂が加わったはずで、そうしながら周辺の人々も自然にアブラムと共にしながら、彼を守る神様について聞くようになりました。また、アブラムを保証しながら祝福する神様の御手を彼らも感じることができました。そのため、簡単にアブラムに触れることができず、むやみに接することもできなかったのです。アブラムはこのような状況でも、いつも周りに仕え、配慮する心でした。「私はこのように神様から守られる人だ。」と、周辺の異邦民族を無視したり、ぞんざいに接するのではなく、善良な心の中心から常に先に相手に仕えて施したのです。周りの人たちもこのようなアブラムに良い感情を持つようになり、お互いに力になってあげる関係に発展するようになったのです。

アブラムの受けた祝福
14章24節 「ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」を見ると、アブラムが甥のロトを助けに出征する時に、アブラムには自分が育てて訓練した者300人だけでなく、アネルとエシュコルとマムレもいたことが分かります。彼らはアブラムと同盟を結んだ人々で、戦争という危険な状況でもアブラムを助けるほどアブラムと強い関係を持っていたという事です。だから、アブラムが普段どれだけ周辺に仕えたかがよく分かることであり、またアブラムを保証して共にする神様が、アブラムの周辺の人々にもどれほどよく働かれていたかが分かります。このようにアブラムがいつも周りに仕えていたからといって、これが彼の力が弱かったからそうしたのではありませんでした。肉的に見てもアブラムには周りの人たちがむやみに接することのできない力と富があったことが分かります。

このような事を裏付ける内容が14-16節に出てきます。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。」アブラムが三百十八人の勇士をしもべとして従えていたということは、その他にもどれほど多くの人々がアブラムに属していたかをよく表しています。勇士たちと一緒にいる家族や、その他の必要な人材まで考えると、この時アブラムがどれほど大きな集団を成して大きな勢力を持っていたかが分かるのです。だからアブラムがどれほど大きな祝福の中で富と権勢を享受して暮らしていたかが分かります。アブラムはこのように心強い基盤を形成し、神様がくださる祝福を思う存分受けていったので、多くの異邦の民族の間でも彼らと肩を並べて生きていくことができました。

 

ここで私たちが一つ悟らなければならないことは、アブラムは人の側でする道理もやはり全てをする人だったという事です。もちろん、アブラムがこのように大きな勝利を収めることができたのは、何よりも神様を全面的に信じて頼りにしたからですが、それでもアブラムは人の側ですることを決して疎かにしませんでした。「神様が守ってくださるだろう」と自分がしなければならないことを疎かにしたのではなく、自分自身も熱心に人々を育て訓練し、自身と自身に属した所有を守ることを疎かにしなかったということです。

 

ところが、たまにある方々は、神様の前に信頼を示すと言いながら、人の側でしなければならないことまでもしないまま、無条件に「信じます。」というケースを見ることがあります。例えば事業の場で祝福を受けることを望む方が、事業の場の世話をすることは疎かにしたまま、神様の前に「祝福して下さると信じます。」と祈るなら、これは公義に照らしてみても当たらないものです。人の側から見て回ることができるのは、あちこちを見て回って、肉的にも隙間なく仕事をしていかなければならないのです。もちろん神様の仕事で忙しくて、事業の場や仕事の場を世話できない場合もあるでしょうが、だからといってこういう場合、「知らない」と自分のすべきことまでしないならば、これは正しい信仰の姿勢とは言えません。

普段から分野をよく見て、時には自分が席を外しても仕事がうまくいくようにしておかなければならず、必要な時は、自分の代わりに信じて仕事を任せられる人を育てておくことも重要なことです。だから神様の前に信仰で委ねると言って、人の方でできることまでしないまま、口だけで「信じます」と言ってはいけないことですし、人の側でやるべきことはやるべきです。人の側ですることまでしなければ、これはまるで柿の木から柿が落ちることだけを待つ、愚かな人だと知らなければなりません。しかし、アブラムは人の側ですることに対しても常に最善を尽くす人だったので、神様がくださる祝福をよりよく管理することができ、必要な状況に直面した時に、いつでも使える人たちもよく準備ができていたので、直ちにロトを救うために出征することができたのです。 
   

朝の学び106 創世記13章  

創世記13:10-18
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

アブラムに与えた祝福


14-15節を見ると、ロトと別れたアブラムに、神様からの祝福の言葉が出てきます。「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」とおっしゃったのです。この御言葉の中には、すでに神様の計画の中に、将来アブラムの子孫として出てくるイスラエル民族を通して、どのように働いていかれるのかが含まれています。アブラムに至るまで受け継いでこさせた正統の系図を通して、選民イスラエルが出てくることになり、神様は彼らをすべての民族の上に優越して立てることで、彼らを通してすべてに完全で優れた主の名前を、人々の心に鳴り響かせるということです。イスラエル民族を通して、世界の万国の民に神様を知らせながら、計画された人間耕作の摂理を成し遂げようという意味が込められているのです。
     
このような遠大な計画と摂理を成し遂げるために、神様が選ばれた人物がアブラムだったのであり、神様はアブラムにそれだけ大きな愛と祝福を約束してくださっているという事です。彼に与えた祝福の誓約が、単にアブラム個人だけに該当するのではなく、将来出てくることになる選民イスラエル全体に対するものなので、祝福の誓約はそれだけ大きくて遠大だったということです。そして、一度与えられた祝福の約束は、この世が終わるまで永遠のものなので、神様は最後の時にもう一度聖霊の火のような働きを通して、福音がイスラエルに回帰させることで、アブラムに与えた約束を成就していらっしゃるということです。 

「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」13章15節の言葉が、単に肉に見える地を永遠に与えるという意味ではなく、彼らに向けられた救いの摂理までも含む霊的な意味の約束なので、神はその約束を成し遂げようと、選民イスラエルを通して救い主が出るようにしたのであり、もう一度、聖霊の働きを通して父の摂理を示しているということです。続く16節では,より具体的な契約の言葉が宣言されます。「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。」と言われましたが、最初アブラムを呼びながら、創世記12:2「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」という言葉がどのようになされるのかをおっしゃっているようです。
     
人としては地のちりを数えることが不可能なことであるのと同様に、アブラムの子孫も多すぎて数えることが不可能なほどであるという意味が、まさに16節の御言葉に含まれているのです。「数えることができれば」と言われたのは、「もし数えるなら」という意味で、結局は数えられないことを強調することでしょう。ですから、この御言葉の中には、将来アブラムを通してどれだけ多くの子孫が出てくるかがよくあらわれています。ここで言われる「子孫」とは、肉の系図を追う子孫ではなく、信仰で従っていく信仰の子孫です。アブラムは将来、諸国の信仰の父としてすべての信仰の父になるので、今日に至るまで信仰によって救われたすべての人はアブラムの子孫になるのです。アブラムは、信仰によって救われる人が出るたびに、信仰の中で父となる栄光を世界の終わりまで受けるようになります。このように、信仰の父という立場がどれほど栄光の場所であり、どれほど貴重な場所なのでしょうか。神様がアブラムに与えられた約束の言葉は決して小さな祝福ではなく、人間耕作の歴史の中に一度だけある、空前絶後の祝福の契約です。 

しかし、祝福の約束はその当時のアブラムに与えた約束ではありません。彼がこれから通過しなければならない訓練までもすべて通過した後に、父なる神様の前に完全な者として出てきたときに、初めて彼を通してなされる約束なのです。しかし、神はアブラムがこれからのすべての訓練を通過し、完全な信仰の父として立つことを知っていたのでこの言葉をくださったのであり、アブラムもやはり一度神様がくださった言葉をひたすら信仰で固く掴んでいったので、この約束の言葉は一寸の誤差もなく叶うことになります。13章18節「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。」アブラムが驚くべき約束の言葉を受けた時も、神様の前に祭壇を築いたので、神様との間の約束を確証しました。前にも申し上げたように、アブラムはただ唇だけで神様に感謝したのではなく、このように神様の前に祭壇を築いたので、神様がくださった契約を完全に自分のものとして受け取ったという確証が神様との間にあるのです。

 

アブラムの告白


その当時、アブラムが神様の前にさしあげた告白をしばらく紹介します。「父よ、すべてのことの根本である方、すべてのことにおいて完全であり、すべてのことを主管しておられる、父なる神様の御前にひれ伏し賛美をお捧げ致します。小さく低き者であり、何ものでもない存在のわたしでしたが、父がわたしを愛しわたしを選び、わたしをその心に抱いて完全な者として成し遂げて下さり、唯、父の栄光の為に生きるようにして下さり感謝申し上げます。わたしに多くのことを約束し、それを忠実に守られ、この息子を通して父の永遠のご計画、そのご意思を完全に成し遂げるよう導いて下さり、心から感謝と栄光をお捧げ致します。」

この告白の中には自分を選んで完全に整え、神様の摂理のための道具として使われるようにする父なる神様に対する感謝と畏敬、そして神様の誠実な約束に対する中心からの信頼が込められています。皆様の人生の中でも毎日このような称賛と告白が溢れますように主の名前で祈ります。このように祝福の道に入るアブラムとは異なり、肉を追っていったロトがそれによって体験する苦痛の過程については、次の時間に続けて説明することにします。
   

結論    


私たちが人生の中で一瞬一瞬、父なる神の前に感謝する条件はあまりにも多いです。また、必ずしも個人に直接与えなかったとしても、祝福の約束は講壇を通して常に宣布されています。それを自分のものにして信じていけばいいのです。それで、私は父なる神様がある祝福の御言葉をくださった時、いつも私への御言葉として信じて受けました。実際に現実には見えるものが一つもない時も、誠実な神様の御言葉を信じて変わらない心で最後まで行っていった時、神様は必ずおっしゃったことを叶えてくださいました。
         
それでは、皆さんはどうですか?「目に見せてくれないと信じられない」という方がいらっしゃいますか?「手のひらほどの雲でも見えれば信じる」とおっしゃる方はいらっしゃいますか?エリヤ預言者が3年半の日照りの中で雨を引き降ろすために祈りに行ったとき、彼は雲が見えて祈りに行ったのではありません。何も見えない中でも信仰で出て行き、そうした時に神様が手のひらほどの雲を送ってくれました。
     
アブラムも同じです。彼の子孫が地の塵のように多いことをおっしゃった時に、彼に息子がいたわけではなく、息子が産まれる約束があったわけでもありませんでした。また、東西南北の見える地を与えるというお話も、今すぐ目に見える実があったわけではありません。アブラムが神様から多くの祝福を受けていくとはいえ、目に見える四方の地を取っていくには、まだ彼の力が足りない時でした。
     
このようにエリヤやアブラムは現実に何も見えない状況でも、神様の御言葉を信仰として受けたので、神様は結局彼らの信仰通りに働いてくださったという事です。ですから、皆さんは
ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」という言葉のように、望むことが実状として現れ、見えないものが証拠として現れるまで変わらない心を守っていくことを願います。このような霊的な真の信仰を所有することにより、皆さんの人生の中で「あなたの信仰通りになる」という御言葉が日々成就していきますように主の御名でお祈りします。

朝の学び105 創世記13章  

 創世記13:10-18
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

はじめに


創世記講解を通して、信仰の父アブラハムは、果たしてどんな心を持っていたので、神に愛され、保証された偉大な人物として出てきたのかを見ています。過去の時間には、アブラムとロトの姿を通して大きな器と小さな器の違いについて調べてみましたが、アブラムは穏やかさと一緒に寛容と柔和の心によってすべてを抱くことができる大きな器だったと伝えました。私の所有、私の立場だけを考えるのではなく、私の周りのすべての人と私によって、周囲に及ぼされる影響までも考える広くて大きな器を持つアブラムだったので、彼は自分の既得権をあきらめてまで甥ロトに先に良いものを選ぶ機会を与えます。

甥のロトに「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。」という感動的な善の告白が出たのです。皆さんもこのような状況で、アブラムのような告白が心の中心から出ることができるでしょうか?マタイ5:39-41に、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」とおっしゃったように、皆さんも心の中心で喜び、このように行なうでしょうか?
     
皆さんの人生の中で「私は果たしてどんな姿なのか?」振り返ってみると、この質問に対する答えが出てきます。皆さんがとても欲しいものがあるのに、皆さんは我慢してそれを手放そうとした時に他の人が来てそれを手にしたとしましょう。この時、皆さんの気持ちはどうですか?私がいくらでも先に取れるものを他の人が取ったとしても、まったく寂しがったり、感情を抱かずに一緒に喜んで与えたりすることはできますか?また、こうすれば私が損をすることは明らかなのですが、相手は私にそれを要求します。相手が自分のほうに有利な方に引っ張ろうとするのです。この時、皆さんは明らかに損をすることだと知りながら、相手の利益を先に与えてあげられますか?二つのうち一つを先に選ぶ機会が来たとき、皆さんは躊躇せずに良いものを先に選びますか。それとも他の人の立場までも考えてみますか?皆さんの人生の中で、このような状況と選択の瞬間は頻繁に訪れるでしょう。それなら、この時皆さんは「私はアブラムのようにすることができます。」と大胆に告白することができますか?

心では成し遂げず、頭に知識だけで知っているからといって、真理として行えるわけではありません。実際に自分の利益がかかった現実に接すると、心の中にあるものが出てくるので、本当に心が霊になったときだけが、心の中心から湧き出る心で真理を行うことができるのです。たとえ心からではないが行いだけでするとしても、心の中心を見てくださる神様が、それを受けることもないのです。ですから、「こうしなければならないのだなぁ」と頭で知ることで自分を評価するのではなく、皆さんの人生の中で実際にどんな選択をしているのか、自分の姿を謙虚に点検してみてください。それで、足りない部分を発見し変化することで、皆がアブラハムのような大きな器に出てこられますように主の御名で祈ります。

肉に従いアブラムのところを去ったロトの結末  


私たちが本文を通してもう一つ悟らなければならない点は、何を選択しても肉でしてはいけないということです。ロトは自分に先に選択権が与えられると、肉に従っていったのを見ることができます。この時ロトがもし神様の前に祈って導きを受けたとすれば、たとえその心に神様がご覧になるのにふさわしくない部分に対しては、訓練を受けるだろうが、災いだけは避けることができたでしょう。しかし、ロトは自分の欲通りに肉に従っていったので、神様から守られることができませんでした。箴言5:3-7を見ると、自分の見た目に良いとおりに肉に従っていった人の結果について出ています。「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。子どもらよ。今、私に聞け。私の言うことばから離れるな。」

まさにロトもすぐに自分の見た目に良い方を選んだのが、まるで蜜のように甘く、油よりもなめらかな、みだらな他国の女の唇を追いかけたこととなり、後で途方もない災いにまでつながってしまったのです。したがって、私たちはある選択をするときに、常に霊として考えなければならないことであり、祈って聖霊の導きを受けなければなりません。教会の中で何かを成し遂げる時もそうですし、世で事業や仕事を成し遂げる時も同様です。そうでなくて肉を選んで決めていった時は、訓練が従うようになり、苦痛を受けることになるという事です。

ところが、本文10節で非常に興味深い事を見つけることができます。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」ロトが選択しようとしたヨルダンの方を、主の園のように、またエジプトの地のようだったと言いました。では、ロトが選んだ豊かで見栄の良い土地を、なぜエジプトの土地と比較したのでしょうか?

今日のエジプトを考えると、たいしたことはないように見える土地ですが、アブラハムの当時、エジプトの土地がどれほど豊かな土地だったのかがわかります。前に創世記の講解で申し上げたように、アダムが罪を犯す以前にエデンの園に住んでいた時も、アダムは私たちが住んでいるこの土地を頻繁に訪れていましたが、その時一番好んで訪れていたところがエジプトの地だったと言いました。エジプトの地は、エデンの園に住んでいたアダムが見るときにも、異国的な趣とともに美しい環境によって彼の心を引くほど魅力的な土地でした。
     
それでロトが選ぼうとしていた土地が、当時としては水が豊かで、肥えていて肥沃な土地だったので、今そこをエジプトの地にたとえているのです。これは、エジプトの地が今日のように砂漠化する前にはどれほど美しい場所であり、さらに遠い昔はどれほど水が豊かで肥えた土地であったかをよく教えてくれています。エジプトの地はアダムから最も愛されるほど美しく豊かな土地だったという神様のみことばが、今日の本文のみ言葉を通してもう一度確証されています。このように豊かで見事なヨルダンを選んでアブラムを離れたロトは、ついにソドムの地までたどりつきます。肉の考えを働かせて自分の見た目に良いものを選んでいったロトは、将来やってくる災いに気づかないまま、ますます深い苦しみのどん底に落ちてしまいました。
   
本文13節を見ると、
「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」と言うほど、ソドムの土地は罪で染まった所であったにもかかわらず、神様の導きを受けられないロトは、そのような所に向かってさらに深く入っていたのです。創世記18章19章を見ると、ソドムが神の前にどれほど悪を行っていたかがよく出ていますが、ユダの手紙1:7には「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」と話しています。当時、ソドムは霊的な姦淫と偶像崇拝に浸っており、その影響により、享楽的で退廃的な雰囲気の中で神様の目に大きな悪を行っていました。バベルの塔の事件以後、民族と言語が分かれてバラバラになった人々はそれなりに集団を形成して生活していくようになりました。その中には、神様の選びの中で系図を継承しながら、神様を畏敬する正統性を維持するところもありましたが、逆に神様の存在さえ忘れて情欲を追い、偶像崇拝と享楽に陥って暮らすところもありました。代表的なところがまさにソドムだったのです。そしてロトは肉を追っているうちに、このようなソドムにまで至ったのです。

一方、アブラムはどうでしたか?甥のロトに対して最後まで善を行ったアブラムは、ロトが彼を去った後、むしろより大きな祝福の中に出ていくのを見ることができます。ロトがアブラムを離れると、ロトはますます困難の中に陥りましたが、アブラムはますます大きな祝福を受けていきました。 これは逆に考えてみると、アブラムはこれまでロトと一緒にいることによって、より大きな祝福を受けることもできずにいたということになります。これはどういう意味でしょうか?例えば、ある家庭の中に神様の目には愛らしい人がいるにもかかわらず、その家庭全体で見れば祝福を受ける器にならないので、より大きな祝福を受けられない場合があります。もちろん愛される人に対しては個人的に祝福をくださるが、家庭全体に祝福を与えることは出来ないということです。このような場合、むしろ個人が独立をすることになれば、その後に神様が個人的にもっと思う存分、祝福を与えることができるのです。
 
これは他のすべての分野でも同様です。神様の前に合わない人とあることを共にする場合、それによって私が受ける祝福も阻まれる場合があるのです。ですから、
コリント第二6:14「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」と言われるのです。アブラムの場合は、一緒にいるロトが神様を知っているとは言え、ロトには神様の前に合わなかった分野があったので、神様はこのようなロトがアブラムを離れた後に初めて、アブラムにもより大きな祝福として働らかれたという事です。ところでロトが普通の人よりも劣る人ではありませんでした。それでも叔父アブラムのそばで見て学んだロトだったので、ペテロ第二2:8を見れば、「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」と言われた通り、それなりに神の義の中に住みたいと思った人です。それでもアブラムと比べるとあまりにも不足し、結局、肉を追いかけて去ってしまったのです。

朝の学び104 創世記13章  

創世記13:5-13
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。

器の大きさに関連する温順の心


器の大きさに関連するもう一つの徳目は温順です。温順とは、心の中から出てくる美しい善と香りによって相手を楽にし、相手の心を動揺させないようにして真理で治めていける心です。このような温順の心が臨むと、心に余裕ができ、すべてに落ち着いて施せる姿が出てくるのです。温順の心になると、安らかで、すべてが豊かな時だけでなく、困まったことになっても、心が揺れ動きません。「こうだからつらい、ああだから難しい」と気を落として不平を言うのではなくて、感謝と喜びをもって十分できます。目の前の困難より、その心に臨んでいる神様の恵みのほうがもっと大きいからです。

コリント第一8:13に出てくる使徒パウロの告白の中に、このような温順の心がよく含まれています。「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」としたのです。使徒パウロは他のすべての人々と同じように、自分が肉を食べたり食べなかったり、自分の思い通りできる権利がありました。しかし、弱い魂のために必要ならば、一生肉を食べないというくびきを、自ら背負わなければならないと言っても構わない、温順な心でした。また彼は主のために自分のすべてを捧げただけでなく、福音を宣べ伝えるのに益になるならば、主が許された権利までも取りませんでした。 

それで、コリント第一9:18-19に、「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」 これは「私がこんなことを言ったら、私がこんな行動をしたら他の人にはどのように影響を与えるのだろうか?」こんなことまでも気を配る心です。皆さんもこのような温順の心を叶え、常に相手の立場を先に考え、相手のために喜んで自分を犠牲にしてあげることで、多くの人を包容して抱くことができる大きな器にしていくことをお願いします

最後まで和平を追ったアブラハム


大きな器を持った人と小さな器を持った人とは、自分の功を表に出そうとするのか、あるいは他の人に功を回そうとするのかでも、その違いが出てきます。ロトは確かに叔父のアブラムと一緒にいたことで祝福を受けた者なのに、これに気づくこともできず、感謝することもできませんでした。しかし、この時、アブラムはロトが自分によって祝福されたという事に気づかないといって寂しがらず、ロトにそれを表そうともしなかったのです。「あなたが受けた祝福は、あなたが私と一緒にすることによって受けたものです。」と一言ぐらい言ってあげることもできますが、アブラムはそうしませんでした。これがまさに大きな器を持った人の姿です。 
     
アブラムは自分の功は表に出さないまま、すべてを神の恵みとだけ受けました。神様が守ってくださらずに、一緒にいらっしゃらなかったなら、どうしてアブラムやロトが祝福を受けたでしょうか?したがって、アブラムはロトが自分の恵みを理解できないからといって、寂しがったり感情を抱かなかっただけでなく、すべての感謝と栄光を神様だけに返したのです。ところが、ある人たちは、主の中で何かをしたとき、それを自分自身がうまく行ったように言います。自分の器が認められることを望み、他の人に自分のことを知ってもらいたいのです。これがまさに小さな器を持つ人の姿です。このように小さな器の人は、他の人が自分がしたことを分かってくれないと、それによって寂しがったり、心を痛めたりします。

 

逆に自分が負うべき責任を他の人に回そうとします。これは結局人に見せようとするものにしかなりません。私たちが何かをするにあたって、人に見せようとしてはいけません。誰も分かってくれなくても、神様が認めてくださって知っていただければ良いのです。それで、イエス様はマタイ6:1-2「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
     
アブラムは、自分の家畜の羊飼いと甥ロトの家畜の羊飼いが互いに争ったときに、責任を他の人に転嫁しようとせず、それをまるで自分の責任であるかのように心を痛める、善良で大きな器を持っていました。そのために、まずロトに手を差し出して、平和にできる道を提示します。相手を理解して、面倒を見て平和を追う美しい心を持っていたのです。このような状況でもロトは、自分の過ちは気づかないまま、結局自分の利益を追いかけていくのを見ることができます。それも目に見えるものを選びます。つまり、肉で選んだということです。本当に神のこどもであれば、この時どうするべきかを神様に尋ねて、神様の導きを受けて行かなければならなかったでしょう。しかし、自分の欲に目がくらむと、神様の導きを受けることができません。

このように、自分というものが先に出て、自分の欲が先に出るようになれば、聖霊の声を聞くことができず、聖霊の声を聞かせても聞こうとしません。ロトもこのようにして肉を追っていった時、結果は実に悲惨なことが見られます。これから14章以下を見ていきますが、自分の見た目に良い土地を選んだロトは、ついに戦争に巻き込まれ、ロト自身が敵に捕らえられただけでなく、すべての所有までも奪われる災いに遭います。ソドムとゴモラに下された神様の審判によって、自分のすべての所有と妻までも失う悲惨な結果を迎えます。 

一方、ロトに良い土地を与えて、カナンの地に住むようになったアブラムは、その後も万事に祝福を受けていきます。アブラムは甥ロトが捕虜として捕えられた時、自分の手元で育てたしもべどもを連れて行って、四人の王が連合した敵の軍隊を破り、甥と彼の所有まで取り戻すほど、力と富と権威をあまねく備えていました。自分の利益を追い求めたロトと、善を追ったアブラムの結果がこのように差が出ているという事です。次回は、アブラムが甥ロトに譲って善を選んだときに与えられた神の契約と甥のロトを危険から救う内容について調べます。
   
私たちはしばしば二つの選択の分かれ道で、どんな道を選ぶべきかを決めなければならない状況にしばしば接します。ところが、この時どんな道を選ぶのかは、結局、心に臨んだ真理によって決定されます。自分の利益だけを考える人は、当然自分の見た目に良いものを選ぶでしょう。しかし、周りのすべての人のことまでも考える人なら、たとえ自分に不利益が来ても、すべての人と一緒に平和を成し遂げることができる道を選びます。たとえ私に不利益が来るとしても、相手の利益を先に考えてあげるのです。

これは、事業を行う時や使命をやり遂げるときも同様です。自分の考えで良い道を選ぶのと、祈って聖霊の導きを受けて、父なる神の御心を追うのとは、全く違う結果を得るという事です。いい道がすぐには得になると思うとしても、公義の中で働かれる神様は結局、蒔いた通りに刈り取るようにするのです。善を蒔いた人には善で返してくれますが、悪を蒔いた人は自分の悪によって困難に直面してしまうのです。箴言4:18-19に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。」という御言葉のように、義人は神様が握って保証するので万事順調の道を行くことになりますが、悪人は闇をさまよい苦痛に遭いながらも、なぜそうなのかさえ気がつかなくなります。
   
私たちは、アブラムとロトの姿を通して、大きな器と小さな器の違いについて見てきました。大きな器を持つアブラムはすべてのことに善を追ったので、彼の道は父なる神様が保証されましたが、小さな器を持つロトは自分の利益だけを追っていったので、神様の守りも保証も受けられませんでした。ですから、器の大きさが結局は神様の愛と保証を受ける祝福の大きさになるという事を悟ることができます。器の大きさが大きい時は神様が注いでくださる祝福も多いのですが、器の大きさが小さいときは神様のほうで与えたくても受け取る器が用意されていないのです。
     
ですから、アブラムのように広くて大きな器を作って行ってください。
箴言3:6「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」という言葉のように、凡ての事を神様に任せて導かれていくことを願います。このように、主が皆さんの道を導いて、心から準備された大きな器の中に、日々溢れる祝福でいっぱいになっていきますように主の御名によってお祈りいたします。
 

朝の学び103 創世記13章  

創世記13:5-13
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。

はじめに
人の心を器に例えると大きな器と小さな器があるように、人の心も大きな心と小さな心があります。 
また、器ごとに材質が違うように、それぞれの人の心を構成する要素も異なり、器の綺麗さが違うように、それぞれの心もきれいさの程度が違います。それでは、父なる神様が人を選ぶ器の最初の基準は何でしょうか。それはまさに器の聖潔さです。
 

テモテ第二2:20-21に、「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とおっしゃいます。器の材質も重要で大きさも重要ですが、何よりもまず綺麗な器になってこそ、貴重な器だと言われます。ところが、聖書を見ると、神様はある大きな事のために器を選ぶ時、聖潔さと共に、器の大きさも非常に重要だと見ている事が分かります。

 

例えば、出エジプトした200万人に近いイスラエルの民を導く指導者として立てられたモーセは、器が非常に大きい人でした。もちろん最初から大きい人ではありませんでしたが、神様はその器を見て呼んで、訓練して大きな器にしていったのです。それで、モーセは民数記12:3に、「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と言うほど、柔和が勝れていたことがわかります。柔和は器の大きさと直接関係する御霊の実 聖霊の実なので、徳と愛を兼ね備え、霊的な柔和が臨んだ時に、多くの人を抱くことが出来る大きな器になることができるのです。このように柔和が勝れていたモーセなので、200万に達する民を率いて、40年という荒野の生活をする間、数多くのことを経験しながらも民を抱いて忍耐し、自分の使命に耐えることが出来ました。

大きな器アブラハムと小さな器ロト


アブラムも信仰の父として立てられるためには、それほど大きな器を持たなければなりませんでした。今日の本文に出てくる事件を通しても、アブラムがどれだけ大きな器を持った人なのかを知ることができます。一方、ロトは叔父アブラムと比べると、あまりにも小さな器であることが明らかになっています。カランを離れる時から一緒にいたアブラムとロトは、所有が増え、彼らが住んでいた土地にこれ以上一緒に同居できない状況になります。多くの家畜が一緒に住むには水も不足し、牧草地も不足していたのです。そのため、アブラムとロトの羊飼いたちが互いに争う状況にまで至ります。この時、アブラムは秩序上いくらでも自分が取れる優先権を放棄し、先に甥のロトに選択権を与えます。

 

本文9節「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。前の時間に申し上げたように、ロトが受けた祝福はアブラムと共にすることで得たものでした。さらに、肉の秩序から見ても年少者であり、甥であるロトの立場では、もし自分の家畜の羊飼いと叔父アブラムの家畜の羊飼いが争ったことを知っていたら、当然どうすべきでしょうか。自分の家畜の羊飼いたちを厳しく取り締まり、あえて叔父の耳に良くない声が入らないように行動しなければならなかったでしょう。しかし、ロトは小さな器だったので、叔父のことを先に考え、叔父の所有まで考えるほど心を広げることができませんでした。自分の所有だけに関心があり、自分の立場を先に考えました。そのため、叔父のアブラムが先に選択権を与えると、すぐに自分の目により良い肥えた土地を選んで去るのがわかります

 

本文10-11節に言った、「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。とあります。では、皆さんがロトの立場になってみてください。「私は果たしてこのような状況で選択権が与えられたとき、ロトのような姿だったのだろうか?それとも叔父さんに譲る姿だったのだろうか?」

もちろん、ロトが譲歩をしたとしても、アブラムは再びロトに先に選ぶようにしたはずです。しかし、このようにアブラムが何度もロトに先に選ぶよう勧めたとしても、ロトはどうすべきだったのでしょうか?本当に道理を知って恩、恵みを知っているなら、自分が不毛な土地を先に選んででも、叔父のアブラムに良い土地を譲るべきだったでしょう。何度断ってもアブラムが引き続き薦めるからといって「私は十分道理を尽くした。」と言って、早く自分が見るのに良い土地を選ぶならば、これは本当に心の中心で恩、恵みを知っているとは言えず、自分の道理を尽くしたとは言えません。もちろん、最初から一度に良いものを選ぶ人よりましだと思いますが、本当に叔父のアブラムに対する恩を知り、感謝するならば、たとえ先に選ばなければならない状況になったとしても、決して自分にとって良い土地を選ぶことはできません。ところが、ロトは拒絶や譲歩も一度もなく、自分の見た目に良い土地を選んで去って行ったので、彼の誤りがどんなことなのかがよくあらわれています。
 

しかし、このような状況でも、アブラムの心はどうでしたか?ロトがこのように自分の見た目にもっと良さそうな土地を選んで去ったからといって、その心が悲しんだり感情を抱いたのではなく、ロトに対して何も引っ掛かるものもなかったのです。それは彼の心に平安がいっぱいなので、与えてもまた与えることができる心だったからです。心の中心で相手に仕えるので、自分が受ける権威を与えることが出来、むしろもっとくださいと言っても喜んで与えられる寛大さがあったのです。

これがまさに柔和と共に、器の大きさを決定するのに直接関わる、寛容の心に該当するものです。寛容は、心が真理に変化するだけに臨む、豊かで余裕のある心から出てくるもので、真理が心に豊かに臨みながら、同時に真理の自由さがあるため、自分が持っているものをすべて、出してあげられる心のことを言います。このような寛容の心が臨めば、すべての人とともに和平を成し遂げ、徳を立てようと努力するので、結局多くの人を抱く大きな器になるのです。

器の大きさを決める柔和と寛容の心


それでは、皆さんの心はアブラムと比べて、果たして寛容の心がどれだけ臨んでいるのでしょうか?例えば、皆さんが10を持っているとしたら、それを求める人には、果たしていくつまで渡すことができますか?たった1つか2つだけ与える方もいるでしょうし、5つくらいまではあげる方もいるでしょうし、本当に心を広げて9つまであげることができる方もいるでしょう。しかし、アブラムは心の中心で相手が10をくれと言えば10を全部与えられる心でした。
     
各組織のリーダーが新しく選出され、教区や宣教会を担当する主のしもべも新たに任命されたり、席を変える場合がありました。そのため以前にリーダーだった方々の中に、来年はしばらく使命を離れるようになった方もいて、数年間担当した所を他の方に渡さなければならない場合もありました。そのような時、皆さんの心を一度チェックしてみてください。だからといって、必ずしもそのような方だけを点検してみるのではなく、皆さんが「私が果たしてその立場だったら、私はどうしたのだろうか」と自分の心を点検してみてください。
     
私は以前、使命を10個持っていましたが、その中の1つを渡すようになった時、または2つを渡すことになったとき、皆さんの心はどうでしょうか?または、5つを渡すことになったら、もし10個をすべて渡すことになったら、皆さんの心はどうでしょうか?このようなそれぞれの状況で皆さんの心がどうなのかを点検してみると、「私の心の器はどの程度なのか」ということを自らが悟ることができるでしょう。また、ある人が受けもっていた使命や立場を他の人が代わりにすることになった時に、その人の次の行動がどうなのかを見ても、その人の誤りが分別されます。

例えば、使命が他の人に移った時に、「あの仕事はこれ以上私の仕事ではないから、私は何の関係もない」として、以後全く関心さえ持たない人と、「私がたとえその使命を手離したとしても、新しく引き受けた方が使命をうまく担えるように、私が助けられることは最善を尽くさなければならない」という人とは、その器が天と地の違いです。ところが、もし他の人に使命を渡した時、もしも「まあ、どれほど上手なのか見てみよう」というこのような心を持った人がいるならば、彼は自分自身の心がどれほど非真理なのかを悟って、今からでも真に神様の前に悔い改めなければなりません。 

では、新たに使命を任された方の立場としては、どのような心を持つべきでしょうか?新たに使命を任され引き受けた方でも、自分の心に誤りを点検することができます。例えば、新しい使命を引き受けた時、「今は私がリーダーになったから」という気持ちで、もし以前のリーダーの方に仕えることが出来なければ、これもまた自分の誤りを自ら表すのです。また、使命に対して選択権が与えられた時、目に見える良いものだけを選んで持とうとすれば、これを通してもまたその心を点検することができます。
     
大きな器を持った人なら、なんとか力を合わせてもっとうまくやっていけるように、前にリーダーだった方に対してももっと仕える心で行っていきます。そして、目に見える使命だけを引き受けようとするのではなく、むしろ他人が引き受けようとしない使命があれば、それに仕える心で先に選択できなければなりません。このような状況を迎えた時、皆さんの心がどうなのかを点検してみることで、皆さん自らが「私の心には寛容がどれだけ臨んでいるのか?」「私はどれくらいの大きさの器を持っているのか?」を発見することができます。 

皆さんはたくさんの言葉を聞いたので、どうしなければならないのかを頭では理解できます。しかし、いざ現実に直面すると、各人のあやまちが如実に明らかになります。アブラムのように行う人もいれば、ロトのように行う人も多いのです。本当にアブラムのように行える人なら、彼は神様から愛されるしかなく、祝福されるしかないのです。自分のもの、自分の所有だけを考える小さな器の心なら、このような人は神様の前でもケチにならざるを得ず、結局神様から祝福を受けることも難しいということを知らなければなりません。このように祝福も結局は器の大きさに合わせて与えられるのです。
   

 

朝の学び102 創世記13章  

創世記13:1-10
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

祭壇を築いて祭事を捧げたアブラム


本文3-4節に「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」彼がネゲブから旅を続けてベテルに至り、ベテルとアイの間に天幕を張った所に来ると、彼が初めて祭壇を築いた所なので、「その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」とありますが、これは彼が以前に祭壇を築いたところに至り、再び神様に祭壇を築き、感謝の祈りを捧げたことを物語っています。

これまで心深く悟ることができなかった繊細で優しい神様の心を悟ったことに感謝し、自分の道を導いて試練から救ってくださり、むしろ以前よりもさらに大きな祝福を与えてくださった神様の前に感謝の祭壇を築いたのです。ただ、唇だけで「神様、ありがとうございます。こんなことに気づきました。」と告白したのではなく、このように父なる神様の前に祭壇を積み上げたことで、自分の告白と悟りを確証したのです。自分がした感謝の告白を自らも自分の心の中心に刻むと同時に、神様の前にも、自分の感謝の心を神様が喜んでもらえるような美しい香りを捧げたということです。

ところが、今日多くの人々は、神様の恵みを体験し、神様の祝福を受けながらも、神様の前に祭壇を築くのを惜しいと見ています。ただ唇だけで「感謝します」と言ったり、神様の前に適当に感謝することで終わってしまいます。しかし、真の感謝は一方的なものではなく、相互に行われなければならないという事です。私の側でだけ「この程度の感謝をすればいいだろう」ということではなく、受け取る側でもその感謝の気持ちを感じて認められるようにしなければならないということです。
     
ですから、私たちの方で適当に感謝を表したからといって、神様の方で無条件に受けるのではありません。本当に神様に欽香のような香り(杉粉をベースにした古典的な香り)で神様の前に捧げた時に、神様もその心の香りを受けられて、私たちの感謝を認めてくださるのです。そして、このように神様が認めてくださる時こそ、真の感謝として天にも積まれるのです。アブラムはこのような事実をよく知っていたので、創世記12:7を見ると、神様が現れ、
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言われた時も、そこに自分に現れた主のために真心をこめて祭壇を築きました。

 

 創生記12:7 「そのころ、主がアブラムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。このように祭壇を築き、祭事を捧げることで、神様が自分に与えた約束の言葉を神様との間で確証したのです。

 
ところが、今日の本文にアブラムが初めて祭壇を築いたところに至って、もう一度祭壇を築いて祭事をささげながら、主の名を呼んだ時は、彼の心が以前に祭壇を築いた時とはかなり違いました。もちろんアブラムは以前にも神様の前に熱心に祭壇を築く人でしたが、その時はただ祖先から聞いて学んだ通りに行ったのでした。「このような時はこのように祭壇を作って、祭事をささげるべきだ」と先祖から聞いて教えられたとおりに行ったという言葉です。しかし、今は心の中心を載せて祭壇を築き、感謝で賛美し、聖なる神様の御名をお祝いしたという事です。

まさに訓練を受ける前と訓練を受けた後に、このように驚くべき変化が起こったのです。祭壇を築くその中心、心が以前と今は全く違っていました。以前は学んできたとおり行なったと思いますが、今は心の中心で感謝する気持ちで祭壇を築いたのです。このように、アブラムは一度の訓練を通して多くのことが砕かれて壊れ、神様に対する愛と信頼も、まさに神様が望んでおられる心の香りとして捧げ、神様に認められる者になったのです。そして今はすべてをただ父なる神様の御心と導かれることに任せていく人になりました。

訓練の後に成熟したアブラムの信仰


本文5節以下を見れば、アブラムの成熟した信仰の姿がよく現れる事件が出てきます。アブラムには甥ロトが一緒にいたのですが、アブラムの所有と甥ロトの所有がしだいに増えると、彼らが住んでいた土地に二人の所有の者たちが同居できない状況に至りました。6節「その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。」と話しています。そうするうちについにアブラムの家畜の羊飼いとロトの家畜の羊飼いが互いに争う事態まで発生します。
 
これに対しアブラムが最初に出て、ロトに言った
8-9節「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ということでした。するとロトは目をあげて周りを見回した後、自分の目で見て良い土地を先に選んで選択しました。彼が選んだ土地はソドムの土地でした。
     
アブラムが初めてカランを去ったとき、ロトは叔父に従う状況でした。自ら独立できる立場でもなく、豊かな所有を持ったわけでもありませんでした。ところが、今日の本文に見ると、ロトも多くの牛や羊と幕屋を所有し、アブラムと一緒に同居できなかったことを見ます。これはロトがアブラムと共にカランを去った後、それだけ多くの祝福を受けていったことを物語っています。アブラムの所有が豊かになったことで、一緒にしたロトも所有が増えることができたのです。つまりロトの祝福は結局アブラムと共にすることによるものだということです。ロトがアブラムと共にし、アブラムに属した者になったので、彼の所有がアブラムの所有と共に神様から守られることができたという事です。
     
では、このようなロトの立場で、自分の牧者と叔父アブラムの羊の牧者が互いに争う状況になったとき、どうすべきだったのでしょうか。当然、自分が先に叔父に譲って退くのが秩序の上でも道理の上でも当然なことでした。しかし、ロトはそうではありませんでした。これは肉的な面から見てもまったく秩序に従ったことではなく、目上の人に仕えることもできないことでした。霊的な面から見ると、なおさら真理に合わないことでした。霊的な秩序上においても、ロトは当然アブラムに仕えるべきだったが、そうではなかったということです。結局、ロト自ら、自分がアブラムによって受けた祝福に対して感謝を悟ることもできずにいたことを知らせているのです。
   
このような状況でも、アブラムは「ロト、あなたが私によって裕福になり、あなたが私によって神様から守られた」とは言わず、少しの寂しさや感情も抱いていませんでした。むしろ甥に先に選択権を与えながら
「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。ところでロトは一度の遠慮や譲歩もなく、すぐに自分の目に映る良い土地を選んでしまいました。これがまさに器の違いから来る様子です。アブラムの器とロトの器がはっきりと比較される事件でしょう。ロトもアブラムに劣らず、祖先から神様について聞いて学び、真理について聞いて学んだにもかかわらず、アブラムと比べるとあまりにも小さな器であることが明確にあらわれているのです。

もちろん、ロトが目に見える大きな罪を犯したわけではありませんが、彼は器が小さい人だったので、すぐに目に見えるもの、すぐに自分の利益に合うことだけを考えていたので、このように自分の欲を追った結果、結局、苦痛の道に進んでしまったのです。もしアブラムがロトと同じような立場であったなら、おじの立場を先に考えたはずで、自分の所有だけを考えるのではなく、おじの所有までも調べたはずなのに、ロトはそうしなかったのです。今度は、アブラムとロトを比較しながら、大きな器と小さな器の違いを見て、ロトの選択が後日どのような結果をもたらすかを見ていくことにしましょう。

結論


人々の中には物質を十分に持つようになったときに心に余裕を持ち、自分の所有を他人にも施すことができる人がいるかと思えば、むしろ物質に余裕ができるほど心が固くなり、ケチになる人もいます。これがまさにその器の違いです。器の小さい人は、私のもの、私の所有、私の立場、私の都合など、自分と関連したものだけに視野を限定させるので、それ以上のものを見ることができません。他の人の立場を考えることもできず、他の人の境遇や立場を振り返ってみることもできず、他の人の心を理解することもできません。自分の利益だけを考えて執着するのです。だから他の人ともぶつかるしかなく、その中に人々が宿ることができません。このような人が権勢や力を持っている時、表向きにはその前に従うように見えても、本当に心の中心から従う人を得ることは難しいのです。
     
反面、器が大きい人は私の立場、私の都合、私の所有、私のことだけを考えずに、私よりも先に他の人の都合と立場までも察しながら、私の所有、私のことだけを主張するのではなく、他人の所有と利益までも調べることができる広い視野を持っています。だからこのような人の中には、多くの人が宿るようになり、ともに、豊かな祝福を受けていくようになります。アブラムと一緒にいたロトが祝福を受けたように、大きな器を持った人と一緒にすれば、一緒にいる人までも祝福を受けるのです。
 
それでは、皆さんの人生はどうですか?多くの人が皆さんの中に宿っていますか?皆さんと一緒にいる人たちが祝福を受けていますか?続く創世記講解を通して、信仰の父アブラムがどのようにしてすべての信仰者の父として立てられたのか、また、彼と一緒にした人までも祝福を受けていくことができたことを悟って、皆さんの人生の中にも、神様に愛され、保証された証拠が 、毎日あふれることを願います。それで皆さんを通して、御父の神様が栄光を受け、皆さんにも限りない祝福が下されるように、主の御名でお祈りします。

朝の学び101 創世記13章  

創世記13:1-10
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

はじめに

人々は時々あまりにも重要なことであるにもかかわらず、それが周りに常にあるという理由で、その大切さを普段はよく感じられないことがあります。そうしているうちに、ある日それが突然消えてしまうと、その時になってようやく、その大切さに気づき、後になって後悔したりもします。また、大切なことも知っていて、貴重なことだとあまりにもよく知っているのに、あるきっかけを通して、もう一度その大切さと貴重さを心の底から感じて悟る場合もあります。

例えば、家族はいつも一緒にいる人なので、普段は家族一人一人がどれほど大切なのかをよく感じることもできません。そうしているうちにある日、家族の中の一人が何らかの事情によって遠く離れてしまうと、普段気付かなかった大切さを感じるのです。このような場合、別れが、その時は心に寂しさや悲しみを伴うものですが、それがむしろ家族の大切さを悟らせてくれる大切な機会になり得るのです。もちろん、この時家族だからといって、必ずしも肉的な家族だけを意味するわけではありません。マタイ12:50に、イエス様は「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と、おっしゃったとおり、真の家族とは、主の中で共に神様の子供になった信仰の兄弟、姉妹たちです。将来、天国でも永遠に共に生きていく人々は、まさに信仰の中で兄弟、姉妹の聖徒たちなのです。ですから、家族だからといって必ず肉的な家族だけを考えるのではなく、主の中で兄弟、姉妹になった一人一人がどれほど貴く大切であるのかを知らなければなりません。

ところが、このように大切な存在に対して、普段は心に深く感じることができず、ある試練や訓練を通して感じられるようになったとすれば、その試練や訓練は本当に貴重なものだと言えます。試練や訓練がすぐにはちょっと大変で、心が痛むことがありますが、それをうまく通過すれば、他の何ものでも得られない、貴重な悟りと能力を得ることになるからです。アブラムも妻のサライをエジプトの王に奪われましたが、再び訪れる訓練を通して、とても重要な悟りを得るようになりました。それはまさに神に対する悟りでした。

奪われた妻を再び得たアブラムの告白


アブラムは幼い頃から祖先を通して、神について多くのことを聞いて学んできたので、自分自身は「神についてよく知っています」と考えることができました。しかし、いざ現実に試練が迫ってくると、アブラムはそのようによく知っている神様、すなわち全知全能であり、すべてを主管していく神様だけを全面的に頼れないまま、自分の知恵と考えを働かせてしまいました。そうするうちに、自分の力では解決できない大きな困難に直面することになったとき、まさに神様が彼を救ってくださったのです。これから、神様の知恵と方法で大きな困難から劇的に抜け出したアブラムが、神様にささげた告白をしばらく聞いてみましょう。神様が教えてくださったアブラムの告白です。

「人の知恵が愚鈍であり、神の知恵に従うことができないことを悟らずに、人がどうして真実に神の心を知ることができるでしょうか。今やまことに私の心に深く刻まれた、その方に対して悟ったことがあり、それ故に私の魂が満ち足りて喜びと感謝であふれるのだ。たとえ人の考えが奥深いとしても、神様のお考えと計画と比べてみると、それは鈍くて愚かなことに過ぎず、それをもっては、すべてが十分に成し遂げることができないことを私は悟った。神様のお考えと計画なさることはとても奇しく深みがあって、人間の知恵では及びもつかない。あまりにも高く偉大なるその方に私の愛と感謝の賛美をささげます。

私といつも共におられ、私を治め導いて下さるその方のその心を、今まで私は知ることができなかったが、私を愛して下さるその方の心をこのように深く悟れるようにして、人の考えがどれほど愚鈍で愚かなのかを悟らせて下さった、その方の御名を讃えます。以前から私の心の奥深くにおられ、いつも私と共にいてくださったその方に対して、今になってその深い愛と忍耐と慈しみを感じるようにされた、その方の御名を褒めたたえ、深く称賛します。

私の魂を満ちたらせ、わたしを導かれるお方、その方にわたしのすべてを頼ってお願いすると、その方は一寸の誤差もなく、すべてのことを完全になしとげられる。それ故、私の唇は私の心の中心から、私の愛するその方への告白で満ちています。わたしの魂を満ちたらせ、私の魂を幸いにされ、私の心の奥深くにその方を刻み、愛するようにされたその方の麗しい御名を賛美し、すべてのことで栄光を捧げ感謝申し上げます。」

私たちはアブラムの告白を通して、彼が訓練を通過しながら、どれほど貴重な悟りを得たかが分かります。第一に、人の知恵と考えというものがどれほど愚鈍で愚かなものなのかを悟り、第二に、父なる神様の広大さと偉大さが極めて高い方であることを心から悟るようになりました。また、三番目には、このような神様が自分を守り、保護して下さり、とても良くて、優しくて、繊細な父なる神様の心を悟りました。アブラムは、神様がいつも自分と共におられるということを知っていましたが、この訓練を通過して、初めて神様がどれほど繊細で優しく、今まで自分のすべてを導いてくださり、また今も導いて行っておられるかを心の中心で悟るようになったのです。
   

喜びと感謝で訓練を受ければ祝福


このようにアブラムにとって今回の訓練は、これまで聞いて学んで知っていた神様に対して、本当に心深く悟り、心の中心に刻み、これからは神様だけに全面的により頼むことになる大切な機会となったのです。そして、自分を発見して徹底的に自分を壊す機会になりました。それだけでなく、アブラムはこの訓練を通過し、その所有物が豊かになる祝福まで受けました。この一度の訓練を通して、霊肉間に驚くべき祝福を受けるようになったのです。これがまさに訓練を許される父なる神様の深い御心です。訓練を許す理由は、私たちを大変にさせて難しくしようとするのではなく、アブラムのように私たちにも、霊肉間に祝福を与えるためだということです。ところが、アブラムのように、訓練を通して霊肉間に祝福を受けるためには、まさに訓練を喜びと感謝で通過しなければならないという事です。
     
アブラムは妻のサライを奪われる試みの中でも、神様の前に喜んで感謝しました。もちろん、自分の知恵と考えを働かせ、結局妻を奪われるようになったことについては煩悶して苦しみましたが、「なぜ私にこういう訓練がやって来るのですか?神はなぜ私を守ってくださらなかったのですか?」このように神様の前に寂しがるとか不平をいうことは、決してなかったのです。アブラムはこのように喜びと感謝で、神様が許された訓練を受けたので、訓練を通して大きな霊的な祝福を受けることができたという事です。
 
そして、このように霊的な祝福を受けることになると、魂が幸いとなるように、すべての点で幸いとなる法則によって、肉的な祝福も自然に一緒についてきたのです。アブラムがエジプトに入る時よりはるかに多くの所有物を得て、それを持ってエジプトから出ることができたのです。これも神の計画された摂理でした。アブラムが神の御言葉に従い、生まれ故郷の父の家を離れる時、彼がカランから集めたすべての財産を持って出たとはいえ、当時彼の財産は多くのものではありませんでした。そのため、神様はアブラムが訓練を通過し、魂が幸いとなると同時に、肉的な祝福もあふれるようにするために、エジプトの最高の権力者であったバロを訓練の道具として使ったのです。
 
それほどまでの権力者を通して訓練を受けられるようにしたのですから、祝福もまた大きいものではないでしょうか?ダニエルや三人の友人も、王を通して訓練を受けているので、素晴らしい祝福を受けました。
創世記12:16「パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。」を見ると、エジプトの最高権力者であったバロは、サライを取りながら、その代価としてアブラムに多くの羊と牛とろばと男女の奴隷、雌ろば、らくだを与えたが、妻を再び取り戻すことになったアブラムは、この時得た所有までも一緒に持ってエジプトから出ることができたのです。 

それで、今日の本文2節を見ると、「アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」と語っています。このように、神様は神様の知恵の中で、人が想像できない方法で、アブラムに霊肉間に祝福の道を開いてくださいました。人が神様の前に何か過ちがあったり、悪を行なって災いが来たときは、神様の前に悔い改め立ち返ったとしても、以前の状態に回復するだけがぎりぎりです。しかし、ある悪を行ったり過ちがあったからではなく、霊的な祝福を与えるために許された訓練は、その訓練を通過した後に必ず、以前より加えられた祝福が与えられるようになります。
     
アブラムの場合は、神様の前にある悪を行ったわけでもなく、大きな過ちがあって訓練を受けたのではなかったので、彼が訓練を通して自分の弱さを悟り、神様の前にすべてを頼った時、神様はアブラムに以前より大きい祝福で返してくださったのです。ところが、アブラムがこのように訓練を通過し、霊肉間で祝福をともに受けることができた理由は、訓練を受けるアブラムの心の態度でした。先ほどお話しした通り、アブラムは訓練の中で文句を言ったり、恨んだりせず、喜びと感謝で訓練を受け入れました。そしてこのように感謝で訓練を受けていくアブラムに、神様は訓練の中でも不足することなく、常に溢れる祝福を与えて下さったのです。
 
誰もが完全になるまで訓練は受けるのですが、その訓練をどのような姿、どのような態度で受けるかによって、祝福の中で訓練を受けることもあり、あるいは困難の中で訓練を受けることもあるのです。また、アブラムはその後も信仰の父として立てられるまで、自分に与えられた訓練を喜んで感謝して受けています。アブラムはその心の中心がまっすぐで誠実で正直な人として、常に喜びと感謝で訓練を通過していったので、彼は訓練の中にも神様の愛を受け、すべてにおいて善を成しとげ、物質の祝福も溢れるように受けることができたのです。 

それでは、みなさんは自分自身を振り返るときに訓練の中でどんな思いをされたでしょうか?「私はアブラムのような心の中心ではないから…」と言いますか?    私は今までどんな訓練が来た時でも、一度も恨んだり文句を言ったり、「つらい」と言いませんでした。真実な神様を信じて、ただ喜びと感謝で勝利していきました。人としては耐え難い訓練の時間もありましたが、神様はそれが「祝福の訓練だ」とおっしゃったので、一度もその言葉を疑ったことはありませんでした。私の力では私の能力ではできませんが、「私に能力をくださる御方の中では、私はすべてのことができる」と告白し、すべての訓練を通過してきたのです。それで、たとえ訓練を受けている中だとしても、私はいつも不足することなく祝福を受けて行き、権能も日に日に増していきました。ですから、皆さんも「私もできます。」と告白し、どんな訓練でも喜びと感謝で受けて、神様に栄光を返してくださることを願います。

同じ訓練が与えられたとき、それを感謝で受ける人と労苦して受ける人とは、訓練を通過した後、祝福の程度も違うだけでなく、神様を愛する心もまったく異なるという事を悟らなければなりません。本当に真っ直ぐな中心を持つ人なら、本当に父なる神様を愛する人なら、アブラムのように、他に聖書上の多くの人物のように、訓練を感謝することで受け取るでしょうし、このような人には、神様も必ず訓練の中でも、常に愛の証拠を示してくださいます。訓練の中でも感謝と喜びで蒔いたので、神様もこのような人には感謝の条件をあふれるように、蒔いた通りに収めるようにするのです。

朝の学び100 創世記12章  

創世記12:10-20
さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

妻を奪われる二番目の類似事件との違い


ところが、アブラムの場合は、後日、本文に出てくる事件と非常に類似した事件をもう一度体験することになります。創世記20章に出てくる事件として、今回はアブラハムがゲラルに住むとき、そこの王アビメレクに再び妻を奪われる事件が発生したのです。この時も原因を見ると、本文に出てくる事件のようなことがわかります。まさにアブラハムが自分の妻を「私の妹」と言ったのです。ですから、ゲラルの王アビメレクはアブラハムの妻サラを取ろうとしたのです。

 
それならおかしくないですか?創世紀20章では、すでに神様がアブラムに諸国の父という意味で、その名をアブラハムと直してくださった後でした。さらに本格的な訓練を受け始めたばかりの初期の時でもなく、すでに訓練が始まってから24年が経って、完全な信仰にそれほど近づいた後でした。それでも、アブラハムは以前に肉の考えを働かせて経験したのと同じ訓練をもう一度受けていたのです。
     
それでは、なぜこのことが起こったのでしょうか? 表面的には、同じように見える2つの出来事が霊的には非常に大きな違いがあることを知らなければなりません。ある人々はアブラハムが同じ間違いを2回もしたと言いますが、なぜアブラハムのような人物が神の前に同じ間違いを2回もしたのでしょうか?今日の本文に出てくる事件は、アブラハムが肉の考えを働かせて自ら招いた訓練だとすれば、創世記20章に出てくる事件は、神様の御心と摂理の中で許された訓練であり、この訓練は神様が目的としたところがあり、アブラハムをそのように主管して行なわれたという事です。すなわち、アブラハムが再び以前のように肉の考えを働かせて、妻を妹と言うことで妻を奪われるようになったのではなく、むしろこの事件を通してアブラハムを広く知らせ、神様が栄光を受けるために許された神様の摂理の中にある事件だったということです。 
     
今、創世記20章全体の内容をすべて見ることはできませんが、この時も神様が直接干渉することで問題を解決していきました。アビメレクの夢に自ら現れ、彼が取ろうとした女性が誰であり、アブラハムが誰であるかを教えてくださいます。
創世記20:7に、「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とこのように恐ろしい話をされたのです。本文の場合のように、アブラムが神様に懇願して神様が干渉してくださったのではなく、神様の側でまず夢を通して働かれたのです。
   
ですから、創世記20章の事件が起きた時は、アブラハムは今日の本文のように慌てたり苦しんだりしませんでした。すでにすべてが神様の摂理の中で、神様が主管していらっしゃるという事をアブラハムも感じていたので、すべてを神様に任せたまま、神様の導かれるとおり従ってゆきました。そして時がたつと、アブラハムは神様の導きに従順し、問題を解く決定的な役割を果たすようになります。
     
まさに
創世記20:17-18に示すように、「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」アブラハムは神に祈りました。 そうです。この言葉を通してわかるように、神様はアビメレクがアブラハムの妻サラを取ろうとしたことで、その家のすべての胎を閉じました。そして、このようなアビメレクにアブラハムを送り、彼らのために祈るようにすることで、再びその家の胎を開いてくださいました。
     
これはまさに、アブラハムにとってアビメレクの家の問題を解決してあげる解決者のような役割を果たすことで、彼らにアブラハムがどんな人なのかを分かるようにするための、神様の計画された摂理だったことを知らせてくれます。家のすべての胎が閉じられて苦しんでいたアビメレクに、アブラハムが行って祈ったとき、胎が開く癒しのみわざが現れたので、これを見たアビメレクとその周辺の人々にアブラハムがどんな人に見えたのでしょうか。

さらにアビメレクの夢にまで、神が自ら現れて、アブラハムが預言者であることをおっしゃって、アブラハムの祈りに直ちに答えてくださったので、彼らは、アブラハムは神様の保証を受ける人で、敢えて自分たちが手をつけられないすごい人だという事が、彼らの心に深く植え付けられるようになったのです。また、このようなアブラハムと共におられる神様に対しても、彼らは恐ろしくて震えるしかなくなり、神様の力の前に栄光を捧げざるを得ませんでした。
   
このように、一見すると同じ事件のように見える二つの事件が、霊的には非常に大きな違いを持っているという事です。霊的な分別力なしに見れば、同じミスを犯したように見える二つの事件ですが、一つ一つの過程と結末を調べれば、今日の本文の事件と創世記20章の事件は、アブラハムに対する神様の保証と愛が全く異なる次元で起こった事件であることがわかります。このような事をよく知って、たとえ表向きには、同じ訓練のように見えても、その訓練を許される神様の摂理と計画は全く異なることがあることを知らなければなりません。

 

例えば、同じ試練が二人に来たとしても、ある場合は罪を犯して、神様との行き詰った壁のために守られなかった場合があるかと思えば、ある場合は十分に守ってくださるにもかかわらず、より大きな信仰と成熟した信仰に成長させようとして、守ってくださらない場合があります。その事情は神様だけがご存じです。したがって、人の側で何かを持って自分の任意に判断したり、罪に定めることが、神様の前にどれだけ大きな罪であるかを知らなければなりません。妻のサラを奪われる大きな訓練を、神様の繊細な愛と導きの中で通過してきたアブラムは、以前とは違う、より成熟した信仰の段階に入ることになります。次回は、続けて13章から見てみましょう。

結論


アブラムはこの訓練を通してこれまで聞いて学んで知っていた父なる神様という方の繊細で優しい干渉を身近に感じるようになります。神様はアブラムが考えを働かせたからといって叱責して、叱ったのではなく、アブラムが神様に対して感じて悟ることができるように、彼の道を一つ一つ繊細に導かれました。皆さんもこのような神様に会って体験してください。神様はあまりにも愛が多く、優しくて、繊細に私たちを導いていかれる、私と皆さんの父であるという事です。もちろん、お父さんであるので、皆さんが肉の考えを働かせて、父なる神様の御心と反対に行っていくときには、それによって神様が叱責したり叱ったりする時があります。 ただ、アブラムの場合は考えを働かせて悪を行ったり、神様のみことばに従順しないことはなかったので、神様があえて叱責する必要はありませんでした。アブラム自身が気づくように導いていったのです。 

しかし、肉の考えを働かせて神様の御心に不従順になったり、悪が発動すれば、これによって神様の責めや叱責を聞いたとき、むしろ喜んで感謝しなければならないでしょう。へブル人への手紙12:7-8に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とおっしゃるとおり、時には懲らしめられるのが神様の愛であるからです。ですから、本当に父を愛する子供なら、自分が間違って懲戒を受けたときに、それによって寂しがったり落胆するのではなく、その中に込められた父の愛を感じなければなりません。
     
子供がある過ちをしたときに、それを見てもそのままにしておく親がいるならば、子供の立場でそれがしばらくの間は楽に感じられるかもしれませんが、時間が経つと自分に無関心な親に対して「親は私を愛していないようだ、私がこんなに悪い道に行くのにそのままにしておくのだ」と言って親の愛からさらに遠ざかることになります。すぐには責められて懲戒されることが心に辛く感じられるかもしれませんが、それが愛であることを知らなければなりません。ですから、皆さんも、すべてのことにおいて皆さんを干渉しながら、導いていく父なる神様の愛を感じることで、常に父なる神様の恵みの中に住むことを主の御名でお祈りします。

 

朝の学び99 創世記12章  

創世記12:8-20
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。。

妻を奪われる訓練を受ける前、アブラムの告白  


神様があることをおっしゃる時、人の側で従順できなかったり、信仰にならない場合には、御言葉が成就するのが遅れることもあります。しかし、神様がおっしゃった御言葉は、創造の初めの声なので必ず成就されます。ただ、それがすぐに成就することばなのか、それとも時間が経ってから成就することばなのか、こういう違いはあります。 

例えば、イエス様が病気を治す時も、常に初めの声を発せられましたが、ほとんどその場で直ちに癒され、神様に栄光を捧げましたが、ルカ17章に出てくる十人のらい病人の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われた御言葉に従順して行った途中で綺麗に癒されました。このように、本文に神様がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」とおっしゃった御言葉も、すぐに成し遂げられる言葉ではなく、400年余りが過ぎた遠い後日、モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を征服していくようになって、なされる御言葉だったのです。

私が初めの声を発する時もこんな感じです。すぐにその場で行われ、働かれることが多いですが、時には時間を置いて待たなければならない場合もあります。そして、この時御言葉を受ける働き人の方が、どれほど信仰を持って受けて自分のやるべきことを行っていくかによって、御言葉が成就する時間がさらに長くなることもあり、短縮されることもあります。この時も問題になるのがまさに自分の考えを働かせることです。だから、神はアブラムにこの考えを破る訓練をさせてくださいます。まさに妻のサライを奪われる訓練でした。この訓練を通して、アブラムは自分の考えを徹底的に壊すきっかけになりました。


神様のみことばに直ちに従順だったアブラムでしたが、実際に自分の命がかかった状況になると、神様だけを全面的に頼ることができず、つい自分の考えを働かせたのです。これは、アブラムが神様はどんな方なのか分からないからではありません。アブラムが妻を奪われる訓練を受ける前に、彼が神様の前に祭壇を築いて告白した内容を聞いてみると、アブラムが幼い頃から神様についてどれほどよく聞いて学んで知っていたかがよくわかります。神様が私に教えてくださったアブラムの告白を皆さんにお知らせします。

「すべてのことに信実で完全であり、すべてを導き、働かれる全能なる神様、すなわち私の先祖の神様なる方を、このように賛美致します。まことに、すべてのことを信実で完全に行なわれるその方の御名を賛美し、このようにすべてを指示し、すべてを導いてくださったその方の御名の前にひれ伏します。その方の御名は高く、広大であり、すべてを建てられ、私たちの先祖の主と神となられた、その方の御名を賛美致します。私はその方の御前にこのようにひれ伏し、その方の御名によって私はすべてを信じて従順します。その方の御名の前に、すべてが恐ろしく震え、すべてがその方の足の下にあるからです。その方の御名は広大であり、その方は完全であり、すべての道を指示して導かれます。その御言葉に従順し仕えることが当然であり、すべてがその方の御名の前にあるのです。」

このような告白を通して分かるように、アブラムは神様がどれほど絶対的な存在であり、広大で全能な方なのかを知りました。しかし、このように神について知り、その方の言葉に従ったからといって、彼が完全な者ではありませんでした。皆さんの中にも、おそらく神様がどんな方なのか分からない方はほとんどいないでしょう。しかし、このように知っている次元を越えて、本当に神様の能力を体験し、自分のすべてを見守りながら導いていく神様を体験した時、初めて神様に対する信頼が生まれるのであり、神様との信頼関係も完全になっていくことができるのです。

アブラムも知っていることを完全な信仰に変えていくために訓練が必要だったのです。そのためにはすぐに考えを破る作業が必要だったのです。それで神様はいくらでも先にアブラムに避ける道を与えることができましたが、彼が自分の考えを働かすように放っておいたのです。アブラムが考えを働かし始める過程はこうです。飢饉を避けてエジプトの地に降りて行ったアブラムは、自分の妻のサライのために自分の命が脅かされることもありうるという考えで、妻に「どうか、私の妹だと言ってくれ。」と言います。しかし、この言葉自体が間違っているわけではありませんでした。創世記20:12を見ると、アブラハムが妻のサラについて「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」と言っています。実際にはサライがアブラムの妹であったことがわかります。腹違いの妹だったということです。

ところが問題はこの言葉が事実かどうかは別として、アブラムが妻を妹だと言わせた動機です。自分なりに知恵を働かせて危機を避けようと考えたのです。そして、果たしてアブラムが思ったように、アブラムは妻を妹と言って命は救うことができました。しかし、アブラムは次に何が起こるかまでは考えていませんでした。これがまさに一寸先も見通せないし、自分の能力で不可能なことの前ではどうしようもない人の限界です。神様はまさにアブラムにこのような事実を徹底的に悟り、以後はただ神様にだけに頼るようにするために、妻のサライを奪われる訓練を許されたのです。前述のアブラムの告白のように、全能で真実であり、すべてを導いていく神様について直接感じ、体験しながら悟らせてくださったのです。アブラムが妻のサライを奪われた訓練については、次の時間に続けてみましょう。

結論
皆さんがあることをするとき、「これが考えを働かせるのか」と、自らは気付かない場合が多いです。自分自身は「知恵がある」と言い、「こうすればうまくいくだろう」と思うのです。あまり原則通りにするのがややもすれば愚かに見えることもあり、「こうすればもっと簡単で早いのに…」 とそれなりに知恵と知識を働かせることもあります。しかし、コリント第一3:18-20には、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』」と言いました。私たちが主の中では当然賢くなければならないが、世の中の知恵においてはむしろ愚かな者にならなければならないのです。世の知恵は結局肉の考えを働かせ、神様とは敵となる方向に導いていくからです。主の中の知恵は、ただ聖潔で善良なところから来るという事です。

また、箴言16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」という言葉のようにすべてを主管し、導かれる方はただ一人の神です。アブラムもこれを悟るために訓練が必要だったのです。皆さんもやはり訓練を通してこれを速やかに悟り、世から来る知恵を捨てて、主の中で賢い人にならなければならないのです。人の知恵がどれほど限られたのかを悟り、ただ知恵の根本であり、万物の主管者である神様だけに任せてより頼むことです。従って人の知恵と方法ではなく、神の知恵と方法でいつも凡てのことに通じるように導かれることを主の御名でお祈りします。
 

朝の学び98 創世記12章  

創世記12:8-20
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。。

妻を奪われる訓練を受ける前、アブラムの告白  


神様があることをおっしゃる時、人の側で従順できなかったり、信仰にならない場合には、御言葉が成就するのが遅れることもあります。しかし、神様がおっしゃった御言葉は、創造の初めの声なので必ず成就されます。ただ、それがすぐに成就することばなのか、それとも時間が経ってから成就することばなのか、こういう違いはあります。 

例えば、イエス様が病気を治す時も、常に初めの声を発せられましたが、ほとんどその場で直ちに癒され、神様に栄光を捧げましたが、ルカ17章に出てくる十人のらい病人の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われた御言葉に従順して行った途中で綺麗に癒されました。このように、本文に神様がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」とおっしゃった御言葉も、すぐに成し遂げられる言葉ではなく、400年余りが過ぎた遠い後日、モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を征服していくようになって、なされる御言葉だったのです。

私が初めの声を発する時もこんな感じです。すぐにその場で行われ、働かれることが多いですが、時には時間を置いて待たなければならない場合もあります。そして、この時御言葉を受ける働き人の方が、どれほど信仰を持って受けて自分のやるべきことを行っていくかによって、御言葉が成就する時間がさらに長くなることもあり、短縮されることもあります。この時も問題になるのがまさに自分の考えを働かせることです。だから、神はアブラムにこの考えを破る訓練をさせてくださいます。まさに妻のサライを奪われる訓練でした。この訓練を通して、アブラムは自分の考えを徹底的に壊すきっかけになりました。


神様のみことばに直ちに従順だったアブラムでしたが、実際に自分の命がかかった状況になると、神様だけを全面的に頼ることができず、つい自分の考えを働かせたのです。これは、アブラムが神様はどんな方なのか分からないからではありません。アブラムが妻を奪われる訓練を受ける前に、彼が神様の前に祭壇を築いて告白した内容を聞いてみると、アブラムが幼い頃から神様についてどれほどよく聞いて学んで知っていたかがよくわかります。神様が私に教えてくださったアブラムの告白を皆さんにお知らせします。

「すべてのことに信実で完全であり、すべてを導き、働かれる全能なる神様、すなわち私の先祖の神様なる方を、このように賛美致します。まことに、すべてのことを信実で完全に行なわれるその方の御名を賛美し、このようにすべてを指示し、すべてを導いてくださったその方の御名の前にひれ伏します。その方の御名は高く、広大であり、すべてを建てられ、私たちの先祖の主と神となられた、その方の御名を賛美致します。私はその方の御前にこのようにひれ伏し、その方の御名によって私はすべてを信じて従順します。その方の御名の前に、すべてが恐ろしく震え、すべてがその方の足の下にあるからです。その方の御名は広大であり、その方は完全であり、すべての道を指示して導かれます。その御言葉に従順し仕えることが当然であり、すべてがその方の御名の前にあるのです。」

このような告白を通して分かるように、アブラムは神様がどれほど絶対的な存在であり、広大で全能な方なのかを知りました。しかし、このように神について知り、その方の言葉に従ったからといって、彼が完全な者ではありませんでした。皆さんの中にも、おそらく神様がどんな方なのか分からない方はほとんどいないでしょう。しかし、このように知っている次元を越えて、本当に神様の能力を体験し、自分のすべてを見守りながら導いていく神様を体験した時、初めて神様に対する信頼が生まれるのであり、神様との信頼関係も完全になっていくことができるのです。

アブラムも知っていることを完全な信仰に変えていくために訓練が必要だったのです。そのためにはすぐに考えを破る作業が必要だったのです。それで神様はいくらでも先にアブラムに避ける道を与えることができましたが、彼が自分の考えを働かすように放っておいたのです。アブラムが考えを働かし始める過程はこうです。飢饉を避けてエジプトの地に降りて行ったアブラムは、自分の妻のサライのために自分の命が脅かされることもありうるという考えで、妻に「どうか、私の妹だと言ってくれ。」と言います。しかし、この言葉自体が間違っているわけではありませんでした。創世記20:12を見ると、アブラハムが妻のサラについて「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」と言っています。実際にはサライがアブラムの妹であったことがわかります。腹違いの妹だったということです。

ところが問題はこの言葉が事実かどうかは別として、アブラムが妻を妹だと言わせた動機です。自分なりに知恵を働かせて危機を避けようと考えたのです。そして、果たしてアブラムが思ったように、アブラムは妻を妹と言って命は救うことができました。しかし、アブラムは次に何が起こるかまでは考えていませんでした。これがまさに一寸先も見通せないし、自分の能力で不可能なことの前ではどうしようもない人の限界です。神様はまさにアブラムにこのような事実を徹底的に悟り、以後はただ神様にだけに頼るようにするために、妻のサライを奪われる訓練を許されたのです。前述のアブラムの告白のように、全能で真実であり、すべてを導いていく神様について直接感じ、体験しながら悟らせてくださったのです。アブラムが妻のサライを奪われた訓練については、次の時間に続けてみましょう。

結論


皆さんがあることをするとき、「これが考えを働かせるのか」と、自らは気付かない場合が多いです。自分自身は「知恵がある」と言い、「こうすればうまくいくだろう」と思うのです。あまり原則通りにするのがややもすれば愚かに見えることもあり、「こうすればもっと簡単で早いのに…」 とそれなりに知恵と知識を働かせることもあります。

しかし、コリント第一3:18-20には、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』」と言いました。私たちが主の中では当然賢くなければならないが、世の中の知恵においてはむしろ愚かな者にならなければならないのです。世の知恵は結局肉の考えを働かせ、神様とは敵となる方向に導いていくからです。主の中の知恵は、ただ聖潔で善良なところから来るという事です。

また、箴言16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」という言葉のようにすべてを主管し、導かれる方はただ一人の神です。アブラムもこれを悟るために訓練が必要だったのです。皆さんもやはり訓練を通してこれを速やかに悟り、世から来る知恵を捨てて、主の中で賢い人にならなければならないのです。人の知恵がどれほど限られたのかを悟り、ただ知恵の根本であり、万物の主管者である神様だけに任せてより頼むことです。従って人の知恵と方法ではなく、神の知恵と方法でいつも凡てのことに通じるように導かれることを主の御名でお祈りします。
 

朝の学び97 創世記12章  

創世記12:4-7
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

信仰の訓練をよく通過するには  


前の時間には、アブラムが神様の召命を受け、信仰の父として立てられるための本格的な訓練が始まる過程をお話しました。信仰の父とは、文字通りすべての信じる人々の父を意味します。もちろん、アブラハム以前にも神様を信じる多くの人々がいましたが、神様は初めてアブラハムの時に至って信仰という基準を提示してくださったのです。アブラハムの信仰はすべての人の信仰の基準です。比較の対象としてアブラハムの信仰と比較してみれば、自ら自分の信仰を点検することができるようになったのです。したがって、イエス様がこの地に来て、すべての人の救い主になってくださる前には、救われることが出来る信仰の基準もまさにアブラハムを通してでした。救い主として来られた主を信仰によって、義とされ、救いに至るまでは、アブラハムの信仰と従順と行いが基準となり、救いの線が決まったということです。このように重要な役割を果たさなければならないアブラハムの信仰はどれほど完全でなければならないでしょうか。

したがって、神様はアブラハムの信仰が、どんな傷もしみもない完全な分量に至らせるために、自ら訓練を始めていかれたのです。もちろん、アブラムは、以前からも神様を愛し、畏敬の念をもって仕える人でしたが、以前に聞いて知っていたことを、今は実戦して訓練を受けて行くことで、完全に力にすることができたのです。人がいくら良い環境で神様について聞いて学びながら育ったとしても、神様が望む完全な霊になるためには、とにかく気を通して先祖から伝えられた性格的なものや、本性の中に内在したもの、また肉の環境の中で育つ過程で自分も知らない間に入力された肉的なものを、すべて脱いで捨てなければならないので、訓練が必要にならざるを得ないという事です。このような訓練をよく通過するには、何よりも「自分」があってはなりません。自分が正しいと思って主張する自己的なものがない時こそ、神様のみことばに無条件に従うことで、自分の中にある肉的なものを迅速に取り出してしまうことができるからです。

ところが、私はまさに神様を迎える前に、すでに「自分」というものが徹底的に崩されていました。自分に何かができるという自信も、自分を主張しようとする義も、自分が正しいという知識や考えなど、自己のすべてが徹底的に破られ、なくなった状態で主を受け入れることになったのです。世の中に頼るところもなく、世の中では真の愛もないということを徹底的に悟った状態で主に会ったのです。ですから、主を受け入れて以来、私のすべての心と考えと力と真心も、持っているすべてが誰に向けられたでしょうか。ただ父なる神様だけに向かうようになりました。

これは聖書に出てくるマグダラのマリアも同様でした。前にマグダラのマリアについて説明したように、マグダラのマリアは誰一人頼るところがなく、心身の苦しみによって最も悲惨な状態で主に会うことになりました。家族からも徹底的に捨てられ、さらに七つの悪霊によって苦しんでいたのですから、その苦しみはどうだったでしょうか?このようなマグダラのマリアが主に出会い、すべての問題を解決され、新しい人生を始めることができたのです。だからマグダラのマリアは主に会って以来、自分のすべてをただ主のみのために献身することができたのです。

このように「自分」が徹底的に壊れた状態、心の中に世の中の何もない状態、心が貧しくて心が極めて低くなった状態で、まさにこのような状態になったために、主をまず第一に愛し、主の御言葉にただ従順だけが出てきたという事です。そして、このような心が最初だけそうだったのではなく、最後まで変わらなかったので、マグダラのマリアは神からそのように愛される女性になることができました。ですから皆さんも霊に、全き霊に迅速に入るためには、まず世で作ってきた「自分」というものを、徹底的に壊してしまわなければなりません。世の中のどんなものも愛したり頼ろうとしてはならず、ただ主だけが人生の全てであり、頼る対象にならなければならないのです。アブラムもまさにこのような姿になるために訓練を受け始めたのです。

神様と交わりを遂げ、ただちに従順したアブラム


神様はアブラムと交わるとき、自ら御声を通して働かれることが多かったのです。旧約時代には内には聖霊様がいらっしゃるのではないので、神様が自ら御声で交わりをされたり、外部から聖霊の感動を通して働かれました。そしてアブラムは神とこのように交わることについて、すでに先祖を通して聞いて知っていたので、神が彼に御声で働かれた時、その声を疑うとか躊躇したりしませんでした。聞いた瞬間、「これは神様の声だ」と分かりました。もちろん、神様に直接対面したこともあります。ソドムとゴモラを審判する前には、神様が直接アブラハムに会ってくださるのを見ることができます。

さらに、本文7節のように「そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」とあるように、神様がアブラムに現れておっしゃる場合は、神様の御声だけでなく、一緒におられるという兆しを感じることができます。もちろん、この時、神様がアブラムに現れておっしゃったからといって、神様の本体が直接来られたわけではありませんが、まさに神様の栄光の光の中の声音として働かれました。栄光の光は肉のことばで説明すると、まるで白い煙のようで、このような煙のようなものが垂れ下がった中から音声が聞こえてくるのです。このように、アブラムは神様との交りを通し、あるお言葉や指示を受けた時に直ちに従順が出たのを見ることができます。

しかし現実から見ると、ある言葉や指示を受けたときにすぐに従う場合は多くありません。自分の考えを働かせて、従うことができる限界内でのみ従順だったり、最初から考えに阻まれて従順になれない場合が多いです。肉の考えを働かすだけに、完全な従順から遠ざかるという事です。

 
しかし、アブラムは考えを働かせれば従順しにくい言葉であるにもかかわらず、
本文4節「主がお告げになったとおりに出かけた。」と言われたとおり、すぐに従順したことがわかります。 彼の父テラが205歳を生き、アブラハムが175歳を生きたことを考えると、75歳は年齢が多い年ではありませんでしたが、カランに定住して経済的な基盤を固め、先祖代々生きてきて多くの親戚が共にする生活の基盤を一日で後にして去るということが肉の考えを働かせるならば決して容易なことではありません。しかし、アブラムはすぐに神様のみことばに従いました。この時、神様は再び現れて契約の言葉をくださいます。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言ったのです。これはまさに父なる神様のはじめの声であり、この御言葉はそれから約400年余りが過ぎた後にそのまま成就されることがわかります。

朝の学び96 創世記12章  

 創世記12:1-3
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

アブラムの従順と祝福


アブラムは最初から従順の信仰を示してはいましたが、だからといって彼が完全なわけではありませんでした。彼がたとえ良い器として生まれ、良い環境の中で教育を受けながら成長したとしても、今、霊の人として完全に立つためには、これまで限られた肉の空間で学び会得された多くのものを、全部捨てなければならなかったのです。つまり、肉の環境によって入力された肉のものと、それによって出てくる肉の考えを、一つ一つ訓練を通して抜き出さなければならなかったのです。もちろん、アブラムに肉の考えが多かったり、肉のものが多く入力されていたわけではありません。しかし、彼に与えられた訓練は、決して簡単なものではなかったという事です。皆さんも罪を発見して捨てるために、いろいろな訓練を受けたと思いますが、霊にもっと近づくために受けなければならない訓練は、それだけより高次元的な水準になります。

だから「誰々の訓練はもっと簡単だ」言えるものではありません。信仰が少ない人は信仰が少ないまま訓練を受けることで、信仰が大きい人は信仰が大きいように訓練を受け、ますます完全に変化していくのです。また「私は生まれた時から畑が良くなく、器が良くないので、私だけこういう訓練を受ける」と考えてはいけません。器が良くて畑が良いとしても、それに合うそれなりの訓練があるわけで、むしろ良い器、良い畑を訓練するためには、普通の人よりも過酷な訓練が許される場合もあるからです。モーセやアブラハム、ヤコブやヨセフのように、神様の前に大きく使われた方々は、ただ生まれた時から器が良く、心の畑が良くて使われたのではありません。それだけ人より数倍、数十倍も大変な厳しい訓練までもよく受けて来たので、神様の前に大きく使われる器になったのです。そして、このように神様の前に大きく用いられた人々のもう一つの共通点は、神様がくださった祝福の契約を変わらない信仰の目で眺めていったという点です。

本文2-3節を見ると、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。神様がアブラムに与えられた祝福の約束でした。しかし、この言葉はすぐに行われるのではなく、アブラムが訓練の過程をよく通過し、信仰の父として立てられた時に行われる御言葉でした。神様がアブラムに望む完全な信仰の分量を満たした後に、このすべての祝福の御言葉が成されるということです。

アブラムはまさにこの言葉を信仰で受けました。そして、信仰の父として立てられるまで、この祝福の約束の言葉をつかんで進みました。しかし、今日、このような人を見つけるのは簡単ではありません。祝福の言葉をいただいても、信仰で受けとめることができなかったり、すぐに叶わないと、またはしばらく経っても叶わないと、心で疑って揺れてしまうのです。また、いくら大きな祝福の言葉をいただいても、すぐに現実には難しく不可能に見えれば、肉の考えを働かせて不従順になるのです。皆さん、神様がくださった御言葉は必ず成され、保障されます。しかし、その言葉がすぐに成されることもありますが、それを成し遂げて保障されるために訓練の過程を経なければならないこともあります。 

前にも話したことがありますが、開拓する頃、神様が祈祷院長に聖潔の賜物を与えられました。当時は私も聖潔の賜物を受けていたので、すぐに聖潔にされると思っていました。ところが、実際に聖潔の賜物を受けてからは、思っていたのとは違っていました。むしろその時から根本に内在していた悪の形まで一つ一つ取り出して訓練して捨てるようにされるのでした。時にはその訓練があまりにも大変に感じられる時もありましたが、祈祷院長が祈りも休まずに、それでも最善を尽くし信仰に出てきたので、今は神様に愛され、認められ、権能を行う段階に至るようになったのです。

それでは、皆さん自分自身を振り返ってみてください。皆さんそれぞれにも、確かに神様がくださった祝福の約束の御言葉があったはずです。個人的にまだなかったとしても、教会的にくださった祝福の約束が、すなわち皆さん一人一人に与えられた契約のようなものです。先週に少し証したように、地方の教会の財政を担当するある執事が、万民の聖徒たちに祝福して下さると言われた神様のみことばを信仰で受けてから、大きく物質に祝福されているようにです。ところで、皆さんはこのように神がくださった祝福の約束の言葉を、どれだけ信仰で受け取ったでしょうか?まだ実現されていないということで、たぶん忘れてはいませんか?机の引き出しの深いところに入れていませんか?

皆さんにくださった神様のみことばを皆さんが確かに信仰で受け、それを成し遂げるために休まずに祈りながら今まで進んできたとすれば、成し遂げられない言葉は一つもありません。それでも成し遂げられなかったら、信仰で受け取れなかったか、ある瞬間から忘れてしまったのではないかと振り返ってみてください。エゼキエル36:36-37に、「あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。」という言葉のように、成し遂げることを変わらない気持ちで求めてきたのかを振り返ってみてください。

私は今まで神様がくださった御言葉を決して疑ったり忘れてしまったことがありません。そして、いただいた御言葉が成し遂げられるまで、変わらず信仰を持って求めてきました。そうすると、今になって振り返ってみると、開拓の時からいただいた御言葉がそのまま行われています。また、新しくくださったおことばがあり、それらも今後も必ずそのままなされるでしょう。ですから、問題は自分にあることを悟らなければなりません。同じ祝福の言葉をくださっても、誰かには成し遂げられ、誰かには成されないのは、他の誰のせいでもありません。神様がそのようにされたわけでもなく、まさに私自身がするかどうかなのです。

自分自身の器が用意される分だけ、神様の祝福の御言葉もそのまま臨むことになるという事です。これから、本格的に訓練を受けて行くようになるアブラムも、最初のテストはよくパスしましたが、信仰の父としての祝福を受けるためには、少しの肉の考えもあってはならないので、すぐに続くテストを通して肉の考えが徹底的に崩れるきっかけを迎えることになります。まさに妻のサラを奪われる試みでした。これについては、次の時間に続けてみましょう。


結論


私と本教会がこれまで世界宣教を行っていく過程を見れば、今日の本文に出てくるとおり、生まれ故郷の父の家を離れて指示されるところに行くような状況でした。何の縁故もない国だとしても、神様が「行け」と言われれば従うときに道が開かれ、助ける者たちが現れ、聖会が行われてきました。また現実的には漠然としているように見えることも、やはり神様が「成される」となれば必ずそのようになってきました。ところが、先日、神様は私たちの働き人たちに、今はあなた方が牧者の信仰となって仕事を成し遂げなければならないことをおっしゃいました。

これまでは、神様があることをおっしゃれば、頭である牧者を見て、牧者の信仰によって神様が保障され、成し遂げられたので、働き人たちはただ従うだけでよかったが、これからは働き人たちも自らが信仰を持って牧者に信頼される者になって仕事をしていかなければならないとおっしゃったのです。これは皆さんにとっても同じです。モーセの信仰だけでも、十分にカナンの地に入っても有り余る程でしたが、神様が望んだのは民全体の信仰でした。神様が私と皆さんに望むのも、私一人だけの信仰ではなく、私たち全員の信仰です。

ロシアに直接行くのは私と宣教チームの一行ですが、ロシア聖会が、神様の御心の中で美しく成就するためには、ここに残っている皆さんの信仰もとても重要だという事です。皆さんが真心を尽くして捧げた宣教献金と祈りと断食などがすべて合わされ、世界宣教を成し遂げる信仰の力になるのです。文句を言い疑いながら荒野の道を行った、出エジプトしたイスラエルの民とは異なり、心強い信仰の力になってくださる、本教会や支教会をはじめとするすべての聖徒たちに感謝し、皆さんのための贈り物として、ロシア聖会を通して神様に大きく栄光を捧げて、嬉しいニュースを持ってくるようにします。皆さんの行ないと真心を父なる神様が喜ばれて、驚くべき祝福で返してくださり、将来、天国でも美しい賞と栄光が与えられるように主の御名でお祈りします。


朝の学び95 創世記12章  

 創世記12:1-3
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

はじめに


今日からは、創世記の講解を通して信仰の父であり、祝福の源となったアブラハムについて説明していきます。純粋な血統を受け継ぎ、正統の系図を通して生まれたアブラムが75歳で神から召された後、信仰の父として立てられるまでの過程が説明されます。もちろん、これからのタイトルの説教を通しても、アブラハム預言者をはじめ、エリヤ、モーセ、使徒パウロについて、彼らは果たしてどんな心を持っていたので、神からそのように大きな愛と恵みを受けることができたのか、その理由が説明されます。それとは別に、創世記の講解では、アブラハム預言者が信仰の父として立つまで瞬間、瞬間に経験しなければならなかった訓練と、試練をどのように信仰と従順で通過していったのかについて、具体的に説明されているのです。続く創世記の講解を通して、皆さんもアブラハム預言者のように信仰の人であり、従順の人として出てこられることを主の御名で祈ります。

人間耕作の摂理の中で生まれたアブラハム


神様が人間耕作を計画して天下万物を造った後、人間耕作の働きの中には何度も新しい出発点がありました。初めの人アダムが生きた霊となって人間耕作のための最初の出発点となりました。その後アダムが罪を犯してエデンの園から追い出され、この地に降りてきてからは、実質的な6千年の人間耕作が始まりました。そして、罪悪が蔓延し支配したその当時の世界が洪水の審判で滅亡し、ノアという人物を通して人間耕作が再び新たに始まります。洪水の審判とともに、創世記1:3に、神が最初に地球を創造しながら囲んでくださった光が取り込まれ、今はすべてが根本的な肉の属性に戻った状態で本格的な人間耕作がはじまるようになったのです。
     
そして人間耕作の歴史がもう一度新しく始まるきっかけがあったのですが、それがまさにバベルの塔の事件でした。バベルの塔の事件を契機に人類の言語と民族が分かれるようになり、人間は初めて神様が計画された人間耕作の環境が完全に整った状態で、人間耕作を受け始めます。すべてのことを予知予定される神様が、真の人間耕作のために摂理された環境が、バベルの塔事件を契機に行われるようになったということです。又人間耕作の歴史において、霊的に非常に重要な意味を持つもう一つの新しい転機を迎える事件が、まさに今日の本文に出てくるアブラムの誕生でした。

将来信仰の父となるアブラムの誕生が持つ霊的な意味については、後ほどに説明されますが、彼の誕生はこれまでにあったどんな事件よりも霊的に非常に大きな意味を持っています。それでは、神はこのように重要な意味を持つ信仰の父アブラハムという人物を、なぜこの時点で生まれるようにされたのでしょうか。彼が少し早く生まれるようにして、もっと前に信仰の父が立てられるようにすることもできたと思いますが、神様はなぜ人間耕作が始まって2000年余りが過ぎた後に、信仰の父が生まれるようにされたのでしょうか?例え、人間耕作が始まって間もなく、信仰の父が立てられるようにしておけばもっと良かったと思うのですが。しかし、それは人の側からの考えに過ぎず、神様の考えと御心は人とは違うという事です。

人間耕作が始まり2000年余り後に、信仰の父アブラハムが生まれたのも、その後また2000年余りが経った後に、救い主となるイエス様が生まれたのも、最初からすべてをご存知である神様の摂理の中で、最も適当な時点で起きたことです。それより速くても遅くなってもいけなかったのです。先ほど、人間耕作の歴史において新しい始点となったいくつかの事件を概略的にお話しましたが、その事件一つ一つがすべて人間耕作の歴史を成していく上で、なくてはならない重要な事件でした。神様は公義の中ですべてを成し遂げるので、ある日突然信仰の父が生まれるようにしたのではなく、人間耕作の環境もやはり一気に作られたのではありませんでした。神様は人間耕作の環境を段階的に作りあげ、人間耕作の歴史において最も適当な時点に合わせて信仰の父が生まれるようにされたということです。
   

アブラムの誕生と信仰の訓練


先ほどアブラムの誕生が非常に重要な意味を持つと言ったのですが、その理由は何でしょうか?それはまさにアブラムが人間耕作の摂理のなかで、「信仰の父」として立てられる人だからです。「信仰の父」という言葉の意味を少し簡単に説明すると、それは将来、すべての人の信仰に耐える対象であり、信仰の基準になるという意味です。つまり、それぞれの人の信仰がどれくらいなのかを、まさにアブラハムの信仰に比べて比較することになるということです。このように信仰という面で、完全な者として立てられなければならないアブラハムだったので、神様は彼の誕生から直接干渉されたので、時が達して訓練されて彼を信仰の父として立てていくのです。

そして彼が信仰の父として少しの不足もない完全な分量に達するためには、彼が受けなければならなかった訓練も、神様が直接関与される最高の水準でなければなりませんでした。信仰の父として立てられなければならない人が、ただおおよそに訓練されて出てくるのではないので、アブラハムは神様の手に引かれて一段階、一段階、信仰の成長を成し遂げることになります。もちろん、アブラムは本格的な訓練を受ける前にも神について知り、信じ、神を恐れる人生を送った人です。しかし、彼が以前に知っていることと、体験を通して親しく神様について感じて悟っていくのとはまったく異なります。
   
これは私たちが信仰の中に入ってきて、信仰が成長していく過程も同じです。最初はただ聞いてみてわかる水準ですが、次第に信仰の訓練と体験を通して、信仰の充分な分量にまで成長していくのです。
エペソ 4:13「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」と言われるように、神は私たち全員にキリストの満ち満ちた身丈にまで信仰の成長を成し遂げることを願うのです。

そのためには時に火のような訓練が必要なのであり、そのため、ペテロ第一1:7では、「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」と語っているのです。アブラムは信仰の父らしく神様がくださったテストを、最初からすぐに通過していくのを見ることができます。本文1節「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と言ったとき、アブラムは直ちに従いました。私たちは当時の状況で、「生まれ故郷父の家を離れて、指示される土地に行きなさい」という言葉に従うのは決して簡単な言葉ではないことを知らなければなりません。

今日、多くの人々が「私もアブラムのように従うことができます。」と告白するかもしれませんが、実際にそのような状況になれば、従順する人がそれほど多くはないという事です。自分のすべての生活の基盤と経済的な基盤、また家族との関係までも全て後にして、それも目的地が決まっていない状態で、むやみに見知らぬところに向かって離れなければならないということが、肉の考えを働かす人ならば、決して従うことはできないことでしょう。しかし、アブラムは最初からこのようなテストを軽くパスしたという事です。

それでは、皆さんも自分自身を一度振り返ってみてください。生まれ故郷の父の家を離れるというわけでもないのに、「私は果たしてどれほど神の言葉に、仕える方の言葉に従ったのか」ということです。行きなさいと言われれば、行けばいい。後ろに戻りなさいと言われればそうすればいいのですが、その小さな指示一つにもどれだけ多くの考えを働かせているのでしょうか?これまで聞いてみて、頭では確かに従順でなければならないということを知っているのに、実際に現実では従順が出てこなかったということです。
     
またあまりにも小さくて簡単なことの一つも、完全に従うことができないことがまたどれほど多いでしょうか?一日に御言葉を一章以上読んで、一節ずつ暗唱しなさいと言ったことも、依然として従順できない方々はできずにいます。神様は祈りを休まないようにと言われましたが、普段は言うまでもなく、今回のように特別徹夜が行われても、依然として祈らない方はしていません。しかし、アブラムは決して小さなことではないにもかかわらず、神様の御言葉にすぐ従順しました。これまで先祖たちを通して聞いて学んだ神様について、頭に知識だけを詰め込んでいたのではなく、このようにまさに従順の行いで神様に対する信仰を示したという事です。

朝の学び94 創世記11-12章  

創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

バべルの塔の事件後の人間の寿命の短縮


ノア洪水の後、この世界は肉の法則に従ってすべてが運行されていましたが、バベルの塔の事件の後は、より完全に肉の法則に支配されるようになってしまいます。その結果、病気も多くなり、先天的な障害や弱い者も現れます。もちろんこのすべては、世の中がますます悪に染まり、その罪の結果として現れる現象でもありますが、バベルの塔の事件を契機に、それがさらに激しくなったということです。このような変化を最もよく表しているのが、人間の寿命の短縮です。

本文を見てみると、セム以降に寿命が少しずつ減ってはいるのですが、それでもエベルの代までは寿命が四百年をはるかに超えています。ところがぺレグの代からは寿命が二百年代に急速に下がります。エベルだけ見ても三十四歳でベレグを産んで後、四百三十年を生きたのです。つまり四百六十四歳を生きたのです。セムを見ると洪水以前の世代であったのですが、洪水後も五百年をさらに生き、総六百年を生きました。それに比べるとエベルの寿命は大幅に縮まりましたが、それでもかなり長い歳月を生きたと言えます。しかし、ベレクからは二百三十九歳、レウも二百三十九歳、セルグは二百三十歳を生きます。急に、平均寿命が200年以上減ったのです。

ところで、寿命が急に縮まったベレグは、どのような事件に関連して生まれた人物でしたか?創世記10:25を見ると、「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。」とあるように、ペレグはまさに地が分けられた時、すなわちバベルの塔の事件があった時に生まれた人物です。これはつまり、バベルの塔の事件が、この地の人々の言語が混乱することによって、民族が分裂して分かれる決定的な契機になっただけでなく、人間の寿命にも大きな影響を与えるほど途方もない結果をもたらしたということです。また、このことは神様の怒りを買ったということも言えるでしょう。

したがって、バベルの塔の事件以後、この世界は肉の法則に完全に支配されるようになり、さまざまな病気や弱さが生まれ、また人々がより一層罪悪に関与し、人間の寿命の短縮にまで影響を与えるようになったのです。生きた霊であったアダムの犯罪以後、人が罪悪に染まって肉に落ちれば落ちるほど、人々の命もさらに短縮されてきたのです。しかし、逆に失った神様のかたちを取り戻していけば、それだけ人は年を取ってもむしろ健康になることができ、若返りして長生きすることができるという事です。

信仰の父アブラハムの誕生と成長


本文27節からはアブラムが生まれる具体的な背景が出てきます。本文を通して、私たちはアブラムがカルデヤのウルで生まれたことが分かりますが、ウルは古代メソポタミア文明の発祥地であるユーフラテス川下流の西岸に位置した古代シュメールの都市でした。ここウルで生まれ成長したアブラムは、そこで妻のサライを迎えましたが、サライは妊娠できないので、子供がいなかったのです。そんな中、アブラムの父テラはアブラムと孫のロトとアブラムの妻のサライを連れて、カルデヤのウルを離れてカナンの地に向かう途中、ハランという場所にたどり着きます。

では、アブラムはどのような背景で成長したのでしょうか?本文の系図からわかるように、アブラムが生まれた当時、セムをはじめとする彼の祖父たちは皆、生存していました。したがって、セムやエベルの場合は、アブラハムが死んだ後も生きていました。そのため、アブラムは生まれてから成長する間、直接洪水に見舞われたことをはじめ、多くの先祖から教えられる機会がありました。神様について学び、神様の御心と摂理についても、アブラムは先祖を通して学ぶことができました。このように、アブラムは神様を恐れ敬う雰囲気の中で成長し、神様に対する信仰と愛を育てていくことができました。

ところが、アブラムが生まれ故郷の父の家を離れなければならなかったときは、状況が以前とは少し変わったということをヨシュア24:2-3の言葉を通して知ることができます。「ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。」ということから、アブラムの父テラが他の神々に仕えたことがわかります。

当時アブラムが生まれたカルデアのウルはもちろん、テラとその家族がカナンに向かう途中に住んでいたハランというところも、偶像崇拝が盛んであった所でした。そのような中でも、屈せず純粋な血統を守りながら神様を恐れてきたが、ある瞬間、アブラムの父テラであっても当時の雰囲気に浸ってしまいました。まさにこのような時点に至った時、神様はアブラムを故郷の親戚の父の家から一人で独立させたのです。アブラムまでも、そこの雰囲気に染まらないようにするためであると同時に、アブラムを信仰の父にするための本格的な訓練を始めたのです。

もちろん、これまでアブラムが育ってきた環境は、神様を恐れて仕える雰囲気の中で神様について学び、悟ることができましたが、それだけでアブラムが信仰の父になれたわけではありませんでした。これまでは、親と祖先の保護の中でそれなりに神様について学び、悟りながら訓練を受けたとすれば、これからは自ら神様が干渉しながら、アブラムを信仰の父として訓練していくのです。肉の父を離れ、広い世界の中で以前とは全く違う人生を生き、神様の手によって訓練されるのです。神は本格的な訓練の始まりとともに、アブラムに莫大な祝福の言葉を与えてくださいます。本文の創世記12章2-3節に、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。

彼が将来どうなるのかをあらかじめおっしゃってくださったのであり、まさにその言葉を成し遂げようと訓練されたのです。もちろん、アブラハムは最初から神様のみことばにすぐ従順しましたが、神様が望む分量はその程度ではありませんでした。信仰の父という最高の水準に達するために、今後彼が体験しなければならない信仰と従順の訓練に比べれば、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」という言葉は始まりに過ぎませんでした。信仰の父であるアブラハムが今後どのような信仰と従順の訓練を体験していくのか、次の時間に引き続き見ていきましょう。

結 論


旧約時代は行いや形式が重要な時でした。行いや形式を通して、神様に対する信仰と従順が表現されたのです。ところがこのように行いと形式自体も重要ですが、旧約時代といっても神様が本当に望んでいたのはその中に込められた心でした。神様が純粋な血統を維持する中で正統性をつなげ、それを重要に考えられたのも、神様の御心に従う心を望んだのです。

ところがイエス様がこの地に来られた時、人々はいざ重要な心には関心がなく、ひたすら外面的な面だけに関心を持っていました。自分たちは血統的に「アブラハムの子孫」という意識の中で、選民である自分たちと異邦人たちを徹底的に区分し、自分たちだけが救われた民だと思いました。イエス様はこのような考えで固まっていたユダヤ人たちに向かって、ヨハネ8:39を見ると、「彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」とおっしゃいました。アブラハムの子孫ならば、アブラハムが行った信仰と行いを見せろということです。形式や血統が重要なのではなく、どんな心で行っているのかが重要だという事です。

ですから、ローマ2:28-29を見てください。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と言っているのです。今日みことばを聞いた私たちも「私はこのような職分を持っていましたが…」「私はこのように長い間信仰生活をしました… 私はこんなに頑張っていますが…。」とこのように話す前に、「私は果たしてどんな心で行っていて、どれだけ心に割礼しているのか」を先に振り返ってみてください。それで、神様から褒められる皆さんになることを主の御名でお祈りします。

朝の学び93 創世記11-12章  

創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

はじめに


愛する皆さん、本文の創世記11:10-26までは、セムから始まり、信仰の先祖アブラハムに至るまでの系図を示しています。洪水から9代目に至り、将来、信仰の先祖となるアブラムが生まれる過程を正統性の立場から記録しています。セムの様々の息子たちの中で、まさにアルパクシャデがセム家の純粋な正統性を受け継いだので、アルパクシャデの息子たちの中ではセラが受け継いで、このように純粋な正統性を受け継いだ息子たちを通してついにアブラムが生まれたのです。

神様は信仰の先祖アブラハムが、このように洪水後ノアの正統性を受け継いだセムの系図を通して、それも純粋な血統に従う正統性が維持される中で生まれるようにしたのです。神様はこのように、セムの系図が純粋に維持されるように徹底的に守り、保存することで将来、選民として選ばれることになるイスラエル民族を備えられたという事です。もちろん、セムだけでなく、ハムやヤペテの場合にもそれぞれ彼らだけの正統性を持った系図が続き、彼らも将来民族から国へと発展していきます。また、このように正統性を受け継いでいない人たちも、それなりに繁栄し集団を形成していきます。

本文に出てくる系図には入っていませんが、彼ら以外にも多くの息子と娘がいて、彼らはたとえ純粋な血統を継ぐことはできなくても、人間耕作の歴史を作っていく重要な構成要素に成長することになるのです。セムの純粋な血統を受け継いで出てくる選民イスラエル民族だけでなく、将来イスラエル民族との関係の中で道具として使われる周辺の多くの民族も、一つ一つ形成されていったのです。ところで、セムの純粋な血統が記録された今日の本文の中には一つの重要な事件が隠されていますが、果たして何でしょうか。

純粋な血統を維持できなかった子孫カイナン


当時の家門の純粋な血統を維持し、正統性を継続するのは、大部分長男の役目でした。しかし、長男がその分をうまく出来なかったときは、他の息子たちの中で正統性を続けた場合もあります。本文と同じ内容を記録している第一歴代誌1:24-27ルカ3:34-36に見ると、1つの違いが見られますが、第一歴代誌1:24-27では「セム、アルパクシャデ、シェラフ、エベル、ペレグ、レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラム、すなわちアブラハム。」とあり、本文と系図が正確に一致しています。

ルカ3:34-36では、「ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子、テラの子、ナホルの子、セルグの子、レウの子、ペレグの子、エベルの子、サラの子(シェラフ)、カイナンの子、アルパクサデの子、セムの子、ノアの子、ラメクの子、」と記されています。皆さんが詳しく比較してみると分かるように、ルカの福音書ではサラとアルパクサデの間に「カイナン」という人物がもう一人入っています。おそらく以前にも聖書を読んで、これらの違いを見つけた人もいると思います。確かに同じ内容を記録しておいたにもかかわらず、創世記や第一歴代誌にはない人物の名前が何故ルカの福音書にだけ入っているのでしょうか。

それで聖書学者たちもこれについて多くの研究をし、その中で多くの人がルカによる福音書の記録が間違っていると主張するようになりました。つまり、筆写する者が聖書を移して記録する過程でミスがあったということです。 あるいは、もともとカイナンという人物がいたのですが、どういう理由でかわかりませんが、その名前が系図から削除されたと主張する人もいます。韓国で言えば系図から名前が消されたということです。それでは、果たしてカイナンについての真実は何でしょうか?まず、わたしと皆さんは、聖書のすべての記録が真であり、たとえ聖書の中で互いに記録の違いがあるとしても、聖書の著者である神様がそれを許されたのには明らかな理由があるという事実を信じなければなりません。 

今日の本文とルカによる福音書の記録に違いがあるのも、まさにこのような理由の一つです。
ある人々の主張のように、聖書を記録する過程で人の間違いがあったり、聖書の内容が互いに矛盾するのではなく、神様はこのように違いのある内容を通して当時あった重要な一つの事件に対して隠しておられたという事です。神様の側では人間耕作の働きの中で、今後誰かが神様と明らかに交わりをし、神様から啓示を受け取ることができる人を通して、まさにこの部分に隠された秘密を教えたかったのです。このように違いが出る部分についても、人の考えの中で解くのではなく、神様のみことばである聖書を完全に信じて祈ることで、その中に込められた神様の御心と摂理を解くことができる人を待っていたということです。

それでは、神様が教えてくださった重要な事件というのは何でしょうか。実際にカイナンという人物はいました。彼はセムの正統性を受け継ぎ、純粋な血統を受け継いでいくように選ばれた人でした。ところが、カイナンはまさにこの役割をまともに果たせなかったのです。カイナンは性質が柔弱な人で、肉の考えが多い人でした。神はセムの血統を受け継いだ純粋な系図が維持されることを望み、その系図を通してアブラムが生まれることを望んでおられました。それで、セムからアブラムにつながる系図が純粋に保たれるように守られ、保護されました。もちろん、この地に救い主として来られるイエス様に至るまでのすべての過程も、神様の徹底した干渉と摂理の中に行われます。

「誰の子孫として生まれるのか、なぜそれほど重要なのでしょうか。」と考えることもできますが、それはすなわち人間耕作の歴史が偶然や勝手に動くのではなく、すべてが神様の計画の中で始まり、終えられるという事から非常に重要な意味を持っています。アダムの犯罪の後、この世界は敵である悪魔サタンの主管の下に置かれているため、敵である悪魔サタンは肉の人々を主管し、自分たちが望むように世界を導いていこうとします。このような中で神様の御心と摂理を成し遂げるためには、神様の御心を正確に受けて広げていく人物が必要です。

ところが、このように神様の御心の中で使われる人物一人が出てくることは、容易になるわけではなく、それだけ長い歳月を経て準備されなければなりません。そのためには、悪が蔓延したこの世の中で、それでも神様の御心を知って従順する純粋な正統性を持った人々が必要です。ノアという一人の人物が存在するまで、神様は彼の古くからの先祖から主管し、神様の御心が続くようにしたので、洪水の裁きの中でも生き残って人間耕作を続けるノアが出てきたように、神様の御心を純粋に続けるためには、純粋な血統を通した正統性を保存することも非常に重要だということです。それで、神様の方でも正統性を重視し、純粋な血統が続くようにしたのです。

このような事実をよく知っていたアブラハムは、息子のイサクの妻をさがすときに異邦人の中でさがしたのではなく、彼の信頼する僕を故郷に送り、自分の民族の中でさがすようにしたのを見ることができます。ところが、セムの純粋な血統を受け継いで生まれたカイナンは、このような神様の御心を悟らないまま、少し違った考えをしていました。「とにかくみんなが一人の祖父であるノアの子孫であり、ノアの三人の息子から広がってきたので、自分たちはみんなが一つの民族だ」と考えたのです。あえて「誰の子孫だ」と問い詰め、純粋な血統を受け継いでいくことはあまり意味がないと考えたのです。

結局、カイナンは純粋な血統を維持できないまま、他の兄弟の子孫と混ざり合い、一つに融和し、正統性を失ってしまいました。これは当時の状況で非常に大きな衝撃でした。系図の純粋さを受け継ぐ義務を持つ長子として、このように正統性に正面から挑戦する姿は、彼をこれ以上純粋な血統を受け継ぐ資格にとどまることが出来ないようにしたのです。結局、カイナンはセムの純粋な血統を受け継いだ正統の系図から抜け落ちてしまいます。彼が特に悪事や大きな罪を犯したからではなく、正統性の流れから完全に抜け出した人物だったため、正統の系図から名前が抜けてしまったのです。創世記や歴代誌にも、このような理由で彼の名前は記録されなかったのです。

バベルの塔の建築に参加したセムの子孫ベレク
ところが、後にセムの子孫であるベレクの代に至り、外形的には似たような状況が再び再現されます。それは、セムとハムとヤペテの子孫たちが「全地に散らばるのを避けよう」と連合して立てたバベルの塔の事件でした。バベルの塔の建築を主導したハムの子孫たちは、神様に対抗しようとする本音は隠したまま、表面的には三つの種族が一つになろうという意味で、バベルの塔の建築を推進するように話したのです。この時、セムの子孫たちは以前、先祖カイナンが正統性を無視してすべてを一つに混ぜようとしたが、系図から名前が除外される事件があったことを知っていたにもかかわらず、このようなバベルの塔の建築に参加しました。

しかし、セムの子孫たちが三つの種族がひとつになるためのバベルの塔の建築に参加するようになったのは、本質的にカイナンが持っていた考えとは違いました。カイナンは血統と血統とを混ぜて結局一つの民族を作ろうとしたのですが、バベルの塔の建築に参加したセムの子孫たちは単に「セムの子孫であれ、ハムの子孫であれ、ヤペテの子孫であれ、自分たちはみんなが一つの先祖から生まれた」ことを記念する意味で、バベルの塔の建築に参加したのです。すでにバベルの塔の事件について説明したように、バベルの塔の建築を通して自分たちが力で主導し、セムとハムとヤペテの子孫を一つにまとめようとしたハムの子孫とは異なり、セムやヤペテの子孫は単にバベルの塔を通して、自分たちが根本一つのルーツであったことを忘れずに記念しようという意図で、バベルの塔の建築に参加することになったのです。しかし、それぞれの子孫がバベルの塔の建築にどのような目的で参加したとしても、それは神様の御心には合わないことであったので、バベルの塔の事件は再び人間耕作の働きにおいて大きな転機となります。

朝の学び92 創世記11章  

 創世記11:5-9
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

三位一体の神様が自ら降臨される


続く7節を見ると、「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」と言いましたが、これはこの地に降りてくる主体が一人ではないことが分かります。父なる神様が一人でこのことを成し遂げたのではなく、三位一体の神様が一緒に成し遂げた事を物語っています。太初に天地を創造するためにこの地に降りてくる時も、3人が一緒にいたように、この時も3人が直接一緒に来て、すべてをご覧になり決定したのです。

このように、神様はあることを成し遂げるにあたって一人で決めて行なうのではなく、三人が一緒に話し合い、決定しています。三位一体の神様は、お互いがお互いを尊重され、別々ではなく、おひとりとして働かれます。もし三人がそれぞれの思い通りにされて違うならば、人間耕作の歴史は一貫性がなく進むこともできたでしょうが、いつも心を一つにして物事を成し遂げるためにすべてが一寸の誤差なく摂理され、計画されたとおりに成し遂げられるのです。

ここで私たちがただ通り過ぎてはならないことがありますが、まさに三位一体の神様が自らこの地に来られたという部分です。神様はこの地にあえて降りてこなくても、人々がなぜ町と塔を築いており、その心に何が含まれているのかまですべてを知っておられます。また、直接降りてこなくても、いくらでも人々の言語を混乱させることができます。それでも、三位一体の神様が自ら降りて来られたのは、すべてのことを直接もう一度確認し、正確な公義の中で事を成し遂げるためです。

神様はソドムとゴモラの地を審判される時も、すでに彼らの罪悪を知っていましたが、もう一度使者を送って確認させています。創世記18:20-21「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』」この地の状況を直接調べるために、自ら二人の天使を連れて降りてこられた神様は、まずアブラハムに現れ、将来ソドムとゴモラにある審判について教えてくださいます。そして、二人の御使いを直接ソドムに送り、そこの状況を調べさせました。二人の御使いを通してソドムの罪悪がどれほど蔓延していたのかを直接確認した後、硫黄と火でそこを審判されたのです

このようにバベルの塔の事件の時にも、三位一体の神様は、自らこの地に降りてきて、すべてのことを察して決定されたのです。これは、三位一体の神様が自ら見て決定するほど、バベルの塔の事件が人間耕作の歴史の中で重要な事件であることを教えていると同時に、神様がすべてのことを処理するにあたって、どれほど正確な公義の中で成し遂げられるかを示しています。詩篇96:10に、「国々の中で言え。『主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。』」とおっしゃったとおり、神様は少しの偏りもなく、ただ公議の中で公平に行なわれるという事です。

言語の混乱
では、神様は果たして人々の言語をどのように混乱させたのでしょうか。また、言語が混乱した人々の反応はどうだったのでしょうか?神様はあっという間に言語を混乱させました。これから時が来れば説明しますが、神様がこの肉の空間の中で霊の働きを行う時は、それぞれ時間を伸ばしたり、時間を減らしたり、時間を停めたりする中で一つの場合を通して繰り広げられます。ところで、言語を混乱させたのは、その中でまさに時間を停めて起こったことでした。これは簡単に言って、あまりにも早く瞬時に起こったと理解してください。それで人々は自分たちの言語が変わったという事実さえ感じられず、依然として以前に使っていた言語をそのまま使っていると思いました。 

このような状況の中で、人々はお互いの言うことを理解できなくなると、「以前は私たちがお互いに会話するときに通じたが、今はなぜ会話が通じないのか?変だな」こう思いながら離れ去っていくしかありませんでした。そして自然にバベルの塔を積むことが中断され、人々は言語が通じる人同士が集まって、散らばっていくようになりました。8-9節に、「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」とある通りです。

また、神様は言語を混乱させ、部族や部落別に言語が分かれるようにしましたが、彼らは一つの集団を成して、それなりの正統性と特殊性を維持しながら、ますます大きな集団に成長することになります。そうしながら、一つの民族となり、一つの国を形成していきます。 

神様が彼らを地の全面に散らされたという言葉のように、言語が混乱するこの事件を契機にして人類は初めて全地に広がり、多様な民族と国家を形成するようになったのです。ところが、人々がこのように散らばったことで、それぞれ定着する土地を探して移住することが、表向きには、自分たちの意志によって望む所に行くように見えました。しかし、その中には彼らの先祖を通して、それぞれの種族に与えられた祝福と呪いの言葉を叶えるための摂理が含まれていたという事です。つまり、セムとハムとヤペテに与えられた祝福と呪いの言葉に従って、彼らは自分たちが耕作される土質に合った場所に正確に移動したのです。

もちろん、種族と種族が混ざり合ったり、共存したり、また同じ種族から離れていった群れもいたはずです。しかし、それぞれの種族の主流は、セムとハムとヤベテに与えられた父ノアの言葉に従って、そのまま応じていったということです。そうしながら、強くて裕福な国と民族が出たり、相対的にそうでない国と民族が出たりして、今日のように人間耕作の歴史が続いてきたのです。10節からはノアの正統性を受け継いだセムの子孫たちの系図が出ていますが、次の時間には信仰の先祖アブラハムが出るまでの過程について見てみたいと思います。

結論


最初に先立って父なる神様はこの地に自ら降臨しながら、自らも公義の法則を破らないように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通られたと話しました。万物の主菅者であり、主人であり全能者ですが、神様は持っていらっしゃる権勢を勝手に使う方ではなく、自らが定めた法則もまた正確に守られるという事です。私もこのような父なる神様の属性をよく知っているので、私自身も教会の法の枠を外れたこともなく、堂会長として私に与えられた権勢だとしても、それを任意に行使したことがありません。

しかし、世の中ではどうですか?権威や名誉が与えられると、それを利用して法の枠を超えることもあり、自分が定めた規範や約束さえも自分の利益に合わないとあまりにも簡単に変えてしまいます。しかし、主の中では権勢があり高い地位にあるほど、法と秩序をよく守り、他の人々の手本にならなければなりません。「私は例外だから」と思ってもならず、自分の利益を追って法と秩序を崩すこともあってはなりません。

また、父なる神様は霊の法則だけでなく、この地に立ててくださった肉の法則も尊重されるように、皆さんも霊的な面ではもちろん、肉的な面でもひっかかることがないように、霊肉間に秩序と法をよく守ってください。もちろん、霊的なことが常に優先されなければならないが、肉的にも欠けていないように、すべてをあまねく調べなければならないということです。

そして、みことばを通してもうひとつ悟らなければならないことは、父なる神様があることを決めるにあたり、公義の中で正確に判断されるように、皆さんも何事にもそうでなければならないということです。三位一体の神様は、バベルの塔を積むところに親しく降りてこなくてもよかったのですが、それにもかかわらず、自ら降臨されて、もう一度すべてを調べて決められました。

このように私たちもあることを決定するにあたって決して片方の言葉だけを聞いてはいけないのです。必要に応じてもう一度確認して確認しなければならない時もあるという事です。決定を下したほうで簡単に行うことができますが、ややもすると不公平な決定のために当事者が受けなければならない苦痛を考えるならば、レビ19:36「正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。」とおっしゃった通り、すべてのことに公平でなければならないのです。

それでも、最後まで忍耐して我慢し、信仰で見てくださる神様の心のように、どうすれば「相手を生かせるか」という心で決定を下さなければならないのです。肉的なことだけを考えるなら、左右に偏らないように公平にすればいいのですが、霊的には公平でなく、ヨハネ6:63「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」という御言葉通り、常に生かす「霊」を選ばなければならないという事です

私も今まで教会を治めてきて、いつも公平に物事を処理してきましたが、それでも結局はいつも生かす側、何とかもう一度機会を与える側、このように霊の方法を選択してきました。このような私の姿を見ながら、時には周りの働き人が理解できない場合もあったでしょう。しかし、私がこのように、父なる神様の心でいつも霊の方法を選択してきたので、今の主のしもべと働き人が出てくることができたという事です。ですから、皆さんも愛と公義の調和の中で神様の働きを成し遂げますが、何が本当に神様の国のためのことか、何が本当に父なる神様の意志なのかをよく見て下さい。それでいつも父なる神様が望む道にだけ導かれていくことを主の御名でお祈りします。

朝の学び91 創世記11章  

 創世記11:5-9
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

はじめに


父なる神様は、初めに天地を創造するために、自らこの地に降りて来られました。霊の空間におられる神様が肉の空間であるこの地に降りて来られたのです。創世記1:2後半に、「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と言われた言葉は、その時の状況を示しています。そしてその後も人間耕作の歴史上の働きの中で神様が自らこの地に降臨された場面が聖書には何度も記録されています。

例えば,出エジプト記19:18「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」とあります。民数記 11:25には、「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。」創世記17:22には、「神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。」とあり、神様がアブラハムと対話するために自らこの地に降りてこられたという事を話しています。本文5節以下にも、神様が自らこの地に降臨された事件が記録されていますが、果たしてどのようにしてこの地に降りて来られたのでしょうか。

神の降臨事件


以前に霊の空間と肉の空間の間を行き来するためには、通路のような場所を通過しなければならないと言いましたが、父なる神様もこの通路を通って降りてきました。もちろん、神様はあえてこの通路を通る必要もなく、いくらでもこの地に降りてくることができます。神様は時間の流れの変化にいかなる拘泥(他に選びようもあるのに、一つのことにこだわること)も受けられないだけでなく、いずれにしても肉と霊のすべての空間は神様に属している空間だからです。それでも、神様がこのように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通ってこの地に降臨された理由は、まさに自らも公義の法則を破らないようにしたのです。

このように神様が自らこの地に降臨された時、当時の肉の人々は神様にお会いすることも、神様の降臨を感じることもできなかったという事です。神様は肉の目でお会いできる方ではないからです。しかし、霊の目が開かれて神様と交わる人々は、霊に入った深さによって違いはありますが、神様にお会いすることができます。もちろん、親しく対面して神様の形状を見ることができるのではなくても、神様が許される範囲内で神様にお会いして感じることができるのです。

例えば、モーセ預言者の場合を見れば、出エジプト記33:20-23に、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

神様と明らかに交わっていたモーセ預言者でしたが、父なる神様の本体が降臨された時は、その形状を正面から直接お会いできたのではなく、後ろ姿だけ見ることができたという事です。ところが、民数記12:8の前半には、「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。」とおっしゃったので「神と対面する」という言葉の意味をよく分別しなければなりません。出エジプト記33:11にも「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。」とありますが、実際に神様の本体が降臨された時はモーセが直接神様と対面できなかったことを知らなければなりません。

なぜでしょうか? 
これは神様がエデンの園のアダムと同行してくださる時や、エノク預言者と同行してくださる時を考えてみてください。以前に創世記の講解で説明したように、神様はエデンの園のアダムと同行してくださいましたが、だからといって神様の本体が直接エデンの園に降りて来て一緒にしたわけではないと話しました。第二の天と第三の天を結ぶ通路を通して、まるで顔と顔を会わせながら一緒にいるように明るく交わることができましたが、これを指して同行してくださったのだと話しました。

エノク預言者の場合も同様です。神様はエノク預言者と300年間同行してくださいましたが、この時もいちいち毎回この地に降りて来てエノク預言者と同行してくださったわけではありません。霊である父なる神様は、霊を分離することができるので、ほとんどの場合、本体が直接動くのではなく、分離された霊の分体が働かれるのです。したがって聖書に同行してくださるということは、直接神様の本体が降りてくるのではなく、分離された神様の霊が常に共にしながら交わってくださることを意味するのです。

預言者モーセもこのような場合です。神様がモーセと対面して明確におっしゃるからといって、いつも本体が直接降りてきて対話したのではなく、霊に交わってくださるのです。しかし、被造物として父なる神様と霊で交わることは、簡単な霊の次元でできるわけではありません。まさにモーセ預言者のような方であったので、神様と霊でまるで対面するように明らかに交わることができたという事です。しかし、このようなモーセ預言者でも、父なる神様の本体がいらっしゃった時は状況が変わったのです。いくら穏やかさが地のすべての人よりも優れて全家に忠実だったモーセでしたが、復活体の体を着ているのではない限りは、肉の体を着ているという肉の限界によって、父なる神様の本体に親しく会うことは出来ませんでした。

これは預言者エリヤを見てもわかります。天国では序列が高い預言者エリヤでしたが、父なる神様に直接お会いすることはできませんでした。列王記第一19:11-13「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。『エリヤよ。ここで何をしているのか。』」

父なる神様は預言者エリヤの前を通り過ぎましたが、預言者エリヤもやはり神様に親しくお会いしたのではなく、ただ父なる神様の臨在を感じることができ、声だけを聞くことができたのです。しかし、預言者エリヤや預言者モーセのように聖潔にされ、神様に似た人々であったので、神様は後ろ姿を見せてくださるか、臨在していることを感じられるように兆し(しるし)として示したのです。しかし、肉の人々は肉の目で神様にお会いすることもできないだけでなく、見せてくださるとしても、それに耐えられません。

また、神様が降臨される時、肉の目で見られる証拠を一緒に示してくださらなければ、肉の人々は神様が降臨されたという事実さえも感じることができません。それで、神様はシナイ山に降臨される時は、火と煙と山の振動で働かれ、民たちに神様の降臨を間接的にでも分かるようにしてくださったのです。しかし、霊の人であれば、たとえ神様が降臨される時に、どんな目に見える証を示さなくても、霊的な気配オーラ(オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギー を意味する。転じて、ある人物や物体が発する独得な、または霊的な雰囲気や、なんとなく感じる力、威圧 .)を通して感じることができます。

さらに、聖霊の時代なら、当然内住される聖霊様が神様の降臨を聖霊の感動の中で感じられるように働いてくださいます。ところが、本文の背景になる当時は、神様が降臨しても、その場面を見られる人がいなかったし、感じられる人さえいなかったという事です。神様の方でも彼らに目に見える兆しとして働いてくれませんでした。

神様が自ら降臨して言語を混乱させた理由


続く6節では、神様が自らこの地に降臨して、言語を混乱させた理由が出ています。「「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」と話しています。父なる神様は初めて人間耕作を始め、すでに最後の時まですべてを摂理しておきました。だからといって、あらかじめ予定しておいたという意味ではなく、ただ神様はすべてを知っているので正確な時点に合わせて必要な状況と条件が成されるようにされるのです。

例えば、神様は、人類の救いのために救い主となるイエス様がいつ生まれるべきかを既にご存知なので、イエス様が生まれるべき正確な時点に合わせて、周辺の状況と条件を作っていきました。イエス様がどこで生まれるべきか、誰がイエス様の誕生を予備するようにすべきか、どんな親の下で生まれるようにすべきかなどを一つ一つ予備されたのです。バベルの塔の事件をきっかけに言語を混乱させたのもこれと同じです。

神様は人々がバベルの塔を建てることを全く知らずにいましたが、その時になって、突然人々がバベルの塔を建てるのを防ぐために言語を混乱させたのではありません。すでにすべてを知っていて、その時に合わせて言語が混乱するように働かれたのです。父なる神様の計画の中で人間耕作のためには人類が一つの言語、一つの民族になってはならなかったので、神様は人間たちが自らの傲慢さの中でいつ頃バベルの塔の事件を起こすことになるかをあらかじめご存知で、その時に合わせて人類の言語と民族が分かれるように働かれたということです。

したがって、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。という言葉が文字的に見ると、人々が一つの民であり、一つのことばであるため、バベルの塔の建築も計画できたので、これ以上バベルの塔を建てることができないようにするために言語を混乱させるという意味に見えます。 


しかし、実際にはすべての将来のことを知っている神様が、時を正確に合わせて言語と民族を分けることで、今後進行される人間耕作のための環境を、完全に整える契機にしたという事です。また、全世界に多様な民族と言語を持った人々を通して人間耕作を成し遂げようとする父なる神様の摂理された御心が、バベルの塔の事件を契機になされるようになったということです。

もう少し具体的に説明すると、父なる神様は太初に人間耕作を始めてから、すでに人類の歴史の最後まですべてを知って計画し摂理されました。例えば、人間耕作のモデルとなる選民イスラエル民族が必要であることも、そのイスラエル民族を通して救い主が生まれ、救い主を通して福音が全世界の民族と国々に伝えられなければならないことも、すでにご存知で摂理しておいたのです。また、将来、人類の歴史の中で数多くの国と民族が出てきて、彼らがお互いにどんな関係の中で最後まで至るようになるかも摂理しておきました。

これを何かにつけて誤解すれば、まるで神様の側で一方的にすべてを決めておいて成し遂げられると考えられるが、これはあくまで予定ではなく予知予定だという事を知らなければなりません。人類がどうなるかを既に知っている中で、それに合わせて摂理しておいたということです。このような神様の摂理を成し遂げるためには、全人類が一つの民族として一つの言語を使う状態ではありませんでした。ですから、すべてを予知される神様は、バベルの塔の事件があることと、それがいつに起こるのかを既にご存知であり、その時に合わせて言語と民族が分かれるように予知予定の中で働かれたのです。

これは、皆さんが予定と予知予定の間の明確な違いに気づいたときにのみ理解できる内容ですが、簡単に例を挙げて説明します。もし神様がある学生に「今回の試験で一位になるだろう」とおっしゃったとしたら、これが予定でしょうか。そうではありません。予定なら全く勉強をしなくても当然1位にならなければならないでしょう。しかし、この学生が勉強をしなければ、公義によって決して試験で1位になることはできません。しかし、神様がこの学生に1位になるとおっしゃったなら、それは彼がこれからどれほど熱心に勉強することまであらかじめ知っておられておっしゃった御言葉なので、この学生は結局一生懸命勉強して1位になることになります。

そのため、予知予定には自由意志が入るという事です。予定なら既に決まったことなので、自由意志の中で従順しなくても行われますが、予知予定は従順になることまでご存知で決めたことなので、必ず自由意志の中で従順の行いを見せるときに行われることになるのです。したがって、神様がある御言葉を下さった時、自由意志の中で自ら従順でなければ、御言葉通りに成し遂げられないことであり、これは神様のみことばが間違っているわけではないという事を知らなければなりません。

朝の学び90 創世記11章  

創世記11:4-9
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

バベルの塔


続く4節では、バベルの塔の建築を計画する意図がよく表れています。
「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」ところが、この言葉の中に込められているそれぞれの種族の隠れた真意は互いに違っていたという事です。これはどういう意味でしようか?前述のように、ハムの子孫は自分たちの優越性を表し、自分たちの正統性を主張しようとする意図で他の種族まで一箇所に集めてバベルの塔の建築を計画しました。「われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」という言葉の中には、このようなハムの子孫たちの意図が込められています。表向きは「われわれ」と言って、すべての種属を包括するかのように述べていますが、実際にはハムの子孫自身の名誉を高く表わそうとする気持ちが込められていたのです。しかし、バベルの塔の建築には、単にハムの子孫が自分たちの優越性を示し、正統性を主導していこうとする意図だけ込められていたのではありません。 

彼らのより深い心の中には、まさに神に対抗しようとする心がありました。これまで呪われた種族として劣等感の中で生きなければならず、それによって神様からもますます遠ざかるようになったことに対する一種の反発心があったのです。しかし、このような心を直接表すことはできないので、ハムの子孫は、バベルの塔の建築の目的を表面的には「われわれが全地に散らされるといけないから。」と言います。まるで元々は皆がノアの子孫として一つの種族だった三つの種族がこれからは一つになって散らばらないようにするためにバベルの塔を建築するように言っています。

そして、セムとヤペテの子孫は、ハムの子孫の本音は知らないまま、彼らの提案に同意して、バベル塔の建築に参加することになります。したがって、セムとヤペテの子孫がバベルの塔の建築に参加するようになったのは、ハムの子孫が目的としたものとは違ったということです。セムとヤペテの子孫たちは、神様に対抗しようとする心は少しもなく、「全地に散らされるといけないから」としたことも、創世記9:1「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という神様の命令を破ろうとしたわけではありません。ただ、自分たちはみんなが一人の父から出てきた一つの民族であることを記念しようとする心で、それなりに象徴的な意味を込めて一つの建築物を建てようとしたのです。今はたとえ自分たちが散らばって暮らしていますが、私たちは皆一つから出てきたという事実を忘れてはいけないという意図で、バベルの塔の建築に参加したということです。

このように、バベルの塔の建築が結果的には神様に対峙する象徴物として建てられたが、実際にその事に参加した人々皆が神様に対抗しようとする意図があったわけではありません。ニムロデを中心とするハムの子孫だけが不純な意図を持っていたので、セムとヤペテの子孫はこのようなハムの子孫の本音を知らないまま純粋な意図で参加しようとしたが、ハムの子孫によって利用されてしまったのです。

では、当時彼らが計画していたバベルの塔の規模はどのくらいだったのでしょうか?これは深い祈りの中で幻想的に見せてくださった内容ですが、当時彼らが最初に計画していたバベルの塔の高さは、今日の建物の約15階ほどの高さでした。その形はピラミッドのような形をしており、レンガと瀝青で積み上げた建築物でした。15階建ての高さであれば、今日の建物の一階を約3.5メートルと捉えたとき、50メートル強の高さです。今見るとあまり高い高さではないかもしれませんが、当時としては決して低い建築物ではありませんでした。

創世記10:12に述べているように、すでに「レセン」という大きな城を建てていたハムの子孫は、これまで積み重ねた技術と知識と経験をもとに、バベルの塔の建築を主導し、これにはレンガと瀝青を使用する技術が用いられました。単に自然でとった石を削って積むレベルではなく、レンガを焼いて使う技術を持っていて、泥の代わりに瀝青を使う方法も知っていました。しかし、このように積み上げ始めたバベルの塔を、最初の目標とした高さほど積み上げたわけではありません。神様がこの地に降臨されて彼らの言語を混雑させるので、工事は中断されてしまいます。そして、このように工事が中断されるまで、その時間がとても長かったわけでもありません。1、2年という短い時間ではありませんでしたが、建築を始めて中断されるまでの時間が5年を超えたわけではないということです。バベルの塔の建築が中断される事件については、続く5節から次の時間に見てみます。

結論


今日はこの地に最初にあった言語がどんなもので、バベルの塔を建築することになった目的についてお話しました。しかし、今日の御言葉を通して霊的に大きく二つの面について悟らなければなりません。 
一つ目は、「霊的にも統一された一つの言語の時だけが互いに通じることができる」ということです。肉的に見ても、人の間でお互いに意思疎通ができ、何か自分が持っていることを他の人に伝えるためには言葉が通じなければなりません。お互いに通用できる一つの言語が必要です。そうでなければ、お互いに通じ合うことはできません。これは霊的にも同じで、肉の言葉を話す人と霊の言葉を話す人とは通じ合わないという事です。

例えば、皆さんもこの真理を知る前には、口から様々な世の中的な言葉が出てきたはずです。ところで、もう、真理を知り、神様の御心に従って変化していくうちに、どうなりましたか? 皆さん自身も皆さんの唇の言葉が変わってきていることを感じると思います。また、このように唇が紳聖に変化していくと、いつのまにか以前に会っていた世界の人々とは、対話が出来ないということを感じるようになります。確かに同じ韓国語を話しているのに、肉的な言葉と霊的な言葉は通じあわないからです。代わりに、霊的な言葉を話す人とは、その会話がとても楽しくて幸せで、霊の会話を交わすことができる相手がいるという事に感謝します。

もう一つの例をあげると、もしある人が肉の言葉を話すとき、皆さんがそれを肉で受けずに、霊で受けることになれば、その対話はこれ以上行われないという事です。普通の人が集まって他人を判断し、罪を犯すのを見ると、それはお互いに言葉が通じるからです。肉の言葉は互いに通じるものです。しかし、もし皆さんがそのような場所にいるとしたら、たとえ誰かが他の人を判断して、罪を犯す言葉を言っても、皆さんがそれを受け入れてあげないと、その会話は自然に途切れてしまいます。また、皆さんが他人の過ちについて聞いたとしても、皆さんがこれ以上それを言葉で伝えなければ、他人の過ちが広がらないようになります。

 

霊的に見ても、言語が互いに通じてこそ判断し、罪を犯し、ひそひそ話すことが出来ますが、このように皆さんが肉の言語ではなく霊の言語だけを使えば、非真理が伝えられないのです。だからといって、肉の言葉を話す相手を恥ずかしくさせたり、刺す言葉で会話をやめろという意味ではありません。本当に皆さんの唇から良い言葉、美しい言葉のような甘いものを出すと、自然に苦い水を出す唇は閉じられます。そんなとき、出エジプト23:1に「偽りのうわさを言いふらしてはならない。者と組んで、悪意ある証人となってはならない。」という言葉のように、肉の言葉は口にすることも、伝えることもなくなるのです。天国の民として、常に愛の言葉、真理の言葉、善良な言葉、聖なる言葉などの美しい霊の言葉だけを使用できることを願います。

今日の御言葉を通して悟らなければならない二つ目は、同じ罪でもどんな心で犯したかによって、罪の軽重が変わるということです。一緒にバベルの塔の建築に参加しましたが、神様がハムの子孫に問う罪の値と、セムやヤペテの子孫に問う罪の値は違うという事を知らなければなりません。ハムの子孫たちはすでに心に不純な意図を持って意図的に神様に対抗したのであり、セムとヤペテは神様の御心を気づいていないので、つい不義なことに参加することになったのです。したがって、その中心をご覧になる神様は、表に現れた同じ罪の行いに対しても、その中心を推し量って罪の軽重を問うという事です。
     

ルカ:12:47-48 前半を見れば,「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。」とあります。主人の意志を知っていながら、その通り行わなかったということは、故意に主人の意志を踏みにじったということで、知らずにしなかった人とは状況が違います。それだけ心に悪を持っているのであり、主人の命令に対する明白な反発です。ハムの子孫の状況がまさにこのようだったのです。

しかし、だからといって、セムやヤペテの子孫の罪は小さいという意味ではありません。ハムの子孫に比べて小さかったのですが、セムやヤペテの子孫も霊的に目覚めていれば、ハムの子孫のねじれた心の策略に陥らないことができました。言葉がいくらもっともらしく聞こえるとしても、霊的な分別力があったとすれば、神様の前にバベルの塔を積むことが神様の御心に合わないことに気づいたはずです。
 
太初に霊界でルシファーが反乱を起こすようになった原因が、まさに神様のようになろうとした高慢だったように、
「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」という言葉の中には、敢えて被造物として自ら高めて天にたどりつこうとする傲慢さが込められています。霊的に目覚めていたら、自分たちのこのような考え自体がすでに神の前に高慢だったという事に気づいたでしょうが、セムとヤペテの子孫たちはそうではありませんでした。

これは今日も同じです。敵である悪魔サタンが惑わそうとする時は、もっともらしい言葉で接近してきます。この時そのような言葉を真理でよく分別すれば、決してその偽りを見過ごすことはないでしょう。しかしまさに心に欲があるので、自分の利益に合う言葉には耳寄りになり、結局迷いこんでしまうのです。このような事実をよく肝に銘じ、皆さんは霊的にも常に目を覚ましていなければならないのです。そして敵である悪魔サタンに惑わされ、神の意思ではないと知りながら悪を行っていくことはあってはならないでしょう。ただ父なる神様の善を喜び、完全な御心が何なのか分別して、常に真理の道に導かれることを主の御名でお祈りします。

朝の学び89 創世記11章  

創世記11:1-9
さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

はじめに


愛する聖徒の皆さん、今日の歴史学者や人類学者をはじめ、数多くの人々が気になっていることの一つが、まさに「人類の起源はどこからであり、数多くの人種や民族はどのように分かれて今に至るようになったのか?」ということです。これに対する解答を創世記9章、10章を通して説明しました。しかし、それに劣らず人々がとても疑問に思うことの一つは、言語についてです。つまり、「今日、人類が使用しているこの多くの言語の最初の始まりはどこであり、どのようにして分かれてきたのか? 」ということです。

この質問に対しても聖書は明確な答えを与えています。また、多くの人々が想像や伝説の中にだけ存在すると考えているバベルの塔についても、聖書は明らかな事実として記録しています。 
そして、なぜバベルの塔に神様の呪いが臨んだのかも皆さんに知ってほしいのです。今日の本文の
創世記11:1-9に、これらの疑問に対する答えがよく示されています。それでは、これから神様のみことばである聖書を通して、言語の起源と分裂、そしてバベルの塔について見てみましょう。

言語の起源と分裂


まず、1節「全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」とあります。つまり、これから説明するバベルの塔の事件がおこるまで、この地に住むすべての人々は、一つの言語体系を持っていたという事実です。「口音」とは、文字通り口から出る音を意味しますが、ここで口音が一つだということは、簡単に言えば、当時の人々の言葉が一様に同じだったという意味です。また次に言語とは、このように口から出た音が人々の間の意思伝達の手段として体系を整えるようになったことを言いますが、このような言語が一つだということは、言語の形態や内容が同じだという意味です。

この言葉の意味をより理解するためには、現在の韓国の状況を見ればいいです。韓国は一つの民族で構成された国で、言葉の発音や言語の形と内容が同じであるのを見ることができます。もちろん、韓国の中でも地域によっては若干の違いがあることがわかります。その地方だけの方言や言葉が生まれながら、それなりの言語的特色を帯びるようになるのです。しかし、それにしても韓国人同士は、一つの口音と一つの言語を持つ民族として、いくらでもコミュニケーションが可能なことがわかります。

まさにバベルの塔の事件以前までの状況がこのようでした。土地全体の口音と言語が一つだったので、当時、この地に住む人々は、ノアの三人の息子のうち誰から始まった種族なのかに関係なく、誰でもお互いの間で意思疎通が可能でした。しかし、洪水の後、3代、4代という歳月が経ち、地域によって人々が使う言語に若干の変化が生じるようになったのです。そうすると、皆さん一つ気になることがあります。「果たして当時、人々の間で使われていた一つの言語はどんなものだったのだろうか?」ということです。ノアの洪水が起こるまではもちろん、洪水後もバベルの塔の事件をきっかけに言語が混雑するまで、人々の間で使われていた一つの共通した言語、皆さんはそれがどんな言語だったと思いますか?それはエデンの園で話されていた言語でした。

アダムとエバがこの地に追い出される前にエデンの園に住んでいる間に使った言語です。アダムとエバは、この地に降りてきて暮らすようになった後も、エデンの園で使われていた言語をそのまま使っていたので、彼の子孫も自然にこの言語を使うようになったのです。この地に人間耕作が始まってからも、エデンの園の人々がこの地に降りてきたときに大きな拒否感を持たないことができた理由の一つは、まさにこのように互いに使う言語が同じだったからです。
     
一般的に、人々が他の国に行ったとき、そこに適応する上で最も大きな障害になるのがコミュニケーションの問題ですが、当時この地で使われていた言語がエデンの園で使う言語と同じだったため、この地に降りてきたエデンの園の人々はあまり難しくなく適応することができたということです。そのため、
創世記6:2に出てくる神の子ら、つまりエデンの園の男性たちが人の娘たち、つまりこの地の女性たちを妻として、この地に定住して暮らすこともできたのですし、エデンの園の発達した文明と知識もこの地に伝わることができたわけです。

知識や文明が伝授されるためには、お互いの意思疎通が必須な要素ですが、一つの言語を使ったのでそれが可能だったのです。それで、当時、この地の人々の技術や知識では成し遂げられなかった発達した文明がこの地に生まれることができました。アダムから伝授された技術や知識もありましたが、これにエデン園の人々から伝授された内容が加わり、今の技術や知識でも解けない高度に発達した文明が存在することができたのです。このすべてが可能だった理由が、当時、この地の言語がエデンの園で使われる言語だったからということです。
     
しかし、このように最初は一つで始まった言語だったとしても、歳月が経つにつれて最初と同じになるわけではありません。生育して繁栄して地に満ちていくにつれて、人々は互いの間でますます遠く離れていき、そうするほど言語も少しずつ変質し始めました。先ほど申し上げたように、口音と言語は一つですが、地域的な特性や環境によってそれなりの言語的特色が生まれたのです。そうするうちに洪水によってこの地に8人だけが残るようになった時は、その瞬間にでも言語が統一されるようでしたが、その時はすでに最初にアダムとエバがこの地に降りてきたときに使っていた言語とは大きく変質した状態でした。

そして洪水の後、人々が広がっていくと、言語は再び少しずつ変質し始め、ついにバベルの塔の事件によって言語が混雑してしまうと、最初にこの地で使われていたエデンの園の言語は、もはや痕跡が残っていなくなります。人々が根本の肉の属性に戻るにつれて使用する言語においても肉の属性に戻る現象が現れ、それから霊の世界であるエデンの園で使用する言語もこの地で消滅してしまったのです。そのため、バベルの塔の事件以降は、第2の天のエデン園の言語と第1の天であるこの地の言語がまったく変わり、これ以上お互いの間で通用できなくなりました。これである程度疑問が解けたと思いますが、言語については7節でもう一度説明されます。

バベルの塔


続く2節を見ると「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ここでシヌアルの地はバビロン地方を指しているので、ダニエル1:1-2によれば、「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。」とあり、シヌアルの地がバビロン王国当時にその領土内だったことを物語っています。今のイラク領土の中にある土地です。

ところで、創世記10:10を見ると、このシヌアルの土地がまさにそのハムの子孫の根拠となっていることがわかります。「彼(ハムの子孫であるニムロデ)の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。」ハムの子孫たちはまさにここシヌアルの平地を根源地として、彼らの領土と勢力を育てていったのです。したがって、2節「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」ということは、まさにハムの子孫についての御言葉であることがわかります。

ところが、続く3節「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」と言いました。では、ここで互いに言ったのは誰と誰がお互いに話したことでしょうか?それはセムとハムとヤペテの家族が互いに集まって会話したという意味です。当時はノアの三人の息子から広がった子孫がまだ本格的に広がっていったわけでもなかったので、今日のように広く広がっていた状態でもなかったし、種族間の交流もありました。

そのような状況で、シヌアルの平地に住んでいたハムの子孫は、ある目的で他の種族、つまりセムとヤペテの子孫を自分たちが居住するシヌアルの地に集めさせました。ニムロデという特出した人物の登場により、ますます勢力が大きくなっていたハムの子孫たちは、自分たちの計画を成し遂げるために、セムとヤペテの子孫たちも一緒に参加する集まりを主管していったのです。

それでは、ハムの子孫はなぜここのシヌアルの地に他の種族まで集めたのでしょうか?彼らは、自分たちの先祖が父親であるノアから呪いを受けた後、ずっと呪われた種族という劣等意識を持って生きなければなりませんでした。それでもっと力と勢力を育てようと努力し、ついにニムロデという人物の登場をきっかけに、大きな勢力を成すようになったのです。彼らは、他の種族の前で自分たちの優越性を表わし、むしろ自分たちがノアからの正統性を受け継いでいる種族だということを他の種族の前で認められることを望んだのです。そのためには、自分たちの力と能力を誇示し、自分たちが主動して成し遂げられる特別なことが必要でした。それがまさにバベルの塔の建築でした。ハムの子孫は、バベルの塔の建築を通して他の種族の上に自分たちの立場を固めようとしたのです。

(つづく)

朝の学び88 創世記9-10章  

創世記9:28-10:32
ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、パテロス人、カスルヒム人・・これからペリシテ人が出た・・、カフトル人を生んだ。カナンは長子シドン、ヘテ、エブス人、エモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってレシャにまで及んだ。以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、ハドラム、ウザル、ディクラ、オバル、アビマエル、シェバ、オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、ヨクタンの子孫であった。彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であった。 以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。

はじめに


ノアは洪水の後、さらに350年を生き延びましたが、この時間こそ自分自身を徹底的に発見し、根本的な肉の属性まで捨て去っていく真の人間耕作の時間でした。洪水の前には義人であり、その時代に完全な者と呼ばれるほど傷がなく、行いにおいては完全に見えましたが、それはあくまで神様が囲まれた霊的な光の中にとどまっている状態だからでした。まだ根本に内在する肉の属性が明らかになっていない状況だったので、表に現れる彼の行いや姿は完全に見えたのです。

ところが、洪水の後に光が取り込まれて、根本に内在していた肉の属性が明らかになると、ノアはこの時から心の奥底まで開墾する本格的な人間耕作を受けるようになったのです。しかし、ノアは350年を耕作されながらも、父なる神様が望む完全な分量には至りませんでした。まさに根本に内在する肉の属性まですべて取り除く、完全な聖潔の段階には至っていなかったのです。それでノアはそのように神様の前に忠誠を尽くし、洪水以後に新しい人間耕作の出発点になるという非常に重要な役割を果たしたにもかかわらず、新しいエルサレムに入る栄光は得られませんでした。結局3天層に留まるしかなかったのです。

ここで皆さんが誤解してはいけないのは、ノアはたとえ聖潔という観点から見て、完全に悪の形をすべて捨てた状態ではなかったにもかかわらず、3天層に行くことができたという事です。 3天層は完全に聖潔にされなければならないと言いましたが、ここには旧約時代と新約時代との違いがあることを知らなければなりません。旧約時代は、まだ聖霊が心の中に内住していた時ではないので、心にある罪を行いとして示さなければ、それが罪とは認められなかった時でした。もちろん旧約時代にも神様の御心を明らかに知っていた人々は、聖霊の力に支えられて心を割礼していくので、根本に内在した肉の属性までも解決した場合があります。しかし、肉の割礼をした旧約時代の人と、聖霊の力に支えられ心に割礼ができる新約時代の人とに、聖潔の基準を同じように適用することはできないでしょう。そのため、ノアは父が望む完全な聖潔の分量には至らなかったものの、3天層の栄光が与えられるようになったのです。

ノアは彼の人生を終える瞬間、自分の人生を振り返りながら多くの後悔を残すことになります。 息子のハムを呪った自分の姿も後悔したはずで、洪水以後、肉の秩序上最も頭だという立場によって、自分の足りない姿をより完全に発見できないままに生きてきた過去を後悔しました。ここで私たちは頭になればなるほど、より一層自分自身を振り返る事に目覚め、勤勉でなければならないことを悟らなければなりません。お世辞を言いながら良い言葉だけを言う人ではなく、時には聞きたくない言葉でも真実を語ることができ、自分の魂に有益な言葉を言ってくれる人を近づける知恵が必要なのです。もちろん話す時は常に善でなければなりませんが、真に善良な言葉とは、単に聞くことだけに良い言葉ではなく、相手に自らを発見して変化できるように悟らせる言葉だという事です。そして、このような善良な言葉こそ、箴言16:24「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」と言われたように、聞く人の心にも甘いだけでなく、その魂に良薬になるのです。ところが当時、肉の秩序上一番頭にあったノアは、このように骨に良薬になる善良な言葉を言ってくれる人がいなかったし、またたとえそのような人がいたとしても、自分の傲慢の中でその言葉を受けることができなかったので、結局人生を終える瞬間このように後悔せざるを得なかったのです。もう少し時間があればという残念さもあったとおもいますが、今は後悔しても、これ以上の機会が与えられるわけではありません。

ですから、皆さんも本当に新しいエルサレムを望むなら、今与えられたこの時間を決して無駄にせず、新しいエルサレムに向かって力強く前進していくことをお願いします。恵みの時代であり、聖霊の時代である今は、心の中にある悪はその形でもすべて捨ててこそ、3天層以上に入ることができます。いくら自分の人生を神様の前に捧げて忠誠する人生を送ったとしても、その心の中に、父なる神様が嫌がる悪の形が少しでも残っていれば、新しいエルサレムはもちろん3天層にも入ることができません。このような事実を肝に銘じ、皆様の心に「私も完全な聖潔を成し遂げる」と、もう一度誓う貴重な時間になられますように主の御名でお願いします。

セムとハムとヤぺテの子孫


本文の創世記10:1には、「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。」と述べて、続く2節から32節までは、ノアの3人の息子たちから始まったそれぞれの系図が、短くは3代から長くは5代まで記録されています。私たちはこのような聖書の記録を通して、洪水後にノアの子孫がどのように繁栄し、この地に広がっていき、また将来、それぞれどのような民族に発展していくのかを知ることができます。今日、世界の人々はノアの洪水を一つの伝説や説話程度と考えているため、洪水後、ノアの三人の息子を通してこの地に新たに民族と人種が広がっていったという事実についても、否定的な立場をとっています。しかし、私たちは本文に記録されたノアの子孫の名前と歴史上に残っている記録を比較することで、聖書の記録がどれほど真実であるかを証明することができます。これから簡単に見てみますが、創世記10章に出てくるノアの子孫の名前が古代の民族の名前と地名、都市名などにそのまま残っており、それが今日まで伝えられているという事です。
 
まず、ヤペテの子孫を見てみると、彼らは今日ヨーロッパ民族の祖先になったと言います。ところが、ヤペテの息子の中でゴメルの名前が、現在でもフランスとスペインの地名の中に痕跡として残っているそうです。またゴメルの息子の中にアシュケナズという名前がありますが、これは今日のドイツを称するヘブライ語の名称です。これを通して、ヤペテの息子の中で、ゴメルの子孫が今日、フランス、スペイン、ドイツを形成している民族と関連があるということを知ることが出来ます。

次に、マゴクという名前はエゼキエル38:2「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、」と言われた言葉のように、その名前が地名としても使われていますが、有名な歴史学者ヨセフスの記録によると、ギリシャ人はここマゴグの地に住んでいた人々をスキタイ人と呼んだそうです。今日のルーマニアやウクライナを含む地域の古代の名前がスキタイでした。これはすなわち、マゴクの子孫が今日ルーマニアとウクライナに住んでいる民族と関連があるという事を証しています。

また、ヤペテの息子の中でトバルという名前も、その名前から派生したトリリッシュという言葉が、今日、旧ソ連連邦のグルジア(ジョージア1991独立)地方で地名として使われているそうです。そして、ヤペテの息子の中でメシェクという名前はモスクワの昔の名前であり、現在もその周辺地域の中には依然としてメシェクの名前にちなんで呼ばれているところがあるそうです。このほかにも、ヤペテの息子の中で、ヤワンとその息子たちはギリシャ、ティラスは今日のユーゴスラビアと関連があると言われています。このようにヨーロッパのあちこちには、今日までヤペテの息子たちとその子孫たちの名前があちこちに痕跡として残って伝えられているという事です。

次に、ハムの子孫について見てみると、彼らは今日のアフリカ民族の先祖になりましたが、ハムの息子たちの中でクシュという名前はエチオピアを称するヘブライ語であり、ミツライムはエジプトを呼ぶヘブライ語です。創世記50:11に見ると、「その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ。」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。」とありますが、ここでアベル・ミツライムという言葉は「エジプトの哀痛」という意味でミツライムがエジプトを指していることが分かります。また、ハムの息子の中でプテはリビアを称するヘブライ語で、カナンは後にローマ人によってパレスチナと呼ばれた地域のヘブライ式の名前です。パレスチナという言葉は今日までも使われています。このようにハムの息子たちの名前も歴史的な記録だけでなく、今日までもその痕跡がそのまま残っていることが分かります。

次に、セムの息子の中にエラムがいますが、エラムはペルシャの昔の名前で、ペルシャはまさにイランの古い名前でもあります。また、セムの息子アシュルはアッシリアのヘブライ語であり、アラムはシリアのヘブライ語です。このように、セムの息子たちの名前も地名や国の名前にその痕跡がそのまま残っているという事実です。これは、まさにノアの子孫が確かに歴史が証明する実存の人物であったことを証明するもので、言い換えれば、ノアも実在の人物であり、聖書に記録されたノアの洪水も明らかな歴史的事実であったことを物語っているのです。

神様は、このように、ノアの子孫の名前が歴史の記録を通して随所に残るようにすることで、創世記10章に出てくる人々の名前が実際であり、創世記10:32「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系であ。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」とおっしゃったとおり、まさに彼らを通して世界中の多様な国と民族を成すようになったという事を立証しているのです。

ところで、皆さんが知っておくべきことは、ノアの3人の息子たちから生まれた子孫が、必ずしも聖書に名前が記された人々だけがいたわけではないという事です。聖書に記録された名前は息子の名前だけ記録されていますが、この息子たち以外にも当然娘たちがいました。また、創世記10章では、ノアの3人の息子から生まれたノアの孫の名前はすべて記録されていますが、その次の代からは数人の息子から生まれた子孫の名前だけが記録されています。例えば,ヤぺテには七人の息子がいたにもかかわらず,聖書はその中でゴメルとヤワンを通して生んだ息子たちだけを記録しています。セムも5人の息子がいましたが、その中にアラムとアルバクシャデを通して産んだ息子たちの系図だけを記録しています。これはまさに多くの息子がいましたが、その中で誰を通してその家門の正統の系図が続くのかを知らせているのです。息子たちの中から純粋にその家族の血統を受け継いで、正統の系図を継いだ息子が誰なのかを物語っているということです。

当時は、人々が広がり始めたばかりで、自分たちの純粋な血統だけを引き継いだのではなく、異なる血統とも結びついて子孫を生んで繁栄していきました。例えば、ヤペテの血統とハムの血統が混ざることもあり、ヤペテの血統とセムの血統が混ざることなどがありました。こういう中でも自分の純粋な血統を守った人がいて、まさに彼らを通してその家門の純粋な正統の系図が受け継がれていったのです。

創世記10:5「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」を見ると、ヤペテの子孫がとどまった土地が海沿いの地であったことがわかります。ヤペテはその父であるノアが「神がヤペテを広げ」と祝福したとおり、広がっていく祝福を受けましたが、すぐに海沿いの肥沃な土地をもとに繁栄していくことができました。海沿いの肥えた土地を占有して定着することで、強固な基盤をもとに豊かになれる土台となったのです。さらに、ノアの洪水以来、水と船についての知識を積んだ彼らだったので、ヤペテの子孫はこのような知識と経験をもとに迅速に広がっていくことができたのです。

しかし、彼らが本格的に散らばって広がり始めたのは、バベルの塔の事件の後です。バベルの塔の事件をきっかけに、ノアの三人の息子たちの子孫はそれぞれ、その先祖たちによって与えられた祝福と呪いによって、彼らが占めるべき土地に広がっていきます。そしてこのようにして定着した土地の気質と、彼らが先祖から生まれついた気質が合わさって、本格的に今日のような多様な民族と人種に分かれるようになるのです。そして民族ごとに特性が生まれるようになり、人種間にも確実な区分が生まれ、今日に至るようになったのです。


クシュの息子ニムロデ


肥沃で肥えた海辺の土地を占めるようになったヤペテの子孫とは異なり、ハムの子孫は荒涼とした土地を占めるようになります。その代わりに、ハムの子孫は彼の先祖であるハムの気質を受け継いで、他の種族に比べて丈夫になることができ、したがって多くの子孫を出して急速に繁栄していきました。そして大きく三つの民族に分かれます。ハムの4人の息子の中で、クシュを通して形成される民族と、ミツライムを通して形成される民族、そしてカナンを通して形成される民族に大きく分けられたのです。クシュの子孫から形成される民族は、後にクシュの息子であるニムロデを中心に束ねられ、ミツライムの子孫からは後のペリシテという民族が出てきます。また、カナンの子孫からはカナンの様々な諸族が出てきます。

このようにハムの子孫が大きく三つに分かれたとしても、その中でクシュの息子であるニムロデを中心とした民族が最も大きく、強い民族として位置づけられます。そのため、後にバベルの塔の事件を主導することになるハムの種族が集まる時も、まさにニムロデを中心に束ねるようになります。言い換えれば、ハムの子孫の中にニムロデという人物がいたため、彼を中心にハムの子孫が集まってバベルの塔の事件を謀議することができたのです。さらに、バベルの塔の事件には、ハムの子孫だけでなく、ヤペテとセムの子孫も関与することになりますが、これは当時それだけでなく、ハムを中心とするハムの子孫の勢力が強大だったことを物語っています。

ニムロデを中心とするハムの子孫が主導することに他の種族も一緒にするしかないほど、当時のハムの子孫は強く、周辺の広い領域まで影響力を行使したのです。もちろん、次の時間に詳しく説明しますが、ハムの子孫がバベルの塔を建てようとした目的と、ヤペテやセムの子孫がバベルの塔を建てようとした目的とは異なっていました。しかし、ハムの子孫が主導することに、他の兄弟の子孫が知らないふりをすることはできなかったのが当時の状況だったということです。では、バベルの塔の事件はノア洪水以後、どのくらいの年月が経って起こったのでしょうか?バベルの塔の事件が洪水の後三代か四代か程後に起きたとする、正確な時点が25節に記録されています。

創世記10:25「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたらである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。」エベルは二人の息子を産み、一人の名前をベレクと呼びました。彼の時代、地が分かれました。ここで「彼の時代に地が分けられたからである。」と言われた御言葉が、まさにバベルの塔の事件によって、ノアの子孫の族属が散らばったことで、地が分けられるようになったことを意味します。このように地が分けられるときに、エベルが生んだ息子の名前がペレグだと言ったので、ノアの息子セムが生んだアルパクシャデが1代、アルパクシャデの息子シェラフが2代、シェラフの息子エベルが3代、エベルの息子ペレグが4代 として、洪水以後正確に4代目に達し、バベルの塔の事件が起きたことがわかります。

次の時間からは、バベルの塔の事件の詳しい説明が出ていきます。また、バベルの塔の事件の前は、全地全体の口音と言語が一つと言っていましたが、果たしてその言語はどんな言語であり、このように一つだった言語がどのように分かれるのかについても説明することになるでしょう。そして、バベルの塔の事件の前に一つだった言語の痕跡が今もどこかに残っているのかについても説明したいと思います。

 


結論


創世記10章はこれから続くバベルの塔の事件を説明するための背景になります。ノアの三人の息子たちの子孫がどのように広がり、後日バベルの塔を建築するかが創世記10章の中に間接的に暗示されています。ハムの子孫ニムロデに対する言葉やセムの子孫ベレクの時に「地が分けられた」とおっしゃったことばなどが、まさにバベルの塔の事件を暗示する内容です。呪われた民族という劣等感を持っていたハムの子孫たちがニムロデという指導者を中心に団結して洪水以後4代の頃になって、結局神様に対抗する事件を起こすことになったのです。

太初(天地のひらけた初めの時)以前、霊の世界で反乱事件が起きた時も竜の主動勢力があり、彼らが長年にわたって自分たちの支持勢力を一つに集めて神様に対抗したように、ハムの子孫も呪われた後、一気に神様に対抗したのではなく、それなりの力が生まれるまで待ってからバベルの塔の事件を起こしたのです。今日、分裂や争いが起きている教会でも、これと似たような状況が展開されます。良くない心を抱いている主導者を中心に同じ考えを持った何人かが集まるようになり、彼らがある程度時間をかけて自分の勢力を一つに集めて、今はある程度自分たちの勢力が集められたと判断できる決定的な瞬間に本音を行動で表わすのです。ニムロデを中心とするハムの子孫がまさにこのような状況だったということです。

また、創世記10章の内容を見ると、バベルの塔の事件に対する暗示だけでなく、将来のセムとハムとヤペテの子孫の関係がどうなるかについても輪郭が明らかになります。セムの子孫として、後日神の選民に選ばれるイスラエル民族と、呪われたハムの子孫として生きていく民族の間で、これから起こる出来事についても暗示されています。将来のすべてをご存知の神様は、創世記10章を通して将来明らかになる父なる神様のご意志と摂理のためのすべての環境を造っておかれていたのです。セムの子孫であるイスラエルを選民として選択し、彼らを訓練する道具として、彼らの周辺に他の民族を定着させたので、サムエル第二7:14「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」とおっしゃったように、まさにイスラエル民族の周辺にいる異邦民族がイスラエルを訓練する杖とむちになったわけです。

これは今日も同じです。「周辺に迫害や妨害がなければ良い」と考えることもできますが、神様は私たちを真の子どもにするために、時にはいろいろな環境を許すことで、その中で訓練を受けて、純金のように出てくるようにされるのです。また、「私の周辺にヤギのように刺す人さえいなければ良い」と思う方がいるなら、まさにその人を皆さんのそばに置いた神様の摂理に気づいてください。しかし、皆さんは他人を刺す道具である杖や鞭になってはいけません。刺して殴る杖や鞭ではなく、やさしく包み込むことができる綿毛のような皆さんにならなければなりません。ですから、皆さんはいつも「自分自身が他の人を刺す人ではないか?」と振り返って自分を点検していくことを願い、また皆さんの周りに皆さんを刺す人がいるなら、むしろそれを感謝の気持ちで受け、皆さんを綿毛のように変化させる機会にしてください。それで、迅速に神様が望む美しい器に変化して出てくることを主の御名でお祝いします。

朝の学び87 創世記9章  

創世記9:24-29
ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

ハムの子孫、ニムロデ

このように呪われ、ますます神様から遠ざかるようになったハムと、このようなハムの気質を受けて生まれた子孫たちは、以後三、四代に至り、多くの子孫たちに広がっていきながら、神様に対抗する途方もない事件を起こしてしまいます。創世記11章に出てくるバベルの塔の事件です。次の時間からもう少し具体的に説明しますが、ハムの子孫の中にニムロデという人がいますが、彼を通して建てられた国が創世記10:10に見ると、「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。」とあります。シヌアルという地名とバベルという言葉が出ています。ところが創世記11章を見ると、バベルの塔が積まれているところがシヌアルの平地でした。創世記11:2「 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」
 

したがって、私たちはバベルの塔の事件がハムの子孫と深く関連していることがわかります。もちろんバベルの塔事件には必ずしもハムの子孫だけ関与したわけではありませんでしたが、神に対抗するこの事を主動していったのは、ハムの子孫だったという事実です。ハムの子孫たちは呪われた先祖の子孫として、自分たちが呪われたという劣等感によって、むしろ自分たちの部族をひとつに集めて自分たちの優越性を表そうとしました。自分たちがもっと優秀な民族として、自分たちを中心に他の民族を一つに集めてみようとしたのです。自分たちの劣等感を挽回するために何とか力を合わせて他の民族の上に立とうとする悪い考えが発動するようになったのであり、さらには神に対抗するバベルの塔まで建てることになったのです。

そして11章で説明しますが、ここに他の兄弟の子孫から出た民族まで一緒に参加することで、人類の言語が分かれ、ばらばらに広がる人類歴史の一大転機を迎えます。ハムの子孫がこのようにできたのは、ハムの子孫の中で先に申し上げたニムロデという存在があったからです。それに対して、創世記10:8で、「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。」と言うほど、当時ニムロデという存在は非常に優れおり、このようなニムロデの存在によってハムの子孫はそれなりの自負心を持つようになり、自分たちが優越していると考えるに至ったのです。

また、創世記10:10-12を見ると、「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。」に見ると、ニムロデによって様々な国が建てられ、周辺の土地にも広く進出していき、レセンという大きな城までも建築したという事実がわかります。まさにこのような様々な条件が当てはまり、ノアの三人の息子から民族が広がり始めてから、三、四代に至った頃にハムの子孫が主動しバベルの塔を建築する事件が発生したのです。「塔を建てることがなぜそんなに問題になったのか」と考えることができますが、問題は塔を立てること自体ではなく、塔を立てる人々の心と目的です。

創世記11:4に見ると、「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」と言ったのです。これについては11章に行って詳しく説明し、今はしばらく皆さんが気になる人種について説明させていただきます。


ノアの3人の息子による人種の変化 

 今日、この地球上には大きく白色人種、黄色人種、黒色人種がありますが、これも結局ノアの三人の息子たちから出たものです。では、3人の息子たちからそれぞれどんな人種が出てきたのでしょうか。一部の人々は、ノアが呪いをかけてから彼の3人の息子たちから人種が分かれたと言います。例えば、呪われたハムの子孫が黒色人種になったということです。しかし、結果的には、その言葉が正しいとしても、呪われた瞬間からすぐに人種が分かれたわけではありません。前回お話ししたそれぞれの3人の息子たちに伝わった気質と、将来彼らが定着して生きていく土壌の気質が2つの要素によって、次第に人種の変化が明確に現われるようになります。

しかしここで気質というのは必ずしも性格的な面での気質だけを言うのではなく、外見や形態的な気質も含むのです。そのため、例えばハムの子孫が持って生まれた気質的な要素と、彼らが定着して生きていくアフリカという土地の土質の二つの要素が結合され、次第に歳月が経つにつれて黒い肌を持つ人種が出てくるのです。他の兄弟の子孫も同様です。ヤぺテの子孫が受けて生まれた気質的な要素と、彼らが定着したヨーロッパという土地の土質的な要素が結合して、今ヨーロッパに住む人々の人種が出てきます。もちろん、時間が経つにつれて、周辺の様々な環境や食べ物などによって、同じ白人種の中でもさらに細分化され、多様な外見と形を持つ種族に広がっていくようになったのです。人種やバベルの塔に関する内容は、今後、創世記10、11章でもう一度具体的に取り上げられます。

 


結論

皆さん、洪水の後、ノアはさらに三百五十年を生き、九百五十歳で亡くなりました。洪水の前に、義人であり、当世に完全な者として神様の選択を受け、洪水の審判にも生き残り、新しい人類の先祖になったノアは、実に波瀾万丈な人生を送りましたが、彼が人生を終える瞬間、ノアの心に訪れたのは他でもない後悔でした。

洪水前の600年という歳月を生きている間、ある意味神様と明確に交わり同行し、神様の前に大胆にすることができましたが、洪水後350年という歳月を生きている間は、神様の前にそれほど大胆な人生を送ることができなかったためです。根本的な肉の属性が明らかになり始め、いろいろな悪の姿が現れるようになり、神様の前にそれを完全に解決できなかったノアは、もう人生を終えて自らを振り返るときに神様の前に堂々とすることができなかったのです。だからいくら洪水の前に義人であり、当世において完全な者であり、新しい人間耕作の出発点という重要な役割を果たしたにもかかわらず、彼は新しいエルサレムに入ることができませんでした。

彼は3天層の栄光で満足しなければなりませんでした。彼がひどい悪の形を発したり、肉の姿の中でそのような姿が出てきたのではありませんが、人生を終える瞬間、神様の前に悪はすべての形でもすべて捨てたと言える状態ではなかったためです。それでも旧約時代にいた者として、それだけでも成し遂げたという点で、3天層という栄光が与えられるようになったのです。
しかし、3天層もノアにとっては十分すぎるほど大きな栄光の席だったのです。アダムに比べれば、どれほどすばらしい栄光の場でしょうか。

皆さん、「ノアのような方なら当然新しいエルサレムに行くことができたのではないか」と思うかもしれませんが、彼がこの地でいくら重要な使命を耐え、また一生を捧げて献身して苦労したとしても、彼は神様の方から望むほどの分量には 至らなかったという事実です。新しいエルサレムに入るためには、悪は形でも捨てて、完全な聖潔と全家に忠実でなければなりません。あふれるほど苦労して忠実だったとしても、完全な聖潔を成し遂げられなければ、新しいエルサレムはもちろん、3天層に入ることも大変です。

ですから、本当に新しいエルサレムを望む方なら、発見された根本的な肉の属性までも完全に抜いてください。また、与えられた環境の中で、全家に忠実に行ってください。それで、多くの方々が、父なる神様が望む新しいエルサレムの子どもの資格に至ることで、輝いた栄光の中で、永遠にとどまるようになることを主の御名でお祈りします。
 

朝の学び86 創世記9章  

創世記9:24-29
ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

序論

皆さん、酒から覚めたノアは、息子のハムが自分にしたことを知り、それによって息子ハムに対して呪いをかけることになります。本文に見ると呪いの対象がカナンになっていますが、これはハムと彼の子孫の両方に該当するのです。


セムとハムとヤベテの祝福と呪い

創世記9:18にハムをカナンの父と記録しているように、ハムには多くの息子がいたにもかかわらず、彼を特別にカナンの父と記録したことは、ハムの種族の正統性を将来、息子カナンが引き継ぐことになるという事を物語っています。まるで複数の子どもを持つ父親がいると言う時、人々はたいてい長男の名前を挙げて「○○の父親」と呼びますが、それよりは必ずしも長男でなくても、子供たちの中で非常に優れているか、出世して家門を代表して引き継ぐほどの子供がいる時は、むしろその子供の名前を挙げて「誰々の父親」と呼ぶようなものです。ハムの種族も息子の中でカナンが系図の正統性を続け継いでいく息子だったので、結局このようにハムの正統性を受け継いだ息子であるカナンに対する呪いは、 すなわちハムの種族全体に対する呪いのようなものです。

そして、この呪いによってハムの種族は霊的にはもちろん、肉の秩序上においても兄弟の中で最も低い位置に置かれています。「兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」と言ったので,ハムの種族は将来人類の歴史において他の兄弟の種族と比較すると、しもべのような位置にしか立たなくなります。人類の歴史を導いていく上で、主役の位置に立つことができないまま、ただ周辺人物としてしか役割を果たせない立場になったのです。

一方、息子セムとヤベテには祝福の言葉が宣言されます。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」と言いました。この御言葉の中には、将来ノアの三人の息子たちを通して広がっていく子孫たちが、果たしてお互いにどのような秩序関係を持つようになるのかが込められています。セムに対しては、「ほめたたえよ。セムの神、主を。」という保証と祝福が与えられており、これを通してノアの正統性を息子セムが受け継ぐことになるという事実もまたわかります。次に、ヤペテについては、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」とおっしゃったとおり、ヤペテも多くの繁栄と祝福があることがわかります。

 

しかし、セムのように正統性を受け継いだ一つの主体として祝福を受けるのではなく、その祝福がただセムの幕屋に一緒に居ながら与えられることになるという事です。したがって、ヤベテが祝福と繁栄の約束を受けて壮大に伸びていくことはできますが、結局ヤベテも神様の側から見る時は、人類の歴史の中心にいることはできないのです。それはまるでロトが大きく祝福を受けることができたのが叔父であるアブラハムの中に居たためだという事と同じ理屈だと言えます。

一方、カナンはこのようなセムとヤベテのしもべになると言っていましたが、これは実際に後日セムの子孫であるイスラエル民族によってカナンの地が征服されてから行われます。当時、カナンの地に住んでいたカナンの子孫たちが、次々にイスラエル民族によって征服され,彼らのしもべになってしまったのです。また、ハムの子孫である今日のアフリカの様々な種族も、過去の歴史の中で、ヤペテの子孫であるヨーロッパの種族によって奴隷として多くの受難に遭わなければなりませんでした。しかし、カナンがセムやヤペテのしもべになるということには,このように直接的に僕になるという意味とともに、彼の子孫が将来、不毛と苦痛と迫害の中で生きていくという意味が込められているという事です。

そして実際、今のアフリカの種族の多くは、飢餓と苦しみと迫害の中に生きており、かつてカナンの地を征服して生きたハムの子孫も、イスラエル民族によって追い出されるようになってからは、イスラエルによって主導される歴史の流れの中で、苦痛と迫害を 受けながら生きていくようになります。もちろん、神様が赦されるときには、彼らによってむしろイスラエルが苦痛を受ける時もありましたが、結局神様が導いていかれる人間耕作の歴史において、ハムの子孫は決して主体になることができず、付随的な役割しかやり遂げられないのです。僕 奴隷 とは支配されるという意味であり、自分のものはなく、すべてを放棄して渡すしかない立場なので、ハムの子孫は歴史の流れの中でそのような立場に置かれるようになったのです。

たとえ霊的な権威の中ではなくても、当時の肉的な秩序の中で、神様から保障される権威を持っていたノアの一言が、このように後日、人類の歴史の流れを決定づける契機となったのです。私たちはノアの場合を通して、権勢というものがそれを所有するよりも、使用することがはるかに重要であることを知らなければなりません。権勢とは、それを持つ人によってどのように使うかによって、いくらでも善の道具になることもあり、逆に人を苦しめる道具になることもあります。権勢が真理の中で美しく使われるならば、それは多くの人を生かして喜ばせるが、非真理として誤って使われると多くの人を苦しめ、苦痛の中に陥れるかもしれません。
     

箴言29:2「正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。」と言いましたが、皆さん自身は自分を考えるとき、皆さんが権勢を握れば民が喜ぶでしょうか? それとも、民が嘆くのでしょうか?権勢とは、握って振り回す時ではなく、むしろ仕えの道具として使われるときに、本当にその価値が美しく輝くという事実です。ですから、神様の息子になった権勢を持っておられながらも、ただ仕えの模範を見せられたイエス様のように、皆さんもやはり自分に与えられる小さな権勢でも、仕えるための美しい道具としてご使用いただきますよう、主の御名でお願いいたします。


非真理の道に陥るハムの子孫

ノアから呪いを受けたハムは、以後ますます心が神から遠ざかっていきます。根本に内在する肉の属性が出てくるからでもありますが、呪いが宣布されてからは、彼の考えがますます父から受けた教えとは遠ざかっていったのです。これは、まるである子どもが大きな過ちによって、「自分はもう父親から捨てられ、自分の将来もやはり見こみがない」と考えるときに、むしろますます両親の言うことも聞かなくなり、非真理の道に陥っていくようなものです。 

サウル王の場合を見ても、彼は自分の過ちによって神様が自分を捨てたという事実を知ったときに、徹底的に悔い改め振り返ろうとするよりは、弁解することに汲々とし、その後はむしろさらに悪しく、神様の御心に対抗していったことが分かります。むしろ彼を王として油を注いだサムエル預言者まで、サウルを恐れて避けたのを見ることができます。ハムの父であるノアから呪いの言葉が届くと、何とか父の心を変えようとしたのではなく、むしろ父の意志に敵対する方にだけいってしまったのです。 

このような姿は今日でも見られます。例えば、ある人が神の御前に大きな罪を犯したときに、神様が誰かの唇を通して、そのような罪の結果がどのようなものかを悟らせてくれる時があります。その言葉を聞いて悔い改め、立ち返ることを望んでいるのです。それなら、この時、そのことばが自分に当てはまると思う人は、当然その場で悔い改め振り返って、神様の御心通りに行っていかなければなりません。ところが、このような場合、ある人は自分の考えの中で「私はもう赦されないようだ」「私には呪いが臨む」というように断定してしまいます。そうしながら悔い改めるよりは、自暴自棄になって、ますます深い罪の中に落ちていきます

これはまさに神様の愛を知らないからです。私たちの罪を赦してくださるために、一人子の息子までも与えてくださった神様の愛、七度を七十倍するまで(マタイ18:22)赦して、いたんだ葦を折らず、くすぶる灯心を消すこともない(マタイ12:20)主の愛を心から感じることができないからです。本当にこのような主の愛を感じる人なら、主が罪を指摘し悟らせてくれた時に、たとえ今の自分の姿によって主の前にあまりにも恥ずかしくても、再び主の前に進み許しを求めるでしょう。しかし、このような愛の心を感じられないときは、主の前に再び進む力さえ得られないまま、自らに対してあきらめてしまうのです。

ハムの場合も同様です。もちろん、ハムに下された呪いは人間耕作の摂理の中で起きた事件でしたが、ハムがもう少し神様の愛を感じる人だったら、なんとか神様の前にへりくだって、自分に下された呪いを収めようとしたでしょう。また、父ノアの心を解きほぐすために以前よりもずっと努力したはずで、そうしてどうしても自分に下された父ノアの呪いを、引き抜こうとしたでしょう。しかし、ハムはそうすることはできませんでした。むしろ、ますます父ノアの教えから遠ざかっていったし、これは結局、神様からも遠ざかる結果を生みました。ハムが本当に兼ね備えた心で、神様と父ノアの前に進んで悔い改めたら、他の結果が出ることもできたはずでしょう。このように、同じ状況でどんな心を持つのかがとても重要だという事です。

イエス様が教えてくださった主の祈祷文を見ると、マタイ6:12「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という内容が出ています。人が主を受け入れて以来、二度と罪を犯さなければいいのですが、ほとんどがそうすることはできません。そのため、罪を犯した後は、神様の前に悔い改めることになります。「私がこのような罪を犯したのですが、父なる神様、赦してください」と言います。ところが、この時、このような祈りを捧げるためには、主の祈祷文の内容のように、私が先に私に罪を犯した人に対しても赦さなければならないという事です。私に罪を犯した人、私がひどく嫌いな人や憎い人がいるなら、そして彼を赦さずに「神様、私の罪を赦してください」と言ったら、神様が赦さないということです。自分自身に罪を犯した人を赦さずに、私の罪を神の前に赦されたいのなら、神様はこのような人に何と言われますか。心に少しでも善良な良心があれば、私に罪を犯した人を赦さずに、私は神様の前に私の罪を赦してくれとどうしても祈ることはできません。 

しかし、私に罪を犯した人を赦す人は、たとえ神様の前に罪を犯した時も赦しを求めることができる大胆さが与えられます。ここで、大胆さとは、罪を犯しても堂々とできるという意味ではなく、神様は私が中心から悔い改め、たちかえったときに、必ず私の罪を赦してくださる愛の神様であることを、心から明確に信じるために来る大胆さです。しかし、他の人が私に犯した罪を赦さない心を持った人は、私の罪を赦してくださる神様の愛についても心に確信が持てません。自分の心にそのような愛が臨んでいないため、罪を赦される神様の愛の心も、やはり自分の心に届かないのです。反面、私の心に他人の罪を赦すことができる少しの愛と赦しの心でも持った人は、神様の愛もやはり心に響くので、たとえ罪に対しては恥ずかしくて申し訳ありませんが、それでも神様の前に出て赦しを祈ることができるということです。

一例を挙げてみましょう。ある家庭で親の愛を全く感じない子どもがいるというときに、このような子どもは、親の前にある大きな過ちを犯した場合、ほとんど親に打ち明けながら赦しを得ることが出来ません。これは、両親が自分の過ちを赦してくれるという確信がないからであり、それはまさに自分の心の中にも、誰かが自分にそのような過ちを犯した時に彼を赦してあげる愛の心が臨んでいないからです。しかし、親の愛を濃く感じる子供がいれば、彼はたとえどんな過ちをしたとしても、親に打ち明けて赦しを請うことができます。自分が悪いことをしたのは申し訳ありませんが、自分の両親は自分の過ちを赦してくれるだろうし、これからもっとうまく出来るように導いてくれることに対する確信があるからです。そして、このような心を持った子供なら、彼は他の人が自分に同じ過ちをしても寛容に赦す心になれます。このように、私の心に赦しの心があり、私の心に愛の心がある人であってこそ、神様のその大きな愛と赦しの心に対しても、本当に心から感じることができるという事です。

朝の学び85 創世記9章  

創世記9:18-29
箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

 

保証されたノアの祝福と呪い

 ここで重要なことは、ノアがたとえ自制できない中で出した言葉だとしても、彼の言葉が絶対的に保証されたという事です。そしてノアの言葉がこのように保証された理由は、彼に与えられた権威によるものです。ノアは洪水以来、自然にすべての人々の上に秩序上の一番の頭として立てられるようになり、彼には自然に頭になった権威が与えられるようになります。洪水の後にこの地の秩序を維持し、神様の意思に従って人類が繁栄していくためには、肉的にも秩序が立てられなければならず、その秩序に従って権威が従わなければならなかったのです。肉の空間になってしまったこの世界を維持するには、肉的な秩序と権威もなければならなかったのです。

一つの家庭を例にあげると、親と子供の間にも肉的な秩序と権威が維持されていない場合、その家庭は正しく維持することができないように、すべての組織や集団でも同じです。もちろん、主の中では霊的な秩序がより重要ですが、だからといって肉的な秩序が無視されてはいけません。それで、ローマ13:1-2では、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」と言っています。

ノアにもまさに肉的な秩序に従って神様は権勢を与えてこれを保証してくださったのであり、結局ノアの言葉にも保証が伴ったのです。しかし、いくらノアの言葉を保証してくださっても、その言葉がまったくふさわしくないときは、公義の法則に従ってその言葉が保証されることはありません。ノアがたとえ完全でない姿の中で息子ハムを呪ったとはいえ、このようなノアの呪いがそのまま臨むことができたのは、その言葉が保証される環境と条件になったからです。まさにハムにもそれだけの過ちがあったからこそ呪いが臨むことになったということです。もしハムに何の過ちもなかったなら、公義の法則上、ノアがどんな呪いをしたとしても、それが臨むことはできません。

 

箴言26:2「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」と言われたように、公義に照らしてみるとハムにも父親の過ちを表わして伝えた大きな過ちがあったからこそ、ノアの呪いが彼に臨むことができたのです。愛する聖徒の皆さん,ノアは肉的な秩序上で与えられた権勢を持っているだけにもかかわらず、彼の一言は公義の法則に従って正確に臨んだことが分かります。まして、霊的な権勢を持った人の言葉は言うまでもありません。それも神様から完全に保証される次元に入った人の言葉は決して一言も地に落ちません。

これはエリシャ預言者の場合を見てもわかります。列王記第二2:24に見ると,「彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」とあります。エリシャ預言者が自分をからかっていやがらせをする子供たちを呪うと、その呪いがそのまま臨んでしまったのです。ある意味でひどいと思うほど恐ろしい呪いがかかってしまったのですが、その呪いが臨むことができたのは、子どもたちの側にも明らかな過ちがあったからです。すでに子供の行動とはいえないほど、線を越える悪い行動だったので、エリシャ預言者の呪いが臨む環境と条件が形成されました。

もちろん、エリシャがもっと完全であったとすれば、このような厳しい呪いの言葉は出てこなかったでしょうが、権能で保証された預言者の口から一旦出てきた言葉であり、それが公義の法則にも合致したため、このように保証されて出てきたという事です。このように申し上げると、もしかすると「神の人々の口から出た言葉も公義の法則に反して成就しないこともありうる」と考えてはいけません。もちろん、公義の法則に合わなければ、神の人の言葉でも成就しませんが、本当に神の人なら公義の法則にふさわしくない言葉は決してしないという事です。

ですから、神様が権能を誰にでも与えられるのではありません。権能を受けるにふさわしい霊の次元に入ってこそ初めて権能が与えられるという事です。このように完全な霊の次元に入ってきた人は、決して私利私欲に帰する唇の言葉を出したり、公義に反する言葉を出さないでしょう。もし神様がまだ完全でない人に権能を与えられるならば、その人は時に私利私欲にかられる言葉を出すこともできるし、または公義に適さない言葉も出すことができるでしょう。では、このような場合、神様はどうしますか。公義の神様は彼の言葉を保証することができません。神様が権能を与えて、彼を保証してくださる理由は、これを通して人々に神様を信じさせるようにしようとすることですが、このように権能を受けた人が保証されないことが生じれば、これはむしろ人々に神様を信じられないようにさせることもあるためです。

それゆえ神様は権能を受けた人は決して公義の法則から外れるはずがないので、100%保証して下さるということです。ですから、権能を行う人がいるなら、彼はすでに神様が公義の中で保証してくださったことなので、彼の言葉はどんな場合にも保証されるという事実を知らなければなりません。そして、これと共に皆さんが知っておくべきことは、意味もなく言った一言でも、それが敵である悪魔サタンの罠になりうるという事です。世の中にも言葉が種になるという言葉がありますが、主の中でやはり皆さんがどんな言葉を出すかによって全く違う結果が出ることがありますよね。私たち万民の聖徒なら、世の中でよく使われる、大変だな 、疲れた、死にそう、このような表現は使わないと理解しています。それで世の中では簡単に出している一言ですが、主の中では、このような否定的な表現によって敵である悪魔サタンに訴える種を与えるのです。唇の告白のように心から認めるようになり、それは敵である悪魔サタンに試練の種をもたらす原因になります。

例えば、子どもが言うことをきかないといって、「お前はなぜそんなに言うことをきかないの?どうしてそんなに親を悩ませるの?大きくなったら何になろうとするの?」このような言葉だけをよく聞かされる子供たちは、「私が大きくなったら何になれるだろうか?」と考えるようになり、それが子供の心にも植えつけられるだけでなく、言葉が罠になってそのまま実現されることを知らなければなりません。 

ヨブ記を見ると、ヨブも神を恐れて悪から離れた者でしたが、その心にいつも子供たちに対して否定的で恐ろしい心を持っていたので、結局はその恐れが現実に臨むようになったようにです。したがって、皆さんは、無益な一言でも、それに対して最後の審判の日には必ず神様が尋ねるという事と、皆さんが思わず言った言葉でも後で実になって帰ってくることがあるという事を肝に銘じて、一言一言にもっと慎重を期してください。ノアがまさに霊に目覚めていて、このような事実を肝に銘じていたなら、決して子供にそのように悪い呪いの言葉を言わなかったでしょうが、すでに彼が一度出した言葉には、彼に与えられた権勢に対する保証によって、後日そのまま成就してしまったという事です。

セムとヤぺテに与えられた祝福

ところが、父の過ちを伝えたハムに呪いの言葉が宣言されたのとは逆に、ハムの言葉を聞いても、父の過ちを見ず、むしろ裸を覆い隠したセムとヤぺテには祝福の言葉が宣言されます。創世記9:26-27に、「また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」と言っています。この言葉は、洪水以後、獣の間でも弱肉強食の法則によって序列が決まるように、人間関係の中でも序列が決まる契機となります。将来、ノアの三人の息子から生まれた種族の間に、どんな肉の秩序関係が成立するのかを知ることができる言葉です。どんな先祖から出た種族が栄えて支配層となり、どんな先祖から出た種族が被支配層になるのかが本文に出ているのです。

創世記10章に記されているノアの3人の息子たちの系図を基に、学者たちは今日、全世界に広がっている人類がノアの3人の息子たちの中でそれぞれ誰から始まったのかを次のように説明しています。まず、ヤペテは今日のヨーロッパ民族の先祖になったそうです。次にハムは中東諸国とアフリカ民族の先祖になったと言います。そしてセムはノアの後を継いだ正統の系図)としてアジア各地に広がったそうです。それで宗教がほとんどアジアから出てくるのを見ます。それでは、果たしてノアの三人の息子たちの間にどんな秩序関係が築かれたのかについては、次の時間に続いて説明するようにします。

結論

ある方々は肉的な困難の中にいるとき、切実に神様を探してすがって祝福を受けるのですが、肉的な困難を免れて平安を味わうことができるようになれば、ややもすると前に熱かった信仰が冷める場合を見ることがあります。そうなると、少しの間、訪れてきた肉的な安らぎは再び水の泡のように消えてしまいます。ですから、私たちが追及しなければならない平安はまさに霊的な平安です。霊的な平安なしに来る肉的な平安は、いつ消えるか分からない霧のようなもので、霊的な平安がなければ、真の肉的な平安にも至ることができません。 

では、霊的な平安はどうやって来るのでしょうか。まさに自分の魂が幸いになるほど与えられます。そして、このように霊的な平安が与えられる時に、肉的な平安もしたがって臨むことになります。ところが、ノアは肉的な平安に酔い、本当に追求すべき霊的な平安を成し遂げることができませんでした。なぜですか?洪水の前とは異なり、洪水の後、ノアは当時の人々の間で最も頭として高い立場に立つようになりました。そして自分が望むものを取っていく権威もありました。これにより、ノアは自分の姿を自ら発見できなかったのです。

これは今日も同じです。仕える立場にいるときは、熱心に他の人に仕え、忠誠を尽くした人が仕えられる立場に立つと、いつの間にか仕えられたいとする姿が出てくるのを見ます。指摘を受けたいと兼ね備えた心から、今は他人を指摘して教えようとする心になります。これは決してなかった姿が出たものではありません。心に潜在していた姿が環境と条件になって出てきたのです。そのため、以前は人々と平和でしたが、むしろ平和が破れて、あれこれ音がするようになります。そうしながら心の訓練も受けることになります。

この時、霊で目を覚まして祈る人は、しばらくこのような姿が出てきたとしても、聖霊の働きの中に自らの姿を発見し、すぐに変化するために努力します。こういう人にとっては、この時間が自分自身を発見し、より霊に変化する貴重な訓練の時間になるのです。しかし、ある人々は長年にわたって自分の姿を発見できないまま訓練の中で苦しんでいる場合もあります。皆さんはどんな姿になりますか?皆さんは、神様が時々許されている訓練の中で、捨てなければならない悪の姿を発見して捨て、迅速に霊に変化されることを願います。このような方には、ふいごが金をより貴くするように、訓練もまた皆さんをさらに輝いた宝石にしてくれるでしょう。このように貴重な訓練を通して、根本に内在した悪の形までも迅速に発見して捨て、まさに金のように出て、新しいエルサレムの輝かしい栄光を味わうことができますように主の御名でお祈りします。
 

朝の学び84 創世記9章  

創世記9:18-29
箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

 

序論

私たち人にはそれぞれ気質というものがあります。辞書で見ると、気質とは個人や集団の特有の性質だと定義していますが、例えば個人なら、彼が親や先祖からどのような気と性質を受けて生まれたかによって、その人の気質が決まります。また、集団もその構成員がどんな人たちかによって、その集団だけの特有の性質である気質が出てきます。もちろん、同じ集団内の構成員だとしても、すべての人にこのような気質が同じように適用されるわけではありませんが、それでも人々が普遍的に受け入れる集団だけの気質が存在するのです。このように個人であれ集団であれ、彼らの気質を決める上で最も大きな影響を与えるのが、祖先から伝わる気質です。 どんな気質を持った祖先から始まったのかによって、その子孫から現れる共通の気質が異なるのです。このように民族ごとに異なる気質を持つようになった出発が、まさにノアの三人の息子からだったという事です。


ノアの三人の息子による民族の気質 

ノアの洪水以後、根本の肉の属性が明らかになると、ノアの三人の息子からもそれぞれの気質が出てくるようになります。もちろん洪水以前にも祖先から伝わる気質が現れましたが、根本の肉の属性が現れ始めた洪水後からは、その中に内在していた気質が本格的に現れ始めたのです。それで、同じ親から生まれた息子たちですが、セムからは穏やかな、おとなしい気質が、ハムからはせっかちな気質が、またヤペテからは何かを取ろうとする気質が強く表れ始めます。そして、このような三人の息子の気質は、将来、彼らを通して生まれる民族の気質としてそのまま伝わってきます。今日、この地球上に存在する多くの民族を見てみると、その民族なりの気質が存在するのを見ますが、これがまさにノアの三人の息子の中で誰から始まった民族なのかによって、その民族の根本に敷かれている気質が決定されたということです。

穏やかな気質を持ったセムの子孫なのか、それともせっかちな気質を持つハムの子孫なのかによって、その子孫の気質に差が出るのです。それで、ある民族は従順な民族性を持ち、またある民族は好戦的で荒々しい民族性を持つこともあります。もちろん、穏やかな気質を持ったセムの子孫であっても、これらのセムの息子の中でどの息子を通して生まれた子孫なのかによって、その気質がいくらでも変わることもありますが、民族全体の内面に潜在している気質には、その民族がどのような祖先から始まったのかが大きな影響を与えるという事です。

これは家庭でもわかります。たとえば、ある家庭に複数の子供がいるときに、その子供たちに見られる共通の気質があります。まさに親から共通して伝えられた気質です。しかし、同じ親から生まれた子供たちでも、それぞれ一人一人からは、同時に自分だけの特別な気質が存在することがわかります。同じ親から伝わった共通の気質もありますが、一方で、それぞれの個人により強く現れる自分だけの独特の気質もあるということです。ノアの3人の息子から広がった民族も、このような両面的な要素が結合され、今日のように多様な気質を持つ様々な民族に分けられるのです。それで、広範囲に見ると、共通の気質を持った集団だとしても、それらをもう一度細かく分けてみると、また彼らだけの独特の気質を持った数多くの集団に分けられ、逆に独特の気質を持った複数の集団が時には一つの共通の気質を発揮することもできるのです。

例えば、韓国だけを見ても慶尚道の人と全羅道の人、忠清道の人、このように、その集団の構成員によって独特な気質が現れることがわかります。しかし、このように韓国の中では、地域によって区別される気質を持っていても、韓民族というより広い集団から見ると、韓民族だけが持つ特別な気質があります。これは日本も中国も同様であり、日本人も彼らなりの気質があり、中国人もそれなりの気質があります。そのため、外見は似ているように見えても、このような気質によって韓国人と日本人、中国人が互いに区分されるのです。このように、人類の新たな先祖となったノアの三人の息子から伝わり始めた気質は、後代に出てくる数多くの民族の気質に大きな影響を与えるようになりました。

ノアの肉の気質とカナン人に与えられた呪い

本文18節によれば、ノアの三人の息子の中で特にハムについて「ハムはカナンの父である。」と述べていますが、これを通して私たちは将来カナンと呼ばれる民族が先祖であるハムの気質をもって生まれるという事実が分かります。カナンはハムの息子たちの一人の名前で、創世記10:16-18を見ると、彼を通してエブス人、エモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。そしてこれらの民族は、将来出エジプトしたイスラエルの民が約束の地カナンを占めるために、その地から追い出さなければならない代表的な異邦族になってしまいます。今後説明しますが、父親のノアから呪われたハムの子孫であるカナンは、後日、神様を離れた異邦民族の中にあって、選民イスラエル民族との関係の中で果てしない対立と反目を重ねることになります。これらすべてが、まさにハムの気質とその気質によってもたらされた悪行の結果として、その後代に起こったことです。

3人の息子たちの説明はしばらくしてから再びすることにし、続く本文20-21節に見ると、「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」とあります。ここで最初に農業を始めたということは、洪水後の生活がある程度安定したということを意味します。一箇所に定住して農業をするほど安定した生活が可能になったということです。ところがこのように生活が安定すると、むしろノアは以前はすべてのことを全面的に神様に依頼し、神様を恐れていた心から、今は自分中心の人生に変わっていきます。また、以前の敬虔で誠実だった姿からますます遠ざかっていきます。彼が葡萄酒に酔って裸のままだったということが、まさに当時のノアの人生がどうだったかを断面的に表わしている姿です。この一つの姿を通して、彼の他の人生も、どれほど以前とは違った姿に変わっていたのかがわかります

洪水が終わって間もないにもかかわらず、すでに多くのことから心に節制ができず、敬虔でない姿に変わっていったのです。根本の肉の属性が明らかになり、内在していた気質が様々な姿で現れるようになったのです。神様を意識し、神様だけを考えて生きている時とは違って、自分中心になって、自分が一番の頭だという意識が生まれ、他の家族の上に君臨しようと思います。自分が頭だという考えから、他の人の顔色をうかがうこともなく、自分の心に望む通りにすると、結局、自制もできなくなり、心から出てくる肉の気質が非真理の姿で現れるようになります。

第一テサロニケ5:3に、「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」とあります。もちろん、この言葉は将来主が再臨するときにこの世がどうなるかをおっしゃったことですが、私たちは常に肉的に平安だというときに、思わぬ試練が来る可能性があることを知らなければなりません。肉的な平安が精神的なゆるみにつながる時、まさに敵である悪魔サタンの目標になるのです。ですから、わたしたちは,主の中で当然霊肉間に平安を受けながら暮らさなければなりませんが、霊的にはいつも目を覚ましており、敵である悪魔サタンの策略に対して対峙することができなければなりません。

続く22節以下を見ると、息子のハムが父親ノアの裸を見て、二人の兄弟に告げる場面と彼らの行いが出ています。ここでも息子たちの気質の違いを感じることができますが、ハムはせっかちな気質によって悪い行動が出てきます。もう一度考えて慎重だったら良かったのですが、そうではなく心で望む通りに行い、ついに取り返しのつかない道に向かってしまいます。酔いが覚め、息子のハムが自分に行ったことを知ったノアは、本文25節「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」と、途方もない呪いの言葉を口から出してしまったのです。

ノアの呪いは、ハムの息子たちの中でカナンだけに該当するのではなく、ハムとその子孫の両方に該当するもので、この呪いによってハムの子孫は大きな苦痛の中で生きていくことになります。もちろん、ハムが子どもとしての道理として、父親に対してしてはならない行動をしたのは事実ですが、この時、ノアがもう少し純然としていたら、この呪いの言葉は言わなかったでしょう。これはまさにノア自身にも自らを節制できず、性急に行ってしまう気質があったことを示すものであり、このような気質がその息子たちの中にハムに伝えられ、結局はハムも自らを節制できない中で非真理の行動に出てしまったということを物語っているのです。

朝の学び83 創世記9章  

創世記9:8-17
神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

神の御座を囲んでいる 虹


聖書を見ると、虹の記録が本文を含めて4カ所にわたって出てくることがわかります。エゼキエル 1章28節に、「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」とあります。まさに主の栄光の姿から出てくる回りにある輝きが、雨の日の雲の間にある虹のようだと言ったのです。

次に、黙示録4:3には、「その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」と言われます。天国の神様の御座を虹が囲んでいることを教えてくれます。最後に、黙示録10:1には、「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」とあります。

将来七年の患難の際に審判する、ものすごい権勢を持っている力強い御使いの頭の上に虹があるのです。このように、虹は神様の形や神様の御座と非常に密接な関係を持っているものであり、例外的に神様に代わって審判する権威を持ってくる特別な天使には、その証拠として頭の上に虹を与えられたという事です。科学では虹を単に水滴に映した光が屈折しながら現れる現象として仮説を立てていますが、霊的に虹はこのように特別な意味を持つものとして、神様はこのような虹を人々との契約の証拠として雲の中に与えられたのです。

この教会に現れる虹 


これらの虹がこの祭壇には1年の間にも計り知れないほど数多く現れていますが、これは果たして何を意味するのでしょうか。稀で珍しい形の虹はもちろん、雨の後にしか見られない半円形の虹が日差しも入らない密閉された空間に鮮明に浮いたり、さらには本教会のシンボルマークのようになった円形の虹は本教会上空と支教会の上空を問わず、あまりにも頻繁に浮かんています。このような現象は、世の中の科学では決して説明できないことです。日光も入らない密閉された空間に雨の後にしか見られない虹が鮮明に浮かぶのを見たことがありますか? このような虹は、本教会の聖殿の中でも何度も観察され、牧師館の部屋の中でもよく観察される現象です。又ある聖徒たちは、自分の部屋の中に虹が鮮明に出たと証しました。

それでは、太陽の周りに浮かぶ円形の虹を一度でも見たことがありますか?私たちが頻繁に見ている円形の虹を世界の科学ではヘムリと呼ぶこともあります。ヘムリとは、太陽の周りにたまに見える丸い輪のことですが、世の科学者たちは、太陽の光が氷の粒を通過して屈折して出来るといいます。しかし、これはこれに対する最も可能性のある仮説の1つであり、真実ではありません。世の中の知識は、時間が経つにつれてたくさん修正されるのを見ます。その当時は真実と言っていましたが、知識が蓄積され、より多くの経験をすることで、その真実が変わるのをよく見かけます。韓国の気象庁で観察したヘムリの数は、去る93年から2002年までの10年間、年間平均20余りだったそうです。このごろ新聞やテレビを見ると、数年ぶりに初めてハムリ ハロ haloが観測されたということを聞くことになります。

ハロ halo(日暈)  天気下り坂のサイン

 
太陽の周りに現れる、虹のような光の輪のことをハロや日暈(ひがさ)といいます。ハロは、上層の薄い雲が現れたときに、太陽の回りに光の輪として現れます。この光の輪は、太陽の光が雲の中に含まれる氷の粒に当たり、屈折することにより発生します。ハロが現れるときは、天気が下り坂のサインともいわれています。

 
海外でも初めて円形の虹を見たとニュースに出てくるのを見ますし、このように、円形の虹を世の人々が見ることは極めて珍しいことだったということがわかります。そしてまた見ると、とても不思議に思うことがわかります。おそらく皆さんもほとんど本教会に円形の虹が現れるまでは、全くそのような形の虹を見たことがないでしょう。私も幼い頃から空を見るのが好きでしたが、それ以前まで円形の虹を見たことは一度もありませんでした。

それでは、本教会で観察された円形の虹の数は果たしてどれくらいでしょうか。本教会は残念ながら過去2000年度からの資料しかなく、2000年から2002年までの過去3年間の資料だけを持って統計を出しました。それも国内外支教会及び海外宣教の際に浮かんだのは除いて、ただ本教会があるソウルの九老洞と牧師館がある新大方洞の近くだけで観察されたものでした。このようにして観察された円形の虹の数がなんと1年に200以上をはるかに超えたという驚くべき事実です。

だからこの3年を総合すれば、なんと600個をはるかに超える円形の虹が本教会と牧師館の近くでだけ浮かんでいたということです。それも気象庁のように専門人材を動員して観察したのではなく、本教会の数多くの聖徒たちが同じように肉眼で観測した資料がこの程度であったという事です。ここに聖徒たちが気付かなかったことまで合わせれば、年にどれだけ多くの円形の虹が本教会と牧師館の近くに浮かんだのかをよく分かるのです。

支教会も同じですが、ミリャン万民教会の場合、2000年4月から観察し、2001年には240日、2002年には222日を観察したそうです。このように観察された円形の虹の多くは、驚くべきことに鮮やかな虹色を示しています。そして非常に多様な複合的な形を見せています。円形虹、一重虹、二重虹、対称虹、非対称虹など、様々な珍しい虹が出ています。二重、三重、四重の虹も多く観察されています。 昼間だけでなく夜も随時観察されています。
 
フィリピン聖会の時、説教中に虹について言及すると、「ジャーン」と、円形の虹が月の周りに輝いて登場した姿は今でも忘れられません。ところが不思議なのは、本教会周辺や牧師館の近くではこのように多く観察されるこのような円形の虹を、気象庁では観測できなかったという点です。気象庁の資料によると、過去2000年から2002年まで観測されたハムリの数は、ただ平均24個でした。しかし、本教会で観測した資料は、このような円形の虹の数がなんと年平均200個以上を超えるということです。なんと10倍近く差が出ています。 すから、もし本教会で観測した資料に加え、全国の支教会や海外で観測された資料まで合わせれば、私たちの万民の祭壇にはほとんど一年中円形の虹が出るといっても決して誇張ではないという事です。

そして、マンミンの祭壇には時間が経つにつれて、より多くの円形の虹が現れています。さらに、本教会や支教会にどんな行事があるか、祝うべきことがあるときは、間違いなく円形の虹が浮かんでおり、信仰のある方が牧者の名で神様に祈れば、その場で直ちに現れることもあります。また、本教会の宣教チームが海外のどこに行っても、様々な珍しい虹をはじめ、円形の虹が出たりしました。そこの地元の人たちを驚かせ、彼らに信仰を植える良い証拠になっています。

このような現象を科学で世の中の理論で説明することができますか?このように神様が本教会に示してくださる円形の虹を世の理論に合わせて明快に説明できるわけでもなく、これはただ全知全能な神様が特別な摂理の中に本教会に向けられた約束の証として示しておられるという事です。そしてもう一つの興味深い現象は、一般的な虹も本教会で観察されたものが気象庁で観察されたものよりはるかに多いということです。気象庁の資料を見てみますと、過去10年間に公式に観測された虹の数字は年平均1個に満たないのです。過去10年間で計7回しか観察されなかったでしょう。ですから、本教会や支教会をはじめとする万民の祭壇の上に現わされる虹の現象は、決して世の理論や知識で解釈してはならず、その中に込められた神様の摂理と霊的な意味を悟らなければなりません。本文の説明は、次の時間に続けて行います。

結論


神は、契約の証拠として雲の中に虹を置いたように、時には確実な証拠として神様のみことばを確証してくださいます。

 

ヨハネの福音書 1:32‐34に、「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」」と言っています。バプテスマのヨハネが救い主として来られたイエス様を知ることができたのは、まさに聖霊が鳩のように天から降りてイエスの頭の上にとどまるのを見たためです。

イエス様は自分が神の子であり、メシアであることを示すために証拠を示しましたが、ヨハネの福音書10:25「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」とおっしゃった通り、まさに父の名前で行うことでした。ヘブル2:4には、「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」と述べています。この他にも、神様が送ってくださった人であることを示したり、神様の御心の中で成し遂げられることを示すために、それに従う証拠を与えられました。 

それでは、この教会にはどのような証拠がありますか?これまで皆さんが見てきた証拠は、その数を数えることさえできないでしょう。まさに皆さんがその事の証人です。ですから、皆さんは神の約束の証拠を見た証人として、これからどうしなければなりませんか。神様は天地万物を創造し、生死禍福を主管される創造主であり、私たちの主は万王の王である万主の主として、私たちの救い主であることを証しし、聖書が真実であることを証ししなければならず、神様が生きておられ、多くの奇蹟としるしと権能で働かれていることを、熱心に証ししなければならないということです。


ヘブル人への手紙12:1-2節の前半に、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と、おっしゃるように、すべての重い束縛された罪を脱いで、ただ主だけ見つめて走っていかなければなりません。

テモテ第二 4章7‐8節「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」と告白できますようにお祈りいたします。

朝の学び82 創世記9章  

創世記9:8-17
神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

序論


皆さん、民数記23:19に、「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」と記録されたとおり、神様は、おっしゃったことを必ず成し遂げ、約束されたことを徹底的に守られる方です。人の方が信仰で受け取れなかったり、変わる場合でなければ、そのまま行われることがわかります。 

神は創世記17:4「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。」と言われましたが、結局アブラハムは信仰の先祖、父になりました。また、創世記17:8には、神がアブラハムに「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」と言われました。それでアブラハムとイサクとヤコブの子孫であるイスラエル民族は、これまでも約束の言葉に従って神様の摂理の中に導かれています。

レビ記26:42-44に、「わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。」とおっしゃったとおりに成し遂げられるのです。

この言葉は、これまでイスラエルの歴史を通して何度も繰り返された歴史的な出来事に対する予言として、イスラエルが神のおきてといましめを離れて神の前で罪を犯したときは、周辺の異邦の国によって侵略され、結局、国が消えるような状況になりました。そのような中でも、神はイスラエルの先祖たちと交わした契約を覚えられ、彼らを嫌って捨てることも憎むこともなく、まったく滅ぼしてしまうこともありませんでした。国が滅び、民が捕虜になったとしても、悔い改めれば、再び本土に戻って国を再建したりしましたが、その理由がまさに神様が彼らの先祖であるアブラハムとイサクとヤコブと立てた契約のためだということです。 

今すぐは国を失って、約束が成されないようでも、神様は「カナンの地を永遠にその子孫に与えてくださる」と契約されたとおり、常にその地を回復させてくださったという事です。1948年にはイスラエルという国が消えてから、1900年余り後に再び国を建て独立することで、神様がその地をイスラエル民族に与えられたという神様の契約を再び確証されました。人の考えでは到底不可能なことでしたが、神様は一度された約束をこのように決して変えることなく守られたのです。

ところが、神様が契約の御言葉をくださるには、大きく二つの場合があります。ある人には「あなたがこうすれば祝福をくださる」と但し書きをつける場合があり、ある人にはただ「祝福を与える」と言われる場合があります。神様のほうで手がかりをつけてくださった場合なら、聖書に記録されている通り、人のほうでその手がかりの条件を満たすときに、誰もが差別なく必ず契約の御言葉通りにかなえてくださいます。一方、何の条件もなく約束の言葉をくださった場合は、すぐに叶うと思うかもしれませんが、実は何の条件もないのではなく、その時から祝福を受ける器を備えるために本格的に練られていく過程が始まるのです。

エゼキエル36:36後半-37節前半に「主であるわたしがこれを語り、これを行なう。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。」とおっしゃるとおり、神様は予知予定の中で約束の言葉をくださいましたが人の方でも変わらぬ信仰の行いと願い(渇望)がなければならないという事です。ですから、いくら途方もない祝福の言葉を受けても、もし信仰で受けられなかったり、自分がしなければならない努力をしなければ成し遂げられないのです。

ただ、父なる神様が予知予定されている中で、あらかじめ祝福の御言葉をくださって導いていく場合は、条件をつけて祝福の御言葉をくださる場合とは異なり、強権的な摂理の中で導かれていくので、結局は必ず約束の御言葉に応じて祝福の道を進むことになります。ヨセフの場合も、神様は夢を通して約束をくださったのですが、自らヨセフの道を導いていくことで、ついには夢の約束が成就されるようにしました。

このような言葉をよく分別してこそ、神様のみことばに対する誤解はありません。そうでなければ、「私は祝福を与えてくださると約束されたのに、なぜまだ祝福がないのですか? 」と考えるかもしれないし、あるいは「祝福をくださると言ったから、その時まで何とか耐えてみよう」と思うかもしれません。本当に神様の言葉に従って祝福を受ける器なら、約束の言葉を最後まで変わらず信じ、また祝福が来る瞬間まで何の努力もなく待つのではなく、自分の方でも祝福を受けるための信仰の行いを続けていくことになるという事です。神様のみことばに応えて祝福を受ける器なら、契約の御言葉を最後まで変わらず信じるでしょう。


虹と霊の空間の事


本文は、神が洪水の後にこの地に生きていく人々と地に存在するすべての生き物との間に立てた永遠の契約と、その契約の証拠としてくださった虹に関する内容です。ノアの洪水という人間耕作の歴史において大きな出来事を引き起こす事件以後、神様は肉と霊に分かれた空間の間に明確な境界を立て、人々も肉と霊の空間の違いについて分かるようにします。洪水の前までは、神様が囲んでくださった光によって、この地もすべてが霊の空間のように運行されていましたが、洪水の後に光が取り込められてからは、この地が完全に肉の空間になり、すべてが肉の属性通りに戻りました。

そしてこの時から空中の権勢を握っていた悪の霊たちの活動も本格的に始まります。もちろんアダムが罪を犯してこの地に追い出された後、悪の霊たちと彼の使いたちは絶えずこの地の人々を惑わせて神から遠ざけ、ついには洪水の審判という結果を受けるまで人々を悪に導いていきました。しかし、完全に肉の空間になってしまったこの世界は、今やますます敵である悪魔サタンが活動するのに良い環境になってしまったのです。このように洪水以前と洪水の後、この土地はまったく異なる空間になってしまい、このような変化によって第二の天、つまりエデンの園に住む人々が第一の天に降りてくることも容易ではなくなりました。

前に創世記の講解を通して説明したように、アダムが罪を犯してこの地に追い出されると、この時からエデンの園とこの地の間の往来が制限され始めました。しかし、完全に制限されたのではなく、エデンの園の人々がこの地に降りて定着して暮らすほど、それまでは比較的行き来することが自由でしたが、洪水の審判以後はエデンの園とこの地の間の行き来が厳しく制限されました。エデンの園を管轄しているグループの許可なしには、エデンの園の人々が自由にこの地に降りることができなくなったのです。このようにそうするしかなかったのは、もはやエデンの園の人々がこの肉の世界に降りて堕落するのを防ぐための理由もありますが、根本的な理由は、まさにこの世界が完全に肉の空間になってしまったからです。肉と霊の線が完全に引かれた状況で、霊の空間に属するエデンの園の人々が肉の空間に任意に出てくることがこれ以上ふさわしくなくなったということです。

肉の世界と霊の世界には厳然たる区分があり、その境界を行き来することが思い通りになるわけではありません。それで、エデンの園に住む人々だけでなく、第三の天にある霊の存在も、肉の世界に降りてくるときは、厳格な秩序と法則に合わせなければならないのです。いつでもどこでも預言者たちがこの地に降りてくることができるのではなく、天使長や天使たちも降りてくることができるわけではありません。肉の法則で、すべてが制限された肉の空間の中では、神の公義の法則に合ってこそ、この霊的なことが起こることができるという事です。

神様自らも肉の空間の法則を無視したまま霊の法則通りに働かれるのではありません。だからといって、肉の空間になってしまったこの世の中が、これ以上神様の干渉なしに肉の法則によってのみ運行されるという意味ではありません。光が存在している時のように、神様がすべてを干渉していくわけではありませんが、肉の根本的な属性に戻った空間の中でも、依然として神様は愛と公義に合わせて働いていかれます。

それで11節「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」とおっしゃったのですが、この言葉の意味は文字的には単純には「水の審判が二度とないだろう」という意味ですが、霊的には「肉の空間になってしまったこの世であっても、父なる神様は依然として公義と愛の中ですべてを運行していく」という意味です。

13節には、「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」と言われました。これは単に「再び水で審判しない」という意味で雲の中に虹を置いたのではなく、「たとえ肉の空間の中でも、神様の公義と愛が成立すれば、霊の事が起こりうる」という意味で契約の虹を置いたという事です。ここで「雲」は単にこの地の雲のことではなく、第二の天という霊の空間を取り決めているのです。したがって、霊の空間を意味する雲の中に、まさに契約の証拠である虹を置かれたということは、たとえ肉の空間になってしまったこの世だとしても、神様はこの肉の空間の中でも霊の空間の事として働いていくという意味になります。

 

簡単に言えば、「もうこの地が肉の空間になったので、霊の空間におられた神様とは全く関係なくなったのではなく、神様は依然として干渉され、公義と愛に合わせて肉の空間の中でも霊の空間のことを表わす。」ということです。もし神様が公義と愛に合わせてずっと肉の空間の中で働かなければ、この世界は完全に敵である悪魔サタンに捕らえられた闇の空間になってしまったでしょう。しかし、神様は、光が取り込められた後も、引き続き肉の空間の中に霊の空間の事柄を広げることで、神様の国が拡張されていけるようにしました。

ところが、肉の空間の中で霊の空間のことを表すためには、信仰と従順と愛で、肉の限界を越えて神の道具として使われる人々が必要であるという事です。まさに神様がおられる霊の空間を肉の空間の中に広げることができる道具が必要です。このような道具になれる人は、心を霊に耕し、心として霊である神様と通じる人です。神様と霊によって心が通じる時、神様に属した霊の空間をこの地に広げる権勢と力が与えられるからです。今週、霊と空間と心について説明しましたが、まさに皆さんを通しても、これらの働きが現れるようにするためでした。そのことばをよく糧としてみなさんのものにするならば、皆さんを通しても霊の空間の出来ごとが肉の空間の中で繰り広げられることができます。その代表的な例がまさに本教会と全国および全世界の支教会の上空に現れる円形の虹と様々な珍しい虹です。

朝の学び81 創世記9章  

創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」

 

わたしはあなたがたのいのちのためには、必ずいのちの血の値を要求する

ノアの洪水の後、神様が生きた動物を食物として許してくださった時、善良な心を持った人は、その良心からどんな肉も食べることが受け入れられませんでした。ローマ2:14-15に、「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」とおっしゃったとおり、律法のない異邦人が本質的に律法の行いをする時、この人は律法がなくても自分が自分自身に律法になるのです。言い換えれば、良心が善い人は、神様の律法がなくても、彼の良心が自ら律法の行為を示すことができる基準になるからです。

しかし、人々の心がますます悪くなるので、神様が「どんな肉の血も食べてはならない」と命じられたにもかかわらず、徐々に時間が経つにつれて破ることになり、初め決めてくださったきよい動物の範囲を超えるようになると、神様はイスラエルという一国の基礎を用意しながら、具体的な律法の枠組みを制定してくださいました。このような枠組みを外れたときには必ず応報を受けるように律法を定められたので、5-6節「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とおっしゃっています。ここで血を流すという御言葉は、命の主菅者である神様が定められた一定の線を越えるという意味です。簡単に言えば神様のみことばに背くのです。 

4節「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」とあるように、血がついたまま肉を食べてはいけませんでしたが、血がついたままを食べたり、糧食のためではない目的で殺生することも、また人と人の間で互いに傷つけたり殺すことなど、すべてのことが神様が定められた線を越えて神様のみことばに背く行動です。このように神様のみことばを破った時は、それに対する応報が従うことになりますが、動物に行ったのは動物に、人に行ったことは人として応報を受けるようにしました。

ここには、つまり行ったとおりに返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という神様の公義が込められています。しかし、行ったように返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という公義の法則に対するより細かく具体的な規定が、まさに出エジプト記に記録された事例を通して宣言されます。律法は十戒の具体的な適用規則として与えられました。出エジプト記 21:12‐14には「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」と言われました。

 神様の形の通りに創造された人を殺すことは、神様の主権の下にある生命を任意に奪う罪なので、その結果は必ず死で返さなければなりませんでした。ただし、ミスによる殺人に対しては、神様の憐れみの中で自分の命を保存できるように例外的な規定を許していただきました。すなわちイスラエルの町の中で特別に逃避のための町を別々に区分して、誤って殺人したことが認められる人は、逃避の町の中に住むことで命を維持することができたのです。これを通して、私たちは神様が殺人に対しては、神様の形に造られた人を殺すという、神様の主権に挑戦する行為を防ぐため、死刑という厳しい代価を払わされると同時に、殺人の行為だけを見るのではなく、殺人者の心をより重要に見ておられるという事がわかります。

これは今日も同じです。人が完全になるまではいつも間違いを犯すことがあるので、神様は同じ非真理の姿の中でも、各人の心を察してくださいます。これが本当に悪い心から出てきたのか、単に真理を知らずに誤ってそうしたのか、真理の通りに行おうとしましたが、心に意図したものとは違って出てきたのかなどをご覧になられます。それで、同じ非真理の姿についてでも、神様が許される応報は異なることがあるのです。律法を与えられた目的自体が人を苦しめて罰するためのものではありません。真理の中に住まわせるためなので、神様の公義は各人のおかれた状況と心の中までも探って正確に適用されます。

目には目、歯には歯

旧約時代の律法を見ると、愛の神様とはすこし似合わないような内容が出てきます。例えば、出エジプト記 21:23-25 によると、「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」ということです。これを「同害報復法」ともいいますが、簡単に説明すれば、人がある害を受けることになったとき、それに対する同じ害として相手に返すという意味です。これは、人が悪を行うと、報いを受けなければならないという公義の法則でもあります。しかし、この法に込められたより深い神様の心はまさに愛であることを知らなければなりません。

「目には目」という内容だけを見ると、まるで悪を悪で返すようですが、実際に皆さんが世の中の人々を一度見てください。他人が私に害を一つ与えたら、それを二つ、三つ、それ以上に返そうとし、悪に突き進んでいるのが現実です。目に受けた害を目だけに返すのではなく、より大きなもので報復しようとする心でしょう。ですから、このような悪の世代の中で、目には目で返すという言葉は、むしろ受けた害以上に報復することを禁止するという意味が込められているという事です。報復を最大限抑え、複数の乱用を防ぐ効果があるのです。さらに、聖霊時代ではなく旧約時代には自分の心を治めることができないので、ややもすると報復の悪循環に突き進むことがありますが、同害報復法という律法の枠組みの中に縛っていただくことで、それ以上の悪を防ぐことができたのです。「愛の神様がなぜこのような恐ろしい法を人々に与えられたのか」を考える前に、「なぜ神様がこのような法律まで定めてくださるしかなかったのでしょうか?」を考えてみれば、悪が蔓延した世の中でも、なんとか魂を保護し守ろうとする父なる神様の愛を感じることができます。
 
このような愛を感じるなら、決して神様のみことばを軽く考えたり、通り過ごしてしまうことはできません。小さなこと一つを軽く考えると、後には大きな罪を犯しても悟ることができないからです。それで、
へブル12:5「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない主に責められて弱り果ててはならない。』と勧めるのです。

地に群がり、地にふえよ 

7節「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と言います。父なる神様がこの地に人間を耕作される目的は真の子どもを得るためのものですが、人間耕作を始めて以来、人間の悪によって心を痛め、地上に人を造ったことを悔やまられたほどでしたが、洪水以後に新しく始まった人間耕作を見ながら、もう一度真の子どもを得るための期待と希望を持つようになります。再び人間がこの地に生育し、繁栄していくと、人間が結局悪に突き進むことになり、そうすればまた心を痛めることを知りながらも、その中から出てくる真の子どもを期待されるので、もう一度人間に「地に群がり、地にふえよ。」と言われて、祝福を与えておられます。

農夫が一年の収穫が不振だからといって、翌年に農作業をあきらめるのではなく、また希望と抱負を持って農作業をするように、父なる神様も新しい人間耕作を通して喜びと栄光になることを願う心で、人間たちに祝福の言葉を与えているのです。そして人々はこの言葉に従い、早いスピードで世界中に広がっていきます。人と獣がどのようにして世界中に広がることができたかについては、すでに前の時間に詳しく説明しました。次の時間には、神様が虹を置いて、これを通して人間と結ばれた契約の意味について見てみましょう。

結論

皆さん、血は命であるだけでなく、血の中にはそれぞれの性質と属性までも含まれています。それで人の血が異なり、動物の血が異なり、どんな血を持っているのかによってそれぞれの属性と性質が変わるのです。このように血は各人の性質や属性までも決定する非常に重要な要素ですが、世の中の理論がすべて正しいわけではなく、合っているとしてもあくまでも肉の法則に該当します。もし親がせっかちで血気が多い場合、子どももせっかちで血気が多い確率が非常に高いのは事実です。しかし、このような子供でも、彼が真理の中に入って神様の能力を力にすれば、肉の法則とは関係ありません。「私は親からこういう気を受けて生まれたから仕方がない」「私はもともと性質や属性がこうなの」と言いながら自ら断定してしまう人は、自分を依然として肉の空間の中に縛っておく人です。肉の空間の中に自分を縛っておくと肉の法則から抜け出すことができません。

 
しかし、肉の空間から抜け出して霊の空間に入ると、肉の法則とは関係ありません。だからといって、「私はもはや肉の空間ではなく、霊の空間に属している人である」と言葉で告白して出来るのではありません。肉の空間を離れて霊の空間に属するためには、以前に肉の空間で持っていた肉に属していたすべてのものを脱ぎ棄てなければなりません。
このような過程には罪を血を流すまで戦って、捨ててしまわなければならない痛みもあり、自分を徹底的に否認していく忍耐の歳月もありますが、すべての過程を通過すれば、血の中に込められた性質と属性までも超越する霊の次元に入ることができます。へブル 12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」

こういう人は親からどんな気を受け継いだのか、血の中にどんな性質と属性が含まれているか、これらは関係ありません。コリント第二5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とおっしゃったとおり、これ以上肉の空間や法則に縛られているのではなく、新しい被造物になって神の形を完全に回復した真の子供たちとして出てくることを主の御名で祝福してお祈りいたします。
 

朝の学び80 創世記9章  

創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」

 

生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である

3節「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と述べています。ノアの洪水の後に神様が人に動物までも食べられるように許される場面です。ところがこのように動物を食べるように許されたのが実は祝福ではなく、むしろ呪いだと言いました。最初の人アダムには果物だけが許され、罪を犯した後呪われてこの地に追いだされ、野菜類のような植物が許され、ついに動物まで食べることが許されましたが、これは結局、人がそれほど悪くなったからです。人が肉に変質していくほど、人は体を維持するためにそれほど多くの肉のものを摂っていかなければならないので、ますます強い肉の食べ物が必要になったのです。

このように動物を食べることを許されたことを呪いというには、より深い霊的な意味があります。それはまさにこの時から殺生(せっしょう)が始まったということです。洪水の前までは、全焼のいけにえのためのもの以外は任意に動物を殺すことは許されていませんが、この時からは人が食べるために動物を殺すだけでなく、動物の間でも弱肉強食の法則に従って互いに殺しあうことが発生するようになります。 

さらに、歳月が経つにつれて人々がさらに悪くなると、糧のためだけでなく、自分の悪の中で動物を殺すことまで起こります。それで人々が面白さや娯楽として動物を狩って殺すのも、結局は人々の心がどれほど悪くなったかを示す証拠です。ところが、人々が次第に悪くなって生まれたもう一つの現象は、人々が最初許されたきよい動物以外にも、自分の見た目に良い動物を取って食べることになったということです。そうしながら次第に神様が禁じられた、けがれた動物まで食べることになり、神様を離れた異邦人の間では、このような現象がさらにひどくなっていきました。しかも動物を血のあるままで食べてはいけないという命令も時間が経つにつれて次第に守られなくなりました。

肉を血のあるままで食べてはならない 

4節には「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」と言われましたが、ここには霊的な意味があります。レビ17:14「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』とおっしゃるとおり、血はいのちと一体だからです。

神様が初めのアダムを土で造り、その鼻にいのちの息を吹き込む時も、体に血が回り循環し始め、人は初めて生きている霊となりました。動物もやはり血は命であり、血があるので命が維持されますが、神様もやむを得ず人間に肉を食べるように許されはしましたが、それがいのちをとる権勢まで人間に許されたわけではありませんでした。したがって、神様は人々に肉は食べるものの、血がついたままでは食べられないようにすることで、血すなわちいのちを主管する権勢はただ神様だけにあるという事実を明確にしてくださったのです。このような神様の命令を守るとき、それがすなわち、いのちを主管される神様の権勢と創造主としての権威を認めることです。

結局「どんな肉の血も食べてはならない」という神様のみことばは、人の生命を司る神様の権威と威厳を侵してはならないという境界線のような意味を持っています。誰が万物の創造主であり、このように恵みを施す人が誰なのかを、人に明確に記憶させたのです。ノアの洪水の後には、父なる神が光で囲まれ、親しく干渉された時とは全く違う状況になってしまったので、このように越えてはならない線を引いてくださることで、人々がこれを意識しながら同時に神の存在を意識して、生きていけるようになったということです。

たとえこの地のすべてが今は肉の法則の中で、根本の肉の属性によって回るしかない状況になりましたが、すべての根本は父なる神様によるものであり、すべての主菅者は神おひとりであることを、明らかに教えてくださる方法になったのです。そして、このように決めてくださった線を人々が破る時には、それがすなわち神様の主権に対する挑戦となるので、そこには必ず応報が従い、神様とは関係のない者になってしまいました。結局、肉の空間と霊の空間が徹底的に分かれるようになった状況で、神様のみことばに従う者は、肉の空間にあっても神様と関係があると認められますが、従わない者は神と関係がなくなったのです。これは今日でも同じように適応されます。

ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とありますが、これがまさに霊の空間に父なる神様と共にとどまる人に与えた祝福の言葉です。たとえ体はこの肉の空間にあっても、皆さんが主の中に、主の言葉の中にあるとすれば、これが主と共に霊の空間に留まる道になります。そして、この時は主と皆さんが霊の空間の中で一つに通じているので、何でも心に抱くことさえすぐに主に伝わります。主の応答もすぐに来ることができます。

一方、皆さんが信じると言いながらも、主の中に居らず、主の言葉が皆さんの中にとどまっていなければ、主と皆さんは全く別の空間に居ます。主は霊の空間におられますが、皆さんは依然として肉の空間にいます。そして霊の空間と肉の空間は互いに通じることができないので、結局主と皆さんが交わることができず、皆さんの心の願いに主が答えてくださることもできないのです。まさにノアの洪水以後からは完全に肉の空間になってしまったこの世の中で、ただ神様のみことばに従う人だけが神様に属する人になることができるのです。肉の人とは、神様が共にしたくても共にすることができないという事です。まるで水と油が混ざらないように、肉の空間にいる人と霊の空間におられる神様とは通じることができないからです。

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朝の学び79 創世記9章  

創世記9:1-4
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

進化ではないという証拠 


これまでいくつかのケースを見てきたように「人によって移動したのか、それとも自ら移動したのか?」「地形や気候の障害を克服することができたのか、そうではなかったのか?」によって今日、世界中に広がっている動物たちの分布が決定したという事です。もし進化論で言うように、進化によって今日のような動物が生まれたなら、気候や環境条件が似ているところでは、同じ種類の動物が現れる可能性が非常に大きかったでしょう。しかし、アフリカ大陸と南アメリカ大陸で互いに気候と環境が似ているところを比較しても、この二カ所に住む動物の種類が大きく異なります。人によって移動したか、自分で移動できた動物は、両方に住むことになるでしょうが、そうでないものは海を渡ってまで移動することができなかったからです。それで猛獣やからだの大きい動物たちの中には、アジアとアフリカ大陸にだけで生きているものが多いのです。

ちょっと荒々しい動物でも、小さいものは子どもの時に人が十分に移動させることができたでしょう。このような事実だけを見ても、進化ではなくノアの洪水以来、新たに動物が広がっていったことがわかります。また、洪水以前は動物たちがどこに住んでも良い環境でしたが、洪水後に肉の性質が明らかになってからは、それぞれの動物に合う環境を探すようになり、これによる影響もあるのです。ノアの洪水以来、気候とすべてが変化しすぎてしまいました。

そして、動物の中でも今日は、一種類の動物の中でも再び様々な種類に少しずつ変形が起きた場合が見られますが、これは決して進化によるものではなく、ただ長い年月が経つにつれ、それぞれの動物が生きていく地域の気候と餌、そして地形に適応するために生じた若干の変化に過ぎません。このような少しずつの変化を「小進化」といいます。人の場合もどんな気候でどんな食べ物を食べながら適応して生きていくかによって、外見に少しずつの変化が生まれるかのようです。

進化ではないというもう一つの証拠は、まさに恐竜の化石を通してです。恐竜の化石は現在世界中で発見されていますが、化石が見つかるところを見ると主にその周辺一帯で集中的に発見されます。大陸別に見ると、北アメリカでは米国とカナダ、南アメリカではアルゼンチン、ヨーロッパではイギリス、アジアではモンゴルと中国で発見される化石が世界中で発見される化石の75%と言われています。この他にも化石が発見される国々を見ると、世界各地に広がっているにもかかわらず、その国の中でも特定地域に密集しています。これは、すなわち何を物語っているでしょうか?

私が前に説明したように、恐竜がエデンの園から追い出され、この地に降りてきてからこの地にそれほど長く住んでいなかったという事実です。彼らが広がる前に、すでに神様の裁きをこの地で受けてしまったのです。火の審判を受けてしまったということです。とても短い時間しか生きられませんでした。そのため、恐竜が初めてこの地に降りてきた時は、世界中のあちこちに広がったにもかかわらず、その短い時間の間に、さらに広域には広がっていくことはできなかったのです。言い換えれば、神が恐竜をこの地上のあちこちに世界各地に分散しておかれたので、恐竜の化石が世界中で発見されていますが、同時に恐竜がこの地に住んでいた時間が短いため、その間に最初に定着したところから遠くまで広がっていけなかったということです。韓国の場合も恐竜の化石が多く発見されてはいますが、そこが主に数箇所に集中しています。

そしてこれを通して、私たちは恐竜の絶滅も非常に突然のことだったことを知ることができます。恐竜の絶滅がもし餌が足りなかったり、気候の変化が原因であった場合、恐竜は当然餌を求めて散らばったり、より良い気候を見つけて移動したはずですが、そうしなかったことを見ることができます。恐竜の化石が主に集団的に発見されるというのは、一箇所に集まって暮らしていた群れが災いや危険を避けて散らばる時間の余裕さえなく、突然、死を迎えたということ、それだけ膨大な災害があっという間に迫ったという証拠です。

したがって、私たちはこれらの証拠を通して、恐竜がこの地に降りてきて世界中に散らばって暮らすことにはなりましたが、最初に定住した場所から遠くまで広がっていくほど長い時間、この地に住んでいたわけではなく、また突然の審判によって滅亡したという事を知ることができます。そして、日本をはじめとする島国でも恐竜の化石が発見されていますが、これは恐竜が自ら移動したのではなく、最初から神様がそこに置いたという事実を物語っています。


もちろん当時は今と地形が違っていたかもしれませんが、陸地に住む恐竜が泳いで海を渡ることができるわけではないので、お互い離れた大陸や島を恐竜自ら移動していくことはできません。それでも、互いに遠く離れた大陸と島でも似たような種類の恐竜化石が発見されるということは、神様が最初からそこに定着するように散らばしておかれたことを示しています。

これと共にもう一つ考えなければならないのは、現在知られている恐竜の化石のうち、わずか20%が完全な骨格を備えたものであり、57%は不完全だったり部分的な頭骨などによって、その名前がつけられた恐竜だということです。また、残りの500種以上の恐竜たちも特徴のない骨に基づいて名前がつけられました。これは言い換えれば、進化論で化石に基づいて進化したと主張する恐竜のほとんどが、まだ化石でさえまともに確保されていないという状況であり、それほど不十分な資料をもとに、自分たちが立てた仮説と考えの中で恐竜の進化を説明しているということです。しかし、神様がしてくださった説明では、今発見されている恐竜の化石に対する疑問点が明らかになる可能性があるという事です。次の時間には、神様が人々に生きた動物を食物として与えながら、血のあるままで食べないように命じられた霊的な意味について見てみましょう。

 


創世記9章2節「野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」とありますが、これはこれだけ悪があるということを表しています。動物と人の間に、動物と動物の間にも互いにも悪があるので、お互いを恐れて怖がっているのです。ヨハネの手紙第一4:18にも「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。

人の心の中にも悪がなく、相手に対する完全な愛の心だけがあれば、決して恐れたり恐ろしいことはありません。いくら私を苦しめ、私を害しようとする人がいても、私の方で先に彼を完全に愛してしまったら、決してその人について不快な気がしません。そうではなく、相手が私を苦しめる時、それによって私の心が傷ついて感情が生じるので、そのような人を見ると怖くて嫌で避けるようになるのです。心の中に完全な愛があれば、むしろそのような人を見るとき、より憐れみと慈悲の心で扱い、どんな状況でも抱いてあげることが出来るのです。

ですから、ローマ13:10に、「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」と言われたように、心の中に完全な愛を成し遂げ、律法の完成を成し遂げることができることを願っています。それで、この地でも皆さんの心が天国を成し遂げ、日ごとに、新しいエルサレムの希望の中でさらに熱く駆け付けることができますように主の御名でお祈りします。
 

朝の学び78 創世記9章  

創世記9:1-4
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

イエス・キリストによる霊の再生


最初の人アダムは父なる神に代わってエデンとこの地のすべての万物を支配し、征服し、治めることができる絶対的な主菅者でしたが、この地に光が取り込まれ、肉の空間になってからは、人がただこの地で肉の序列上1位の位置に転落してしまったのです。最初の人アダムは霊として霊の次元である4次元に属した存在であったので、無次元から一次元、二次元、三次元に属するすべてのものと第二の天までも支配して治めることができました。ところがアダムの犯罪以後、人はまさに死という言葉通り、霊が死んでいき、もはや霊的な存在ではなく肉の存在に変質していきます。 

そうするうちに、洪水の裁きに当面すると、創世記6:3「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と言われるほど、人々は肉の人になったのです。だから人がもはや万物の主菅者としての立場に立つことができなくなったのです。父なる神様はこのように転落した人の立場を再び回復できるように道を開いてくださったのです。それはイエス・キリストを通して死んだ霊が生きかえる道を開いてくださり、聖霊を私たちの心に送ってくださり、水と御霊によって生まれ変わるようにしてくださったのです。このようにして、神様の子どもになった私たちは、失われた神様の姿を取り戻して、再び霊的な存在に回復していく時、霊の人になっていくほどに、再び万物の主菅者として、肉の世界を支配し、征服し、治めて生きていくことができるという事です。

人類の移動


創世記9:1「それで神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と言われたので、ノアとその家族は速いペースでこの地に広がっていくことになります。創世記9:7にも、「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。』」と言われたように、人は新たに全地にいくつかの集団になって広がり始めたのです。多くの子どもたちを生みながら人口が増えはじめ、それとともに東西南北四方に新しい場を探し求めて旅立ったのです。それでは、ノアの洪水後に人と動物がそれぞれどのようにして全世界に広がっていったのか、その過程について見てみましょう。

創世記8:4にノアの箱舟がとどまったというアララテ山は、今のトルコ領土の中にあります。アララテ山の位置はいくつかの異なる説がありますが、その場所が今のトルコ地域からそれほど遠くない場所であることには概ね意見が一致しています。したがって、人類の新たな始まりは今のアララテ山の周辺から始まります。西はヨーロッパとつながっており、南は中東とアフリカ、東はアジアとつながる地理的には要衝の地から出発していたのです。

人が移動するのに最も簡単な方法は、陸地につながる道を通して移動することです。それで人々はここアララテ山の周辺を中心に四方に広がってゆきました。しかし、陸地での移動には限界があります。他の大陸に移動をしたり、また地形が険しいところを避けて行くには、海を利用しなければならなかったのです。ところが、創世記講解を通して説明したように、ノアの洪水があるまで、人々は海にあまり馴染みがありませんでした。海に進出したり、海を渡る移動のようなことはほとんどありませんでした。

しかし、ノアの洪水後は状況が変わります。洪水に備えるために箱舟を造りながら、ノアと彼の息子たちは自然に船を造る技術を身に着け、それも非常に優れた技術者になりました。これにより船を造る技術が積み上げられ、海に対する自信も得られ、洪水後には海を通しての進出も活発に起こります。これらの事に基づいて、ひとつの具体的な移動経路を見てみましょう。

アララテ山の周辺から始まり、陸地に沿って北西に移動し続けていた人々は、今の大西洋と接している海岸沿いに至るようになります。この時、海を通っての進出を考えなかったら、人々はもはや広がっていないでしょう。しかし、すでに船を作る技術を伝授された人々は、ここで船を作って新しい土地に進出することになります。今でも北西ヨーロッパの側には鬱蒼(うっそう)とした森がありますが、これらの材料がまさに船を作るのに利用されました。


それで船を作ってついに海に進出するようになった人々は、まもなく、今のイギリスの地にたどり着きます。時間が経つにつれて、一部はそこに残って定住しましたが、一部は再び船に乗って西に進出するようになります。そうして結局、今のアメリカ大陸にまで至るようになったのです。アメリカ大陸が世界に知られているのは1492年にコロンブスの発見によるものでしたが、コロンブスがアメリカ大陸に到着したときに、そこにはすでに彼らなりの伝統と歴史を持つアメリカインディアンが住んでいました。

それでは、彼らはどうやってここアメリカ大陸に住むようになったのでしょうか。先ほど申し上げたとおり、洪水後に広がり始めた人類が、すでにずっと前に大西洋を渡ってここに来て定住したことを語っている証拠です。そして今の北アメリカに到着した人々は、ここで再び陸を通って南に南に移動し、南アメリカに定住して暮らすことになったのです。アララテ山から出発して船に乗って南アメリカまでまっすぐに行こうとしたら、そこはあまりにも遠い道のりだったと思いますが、このように陸地を移動できる場所は陸を移動し、そこから船で移動できる場所に行き、再び陸を移動するという方法で、人々は世界中のどこにも広がることができたという事です。

 

そして人々がこのように広がっていく上で大きく役立ったのが、まさに北極星や北斗七星のような星座でした。当時の人々が船に乗って航海するためには当然方角を知る方法がなければなりませんでしたが、星座がその役割を果たしてくれたのです。それで、神様はこうして道案内までする星までも、すでにご存知で摂理しておかれたのです。

動物たちの移動経路 


では、動物たちはどのように移動したのでしょうか?動物の移動は、大きく二つの方法がありました。一つ目は人々によって運ばれ、二つ目は動物たち自らが移動したのです。
 
ノアの洪水の後、人に動物が食物として許され、一部の動物は非常に貴重な財産になります。洪水の前からすでに家畜と呼ばれる動物たちがいて、これらの動物たちは人々と共に生きていきました。ところが、洪水後には、糧食として使われる家畜まで加わり、家畜は人にとって切っても切れない存在となります。だから人々は新しい土地を探して移動しながら、これらの家畜を当然連れて行くようになります。それで今日、世界中の人々が住んでいる場所には、ほとんど共通して存在する動物がいます。例えば牛、鶏、犬、豚、馬、アヒル、ウサギ、ヤギなどがこれに属します。もちろん、この中で地域や気候によって少しずつ差が出るのですが、人々が住んでいるところではほとんどこれらの動物を見ることができます。

今日だけではなく、歴史を見てもすでにずっと前から、これらの動物たちは人と一緒に住んでいました。その理由は、まさに人々が世界中に広がり、これらの動物を一緒に連れて行ったからです。もしかして「家畜の中には、神様が忌むべきと言われた動物たちも含まれていますが、そのような動物たちはなぜ一緒に連れて行かれたのでしょうか。」と考える方がいるかもしれませんが、洪水後、人々は急速に悪に染まっていき、次第に神様と遠ざかるようになりました。それで、将来、選民として選ばれるイスラエル民族として存続する系図の人々を除いては、神様とは関係のない異邦人になっていったのです。

 

そして、これらの異邦人たちには、神様が最初に決めてくださった動物以外にも、自分たちの目に良いと思う動物をとって糧にしていったのです。そのため、神様がご覧になったときに忌むべき動物たちまでもが家畜に含まれ、人々と共に世界中に広がっていきました。 

しかし、必ずしも家畜だけが人々によって移動したわけではありません。動物の中でおとなしいものや連れて移動しやすいものは、必ずしも家畜ではなくても、人々の手によって世界中に広がっていくことができました。たとえば、ハトは世界中のどこにでもいます。ハトは人が愛し、人に従う属性があるので、人が連れて移動しその地で繁殖させることによって、世界各地に存在するようになりました。鹿のようなおとなしい動物の場合は、南北アメリカはもちろん、ヨーロッパやアジア全体に非常に広く分布しています。

しかし、虎の場合は全世界に分布しているわけではありません。シベリアやインド、韓国、マレーシアなど、主にアジア地域にのみ分布しています。これは洪水後に弱肉強食の法則が生まれた為、家畜たちに害となる虎のような猛獣まで、あえて一緒に連れて移動する必要がなかったからです。したがって、人が連れて移動したのではなく、獣たちは自ら移動したという事を知る必要があります。

ノアの箱舟から出てきた動物たちは、陸を通って移動できる場所に徐々に広がり始め、その中でもそれぞれの動物たちに合った地形や気候を探して移動するようになりました。そのため、今日世界中に広がっている動物の分布を見ると、それぞれの動物がどのように移動したのかがわかります。例えば、象のような場合です。象のように大柄な動物は人々が連れて移動するのが容易ではなかったため、象自らが移動した場合です。そのため象は陸を通って移動し、現在アジアの熱帯地域とアフリカだけに住んでいます。

前述の虎やライオンも同様です。自ら移動しなければならなかったこれらの猛獣は、全世界に広がることができず、一部の地域に限定されるしかなかったでしょう。またライオンのような動物は水が嫌いなので、泳いで渡ることもできません。その為北アメリカや中南米へはライオンが移動できず、アフリカとアジアの一部の地域でのみ生息することになります。

この他にも、カバ、キリン、サイなどのような大きさの動物たちも自らが移動しなければならなかったため、世界的に広く分布しているのではなく、ほとんどアフリカとアジアから抜け出せない地域にだけ住んでいます。このようにして自ら移動して広がった動物たちは、海や大きな川や山脈などのような地形の障害物を自ら克服できなかった場合には、最初に広がり始めたアジア大陸、そしてアジアと陸でつながったアフリカを除いてはもはや広く広がらなかったのです。
 
ノアの洪水によって生じた気候の変化や地形の変化が、動物たちが広がって生きていく上で非常に大きな変数として作用するようになったからです。もちろん、空を飛ぶ鳥や、地形や気候の障害を乗り越えた動物たちの中には、世界中に広がった場合も多いです。その中でクマの場合はアフリカ、オーストラリア、南極を除くほぼ全世界に分布して住んでいますが、水を恐れずに種類を選ばない食性のため、それだけ地形や気候の障害を克服して広く広がることができたのでしょう。

 

朝の学び77 創世記9章  

創世記9:1-3
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのもの-それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

これから創世記9章に入ります。9章では、まず、新たに人間の耕作を始めるノアと彼の家族、そして子孫たちにくださる父なる神様の契約の御言葉が出てきます。創世記9:1-2に、「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」

本格的な人間耕作の始まりとともに、もう一度人間に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という祝福の言葉を与えておられます。ところが、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という御言葉が、以前アダムがこの地で生活を始めたときに初めていただいた御言葉と非常に似ていますが、その内容を詳しく見てみるとまったく異なる次元の御言葉であることがわかります。 

創世記1:28を見ると、神は男と女、すなわちアダムとエバを創造し、彼らに祝福を与えながら、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命じられました。最初の人アダムには、地を従えよという言葉と共にすべての生き物を支配せよという言葉も与えられましたが、ノアには地を従えよという言葉もなく、「あなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」と言われただけです。それでは、神がアダムに与えられたみことばと、ノアに与えられたみことばはどのような違いがあるのでしょうか?

まず、最初の人アダムに与えられた言葉は、神に代わってすべての万物を治める主権者としての権限を与えられました。第一の天だけでなく、第二の天のエデンにあるすべてのものの中でも一番上に立てて征服して治めるようにしたのです。しかし、ノアにくださった言葉はそのような意味ではありません。今は、ただすべてのものの上に頭になった者として、序列上一位の位置に立てるという意味です。 

野の獣についても治める次元ではなく、獣が人を恐れて怖がるように秩序が立てられたに過ぎないのです。秩序上、すべての獣が人間の序列を越えることはできませんが、これ以上人がすべての獣の主権者ではなく、ただ序列上一番上に置かれただけです。例えを挙げれば,アダムとすべての野の獣との関係がまるで王と民の関係であったとすれば,ノア以後は民の中から選ばれ、最も頭として立てた臣下と民との関係と言えます。臣下の位置がいくら高いとしても王とはまったく次元が違うように、ノア以後は人々がもはや万物の主権者ではなく、万物の中で序列上一番上に立つようになったのです。簡単に言えば、人と万物の関係が垂直の関係から水平の関係に変わったのです。

次に、すべてが変わった肉の環境の中で、病原菌や病気が本格的に人に乗じてくるようになったという事です。もちろん、このようなものはアダムの罪によってこの土地が呪われた時、生じ始めましたが、ノアの洪水までは活動できない環境にありました。しかし、この土地が完全に肉の空間になると、多くの病気や病原菌が急速に現れ始めました。つまり、病原菌の発生や、すべての病気の最も根本的な原因が人々の罪のためであることがわかります。人々の罪により審判が臨み、初めの光が取り込められ、人々がより速く悪に染まることによって、本格的に病気がこの地に登場したのです。

このように光のあることと光のないこととはあまりにも大きな違いがあることを知る必要があります。ところが、神様はこのように光が取り込められた肉の空間に生きていくようになった人々を、そのままにしておいたのではありません。霊の空間と通じる人々を見つけて、彼らを士師として、または預言者、使徒として立てられ、彼らを通して父なる神様の御心を絶えず宣言し、導いてきました。もし父の側で、ただ何の干渉もなく置かれたら、人々は心に望む通りに行って、ますます濃い闇の中に陥って行ったでしょうが、父なる神様は一人子の息子まで渡してくださり、失った父との関係を回復できるように道を開いてくださったということです。

生きて動いているものはみな、あなたがたの食物になるので

創世記9:3を見ると、「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と言われました。これもやはり、初めの人アダムがこの地に住み始めたとき、神様がくださった御言葉と対比されています。 

創世記1:29では、「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがた食物となる。」としてくださったのですが、ノアの洪水以降は動物までも食べられるように許されます。ここで「種を持つすべての草」とは、白菜や大根のような種類の野菜を言うのではなく、スイカやメロンのような果物を言うことであり、「種を持って実を結ぶすべての木」の果実とは、リンゴ、柿、桃、梨などの果物をいうのです。神様はアダムが犯罪する前には果物の種類だけを食べさせましたが、アダムが罪を犯して呪われてから野菜が付け加えられました。

ノアの洪水の前までは、いけにえとして捧げるためのもの以外に、任意の獣を殺すことは許されていませんでした。しかし、洪水後には殺生ということが現れ、獣の間にも弱肉強食という自然の法則が存在するようになります。人だけが獣を捕まえて殺して食物としたのではなく、獣の間でもお互いを殺して強者が弱者を捕まえて食べることになるのです。

これらの姿を父なる神様が見られる時は、あまりにも心が痛くて嘆くしかないのですが、肉に戻ってしまった空間の中では、徐々にこのような状況が激しくなっていきます。人にも、神が動物を食物として許されたとしても、そこには守らなければならない線があります。しかし、何度もこの線を越えて変質していくと、神が後には、呪われた獣とそうでない獣に分け、獣の中でも食べてよいものと、食べてはいけないものを分けるしかない状況に至ってしまいます。つまり、洪水後に神が食物として許された動物は、聖い動物に属する数少ない種類でしたが、人々に悪が加わりつつ定められた線を越えると、レビ記に出てくるように食べてはならない動物の範囲を確かに決めるしかなかったのです。

結論

皆さん、この土地が肉の空間になるにつれて、すべてが以前と同じではなくなりました。神様との交わりも容易ではなくなり、神様の御心を悟っていくことも容易ではなくなりました。それでも心が善い人々はこの肉の空間で悪に染まっていくのではなく、自分を守り、神様の御心を追って生きていくことになります。このように、以前にも善良な人々は必ず神を探し、神の声を聞いたことを見ることができます。まして、イエスを救い主として受け入れ、聖霊を賜物として受け取った神様の子どもたちが、聖霊の声を明らかに聞くこと、また父なる神様の声を明らかに聞くということは、とても正常なことです。ですから、父なる神様がこうして神様の声を聞き、神様の御心を求めて生きていく人を発見された時、どれほどその心が喜ばれるでしょうか。こういう人は、神様の方でも愛してくださり、思いっきり祝福してくださるしかないのです。それだけでなく、アダムの罪の後に失われた万物の主管者としての位置も取り戻せるようにしてくださいます。

万物の主管者として立てられた人間は、アダムの罪以後その資格を失うことになり、洪水後には万物との関係が、垂直の関係から水平の関係に転落してしまいました。しかしその心が肉に染まらず霊の空間に属する者になれば、再び失った万物の主管者としての権威を回復していくことができるという事です。神様が上からくださる霊の権威と力が従うようになり、万物を支配し、征服し、治めることができるのです。創世記講解を通して語られるみことばが、この祝福の場に出て行くことができる道を明らかにしています。神様がくださるすべての御言葉を、皆さんが完全に心の糧とされ、力となり、霊の空間に属する霊の人々として出てくるように、主の御名でお祈りします。
 

朝の学び76 創世記8-9章  

創世記8:22-9:3
地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、 ― 地の上を動くすべてのもの — それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

 

自由意志の重要性

以前には、私たちがこの地で人間耕作を受けながら、訓練という過程を通して、その本性の中にある悪まで発見して捨て去るとき、父なる神様が喜ばれる真の子どもとして出てくるとお伝えしました。ところで、悪を捨てて聖潔に向かって走っていくにあたって、皆さんにとって大切なこと、顧みなければならないことは、自由意志を果たしてどのように使っているのかということです。

自由意志とは簡単に言って皆さん自らが自由に選べる意志のことです。するのか、しないのか、守るのか、守らないのか、持つのか、持たないのか、従うのか、従わないのかなど、数々の状況の中で、皆さんにはまさに自由意志があるので、自分が望むものを選んで生きていくことになります。もちろん、とても幼い子供たちはまだ自分の自由意志を勝手に使えるわけではなく、少なくとも6歳くらいを越えてこそ、自分の意志の中で善と悪を選ぶことができるようになります。それで、救いもこのくらいの時から自らの信仰の選択によって決まるのです。

このような自由意志は、皆さんが心をどれほど真理で霊として働かせたかに応じて、霊の働きとして出てくることもあり、逆にどれだけ非真理と肉があるかによって、魂の働きとして出てくることもあります。だから、非真理と肉の多い人は、いくら自由意志の中で霊を選ぼうとしても、敵である悪魔サタンが主管する魂の働きによって、結局は罪の奴隷の役割をするようになります。しかし、心を完全に霊で満たした人は、霊の働きによって、すべてのことにおいて、父なる神様の御心に100%合わせることができます。

自由意志の中で、神様の御心に完全に従う真の子どもを望んで人間耕作を始められた神様は、ノアの洪水以後から、人の根本の肉の属性まで現れる環境の中で、本格的な人間耕作を始められました。洪水以前は、まるで温室で花を栽培するのと同じでしたが、これからは温室の外に出て、完全に世の中と接する環境の中で花を栽培するようになったのです。このように、人の根本に内在していた肉の属性が明らかになり始めると、義人と呼ばれていたノアにさえも、洪水以前には発見できなかった悪の形が現れ始めました。

 

人々は、気を通して先祖から伝わる肉の属性が積み上げられ、以前よりもさらに急速に悪に染まりました。創世記9章にはノアの息子ハムが父の過ちを兄弟たちに伝えると、その声を聞いてノアがその息子を呪ってしまうのを見ることができます。このような状況を知っておられるので、父なる神様は、創世記8:21「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」とおっしゃったのです。

根本の肉の属性が明らかになった地 

ノアの洪水以後、光が収められて根本の肉の属性があらわれたのは、人にだけ該当するものではありませんでした。人々が生きていくこの地も光が取り込まれて、根本の肉の属性を持つ完全な肉の空間に戻ることになりました。それで、自然のすべてが根本の肉の法則に従って運行されているので、22節「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」とおっしゃったのです。

最初の人アダムが罪を犯してこの地に追い出されてから、この地は人によって呪われ、初めの神様が取り囲まれた光が多く取り込まれ、以前とは違う肉の法則が適用され始めました。創世記3:17後半または19節に、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と言われた通りです。
 
しかし、ノアの洪水以前までは、それでも神様が囲んでくださった光がすべて取り込められたわけではないので、この地が完全な肉の法則が適用される空間ではありませんでした。しかし、光が完全に取り込められた後からは、現在のような肉の空間になるので、以前とはまた違う肉の法則が生じたのです。光が残っている間は、神様の力でこの地は人が生きていくのに最も適した環境として維持されましたが、完全な肉の法則が適用されてからは、寒さと暑さ、夏と冬が明確に現れるようになり、地域によっても肥沃なところと痩せたところ、平和で美しいところとそうでないところがあらわれるようになりました。地が持っている根本の肉の属性に従うことになったのです。

例えば、根本の土地の土質がやせているところでも、以前は光の能力によって現れなかったのが、光が取り込められるにつれて、根本的な土質が明らかになり、徐々にやせた土地に変わっていったということです。人も根本にあった肉の属性が出てくるので、次第に悪に染まっていくのと同じことです。特に現在の中東の土地は、人間耕作の始まりとともに悪がひどく満ちたため、洪水の審判の原因となったところであり、罪悪による呪いのため、他の土地よりも肥沃でない厳しい環境の中に置かれたことがわかります。かつてはアダムが初めて定住した場所であり、多くの人々が集まって暮らすほど、肥沃で豊かに見えた土地でしたが、神様の恵みが去り、呪いが臨むと、根本の属性が明らかになって呪いを受けた土地になってしまったのです。


洪水以後、ノアと彼の家族は新しい人生を始め、心の中では「これからは神様が望むように行っていきます」と決心しましたが、完全に肉の空間に戻り、根本の肉の属性が明らかになり始めた土地で生きていくので、決心したこととは異なり、むしろ次第に悪に突き進んでいきます。ですからこういう環境の中で数千年が過ぎた今日、根本に内在した肉の属性を取り除き、聖潔にされて霊に入ってくるということは、簡単にできることではありません。

ですから、父なる神様はこのような世でも悪を脱いで変化し、霊に入った人をとても喜ばれるのです。このような人には、たとえ肉の空間にいるにもかかわらず、霊の空間で行うことが出来る能力を与えてくれるのですが、これがまさに御力です。つまり、心を霊に耕した人は、肉の空間でも霊の空間の働きができるのです。この時、霊の空間の働きとは、肉の空間では不可能なこと、ただ肉の空間と法則を超越する神の力だけで出来ることです。

皆さんは、この教会を通して、このような霊の空間の出来事をこれまで数えきれないほど見てきました。不思議な虹、雲が現れ消えること、星の移動などをはじめとしたしるしと、見えない人の目を開け、聞こえない人が言葉を聞き、耳が聞こえ、動けない体が起きあがるなど、計り知れないしるしがまさにその証拠でしょう。そして今は皆さんの中でも心を霊に耕した方々を通して、霊の空間のはたらきが起きています。

 

たとえ自らはまだ完全ではないとしても、この教会にはすでに霊の空間の出来事が起こり得る道が開かれているので、その道を知って出てくる方々には同じ働きが現れているのです。これらの働きが皆さんにも信仰になって、迅速に肉を脱いで霊に入り、これ以上肉の空間に縛られているのではなく、一次元高い霊の空間に属して肉を支配して治める者になることを主の御名によって祈ります。
 

朝の学び75 創世記8章  

創世記8:20-22
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

心が善な人々 

アダムの犯罪以後、子孫には気を通して先祖から伝わる肉の属性が積み上げられ、ノアの洪水後にさらに急速になりました。ところが、気を通して人の本性の深いところに内在する肉の属性は、容易に発見して捨てることが出来るものではありません。それを発見してしまうためには厳しい訓練が必要な場合があります。例えば、自分自身について「もうある程度悪の形を捨てた」と思っていた方々の中にも、父なる神様が訓練を許されれば、自分も知らなかった心の深いところにある悪の形があらわれる場合があります。

ヨブの場合がまさにそうでした。神様がヨブに試みを許されると、その訓練を通して心の深いところに潜在していた肉の属性が、膨大な悪の形にまでなって出てくるのを見ることができます。だからヨブにこのような訓練がなかったならば、ヨブ自身は決して自分の中にある根本的な肉の属性を発見して捨てることができなかったでしょう。

このように訓練がすぐには大変で心の痛みも伴いますが、その訓練の時こそ自分の深い心の中まで解剖し、気の中にある肉の属性を発見して捨てることができる祝福の機会だという事です。訓練を通して気の中にある肉の属性まで発見して捨ててしまうと、その後与えられる祝福は素晴らしいものだからです。

またこのような訓練がある時だけ、訓練の中から出てくる自分の姿を見て、「まだ私の中にこのような悪の形が残っている」と自らを発見するだけでなく、その悪がどれほど汚れて醜いかを心の中心で感じて悟ることができるのです。訓練を通して、悪の形を神様がどれほど嫌がっているのかをまさに悟られなければ、その悪の形を脱いで聖潔になることができないのです。ですから父なる神様は、訓練を受けることができる器である人には、自分の本性の中の悪まで発見することができる訓練を許されるのです。

ダビデ王もそうでした。ダビデ王は自分の部下であるウリアの妻を身ごもらせ、その事実を隠そうとし、結局は忠実な部下であるウリアを異邦人の手によって死なせる、途方もない悪まで行なうようになります。ところがもし父なる神様が、ダビデ王がウリアの妻バテシェバを身ごもらせることを最初から阻止されたなら、ダビデ王がそのように大きな悪まで行なうことはなかったでしょう。しかし、父なる神はダビデ王の行動を妨げませんでした。まさにその事件を通して、ダビデ王が徹底的に自分を発見し、変化し、より完全な姿に出てくることが分かっていたからです。

しかし重要なのは、まさに訓練を受ける人の姿です。ダビデ王は神がナタン預言者を通して彼の罪を指摘すると、すぐにその場で悔い改め、立ち返りました。そして、自分が行った悪のために、後に自分にやって来たすべての報いまでも喜んで感謝の気持ちで受けました。自分に与えられた報いを避けようとせず、一度も文句を言ったり、不満を吐露したこともありません。

一方、ヨブの場合はどうでしたか?友達が訪れて自分の姿を指摘すると、自分を発見して悔い改めるよりは、友達と弁論して悪を発しました。もちろん、後には神様が親しくヨブを悟らせてくださると、その場で悔い改めて立ち返りましたが、それまではあまりにも多くの言葉を発して悪を行ったのです。結果的にはダビデ王とヨブの両方が訓練を通して自分を発見して変化し、神様の祝福の中に至りましたが、訓練を受ける姿はこのように互いに異なっていたのです。 

ダビデは指摘を受けるとその場で悔い改め、ヨブは友人たちが指摘をしても弁論だけをして、神様ご自身の親しい声を聞いたときになって、ようやく目が覚めたのです。自分に与えられた訓練と自分の悪のために受けた報いまでも感謝の気持ちで受けたダビデ王は、今天国の序列の非常に尊い場所に至りましたが、そうではなかったヨブは、ダビデ王とは比較できない位置にあるという事実です。

これがまさに心の地の違いです。もし神様がダビデ王にヨブのような訓練を許されたとしても、ダビデ王は決してヨブのように話したり行動したりしなかったでしょう。ダビデ王もヨブも神様が過酷な訓練であっても許されるような器でしたが、その心においてはこのように差があったのです。このように心の地も良く、従順であり、御言葉どおり守って行なう人であっても、その心がどれほど善良なのかによって、神様から愛と認められる程度が変わるという事です。

ノアもこのような観点から見ると、彼が天国の高い序列に上がった人々とは、その心の地が違うことがわかります。本格的な人間耕作とともに、ノアからも本性の中に内在していた肉の属性が明らかになりますが、これを物語っている代表的な事件が創世記9章で、自分の過ちを現した息子ハムのことを呪う場面です。葡萄酒に酔って裸で自分の恥をさらす行動を見せただけでなく、このような自分のあやまちをあらわにした息子まで呪ってしまう、悪い姿が出ています。

しかし、もしアブラハム預言者モーセがそのような状況になったとしたら、果たして彼らは自分の息子をノアのように呪いましたか?そうではありませんでした。これがまさに心がどれほど善いかどうかかの違いであり、ノアの心がアブラハムや預言者モーセに続くことはできないのです。

預言者エリヤと彼の弟子であった預言者エリシャを見ても、その2人の心がどれほど違うのかがわかります。預言者エリシャは師であるエリヤから二倍の霊の分け前を受け、また聖書を見れば驚くべきしるしをたくさん行ったにもかかわらず、天国でのその位置が預言者エリヤとは比較になりません。その理由が分かる事件が列王記第二2章に出ています。

ベテルに上っていた預言者エリシャに向かって小さい子どもたちが集まってきて、「上って来い、はげ頭、上って来い、はげ頭。」とからかいます。するとエリシャがこれに我慢できず、子供たちに向かって呪いをかけると、森の中から二頭の雌熊が出てきて、子供たちの中で四十二人をかき裂きました。 

ところで、この瞬間に預言者エリヤがその場にいたとしたら、果たしてエリヤもそのようにしたでしょうか?決してそうではなかったでしょう。エリシャと師であるエリヤの心の善の違いが分かるのです。エリシャも大きな権能を行って、神様の道具として使われた人でしたが、彼がそうすることができたのには、まさに師のエリヤを通して神様が下された恵みが大きかったという事です。
 
神様は各人の心を見て、その心が善良な人をもっと喜ばれます。ところが、このような善良な心はある程度、生まれつきの傾向もありますが、まさに心を変化させてくださる神様を信じて、神様の御心の中で行っていく時、善良な心に変化することができます。もちろん、心というものが変化することは容易ではないので、心を変化させるためには、神様が許される厳しい訓練の中でも、訓練に耐え抜く変わらない心を持たなければなりません。そして、このような変わらない心が積み重ねられながら、その心の中心が善に変化できるという事を知らなければなりません。

しかし、皆さんが一つ知っておくべきことは、自分自身が早く良い心に変化するためには、厳しい訓練をも受けなければならないということです。だから誰でも訓練が許されるわけではないということです。先ほど申し上げたように、訓練とは神様が受ける人の器を見て、それに合わせて許されます。本当に神様が大きく使われる器には、時が来れば神様が許される訓練が訪れます。それで、それぞれの器と信仰の分量に合わせて許される訓練の過程を通して、御父の神様が喜ばれる善い心に変化されますように願います。

結論

皆さん、ノアと彼の家族は新しい世界で新しい人生を始め、心に多くの誓いをしたはずです。なぜ洪水の裁きがきて、その結果が何であったのかをあまりにもよく知っている彼らであったので、自分たちが今後どのように神様の御心の中で生きるべきかを誓ったのです。

ところが、いざ完全に肉の空間になってしまったこの世の中で実際に生きていくようになると、最初の思い通りのようにはいきませんでした。根本の悪が明らかになり、それが様々の悪の形で現れ、人々は速いスピードで悪に染まっていったのです。このように心の中にある悪というのは、心に誓うからといって簡単に捨てられるわけではありません。ただ神様の真理に照らして、自分を徹底的に発見して、自分を否定して捨てて行かなければなりません。

そのため訓練が必要なのであり、訓練を通して自分の義が砕かれていき、心の中に潜在した細かい悪の形までも発見してしまうことができるのです。しかし訓練を受けていく時に、必ず必要なのが祈りです。訓練の中でも休まないで祈る時、自分を発見することができ、発見された悪の形を捨てる力も与えられます。

ですから、みなさんはみことばと祈りでどんな訓練でもすばやく通過し、純金のような信仰を持った霊的な勇士たちになって出てきますように。それで終わりの時に、神様の国のために大きく用いられる貴い神様の道具になるだけでなく、将来天国でも太陽のように輝く席に多くの方々が至るようになることを主の御名でお祈りいたします。










 

朝の学び74 創世記8章  

創世記8:20-22
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

全焼のいけにえの霊的な意味

ノアが箱舟から出た後、最初にしたことは、神の前に祭壇を築き、全焼のいけにえを捧げることでした。家畜を取って全焼のいけにえとしてささげるということは、私たちの命そのものを神様に捧げるという意味であり、神様が私たちに命じられたすべての戒めを守ることを意味します。すなわち、神様のみことばを完全に守り行い、聖潔で神聖に生きて、私たちのすべての人生を神様の前にささげることが、全焼のいけにえの霊的な意味です。ノアが捧げた全焼のいけにえには、このような霊的な意味がそのまま込められていました。

 

ノアは箱舟から出て、新しい世界に最初の足を踏み出しながら、自分の命を救ってくださった神様に心から感謝しました。そして今、自分の命は完全に神様のものであることを告白する霊的な意味を込めて、全焼のいけにえを捧げたのです。また、万物に対する神様の主権と、今後のすべての人生を神様に任せるという意味が込められていました。

 

すなわち、これからの生活の中で、ただ神様の御言葉の中に生き、神様の御心を受け入れていくということです。又これと共に、後の日に子どもたちのすべてまでも神様の前に任せるということが含まれていました。このように、ノアが捧げた最初の全焼のいけにえの中には、様々な霊的な意味が込められていました。

 


洪水以後、ノアの最初の全焼のいけにえと告白

ノアが洪水の前に捧げた全焼のいけにえと、洪水の後に捧げた全焼のいけにえとは大きく異なる点があります。それはまさに神とノアの関係性です。以前、ノアが神様にささげた告白を紹介したことがありますが、その時、ノアは神様を「父」と呼びました。しかし、洪水が終わった後からは、神様を「ヤーウェ神様」と呼ぶようになりました。洪水以後の光が収められ、この地が徹底的に肉の空間になるにつれて、人間と神様との関係も新しい関係で確立されたのです。

以前は神様を父として接しいつも交わり、すべてを細かく伝えながら答えられましたが、洪水の後からはこのような交わりが制限されます。努力して苦労して汗を流して祈る時であってこそ交りが行われ、神様の特別な御心がある時だけ交わりが成されるようになりました。人間と神様との間に神様が畏敬の対象であり、仕えの対象であり、主権者として接することになる垂直的な関係が形成されたからです。それで、ノアの洪水以後、神様の前に最初の全焼のいけにえをささげたときの告白は、以前の告白とは大きく異なっていたことがわかります。

「神様が私たちすべての命を救い、救われたことに感謝します。今、新しい地と新しい世界が広がっています。わたしたちの命を生かし、救われ、新たにこの世界を造っていかれる神様に、このように全焼のいけにえをお捧げします。私たちの命を救い、私たちの家族を救い、このように新たに始めていただきまことにありがとうございます。」

ノアは徹底的に神の主権の前に自分を低くして、神様が施してくださった全面的な救いの恩恵に感謝を表現しています。もはや父親と子どもとしての関係というよりは、主権者と被造物としての関係が感じられます。このような神様との関係性の再確立と共に、人間に現れた大きな変化は、まさに本性の中に内在していた肉の属性が現れ始めたことです。

ノアの洪水以後、明らかになった根本の肉の属性 

ノアが義人であり、当世に完全な者だと言っても、それは神様が囲まれた光の中に住んでいた時の姿でした。ノアを義人と言ったのも、父なる神様の側から見るときには、ノアが完全に義人の資格を備えているのではなく、ノアの時代の水準では義人であることであり、当世に完全な者と言われたのも同様です。神様の基準から見て絶対的に完全な者という意味ではなく、全て罪悪でつかさどられた当時の状況の中で見ると、相対的に完全な者と考えられたということです。

しかし、当時としてはノアほど神様の前にその心を合わせた人はおらず、結局、神様はノアを選んで新しい人間耕作の始まりを導いていくことになります。そして、人の心の中に潜在した根本の肉の属性まで開墾していく本格的な人間耕作が始まると、ノアからも洪水以前には見られなかった悪の形が一つ一つ明らかになります。

心に訓練を受けて霊に変化したものは、どんな肉の環境が与えられたとしてもまた変わりません。しかし、ノアはまだ心の奥底まで訓練を受ける本格的な耕作を受けて、霊が育てられたわけではないため、新しい肉の環境に置かれることになると、本性の中に内在していた肉の属性が出てきたのです。

まるで温室の中で育てた花や草が温室の中ではよく成長しますが、温室の外に出すと新しい環境にうまく適応できず、色々な問題が現れることと同じだと言えます。このようにノアの洪水以前に光で囲まれていた世界とノアの洪水以後、光が取り込まれた世界とは全く違うという事です。


創世記8章21-22節です。

「主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。』」

今後人間耕作が終わる瞬間まで、再びノアの洪水のような審判としてこの土地を呪うことはしないという言葉です。神様がこの地を呪われ、水で裁かれた理由は、まさに人間の悪のためでしたが、実は洪水後からは人間の悪が以前よりはるかに増すことになります。神様が「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」とおっしゃったのも、まさに神様は、今後人々がどのようになるのかをご存知だからおっしゃったことです。

神が「初めから悪である」と言われた理由は、光が取り込まれると、それだけ人々が悪に染まりやすくなり、ここに祖先から気を通して伝わる悪が積もり、歳月が経つにつれて人々はさらに悪くなることを教えてくださるのです。また、人々が迅速に悪に突き進んでいくという意味も込められています。それだけ幼い時から悪に染まっていくという意味です。だから、この地は歳月があまりたたないうちに、むしろノアの当時よりも悪が染まっていくしかありませんでした。

父なる神様もまさにこれらの事実を当然知っておられるので、たとえ人々がノアの当時のように悪くなるとして、それによってこの地を再び呪い、裁きをしないようにするという意味で、「わたしは決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」とおっしゃったのです。もし人々が再び悪になるとして、神様がノアの洪水のような審判をまた再び下すなら、この地は継続して審判と新しい人間耕作が繰り返されるしかないでしょう。

しかし、ノアの洪水の審判は、人間の耕作の摂理の中で一度の出来事として計画されたものであり、その後の最後の審判まで、ノアの審判のような呪いはもはやありません。創世以来、すべての人類を審判する最後の審判だけが残っています。

だからといって、人によってこの地が呪われる事が全くないわけではありません。この地全体が呪いを受けることはありませんが、神様が見る時、人々の罪悪が公義の限界線を越えた場合には、それにふさわしい代価を払わせます。例えば、今日世界的に見て、国家や地域的に偶像崇拝が激しくそのうちの重い所は呪いの地になっていくことがわかります。

目に見える肉的な呪いももちろんですが、目に見えない霊的な呪いによって、邪悪な霊の巣窟に転落していくことが見られます。かつては、神様を愛して、国が繁栄して旺盛だった国々が、今はますます神様を遠ざけていくことで、それと共に国々も疲弊し、悪に染まり難しくなっていくのを見ることになります。

神様はノアの洪水という大審判を通して神様を離れて罪悪の中に暮らすことがどんな結果をもたらすのかという事を十分に悟らせてくださいました。それでも人々はノアの洪水が与える教訓を忘れたまま急速に悪に染まっていき、今日のような状況に至ったのです。それで、神はノアの洪水後も時を追って預言者たちを立て、彼らを通して父の御心を宣言されました。心が善良な人々を選んで、預言者として、使徒として立て、彼らを通して人間耕作の最後の瞬間まで、父なる神様の摂理を成し遂げていくのです。

朝の学び73 創世記8章  

創世記8:13-20
ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

 

ノアの洪水で光が取り込まれた後の姿


箱舟から出てきたノアと彼の家族たちには、今やまったく新しい世界が繰り広げられるようになります。肉的な環境が変わったのはもちろん、光が取り囲まれていた時とは多くのことが変わりました。このような新しい世に出てきたノアは、最初に父なる神様の前に祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげます。この瞬間、ノアの心にはどれほど恵みと感謝があふれていたでしょうか?

洪水の審判があることを知った時から箱舟を準備していた長い時間、箱舟の中で生活していた時間、その時間の中にあった数多くの事がらが走馬灯のように過ぎさり、ノアと彼の家族は自分たちを救われた神様、自分たちを通して新しい人間耕作を繰り広げられる神様に、心から湧き出る感謝の祭壇を築いたのです。

しかし一方では哀痛の気持ちもありました。箱舟に入る時は、数多くの人々でにぎわっていた土地でしたが、今や箱舟から出てみると、自分や家族以外には誰もいません。洪水の審判がどんなものだったのかが実感する瞬間です。洪水の中に絶叫して死んでいった数多くの人々の姿が通り過ぎて、ノアの心がどれほど痛かったでしょうか?

「私がそのように審判があると叫んだとき、彼らが私の言葉に耳を傾けていたら…」 「私がもっと熱心に彼らに伝えたら…」 と言うことです。しかし、私と皆さんには、このような後悔があってはなりません。

やがて、私たちの主が私たちを迎えに来られたときにこの地に残された人々を見ながら、私たちもノアのような後悔と哀悼をしてはならないということです。ですから、その時が来る前に、私たちは地の果てまで、まだ主の福音を聞いていない魂たちに熱心に聖めの福音を伝えなければなりません。


ところがノアに押し寄せるもう一つの心はまさに寂寞(せきばく)でした。今、光が取り込められた世界の中で、一人残されたようなところから来る寂寞さでした。これはアダムの場合を考えてみるとわかります。アダムが罪を犯し、第二の天から追い出され、第一の天に降りてきたとき、すべてが見慣れないもので、第二の天とは光もまったく違う第一の天の人生がどれほど寂しくて寂寞としていたでしょうか。それでいつも第二の天に憧れて生きるしかなかったのです。

もちろん、ノアの場合はアダムのように罪を犯して呪われたわけではありませんが、それでも光が取り込められた後のこの世界は、前とはあまりにも感じが違いました。これにより来る静けさと恐怖が心の片隅にあるしかなかったのです。このようなノアには洪水がある前よりも神様の恵みがもっと必要でした。ですから、光が取り込められた後でしたが、父なる神様はノアとの交わりを完全に断ったのではなく、時に応じて恵みを与えて、神様の御心を教えてくださいました。


アダムが罪を犯し、第二の天から追い出され、第一の天に降りてきた時も、随時アダムと交わりをしてくださり、父の御心を教えてくださって導いていったようにです。それにもかかわらず、アダムは肉の空間に出てきた後、次第に肉に変質することができる属性が現れるようになります。肉の空間に出て耕作を受け始めると、心の中にあった様々な肉の属性が現れ始めたのです。しかし、洪水が起こるまでは、それでも根本的な肉の属性が明らかになったわけではありません。ノアと彼の家族が箱舟から出てきてから、根本に内在していた肉の属性が現れ始め、この時から本格的な人間耕作が始まったのです。

そしてその時代の義人と称されたノアでしたが、このように根本の肉の属性が出始めると、以前に発見できなかった姿が一つ一つあきらかに現れ始めます。次第に肉に変質していったという意味です。彼がどのように変質したのかは今後、第9章で説明されますが、ここで私たちは何故ノアがその時代の義人であるのかその理由を悟ることができます。

光で囲まれた状態で耕作されたノアの姿は完全に見えたが、いざ光が取り込まれた肉の空間で試練が与えられると、根本の中にあった肉の属性が発見されたのです。ノアはこれらの根本にある内在した属性までは、この地で完全に捨てることができずに人生を終えたので、彼がやり遂げた使命と立場に比べて天国での序列がそれほど高くなかったのです。ここで、なぜ人間耕作が必要であり、試練 訓練がなぜ必要なのかを理解することができます。

エデンの園でのアダムの姿が彼の真の姿ではなかったかのように、光で囲まれている間のノアの姿も彼の真の姿ではなかったでしょう。依然として、根本の中には変質しうる肉の属性を持っているまま、ただ光の能力の中でそれが押しこめられていただけでした。このような根本的な肉の属性を引き出し、変わらない霊に変えるために、まさに人間耕作が必要であり、その過程には必ず試練がなければなりません。

ヨブも神がなぜ試練を許されましたか。彼の根本の中にある肉の姿まで引き出し、彼を完全に霊に変化させようと許されたのです。
ヨブ記 1:1 に、「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と言われたヨブも、神様が訓練を許されると、根本の中に内在していた悪の形がどれほど明らかになるかを見ることができます。

もしヨブに父なる神様が試練を許されなかったならば、ヨブはどうなりましたか。自らはいくら完全だと思っても、根本に潜在する悪を発見できないので、結局聖潔に至ることができなかったでしょう。ですから、ヨブが自分自身を発見し、破り、変化することができるように試練を許されることが、父なる神様の愛であり、人間耕作の真の意味であるという事です。ですから皆さんも完全に聖められ、神様の姿を回復するまでは絶え間ない試練が許されるのです。もちろん、聖められた後も試練はありますが、それは罪を発見して捨てるための訓練とは次元が異なります。次回は、ノアの姿を通して試練がなぜ必要であるのかを見てみましょう。



結論


皆さん前述のとおり、ノアは当代の義人であり、人間耕作の歴史においてとても重要な役割を果たした人物です。神様の御心に完全に従順だった人であり、自分に任された使命も忠実に果たした人です。それにもかかわらず、彼が天国でそれほど高い序列に至らなかった理由は、まさに根本の中に内在していた悪のためだと言いました。以前は知らずに過ごしていた悪の姿が新しい人間耕作と共に発見されたのですが、ノアはそれを完全に脱することが出来なかったのです。

これは今日も同様に当てはまります。いくら神様の前に使命に耐え、忠実な働き人であっても、また頭になっていて重要な職責を務めているとしても、それで天国の位置が決まるわけではありません。試練を通して自分を発見して変化するので、その心にどれくらい主の心を成し遂げたのか、どれくらい父なる神様が望む真理の心を成し遂げたかによって、天国での位置は決まるという事です。

天国で24名の長老に入る方々を見ると、聖書上で彼らがどれほど重要な役職を務め、どれくらい大きな役割を果たしたのかによって決まるのではありません。たとえ執事だとしても、聖書上にしばらく記録された人だとしても、その心と行いが神様の前に認められた人々です。これらの事実を悟り、試練を通して素早く自分を発見し、霊に全き霊に変わりますように。

それが祝福であり、天国でも永遠の栄光になるのです。そして、急速な霊の波の中で
「私は毎日が死の連続です」という使徒パウロの告白のように、毎日自分を発見し、主を見習う賢い聖徒になりますように主の御名でお祈りします。

朝の学び72 創世記8章  

創世記8:13-20
ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

 

公義の中で働かれる神様


ノアの洪水が止まって水が渇いて、水が完全に引いて乾燥するまでのすべてのことも肉の秩序と法則に従ったことを見ることができます。神様の力で瞬間に水が消えて地が乾いたのではなく、肉の法則によって水が蒸発して乾くには風も必要であり、十分な時間もかかったのです。洪水とともに光が取り込められ、この地には肉の根本的な属性が現れ、これと共に肉の秩序と法則も生まれるようになりますが、父なる神様はまさにこのような肉の秩序と法則を自らも尊重して従ったのです。

神様は、万物の主菅者として望めば何でもできるのにもかかわらず、真の子どもを得るための人間耕作を成し遂げるために、このように自らも公義の中で肉の秩序と法則に従っておられるのです。これは今日も同じです。もし父なる神様が肉の秩序と法則を無視され、無限の権威と力を存分に現わしているなら、今日神様を信じない人はおそらくほとんどいないでしょう。

例えば、自然の法則を破って、しばしば天気を主管していかれたり、初めに地球を創造する時のような創造のみわざを、今でも世界中のあちこちに現わしているとしたら、今日、神様を信じない人はおそらくほとんどいないでしょう。神様の力の前に恐れても信じるでしょう。しかし、神様は肉の空間の中では、自ら肉の秩序と法則に従われるので、そのように肉の秩序と法則に反することは行われないのです。



確かな公義の中で働かれる神様の力


それでは、聖書に肉の秩序と法則にはずれる奇跡としるしが何度も現れたのはなぜでしょうか。例えば、空から火が降ってきたり、風と波が一瞬にして静まり、死んだ者が生き返るなどのことが出てくるのですが、これを通して人々が神様を信じて認めるようになりました。
それでは、これらのことは神の力を示し、人々が主を信じて救いに至るようにするために神が肉の秩序と法則を破ったのでしょうか。そうではありません。これは公義に反するものでもなく、肉の秩序と法則を破ったものでもありません。

神様の力は正確な公義の中で働かれます。例えば、神様が天に火で文字を刻んだり、何人かに直接現れ人々に神様を信じさせるならば、これに対しては敵である悪魔・サタンも訴えることが出来ます。「公義に反する」と言います。そうして、神様を信じない人がどこにいるのかと問い詰めることになるということです。

しかし、公義の中でふさわしい資格を持つ人が神様の力を示すことについては、敵である悪魔・サタンも訴えることができません。そしてこの時、神様の力が肉の法則と秩序の限界を越えても、これは公義からはずれるものではありません。このように肉の空間の中では肉の秩序と法則に従うことになりますが、時には肉の空間の中でも肉の秩序と法則とは例外的なことが起こる場合があります。これは、肉の秩序と法則を破ったものではなく、その瞬間だけは、霊の空間での秩序と法則が適用されるからです。

たとえを見てみましょう。今日、世界の国々は、相互に外交関係を結び、相手国に外交官を派遣することになります。ところが、これらの外交官が居住する大使館や領事館は国内法の適用を受けません。大使館と領事館内の空間については、その国の領土として認めてくれるからです。そのため、もし我が国の法に違反する人が他の国の大使館や領事館の中に入ると、我が国の法に基づき任意に入ってその人を逮捕できるわけではありません。我が国の領土の中にありながらも、法の適用はその国の法と原則に従うことになります。このように、たとえ肉の空間の中にあっても、肉の秩序と法則に例外があるかもしれないということでしょう。
それがまさに神の力の働きであるという事です。

したがって、肉の空間の中でも、霊の空間のように霊の秩序と法則によって、肉では想像できないことが起こります。肉の秩序と法則にはずれて見えますが、その瞬間だけは肉の空間ではなく霊の空間の法則として働かれるからです。例えば、イエス様が命じられた瞬間に風と波が静まったのは、風と波が肉の法則に従ったのではなく、その瞬間だけは霊の空間の霊の流れに従順したからです。たとえ肉の空間であっても、肉の法則と秩序に適用されない霊の空間が形成され、このような御力のみわざが起こるのです。他国の大使館が我が国の領土内にあるにもかかわらず、我が国の法律に適用されないかのようです。

肉の空間の中でも霊の空間の適用を受けることになると、肉の秩序と法則を超越する現象が起こることができるのです。そしてこれは公義に反するものでも肉の秩序と法則を破るのでもありません。しかし、誰もがこれらのことを現わすことが出来るわけではありません。肉の空間にありながらも、霊の空間で起こることができることを示すためには、そのような資格条件を備えなければなりません。



ノアの完全な従順


このように、父なる神様は、自分が作られた秩序と法則であってもそれを尊重し、その中で行う方であるので、すべてのことは正確な公義の中で成し遂げられます。したがって、父なる神様の公義によって、肉の空間で霊の空間の働きが現れるためには、人の方での従順が必ず必要です。ノアを通して新たに人間耕作が始まることができたのも、まさにノアの従順があったからです。ノアが父なる神の言葉にどれ一つも従わなかった場合、洪水の裁きの後の新しい人間耕作は始まりにくかったでしょう。

今日の本文を見ると、ノアがどれほど神の御言葉に完全に従順であったかがわかります。ノアは六百一年の正月すぐにその月の日に地面に水が引いたからといって、すぐに箱舟の扉を開けて外に出たわけではありません。父なる神様が「もう出なさい」と言われるまでは、依然としてまだ箱舟の中にとどまっていました。私たちはここで完全な従順が何かをもう一度考えてみなければなりません。

ノアと彼の家族は一年近く箱舟の中で生活し、一日も休めないまま動物たちの世話をしなければなりませんでした。一日でも早くその生活から抜け出したいのが人の当たり前の心でしょう。また箱舟という限られた空間の中で生活してみると、当然広くて涼しい外の世界が恋しくなるでしょう。だからノアと彼の家族は、「洪水が終わって地が乾いたら、一日でも早く外に出なければならない」という考えをいくらでも抱くことができます。

ところが、ノアと彼の家族は、水が引いたことを確認しても、任意に出たのではなく、最後まで神様のみことばを待っていたという事です。ノアは最後まで神様の御心を察し、神様の御心に従いました。

では、今日の皆さんの姿はどうですか?
皆さんもいつも父なる神様の御心を察しながら、その御心に最後まで従い続けていますか? 最初はいくら従順だったとしても、途中で変化したり、最後の瞬間にでも変化していれば、これは完全な従順にはなりません。結果は不従順になります。

例えば、今年は教会の方針が前半期には祈り、伝道、使命に力を入れ、一切教育や行事を行わないということでした。ところが6月29日まではよくやっても、もし6月30日にある組織で行事を持っていたら、これまでどんなに頑張っていても、結果は不従順になってしまうということです。

これは一例ですが、教会の中で見ると、時間が経つにつれて最初に指示されたことから変質することがあちこちにあります。指摘してあげればすぐには直すようであっても、少し時間が過ぎるとまた再び以前の姿に戻る場合があります。そして従順についてもう一つ悟らなければならないことは、本人の側ではいくら従うとしても、それが神様の御心と合わなければ不従順になってしまうという事です。

前の時間に説明をしましたが、ノアは水が減ったかどうかを知るために鳥を飛ばしたとき、カラスは水が地面に乾くまで行き来したにもかかわらず、結局ノアが望む答えを持ってくることが出来なかったでしょう。カラスは熱心に外の世界と箱舟の間を行きましたが、いざノアが望む心に合わせられなかったのです。

しかし、ピレモン1:21に、「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。」と言われたように、神様があなたの従順を信頼でき、皆様も父なる神様のおっしゃった以上をやり遂げられる忠実な主の働き人にならなければなりません。

 

朝の学び71 創世記8章  

[創世記8:6–14]
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」

信仰には行いが伴う


ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を放ったということから、いくつかの教訓を得ることができると言いました。その第一は、信仰には行いが伴うということでした。ノアは、大洪水のさばきの前、神のことばに完全に聞き従っていたのがわかりました。ただ、その時の従順は、神がすべてを備えてくださった状況の中で、そのまま聞き従う次元でした。たとえば、箱舟をどう造るかもいちいち具体的に教えてくださったのです。また、動物を箱舟に乗せることも、神ご自身が働いてくださいました。

ところが、大洪水のさばきの後からは、人間耕作が新たに始まります。それで、神は大洪水が終わるところで、ノアが自分から進んで「行い」を見せることができるように導いておらます。これからは、ノアがそれぞれの状況に合わせて、自分か行うべきことを心に働きかけられて行うことで、神のみこころを実現するように導かれるのです。

エジプトから出て来たイスラエルの民も、葦の海は全く神様の恵みで渡りましたが、カナンの地を前にしてヨルダン川を渡る時は、信仰の行いを見せなければなりませんでした。神は民の信仰が成長しただけ、それにふさわしい行いを見せるように導いていかれたのです。イエス様も御力を施されるとき、相手が最小限の信仰を見せるように導かれるのがわかります。

 

ヨハネ9章で、生まれつき目の見えない人を見えるようにするとき、そうされました。イエス様は泥を作り、その人の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。

こう言われたのは、イエス様がただおことばだけでは、その人の目をいやすことがおできにならないからでしょうか? シロアムの池に目が見えるようにする特効成分があるからでしょうか? そうではありません。その人がイエス様のおことばを信じて、そのとおりに聞き従う行いを見せるように、その道を提示してくださったのです。そうしてこそイエス様を救い主として信じられるし、永遠のいのちも得られるからです。

このように、皆さんは神の御前で当然すべきことを行うとき、または思いを働かせないで聞き従うとき、それを信仰と認められて神のみわざを体験できるのです。その過程を通して神に対する信仰が育ち、信仰の結果である救いに至るようになります。皆さんも、信仰が成長する過程で、以前ほど答えがそのつど直ちに来ないと感じられる時があるでしょう。このような場合の原因が、もちろん罪の壁にあることもあります。ところが、自分を顧みて罪の壁がないなら、それだけ神への信頼が強くなったのかをご覧になる過程かもしれません。

親が赤ちゃんを育てるとき、ひとりで歩けない時は、抱っこしておんぶしてあげます。しかし、子どもがもうひとりで歩くべき時になれば、しょっちゅう転んで痛くて泣いても、抱っこしてあげません。泣くのがかわいそうで、いつも親が抱っこしてあげるなら、その子はいつまでもひとりで歩けない子になるからです。

私たちの霊のお父様、神様も、このように私たちを育てられる時があります。ですから、皆さんが訓練を受けている間、まるでひとりでいるように感じられる時は、このことばを思い起こしてください。私たちに向けられた父なる神様の良きみこころと深い愛が悟れますように。それで、気を落としたり絶望しないで、もう一度立ち上がる力を振り絞りますように。


第二、大洪水以降は神と交わることがいっそう簡単でなくなった。


ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を使ったことから、私たちは、第二に、大洪水以降は神と交わることがいっそう簡単でなくなったことがわかります。ノアは大洪水の前までは、父なる神と明らかに交わりながら、多くを聞いて悟れました。ところが、大洪水が始まった後は、状況が変わりました。初めの光が、大洪水が始まると同時にこの地上から完全に取り込まれると、この地上では肉の気運がさらに強くなっていきました。

天地創造の第一日に、神が「光があれ。」と仰せられたとき、初めの光がこの地上を取り巻いたと言いました。ところが、アダムが罪を犯したことでエデンの園からこの地上に追い出されて来た時から、初めの光は取り込まれ始めました。この地上にいるすべての被造物も、その時から初めの光が取り込まれるほど、肉の根本の属性が現れ始めました。それでも初めの光のほうが強くて、神と交わることには支障はありませんでした。

しかし、大洪水の後は、初めの光がすっかり取り込まれたので、肉の根本の属性のほうが強くなったのです。それで、神と交わるためには、以前とは違って、より多くの努力と行いがなければならないのです。前は、神の恵みのうちに楽に交われたとすれば、今はそれだけ努力して切に求めてこそ霊の世界を突き抜けられるようになりました。

まして、罪と悪がさらにはびこったこの終わりの時はどうでしょうか。霊の世界を突き抜けて神と交わるためには、数えきれないほどの祈りと断食を積まなければならないのです。幸いなことに、今は旧約時代と違って、聖霊が神の子どもたちの心に住まわれています。ですから、聖徒の皆さんは絶えず御霊によって目を覚まして祈っていてください。聖霊の声を聞いて明らかに働きかけられて、霊的に真っ暗なこの世でいつも明るい光へと導かれますように。


カラスと鳩の2種類の鳥から得ることができる霊的な教訓


皆さん、ノアは水が引いたかどうかを知ろうとしたとき、烏と鳩を選んで使いました。[7節]を読むと、まず「烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。」とあります。烏は、このように水が地からかわききるまで飛び回っていたのに、ついにノアが望んでいる答えを持ってきませんでした。結果的に、烏はノアにとって何の役にも立てなかったのです。

ノアが望んでいる答えを持ってきた鳥は烏ではなく、鳩でした。ノアが鳥を箱舟の外に放った目的は何でしょうか?「水が引いて地がかわいて、自分たちが生きていける環境になった」という、うれしい知らせを得ることです。烏はその知らせを持ってきませんでしたが、鳩はノアが望んでいる知らせを持ってきました。ノアは烏でなく、鳩を通して箱舟の外の世界について知ろうとしたことを知ることができたのです。

皆さんは、神の国において、「烏」のような働き人でしょうか?「鳩」のような働き人でしょうか? 組織の秩序に従って何かを指示されたとき、自分がどうしたのか顧みますように。指示されただけのことをする人だったのか、指示されたこともしない人だったのか、そうでなければ指示されたこと以上をやり遂げる人だったのか。この三つの中で、目上の人の心に満足を与える人は、いったい誰でしょうか? 指示されたこと以上をやり遂げる人です。

これは、教会の中でだけでなく、世のどの組織でも同じです。皆さんが職場で認められて成功するためには、自分に任された役割以上をやり遂げなければなりません。ところで、会社勤めがつらいと言うほとんどの場合は、自分に任された役割さえまともに果たせないでいるのが見られます。ですから、能力が足りないなら、まめに努力して能力を育てなければなりません。これに心の器を広げなければなりません。

これは信仰にあっても同じです。父なる神様は、命じたことをそのとおりに聞き従うことはもちろん、それ以上をやり遂げる子どもをご覧になると、感動して愛の表現をしてくださるのです。[箴言25:13]「忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。」とあります。皆さんが父なる神様の心を生き返らせるなら、皆さんが求めるものは何でも答えられるでしょう。

ところで、烏と鳩の行いが違っていたのには、心の器の違い、土質の違いもありました。同じ種類の種でも、どんな土質に蒔くかによって、実の味や性質が違ってくるのが見られます。このように、同じ「みことば」の種が人の心に落ちても、各人の心の地によって反応が違うのです。ちょうど蒔いた分だけ実を結ぶ人もいれば、平均以下の実を結んだりもします。反対に、三十倍、六十倍、百倍に実を結ぶ人もいます。これは各人の心の地によって違うし、また、同じ心の地でも、その大きさによって決定されるのです。

ですから、皆さんは心の地を良い地に、まめに耕しますように。これと同時に、自己的な義と枠を打ち砕いて、心の器を大きくしますように。それで、そのつど父なる神様が自分に望んでおられることが何かを知って、お心にぴったり合わせて行うなら、どれほど父なる神様のお心が生き返られるでしょうか。さらに進んで、それ以上もやり遂げるなら、父なる神様は感動して「わたしは何を与えようか」と言われるでしょう。このように、神様の前で忠実な使者のような皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。

朝の学び70 創世記8章  

[創世記8:6–14]
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」

ノアが水は引いたかどうかを知るために鳥を放った


大洪水のさばきの時、全地を覆っていた水はますます減り続け、水位が下がりました。ノアが600歳になった年の10月1日には、山々の頂が見えるほどになりました。ノアはその日からまた四十日経った後、水が引いた程度を知るために鳥を箱舟の外に放ちました。初めは一羽の烏を放ちました。ところが、その烏は水が地からかわききるまで、あちこちを飛び回っていました。烏はノアにとって結果的に何の役にも立たなかったのです。

それで、ノアは今回一羽の鳩を放ちました。その鳩は足を休める場所が見あたらなくて、舟に帰ってきました。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の中に入れました。これでノアはまだ地の面から水が完全に引いていないことがわかりました。

それから七日後、ノアは再び鳩を放ちました。鳩はその日夕方になって帰って来ましたが、くちばしに「オリーブの若葉」をくわえていました。オリーブの木から若葉が出るぐらいなら、水がほとんど引いたという証拠です。ノアはそれからなお七日経つと鳩を放ちましたが、今度は鳩も戻って来ませんでした。

ノアは箱舟で新年を迎えました。601歳になった年の1月1日になって、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、地の面はかわいていました。それでも箱舟から出なかったのです。神が何も仰せられなかったからです。やがて2月27日になると、地がかわききって、神はノアに箱舟から出なさいと仰せられました。皆さん、ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を放ったということから、私たちはいくつかの教訓を得ることができます。

第一、信仰には行いが伴うということです。


神は水が引いた程度をすべて知っておられます。それなのに、神はノアにそのつど教えてくださったのではありませんでした。ノアが自分から進んで鳥を使って水が引ききったのかを確認するようにされました。神は全知全能のお方なので、神を信じる人は神と交わることですべてを知ることもできるし、どんなことでもできます。

ところが、全き信仰を持つ人は自分が神に助けていただくために何を行うべきかを心に働きかけられます。人のほうで行うべきことは全くしなかったり、当然踏み行うべきことはしないで、「信じます」とだけ言うのではありません。「全き信仰」は「真心」に変えられた人に上から与えられるからです。

「真心」は父なる神が望んでおられる善、愛、真理で満たされた心です。公義を犯しながら、むやみに自分の利益ばかり求めることはないのです。善の心、真心に変えられた人は、自分が一つを答えられるために、公義に合わせて満たすべきことが何か知っています。それで、それにふさわしく、なすべきことはして、蒔くべきものは蒔きます。

父なる神が人間を耕作される理由は、このように真心に変えられた子どもを得るためです。そして、このように真心を持つ子どもたちに、上から「全き信仰」を与えてくださって、その信仰によって神の栄光を現すように望んでおられます。

ところで、もし、聖徒が真心に変えられていないのに、「信じます」とだけ言うとすべてが答えられるなら、どうなるでしょうか? これは、まるで子どもが当然すべきことをしていないのに、親がすべてを聞いてあげるようなものです。

たとえば、子どもが学校から宿題を出されて帰ってきました。宿題したくない、遊びたいと言います。すると親が代わりに宿題をしてあげて、学校にも代わりに行ってあげるでしょうか? 子どもがいくらつらくても、このようなことを代わりにしてあげる親はいないでしょう。子どもは当然自分がすべきことを自分でしてこそ、知識も積まれるし、実力も伸びるのです。社会で立派に一人前の働きをする人に成長できるのです。

もちろん、その過程で親は子どもを助けてあげることはあります。宿題をするとき、手伝ってあげることもあるし、励ましてあげることもあるでしょう。このように、子どもが宿題をするとき手伝うことと、はじめから代わりにしてあげることは、確かに違います。同じように、父なる神も信仰の子どもたちが困難にあったり、試練にあう時に、求める者に力を施してくださるのです。しかし、まったく困難も、試練も、訓練もやって来ないように、全部さえぎられるのではありません。困難を乗り越える過程を通して神の愛も感じられるし、訓練を通して真心に変えられるからです。

新たな人間耕作の始まりーノアの信仰の行い


本文のみことばは大洪水のさばきが終わる状況を示しています。これから人間耕作が新たに始まります。神は、新たな人間耕作が始まるとき、ノアが自分から進んで「行い」を見せることができるように導いておられるのです。

 

もちろん、ノアは以前も神のことばに完全に聞き従って行う人でした。ただ洪水の前は、神が備えてくださった状況の中で、おことばにそのまま聞き従う次元でした。神は、箱舟を造ることも、どうすべきかいちいち教えてくださいました。このように全部教えながら導かれました。動物を箱舟に乗せることも、神ご自身が働いてくださいました。ところが、これからは、ノアがそれぞれの状況に合わせて、自分か行うべきことを心に働きかけられて行うことで、神のみこころを実現するように導かれるのです。

聖書に記された驚くべき信仰のみわざは、確かに神が成し遂げてくださったことです。ところが、詳しく調べてみると、そこに必ず昔の人々の信仰の行いがあったことがわかります。
たとえば、エジプトから出て来たイスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、どうしたでしょうか? 神が氾濫するヨルダン川の流れが止まるように、先にしてくださったでしょうか? それで、イスラエルの民が川の底が現れたのを確認してから、足を踏み入れたでしょうか?

エジプトを出て最初の頃、葦の海を渡る時は、イスラエルの民があまりにも信仰が弱かったので、海を分けた後に入るようにしてくださいました。しかし、四十年間、荒野で訓練を受けた出エジプト第二世代は違います。それだけ信仰が成長したのです。それで、氾濫するヨルダン川に契約の箱をかついだ祭司たちがまず足を踏み出すようにされました。

カナンの地の最初の関門であるエリコを征服する時も、神は全部してくださったのではなく、イスラエルの民がすべきことを指示されました。神の力ではいくらでも一度でエリコの城壁を崩せますが、信仰の行いを見せるようにされたのです。つまり、町の周囲を六日間一度ずつ回り、七日目には七度回った後、ときの声をあげなさいと仰せられたのです。

 

イスラエルの民はおことばどおりに行って、エリコの城壁は神の力で崩れ落ちました。これを通して、イスラエルの民の心に神への信頼がどれほど加わったでしょうか。この後入って行くカナンの地も、自分たちはおことばどおりにだけ行えばよいという強い信仰が生まれたでしょう。

朝の学び69 創世記8章  

[創世記8:3–14]
「そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」

17という数字の霊的な意味


本文[3-14節]には、大洪水の水が引いて、地がかわくまでの過程が記されています。大洪水はノアが600歳になった年の2月17日に始まりました。ノアたちが箱舟に入ったのは、7日前の2月10日でした。雨は40日間降りましたが、それによって150日間水が地球全体を覆っていました。2月17日から150日目になる7月17日から水が減り始めました。そして、次の年の1月1日になると、水がみな引いて地の面はかわいていました。それでもノアは箱舟から出なかったし、2月27日になってやっと箱舟から出ました。

それでは、ノアが箱舟で過ごしていた期間は、合わせてどのぐらいでしょうか? ノアが箱舟に入った時は洪水が始まる7日前で、ノアが600歳の2月10日でした。箱舟から出た日は601歳の2月27日です。したがって、ノアたちが箱舟で過ごした期間はちょうど1年と17日間です。

ノアの洪水と関連する数字の中から、特異な点を発見したでしょうか? 重要な日に「17」という数字が登場しているのです。洪水が始まった日が2月17日で、水が減り始めた日は7月17日でした。また、ノアたちが箱舟で過ごした期間も1年と17日間でした。父なる神は、なぜこの「17」に合わせて、重要な事をなされたのでしょうか? それは「17」という数字が霊的に特別な意味を持っているからです。

「17」は霊的に「父なる神のみこころと摂理に合わせて、父なる神ご自身が事を成し遂げられる」という意味を持っています。ノアの洪水は父なる神の摂理のうちに、時が来て正確になされた出来事です。それで、神は、洪水が始まった日と水が減り始めた日を「17」という数字を持つ日にされたのです。

ノアの洪水以後、段階的に水を減らした理由


本文[3節]には「そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、」とあります。神は、ただ一度で水を引かせることも、減らすこともおできになる方です。しかし、そうなさったのではなく、150日間で段階的に引いていくようにされました。神がこのようにされた理由は何でしょうか?

 これは、神もご自分が定めておかれた秩序と法則に従うためです。大洪水のさばきが始まると、神の初めの光が取り込まれたので、この地上には肉の属性が現れるようになりました。初めの光で取り巻かれた状態では、霊の流れと法則が適用される部分がありましたが、大洪水以降は、肉の流れによる肉の秩序と法則が適用されるようになったのです。それで、神もこの時からは、肉の秩序と法則に合わせて働いていかれるのです。

それなら、肉の秩序と法則に従うことと、水が段階的に減るようにされることには、どんな関連があるでしょうか? ノアと彼の家族が箱舟から出る瞬間から、この地上では新しい人間耕作が始まります。このために、この地上には人が生きていくために適切な環境が備えられていなければなりません。すっかり洪水で覆われていたこの地上から水だけ減るからといって、すぐに人にとって良い環境になるのではありません。

夏の集中豪雨や台風、津波などによる浸水家屋を思い浮かべてみてください。水につかった家から水だけ引かせれば、すぐ人がその家に入って住めるのではないでしょう。これと同じように、大洪水の後のこの地上も、水だけ引くからといってよいのではなく、人が生きていけるための準備が必要でした。

もし、神がただ一度で水が全部なくなるようになさったなら、ノアと彼の家族はまだ準備できていない世に出て行かなければなりません。ですから、神はそうなさったのでなく、ノアたちが箱舟から出る時に合わせて、この地上を新しく造られたのです。箱舟から出た人々と動物、鳥と家畜が生きていくのに最も良い環境が、肉の法則によって自然に造られるまで、段階別に水が減るようにされたのです。

父なる神がことばで天と地を創造された時も、一瞬にしてすべてを造られたのではなかったでしょう。六日間で、段階別に一つ一つ創造されました。私たちが肉のからだを着て肉の空間で生きている間は、肉の法則と秩序を完全に無視することはできないということを知らなければなりません。それで、神が病気をいやしてくださる時も、からだの秩序に合わせて働かれるのです。

たとえば、以前、盲腸が破裂して腹膜炎で苦しんでいたある聖徒が、信仰によっていやされたことがあるでしょう。神が幻でその聖徒がいやされる過程を見せてくださいました。盲腸が破裂して出たお腹の中の汚物を、直ちにそこで消滅させたのではありませんでした。まず腸に吸収されるようにしてから、からだの外に排出するようにされたのです。

また、全身が3度のやけどを負って、神の力によっていやされたキム・ウンドク勧士のケースも同じでした。父なる神は、一瞬で完全にさせる力を持っておられます。ところが、神は間を置いて段階的にいやしてくださるのがわかりました。からだの中に血管と筋から造っていって、次に新しい皮膚ができるようにされました。私はその過程を見守りながら、「胎児が成長する過程が’このようだろう」と思いました。やけどで損傷した皮膚が新しくされて、その中には血管まで鮮明に見えました。このように正常に回復する期間も、世で治療にかかる時間よりずっと短かったのです。

もちろん、世では3度のやけどを負った皮膚が正常に回復することは不可能です。しかし、このように不可能なことが神の力によっては可能ですし、肉の法則に従っても、その速度がずっと早いのです。それにもかかわらず、父なる神はこの肉の空間の法則と秩序に従って、過程を飛び越えずにすべて踏まれます。

神様がその愛する子どもに物質の祝福を下さる時も同じです。「蒔けばその刈り取りもする」という基本法則を踏まえた上で、各人の信仰に応じて祝福してくださるのです。ある人には押しつけ、ゆすり入れ、あふれるまでに、ある人には三十倍、六十倍、百倍に刈り取るようにされます。

ですから、蒔かないで刈り取ろうとするのは、神様を侮るようなものです。誰も「蒔けばその刈り取りもする」という法則において、例外はありません。必ず祝福の種を蒔かなければならないし、祝福される器を備えてこそ、神が下さる祝福をいただけるのです。このような過程を通して祝福されてこそ、肉的な満足とともに霊的なまことの幸せも味わえるのです。

したがって、自分が見て分に過ぎる祝福だと思われる時は、かえってそれが災いの種になることもあるということを知らなければなりません。肉的な満足は味わったとしても、霊的には自分のたましいが疲れて弱ることがあります。霊的に貧しい心にならないから、恵みを切に慕う心もなくなるのです。しかし、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得る祝福をいただく人は安全です。いくら豊かな祝福をいただいても、心が世に向うのではなく、神の国のためを思う心がつのるのです。

皆さん、父なる神様もご自分でこの地上に立てた創造の秩序を守られると言いました。肉の秩序と法則を無視しないで、公義に合わせて働かれるのです。ただし、霊的な公義に合う時は、肉の空間で可能な速度を超えることができます。だからといって、過程を飛び越えるのではありません。過程は踏むけれど、スピードが速くなるのです。

この地上でなされる信仰のみわざは、いつも霊的にでも肉的にでも「公義」に合わなければなりません。御霊の歩みに深く入るほど、このような公義を詳しく深く悟れます。皆さんはこのことを必ず覚えて暮らしの中に適用し、まことに父なる神様に祝福をいただきすように、主の御名によって祝福して祈ります。

朝の学び68 創世記7章  

創世記7:24–8:2
水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。

本文[24節]に「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。人類の歴史にあって、地球全体が150日間水につかっていたというこの記録はまことで事実です。ノアの大洪水は神話や伝説ではなく、実際にあった大変な出来事です。これを証明する証拠は多くあります。きょうはノアの洪水の証拠を三つに分けてお伝えします。

ノアの洪水が実際にあった出来事であることを証明する証拠
第一、歴史的な証拠


全世界的に古代文明の歴史には洪水に関する伝説があります。学者たちが世界のあちこちから収集した「洪水伝説」は270余りにもなります。洪水伝説が収集された地域はヨーロッパ、アジア、オーストラリア、東インド、アラスカ、ギリシャ、フィンランド、アイランド、太平洋の島々、フィリピン諸島、南アメリカ、中央アメリカ、北アメリカ、東アフリカでした。

これは洪水伝説が全世界的に広がっているという意味です。収集された洪水伝説には、次のような共通点がありました。「洪水は後にも先にもない規模だった。洪水を避けるために大きい船を造った。船には人だけでなく、あらゆる種類の動物も乗せた。洪水から生き残った人は少数だった。」

その中でアメリカのインディアンは、何と58の洪水伝説を持っています。「インディアン」とは、コロンブスが新大陸を発見する前からその地に住んでいた先住民のことです。インディアンが多く住んでいたミシガン州一帯では、古い石版がたくさん見つかりました。その石版には、いくつかのコマにストーリーのある絵が描かれています。石版ごとにコマの数や絵が多少違っても、だいたい似た内容が書かれているのです。その中でよく整理されている、一番大きい石版の絵の内容を説明いたします。

この石版には五つのコマに分けられた絵があります。一番上の絵の真ん中には太陽があって、ある人が天に向かって拝んでいます。二番目のコマには、人々が水でもがいている様子が描かれています。三番目のコマには、大きい船が水に浮いていて、計40個のマスが見えます。(雨が40日間降ったことを意味するでしょう。)四番目のコマには、太陽が見えて、船から動物が出てきているし、男性4人が万歳をしています。(それはノアと3人の息子です。)五番目のコマには、七つの線の虹がはっきりと刻まれています。

古代インディアンはどうしてこんな物語を知って、石版に彫っておいたのでしょうか? ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住して、インディアンに聖書を手渡す、ずっと前にすでに知っていたからです。このような石版が中東地域で見つかったなら、「距離が近いからそうだろう」と思うかもしれません。しかし、中東とは地球の反対側のアメリカで、それも古代インディアンの遺物から洪水の物語が出てくるということは、何を意味しているのでしょうか? 彼らはすでに先祖から洪水の物語を伝え聞いていたということです。

一方、多くの洪水伝説の中で、ノアの箱舟がとどまっていたアララテの山から比較的近い地域ほど、詳しいところまで聖書と一致しています。たとえば、バビロニアのギルガメシュ叙事詩には、すべての動物を雄と雌一つがいずつ乗せたとか、洪水の後、「鳩」を放って、水が引いた程度を確認してみたという内容もあります。このようにアララテの山から近ければ近いなりに、遠いところは遠いなりに、多様な洪水伝説があるのです。

このように世界の多くの国に洪水伝説が言い伝えられているということから、そのすべての伝説の母体になった一つの洪水の出来事があったことがわかります。それがまさに聖書に記されたノアの洪水です。

歴史的な証拠をもう一つ挙げれば、ノアの子孫の名前が都市や国、民族の名前として使われているということです。創世記10章には、大洪水の後、ノアの子孫の名前と彼らがふえ広がった地域が詳しく記されています。そして、最後の[32節]に「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」とあります。人類の歴史のルーツを探していけば、このみことばと一致するのです。

たとえば、今日イスラエルがあるところを「カナンの地」と呼ぶでしょう。ここで「カナン」とは、もともとノアの次男ハムの息子の名前です。ハムの何人かの息子の中で「カナン」という人がその地域に定着してふえました。ところで、洪水が終わって約400年が流れたとき、神がその地をアブラハムと彼の子孫に与えると約束されました。

その約束のとおり、ヤコブ、すなわち、イスラエル民族がその地域を占領して国を建てたのです。このカナンの地の他にも、ノアの子孫の名前が民族、都市、国の名前として使われています。これはノアの洪水が確かに実際あった出来事であることを証明しています。

第二、地質および地形学的な証拠


まず、地球表面の75%以上が水によって作られた堆積地層であることです。地球が水に完全につかった状態で、太陽―地球―月の引力によって起こる引き潮と満ち潮によって、短い期間で地球全体に堆積層が形成されたのです。高い地帯は水の流れによって削られ、削られた土は低い地帯に積まれながら、堆積物の成分によって層を形成します。

実際、地球表面に存在する堆積層はとても広範囲にわたっています。また、それぞれの堆積層は、まるでゴムシートを積み重ねたように、堆積物質の成分が非常に均一で、各層の境界面もほぼ平行になっています。研究者たちは「地球表面にこんな堆積地層が形成されるためには、ノアの洪水のような全地球的な大洪水がなければならない」と結論を出しました。

ノアの洪水のもう一つの地形学的な証拠として、世界各地の深海から発見される古代遺跡が挙げられます。科学技術が発達しながら、人々は各種の装備を利用して、海の中を探査できるようになりました。または、地震波を利用して海底地形構造をスキャンできるようになりました。その結果、世界各地の深海から、確かな文明の痕跡をもつ古代都市が発見されているのであります。大洪水の時、地殻の大激変によって、そういった地域は永遠に海水面の下に沈むようになったのです。

これと反対の現象も起きました。それは、本来は海だった地域が大洪水の時、大激変によって後には山になったことです。それで、ヒマラヤやアルプスのような高い山脈から、貝類、魚類、海草類など、海の生物の化石がたくさん見つかりました。また、アメリカ西部のグランドキャニオン、海抜1600メートルの高さの岩石層も、ほとんど海の生物の化石を含んでいます。

ペルーのアンデス山脈、4000メートルの高地帯でも、およそ500個のカキの化石が発見されました。これは、アンデス、ヒマラヤ、アルプス山脈が昔は水の下にあったことを証明するものです。ところが、大洪水の時、「隆起」現象によって、今日は高い山脈になったのです。

三番目の証拠、世界人口


洪水の後、八人で始まった世界人口は、統計学的な見地から見ると、今日の人口とびったり合っています。人口成長率の計算はとてもややこししくて難しいので、この時間、詳しく説明はいたしません。この教会の創造科学会で、国連が使う計算式を利用して計算してみました。その結果、ノアの洪水が終わった時点の約4,360年前、八人から人類がふえていったことを規定の事実として計算してみたら、現在の世界人口と一致したというのです

もし、ノアの洪水がなかったとか、進化論が正しいとするなら、世界人口は今よりはるかに多くなければなりません。しかし、聖書はまことであり、ノアの洪水から生き残った人はたった八人だったので、今日の世界人口に達したということです。

ノアの洪水をとおして悟る霊的な意味


ノアの洪水を確かな事実と信じて、その霊的な意味を悟ることは、そうできないことと比べて大きな違いがあります。終わりの時を生きている人にとってはさらにそうです。
[第二ペテロ3:6-7]に「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。

ノアの時は洪水によるさばきがあったように、今、この世はもう一度それと同じみことばによって、火に焼かれるようになります。その日には、不敬虔な者どもがさばかれて滅びるようになるのです。ノアの洪水が迫ってきた時も、神から遠ざかったまま、不敬虔な生き方をしていた人々はみな、さばきによって滅びました。

今日も、神を遠ざけて不敬虔な生き方をしている人々には、ノアの洪水の時と同じさばきがだんだん近づいているのです。したがって、私たちは聖書を通して、ノアの洪水がなぜあるべきだったか、そしてどんな人が救われたのかを心で悟らなければなりません。心で悟る人は、やがて来るさばきによく備えることができます。滅びでなく、救いに至れるのです。

一方、「ノアの洪水」を信じない人は、やがてさばきがやって来るとしても、相変わらず罪と悪の中を歩んでいきます。ノアの時代、箱舟が造られていくのを見ながらも、かえってノアをからかって、自分勝手に生きていた人々と同じなのです。

これについてイエス様は[ルカ17:26-27]「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」と言われました。

皆さんは、なぜ大洪水のさばきがあったのか、また、それがどれほど確かな事実なのかを知りました。ですから、さらに霊的に目を覚ましていてください。ひょっとして信仰生活がつらいとか、いつも教会の囲いの中にいることが窮屈な方がいるでしょうか? そんな方がいるなら、ノアの家族のことを考えてみてください。

ノアの家族は、肉的には箱舟の中が窮屈だったかもしれないし、その中での暮らしもきつかったです。だからといって、箱舟の外の世にあこがれたでしょうか?「箱舟に乗らないほうがよかった」と後悔したでしょうか? そうではありません。救いの箱舟に乗ったことに感謝しながら、そのすべての時間に耐えられました。

皆さんも、神様から救いの恩寵を受けたことにいつも感謝できますように。また、霊的な箱舟である神のことばの中に完全にとどまって、いつも神様から守られますように。これとともに、まだ救いの箱舟に乗っていな人々に幸いな知らせを伝えてください。それで、すべての人が救われるように望んでおられる父なる神様に喜ばれますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 


全てを計画され、つかさどられた神様


本文[8:1]には「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」とあります。ここで「心に留める」とは、「いつも意識して、忘れないでおく」という意味です。

それでは、父なる神が箱舟に乗った彼らを心に留めて、水を引かせたというみことばは、どんな意味でしょうか? 父なる神は公義によって大洪水のさばきをなさいましたが、ノアと彼の家族を通して人間耕作を新たに始めたいと望んでおられました。ところが、大洪水の後は、この地が完全に肉の自然法則が適用されるようになりました。神の初めの光が、洪水が始まると同時に、残らず取り込まれたからです。

父なる神は、水がいつ引いてこそ大洪水の生存者たちが生きていくのに一番良い環境が造られるか存じでした。ノアと彼の家族はもちろん、獣と家畜までも心に留めておられ、最も良い時に合わせて働いてくださったのです。それで、父なる神は150日間、地球を覆っていた水が引き始めるようにされました。神が水を引かせた方法は、地の上に風を吹き過ぎさせることでした。

ところで、その前に、本文[2節]「また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。」とあります。これは40日間降っていた雨がやむ時の状況です。第二の天、エデンにある「大いなる水の源」と第二の天につながる門を閉ざしたので、それ以上雨が天から降ってこなかったのです。

ここで、大いなる水の源と天の水門が「閉ざされた」という表現に注目しなければなりません。実は「閉ざされた」とは、完全に閉まったという意味ではなく、一時的に閉まったことを意味するからです。これはどういう意味でしょうか? もしこの時、神様が天の水門を完全に閉ざされたなら、この地に降ってきた雨が第二の天に戻っていける通路が完全になくなってしまうのです。つまり、風が吹いて水が蒸発しても、第二の天に昇っていく道がないのです

ですから、神は大いなる水の源と天の水門を、完全にではなく、これ以上雨が降ってこないように一時的に閉ざされたのです。つまり、第二の天と第一の天の間の通路は開いておいたまま、第二の天の水がそれ以上第一の天に下りてこられないようにされたのです。この役割を四つの生きものが果たしました。

また、地球に降った水が蒸発して第二の天に吸収されるように風を吹かせる働きも、四つの生きものが担当しました。この時、四つの生きものが吹き過ぎさせた風はとても強い風でした。それで、地球の水がすみやかに出てきたところに吸収されて入っていけたのです。だからといって、台風のように恐ろしいとか激しい風ではなかったと教えてくださいました。

このように、神は洪水で地球を覆った水を引かせた時も、公義の法則どおりになさいました。神は力の大きい方ですから、第一の天のどこにでも空間を開いて、第二の天につながるようにおできになります。しかし、そうされたのでなくて、水が降りてきたその通路に吸収されて、元の場所に戻っていくようにされたということです。まるでこの場面を描写しているような表現が[詩篇33:7後半節]に出てきますが、「深い水を倉に収められる。」とあります。

今日起きる洪水は人が予想できない場合が多くあります。無理な開発で自然がひどく破壊されて異常気象現象が起きるので、自然災害が頻繁に発生しています。誰かが計画したのでもないし、誰も予想できない時が多いのです。

ところが、ノアの大洪水のさばきは、始めから終わりまで、神のご計画のうちになされました。雨はいつから降り始めて、いつまで降るべきか、水はどのぐらい増し加わるべきか、また、水はいつから引いて、引く速度はどのぐらいになるべきかも、すべて神がつかさどられました。神が定めた日と期間に合わせて、そのとおりに進められたのです。

そして、ノアは神と明らかに交わっていたので、このような神のご計画を知っていました。洪水が一日、二日で終わるのではないことと、また、水が地を覆っている期間、その後引くまでにかかる時間も、ある程度心に働きかけられていたのです。このように、神の人は神と明らかに交わっているうちに、先のことを知ることができます。ですから、神のみこころに合わせて、神のわざを実現していけるのです。

皆さんも、自分の悟りに頼らないで、心を尽くして神により頼みますように。[箴言3:6]にも「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。このようにして、人生のすべての状況で父なる神様にその道をまっすぐにしていただく皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び67 創世記7章  

創世記7:16–24
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。

埋葬された人と動物の死体によって中東地域に生成された石油


前回は大洪水のさばきの時の地形の変化についてお伝えしました。地球を覆った洪水の水圧によって、地層には隆起と沈降現象が起きました。また、引力の影響を受けて地球をかき回す水の力によって、短い間でも地表面には幾重かの堆積層が形成されたと言いました。その結果、地球の地形が洪水以前とはとても違う形に変わったのです。

それでは、大洪水のさばきの時に死んだ、数えきれない人の死体と動物の死体はどうなったのでしょうか? 今からはこれについて説明いたします。アダムがこの地上に降りてきて定着した所は今のイスラエルの地です。人類はここを中心に増え広がって、だんだんその領域を広めていきました。今日で言うと、中東地域が初期人類の主な根拠地になったのです。そして、さらに進んで、エジプトがある北アフリカ地域にも移住して行きました。言いかえれば、中東地域と北アフリカ地域は当時、人口密集地域だったということです。

ひょっとして、今日その地域の気候を知っている人は「どうしてあんな所に、あれほどたくさんの人が住めたのか」と思うかもしれません。大洪水のさばきの前は、全地球的に気候が今とは違っていました。極地域でも今のように寒くなかったし、赤道地域でも今のように暑くありませんでした。したがって、中東と北アフリカも、今と違って人が住むのにずっとよい気候だったということです。また、樹木と草原も茂っていました。当時は人口が密集して住むのにちょうど良い所だったのです。

これに人に従う家畜まで考慮すれば、大洪水のさばきによってこの地域ではものすごい数の死体が発生するしかありませんでした。これらの死体は、大洪水によって地形の変化が起きるにつれて、地層の中に埋もれるようになりました。地層が沈んだり盛り上がったりする過程で、死体が地層の間に埋もれたのです。これは肉的には単に地の中に埋もれたということですが、霊的には「神のさばき」を意味します。

[民数記16:31-33]を読むと、エジプトから出た民のうち、モーセに立ち向かった仲間が神にどう呪われて滅び去ったのかがよく記されています。「モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。」とあるのです。

このように、神が大洪水のさばきをなさる時も、一時的には人と動物が水葬されるようにして、次に彼らの死体は地が口をあけてのみ込むようにされたのです。これは単に地層変化による埋葬でなくて、霊的には「よみ」を意味する地を開いて、その中に投げ込んでしまわれたのです。
こうして埋葬された人と動物の死体によって、今日、中東地域から石油がたくさん出てくるようになりました。実際に中東地域は世界の石油埋蔵量の75%を占めているそうです。

「石油がどのようにできたのか」については、今日いろいろな理論がありますが、一般的な主張は、生物体の堆積によって生成されたというものです。動物の死体とともに、ものすごい量の植物が堆積されたのです。これは聖書を解き明かしてくださった神のおことばと一致しています。

それなら、中東地域に石油がたくさん埋蔵されているから、その地域を祝福の地と言えるでしょうか? 今すぐは祝福に見えるかもしれませんが、それは決して祝福ではないことを知らなければなりません。今日、その地域がどれほど多くの戦争とテロの舞台になっているでしょうか。かえって石油資源のために外国から頻繁に侵略されているのです。物質的な目先の利益を除いては、現在その地域は祝福の地ではなく、呪いの地になっています。


父なる神の強権的な保護と聞き従う心に臨む祝福


本文[16節の後半節]には「神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」とあります。「【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」この表現には少し強権的な感じが込められています。だからといって、父なる神がノアを強制に箱舟の中に入れられたという意味ではありません。ここには「神ご自身がすべてをつかさどって、ノアと彼の家族、そして箱舟に入った動物を支えて守られた」という意味が込められています。このような父なる神の強権的な保護があったので、箱舟の中にいたノアと彼の家族はどんな動揺もなく過ごせました。

私たちも神様が強く支えて守ってくだされば、どんな状況でも平安でいられます。たとえ訓練を受けても、祝福のうちに練っていかれるのです。アブラハムも訓練の過程の中でも、いつも祝福が臨んだことがわかります。妻を奪われる試練がありましたが、父なる神ご自身が強く働いていかれるから、むしろ祝福として報いてくださったのです。

ヨセフも訓練のうちにいつも祝福が臨んだし、【主】がすべてを成功させてくださいました。[創世記39:3]に、ヨセフが奴隷として売られた状況では「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」とあります。濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時も、[創世記39:23]「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。」とあります。

それでは、アブラハムやヨセフはどうして訓練の中でもこのように祝福を受けていけたのでしょうか? ある人は訓練を受けるとき、祝福を全く受けられないで、困難にだけあうこともあります。これは「聞き従う心になっているか、そうでないか」の違いによるものです。

私たちがこの地上で金のような信仰に変えられて、天国の新しいエルサレムに入れるまことの子どもになるためには、訓練が必要です。この時、訓練の中で自分を発見して、神のことばに聞き従って変えられる人は、祝福されながら練られるのです。訓練は必要だから、神様が受けることを許されます。この時、訓練を感謝をもって受けていくなら、神様はそれに対しては祝福を与えてくださるしかないのです。

ところが、ある人は訓練を受けながら、自分を発見して変えられるよりは、つぶやいて不平を言いながら嘆きます。環境と人を恨んで、自分の身の上について不平を言い、それどころか教会と神様に対してまでつぶやく人がいるのです。さらに進んで、罪によって試練や患難がやって来れば、この時も悔い改めて立ち返るのでなく、言い訳をしようとします。続けてこのような心と態度をとるなら、訓練の中に決して祝福が来ることはないでしょう。

もちろん、時によって物質で訓練なさる間は、物質の祝福が来ないこともあります。しかし、このような場合も、いつも喜んで感謝している人には、神様がどんな方法を通してでも食べる物と着る物を与えながら導いていかれます。物質の訓練の間は、たとえ豊かな物質の祝福はなくても、あれこれの方法で満たしてくださるので、結局成功するように導いていかれるということです。

ですから、訓練中に困難にあう人がいるなら、「私は本当に聞き従う心構えでいるのか」と自分でチェックしてみますように。聞き従う心構えでいる人は、なぜ訓練がやって来たのかを発見して、その原因をすみやかに解決していきます。一方、そうでない人は、原因を発見することもやさしくないだけでなく、発見しても変えられようとしないのです。


しかし、皆さんはアブラハム、ヨセフ、ノアのように、完全に聞き従う人になりますように。いつも父なる神様に強く守られて、祝福も受けていかれますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 


大洪水のさばきと白い御座の大審判


ノアが600歳になった年の2月17日に降り始めた雨は、40日間続きました。これによって海水面がだんだん上がりました。初めはノアの箱舟が地から水面に浮かび上がるぐらいになりました。ますます水かさが増していくと、箱舟は水面を漂うようになりました。いよいよどの高い山々も水につかるほどに水かさが増していきました。

ところで、本文[20節]を読むと、水はこのようにすべての山を覆ってから、さらに十五キュビト増し加わったとあります。十五キュビトは、今日の単位に換算すれば、約7.5メートルです。これはノアの箱舟の高さの三十キュビトのちょうど半分です。したがって、大洪水の時、水かさがすべての山々を覆う程度から、さらに十五キュビト増し加わったとは、箱舟がどんなものにも引っかからないで自由に漂うようになったという意味です。

船が水面に浮いているとき、ふつう下の部分は水の中につかっています。船が人や荷物で満たされるほど、その重さだけ沈むのです。ノアの箱舟は動物と食料でぎっしりでした。したがって、少なくとも箱舟の高さの半分ほどの水が増し加わるなら、箱舟が安全に漂っていられるのです。
もしこのような余裕がなかったなら、まかり間違えば、水面を漂っていた箱舟の底が高い山の峰に引っかかることもあるでしょう。すると、船が暗礁に乗上げて事故にあうように、危険な状況におかれることもあるのです。

このように大洪水のさばきの時、水は高い山より十五キュビトも増し加わりました。その結果、本文[21-23節]のように、地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えました。鳥は飛べても、高い山まで水で覆われて止まるところがなくなると、結局はすべて水に落ちて死ぬようになったのです。陸地にあるすべてのものの中で、鼻で息をするすべての肉なるものが死んだのです。箱舟に乗れなかった人や動物は、どんなものも避けられなかった完全なさばきでした。

やがてある白い御座の大審判も同じです。その日には、世界の創造された時以来のすべての人が神の審判台の前に立つようになります。 (ただしエリヤ、エノク、アブラハム、モーセ、この四人は例外です。この方々は霊の序列の最上位におられる方で、大審判の時、三位一体の神を補佐します。)

いのちの書に名が記されていない人は、例外なく大審判の時、永遠の死という判決を受けて、地獄の火の池や硫黄の池に落ちることになります。[第二コリント5:10]「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあるとおりです。

本文[24節]「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。ノアが600歳になった年の2月17日から降り始めた雨は、40日間続きました。それによって、7月17日から150日間、水が全世界を覆うようになりました。このように天の下にあるどの高い山々も水で覆われた状態は初期地球の様子と似ています。まさに[創世記1:2]「神の霊が水の上を動いていた。」とあるのです。本格的な六日創造のみわざが始まる前、地球はすっかり水で覆われていました。

ところで、大洪水のさばきの時、その当時の状況が再現されたのです。人類の歴史において、地球全体が150日間水につかっていたというこの記録はまことで事実です。ノアの大洪水は神話や伝説ではなく、実際にあった大変な出来事です。これを証明する証拠は多くあります。
 

朝の学び66 創世記7章  

創世記7:13–16
ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

 

大洪水の裁きから逃れた水中動物

 

本文を読むと、大洪水のさばきの時、ノアの箱舟に、まずはノアと彼の妻、三人の息子と三人の嫁、合わせて八人が乗りました。また、あらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、箱舟の中のノアのところに入りました。もちろん、神が指定された数だけ、初めの声を聞いて出てきました。

この時、箱舟に乗れなかった動物はみな大洪水のさばきによって死を免れませんでした。しかし、例外もありました。それは水中動物です。魚をはじめ水の中で暮らす動物は、ノアの箱舟に乗らなくても、大洪水のさばきの時、種族が保存できました。

「ああ、当然水の中で暮らす動物だから、洪水の中でも生き延びることができたんだろう」と簡単に考える人がいるでしょうか? 地球全体を覆う大洪水の中で水中動物が絶滅しなかったのは、実は「奇蹟」です。これがどうして奇蹟でしょうか? その理由を簡単に説明いたします。

水中動物は大きく二つの種類に分けられます。海水中で生活する魚(海水魚)と、淡水で生活する魚(淡水魚)です。ごく一部の種類を除いては、海水魚は淡水で生きられないし、淡水魚は海で生きられません。海の魚が淡水のほうに来たり、淡水が海水のほうへ行けば、あまり経たないうちに死ぬようになります。淡水と海水の塩分濃度の差によって「浸透」という現象が起きるからです。

浸透とは、細胞の内部と外部の塩分濃度のバランスをとるために、水が外に出ていったり、入ったりする現象のことです。簡単に言えば、細胞の内部より外部の塩分濃度のほうが高ければ、細胞の中の水が外に出ていきます。反対に、細胞の内部より外部の塩分濃度のほうが低ければ、水が細胞の中に入るようになります。簡単な例として、皆さんが手を水に長い間つけていると、ふやけてくる経験をしたことがあるでしょう。それも浸透の結果です。体液より外部の水の塩分濃度のほうが低くて、水が皮膚の中に吸収されて起こった現象です。

ところで、淡水魚と海水魚は浸透圧調節システムが全く違うのです。これについて簡単に説明しますが、内容が少し難しいかもしれません。この内容を知識的によく理解するなら、ノアの洪水の時、どんな魚も絶滅しなかったということがまことに驚くべきことだと悟れるでしょう。

淡水に住む魚は体内より外の塩分濃度のほうが低いです。それで、本来であれば、人が風呂に長く入っているとふやけてくるのと同じ現象が起きるはずです。しかし、淡水魚はそうならないで、元気に生きているのです。それは、淡水魚に特殊な浸透圧調節システムがあるからです。淡水魚は続けて尿として内部に吸収された水分を排出すると同時に、塩分は積極的に吸収します。それで、体内の塩分濃度を一定に保てるのです。

一方、海水魚は体内よりずっと塩分濃度の高い海水で生活しています。もし何の浸透圧調節機能もなければ、白菜を塩漬けすると水が出てくるように、海水魚は体内の水分が抜けて、脱水状態になって死んでしまうでしょう。しかし、海水魚は海で生きていけます。その理由は、塩辛い水をたくさん飲む代わりに、尿は少しだけ出すからです。ですから、脱水状態にならないのです。これとともに、摂りすぎた塩分はえらの特殊細胞を通して外部に出してしまいます。その結果、海水魚の体内の塩分濃度が一定水準に維持できるのです。

父なる神は、このように淡水魚と海水魚に、それぞれの環境で生きていける能力をすでに与えてくださったということです。ですから、淡水魚と海水魚を同じ環境で一緒に住むようにするということが、常識的に可能でしょうか? 世の常識では不可能なことです。

ところで、ノアの洪水の時は、まさにこの不可能なことが起こりました。ノアの洪水は地球全体を覆いました。地球の高い山まで完全に水に浸かるようになったのです。淡水と海水の境界がなくなったのです。淡水魚と海水魚が同じ環境で住まなければならなくなりました。それも一日、二日でなく、地の面から水が引くまで、少なくとも300日余りもそうでした。それなのに、どんな水中生物も絶滅しないで、その種族が保存されたのです。これがどうして可能だったのでしょうか?

常識では不可能なことですが、実際にこれが可能だった理由があります。それは、当時この地上を覆った水は、この地上の淡水や海水ではなく、第二の天から降りてきた水だったからです。その水には神の力が込められていたのです。

 


大洪水によってもたらされた地形、気候、生態系の変化


大洪水のさばきによって、地球にも多くの変化があるようになります。地球の地形、気候、生態系の環境が、洪水以前とずいぶん変わったのです。その原因は、まず、神が初めの光を取り込まれたからです。ところで、もっと大きい原因は、全地球的大洪水そのものにあるのです。

大洪水のさばきがあるずっと前、人間耕作が始まる前に、地球上には一度さばきがありました。それは、エデンの園から追い出された恐竜たちに対する火のさばきでした。しかし、その時の火のさばきと大洪水のさばきには、いろいろな面で違いがあります。

大洪水のさばきの対象は、ノアの箱舟に乗らなかったすべての人と陸上動物でした。しかし、火のさばきの対象はただ恐竜だけでした。また、大洪水のさばきの時は、全地球的に霊の世界の門が開かれて、第二の天から水が降りてきました。一方、火のさばきの時は、恐竜たちが集まって暮らしていた所にだけ、集中的に火が下りました。したがって、火のさばきでは、恐竜意外の動物は大きな被害を受けませんでした。しかし、大洪水のさばきによっては、箱舟に乗った人と動物を除いたすべてのものが一時に滅ぼされたのです。

今からは、このような大洪水のさばきによって、地球にどんな変化が起きるようになったのかをお伝えします。人が水の中に深く入れば入るほど、だんだん水圧が強くなるのを感じるようになります。水の外でのように自由に動きにくいのです。ところで、大洪水のさばきの時は、水が一番高い山まで達したのですから、その水圧がどれほど大きかったでしょうか。その水の圧力によって、地球の地殻は変形しました。

理解を助けるために、地球の内部構造を簡単に説明いたします。地表面の下には「マントル」層があり、もっと深いところには「核」があります。言いかえれば、私たちが足をつけて生きている地層は、マントルの上に浮いているようなものですこのマントルの温度は地上に近い最上部が約500度で、核と境界面の最下部は5000度にもなります。

 

[ヨブ28:5]「地そのものは、そこから食物を出すが、その下は火のように沸き返っている。」とあるとおりです。地球の内部構造が明きらかにされたのは近代ですが、数千年前に記された聖書には、すでに地球の内部が火のように熱いということが記されています。

ところで、地層の厚さは位置によって違うし、地層を構成する成分も違うので、安定性も違います。ある所は硬くて安定した地層でも、ある所はやわらかくて不安定な地層です。この時、二つの所に同じ水圧が作用するなら、どんな現象が起こるでしょうか?


空気を入れた風船のある所を指で押せば、他の部分がもっと膨らんでくるのを見たことがあるでしょう。さらに強い力をずっと加えれば、膨らんできた部分がバーンと破裂してしまうのです。

このように、大洪水のさばきによって地層にものすごい水圧が加わると、地層が硬い所はそれに耐えながら沈みましたが、やわらかい所は膨らんで破裂したりもしました。全地球的にあちこちでこのような現象が起きました。地層がある力の作用で盛り上がる現象を「隆起」と言います。反対に、沈んで下がっていく現象は「沈降」と言います。

地層に変形が起きた理由は、ただ水圧だけでもありません。大洪水のさばきの時、地球は150日間、完全に水に浸かっていましたが、穏やかな湖のような状態ではありませんでした。地球は太陽と月の間に挟まっていて、互いに引き合う力、すなわち「引力」が作用するようになります。太陽と月が地球を引く力によって、地球を覆った水が両側に膨らむようになります。

それに、地球は一日に一回回ります。地球は回るのに、引力によって水は引かれているから、水が地中をかき回すようになります。このように地球をかき回す水は、山のような高い地帯を崩します。そして、崩した土を押し流して、低くて広いところに来ると、高く積んでおきます。この現象が五か月間、地球全体に起きました。その結果、地層には幾重かの堆積層が形成されました。地球の地形が洪水以前とはとても違う形に変わったということです。

科学者たちは一つの堆積層が形成されるにはとても長い時間がかかると言って、それを進化論の根拠にしています。もちろん、地上で堆積層ができるには長い時間がかかります。しかし、全地球的な大洪水によっては、1年にもならない短い時間でも、幾重かの堆積層が形成されることができます。ですから、世の学者たちがノアの大洪水を排除して研究した結果は正しくないのです。

彼らが聖書がまことであることを認めて、大洪水の出来事を考えに入れて研究するなら、地球の歴史について正確な結果を得るでしょう。大洪水によって地層の隆起と沈降が起きうることと、短い期間でも堆積層が生成できることを認めるなら、地球科学分野の多くの疑問が解けるでしょう。

朝の学び65 創世記7章  

創世記7:11–12
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

ノア時代の大洪水の裁きは白い御座の大審判のしるし


前回は[11節前半節]についてお伝えしました。ノア時代の大洪水のさばきは、白い御座の大審判のしるしとなると言えるでしょう。ただし、さばきの道具が一つは水で、もう一つは火です。これについて[第二ペテロ3:6-7]には「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。

大洪水のさばきの時、正しい人ノアの家族を除いては、みな洪水におおわれて滅びたのです。白い御座の大審判の時は、主を信じなくて正しいと認められなかった人々は火と硫黄との燃える池に落ちることになります。したがって、大洪水のさばきについてメッセージを聞くとき、単に昔々にあったことと思ってはいけないでしょう。将来の白い御座の大審判に皆さんはどのように備えるべきか、これについて答えを見つける尊い時間になりますように、主の御名によってお願いします。

 


大洪水の始まり


次に、[11節後半節]には「その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とあります。大洪水のさばきが始まったのです。この時、父なる神の御目からはポトポトと涙のしずくが落ちました。そのしずくは御衣のすそに「期待」という字として縫い取られました。そこには「もう一度期待しながら待つ、必ず成す」という意味が込められています。何を期待しながら待っておられたのでしょうか? それは、ノアからもう一度始める人間耕作を通して「まことの子ども」が出てくることでした。また、「必ず成す」という意志を、涙で御衣のすそに縫い取られたのです。

本文には、地球を完全に覆った洪水がどんなふうに起こったのかが、詳しく記されています。「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とあります。今日、ほとんどの人はこれを地球の中で起こったことだと解釈しています。つまり、海の水の源が張り裂けて、天から大量の雨が降ったということです。

ところが、その当時、洪水で地球の一番高い山も完全に水につかりました。これは海の水の源が張り裂けて、天から雨が降るからといって可能なことでしょうか? そうでないことが常識的にわかるでしょう。もし、海の水の源が張り裂けて大雨が降って大洪水になったとすれば、洪水がやんだ後は、そのたくさんの水はどこに消えたのでしょうか?

人の知識と常識では明快に答えられないでしょう。したがって、このみことばの答えを、この肉の世界から探そうとしてはいけません。これは霊の世界であるエデンと深く関連しているということを知らなければならないのです。


第二の天のエデン


ここでしばらく以前のメッセージを復習してみましょう。私たちが生きている地球は第一の天に属していて、エデンの園は第二の天、天国は第三の天に属しています。第二の天は二つに分けられていると言いました。それは「エデン」という光の空間と、悪い霊どもの領域のやみの空間です。

最初の人アダムとエバが生きていた「エデンの園」は、光の空間の「エデン」の中に特別に設けられた領域です。「園」だからといって、その領域が狭いのではなくて、地球とも比べられないほどものすごく広いです。エデンの園もこんな広いのに、エデンの全体はどれほど広いでしょうか。私たちの目に見える宇宙が果てしなく広いように、第二の天のエデンも無限に広い空間です。

このように広い広いエデンには、川の源もあります。[創世記2:10]「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。」とあるとおりです。まさにエデンにある川の水が、ノアの大洪水のさばきの時に用いられたのです。本文の「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、」というみことばは、エデンにあった水の源が張り裂けたという意味です。

 


第二の天と第一の天の間の通路が開かれる


また「天の水門が開かれた。」というみことばは、第二の天と第一の天の間の通路が開かれたという意味です。その結果、第二の天のエデンにあった水がこの通路を通って、第一の天にあるこの地上に降りてくるようになったのです。ここで「水門」とありますが、第二の天と第一の天をつなぐ通路は一つだけでなく、いくつもあって、地球のあちこちにある通路が同時に開かれたのです。それで、一時にものすごい量の水が第二の天からこの地上に降り注いできたのです。

聖書には、このように第二の天にあるものが第一の天に降ってきた記述がたびたび出てきます。[詩篇78:23-24]「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。」とあります。つまり、エジプトから出てきたイスラエルの民が荒野で食べた「マナ」も、第二の天から降ってきたものだったのです。

また、預言者エリヤがバアルとアシェラの預言者850人と対決したとき、天から引き下ろした火も、第二の天から下ってきたものです。皆さんも、多くの不思議を通して第二の天があることを目で確認したでしょう。つまり、雲が吸い込まれるように消える場面を、ほとんどの皆さんが見たのです。


「四つの生きもの」鷲の生き物のはたらき


このように第二の天に属するものが第一の天に現れるためには、天の門が開かれなければなりません。こうして天の門が開かれる時は「四つの生きもの」がかかわるようになります。第二の天にあるものが第一の天に出てくるためには、次元が違う空間の流れに乗らなければなりません。まさにこのようにできる権限が四つの生きものにあるのです。

第一の天と第二の天の概念を、建物の上の階と下の階ぐらいに思ってはいけません。建物の上の階と下の階がつながるためには、上の床と下の天井に穴をあければよいのです。しかし、第二の天と第一の天は互いに次元の違う空間です。このように互いに次元が違う空間である、第一の天と第二の天の間の霊の世界の門を開閉する権限が、四つの生きものの一つにあります。それは鷲の生きものです。大洪水のさばきのために、エデンの水の源から流れ出た水が地球に降ってくる時も、鷲の生きものが主な役割をしました。


「四十」という数字に込められた特別な意味


本文[12節]「そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」とあります。神は地球を水で覆うために、四十日四十夜、雨を降らせられました。神はたった一日でも地球を水で覆うことがおできになるのに、なぜ四十日間雨を降らせたのでしょうか? それは「四十」という数字に特別な意味が込められているからです。神が地球を創造する前、霊の世界でルシファーによる大きな反乱事件がありました。神が一番愛しておられた御使いのかしらルシファーが、御使いの3分の1と一緒に神に立ち向かう反乱を起こしたのです。

これについて[第二ペテロ2:4]「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」とあります。[ユダ1:6]にも「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」

このようにルシファーの反乱は直ちに平定されました。しかし、このことで父なる神は深い心の苦しみを受けなければなりませんでした。ひどくうつろさを感じられました。この時、霊の世界はしばらく茫漠とした状態になりました。この状況が[創世記1:2]では「地は茫漠として何もなかった。」と表現されているのです。霊の世界でのこの茫漠とした時間を、肉の世界の時間に表現したのが、まさに「四十」という数字です。

だからといって、ルシファーの反乱の後、ちょうど四十日間、霊の世界が茫漠としていて、神のお心が痛まれたという意味ではありません。霊の世界でのその時間に当たる数を、この地上での数の概念で表現したとき、それが「四十」になるという意味です。このような意味が込められた「四十」という数に合わせて、大洪水のさばきの時も、四十日間雨を降らせたのです。

したがって、大洪水のさばきのとき、四十日間雨が降ったことには、まるでルシファーの反乱の時と同じ神のお心の苦しみが宿っているということです。まことの子どもを得ようと始めた耕作だったのに、こんなふうにすべての人を水でさばかれたとき、父なる神のお心はどうだったでしょうか? もどかしくて、いても立ってもいられない心の痛みが、四十日間雨を降らせたことにそのまま込められていたのです。

 


文明の痕跡の保存


神が四十日間雨を降らせる方法を選ばれたことには、もう一つの重要な理由があります。それは、当時地球にあった、洪水以前の痕跡を最大限保存させるためでした。もし神が一日、またはたった数日で、ものすごい量の水を降り注がれたなら、どんな現象が現れたでしょうか? 夏の集中豪雨だけでも、あちこちが洪水で被害が発生します。ところが、それよりずっと強力な集中豪雨なら、どれほど多くが壊されるでしょうか? 当時、地球に残っていた文明の痕跡は、完全に破壊されてしまったでしょう。

ノアの洪水は、まるでコップに水がゆっくり満たされるように、四十日間の雨によって地表面から水がだんだん増えていきました。それで、洪水以前の文明の痕跡がそれでも保存できたのです。代表的な例として、エジプトのピラミッドを挙げることができます。この他にも、古代文明の痕跡が今も地球のあちこちに残っているのです。これを通して、神はノアの子孫がエデンの園と霊の世界についての手がかりを見つけるようにしてくださったのです。このようにノアの洪水にはまことに多くの意味が込められています。


新たな間耕作を通して「まことの子どもたち」が出てくることを願われる父の心


きょうは大洪水のさばきが始まる場面を調べてみました。大洪水のさばきをなさる父なる神のお心はあまりにも痛かったのです。[エゼキエル18:23]に「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあるとおりです。

ところが、ノアの時代の罪と悪は、公義の基準によってさばくしかない限界に達しました。それで、父なる神は涙を流しながらさばきを断行なさいましたが、新たな期待をいだかれたと言いました。それは、ノアから新たに始まる人間耕作を通して「まことの子どもたち」が出てくることでした。

皆さんは父なる神様がこんなに長く待っておられることを、どれほど心で知っているでしょうか? まことに心を分かち合えるまことの子どもを得るまで、「千年を一日のように、一日を千年のように」変わらず待ちに待っておられる父のお心。皆さんがこのような父なる神様のお心を知って、すみやかに御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされますように。それで、父なる神様にまことに喜ばれるまことの子どもになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び64 創世記7章  

創世記7:11–12
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

神はさばきに備えて方舟を準備する時間を十分あたえられた。


本文[11節前半節]には「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、」とあります。聖書には、大洪水のさばきがいつ起こったのか、このように日まで正確に記されています。それでは、ノアはだいたいいつ頃、大洪水のさばきがあるのか知っていたでしょうか?


ノアは正確な日までではなくても、「いつ頃」くらいかは知っていました。また、自分の役割も知っていたのです。つまり、当時のすべての人類は大洪水で死ぬようになり、自分を通して人類がまたふえ広がるようになるということでした。

ノアはこのことを知る前まで、結婚しないでひとりで暮らしていました。罪がはびこっている世で、聖別された生き方をするためでした。しかし、神のご計画を悟るようになったあと、子孫を残すために妻をめとりました。それで、ノアは五百歳になってからやっと息子たちを生んだのです。

私たちはこのことから、ノアが大洪水のさばきがあるということをだいたいいつ頃知ったのか、推測できるでしょう。言いかえれば、神がノアに洪水のさばきに備えるように下さった時間が、わずか数十年ではなかったこともわかります。

神はさばきに備えて箱舟を準備する時間を十分与えられたということです。これはノアにだけ当たるのではなく、ノアが生きていた当時の人々も、救いの機会をつかめるように、同じように与えられた時間でした。

ノアはその長い時間を信仰によって忍耐しながら、神のおことばどおりに行いました。箱舟を造り、食料を用意しました。また、人々に大洪水のさばきがやって来ることを一生懸命に知らせました。しかし、大洪水のさばきから救われた人は、ただノアの八人家族だけでした。

 


「終わりの時」の摂理


この「終わりの時」の状況がノアの洪水の時ととても似ています。父なる神は、世界の始まる前から、あらかじめ「終わりの時」の摂理を定められました。そして備えられました。

ここでちょっと用語を整理してみましょう。「終わりの時」とは「主の再臨が近づいた時」を意味します。「終わりの日」とは「イエス様がお生まれになった時から再臨の時までの世」という意味です。世では「末世」とも言い、同じ意味で使われています。「世の終わり」とは、「主が再臨するその時点」と、もう少し広い意味で「その時点が含まれた世代」のことだと覚えておけばよいでしょう。

父なる神は、終わりの時に多くの魂を救うために、どんな教会と牧者が必要かをご存じなので、ずっと昔から備えてこられました。ノアにだいたいいつ頃大洪水のさばきがあるかを教えて、備えるようにされたのと同じです。終わりの時にも、主が再臨する時点がいつか、その日と時間までではなくても、だいたいいつ頃かは教えてくださいます。空中の婚宴にあずかるにふさわしいように、花嫁の備えをする時間を下さるのです。

神はノアに箱舟を造るようにされたように、終わりの時にも多くの魂を救う箱舟を備えるようにされました。まずは霊的な箱舟であるいのちのみことばを下さったし、次は大聖殿を建て上げるようにされたのです。霊的な花嫁の備えや大聖殿建築は短い期間でできるものではありません。

もし、皆さんが主の再臨の時を1年前に知ったら、たった1年で花嫁の備えが完全にできるでしょうか? その時までまめに花嫁の備えをしていた人なら、あと1年間で終えればよいでしょう。しかし、その時まで信仰生活を適当にしていた人や、まともに始めたばかりの人なら、1年という期間は十分ではありません。心はせいていても、完全に備えるにはどうしても時間が足りないということです。

大聖殿建築のための準備も同じです。実際に聖殿を建築する工事は主の再臨の時点に近いこともあります。しかし、このための事前作業はずっと前からしなければなりません。まず霊的な準備が必要です。

ノアがその時代にあって正しい人と認められるまで時間が必要だったように、皆さんも大聖殿を建て上げるにふさわしい資格を備える時間が必要なのです。父なる神は「大聖殿はきよい子どもたちを通して建て上げる」と開拓の時から言われました。このような霊的な条件が備えられるとき、神様も公義に従って大きい財政の祝福を与えることがおできになるからです。

ノアが父なる神のおことばを信じて、そのとおりに行ったように、皆さんもただ信仰で行軍しながら、みことばどおりに花嫁の備えをしてください。信仰は今すぐ目に見えないし、手に触れなくても、変わらずに望むことです。それが公義によってまことだと認められるとき、望んでいる事がらが保証されるのです。この霊的な原理を必ず覚えて、変わらない信仰をきよく守るすべての皆さんになりますように、主の御名によって祈ります。


 

朝の学び63 創世記7章  

創世記7:8–12
きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

箱舟の中での動物たちとノアの家族の暮らし


前回は本文[8,9節]を説明して終わりました。すべての動物は基本的に雄と雌二匹ずつ、きよい動物は基本的に雄と雌七匹ずつが種族保存のために箱舟に乗りました。これに特別な用途のために、きよくない動物は一つがいをさらに乗せて、きよい動物は七匹をさらに乗せました。

こうして箱舟に乗った多くの種類の動物は、一年以上、どうしてその限られた空間で一緒に暮らせたのでしょうか? 強い動物が弱い動物を攻撃したり、互いに戦って害を与えるようなことが起こったなら、箱舟の中は無秩序になったでしょう。

ところが、結果的に見れば、箱舟の中でそんなことは起こりませんでした。神は洪水が終わるまで、ノアの箱舟だけは初めの光で取り巻いてくださったからです。
ノアは洪水の後も、初めの光で取り巻かれた空間に生きていました。洪水が終わる時まで、ノアの箱舟を神は初めの光で取り巻いてくださいました。それで、動物が箱舟から出てくるまで、根本の悪い属性を現さないで、ノアの言葉に素直に従ったのです。動物は自分に割り当てられた空間で、おとなしく過ごしていたのです。

ここで、動物に割り当てられた空間について、もう少し詳しく申しあげましょう。神は箱舟の中の限られた空間を一番効率的に使えるように、それぞれの動物の空間を配置されました。[創世記6:16]に記されてあるとおり、箱舟は一階と二階と三階に作られています。一番下の階から、体重が多い順にとどまるようにしました。たとえば、ゾウ、カバ、ライオン、トラのように、体が大きくて体重も多い動物です。これは箱舟の全体の安定性のために必要な配置でした。下のほうが重い時こそ、箱舟がより安定して、バランスもよく取れるからです。

二階にはその次の大きさの動物が、一番上の三階には鳥と「地をはうもの」、そしてノアの八人家族が住みました。ひょっとして「どうしてノアと彼の家族は鳥と地をはうものと同じ階で暮らせたのか」と思う方がいるでしょうか? 同じ階に住むとしても、空間がちゃんと分けられていたのです。ノアと彼の家族が暮らすのに不自由なことはありませんでした。


この他にも、箱舟の内部は空間がとても効率的に区切られていました。たとえば、食物を蓄える空間が各階にありました。もし一つの階にだけ食料倉庫があったなら、動物にえさをやるたびに上り降りする苦労がどれほど大きかったでしょうか。

神はノアに動物の食料倉庫を各階の一番右端に作るようにされました。動物に一日に一回だけえさと水が与えられました。これはみながおなか一杯になったと感じるほどの量ではありませんでしたが、だからといって、ひもじさを覚えるほど少ない量でもありませんでした。箱舟の中は神の初めの光で取り巻かれていたので、動物は一日に一回、一定量を食べるだけでも生きるのに十分だったということです。

ノアと彼の家族にとって、すべての動物にえさをやることは、一日にたった一回でも楽ではありませんでした。ところで、動物にえさをやることより大変だったのは、彼らの排泄物を処理することでした。いくら一日に一食だけだとしても、動物の数があまりにも多くて、排泄物もその量が実際とても多かったでしょう。ノアと家族がいちいち動物の囲いにある排泄物を片づけなければならないなら、これはどんなに大変でしょうか。

救われた恵みに感謝して、与えられた仕事を誠実に果たすノアの家族たち


それなら、ノアと家族はこの問題をどう解決したでしょうか? 父なる神はこれまであらかじめ知っておられて、ノアが箱舟を造るとき、排泄物の処理施設を作るようにされました。動物が囲いの中のある地点で排泄すると、その排泄物が一つの所にたまるようになっていました。ノアと家族は一つの所にたまった排泄物だけ、箱舟の外に捨てればよかったのです。

ノアと家族は箱舟暮らしの間じゅう、動物の世話をするのにたくさんの時間を割いて、とても忙しく過ごさなければなりませんでした。ですから、実際退屈になる暇も、他のことを考える余裕もありませんでした。実は肉的には骨の折れる労働をしながら一日一日を忙しく過ごしていたのです。

しかし、彼らはそれについて不平を言うことも、嘆くこともありませんでした。むしろさばきから救われたことに感謝しました。ですから、自分たちがすべきことをいやいやながらしたのでもなかったし、適当にしたのでもありませんでした。ある面ではあまりにも骨の折れる仕事でしたが、箱舟暮らしの間じゅう、感謝と喜びをもって誠実に与えられた仕事を果たしたのです。

救いの恩寵をいただいた皆さんも、このような心と姿で信仰生活をしなければなりません。今は多くの方が信仰のまことの意味を悟って、そのように行っているでしょう。各種の礼拝と祈りも自発的にしていて、奉仕することを自ら探してしている方もたくさんいます。たとえば、トイレの掃除や聖殿の掃除も、自ら進んでしている方もけっこういます。暑い時も寒い時も、変わらずに食堂や交通、掃除の奉仕をしている方も多いのです。肉的には骨の折れる仕事でも、救われた恵みに感謝して、喜んでしている方が本当に多くいます。そのすべての方々に心から感謝いたします。

ところで、このように感謝な心で始めた奉仕を、ひょっとして今は義務感から、いやいやながらしている方はいないでしょうか? 「主の恵みに感謝して奉仕する」というその心が決して変わってはいけません。

ひょっとして人に傷つけられたり、気に触ることにあっても、それによって主への心が移り変わってよいでしょうか? 主が自分をつらくさせたのでもないのに、なぜ主への心が変わらなければならないのでしょうか? 人との関係においてつらいことにあえば、それは自分の心に真理に逆らうものを発見する機会です。その機会をよくつかんで、主が願われる心にもっと美しく変えられなければならないでしょう。

ノアは家族とともに救われた恵みに感謝して、決して楽でない箱舟の中での暮らしを黙々と誠実に送りました。皆さんが霊的な箱舟の中で生きたいと願うなら、救いの恵みに感謝する心がいつまでも変わってはいけません。この一つだけ最後まで握っていても、荒波が立つ海のような世の中で、十分勝利する生き方ができるのです。これを必ず覚えて、私たちを救うためにすべてを渡してくださった父なる神様と主に喜ばれる皆さんになりますように、主の御名によって祈ります。

大洪水―新たな人間耕作の始まり


次は、本文[10節]を調べてみましょう。「それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。」とあります。神は、前の[4節]でも「あと七日たつと」雨を降らせると仰せられました。この「七日」は、神の公義を完全にする猶予期間だと言いました。神のほうで洪水のさばきを下されるとき、霊の世界に定めておいた公義のとおり、少しもつけ足したり、取り去ったりすることもなく、正確になさったことを表しています。どれほど深く思い、じっくり考えられたのかがわかります。

ところで、神が「あと七日たつと洪水のさばきをくだす」と仰せられたみことばには「ノアと彼の子孫をとおして新しく人間耕作をする」という意味も込められています。世にも「卒業は終わりではなく、新たなスタート」という言葉があるでしょう。これと同じように、大洪水のさばきで耕作の歴史が終わるように見えましたが、それは終わりではなく、新たなスタートでした。

本文の「大洪水の大水が地の上に起こった。」というみことばにも霊的な意味が込められています。「地」とは「やみ」のことで、「大洪水の大水」、すなわち「水」とは「みことば」のことです。したがって、「大洪水の大水が地の上に起こった。」というみことばには、「やみの勢力によって染まったこの地を、神のことばである水でさばいて新たに平定される」という意味が込められているのです。

敵である悪魔・サタンは、人の心にやみ、すなわち、悪を蒔くことで、この地上に彼らの世界を築き上げようとしました。世にはすっかり罪がはびこって、彼らの計画がほぼ成功したかのように見えました。しかし、父なる神はこの時のために、その時代にあって正しい人、ノアを備えさせました。そして、公義が満ちると、大水で地を覆って世を新たに平定されました。これによって、人間耕作の歴史は続くようになりました。

朝の学び62 創世記7章  

創世記7:4-9
「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。」

神が下さった最後の猶予期間「七日」

 


本文[4節]で、神はノアに「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」と仰せられています。これは、洪水のさばきがこれから「七日後に」起こるという意味です。逆に、さばきの瞬間までまだ「七日」あるという意味にもなります。

父なる神は洪水のさばきがある前に、すでに数回悔い改めの機会を下さいました。そのたびに人々は罪と悪から立ち返らなかったので、結局洪水のさばきにあってしまいました。「さばき」を取り消せないところに至ったのです。

それなのに、父なる神は直ちに世をさばかれたのではなく、もう一度「七日」という時間を下さいました。完全数の七に相当する日を加えてくださったのです。ここにまさに父なる神の正確な公義が込められています。これがなぜ神の公義なのでしょうか?

神が下さった七日は、誰かが立ち返って救いの箱舟に乗ろうとするなら、その人に与えられた最後の猶予期間でした。神がこのように時間を下さったのに、この機会をつかまないなら、どこの誰も神を恨むことはできません。

したがって、この「七日」という時間は、神のほうで洪水のさばきをくだすまで、公義の法則からはずれないように、どれほど多くのことを問いただして、どれほど一つ一つをチェックしてみたのか、どれほど細やかにくまなく調べて、どれほど徹底的に点検されたのかを表しています。

一方、[5節]「ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。」とあるのは、ノアのほうでも洪水のさばきのための備えが全く足りないところがなく、どんな間違いもなくできるようにしたということを表しています。


最後の瞬間まで悔い改める機会を下さる神様


[エゼキエル18:23]「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあります。これか父なる神のお心です。ですから、罪と悪が積みに積まれてさばかれるしかない時も、その中でひとりでも救う者がいるのではと調べて、最後の瞬間まで悔い改める機会を下さったのです。

ソドムとコモラのさばきの時も、ご自分で御使いのかしらたちを遣わして、その町を調べるようにされました。そして、ロトと彼の家族は救われるように、緊迫した状況でもさばきを遅らせなさいました。

ニネベをさばこうとされた時も同じです。ニネベはアッシリアの首都です。アッシリアはイスラエルの敵国です。彼らの悪が神の前に上って来て、公義によっては滅ぼすしかないところでした。それでも神は、ニネベの民に悔い改めの機会をもう一度下さいました。預言者ヨナを遣わして、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫ぶようにされたのです。

これは、さばきの宣言とともに「四十日」という猶予期間を下さったということです。ニネベの民が罪と悪から立ち返る時間、滅ぼされないで、生きられる最後の機会を下さったのであります。ですから、「私は悔い改める機会が得られませんでした。罪と悪から立ち返る時間がありませんでした」と、誰も神を恨むことはできないのです。

幸いなことに、ニネベの民は神が下さった最後の機会をつかみました。王をはじめ、すべての家臣と民が断食しながら悔い改めました。それどころか家畜までも断食させたのです。これに神は思い直されて、災いを下されませんでした。このように、私たちの神は完全な公義と愛をもってさばきをくだすこともあり、くだそうとしていたさばきを撤回することもあります。

ノアの時代、洪水のさばきの前に下さった七日という猶予期間は、神の公義を完全にする愛の表現でした。その期間中、たったひとりでも救いの箱舟へと出てくるなら救おうという神の憐れみから始まったものです。

この時、大切なことが一つあります。洪水が起こる七日前、神はノアと彼の家族、選ばれた動物をみな箱舟の中に入っているようにされたということです。そして、戸を閉ざすようにされました。したがって、その七日間、ノアはそれ以上世に向かって「もうすぐ洪水のさばきが始まる」と叫べなかったのです。なぜ神は世の人たちに七日という猶予期間は下さったのに、それ以上さばきを警告しないようにされたのでしょうか? なぜノアに最後の瞬間まで箱舟の戸をあけておくようにされたのでなく、戸を閉ざすようにされたのでしょうか?


「七年艱難」を表す七日の猶予期間


ノアの時代の洪水のさばきは、人間耕作の摂理が含まれている縮刷版のようなものなのです。[ルカ17:26-27]で、イエス様は「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」と言われました。ノアは洪水のさばきがあることを知った時から、人々に熱心に伝えました。しかし、彼らはノアのことばを聞かずに、かえってノアを非難しました。

人の子の日」、すなわち、主が再臨される時も、これと同じ現象が現れるのです。神は主のしもべと働き人を通して、時が近いことを絶えず知らせてくださいます。この叫びを聞いて、主を受け入れて、罪を悔い改める人は救われます。しかし、多くの人が世に染まって、福音を聞こうとしないし、かえって敵視するのです。反キリストの勢力が終わりの時になるほど強くなるからです。

しかし、結局、時が来ると主が空中に下って来られ、主を信じる人々は携挙されて、七年婚宴に入ります。一方、この地上では七年患難が始まります。その時、この地上に残された人は、全く主を信じなかった場合や、信じるといっても救われるような信仰を全然持てなかった場合です。

ところで、彼らの中にも、携挙の出来事を見て、目を覚ます人がいることもあります。その時やっと聖書がまことだと悟って、天国と地獄があることを悟るのです。この人たちが救われて天国に行くためには、どんな拷問と脅かしにあっても、イエス・キリストを信じる信仰を守らなければなりません。聖霊もすでに呼び戻されたので、全く自分の意志で信仰を守らなければならないのです。

父なる神はこうしてでも救われる人がいるのを知っておられるので、七年患難という期間を与えてくださいます。公義によっては救われない人たちに、最後の機会をもう一度下さるのです。
洪水のさばきの前、七日の猶予期間が、まさに「七年患難」の意味と同じです。

洪水のさばきの七日前、ノアと彼の家族が箱舟の中に入ったのは、救われた子どもたちが七年婚宴に入るのと同じです。また、七年患難の期間に落ち穂拾いの救いがあるように、箱舟の戸が閉ざされても、洪水が始まる前に誰でも戸を叩くなら、開けてあげることができます。
[第一テモテ2:4]にあるように、神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるからです。

洪水のさばきの前、七日の猶予期間中には、さばきを警告する人が誰もいませんでした。ノアと彼の家族はすでに箱舟の中に入ったからです。これも、七年患難の時、聖霊が呼び戻され、自分の意志だけで信仰を守らなければならないのと同じです。

箱舟の戸が閉ざされた後は、誰にも助けられないまま、自ら悟って立ち返った人でこそ、救いの機会をつかむことができたのです。結局、その数えきれないほどの人のうち、誰ひとり悔い改めて立ち返って、箱舟に入った人はいませんでした。

七年患難の時もこれと似ています。初めは多くの人が悔い改めますが、主を信じる者にものすごい迫害が加えられれば、ほとんどが信仰を捨てます。最後まで信仰を守って救いに至る人はごくわずかなのです。このようにノアの時代の洪水のさばきは、人間耕作の終わりの時と似た点が多くあるのがわかります。

 


従順の行いが伴うまことの信仰


次に本文[6-7節]をご覧ください。「大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。」

「ノアの息子たちや妻、息子たちの妻」は、ノアが箱舟を作って神のみこころと摂理を伝えたとき、そのことばを信じてついて来てくれた人々です。このように、ノアを通して下さった神のことばを信じて、そのとおりに従った結果、「救い」という驚くべき祝福を受けるようになったのです。ノアの家族は今すぐ目に見えるはっきりした洪水の前兆がないところでも、ノアのことばを信じて従いました。まことの信仰とは、このように目に見えるものがなくても信じることです。

また、まことの信仰には従順の行いが伴うのです。ノアが何も見えない状況で、ただ神のことばに聞き従って、長い間箱舟を造ってきた信仰です。これについて[ヘブル11:7]には「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」とあります。


ノアの家族がノアのことばを聞いて、ノアとともにいることができたことも、すべて信仰から出た行いでした。結局、この「信仰」がノアと彼の家族を救いに至らせたのです。

もし、ノアの家族以外の人がノアの伝えたことばを聞いて信じたので箱舟の中に入ろうとしたなら、神が「あなたはだめだ」と止められたでしょうか? そうされなかったでしょう。私たちの父なる神は「特別に誰かだけが救われる」と定めておかれませんでした。ノアは熱心に伝えましたが、人々が世を愛したからノアのことばを聞こうとしなかったし、聞いても無視してしまいました。このように信じない結果、滅びというさばきを受けたのです。

これは今日も同じです。多くの人が福音を伝えていますが、素直に信じて従う人は少ないです。また、教会には通っていても、心は相変わらずに世に向かっている人も多いのです。このように、口では「信じます」と告白しても、相変わらず世を愛して追い求めている人は、実は箱舟に乗っていない人と同じです。

なぜそうなのか、たとえを挙げてみましょう。仮に、片足だけ箱舟の中に入れておいて、もう一方の足は外の世に出しておいた人がいるとしましょう。この状態で洪水のさばきが臨んだなら、この人がものすごい豪雨と波風の中でも、ずっと箱舟につかまっていられるでしょうか? さほど経たないうちに、箱舟から落ちて、荒波の中におぼれてしまうでしょう。

したがって、世と信仰に二股をかける人は、まことの信仰があると言えないのです。まことに救われるような信仰を持っている人は、箱舟の中に完全に入って、つまり、みことばの中に完全に入って、世と自分を断ち切らせる行いを見せるでしょう。ところが、まだ「私はいったい救われるような信仰を持っているのだろうか」と確信のない人がいるでしょうか? ですから、安全な救いの箱舟に乗って、永遠の国に十分入れる幸いな皆さんになりますように。

次に、本文[8-9節]を読めば、「きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。」とあります。


前回伝えたように、すべての動物は基本的に雄と雌二匹ずつ、きよい動物は基本的に雄と雌七匹ずつが種族保存のために箱舟に乗りました。これに、特別な用途のために、きよくない動物は一つがいさらに乗せて、きよい動物は七匹さらに乗せました。

こうして箱舟に乗った動物は、洪水の期間中どう過ごしたでしょうか? 大洪水のさばきが始まると同時に、神の初めの光がこの地上から取り込まれて、動物には根本の属性が現れるようになりました。それなら、その多くの種類の動物が箱舟の中で1年以上、どのようにいっしょに暮らせたのでしょうか?
 

朝の学び61 創世記7章  

創世記7:1-3
【主】はノアに仰せられた。『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。』

「箱舟」とは、霊的に「神のことば」を意味すると言いました。したがって、皆さんが霊的な箱舟である神のことばの中にだけとどまるなら、どんな試練が押し寄せてきても安全であることを必ず覚えておいて下さい。

神に正しいと認められたことによってノアがいただいた祝福


創世記7章からは大洪水のさばきが始まります。
本文[1節]で、神である【主】は、雨を降らせる前、ノアに家族といっしょに箱舟に入りなさいと仰せられました。そして、ノアとその家族を大洪水のさばきから救われる理由を明らかにされました。まさに「あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」と仰せられたのです。その時代にノアだけが神の御前に正しい人だと認められたということです。

自分の目に正しい人でなくて、神の御目に正しい人は、ノアのように驚くべき祝福をいただきます。ノアは、自分が救われたのはもちろん、その家族も一緒に救われる祝福をいただきました。また、ノアは神の大いなる摂理を成就する尊い道具として用いられました。

ノアが神に正しいと認められたことによっていただいた祝福がもう一つあります。大洪水のさばきが始まる頃、地球を取り巻いていた創造の初めの光が完全に取り込まれましたが、ノアは相変わらずその光で取り巻かれていた空間で生きることができました。神は洪水の間も、ノアの箱舟を初めの光で取り巻いてくださいました。それで、箱舟の中にいる人と動物は神に特別に守られていたのです。

[創世記1:3]で、神が六日創造の初日、「光があれ。」と仰せられると、創造の初めの光が地球をはじめ、第一の天を取り巻きました。それで、地球は肉の空間でありながら、ある程度は霊の空間の法則が適用されました。

このように地球を取り巻いていた創造の初めの光は、アダムが罪を犯した時点から少しずつ取り込まれ始めました。そうしていて、大洪水の始まりと同時に完全に取り込まれたのです。その結果、地球はすっかり肉の空間になって、100%肉の法則が適用されました。


すると、地球にいる生物は本来持っていた肉の属性が、制限されずに現れるようになりました。たとえば、ライオンやトラのような猛獣は潜在していた荒々しさを現しました。初めの光で取り巻かれていた時は、このような猛獣もおとなしかったのですが、今は本性が現れたのです。

また、地球にあるすべてが肉の属性どおり、さらにすみやかに変わってしまい、朽ちるようになりました。ノアは洪水以後、このような環境の中でも、初めの光で取り巻かれた空間で生きていたのです。

これについての一つの証拠がノアの寿命です。ノアは洪水以前の人々のように950歳まで生きました。これと違って、本来永遠に生きられたのに、肉に変わってしまって絶滅した人たちがいました。それは、エデンの園からこの地上に降りてきて、思いのままに肉を追い求めて肉の人になった存在です。彼らと彼らの子孫もみな、大洪水のさばきのとき、絶滅してしまいました。

これを通して、神の御目に正しい人と正しくない人の結果がどれほど違うのかがわかります。

[箴言12:7]「悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。」とあるとおりです。このようにノアは罪と悪がはびこっていた時代に、神の御前で正しさを堅く守って、救いと祝福をいただきました。
皆さんも不義なことを遠ざけて、神が正しいと見られることを行って、幸いな道へと導かれますように、主の御名によって祈ります。


これから本文[2、3節]をご覧ください。神はノアに、箱舟にさらに連れて入る動物の種類と数を教えてくださいました。「あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」

[創世記6:19-20]で、神は「またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、」と言われました。ところが、どうしてここでは、きよい動物と鳥の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、取るように言われたのでしょうか?

[創世記6:19]で、すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入るように言われたのは「生き残るために」でした。言いかえれば「種族保存」のために基本的にすべての動物の中から、それぞれ二匹ずつ連れて入ったのです。そして、その時、神が生き残るように選ばれた動物は、本能的に初めの声に引かれて、箱舟のほうに出てくるように働かれたのです。

ところで、本文[創世記7:2-3]では、神が特定の動物を指名して、雄と雌、七つがいずつ、または雄と雌、一つがいずつ取るように言われました。ここで注目する部分は、神が箱舟にさらに連れて入るきよい動物ときよくない動物を、ノアが選び取るようにされたということです。

これは、父なる神がノアを用いて人間耕作を新しく始めようとする意志を表されたのです。また、ノアのように、神のまことの子どもとされれば、すべてのものが支配できることを教えてくださったことです。


神のまことの子どもは霊の次元にいるので、それより次元が低い、肉に属する動物を十分に支配して従えるのです。獅子の穴に投げ込まれたダニエルを、獅子が害することができなかったのも、同じ原理です。

きよい動物ときよくない動物が分けられた基準


それでは本文にあるきよい動物ときよくない動物は、どんな基準によって分けられたのでしょうか? その基準は、動物が持っている根本の属性です。すべての動物は初め創造された時に使われた土質によって、根本の属性が変わってきます。

たとえば、ある動物は性質がずる賢くて、ある動物は荒々しいし、ある動物は貪欲な性質を持っています。一方、ある動物はよく言うことを聞く性質を持ち、ある動物はおとなしい性質を、ある動物は愚直な性質を持っています。

この地上が神の初めの光で取り巻かれていた時は、動物に内在していた悪い属性が現れていませんでした。それで、今は荒々しい動物も、当時はみなおとなしかったのです。しかし、大洪水のさばきが始まりながら、初めの光が完全にこの地上から取り込まれると、土質に内在していた根本の属性が出てき始めました。それで、神は根本の属性に従って、きよい動物ときよくない動物を分けられたのです。

ところが、すべての動物がこの二つの範疇にいるのではありません。動物の中の一部だけ「きよい」または「きよくない」と言われたのです。
ところで 
[レビ記11章]を読むと、「きよくない動物」の種類が具体的に記されています。しかし、レビ記にあるきよくない動物とノアの箱舟に連れて入ったきよくない動物が100%一致するのではありません。

レビ記は大洪水のさばきから約1千年後に記されました。レビ記を記した時の動物は、その属性がノア時代の動物とまた違ってきました。大洪水のさばきの後、人が再び増え始めながら、世もだんだん悪に染まっていきました。大洪水のさばきが終わった後は、神の光がそれ以上残っていなかったので、動物も根本の属性を制約なしに赤裸々に現しました。簡単に言って、動物もさらに悪くなったのです

したがって、ノアの時代に神が定めてくださったきよい動物ときよくない動物の基準と、レビ記を記した時の基準は同じになれないのです。ノアの時代にはきよくない動物ではなかったのに、レビ記を記した時にはきよくない部類に属するようになった動物が現れました。

たとえば、「鳥」がそうでした。ノアの時代には、鳥の中からきよくないと言われるほど、悪い性質が現れたものはいませんでした。それで、本文[3節]にも「空の鳥の中からも」きよい動物のように「雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」とあるのです。

一方、きよくない鳥についての言及はありません。また、「空の鳥」といっても、鳥のすべての種類を雄と雌、七つがいずつを取りなさいという意味ではありません。鳥の中からきよいものだけ、雄と雌、七つがいずつ取りなさいという意味です。ですから、ノアの当時は、鳥は「きよい種類」と「その残りの種類」、二つの部類だけ存在していたことを知らなければなりません。

ところが、[レビ11:13-19]には、鳥の中で忌むべきものが何か、具体的に記されています。これは、歳月が経つにつれ、鳥の中からも悪い種類が現れたという証拠です。
参考までに、
[レビ11章]に書いてある「忌むべき動物」はそのかたちが堕落したケルビムに似ています。神はそんなものは食べてはならないと言われました。堕落したケルビムに似た忌むべき動物は、ほとんど毒性を持っていて、人に悪影響を与えるからです。心が良くなるよりは悪くなるようにします。

神は本文[2節]で、きよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、取るように言われました。ここで「きよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ」という表現には、二つの意味が込められていることを知らなければなりません。

まず、文字どおり「雄と雌、七つがいずつ」すなわち、「十四匹」を意味します。次に、それぞれの種類から雄と雌合わせて「七匹」、すなわち「雄と雌、三つがいと雄一匹」の七匹の組を言うこともあります。これはどういう意味でしょうか?

[創世記6:19]に、すべての生き物を「種族保存」のために、基本的に雄と雌「それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、」とあります。この時、きよい動物は一つがいずつではなく、七つがいずつ箱舟に連れて入ったのです。

きよい動物は牛、羊、やぎなど、非常におとなしい動物です。このような動物が種族を保存できるには、猛獣よりその数が多くなければなりません。それで、きよい動物は種族保存のために、雄と雌、七つがいずつ箱舟に連れて入ったのです。

そして、この外に「また別の目的」をもって、雄と雌合わせて七匹、すなわち「三つがいと雄一匹」の七匹の組を箱舟に連れて入ったということです。
理解を助けるために、具体的な例を挙げてみましょう。たとえば、きよい動物に属する「羊」は、種族保存のために七つがいを連れて入りました。「また別の用途」のために、七匹の組、すなわち三つがいと雄一匹をさらに連れて入りました。それで、箱舟に入った羊は計二十一匹になります。この中で雄羊は十一匹、雌羊は十匹です。

それなら「きよくない動物」に属する「豚」は、何つがい箱舟に入ったでしょうか? 基本的に入った雄と雌それぞれ二匹と「きよくない動物」として取った雄と雌一つがい、このように雄と雌二つがい、計四匹です。

ところが、「きよい動物」にも「きよくない動物」にも属しない種類のほうが多かったのです。それらの動物はただ基本的に雄と雌それぞれ二匹だけが箱舟に入りました。ノアの箱舟に入った動物は、このように「きよいもの」と「きよくないもの」、そして「残り」、このように三つの部類でした。

それでは、神がきよい動物と鳥、またきよくない動物を箱舟にさらに入るようにされた「また別の目的」とは何でしょうか? それは、大洪水のさばきの後、人間の暮らしにそれらの動物が必要な特別な分野があったからです。まず、きよい動物の用途を説明いたします。

きよい動物の用途、 第一神にいけにえをささげるとき、使うためです


[創世記8:20]を読むと、大洪水のさばきの後、箱舟から出てきたノアが神に全焼のいけにえをささげる場面があります。「ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」とあります。

このように神にいけにえをささげる時は、どんなものでもささげたのではありません。必ずきよい家畜や鳥をいけにえとしてささげました。これを通して、私たちは「きよい動物」とは、すなわち、「いけにえ」になれる家畜であることがわかります。


レビ記1章から7章に、いけにえをささげる法に関する規定が詳しくあります。いけにえとしてささげる動物も指定されています。家畜からは牛、羊、やぎを、鳥の中からは鳩をささげることができます。このようにささげものになれる種類は四つにすぎません。ノアの時代できよい動物の種類もこれと大きい違いはなかったのです。

ところで、洪水のさばきの後、ノアが最初の全焼のいけにえをささげる時に「すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」とあります。ただ牛一頭だけささげたのではなく、牛一頭と一緒に、羊も、やぎも、鳩も、みな一匹ずつ全焼のいけにえとしてささげたのです。この時、全焼のいけにえとしてささげたのはみな雄でした。

それで、父なる神は、きよい動物は雄を一匹より多く入るようにされたのです。もしきよい動物を雄と雌それぞれ二匹だけ箱舟に入れたなら、このように全焼のいけにえをささげることは難しかったでしょう。それでもこのように全焼のいけにえをささげたとすれば、その瞬間、牛、羊、やぎ、鳩は絶滅してしまったでしょう。すると、私たちは今、牛、羊、やぎ、鳩を見ることができなくなるのです。

それで、神はノアに、きよい動物は種族保存のための十四匹の他に、七匹ずつ多く箱舟に連れて入るようにされたのです。大洪水のさばき以後にも、続けて神にいけにえをささげなければならないからです。

旧約時代にいけにえをささげることは、人の子らが神と交わる通路でした。洪水のさばき以後、この地上には人々が急速に増えていきます。これと同時に、神にいけにえをささげることも多くなります。神はこのように今後のことをご存じであって、人々に必要な数だけきよい動物を多く入らせるようにされたのです。

きよい動物の用途、第二は、神を信じる民の食物となることです。


神は洪水以後、人々に肉食をすることを許されます。まさに[創世記9:3]「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」とあります。人々は洪水のさばきの前までは、菜食だけしていました。ところが、洪水のさばき以後から、肉も食べ始めたのです。この時、人々に食物として許された動物が、まさにきよい動物だったのです。

当時、このみことばをいただいたノアと彼の子孫は、神である【主】を信じる人々でした。ですから、どんな動物でも取って食べるのでなく、きよい動物を取って食べなければならないことを知りました。このように、きよい動物は人の食物にも、いけにえをささげる時にも、必要だったのです。したがって、箱舟に連れて入るきよい動物の数が、他の動物に比べて何倍もあったのです。

それでは、きよくない動物を雄と雌一つがいずつ多く取るようにされた理由は何でしょうか? これは将来、神を信じない人々の食物として与えるためです。
洪水のさばき以後、歳月が流れるにつれて、ノアの子孫が増えていきながら、神を信じない人々も出てくるようになります。彼らは思いのまま、きよい動物でない他の動物まで食物にします。神はそのように人々がどんな動物を食物とするのかをあらかじめ知っておられました。それで、ノアの箱舟に雄と雌一つがいずつ多く入るようにされたのです。

結局、神がきよくないと言われた動物は、将来異邦人にとって食物となる動物でした。きよくない動物も、その種類が多かったのではありません。したがって、雄と雌一つがいずつ多く入るからといって、箱舟に無理があるのではありませんでした。

父なる神は、このように人に必要なものをよく知っておられます。将来、神を信じない人々のためにも、彼らの食物をあらかじめ準備してくださったのをご覧ください。[マタイ5:45後半節]にも「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とあります。このように、父なる神の憐れみと慈しみは、人々が思っているよりはるかに大きいのです。

最も良いものを与えたいと思う父なる神の心


ところが、イエス・キリストを受け入れて、神の子どもとされた特権をいただいたクリスチャンの中にも、神の愛をよく知らない方々がいます。私たちの父なる神は、子どもたちが信仰によって何かを求めるとき、最も良いものを与えたいと思われる方です。

私たちのイエス様は、このような父のお心をよく知っておられました。それで、[マタイ7:9-11]「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と言われたのです。

また、[ローマ8:32]で、使徒パウロも「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」と告白しました。
したがって、皆さんは私たちの父である神に、さらに信実により頼みますように。皆さんのすべてを知っておられ、すべての必要も満たしてくださることのできる父に、信仰によって求めますように。

父なる神は愛を施されますが、公義に従ってなさいます。私たちのほうから求めてこそ、いただくことができます。また、[マタイ6:33]には「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。これが私たちのイエス様が教えられた答えと祝福の秘訣です。

まず、神の国が広がるために祈らなければなりません。つまり、教会と牧者のために祈って、多くの魂の救いのために祈るのです。その次に「その義とを求めなさい」とは、心の聖潔のために祈りなさいという意味です。

これは単に祈る順序だけを指しているのでしょうか? もちろん、祈る順序も重要です。ところが、それより重要なのは、祈る人が大切に思うことがはたして何かということです。「神の国が広がることを願う心、聖められたい心のほうが大きいのか。」 「自分の肉の問題、すなわち、物質の祝福や病気のいやしなどを解決されたい心のほうが大きいのか。」

父なる神は私たちの心をお受けになります。父なる神は私たちを愛して、ひとり子まで惜しまず死に渡してくださいました。その愛があまりにもありがたくて、感謝して、何としてでも神の国のために報いようとする心、父なる神に似せられようとする心、このような心を持った子どもたちを捜しておられます。

皆さんがこのような心で祈るなら、父なる神は皆さんが求めたものはもちろん、その他に求めていないものも加えてくださるでしょう。父なる神は子どもたちに、何としてでも一番良いものを豊かに与えたいと思われる方だからです。このようにすばらしい父なる神を信じて、いつも感謝の心で祈り、答えと祝福をいただく皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び60 創世記6章  12

創世記6:22
ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

前回に続いて[ 創世記6:22]について説明いたします。ノアは箱舟を作って、食物を用意することにおいて、神が命じられたとおりに聞き従いました。肉の思いを働かせないで、ただ仰せられたとおりに聞き従おうとする心だったので、すべてが順調で「アドナイ・イルエ」のみわざも体験しました。

完全に聞き従うことにおいて、知識と技術を活用したノア


ところで、私たちが完全に聞き従うことにおいて、経験や知識、技術などが全く役に立たないのではありません。ノアが箱舟を作れた決定的な要因が、第一は神により頼む信仰でしたが、ノアはそれだけの知識と技術も活用できる人でした。このように、私たちが何かをするとき、知識と経験、技術と才能が基本的に土台にならなければならないこともあります。

たとえば、ある人が飲食店を始めようとするとしましょう。ところが、本人は料理についてよく知らないし、場所も町外れにしました。それから神に祈って、「お店がはやるようにしてくださると信じます」と言うなら、はやるでしょうか?

もちろん、霊の信仰によって祈って、神に助けていただければ、どんな状況、どんな条件でも栄える祝福を受けることができます。しかし、人のほうでできることすら全然しないで、祝福してくださいと祈ってばかりいることは正しくありません。祝福される「器」は備えないで、ただ受けることだけを願うのと同じです。

これと反対に、いくら豊かな経験と優れた技術を持っているとしても、神により頼まないなら、神に祝福されることは難しいのです。ただ自分の肉的な能力と限界の中で、誠実に努力した分だけ結果を出すのです。

このような人は自分の肉の限界を超える状況にあえば、結局へたり込むしかありません。さらに自分の知識と経験、技術だけを信じる人は、みことばに聞き従いません。自分を自ら賢いと思うからです。すると神もその道を導くことがおできになりません。

神のみことばが成し遂げられるまで、変わらずに聞き従ったノアの完全な従順


私たちがノアの従順を通して、もう一つ悟らなければならないことがあります。それは、完全な従順とは、神のみことばが成し遂げられるまで、変わらずに聞き従わなければならないということです

ノアが箱舟を作った期間が、聖書に正確に記されてはいません。しかし、箱舟の規模を考えてみれば、数か月、あるいは数年で作れるものではないことがわかります。したがって、ノアが箱舟を作っている長い間、世の人たちはノアをせせら笑ってあざけりました。


彼らの目には、ノアのしていることが全く理解できないから、彼を愚かだとからかったりもしました。皆さんがもしこのような状況に置かれているなら、どうでしょうか? 焦りを感じて、不安で、神のことばについて疑いが生じるのではないでしょうか?

ところが、ノアは全くそうではありませんでした。数年、数十年経った後も、ノアはみことばを疑いませんでした。「きょうか、明日か」と焦ったりもしませんでした。ただみことばが成就されるその日まで、黙々と箱舟づくりを続けたのです。

これが完全な従順の姿勢です。みことばが成就されるのが遅いようでも、一度仰せられたことを最後まで信じて、変わらずに聞き従う行いを見せなければならないのです。すると、神が最も正確な時に合わせて、約束されたみことばを必ず成し遂げてくださいます。

[第二ペテロ3:9]にも「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。

ところが、ある人たちは、みことばがすぐ実現されなければ疑います。恵みに満たされなくなって、試みにあったりもします。ノアはどんな状況でも焦らなかったし、堅い信仰で長い間忍耐をもって聞き従いました。ノアがこのようにできたのは、神と明らかに交わっていたからです。なぜ神は大洪水でさばこうとされるのか、自分と家族は救い出されて、将来どう生き続けていくようになるのかも知っていました。

一方、さばきの日が時々刻々と近づいていたので、ノアは洪水で滅びる人たちのことで、いつもいても立ってもいられませんでした。箱舟が完成されるとすぐ洪水が迫ってくるだろうに、これを知ることも信じることもしないで、相変わらず罪と悪の中に生きている、数えきれない人の姿がノアの心を痛めたのです。

それで、ノアは熱心に叫びました。しかし、いくら叫んでも耳を傾ける人はいませんでした。こんな時にノアが神に告白した内容を、父なる神様が御霊に感じているうちに私に教えてくださいました。その内容の一部をご紹介します。

洪水で滅びる魂の為にもどかしく叫びながら神に捧げたノアの告白


「父よ。今作っているこの箱舟のことで、その日が迫っているのを感じていますが、この箱舟のことでうれしいのでなく、かえってもどかしく、ひどくもどかしいばかりです。
私は怠けていなかったし、時に合わせて父のおことばどおりすべてを作っていったし、
また、すべての分野において夜も昼も忠実でしたが、こんなふうに一つ作られ、一つ完成されればされるほど、その日が迫っているので、もどかしいばかりです。

私は父の命じられたとおりにそのすべてを守るために心に留めて、一つ一つ作り上げてきたので、日が経つほど箱舟の形が現れて、正確に準備ができていくほど、世の人たちを見ると、あまりにもあまりにももどかしいだけです。

これは父のお心を私が知っているからです。
彼らに伝えたとしても彼らが聞き入れないし、彼らに話しても聞けないからです。
彼らは耳があっても聞けず、目があっても見られず、まことにどこから来てどこに行くのか知らずに日々を送っているので、もどかしいばかりです。

ついに父の命令に従ってここに私と家族が入り、父の仰せられたとおりに定められたものが入るようになりました。世にいる彼らはどうなるだろうかと思えば、彼らへのもどかしさがさらにつのるばかりです。しかし、こんなにもどかしく思っても、どうして父のお心と同じになれて、父のお心を推し量れるでしょうか。

私はまことに父のおことばに従って、私のすべてを捨てることができました。
父のお心を全部推し量れず、わからないとしても、なぜ父が箱舟を私に作りなさいと言われて、私に一つ一つ成就されるのか、私は感じています。
しかし、私の心がこんなにもどかしいのは、その日が迫っているのを感じるからです。
彼らへの私のこのもどかしい心を、父よ、わかってくださいますように。

父よ、どうしましょう。
彼らは父を知らないし、見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かずにいます。
父のご計画のうちにこのようにすべてが明らかにされているのに、彼らが感じられないから、どうして彼らを立ち返らせることができるでしょうか。

父よ、しかし、この息子は父が命じられるその日まで最善を尽くしますので、すべてが父のみこころに従ってなされるでありましょう。この息子が一つも間違いなく正確に作り上げられるように、いつも心に働きかけて導いてください。

終わりの時、父なる神様が解き明かされた「十字架のことば」


ノアのもどかしい心が感じられるでしょうか? 父なる神様の心に似せられた正しい人ノアは、それだけ愛と憐れみの心を持っていました。父なる神様が魂をご覧になってもどかしく思われ、心痛まれるのを、ノアもともに感じていたのです。皆さんも、心を御霊に属する心に変えるほど、魂を愛する心が大きくなります。この終わりの時はノアの時よりひどい状況です。

イエス様も[マタイ24:37-39]で、次のように言われています。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」

父なる神様はひとりでも多く救いたいと願われて、霊的に「ノアの箱舟」のようなみことば、すなわち「十字架のことば」を明らかに解き明かしてくださいました。ノアの箱舟が神を信じない人たちには愚かなことに見えたように、[ 第一コリント1:18前半節]「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、」とあります。しかし、続く後半節に「救いを受ける私たちには、神の力です。」とあります。

ですから、私たちはノアのような心で、この時代を生きている人たちに「十字架のことば」を一生懸命に伝えなければなりません。このみことばがまことであることを確かにする神の力あるわざとともに、叫びに叫ばなければなりません。ひとりでも多く救おうとされる神様の終わりの時の摂理を、皆さんがともに実現してくださいますように、主の御名によってお願いします。
 

朝の学び59 創世記6章  11

創世記6:19-22

またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。』ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

ノアは「すべて【主】が命じられたとおりにした。」


ノアは神に、大洪水のさばきから救われるという契約をいただきました。ところが、もしノアが「私は神が救ってくださると約束されたから」と言って、箱舟を作らなかったとすれば、はたして大洪水の中から救われたでしょうか?

神の契約がなされるまで、必ず自分のほうでもすべきことがあります。ノアは「すべて【主】が命じられたとおりにした。」ので、契約を確かなものとすることができました。

 

[出エジプト20:6]で、神は「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」と言われました。私たちが神を愛して、望まれるみこころのとおりにだけ行うなら、父なる神はあまりにも信実に約束を守ってくださいます。その人にだけ恵みと祝福を与えられるのではなく、千代にまで施してくださいます。


このようにすばらしい父なる神を、皆さんは心から愛しますように。それで、皆さんと皆さんの家族にも豊かな恵みと祝福が臨みますよう、主の御名によって祈ります。

父なる神は大洪水のさばきを行おうと決定された後、ノアに箱舟の様式を教えてくださいました。そして、箱舟に連れて入り、生き残るようにする生き物について言ってくださったのです。


神はすべての生き物の雄と雌二匹ずつを箱舟に連れて入るようにされた。


本文[19-20節]に「またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。」とあります。これは「種族保存」という意味で、基本的にすべての生き物の雄と雌二匹ずつを箱舟に連れて入るようにされたのです。

ところが、[創世記7:2-3]には「あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」とあります。

ここでは、神が特定の動物を指名して、生き残るようにするための雄と雌一つがいの他に、雄と雌七つがいずつ、または雄と雌一つがいずつ取るようにされました。これは生き残るようにする他に、何かの目的がありました。その目的が何かは、この本文を講解するとき、説明いたします。きょう伝えるのは、ノアがどのようにその多くの種類の生き物を箱舟に連れて入ったのかということです。


どのようにして多くの種類の生き物を箱舟に連れて入ったのか?


百科事典によれば、現存する動物―哺乳類、両棲類、は虫類、鳥類―の種類は約29,400種です。洪水以前に生きていた種類がこれと全く同じではなかったとしても、その数が非常に多かっただろうと推察はできます。

それでは、ノアと彼の息子たちは、どのようにこの多くの種類の生き物をもれなく箱舟に連れて入ったのでしょうか? 彼らが歩き回って、すべての種類の生き物をいちいち連れてきたのでしょうか? そうではありません。もちろん、当時の生き物は今よりおとなしくて、連れてこようとすれば、簡単に捕まりました。だからといって、その数多くの種類の生き物をいちいち捕まえて箱舟に連れて入ることは、まことに容易なことではありません。

それでは、はたしてどのようにすべての生き物を、どの種類も雄と雌一つがいずつ、または七つがいずつ箱舟の中に連れて入ったのでしょうか? これはまさに、神の初めの声が発せられたので可能でした。創造主なる神が初めの声を発せられると、「選ばれた生き物」がその声に聞き従って、自ら箱舟のほうにやって来きました。ここで「選ばれた生き物」とは、同じ種類の中で悪い性質が少ないもののことです。

たとえば、「ライオン」の中でも、乱暴な性質を持っているものがいるかと思えば、比較的おとなしい性質を持っているものもいます。この時、おとなしいほうのライオン一つがいに、初めの声を聞くようにされ、そのライオンが箱舟のほうに来たのです。これがどうやって可能なのか理解するには、神の創造のみわざから知らなければなりません。
 


父なる神はすべての被造物を「ことば」によって創造されました。この時「ことば」を発せられたその声がまさに「初めの声」です。[創世記1:3]「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とあります。神が「光があれ。」と創造の初めの声を発せられると、そのとおりに光が創造されたのです。

このように、すべての被造物は初めの声によって創造されたので、創造主なる神の初めの声に反応します。生物はもちろん、無生物でも神の初めの声がわかって、その声に聞き従うのです。初めの声に自動的に反応するように造られているのです。

たとえを挙げれば、「音声認識装置」がある機械があります。これは、門を開けたり、機械を作動させる時に、あらかじめ入力しておいた特定の人の声にだけ反応する装置です。
このように、すべての被造物は初めの声によって創造されたので、初めの声には本能的に従うようになります。まさにノア時代、箱舟のほうに来た生き物も、神の初めの声を聞いて、それに聞き従ったのです。


創造の初めの光


この時、重要なもう一つの事実があります。初めに神が宇宙空間にひとりでおられた時は、光の中に声を帯びておられました。この時の光がまさに創造の初めの光であり、この時の声がまさに創造の初めの声です。この光の中には、あらゆる霊の知識と知恵と力が込められていますが、これらが声を通して発せられるのです。ですから、初めの光と声は結局一つであり、いつも一緒に存在します。初めの光から初めの声が発せられるので、初めの声が発せられる所には、初めの光も臨むようになります。

ところで、神はすべての被造物を創造されるために初めの声を発せられたとき、まず初めの光を取り巻かれました。したがって、すべての被造物は初めの声と一緒に、初めの光も覚えています。つまり、初めの声と一緒に初めの光も入力されたのです。

[ローマ1:20]「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。ここで「被造物によって知られる神の永遠の力と神性」がまさに「初めの光」を指しています。創造のみわざの過程で、神が初めの声を発せられた時に、被造物に入力された初めの光です。

このようにすべての被造物は、初めの光が取り巻かれている中で、初めの声によって創造されました。したがって、創造の時と同じ条件になれば、初めの声に100%聞き従うようになります。

ところで、大洪水の前までは、天地創造の時の、初めの光がまだ地球を取り巻いていました。もちろん、アダムがこの地上に定着した後、人口が増えながら、世がますます罪と悪がはびこるにつれて、初めの光もだんだん取り込まれていきました。それでも大洪水の前までは、初めの光がある程度残っていました。それで、神が選ばれた生き物に初めの声を発せられると、100%従ったのです。

しかし、大洪水が始まる時に、初めの光が取り込まれました。たとえば、床にワックスを厚く塗れば、初めはとても輝きます。ところが、時間が経つにつれて、人々が頻繁に行き来しながら、ワックスが少しずつはがれていきます。ついにはワックスが完全に剥がれてしまって、ただの床が現われるのが見られます。このように、初めの光がこの地上を取り巻いていたが、人々の罪と悪がより増すことによって、その光がかすかになったのです。

その結果、この地上に多くの変化がありました。これについては、大洪水が終わる部分で説明いたします。この時間、皆さんが覚えておくことは、大洪水の前は、それでも初めの光がこの地上を取り巻いていたので、神が初めの声を発せられたとき、被造物が100%聞き従ったということです。言いかえれば、神が生き残らせようと選ばれた生き物は、本能的に初めの声に引かれて、箱舟に来るようになったのです。


主イエスも「初めの声」を発せられた。


私たちの主イエス様も「初めの声」を発せられました。イエス様は神の御姿であられます。また、父なる神が創造のみわざを施されたとき、御子の神、すなわち、イエス様もともにおられました。
これについて、
[ヨハネ1:2-3]には「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。それで、四つの福音書のあちこちに、イエス様のおことばに被造物が従う場面があるのです。

たとえば、[ルカ8:24]「イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。」とあります。私たちのイエス様が創造の初めの声で命じられると、無生物である風と波もその声がわかって、直ちに従ったのです。

[マタイ17章]には、ガリラヤ湖の魚が従った記述があります。イエス様がペテロに、宮の納入金を用意する方法を次のように言われました。[27節]に「しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」とあります。その結果、どうなったでしょうか? イエス様の口からおことばが発せられるやいなや、ガリラヤ湖の魚が従って、湖の中に落ちたスタテルを口にくわえて釣られる準備をしたでしょう。

この他にも、イエス様が初めの声によって病人を直されたこともありました。[マタイ8章]ではある百人隊長のしもべの中風をおことばで命じて直し、[マタイ15章]では、スロ・フェニキヤの女の悪霊に取りつかれていた娘も、ただおことばによって直してくださったのです。

初めの声のみわざは、このように直ちに、また、時間と空間を超えて現れます。[詩篇19:4前半節]に「しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」とあります。また、[イザヤ55:11]には「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とあります。

神は今日も、みこころにかなう人に初めの声のみわざを施されることを望んでおられます。百人隊長とスロ・フェニキヤの女のように、真実の信仰を持った人は、こういう初めの声のみわざが体験できます。人の思いではできないことができて、無から有が創造されるのと似た再創造のみわざも起きます。皆さんも真実の信仰によって、初めの声のみわざが体験できますように。病気のいやしのようなさまざまな問題の解決も、初めの声によってなされるのです。

ところで、御霊の歩みを慕っている皆さんは、何よりも初めの声によって、自分の心が新しく変えられることを慕っていると信じます。初めの声によって、悪の苦い根が引き抜かれて、義が曲げられ、固い枠も溶かされます。

したがって、皆さんが信仰の岩の上に立って、御霊の歩みに入ってくることをまことに慕うなら、まずは百人隊長とスロ・フェニキヤの女のように、へりくだった心になりますように。これとともに、最後まであきらめないで信仰によって祈り求めますように。それで、急速な霊の流れの中で、多くの方が御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされますよう、主の御名によって祈ります。


ノアが体験した「アドナイ・イルエ」のみわざ


本文[21、22節]をご覧になると「『あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。』ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。

父なる神はノアに生き残らせる動物を箱舟に連れて入るように言われた後、食糧も取って集めるように言われました。この時、ノアは将来洪水がどれほど続くのか、箱舟の中にどれほど住まなければならないかを正確に知りませんでした。箱舟に入る動物は計何匹なのか、彼らが食べる食糧をどれほど準備しなければならないのかも知らなかったのです。

しかし、神のおことばに聞き従いました。いちいちその数を数えて、日にちを計算して、食糧を準備したのではありません。箱舟を造る時も、どこに造るべきか、どのくらい速く進めるべきか、勝手に決めなかったのです。ひたすら父なる神と交わりながら、心に働きかけられたとおり準備していきました。

肉の思いを働かせるなら「ノアはどうやってその多くの食糧を準備して、集められたのだろうか」といぶかしく思うこともあります。とうてい答えが出ないからです。このように、肉の思いは肉の限界の中にだけとどまるから、限界がない神のみわざを理解しにくいのです。

ノアは肉の思いを働かせずに、神が食糧を取って集めなさいと言われれば取って集め、箱舟を造りなさいと言われれば造りました。言われたとおり聞き従おうとする心だったので、すべてが栄えて「アドナイ・イルエ」のみわざを体験しました。父なる神がすべてを働かせて益としてくださるので、箱舟を造る過程が難しくなかったのです。それで、本文[22節]にあるように、ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行うことができたのです。


父と交わり、父なる神の全知全能なることを信じたノア


一方、私たちは当時の文明が非常に発達していたことを知らなければなりません。当時の人々の暮らしは原始的ではありませんでした。相当な水準の知識と知恵を持っていたのです。今日で言えば、物理、数学のような知識が相当な水準に達していました。それで、現代的な機械のようではなくても、巨大な箱舟を十分に造れる機械や装置がありました。

だからといって、ノアがこのような知識と知恵があったので従えたという意味ではありません。ノアは自分の知恵を信じて「アーメン、そうします」と言ったのではないのです。父なる神の全知全能なることを信じたので、その方に完全に頼ろうという心で「アーメン」と言ったのです。

ノアが箱舟を完成するまで1か月、2か月かかったのではありません。長い時間がかかりました。それでもノアは自分のほうからあせって、きょうか明日かを考えなかったし、父なる神が導かれるとおり、つかさどられたとおり、従うだけでした。

ふつう人々は約束をもらってから、いつかなえられるかを待って、1年過ぎて、2年過ぎれば「かなえられないんだ」と失望します。しかし、ノアはそうではありませんでした。いつも父なる神と交わっていたので、父が行われると信じました。父が言われたことは必ずそのとおりに成就されることを信じたのです。ですから、すべての準備と実行が可能になり、長い歳月を忍耐して送れたのです。

神は聞き従おうとする人には、詳しいことまでつかさどって導いてくださいます。ですから、従う人も幸せで、父なる神も喜ばれます。しかし、従う心になっていない人は、祝福を手に握らせても、結局、自分の心のままに進んでいき、困難にあうことが見られます。

たとえば、ある人は事業をするとき、自分の知識と経験と計算をもって、すべての計画を立てておきます。そして、神の御前に出てきて「私の道を導いてください」と祈ります。こういう人は、神がその道を導こうとされても、結局は自分の心に決めたとおりに進んでいきます。神が導こうとされる道が自分の知識と思いには合わないから、ただ自分が見てより良い道に行ってしまうのです。

また、こういう場合もあります。神のことばを自分の都合に合わせて解いて、とんでもない道に行きながら、自分はみことばに従っていると思うこともあります。神のみこころが何か明白に教えても、うなずこうとしないで、かえって自分の意見と意図を相手に納得させようとします。

こういう場合はどうなるでしょうか? 悟るように何度か話をしますが、ほとんどが自分の思ったとおり行うのです。

自分のはかりごとや思弁、知識の枠がなければ、みことばに従うことがあまりにもやさしいです。しかし、こういう「自分」にこだわっていれば、従うのが難しいです。本人は従っていると言いますが、不従順になったり、従っていないのに、自分では悟れないこともあります。
 

朝の学び58 創世記6章  10

創世記6:18-20
しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。

神は契約を公義によって履行される。


前回に続けて、本文<18節>を説明します。神は「ノアと彼の家族を大洪水のさばきから救って、彼らを用いて人間耕作の歴史を新しく作っていく」と契約を結ばれました。神は契約を公義に従って履行されるので、その契約をいただいたほうでもふさわしい公義を満たすとき、その効力が発揮されます。

前回は、エジプトから出たイスラエルの民をその例として説明しました。神はモーセを通して彼らにカナンの地を与えると約束されましたが、エジプトから出た第一世代はその約束を信じなかったのです。それで、ヨシュアとカレブを除いて、その世代はカナンの地に入れなかったのです。

一方、エジプトから出た第二世代は、神のことばを完全に信じたのでカナンの地に入れました。このように父なる神様は約束すれば守る信実な方です。ところが、約束をいただいたほうからも完全に信じて、最後まで祈るとき、約束が実現されることを知らなければなりません。


神の力を授かる祈りを受けた方々の場合


これは神の力を授かる祈りを受けた方々も同じです。御霊の歩みに入った人には力が臨んで、全く聖なるものとされれば、さらに権威が臨みます。これは聖書に基づいて申し上げたことです。

<マルコ9:23後半節>で、イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。また、<マルコ16:17-18>を見れば「信じる人々には次のようなしるしが伴います。」とあり、いろいろなしるしの事例があります。

聖書にはただ「信じる人々」と表現されたが、私たちは信仰にも量りがあることを知っています。力を授かるためには御霊の歩みに入って信仰の四段階にならなければならないし、それに権威が伴うためには、全く聖なるものとされて信仰の五段階に至らなければなりません。

ところが、御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされたからといって、神の力がただ与えられるのではありません。父なる神にこのような力を授かるまで、切に求めなければなりません。御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされた人は、父をこの上なく愛するので、父の望まれることをさせていただきたいと思います。

そして、父が望まれることは多くの魂が救われることです。このために熱心に働くと、父なる神により大きい力を授からなければならないことをはっきりと感じるようになります。人の心を変えさせることが決して人の力と知恵ではできないことを悟るからです。このように、父なる神への愛と魂への愛のゆえ、力を授かることを切に求める人は、結局授かることができます。


「霊的な力と権威」


「力」の霊的な定義は「人としてはできないけれど、神にはおできになること」です。「力」を授かるなら、できないことはなくなって、神のみこころにあっては、どんなことでもできるようになります。このような力を授かるには、御霊の歩みに入ってきたとしても、火のような祈りを無数に積まなければなりません。ましてそれより一次元高く、権威が伴うためには、どれほど多くの祈りを積まなければならないでしょうか。

ここで「権威」とは「神が定められた厳威があって栄えある力であり、神の秩序に従って上からの神の命令」のことです。この霊的な権威は鋭い刃物に比べられます。鋭い刃物を子どもたちに与えられないように、霊的な権威も誰にでも与えることはおできになりません。神は、心から悪を捨てて聖められた人に、善と愛を満たしただけ権威を授けてくださいます。

力と権威の違いが理解できるように、たとえを挙げましょう。年とったお父さんとがっしりした息子がいると、息子はお父さんより力も強くて賢いです。たとえば力だけを見るなら、息子のほうが大きいです。しかし、権威はどちらのほうが大きいでしょうか? 息子はお父さんの言葉に従うべきなので、お父さんのほうが大きいと言えます。

また、他の例を挙げましょう。昔、王政時代に、大国の使節が王の命令を持って属国に行けば、王のような待遇を受けました。「使節」自身が持っている権威でそうなるのではなく、王の権威を持って代わりに行ったからです。ただし、王が使節を選んで遣わす時は、誰でも遣わすのではありません。それほどの資格を備えた人を選びます。

神が誰かに霊的な権威を授ける時も同じです。ふさわしい資格を持った人に授けてくださるのです。すると、権威の伴う力が現れるようになります。
<詩篇62:11>にあるように、この「力」は神のものです。すなわち、御父・御子・御霊、三位一体の神がこの力と権威を持っておられます。ですから、公義に照らしてふさわしい資格を備えた人に、ご自分の力を授けてくださるのです。

参考までに、聖められていなくても、病原菌による病気を治すわざを行う人がいます。これは神と魂を愛して、火のような祈りを無数に積んだ人に、神がいやしの賜物を与えられたものです。また、切なる愛の祈りによって、神が憐れみを施される時もあります。たとえば、主のしもべに力があるのではないが、聖徒が切に信仰によって祈りを依頼する場合、神はその聖徒の純粋な信仰をご覧になって働いてくださることもあります。このような場合は、神のものである「力」とは次元が違うことを知っておかれますように。

 


イエス様が12弟子に授けられた「霊的な力と権威」

 

「力は神のもの」と言いました。それで、私たちのイエス様も、弟子たちが権威を持って力を行えるように、分け与えられたことが見られます。<マタイ10:1>「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。

<ルカ6:12>には、この出来事は、イエス様が山で夜を明かして祈って帰って来られた後のことだと書いてあります。イエス様はご自分の代わりに神の力を行う十二の弟子を選ぶために、まず父に祈りを積まれたのです。その当時、弟子たちは自分では神の力を行える資格を備えていませんでした。イエス様に信頼してつき従っただけです。ですから、イエス様が代わりに祈って、父の御前に公義を積まれたのです。

その結果、<ルカ9:6>「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」とあります。また、<マルコ6:12-13>には「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」とあります。弟子たちもイエス様のように悪霊を追い出して、病人をいやすことができたのです。これは弟子たちが自分で神の力を行ったのでなく、イエス様が分け与えられた力を行ったのです。

それでもその十二人が弟子として選ばれた理由、代わりに神の力を行えた理由があります。ただ一つ、イエス様に信頼するので、自分の人生を後にしてイエス様に従ったということです。もちろん、その中のひとりイスカリオテ・ユダは、神の摂理にあって選ばれたのです。

 


使徒たちによって行われた不思議としるし


弟子たちがイエス様の公生涯の期間に、ただイエス様とともにいるから神の力を行ったなら、主が復活、昇天された後はどうなったでしょうか?
<マルコ16:20>「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。

また、<使徒の働き2:43>には、使徒たちによって不思議としるしが行われた、とあります。この時も、もちろん主が霊として弟子たちとともにおられましたが、弟子たちも信仰が以前よりずいぶん成長しました。よみがえられた主に会ったので、死を恐れないまことの信仰を持つようになったのです。そのような信仰を持って、イエス・キリストの御名によって祈り、不思議としるしを行えました。

もちろん十二人みなが神の力を行ったのではありません。イエス様が十二弟子を選ばれたとき、彼ら全部に神の力を授けたとしても、公義に従ってふさわしい資格を備えただけ、まことの所有者になったのです。
 

朝の学び57 創世記6章  9

箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。                      創世記6:16-18

神はノアの箱舟の材料と大きさと構造まで教えられましたが、これにはみな霊的な意味が含まれています。まさにノアと彼の子孫がこれからどのように生きるべきか、洪水のさばきを通して何を悟って心に留めるべきか、箱舟のあちこちに意味を込めてくださったのです。

 


箱舟に戸口と天窓を作るようにされた父なる神のみこころ


前回に次いで[16節]から見ましょう。「箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。」

神は箱舟に天窓も作り、戸口も作るように命じられました。洪水のさばきが終われば、ノアの子孫で人類歴史の系図が新しく始まります。生んで増えて地に満ちるようになるでしょう。こうなる時に、箱舟に天窓と戸口を作ったように、ノアの子孫が世に向かって戸口をあけなければならないことを言われたのです。神を信じるからといっても、世に向かった戸口を堅く閉じるのでなく、反対にパッと開かなければならないのです。

ただし、世と混ざってはいけません。「箱舟の内と外とを木のやにで塗りなさい。」というみことばにも、このような意味が含まれていました。世と徹底的に聖別されて、染まってはいけませんが、世に向かって窓と戸口をあけて、霊的な光と塩の役割をしなければなりません。罪と悪が増大している暗い世を捨てるのでなく、積極的に霊的な光を照らし、闇を退けなければならないのです。不正、腐敗があふれている所では、塩のように浄化させる役割をしなければなりません。

教会と聖徒は世と聖別されるべきだからといって、世を捨てれば福音は誰が伝えるのでしょうか。伝道しなければ、神の国はどう広げるのでしょうか。ですから、私たちは使徒パウロが持った心構えと姿勢を見習う必要があります。

[第一コリント9:19-22]で、使徒パウロは「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」と言いました。

使徒パウロはひとりでも多くの人を救おうと、このように各人に合う姿で近づき、福音を伝えました。自分が伝える福音が良いものだからといって、強圧的な姿勢を取ったのではありませんでした。福音がそれぞれの人に自然に入るように、各人の状態と立場をまず理解しました。皆さんも、このようなやり方で世の光になりますように。

イエス様は[マタイ5:14]「あなたがたは、世界の光です。」と言われました。これは、教会だけで光を放つのでなく、世でも光にならなければならないという意味です。教会の中では良い言葉と行いを見せて、家に帰っては、そして職場に行っては、世の人のようにしてはいけません。

自分のからだを溶かしながら光を照らすロウソクは、どこででも光を放ちます。光の役割をする皆さんもそうです。教会で光を放つなら、家庭でも光が消えません。

イエス様は[マタイ5:16]で、私たちが世の光になる方法も教えてくださいました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と言われたのです。
皆さんが見せる「良い行い」が、すなわち、世を照らす光という意味です。皆さんが世の人はまねできない良い行いを見せるなら、「やっぱり教会に通っている人は違うなあ」と認められるようになります。結果的に、父なる神があがめられるようになります。これがまさに箱舟に戸口と天窓を作るようにされた父なる神のみこころです。


箱舟を「一階と二階と三階」に作るようにされた霊的な意味


次に、箱舟を「一階と二階と三階」に作るようにされたところに込められた霊的な意味を説明します。これは、三位一体の神をいつも心に留めて、その中から離れないようにという意味です。

これとともに、人間耕作の歴史が大きく三つに分けられることを表します。まずは、父なる神ご自身が働かれる、神である【主】の時代です。次に、イエス様がこの地上に救い主として来られて働かれる主の時代です。最後に、聖霊の時代です。主が復活、昇天された後から、人間耕作が締めくくられる時までの期間です。洪水のさばきで人間耕作の転換点を迎えるこの時に、神は箱舟の構造を通して、歴史をつかさどる方は三位一体の神であることを確かに表してくださったのです。

再び洪水の裁きの宣告

父なる神はノアに箱舟の様式を教えてくださった後、洪水でさばかれることをもう一度明らかにされます。本文[17節]「わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。」と言われたのです。これは将来、洪水がどのように起こるのかをもう一度説明されているのです。

神はこの洪水のさばきによって「いのちの息あるすべての肉なるもの」を天の下から滅ぼすと言われました。ここで「いのちの息あるすべての肉なるもの」には、ノアの家族八人を除いたすべての人と水に生きる動物を除いた、すべての陸地の動物と鳥まで含まれます。

神がなぜ人とともに動物まで洪水で滅ぼされるのかについては、この前すでに説明しました。当時、地の動物と空の鳥が人間の堕落と密接な関係があったからだと言いました。まさに人々が動物のかたちに似た偶像を作って拝むことが多かったからです

[ローマ1:23]「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」とあるとおりでした。こんな理由とともに、動物と鳥が人に支配される存在、すなわち、人に属するものなので、人とともに滅ぼされたのです。簡単に言って、連帯責任を問われたのです。

大洪水によって地球上に起こった地形の変化


ところで、この一節で「地上の大水、大洪水を起こそうとしている」と表現されたところに注目しなければなりません。これは単に、当時この地上で暮らしていた人々と動物をみな滅ぼすという意味だけではありません。人が生きていた生活の基盤そのものを全く滅ぼすという意味が含まれています。当時、大洪水によってこの地上にどれほど途方もない変化があったか、想像できるみことばです

実際、当時、洪水のさばきが、コップに水を注げば水面がだんだん高くなるように、地球が徐々に水に浸かるばかりだったのではありません。地球には洪水によって途方もない地殻変動が起きました。その結果、洪水の後の地球はその前とは全然違う環境になりました。地形も完全に変わって、気候も変わりました。生態系の環境も大いに変わりました。洪水によって地形がどう変わるのか、もう少し説明いたします。

[創世記7:24]「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。雨が降った期間は40日でしたが、地球全体が完全に水に浸かっていた期間は150日です。この水が全部引いて、地が固まるまでには、もう150日以上かかりました。全地球が150日間、完全に水に浸かったら、どんな現象が起きるでしょうか?

地球の表面が穏やかな湖のように静かだったでしょうか? 違います。地球は太陽と月の間にはさまれていて、互いに引き合う力、すなわち、引力が働きます。太陽と月が地球を引き寄せる力によって、地球を覆った水が両側に膨らむようになります。これに地球が一日に一回、回ります。 地球は回るのに、引力によって水は引っ張られているから、水が地球をさらいながら回るようになります。このように地球を回る水は、山のように高い地帯を崩します。

そして、崩した土を寄せていって、低く広いところに来れば、ずっと積み上げておきます。この現象が5か月間、全地球に起きました。その結果、洪水以前に地球にあった文明がほとんど破壊されてしまったのです。そして、水が引いて、以前と違う新しい地形が形成されました。まさにこれが、人々の生活の基盤そのものを全部滅ぼすということです。

 


神はノアと「契約」を結ぶ


続く本文[18節]で、神はノアに「しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」と言われました。

ここで神が言われた「契約」とは「ノアと彼の家族を洪水のさばきから救われて、彼らを通して人間耕作の歴史を新しく作っていく」ということです。神はこれを「わたしは、あなたと契約を結ぼう。」と言われ、その摂理のうちに計画されたことを必ず成し遂げるという強い意志を明らかにされたのです。

神がご自身の名によって結ばれた契約は、どんなことがあっても最後まで成し遂げられます。[民数記23:19]「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」とあるとおりです。

また、神は[イザヤ55:11]でも「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言われました。


すべてを公義に従って成し遂げられる神


かといって、神は言われたとおり成し遂げられるために、絶対的な権力を振り回す方ではありません。すべてを公義に従って成し遂げられます。サタンが訴えることができないように、公義を積んでいかれます。計画されたことを成し遂げるためにあらかじめ備えて、状況と環境をつかさどられるのです。

神は、大洪水のさばきからノアとその家族を救うためにも、はるか前から働いておられました。ノアの先祖が代々神の恵みをいただくようにして、神を恐れる者になるようにされました。ノアは先祖から神への信仰を受け継ぎました。ノア自身も神を恐れて、罪と悪がはびこっている世と聖別された生き方をしました。

ノアの妻と子どもたちとその妻たちも同じです。誰でもノアの家族だからといって救われたのではありません。彼らが自らノアの教えに耳を傾けて、ノアが伝える神のみこころに従いました。その結果、彼らも大洪水のさばきから救われる信仰を持てたのです。それで、神はノアと契約を結ぶことがおできになりました。このように、神がある契約を結ばれると、その相手のほうからもそれにふさわしい公義を満たすとき、契約の効力が発揮されるのです。

たとえば、エジプトから出たイスラエルの民を考えてみてください。神は、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民を連れ出して、カナンの地に入れると約束されました。ところが、結局カナンの地に入った者はエジプトから出た者の第二世代でした。直接神の約束をいただいた第一世代の中からは、ヨシュアとカレブだけがカナンの地に入りました。

それなら、神が約束を破られたのでしょうか? そうではありません。神は約束を信実に守られました。反対に、エジプトから出た第一世代のほとんどは、神の約束が信じられなくて疑いました。現実的に困難がやって来ると、むしろ神を恨んでつぶやきました。しかし、ヨシュアとカレブだけは最後まで神の約束を信じました。

これについて[民数記32:11、12]「『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは【主】に従い通したからである。』」とあります。

結局、カレブは初めのカナン偵察の時に見てきたヘブロン山地を得て、世々代々そこを相続の地としました。このように、変わらない信仰が神の約束を実現させる公義を満たすのです。


もちろんモーセも神の約束を疑わなかったけれど、彼は指導者としての責任を負わなければならなかったのです。民をカナンの地のすぐ前まで導いて、自分の使命をみな終えたとき、カナンの地よりはるかに良い安息の場所である天国に入るようになりました。

[エゼキエル36:36-37]でも、神はイスラエルの民に「あなたがたの回りに残された諸国の民も、【主】であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。【主】であるわたしがこれを語り、これを行う。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。」と言われました。


父なる神が言われたなら、そのおことばを必ず成し遂げられます。それでも私たちのほうから、その通りに成し遂げてくださるように求めなければなりません。
 

朝の学び56 創世記6章 8

「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。」
創世記6:14-15

 

アダムがこの地上に定着してから約1,600年経ったとき、この世にはすでに罪と悪が増大していました。公義によってはこれ以上赦されることができなくなると、神は結局、さばきの判決を下されました。その方法を「大洪水」と決めて、ノアに洪水に備えて箱舟を造るようにされました。箱舟の様式と製作方法を神ご自身が教えてくださいました。きょうの本文にその内容があります。

神は箱舟の材料と大きさと構造まで教えられましたが、これにはみな霊的な意味が含まれています。まさにノアと彼の子孫が今後どのように生きるべきか、洪水のさばきを通して何を悟って心に留めなければならないか、箱舟のあちこちに意味をこめてくださったのです。

箱舟の霊的意味


まず[6:14前半節]「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」とあります。ここで「箱舟」とは、霊的に「神のことば」を表しています。ノアと彼の家族は神のことばに聞き従って、箱舟を造ってその中に入ったので、洪水のさばきを免れて救われました。

このように、私たちも神のことばの中にとどまってこそ、救われることができます。神は救いの道と罪の赦しの基準を、聖書に正確に提示しておかれました。神がこのように定めておかれた法に従って、各人の救いの有無が決定されます。

たとえば、[ヨハネ3:18]「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。また、[マタイ7:21]では、私たちのイエス様が「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。

この他にも、神のことばである聖書には、どうすれば救われるのかについて、具体的な内容が記されています。みことばどおり生きた人は天国、そうでない人は地獄に行くようになります。ノアの箱舟に入れなかった人はみな洪水のさばきのとき死んだように、誰でも神が定められた救いの道から外れた時は、永遠に死の刑罰を受けるようになります。

救われない罪、死に至る罪について、救いの箱舟のような役割をするこのようなみことばを必ずよく理解して、心に刻んでおきますように。それで、自分が救いの箱舟の中にいるのか、外にいるかを見分けなければならないし、箱舟の中に入ってきたあと、また外に出て行くこともあってはなりません。皆さんが天国に至る時まで、信仰によって期待するその望みをしっかりつかんでいるようお願いします。

「ゴフェルの木」の霊的意味


神は箱舟の材料を「ゴフェルの木」と指定してくださいました。これにも霊的な意味が含まれています。まずゴフェルの木の特徴を説明いたします。これは松の木の一種です。この木は常緑針葉高木であり、高さは最高30メートルまで、太さは1メートルまで育ちます。根を深く下ろして、幹がまっすぐに育つ特性を持っています。

木の材質は強くて堅く、この種類の木材は、家を建てる時に、柱や垂木のような構造材として使われます。家具を作る時も、家具の基本形を維持する構造材として利用されるのです。この他にも、堅い特性ゆえに土木材、船舶材としても使われるのです。また、この木材はやにを含んでいて、加工は難しいけれど、かえってこのために強度が大きいのです。

神はこのような特性を持ったゴフェルの木を箱舟の材料とするようにされました。ノアの箱舟は大洪水の中で激しい波に耐えなければなりません。山のような大波が来てぶつかってもつぶれないほど、堅くて丈夫でなければなりません。それで、神は強くて堅いこの木を使って箱舟を造りなさいと言われたのです。

私たち人の子らも、険しい世の波をかき分けて、天国まで安全にたどりつくためには、霊的にこの木のような性質が必要です。まっすぐで堅いゴフェルの木のように、まっすぐな心を持ち、どんな困難にも移り変わることがあってはなりません。

[第一ペテロ4:12]「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」とあります。皆さんがこの世で信仰を守ろうとすると、時には火のような試練にあうこともあります。

たとえば、家庭が福音化されていなかったなら、先祖を祭るとき、手を合わせないという理由で家族から迫害されたりもします。職場では、上司がすすめる酒を遠慮すると、わけもなく割に合わないことにあうこともあります。皆さんは神を信じるから光の中を歩もうとするのに、闇の霊どもはそれが嫌いなので、悪い人々を操って皆さんを困難にあわせたりするのです。

心がまっすぐな人は、このように世からどんな火のような試練がやって来ても、世と妥協しません。信仰が弱くなったり、揺れたりしないのです。初めに決心したとおり、変わらず神の御目に正しいことを行うのです。すると、神は生きておられるので、必ずすべてを働かせて益としてくださいます。

また、[第一ペテロ1:9]「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」とあるように、まっすぐな心をもって信仰を守った人は、結果的に救われるようになります。

「箱舟に部屋を作り、」の霊的意味


次に[6:14後半節]を見ると「箱舟に部屋を作り、」とあります。これは、箱舟に部屋を作って、空間を分けなさいという意味です。「箱舟」が霊的に「神のことば」だと言いました。このように「箱舟」が丸ごとの神のことばを指しているなら、部屋が作られている箱舟は何を意味するでしょうか? 

それは、みことばに照らしてすべてをわきまえ知る心を意味します。真理と真理に逆らうものを見分けて、善と悪を見分け、光と闇を見分けられるのです。

私たちがこの世を生きていくとき、必ずこのような力がなければなりません。そうでなければ、まかり間違えば盲人に手引きされて、ふたりとも穴に落ち込むこともあります。神が願われるみこころとは反対に行くこともあるのです。

[ローマ12:2]にも「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。自分が見ての善でなく、神が認める善が何かわきまえ知らなければなりません。また、自分が正しいと思う義ではなく、神が正しいと思われることを悟らなければなりません。

このためには、すべてにおいて自分を徹底的に捨てて、みことばを基準にしなければなりません。また、自分の心から悪を引き抜いて捨てるとき、いつも良いものを下さる神のみこころが悟れます。みことばに照らして、すべてを正しくわきまえ知るためには、まずはみことばを知識的によく理解して、覚えておかなければなりません。

そして、これとともに必ず霊的な武具として身につけなければなりません。つまり、心が真理に変えられなければならないのです。心を真理に変えさせた人は、聖霊の声を聞いて働きかけられるので、神が望まれるみこころをわきまえ知ることができます。


特に御霊に属する分野は、御霊に属する心になってこそ完全に解くことができます。

[第一コリント2:13後半節]「その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」とあるとおりです。ですから、皆さんはみことば、すなわち、霊の知識をまめに身につけますが、心に糧とすることにさらに努めますように。

内と外とを木のやにで塗りなさい。」の霊的意味


神は箱舟をゴフェルの木で造り、「内と外とを木のやにで塗りなさい。」と命じられました。この「木のやに」は、ここでは原油を精製して残ったアスファルトやピッチのことです。石油を採取する油田では、天然でも得られます。これは、防水、防腐などのために使われます。

[出エジプト2:3]にも、赤ちゃんだったモーセがパピルス製のかごに入れられてナイルの岸の葦の茂みの中に置かれたとき、それに瀝青と樹脂とを塗ったとあります。このように瀝青を塗ると、防水の役割をして、水に浮きやすくなります。
ところで、神は箱舟の内と外とをこのような役割をする木のやにで塗りなさいと言われました。木と木が接している小さい隙間にまで、やにをきちょうめんに塗って、水が入ってこないように徹底的に備えるようにされたのです。

これからノアと家族が箱舟の中で過ごす日は1年を超えます。もし木で造った箱舟に隙間ができたら、水が入ってきて、生存がおびやかされることもあります。初めは少しずつ入ってきた水がますます隙間を大きくして、後には手のほどこしようもないようにします。

それでは、木のやにで箱舟の内と外とに塗りなさいというみことばに含まれた霊的な意味は何でしょうか? それは、世の中で生きていくけれど、世のものを心に受け入れてはならないという意味です。

皆さんはこの地上で耕作を受けている間、どちらにせよ世の中で生きていきます。世から離れて隠れる人はまことの耕作を受けにくいです。皆さんがこのように世の中で混ざって生きても、世の水が皆さんの生き方に入ってきてはなりません。箱舟の外だけでなく、内にまで几帳面に木のやにで塗りなさいと言われたように、世のものが入ってこないように、世を遮断しなければならないのです。

私が「世の歌やテレビ、映画を断ち切らなければならない」「インターネットも注意しなければならない」といつも強調するのには理由があります。反キリストの勢力が世の文化を支配して、自分たちの道具として広く活用しているからです。暴力的で淫らな映像物はもちろん、一般的な大衆文化にも、すでに反キリストの思想が入り込んでいます。皆さんが単におもしろいからといって視聴しても、無意識のうちに悪い影響を受けるようになります。

私たちのイエス様は「あなたがたは、地の塩です。」と言われました。塩はしょっぱい味を出すだけでなく、腐敗しないようにする役割をします。ところが、塩がその味を失えば、何の役に立つでしょうか。世に染まっている人は、その味を失った塩のようなものです。皆さんは真理で自分をよく守って、味をしっかり出す塩になりますよう、主の御名によってお願いします。

ノアの箱舟の大きさ


本文[15節]で、神は箱舟の大きさを教えてくださいます。「それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。」とあります。

この「キュビト」とは長さの単位であり、一キュビトは成人の指先からひじまでの長さです。一キュビトをメートル法に換算すれば、ほぼ46センチから56センチになります。個人的な差、時代的な差があるために、絶対的な数値に規定しにくいです。それで計算しやすく、一キュビトを約50センチとして、箱舟の大きさを計算してみます。

「長さは三百キュビト」とあるので、箱舟の長さは約150メートルです。一般のサッカー競技場の長さは90から120メートルです。ノアの箱舟の長さはサッカー場よりはるかに長いです。ノアの箱舟の幅は「その幅は五十キュビト。」とあるので、約25メートルです。また「その高さは三十キュビト」とあるので、箱舟の高さは約15メートルになります。ふつう建物の一階の高さが2.5メートルから3メートルなので、ノアの箱舟は5、6階の高さです。

ノアの箱舟は内部が3階に分けられています。ノアの箱舟は神が指定された動物をみなのせて、彼らの食糧までも十分にのせられる大きさでした。科学者たちの計算で、これが事実であることが証明されました。今から約4,400年前に、このように大きい箱舟が造られたという事実はまことに驚くことです。

ノアの箱舟の設計比率


ノアの箱舟の設計比率には、さらに驚くべき神の知恵が含まれています。船舶工学者たちは長い間かけて大型船舶の設計安全率を見つけました。それは、船舶の長さが幅の6倍でありながら、高さの10倍のとき、最も安全だということです。(幅×6)=長さ=(高さ×10)それでは、ノアの箱舟はどうでしょうか? 長さ(150メートル)は幅(25メートル)の6倍で、また高さ(15メートル)の10倍です。大型船舶の設計安全率と正確に一致することがわかります。

人類が100メートルの長さの大型船舶を最初に建造したのは1843年です。(最初の大型船舶エスエス・グレート・ブリテンSS Great Britain)これは長さ98メートル、幅15.5メートル、高さ9.75メートルで、設計安全率のとおり建造されました。船舶工学者たちが近代になって見つけた比率を、知識の初めである神がすでに知っておられたので、ノアの箱舟をその比率に造るようにされたのです。

ノアの箱舟と関連した興味深い実験が1992年6月、韓国で実施されました。国家支援機関である海事技術研究所は、韓国創造科学会の依頼で、ノアの箱舟を造船工学の立場からアプローチして、実験してその研究結果を発表しました。

実験のために、ノアの箱舟を50分の1に縮小したテスト用箱舟を造りました。これを大型水槽に浮かべて、これに人工波を起こし、いくつか箱舟の安全性を測定しました。一般に船舶の安全性は、三つの要素を測定して評価します。復元性、波浪に対する安全性、構造安全性です。簡単に言って、高い波にも転覆したりつぶれないのか、船体内部の乗客や貨物はどれほどよく守られるのかを評価するのです。

今まで観測された最高の高さ、30メートルの波を人工に作って実験してみたりしたが、模型箱舟はこの環境でもびくともしなかったのです。ノアの箱舟は、現代の先端科学技術で建造される大型船舶に次ぐ驚くべき安全性を持っていることが、科学的にも立証されたのです。

知識と知恵の初めである神ご自身がノアの箱舟を設計された


今から4,400年前にこれが可能だった理由は、知識と知恵の初めである神ご自身がノアの箱舟を設計されたからです。


[箴言3:5-6]にも「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。父なる神は皆さんが心を尽くして神を認めて、神だけに拠り頼むことを願われます。

だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。』
第一コリント3:18-19

まことに信仰のある方は、父なる神の御前で謙虚に自分を低くするしかありません。へりくだって助けと恵みを求めるようになります。いつも父なる神にへりくだってひざまずいて、恵みと慈しみ、力と知恵を求めますように。それで、父なる神の栄光を帰すわざをあふれるまでに現しますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
 

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