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朝の学び

聖書の著者である神様が李載禄元老牧師に親しく解き明かしてくださったメッサージを学んでいます。

キリストにはかえられません
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我が魂の深き奥より
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朝の学び163 創世記25章  

創世記25:7-11
以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。

上のよみで果たさなければならない使命のために死を迎えることになったアブラハム     
 

7-8節「以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。 アブラハムは年を取ったからといって、何かの病気にかかったり、弱かったりしたわけではありませんでした。 彼のたましいが幸いだったので、いつも健康である祝福の中で生きていました。 このようなアブラハムも定められた時が来て、肉の死という過程を経なければならなかったのです。 
    
アブラハムがなぜ肉の死を受けなければならなかったのかは、前にすでに申し上げました。 アブラハムは、死を見ずに生きたまま挙げられたエノクやエリヤ、また今日までその墓を知っている者がおらず、彼の死体をめぐって悪魔と天使長ミカエルが互いに争って弁論をする場面がユダ書に記録されているモーセ預言者と比較する時、彼もやはり死を見ないこともありえます。
ユダ1:9 「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように。』と言いました。」

アブラハムがあえて肉の死を経験しなければならなかったのは、彼が死んだ後に上のよみで果たさなければならない使命のためです。 したがって、アブラハムは肉の死を迎えるとしても、それが罪の代価による結果ではなく、神の摂理の中で与えられた使命のためでした。 だからアブラハムは死を迎える瞬間までも健康な人生を送ったのであり、今や時が来て死を迎えることになると、神様が彼の全身から力を抜かれるので、自然に息を引き取るようにしたのです。さらに、アブラハムは自分が死ぬ時を知りました。それで、自分の周辺の整理を終えて死に備え、平安の中で息を引き取りました。 死という過程を恐れたり、恐怖の中で迎えたのではなく、喜びと感謝で迎えることができました。 この地で自分が果たさなければならない使命を全て終え、しばらく後にお目にかかる、愛する父なる神様を思いながら、人生を美しく終えたのです。 

 

アブラハムが死を迎えた瞬間に思い返して告白した内容       
 
しばらくアブラハムが死を迎えた瞬間に、その心に回顧しながら告白した内容をお話します。この内容は聖霊の感動の中でおっしゃってくださった内容です。 
   
私がこのように生きて息をしている間
父なる神の摂理とみこころにあって導かれ
私が死を前にして
すべてを整理することにおいて
私の心をつかさどり、私の心に幸せを感じさせ
私の心に喜びと感謝で
この道を迎えるようになさる
父の御前に感謝と栄光をお返しいたします。


今日まで私がこのような祝福をいただいて生き
てきたのも
父が私を愛され私を導かれたからなので
わたしがその愛のうちにとどまる者として
あまりにも満たされて乏しいことがありません
でした。


今は死を目前にしているこの時点においてまでも
私をつかさどり私をそのふところに抱かれます
ので
感謝と栄光をおささげいたします。


私は父の御目に
全き信仰を示すと言ったものの
ある時には思いが働いた時もありましたが
父が私を愛しておられましたのですべての道を
開かれ
すべての道に導かれ、一つ一つ整えてください
ました。


私を整えて完全になさる父の御前に
わが心の奥深く感謝が積まれるようにされ
すべてを見る時にそれを
私の現実の目で見るのではなく
父のお心で見るようになる
そのような心に私を導かれたことに感謝申し
上げます。


それによって今日このような富と
このような名誉とこのような名声と
このような父の栄光が私にありますので
多くの人にほめられて
私の息子のことで喜びになり感謝申し
上げます。


私が生きていたとき、本当に具合の悪いところ
がなく
私の生きていたとき、どんな困難もなかったし
このようにからだでもどんな事でも
難しさや苦しみの状況がなかったことによっても
感謝でありますが、今や息を引き取った後に
父のふところに抱かれるようになる
神の摂理を望むようにされることにも感謝
申し上げます。

父よ、
私が死を前にしてこのような感謝と喜びと
喜悦があふれるようにされ、感謝
申し上げます。


これから後のすべてが父の摂理のうちにありま
すので
私が肉のすべてのものを手放すとしても
今後の計画されたすべてのことが
父の摂理のうちに完全に成し遂げられることと
息子をとおした摂理を完全に成し遂げられることを
信じております。


父よ、感謝申し上げます。
私がこのように父の御前に安らかに
抱かれるようにされて
感謝申し上げます。

この地上の人生はあまりにもむなしいもので
ありますが
父が私にはその人生をむなしいものにされた
のではなく、


あまりにも尊くて価値あるものとしてくださり
今、死を迎えるとき
このような喜びと感謝と喜悦があふれる中で
父のふところに抱かれるようにされ、感謝
申し上げます。

すべてが父の御手にありますし
すべてのことによって
父よ、大いに栄光をうけたまえ。

 

アブラハムはこのように心の中心で告白し、この地での人生を終えました。息子のイサクとイシュマエルは、彼を妻のサラが葬られているマクベラのほら穴に葬りました。次の時間からはアブラハムの死後に繰り広げられるイサクと彼の子孫に対する内容が続きます。

結論

愛する皆さん、アブラハムは信仰の父です。つまり、将来出てくる世界のすべての国と民族にとって、信仰の模範となる役割をするのです。 皆さんは神様がアブラムを呼ばれる創世記12:1から始まり、今日の本文にアブラハムの死に至るまでアブラハムの信仰について学びました。なるほど、アブラハムは信仰の父らしく、公義に照らしてみると少しも外れることのない、全き信仰のひな型を見せてくださいました。神様だけを全面的に信じて、神様の言葉に従う信仰が何かを見せてくださいました。それなら、このような言葉を聞いた皆さんもアブラハムの信仰に挑戦されませんか? 多くの方々がアブラハムの信仰を見習うために唇では熱心に祈っておられますが、実際に行うことはアブラハムの最年長のしもべにさえも至らないことがみられます。

皆さんは今まで聞いたアブラハムの信仰を通して、本当に神様を信じて信頼する信仰、その信頼が最後まで変わらない信仰で出てくることを願います。神様の前に捧げられた心を決して世の中の何にも奪われず、主が再び来られるその瞬間まで信仰で勝利することを願います。 それで主を迎える瞬間に、アブラハムが父なる神様の前に表した告白のように「神様、私がこの瞬間を喜びと感謝と喜悦があふれる中で迎え、神様の胸に抱かれるようにしてくださり感謝します。」と告白できる皆様になることをイエス・キリストの御名によって祝福してお祈りします。

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朝の学び162 創世記25章  

創世記25:1-11  
アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。 ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。 以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイの近くに住みついた。

序論

愛する聖徒の皆さん、先回見た通りアブラハムの最年長のしもべは、少しの思いも働かさずただ神の主管に従い、自分の使命を完全に果たしました。イサクを通して出て来る彼の子孫たちが、多くの星のように壮大に繁栄していくことが神様の摂理だったので、当時アブラハムにとって最も重要な関心事は、約束の子孫である息子イサクの妻になる人を迎えることでした。何よりも、イサクが結婚して跡継ぎを産み、彼らが繁栄してよく生きていく姿を見てこそ、アブラハムとしても安堵の気持ちが持てるのです。だから、イサクの妻を求めることは決して小さなことではなく、当時の状況では家の中で最も重大な事といえるのです。

まさに、アブラハムにとってのこのような重要な仕事を引き受けて成し遂げたのが、彼の最年長のしもべでした。それも単純な仕事をやり遂げる次元ではなく、主人であるアブラハムの心を推し量り、その意に合わせて仕事を成し遂げたのです。したがって、この最年長のしもべはアブラハムにとって、単に家で仕えるしもべとしての存在を越え、自分の心を推し量り、いかなる困難も共に分かち合える友のような存在といえるのです。これは、人と神との関係においても同様です。 
 

ヤコブ2:23によれば「そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」とあります。また、出エジプト記33:11の前半節には「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」と記されてあります。 このように、人であったとしても神様と友のような関係になれるという事です。では、モーセやアブラハムはどのようにして神様とこのような関係になれたのでしょうか?もちろん聖書の中でこれに対する多くの答えを見つけることができますが、その中で最も重要なのはまさに悪のない彼らの心です。神様は、人としては理解できないはるかに高い霊の次元にいらっしゃる方です。 したがってこのような神様を、人が生きている肉の次元の限界から見ると、理解できない分野がいくらでもあり得ます。 
    
例えば、「イサクを全焼のいけにえにするように」というお言葉が、人の考えとして理解できることでしょうか?あるいは「紅海を分けなさい」という言葉が人の理論として理解されることでしょうか?ところが、モーセやアブラハムは、肉の限界を持って神様を眺めませんでした。そのため、神様のどんなお言葉にも何の理由や言い訳をせずに、ただアーメンと従順だけが出ることができたのです。 さらに、彼らは心に悪がなかったため、神様のすべてを常に善として霊として見ることができました。 彼らの心が善良なので、善良な神様の心を感じることができたのです。だから、神様が何を言われても、どんな命令や指示をされても、彼らはすぐに従うことができました。それで神様は彼らに深い御心を伝えることもおできになりました。 
    
聖徒の皆さん、世の中でも真の友人関係とはどんなものでしょうか? たとえ親にも妻にも打ち明けられないことを、率直に打ち明けて対話できる関係がまさに真の友人関係です。そして友人の間で、このように秘密なしにどんなことでも対話ができるということは、お互いに誤解せずに相手が理解してくれるという信頼が土台になっている時だけ可能なことです。 ところが、神様との関係においても、心に悪が全くなく、真理だけで満たされた人は、その心が霊の次元にある人なので、霊である神様の心を理解することができます。 どんな仕事をする時もいつも神様の心を先に推し量って、それに合わせて従うことができるのです。このような人を見つけた時、父なる神様も喜んで友人のような関係で接してくださるという事です。

 アブラハムはまさに神様とこのような心分かち合う友のような関係を築くことができたのです。又、人との関係でも、信じて信頼できる友人のような最年長のしもべがそばにいたのです。 このように、この地で何一つうらやましいことのない恵まれた人生を生きたアブラハムにも、肉の死という瞬間が近づくようになります。 今日はアブラハムを通して出てきた子孫たちとアブラハムの死について見てみたいと思います。

生存中に他の子らをすべて独立させて送るアブラハム   
     
アブラハムはサラが世を去った後、ケトラというもうひとりの妻を娶ることになります。そして、そのケトラからジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハと6人の子供が産まれました。彼らはたとえアブラハムの嫡流を継ぐわけではないとしても、彼らの子孫も将来民族を形成し、人間耕作の働きの一部門を占めることになります。ところが本文によれば、アブラハムは自分の生存中に、このようにケトラを通して産まれた息子たちをすべて独立させて送り出すことが見られます。
5-6節に、「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。

では、アブラハムはなぜこのようにしたのでしょうか? これは、イサクを通して成し遂げようとする神様の摂理が、他の子らによって、いかなる形であれ妨害されないようにするためでした。しかし、アブラハムがこのようにしたことは、以前にサラが肉の思いを働かせて、ハガルがアブラハムに産んだ息子イシュマエルを、イサクから遠く離れるようにしたこととは全く違います。 以前、サラがイシュマエルをイサクから遠くへ行かせるようにしたのは、もしやイシュマエルによって自分が生んだ息子であるイサクが約束の子孫として正統の系図を継ぐ上で支障があるかという肉の思いからでした。また、イシュマエルによって、自分が産んだ息子のイサクに害が及ぶのではないかという心配のためでした。 
    
しかし、アブラハムが他の子らをイサクから遠ざけたのは、肉的な考えや心配のためではありませんでした。 アブラハムは、神の摂理にあって嫡流を継ぐ民族は、ただイサクを通してだけ出てくるということを知っていました。したがって、たとえ自分の子供たちだとしても、イサクを除いた他の子らは嫡流を継ぐ神様の摂理の中に入れないということも分かりました。 言い換えれば、イサクではない他の子供たちを通して出てきた子孫たちは、次第に時間が経つと神様を離れることになり、ついには神様と関係のない民族として生きていくことになるということです。今は子供たちがアブラハムと共にいるので、神様を畏れ敬い、神様の御心の中で生きますが、アブラハムが死んだ後に時間が経てば次第に神様を畏れ敬うこともなくなり、神様とは遠ざかるようになってしまうのです。 
    
だから、もしアブラハムが肉的な情にひかれて彼らをイサクから遠ざけないなら、どうなるでしょうか。今すぐは良いように見えても、後日彼らの子孫たちが、イサクを通して出てきた子孫たちの正統性さえも損ないかねないのです。イサクの子孫たちがいくら正統性を守りながら生きようとしても、神と離れていく他の子孫たちと混ざって共に生きていけば、イサクの子孫までも世に染まっていくことにもなるのです。 
 

神様がイサクを通してアブラハムの正統系図を受け継ぐことを願う根本の理由       
 

神様がアブラハムの系図の正統性をそのまま受け継ぐことを願う根本の理由は、まさに神様に向けた心と仕えがそのまま続くことを望まれたためです。 ところが、もし正統性を維持できない他の子らとその子孫によって、イサクの子孫までも、神に対する心と仕えが変質したらどうなりますか? 決してそのようなことが起きてはいけません。 まさにこのような事実をあまりにもよく知っているアブラハムだったので、彼は自分の生存中にあらかじめ嫡流の流れを継ぐイサクから彼らを遠ざけるしかなかったのです。 まるで肉と霊が一緒にできないようなものです。 
   
コリント第二6:14に「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」とおっしゃった言葉の通りです。このようにアブラハムは神様の壮大な御心を知っていたので、肉的な情に引かれず、彼らが自分を離れて、それなりに自分たちの人生の基盤を築くことができるようにしたのです。 しかし、アブラハムはイサクと他の子たちを差別しようとする気持ちはありませんでした。 それで、嫡流を継ぐイサクにすべての所有を与えたとはいえ、他の子らにもそれなりに定着する場所を探して生きていけるよう、ある程度の財産を分け与えたのです。 

神様は将来、彼等と彼等の子孫がどのように変わるのか知っておられたので、アブラハムの心をつかさどって遠ざけるようになさいました。たとえ彼等が嫡流を継ぐことはできないとしても、父アブラハムから学んだことを心に留めて、神を恐れて神だけに仕える生き方をしたなら、彼等の心と行いをご覧になって、救いの道を開いて、神の祝福にあって生きていくように働いてくださったでしょう。神様は独裁者のようにすべてを定めておいて強制的に導いていかれる方ではありません。誰にでも公平に機会を与えて、自由意志をもって選択するようにされる方です。それでも自らその機会をつかまないので、神の恵みの中に入れないのです。 
   
神様は2003年度に「肉と霊を分ける」とおっしゃって、今年は霊の主導的な流れの中で肉と霊がより一層明確に分かれることをおっしゃいました。 肉は肉に、霊は霊にさらに偏っていくことになるのです。 すると、ある方々は考えの中で「なぜあえて肉と霊を分けなければならないのか?」「一緒に行ったらダメ?」と、こんな風に思うかもしれません。もちろん神様が「あなたは肉だ、あなたは霊だ」このように分けるのではありません。自分自身が肉は肉の道に、霊は霊の道を選んでいくのです。まるで本文で正統性をつなぐイサクとそうでない他の子供たちが一緒に混ざり合えなかったように、肉と霊は分かれることになり、霊に属した人々によって神様の摂理はなされることになるのです。これから神様の仕事を主導的に導いていく人々は、霊に属する人々にならざるを得ません。

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朝の学び161 創世記24章  

創世記24:13-67
しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

 

こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

 

らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」 そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、 言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

 

その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外へ出て泉のところにいるその人のもとへ走って行った。彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました。」と言った妹リベカのことばを聞くとすぐ、その人のところに行った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。そこで彼は言った。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」 それでその人は家の中にはいった。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、その人の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた。

それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、その人は言った。

 

「私はアブラハムのしもべです。主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。私の主人は私に誓わせて、こう申しました。『私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』そこで私は主人に申しました。『もしかすると、その女の人は私について来ないかもしれません。』すると主人は答えました。『私は主の前を歩んできた。その主が御使いをあなたといっしょに遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。次のようなときは、あなたは私の誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行き、もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、そのとき、あなたは私の誓いから解かれる。』

きょう、私は泉のところに来て申しました。『私の主人アブラハムの神、主よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら、ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』 私が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください。』と言うと、 急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか。』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です。』と答えられました。

 

そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。 そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。

それから、このしもべと、その従者たちとは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください。」と言った。すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った。しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。

アブラハムの最年長のしもべを通して私たちが悟らなければならないこと   
(1)神様の前にしるしを求めた最年長のしもべの心    
聖書には、神を試みてはいけないことについてはっきりと述べています。ところが、この最年長のしもべは、まるで神を試すような内容の祈りをしました。しかし、これは神を試そうとするものではありませんでした。ある欲や私心を抱いて、神様の前に条件を付けて祈ったのではなく、ただ主人の意思を成し遂げようとする善良な心を抱いて神様に祈ったのです。

ところが、これとは異なり、今日私的な心を抱いて、神様の前に条件を付けて祈る場合があります。 たとえば、「この病気が癒されれば、神様の御前で一生懸命に頑張ります。」 これはまさに条件付きの信仰であり、正しい信仰の姿勢でもなく、真の信仰とは言えません。世の中でただ幸運を願うようなものです。しかし、最年長のしもべは、偶然を願ったり、ある条件を掲げて祈ったのではなく、ただ神様のお導きの中で主人の意思を叶えようとする気持ちで、このような祈りをしたのです。 神様はこれを見て「私を試している」と言われたのではなく、むしろその心に感動を受け、彼の祈りどおりに答えてくださったのです。

  

聖書には、条件のない信仰で神様を感動させた例が出てきますが、その中の一つがまさにダニエルの3人の友人です。 彼らは王が造った像の前にお辞儀をしないとし、猛烈に燃える火に直ちに投げ込まれる状況でも、神様の前に何の条件もない無条件の信仰の姿を見せました。  ダニエル3:16-18「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』」と告白したのです。

 

神様は、自分たちを火の燃える炉から救い出すことができる方であることを全面的に信じていますが、たとえそうでなくても、神様に対する自分たちの信仰は決して揺れないということです。人の考えとしてはこのような状況で「神様、私たちを助けてください。それで神様の生きていることを示して、彼らに神様を信じさせてください。そうすれば、私たちはもっと神様に仕えることができます。」と祈ることもできると思いますが、これは結局自分たちの考えの中で条件をあげることです。しかしダニエルの三人の友人は、自分たちの考えを働かせたのではなく、すべてを全面的に神様だけに任せる絶対的な信頼と確信を示したのです。まさにアブラハムの最年長のしもべが、神様の前にあるしるしを求めたのは、神様を試そうとするのではなく、神様の前に全てを全面的に任せ、主人アブラハムを見て、物事を円滑に進めてくださる神様を完全に信じた為です。 
 
(2) 神の御心を正確にわきまえたアブラハムの最年長のしもべ    
最年長のしもべは、自分が祈った内容がそのまま行われるのを見ながらも、性急に物事を決定しませんでした。神様が果たして平坦な道をくださったのか、その可否をもう一度正確に確認しようとしました。これは、肉の考えを働かせたわけではなく、神の働きを明確に信じるが、より慎重で確実にとらえたいという気持ちから出たのです。神様の御心が何かを正確に把握することはとても重要です。ある方々は自分の考えの中にあることを決めておいて、それを神様の御心だと言う場合があります。ところが、今日の本文の最年長のしもべは、神様につかさどられて祈り、そのまま答えられたにもかかわらず、もう一度神様の御心を知るために慎重に行動していったのを見ることができます。それで、本当に確実な証拠を得た時、初めて神様の答であることを悟り、神様を賛美しながら栄光を捧げたのです。

(3) 最年長のしもべがリベカに渡した金の飾り輪と腕輪の意味
24:22「らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、」とあります。「輪」には「あるものを束縛する」という意味があります。そして、ここでは「神様が成し遂げられることをつなぐ」という意味と「それを成し遂げるということをはっきりと規定する」という意味があります。つまり、最年長のしもべがリベカに輪を与えたのは、事が成立したという確信のしるしであり、これを通して「神様が行なわれた事がそのまま成就された」という証拠としたのです。 
 
(4) 正確な事実をラバンに伝えるアブラハムの最年長のしもべ    

34節~49節までを見ると、アブラハムの最年長のしもべは、ラバンに事の一部始終を語るにあたって、非常に正確なことが分かります。 主人からどんな指示を受けたのか、そして自分が神様の前でどのように祈り、その祈りどおりにどのようにかなえられたのかについて、付け加えたり減らしたりしないで説明したのです。 最年長のしもべは、主人のアブラハムが言った言葉を任意に変えたり、自分の思い通りに解釈したのではなく、神様が自分に働かれたことについても、任意に判断して説明したのではなく、ありのままだけを伝えたのです。 
    
このように、最年長のしもべが、正確に神の摂理を説明したので、ラバンが
「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。」と告白することになることが分かります。 最年長のしもべの真実さと正確さがあったからこそ、神様が彼の話を聞くラバンの心を主管して働いてくださることができたということです。これは今日も多くの方々が肝に銘じなければならない分野です。中間で使われる方々が真実で正確であってこそ、サタンが働けません。 
    
以前、私が直接羊の群れを管理していた時のことです。ある羊の群れが教会に出席しない時、私が直接訪問できない場合には、代わりに人を送ったりしました。そして、その方に「このように言ってください」と指示を出します。この時、代わりに行って伝える方が、私が伝えて下さいという言葉をそのまま伝えると、直ちに聖霊が働かれるのを見てきました。それでまた教会に出ることになったのです。それは、自分の考えを働かせたり、変えたりせずにそのまま伝えた時、私の言った言葉に込められた権勢と能力がそのまま伝わったからです。 
    
しかし、今日、ある指示を受けたり、言葉を伝えなければならない時、多くの人が任意にその言葉を変えたり、自分の見た目に良いように解釈する場合があります。それで結局、本来の意図とは全く違って事が進行する場合があるかと思えば、他の人まで難しくさせる場合があります。 これは、根本的に心がどれほど真実なのかから出てくる問題です。真実の心である時だけ、正確に言葉を伝えることができるだけでなく、自分の利益によって言葉を変えることもないのです。 また、あることを成し遂げるにおいても、「私がこのように話すのがもう少し説得力がある」と考えることもできますが、真実を通してのみ、神様の働きを受けることができるという真理を知らなければなりません。
箴言12:19「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。」とおっしゃった通り、皆さんは果たしてどれほど真実の心から、唇に正確な言葉を言っているのか自らが点検して下さい。 

(5) 自分の利益を少しも求めない最年長のしもべの心    
最年長のしもべは、ラバンが自分を家に呼び、その前に食事でもてなす時に
「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」と、自分の使命に忠実でした。「このように遠い道を来たし、状況を見る時に事がうまくいきそうに見えるので、私が少し腹ごしらえをした後にこの人と話そう」という気持ちではありませんでした。結局、すべてのことが完璧に終わって、初めて食べて飲んだだけでなく、そこに一晩泊まった後は、すぐに主人の元に帰ることを申し出ました。使命をよく果たしたのだからここで何日か休まなければならないとか、あるいは、リベカの家族から何かしてもらいたいという気持ちが少しもなかったのです。 
    
ただ一刻も早く、この良い知らせを主人に伝えることを願う気持ちであり、自分と嫁になる人を待つ主人の心を先に察したのです。だから、少し休まなければならないという気持ちがありますか? 彼は、使命を引き受けて果たし主人の元に戻るその瞬間まで、彼の心は使命を果たすことでいっぱいであり、事の結果を一刻も早く知りたい主人の心を推し量っていたのです。 まさにこのような気持ちだったので、彼はアブラハムから信頼されるしもべになれたのであり、神様も彼の道を成功するように導かれたのです。すべてを主人の心になって事を成し遂げることができるしもべだったからです。

(6) 神様が働かれる事は、自発的に平坦な中で行われる   
神様は、アブラハムの最年長のしもべだけをつかさどられたのではなく、リベカとラバンもまた彼の父と母の心もつかさどられたことを見ることができます。それで、まるですべてのことが、すでに計画されているかのように自然に行われていくようになります。 甚だしくはリベカの兄と母が
「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った時も、神様がリベカの心をつかさどられたので、直ちに最年長のしもべに従って行くと言いますね。 リベカが肉的な情を考えたとすれば、当然しばらくは家族と共に過ごしたい気持ちも生じかねないのですが、神様はアブラハムを考えてリベカの心をつかさどってくださったので、最年長のしもべが望む通りに従ったのです。

そして、ついに最年長のしもべに従って、イサクの妻になるために旅立つリベカに、ラバンと彼の母親が祝福を祈ります。60節「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」とあります。まさにこの告白は創世紀22:17に神様がアブラハムに「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。」と言われた契約と同じ文脈で下さった御言葉であり、この祝福は後日、イスラエル民族の中でお生まれになったイエス様を通してそのまま成就されることになります。このようにして、リベカはイサクの妻になり、神様が信仰の父アブラハムに与えた契約の御言葉にあずかる祝福の座に至ったのです。 次の時間には信仰の父アブラハムがこの地の人生を終えることになる内容について見てみましょう。 

結論
愛する聖徒の皆さん、私たちが神様の主管に従って従順だけをしていくとすれば、万事が都合よく運ばないことはありません。ところが、多くの人が実際に現実に直面すると、万事が都合よくならない場合が出てきます。  では、なぜこのような現象が現れるのでしょうか?  たしかに頭ではどうすればいいと分かっていながら、どうして現実ではそうではないのでしょうか? 
   
第一に、完全には信じられないからです。
完全に信じるなら、現実がいくら難しくても神様がくださった言葉通りに従うことができます。例えば、氾濫するヨルダン川に足を踏み入れろと言われた時、完全に信じれば後先を考えずにヨルダン川に足を踏み入れることになります。しかし、完全に信じられない人は「今、間違っておっしゃったのではないか、どうやってこのように荒々しく氾濫する川の水に足を踏み出せるというのか」と言って、結局、従順が出てこないのです。このように現実を見て従順できないから、当然万事が都合よく運ばないのです。 
    
第二に、私心があるからです。   
神様の仕事をするにおいても、自分に利益になること、自分の心に合うことを求めようとすることです。それで、私心があると、最初は従順なように見えても、次第に最初にくださったお言葉から変質してしまいます。その一方で、自分は従順だと思います。だから、どこで間違っているのかも気づくことが難しいのです。 
    
三つ目は、主管してもらえないからです。   
最初から聖霊の主管ではなく、自分の考えと自分の思い通りにしていく場合です。 これは結局、心の中にそれだけ悪があるからであり、肉の考えが多いからです。 今日はアブラハムの最年長のしもべを通して、主人であるアブラハムの言葉を完全に信じ、全く私心がなく、神様の主管を正確に受けていく姿を見てみました。今日の学びを通して、皆様の人生が亨通することはもちろん、神様の国を成していくにあたって、いつどこでも思う存分使われることができる貴重な聖霊の道具となられることを主の御名で祈ります。

 

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朝の学び160 創世記24章  

創世記24:13-67
しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

 

こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

 

らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」 そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、 言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

 

その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外へ出て泉のところにいるその人のもとへ走って行った。彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました。」と言った妹リベカのことばを聞くとすぐ、その人のところに行った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。そこで彼は言った。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」 それでその人は家の中にはいった。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、その人の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた。

それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、その人は言った。

 

「私はアブラハムのしもべです。主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。私の主人は私に誓わせて、こう申しました。『私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』そこで私は主人に申しました。『もしかすると、その女の人は私について来ないかもしれません。』すると主人は答えました。『私は主の前を歩んできた。その主が御使いをあなたといっしょに遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。次のようなときは、あなたは私の誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行き、もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、そのとき、あなたは私の誓いから解かれる。』

きょう、私は泉のところに来て申しました。『私の主人アブラハムの神、主よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら、ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』 私が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください。』と言うと、 急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか。』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です。』と答えられました。

 

そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。 そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。

それから、このしもべと、その従者たちとは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください。」と言った。すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った。しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。

序論

愛する皆さん、主人であるアブラハムから彼の息子イサクのために妻を連れてきなさいという使命を引き受けた最年長のしもべは、ついにアブラハムの故郷であるアラム・ナハライムのナホルの町にたどり着いたのですが、この時、この最年長のしもべが目的地をあらかじめ知ってそこを訪れたわけではありませんでした。 最年長のしもべは、後になって自分が主人のアブラハムの兄弟が住む町に来たことを知り、27節に「言った。『私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。』」と告白するのが見られます。 
    
また
11節には、最年長のしもべが町に着いた時間が「夕暮れ時」とありました。「 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。」最年長のしもべが町に着いた時間は、女性たちが水を汲みに出てくる時でした。この時間もやはり、神様の正確な導きだったのです。 このように、到着した場所と時間までも正確に導かれたアブラハムの最年長のしもべは、ここでリベカという備えられた女性に瞬時に出会うことになります。では、最年長のしもべはどのような方法でリベカという女性に出会ったのでしょうか? 彼の方法は全面的に神様だけを頼ることであり、神の導きを心に正確に受けて行われたことでした。 
   

最年長のしもべがイサクの妻になるリベカに会って連れてきた過程  

    

彼はまず神様に祈ります。13-14節「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」」とあります。

神様に確実な証拠、しるしを求めているのです。 神様はしもべのこのような祈りを聞き、そのまま働いてくださるのを見ることができます。 しもべが言葉を言い終わらないうちに、一人の女性が水がめを肩に載せて泉に近づいてきたのですが、この女性はしもべの先ほどの祈り通り、しもべが水を少し飲ませてくださいと言うと、彼にだけでなく、しもべのラクダのためにも水を汲んでくれたのです。まるでしもべの祈りを聞いていた人のように、彼女はあまりにも正確に行動したのです。だから、自分の目の前で繰り広げられるこの光景を見ている、老いたしもべの心はどうだったでしょうか?主人のアブラハムを覚えて、自分の祈りを聞いてくださり、ご自身で導いてくださった神様に感謝し、感激するしかなかったでしょう。 
    
しかし、最年長のしもべは、ここで終わりませんでした。  21節に「
この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。」とあります。 一気に「この女性が探していた女性だ」と思ったのではなく、もう一度神様の導きを確認しようとしたのです。   それで、しもべはその女性に金の輪一つと金の腕輪一組を与え、「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」と尋ねたのです。 すると、この女性は驚くべき返事をします。   「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」と答えたのです。 
    
皆さん、この最年長のしもべは、主人の命により主人の故郷に発つ前に当然、主人の家族関係について聞いたはずです。 故郷に誰が住んでいて、アブラハムの兄弟たちはどのように暮らしているのかなど、アブラハムは普段から自分が知っていた故郷のことを、この最年長のしもべにも伝えました。そのため、最年長のしもべは、この女性からナホル、ミルカ、ベトエルという名前を聞いた瞬間、自分が正確に訪ねてきたことを悟ったのでした。そして、これこそ神様がすべてをつかさどって導いてくださった結果であることを感じることができました。 
    
それで彼は頭を下げて神様を礼拝し、「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」と神様に栄光を捧げました。その後、リベカは自分が経験したことを母の家の者に告げ、これにリベカの兄ラバンが出てきて、最年長のしもべを迎えることになります。   そしてラバンはしもべを自分の家に導いてもてなし、しもべから事の一部始終を聞くことになります。 最年長のしもべは、まず自分の主人であるアブラハムについて紹介した後、自分がなぜここに来ることになり、どのようにしてリベカに会うことになったのか、その過程を正確に説明します。

 

すると、この言葉を聞いたリベカの兄ラバンと彼女の父ベトエルは、50-51節「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」というのです。  まさにすべてが一瀉千里(いっしゃせんり  物事が一気にはかどることのたとえ)に、あまりにも順調に行われている場面ですね。 
    
これに対し、最年長のしもべは地にひれ伏して主を礼拝した後、自分が持ってきた銀や金の品物や衣装を取り出して、リベカに与えました。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈ります。すべてのことがなされてから、最年長のしもべは、自分が持ってきた貴重な品々でリベカとその家族に礼を尽くして、主人の心を伝えました。  その夜、そこに泊まったしもべとその従者たちとは、朝になって彼らが起きると、リベカを連れて 主人のところに帰らせて下さいと言います。すると、リベカの兄と母親は、それでもリベカと数日間、ともに過ごすことを願います。 当然そうしませんか?  
 
これに対し、最年長のしもべは
「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と答えます。   結局、リベカが自らどうするかを決めることになり、リべカはしもべの望むどおり直ちに彼について行くことにします。このようにしてリベカは、乳母と侍女たちを連れて、最年長のしもべについて自分を待つイサクのいる土地に旅立ちます。そして、イサクの妻となり、彼の愛を受けながら生きていくことになります。 

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朝の学び160 創世記24章  

創世紀 24:1-12
4:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。

神様が必ず叶えてくださるという信仰を告白したアブラハム

 

8節「『もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。』」とあります。アブラハムはこの言葉の前に、「『私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。』」と断固として言いました。そして「『主は、御使いをあなたの前に遣わされる。』」と答えたのです。アブラハムは、神様が働いてくださることを確実に信じたため、このように告白したのであり、神様もアブラハムの告白どおりに必ず保証してくれました。ところで、もしアブラハムの最年長のしもべが選んだ女性が、ついてこようとしなかったらどうなるのでしょうか? 神様がアブラハムを保証してくれないことであり、アブラハムとの誓いが破れるのでしょうか? そうではありません。もう少し正確に言えば、そんなはずがないですね。女性がついて来ないこともないでしょうし、神様との誓いが解かれることもありません。

 

したがって、アブラハムは今否定的な告白をするのではなく、神様が必ず叶えてくださるという強い信仰をこのように告白するのです。だから「『私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。』」と言ったのです。女性がついて来ないことはないから、どんな場合でもイサクを連れてそこへ行くことはないという意味です。 「『もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。』」と尋ねるしもべの質問に、このように断固とした信仰の告白で答えを与えているのです。

では、アブラハムから答えを得たしもべはどうすればいいですか? この時、しもべが肉の考えを働かす人だったら、このような状況でもまた質問が出てくることがあります。 どんな場合でも、自分の責任を免れるために「主人がはっきりおっしゃったのですから、もし女性が私について来なくても、私とは関係ないのです。 私は主人の言うとおりにしたので、仕事がうまくいかなくても私は責任がありません。」こういう言葉が出てくることがあるということです。皆さんだったらどうしたのか一度考えてみてください。 私ではないと思うかもしれませんが、実際こういう状況になると「ご主人様、それでもイサク坊ちゃんを連れて行った方が確実ではないでしょうか?」と最後まで自分の主張を掲げる方もいます。 または、「イサクの妻になる女性をどのような方法で探し出すのでしょうか?」と、具体的な方法を尋ねる方もいます。 

しかし、アブラハムの最年長のしもべはそうではありませんでした。9節「それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。」とあります。 これはこれ以上、疑問をもって質問をしたり、自己主張をしたのではなく、直ちに主人の言葉を「アーメン」として受けたことを意味します。自分が気になる部分について主人に率直に尋ねはしましたが、この時主人が信仰の告白をすると、彼もやはりこれ以上思いを働かせず、信仰によって受けている姿です。

アブラハムの神様に信頼し、すべての事を益とするように働かれる神様に頼った最年長のしもべ

アブラハムの最年長のしもべは、女性を探すにあたって全く人の方法や考えを働かせず、ただ神様に信頼しました。10-11節「しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。」とあります。ここで、「しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。」ということは、私心や欲からではなく、探そうとする女性に出会った時、彼女に主人の心を伝えるしるしとして、らくだと主人のあらゆる貴重な品々を持っていったのです。 そして、これが後でリベカに会ったときに、リベカやその家族に手渡されることになります。 創世記24:53「そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。」とあります。

 

これは、アブラハムの最年長のしもべが、肉的な方法を使ったことではありません。もし、そうであったら、まず金銀の品物や衣服、宝物を取り出して見せることで、相手の歓心を得ようとしたでしょう。しかし、最年長のしもべがこれらを与えたのは、リベカがイサクの妻になると決めた後でした。 ですから、最年長のしもべが、主人のあらゆる貴重な品々を持っていったのは、肉的な方法を働かすためではなく、神の御心の中で女性に会った時、その女性と家族に主人の代わりに心を伝えるためのものだったことが分かります。

このように人の側でできることをあますことなく準備していったアブラハムの最年長のしもべは、夕方になって、アラム・ナハライムのナホルの町の外にある井戸のそばに到着します。ところが、しもべがそこに到着した時間も神様の正確な導きだったという事が分かります。 この時間が、まさに女性たちが水を汲みに出てくる時だったので、どれだけ万事が都合よくいったのです。わざと合わせようとしたのではありませんが、神様の正確な導きで、最も短い時間で備えられた女性に会えるように働いてくださったのです。この時、しもべは、「ただ主人のアブラハムをご覧になって、すべてを成功させてくださるよう導いてください。」と神様に全面的にゆだねる祈りを捧げます。 

12節「そうして言った。「『私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。』」とあります。 主人アブラハムの神様に祈っており、主が取り計って下さるすべての過程が、結局神様が主人アブラハムに恵みを与えることであることを明確にしています。アブラハムのしもべが探している女性に順調に出会い、「私がこのようによく女性を見つけた」とし、自分の功に回そうとする心ではなく、すべてがただ主人のアブラハムを見て、神様が与えた恵みであることを告白しています。ですから、このような善良な心と私心が全くないしもべの祈りに、どうして神様が答えて下さらないでしょうか?アブラハムの最年長のしもべが、どのような方法で神様のみわざを体験することになるかは、次の時間に続いて見ていきます。

結論

アブラハムは、自分の代わりにしもべを送る時に多くのことを話しませんでした。目的地とこの使命の趣旨だけを説明して、あとはしもべにすべて一任しました。 主人の所有の中で何を持っていくかも、また目的地に到着してどんな方法で女性を探さなければならないかも、すべてのことをしもべが判断するようにしました。 これはイエス様が弟子たちを訓練させる時も同じでした。イエス様は、ペテロに宮の納入金を払うようにする時も、マタイ17:27「『しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。』」とあります。 どちらの湖に行くべきか、いつ行くべきか、どんな魚がかかるのかなど、他に何もおっしゃってくださったわけではありません。


エルサレムに入城する時、乗るロバの子を求める時もイエス様は二人の弟子を送り、「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」」とおっしゃったことが分かります。最後の晩餐を準備する時も同じです。マタイ26:17に「さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」」と尋ねると、18節「イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」と言いました。 そして19節に「そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。」とあります。

このような状況で、もし弟子たちが肉の考えを働かせていたら、従順ではなく、色々な理由と言い訳が出たり、さらに細かいことまでも質問したでしょう。しかし弟子たちはイエス様の言葉に考えをはたらかせずに「アーメン」と言いました。 これが信仰であり、従順です。もし肉の考えを働かせて尋ねて、細かい質問一つまでも答えて、そのまましなさいとだけ言えば、おそらく子供でもできるでしょう。 しかし、信仰とはヘブル人への手紙11:1「仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」の言葉のように、「望んでいることの保証」であり 「見えないものの確信」という事実を悟り、真の信仰を所有してください。

また、最年長のしもべの役割がいかに重要であるかについても、お気づきいただければと思います。今の状況では、最年長のしもべの役割が非常に重要です。いくら神様がアブラハムの信仰を見て働かれようとしても、すでに、アブラハムはすべてを最年長のしもべに委任したので、しもべがいかなる人の考えも働かせず、ただ神様の全面的な導きだけを信じて従順していく心でなければ、敵である悪魔サタンが訴えることができます。 したがって、しもべの信仰と従順によって結果が変わることがあるということです。 ところが、このしもべは、主人のアブラハムのそばでこれまで信仰の訓練を受けてきたし、主人を完全に信頼したために、よく主人の意を成し遂げることができる道具として、十分に自身の使命に耐えられる信仰があったのです。

今は、このような信仰持った主のしもべと働き人が多く必要な時です。私たちの主のしもべと働き人たちとすべての聖徒たちも、イエス様の弟子たちのように、そしてアブラハムの最年長のしもべのように、御言葉に頼って従順で神様の働きを成し遂げることができる、霊的な成長を遂げた器として迅速に出てくることを主の御名で祈ります。
 

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朝の学び159 創世記24章  

創 24:1-7
アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。

序論

愛する聖徒の皆さん、ヨハネの手紙第三1:2「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」と述べていますが、この言葉を保証されている人物の一人がまさにアブラハムです。アブラハムが肉的には年を重ねて老人になっていましたが、体はまったく衰えていませんでした。むしろ、イサクを産んだ後に更に健康になり、子供を6人も産むことができました。 また「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とおっしゃった通り、アブラハムはすべての事に幸いを得ている祝福を受けたので、物質だけでなく権勢も大いなるものでした。

更にアブラハムには、すべてを信じて任せられる人がそばにいるという祝福があったのです。その人は、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべでしたが、アブラハムは息子のイサクの妻を娶る重大なことも、やはりこの最年長のしもべに任せたことが分かります。アブラハムはしもべに指示をしながら、彼の手を自分のももに、すなわち太ももの骨の下に入れるようにします。 

では、こうすることに何の意味があるのでしょうか?前回も申し上げたように、大腿骨は霊的にすべてのことにまっすぐなことを意味し、約束が変わらないという意味と、神様がすべてを認めて成し遂げるという意味が含まれています。また、肉的にも自分のもも、大腿骨の下に手を入れるようにするということは、アブラハムとしもべとの関係がそれだけ信頼できる近い関係だということを物語っています。 したがって、アブラハムがこのように自分のももの下にしもべの手を入れるようにしたのは、アブラハムにとって老いたしもべが、それだけ信じて信頼できる近い人だということと、イサクを通して下さるという神様の約束が変わらず、決めた通りに成就されるという意味が込められているのです。

 アブラハムが最年長のしもべを送った理由

アブラハムは息子のイサクの妻を求めるにあたって、自分が直接出かけることもできたはずです。どうせなら息子のイサクまで連れて行って気に入った女性を選ぶこともできたでしょう。 アブラハムがもし多くのしもべを従えて、自分が持っている富と権勢を表そうとしたなら、それを見ても多くの人々が慕って、イサクの妻になることを願ったはずです。肉の人たちは肉の条件だけを見るので、肉のものに惹かれるのです。このような事実を知っているアブラハムは、むしろ肉で見ればみすぼらしく見える老いたしもべを送ったのです。そして、肉の条件は徹底的に排除したまま、神様の主管と働きを通してのみ、イサクの妻を求めようとしたのです。アブラハムの老いたしもべは完全な従順で、まさにこのような主人の意思に従ったことが分かります。 

 

ところが、今日の神様を信じるという人々の中でも、本当に重要な霊的なことは無視したまま、肉的なことに重点を置く場合があります。一般的に霊的なものが足りない時、これを隠すために肉的なものにより重点を置く傾向が生じます。簡単に例を挙げますと、世の中でも本当に実力のある歌手の中にはあえて見た目のことを気にしない人もいますね。反面、実力が自信のない人の中には衣装や舞台など外的なことに気を使う場合が多いです。 もちろん実力もある状態で、衣装や舞台も立派であればもっと良いのですが、本当に重要なのは実力にならなければならないでしょう。 このように霊的にも自信がなくなると、むしろ肉的なもので覆おうとするため、より肉的なものに重点を置くようになることが分かります。

コリント第一4:20「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」とおっしゃった通り、言葉の流暢さや表に現れる肉的な姿が重要なのではなく、内面から出てくる霊的な力と能力が重要です。自分がたくさん学び、名誉と権勢があり、多くの富を持ったということを前面に出すのではなく、どれほど神様の愛を受けてどれほど霊に入ってきたかが、自分を評価する真の基準にならなければならないでしょう。 これは、皆さんがある組織のリーダーの人を選ぶ時も同じです。 神様がおっしゃった霊的な基準にふさわしい人をリーダーに選ばなければなりません。 たまにそうでない人をリーダーに選んで、会員全体が苦しくなる場合がありますが、決して肉的なものや外見を見て人を評価してはならないという事を肝に銘じてください。

アブラハムは肉の人の心をよく知っていたので、もしやイサクの肉的な背景を見て、彼の妻になろうとする人がいないようにするために、自分が直接多くの人を従えて故郷に行ったのではなく、代わりに外見では取るに足らない老いたしもべを送ったのです。 仮にアブラハムがそうしたとすれば、彼の親戚の中にアブラハムの肉的な背景を見て、先を争ってイサクの妻になろうとする人々が出てきたはずです。そうすれば、本当に神様の主管の中にイサクの妻になるべき女性を探すのが容易ではなかったでしょう。しかし、アブラハムがこのように他の人を代わりに送るという賢明な手段を取ることができたのは、信じて信頼できるしもべがいたからでもあります。

アブラハムの心で従順に質問する最年長のしもべ

アブラハムの最年長のしもべは、それだけ信じて信頼できる人ではありましたが、アブラハムの信仰と比べてみると、多く不足していたことが分かります。5節「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と尋ねます。主人の言葉に従順して行くのですが、それでも心の片隅には「どのような女性が果たして私の言葉だけを信じて、気軽に異邦人の住むここまでついてくるのだろうか」という疑問があったのです。新郎になる人を連れて行って見せるわけでもなく、ある確実なしるしを持って行くわけでもないので「もし人々が自分の言葉を信じなければどうするのか」という一抹の心配があったからです。

だからといって、アブラハムの最年長のしもべが肉の思いを働かせているということではありません。 もし肉の思いを働かせたら、最初からイサクを連れて行こうとしただろうし、自分の言葉を保証できる何らかの証拠やしるしを求めたはずです。自分の信仰の分量の中では最善を尽くしたのであり、自分の限界を越える部分においては率直に主人の意中を正確に尋ね、その意に従って行動しようとしたのです。 主人の前では「アーメン」と言っておいて、後になって考えを働かせて勝手に事を処理するよりは、このように最初から正確な意中を尋ねてその意中に従って行動するのがより良いという事です。

最年長のしもべに信仰で従うことを勧めるアブラハム

続く6-7節を見ると、アブラハムがしもべに答える内容が出てきます。 「アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。いかなる人の考えも働かせず、ただ神様の全面的な導きだけを信じて従順していくことを話しています。これがアブラハムの信仰でした。 アブラハムは最年長のしもべにもこのような信仰と従順を要求するのです。 

さらに今、イサクの妻を求めることは、神様が最年長のしもべを見て働かれることではありません。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた」と告白した通り、最年長のしもべは、神様がアブラハムに与えた契約の成就のために、アブラハムに代わって遂行することだけです。したがって、今この仕事を遂行するしもべにとっては、神に対する本人自身の信仰も重要ですが、自分の主人であり預言者であるアブラハムに対する信頼が何より重要だという事です。私の信仰で私の能力ではできないことも、主人であるアブラハムを信頼して従順した時は、アブラハムの信頼通りに働いてくださるからです。 

歴代誌第二20:20後半節「あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」とおっしゃった通りです。本教会の海外宣教を担当する働き人や、支教会や海外の支教会を担当する主のしもべたちが、まさにこのような事を肝に銘じてほしいです。 今まで数回の海外聖会を成し遂げ、神様がどのように主のしもべを保証し、その言葉を叶えてくださったのかを見ました。現実は漠然としているとしても、皆さんが信じて従順していこうとする時、神様は必ず助ける人を与えてくださり、道を開いてくださいました。しかし、自分がしようとするだけ、すなわち、自分の力、自分の考え、自分の方法を働かすだけ、仕事が遅れるのを見ることになります。

また、海外の支教会や国内の支教会を建て上げていく時も、人の考えの中で成し遂げようとすれば、結局、皆さんの限界内でのみ成し遂げることになります。反面、牧者の言葉を頼りに牧者を通して現れる権能を頼りに、牧者の空間の中で成し遂げようとする時は、神様がそのまま保証してくださることを見ることができます。代表的な例がアフリカのチョン·ミョンホ牧師です。時が来て私が教会を開拓するようにと言ったら、考えを働かせずにそのまま従順し、また神様がおっしゃってくださってあることを指摘すると、その場で直ちに悔い改めて立ち返りました。 だから牧者との間に、敵である悪魔サタンがいかなる妨害もできないのであり、牧者の空間の中に留まっているため、遠くアフリカでも牧者のハンカチを持って日に日にさらに大きな権能を表し、神の国を大きく成しているのです。

しかし、この言葉は皆さんが聞いて頭に知識があるからといってできるものではありません。 本当に「私は牧者の言葉をどれほど信頼して従順しようとしているのか」また「私は牧者の言葉に外れることは直ちに立ち返っているのか」「心でどれほど牧者と一つになることを切実に願ってそうなるために努力しているのか」まさにこのようなことを自ら点検してみれば、自身に対する評価が出てくると思います。

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朝の学び158 創世記24章  

創世紀 24:1-4
アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」

最後の試練を通過した後、ただ祝福だけがあふれたアブラハム

創世記24:1「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。アブラハムは、ひとり子イサクを捧げる最後の試練を完全に通過した後は、祝福だけがあふれていたことを見ることができます。たとえ肉的には年を重ねて老人になっていましたが、アブラハムは体が衰えたり、健康に問題が生じたわけではありません。むしろ後妻のケトラを娶って、6人の子供をもうけたのです。このようにアブラハムは霊的な祝福と共に健康と財産、権勢など肉的な祝福も豊かに受けていたのです。彼の心が神の心に似ていくので、肉ではたとえこの地に住んでいても、彼は常に神の霊の空間に住むことで、この地の肉の法則ではなく、霊の法則が適用されたからです。

アブラハムの最年長のしもべ

この頃アブラハムは約束の子孫である息子イサクのために妻を見つけるよう導かれました。これは非常に重要なことです。イサクが妻としてどんな女性を迎えるかによって、多くのことに影響を及ぼすことがあるからです。妻として、又イサクを通して産まれる子供たちの母親としての役割があまりにも重要なので、アブラハムは嫁を求めるにあたっても非常に慎重だったことが分かります。だからといって肉の考えや人の方法を働かせたのではなく、この時もやはり全てを神様にゆだねます。ただ、このように重要な使命を代わりに引き受け責任を負う人を立てて、彼に次のような要請をします。

2-4節「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。『あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。』」と頼みます。アブラハムはこの使命を引き受けて果たせる人として、「自分の全財産を管理している家の最年長のしもべ」を選びましたが、この中には多くの意味が込められています。当時、アブラハムが所有している財産が決して少ないわけではありません。その多くの財産を全て引き受けて管理するということは、彼がアブラハムからどれほど信任を受け、誠実で正直な人だったかを物語っています。また、最年長ということは単に年を取ったという意味ではなく、長い間アブラハムと苦楽を共にしたことを物語っています。アブラハムと数年ほど一緒に過ごしたのではなく、多くの歳月を共にしながらすべてを一緒に体験したのです。主人のアブラハムと共にする神様を体験し、神様の能力を体験したのです。そして、このように長い間アブラハムのそばで共にした人なら、それだけアブラハムに心から仕え、愛する人だったことも分かります。

アブラハムはこのように信じて信頼でき、神に対する信仰も持っているしもべを選んで、彼に使命を任せたという事です。 決して誰にでも任せられる使命ではないからです。 皆さんが24章を読んでいると、アブラハムがなぜ使命を任せる人をこのように慎重に選択しなければならず、この老いたしもべを選択したことが、どれほど心に正確に働きかけられたことだったのかがよくわかります。アブラハムは最年長のしもべに、手を自分の大腿骨の間に入れさせて誓わせますが、ここで大腿骨は太ももの骨のことです。 太ももは体を支える力を受ける部位で、身体的に非常に重要な意味を持ちます。このような大腿骨は、霊的にはすべてにおいてまっすぐなこと、変わらないことを意味します。 アブラハムはまさにこのような意味を持つ大腿骨に、最年長のしもべの手を入れて誓わせることで、神様が自分に与えた約束が、変わらず必ずなされるということをもう一度確実にしたのです。

また、神様がアブラハムを見て、アブラハムに与えた約束を完全に成し遂げるにあたって、このしもべを通して御心どおりになるようにしてほしいと、神様の前に申し上げているのです。 結局、送りだされたこの最年長のしもべは、神様がアブラハムに与えた約束を果たすにあたって、道具として用いられることになるのです。 アブラハムに与えた約束によってアブラハムを見て、彼に代わって送りだされたこの最年長のしもべを用いて、万事を順調に導かれたという意味です。最年長のしもべはまさにこのような意味を明確に悟ったので、以後すべてのことを成し遂げるにあたって、ただ「私たちの主人アブラハムの神様」だけを頼りにしたことを見ることができます。自分の経験、力により頼むのではなく、自分はアブラハムに代わる使いに過ぎないという事実を自らが明確に認識して行動したのです。

ところが、アブラハムが最年長のしもべにイサクの妻を連れてくるように指示する時、重要な条件をつけたことが分かります。まさに異邦民族のカナン人の娘の中から女性を選ばず、アブラハム自身の生まれ故郷、自分の民のところに行って、イサクのために妻を選びなさいということでした。 いくら息子のイサクが約束の子孫だとしても、もし彼の妻を異邦人の中から選ぶことになれば、後日どのような結果を引き起こすのかを、アブラハムはあまりにもよく知っていたのです。何よりも神様の御心がどこにあるのかをよく知っていたので、このように異邦人の女性を選ぶことができないようにしたのでした。

アブラハムは当時、その近隣で名前が広く知られ、彼が持つ富と権勢も大いなるものだったから、このようなアブラハムの家と婚姻関係を通して益を得ようとする人々がその周辺には当然いるものです。それ故、異邦の女性は駄目だという条件がなかったら、老いたしもべは肉的にみると、周りでいくらでも条件の良い女性を選ぶことができたのです。しかし、確かな条件があったので、このしもべはただ主人の故郷の地まで何の考えも働かせずに行くことができたのです。 イサクの妻を求める内容は次の時間に続けて見ていきましょう。

 

結論

イザヤ6:8によれば、「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」と記されています。皆さんがもしこのような状況なら、このように大胆に告白することができますか?私がすでに数年前から預言していたように、最近、世界各国でハンカチ集会の熱気が熱いです。 私を連合大聖会の講師として招待する国だけでも60カ国以上ありますが、私がそれぞれ行くことができないので、代わりにハンカチ集会が開かれているのです。ところが、このようにハンカチ集会が多くなり、私には一つ悩みが生じました。「果たして誰を送るのか」ということです。

もちろん今もハンカチ集会に出かける方もいて、また一旦ハンカチ集会に送られたら、父なる神様も牧者を見て保証をしてくださいます。 しかし、「どんな人を送れば神様の栄光がより大きく現れるか」を知っているので、そのような条件にぴったりの人を探してみると、それほど多くないことが見られます。これは必ずしもハンカチ集会に該当するだけのものではありません。教会内外に大小のことがあまりにも多くありますが、そのようなことを完全に信じて任せられる、まさに今日の本文に出てくる老いたしもべのような人を探すのは容易ではありません。肉の考えを働かせず、ただ主人の言葉に100%従うことができる人、その一方で自分を表そうとする心や邪心が全くない人のことです。

アブラハムはまさにこのように信じて信頼できる人がいたので、彼に自分の家のすべての所有を任せただけでなく、家の中の最も重大事とも言えることも彼に任せるのを見ることができます。周りに人がいくら多いといっても、結局重要なことは信じて信頼できる霊の人に任せるしかないのです。これは、父なる神様の側でも同様です。父なる神様の方では、今この時にも思う存分権能も与え祝福も与えて父の御心通りに使える人を探しています。だからといって、1、2回よくやったことだけで、一気にその人を選ぶわけではないですね。 アブラハムの老いたしもべが長い間、主人アブラハムのそばで忠誠を尽くし、一つ一つ信頼を築いてきたように、変わらない心で忠誠を尽くし、使命に耐える人が必要なのです。 自分が充満している時だけ使命によく耐え、そうでない時は使命を遠ざけるのではなく、常に変わらない姿で行わなければならないということです。 そうしてこそ、仕事を任せる側でも信頼できるのです。 

任された仕事をすばらしくやり遂げることも重要ですが、それよりもっと重要なことは、任された仕事を変わらない心と姿でやり遂げなければならないということです。したがって皆さんは、神様の御心を悟り、その心に満足するように事を成し遂げることはもちろん、その心と姿が変わらないことを願います。それでアブラハムのそばにいた老いたしもべのように、父なる神様の信頼を受けながら神様の大きな働きを成し遂げる上で、貴く使われる皆さんになりますように主のお名前で祈ります。

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朝の学び157 創世記23章  

創世紀 23:10-23:20
エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門に入って来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った。「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」 エフロンはアブラハムに答えて言った。「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。 こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。

序論

愛する皆さん。箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とありますが、この言葉によくあてはまる人物の一人がまさにユダのウジヤ王です。歴代誌第二26:4-5には「彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。」そのため、ウジヤ王は異邦の民族との戦いに勝利し、周辺の国から貢ぎ物を捧げられるほどで、その名がエジプトの辺境にまで広まったのです。また、国内的にはエルサレムの城を堅固に建築し、農業と牧畜においても豊かでした。堅牢で戦いに長けた強力な軍隊もあり、軍備も十分に備えていました。 

歴代誌第二26:15節後半節「こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである。」とある通り、ウジヤ王はすばらしい助けを受けた、すなわち神の助けを受けたので、何一つ足りないことがないほど強くて豊かな国を維持することができたのです。ところで、ウジヤ王の結末は果たしてどうなったのでしょうか?歴代誌第二26:16「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。」とあります。

 

心が高慢になったウジヤ王は結局、彼をとどめる祭司長アザルヤの言葉さえ聞かず、主の神殿に入り、ただ祭司だけができる香をたこうとしたが、ついに額にハンセン氏病が発生してしまいます。それで、ウジヤ王は残りの日、離宮に一人で住んで死ぬことになったのです。もしウジヤ王が、初めに持っていた心が変わらず、神の御心の中で留まるなら、彼は続けて神の助けを受けるので、ユダの歴史において良い王と評価されることができたでしょう。ところが力が強くなり権勢が与えられるようになると、すぐに心にあった傲慢が現れ、神様の前に罪を犯すことになったのです。これは笑ってすますことが出来ないし、王の場合だけではないですね。

 

傲慢と言えば、人前で自分をさらけ出そうとしたり、高くなって自慢しようとすることだけに考えがちですが、傲慢が問題になるのは、このような姿のためだけではありません。さらに大きな問題は、傲慢さがすぐに他の犯罪につながるからです。傲慢な心があるので、以前は全く思いもよらなかったことを、むしろ信仰の経綸が加わる時に至って、神様の前で行うことになる場合があるという事です。つまり信仰生活を始めてしばらくは、真理の言葉を通して自分を発見することに熱心で、自分の行動一つでも注意しようとし、心も守っていこうとしましたが、時間が経つにつれて信仰がさらに成長していかなければならない人が、むしろ以前の姿に戻る場合があるということです。 

以前は、神様のお言葉なら小さなこと一つでも何とか守ろうとしたが、今は信仰の経綸が加わり働き手になってからは、むしろ「この程度は大丈夫だろう」として、再び少しずつ肉のものを取ってしまうのです。それが一つ二つ増えていくと、後には自らも手の施しようがないほど、再び世の中に落ちてしまうのです。ウジヤ王も最初から主の聖殿に入って香をたこうとするほど、その心が傲慢であったわけではありません。しかし時を経る程その心が次第に高ぶり、結局はただ祭司だけができる領域までも侵して入ろうとする悪を行ってしまいました。 

ですから皆さんは、信仰生活をしながら傲慢ということを決して軽く見てはいけません。「私は自慢しようとしないから、私は他人を無視しないから傲慢ではない」と思うのではなく、もし自分の姿の中に、初信者の時には熱心に行おうと努力していたことを今はしていないならば、それがまさに傲慢でありうるということを知らなければなりません。 また、初心者の時は一生懸命捨てようとしたものを今また取っているなら、これがまさに傲慢である可能性があるということを知らなければなりません。ですから、皆さんはウジヤ王がその心が傲慢で悪を行うようになったという言葉を肝に銘じ、常に自らを振り返る中で傲慢にならないように注意しなければなりません。

紛争の余地を残さないように墓地を求めるアブラハム

アブラハムは神様の愛を受け、保証を受け、周辺の異邦の民族からも認められていましたが、常に心を謙虚に低くしたので、自分より力が弱い相手だとしてもぞんざいに接しませんでした。亡き妻サラのために、ヘテ人所有の土地から墓地を得るにあたっても、兼ね備えた徳で和平を追うことが見られます。前の時間に申し上げたように、自分の持つ力と権勢ならいくらでもヘテ人に墓地を要求することができ、あえて低い姿勢で出る必要もなかったのですが、アブラハムの心は常に正しい道を追い求め、たとえ自分より立場の低い人にでも、自分の利益を求めようとする心ではなかったので、彼らに正当な値段を払って土地を買おうとしながらも、その土地の人々に丁寧におじぎをして礼を尽くしました。アブラハムがこのようにしたのは、兼ね備えた謙遜な心があっただけでなく、人の心の属性をよく知っているためでもありました。アブラハムはヘテ人の中でエフロンという人の所有地から墓地を得ようとしましたが、エフロンはこのようなアブラハムの意中を伝え聞くことになります。
 
すると
10-11節「エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門に入って来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った。『ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。』」と言ったのです。アブラハムに向かって「ご主人。」と呼ぶということは、エフロンもアブラハムがどんな存在なのかを知っていて、それに比べればエフロン自身は、どれほど微弱な存在なのかを知ることができます。だからエフロンはアブラハムが望むその土地を与えると、同族の前で公言しています。この言葉だけを見ると、アブラハムにただであげるという意味のようで、アブラハムに仕えるという意味のようです。 

 

しかしアブラハムは人の心を知っているので13節「『もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。』」 最後まで正当な値段で買うと言います。 この時、エフロンという人が本当にその地をアブラハムにただであげようとし、アブラハムに仕えようとする気持ちだったとしたら、どうすべきだったでしょうか?当然、もう一度自分の心を伝え、アブラハムにただで使うことを勧めるでしょう。ところが、アブラハムがなぜエフロンという人の好意を断り、最後まで正当な代価を払って買おうとしたのかが続く14-15節に出てきます。
 

「エフロンはアブラハムに答えて言った。『ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。』」と言ったのです。エフロンという人は、言葉ではただであげると言いながらも、代価を払うというアブラハムの言葉に、このようにさっと地価を明らかにしたのが見られます。『それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。』と言いましたが、心の中では結局代価を欲しがっていることが分かります。アブラハムがいくつかの会話をしてみると、このように本音が明らかになったということです。だから、このような本音をすでに見抜いているアブラハムが、どうして生半可にその土地をただで受け取ることができるでしょうか? もしただでもらったとしても、後日それによって問題が生じる可能性があるので、アブラハムは十分な代価を払って、最初から問題が生じる余地がないようにしたのです。

皆さんが事業をしたり何かをするにしても、自分が欲を抱かずに正しい道を歩く時は、詐欺に遭う理由もなく、騙される理由が一つもありません。自分が欲を抱いて正しい道から背を向けるようにしたので、詐欺にも遭うことになり、トリックにも遭うことになるのです。正しい道を歩けば神様が守ってくださるでしょう。また騙されるようになる理由もなくなるのです。18節に「その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。」とある通り、アブラハムはエフロンとの取り引きを多くの人々の前で公にすることで、将来いかなる問題の余地も残さなかったという事です。

自分の利益を求めず正しい道を歩んだアブラハム

愛する皆さん。今まで聞いた内容を通して皆さん自身の姿を一度振り返ってみてください。 アブラハムはその心に私心や欲、自分の利益を求める心がなかったので、相手の心まで見抜く知恵が与えられることができました。アブラハムにもし欲があったなら、エフロンが土地をただで差し上げると言った時、すぐにその申し出を受け入れたでしょう。 これがすぐには利益のように見えます。 しかし、肉の人の心というのは状況と環境、また時間の流れによって変わるということを知らなければなりません。 だから、すぐには利益のように見えたことが、後日様々な問題や紛争に発展することもありうるという事です。

ところが今日多くの人々が、目の前の利益だけを追い求めて失敗をしてしまいます。「正しい道を歩かなければならない。」「欲があってはならない。」「私の利益だけを求めてはならない。」と言っても、実際に現実では、自分の利益に汲々としているのです。だから、誰かが少しでも惑わすと、それによって惑わされてしまうのです。例えば「ここに投資すれば短時間のうちに多くのお金を稼ぐことができますよ。」「これはただも同然ですよ。」「あなたのことを考えて特別に損をしてもさしあげますよ。」こういう話を聞くと、すぐに心にあった欲の心が揺れるなら、惑わされてしまったということです。

もちろん、皆さんの中にはこのような方は、ほとんどいらっしゃらないと思いますが、心に欲を持っていて自分の利益だけを考える肉の人々には、子供でも見分けられるような明らかな方法でも心が惑わされる場合もあります。さらに、力があり権勢があり傲慢な人は、このような方法に更によく通じているのを見ます。相手が自分のことを分かってくれるようで、認めてくれるようであれば、すぐに傲慢な気持ちが出てきて分別力が薄れてしまうのです。また、ある人は、自分が持っている力と権勢を持って不当な利益を取ろうとする気持ちがあるため、より簡単に惑わされたりもします。 

箴言13:11に「急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。」とあり、箴言28:22には「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」とあります。ですから、皆さんは自分より偉い人でも低い人でも関係なく、常に心の中心で仕える心になって下さい。そして自分の利益を得ようとする心ではなく、損をしても常に正しい道を選んで下さい。 そうする時に、たとえ想像できなかった詭計や困難があったとしても、神様が避ける道を与えてすべての事を益として下さるのです。皆さんが正しい道だけを歩む時、敵である悪魔サタンは決して困難に陥らせることができません。

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朝の学び157 創世記23章  

創世紀 23:10-23:20
エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門に入って来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った。「ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。」アブラハムは、その土地の人々におじぎをし、その土地の人々の聞いているところで、エフロンに告げて言った。「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。」 エフロンはアブラハムに答えて言った。「ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。」アブラハムはエフロンの申し出を聞き入れ、エフロンがヘテ人たちの聞いているところでつけた代価、通り相場で銀四百シェケルを計ってエフロンに渡した。こうして、マムレに面するマクペラにあるエフロンの畑地、すなわちその畑地とその畑地にあるほら穴、それと、畑地の回りの境界線の中にあるどの木も、その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。 こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。

序論

愛する皆さん。箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とありますが、この言葉によくあてはまる人物の一人がまさにユダのウジヤ王です。歴代誌第二26:4-5には「彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は神を認めることを教えたゼカリヤの存命中は、神を求めた。彼が主を求めていた間、神は彼を栄えさせた。」そのため、ウジヤ王は異邦の民族との戦いに勝利し、周辺の国から貢ぎ物を捧げられるほどで、その名がエジプトの辺境にまで広まったのです。また、国内的にはエルサレムの城を堅固に建築し、農業と牧畜においても豊かでした。堅牢で戦いに長けた強力な軍隊もあり、軍備も十分に備えていました。 

歴代誌第二26:15節後半節「こうして、彼の名は遠くにまで鳴り響いた。彼がすばらしいしかたで、助けを得て強くなったからである。」とある通り、ウジヤ王はすばらしい助けを受けた、すなわち神の助けを受けたので、何一つ足りないことがないほど強くて豊かな国を維持することができたのです。ところで、ウジヤ王の結末は果たしてどうなったのでしょうか?歴代誌第二26:16「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。」とあります。

 

心が高慢になったウジヤ王は結局、彼をとどめる祭司長アザルヤの言葉さえ聞かず、主の神殿に入り、ただ祭司だけができる香をたこうとしたが、ついに額にハンセン氏病が発生してしまいます。それで、ウジヤ王は残りの日、離宮に一人で住んで死ぬことになったのです。もしウジヤ王が、初めに持っていた心が変わらず、神の御心の中で留まるなら、彼は続けて神の助けを受けるので、ユダの歴史において良い王と評価されることができたでしょう。ところが力が強くなり権勢が与えられるようになると、すぐに心にあった傲慢が現れ、神様の前に罪を犯すことになったのです。これは笑ってすますことが出来ないし、王の場合だけではないですね。

 

傲慢と言えば、人前で自分をさらけ出そうとしたり、高くなって自慢しようとすることだけに考えがちですが、傲慢が問題になるのは、このような姿のためだけではありません。さらに大きな問題は、傲慢さがすぐに他の犯罪につながるからです。傲慢な心があるので、以前は全く思いもよらなかったことを、むしろ信仰の経綸が加わる時に至って、神様の前で行うことになる場合があるという事です。つまり信仰生活を始めてしばらくは、真理の言葉を通して自分を発見することに熱心で、自分の行動一つでも注意しようとし、心も守っていこうとしましたが、時間が経つにつれて信仰がさらに成長していかなければならない人が、むしろ以前の姿に戻る場合があるということです。 

以前は、神様のお言葉なら小さなこと一つでも何とか守ろうとしたが、今は信仰の経綸が加わり働き手になってからは、むしろ「この程度は大丈夫だろう」として、再び少しずつ肉のものを取ってしまうのです。それが一つ二つ増えていくと、後には自らも手の施しようがないほど、再び世の中に落ちてしまうのです。ウジヤ王も最初から主の聖殿に入って香をたこうとするほど、その心が傲慢であったわけではありません。しかし時を経る程その心が次第に高ぶり、結局はただ祭司だけができる領域までも侵して入ろうとする悪を行ってしまいました。 

ですから皆さんは、信仰生活をしながら傲慢ということを決して軽く見てはいけません。「私は自慢しようとしないから、私は他人を無視しないから傲慢ではない」と思うのではなく、もし自分の姿の中に、初信者の時には熱心に行おうと努力していたことを今はしていないならば、それがまさに傲慢でありうるということを知らなければなりません。 また、初心者の時は一生懸命捨てようとしたものを今また取っているなら、これがまさに傲慢である可能性があるということを知らなければなりません。ですから、皆さんはウジヤ王がその心が傲慢で悪を行うようになったという言葉を肝に銘じ、常に自らを振り返る中で傲慢にならないように注意しなければなりません。

紛争の余地を残さないように墓地を求めるアブラハム

アブラハムは神様の愛を受け、保証を受け、周辺の異邦の民族からも認められていましたが、常に心を謙虚に低くしたので、自分より力が弱い相手だとしてもぞんざいに接しませんでした。亡き妻サラのために、ヘテ人所有の土地から墓地を得るにあたっても、兼ね備えた徳で和平を追うことが見られます。前の時間に申し上げたように、自分の持つ力と権勢ならいくらでもヘテ人に墓地を要求することができ、あえて低い姿勢で出る必要もなかったのですが、アブラハムの心は常に正しい道を追い求め、たとえ自分より立場の低い人にでも、自分の利益を求めようとする心ではなかったので、彼らに正当な値段を払って土地を買おうとしながらも、その土地の人々に丁寧におじぎをして礼を尽くしました。アブラハムがこのようにしたのは、兼ね備えた謙遜な心があっただけでなく、人の心の属性をよく知っているためでもありました。アブラハムはヘテ人の中でエフロンという人の所有地から墓地を得ようとしましたが、エフロンはこのようなアブラハムの意中を伝え聞くことになります。
 
すると
10-11節「エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門に入って来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った。『ご主人。どうか、私の言うことを聞き入れてください。畑地をあなたに差し上げます。そこにあるほら穴も、差し上げます。私の国の人々の前で、それをあなたに差し上げます。なくなられた方を、葬ってください。』」と言ったのです。アブラハムに向かって「ご主人。」と呼ぶということは、エフロンもアブラハムがどんな存在なのかを知っていて、それに比べればエフロン自身は、どれほど微弱な存在なのかを知ることができます。だからエフロンはアブラハムが望むその土地を与えると、同族の前で公言しています。この言葉だけを見ると、アブラハムにただであげるという意味のようで、アブラハムに仕えるという意味のようです。 

 

しかしアブラハムは人の心を知っているので13節「『もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます。』」 最後まで正当な値段で買うと言います。 この時、エフロンという人が本当にその地をアブラハムにただであげようとし、アブラハムに仕えようとする気持ちだったとしたら、どうすべきだったでしょうか?当然、もう一度自分の心を伝え、アブラハムにただで使うことを勧めるでしょう。ところが、アブラハムがなぜエフロンという人の好意を断り、最後まで正当な代価を払って買おうとしたのかが続く14-15節に出てきます。
 

「エフロンはアブラハムに答えて言った。『ではご主人。私の言うことを聞いてください。銀四百シェケルの土地、それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。どうぞ、なくなられた方を葬ってください。』」と言ったのです。エフロンという人は、言葉ではただであげると言いながらも、代価を払うというアブラハムの言葉に、このようにさっと地価を明らかにしたのが見られます。『それなら私とあなたとの間では、何ほどのこともないでしょう。』と言いましたが、心の中では結局代価を欲しがっていることが分かります。アブラハムがいくつかの会話をしてみると、このように本音が明らかになったということです。だから、このような本音をすでに見抜いているアブラハムが、どうして生半可にその土地をただで受け取ることができるでしょうか? もしただでもらったとしても、後日それによって問題が生じる可能性があるので、アブラハムは十分な代価を払って、最初から問題が生じる余地がないようにしたのです。

皆さんが事業をしたり何かをするにしても、自分が欲を抱かずに正しい道を歩く時は、詐欺に遭う理由もなく、騙される理由が一つもありません。自分が欲を抱いて正しい道から背を向けるようにしたので、詐欺にも遭うことになり、トリックにも遭うことになるのです。正しい道を歩けば神様が守ってくださるでしょう。また騙されるようになる理由もなくなるのです。18節に「その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。」とある通り、アブラハムはエフロンとの取り引きを多くの人々の前で公にすることで、将来いかなる問題の余地も残さなかったという事です。

自分の利益を求めず正しい道を歩んだアブラハム

愛する皆さん。今まで聞いた内容を通して皆さん自身の姿を一度振り返ってみてください。 アブラハムはその心に私心や欲、自分の利益を求める心がなかったので、相手の心まで見抜く知恵が与えられることができました。アブラハムにもし欲があったなら、エフロンが土地をただで差し上げると言った時、すぐにその申し出を受け入れたでしょう。 これがすぐには利益のように見えます。 しかし、肉の人の心というのは状況と環境、また時間の流れによって変わるということを知らなければなりません。 だから、すぐには利益のように見えたことが、後日様々な問題や紛争に発展することもありうるという事です。

ところが今日多くの人々が、目の前の利益だけを追い求めて失敗をしてしまいます。「正しい道を歩かなければならない。」「欲があってはならない。」「私の利益だけを求めてはならない。」と言っても、実際に現実では、自分の利益に汲々としているのです。だから、誰かが少しでも惑わすと、それによって惑わされてしまうのです。例えば「ここに投資すれば短時間のうちに多くのお金を稼ぐことができますよ。」「これはただも同然ですよ。」「あなたのことを考えて特別に損をしてもさしあげますよ。」こういう話を聞くと、すぐに心にあった欲の心が揺れるなら、惑わされてしまったということです。

もちろん、皆さんの中にはこのような方は、ほとんどいらっしゃらないと思いますが、心に欲を持っていて自分の利益だけを考える肉の人々には、子供でも見分けられるような明らかな方法でも心が惑わされる場合もあります。さらに、力があり権勢があり傲慢な人は、このような方法に更によく通じているのを見ます。相手が自分のことを分かってくれるようで、認めてくれるようであれば、すぐに傲慢な気持ちが出てきて分別力が薄れてしまうのです。また、ある人は、自分が持っている力と権勢を持って不当な利益を取ろうとする気持ちがあるため、より簡単に惑わされたりもします。 

箴言13:11に「急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。」とあり、箴言28:22には「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」とあります。ですから、皆さんは自分より偉い人でも低い人でも関係なく、常に心の中心で仕える心になって下さい。そして自分の利益を得ようとする心ではなく、損をしても常に正しい道を選んで下さい。 そうする時に、たとえ想像できなかった詭計や困難があったとしても、神様が避ける道を与えてすべての事を益として下さるのです。皆さんが正しい道だけを歩む時、敵である悪魔サタンは決して困難に陥らせることができません。

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朝の学び156 創世記23章  

 創世紀 23:1-9
サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。6 「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」

死んだ後に救われた魂はどうなるのか?

父なる神様はこの地に耕作を始めながら、すべての人々が皆救われるのではないことをあまりにもよく知っていました。それで死んだ後、救われた魂が行く所と救われない魂が行く所を区分しておきました。皆さんが天国と地獄の説教や書籍を通してご存知のように、霊の世界はあまりにも正確に分かれています。例えば、今救われた魂が肉の体を離れることになれば、二人の天使に導かれて上のよみに行くことになります。そこで3日間滞在し、霊の世界に適応する期間を持つことで、将来行くことになる待機場所での生活について教育も受けることになります。その後、パラダイスの端に設けられた待機場所に移り、そこで主の再臨の時まで過ごすことになるのです。 

ただ、新しいエルサレムに入る資格を持った人は、パラダイスの端の待機場所に留まるのではなく、すぐに新しいエルサレムに入ることになるのです。しかし、新しいエルサレムに行って将来自分が住むことになる家に入るのではなく、新しいエルサレムの中に用意された他の空間に住むことになります。ところが、このような過程は人間耕作が始まってから今まで同じだったわけではありません。つまり、アブラハムが信仰の父として立てられ、この地の人生を終えた後、上のよみをつかさどる前とその後、そしてイエス様がこの地に来て十字架を負って死んだ後、復活、昇天する前とその後それぞれの状況が違うのです。

アダムがこの地に降りてきて耕作を受けるようになった後、多くの人々が生まれて死ぬようになり、そうなれば死んだ後にその魂が行く所がなければならなかったので、神様はすでに人間耕作が始まってから、上のよみと下のよみに分かれて存在させ、救われなかった魂は下のよみに、救われた魂は上のよみに行くようにしました。それで救われた魂たちは上のよみに導かれ、そこでの秩序に従って暮らすようになりました。そうするうちに時が来て、アブラハムがこの地の人生を終えて上のよみをつかさどる使命を引き受けた後からはもちろん、以前と同じように救われた魂が上のよみに行くことになりますが、この時はアブラハムの胸に抱かれたと言うようになりました。

ルカ16:22によれば、イエス様が比喩を話されて「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」とおっしゃったことが見られます。つまり、アブラハム以前までは、救われた魂がそのまま上のよみに行くのですが、アブラハム以後は、救われた魂が上のよみに行き、アブラハムのふところに抱かれることになるのです。

ところが、イエス様が十字架を背負われた後は、また状況が少し変わることになります。 イエス様がこの地に来られ十字架で死なれ復活される以前に救われた魂は、ひとまず皆が上のよみで、アブラハムの主管の下で待機していました。そうするうちにイエス様が復活、昇天すると、上のよみにいた魂も一緒にパラダイスの端の待機場所に移されることになります。この時からは上のよみが救われた魂の待機場所ではなく、パラダイスの端の待機場所に行く前にしばらくとどまる場所と概念が変わりました。上のよみを経た魂たちは、パラダイスの待機場所に移って暮らすことになりますが、この時からはアブラハムのふところに抱かれたと言わず、主の胸に抱かれたと言うようになります。しかし、すべての救われた魂が主のふところに直接抱かれるわけではありません。

ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」という御言葉のように、すべての人と共に平和と聖めを追うことができなかった人々は、主に会うこともできません。まして、このような人々の魂が、どうして主の胸に直接抱かれることができるでしょうか?したがって、救われた魂の中で、パラダイスの待機場所に留まることになる魂は、直接主の胸に抱かれるのではありません。それでも、主の胸に抱かれたと表現するのは、主が復活、昇天した後からは、ただイエス·キリストによって救いに至ることであり、すべての救われた魂が主の主管の中に住むことになるという意味で、このように表現するのです。ただ、この時も新しいエルサレムに入ることができる人たちは、あらかじめ新しいエルサレムに行くことになるので、主の胸に抱かれたという言葉どおり、主にお会いして抱かれることもできるのです。

そして、最後の審判の後、各人の魂は自分が永遠に生きることになる場所に入ることになるのです。これは一度決まれば永遠に変わりがないですね。アブラハムはこのような霊的な奥義を悟っていたので、パラダイスに行くしかないサラの境遇を考えて、悲しみ、哀痛するしかなかったのです。

亡きサラのために埋葬地を得る為正しい道を歩むアブラハム

3-4節「それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。『私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。』」と言ったとあります。これまで「創世記講解」を通して見てきたように、アブラハムはたとえ異邦民族の中で暮らしていたとしても、常に彼らと平和を成していました。これは異邦民族がアブラハムと共にする神様を恐れたためであり、肉的にもアブラハムは強大な力と権勢を持っていたためです。それで周辺の国の王でもアブラハムにはむやみにできなかったことが見られます。ところが、アブラハムは自分にこのように力と権勢があり、周辺の異邦民族が自分をあえてどうすることもできない状況の中で、それによって心が高くなったり、他の人々を無視する気持ちは決してありませんでした。死んだサラのための埋葬地を得る過程を見れば、アブラハムが何事にもどれほど正確で、また正しい道を歩んだかが分かります。 

アブラハムは埋葬地を求めるにあたって、当時滞在していた土地のヘテ人に「私はあなたがたの中に居留している異国人です」と表現しています。もちろんアブラハムは、その地のヘテ人の人々が自分をむやみにできないということも、またいくらでも自分の力や権勢を持って、彼らにいかなることを要求することもできるということもよく知っていました。だから、最初から自分が望む土地を選んで、そこを取りたいと言うこともできたのです。しかし、アブラハムの心は、そのようではありませんでした。とても謙虚に自分を居留者で異国人であると語り、へりくだって相手の心をつかもうとする姿を見ることができます。

 

これに対し、ヘテ人が答える6節には「『ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。』」とあります。アブラハムのことを「ご主人。」と呼んで、欲しいところを選んで好きなように使えと言っていますね。彼らがアブラハムを「主人」と呼ぶということは、彼らの立場でアブラハムをどのような存在と見ていたのかがよく分かります。たとえアブラハムが彼らに「ここを下さい」と言ったとしても、ヘテ人の立場では喜んで聞いてあげなければならないほど、当時アブラハムは大きい権勢と力を持っていたということです。だから、このようなアブラハムの立場からすれば、ヘテ人がこのように申し出てくるのを見た時に、その心に少しでも貪欲や傲慢な心があったとすれば、すぐに自分が望むところを得ることもできたはずです。 

しかし、アブラハムはそうではありませんでした。むしろ、7-9節「そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、彼らに告げて言った。『死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。』」と述べています。彼らの前に身をかがめるほど、最大限の謙遜と礼儀を備えているだけでなく、自分が望むことを言うにあたっても、相手が「ただで差し上げる」と言っているにもかかわらず、それに見合うだけの十分な代価を払うと言っています。

このようなアブラハムの言葉と態度には、決して傲慢ではない謙遜な心とともに、肉の人の心をあまりにもよく知っているために出てくる善の知恵が含まれているという事です。たとえ今は「ただで差し上げる」と言っても、後で状況が変わり、歳月が経てばその心がいくらでも変わることもありうるということを知っているのです。だからアブラハムは重要な埋葬地を得るにあたって、後日いかなる紛争の余地も残さないようにするために、正確な価格を払って、その土地を買おうとしたのです。ところが、続くヘテ人の答えを見ると、肉の人の心がどのようなものなのかがすぐに分かります。アブラハムがこのような肉の人々をどのように抱いて事を成し遂げていくのかを次の時間に続けて見てみましょう。

結論


愛する皆さん、人々はよく自分が他人より権勢と力があり、自分が望む通りにできる立場にいるならば、簡単に指示して命令し、自分の思い通りに事を成し遂げようとします。さらに、心の傲慢な人は、相手が自分を認めて高めてくれるとかえって勢いが増して、もっと高くなろうとするようになります。しかし、アブラハムはそのような姿ではありませんでした。自分が持っている力と権勢なら、いくらでも望むものを得ることができ、それもただで得ることができたのですが、アブラハムの心には、自分の利益を求めたり、他人のものを貪る心、相手を無視する心などが全くなかったのです。たとえ時間と費用が少しかかっても正しい道を歩んで、相手の心を先につかもうとしたのです。「私もいくらでもそうできる」と思われるかもしれませんが、人の心の奥底に潜む悪の姿は、いざその状況になってみないと分かりません。他人に仕える立場にいる時は謙遜であるかのようであっても、自分が仕えられる立場に立つと本性の中にある悪の形が出てくるからです。

また、頭の立場にいる方なら、まだ霊に変化していない人の心もよく把握して、凡ての事に是々非々がないようにしなければなりません。ある仕えは喜びで受けてもいいですが、ある仕えは受けてはいけない場合もあります。これはただ皆さんが霊に入ってきて、相手の心を分別できてこそ可能な場合です。今日も聞いた言葉を通して、皆様の心を迅速に霊の心に築き上げ、主の胸に抱かれることができる皆様になられることを、主の御名でお祈りします。

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朝の学び155 創世記22章  

 創世紀 23:1-9
サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」ヘテ人たちはアブラハムに答えて言った。6 「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません。」そこでアブラハムは立って、その土地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをして、 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」

序論

今日は、創世記23章全体を本文として、アブラハムの知恵と彼の心について見ていきましょう。アブラハムは信仰の父として神様から認められる信仰と従順があっただけでなく、その心には悪が全くなかったので、上から来る善の知恵が臨み、周辺の多くの人々を抱くことができる広くて大きな心になることができました。新約に記録された八福、聖霊の九つの実、愛の章の言葉に照らしてみると、どれ一つ不足のない完全な姿のアブラハムだったのです。聖書を見ると、アブラハムには悪そのものを見ることができません。今日の御言葉を通して、アブラハムがどのようにしてすべての事に栄え、周辺のすべての人々とも和平できたのかを悟る貴重な時間になることを願います。

やっと救われてパラダイスに入ることになったサラ

1節「サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。」とありますが、175歳を生きたアブラハムに比べれば、サラは比較的早く人生を終えたと言えます。実際、人間耕作の歴史において、信仰の父という一つの手本として立てられるほど完全だったアブラハムの妻なら、サラもやはり優れた信仰の所有者になって当然でしょう。しかし、実際にはそうではありませんでした。

『創世記講解』を通してお聞きになった通り、サラは依然として肉の考えを捨てることができず、心から悪の形を捨てることができませんでした。霊的な信仰というよりは、アブラハムのそばでいつも見聞きしていたので、ただ知識的に知っている肉的な信仰に近かったのです。だから、肉的にはアブラハムといつも一緒にいましたが、霊的にはアブラハムの水準に合わせることができませんでした。しかし、アブラハムが、このようなサラを愛していないわけではありません。当然愛しただけでなく、サラも何とかして良い天国に一緒に入ることができることを切に願う気持ちでした。しかし、結果はそうではありませんでした。2節の御言葉を通して、このような事実を知ることができます。「サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。」とあります。 

アブラハムは神様と明らかに交わり、後の世についてもよく知っていました。人が死んだ後、永遠の裁きが待っていること、天国、地獄がどんな所なのか、また、自分の妻のサラが天国のどの場所に入ることもわかりました。それで、今日の本文のように、アブラハムは悲しみながら泣くしかなかったのです。 誰よりも長い歳月をこの地で一緒にし、色々な訓練の歳月をともに過ごした愛する妻であり、約束の種であるイサクの母だったので、アブラハムはこのようなサラが将来天国でも、永遠の栄光の中で共に暮らすことを願ったのです。ところが、結果がそうではなかったので、アブラハムは悲しみながら哀痛するしかありませんでした。

では、サラは死んだ後、どのような場所に行ったのでしょうか?その答えを得るために、ここでしばらく今までのサラの姿をもう一度振り返ってみます。神様が約束の子孫であるイサクに対する契約を下さった時に、サラはその言葉を聞いても信じられず、つい笑ってしまいました。アブラハムを通して多くの神様のはたらきを見て、誠実な神様を体験したにもかかわらず、心から完全に信じられなかったのです。神様の言葉に無条件に「アーメン」できる心ではなく、依然として肉の思いが働いて、自分の思いと合わなければ聞き従わないこともある姿でした。

そのため、アブラハムは、イサクを全焼のいけにえとして捧げに行く時も、サラに話すことができませんでした。いくら「これが神様の御心だ」と言っても反対することが明らかだったからです。だから、サラは歳月が経っても依然として肉の考えを捨てることができず、肉の方法を取っていくしかありませんでした。ハガルとイシュマエルを追い出すようにしたのも、すべてを神様に任せたのではなく、人の側で見るのに良い方法を取ったのでした。サラは息子のイサクを見るにも、彼を神様がくださった約束の子として見るよりは、ただ肉の母としての心で見ていたのです。だからこのようなサラが、息子のイサクを全焼のいけにえにするようにという神様のお言葉を直接聞いたとしても、決して従順することはできないのです。

これは結局、サラの心に悪があるからです。サラがハガルをどのように扱ったのかを見れば、その心にある悪の形を発見することができます。ねたみ、そねみ、自分の利益を求めようとする心、自分の心に合わなければ遠ざけ、さらに相手はどうなっても自分の好きなようにしようとする心など、その心にある様々な悪の形を発見することになります。ただ心に留めておく次元ではなく、自分の持つ権勢と立場でもって、心にある通りふるまう姿でした。もちろん当時は旧約時代であり、内住される聖霊の助けがないので、自ら心に割礼ができる時ではありませんでしたが、サラは夫のアブラハムを通して、善が何で愛が何なのか数えきれないほど見たはずです。

 

ゲラルの王アビメレクと周辺の異邦の民族に対するアブラハムの姿を見ながら、たとえ自分に力があって権勢があってもそれをむやみに乱用するのではなく、自分より低い人でも常に善と愛で理解し包容することが真理であることを見ました。それでも、サラはただ悪を心に留めておく次元ではなく、それを表に出して行う次元でした。だから信仰の二段階にも及ばない姿です。信仰の二段階にある人は、たとえまだ肉の働きを全て脱ぐことはできなかったとしても、真理が何かを聞いて知っているために、肉の働きを捨てるために努力する人であり、それで少しずつでも変化していく人です。ところが、サラは歳月が経っても変化したのではなく、依然としてその悪の形を心に持っていて、それを表にも表わす姿でした。さらに、サラはアブラハムという立派な信仰のモデルがすぐそばにいたにもかかわらず、心や行いが変化できなかったのです。

 

ルカ12:47-48によると、「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」とあります。この言葉に照らしてみると、サラは確かに主人の心を知っていながらも行わない場合と言え、神様から多くのものを受けた者であるにもかかわらず、神様が精算される時に差し出すものがない人と言えます。たとえ当時が旧約時代とはいえ、サラは相対的にあまりにも良い条件の中で、依然として肉に住み、心も行いも変化しなかったのです。だから、このようなサラが行ける場所はどこでしょうか?やっと救われたとしても、パラダイス以上の良い天国には入る資格がないのです。

サラがパラダイス行ったことに悲しんでいるアブラハム

信仰の父アブラハムの妻サラがやっと救われてパラダイスに行ったという事は、あまりにも驚くべきことで衝撃的なことです。しかし、聖書を調べてみると、サラがなぜパラダイスしか行けなかったのかがよく分かります。さばきは確かに御言葉通り行われるからです。この地でアブラハムの妻だったからといって、これ以上大目に見ることもなく、むしろアブラハムの妻だったにもかかわらず、その程度しかできなかったことが恥ずかしいのです。来世についてあまりにもよく知っているアブラハムが、普段どれだけ多くのことでサラを悟らせてあげていたのでしょうか?多くの教訓も与えただろうし、さまざまな悟りと神様の御心について教えてあげました。しかし、結局サラ自らが、その言葉と悟りを心から受けることができずに流してしまったため、今日の本文で見られるように、死んだ後もアブラハムの心をひどく痛めてしまったのです。

私もこのようなアブラハムの心情をよく感じるようになります。私は主のしもべや働き人、聖徒たち一人一人に接する時、肉の家族よりももっと気になります。さらに、長い間一緒にしながら神の国のために努力してきた方々なら、いつも感謝する気持ちであり、さらによく見ることになります。それでは、私が彼のように努力してくださった方々のためにしてあげられることは何でしょうか?本当に霊的な愛は、何とかしてその方々を必ず新しいエルサレムに導くことです。そのため、その方々が霊に入ってくることを心からもっと切実に祈ることであり、足りない姿がある時はもっと焦がれる心に変化することを祈ります。

さらに、各人の信仰の分量が分かるので、そのまま留まっていては、ややもするとパラダイスにすら入りにくいような方々のためには、涙で悲しみながら祈るしかありません。新しいエルサレムに必ず一緒に入らなければならない方々が、そうでない道に向かっているのを見ると、悲しみながら悲痛になるのです。このように多くの御力の働きを見て、どこでも聞くことができない霊の言葉を数え切れないほど聞いて、また聞いたにもかかわらず、今日の本文の「サラ」のようにその心と行いが変化せず、救われたとしても、やっとパラダイスぐらいしか行けない方々が決していてはならないでしょう。

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朝の学び154 創世記22章  

創世紀 22:20-24
これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。」ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら八人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。レウマというナホルのそばめもまた、テバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。

神の細やかさと時が至るまで忍耐するアブラハム

続く20-24節では、もう一度すべてのことをあらかじめ準備させ、一寸の誤差もなく摂理されたことを成し遂げる父なる神様の細やかさと、またすべてのことを心に主管されて準備していったアブラハムの姿を知ることができます。本文を見れば、「これらの出来事の後、アブラハムに次のことが伝えられた。『ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、次にケセデ、ハゾ、ピルダシュ、イデラフ、それにベトエルです。』ベトエルはリベカを生んだ。ミルカはこれら八人をアブラハムの兄弟ナホルに産んだのである。レウマというナホルのそばめもまた、テバフ、ガハム、タハシュ、マアカを産んだ。」とあります。

単純にアブラハムの弟であるナホルが8人の子供を産んだという内容のようですが、父なる神様がこの内容を記録させたのは、神様がどれほど正確な計画の中で、アブラハムと約束の子孫である彼の息子イサクを導いて行ったのかを教えてくださっています。

これはどういう意味でしょうか?創世記24:3-4によれば、アブラハムはもう時になって、息子イサクのために配偶者を求めようと、自分の家のすべての財産を管理している最年長のしもべを、自分の生まれ故郷に遣わします。「私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。それは神様の選民イスラエルが、決して異邦の女性を通して生まれてくることはできないからです。それでアブラハムは息子のイサクの妻を見つけようと、自分の生まれ故郷に行って見つけさせたのです。この時、神様の導きの中で会った女性が、まさにアブラハムの兄弟ナホルが生んだ息子ベトエルの娘リベカです。 

本文には、リベカという女性がどんな系図を通して生まれることになったかが説明されていますが、祖父のナホルはアブラハムと兄弟であり、祖母のミルカはアブラハムのもう一人の兄弟ハランの娘です。ミルカとロトとは兄妹の仲でもあります。だから、リベカはアブラハムの部族の中でも純粋な血統の人なのです。約束の子孫であるイサクの妻になって、純粋な血統を維持しなければならない女性が必要だったので、神様はこのようにアブラハムの周りの人の系図までも、純粋に受け継がれるように、あらかじめつかさどられたのです。神様は、まさにこのようなことをアブラハムに伝えられるようにして、アブラハムがあらかじめ心に働きかけられて、イサクの配偶者を備えるようにされたのです。いざ、イサクを結婚させる時になって、その時になって妻になる女性を探すのではなく、すでに生まれ故郷の便りを聞いて、そこの状況を把握していたし、その時になると心に働きかけられて、自分の最年長のしもべを遣わしたのでした。

このようにアブラハムは、あることを成し遂げるにあたって、即興的に処理していったのではありません。神様がつかさどられるとおりに聞き従って備えたし、時が来るまで心に留めて耐えしのんだのです。イサクが妻をめとるのも、神様がつかさどられる最も適当な時点を選んだのです。

創世記25:20によれば、イサクがリベカを妻にしたのが彼の年齢40歳でしたが、もしアブラハムが人の考えを働かせて、老年に得た息子イサクを通して一日も早く跡取りを見たければ、イサクをあえて40歳まで放っておかなかったでしょう。早く孫に会うために、早く結婚させたはずだということです。焦る心で急いで結婚させようとしたでしょうし、そうしているうちに、人から見て良いと思う女性を選んで結婚させたかもしれません。しかし、アブラハムは、すべてを決して人の考えの中で成し遂げたのではありません。神様がつかさどられる最も適当な時点を待っていたのであり、時になると、心につかさどられた通りに、自分の生まれ故郷に行って女性を求めたのです。 

このようにアブラハムは、いつも神様の御心がどこにあるのかを探しました。私たちはこのようなアブラハムの姿を通して、すべてを父なる神様に任せるということが何かをよく悟らなければなりません。ある人たちは「神様にすべてを任せます」と言いながら、自分は何もせずに待つことが、神様に任せることだと勘違いしています。人の側である計画を立てないようにと言うので、神様がおっしゃってくれなければ、ただじっとしていなければならないと考えたりもします。しかし、神様は人を通して働きを成し遂げられるので、神様の道具として使われる人々には、あらかじめ心につかさどられて準備できるようにしてくださるという事です。人の側で自分が先に進んで考えの中で計画して進めていくのではなく、父なる神様がつかさどってくださるということです。

アブラハムも息子のイサクの妻をさがそうとした時、自分の考えの中でしたのではありません。神様はあらかじめ、かなり前からこの時のために周りの状況を準備して下さり、アブラハムの心にも働きかけて準備させたのです。それでアブラハムに、異邦民族の中で生きながらも、自分の故郷とそこからの便りを聞くようにすることで、心に抱いて祈らせたのであり、最も信じられるしもべを送って神様の摂理を見出すようにしたのです。

神様の正確な御心と摂理を知って準備する本教会

本教会が、世界宣教を行い、大聖殿を建築するのも同じです。「これが父なる神様の御心だから、私たちは待っていれば良いだろう。」と考えるならば、これは誤った考えです。私たちの人の側でどのように世界宣教を行い、どのように大聖殿を建築するか、肉的な考えと方法を働かせて成し遂げるわけではありませんが、常に父なる神様の御心がどこにあるのかを探り求め、その御心を成し遂げるために、最善の努力を尽くさなければならないのです。ここには祈りや、物質、直接その働きの為に実務を担う人も必要です。唯すべてのことが、父なる神様の正確な御心を知って、ふさわしい時期と方法を取らなければなりません。急いでもいけないことだし、その機会を逃してもいけません。

したがって、神様の働きを成し遂げる時には、すべてを神様に任せるからといって、神様がすべて成し遂げられることを待つのではありません。まずは、父なる神様の正確な御心と摂理を知らなければならず、次は、それを心に抱いて祈ることで、正確に主管を受けていかなければならず、最後には人の側でできることは、最善を尽くさなければならないということです。アブラハムがイサクの妻を故郷から求めることができたのも、まずは彼が父なる神様の御心を知って、それを心に抱いて祈って働きかけられ、このようなアブラハムに代わって、ただ従うことができたしもべがいたからです。次の時間には、アブラハムの妻サラが果たして天国に行ったのか、行ったとしたらどの場所に行ったのかについて見てみます。


結論

愛する皆さん、人の間でも誰かを愛すると、相手の立場になって相手中心に考えるようになるのを見ます。もしどこかに食事に行っても、自分が食べたいものを主張するのではなく、「相手は何が好きだろうか? 何を食べたがるだろうか? 」これを先に考えるようになります。 また、相手があることを言った時に、「なぜそのことを言ったのか?」その意中を悟って、その心に合わせようと努力します。それだけでなく、愛する人の言葉は何とか信じてあげようとし、相手の望むことは何かと聞いてあげようとします。ここにもう一つ、こうした姿に変わりはないとしたら、どんなにいいでしょうか。

では、皆さんの愛はどれほど真実でしょうか?人の間でもこうであったとすれば、まして父なる神様との間では、どの様でなければなりませんか?私たちはアブラハムの姿を通して、神様を愛し恐れ敬うことが何かを見ました。すべてを神様の御心に合わせて、ただ神様中心に行っていく姿、神様のお言葉にいかなる考えも働かせず、完全に信じて従順する姿、そしてこのような姿が変わっていませんでした。皆さんも、まさに父なる神様との間にこのような愛と信頼の関係を築いていかれ、アブラハムの神様がまさに皆様の神様になることを神様のお名前で祈ります。
 

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朝の学び153 創世記22章  

創世紀 22:13-19
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。

序論

愛する皆さん、ひとり子のイサクまでも惜しまず、喜んで父なる神様の前に捧げることができた、アブラハムの心の香りと行いを受けた神様は、主の使いを送って、アブラハムがイサクをほふろうとしたことを止めさせます。そして、アブラハムが神様を愛し、畏れ敬うことを完全に認めてくださいます。では、これで神様がアブラハムに与えた試練が全て終わったのでしょうか?アブラハムは、息子のイサクを連れて山を下って、家に帰ればいいのでしょうか?そうではありません。アブラハムとしては、すでに神様の前に全焼のいけにえを捧げることに決めたことだったので、たとえ息子のイサクを全焼のいけにえとして捧げることはないとしても、一度捧げることに決めた全焼のいけにえは必ず捧げなければならなかったのです。

父なる神様は主の使いを送って、アブラハムに「あなたの手を、その子に下してはならない。」と言ったのであって、「全焼のいけにえを捧げなくてもよい。」と言われたのではなかったのです。そのため、アブラハムはイサクに手を下しませんでしたが、何か代わりにする全焼のいけにえがなければならないということが分かりました。 それで、そのことが心に働きかけられ、目を上げて見たのです。神様がアブラハムの心をつかさどられ、彼が目を上げて周りを見回した時、神様が備えておかれた雄羊を発見し、それで息子に代わって全焼のいけにえとして捧げることができました。

イサクの代わりに雄羊を供え物としたアブラハム

13-14節「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」とあります。 私たちはここで二つのことを悟ることができます。

第一に、神様の前で一度決めたことは、決して変えてはいけないという事です。アブラハムは、神様が自分に何を要求しているのかを正確に把握しました。「イサクに手を下してはならない。」と言われたのであって、「全焼のいけにえを捧げなくてもよい」と言われたのではありませんでした。 この時、もしアブラハムが肉の考えを働かせたとすれば、「イサクを全焼のいけにえとして捧げるようにとおっしゃったが、もうイサクに手を下してはならないとおっしゃるので、それなら全焼のいけにえを捧げなくても良いのだろうか。」と考えたはずです。今日も、多くの人々がこのように肉の考えを働かせるので、誤った結果を得ることになります。 

 

例えば、皆さんが心に働きかけられて、ある神様の働きを成し遂げるのに物質を蒔くことを心に決めました。たとえば、海外の聖会のために蒔くことにしていたのですが、いろいろな事情で先延ばしにしていたら、海外の聖会がすでに終わってしまったのです。それではこの時、皆さんはどんな気持ちですか? 「もう聖会も過ぎてしまったから、次の機会に蒔こう」と思いながらその考えを飲み干しますか?

または、皆さんがある行事の進行のために、全体の必要な財政のいくらかを負担することに決めたとします。 ところが、色々な所から賛助が入ってきて、行事に必要な財政が満ちて溢れるようになったのです。 最初は財政が足りないと思って「私がこの程度は果たさなければならない」と思ったのですが、今は財政が溢れることになり、最初に定めたより少なく果たしても大丈夫になったのです。 それではこの時、皆さんはどうしますか? 「感謝します」と言って、足りないものだけを果たそうとしますか? すでに自分の心に神様の前に捧げることに決めたことや、神様の働きのために捧げることに決めたら、それは必ず実行されなければなりません。途中で状況がどのように変わったとしても、最初に自分の心に決めた通りに父なる神様の前で真実に行えば良いのです。

第二に、肉の考えを働かせず、神様が言われる正確な意図を把握しなければなりません。神様が「全焼のいけにえ、そのものを捧げるな。」と言われたのか、それとも「イサクに手をくだしてはならない。」と言われたのか、アブラハムは正確に神様の意図を把握しました。

例えば、私がどこかを見て回っていて、「これがなぜここにあるのですか?」と尋ねました。 すると、周りにいた人が自分で判断し「あ、これをここに片付けろということなんだ」と言って、すぐに片付けてしまうのです。 むしろ私がそのように尋ねた正確な意図を調べてから処理すれば良かったのに、自分勝手に考えを働かせたのです。 もちろん時には私が心にある意中を相手がそれに気づくように遠回しに話す場合もあります。 しかし、多くの場合、私が何かを言った時、その意中を把握しようとするよりは、それを自分の考えの中で受けて処理してしまう場合を見ることになります。

「アドナイ・イルエ」と「主の山」の意味

14節「そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」とありますが、ここで「アドナイ・イルエ」という言葉は「主が備えてくださる」という意味で、もう少し簡単に解くと「神様が聖徒の必要なものをいつも調べて、あらかじめ備えておかれる」という意味です。それでは皆さんの人生の中で、このようなアドナイ・イルエの体験をしていますか? マタイ6:31-33によれば「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とおっしゃいました。

皆さんもまだアブラハムのような信仰ではないとしても、心を尽くして神様を愛し、畏れ敬い、神様の国と義のために努力していけば、神様は皆さんの人生の責任を負ってくださいます。 もし唇では「愛している」と告白しながらも、神様の前に小さなものを一つ捧げることも惜しんで、自分の利益だけを先に考える人ならば、神様も責任を負うことはできません。したがって、皆さんは「神様が一番先です。神様の国が一番優先です。」という、祝福された聖徒たちになって、アドナイ・イルエの祝福がいつも共にありますように、主のお名前によって祈ります。

次に「主の山」という言葉は、父なる神様の摂理の中で、定められた通りにすべてが備えられてなされたという意味です。アブラハムに向けられた計画も、またアブラハムを訓練し、ついに一人子のイサクを捧げるという試練を通して、彼を信仰の父として完全に立てられることも、父なる神様が、すでに決められた御心と摂理の中で行われているということです。このように神様が定められた公義の法則の中で、神様の摂理の中で行われるので、「主の山の上には備えがある。」と言うのです。神様が決めた通り、すべてが準備され行われたという意味です。だから、神様のこのような細やかな導きを感じるアブラハムは、神様が備えられた雄羊をもって全焼のいけにえを捧げる時に、その心はどうだったのでしょうか? あふれる感謝と喜びの中で、感動の全焼のいけにえを捧げることができました。

例えば、皆さんがとても大きな訓練を通過しましたが、父なる神様はあらかじめ皆さんが通過することを知って、皆さんのために驚くべき祝福を準備しておいたのです。皆さんが訓練を通過してからそれを見つけた時、皆さんの気持ちはどうですか? 「父なる神様が私のすべてを受けてくださったのだ。私のためにこのようなものを備えてくださったのだ。」と感激しませんか? アブラハムがたとえイサクを全焼のいけにえとして捧げることにおいて、少しもためらったりしなかったとしても、また悩みもなかったとしても、それでも、あまりにも愛していた息子を死の直前で取り戻した気持ちは何とも表現できないでしょう。 さらに、神様が自分のすべての心と行いをお受けになり、代わりに全焼のいけにえとして捧げる雄羊まで準備してくださったので、その瞬間、アブラハムは感激するしかなかったのです。

祝福の約束を受けたアブラハム

祝福の試練を通過したアブラハムに、主の使いの唇を通して神様がくださる祝福の約束が出てきます。 「『これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」

続く18節後半節に、アブラハムが、このような祝福を受けることができた理由が、一言で説明されています。 まさに「『あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」とあります。祝福され、答えられる最も確実で簡単な方法は、神様の御言葉に聞き従うことです。私たちは今までアブラハムが、神様の前にひとり子のイサクをどんな心と行いで捧げたのかを調べました。 このように完全なアブラハムの信仰と従順、その行いを、父なる神様は非常に喜ばれました。 その理由は、罪人たちのためにひとり子を、和解の供え物としてさし出してくださった父なる神様の心に、とても似ているということです。

もちろん、根本的に神様と一つであり、何の欠点もないイエス様を、罪人の手によって十字架に死なせるまで犠牲として出されたことと、アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして捧げることとは次元が違います。しかし、一次元の公義の中で生きていくこの地で、アブラハムほどの信頼と愛を見せるということは決して容易なことではないのです。 神様をあまりにも愛しているので、自分の最も貴重なものでも喜んで捧げる心が、私たち人の子らを愛し、ひとり子まで渡して下さった父なる神様の愛の心と、とてもよく似ていることが分かります。 このようなアブラハムだったので、神様は彼を信仰の父としてお立てになり、その名は祝福となるようにされたのです。

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朝の学び152 創世記22章  

創世紀 22:7-12
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

神の言葉にひたすら従うアブラハムとイサク

皆さん、お互いに完全な信頼関係がなされれば、あえて多くの対話がなくてもお互いの心を感じることになります。「私が今なぜこのようなことを言って、私がなぜ今このような行動をするのか」等をいちいち説明しなくても、相手が誤解したり自分の考えで判断しないだけでなく、私の立場と私の心になって理解してくれることができるからです。ですから、周りにこんな人がいたら、お互いにどれほど平安で幸せになれるでしょうか。 もちろん、これはあくまでも皆さんが霊に入ったときのことです。肉に留まる人たちは、いくらお互いが親しくなり信頼しているようでも、実際に自分の利益に合わない状況や自分の考えに合わないことに出会うと、結局移り変わってしまうからです。

ところがアブラハムは、まさに父なる神様とも霊的な信頼関係が積まれていたのであり、息子のイサクとも霊的な信頼関係が築かれていたことが分かります。自分の利益や、自分の考えに合うかを先に考えたのではなく、ただ父なる神様の御心に従ったのであり、イサクも父親であるアブラハムの言葉を全面的に信じて従ったという事です。皆さん、アブラハムは父なる神様から直接御心を示され、又これまで数多くの神様との交わりがありました。だから、たとえアブラハムが考えを働かせて自分の思いに合わないことがあるとしても、これまでの体験と神様から受けた確実な言葉があるので、結局従ったでしょう。

しかし、イサクの場合は違います。イサクは父なる神様から直接何かを言われたわけではありません。もちろん、父親のアブラハムのそばで、いつも神様の生きておられることと、その方の誠実さを見て聞いて体験したイサクでしたが、今は自分の命がかかっている状況です。このような状況でイサクはただアブラハムから、「あなたを全焼のいけにえとして捧げることが神様の御心だ」と聞いただけなのです。そして、すぐにでも自分の命を渡さなければならない状況なのです。それなのに、イサクは全く父の言葉を疑わず、その状況を避けようともしませんでした。何かの言い訳をしようともしませんでした。

 

それでは、皆さんが一度イサクの立場になってみてください。果たして、イサクのような従順の姿が出てくるのでしょうか? 私がもし皆さんに「これが神様の御心です。」と言った時、それが皆さんの考えと合わない時、皆さんはどうしますか?もちろん今は皆さんのほとんどが、"アーメン"と従順しようとしているでしょうが、今の姿があるまでには数多くの訓練が必要だったという事です。

皆さんの信仰が今のようではなかった以前は、祝福の道が目の前にあり、正道を歩む道を教えても従順でない姿を見ながら、私一人で切なく涙を流さなければならない時が多かったのです。皆さんにイサクのように「これが神様の御心だ」という一言に、そのまま服従してくれる信仰だけがあったとすれば、今とは比較できないほど大きくて驚くべき神様の国を成したはずです。今からでも、皆さんがアブラハムのような信仰、またイサクのような信仰に変化することで、これからは父なる神様が下さるいかなるお言葉にも、ただ従順だけが出てくることを願います。

急いで主の使いを送ってアブラハムを呼ぶ神様

アブラハムとイサクのふたりが父なる神様の御心に従い、喜んでイサクを全焼のいけにえとして捧げようとした瞬間、11節「そのとき、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。』と仰せられた。彼は答えた。『はい。ここにおります。』」とあります。すでにアブラハムの心と行い、すべてを美しい香りで受けられた神様は、急いで使いを送ってアブラハムを呼びました。主の使いが「アブラハム。アブラハム。」と呼ぶことができたのは、送られた主の使いがどのような立場だったかを物語っています。 もちろん、父なる神様から送られた使いは、その瞬間、父なる神様の名前に代わるものですが、アブラハムをこのように呼ぶことができたということは、普通の天使や天使長級ではないことが分かります。 

父なる神様の心をよく知り、その威厳と尊貴の中で、父なる神様の名前に代わることができる最上級のみ使いの頭が来たのです。天使たちの間にも明確な序列があって、それぞれの級が正確に分かれていますが、最上級の天使長といえばガブリエルやミカエル天使長級と言えますね。この二人の天使長以外にも、最上級に属する天使長がいく人かいらっしゃいますが、父なる神様はまさにその中の一人を送って、アブラハムに父なる神様の御心を伝えるようにしたのです。

これに対しアブラハムは「はい。ここにおります。」と答えましたが、これがもしかして、この時を待っていたかのように答えたと思われますか?そうではなかったのです。アブラハムは、神様が自分に下した命令を撤回してくださることを願う気持ちが少しもなかったのです。むしろアブラハムは少しのためらいもなく、刀でイサクをほふろうとしたので、急ぐ方はむしろ主の使いだったのです。それで「アブラハム。アブラハム。」と言って急いで2回もアブラハムを呼んだのです。

今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった

このようにアブラハムは最後の瞬間まで、彼の完全な信仰と従順を示し、これを通して神様がくださった試練を完全に通過した時、神様は御使いの唇を通しておっしゃいました。12節「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」とおっしゃいます。アブラハムの神様に対する愛と信頼、そして恐れる心を完全に認めてくださる場面です。では、父なる神様はここまでアブラハムを試す前には、アブラハムが神様を恐れることを知らなかったのでしょうか?もちろん、予知予定なさる神様は、アブラハムがどのように試練を通り抜けるのかも知り、神様を恐れる彼の心も知っていました。

それでも、このように試練という手順を踏ませたのは、これから彼に与えられるいかなる祝福も、また彼に与えられる信仰の父という地位が、全く訴えられないようにするためのものです。敵である悪魔サタンの前でも、信仰の父としてのアブラハムの信仰が明確に証明されるようにされたのです。したがって本文に父なる神様が、「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」とおっしゃったことは、人間耕作の歴史の中で最上の実といえるアブラハムを得た喜びの表現であり、彼を認めて下さるという最上級の表現です。 一人子のイサクを捧げる試練までも完全に通過したアブラハムに、どのような祝福が与えられるかを次の時間に引き続き見ていくことにします。

 

結論

皆さん、一人息子を全焼のいけにえとして捧げるということは、実際に現実に近づくと決して容易なことではありません。今日、神様を信じるという人は多いですが、どれほど多くの人々が神様の前に自分の小さなものを一つ捧げることをも、もったいないと思っているのでしょうか。物質を惜しんで、したがって十分の一も捧げず、時間がもったいないと言って、神様の前に献身することを敬遠する人もいます。やっと日曜礼拝に出席することで満足しており、それ以外の時間自ら進んで使命を担い、あるいは奉仕する姿はあまり見られません。家族に対しては、肉的な情を絶やさないのですが、神様の前には完全に捧げることができない場合もあります。神様の働きよりは自分の働きが先で、神様の国の利益よりは自分の利益が常に先んじている人もいます。だから神様がこのような人々を見る時、どうして「あなたはわたしを愛している。」と認め、「あなたはわたしを恐れている。」と認められるでしょうか?神様を愛し恐れるならば、そこには必ず行いと真実さが伴うようになり、証拠として出てくるようになっています。

 ところで、神様を愛して恐れるという最も明らかな証拠が、まさに聖潔になることです。ヨハネの手紙第一5:3前半節「神を愛するとは、神の命令を守ることです。」とあり、箴言8:13前半節には「主を恐れることは悪を憎むことである。」とあります。したがって、私たちが神様を愛し恐れの念で神様の戒めを守り、悪を憎むようになれば当然聖潔にならざるを得ないのです。このように聖潔になって肉の考えが徹底的に破られ、自分の枠組みと理論と知識が剥がれてこそ、神様の言葉に完全な従順が出てくることができます。そして、このように神様を愛し恐れる人々に神様も愛している証拠を表します。

今日の本文で、アブラハムは結局、イサクを殺して全焼のいけにえとして捧げることはなかったのですが、神様はアブラハムの行いを完全なものとして受け入れてくださいました。アブラハムの心の中心を受けた神様は、イサクを全焼のいけにえとして捧げたのと同じように受け取られたのです。すべての場合がこのようなわけではありませんが、皆さんの心を神様が認めてくだされば、皆さんが心に決めて抱くだけでも神様はすでにその香りを受けとられます。

例えば、ある方は急な問題について、決心の祈りや断食に入ろうとする時にすぐに回答をくださる場合があります。もちろん、急な場合でなければ、状況によっては決心の祈りが終わった後や断食を終えた後に答を与えることもできますが、突然急な問題について祈りや断食をすることになれば、父なる神様も急に答をくださるのです。なぜなら、あらかじめ回答をしても、その中心が決して変改したり途中でやめる人ではないことを知っているからです。すでに神様の前にその中心を認められたので、完全に神様に愛され保証される次元に入ってくれば、心に抱くだけでも答が来るということです。

皆さんもこのように、心に抱くだけで回答してもらえるような段階に入りたいですか? それなら、一生懸命に神様を愛し、恐れの念を抱いてください。私の側でだけそうするからといってできるのではなく、父の神様の側でも認めてくださる確実な証拠を示して見せるべきです。 それは神様の言う通りに生きればいいのですが、それをなぜそんなに難しがる方が多いのですか?皆さんが従順でなければならないという気持ちさえあれば、「わたしの戒めは重いものではない」という言葉のように、神様の言葉通りに生きることが決して重くて大変で難しいものではありません。 アブラハムにとって一人息子のイサクを捧げることが決して大変で難しいことではなかったようにです。皆さんもこのように神様を愛して恐れる次元に迅速に入ってきて、皆が父なる神様から「あなたが神を恐れることがよくわかった。」という認定を受けられますように、主のお名前でお祈りいたします。

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朝の学び151 創世記22章  

創世紀 22:7-12
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

序論

アブラハムは「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」という父なる神様の言葉に、いかなる考えも働かせずに、直ちに従順の行いが出てきたことが見られます。それもお言葉に従うために朝早く起きて、全焼のいけにえに使う木まであらかじめ準備し、神様が指示する土地に旅立ちました。アブラハムは三日の道のりを行った後、実際にイサクを全焼のいけにえとしてささげなければならない瞬間が近づくと、家から一緒に同行した二人の若い者を残したまま、イサクと二人だけで全焼のいけにえをささげる場所に上ります。

前回、アブラハムがこのようにした理由について説明しました。それは、霊のことには肉の人が一緒にできないからです。肉の人は自分が持っている肉の考えと知識の限界の中に留まるので、その限界を越えることについては理解できません。ですから、肉の人と霊の働きを一緒にすると、肉の人は肉的な考えと枠の限界の中で働きを成し遂げようとするので、むしろ霊の働きを成し遂げる上で邪魔になりかねないという事です。

それでアブラハムは、イサクを全焼のいけにえとしてささげるために家を出る時にも、妻のサラには一言の相談もせず、それも朝早く起きて去ったことを見ることができます。もしサラに本当のことを話していたら、果たしてサラが素直にアブラハムの言葉に従ったでしょうか?依然として肉の考えと悪の形を捨てることができなかったサラは、明らかにアブラハムがしようとすることを妨害してしまったでしょう。だから、これをあまりにもよく知っているアブラハムは、サラに知らせずに去るしかなかったのです。

また、イサクを全焼のいけにえとして捧げようとした瞬間に、ふたりの若者を全焼のいけにえをささげる場所まで連れて行ったとすれば、二人の若者もアブラハムの行動を理解することができなかったでしょう。「どうして自分の息子を殺して、獣のように切り分けて、全焼のいけにえを捧げようとするのか」と考えて、「うちのご主人様がちょっとおかしくなったようだ」と判断することになります。 そうすると、アブラハムがイサクを全焼のいけにえとして捧げようとすることを、妨害することもあるのです。そのため、アブラハムはふたりの若者を残したまま、イサクとふたりだけで全焼のいけにえを捧げる場所に行くしかありませんでした。

 全焼のいけにえの子羊は、神ご自身が備えてくださる

本文の7節を見ると、イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「『お父さん。』すると彼は、『何だ。イサク。』と答えた。イサクは尋ねた。『火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。』」イサク自身も今のところ、全焼のいけにえに使う供え物が、まさに自分自身だという事について知らなかったことが分かります。全焼のいけにえのために使う火とたきぎはあるが、いざ全焼のいけにえに使う子羊がいないことを不思議に思ったイサクは、アブラハムに尋ねます。「『火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか?』」と言ったのです。 するとアブラハムは「『イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』」と答えます。アブラハムがこのように言ったのは、イサクに真実を隠そうとしたのではなく、まさにすべてを父なる神様に任せる姿です。

 

イサクは、父親が自分を縛って全焼のいけにえにしようとした時、いかなる抵抗もしませんでした。父がどんな行動をしても、喜んで従う気持ちになっていたのです。そのためアブラハムは、このような心を持ったイサクにあえて状況を隠す必要がなく、イサクは自分が全焼のいけにえとして捧げられることを知っても、抵抗しないということを知っていました。しかし、同じ言葉でも「全焼のいけにえとしてささげる供え物は、まさにあなただ。」と話すことと「全焼のいけにえとしてささげる子羊は神様ご自身が備えてくださるのだ。」と話すこととは、その言葉から漂う善良さが全く違います。 同じ状況でもその心にどれほど善があって美しいのかによって言葉が変わってきます。 

これがどういう意味なのか、ダニエルの場合を通して説明してみます。ダニエル6章を見ると、ダニエルが仕えていたダリヨス王は、自分がそれを望んだわけではありませんでしたが、結局、やむを得なくなった状況で、ダニエルを獅子の穴に投げ入れなければなりませんでした。 しかし、ダニエル6:18「こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。」と言うほど、ダニエルを心の中心から心配しました。そして翌日の明け方に起きて、急いで獅子の穴の所に行って、悲しく大声を張り上げダニエルに呼びかけ「『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』」と尋ねます。

この時ダニエルは何と答えましたか? まず、皆さんならどのようにお答えしますか? 皆さんが今、ダニエルの立場です。 そうするとしたら、皆さんはどう答えますか?もし心が善良でない人だったら、まず出てくる言葉が、「なぜ罪の無い私にこのように行ったのか、私が王のためにどれほど忠誠を尽くしたのか、どうして私をこのようなところに入れたのですか? 私の体が一つも傷んでいないのを見てください。これは私が無罪だという証拠ではないですか? もう私の無罪が証明されたので、私の無念を晴らしてください。」と言って、先に寂しさと感情混じりの言葉が出たはずです。

しかし、ダニエルはそうではありませんでした。ダニエルはまず王に「『王さま。永遠に生きられますように。』」と言います。王がたとえ自分を獅子の穴に入れるよう命令したことではあったが、それでも自分は王にいかなる感情や寂しさもなく、依然として「私は王に忠誠している臣下です」という意味がこの告白には含まれているのです。その後「『私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』」と告白します。この告白もやはり自分の悔しさを主張したり、残念な感情を表に出そうとする言葉ではなかったのです。 自分を無念に陥れた人々に対する報復を望むという心もありませんでした。だから、このような告白を聞く王も、ダニエルの善良で美しい心に感動を受けるしかないのです。このように同じ状況で話をしても、その心がどれほど善良で美しいかによって、出てくる告白は全く変わるという事です。

それでは皆さんの唇はどうですか? もしかして、寂しさ、悔しさ、不平、不満、イライラ、憎しみなど、いまだにこのような感情混じりの言葉が出てくるのでしょうか?皆さんはいつも自分の唇を点検して、エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」という言葉のように、常に相手に徳を立てて恵みを与える善良な言葉だけを出す唇になって下さい。しかし、結局唇から出るものは根本的に心から出るものなので、善良な唇になるためには、何よりも善良な心にならなければならないという事です。心に善が臨まなければ、善良な言葉を言いたくても思い通りにならず、極限状況では本性にある悪の形が出てくるようになります。しかし、アブラハムはこのように一言にも善良な心が込められていたのです。

ところがアブラハムが「『神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。』」と告白したことが、もしイサクの代わりに他の全焼のいけにえが備えられているだろうと思ったり、そうなることを願ったりして、このように告白したのではないことを知らなければなりません。 アブラハムは、すべてが父なる神のみこころの中にあり、父なる神の手の中にあり、神が導いていかれることを知って、信じたので、このような心を込めて告白をしたのです。

神の言葉にひたすら従うアブラハムとイサク

本文9-10節によれば、全焼のいけにえをささげる場所に到着したアブラハムは、少しもためらわず、イサクを全焼のいけにえとしてささげるための手順を進めていきます。「ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。」とあります。実際にイサクを捧げなければならない瞬間が近づいた時、アブラハムは少しも情にひかれて、心に少しの動揺もあったわけではなく「私の息子をどうして殺すことができるのか!」と言って、悲しく泣いたり嘆いたりしたわけでもありません。少しの後悔や躊躇もなく、刀を差し出してイサクをほふろうとする最後の瞬間まで、少しの考えも働かせなかったことが分かります。 終始一貫して揺れ動くことなく、ただ父なる神様のみ言葉通りに従っていったのです。

肉の人が見れば「父親としての情もなく、子供を愛する心もないようだ」と思うかもしれませんが、これがまさに霊の人の姿であり、心から父なる神様を第一に愛する人の姿です。「これが父なる神様の御心だ」と知っていたら、どんな状況、どんな環境でも変わらず心に決めたことを成し遂げるのが霊です。「一生懸命やってみようとしましたが、途中でこんなことがあってできませんでした。」と言うとか「もう一度考えてみたら、こうした方が良いと思いました。」という理由や言い訳がないということです。

詩篇15:4後半節に「主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。」と言われた通り、一度父なる神様の前に定めた心は、たとえそれによって日が経過したとしても守らなければなりません。だからといって、「一度定めたことだから仕方ない」という心で、いやいやながら行うのは完全な従順ではありません。アブラハムはイサクを全焼のいけにえとして捧げることにおいて、最後の瞬間まで心に喜びと感謝と平安があり、少しの肉の考えも働かせませんでした。うわべだけ平安なふりをしたのではなく、心から平安であり、喜びと感謝を失わなかったのです。

ところが、自分自身が全焼のいけにえとして捧げられるということを知ったイサクも、従順の人だったことが分かります。アブラハムは息子のイサクに多くを説明したのではありません。「なぜ、イサクあなたを全焼のいけにえとして捧げなければならないのか」と、イサクにどんな説明もしないで、ひたすら「これが神様のみこころだ」とだけ教えたのです。それでも、イサクは何の抵抗や反対もしないで、素直に父の言うとおりに従ったのです。自分の生命を渡さなければならない状況で、イサクがこのように見せた行動は、イサクがそれだけ神様を信じ、父のアブラハムも信じたという証拠です。

イサクが普段見てきた父のアブラハムは、いつも父なる神様の御心を明らかに知っていて、ただその御心通りに行ってきた父親だったので、そのような父親がしようとすることならば、それが明らかに父なる神様の御心だということに対して、心から信じて確信をしたということです。もしそのような確信と信頼がなかったとすれば、いくら父の思いでも素直に従うのはやさしくはなかったでしょう。これはアブラハムが息子のイサクからどれほど信頼されていたのか、端的に伝えてくれる場面です。つまり、アブラハムは神とはもちろん、息子のイサクとも霊的な信頼関係が積まれていた、ということがわかります。(つづく)

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朝の学び150 創世記22章  

創 22:4-8
三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

二人の若者を残して、イサクと一緒に山に登るアブラハム

続く4-6節「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。』と言った。アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」とあります。ここでアブラハムが目を上げてそこを遠く眺めたということは、彼がイサクを全焼のいけにえとして捧げる前に、少しでも躊躇する姿ではなく、父なる神様の言葉を完全に成し遂げるための決然とした意志と誓いが込められているのです。また、父なる神様の言葉に完全に従うための知恵も含まれていました。それは一緒に連れて来た二人の若い者は残したまま、イサクだけを連れていけにえを捧げる所に行ったという事です。

では、このようにすることがなぜ知恵なのでしょうか?例えば、アブラハムがいけにえを捧げる所まで、ふたりの若い者を一緒に連れて行ったと考えてみてください。アブラハムが実際にイサクを捕まえて全焼のいけにえとして捧げようとした時、おそらくこのふたりの若い者は、「ご主人様が少しおかしくなったようだ」と言って、アブラハムの行動を止めようとしたでしょう。主人であるアブラハムの行動が到底理解できないので、結局自分たちの考えの中でアブラハムがすることを妨害してしまうのです。アブラハムが、ふたりの若い者に「これが神様の御心だ」と言っても、彼らの考えでは、それが到底理解できなかったはずです。しかもひとり子のイサクで、自分たちが愛する主人です。 これを縛っておいて、薪の上に獣のようにばらばらにしていけにえにするということが、ふたりの若者は理解できますか?ふたりの若者は、アブラハムの信仰の行いに共に参加できる霊の水準ではなかったので、アブラハムは神の御心を成すにあたって、彼等を連れて行くことができなかったのです。

私たちはこの場面を通して霊の働きを成し遂げるにあたって、肉の人は決して一緒にできないという事をもう一度悟らなければなりません。例えば神様の働きを成し遂げるにあたって、肉の人は「人が多ければ、それだけ神様の働きももっとよく行われるだろう」と思いますが、霊的にはそうではありません。人の多さや少なさが問題ではなく、果たしてその中に霊の人がどれだけいるかが重要です。神様の働きを成し遂げるにあたって、人が多いとしても、その中に肉の人がたくさんいれば、むしろ神様の働きはもっと遅くなります。肉の人々は結局、肉の考えを働かせるので、霊のことを理解することもできないし、自分の考えの中で肉の方法を探すため、霊の方法で成し遂げていくのに邪魔になるだけです。完全な従順も出てこないだろうし、肉の人々に神様の意思と方法を教えても、結局は自分が見て良いように行っていくからです。それで神様は働きを成し遂げるにあたって、神様のみ言葉にただ従うことができる霊の人々を探すのです。

士師紀7章を見ると、神様の働きを成し遂げるにあたって、単に人の数が多いことより人の数は少なくても、従順になれる人がどれほど重要なのかをよく知ることができる事件が出てきます。ミデヤンとアマレクをはじめとする異邦民族の連合軍が、十三万5千人ほどの軍隊を率いてイスラエルを攻撃しに来た時、これに対抗するために神様が選ばれたイスラエルの軍隊は、たった三百人でした。そしてギデオンはその三百人を率いて、敵軍を大破させ勝利を収めます。

肉の人が見る時は、一人でも多くの戦士が必要なこの時に、神様はむしろ選び分けて三百人だけを残し、残りは家に帰らせるようにしたのです。まさに神様の働きを成し遂げるためには、従順になれる人々が必要だったからです。神様がギデオンに与えた戦略は、信頼できる人だけが従うことができる方法でした。刀と槍と弓でしっかりと武装し、敵陣に攻め込むように仕向けたのではありませんでした。武器の代わりに、それぞれの手に角笛と空の壺を持って、壺の中にはたいまつを隠したまま敵陣に近づき、壺を割ってラッパを吹きながら大声で「主の剣、ギデオンの剣だ。」(士師記7:20)と叫ぶのでした。だから命を惜しみ、人の考えの中で怖くて従順できない人はこの作戦に共にすることができなかったのです。

言い換えれば、従順出来ない人は早めに家に帰した後、どんな命令にも大胆に従順できる人だけを集めて、彼らを通して神様の計画を成し遂げたということです。このように従順であれば、神様が責任を負ってくださるという事です。ギデオンと三百人の勇士がこのように神様の言葉に従った時、敵軍は大変驚き、自分たち同士でお互いに刀で打って逃げることで、その混乱に乗じてイスラエルは大きな勝利を収めることができました。

これは今日でも同じです。ある場合は、いくら仕事が急で多くの人が必要な仕事だとしても、そうだからといって誰でも送ることができない場合が多いです。そういう場合、送るに値する霊の人がいなければ、むしろ送らない方がいいのです。父なる神様が本祭壇を通して世界宣教を成し遂げ、大聖殿を成すのもこれと同じ原理だという事です。なぜこのように訓練し訓練して、皆さん一人一人を霊の人々にしていくのでしょうか?また、なぜ時によって試練を許していただいて、混ざり物の入っていない穀類と中身のない殻を分けなければならないのでしょうか?私たちに与えられたこの大きくて驚くべき使命を果たすためには、まさに混ざり物の入っていない穀類が必要であり、霊の人々が必要だからです。それで、信仰で従順になれる皆さんを通して、父なる神様の意思と摂理を成し遂げることを願うのです。霊の考えができず、肉の考えに満たされ、神の言葉を信頼で受けられない人々は、霊的なことに共に参加するのが難しいのです。

主の山の上には備えがある アドナイイルエの神様

アブラハムはふたりの若い者を残したまま、イサクと二人だけで神がお告げになった場所に行きました。神様の御心によって成し遂げる霊の仕事を、肉の人々によって邪魔されないためです。このようにアブラハムは、神様の御言葉を成すにあたって、周辺の状況や環境に揺れ動くことなく、変わらない意志で従順であったのであり、決して途中で移り変わったり、不従順したりする気持ちが少しもなかったという事です。だから、このようなアブラハムのすべてを最初から見守っていた父なる神様は、その心の美しい香りを受けられ喜ばれ、アドナイイルエの神様として、必要なものを備えてくださいました。

8節に「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と尋ねるイサクにアブラハムは「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えます。この時、アブラハムは今後どんなことが起きるか分からない状況で告白したのですが、神様はアブラハムのこの告白どおり、自ら全焼のいけにえとして捧げる羊を用意しておいたのです。アブラハムは、イサクの代わりに他のものでいけにえを捧げるとは思ってもいませんでしたが、彼の善良な告白を聞いた父なる神様は、彼の告白どおりに叶えてくださったということです。次の時間には、アブラハムが、最後まで変わらない心で、イサクを全焼のいけにえとして神様の前に捧げる過程と、神様がアドナイイルエの神様として祝福された内容について、引き続き見ていくことにします。

結論

私たちはアブラハムという一人の人物の人生を通して、本当に多くのことを悟ることができます。 肉の考えを徹底的に打ち砕いてしまうということがどんなことなのか、大きくて広い心、すべての人と共に和平する心がどんな心なのか、また完全な信仰から出てくる従順はどんなことなのか、このようなことを一つ一つ悟ることができます。それなら、皆さんもこの言葉を聞きながら、すべてをそのまま自分のものにしてください。今は霊の急速な流れに乗っている時なので、皆さんが決断して祈りながら努力していけば、以前よりはるかに迅速に霊に入ることができる時です。先ほども申し上げたように、今は父なる神様の意思を成し遂げるために、本当に霊の人々が必要な時です。

例えば、イエス様が変貌山に登る時、誰と一緒に行きましたか? マタイ17:1「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた」とあり、弟子たちの中でペテロとヤコブとヨハネだけを連れて登ったことが分かります。また、会堂管理者ヤイロの死んだ娘を助けに行く時も、マルコ5:37に「ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。」と言いました。このようにイエス様が霊的なことを成し遂げる時には、弟子たちの中でも特別に選んで連れて行かれたことを見ることができます。 

最後の時を準備するにあたっても、このように霊の働きに参加するためには、霊として準備された人でなければなりません。それで父なる神様の側でも時が急なので、自分を振り返り、肉の姿をごっそり脱いで霊に入るように多くの言葉で悟らせながら導いています。しかし、選択はまさに各個人の自由意志にかかっています。「霊の流れに乗るのか、それとも肉の流れに乗るのか」自分で選択しなければなりません。神様があなたは霊だ。あなたは肉だと分けるのではなく、自らが選ぶのです。
 

ヨハネ3:20-21「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」という御言葉のように、皆さん自らが自分の行いを通して「私は何を選んでいるのか」振り返ってみてください。ですから、すべての事に霊を選び、日々光によって御前に出ていくことで、父なる神様の働きを成し遂げるにあたって、大胆に用いられるようになることを主のお名前によってお祈りします。
 

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朝の学び149 創世記22章  

創世記22:1-6
これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。

序論

創世記22章では、信仰の父アブラハムが「ひとり子のイサクを全焼のいけにえとしてささげなさい」という神様の言葉に、どのような信仰で従順したのかを調べることになります。アブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげるということは、単にひとり子までも惜しみなく神様の前にささげるという次元ではありません。自分のすべてを捧げるそれ以上の次元です。それはまさにイサクが持つ霊的な意味のためです。イサクは神様が将来アブラハムの子孫を通して成し遂げると言われた約束のための子孫です。

 

神様はアブラハムに、創世記15:5「『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」と約束されましたが、まさにこの約束を成し遂げるためにくださった息子がイサクだったのです。 ですから、肉的に考える時は、イサクを全焼のいけにえとして捧げると、結局イサクを通して成し遂げられるという契約の御言葉も一緒に、水の泡となってしまうのです。変わらずに信じて待っていた25年という歳月も、またイサクを産み、今まで育ててきた歳月も、みな一緒に消えてしまうのです。しかし、アブラハムはこのような状況でも全く肉の思いも働かせなかったのです。

 神様のお言葉の前ではどんな理由も言い訳もありませんでした。神様はまさにこのようなアブラハムの完全な従順と信仰を確認するために、彼を直接呼んで試したのです。「なぜイサクを捧げるようにとおっしゃるのか」それに対する何の説明もなく、また「イサクを捧げるならどのようにしてくださるのか」といういみことばもなく、無条件にイサクを捧げるようにおっしゃったのです。 まさにこの時、アブラハムが持っていた神様に対する愛と信頼の真価が出てくることになります。

神の言葉に直ちに従順するアブラハム

3節「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」とあります。どんな肉の考えや、瞬間の間の迷いもなかったし、また悩むこともなくすぐに従順が出てきています。アブラハムは神様を完全に信頼したので、肉で考えれば到底理解できないことだとしても、このように従順の行いが出てきたのです。父なる神様の善良な御心を信じていたので、少しの誤解や寂しさもなかったのです。神様が自分の愛と信頼を認めてくださるので、このような命令までも守ることができたという事に対して、むしろ感謝する気持ちでした。

例えば、私が皆さんにある使命を与える時に、それが肉的に考えると到底不可能で、実現が難しいものであればあるほど、実際にその使命を受けた方はもっと感謝しなければなりません。それは皆さんの信仰が、それだけ認められているという証拠になるからです。私の方から見て信仰も足りず、神様を愛することや牧者を愛することも足りない人なら、そんな方にどうして大変で難しい使命を任せることができますか?それだけ信仰もあり、牧者の愛される人であってこそ「あの方にはこれを任せても、十分に信仰と愛でやり遂げることができる」と心に働きかけられるのです。 結局、あることを指示して使命を与える時も、各人の信仰の分量に合わせるしかないのです。 だから皆さんにとって、肉では大変なことで難しいことを成し遂げなければならない使命が来たとすれば、「私の信仰と愛をそれだけ認めてくださるのだ」と、むしろ喜んで感謝しなければならないのです。

アブラハムの場合も同じです。神様が誰にでも、アブラハムに与えたものと同じ試練を与えられるわけではありません。ダニエルと彼の3人の友人に許されたような試練を、誰にでも許されるわけではありません。試練や訓練も各人の信仰によって許されるものであり、神の国のための使命や職分も、各人の信仰と器によって与えられるものです。まさにアブラハムは、自分に「ひとり子のイサクを捧げなさい」というこのような試練まででも与えることができた父なる神様の心を感じたので、それによっていろいろな心配や悩みをしたのではなく、喜びと感謝で神様の御心を行ったという事です。

それでは、皆さんが一度アブラハムの立場になってみてください。もしかして、「神様、イサクだけはだめです。他のものは何でも差し上げることができるので、他のものを代わりに差し上げてはいけませんか?」こんな返事をされる方はいらっしゃいませんか?または、「神様、少しだけ考える時間をください。妻も説得しなければならないし、準備もしなければならないので、もう少し時間をいただければと思います。」と、こんな理由をつける方や、「神様、私がもう少し祈ってみます。」と言ったり、自分の考えに合わないので、最初から不従順になる方はいらっしゃいませんか?

アブラハムは、神様が具体的で詳しい内容をまだ教えてくださったわけではないにもかかわらず、神様のお言葉に直ちに従うために、このように朝早く起きて旅に出たのです。アブラムは以前にも「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」という神様のお言葉があった時、行き先を知らないのに、お言葉に従順して出ていきました。ところが今回もアブラハムは「モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」ということばだけを聞いて直ちに従順して旅立ったのです。

私もこのようなケースをたくさん経験してきました。例えば、海外の聖会を導きに行く時、父なる神様が具体的な内容をおっしゃってくださらない場合もあります。もちろん大部分は結果がどうなるかまであらかじめ知らせてくださいますが、ある場合は「あなたが行ってみれば分かるだろう」とおっしゃってくださる時もあります。その結果は常に大成功であり、父なる神様に栄光を捧げるようになりますが、中間過程にどんな困難が来るかは話してくださらない時もあるのです。しかし、私はいかなる場合でも父なる神様が「行きなさい」と言えば、考えを働かせずに無条件に従順でした。テロの脅威があるところであれ、キリスト教の集会を法律で禁止したところであれ、集会を妨害する勢力がいるところであれ、関係なく従順して行ったのです。肉の考えや方法を働かせて危険や困難を避けようとしなかったし、集会をしやすいところだけに行こうとすることもなかったのです。このように人の方での考えを働かせず、ただおっしゃる通りに従順した時に、父なる神様はすべてのことを働かせて善を成し、導いてくださったという事です。

中東出張の場合は、さらに信仰と従順が必要です。「行って誰々に会いなさい」という言葉もなく「会ったらこれこれの対話をしなさい」という言葉もありません。ただ神様の言葉に従いさえすれば、神様がすべてを主管してくださるということです。だから人の側での計画ということ自体が必要ないのですね。それで父なる神様は、働きを担当する働き人にも常に考えを働かさないようにおっしゃって、悪は形もあってはならないことをおっしゃっています。アブラハムは、自分のいかなる考えも働かさず、父なる神様の言葉に無条件に従順して従うことができる信仰の人だったので、堂々と信仰の父として立てられたのです。

万端の準備をして旅に出るアブラハム

アブラハムは、全焼のいけにえを捧げるために旅に出る時、適当に準備をして行ったのではありませんでした。二人の若い者を連れて、全焼のいけにえに使う木まで準備して旅立ちました。全焼のいけにえに使う木を一本準備するにあたっても、現地に行って適当な木を取って準備しようとする気持ちではなかったことが分かります。最初から完全に従う心で準備したのです。適当に従順のふりをして状況を見て心を変えたり、あるいは偶然を待ち望む気持ちではなく、本当に捧げものとして捧げる完全な心だったので、すべての準備を整えて行ったのです。

ところが今日、多くの主のしもべが、今日の本文の内容を説教しながら、まるでアブラハムがしぶしぶイサクを捧げたように説明しています。アブラハムは、イサクを全焼のいけにえとして捧げるために3日間の道を歩きながら、悩み、煩悶して苦しんだと説明したりもします。しかし、神様が霊の眼を開いて当時のアブラハムの姿を見せてくださる時、アブラハムは決して悲しんだり煩悶したりしませんでした。三日の道のりを行く時もわざわざゆっくり歩いたのではなく、むしろその足を早めたのです。顔に憂いが満ちていたわけでもなく、イサクを見ながら悲しんで涙を見せたわけでもありませんでした。穏やかな顔で、心には依然として喜びと感謝が溢れていました。

では、アブラハムのこのような行いはどこから出てくることができたのでしょうか?それはヘブル人への手紙11:17-19「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」と述べています。つまり、アブラハムには死者の中から再び生かすことができる神に対する完全な信仰があったという事です。このような信仰があったため、アブラハムはイサクを全焼のいけにえとして捧げることにおいて、少しの躊躇や寂しさ、または疑いや移り変わりがなかったのです。

皆さんはもしかしたら、それなりに一生懸命走っていると思っていたのですが、思いがけず試練や訓練が来た時に「自分になぜこんな試練が来るのだろう」と思い、それによって感謝と喜びが離れることはなかったですか?アブラハムは、イサクを捧げなさいという試練が来た時、「私はこのように熱心に神様に仕えるのに、なぜ私にこのような試練が来たのか」と考えたり、それによって心にある感謝と喜びが消え去ることはありませんでした。父なる神様に向けられた心が一度も変わらず、むしろ父なる神様の心と意思を推し量り、真剣に信じたのです。アブラハムのような試練が来た時に、その心を変えずに完全に心の中心で喜び、感謝できる方がいるなら、そのような方は父なる神様が必ず祝福して、大きく現わして用いることができます。皆さんが祝福を受けるためには、いずれにしても通過しなければならない試練があるはずです。この試練を喜びと感謝で通過できる人には、父なる神様がいくらでも試練を許して、祝福されるようにすることができます。しかし、もし試練がきた時に苦しんで倒れる人なら、最初から祝福を与えるための試練を許すことさえできないのです。

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朝の学び148  創世記22章  

創世記22:1-3

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。

神様が試練を許される場合

22章では、神様がアブラハムを試すために、彼に一人子のイサクを全焼のいけにえとして捧げるようにと言った時、果たしてアブラハムがどのような信仰と従順を示したのかについて見てみることにします。1節「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ。』と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります。』と答えた。」とあります。この言葉によれば、神様がアブラハムを試そうと自ら呼んでいるのを見ることができます。

ところがヤコブの手紙1:13-14には「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」とあります。つまり、神様は誰かを試す方ではありません。では、今日の本文にはなぜ神様が試練に会わせられたとおっしゃったのでしょうか?ここで「試練」という言葉の意味をよく知らなければなりません。

ヤコブの手紙でおっしゃる試練は、人の中に悪の形があって、それによってサタンの訴えを受けることで、神様が許す試練のことです。それは、ヨブのようなケースです。表面では純粋で完全に見えても、その心の中にはまだ悪の形が残っているので、神様はそれを抜いてしまうようにするために、サタンの訴えを受けてくださったのです。このような場合は、ヨブがある悪を行ったり罪を犯したりして、それに対する応報が与えられるわけではないので、このような試練をうまく通過すれば、結局、祝福が臨むようになります。それで、訓練がすなわち祝福だと言うのです。

反面、ある悪を行ったり、罪を犯して、それに対してサタンの訴えを受ける場合は、祝福のための訓練ではなく罪の値に対する応報を受けるのです。これは、ある試練や患難、災いを受ける場合で、このような場合は試練を受けたからといって、その後に祝福が来るわけではありません。このように敵である悪魔サタンの訴えを受けて、公義の中で神様が試練を許される場合との二つの場合があることを知らなければなりません。

一番目は、心の中にある悪の形を発見し、それを抜いてしまうことで、後に祝福を与えるための目的で、神様がサタンの訴えを受け入れることで試練を許される場合だと言いました。それで、ヨブはサタンの試練を通して、結局は自分の悪を徹底的に悟り、悔い改めることができたのであり、このようにして悪を脱ぎ捨てた時、以前よりさらに祝福が来るようになったのです。

二番目は、公義の法則に従って、罪の結果に対する応報としてサタンの訴えを受けることで、試練や患難を許される場合だと言いました。神様の言葉通りに生きることができず罪を犯す人に、病気が訪れたり、家庭、事業の場、仕事の場に問題が生じる場合です。ところが、このような二つの場合は、すべて神様が直接試されるのではありません。サタンの手に任せて試練を許される場合です。

しかし、アブラハムのような場合は、アブラハムに何らかの悪の形があって、それを引き抜くために試練を受ける場合でもなく、アブラハムになにか罪があって、応報を受けなければならない場合でもありません。すでに今までの訓練の過程を通して、悪はどんな形でも捨てて、肉の考えが徹底的に砕かれたアブラハムでしたが、神様は、これから最後に自らアブラハムを試して、彼が信仰の父として立てるのに完全な人であることを証明されるためでした。この試練を通して、アブラハムの心の奥底からわき上がる深く感動的な香りを吸い込みながら、彼に完全な祝福を与えるための祝福の試練だったのです。ですから、このような試練は、サタンの手に任せられるものではありません。サタンは人の心の中に悪の形が無ければ、それを引き出して試練を与えることができません。

例えば、サタンがアブラハムにある過酷な災いをもたらしたとして、アブラハムはヨブのように神様を恨むでしょうか?それとも、その心から感謝と喜びが出てくるでしょうか?たとえその場で命をさし出すとも、喜びで捧げられるアブラハムです。ですから、サタンがどんな試練を与えようとしても、サタンの能力の中でできるのではありません。アブラハムにはそうするほどの悪の形がないので、サタンの力を超えているのです。

アブラハムを自ら試した神

だから神様はアブラハムを自ら試したのであり、この試練も祝福に祝福を加えるためのものでした。父なる神様はアブラハムにこのような試練を与えた時、彼がどのように通過するのかをあまりにもよく知っていましたが、それでもこのように試練の過程を経るようにしたことによって、敵である悪魔サタンもそれを見守りながら、どのような異論も出てくることがないようにしたのです。

1998、99年度に私にあった訓練がまさにこのようなケースでした。父なる神様は、訓練が始まる前からこれが祝福の訓練であることを何度もおっしゃっていました。そして、この訓練を経験するにあたって、神様は私を決してサタンの手に渡したのではありませんでした。神様が自ら試した場合でした。神様が私を試したのは、私に何かの過ちがあったからでもなく、私の中に何かの悪の形があったからでもありませんでした。 私を試した目的は、私の中に臨んでいる愛がどんな次元かということを明らかにすることで、以後は敵である悪魔サタンが全く訴えられない中で、創造の最上の権能の次元に導くためだったし、その試練を通して、私の中に臨んでいる愛の次元を敵である悪魔サタンも見たので、今は神様が私に創造の最上の権能を与えて、父なる神様に属した初めの声を発するようにしても、敵である悪魔サタンが決して訴えることができなくなったのです。

しかし、聖徒の皆さんたちの場合は違いました。私は神様の手に自ら握られて試練を受けたのですが、聖徒たちは、敵である悪魔サタンの手に渡され試みられたのです。だから、その試練を通して、皆さんは自分の中のあらゆる悪の形が明らかにされ、自分の悪に気づき、後日それらをすべて覚えて悔い改める時、その対価として祝福が臨みました。このように1998、99年度の訓練が私にもたらす霊的な意味と、皆さんにもたらす霊的な意味が違うのです。結果的には、皆さんもその訓練を通して、今は自分の悪を悟りそれを引き抜くことができるようになったのです。その訓練が皆さんにも祝福となったのであり、このようにして魂がさいわいになる霊的な祝福を受けたので、今後は皆さんに肉的な祝福も一緒に来ることになるのです。私はこのようなことを全て知っていたので、一方では死に向かう魂を見ながら心に悲しみ、苦痛を受けましたが、心の中心ではいつも喜びと感謝で訓練を受けていったのです。

続く2節からは、果たして信仰の先祖として立てられるのに十分なアブラハムの信仰の真価が現れることになります。アブラハムを呼んだ神様は、いかなる状況説明や理由もなく「神は仰せられた。『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」とおっしゃるのです。なぜ、いつどのようにすべきなのかについて、何の説明もなしにこのように命令されたのです。では、皆さんは果たして神様からこのような命令を受けた時、どうしますか?肉の考えを動員せず、完全に神様の言葉に従うということが果たしてどんなことなのかについて、次の時間に続けてアブラハムの従順の姿を通して見ていくことにします。

結論

私たちが祝福を受けても神様の中で受けてこそ祝福であり、訓練を受けても神様の手の中で受けることが祝福です。これはすなわち神様の干渉がどれほど祝福なのかを悟らなければならないということです。肉的にはいくら祝福を受けているように見えても、それが神様から来るのでなければ、いつ瞬間にも消えるか分からないのです。人の間でしなければならないことは当然しなければなりませんが、それと共に神様の前でも認められて保証されてこそ、すべてが完全な祝福になることができます。それでアブラハムは人との関係を優先させたのではなく、まず神様との関係を優先させました。そうした時、神様が保証してくださって、人との間の関係でも不足することがないようにしてくださいました。神様がアブラハムを高め、周辺の人々からも認められるようにしてくださるので、王だといってもその前でむやみにできなかったことを見ることができます。まさに皆さんもこのように神様との関係が確実になった時、皆さんがいるところで認められ、頭になっても尾とならないように働いて下さるのです。

また、皆さんもアブラハムのように従順する心になれば、神様が自ら皆さんを訓練し、霊に導いていきます。もちろん、まだ悪の形を全て捨てるまでは、それによって敵である悪魔サタンの訴えを受けることはありますが、皆さんが罪を犯してそれによって応報を受けるのではないとすれば、コリント第一10:13「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」という御言葉のように、信仰の分量の試練だけを許され、その試練を通してさらに霊的な変化を導かれます。だから神様の手の中で訓練を受けることは、魂がさいわいとなる祝福の道であり、結局、すべての事が幸いとなり健康になる祝福も共に臨むことになるのです。続く、創世記講解の御言葉を通して、アブラハムがどのような信仰を持っていたかを悟り、常に神様が共にして下さる証しが、皆さんの人生の中に現れることを主の御名で祈ります。
 

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朝の学び147  創世記21章  

創世記21:22- 34

そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」するとアブラハムは、「私は誓います。」と言った。また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。 彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。

序論

ゲラルの王アビメレクと彼の軍隊の将軍ピコルが、アブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」と告白するように、聖書を調べてみれば、アブラハムや神様に愛され保証される人々は、他の人々からも神様の人であることを認められました。例えば、モーセ預言者が神様の言葉に従って十の災いを一つずつ行うと、最初はエジプトの呪法師たちも自分たちの術法でそれを真似しましたが、三番目の災いからはそうすることができませんでした。すると、エジプトの呪法師たちは、出エジプト記8:19「そこで、呪法師たちはパロに、『これは神の指です。』と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。」とあります。つまり、呪法師たちさえもモーセ預言者が表す権能がまさに神様から来たものであることを認めたのです。

また、出エジプト記11:3後半節を見ると、「モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。」とあり、エジプトの臣下と民とにモーセ預言者が、どのような存在であったかをよく知ることができます。サムエル預言者もやはりサムエル記第一3:19-20「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが主の預言者に任じられたことを知った。」と記しています。ダビデの場合もサムエル記第一18:28の前半節に、「こうして、サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。」とあり、ダビデの大敵サウルさえも神様がダビデと共にいることを認めるほどでした。

また、ヨシュアはヨシュア記3:7に「主はヨシュアに仰せられた。「『きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。』」とあり、ヨシュア記4:14には「その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れた。」とあります。ヨセフの場合も創世記39:3には「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」とあり、23節には「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」と記されています。

これは新約の時代においても同じです。使徒の働き2:43によれば、「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。」とあります。神が使徒たちを通して示す権能の働きの前で、人々が恐れていたことが分かります。多くの不思議なわざとあかしの奇蹟の現れを通して、神が使徒たちと共にすることが分かったためです。それで使徒ペテロの場合は使徒の働き5:15に「ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。」と記されています。

 

また、使徒パウロもやはり使徒の働き14:11「パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、『神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。』と言った。」というほどでした。このように神様の人には、神様が共にする証拠が明確に現れるので、人々がその権勢の前で恐れるようになるのです。そして、これはヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」という言葉のように、今日も同じだという事です。 ヨハネ14:21「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。』」という言葉通り、神様を愛し、その戒めを守ることで、神様と神様の愛を受ける人には、神様も必ず共にする証拠として示してくださいます。

アビメレクとアブラハムとの契約

アブラハムには神様から愛される証拠が現れたので、周辺の人々もそれを認めざるを得ませんでした。アビメレクの場合もアブラハムを通して、自分の家に閉じられた胎の門が開かれる神のみわざを体験しただけでなく、すべての事にアブラハムと共にする神の証拠を見たので、今日の本文にこのように「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」と告白しているのです。 だからアビメレクは一国の王でありながら、アブラハムが自分を責める時、その権勢の前で素直に自分の過ちを認めるのを見ることができます。このようにアブラハムに権勢があるからといって、人々の前で自らを高めようとしたり、相手を抑えようとする気持ちがあったわけではありません。アブラハムがアビメレクを責める時も、もしアビメレクが、アブラハムが自分を無視したり見下すと感じたなら、二人の間に和平がなされなかったでしょう。しかしアブラハムは、自身の権勢を前面に出して他の人を抑えようとする心ではなかったので、責めるべきことに対しては明確に責めたが、常に徳と愛で相手を抱いてその心を解放してあげたのです。

26節「アビメレクは答えた。『だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。』」と言って、自分のしもべがアブラハムの井戸を奪い取ったことが、自分とは全く関係がないことを訴えると、これ以上責任を追及したり追い詰めたのではありません。 アブラハムの方から先に二人の間で和平を成し遂げる方法を提示したのです。アブラハムの方ではアビメレクに何らかの補償を望む気持ちではなかったので、一旦アビメレクに悟りを与えた後は、すぐに先に和平を求めていったのです。そうしながら、その後でもこの井戸によって再び争いが生じないようにするために、羊と牛を取ってアビメレクに渡すことで、両者の間に約束の証拠となったのです。

 

責めながらも結局は和平を追い、和平を追いながらも、お互いにはっきりさせる部分については明確に線を引いている様子です。これがまさに善の知恵です。 ある人は過度に相手の過ちだけを指摘し、それによってお互いの間で和平が崩れる場合があり、ある人は和平を追うと言いながら、はっきりと突き止めなかったことが、むしろ後で自分に帰ってくる場合があります。それでイエス様は私たちに「鳩のようにすなおでありなさい」とだけ言ったのではなく、「蛇のようにさとく知恵を用いなさい」とおっしゃっていらっしゃるのです。マタイ10:16「 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」

例えば、マタイ5:39によれば、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言っていますが、この御言葉は、相手が自分に明らかに害を加えること、明らかに騙そうとしているということを知りながらも、毎回そうしなさいという意味ではないのです。これはつまり、善で悪に勝てという意味であり、悪で出てくる相手までも感動させるような深い善の次元を言っているのです。そうして敵までも抱いて変化させることができる完全な愛のことですね。したがって、このような善と愛を常に心に抱いていながら、敵である悪魔サタンの計略に対しては、正しく分別して霊的に対処しなければならず、人の心もまたよく分別して賢く対処していかなければならないのです。

 アブラハムは、このように常に相手を抱いて和平を追うことを願う心ですが、同時に人の心をよく知っているため、30節を見ると、「アブラハムは、『私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。』と答えた。」と言って、アビメレクとの間に明らかな証拠を残して事を収めることが分かります。ここで7は完全数として、これはアブラハムの行いが神の前で真実であることを意味します。また、雌羊の子は生産を意味するもので、水があってこそ生産が行われるように、生産を意味する雌羊の子を通して、生産の源泉である水に対する所有権が、アブラハム自身にあることを確実にしたのです。そして、アブラハムは、このようにしてアビメレクと互いに誓い合った後にそれで終わったのではなく、父なる神様の前でも証拠を示したのです。

神様の前で、ベェル・シェバで祭壇を築いたアブラハム

33節「アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。」とあります。アブラハムは、人との間で結んだ契約で終わらず、それを神様の前でも認められようとしたのです。 このようにして神様の前でも認められてこそ、すべてのことが御心にあって守られ、さかえの道に導かれることができるのです。いつもアブラハムは、行く所はどこででも神様の前にまず祭壇を築き、神様に支えられ導かれたのを見ることができます。 これがすなわち神様を全面的に信じて信頼し、従順する人の姿です。

例えば、聖徒の方々なら、家を引っ越したり、新しい事業の場を始めることになる時、人と人との間でやるべきことを済ませて、それで終わる方はいないでしょう。つまり引越しをするという時、前に住んでいた人と契約書に印鑑を押して、荷物を移してきて整理を終えたら、それで「もうこの家は私が権利を持って暮らせる家だ。」というのではないですね。肉的にはそうだとしても、霊的にもやはり手続きを経なければなりません。 それは、まさに父なる神様の前で礼拝をすることで、神様が新しい家を許してくださったことに感謝することであり、神様の前でも認められなければならないということです。 そうしてこそ、神様が認める中で家庭や事業の場が守られ、すべての事が順調に導かれることができるのです。もちろん、その後でもすべてのことで真理の中で正道を追わなければならないのは当然のことです。

このようにアブラハムは、人との間ですべきことをした後にも、必ず神様の前でそれを認められるようにすることで、すべてを神様の御前に任せ従ったのです。 だから34節「アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。」とあるように、長く異邦人の地に住みながらも、完全に守られながら生きていくことができたのです。皆さんも神様から愛され、保証される関係になれば、どんな状況でも心配する必要はなく守られることができます。そんな時、詩篇3:5-6「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」という告白が、心から大胆に出てくるのです。

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朝の学び146  創世記21章  

創世記21:22- 34

そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」するとアブラハムは、「私は誓います。」と言った。また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。 彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。

神と共にするアブラハムを認めるアビメレクとピコル

22-23節「そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。『あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。』」とあります。一国の王と軍隊の将軍が訪ねてきてアブラハムを認めて、自分たちの後代のことまでもアブラハムに頼んでいる姿です。これは当時、アブラハムの勢力がどれほど強大であり、彼に神様が共にするという証拠がどれほど確実に現れたかが分かるようにしています。アブラハムの権勢をよく知り、また将来、彼の子孫がどれほど強大な存在として出てくるかを、十分に推察できたアビメレクは、自分が今アブラハムに厚遇することをアブラハムが忘れずに記憶することで、アブラハムに自分の子孫に至るまで恵みを施してくださいと要請しています。

 

その当時、アブラハムはペリシテ人の地に住んでいました。まさにこの異邦の民族の真ん中に住んでいました。それでも異邦の民族がアブラハムを攻撃したり、彼に害を与えたわけではありませんでした。あえてアブラハムの領域を侵すことができず、むしろ恐れて怖がっていました。これがまさに神様が共にする祝福であり、神様が守ってくださる祝福です。詩篇23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」という告白のように、いくら死の陰の谷を歩くことがあっても、周辺に敵が住んでいるとしても、神が一緒にいて守れば恐れることもないでしょう。

しかし、このような告白ができるためには、自分自身が神様の言われる通りに生き、光の中を歩まなければならないという事です。神様の言葉通りに生きることができず、闇の中で暮らす時は、このような告白を堂々と言うことができません。むしろ、いくら光の祭壇、神様が共にして守ってくださる祭壇で信仰生活をするとしても、神様の御言葉通りに生きることができず、常に闇と罪の中で生きていく人は、守られないことを知らなければなりません。自分が光なら闇に囲まれていても何の心配もありませんが、自分が闇なら、たとえ周辺に光が一緒にあっても、結局サタンの餌食になってしまうのです。

アブラハムの権勢がどれほど大きかったかは、25-26節にもよく出ています。「また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。アビメレクは答えた。『だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。』」とあります。アブラハムは一国の王であるアビメレクを責めているのです。これに対しアビメレクは、自分のしもべが、アブラハムの井戸を奪い取ったことについて知らなかったと言います。これは、自分が知っていたら、すぐにそのようにできないようにしたはずなのに、自分の知らない間に起きたことだったので、寛容に赦してほしいという意味なのです。アブラハムが責めたときに、自分の不覚を認めているのです。

すると、今はアブラハムがアビメレクの心をほぐしています。 アブラハムがアビメレクを責めたのは、彼らと何らかの争いや紛争を起こすためのものではありませんでした。彼らの過ちは明確に指摘するが、結果的には彼らと和平したいという気持ちでした。本文の状況から見ると、アビメレクがあえてアブラハムの前で偽りを告げたり、争いを起こそうとするのではないことが分かりますが、これは、アブラハムの権勢と力がそれだけ強大だからでもあるが、何よりもアビメレクの方で、アブラハムと共にする神様を認めたためです。ところでこのような状況で、アブラハムは自分の力と権勢で、無条件にアビメレクを抑えようとしたり、見下げたりすることはありませんでした。

責めることで相手が過ちを認めると、すぐに先に手を差し出して和平を成し遂げます。アブラハムがどれほど賢くて、徳と愛を兼ね備えた人だったのかをよく現わしている姿です。人を扱う知恵があるだけでなく、常に平和であり、自分の利益だけでなく、相手の利益を捜そうとする広くて大きな心があったのです。また、自分が持っているものによって人前で高くなったりせず、むしろへりくだって仕える心を持っていたことが分かります。アブラハムには大きな権勢と力だけでなく、このように仕えと謙遜の心があったため、周辺の異邦民族とも争いがなく平和な中で過ごすことができたという事です。

 

詩篇37:11「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」とある言葉のように、アブラハムは、温柔で周辺を抱くことによって、自身の領域を堅固に守っていくことができ、豊かな平和の中で自身の基盤を固めていくことができたのです。34節「アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。」とある通り、異邦人のペリシテ人の地に住みながらも、平和を築いて生きることができたのです。アブラハムとアビメレクの間の契約については、次の時間に続けて見ていきましょう。 
    

結論


ある人々は、いつも神様を信じて頼ると言いながらも、実際に仕事を成し遂げる時は、自分が先立ってすべてのことをしていくのを見ます。さらに、自分と関係のある人たちにまでいちいち干渉して、自分の思い通りに導いていこうとします。例えば、このような人が頭になるとすれば、目下の人たちは成長する機会がそれだけ減ります もちろん、目上の人は聖霊の声を明らかに聞いて主管を受け、すべてのことを神様の御心通りに導いていかなければなりませんが、だからといって、自分の方法と計画通りにすべてを導いていくという意味ではありません。下の人たちに霊的な方向と道を提示することで、彼らが自ら祈って導いていけるように、時には任せなければならない場合もあります。

そうすると試行錯誤も起こるでしょうが、それが恐ろしくて信じて任せられないなら、すぐには仕事がうまくいくようですが、長期的には仕事がもっとできなくなるしかありません。それは、霊的に成長した働き手がいないからです。したがって、頭になった人の役割がとても重要ですが、その中で最も重要なのは、すべてを父なる神様に任せて頼りながら祈っていくことです。だから、目下の人であれ周囲の人であれ、彼らも神様を体験し、聖霊様の導きの中で神様の仕事を成し遂げられるようにしなければなりません。 これが大きい者の姿で、多くの人を抱くことができる器です。このように人に対して治めていく知恵は、結局、上から来ることになるという事です。

世の処世術や人間の関係に必要な知識を持って、人に接していくことは、限界があるだけでなく、その結果が常に良いわけではありません。ヤコブ3:17に、「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」とおっしゃったとおり、心に聖潔を成し、和平と寛容、温順、そして哀れみと善良な実がいっぱいで、えこひいきと偽りがない時だけ、真に善から出てくる知恵を受けることができます。このように、善から出る知恵だけで、すべての人を包容し、人との間にも美しい関係を築くことができます。今日聞いた御言葉を通して、上から出る善良な知恵を慕い、本当にすべてのことを、神様に信じて任せる完全な信仰の分量に達し、善と信仰の美しい調和の中で、父なる神様の働きを美しく成し遂げていかれますように、主の御名で祈ります。
 

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朝の学び145  創世記21章  

創世紀21:15-21

皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。
 

序論

前の時間に申し上げた通り、アブラハムは、イシュマエルが正統の系図を通して産まれた息子ではないとしても、イサクと同じように同じ子供として愛を与え、差別する心を持ちませんでした。そんなアブラハムに神様が、「サラの言うとおりハガルとイシュマエルを送り出しなさい。」とおっしゃると、翌朝早く起きて、パンと革袋の水だけを与えて彼らを送り出しました。アブラハムが窮乏していたわけでもありません。彼らにいくばくかの財産を分け与え、召使いをつけて送ったのではなく、少し薄情ではないかと思うほどに接したのです。 
    
しかし、アブラハムの方では、これがまさに霊的な愛だったのです。彼らに、この世のほかの何とも比較できない最大の財産を与えて送ったのです。それは、まさに神様を頼り、神様を畏れ敬うことでした。ハガルとイシュマエルに、すべての祝福の根源であり、生死禍福の主管者である神様だけを頼る心を持たせたのです。財産というものは使えば消えるもので、人も裏切って去っていけばそれだけですが、神様を最後まで信じて頼る人を、神様は決して知らないとは言われません。このことをあまりにもよく知っているアブラハムだったので、彼はハガルとイシュマエルがどこへ行っても、神様を畏れ敬いながら生きることを願う気持ちで、むしろ肉的に頼れるものを与えて送らなかったのです。 
    
アブラハムが肉で考えれば、当然財産や奴隷を与えて送り出したかったでしょうが、それよりはすべてを解決して下さることができ、どんな困難でも救ってくださる、父なる神様にすべてを任せたのです。「ハガルとイシュマエルを送りだしなさい」と言った方も父なる神様なので、その御心に従って従順する時に、他のすべてのこともやはり神様におゆだねしたのです。これがまさに肉と霊の違いです。人の考えでは、ハガルとイシュマエルのためにより多くのことを世話し、サラに秘密にしてでも世話をしてあげるのが愛であり、霊の心だと考えることもできますが、これがむしろ神の御心とは反対になりうることを知らなければなりません。

ガラテヤ5:24「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とある御言葉のように、主の中で私たちは、肉的な情は十字架に釘づけしなければなりません。家族の間にも、人と人との間にも、肉的な情が残っているため、完全な霊的な愛がなされないのであり、その情に惹かれて神様の御心とは異なる道に進むことがあるのです。また、相手を本当に霊的に愛しているなら、どうすれば相手の魂が幸いになる道なのか、これを先に考えるようになります。もちろん時には慰めと激励も必要で、助けの手を与えなければならない時もありますが、父なる神様の御心の中で与えられた訓練や、自ら信仰の段階を突き抜けなければならない状況にある人には、慰めと激励と助けを与えることが必ず相手に益になるわけではありません。 
 
さらに、自分の方で肉的な情を断ち切れず、肉で接する為、相手の信仰がさらに成長できず、霊に入り込めないとすれば、何が果たして霊的な愛なのか考えてみなければならないでしょう。 そして信仰の中で、相手が神様だけを信じて信頼し、神様の愛される人として出てくるようにすることが一番大きな愛です。アブラハムは信仰の人です。霊的な愛を持った人だったので、ハガルとイシュマエルに、彼等自らが生きておられる神様を体験し、神様の中に住む者たちとして出てくることを願ったのです。皆さんもこのような信仰を持ってください。まさに父なる神様の心を動かして、父なる神様がすべてのことに責任を負ってくださるそのような信仰です。

神の御手を体験するようになったハガルとイシュマエル

アブラハムは、ハガルとその息子イシュマエルを送り出す時に、パンと革袋の水だけを与えました。それで、ハガルとイシュマエルが遠くに行けず、その水とパンが尽きてしまうのは、あまりにも当然のことでした。結局、ベエル・シェバの荒野でさ迷い歩いていたハガルは、どうにもならない状況を迎えることになりました。本文15-16節「皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、自分は矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。」とあります。 
    
イエス様も公の生涯の間、弟子たちを教えながら、弟子たちにこのような体験をさせたのです。
ルカ10章1-8を見ると、「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。 財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけません。どんな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。 もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。その家に泊まっていて、出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。』」

イエス様が弟子70人を定めて、彼らをご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになりました。送る時、「財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。」と言いました。また、神様が恵みを受けた人々を通して供給してくださるものを食べて、彼らの家に留まるようにされます。そして、これについてルカ22:35を見ると、イエス様が「それから、弟子たちに言われた。『わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。』と尋ねると、弟子たちが答えるのは『いいえ。何もありませんでした。』」と言ったのです。イエス様は主の働きのために出ていく弟子たちに、お金や服や靴を与えたのではなく、これを契機にして神様だけに頼ることによって、神様から供給される秘訣を学ばせたのです。   

アブラハムもまさにこのような気持ちだったので、ハガルとイシュマエルに多くのものを与えて送らなかったのです。 結局、荒野でさまよって水が全部無くなると、ハガルとイシュマエルは、ついに神様の御手を体験する状況を迎えることになります。 17-19節「神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。『ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。』神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。」とあります。神の使いが現れ、彼らを助けたのです。 ところが、ここでハガルとイシュマエルがこのような助けを受けることができたのも、実はアブラハムのためだったということを知らなければなりません。

16節で見たように、ハガルは「もう子供が死ぬのだ」と思い、悲しい気持ちで声をあげて泣きました。神様からの助けの手が来ることになるとは思いもしなかったし、そのような信仰を持つこともできなかったのです。しかし、神様はすべてを父なる神様に任せたアブラハムの信仰を見て、ハガルとイシュマエルに御業を現わしてくださったのです。神様はアブラハムを覚えて、アブラハムが神様に信頼して任せた通り、ハガルとイシュマエルに神様を体験するようにしてくださいました。また、イシュマエルが将来大きな民族を成すことになるという約束の言葉も、やはりアブラハムを覚えて下さったのです。   

そして神様はこの約束の言葉を守られました。20節に「神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。」とある通り、神様はアブラハムを覚えて、イシュマエルが成長するまで共におられ彼を守り、彼に与えた約束どおりになるように働いて下さったのです。アブラハム一人の信仰によって、彼に属した人々が、どれほど大きな祝福の中で暮らすことになるかを、よく知ることができるのです。しかし、ハガルとイシュマエルは、これが誰によって与えられたものなのかを知りませんでした。ハガルとイシュマエルが神様から守られ、神様の手の中でイシュマエルが成長して、一つの民族を成すことになるすべての過程は、すべてを神様にお任せしたアブラハムの信仰のゆえでした。アブラハムは、ハガルとイシュマエルが神様を体験することで、神様の中で神様を畏れ敬いながら生きていくことを切望しました。 
    
ところが、いざハガルとイシュマエルは死ぬしかなかった状況で、神の使いを通して助けを受けて生き返った体験をしても、一時的なものとして流してしまったという事です。そのため、神様の守りの中で成長して、一つの民族を成すようになりましたが、これを心の中心で神様の恵みと祝福だと悟ることができなかったのです。それが蒔いた通りの実として現れるようになったことが、まさにハガルがイシュマエルのためにエジプトの女性を妻に迎えたことです。 
 

イシュマエルのためにエジプトの地の女性を妻にしたハガル

21節「こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。」とあります。ハガルはたとえ自分はエジプトの女性だったとしても、息子のイシュマエルはアブラハムの子孫でした。 また、ハガルはアブラハムが神に仕える人として、彼の息子イシュマエルも当然神に仕えることを望んでいることを知っています。 神様の命令に従って、アブラハムによって割礼まで受けたイシュマエルでした。 それでも、ハガルは息子のために、異邦人の女性を迎えて妻にしたのです。自分と同じエジプト人の女性を迎えたのです。 以前、サラの虐待を避けて逃げた時、息子と一緒に野をさまよって死にそうになった時も、神様の生きておられることを体験したハガルでしたが、心から神様を信じられなかったという証拠です。心から神様を完全に信じていたなら、当然息子のために異邦人ではなく、夫のアブラハムのような民族の中で、神様を信じて畏れ敬う女性を迎えて妻にしたはずです。 
    
アブラハムが何度もそのように教えたはずなのに、ハガルはそうしなかったのです。 このため、結局は人間耕作の摂理の中に、神の民イスラエルと対峙するもう一つの異邦民族が出てきてしまいました。異邦の女性と結婚したイシュマエルが、それでも残っていた神様に対する畏敬の念まで失ったまま、ますます神様から遠ざかっていった結果です。ハガルとイシュマエルも神の人アブラハムと共にしながら、これまで見て聞いて体験したことを心に悟れず、ますます神様から遠ざかってしまったのです。イシュマエルが異邦人の女性と結婚することになり、それがさらに急速に進展してしまったのです。したがって、いくら多くのことを見て体験したとしても、それを心の中心で信じず、心から神様を畏れ敬わなければ、結局は神様から離れることもありうるという事実を必ず肝に銘じて下さい。

そしてもう一つ19節によれば「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。」とありますが、これは、神様がハガルとイシュマエルのためにその瞬間に泉を創造されたのではなく、本来あったが発見できずにいたものを、ハガルの目を明るくして見させたという意味です。ハガルがいつ頃どこに来るということをすでに知っている神様は、彼らのために備えておいた泉がハガルの目に見えるようにしたのです。このように神様はアブラハムの祈りを聞き、すべてを備えてくださったにもかかわらず、ハガルとイシュマエルはそれを知らないまま、自分たちの力と能力に頼って生きていくことになります。 しかし、皆さんはすべてが神様の手の中にあり、神様によって動かされるという事を忘れないで、常に神様を信じて頼ってください。

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朝の学び144  創世記21章  

創世紀21:8-14
その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

少しも肉の考えを働かせていないアブラハム      
 

このような状況にあったアブラハムに神様は、「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」とおっしゃいました。つまり、サラの言う通り、ハガルとイシュマエルを家から出せということです。後ほど説明しますが、アブラハムは神様の言葉にそのまま従順し
ました。アブラハムは、神様がどうするかをおっしゃってくださる前までは、ハガルとイシュマエルについて悩むしかなかったのですが、神様がどうするかをおっしゃってくださると、直ちに従順したのです。イシュマエルにもやはりイサクと同じ気持ちで愛を与えたアブラハムでしたが、「イシュマエルを送り出しなさい。」という神様の言葉に、いかなる理由や言い訳もしなかったのです。 
    
人が肉の考えを働かせると、サラの言葉通りハガルとイシュマエルを家から追い出すよりは、サラをよく諭して理解させ、ハガルとイシュマエルを家にそのままおいておくようにするのがより良いと考えられるかもしれません。しかしアブラハムは全くこのような考えを働かせませんでした。神様のお言葉の前では、自分の思いも、自分が思う善と義も、徹底的に無にしたのです。これがまさに完全な従順であり、神を信じる人の姿です。多くの人が神様の言葉に従うと言いますが、それはあくまでも自分の考えや義と一致する時の場合がほとんどです。自分の考えに合わず、自分の見方に合わないことについては、すぐに肉の考えを働かせて不従順をし、自分の好きなように行う人が多いです。

皆さんなら、アブラハムのような状況でどうされたでしょうか?「善良な神様がなぜこのようにおっしゃるのだろうか?」と肉の考えを働かせる方はいらっしゃいませんか?それとも「何かもっと良い方法があるのではないか?」と他の方法を探さないでしょうか?しかし、自分の目にはいくら善良に見えて良い方法だとしても、神様のお言葉に反するのが、すなわち不従順であることを知らなければなりません。自分の考えや自分のやり方が正しいと思うこと自体が、すでに神様の前に途方もない傲慢です。神様は、皆さんがたとえ自分の考えでは理解できず、自分が見るにはもっと良い道があるように見えるとしても、神様のお言葉にそのまま従うことを望んでいます。そして神様にすべてを任せる心になることを望みます。アブラハムはまさにこのような心だったので、神様のみ言葉に従いすべてを神様に任せました。  

 

私も今まで22年間教会を牧会して、神様の働きを成し遂げるにあたって、神様のお言葉の前に一度も私の考えや主張を前面に出したことがありません。もちろん、神様の働きを成し遂げるにあたって、私の考えや意見を持ったこともありませんが、神様がおっしゃってくだされば無条件アーメンでした。そうすると周りからは「堂会長、そうするよりはこうした方が良いのではないでしょうか?」「こうすればもっと早く成し遂げられるはずですが」というような話をしてくる時がありました。しかし、私はただ神様の言葉だけに従い、結果を見ればいつも神様の言葉が正しかったのです。一寸先も見通せない人の考えで、すべてのことを知っている神様の考えを先走ることはできないという事です。 
    
したがって皆さんは、自分の考えに照らして神様の言葉を判断したり、自ら自分が正しいと思う姿は決してあってはならないでしょう。訓練を通して肉の考えが徹底的に砕かれたアブラハムは、このようにいかなる状況でも、神の言葉に完全に従順していったのを見ることができます。もしアブラハムが神様の言葉に従い、イシュマエルを家から追い出した後に、彼があてもなくさまよったり、そのまま血統が絶えてしまったとすれば、アブラハムの心がどれほど痛んだでしょうか。だから神様はこの時もやはりアブラハムの心を推し量って、
「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」と、イシュマエルを通しても一つの民族を成し遂げるように摂理して下さったという事です。
   
結局、イサクという約束の跡取りを通して神様の摂理を成し遂げるにあたって、サラは、人の考えと人の方法で、イサクを通した神様の摂理を成し遂げようとしました。一方アブラハムは、神様の言葉に従い神様にお任せすることで、神様の考えと方法に従いました。実は、イシュマエルは人の考えが働いた結果として出た実でした。これも神様の摂理の中にあったことでしたが、サラがもし人の考えを働かせなかったら、イシュマエルが生まれることもなかったでしょう。しかし、イシュマエルは生まれて、このようなイシュマエルもアブラハムの子孫だったので、彼は父親アブラハムによって来る祝福を受けることができたのです。これと同様に、皆さんが神様の愛を受けることになれば、皆さんと関連した周辺のすべての分野が一緒に祝福を受けていくことになるという事です。また、神様の愛をさらに大きく受けることになれば、神様は皆さんの心が痛くならないように、多くのことを働いていかれるのを見ることができます。 
   

朝早くハガルとイシュマエルを送ったアブラハム

14節「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。」とある通り、私たちはアブラハムがどれほど神の言葉に従う人だったのかをもう一度悟ることができます。アブラハムは、ハガルとイシュマエルを送り出せという神様の言葉が伝わるやいなや、朝早く起きてそのことを行いました。「もう少し後で行かせよう」としたのではなく、神様の御心を知るや直ちに従順しました。慰めの言葉や財産を与えたのでもなく、ただパンと水の革袋だけを与えたまま去れと言ったのです。  

 

人間的な見方では薄情だと思うかもしれませんが、これこそ神様にすべてを任せ全面的に頼る姿事です。神様が「ハガルとイシュマエルを送り出せ」とおっしゃったので、その言葉にだけ従えば、その後は神様が責任を負ってくださるのです。アブラハムがこうすることによって、ハガルとイシュマエルは、むしろ神様のみわざ体験し、彼らを導く繊細な手を感じることになります。人の側で人の方法と考えを働かせれば、神様が働かれる幅はむしろ狭くなるという事を知らなければなりません。神様に100を任せれば神様は100全てに責任を負って下さいますが、50を任せて50は自分がしようとするならば、それだけ神様が働いて下さる領域を狭める結果になるということです。アブラハムはすべて完全に任せたので、神様も完全に責任を負うことができました。

ところが、アブラハムがこのようにパンと水の革袋だけを与えて送ったことには、一方で子供を愛する父親の心も込められていました。もちろんすべてを神様に任せたアブラハムですが、彼はハガルとイシュマエルが自分のいるところから遠く離れていくことを望んではいませんでした。その気にさえなれば手の届くようなところにいて、噂が聞こえてくるほどの距離に彼らが定着して暮らすことを願ったのです。だからといって、これが肉の考えではありません。アブラハムが肉の考えを働かせたとすれば、なぜ多くのしもべを付け、より多くの財産と糧食を与えて送らなかったのでしょうか?しかしアブラハムはすべてを神様に任せたので、いっさい人の方法や考えを働かせたわけではなく、「イシュマエルが近い距離に住んでいてほしい」と願う父の心があったのです。 それでは、このようにアブラハムがすべてを神様に任せた時、果たして神様がどのように働いてくださったのかを次の時間に続けて見ていくことにします。

結論

初信者や新しい信者のような場合は、彼らが信仰生活をどのようにすべきかをいちいち教え、導いてあげなければなりません。まるで乳飲み子の面倒を見るような気持ちで、細かいこと一つでも気を配ってあげなければなりません。しかし、信仰がある程度成長すると、いちいち教え、導いてあげるのではなく、今は自らが道を探すようにしなければなりません。もちろん、時によって訪問し相談を通して霊的にきちん歩めるように、常に関心と愛で接してあげなければなりませんが、今は霊の知識をある程度知って自らも体験できる信仰なら、この時は食物を食べさせるよりは、食物を食べる方法を教えてあげなければなりません。そうしてこそ信仰がより早く成長し、自らも自信を持つようになるのです。また、ある場合は訓練の中にあることを知りながらも、自分で通過して出てくるようにしてあげなければならない時もあります。訓練を受ける姿が大変そうだと思って、そばで助けようとするのがむしろ相手の信仰の成長を阻む場合もあるからです。   

では、皆さんの信仰は今どのような状態ですか?相変わらず誰かにいちいち食物を食べさせてもらい、どうすればいいのかを教えてもらう姿ですか?それとも、もうある程度自分でも分別をして神様の導きを受けて行っていますか?または、明らかな聖霊の導きの中で、神様の御心に完全に聞き従っていらっしゃるのでしょうか?まさにアブラハムのように神様の御心に完全に従い、正しい導きを受けていかなければならないでしょう。

これは、皆さんが肉の考えを完全に破り、小さなこと一つから神のお言葉に従う時だけ入ることができる次元です。そんな時、神様が皆さんを一段階、一段階深い霊の次元に導いていくことができます。 今日の本文に出てくるアブラハムの姿と、皆さん自身の姿を比較してみることで、私はどれほど神様の言葉に完全に従う姿なのかを点検してみてください。それで足りないところを発見して変化し、すべてがすなわち神様の深い御心までも伝えられる聖霊様の導きの中で、日々もっと深い霊の次元に入っていかれるように主のお名前でお祈りします。
 

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朝の学び143  創世記21章  

創世紀21:8-14
その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

序論

世の中に「10本の指を噛んで痛くない指はない」という言葉がありますが、よく親の子供に対する愛を語る時に引用します。10本の指を噛むと、みな痛いように、親の立場では、言うことをよく聞く良い子供にだけ愛がいくのではなく、たとえ親の心に合わせることができず、色々な姿によって心配を与える子供だとしても、皆同じ子供なので心を使うようになり愛がいくという意味です。しかし実際には、このような心を持った親が多くはないことがわかります。子供たちの中には悩みがあり問題を起こす子供がいれば、最初は我慢して忍耐し愛と関心を与えようと努力しますが、それが続いて歳月が過ぎれば、後には心から愛の感情が去り、さらには子供に対して憎しみの感情まで抱くようになる人たちもいます。

または、自分の心に合った子供だけに愛を与え、偏愛する人もいます。さらに、自分が産んでいない子供を自分が産んだ子供と一緒に育てなければならない状況なら、同じ気持ちで愛を与えるケースを探すのは容易ではありません。それでは、真理を知っている皆さんはどんな心ですか?今日の御言葉を通して、アブラハムの心とサラの心を比較してみながら、自分の心を点検する貴重な時間になることを願います。 
   

ハガルとイシュマエルを追い出してくださいと求めるサラ 

約束の子孫であるイサクは、身ごもりから誕生、そして成長に至るまで、すべてのことを神様がつかさどって行かれました。それで、イサクは父なる神様の優しい干渉の中で成長することができ、アブラハムはこのような神様の恵みに感謝し、イサクが乳離れする日に大きな宴を開いたのです。ところが、イサクが次第に成長するようになり、ハガルと彼女の子イシュマエル、そしてサラの間に内在していた葛藤がついにふくらんできます。9-11節「そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだとあります。

イシュマエルはたとえ正統の系図を受け継ぐ約束の跡取りでなかったとしても、アブラハムにとってはイサクのように愛らしい息子でした。もちろん、将来、神様の摂理がイサクを通して行われるようになるという事実を、誰よりもよく知っているアブラハムでしたが、だからと言ってイシュマエルを愛さなかったり、イサクと差別しようとする気持ちが全くなかったのです。 アブラハムの心は、イシュマエルとイサクが同じく自分の子供だったので、同じように愛を与えようとする気持ちでしたが、サラの心はそうではありませんでした。

サラは以前、自分の女奴隷だったハガルを夫に与えて跡継ぎを得ようとしましたが、実際にハガルが妊娠すると、その状況を我慢できずひどく虐待するに至りました。アブラハムの子供を妊娠したハガルが、自分を蔑視すると思ったからです。それでサラの虐待に耐えられなかったハガルが、サラを避けて逃亡までしなければならなかった状況でしたが、アブラハムを考えた神様は、すべてが益となるように働いてくださいました。神様は御使いをハガルに送り、彼女が産む息子に対する約束の言葉を与えながら、ハガルが家に帰るように働かれました。この事件を通して、サラも自分自身の行動が行き過ぎたことに気づき、ハガルも主の御使いの指示に従って、サラのしもべとして服従することになると、ひとまず表向きには和平が訪れたのです。 
    
しかし、これはただ表面だけで、お互いの感情を表に出さないことであり、その心から感情を捨てたのではなかったので、これは一時的な平和にしかならなかったのです。だから後日、再び以前と似た状況になると、結局その心の中に内在していた感情が、ついに葛藤として表に出されてしまいます。普段、ハガルとハガルの子であるイシュマエルに対して良くない感情を持っていたサラには、イシュマエルがイサクにする行動も決して美しく見えるはずがありませんでした。サラはイシュマエルによって、イサクにどんな害が来るかもと心配し、正統の系図を通して神の摂理を成すべきイサクと、そうでないイシュマエルとは共存できないという考えを持つようになりました。イシュマエルをいつしか目障りのように思ったのです。このように、サラは自分の子であるイサクとそうでないイシュマエルに対して明らかな差別の心を持っていました。

そんなある日、イシュマエルが息子のイサクをからかっているのを見ると、ついにサラはアブラハムに「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。」と要求します。以前、ハガルをひどく虐待し、ハガルが逃げるしかないようにした時と、全く変わらないサラの心を感じることができる姿でした。歳月が流れたにもかかわらず、以前に持っていた非真理の心を捨てたのではなく、心の片隅に常に押さえておいただけだということが分かります。サラがアブラハムの心を少しでも推し量って理解し、彼の善良な心に一部だけでも似ていたら、決してこのような言葉は出てこなかったでしょう。もしサラがもっと広くて善良な心だったら、イシュマエルも夫のアブラハムの子孫として生まれてきた息子なので、むしろイシュマエルも自分が産んだ息子のように、愛と関心を持って面倒を見てあげられたでしょう。また、イシュマエルがイサクにする行動も、嫌がらせをしているようには見えなく、兄弟の間でよく起こりうる、いたずら程度に寛大に考えて見過ごせたでしょう。そうしたなら、ハガルもサラの善良な心に感動し、結局は互いに和平を成して生きていけたでしょう。 
    
しかし、サラがそのような心になれないので、もう一度アブラハムの心に苦痛をあたえる事件が起きてしまったのです。もちろん、イシュマエルはイサクと一緒に跡取りになる供ではありませんが、アブラハムには同じように自分の子供だったので、彼を追い出せというサラの言葉に深く心を痛めることになります。今までの状況を調べれば、サラの心が真理に照らしてふさわしくないことが見られますが、これはイシュマエルやハガルも同じです。サラがただ一度の事件だけを見て、ハガルとイシュマエルを追い出さなければならないとは思わなかったでしょう。これまで積もってきた感情が、結局はイシュマエルがイサクをからかっている場面を目撃することで、溢れ出てしまったのです。

 だから、サラが考えるには、これ以上イシュマエルをイサクと一緒に置いていてはいけないという危機意識を感じるようになるまで、ハガルやイシュマエルにも完全な姿がなかったことが分かります。ハガルはもともとサラの女奴隷だったので、以前と同じ気持ちで仕えていればよかったのに、そうできなかったのであり、イシュマエルもイサクを実の弟とのように世話をして守って愛してあげればよかったのに、そうできなかったのです。このようにお互いに仕えることができず、お互いに理解できず譲歩できない姿によって、結局は和平が崩れるようになり、ハガルとイシュマエルは追い出されなければならない状況になってしまいました。このような姿を見ながらアブラハムの心は、非常に悩み苦しみを受けたのです。

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朝の学び142  創世記21章  

創世記21:1-8 
主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。

序論

前の時間には、父なる神様が周辺の異邦の民族にアブラハムの存在を現わし、彼の存在を確実に植えつけていく契機になった事件について調べました。まさにアブラハムが、妻のサラをゲラルの王アビメレクに奪われた事件でした。肉で考えればこの事件が心の苦しみを伴うことに見えるかもしれませんが、結果的にはむしろアブラハムに祝福でした。この事件を契機にアブラハムは、周辺の異邦人にまで、神様に愛され保証される預言者として心に刻まれるようになり、彼らにアブラハムをあえてどうすることもできない恐ろしい存在と感じるようにされたのです。それで創世記21:22に見れば「そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。『あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。』」と告白するのを見ることができます。このようにアブラハムの存在が周辺の異邦の民属の中にも植えつけられたので、アブラハムは彼らの勢力の中でも自分の人生の基盤を築き、将来形成される選民イスラエル民族の基礎を磨いていくことができたのです。 
    
もし周辺の異邦の勢力がアブラハムを単純な族長程度だと考えたなら、彼らは自分たちの勢力を広げる過程で、アブラハムを自分たちの勢力の下に入れるために虎視眈々と機会をうかがっていたでしょう。しかし、アブラハムは周辺の異邦の民族の間でも、決してむやみに接してはならない神の預言者と見なされたため、そのような周辺の脅威から守られることができたのです。もちろんアブラハム自らも、自分と自分に属した人々を守る力を持っていましたが、それよりは神様の保証される証拠が伴ったので、周囲の人々は彼に危害を加えようとはしなかったのです。 

    
詩篇127:1
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」とおっしゃった通り、神様が守って共にしてくだされば、完全に守られて保証されるという事です。アブラハムにはこのような証拠が伴ったので、妻のサラを奪われる事件が、以前のように肉の考えを働かせて生じたのではなく、神の摂理の中で許された事件だったことがよく分かります。もちろん以前、妻を奪われた時も、結果はすべてを働かせて益としてくださいましたが、今回妻を奪われる事件は、それ以上の祝福の実として出てきたのです。今日の本文はいよいよ約束の子孫であるイサクが生まれる内容です。 
   

神様の定められた時期と時に生まれたイサク  

    

1-2節「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。」とありますが、神様がイサクをくださったのがアブラハムのためであることを明確にしていらっしゃいます。前に神様がアブラハムにサラを通して息子を産ませるとおっしゃった時、これを聞いていたサラはその言葉を信じられず、つい笑ってしまいました。だから、このようなサラの信仰では、約束の子孫であるイサクを得ることができなかったのです。しかし、神様はサラを見たのではなく、神様の言葉を真剣に信じるアブラハムを見て、ついにサラが妊娠して息子を産むようにしたのです。 
    
これは今日も神様のはたらきを成し遂げるにあたって、頭になった人の信仰と行いがどれほど重要かを悟らせてくださいます。サラが息子を産んだのは、アブラハムの子孫として許されたことなので、たとえサラの信仰が足りないとしても、アブラハムの信仰を見て神様が働かれたことです。これと同じように、たとえ下の人たちの信仰は足りない場合だとしても、神様は頭になった人の信仰を見て働かれる場合が多いです。したがって、神様のはたらきを成し遂げるにあたって、頭になった人は神様に愛され信仰のある人でなければなりません。肉的な条件や外見を見るのではなく、霊的なことを優先して立てなければならないのです。このように神様はアブラハムの信仰を見て、彼に約束された子孫であるイサクを許されましたが、それが正確な時期に至って成就するのを見ることができます。 
   
人の考えでは「アブラハムにもう少し早くイサクを与えても良かったのではないか?」と思うかもしれませんが、
伝道者の書3:1「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」とおっしゃった通り、すべてのことには定めた時期があり、それを成し遂げる時があるという事です。そして、それを決める方はただすべてのことをご存知の神様なので、時期と時を神様が一旦決めておかれれば、人が急いでいるからと前倒しされるのではありません。人の側では神様の御心と摂理を信じて、変わらない信仰で祈りながら願うのです。アブラハムは、約束の子孫を許した父なる神様の言葉を疑うことなく信じたので、歳月が経ってもその信仰が変わらなかったのであり、結局、神様が決めた時期が次第に目に見える実として許されたのです。このように神様の考えと人の考えは違うこともありうるということを知って、決して人の側で神様の事を判断しようとしてはいけません。 
    
ところが、イサクを得たアブラハムについて
「年老いたアブラハム」と言っていますが、神様があえて年老いたアブラハムと表現した理由は何でしょうか?これは肉で見ればすでに年を取って老いて、とうてい息子を産むことができない状況であるにも関わらず、神様は彼の信仰どおりに働かれたという事を物語っているのです。このように、肉では到底望めず考えることもできないことを願って信じることが、まさに信仰です。アブラハムはこのような信仰を持っていたので、ローマ4:18「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」と記されています。皆さんの信仰はどれくらいですか?

神の言葉どおり従順するアブラハム  

    

続く3-4節「アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。」とあります。イサクという名前は、すでに神様が彼を産む前にくださった名前です。 創世紀17:19「すると神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』」と言われたのです。このようにアブラハムは神様がくださった言葉を忘れずに、それを心に刻んで行ったことを見ることができます。  
 
イサクが産まれてから8日後に割礼したのも同じです。
創世記17:12「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」という言葉に従い割礼を行ったのでした。前に神様が、アブラハムと彼の属したすべての男子に割礼を行うように命じた時も、アブラハムは話を受けたその当日に、割礼を行ったことを見ることができます。だから神様はこのように考えを働かせず、御言葉に完全に従順していくアブラハムを愛するしかないのです。5節には「アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。」と言って息子のイサクを産んだことが神様の摂理の中に正確な時を合わせて働かれたことをもう一度おっしゃっていらっしゃいます。

 

悔い改めの心と共に喜びと感謝の心で笑っているサラ 
      
6節では肉と霊の明白な違いが表れています。「サラは言った。『神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。』」と言ったが、サラは前にも神様が息子をくださるという話を聞いた時、それを信じられず笑ってしまいました。 「どうして90歳にもなったサラと100歳にもなったアブラハムから子供が生まれるのか」とサラ自身が信じられなかっただけでなく、彼の話を聞く人々の中でも肉の人はその話を信じられず笑うことになるのです。しかし、結果的にサラは神様の言葉通り、息子のイサクを産むことになりました。そうしながらもう一度笑うことになりますが、この時笑うのは喜びの笑いでした。これまで信じられず、望めなかったことを経験することになると、感謝と喜びが押し寄せてきませんか?自分が完全に信じられなかったことが悔やまれながらも、神に対する感謝と喜びによって生きるという喜びの笑いで笑うことができたのです。 
    
しかし、このように神様のみわざを体験して嬉しくて充満するからといって、彼女の心が変化するわけではありません。将来、以前と似たような状況に置かれることになるので、その中にあった悪の形が再び出てくることが分かりますが、その内容は次の時間に説明されるでしょう。 受けた恵みと充満さを持って、自分の心を割礼して変化させる機会にしなければならないのに、そうではなく瞬間の喜びと充満さで終わってしまうので、結局、心の割礼も果たせないまま時間が経てば、依然として以前の姿がまた出てきてしまうのです。肉に住む人たちは、直接見て聞いて体験するとしても、このようなしばらくの間の喜びと充満さがありません。あるきっかけを通して神様のわざを自分が直接見て体験した後も、依然として信じられず疑うことを見ることになります。
「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」と言った通りに、信じずに疑う人々にはいくら神様の生きている証拠を見せても依然として信じられず笑ってしまうのです。 
    
今日の本文でもう一つ悟らなければならないことは、サラが笑ったのが一方では恥ずかしさのためだったという事です。 自分が年をとって年老いた体で子供を産んだということを人々に言うのは恥ずかしいことですね。今日もこんな方がいます。 これはまさに神様が癒してくださったのに、恥ずかしいと言って証ししようとしない方々です。 しかし、神様はそれを喜びません。証しというのは、私を癒してくださって答えてくださった神様の前に感謝の告白であり、癒しと答の確信に対する信仰の告白です。
7節「また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」」とおっしゃったのも、肉では到底不可能なことを神様が成し遂げたという事をもう一度強調するためです。人の考えではサラがその年で子供を産んで乳を飲ませるということは想像できないことでしたが、サラが子供を産んだことは明らかな事実であり、これはただ神の能力だけで可能なことだという事実です。 
   

結論

神様が約束の子孫であるイサクを許したのは、アブラハムの信仰を見て働かれたことです。同じ言葉を聞いた時、アブラハムは信仰で受けました。反面サラは信じられなかったのですが、その違いはその後も現れるようになります。信仰で受け取れなかったサラは、息子のイサク一人を産むことで終わりますが、アブラハムはその後も6人の子供をさらに産みました。ローマ4:19「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」と言った通り、アブラハムは百歳になった頃にすでに自分の体が死んだようであることが分かりました。そのようなアブラハムが100歳でイサクを産んでも75歳をさらに享受し、6人の子供を産んだということは、彼の体が一時的に生き返ったのではなく、若返りしたという事実を物語っているのです。これがまさに魂が幸いな人とそうでない人の違いであり、アブラハムはどんな状況と環境でも動揺しない完全な信仰を持っていることを発見することができます。
   
当時、彼の周辺には多くの異邦の民族が住んでいて、異邦人たちと交流しなければならないことが生じざるを得ない状況でしたが、アブラハムの信仰は周辺の環境と条件から影響を受けませんでした。アブラハムの甥であるロトは、ソドムの町の人々の中で暮らしながら、信仰に多くの否定的な影響を受けたのとは異なり、アブラハムはたとえソドムのようなところに住んでいなかったとしても、異邦人の中で信仰を堅固に守り、むしろ周辺の人々に神様の生きておられ全能であることを示し、証しする人生を送りました。私たちもたとえ世の中で世の人々と接して暮らすとしても、世の中に染まっていくのではなく、むしろ神の子供になった権勢と光りの姿を通して、神を証しできなければなりません。これは結局、どれほど揺れない堅固な信仰とまっすぐな心を持ち、光の中で生きていくのかにかかっているという事に気づき、アブラハムのように本当に揺れない盤石の信仰の所有者になりますように、主の名前で祈ります。

 

朝の学び141  創世記20章  

創世紀20:1-18
アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。 彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。」そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。

ゲラルの王アビメレクに妻を奪われたアブラハム

ロトの二人の娘のように、自分の考えの枠組みによって肉の考えを働かす場合が多くあります。自分の限界の中で答えを探そうとすると、これが肉の考えになってしまうのです。私たちはこのような例を創世記12章に出てくるアブラムの場合を通して見てきました。飢饉を避けてエジプトに下ったアブラムは、自分の妻をそこの人々に奪われるのではないかと思い、妻に自分を妹だと言いなさいと言ったのです。もちろん、これは嘘ではありませんでした。実際、サライはアブラムの異母姉であり、これはアブラムが自分の考えの中でそれなりに最善の方法を求めたものでした。しかし、その結果はどうなりましたか?アブラムは結局、エジプトの王に妻を奪われ、自分の考えが間違っていることを悟ってから、神様の方法で再び妻を探すことになりました。このように、自分の方から見ると良い道が、時には神様の方から見ると全く違うことがあるのです。

その当時、肉の考えを働かせたことに対して大きな教訓を得たアブラハムが、再び似たような事件に出会うことになります。この事件は、肉的な状況だけを見ると、前にあった事件とあまりにも似ているように見えますが、それぞれの事件に対する霊的な意味は全く違います。以前にエジプトの王に妻を奪われるようになったのは、アブラムが肉の考えを働かせた結果であり、これによってアブラムは自分を発見し、徹底的に打ち砕かれる契機にすることができたのです。しかし、この事件は、アブラハムが肉の考えを働かせて始まったことではなく、神様がアブラハムを現わすためにお許しになったことなのです。

アブラムがエジプト王に妻を奪われた時と、今再びゲラルの王アビメレクに妻を奪われた時とは、アブラハムの信仰が全く違う状態でした。すでに長い歳月の訓練を通して肉の考えが徹底的に砕かれたので、全能な神様を全面的に信じて頼る信仰になりました。このようなアブラハムが、どうして以前の信仰状態で肉の考えを働かせて行ったことを再び繰り返すことができますか?だから今日の本文の事件は、神様の摂理の中で神様がすべてを導かれてなされた事件だという事です。これは将来、アブラハムとその子孫たちが一つの民族を形成していけるように徐々に準備させる過程でした。

神様は今回の事件を通してアブラハムがどんな人物であり、彼がどんな権勢を持った人なのかを周辺に確実に植え付けてくださったのです。このような神様の摂理の中で行われたことなので、結果を見ればすべてが働いて益とされ、祝福として出てくることを見ることができます。たとえアブラハムが彼の妻サラをアビメレクに奪われてしまったとしても、神様はアビメレクに決してサラに近づけないように夢を通して働かれます。創世記20:3「ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。『あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。』」とおっしゃいました。しかし、アビメレクの立場では言いたいことがありました。4-5節「アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」」と言ったのです。これは、アビメレクが、サラが他人の妻であることを知っていながら、邪悪な心から近づこうとしたのではないことを示しています。アビメレクのこのような心を神様も知っていたので、6節「神は夢の中で、彼に仰せられた。『そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。』とおっしゃいました。


アブラハムに祝福を与えるための訓練

続く7節には「『今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。』」とおっしゃいます。先程、神様が今回の事件を許された目的が、アブラハムがどんな人なのかを周辺にはっきりと知らせるためのものだと言いました。まさにアブラハムを預言者だとおっしゃって、アブラハムの祈りによって彼が生きられることをおっしゃっています。夢を見たアビメレクは恐れるしかなかったし、彼の話を聞いた臣下たちもひどく恐れるようになります。これはすなわちアビメレクと彼の臣下たちが夢の内容を信じたという意味であり、その心に善良な良い心があったことを物語っています。心が悪い人たちだったら、このような状況でむしろもっと悪を行うはずなのに、アビメレクと彼の臣下たちは夢に働かれた神様の言葉を信じ、この状況を解くことができる善良な方法を探すことになります。

アビメレクは、自分はたとえサラがアブラハムの妻ではなく妹だと思って娶ろうとしたとしても、これによってサラとアブラハムが体験しなければならなかった心の苦痛を何とか補償しようとしました。これもまた、アビメレクが善良な良い心を持った人だったことを示しているのです。もし邪悪な心を持った人だったら、むしろアブラハムとサラに嘘をついたと怒鳴りながら、ただ何もなかったように終えたはずですが、アビメレクはそうではありませんでした。14-16節「そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。『見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。』彼はまたサラに言った。『ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。』」と言いました。アブラハムにはもちろん、サラにも最大限の誠意を見せ、善で状況を解決していこうとしています。それ故に神様はアブラハムにこのようなアビメレクに恵みを施すようにされました。

祝福してくださるための神様の方法

アビメレクはゲラルという一国の王として、彼にとって最大の関心事は何でしょうか?物質が乏しいのでもなく、名誉と権勢が足りないわけでもない彼にとって、最も大きな関心事は、まさに代を受け継ぐ跡取りに関する問題です。したがって、神様はアビメレクにとって最も大きな関心と問題になりそうな分野を、アブラハムの祈りによって解決されるようにされたのです。これによってアブラハムの存在が彼らの心に深く刻まれるようにされました。すべての状況をご存知の神様は、このように最も確実な方法でアブラハムがどんな人であり、どんな権勢を持った人なのかを周辺に確実に植え付けてくださったのであり、共に大きな祝福までも許してくださいました。

これはアブラハムが肉の考えを働かせて起きたのではなく、神の摂理の中で行われたことだったことを確実に示す証拠になっています。神様の摂理の中で行われたことは、たとえすぐには損をするように見えるとしても、結果を見れば祝福であり、神様に栄光を捧げることになるという事実です。1999年に教会にあった試練も同じです。その当時は悔しい濡れ衣を着せられるようでしたが、私たちが神の摂理を信じて従順で忍耐し、善の方法で出た時に、今日の結果を見るとどうなりましたか?すべての誤解が解けており、私たちは以前よりさらに立場が高くなり、現れる実を通して私と本教会を確実に保証してくれています。今日、本教会で現れている数多くの神の力の働きを通して、父なる神様はどれほど栄光を受けておられますか?だから私たちはすべてのものを、実を通して分別しなければならないのです。次の時間は、約束の子孫であるイサクの生まれる内容についてみていきます。

結論

愛する皆さん、先に申し上げた通り、アビメレクは善良な良い心を持った人として、夢に働かれた神様の言葉を信じ、アブラハムを預言者として信じたので、彼にも結局はすべてを働かせて益とされる結果として出てくるようになりました。 彼がたとえ神の摂理を成し遂げるための道具として用いられた人であったとしても、善良な良心を持った人だったので、結果は祝福として出てきたのです。一方、出エジプトの当時、エジプトの王はどうでしたか?彼はモーセを通して働かれるその無数の神様の働きを見ても、むしろ心をかたくなに強くするので、結局は悲惨な最後を迎えてしまいました。それでエジプトの王は悲惨な最後を彼だけでなく、彼の民、臣下、エジプトの兵が共に悲惨な結果を迎えてしまったのです。アビメレクと比べてみると、あまりにも大きな違いがあることが分かります。

これがまさに善良な心を持った人とそうでない人との違いです。神様は人間耕作の摂理を成していくにあたって、様々な人々を用いますが、その中には神様を知らないが、善良な心を持った人もいれば、時には神様を知っていると言いながらも悪の心を持った人もいます。結局はその心の器なりに使われるようになります。ですから、ある人は羊の間に入っているヤギのような形で使われる人がいて、まるで映画の悪役のような役割で使われる人もいます。それでは皆さんはどんな形で使われているのでしょうか?当然、肉の考えを働かせた結果として出てきたモアブ人とアモン人のように、神の人々を訓練する杖のような役割ではなく、神の摂理を成し遂げる上で主導的な役割を果たさなければならないでしょう。 そして、神の国を成すにあたって、必ず必要な主人公たちとして出て来られるようにと主の御名で祈ります。

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朝の学び140  創世記19章  

創世紀19:30-38
その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。創

序論

ロトと彼のふたりの娘たちが、火のさばきが迫ったソドムを抜け出して、急いで避ける場所を探して入ったところがツォアルでした。元々ふたりの御使いたちは、ロトとその家族たちに「山に逃げなさい。」と言いましたが、さばきの兆候が現れ始めるとロトは恐ろしくなり、ひとまず急いでソドムから近いところにあるツォアルに避けて入ったのです。ところが、ツォアルにしばらく身を避けるようになったロトは、その町の人々の暮らしの姿を見ながら、ここは少しでも長く留まってはならない所であることを感じるようになります。火のさばきを受けるしかなかったソドムの町の悪によってねじれた状態を目の当たりにしたロトは、ツォアルの町の人々の姿を見ながらソドムの町を連想するようになったからです。

ツォアルもソドムとゴモラとはそう遠くない所に位置する町で、ツォアルの町は自然にソドムとゴモラから多くの影響を受けるようになりました。ですから、ソドムとゴモラとまったく同じではなくても、ツォアルの人々もやはり享楽的な文化にずいぶん染まっていたのです。ロトはこのようなツォアルの様子を見ながら、何とかそこを早く離れたいという気持ちでした。もうそのような霊的にねじれている世で一緒に暮らしたいという気持ちがなかったからです。むしろ山の中に入って暮らしてでも、世の情欲に染まって生きていく人々の中にとどまりたくなかったのです。

ソドムの滅亡を通して罪悪の結果について心に徹底的に刻まれたロトは、ツォアルの姿を見ながら滅亡を余儀なくされたソドムの姿が浮び上がると、彼らの中に住むことが恐ろしくなったのです。ツォアルも彼らのねじれた生き方から立ち返らなければ、結局ソドムとゴモラがそうだったように滅亡してしまうからです。それで、ロトはふたりの娘たちと一緒に山に登り、ほら穴の中に住むようになります。彼らが山に登って暮らしたということは、霊的に世の中とは区別される新しい人生を生き始めたという意味でした。

このように、ロトと彼の娘たちが、ある意味で楽に生きていける小さな町を離れ、あえて苦労せざるを得ない山に登ったということは、肉的な不便さや苦労を喜んで受けてまでも、世の中とは区別された新しい真理の人生を生きるために、努力したということです。ロトのこのような姿は、今日を生きるクリスチャンたちにも同じように要求される姿です。まことのクリスチャンならば、世の人々と同じように世に浸って生きるのではなく、当然区別された人生を生きなければなりません。世の情欲を追い求めて生きていくのではなく、世を断ち切ろうと努力して、み言葉通りに生きようと火のように祈って、聖霊に満たされなければならないのです。

ところで、ロトは世と区分された人生を生きるために山に登ってほら穴に住んでいましたが、世とすべてを断絶したまま、世捨て人として生きたという意味ではありません。そこでの生活を実現するために、時には近くの町や近隣の人々との交流が必要な場合もありました。 それでも、ロトは決してその心を世に注ぎ出さず、ロトの娘たちもこのような父の意向に従いました。そのため、ふたりの娘たちは彼らの配偶者を求める方法がありませんでした。ねじれた世の中で生きていく人々には心も渡さなかったので、まして彼らの中から配偶者を見つけることは考えられないことでした。世の人々の中で配偶者を求めるということは、ロトはもちろん、父親のロトの心をよく知っているふたりの娘たちもやはり決して望まないことでした。

父ロトを通して子孫を伝えたロトの二人の娘

本文19:31-32節を見ると、上の娘が下の娘に「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」と言いますが、これが肉の考えであり、その結果が子孫代々に至ることが分かります。もちろん異邦の民族もやはり人間耕作の摂理の中に必要な役割を担うことでしたが、モアブ人とアモン人は後日イスラエルの歴史において、イスラエルが神の意思から抜け出した時は彼らを悟らせる杖として使われ、イスラエルが神の意思の中で栄える時は、イスラエルから支配を受け貢ぎを捧げる属国になったのです。このように、ロトの娘たちが肉の考えを働かせて産んだモアブ人とアモン人は、神様が選民イスラエルを通して人間耕作の摂理を繰り広げていく過程において、一つの周辺要素として使われたのです。 

しかし、ロトと彼の娘たちが、将来、自分たちが生んだ子孫と叔父アブラハムの子孫が、このように互いに敵対する関係になるだろうと果たして考えられたでしょうか?しかし、肉の考えを働かせた結果が、後日このように心が痛む結果を生んでしまいました。ロトのふたりの娘たちが世と相容れないために彼らの中で配偶者を求めないようにしたのはとても良いことです。第二コリント6:14によれば「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」と記されています。神様を愛し、霊を慕う人なら、どうして世を愛し肉に染まっている人と共にしたいと思いますか?したがって神様の子供なら、配偶者を求める時も神様の御心が何かを悟らなければなりません。

旧約聖書を見ると、何度も異邦の女性を妻として娶ることに対して警戒しています。しかし、この言葉がただ肉体的に異邦の女性を娶ることが神様の前にふさわしくないという意味ではありません。神様が異邦の女性を妻として娶るなとおっしゃる根本的な理由は、それによって現れることになる結果のためです。ネヘミヤ13:26-27によれば「『イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。』」と言っています。それは、異邦人の女性が惑わすので、彼らが行う罪悪に一緒に染まることになるからです。

ところが今日、神様を信じる子供たちの中にも、信じない世の人と結婚する場合があります。もちろん、神様を信じない人と結婚すること自体が無条件に駄目だという意味ではありません。たとえ神様を信じない人と結婚するとしても、相手を主に導き、一緒に信仰生活をよくしていけば良いでしょうが、もし神様を信じない人と結婚して、自分も世に落ちて神様を遠ざけるようになれば、むしろ結婚しない方が良いのです。もちろん結婚した当時は、「私がこの人を伝道して信仰生活ができる人にしなければならない」と思うでしょうが、実際に結婚してからは状況が思ったほど容易ではない場合が多いのです。信仰生活がよくできた人も、結婚してからはなまぬるくなる場合がありますが、まして信じない世の人と結婚して、以前のように熱く信仰生活をするということが思うようにならないということです。

ロトのふたりの娘たちも、以前はソドムの人の中で配偶者を求め婚約までしていた状況でしたが、今は新しい人生を始めようと決心して、世の人の中で配偶者を求めようとせず、不便さと苦労に耐えながらも、世と区別した生き方をしようと努力しました。しかし、自分たちの限られた考えの枠の中で方法を探しているうちに、結局は肉の考えを働かしてしまったのです。もし、ロトのふたりの娘たちが考えを働かす前に、先に自分たちの気持ちを父親に率直に明らかにしていたらどうなったでしょうか? 真理の中から良い方法が見いだせたでしょう。ロトは叔父のアブラハムを思い浮かべたはずです。つまり、今自分たちが住んでいる周辺では、娘たちの配偶者になるような人を求めることはできませんが、あえて配偶者を求めるには叔父のアブラハムを訪ねればいいと考えるのです。アブラハムと共にする人々の中には、それでもアブラハムから教えを受け、世に染まらず真理の中で生きていこうと努力する人がいるはずだからです。

また、ロトの娘たちも肉の考えを働かせず、神様に道を導いてもらうために祈ったとすれば、父親と相談しなかったとしても、父親のロトの心と同じように導かれたはずです。しかし、ロトのふたりの娘たちは一つの方法以外は考えられず、結局自分たちの枠の中で肉の考えを働かせ、今日の本文のような出来事が発生してしまったのです。

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朝の学び139  創世記19章  

創世紀 19:23-38
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。

徹底した災のさばきを受けたソドムとゴモラ

神様のさばきがどれほど徹底したものだったのか、25節「これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」とあります。地面に生えているものだけでなく、地の中まで打ち返すような大惨事に見舞われてしまったのです。だから、ソドムとゴモラに途方もない災いが臨んでいた時、遠く離れたところにいたアブラハムもその事実を知ることができました。27-28節「翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」とあります。この時、アブラハムがその朝早く起き、神様と会ったところに立ってソドムとゴモラの方を眺めたということは、アブラハムがすでに、いつソドムとゴモラに審判が行われるかを知っていたことを物語っています。アブラハムは一度おっしゃったことを必ず行う真実な神様を知っていたので、時が来て正確にさばきが行われることも分かりました。しかし、どうしてじっと座っていられたでしょうか。ソドムにいる甥のロトを思い、また滅亡の中におかれているソドムとゴモラの人々を思い、そこを眺めていたのです。 
    

「翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」アブラハムはどんな人でしょうか?何とかソドムに臨むさばきがおさまることを願う切実な気持ちで、最後まで神様の前に、ソドムに義人10人だけいても滅さないでほしいと申し上げ懇願しました。父なる神様に似て、憐みと慈悲の心が臨んでいたので、一人でも滅ぼさずに救いに至ることを願う気持ちでした。父なる神様がこのようなアブラハムの心をどうして知らないでしょうか。しかし、すべては正確な公義の中で行われるため、ソドムは結局、義人10人がいないためさばきの災いに遭ってしまったのです。 
    
神様は愛と憐みと赦しがない方なのでしょうか。それも必ず公義の線を越えない範囲内でなされるほかはないということを皆さんは肝に銘じ、常に公義の中に留まり、神様から守られ愛され祝福を受けていくことをお願いします。アブラハムが残念な気持ちでソドムとゴモラの方を眺める時、そこでは煙がかまどの煙のように立ち上っていました。まるで陶器を焼くために焚いた火が煙を立てて燃えるように、ソドムとゴモラも火と硫黄の雨の中で燃えていたのです。まさに
黙示録21:8「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」」とおっしゃったように罪の結果は永遠の地獄なのです。

 

このようにソドムとゴモラとその周辺は徹底した災いのさばきを受けたので、今日までその土地が死んだ土地になってしまいました。土地が生命力を失って、これ以上何も住めない土地になったのです。神様の呪いが臨むとき、どんな結果を生むことになるかをはっきりと示す手本になっているのです。イエス様から呪いを受けたカペナウムとベッサイダもこれと同じです。ここは以前は栄えた都市でしたが、イエス様の呪いを受けた後、土地が生命力を失い、その周辺で水も見つけられない土地となり、ここもやはり呪われた土地の手本になってしまいました。ところが、私たちがソドムとゴモラの審判で一つ注意しなければならないことは、そこに臨んだ審判がソドムとゴモラに属した周辺の状況にまで該当したという事です。これはつまり何を意味するのでしょうか?私一人の犯罪が時には自分だけでなく、自分に属した周りにまで影響を与えかねないという話です。
    

申命記28:15-19によれば、「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。」とおっしゃいました。 
    
数週間にわたって大礼拝を通して聞かれた通り、自分に来るべき懲らしめや災難が、霊的な紐がつながっている他の人におこったり、関連した周りのこととして現れることがあるのです。ですから、時には家族の中で一人が病気だと言った時、その人にだけ原因があるのではなく、家族全体に悟らせるための場合もあれば、時には夫婦や親と子供という霊的な絆の中で代わりに病気を患う場合もあります。だからといって、すべての病気がこのような理由だというわけではありません。ただ、病気や何らかの問題を解決してもらおうとする時、「もしかしたら、私はこのような関係の中で問題が臨んだのではないか?」と点検してみてくださいという意味です。家族の中の誰かに問題がある時、それを通して自分をもう一度点検してみる機会を与えてくださるという意味です。 
   

アブラハムによって救われたロト

続く29節には、ロトが救われたのは、神様がアブラハムを覚えておられたためであることが明らかに出ています。 「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」と言いました。 皆さんもアブラハムのように神様から愛される人になれば、皆さんに属したすべてのものが一緒に祝福を受けるようになります。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」という言葉のように、神様から義人だと認められた人の祈りはそれだけ霊的な力と権勢が伴うことになります。  
 
ヨセフはまさにそのような人だったので、
創世記39:3-5「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」と記されています。 
   

ソドムとゴモラのように悪でねじれていたツォアル

30節を見ると、「その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。」とあります。御使いたちがソドムの滅亡を避ける場所として最初にロトに示したのは山でした。しかし、ロトがツォアルを選んだため、ツォアルの町とそこの民はソドムとゴモラの審判とともに滅亡する状況でしたが、もう一度機会を得ることになりました。ロトと彼の家族がツォアルに入ったので、神様はロトと彼の家族を救おうとツォアルの町は審判の災いから除外してくださったのです。ツォアルもソドムとゴモラの影響で、すでに悪でねじれていたところでしたが、ロトによって審判を免れる機会を得たのです。ところで、ロトがこのツォアルに住むことを恐れたのはどういう理由でしょうか?それは、ツォアルがどんな状況だったのかを物語っているのです。ツォアルはソドムとゴモラの審判を見たにもかかわらず、依然として立返らずに悪でねじれた人生を生きていたのです。だから、それを見守るロトには、再び恐怖が迫るしかないのです。 
    
ソドムがなぜ審判を受けたのかをあまりにもよく知っているロトとしては、ツォアルの状況を見ながら、ここも例外ではないということに気づいたのです。審判を避けてソドムを離れてきたが、ここツォアルで再びソドムの人々が行っていたねじれた人生の姿を見ることになると、「これ以上ここに留まってはいけない」という気がしたのです。ロトはソドムの審判を見ながら、罪悪の中から徹底的に去ることを誓ったので、ねじれたツォアルには少しでも滞在したい気持ちがありませんでした。それで最初、御使いたちが指定してくれた通り、山に登って洞窟に住んでいたのです。山は霊的に世と区別された人生を送ることができる所で、ロトが山に登って暮らしたということは、もう世を断ち切って新しい人生を生きようと決心して努力したということを物語っています。このように山でふたりの娘と暮らしていたロトに、人の考えでは少し理解できない事件が発生することになります。ロトのふたりの娘たちが父親のロトを通して種族を保存し、繁栄させることになる事件です。それでは、ロトのふたりの娘たちがなぜこのような行動をしたのか、次の時間に続けて説明します。

 

結論

時には神様が罪の行いに対して、苛酷なほど大きな訓練や懲戒を許す場合がありますが、これは神様が愛と憐みと赦しが不足しているためではありません。神様が大きな訓練や懲戒を許すのには大きく2つの理由があります。一つ目は罪の結果に対する手本です。他の人々に罪の結果について徹底的に悟らせることで、同じ罪の中に落ちないように警戒するためです。ソドムとゴモラのような場合です。一方、ニネベの民はソドムとゴモラと同じ道を行くようでしたが、徹底的に悔い改め立返った結果、審判の災いを避けることができました。神様が聖書にこのような事件を記録しておいたのも、まさに後代の人々に手本として決して滅びに至ってはいけないことを願うからです。 
    
二つ目は、徹底的に悔い改め、元に戻すためです。神様は愛する子供が間違った時、むしろより大きな代価を払わせます。ダビデ王の場合も、忠誠した民を異邦人の手によって死なせた罪により、苛酷なほど激しい訓練を受けることになります。しかし、これがダビデにとっては祝福でした。その訓練を通して徹底的に自分を発見し、神様の前に心合わせる者に変化することができたためです。 
    
ですから、皆さんの中にも試練や訓練の中にいらっしゃる方がいれば、これを通してむしろ自分を発見し、変化する祝福の機会にして下さい。 すべての試練や訓練には必ず理由があるのであり、それをどれほど霊で悟り、価値あることとして受けるかによって、同じ試練や訓練を受けた人の間にも大きな違いが生じるのです。ただ、過ちに対する代価を払う次元にとどまってしまう人もいるわけですし、それをきっかけに二度と同じ姿が出ないように、自分の中にある肉を見つけて脱いでしまうので、霊に変化する機会にする人もいるのです。 
    
私たちが信仰生活をするとき、必ず訓練を受けるようになりますが、どのように受けるかが霊的な成長に大きく影響を与えかねないという事実に気づき、自分に近づく小さな訓練一つでも疎かにせず、自分を完全にさせる契機にして下さい。そのため、ソドムの滅亡を通して、ロトがしばらく滞在しようとしたツォアルからもすぐに去ることができたように、訓練を通して得た悟りが能力となり、迅速に肉から離れ、霊に全き霊に入って行かれますよう、神様の御名によって祝福してお祈りします。

 

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朝の学び138   創世記19章  

創世紀 19:23-30
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。

四つの生き物

創世記8:1-2に、洪水のさばきが終わるとき、「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。」とあります。神様はまず、洪水のさばきのために張り裂いた水の源をふさがれました。また、第二の天の水がこれ以上第一の天の地球に降らないように、天の水門も閉じられました。ところが、第一の天と第二の天の間の空間を、完全に閉ざされたのではありません。神様が「地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」と書いてあります。ここでいう「風」とは、自然の風ではありません。神様が用いておられる四つの生き物によって、途方もない風を起こされたのです。それで、地球をおおっている水が、水蒸気などの形で再び第二の天のエデンに上がるようにされました。このようなわけで、聖書には、天の水門が「閉ざされた」と書かれているのです。このように、第二の天のエデンにある物が、第一の天に出たり入ったりするとき、神様は四つの生き物を用いられます。この点も皆さん、覚えておかれますように。

神の七つの御霊と四つの生き物は人の心の奥まで探ります。黙示録5:6後半節を見ると、使徒ヨハネが小羊、すなわち、主を見て、「これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」と言いました。ここで七つの御霊を「七つの目」にたとえましたが、これは七つの御霊が「探って測る役割」をするからです。四つの生き物も、神を護衛するだけでなくて、人の行ないと心を探る役割も果たします。特にわしの生き物は、各人が神のみことばをどれほど心に刻んで、それを実践しているのか調べます。わしは視力がとても良くて、遠くにいる小さい餌食も正確に捉えます。このように、わしの生き物は一寸の誤差もなく、おのおのの心を調べるのです。心の奥まで正確に見分けます。

私たちは聖書を通して、御使いと神の七つの御霊、四つの生き物のような霊的な存在がおのおのの一挙手一投足を調べていることがわかります。神は仕える霊を遣わされ、私たちの言葉と行ないはもちろん、心の奥までご覧になります。神がこのように正確に測るために力を注がれる理由は、けちをつけて信仰を低くしたり、罰を与えるためではありません。少しでも多くの機会を与えて、さらに進んで報いを与えたいという心で正確に測られるのです。

示録4:5-9「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」

四つの生き物は、ケルビムのかしらとして、護衛の大将のように最も近くで神様に仕える存在のひとつです。その権威もやはり大したものであり、その下にいる数多くのケルビムを指揮します。時によっては、神様の命令を直接受けて遂行したりします。四つの生き物については、黙示録とエゼキエル書にも詳しく説明されています。しかし、その内容だけを見ては、四つの生き物の姿を正確に描き出すことはやさしくありません。霊の目が開かれて、直接見てこそわかります。たとえば、預言者エゼキエルは、エゼキエル1:6で、「彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」とありますが、使徒ヨハネは、黙示録4:8「それぞれ六つの翼があり、」と言いました。

これは四つの生き物が合体された姿を見て、それぞれの翼がつながったり重なったりする姿を表現したので、ふたりの記録に差があるのです。だからといって、聖書が間違って書かれたという意味ではなく、むしろこのように違って書かれることによって、四つの生き物の姿をさらに正確に伝えてくれるのです。合体された時と分離された時、また、どの方向から見るのかによって、その姿が変わるということです。四つの生き物は、文字どおり生き物四つが一つになっているケルビムです。四つが合体されたり、それぞれ分離されたりします。全体の形は人に似ていて、頭は一つですが、頭の四面にそれぞれ四つの顔があります。四つの生き物は後ろに背を向けて行ったり、頭を左右に回したりすることがないので、分離された四つの生き物の正面から見える顔が、それぞれその生き物を代表する顔になります。四つの生き物の顔はおのおの、人、獅子、牛、鷲です。

 

黙示録4:7に、「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」とあります。実際、四つの生き物を正確に見ることはやさしくありません。それほど霊の目が明らかに開かれた人であるべきで、神様が許されてこそ見ることができます。四つの生き物は特別な場合を除いては、神様の御座の周りを離れないし、その役割がかなり重要で隠密なので、神様もよく表に現さず、隠されるのです。ところが、私たちの教会には、数年前に、この四つの生き物の姿と役割について明らかに解き明かされ、霊の目が開かれた何人かに見せてくださいました。四つの生き物は、一般の天使や天の軍勢とは違って、とても怖くて、見ている人に脅威までも感じさせます。全体の色も少し暗くて濃く、非常に強くてがっちりした感じを与えます。一つに合体されていた四つの生き物が、何かの命令を遂行しようとする時は、あっという間に解体され、四方に飛んで行きます。四つの生き物はいつも前にだけまっすぐに行き、その速度がとても速いのです。

エゼキエル1:12に、「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。」とあり、エゼキエル1:14には、「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」とあります。そして黙示録4:8節に、「この四つの生き物には、その回りも内側も目で満ちていた。」とあるように、この四つの生き物は全身が目で満ちているのです。これは、彼らの役割が神様の近くで守ることですから、当然周りをもれなく見回すためですが、もう一つの目的は、神様の命令を受けて、この地上をあまねく見回すためでもあります。四つの生き物は、神様と直接関連した罪があるとき、神の命令に従って動きます。たとえば、聖霊をけがし、冒涜し、逆らう罪や、神様にひどく立ち向かって公義の線を超えた場合、この四つの生き物が直接災いや患難の審判を下すのです。ソドムとゴモラの審判の時も、四つの生き物が直接命令を受けて遂行したのであり、将来、七年患難の時にも四つの生き物が直接かかわるようになります。

 

ところで、四つの生き物には全体的な使命もありますが、おのおのが持つ固有の使命と役割があります。まず人間の顔をした生き物は、ケルビムに命じて彼らを動かす権威があります。彼が口を開けて命じるとき、ケルビムが動きます。第二の天にいるケルビムも、この人間の顔をした生き物の命令に従って動きます。次に、わしのような生き物は、天の扉を開いたり閉じたりする権威があります。彼の羽ばたきによって霊の世界の扉が開きます。したがって、天から雲が出たり入ったりするのも、まさにこの生き物が第二の天に通じる扉を開いてこそ可能なのです。また、霊の世界の扉を開いて、移動する星や、二重以上の丸い虹が見られるようにするのも、まさにこの鷲のような生き物が関わるのです。獅子のような生き物は、災いを働かせる権威があります。彼が口を開けて火の災い、疫病の災いなどが臨むようにするのであり、またその災いを収める権威もあります。最後に、雄牛のような生き物は、第一の天で天気をつかさどる権威があります。雲を集めたり雨を降らせたりすること、または雨を止ませたり台風を動かして消滅させたりすることなどが、まさにこの生き物の権威でなることです。

四つの生き物は、このようにそれぞれの使命と役割がありますが、四つの生き物が連合して、その途方もない権威で同時に働く場合も多いです。神様はまさにこのような途方もない権威を持った四つの生き物をつかさどられ、公義に従って天気を動かして、災いを下すことも、また収めることもあり、霊の世界の扉を開いて驚くべき現象を現すこともあるのです。ところで、もしかしてある方々はこのような四つの生き物の姿についての記録を読むとき、「ちょっとおかしい形だな」と思うかもしれません。しかし、実際に見ればそうではありません。もちろんその威厳と権威がものすごくて、見ている人に恐れまで感じさせますが、彼らは神様のそばで直接警護する存在ですから、当然近づけない威厳と権威があるべきです。世の王も、最もすばらしくてりりしい者を選んで護衛させるように、神様を警護する任務を任された四つの生き物も、実際に見れば、とても威厳があって立派でありながら美しい姿なのです。

このような四つの生き物が神様の御座の前で告白する内容が、黙示録4:8-9に出てきます。「彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」とあります。天国では、神様の栄光の光が新しいエルサレムからパラダイスまでいつも照らしているので、暗やみや夜がありません。それでも「昼も夜も」と表現したのは、この地上に生きている人が理解できるように表現したからです。つまり、休まずにいつもそうする、という意味です。聖書には、人が肉的に考えると、誤解する表現がたびたびあります。たとえば「休まずに祈りなさい。」とあるからといって、それが24時間、一年中ずっと祈りなさい、という意味ではありません。いつも祈る心であり、その心が神様に向かっていなさい、という意味です。祈る時間には当然、心を尽くして神様の前に祈るべきであり、祈らない時間だといっても、心だけはいつも神様に向かっていなさい、という意味です。

このように、四つの生き物が昼も夜も神様の御座の前で栄光と誉れと感謝をささげて賛美をするとは、ただの1秒も休まずにそうするという意味ではなく、いつも心を尽くして神様を賛美して崇める心でいる、という意味です。時には実際に聞こえる声で告白したり、時には聞こえないけれど、心から告白したりする時もあります。ところで、天国では実際にいつも賛美が絶えません。四つの生き物のほかにも、賛美だけのために造られた天使もいて、何よりも救われて天国に行った神様の子どもたちからは賛美が絶えないのです。永遠に休まずに神様を賛美して崇めても、どうして神様から受けた恵みへの感謝を全部表すことができるでしょうか?天国の所々ではいつも宴会が開かれるので、そこで誰でも思いきり賛美して、神様に心から香りがささげられるのです。また、宴会でなくても、いくらでも賛美で神様に栄光を返すことができます。音のある賛美でも、心の香りでも、心の感動でもささげるのです。このように四つの生き物も、その心を尽くしていつも神様を恐れ敬い、賛美しています。彼らは神様の前に「聖なるかな」と告白しています。

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朝の学び137   創世記19章  

創世紀 19:23-30
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。

序論/ソドムが火の審判で滅亡する中で

ロトと彼の家族が救われた最大の理由は、まさに神がロトの叔父であるアブラハムを覚えられたからです。義人アブラハムがロトを常に心に抱いているので、彼と霊的な紐がつながっていたロトには救いの機会が与えられたのです。しかし、ロトにいくら機会が与えられたとしても、ロト自らがその機会をつかまなければ、決して救いの道が開かれることはできませんでした。ロトの家族も同じでした。ロトの家族がロトの言葉を信じて、ソドムにあるすべてを後にしたままロトと一緒にソドムを離れたので、彼らにも救いがあったのです。このような救いの原理は、今日も同様に適用されます。私たちが救い主なるイエス·キリストを信じる時、イエス様の血によってすべての罪を赦され救いに至ることになるのです。

ヨハネの手紙第一1:7によれば「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と記されています。唇だけで「信じます」と言って私たちのすべての罪が許されるのではなく、光である父なる神様に似て私たちも光の中で生きる時だけ、イエスの血が私たちのすべての罪をきよめるということばです。したがって、救われた神様の子供なら、当然、以前身を置いて生きてきたソドムのような闇の世界から出てきて、真理の光の中で生きていかなければならないのです。自らはいくら「信じる」と告白しても、その姿が以前と変わらず世の中に留まっているとすれば、彼はまだソドムを離れたのではありません。 

ところが、ロトと彼の家族がソドムを離れたように、一旦世の中を後にして去ったとしても、それで完全な救いを成し遂げたわけではありません。ロトの妻は御使いたちの警告を覚えられずつい後ろを振り向くと、塩の柱になってしまいました。これは今日も同じです。イエス·キリストを迎えて聖霊を受け新しい被造物として生まれ変わったとしても、心から世に対する未練と欲を完全に脱ぎ捨てなければ、いつかそれによって世を再び振り返る場合が起こりえるのです。再び闇が好きになり、昔の姿に戻ってしまうのです。聖書にはこれを警戒する言葉が色々な所に出てきます。 
 

ローマ6:6によれば「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」とあり、またガラテヤ5:1にも「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」とおっしゃいます。 
ロトと彼の家族たちに
「「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」」と警告したように、私たちが行かなければならない最終目標である天国に至るまでは、決して世を振り返ったり、信仰の行軍を止めてはいけません。 ロトと二人の娘たちも、自分たちが長い間生きてきたソドムの町を、もう一度振り向いて見たかったのではありませんか?しかし彼等は、御使いたちの警告に従いその誘惑に勝つことができ、結局救いに至ることになったのです。

このように皆さんも天国に向かって走っていくにあたって、時には近づいてくる誘惑と迫害に勝たなければなりませんが、そのために最も重要なのが祈りです。マルコ14:38にイエス様も弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」」と言われました。心の中では「それはやめよう」と切に願っていますが、まだ捨てられていない罪の性質によって結局、肉に負けることになれば誘惑に陥ってしまうのです。ですから、肉に負けないためには目を覚まして祈り常に聖霊に満たされて、上から供給してくださる恵みと力を受けなければならないのです。信仰生活をしながら祈らない方々は、いくら信仰の年輪が古いとしても心に割礼ができず、聖霊の御声と主管と導きを受けることができないのです。

 

ソドムとゴモラに火の審判を執行した四つの生物

 

ソドムとゴモラの審判は、後代の人々に罪の結果がどんなものかを示す手本のようなものです。新約においてもソドムとゴモラが何度も引用されるほど、ソドムとゴモラとは罪と悪の象徴であり、将来あるべき罪の裁きに対するモデルなのです。このように重要な意味を持つできごとなので、神様はソドムとゴモラを審判する時、単に御使いたちを送られたのではなく、御霊の神と二人の御使いのかしらを遣わされました。直接ソドムとゴモラの状況を観察し正確な公義の中でさばきをするためでした。後代にまでその影響が及ぶとても重大なさばきなので、御霊の神ご自身が御使いのかしらたちを伴って来られたのです。正確な公義の中で最後の審判が下されると、それに従ってさばきを執行したのは、まさに「四つの生きもの」でした。

四つの生きものとは、文字通り生きもの四つが一揃いになっているケルビムのことです。それぞれの生き物に頭が一つありますが、頭の四面に人(人の子)、獅子、子牛、鷲の顔があります。このように四つの顔を持つ生きものが計四つありますが、これを総称して「四つの生きもの」と言います。四つの生きものは神様を護衛し、その命令に従って親衛隊のように動く存在です。彼らの権勢もまたすごくて、神様の意思によって審判する権勢まで持っています。彼らがどれほど大きな権勢を持っていて、神様と直接関連があるかについては、エゼキエル1:24-26のことばを見ただけで分かります。「彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。」また、エゼキエル1:14には「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」と記録しています。四つの生きものは、神の命令が下されれば、少しの遅滞もなく稲妻のひらめきのように走って、その命令を遂行するのです。 
    
では、四つの生きものが遂行する使命はどのようなものでしょうか?四つの生きものは、神と直接関連した罪がある時、神の命令に従って動きます。例えば、聖霊の妨害、冒涜、反逆のような罪です。また、四つの生きものは、ある民族や国があまりにもひどい悪を行ってその罪の代価としてさばかれる時、直接さばきを遂行する役割をします。今日の本文に出てくるソドムとゴモラの審判のような場合です。ところで、四つの生きものがそれぞれ果たす役割がそれぞれ違います。もちろん、四つの生きものは別々でありながら、まるで一つのようにいつも一緒に動くのを見ることができますが、それでも状況によって主導的な役割をする生きものがいるのです。

 

ソドムとゴモラに火の審判を下した時、四つの生きものの中で、火を吐き出す権勢を持った獅子の生きものが、主導的な役割を果たしました。このように災いをもたらす権勢を持った獅子の生きものは、どんな時でも口を開くのではありません。その口を開く場合は災をもたらす時、または災いを収める時です。その他に、人の子の生きものはケルビムに命じて働かせる権勢、鷲の生きものは天の門を開けて閉じる権勢、子牛の生きものは天気の変化と気候に関することをつかさどる権勢があります。ソドムとゴモラに雨のように下った硫黄と火のさばきの場合は、硫黄と火を吐き出す災いを主導する獅子の生きものと、天の門を開けて閉じる権勢を持った鷲の生きものも補助的な役割を果たしたのです。 

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朝の学び136   創世記19章  

創世記19:15-22   
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。0 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。

ロトがツォアルに入ることを許した神様

 このように災いの兆しに怯えて震え、近くにあったツォアルへ逃げようとするロトの願いに、21-22節「その人は彼に言った。『よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。』それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。」とあります。 ロトがより完全に神様を信じて頼って「山に逃げなさい」という言葉に最後まで従順だったら良かったのですが、ロトにはそれだけの信仰がなかったのです。このようなロトの言葉を聞いて神様はもう一度慈しみを施して、ロトがツォアルに入ることを許されます。そして、ロトがツォアルに入ることも、結局はすべてを働かせて善を成すきっかけになります。 当時、ソドムとゴモラは、川とは言えないほど小さな河川を隔てた都市で、多くの民と文明が発達した大きな町でした。一つの町のように、人々が互いに自由に行き来し、生き方の姿や風習もまた世的な享楽文化も似ていました。つまり、ソドムのねじれた悪は、またゴモラの悪をそのまま示しているのです。

ツォアルもソドムとゴモラからさほど離れていない場所で、ソドムとゴモラと同じではないとしても、ここもやはり、すでに享楽的な文化にずいぶん染まっている状態でした。したがって、ツォアルもソドムとゴモラのさばきとともにいくらでも裁かれうる状態でした。 ところが、このようなツォアルをロトがその町を避け所に選んだので、そこは裁きから抜け出すことができました。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。」という言葉には、その町、すなわちツォアルも滅ぼすしかない所であるが、ロトの願いを聞き入れ滅ぼさないという意味が込められています。 結局、ツォアルはもう一度機会を得たのです。 
    
もし、ロトがツォアルに逃避することを懇願しなかったら、ツォアルはソドムとゴモラに降った途方もない災いによって、一緒に滅ぼされたことでしょう。ところが、ロトがツォアルに入ったことで、神様はロトを救うために、その町もまた滅びから救ってくださったのです。そして、ツォアルの民はソドムとゴモラに降った災いをはっきりと見守ることができました。自分たちが住んでいた町に比べると、あまりにも大きくて華やかで多くの人が住んでいたソドムとゴモラが、一瞬にしてその跡形もなく消えてしまいました。ツォアルはソドムとゴモラから近い場所だったので、空からソドムとゴモラに降る赤い硫黄と火の雨を直接見ることができました。その上、ツォアルに逃げてきたロトと彼の家族からソドムとゴモラがなぜさばきを受けなければならなかったのか、その裁きを下した方が誰なのかを聞くことになります。 ツォアルの人々は罪と悪の結果が何なのか、ソドムとゴモラの災いを通して、あまりにもはっきりと見るようになったのです。

ソドムとゴモラに下った火の裁き

ロトがツォアルに着いたとき、待っていたかのように、ついに神は天から硫黄の火を雨のように降らしてソドムとゴモラの町を滅ぼします。 25節に、「これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」とあります。城と周辺の人々と民だけでなく、土地から出たものをすべてひっくり返して滅ぼすことで、ソドムとゴモラの土地を二度と人々が住めない荒廃した場所にしてしまいます。審判の結果がどんなものなのかを後代の人々もやはり明確に見て悟ることができるように、このように徹底的に審判されたのです。ところが、ソドムとゴモラの地にはもう一つ災いが加わります。それはすぐに地に塩分を加えて死んだ土地になってしまいました。前にロトがソドムの土地を選んで行くときは、その土地がどんな状態だったかが創世記13:10によく出ています。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」と言ったのです。

まさにこのような土地が今日ではどうなっているのでしょうか?今日、ソドムとゴモラの土地のそばには死海が位置しています。文字通り死んだ海で、この海にはどんな生物も生きていくことができません。昔は水が豊かで肥えていて、主の園のようでエジプトのようだったその土地の周辺には、もう死んだ水が溜まっているだけです。そして当時のソドムも地盤の沈降によって、今は死海の中に沈んでいると推定されています。それで、今日はその町のあった跡までも見つけられずにいる状況です。何も育つことができない死んだ土地になるようにすることで、誰も二度とそこで以前のように文明を起こしたり、生活の基盤を成すことさえできないようにされたのです。
 

ソドムの町を振り返ったロトの妻
 
ロトと一緒にソドムの町を抜け出したロトの妻は、二人の御使いの言葉に従わず、後ろを振り返ってしまいました。その結果、ロトの妻は塩の柱になってしまいました。これは世の未練を捨てなかった結果がどんなものかをよく示してくれるのです。
ルカ9:62に見ると、『するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」と言われました。主を信じて、主の中に入ってきた人が再び世を見つめることはふさわしくありません。また、ペテロ第二2:20-21には、「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」

結論

神様の愛と公義はコインの両面のようで、お互いに切っても切れないものだと言いました。今日の本文に出てくるソドムとゴモラのさばきにも、このような神様の属性がよく現れています。正確な公義の中でソドムとゴモラを裁きますが、彼らと共に滅亡させることもできたツォアルには、もう一度機会を与えているという事です。これは何としても哀れみと慈悲を施して、一人でも滅ぼさずに救われるようにしようとする神様の御心でもありますが、このような愛が適用されたのは、ツォアルの町にロトが入ったためです。ロトに適用される救いの公義によって、ロトが入ったツォアルまでも公義の枠の中で機会を得たということです。アブラハムによってロトが救われ、ロトによって彼の家族まで救われ、今はロトとその家族によってツォアルの民にも機会が与えられたのです。 
    
これだけ見ても、神様がどれほど愛の神様であり、どれほど最後まで機会をくださる方なのかをよく感じることができるでしょう。しかし、このように無限の愛があるにもかかわらず、最後までその愛を受け入れない人は、結局公義の審判を受けることになります。神様の愛と哀れみと慈悲が足りないからではなく、人の側でその愛を受け入れるように少しの心の扉も開かなかったからです。皆さんはこのような神様の愛と公義を悟り、常に神様の愛の中に住んでください。 また、公義の中に溶け込んでいる神様の愛に気づき、皆さんを通して周りの人々が救われ、神様の愛が伝えられる貴重な道具になりますように、主のお名前によって祈ります。

 

朝の学び135   創世記19章  

創世記19:15-22   
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。0 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」
その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。

序論


愛する聖徒の皆さん、ついに審判の時間が近づくと御使いたちはロトを催促して家族と一緒に町を抜け出すようにします。父なる神様が決めたことは、すべてが正確な時と時限に合わせて働かれるので、誰も任意に変えられるものではありません。使徒の働き1:7「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とおっしゃっています。人間耕作の6,000年の歴史もやはり最初から始まりと終わりに対するすべての計画が出ていて、いかなる理由であれ変更できるものではありません。 もし、途中である理由で変わったら、すべてのことを知っている神様とは言えません。しかし、神様は予知予定の全能な方として、これからのことの全てを知って決めたことなので、一寸の誤差もなく叶うことになります。

したがって、神様は必ずあることを行うにあたって、あらかじめ兆候を示してくださったり、神の人に知らせてくださったという事です。アモス3:7「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われた通りです。ソドムとゴモラのさばきも、やはり神様はアブラハムにあらかじめ知らせて下さり、ロトにも知らせて下さっているのです。ここで重要なことは、このようにあらかじめ教えてくださった時、その言葉を受ける人の心と態度です。前回申し上げたとおり、ロトは自分たちの娘と婚約した婿たちにもソドムに迫った審判について伝えました。しかし、この言葉を聞いた婿たちはどうだったのでしょうか?「しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」と。だから、いくらこれからあるさばきについて教えても、婿たちは全く準備もせず、結局はソドムとともに滅びてしまいました。反面、ロトはどうでしたか?すぐに御使いたちの言葉に従い、ソドムを離れたことが分かります。自分がこれまでソドムで築き上げた多くの財産と生活の基盤を放棄したまま、ソドムの町を脱出して出てきたのです。 
   
このように、ロトと彼の婿たちとには大きな違いがあります。ロトの婿たちは、ロトの言葉を信じることもできなかっただけでなく、たとえその言葉を信じようとしたとしても、ソドムの町の暮らしと自分たちの生活の基盤を放棄できる人々ではなかったのです。結局は世が良くて、そして自分たちが築いてきた肉のものに対する未練が残っているため、あきらめることができないのです。 今日もこんな人たちがいます。日曜日に教会に行かなければならないことを知りながらも、お金を稼ぐことに未練があり、主日を完全に守れない人がいます。神様の言葉に従って祈るべきで、捨てるものは捨てて、切るものは切るべきであることを知っていながらも、世を愛し、肉を愛するので、世を断ち切ることができずにいる人もいます。しかし、ロトはそうではありませんでした。考えを働かせたり、未練を持っているのではなく、すぐに従順して行ったことが見られます。

このようにアブラハムを覚えて神様がロトに恵みを与えてくださったこともありましたが、ロト自らも神様の言葉に直ちに従う信仰、行いの信仰があったために、救いの恩寵を受けることができました。前にも申し上げたように、当然、従うことができるものだけに従うことは、霊的な意味で完全な従順ではありません。人の考えを働かせれば従順できないこと、現実を見れば従順できないことに従うことが真の従順です。聖書を一度ずっと読んでみてください。アブラハム、モーセ、エリヤ、ダニエルと3人の友人など、信仰の先輩たちは一様に信仰でなければ従順できないことに従順しました。自分の命をかけなければならない状況、自分の力と能力では到底できない状況、「自分」が残っている以上は、決して従順できない状況で従順が出てきたのです。それでは皆さんご自身はいかがですか? 当然すべきこと、いくらでもできることに従順でない姿はありませんか?もし、皆さんにも、ロトのように人生のあらゆる基盤を放棄したまま去るように言われたら、喜んで「アーメン」として従うことができますか?それとも、あれこれ言い訳と理由を言いますか?

ところが本文の16節を見ると、「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」ロトがしばらくためらっている場面が出てきます。しかし、ロトがこのようにためらったのは、ソドムに対する未練があったり、従う気持ちがないからではありません。 この時、ロトがためらったのは、まさに自分に属した人々を一人でも多く救うためだったと言いました。ノアが箱舟の扉が閉まる瞬間まで、さばきが迫っていることを叫んだように、ロトも最後の瞬間まで、どうしても自分に属していた人々に審判が迫っていることを知らせ、彼らと一緒にソドムの町を離れようとしたのです。当時、ロトはそれでも、ソドムである程度富を持って住み着いていたので、当然彼に属した人たちもたくさんいました。ソドムの滅びを知るロトとしては、彼らをそのまま置いていくことができなかったのです。それで何とか一人でも連れてこようとしましたが、結局はやっと妻とふたりの娘だけを連れて町を抜け出さなければならなかったのです。このようにいくら「さばきが近い、最後が近い」と叫んでも、救いは自らの自由意志の中で従う人にだけ与えられるのです。


うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。

 

17節「彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。『いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。』」とあります。状況が緊迫したあまり、御使いたちはひとまずロトと家族を町の外に引き出した後、もう一度お願いをしているのです。ところが、この時、御使いたちがロトと彼の家族を町の外に連れ出したということは、瞬間的に霊の空間に乗る力を表したことを意味します。先に16節「その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」とおっしゃったように、御使いたちは霊の空間に乗る力でロトとその家族たちを導き出したのでした。 
    
ふたりの御使いのかしらがこの地に来る時は肉の制限的な空間をまとわなければならず、また制限された肉の法則に従わなければならなかったのですが、すでにソドムの町の罪悪を自ら体験して目的を成した後だったので、これ以上肉の限界の中に留まる必要がなかったのです。それで、ロトの家に集まってきたソドムの町の民の目を目つぶしで暗くした時から、すでにふたりの御使いのかしらは、本来の能力に回復した状態だったのです。そして、今災いが差し迫っている状況で、再び自分たちの能力を発揮し、ロトと家族を一瞬で、町の外に導いたのです。 

それでは御使いたちが頼んだ「うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。」という言葉はどういう意味でしょうか?「振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。」というのは、罪悪で満ちた世を徹底的に断ち切り、振り返ってはいけないという意味です。また、自分の中にある肉的なものを徹底的に断ち切ってしまえという意味です。ソドムは霊的にねじれている世を意味します。そのため、ソドムの町を振り返ったり、いったんソドムの町を離れた後でも、低地にとどまることは、世から完全に出てきたのではありません。依然として世の中に対する未練を持っているのであり、再び世の中に戻ることもできるのです。

  

今日もこのような人々がいます。世を捨てて主の中に入ってきたといっても、再び世の中に落ちる人がいて、依然として世の中を捨てられないまま、片足は世の中に片足は教会の中に置く人もいます。このような人たちがソドムの町を抜け出しましたが、後ろを振り返ったり、途中に留まる人です。「山に逃げなさい」というのは、世の中と区分された新しい人生を始めなさいという意味です。山は世の中と区分されて生きていく場所で、このような山に逃げろということは、世の中と接していないところから新しく始めろという意味です。 
    
ロトがたとえ最初に選択を誤ってソドムという曲がった世に陥ってしまったが、神様の言葉に従い世の中のすべてを捨てて新しい人生に向かって出てきた時、救いが許されました。ただ体だけが世の中から抜け出したのではなく、後ろを振り返ったり、留まるなという言葉によって心から完全に世に対する未練を捨て、徹底的に切れたのです。心から断ち切らなければ、いつか再び心が世に向かうこともありうるということを悟らなければなりません。満たされている時は、そのような心が現れなくても、満たされていない状況になると、押し込められていた世を愛する心が現れるようになります。ですから、皆さんは行いと共に心から完全に真理に変化させてください。それで心がただ父なる神様への愛でいっぱいに満たされている時だけが、世の中のどんなことにも心動かされず、サタンの働きを受けないという事です。 
 

災いの兆候が迫ると、ツォアルに行くことを頼むロト 
      
「山に逃げなさい」という御使いのかしらたちの言葉に、ロトは18-19節「ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。」と答えました。これにより、私たちはソドムに降りる災いがどれほど差し迫っていたかを知ることができます。あまりにも災いの兆しが差し迫った状況になると、ロトは恐怖のため山まで逃げる気力を持たず、より近いツォアルに逃げることを許してほしいと要請したのです。

20節「『ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。』」と懇願したのは、ロトがソドムに対する未練が残っていたり、「山に逃げなさい」という言葉に不従順しようとしたのではありません。ソドムとゴモラに降る火のさばきの兆候だけを見ても、ロトがこのように恐ろしく震えながら急いで避ける所を探そうとしたのかを見るとき、そのさばきがどれほど途方もないものだったかを推察することができます。

ところが、このような兆候の前でも、実際にソドムとゴモラの民は気づかなかったという事です。まさに最後の時もこのようです。マタイ24:37-39に「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」とおっしゃいました。ところが、テサロニケ第一5:4-6によれば「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」とおっしゃっています。  

 
眼を覚ましていたロトがソドムの町から出ることができたように、目をさまして、慎み深く、光の中を生きていく人には決して主の日が盗人のように臨むのではありません。霊と魂と体が傷もなく守られた状態で、新郎になられる主を迎える準備をして迎えることになります。
ヨハネの手紙第三1:2「 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」それでは皆さんは神様の再臨をどのように迎えたいですか?世のことに酔って眠っていて、その日を盗人のように襲われる方は一人もいないようにお願いします。
 

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朝の学び134   創世記19章  

創世記19:9-16
しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。

アブラハムを覚えてロトに憐みを施された神様


12節に「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」とあります。この時ふたりの御使いのかしらが、ロトの身内がここにいるのかを知らなくて尋ねたわけではありません。それでもふたりの御使いのかしらがこのように尋ねたのは、神様がアブラハムを覚えられて、ロトと彼の身内の者にまでも、どれほど憐みと恵みとを施しておられるのかを感じられるようにされたのです。ロトの立場では、たとえふたりの御使いのかしらが自分を救うために来たとしても、彼の身内の者まですべて助けてくださいと、先にお願いできることではなかったのです。ソドムが今どんな状況に達したのかを感じ、自分自身がこうしたところを選択してきたことに対して、神様の御前であまりにも申し訳なく心苦しいなかで、とても家族と自分の身内まで助けて下さいとお願いできる状況ではなかったということです。

ところが神様はふたりの御使いのかしらを通し、ロトにあらかじめ「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」とおっしゃられて、憐みと慈悲の中で救いの幅をひろげて下さったのです。アブラハムを覚えてロトを救われた神様は、ロトの家族とその身内までも救われる機会を与えておられたのです。ロトは救いを受けたとしても、かりに彼の家族たちと彼の身内に、ただ一度の悔い改める機会も与えられないまま、直ちに滅びが臨んだとすれば、ロトがどれほど後悔して心痛く感じますか?神様はこれらすべてのことまでご存知であるので、アブラハムを覚えられて、ロトだけでなく彼の身内にまでも、恵みを施しておられるのです。神様はどのようにしても滅ぼされようとする方ですか?いいえ、どのようなたましいでもさらに救い、天国に導こうとあまりにも願う方であるので、公義から抜け出さない範囲内で、なんとか救いの幅を広げていかれたのです。この一つの事実をみる時、神様の愛される人に属しているということだけでも、如何に多くの機会を得ることができるかを悟るようになります。

ロトの話を冗談だと思ったロトの婿たち


13-14節を見れば「『わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。』そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」とおっしゃっています。このように、御使いのかしらが説明する時に、ロトは彼らの話を全て信じたので救いの道に従います。その救いの道は、まさに御使いのかしらたちが提示した通り、町の外に出て行くことです。もうすぐソドムには火の審判が臨むようになります。したがってその町にずっと残っていながら、「私はどうしたら救われるだろう」と考えることは、あまりにも愚かです。これは霊的にも同じです。聖書を見れば、神様はある罪に対しては、その中でずっといるようになれば救いを受けられないことを明確におっしゃいます。

ガラテヤ5:19-21「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。またヨハネ第一5:16-17には「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。そして、まったく死に至る罪もあることをおっしゃいます。したがってロトがソドムを離れた時救いがあるように、私たちも罪から離れた時、救いがあることであり、特に肉の行いや死に至る罪には決して陥ってはいけません。

ロトはソドムを離れろという御使いのかしらの言葉を聞いた時、その言葉を信じたので、家族たちにも救いの道を提示してあげます。「私だけ救われれば良い」としたことでなく、何とか自分の家族と自分に属した人々を、皆救いに導こうとしたことです。家族を愛して自分の周りの人々を愛したら、どうして滅亡が差し迫ったという事を分かりながらも、伝えられないことがありますか?結局、ロトの娘たちと妻はロトの話に従ったが、婚姻を定めていた婿たちには冗談のように思われたのです。救いの機会が与えられたが、彼ら自らがその機会を捨ててしまったのです。彼らにはソドムを離れるべきだという言葉が耳に入ってこなくて、悪で染まっていた彼らの心にはソドムの人生があまりにも良かったし、それをあきらめる心が全くなかったのです。

 

ヨハネ第一2:15に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とおっしゃられた通り、神様が先ず、愛をもって御手を差し伸べて、救いの機会を与えて下さったにもかかわらず、世を愛する心がいっぱいだから、世の中に陥ってしまうのです。神様の愛がその心の中に入ってくる余裕がないためです。これは現在でも同じです。この祭壇に現れる数多くの御力の働きらと、あまりにも明らかな神様の御心を伝える生命の御言葉があるにもかかわらず、世を愛する人はこの中に入って来られないのです。かりに教会は行き来しても心がすでに世にある時、心の中をご覧になる神様も神様を愛する心がないとおっしゃいます。

また皆様が周りの方にこの祭壇に現れる神様の働きを伝えた時、信じて来る人がいるかと思えば、ある人はロトの婿たちのように冗談や嘘だと思う人もいるでしょう。救いの恵みを施していたとしても、神様の働きを信じられないことによって、その機会を自らが逃しているのです。しかし私たちは最後まであきらめないで伝えなければなりません。テモテ第二4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」とおっしゃられたように、私たちはまず神様の御心により福音を伝えなければなりません。

ソドムを抜け出すロトと彼の家族


15-16節「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。『さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。』しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」もうすぐさばきが差し迫った時点になって、これ以上の機会は与えられません。ここで「ロトがためらっていた」ということは、ロトが最後まで自分に属した人々の中で、ひとりでも救いに達するようにするために努めていたという意味です。

 

ロトには家族と婚約をしていた婿以外にも、家で使っていた多くの人々がいました。ロトは彼らにも救いの機会を与えたかったのですが、彼らはソドムの町に対する未練を捨てられなくて、離れることができなかったのです。ついに決められた期限がすべて満ちてしまったら、ふたりの御使いのかしらは、急いでロトと彼の妻とふたりの娘たちを率いて町の外に連れ出します。ただロトの話を信じて従う準備ができていたロトの妻とふたりの娘たちだけが、ロトと一緒に救われるのを見ることができます。このように救いとは、自分自身の選択の中で得られるものであって、誰かが代わりに救ってくれたり、強制的に救われるようにすることではないという事です。
 

それでは皆様はこのような状況でどのようにしますか?もちろん皆が「ロトのように町の外に出て行きます。」と答えるでしょう。しかし現実には、そうではない方々を見るようになります。その当時ソドムの町を離れるということは、これまで自分自身が築いてきた生活の基盤を全て放棄することを意味します。自分が持っている富と名誉と権力も未練なく置いていかなければならないのです。また「私はロトに従います。」と言っても、もし家族が引き留めたりするなら、一緒に従わないこともあります。こういう場合には家族までもあきらめなければなりません。今すぐには滅びが差し迫っているという兆しが目に見えるわけでもありません。かりに滅びが臨んだとしても、これまで集めた財産を少しでも手に入れる時間はありそうですね。それでも全てのものを捨てて、からだだけ抜け出しなさいということです。

この状況で皆様は果たしてどんな選択をしますか?もしかしてロトの妻のようにすぐには町を抜け出したが、未練を捨てられなくて後ろを振り返りますか?決してそのような方がいてはならないでしょう。ソドムの滅びに対して次の時間に引続き調べるようにします。

結論


今日、私たちはあたかもソドムの町と同じ状況で生きています。新聞やテレビに出てくるニユースを見ればあまりにも恐ろしく、人としては考えにくい多くのことが起きています。ペテロ第二2:8「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」という御言葉のように心が傷むほかない現実です。だからといって、私たちが世に背を向けたまま生きていけるのではありません。私たちの使命はむしろ世の光と塩になることですから、世でも正しいキリスト者としての光を放ち、味を出さなければならないのです。

また神様の子供としてこの世の生活を送る間にも、祝福され人々からも認められる生活を送らなければなりません。しかし覚えておくべき明らかな事実は、ただ旅人のように通り過ぎる人生だということです。いつでも神が「来なさい」と呼べばこの地の人生に少しの未練もなく、主のふところに抱かれなければならないのです。こういう人ならばこの世でも世にあることに心を寄せません。ただ主に向かった愛と天国に対する希望でいっぱいになります。そうして将来、主が私たちを迎えに来られる時、先頭に立って主のふところに抱かれることが出来ますように、主のお名前で祈ります。
 

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朝の学び133   創世記19章  

創世記19:9-16
しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。

序論/

創世記講解は人の知識や理論または考えの中で出てくる内容では決してありません。それと共に、世の知識や理論では全く説明できない部分までも、すがすがしくひも解いてくださる御言葉です。また創世記講解を初めからお聞きになった方々は感じているでしょうが、今までのすべての内容が互いに正確に一致して、同じ脈絡の中で続いているという事です。これをどうして人が作り出せるでしょうか?まず天地万物を創造して、全てのものを皆ご存知の父なる神様だけが解いてくださる内容です。

さらに創世記講解は、ただ単に御言葉の解き明かしだけで終わるのではなく、御言葉を通し説明された霊の世界の明らかな姿が、私たちの前に繰り広げられています。第二の天があるという証拠として、雲が突然現れて消える姿をはじめとして、星の移動とUFOが数えることができないほど目撃されて、カメラにもおさめられました。もちろん霊の目が開き、直接第二の天にあるエデンの空を見られる聖徒も、たくさん出てくるようになったのです。また創世記講解を通し、ノアの洪水のあらまし、恐竜の存在と滅亡、古代文明のなぞも解けるようになりました。私が考古学を勉強したことでもなく、天体物理学や地質学等世の学問を勉強したことでもないのですが、父なる神様が解いて下さると、世の学問では説明されないことを、このように明快に解いていけたのです。

 

しかし何よりも重要なのは、創世記講解を通し、初めに対して知るようになったという事です。この世の誰が、どこで、初め以前からの初めに対して、そして初めの神様に対してこのように解いてくださるのでしょうか?マタイ13:16-17「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」とおっしゃられた通り、皆様自身が見て聞く全てのものが、どれくらい大きい神様の恵みの中で与えられたことかを、心の中心から悟って感謝できるよう願います。それでヨハネ第一2:13前半節「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」とおっしゃった御言葉のように、皆様の信仰も迅速に父の信仰に出てこられるように主のお名前で祈ります。

人としての道理もなくしたソドムの人々

9節を見れば、「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」と言いました。この御言葉を通し、私たちはソドムの人々がどれくらい悪なのかがわかり、その一方で、自らは自分たちの悪を悟れずにいるという事が分かります。ロトは自分の家に入ってきた二人が、神様に属する尊い方々であることを分かったので、どのようにしてでもその方たちを守るために、自分の娘を代わりに差し出すという提案までします。しかしソドムの人々は頑として、自分たちの行動がどれくらい誤ったことかを悟らせてくれるロトの話に、むしろ更に悪の姿として出てきます。

ロトはソドムの人々に、理性を持った人としての当然の道理を悟らせているのであり、ロトの話や行動が全く悪のことでなかったにもかかわらず、ソドムの人々は自分たちの思い通りにならないので、今はロトまで害しようとしたのです。私たちは現在でもこのような姿がしばしば見られます。悪の人々は、善の話をして善を教える人を見れば、かえって悪がさらに発動したりもします。善の中で自分たちの悪が耐えられないためです。

 

それでヨハネ3:20にも、「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」とおっしゃいました。光の中に居て心が善良な人ならば、当然善なるものが好きで、光の中にさらに出ていくことを願うようになるけれど、反対に闇の中に居る人は、自身の闇が明らかにされることを恐れて、光の方に出ていこうとしないのです。それと共にむしろ光を嫌うのです。

 

ソドムの人々もまさにこういう状況だったので、ロトが正しい話をしたのにも、それが自分たちの闇を表して刺す言葉になって、このように悪の反応が出てきたのです。更にロトの行動を言い訳にして、すべての責任をロトに返しています。あたかもロトが自分たちの上に君臨する裁判官になろうとするために、自分たちがこのように行動するほかはないという論理です。しかしこれは単なる言いがかりであって、結局は、自分たちの行動が阻止されたことに対して恨みを抱いて、ロトに悪で返すという構図です。人が悪で染まるようになれば、これと共に人としての道理も忘れるようになるので、善を悪で返すようになるのです。

サウロ王がまさにそうでした。サウロ王は、自分を助けて敵をしりぞけ、国に大きい功績を立てたダビデに対して、善を悪で返した人です。ダビデの功をほめて、それに感謝することであるにもかかわらず、民が「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」という話を聞いて、思わず悪を発動して、人としての道理も忘れてダビデを殺そうとしたのです。何が正しくて誤っているかを分別できなくて、かりに分別するとしても、結局は自分の心の悪で行っていくようになるのです。皆様の中にはあるいはこういう姿があってはなりません。

明らかに正しい話であると思いながらも、その話が自分の欠けていることを指摘するとか、自分の利益に役に立たないことである時、それによって話をする人を嫌うようになって、悪の企みや行動でその人を倒そうとしてはいけないのです。特に自分が力を持っていて、より大きい権力を持った場合ならば、より一層下の人や周りの人の話に耳を傾けるべきです。たとえ子どもの話でも、その話が真理に照らし適当なことならば、謙虚に受け入れられる姿勢にならなければなりません。

ソドムの人々は性的に堕落していた悪だけでなく、すでに人としての道理さえもなくしたまま、道徳的にも倫理的にもあまりにも荒廃している状況でした。それ故に、ロトはかつて目に見るのに良いソドムの地を自ら選んで行ったのですが、実際に彼らの中で生きていくうえで、彼らと同化して暮らすことはできなかったのです。自ら信仰があったロトの立場では、悪に染まって生きていくそれらの人々と相反し,多くの分野で困難な状況に直面しました。またソドムの人々の立場からも、ロトは自分たちの放蕩な生き方にならう人でなかったので、いつも異邦人のようにみなしていたのです。だから普段お互いの間で円満でなかった関係が、今回のことを契機にしてより一層悪化しながら、ソドムの民たちはロトに害を与えようとする状況にまでになったのです。しかし彼らがロトを害するということが彼らの目的ではなかったのです。本来の目的はロトの家に入った二人を自分たちの望むとおりにしようとすることであったし、これに邪魔になるロトを先に害を与えようとしたのです。

 

空間を分離して、入り口を探せないソドムの人々

このように状況が急迫するとついに二人の御使いのかしらが隠していた能力を表します。10-11節に「すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。」ここで目つぶしをくらったことがあたかもしばらくの間、目があけられないようにしたという意味ではありません。仮りに、一時的でありながらしばらくの間、目が見られなかったのだったら、目も見えない状況で継続して、入り口をさがそうとする人はないでしょう。彼らが入り口を探すのに困難だったということは、彼らの目にははっきりと入り口が見えるようだが、それにもかかわらず、実際にさがそうとすればさがせない状況であったということです。これはまさに空間を分離させたので可能な現象でした。

もう少し簡単に説明をするなら、例えば私たちがいるこの空間の中に数多くの御使いたちが共にいるとしても、霊の目が開かれなければ見られないですね。もちろん肉の空間と霊の空間が違うけれど、霊の目が開かれた人が見ると、私たちのすぐ近くにいる天使であっても、霊の目が開かれなければ見られないのです。二人の御使いのかしらが、人々の目を暗くしたということは、まさにロトとロトの家族たちがいる空間と、ソドムの人たちがいる空間を分けるため、ソドムの人たちには、ロトが入っている空間の中にある入り口をさがすことをできなくしたという意味です。そうなるとあたかも霊の目が開かれない人は天使を見ることができないように、ソドムの人々にはロトの家の入り口が明らかに彼らと同じ空間の中にあるにもかかわらず、さがせなくなるという事です。同じ空間にいるようでも、実際には全く違う空間に入っているためです。

一つ比喩をあげれば、犬か猫のような動物に生まれて初めてテレビを見せるとしましょう。するとテレビで見せる場面が、あたかも今自分たちと同じ空間で形成されている状況として受け入れます。それでもしテレビで彼らが好きなおいしい食べ物を見れば、犬や猫はそれが画面の中にある食べ物なのかを知らないまま、その食べ物をとろうと努めるようになります。しかしいくらつかもうとしても、テレビの中にある食べ物が犬や猫の足で捕まえられますか?初めは犬や猫が、テレビの中に映る食べ物を捕らえようと、ありったけの力をふりしぼるでしょうが、後にはおのずと疲れてあきらめるようになります。これと同じようにソドムの人々も空間が分離した状況で、これを全く感じられないまま、熱心にロトの家の入り口をさがそうとしましたが、結局は探せなくてあきらめてしまいました。このようにして急に悪化した状況からまぬがれて出て、ついにロトと彼の家族たちのソドム脱出が始まります。

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朝の学び132   創世記19章  

創世紀 19:1-8
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」

 

ソドムの人々の反逆性   

このように、ロトが二人の御使いのかしらに仕えていた時、当時ソドムがどれだけ道理に反していたかがよく分かる事件が発生します。4-5節に「彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。『今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。』」と話しています。ここでソドムの人々が二人に対して「彼らをよく知りたいのだ。」というのは彼らの性的な腐敗をよく示す場面です。先程も申し上げたように、ロトの家に入った二人はルシエ-ルとルシヤ天使長です。この二人の御使いのかしらは、天でも三位一体の神様に仕える立場にいる方々で、その容貌の美しさは表現できません。人々が普通、外見が美しい人を見ると「あの人はまるで天使のようだ。」と言ったりもしますが、今この二人は普通の御使いではなく、御使いたちの中でも一番美しくて優れた御使いのかしらなので、この地上のことばでは表現できないほど美しいです。 
    
このように二人の御使いのかしらが人の形をしたとしても、外見の美しさはこの地の人々とははっきりと区別されました。ところが当時、ソドムには性的堕落が非常に激しかったのです。
ユダ1:7によれば「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」と言っています。聖地巡礼の時、ポンペイというところに行かれた方はご存知ですが、そこの性的堕落は今日と比べてもその程度が非常に激しかったことが分かります。ソドムもまさにそのような状況にあり、そんな中、ソドムの人たちが今まで見たことのないとても美しい二人を見ることになり、ソドムの人たちが興奮しました。「若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。」とあるように、ロトの家を囲んでは二人を出せということですね。情欲に目がくらみ、前後のいかなる状況も見ずに、ひたすら二人を出せと脅したのです。 
    
この時、ロトはどうしましたか? 
6-7節「ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。『兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。』」と言ったのです。 興奮している多くの人々の前にこのように出るということは、実は生命の脅威までも犯す行動でした。 自分の家に来られたお二人がどんな方々だということをあまりにもよく知っているロトは、どんな状況でもお二人を守ろうとしたのです。 
   

二人の御使いのかしらを守るために二人の娘を手放そうとするロト    
   
しかし、状況が落ち着く気配が見られないと、ロトは彼らにあまりにも意外な提案をします。
8節「『お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。』」と言ったのです。まだ嫁いでいない二人の娘を代わりに出してでも、自分の家に来られた二人を守ろうとしたのです。このようなロトの姿を見て、ある人は「娘たちを手放すとどうなるかを明らかに知りながら、どうして娘たちを手放すことができるだろうか?」と思うかもしれません。また、「娘たちにも自分たちの意志があるのに、どうして父親だと言って自分の思い通りにできるのか?」と思うかもしれません。   
   
聖書にはこれと似たような状況が出てきます。それは、娘を神様の前に燔祭として捧げると誓願したエフタの場合です。しかし、エフタの場合と今のロトの場合とは全く違うことを知る必要があります。エフタの場合は、その心が善良でそのように請願をしたのではないですね。
士師紀11:8によれば「すると、ギルアデの長老たちはエフタに言った。『だからこそ、私たちは、今、あなたのところに戻って来たのです。あなたが私たちといっしょに行き、アモン人と戦ってくださるなら、あなたは、私たちギルアデの住民全体のかしらになるのです。』」ギルアデの長老たちがエフタに答えるが、「今私たちがあなたを訪ねてきたのは、私たちと一緒に行ってアモン人と戦ってくださるなら、そうすればギルアデの住民の全体の頭になるのです。」と言って、エフタに助けを求めに来た人々が、エフタに条件を付けることが分かります。まさに自分たちの頭になるようにしてあげるというのです。 
    
これに対し、エフタが答える9節に「もしあなたがたが、私を連れ戻して、アモン人と戦わせ、主が彼らを私に渡してくださったら、私はあなたがたのかしらになりましょう。」と言って、自分を本当に頭に立たせてくれるのかを尋ねます。その心が純粋ではないことを示しています。こんな気持ちだったので、何とか戦争に勝とうとしたエフタは、いざ戦争に臨むと軽率な請願をすることになります。
士師紀11:30-31「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』」と言ったのです。 
 
ところが、エフタのこのような請願には、多分に計算的な心が込められていました。一般的に主人が外から帰ってくると、誰が一番先に出てきますか?まさに僕です。エフタもそれが分かったので、自分が勝利して帰ってきた時、自分を一番先に自分に迎えてくれる人は、僕の中の一人だろうと思ったのです。だから、このように人の命がかかっている請願をすることができたのです。ところが、実際にエフタが勝利して帰ってきたとき、彼を一番最初に迎えたのは一人娘でした。しかし、すでに神様の前に誓願した後だったので、エフタは結局、自分の誓願を守りましたが、これが決して善良な心ではなく、自分の益を求める心から始まったものでした。 
    
しかし、ロトの場合は全く状況が違います。ロトは娘たちを手放す代わりに、自分の何かの利益を求めるのではありませんでした。ただ神様に属した方々を守ろうとする気持ちでそのようにしたのでした。また、娘たちの意思をまったく無視したまま、自分勝手にやろうとしたわけでもなかったのです。

結論/

愛する聖徒の皆さん、もし二人の御使いのかしらがソドムに着いた時、ロトが門のところに座っていなかったらどうなっていたでしょうか?たとえ座っていたとしても、二人を見た時に彼のように彼らの前に出て手厚くもてなして、自分の家に泊めていなかったらどうなっていたでしょうか?また、家にお連れしたとしても、ソドムの民が集まってきて脅して二人を出せと言った時に、もし二人を彼らに差し出したらどうなったと思いますか?その中でどれか一つでも該当していたら、ロトが救われるのは容易ではなかったでしょう。 
    
しかし、ロトが救われた理由は、第一に、恵みの機会をつかむことができるところに出ていたという事です。ロトは心の虚しさを癒すところがなくて、門のところに座っていたのですが、そこがまさに恵みの機会に出会うことができる祝福の場所になったのです。それでは皆さんは、果たして自分がいるべき恵みの席にいつもいらっしゃいますか? 自分がいるべき席を守っていますか? 
    
二番目に、ロトは恵みの機会が来た時、それを逃さずに捕えました。これは皆さんにとっても同じことです。神様は誰にでも最後まで機会を与えることを望んでいます。その機会の時が人によって違うことはありますが、皆さんが慕う心で信仰を示せば、機会が来た時に必ずその恵みの機会をつかむことができます。ただ礼拝や祈りの時間に座っているだけで良いのではなく、私に与えられた恵みと祝福の機会を私が必ず逃さずにつかまなければならないという心と、それに伴う行いがなければならないのです。 

 第三に、ロトは最後まで信仰を守りました。たとえ生命の脅威が来るとしても、自分の最も貴重な二人の娘たちを犠牲にしてまで、神に対する信仰と道理を守ったのです。 神様は祝福をくださる時、先にテストを許可される時があります。「果たして最後まで信仰を示せるのか?」「その信仰が変わらぬ霊的な信仰なのか」をご覧くださいます。それで、そのテストに合格したら必ず祝福が与えられるという事です。 このようなテストは様々な形で来ることがありますが、この時間にいちいち申し上げることはできませんが、皆さんはいつも目を覚ましていて、どんなテストが来るとしても通過することで、父なる神様が皆さんに与えようとする祝福を全て受けることができることを願います。

  

それで、ロトを滅亡するソドムから救うように、皆さんの最も難しい問題の中でも皆さんを救う神様の助けの手を、自ら体験する皆さんになってください。リバイバル聖会を通してあまりにも多くの方が答えを受け、問題解決を受けましたが、もしまだ答を受けていない方々がいたら、すべてが美しく答えられますように神様の名前で祈ります。
 

朝の学び131   創世記19章  

創世紀 19:1-8
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」

 

序論/御霊の神を「神である主」と記録した理由    

  

聖書に記されている人間耕作の歴史は、大きく3つに分けることができます。御父の神ご自身がつかさどって、導いて働かれた時代、御子イエス様がこの地上に来られて働かれた時代、御霊の神が聖霊として来られて働かれる時代です。旧約聖書を見れば神である【主】の御名によって働かれる場面が多くあります。ご自身で声や幻で働かれたり、仕える御使いを使者として遣わして働かれたりもしました。もちろん、今も人間耕作のすべての歴史は御父の神がつかさどっておられますが、旧約時代にはご自身で前面に出て働かれたということです。 
    
その後、御子イエス様がこの地上に来られて、救い主としての使命を果たされる働きがあり、天に上っていかれた後は、働きのバトンを聖霊様に渡されました。将来、主が私たちを連れに再び来られるまで、聖霊様が働かれる時代が繰り広げられます。だからといって、旧約時代には御父の神おひとりだけが働いて、御子と御霊の神は何もしなかったのではありません。また、聖霊時代だからといって、父なる神と主が静かにご覧になっておられるだけではありません。三位一体の神はいつもご一緒に働かれるので、旧約時代であっても、御子と御霊の神が時に応じて御父の神の働きを助けられたし、今日聖霊の時代にも、父なる神と主が活発に働いておられます。ただし、各時代に主体となる方がいらっしゃるので、その時代にはおもにその方の御名によって働きが行われます。 
    
したがって、旧約時代には御子と聖霊様がなさったことでも、父なる神様の御名で働かれる場合が多く、聖霊時代に至っては、父なる神様と主の働きも、聖霊様の御名によってなされる場合が多いです。 旧約時代の主体は父なる神様なので、御子と聖霊様の働きは、あくまでも父なる神様に代わる役割になるのです。それで、前回学んだ通り、ソドムとゴモラをさばくために来られた御霊の神を、聖書にはその方を「神である【主】」と表現した理由がまさにここにあります。 実際、御霊の神が来られたのですが、これはあくまでも父なる神様に代わって、その御こころを授かって来られたのですから、「神である【主】」と表現しているということです。 例えば長男が父親に代わってある仕事を見に行き、父親の名前で契約をして判子を押したとすれば、それについては、当然父親に責任があり権限もあるようにです。今、なぜ聖書に、アブラハムの前に現れた神様を御霊の神と言わず、「神である【主】」と言ったのか理解できましたね。
   

肉の空間の法則に従ってソドムに到着した二人の御使い      
 
世記18:22によれば「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」として御霊の神と共に人の形でこの地に降りてきた二人、すなわちルシエールとルシヤの御使いのかしらは、自分たちの使命を遂行するために、ソドムに向かって出発しました。そして、創世紀19:1「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」とある通り、正午頃にアブラハムの前に現れ、食べ物をもてなされてしばらく対話した後、ソドムに向かって出発した二人の御使いのかしらが、日が暮れる頃にはソドムへ至ったのです。 
    
イスラエルはその土地の面積が我が国の江原道(カンウォンド)より少し大きく、アブラハムが住んでいたマムレの近くとソドムとはそれほど遠い距離ではありません。もし御使いたちがこの街を霊の空間に乗って行くとか、あるいは肉の法則を跳び越える能力で行ったとすれば、このように多くの時間がかからなかったでしょう。
使徒の働き8:36-40を見ると、「道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。『ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。』そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。」とあります。ここで主の霊に導かれたピリポが、他の場所に現れることが分かります。まさに霊の空間の中で、霊の流れに乗ってあっという間に移動したのです。 
    
二人の御使いのかしらもいくらでもこうできるのに、日が暮れる頃になってようやくソドムに至ったということは、彼らが霊の空間に乗ったり、肉を超越する能力を使ったのではなく、完全に肉の法則に従ったことを物語っています。つまり肉の体をまとった人が歩くように、彼らも同じように歩いて行ったということです。これは、二人の御使いのかしらが限られた肉の空間をまとっていたために可能でした。そして、彼らがこのようにしたのは、まさに人と同じ条件の中ですべてを調べるためでした。ただ「さっと」飛んで行って、ソドムの町だけを見て火のさばきを決めたのではなく、人と同じように歩き、感じながらソドムの周辺の情況までも細かく調べたのです。

ソドムでの人生に疲れ果てて空虚だったロト        

ちょうど町の門のところに座っていたロトがソドムに到着した二人の御使いのかしらを見て、すぐに立ち上がって迎えに行き、地面に顔を伏せてお辞儀をします。 ロトがどのようにしてこのように手厚く出迎え、お辞儀をしたのかは前にすでに説明をしました。 自分が捕虜になった時、自分を助けに来た叔父アブラハムと一緒にメルキデゼクに会うことができたロトは、その時、霊の眼が開かれ、メルキデゼクと共にしていた御使いのかしらたちを見ましたが、彼らがまさに今日の本文でロトの前に現れた御使いたちでした。 御父の神はこれからのすべてをご存知なので、あらかじめロトに2人の御使いのかしらを見ることができるように、彼の霊の眼を開いて働かれたのです。 
    
では、ロトが門のところに座っていたということは、何を物語っているのでしょうか? それは、ロトがソドムの人生にどれほど疲れていて、彼の心が空虚だったかを物語っています。
ペテロの手紙第二2:6-8によれば、「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」と述べています。 
    
叔父のアブラハムのそばで真理を見て聞いて学んだロトだったので、たとえ自分の目に良いところを選んで、ソドムに彼の人生の基盤をつくったとしても、その中で行われることが神様の前にどれほど正しくないのかを心に感じて、苦しみを受けていたのです。 さらに神様のさばきが迫り、罪と悪で染まっているソドムの姿を見守るロトの心は、どれほど痛んだでしょうか?だからソドムでの生活に疲れたロトの心には、虚しさがこみあげてきたのです。前に叔父のアブラハムと一緒に暮らした時と今の自分とを比べてみて、今あまりにも価値なく生きていく自分の人生に対する悔恨が押し寄せてきたのです。 ちょうどこのような時に、二人の御使いのかしらが彼の前に現れました。 これはロトに訪れた貴重な恵みの機会でした。 
    
心があまりにも貧しくなっていたロトは、彼らがどんな方なのか知っているので、この機会を逃すことができませんでした。二人の御使いのかしらが、どんな目的をもってソドムを訪ねてきたのかは知らなくても、ロトはこの時こそ自分が失った恵みを取り戻せる機会だと考えたので、二人をそのまま去らせることができるわけではありませんでした。 これが結局はロトにとって救いの機会になりました。 
恵みの機会を逃さないロト   
 
それで、ロトは二人の御使いのかしらに懇願して、自分の家で泊まるようにお願いします。
2-3節「『さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。』すると彼らは言った。『いや、わたしたちは広場に泊まろう。』」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」とあります。まさにロトに仕えの行いがあったから、これが、ロトが救いに至るもう一つのきっかけになったという事です。もちろんロトが救いに至ったのは、アブラハムを覚えておられる神様の恵みでしたが、ロトがこのように神の使いを手厚くもてなして、恵みを求める心があったので、公義に外れることなく救いの道が開かれたのです。これはまるで私が病人たちに祈る時、私の神の力がいくら大きいとしても、祈りを受ける側からも、少しの信仰は示さなければならないのと同じ理屈です。何の信仰も誠意もなく、幸運や奇跡を願う気持ちで私の前に出て祈りを受けようとするなら、心を見る神様がどのように働いてくださるでしょうか? 
    
ロトが救われたことには、叔父アブラハムの恵みがあまりにも大きかったのですが、救いは結局、個人の信仰によるものなので、ロト自らも救いの枠の内に入ることができる、彼の信仰を見せなければならなかったのです。このようにロトの立場では、自分に訪れた恵みの機会を逃さずにつかんだという事です。 例えば、以前は主のしもべを見れば何とか仕えることを望み、恵みを受けることを望み、恵みの席があれば何とか訪ねて恵みを受けようとする姿だった方が、恵みが落ちれば、今は恵みの席があっても避けようとするのです。しかし、本当に信仰のある人ならどうすればいいですか? むしろ恵みが落ち充満さが落ちた時に、さらに恵みを慕わなければならず、満たされる道を探さなければならないでしょう。恵みの席があればさらに訪ねていかなければならず、恵みの機会が来た時につかまなければならないのです。 
    
したがって、ロトは二人の御使いを見た時、彼らに懇願して家に迎えて仕えるほどの信仰があり、その信仰を行いに現わしたので、恵みの機会をつかんだのです。 アブラハムがロトを心に抱くことの上に、このようなロトの信仰の行いが加わったため、火のさばきの中でも救われることができたのです。

朝の学び130   創世記18章  

創世記18:20-33
そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。

 

ソドムとゴモラを視察された神様の意図      

神様はアブラハムに非常に重要な約束の言葉をした後、直ちにソドムとゴモラについて話してくださいます。20-21節「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』と言われました。   

この言葉には3つの意図が込められています。第一に、神様はすべてを知っているにもかかわらず、もう一度慎重に調べることで、決して公義に外れないようにしようとすることです。ソドムとゴモラに下されるさばきは、すべてを滅ぼしてしまう途方もない災いであったので、このように最後まで繊細に調べて、わずかな間違いもないようにしようとしたのでした。 
    
第二に、この言葉の中には罪の結果が何なのか、したがって罪悪に陥ることをどれほど警戒しなければならないのか、これをアブラハムが確実に心に刻むようにしようとする意味が含まれています。アブラハムに驚くべき祝福の契約を下さいましたが、その約束が完全になされるためには、彼の子孫の中に決してソドムとゴモラのような誤った前轍を踏むことがあってはならないので、このようにソドムとゴモラが滅亡に至ってしまう過程をアブラハムの心に確実に植え付けることで、また彼の後の子孫の心に刻み、後々まで警戒するようにされたのです。 
    
第三に、神様はアブラハムにソドムとゴモラの滅亡についてあらかじめ教えてくださることで、そこに住むアブラハムの甥ロトに救いの道を開こうとされました。アブラハムがソドムとゴモラに差し迫ったさばきについて知った時、一番先に誰が思い浮かんだでしょうか?それは甥のロトでした。いつも心に留めていたロトでしたが、このロトが住んでいるソドムが滅亡される状況に置かれたので、これを知ったアブラハムはより一層ロトを心に抱いて祈るしかないのです。そしてアブラハムがこのように心に抱いて祈ることで、神様は甥のロトに救いの道を開いてくださいます。これはどういう意味でしょうか?これはまさにロトの救いが全面的にアブラハムによるものであることを確実にしていらっしゃるのです。 
    
霊の世界の法則は、求めてこそ答えられるのです。
ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」の言葉のように、愛と信仰をもって捧げる義人の祈りは、働くと大きな力があります。したがって、神様はアブラハムにソドムに差し迫ったさばきのことを教え、アブラハムがロトを心に抱いて祈るようにされるのです。その祈りに答えてロトに救いの道を開いてあげようとなさるのです。 
   
私もこのようなケースをよく体験してきました。例えば、神様が主のしもべや働き人についてあることを教えてくださる時がありますが、これはそれを教えてくださることで、私があらかじめ知って対処するようにしようとする意味もありますが、私にこのように知らせてくださると、私が心に抱いて祈ることを知っておられるからでもあります。たとえば、ある聖徒が死の道を進んでいると教えてくださったとしたら、それを知った私がどうしますか?知った瞬間から、その魂のために哀痛し、心に抱いて父なる神の前にしがみつくようになります。では、神様はなぜ私がこのように悲痛で心を痛めることを知りながらも、私にそのようなことをあらかじめ教えてくださるのでしょうか?それはまさにその魂に一度でも多くの機会を与えるためです。

もし神様が教えてくれなくて、結局その魂が死に行くことになったとしたら、その時は私がどれほど心を痛めて哀痛するでしょうか?だから、私がその魂について知った時、あまりにも心を痛めることを知っていますが、それでも私が心に抱いて祈らせるようにされ、その魂に救いの道を開いてあげようとするのです。羊飼いを見て、与えていただく機会なのです。これがまさに神様の愛であり、同時に神様の公義です。アブラハムを覚えて、甥のロトと彼の家族を救う時も、最後まで機会を与えておられるのです。アブラハムにあらかじめソドムとゴモラの審判について知らせることで、ロトを心に抱くようにしたように、神様は牧者を考えて、もう一度心に抱いて祈ることができるように機会を許すということです。 
 

ロトと彼の家族だけに与えられた最後の救いの機会 
      
ところが、これはまさにアブラハムが神様の愛される人なので、ロトに与えられた機会です。ソドムとゴモラには、アブラハムの甥であるロト以外にも、他の多くの人々の家族がいたでしょう。それでも神様はただアブラハムを覚えて、彼の甥ロトと彼の家族に最後まで機会を与えていらっしゃるという事です。これを肉で見れば公平ではないように見えるかもしれませんが、霊的にはあまりにも正確な公義です。神様の公義は愛の中で完全になるので、まさにこのような機会も与えられるのです。 

たとえば、神の前に非常に忠実な家族がいます。神様をとても愛して愛される家族です。ところが、この家族の中で一人の子供が神様の前に怒りを買うようなことをしました。 それなら当然、公義よって懲戒が伴わなければならないのですが、時には神様が彼を懲戒せずに、もう一度機会を与える場合があります。まさにその家族のことを考えていたからです。神様の前に怒りを買った個人としては、直ちに懲戒を与えても当然だが、そのようにされた時に、家族が体験することになる苦痛を考え、神様の前に忠誠して愛される家族を見て、機会を与えるのです。このように神様は、公義の中で全てのことを成し遂げますが、あることを成し遂げる時に一つだけ考えるのではなく、それによって派生されることまで全て考慮するという事です。 
    
しかし、ほとんどの人がこのように様々な面まで考慮できないまま、すぐに過ちだけを問題視して機会も与えず、二度と回復できない状況にまで至らせることを見ることになります。もし神様が皆様にもこのように行われたと考えてみてください。誰が再び機会を持つことができ、誰が今日の神様の愛される人として出てくるでしょうか?ただ神様の愛があったからであり、公義も愛の中で行われたので、皆さんが機会を得て、また機会を得て、今日にまで至ることができたという事です。これがまさに愛の中での正確な公義であり、公義の中での愛です。先にも申し上げたように、神様の公義は愛の中で完全になるので、公義が愛によって調和を成すのです。神様に愛される祭壇に属した羊の群れの時、神様からもう少し特別な保護を受けることができ、時には召天された方々が自分の信仰で行ける天国の所よりもっと良い所に行ったりすることがあるのは、すべてこのような愛の中での公義によるものです。 
    
したがって、神様の公義はある一面だけを見てはならないことであり、決して人の考えや知識で判断してもいけません。しかし同時に、神様の公義は必ずおっしゃる通り正確に行われるという事実も肝に銘じてください。このような公義については、来週から始まるリバイバル聖会の際に「公義」というタイトルの言葉を通して、さらに詳しい説明が出ていきます。

 ソドムとゴモラを調べるために御霊の神を送られた理由 
      
父なる神様は、ソドムとゴモラについて調べるために御霊の神を送られましたが、その理由は何でしょうか?これは少しでももっと人性的な面で状況を察して、最大限に恵みを施して下さるためです。例えば、ある交渉のために代表が行く時に同じ目的を持って行くとしても、代表として行く人の性格によって、いくらでも温柔に交渉することもでき、時には強硬に交渉することもできます。父なる神様がソドムとゴモラのさばきの時に御霊の神を送られたのも、まさに少しでももっと人性の心を推し量るためです。三位一体の神様は人性と神性を全て持っておられますが、その中で御霊の神は人性の分野がもう少し大きいです。ですから、より人性的な面で配慮して、憐みを施そうとする属性があります。反面、神様は神聖な面がより強いので、神様は御霊の神を送ったのです。 
     
本文に出てくるアブラハムと御霊の神の対話を見れば、アブラハムは神様の前にあえて5回も言葉を変えながらソドムのために求めます。 最初は義人50人がいれば、それによってソドムを滅ぼさないようにと懇願したが、次は45人、40人、30人、20人、ついには10人まで下がります。 アブラハムがこのようにできたのは、まさに人性的な面が強く、人性の分野をよく理解する御霊の神が来られたために可能だったことです。 したがって、神様が御霊の神を送られたのは、公義の法則上、いずれにしてもソドムとゴモラを滅ぼさなければならない状況でしたが、それでも少しでも人性的な面で顧みて、救いの機会を与えようとした父なる神様の心が込められていたのです。

  

私もあることを決める時、父なる神様の公義をあまりにもよく知っていますが、時には相手の心をもっと深く察してあげようとするので、公義よりは愛に偏るようになる場合が多かったのです。もちろん、公義を行う方は父なる神様なので、すべてを父なる神様に任せようとする気持ちですが、私の方ではきっぱりと切って、公義どおりに処理するのは難しいです。それで父なる神様はいつも私に神性と人性の調和について話してくださったのであり、この前に7年患難と地獄について知らせてくださるのもまさに、公義の善がどこまでなのかを私が悟って心に抱くことができるようにするためでした。 それで赦されるまで抱くようにするが、ある限界を越えて「赦せない」と決定が出る時は、父は抱くことができないようにします。私の心は赦してまた赦そうとする心ですが、父は私に正確な公義の善を知らせてくださって、神性と人性の完全な調和を成すことを願われるのは、これが父の心であり父の意思だからです。

父なる神の心も主の心も聖霊の心も愛そのものですが、いずれにしても公義という正確な法則の中で、霊の世界と肉の世界が存在し運営されます。そのため、霊の次元を完全に所有するためには、正確な公義の線がどこまでなのかを明確に知る必要があります。まさに神様はこのような公義の線を外れない範囲内で、最大限愛で働かれることを望んでいるので、ソドムとゴモラを審判する時も、人性の分野をより多く知って感じる聖霊様を送って、憐みと慈悲を施すことを望んだのです。 次の時間には、アブラハムの前に現れた神様を御霊の神と言いましたが、なぜ御霊の神と記録せずに神である主と言ったのかについて説明したいと思います。 
   

結論

愛する皆さん、私たちが神様の公義について知れば、心の願いに答えてもらうことはあまりにも簡単です。公義は即ち、答の公式とも同じで、公義に従って正確に適用していけば必ず答が与えられるからです。その方法を申し上げますと、多くありますが、代表的なものの一つがまさに七つの御霊です。神様の公義に照らして答を与えるかどうかを決めるために、各人の準備された状態を測量する秤のようなものがまさに七つの御霊です。それでリバイバル聖会を控えて主日大礼拝と夕方礼拝の時には、7つの御霊についてもう一度証しすることになります。今日の御言葉を通しても神様の公義についてお聞きになりましたが、次の日曜礼拝を通しても語られる御言葉をよく糧にしてください。そして神様の公義に従って、ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」という祝福の言葉が皆さんに臨むことをイエス・キリストのお名前で祈ります。

朝の学び129   創世記18章  

創世記18:9-19
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」そこで、【主】がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」

 

序論

前回、アブラハムの前に、御霊の神と2人の御使いのかしらが、制限的ではあるが肉の空間をまとって出てこられたとお伝えしました。霊の存在が肉の限られた空間に出てくるためには、肉の空間に合うかたちをまとわなければならないので、御霊の神と2人の御使いのかしらは、このように人のかたちをして現れたのです。しかし、私たち人間と同じ体を持っていたわけではなく、ただ必要に応じてしばらく人のかたちをされていたのです。4次元の空間を所有している三位一体の神様は、思い通りに気体、液体、固体、どんな形にもなることができますので、肉の空間の制限を受けた人と同じかたちをすることができるのです。それでも霊の眼が開かれた人は、その中に込められた本来の霊の姿を見ることができます。まさにアブラハムはこの3人を見る時、同時に霊の姿としても見ることができたので、直ちにその方々が誰なのかを悟り、その前に伏して手厚く仕えることができました。 
    
このように霊の眼が開かれると、肉の体で遮られたとしても、その中にある霊の体を見ることができますが、イエス・キリストを迎え聖霊を受けて霊が生き返った人々は、霊が成長すればするほど霊体から出る光もさらに強くなります。私たちが光である神様に似ていくつれ、そして失われた神様の姿を取り戻すにつれて、私たちの霊的な体からより強い光が放たれるようになります。それで、霊的な体から出てくる光を見れば、彼がどれほど光である神様に似て、霊で働いたのかが分かります。敵である悪魔サタンもまさにこの光を見るので、その人がどの程度、霊の次元に入っているかが分かるので、明るい光の前では恐ろしく震えることになります。
ヨハネ第一5:18「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。」とおっしゃった通り、罪を犯さない人は神様が守ってくださるだけでなく、その明るい光のために敵である悪魔サタンがあえて接近することもできないのを見ることができます。 
   

神の約束を信じないサラ  

  

本文9節から神様がアブラハムの前に現れた目的が出てきています。まさにアブラハムの妻サラに約束された跡取りがいつ頃生まれることになるのか、正確な時を教えてくださっています。ところが、このような神様の言葉を聞いたサラは心の中で笑って、「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう、それに主人も年寄りで。」と言います。この内容を一見すると、前にアブラハムが創世記17:17「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか』」とおっしゃったことと似ているように見えます。しかし、アブラハムが告白した心と内容は、今日の本文のサラとは全く違うという事です。アブラハムが笑ったのは、ついに契約が成就する時が来たことに気づき、喜びで笑ったことだと言いました。また、アブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言ったのは、人には到底できないことだが、神様は十分おできになることなので、このような神様を完全に信じてした告白だとお伝えしました。 
    
しかし、本文のサラの告白は違います。サラは、今、肉の考えを働かせて全能な神様の能力を疑っているのであり、自分に信仰がないことを表しているのです。それで13節に
「そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。」と言いながら、14節にもう一度契約の時を明確にしてくれます。「【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラはこのように自分の心の中までもよく知っている神様が恐ろしく、続く15節に恐ろしかったので、「私は笑いませんでした。」と答えてしまいます。 しかし、人はだましても神をだますことができません。神様はもう一度「いや、確かにあなたは笑った。」と言って、これ以上否認できないようにします。 
    
神様はすべてのことを知っているので、たとえ神様のお言葉が自分の考えに合わなくても、決して「いいえ」があってはなりません。神様は私自身も知らない私の深い心の中までも見抜いていらっしゃるからです。これがまさにすべてを知っている、全知全能の神様の属性です。人が神様の人性、人格的な面においては柔らかさと優しさなどを感じるようになるが、反面このような神聖な面に接することになれば、恐ろしくて震えるしかないですね。また、神様はこのように全てのことを知っているので、神様の前に唇でいくら「アーメン、信じます。」と告白したからといって、それで信仰があると認められるわけではありません。 「本当に自分の心の中心にはどんな気持ちがあって、 どんな考えがあるのか」が重要です。自分の考えと合わず、自分の心に合わないことに対して、表面ではいくらでも「はい」と言えますが、その瞬間、神様は心の中心を見ているからです。

わたしのしようとすることをアブラハムに隠すのか     
 
ふたりの御使いのかしらはソドムとゴモラに向かって去り、御霊の神だけが残ってアブラハムと対話をします。17節に
「【主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」とし、今後のことについてアブラハムに明らかにして下さいます。神様はアブラハムに深い奥義まで明かしてくださるほど信頼しておられました。このような親密な関係が、一日で成されたわけではありません。訓練の過程を経てアブラハムが肉の思いを打ち砕いて、父なる神様を完全に信じて信頼するようになるほど、神様の方でもアブラハムを信頼されるようになったのです。このようにアブラハムは一段階、一段階、信頼を積んできたので、神の友と呼ばれる完全な信頼の段階にまで至ることができたのです。 
    
私も今から30年前に、神様を迎えて以来、神様を100%信頼し、ただアーメンと信仰で走ってきました。そうしながら、神様との間の信頼関係を日々さらに築いてきました。信頼を失うようなことはせず、神様との信頼関係のためには、何でもすべて後にしたまま、神様との信頼を第一に考えてきました。 このように行ってきたからこそ、今日、神様は、私に想像できないほどの深い霊の世界についてまで教えてくださっているのです。また、これから起こることについても明らかにしてくださいます。 

正義と公正を行うことによって成就するアブラハムへの契約     
 
続く
18-19節に「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、【主】が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」」とおっしゃっています。彼に下さった契約が必ず成就すること、将来、彼の子孫を通して計画されたこと、すなわち神様が生きておられること、救い主が生まれること、そして聖霊の働きを万民に伝えようとする神様の計画について再び確認しておられるのです。 
    
ところが、神様がこのようにアブラハムを通して計画されたことが、ただ無条件になされるわけではありません。
「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて【主】の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため」とおっしゃった通り、神様の計画はただ主の道を守り、正義と公正を行う者たちを通してのみなされることができます。このために最もふさわしい人物としてアブラハムが選ばれたのです。それでアブラハムが信仰にあって、神様のみことばにどのように従うのかを見せるようにされ、後代の人々がこのようなアブラハムを見習って、神様の御心を実現することを望んでおられたのです。このように神様のわざは、ただ神様の命令に従う人々を通して実現されるという事を悟らなければなりません。 
   

朝の学び128    創世記18章  

創世記18:1-9
主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。

 

霊と肉の空間での神様の形

それでは、神様はどのようにして、このように人のような姿で現れることができたでしょうか?これは以前に、少し説明をしたことがありますが、第四の天の空間を所有している神様は、心に抱いている通りにその形状を変化させることができるためです。例えば、第四の天の空間では、ある物質の状態が固体、液体、気体などに固定されているのではなく、その空間を所有している神様が、心に抱いている通りにいくらでも変えることができるということです。

 

それで神様は本来、ある形のない光と声でいらっしゃった方ですが、第三の天に降りてくる時には、具体的な人のかたちをまとわれるのです。それがまさに私たちが将来天国に行けばお目にかかれる神様のかたちです。そして、そのかたちに沿って最初の人、アダムが造られたのです。もちろん、第四の天でも人のかたちをされているかもしれませんが、そこでは主に光と声でいらっしゃいます。

ところが、同じように人のかたちをしている時でも、根本的に第四の天にいた時と第三の天にいた時の姿は違います。次元によって現れる光と栄光、威厳などすべてが違うからです。正確な例えではありませんが、理解を深めるためにクリスタルピースを考えてみます。クリスタルで美しく削られた彫刻があるとすれば、同じ彫刻でも、どんな光と雰囲気に展示するかによって、大きく異なる姿に見えることができます。とても明るい光がある空間で見ると、様々な色できらめいて華やかに輝き、まるで神秘的な光の塊のように見えます。しかし、光が暗くて薄暗いところで見ると、あまり光も出ず、形だけが見えます。

これと同じように、第四の天にいらっしゃる、はじめの神様の栄光と姿が、それより制限された下の次元の空間の中では、異なるように見えるという事です。このように、霊の世界であっても、第四の天と第三の天ではその姿が大きく違って現れます。まして神様が、第一の天に臨んで肉の空間をまとった時は、その差がさらに大きくなるしかありません。さらに、肉の空間に降りてくる時も、霊の空間を開いてその中にいる姿を見るのと、完全に制限された肉の空間をまとって、肉の空間に出てきた姿を見るのとは違うということを知らなければなりません。

ところが、預言者や天使たちは、自ら制限された肉の空間をまとうことができません。肉の空間に現れるとしても、依然として霊の空間に乗っているのであり、霊の空間に属する存在なのです。しかし、神様はすべての空間を創造された創造主として、心に抱く通りに、どんな次元の空間でもまとうことができます。霊の空間に乗ったまま、肉の空間に臨むこともでき、肉の空間の限界を自らまとうこともできるので、人の目に見える形で現れることもできるのです。

今日の本文でアブラハムに現れた聖霊様は、このように限られた肉の空間を自らまとって現れた場合なのです。聖霊様は神様と一つである方として、このように心に抱く通りに、肉の空間をまとって人の姿で現れることが可能だったのです。また、共にした二人の天使長も、自ら肉の空間をまとって人のかたちで現れることができるわけではありませんが、この瞬間だけは聖霊様の空間の中で、聖霊様と共に肉の空間をまとったので、このような姿で現れることができたのです。しかし、聖霊様とお二人の天使長たちが、このように肉の空間をまとって人の姿で現れたからといって、人と同じではないという事です。肉のからだはまとっていますが、霊に属する肉のからだに近いと言えますね。

今日の本文によれば、三人、すなわち聖霊様と二人の天使長が、アブラハムがもてなす料理を食べたとありますが、これは私たち人が食べることとは違います。人が食べ物を食べるように、食べ物を噛んで細かく砕いて分解し、消化して吸収するのではなく、ただ散らばって消えるようになります。まるで復活した主が、食べ物を召し上がったのと似ていると言えるでしょう。復活した主は食べ物を召し上がった後、呼吸を通して食べ物を分解しましたが、神様と二人の天使長もこれと似ていたということです。しかし、肉の空間をまとった状態が、復活のからだと同じだというわけではありません。復活のからだは、この地で耕作されたからだが霊の体に変えられたものですが、今日の本文に三人が人のかたちをしたのは、しばらく必要に応じて肉の空間に適した形のからだとして存在していただけです。

 

では、なぜ神様は、二人の天使長と一緒にこのように肉の空間をまとった状態で、この地に降りてこなければならなかったのでしょうか?以前のように、霊の空間の中にいる姿でアブラハムに現れてもいいのですが、その理由は、ソドムとゴモラの地を注意深く調べなければならなかったからです。もちろん、霊として降りてきて調べることもできますが、今回は自らソドムとゴモラの地の人々の中に入って、直接彼らに接しなければならなかったからです。
 
これから19章に入って再び説明致しますが、二人の天使長がこのように人のような形で直接彼らの前に現れたので、彼らのはい逆した(道理に背く)悪の程度を確認することができたのです。彼らは人の姿で現れた天使長たちを見て、自分たちにふさわしい悪行をもって、天使長たちに関わろうとしたのです。ただ霊で来ていたら、彼らの悪を肌で感じることができなかったはずなのに、人の姿をして来たので、このように彼らの悪を直接体験して感じることができたということです。次の時間には、神様とアブラハムの間にあった会話の内容について見てみましょう。

 

結論

今週は苦難週間として過ごしています。イザヤ53:5「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」という言葉のように、イエス様は私たちの罪と過ちによって代わりに苦難を受け、十字架にかけられ亡くなりました。この時、イエス様が、私たちが想像できないほど大きな苦難と苦痛を受けなければならなかったという事も重要ですが、より重要なことは、まさにその苦痛は「私」のために受けたという事です。

今日2部の時間、復活祭カンタータ公演をご覧になると思いますが、イエス様の苦難にあう姿が出てきます。その場面を見ながら、ほとんどの方々が涙を流すことになりますが、涙が出る理由が、単にイエス様が受けた苦難があまりにも残酷だということではありません。そのような涙は世の人々も流すことができます。私と皆さんが涙を流すしかない理由は、イエス様が受けた苦難が、本来は私と皆さんが受けなければならないことだからです。

ところが、イエス様は私と皆さんのために、その苦難を代わりに受け入れてくださるほど、私たちを愛してくださったという事です。その愛に感謝し、感動して涙を流すことであり、そのような愛を受けながらも、神様をさらに愛せなかったことが申し訳なくて、涙を流すことになるのです。神様の息子が人の体を着て、そのような残酷な十字架の苦痛に遭ったという事実が、あまりにも心が痛むのは当然なことです。

一週間の間もイエス様の苦難をよく黙想されたと思いますが、今日2部にある公演を通して、もう一度イエス様の苦難の意味を再確認し、私と皆様を救った血の功を考えながら、恵みと感動になることを願います。それでローマ14:8「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」という御言葉のように、私たちのために生命をくださった主のために、自身の生命も惜しみなく捧げることができるという告白が、心の中心から湧き出る皆さんになられますように、主の御名でお祈りします。
 

朝の学び127  創世記18章  

創世記18:1-9
主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。

 

序論

本文の第18章を見ると、アブラハムがもう一度主なる神様と会う場面が出てきます。日の暑いころ、天幕の入り口に座っていたアブラハムは、3人の人が彼に向かって立っているのを見ることになります。ところが、彼らを見たアブラハムは、直ちに天幕の入り口から駆けつけて、彼らを出迎え、体を地にひれ伏して礼をします。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」

アブラハムが今三人に話す言葉を見ると、不思議に感じられるほど謙虚に手厚い仕えの姿勢が現れています。当時は、遠くへ旅をする人たちが適当に泊まれる旅館のようなところが多いわけでもなく、人口が多くないので、人家もまばらだったので、一般的に自分の家の近くを通る旅行者を見ると、自分の家に入れて接待するのが風習でした。したがって、アブラハムのように善良で施しをする心を持った人なら、通り過ぎる旅行客を見て、自分の家に招待して、もてなすのが当然の姿かもしれません。ところが、今日の本文の内容を見れば、アブラハムが今、普通の旅行者を接待する水準ではないことが分かります。妻のサラに直接、上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作れと言い、自分が直接、牛のところに走って行って、柔らかくて、おいしそうな子牛を取ってきたのです。また、お客さんに食べ物をもてなすことも、自分で直接口を出して接待しました。8節をみると「それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。」とあります。理解しやすく言えば、アブラハム自身が直接そばに立って、給仕までしたという事です。

アブラハムは非常に裕福で、力でも連合軍と戦って勝利するほど勢力のある大きな族長でした。創世記14:23によれば、アブラハムがソドムの王に対する時も「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」と、王に接しながらも、非常に堂々と威厳のある態度で話していることが分かります。また、霊的にもアブラハムは神様から愛され、信頼され、保証される本当に尊い人です。このようなアブラハムが、通り過ぎる旅行者たちを見て、このように慌てて走って行き、地面にひれ伏してお辞儀をし、彼らを家に呼び、自分が直接そばで食べ物までもてなしたのです。しかも彼らを「ご主人」と呼び、アブラハム自身を彼らのしもべだと低くしています。また、この3人がアブラハムに対する態度を見ても、普通の人ではないことが分かります。9節によればアブラハムに「あなたの妻サラはどこにいますか。」と言って、まるで目下の人に対するように尋ねています。 また普段よく知っているように話しています。では、果たしてアブラハムがこのように仕えるほどすごい人は誰でしょうか?

アブラハムに再び現れた聖霊の神様

創世記18:13を見ると、この3人が誰なのか分かる手がかりが出てきます。アブラハムが3人と対話する内容ですが、突然「主がアブラハムに仰せられた。」と言って、アブラハムに話している方が、主なる神であることが分かります。 3人のうちの1人が、主なる神様であることを言っているのです。それでは、主なる神様と親しく同行できた残りのお二人は誰だったのでしょうか?創世紀18:22によれば、主なる神様はそのまま残って、アブラハムと対話を続けますが、その人たちまもなくして、残りの2人はソドムに向かって行きました。
 
そして続く、
創世記19:1によれば「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」とあります。まさに主なる神様と同行した二人が御使いだったことを語っているので、ロトは前にも会ったことがあるということを物語っています。すでに知っているという事です。アブラハムの甥であるロトは彼らに気づきました。そのため、地面に顔を伏せてお辞儀をしてまで、彼らを手厚く出迎えたことが分かります。

では、この二人の御使いは果たして誰でしょうか?それも主なる神様が同行してこの地に降りてくるような位にある御使いなら、普通の天使ではないということを推察することができます。この二人はルシエールとルシヤ天使長です。したがって、この日にアブラハムの前に現れた3人は、主なる神様と2人の天使長が人の形で現れたのであり、アブラハムはこの方々が誰だということをすぐに知ったので、このように手厚く最初から出迎えたのです。もちろんアブラハムの甥であるロトも、この2人の天使長を一目見てわかりました。では、どうやってアブラハムと甥のロトは、このように人の形で現れた神様とお二人の天使長を知ることができたのでしょうか? 

その答えは、前にアブラムが戦争の捕虜として連れて行かれた甥のロトを救って帰る途中、メルキゼデクに会った出来事から見つけることができます。前に創世記14章で説明したように、メルキゼデクの形でアブラムの前に現れ、彼に会ってくださった方は聖霊の神様でした。そして、今日の本文にアブラハムの前に人の形で現れた方も、まさに聖霊の神様だったのです。アブラハムは以前、メルキゼデクという形で現れた聖霊の神様にすでにお会いしたことがあったので、このように再び聖霊の神様にお会いした時、すぐに見分けることができたのです。もちろん、前にメルキゼデクの形で現れた時と、今の人の形で現れた時とは全く違う状況です。これについては、後ほど詳しく説明されます。
 
そして、前に聖霊の神様がメルキゼデクの姿で現れた時も、今日の本文に出てくる二人の天使、すなわちルシエールとルシヤ天使長が一緒にしました。それでアブラハムは聖霊の神はもちろん、共にした二人の天使長も見たのです。また、ロトもやはり二人の天使長をみましたが、これは今後おこるすべてを知っている神様が、アブラムがメルキゼデクと会っている時、ロトにもしばらく霊の眼を開いてその状況を見えるようにしたためです。その時、ロトはメルキゼデクと一緒にした2人の天使長を見たので、創世記19:1でソドムを訪ねてきた2人の天使長を見てすぐに分かったのです。

「三人の人を見た」と記録した理由

愛する聖徒の皆さん、それなら聖書にはこの地に降りてきた聖霊の神様と2人の天使長に対して「アブラハムが神様と天使たちを見た」と言わずに「3人の人を見た」と記録した理由が何でしょうか?これはまさに神様がアブラハムの前に現れる時に、どんな方法と姿で現れたのかを分かるようにするためのものです。神様がアブラハムに現れる時は、色々な方法がありました。夢や幻で、声を通して会ってくださった時もありました。また、メルキゼデクというかたちとして来られたこともありました。ところが、今までのすべての場合は肉の世界にあるアブラハムの前に霊の空間を開いて見せてくださるので、霊の空間の中にいる神様に霊で会って感じさせてくださった状況でした。このような場合には霊の眼が開かれ霊の耳が開かれてこそ神様に会い、その声を聞くことができました。霊の眼が開かなかった人は、いくらそばに一緒にいたとしても、霊的にどんなことが起きているのかわかりません。しかし、霊の眼が開かなかったからといって、全く霊的な状況を感じないわけではないのです。霊的な気運とともに御霊によって感じることはできるのです。

ところが、今日の本文に神様が二人の天使長と一緒に現れた場合は、以前とは全く違う状況でした。この時は、単に肉の空間の中に霊の空間を開き、その中にいる姿を見せてくださった次元ではなく、ご自身で肉の空間に出て来られたのです。まるで以前はテレビの中に出てくる神様の形にお目にかかったのなら、今回は直接テレビの外に出てきた神様の形にお目にかかったのと同じです。このように神様が制限的ではありますが、肉の空間をまとって現れたということです。このような場合、霊の眼が開かれていない人にも神様の姿が見えることもありますが、まるで人の姿のように見えるのです。アブラハムも三人がこのように肉の空間をまとって人のかたちをして現れたのを見たので、本文に「三人の人」を見たと記録しているのです。ところが、アブラハムの場合は三人を見ると、人のかたちとしてだけ見たのではありません。 アブラハムは同時に霊の眼が開かれて見えたので、肉の空間をまとったかたちと、本来のかたち、つまり霊の姿も同時に見ることができました。

これについてもう少し詳しく説明します。霊の世界にいる預言者や天軍、天使のような霊的な存在が、私たちが住む肉の世界、すなわち第一の天の空間の中に現れる時、これらは霊の時間と霊の空間が流れる流れに乗って現れるのが一般的です。この時は、霊の時間の流れが止まり、霊の世界と肉の世界を結ぶ通路のようなものに乗ってくるのです。しかし、この時に肉の世界に降りてくるとしても、空間は依然として霊の空間の流れに乗っています。つまり、肉の空間の中に霊の空間とつながる通路が開かれ、霊の空間が部分的に形成され、その中に入っていると言えます。

したがって、このように霊の空間に乗っている預言者や霊的な存在は、肉の目で見ることができるのではありません。肉の世界に来たとはいえ、依然として霊の空間の中にあるので、霊の眼が開かれてこそ彼らを見ることができるのです。彼らが肉の空間に属する存在ではなく、依然として霊のからだとして霊の世界に属する存在として来るからです。

しかし、同じ霊の空間だとしても、第二の天のエデンに住む人々が肉の世界に降りてくれば、彼らは霊の眼が開かなくても見ることができます。もちろん、この地の人とは少し違いますが、それでも彼らは霊のからだではなく、土で作られた肉と骨がある存在なので、肉の空間でも見え、触れることができるのです。それで創世記6章で説明したように、エデンの園に住んでいた神様の息子たちがこの地に降りてきて、人の娘たちとも結婚することができたのです。前にも説明したように、第二の天は霊の空間ではありますが、完全な霊の空間ではないのです。しかし、第三の天以上の空間は完全な霊の次元に属する空間なので、このような霊の次元に属している存在を肉の人々が見るためには必ず霊の眼が開かれなければなりません。

ところが、今日の本文の場合には、神様が霊の空間の中にいらっしゃるのではなく、自ら第一の天の肉の空間をまとうので、制限された肉の空間に合うかたちで現れたという事です。この時は霊の眼が開かれていない肉の人たちも神様を見ることができるようになります。霊の世界にいた時のかたちとしてではなく、肉の空間の制約を受けている、まるで人のような姿に見えるのです。
 

朝の学び126   創世記17章  

創世紀 17:15-27 
また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。

序論/割礼

神様はアブラムの年齢が99歳になった時、彼の前に現れ驚くべき約束の言葉を与られます。まさに彼の名前がアブラムからアブラハムに変わり、多くの国民の父として立てられたことで、信仰の父としての地位が約束されたのです。もちろん、彼が神様の前に完全であることを認められるようになるのは、将来一人子のイサクを捧げる試練を通過した後です。しかし、神様がアブラハムを多くの国民の父として立ててくださるこの出来事を通して、これを契機に本格的な人間耕作の歴史が始まります。この時までもすべてを主管された神様が、今後アブラハムの子孫を通して、人間耕作の歴史をどのように成し遂げていくかに対する輪郭が明らかになっているのです。こうして人間耕作の歴史の流れは、神様を信じる人と信じない人のこのように大きく2つの種類に分かたれ進行されていくでしょうが、それでも結局は、人間耕作の歴史の流れは、神様が選んだ者たちを通して主導されていきます。神様が選んだ者たちとは、まさにアブラハムの子孫です。 
    
このように重要な意味を持つ出会いなので、父なる神様は息子たちを同行させ、自らアブラハムの前に現れ、約束の言葉を与えているのです。ところが、このような契約の言葉を受けたアブラハムの方でも契約に対する確証の証を見せなければなりませんでした。神様の側でいくら大きな祝福の言葉を与えても、受ける側でそれを信仰で受けなければ意味がありません。それで、この信仰を示す行いの証として示すようにしたのが割礼です。
創世記17:11によれば割礼について神様が「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」とおっしゃいました。旧約聖書ではこの割礼が必ず行為的なものとして現れなければならなかったのですが、聖霊の時代になってはそうではないことを見ます。肉的な割礼を行い、それで神様との間の契約のしるしとするのではなく、キリスト・イエスに属したのかをもって神様との契約のしるしとすることになります。肉的な割礼をしてこそ、アブラハムの子孫と認められ神の約束の民になるのではなく、イエス·キリストを信じることによってなされるということです。
 

ガラテヤ3:26-29に「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」とあります。誰でもキリスト・イエスにあって洗礼を受けるので、キリストをその身に着た人がアブラハムの子孫です。約束による相続人なのです。では、キリストをその身に着たということは、どういう意味でしょうか?まさに心の割礼です。「服」は霊的に「心」を意味するが、私たちが神様を知る前に持っていた肉的な心の服を脱ぎ、今はキリスト・イエスの心で新しく服を着なければならないということです。罪と悪、古い習慣を心から取り除き、神聖で聖潔な神様の心に変化しなければなりません。このように行為的な割礼ではなく、まさに心に神様との契約のしるしを持った人だけが、約束された救いに至るという事です。割礼を行うことは、すなわち、私たちの方から印鑑を押すようなものです。

それでヘブル10:15-16にも「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。」とあります。今は神の法を肉体の割礼や行為に置くのではなく、まさに心に留めて記し、その法どおりに生きていかなければならないのです。ここで思いに書きつけるということは、魂にも刻むという意味です。このように割礼に込められた霊的な意味をよく悟り、熱心に心の割礼を成し遂げ、アブラハムのように神様の祝福を受けられる器を準備して下さい。 
   

神様の契約を聞いて喜びで笑ったアブラハム

神様は、アブラハムの名前だけをアブラハムに変えてくださったのではなく、サライの名前もサラに変えてくださいます。今日の本文の15-16節「また、神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。』」と話しています。サラもやはり夫のアブラハムによってこのように驚くべき祝福を受けるに至ったのです。もちろん、ある祝福を受けるためには当然、自分の方での努力と器の準備が必要ですが、時には義人と共にするだけでも神様の祝福を受ける場合があるのです。ところが、今日の本文17節を見ると、多くの人が誤解している言葉が出てきます。神はサラによって、「あなたにひとりの男の子を与えよう。」おっしゃると、これを聞いたアブラハムが意外な反応をします。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」と言ったのです。
   
この言葉を文字的に誤って解釈すると、アブラハムが笑った理由や考えたことについて誤解することがあります。「百歳にもなった自分と、九十歳にもなったサラの体でどうやって子供を産むことができるか」と、神様の言葉を信じられず笑ったと勘違いすることがあるという話です。とんでもないことを聞く時、呆れて笑うような笑いとして考えるのです。しかし、決してそうではないという事です。アブラハムが
「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と考えたのは、むしろ神様の全能であることをより信頼する告白を心の中で成し遂げているのでした。つまり世の中の理屈通りなら、これほど年上の夫婦から子供が生まれるということは不可能なことです。しかし、今アブラハムはこのように不可能なことであるにもかかわらず、全能な神様がすべてを成し遂げることを明確に信じたという事です。 
    
これに対して
ローマ4:18-20によれば「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、」あります。それでは本文でアブラハムがこのような考えをしながら笑った理由は何でしょうか? これはまさに喜びの笑いです。神様が跡取りを約束した後、たとえ長い歳月が過ぎても、アブラハムはその歳月の間、変わらず神様の約束を信じ、またその約束の成就がハガルを通して産んだイシュマエルではないという事を知っていました。ところが、もうサライの名前を変えてくださり、彼に息子を約束する祝福の言葉を聞く時、アブラハムはついに神様の約束が成就する時が来たことを心に悟るので、喜びの笑いが出たのです。 
    
皆さんもこういうことを体験される時がありますね。切に願う願いがあって祈る時、その祈りの内容が神様の前にふさわしい場合、神様は心に平安と喜びで答の確信を与えます。ところが、祈るとすぐに心に確信が来て平安が来たとしても、常にその答の実をすぐに取ることになるわけではありません。その答の実を目にしたところ、手に触れたところになるまでには、最も適切な時期を待たなければならない場合があります。もちろん、このように時期を待たなければならないとしても、
マルコ11:24「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とおっしゃった通り、すでに受けたと信じるので、心には答に対する確信と平安があります。そうするうちについに答の時が目の前に近づくと、聖霊の感動の中でこれを感じるので、より一層喜びが充満するのを体験することができます。 
    
例えば、春になって種を蒔いた農夫は、秋になると実を結ぶことを信じているため、希望とやりがいを持って秋を待ちます。そして、ついに秋になって穀物が黄色く熟し、田に黄金の波が立ち、収穫する時が間近になると、農夫の心は以前とは比べられないより大きな喜びで満たされるようになります。実がすぐ目の前に見えるからです。これと同じように、アブラハムも長い間待ってきた跡取りに対する約束が、今や実際になされる時が近づいてきたことに気づくと、その喜びによって笑うようになったのです。したがってアブラハムが「
百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言った言葉には、そのことが不可能だという否定的な告白の意味ではなく、「しかし神様はできる」という信仰の告白の意味が含まれているという事です。

朝の学び125   創世記17章  

創世紀 17:15-27 
また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。

序論/割礼

神様はアブラムの年齢が99歳になった時、彼の前に現れ驚くべき約束の言葉を与られます。まさに彼の名前がアブラムからアブラハムに変わり、多くの国民の父として立てられたことで、信仰の父としての地位が約束されたのです。もちろん、彼が神様の前に完全であることを認められるようになるのは、将来一人子のイサクを捧げる試練を通過した後です。しかし、神様がアブラハムを多くの国民の父として立ててくださるこの出来事を通して、これを契機に本格的な人間耕作の歴史が始まります。この時までもすべてを主管された神様が、今後アブラハムの子孫を通して、人間耕作の歴史をどのように成し遂げていくかに対する輪郭が明らかになっているのです。こうして人間耕作の歴史の流れは、神様を信じる人と信じない人このように大きく2つの種類に分かたれ進行されていくでしょうが、それでも結局は、人間耕作の歴史の流れは、神様が選んだ者たちを通して主導されていきます。神様が選んだ者たちとは、まさにアブラハムの子孫です。 
    
このように重要な意味を持つ出会いなので、父なる神様は息子たちを同行させ、自らアブラハムの前に現れ、約束の言葉を与えているのです。ところが、このような契約の言葉を受けたアブラハムの方でも契約に対する確証の証を見せなければなりませんでした。神様の側でいくら大きな祝福の言葉を与えても、受ける側でそれを信仰で受けなければ意味がありません。それで、この信仰を示す行いの証として示すようにしたのが割礼です。
創世記17:11によれば割礼について神様が「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」とおっしゃいました。旧約聖書ではこの割礼が必ず行為的なものとして現れなければならなかったのですが、聖霊の時代になってはそうではないことを見ます。肉的な割礼を行い、それで神様との間の契約のしるしとするのではなく、キリスト・イエスに属したのかをもって神様との契約のしるしとすることになります。肉的な割礼をしてこそ、アブラハムの子孫と認められ神の約束の民になるのではなく、イエス·キリストを信じることによってなされるということです。
 

ガラテヤ3:26-29「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」とあります。誰でもキリスト・イエスにあって洗礼を受けるので、キリストをその身に着た人がアブラハムの子孫です。約束による相続人なのです。では、キリストをその身に着たということは、どういう意味でしょうか?まさに心の割礼です。「服」は霊的に「心」を意味するが、私たちが神様を知る前に持っていた肉的な心の服を脱ぎ、今はキリスト・イエスの心で新しく服を着なければならないということです。罪と悪、古い習慣を心から取り除き、神聖で聖潔な神様の心に変化しなければなりません。このように行為的な割礼ではなく、まさに心に神様との契約のしるしを持った人だけが、約束された救いに至るという事です。割礼を行うことは、すなわち、私たちの方から印鑑を押すようなものです。

それでヘブル10:15-16にも「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。」とあります。今は神の法を肉体の割礼や行為に置くのではなく、まさに心に留めて記し、その法どおりに生きていかなければならないのです。ここで思いに書きつけるということは、魂にも刻むという意味です。このように割礼に込められた霊的な意味をよく悟り、熱心に心の割礼を成し遂げ、アブラハムのように神様の祝福を受けられる器を準備して下さい。 
   

神様の契約を聞いて喜びで笑ったアブラハム

神様は、アブラハムの名前だけをアブラハムに変えてくださったのではなく、サライの名前もサラに変えてくださいます。今日の本文の15-16節に「また、神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。』」と話しています。サラもやはり夫のアブラハムによってこのように驚くべき祝福を受けるに至ったのです。もちろん、ある祝福を受けるためには当然、自分の方での努力と器の準備が必要ですが、時には義人と共にするだけでも神様の祝福を受ける場合があるのです。ところが、今日の本文17節を見ると、多くの人が誤解している言葉が出てきます。神はサラによって、「あなたにひとりの男の子を与えよう。」おっしゃると、これを聞いたアブラハムが意外な反応をします。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」と言ったのです。
   
この言葉を文字的に誤って解釈すると、アブラハムが笑った理由や考えたことについて誤解することがあります。「百歳にもなった自分と、九十歳にもなったサラの体でどうやって子供を産むことができるか」と、神様の言葉を信じられず笑ったと勘違いすることがあるという話です。とんでもないことを聞く時、呆れて笑うような笑いとして考えるのです。しかし、決してそうではないという事です。アブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と考えたのは、むしろ神様の全能であることをより信頼する告白を心の中で成し遂げているのでした。つまり世の中の理屈通りなら、これほど年上の夫婦から子供が生まれるということは不可能なことです。しかし、今アブラハムはこのように不可能なことであるにもかかわらず、全能な神様がすべてを成し遂げることを明確に信じたという事です。 
    
これに対して
ローマ4:18-20によれば「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、」とあります。それでは本文でアブラハムがこのような考えをしながら笑った理由は何でしょうか? これはまさに喜びの笑いです。神様が跡取りを約束した後、たとえ長い歳月が過ぎても、アブラハムはその歳月の間、変わらず神様の約束を信じ、またその約束の成就がハガルを通して産んだイシュマエルではないという事を知っていました。ところが、もうサライの名前を変えてくださり、彼に息子を約束する祝福の言葉を聞く時、アブラハムはついに神様の約束が成就する時が来たことを心に悟るので、喜びの笑いが出たのです。 
    
皆さんもこういうことを体験される時がありますね。切に願う願いがあって祈る時、その祈りの内容が神様の前にふさわしい場合、神様は心に平安と喜びで答の確信を与えます。ところが、祈るとすぐに心に確信が来て平安が来たとしても、常にその答の実をすぐに取ることになるわけではありません。その答の実を目にしたところ、手に触れたところになるまでには、最も適切な時期を待たなければならない場合があります。もちろん、このように時期を待たなければならないとしても、
マルコ11:24「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とおっしゃった通り、すでに受けたと信じるので、心には答に対する確信と平安があります。そうするうちについに答の時が目の前に近づくと、聖霊の感動の中でこれを感じるので、より一層喜びが充満するのを体験することができます。 
    
例えば、春になって種を蒔いた農夫は、秋になると実を結ぶことを信じているため、希望とやりがいを持って秋を待ちます。そして、ついに秋になって穀物が黄色く熟し、田に黄金の波が立ち、収穫する時が間近になると、農夫の心は以前とは比べられないより大きな喜びで満たされるようになります。実がすぐ目の前に見えるからです。これと同じように、アブラハムも長い間待ってきた跡取りに対する約束が、今や実際になされる時が近づいてきたことに気づくと、その喜びによって笑うようになったのです。したがってアブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言った言葉には、そのことが不可能だという否定的な告白の意味ではなく、「しかし神様はできる」という信仰の告白の意味が含まれているという事です。

朝の学び124   創世記17章  

創世記17:1- 15   
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

神様と契約の証、割礼

「割礼」とは「男の生殖器の先にある包皮の肉を切り捨てる儀式」として、神様は生まれて8日目に割礼することを命じました。その後、イスラエルの民はこの言葉に絶対的に聞き従い、さらには安息日にも割礼だけは行いました。ヨハネ7:22-23には「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。・・ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです。・・それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」というイエス様のお言葉あります。
    
では、神様がこのように割礼を命じた理由は何でしょうか?これは神を信じる者として、神の前にそれを行いで表すことをおっしゃるのです。先にも申し上げたように、信じるなら当然行いも従わなければならないので、神様はそのしるしとして割礼を命じたのです。そして、このように割礼をするということは、もう全てのことを神様のお言葉に従って行っていくという、人の方での契約を意味します。割礼だけしたからといって、それで『神を信じる。』と認められるのではなく、割礼を通して、神様を信じるということを証明して見せると同時に、これから神様を信じる人として、神様のお言葉どおりに生きていくという約束のようなものです。 
    
これに対して
ガラテヤ5:3で使徒パウロは、「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。」と語っています。だから、たとえ割礼をしたとしても、彼が神様の御言葉通りに生きていかなければ、彼は結局、神様と関係のない人になってしまいます。それでローマ2:25にも「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。」と言っています。また、続く26節に「もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。」つまり、無割礼の者が律法の制度を守れば、その無割礼を割礼のように考えられるのではないかとして、無割礼の者でも律法に従って生きれば割礼したように考えることができると言います。 
    
しかし、この言葉は
ローマ2:14-15「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」という言葉と対になる言葉で、これは神を知らず、割礼を受けられなかった異邦人でも、良心に律法の行為を表す時は、それで救いを得ることができることをおっしゃったのです。 
   
しかし、神様を信じる人なら、神様との間で結んだ契約の証として、旧約時代にはこれが必ず行為的な割礼としても出てこなければならなかったのです。ところが、新約聖書の時代においても、ユダヤ人は、割礼を受けていない人々には救いがないと考えました。主を信じるユダヤ人の中にも、割礼をまるで救いの証であるかのように考える人がいました。
使徒の働き15:1に「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。」とあります。 
    

ガラテヤ5:6に「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」ローマ2:28-29には「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と話しました。だから、肉体の割礼が救いの基準ではなく、肉体の割礼をした表面的なユダヤ人だからといって、皆が霊的に神が認めるユダヤ人ではないことを知らなければなりません。肉体の割礼をしたユダヤ人だからといって、皆が救われるわけではないということです。もし約束の民として、割礼をしたイスラエルの民だけが救いの対象なら、神様は異邦人まで割礼の対象に含まれなかったでしょう。

しかし、今日の本文の12-13節を見ると、「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。」とおっしゃいました。これは救いの御業が、イスラエルの民族に限ったことではないことを示唆しています。すべての民族とすべての国の中で割礼を受けた者、すなわち神様と契約が立てられた人は誰でも、救いに至ることができることを旧約聖書においても語っているのです。 
    
イスラエルの民であれ、異邦人であれ、割礼を受けたということは、霊的に神の契約の中に入ってきたことを意味するもので、救いの枠の中に入ってきたことを意味します。割礼を受けたかどうかということは、肉体の割礼を受けたかどうかということで決まるのではなく、彼が神との契約の中にいる人か、そうでない人かで決まるのです。だから救いはイエス様を救い主として迎え、神様の子供になった約束を受け、神様のお言葉の中に生きていく人なら誰にでも与えられるものです。アブラハムはすべての国と民族の中で信仰の父になるために、多くの国民の父と呼ばれるようになったのです。 
   
このようにアブラハムがイスラエルの民だけでなく、すべての信じる人の父として立てられたという事について、
ローマ4:9後半節-13節にはっきりと述べています。 「私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた。』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」

したがって、アブラハムが信じるすべての者の父になったのが割礼を受けた後ではなく、割礼を受ける前だということです。アブラハムは割礼を受ける前でも、信仰によって義と認められたのです。アブラハムが割礼を受けたからといって、割礼者の父だけになるのではなく、彼が割礼を受ける前に持っていた信仰の跡を追う人なら、誰であっても父になるという意味です。 したがって神様との間の契約は、割礼や律法の行為だけによるものではなく、信仰の義によるという意味です。今日の本文は、神様とアブラハムとの出会いを通して、このように重要な霊的な意味が込められた契約が結ばれる時点であったので、神様は自ら息子たちを同行して、アブラハムの前に現れて話してくださったのです。 次の時間には、ほとんどの人が誤解している聖書の内容が解かれます。神様から約束の子孫を与えるという話を聞いたアブラハムが笑ったという言葉の意味が何なのか、次の時間に説明させていただきます。 


  
結論

今日の本文14節によれば「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」と話しました。神様との間に契約を結んだ人は、その証拠として必ず割礼を受けなければならなかったし、このように割礼を受けた人にだけ神様の契約も効力があるのです。この地上で、人と人との間でどんな契約を結ぶ時も、片方だけに印鑑を押した契約書は無効であるように、神様と私たちの間の契約においても、私たちの側で印鑑を必ず押さなければ、この契約が完全になれないのです。印鑑を押すような役割をするのがまさに割礼なのです。割礼を受けていない人は神様と関係のない人として神様から断ち切られることになるのです。 
    
それでは、今日はどのように割礼をすべきでしょうか?
コロサイ2:11「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」イエス様が、私たちの罪を代わりに負って、十字架にかけられ亡くなることを信じる人ならば、その信仰の証として、これ以上罪の中で生きてはいけなくて、肉を脱いで霊に変化する人生を生きなければなりません。「私は教会に通っているから」、「私は教会にこんなに長く通っていたから」、「私はこのような職分を持っているから」、「私はこのように多くの仕事をしているから」このようなことは、ただ自分がキリスト教徒であることを表面的に示そうとする肉体の割礼に過ぎません。

神様はキリストの割礼を受けた者として「どれほど悪を捨てて、どれほど主に似せられて聖められて、神に似せられた御霊に属する心を持っているのか」まさにこのような心の割礼を望んでいらっしゃいます。第一ヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とおっしゃった通り、言葉や口先だけで神様を愛すると言ってクリスチャンだと自認するのではなく、ただ行いと真実をもって愛さなければならないのです。

朝の学び123   創世記17章  

創世記17:1- 15   
アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

序論


今日の本文17章では、神様がついにアブラムの名前をアブラハムに変えてくださる内容が出てきます。ついに多くの国民の父として立てられるのです。ところが、この祝福の瞬間のために神様はもう一度アブラムに親しく現れてくださいます。神様はかつてアブラムにくださった約束の言葉を叶えようとアブラムに準備させるために、このように彼の前に現れて会ってくださったのです。この出来事は人間耕作の歴史においても非常に重要な瞬間なので、神様は御使いを代わりに遣わされたり、御声だけで働かれたりしたのではなく、アブラムの前に自ら現れてくださったのです。 

ところがこの時、神様がアブラムの前にご自身を現わされたのは、幻想や幻の中で見るものとは違いました。夢や幻の中で神様にお目にかかるのは、この肉の空間の中に霊の空間の扉が開かれ、その中にある霊の世界を見ることですが、今日の本文で神様がアブラムに現れたのは、肉の空間の中に霊の空間が形成され、霊の通路を通って降りて来られたのです。しかし、父なる神様が自ら降臨したからといって、天にいらっしゃる本体が直接いらっしゃるわけではありません。簡単に言えば分離体でいらっしゃったのですが、もちろん本体、すなわち神様の根本そのものにお目にかかることと、霊の分離を通して来られた方にお目にかかることとは大きな違いがあります。 
 
しかし、このように分離体でいらっしゃるからといって、天にいらっしゃる本体と姿が違うわけではなく、お目にかかる側から分離体だと感じるわけでもありません。時間空間を超越する神様は、その本体は天にいながらも、同時に分離された体を通して同じ姿と感じで、この第一の天に降りてこられたのです。しかし、いくら本体のような姿と感じだとしても、4次元の空間にいらっしゃる神様が、1次元の制約された空間に降りて来られお会いすることと、将来私たちが天国に行ってお会いすることとはその意味が全く違うという事です。 
    
例えば、皆さんが王に会う時、その王が皆さんの家に来て会うのと、皆さんが王宮に行って会うのとはいろいろ違うでしょう。また、高画質の鮮明なテレビであっても、実物を見ることとは差があるように、神様を本体で見ることも、やはり本体の姿や感じ、威厳と権勢などは同じだとしても、将来実物である本体を見る時に感じる感動と歓喜、充満とは次元が違います。ところが、父なる神様が、このようにアブラムに会いに来られる時に、神様お一人でいらっしゃるのではないですね。とてつもない群れの天軍と天使を連れて護衛を従えていらっしゃるのです。  

霊の眼が開かれた方々は、父なる神様がこの第一の天に降りてくる時、どんな姿でどのようにいらっしゃるのかご存知でしょう。天軍天使たちが予め降りてきて、忙しく動きながらどれほど多くの準備をするのか、そのお出ましがどれほど華やかで雄大で、権勢と威厳が感じられるのかをご覧になりました。また、補佐官と一緒に降りて来られるのを見ます。さらに、父なる神様が自ら動かれる時は、息子たちが同行する場合が多いのです。まさに本文にアブラムに会った時も父なる神様お一人で来られたのではなく、息子たちを同行して降りて来られたという事です。だから、この出会いがどれほど重要な意味を持っていたかをよく知ることができます。

あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ

このように重要な意味を持った出会いのためにアブラムの前に現れた神様は、彼に先に「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」という言葉を与えます。75歳の時に彼を召して、今まで多くの試練の過程を通して練りに練って、信仰を成長させてこられたのに、もう一度強調して「全き者であれ。」とおっしゃったのです。信仰の父という地位には決して責められるところがあってはならないからで、神様はこのように神様の前に完全であることを要求されたのです。 
    
神様は公義の神様なので、懲戒や災難だけでなく祝福を下さる時も、公義の中で働かれます。アブラムにも、多くの国民の父として立てていかれる驚くべき祝福を与えながらも、まず彼に完全であることをおっしゃったように、皆さんに祝福を与えるためにも、まず皆さんに準備された器を望んでおられます。聖書に名前が記された信仰の人々が、神様に用いられて祝福されるためには、それだけ器を備えて神様の前に認められなければならなかったのです。では、このような器を準備する上で最も重要なことは何でしょうか?それは本文に神様がアブラムに
「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」とおっしゃったように、神様に似せられた聖なる、完全な姿になることです。行為によって救われた旧約時代にはこの言葉が行いの完全さを意味しますが、聖霊を受けて心に割礼していく聖霊の時代は、心が聖められることと、完全さまで含まれています。だからといって、旧約時代は心の割礼をしなくてもいいという意味ではありません。本当に神様が望んでおられるのは旧約時代も今の聖霊時代も皆、心の割礼をすることでした。

申命記30:6を見ても「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」と言われたのです。まさに心に割礼をして、心を尽くし精神を尽くして神様を愛する時に生きるようにすると言われました。これが神様が人間耕作を通して得ることを望まれるまことの子供であり、神様はこのような子供たちを天国に入れて、永遠のいのちを与えることを望んでおられるという事です。このような神様の御心をよく知っているアブラハムだったので、彼は行いでだけ神様の御前に全き者だったのではなく、心までも完全だったことを見ることができます。

したがって、今日の本文に神様が「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」とおっしゃったことは、単に外形的な行いの完全さではなく、完全な心から湧き出る行いの完全さという事を知らなければなりません。行いも重要だが、もっと重要なことは心だということです。ところが、信仰において行いの重要性を強調すると、ある人々は信じると言いながらも、これをまるで誤った律法主義であるかのように言ったりもします。しかし、聖書は明らかに心と共に行いの重要性を指しています。 
    
アブラハムが最後の関門であった、一人子のイサクを捧げる試練を通過した時も、神様はアブラハムに祝福を与え「あなたがわたしの声に聞き従ったからである」とおっしゃったのです。これについて
ヤコブ2:21-24では「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」とあります。

多くの国民の父アブラハムを立てた永遠の契約

今、本文の2-8節には神様がアブラハムにくださる約束の言葉が出てきています。「『わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。』アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。『わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。』」

その中で5節を見ると、「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」神様がアブラムの名前をアブラハムに変えてくださいます。 "アブラハム"という名前の意味は多くの人の父という意味で、本文には"多くの国民の父"と表現しています。信仰の父であるアブラハムを通して、将来どれほど多くの信仰の子孫が出てくることになるのかを言っているのです。 
    
それと共に
7節「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」「わたしがわたしの契約を、あなたと世々の子孫の間に立てて永遠の契約とし、あなたと代々の子孫の神様になるだろう」とおっしゃいます。今日、アブラハムを通して立てた契約によって、将来最後までのすべての歴史の流れの中で、神様がすべてを主管しながら導いていくという意味が込められています。皆さんもすでにご存知のように、イスラエルに福音が回帰し、人間耕作の歴史が終わる瞬間まで、神様はアブラハムとの約束によって最後までイスラエル民族を捨てずに、彼らの神様になってくださるのです。 
    
ところが、神様はこのような約束を与え、人の側でもこの約束を確証する証として割礼することをおっしゃいました。
9-10節に「ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。」とおっしゃいます。この言葉に従って割礼をする人だけが神との間の契約が効力を発揮することになるのです。 

朝の学び122創世記16章  

創世紀 16:4-16  
彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

道理に従ってすべてを神に託したアブラム

6節「アブラムはサライに言った。『ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。』それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」とあります。では、アブラムはなぜハガルをサライの手に任せて、このような結果が出るようにしたのでしょうか?ハガルは自分の大切な子供を妊娠している状況なので、彼女の行動がちょっとやり過ぎだと思っても、サライを説得してなだめて、最後までハガルの肩を持って守ってあげてもよかったのではないでしょうか?今、アブラムは人の考えと方法を働かせたのではなく、すべてを父なる神様の御手にゆだねているのです。アブラムは一家の長として、いくらでもサライを説得してなだめたり、あるいは指示してでも何とかハガルを守ることができる状況です。しかし、これはあくまでも人の考え方と方法です。
 
アブラムがそうしたなら、たとえ表向きには問題が解決されたように見えても、心の中では2人の心がどれほど気まずくなり、互いに憎んでわだかまりを持つようになるでしょうか。サライに「我慢しなさい」と言って問題が解決されるわけでもなく、ハガルに「我慢しなさい」と言ってできる状況でもなかったのです。どちらか一方の手を挙げなければなりませんが、どちらの手を挙げても問題が解決できる状況ではありませんでした。アブラムはこれをあまりにもよく知っていたので、自分がしようとしたのではなく、問題の解決を父なる神様にゆだねたのです。家長として権限があるからといってその権限で、「あなたはこのように、あなたはああしなさい」と指示して決定を下したのではなく、道理に従って行うことで、神様がすべてを解決してくださるようにゆだねたのです。
 
ハガルは本来サライに属する女奴隷で、ハガルに対する権限がサライにあるのでそのまま任せるのが道理です。その結果、すぐにハガルがサライを避けて荒野に逃げてしまう結果が現れましたが、これがむしろ解決の糸口になります。肉から見れば問題がさらにこじれるように見えるかもしれませんが、霊的にはこれがまさに問題解決の始まりでした。主の使いが現れ、自らハガルに
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言うと、ハガルも他に方法がなかったのです。もしアブラムがハガルに「どんなことがあってもあなたは女主人サライのもとで身を低くしなさい」と言ったとすれば、ハガルはその言葉を聞こうとしなかったでしょうし、そのように話すアブラムに対しても、むなしさやわだかまりを持つこともあり得たのです。しかし、このように主の使いが現れて指示すると、ハガルはその言葉に従うしかありませんでした。 
    
だからといって、ハガルにただ帰ってサライに服従するように言ったのではありません。将来彼女が産むことになる子供に対する、祝福と約束の言葉をくださいます。ただ無条件に帰りなさいと言うなら、帰って後に耐えなければならない苦痛を思うと、ハガルの心はどれ程苦しかったでしょう。しかし、「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」という約束の言葉を下さったので、ハガルは希望の中でその言葉に従い、素直に帰ることができたのです。また、サライも実際にハガルをひどく虐待し、ハガルが逃げる状況にまでなると当惑せざるを得ず、夫のアブラムにも申し訳ない気持ちになります。「私がちょっとひどかったようだ。それでも夫のアブラムの子供を妊娠しているのに。何か問題でも起こったらどうしよう。…···」こんなことを考えながら、自分を振り返る時間になったのです。

だから、ハガルが戻ってきたときは、以前のようにひどく虐待はできないですね。このようにアブラムが自分の力と方法でしたのではなく、道理に従ってすべてを神様にゆだねたので、神様はすべてが平和の中で解決されるように働いてくださったのです。そして、神様がこのように働いて下さったのは、まさに愛するアブラムの心を考えたからです。もし、サライとハガルの間の葛藤が日に日にさらに激しくなっていけば、これを見守るアブラムの心がどれほど痛んだでしょうか?だから神様は愛するアブラムを考えて、結局すべてが平和の中で解決されるように導いていったのです。ところで重要なことは、この時、アブラムがこのように神様が働かれるように、すべてを神様に任せたという点です。  
 
それでは皆さんの姿はどうですか?「大小いろいろあることの中で、もしかして私が持っている権勢と力を持って、道理から外れて問題を解決しようとしなかったのか?その過程で他の人の心を傷つけ、平和を壊したりはしなかったのか?」このようなことを振り返ってみてください。また、すべてを神様にゆだねるのではなく、自分の考えと自分の方法の中で解決しようとしませんでしたか?今日の本文のアブラムの姿を通して、皆さん自身の姿と比べてみてください。

イシュマエルのへ予言  

続く12-16節では、ハガルを通して産まれることになるイシュマエルに対する神様の預言的な言葉が出てきています。12節「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」と言われました。ここでろばのような人になるという意味は、彼が荒れた環境の中で自ら開拓していく人生を生きることを言います。その暮らしが簡単で平坦なものではなく、領土と暮らしの基盤を得るために、自ら開拓していかなければならないことをいうのです。そして、その過程では「すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。」と言われた通り、他の人々とぶつかりながら戦っていくことを言います。他の民族を侵略したり、他の民族から侵略されたりするこのような過程があるという意味です。 
    
また
「彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」とありますが、これは神様が彼の領域を正確に区分してくださったのです。イシュマエルは、神様がアブラムに約束した正統性を継続する跡取りではなかったので、彼は約束の子孫であるイサクと共に暮らし、神様の祝福を享受できるのではありませんでした。それで神様はイシュマエルにも領土を下さるが、そこは神様がアブラムの跡取りに約束された土地とは離れたところでした。アブラムを考えてイシュマエルにも恵みを与えられましたが、彼は完全な祝福の跡取りではなかったので、約束された地とは離れた所に区分された領域を与えて、その中で自らが開拓して人生を築いていくようにしたのです。 
   

ご覧になる神様

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。サライの虐待に耐えられず荒野に逃げてきたハガルは、主の使いから約束の言葉を受けた後、主の名を「あなたはエル・ロイ。」と告白します。自分のすべての事情と境遇をご覧になって、たとえ奴隷の身ではあっても、自分から生まれてくる子孫までも顧みられる神の御手を感じたからです。このように神様は人生の生死禍福を主管し万物を治める方として、いつでもどこでもすべてを監察していらっしゃいます。
 

詩篇33:13-15には「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。」とあります。 また詩篇139:1-4では「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」このように私たちの人生をご覧になる神様は、各人が行った通りに公義に従って正確に働いていかれるのです。ハガルはまさに主の使いを通して、このようにご覧になる神様に対して悟り感じるようになり、これからはその心に神様を信じて仕える人に変化していきます。しかし、ここで私たちが悟らなければならないのは、神様がこのようにハガルと彼の息子イシュマエルに恵みを与えられるのも、結局はアブラムをご覧になったためだという事です。

 

ハガルを通してイシュマエルを得ることになるこのすべての過程が、最初から神様のご計画ではありません。人の考えの中で行われたことでしたが、それでも神様は義人のアブラムを見て、すべてが平和の中で行われるように、イシュマエルにもこのように約束の言葉で、共にしてくださっているということです。こうしてアブラムがイシュマエルを得た時、彼の年齢は86歳でした。アブラムが約束の子孫に対する約束の言葉を受けて、10年が過ぎた頃になってからだったのです。それなら人の考えでは「この息子のイシュマエルが神様の約束の子孫なのだ」と考えることもできます。しかし、約束された子孫である本当の跡取りは、それから14年後に生まれるのです。

このように、約束の子孫に対する約束の言葉を受けてから10年が過ぎて、息子のイシュマエルを得て、以後も14年間も他の跡取りがいなかったにもかかわらず、アブラムは神様の言葉に対する信頼が少しも揺れたり弱くなったりしませんでした。そのため、ついに100歳になり、人の考えでは到底不可能な時に、約束の子孫であるイサクを得ることができたのです。これから17章で神様が99歳になったアブラムに現れ、彼を多くの国民の父であるアブラハムとして立ててくださる内容は、次の時間に見てみることにします。 
   

結論

エレミヤ33:2によれば神に対して「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。」と言っています。すべてを一寸の誤差もなく計画し、その計画に従って必ず成し遂げられる神様です。まさにこのような神様を信じると言いながらも、今日多くの人々が自分の考えと方法を頼る場合が多いです。真理である神様の言葉に照らしたり、先に神様の前にひざまずいて祈るよりは、すぐにも自分が見て良い道と方法を選びます。しかし、今日の本文で見たように、アブラムは家庭のこと一つまでも、自分の任意に考えと方法を働かせたのではなく、道理に従って神様の前にゆだねたのです。皆さんも大きなことでも小さなことでもすべての事に神様を信じてゆだね、聖霊の導きを受けて下さい。家庭の頭も主ですし、教会のすべての組織の頭も主になることで、常に祝福の中で暮らす皆さんとなられますよう、主のお名前によって祈ります。
 

朝の学び121創世記16章  

創世紀 16:4-16  
彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。
ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

序論

アブラムの妻サライは70歳を超えていましたが、まだ子供を持てないでいました。彼女は自分がみごもれない状況のなかで、自分なりの考えと方法を働かすことになります。自分の女奴隷であるハガルを夫に妻として与え、ハガルによって子を得ようしたのです。ところが、実際にハガルが妊娠するようになると、自分が思っていたこととは違う結果が現れ、これによってサライは自ら訓練に陥ることになります。神様を信じる人として、何かの問題があるとすれば、当然、神様の前に祈って神様の御心を悟り導かれるべきでしたが、サライは人の考えと方法を働かせて、結局、訓練を自ら招いてしまったのです。したがって、私たちは人の考えと方法というのが神様の前ではどれほど無益なものであり、むしろ神様の働きを阻む障害物になるという事を知らなければなりません。

 

イザヤ55:8-9「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」と述べています。だから、どんな状況でも、人の考えと方法を働かせるのではなく、まず神様の考えは何であり、どのような意味と摂理があるのかを悟らなければなりません。それで、自分に問題があれば発見して悔い改めればよいので、そうではないとしても、常に感謝の気持ちで神様の善良な御心を悟らなければならないのです。 
    
では、サライが自ら招いた訓練とは果たしてどのようなものなのでしょうか?サライは自分の計画通りにハガルという女奴隷を夫に与え、彼女はみごもるようになります。しかし、実際にハガルが妊娠するようになると、思いもかけなかった問題がサライとハガルの間に生じました。ハガルは自分がみごもったことを悟ると、女主人のサライを見下げるようになったのです。サライはハガルが自分に属する奴隷であったので、彼女を思いのままにすることができると思っていましたが、ハガルは自分がたとえ奴隷であっても、跡継ぎのいない家に跡継ぎの子を宿したのですから、自ら自分を高めるようになったのです。サライの立場で感じる時には、ハガルの小さな行動や言葉一つも自分を見下げるように感じられる状況でした。これもサライに自尊心と悪があるからです。相手はそのような意図で行った行動や言葉ではないのに、自分自らが相手が私を無視すると考えるようになるのです。 
    
人の高慢というものが一般には、自分の境遇が低い時には現れないのに、実際に権勢が与えられ認められる立場に立つと、その時になって初めて現れる場合が多いです。ハガルもやはり奴隷の身分だった時は、たとえ高くなろうとする心があったとしても、どうしてそれを明らかにすることができたのでしょうか?しかし、主人のアブラムの子供を宿すと、抑えていた高慢の心が明らかになり、このように女主人のサライを見下げるまでに至ったのです。これは必ずしもハガルの場合だけでなく、真理に完全に変化する前には誰からでも出てくる姿です。 したがって、仕えられる立場にいる人はもちろん、仕える立場にいる人だとしても、常に自分を振り返り「私には仕えられようとして、自分を表わし高めようとする高慢の心があるのではないか?」と顧みなければならないでしょう。全き霊に入るまでは、
箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」という言葉が心に常に肝に銘じられていなければならないのです。 
   

訓練の責任をアブラムに転嫁すること

本文5節を見れば、サライも自らが自ら招いた訓練を通して悪の形が一つ一つ現れるのが見られます。 「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」と言っています。事実、すべてのことを最初から計画したのもサライです。そして、ハガルを夫に与えたのもサライ本人ですが、それによって自分に害が返ってくることになると、その責をすぐに夫のアブラムに帰しています。当の夫には一言の相談もせず、自分の考えと方法どおりに行ったことであるにもかかわらず、その結果に対する責任を夫に転嫁しているのです。

また、自分の方ではハガルに寛大に恵みを施したと思っていたのですが、ハガルの方で自分を見下げるように出てくると、ハガルに対しても寂しさと感情が溢れ出ています。それだけでなく「主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」と神様の名前を使ってまで、自分は全く誤りがなく、悔しいことを訴えています。それでは、このような「サライ」の姿を通して、私達が気づくべきことは何でしょうか?第一に、自分の行動に責任を負わなければならないということです。サライは最初からすべてのことを自分の考えと計画通りにしたにもかかわらず、実際に結果が自分の望む通りに出てこないので、その責任を夫に転嫁するのを見ます。結果が良くなかったら「私は何が間違っていたのだろうか。神様の御心から外れたことは何だろうか?」とこのようなことを祈って悟らなければならないのに、サライは自分を振り返るよりはその責任を他人に転嫁しているのです。

例えば、ある人は自分の考えが全て正しく、自分がすることは全て神様の御心であるかのように考えます。それであることを成し遂げるにあたって、常に自分の考えと計画に固執し、何とか推し進めようとします。他の人々の意見は無視したまま自分の意見だけを前面に出すのです。このような場合、他の人たちが平和を追うためにその人の意見に従ってあげたりすれば、さらにいい気分になって自分の主張どおりに導いていきます。ところが、このように自分の好きなようにしたにもかかわらず、実際にその結果が良くなかったりすると、責任を他の人に押し付けようとするのです。自分が神様の意思を明らかに悟れなかったし、他の人々とも和平できなかったことを振り返り、自ら責任を負う姿ではなく、自分の考えが正しかったし、自分は依然として上手にしたが、他の人々がよく助けてくれなかったとか、自分の計画通りに100%ついていけなくて結果がこのように出たというのです。

預言者モーセの場合は、自分の救いを担保にしてまで、同族の罪に代わって責任を負おうとした姿だったことを考える時、このように自らした行動に対してさえ責任を負おうとしない姿は、あまりにもふさわしくない姿です。サライも自分の計画によって生じた結果ならば、自分が謙虚に受け入れて解決していかなければならなかったのですが、そうではなく、むしろその責を夫に転嫁する非真理の心が如実にあらわれています。したがって、皆さんも常に自分の言葉と行動に自ら責任を負うことができなければならず、自分によって良くない結果が生じた時は、それを他人のせいにしようとするのではなく、神の前で謙虚に自分の姿を発見して、何が間違っているのかを悟らなければなりません。そのような時、その一度の過ちが何の意味もなく通り過ぎるのではなく、むしろその過ちを通して自分を発見し、変化できる祝福の機会にすることができるのです。 

第二に、悟らなければならない点は、最後まで善を施すことができる善の心です。サライはハガルに対してそれなりに善と恵みを施したと思っていましたが、自分に戻ってくることが考えと違うので、その心から悪が出てくるのを見られます。サライが本当に良い心でしたことなら、ハガルがみごもった時に一緒に喜び、もっと彼女のためにしてあげるべきだったでしょう。ハガルがサライを見下げたのは明らかに間違っていますが、だからといってその責を夫に帰しながら自分の悔しさを神様の前に訴える姿は決して善良な心から出たものではありません。

例えば、リーダーになった人が目下の人に善を施し、彼がうまくいくように熱心に導いてあげました。それで、目下の人がすくすく成長し、いつの間にか自分と比べられるような位置に立つようになったのです。以前は自分が管理していたメンバーだったとすれば、今は同じ役員になって同等の立場で仕事をしていくことになったのです。さらに、今は自分よりも認められて愛される人になりました。それではこの時、リーダーになった人の心はどうあるべきでしょうか?善良な心を持った人なら一緒に喜び、相手がもっとうまくできるように引き続き助けてあげなければならないでしょう。そして、このような善良な心を持った人ならば、たとえ相手が自分より高い位置にまで上がっても、今はその人を目上の人として丹念に仕えることができるのです。神様の前にも「あの方があのように成長して、神様の前に大きな働き人になるようにしてくださってありがとうございます。」と感謝の祈りを捧げることができます。 
    
しかし、サライのような気持ちがある人は、このような状況で感謝が出てきません。相手がいつの間にか成長して、自分よりもっと認められ愛される位置に立つようになると、嫉妬する気持ちになります。 また、ひょっとして自分の考えに相手が自分を少し無視するような姿が見えれば、「いや、私があんなに育ててあげたのに、その恵みも知らずに私を無視するなんて」と心が傷つくこともあるのです。皆さんの中にもこういう状況がありますか。例えば、私は教会に来てからずっと長いのに、私より遅く来た人がいつの間にか自分よりもっとリーダーになっているのです。そのため、以前は私が仕えられる立場にあり、相手を訪問して多くのことを教える立場だったのですが、今は反対に、私が相手に仕え、時には指示を受けなければならない状況になったのです。もちろんこの時、リーダーになった人も、以前に受けた恵みを忘れない人ならば、たとえ今は自分がもっと上の立場にいたとしても、以前自分を助けて恵みを与えてくださった方に対して、変わらずに仕えて感謝しなければなりません。
   
しかし、以前は仕えられていたが、今は仕えなければならない立場に立った人の方では、相手にそれを望んでばかりいてはいけません。「以前は私がまとめ役をしていたのに、以前は私の方が信仰が良くて認められていたのに」このような考えに浸って、依然として仕えられようとしてはいけません。今は秩序に従ってリーダーになった方に熱心に仕え、「あの方は遅く来ていたのにどうして、あんなに早く神様の前に認められて働き人になったのだろうか?」このようなことを学ぼうと努力しなければならないのです。
マタイの福音書19:30「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」という言葉のように、誰が先に来たかが重要なのではなく、誰がより先に霊に入ってくるのかが重要だという事です。

だからといって、肉的な秩序を無視しなさいという意味ではなく、肉の秩序に縛られて、霊的な秩序を悟れないのはいけないということです。さらに、皆さんが善と恵みを施したなら、それ自体喜んで感謝し、最後まで善で接することを願います。サライもやはり自分がハガルに恵みを与えた時、ハガルがそれを善で返せなかったからといって、同じように自分も悪を発するのではなく、もし続けて善で接していったとすれば、結局、神様がハガルの心を動かし、主の事の全てが平和の中で解決されたでしょう。

朝の学び120 創世記16章  

創世記16:1-5
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

自ら訓練を招いたことについて(つづき)

しかし、今日の本文のサライはどうでしたか?最初からすべてを自分の考えと自分の考えの中で自分が決めたことを貫いていったのです。それは父なる神様の御心でも、アブラムの心でもありませんでした。  ところが、このような状況で、アブラムは妻のサライの話を聞いてあげたという事です。「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」とあります。アブラムは妻のサライに、自身が悟っている神様の御心をうちわけたり、「もう少し待ってみよう。」となだめたのでもありませんでした。ただ静かに妻の言葉に従ってあげました。では、アブラムはなぜそうしたのでしょうか?

私たちはここでまずアブラムとサライの二人の性格の違いを知ることができます。今日の本文に出てくるサライの姿だけを見ても、彼女が普段どんな姿だったのかを十分に推測することができるでしょう。自分の主張、自分の考え、自分の意思があれば、それをなんとしても貫いていく姿でした。アブラムは、まさにこれらの妻サライの性格についてよく知っていました。だから今日の本文の状況でも、アブラムは自分が望まないからといって、妻のサライが、すでに決めたことを変えることはないことを知っていました。自分がいくらあれこれ話しても、サラは結局自分の望み通りにする人だったのです。

一方、アブラムは先に甥のロトに土地を譲る姿からも分かるように、すべての人との和平を望み、相手が望むことを聞いてあげることを願う気持ちです。罪でなければ、相手の思いに寄り添い、これもよし、あれもよしの心であり、自分が正しいとしても相手に合わせてあげる心です。自分の信仰に合わせず、相手に余裕を与えられる心です。これがまさに和平の心ですが、アブラムにはこのような和平の実が結ばれていたので、今日の本文のような状況で、素直に妻のサライの意見に従ってあげたのです。何かの欲や利益を求めたのではなく、すでに妻のサライの性格をよく知っている状況で、何とか相手の心に合わせてあげようとしたのです。もしこのような状況で、アブラムが妻のサライの言葉を断ったと考えてみてください。妻のサライが「そうですね、あなたの言う通りですね。あなたの意見に従います。」と、このように従ったでしょうか?

私たちは本文5節の御言葉を通して、そうではなかったという事を推測することができます。「そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』 自分自身が自ら招いた訓練によって苦痛を受けることになると、サラは夫のアブラムに「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」と言って、むしろ夫のせいにしていることが分かります。ですから、その心が温柔であり、すべてにおいて和平に従おうとするアブラムは、当時の状況で妻のサライの言葉に従うしかなかったという事です。もちろん、そのようにすることが神様の御心ではなく、神様が許すことでなかったら、アブラムは当然、サライの言葉を聞き入れなかったでしょう。しかし、アブラムがこのように、ハガルという女性を通して息子のイシュマエルを得ることも、結局は人間耕作の大きな計画の中に入っていることだったので、神様はアブラムがハガルを妻とすることをお止めにならなかったのです。 

続いて続く3節「アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。」とあります。このお言葉は、当時の状況をより具体的に感じられるように説明してくださるお言葉です。アブラムがハガルを妻に迎えた時が、アブラムがカナンの地に住んでから10年後だと言ったのは、その当時すべてが安定し、豊かで平和な状況だったことを意味します。人が不慣れなところに行って定着する時、最初は色々な困難にも出会うことになりますが、それを一つ一つ克服していくと、次第に安定した状況に入ることがあります。これと同様に、アブラムもカナンに定着して十年ほど経ち、今では戦争の記憶も消えつつあり、力強い基盤の中で安定した生活を送っていたということです。 
    
このような時に、本文のできごとが発生したのです。試練にあって練られていた時は心に余裕がなく、サラも自分が子どもを産むことができずにいるという事に、それ程気をつかわなかったのですが、今はすべてが安定して基盤が整うようになると、いつも心に持っていた不妊に対する問題が表面に現れてきているのです。しかも、自分の年齢も75歳を超えたということです。このような状況で、サライは自分の考えと方法に合わせて、自分の奴隷を夫のアブラムに妻として与えたのです。しかし、先にも申し上げたように、自分の考えと人の方法を働かせた結果は、まもなく訓練として返ってくることになります。

女主人サラを見下げるハガル        
 
4-5節に
「彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』」とあります。サラはハガルが自分に属する奴隷だったので、たとえハガルがみごもっても、まさかその影響が自分にまで及ぶとは思いませんでした。自分に属する奴隷なので、サラはハガルを自分の思いのままにすることができると考えたのです。子供さえ産めば、子供は自分のものであり、アブラムの子になるから、自分勝手にできると思ったのです。しかし、ハガルが実際に妊娠すると、その影響はすぐにサライにまで及ぶようになります。ハガルは自分が妊娠したことに気づくと、主人であるサライを見下げたのです。

エジプトの女性であるハガルは主人のアブラムを通して、神について知ってはいたが、神を心から信じる人でもなく、真理に変えられた人でもなかったのです。そのため、自分が身ごもったことを知った時に、その心の中にあった悪が主人を見下げる姿で出てきます。自分が高くなろうとする心であり、恵みに感謝することもしない心です。とにかく奴隷の身分だったハガルが、主人であるアブラムの子供をみごもるようになったのは、女主人であるサライの恵みがあったからです。もちろん、サライが良い心で、ハガルを夫のアブラムに与えたわけではありませんでしたが、ハガルの立場では確かに恵みを受けたのでした。さらに、自分がアブラムの子供をみごもったからといって、まだ自分の身分に何らかの変化があったわけではありません。それでもハガルは女主人のサライを見下げることをしたので、これはハガルの心をよく表しています。
 
しかし、今日もこのような姿を見ることができます。例えば、ある人が認められる立場になった時に、今日の自分になるまで自分に恵みを与えてくれた人に対して感謝できず、受けた恵みを忘れてしまうのです。サウル王の場合がそうでした。自分を訪ねてきて、王として油を注いでくれたサムエル預言者に対して、最初は極めて謙遜な姿でしたが、後には、サムエル預言者がサウル王の前に出ることを嫌うほど、無礼な姿になってしまいました。それでは皆さんはどうですか?「私はサウル王のようではない」と言うのではなく、私を伝道してくれた人、私が初信者の時に恵みを与えて導いてくれた人、私が訓練の中にいる時に力を与えてくれた人、このような方々に対して変わらない心で感謝しているのか、皆さん自身の姿を点検してみて下さい。

今は、私がそのような人たちよりもっと高い職分にいるからといって、または、私が今は教える立場にいるからといって、その人たちに初めの時に対していた心が変わって、高ぶった心を持っているのではないでしょうか?恩を受けて助けられた方々に対して、「もうこれくらい感謝して、恩を返せばよいだろう。」という気持ちではないでしょうか?自分が目上の人に認められ愛されるからといって、それをもって、他の人の上に君臨しようとして、秩序を無視したまま高くなってはいないでしょうか? 
    
今日の本文のハガルの姿を通して、このような自分の姿を一度点検してみることで、
ロ-マ12:16「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」という言葉のように、常に心を低いところに置いて、兼備した姿ですべての人に仕えることができる皆さんであることを願います。ところが、5節の御言葉を見れば、「そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』」とあります。ハガルだけではなく、サライからもその悪があらわれています。自分の方からは善を施したと思っていましたが、それが予期せぬ結果になると、すぐに悪が出てくるのを見ることができます。自ら招いた訓練を通して明らかになるサライの心を、次の時間に続けて見ていくことにしましょう。 
   
結論

ある方々は、自分が知っている神様の御心が全てであるかのように話す人がいます。しかし、神様の御心は単純にAかBかというふうに分けられない場合も多いという事です。各人の信仰の分量と状況、そしてこれまで神様の前に積み上げてきた善と信仰の行いによって、同じ状況でも神様の御心は異なって適用できることを知らなければなりません。これを考えずに、無条件に自分が知っていることだけをもって神様の御心だと主張するならば、これによって周りの他の人々が大変になることがあります。 
    
だから私は今までいくらよさそうなことだとしても、私の見方で一方的に決めて指示して命令したことがありません。また、もっと良い道があるからといって、その道を行くように相手に強要したこともありません。神様の御心が何なのかを教え、受ける側で、本人の信仰で決めて選択していけるようにしてあげました。それでは皆さんはどうしますか?私がリーダーだと言って、自分の考えだけが正しいと主張されるのですか?それとも、自分の考えが正しいと思ったら、たとえ自分が目下の者であっても、秩序を無視したまま、無条件に推し進めますか?   

今日の本文のアブラムはそうではありませんでした。自分の信仰に合わせるよりは、自分の見方に正しいものを追うよりは、相手に合わせてあげる平和の気持ちでした。それが非真理や罪だったら、断固として拒否し、決して妥協しなかったでしょうが、そうでなければ、アブラムは自分の妻の言葉にも耳を傾け、その考えに従ってあげたのです。皆さんもすぐに夫婦の間や親子間で、このように平和を求める家庭になってください。教会の働きの分野の中でも、皆がこのようにお互いに相手の心に合わせて、相手のための平和の心を成すならば、そのようなところはリバイバルしかないという事です。
 

朝の学び119 創世記16章  

創世記16:1-5
アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

序論

ローマ4:18-22を見ると、「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」アブラハムが神様の前にどんな信仰を持ったかがよく出ています。  

アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫がこのようになる。」という御言葉どおり、あらゆる国の人々の父になるためでした。彼が百歳にもなって自分の体が死んだも同然で、サラの胎の死んでいることを認めても、信仰が弱りませんでした。不信仰にならず、信仰に堅く立って神様に栄光を捧げ、約束されたことをまたよく成し遂げることを確信したから、それが彼の義とみなされたのです。このようにアブラハムは、望むことができない中で望んで信じたという事です。現実を見たのではなく、神様の御言葉に頼って結果を見ました。もし望むことができることを願ったり、現実にいくらでもできることを望むのであれば、これは信仰がなくてもいくらでもできます。しかし、アブラハムは自分の体が死んだも同然であることや、サラの胎が死んだようなものであることを知っていながら、信仰が弱らず、神様の約束を疑わなかったとあります。このように望むことができない中で願って信じること、これがまさにちょうどマルコ9:23「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とおっしゃったように不可能のない霊的な信仰なのです。 
    
それなら、この一つの事件だけを見ても皆さんは、自分の信仰がアブラハムと比較する時、果たしてどんなものかを見分けることができます。この教会に与えられた御言葉はもちろん、皆様一人一人に与えられた祝福と約束の言葉を、皆様は果たしてどれほど信仰の目で見つめましたか?もしかして信仰が弱くなってはいないでしょうか?もしかして疑わなかったですか?望めない中でも神様の言葉に頼って信仰の目で眺めることができる人、このような霊の人を作るために、神様は皆さん一人一人を今まで訓練し整えてこられたという事です。アブラハムも神様が彼の信仰を義とされるまで、一日で出来たのではありませんでした。彼を選んで呼び、自らすべての人生を主管し、訓練し、また訓練して、完全な信仰の分量に達するように導いてこられたのです。このようなアブラハムの訓練の過程の中に、いつも彼と一緒にいた人がいました。それは彼の妻のサライでした。エジプトの王、バロの手に妻を奪われる事件の主人公でもあり、神様が一緒にいることで祝福を受けていく過程でも、いつもそばでアブラムを見守っていた人であり、アブラムが甥のロトを救って来る時も、彼と一緒にいる神様を見たのでした。 

自ら訓練を招いたことについて    
   
このように、アブラムとすべての訓練の過程の中で一緒に過ごした者でしたが、だからといって彼女の信仰が、アブラムと同じだったわけではありませんでした。確かに神様のみわざを一緒に見て体験し、神様についても知っていましたが、サラはそれが心に信じられる信仰として完全に成長できなかったのです。  心の中心で神様を信じていたのではなく、これまで見て聞いて体験したことが、知識的な信仰として積もってきたのです。これは今日も同じです。同じように神様のみわざを見て聞いて体験したからといって、共にしたすべての人の信仰が同じように成長するわけではありません。もし、見て聞いて体験するだけで同じように信仰が成長できるなら、この場にいらっしゃる皆さんの信仰もすでに大部分は信仰の5段階に入っていなければなりません。

ところが、同じ時期に信仰生活を始めたとしても、ある人は霊に深く入っていて、ある人は依然として足踏みをしています。海外の聖会に一緒に行って、同じように神様のみわざを見たとしても、ある人はその聖会を通して霊的に大きく変化する場合があり、ある人はあまり変化がない場合もありますね。では、なぜこのような違いがでるのでしょうか?それは神様のみわざを見て聞いて体験することによって、どれほど自分の考えと枠組みと理論を破り、またどれほど心を割礼していくかによるのです。「ああ!神様のみわざはこんなにすごいな」と、単純にこのように知識的な次元に留まってしまえば、いくら多くの神様のみわざを見ても、いざとなると自分のものにすることができません。

サライはまさにこのように、神様のみわざを自ら見て聞いて体験しながらも、その信仰は知識的な次元にとどまっていました。

 

このようなサライの姿が今日の本文によく出ていますね。1節では、今日の事件の背景と事件発端の原因となるハガルについての説明が出ています。アブラムの妻サライは、70歳をはるかに超えていましたが、まだ子供を産んでいませんでした。ところが、このようなサラにはエジプト人の奴隷のハガルという女性がいました。サライがなぜ知識的な信仰の次元に留まっていたと言ったのか、その理由が続く2節に出ています。それは、サライは「主は私が子どもを産めないようにしておられます。」と言っているという事です。自分が子供を産めないことが、まるで神様のみこころであるかのように話しており、その責任を神様になすりつけているのです。

 

さらに続くサライの言葉を見れば、サライが今どれほど自分の考えの中で事を決め、それを主張していくのかがよく分かります。サライの考えでは、自分の女奴隷であるハガルを夫に与えてでも子供を得る、ということでした。ところが、サライはこのように重要なことを決定するにあたって、神様に伺って神様の御心を求めたわけでもなく、夫に一言相談をしたわけでもありませんでした。「主は私が子どもを産めないようにしておられます。」と自ら決めつけて、アブラハムに今後の計画を通知しています。すでに心に決めて話しているのです。

神様を信じるという人々の中にも、多くの人々がある試練や患難、または問題が迫った時に、その原因を神様に返します。簡単に言えば「神様がこうなさった」と言って、すべてを神様のせいにするのです。それと共に、さらに「これが神様のお考えだ。」と言ったりもします。しかし、聖書のどこにも、神様の子供たちが試練患難に遭い、問題の中で絡み合うことが神様の御心だと言うところはありません。むしろ、常に子供たちに良いものを与えることを望み、試練患難と問題の中より救い出すことを、切実に願う神様であることを聖書は述べています。それでもこのような神様を誤解して、ある問題に出会った時、自分を振り返るよりは神様のせいにしてしまうのです。 
    
ヨブがまさにそうでした。まるで自分は何の過ちもない義理堅い人なのに、神様が訳もなく自分に苦痛を与るようだと神様を誤解していました。しかし、神様が彼に御言葉の中で悟らせてくださると、ヨブはついに自分の誤りに気づき、神様の前に次のように告白します。
ヨブ記42:3に「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」として、続く6節「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」とあります。そして、ヨブがこのように神様の前に自分の姿を発見し、悔い改め変化した時に、神様はヨブに以前よりさらに驚くべき祝福で返してくださったのです。 
   
したがって、皆さんが問題の中に置かれることになれば、まず「私がなぜこのような問題に会ったのか?」その原因を神様の言葉に照らして探さなければなりません。それで、その原因を発見して悟った時に、神様は子供である皆さんを問題の中から助けることができます。ところが、ある場合は何の原因もないようですが、何らかの問題が訪れる場合もあります。それは祝福を与えるための訓練です。この時もやはり神様の言葉に従って、最後まで感謝と喜びで勝利しなければなりません。そして、このように神様の善良な御心を、信仰で喜びと感謝で訓練を通過した時、神様の備えられた祝福が与えられるということです。 
    
ところが、本文のサライにはこのような姿が全くありませんでした。サライが本当に夫のアブラムと共にする神様を信じていたなら、自分がこのように身ごもれずにいる状況で、先に夫に話して原因を探そうとしたはずで、神様の御心を悟ろうとしたでしょう。また、これからどうするべきかについても、夫と相談して方法を見つけたでしょう。しかし、サライはすでに「神様はこういう神様だ」と自分自身で断定した状態で、次にどうすべきかまで自分の考えの中で決め、これを夫のアブラムに通知しているという事です。これは霊的な秩序を離れ、肉的な秩序の中でも全く理にかなっていない場合です。家庭の小さなことでもなく、サラが自分の権限の中で自ら決められないことを、家庭の頭である夫に一言の相談もなく、自ら決めて後から知らせるということは、家庭の肉的な秩序上でも相応しくないということです。   

さらに霊的な秩序を考えてみれば、神様と明らかに交り、誰よりも神様の御心をよく知っている夫のアブラムに、神様の御心がどこにあるのかを当然尋ねるべきでしたが、そうではなく、肉の考えを働かせて人の方法を探したということは、霊的にもあまりにも無知な姿でした。だから、このように人の考えと方法を働かせたことが、結局は自らが負わなければならない訓練の苦しみに至ったことが分かります。このように肉の考えと人の方法を持って、神様の意に反して行った時は、訓練が伴うことを知らなければなりません。アブラムはすでに妻のサライを奪われる訓練を通して、人の考えの中で方法を働かせることがどれほど神様の前に愚かなことであり、その結果がどうなるかということを徹底的に悟りましたが、同じ事件を一緒に体験した妻のサライは、その訓練の教訓が心に霊として植えられなかったので、このように同じ失敗を繰り返しているのです。
    
神様の子供として皆さんがある問題に出会ったとすれば、まずは当然、神様の前に祈って神様の御心を悟らなければなりません。この問題をどのように乗り越えていくべきか、神様の導きを受けなければならないのです。ところが、ある方々は少し祈りをしてみて、すぐに目に見える道が現れなければ、すぐに人の考えと方法を働かせます。そして、結局は訓練の道を自ら招くことになります。ですから、神様の前に任せたなら、全面的に信じて頼らなければならないという事です。少し頼ってみて早く答が来ない場合、疑って世の方法を探す人なら、このような人には神様が答えることができません。

ヤコブ書1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」と言われた通りです。また、皆さんが神様に本当に信じて任せたとすれば、答が来なくても来るまで待たなければなりません。待っている間に神様の御心を悟ることもでき、直ちに行動で動かないことが神様の御心なので、何の答も与えない場合もあるのです。(つづく)
 

朝の学び118 創世記15章  

創世紀15:12-21
日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

公義の中で働かれる神様

本文16節によれば、神様はアブラムの四代目の子孫たちが帰ってくる、「それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言いました。これはまさに父なる神様は、すべてを正確な公義の中で働かれるという事を、よく表している言葉です。イスラエルの民には四代という期間が、彼らにとってカナンの地に入るほどの信仰の成長を成し遂げる時間だったとすれば、当時カナンの地に住んでいた異邦の民族には、神の哀れみの中で悔い改め立ち返るように与えられた時間だったのです。ニネベの民に預言者ヨナを送り、悔い改める時間を与え、ソドムとゴモラにも自ら御使いを送り、彼らの罪と悪が蔓延する状況を探ることで最後の機会を与えたようにです。

このように神様は、異邦の民族といって無条件に滅ぼすのではなく、彼らにも神様の公義を適用させます。したがって、神様を信じる人々にはもちろん、神様を信じない人にも神様の公義は適用されるという事です。そのため、たとえ神様を信じない世の人でも、神様が定めた法則の中で生きていけば、その中で祝福されることもあり、大きな災いや事故に遭わないこともあります。世の中でもそれなりに善を行う人がいて、熱心に救済して良いところに物質を使う人もいて、悪に染まらないように生きていこうとする人がいますが、このような人たちは公義という法則の中で、彼らが行って蒔いた分だけ集めることになるのです。 
   
もし神様を信じない人々には公義が適用されなければ、彼らは常に敵である悪魔サタンの餌となって全く祝福も受けられず、常に試練患難の中で生きなければならないでしょう。もちろん、世の人々が受ける祝福はそれが完全なものではないので、敵である悪魔サタンはいつも隙をねらって、何とか自分たちの餌にしようとしていきますが、神様の公義はこのように世のすべての人に同じように適用されるため、この肉の世の中にも正義と秩序が成り立つということです。それで神様を信じない世の人々も、「善は必ず勝利する」という神様の公義を知ってはいます。ただ、自分たちの欲に導かれるため、善で勝利していく人が珍しいだけです。まさにこのような神様の公義があったので、神様はイスラエルの民にカナンの地を一気に征服させなかったのです。カナンの地に住む人々の悪が公議のさばきの限度を越えるまで、寛容を尽くして、耐え忍んで機会を与えられたのです。

もちろん当時の肉的な状況を見た時、ヤコブとその息子たちと家族70人ではカナンの地を征服することは不可能だったので、神様はヤコブの子孫たちが大きくて強い民族を形成していけるように、時間を与えられたのでした。また霊的には、神様の公義の中で、まだカナンの地に住んでいた異邦の民族を滅ぼす時に至っていないということでした。したがって、私たちは神様が常に善の中で働かれ、必ず公義の法則に従って働かれるという事を知らなければなりません。皆さんにいくら良いものを与えようとしても、また皆さんを試練患難から守ろうとしても、すべてを公義の中で働かれます。神様の子だからといって、無条件に祝福してくださり、守ってくださることができるわけではないということです。もちろん、敵である悪魔サタンが訴えることがなければ、どんな呪いや試練患難も臨みません。 
    

箴言26:2「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」とおっしゃったように、何の理由もない、呪いや試練患難は決して臨まないのです。 したがって、皆さんにある問題が訪れたなら、それには必ず理由があるのです。その理由を探して神様の前に悔い改めた時、問題が解決されることであり、以前のように回復することができます。ところが、今日の本文にエモリ人にもそうであったように、ある問題が明らかになり結果として現れるまで、神様の側から下さる猶予期間があります。もちろん問題の原因が何かによって、問題が明らかになるまでの時間の差はあるでしょうが、神様は皆さんがどんな過ちをしたとしても、一気にこらしめや試練患難を許すのではありません。自ら悟り、立ち返る機会を繰り返し与え、それでも立ち返らないなら、敵である悪魔サタンの訴えをお聞きになるのです。

しかし、敵である悪魔サタンに渡すことも結局は神の愛であることを知らなければなりません。そうしてでも悟り、立ち返ることを願うからです。まさにこのような神様の公義と愛の中で、エモリ人には悔い改めの機会が与えられます。しかし、結局彼らは悔い改めて立ち返るよりも、さらに悪に突き進んだので、結局四代の後には、さばきの限界線に至ることになり、結局神様はイスラエル民族を用いて彼らをさばかれたのです。これがイスラエル民族のカナン征服の過程です。イスラエル民族にはカナン征服は、約束された地を信仰で取る祝福の過程ですが、当時カナンの土地に住んでいた異邦の民には、罪と悪に対するさばきの過程になったのです。 
    
神様は公義の神様であるため、自らも公義の中で働かれます。そのため、イエス様がこの地に来て救い主になってくださるためにも、その多くの訓練と苦痛を受けなければなりませんでした。イエス様をこの地に送って一気に救い主として立てたのではなく、徹底的に人間の姿で苦難に遭い、救い主としての資格を備えるようにしたのです。しかし、イエス様は、その過程を従順に通過していったので、救い主になることができ、主の主として栄光の座に就くことができたのです。 
   
リピ2:9-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。しかしこの栄光は、イエス様が神様の息子であるとしても、無条件に与えられたものではありません。ピリピ2:6-8「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」と言われたた通り、自分を徹底的に低くして死ぬまで服従されたので、今は公義の中で神様が思う存分、主を高めることができたという事です。

アブラムの全焼のいけにえを喜び、契約した神様

本文17節のお言葉を見れば「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」とあります。これは神様が、アブラムのいけにえを、どれほどかぐわしい香りとして喜んでかがれたのかを、しるしとして見せてくださったのです。このように神様は、どの人がどれほど心から信頼と真心で神様の前に捧げたかによって、御心を行ったかによって、確信を与え会ってくれます。「私はあなたの祈りを嬉しく受けた。私があなたの真心と信仰を喜んだ。」という証拠を示してくれるということですね。ですから、父なる神様とこのような関係になれば、より一層、確信の中で嬉しく幸せに信仰生活ができます。

続く18節には「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」と言われます。この言葉もやはり前に神様がアブラムに創世記13:14-17「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」と言われた言葉をもう一度確かにする言葉です。   

アブラムという一人の人物を通して、将来彼の子孫がどれほど大いに伸びていくのかを言われたのです。 現実を見ると、まだ跡取りも生まれておらず、周辺には当時のアブラムとしては侮れない強い民族が住んでいる状況でした。このような状況で神様は、アブラムにこのように途方もない約束を与えたのであり、アブラムはその約束を信じたのです。アブラムがこのように神様のみ言葉を少しも疑わずに信仰として受けたので、ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」という言葉に従って、時がくれば時間を超えて契約のみ言葉が成就されたのです。 
   

19-21節のお言葉には、神様が許可された地に当時住んでいた異邦族の中の名前が列挙されています。「ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」この言葉からも分かるように、このように多くの異邦族がそれなりに力を育てて定着しているカナンの地を、人の力だけで征服していくことができるのではありません。神様が一緒でなければ、人の力だけでは不可能なことでした。だからこそ、信仰が必要だったのです。これら異邦の民族を追い出し、神様がお与えになった地を手に入れるには、人の力ではなく神様の力が必要ですが、このような神様の力を引き下ろすためには、まさに信仰が必要だったのです。 
    
ところが、アブラハムの子孫たちがこのような信仰を持つまでには時間が必要でした。皆さんがカナンの征服史を見れば分かると思いますが、ヨルダン川を渡ってエリコの城を崩しながら、カナンの地に住んでいた異邦の民族を一つ一つ征服していくのは、信仰によってのみ可能なことでした。ですから、神様はイスラエル民族が、肉的には強く大きな民族に成長するようになさり、霊的にはカナン征服に必要な信仰を育てようと、エジプトでの400年間を奴隷とされ、また、40年間を荒野で暮らすようにされたのです。 
   
結論
神様は当面の現実ではなく、今後のすべてを知って備え、神様の子供たちを導いていきます。したがって、すぐに見るには難しい道のようで苦難の道のようですが、その結果を見てみると祝福の道であり、願う道になるという事です。ところが、多くの人は自分が見て良い道、自分が見て楽な道だけを選ぼうとします。神様は私たちに良いものをくださることを望んでいるのに、すぐにはその道が大変そうに見えるからといって従順できないのです。ただ「アーメン」と「はい」と、神様の導きに従っていけば祝福ですが、直ちに現実を見るために従順が出てこないのです。そのため神様は、現実を見ずに信仰で結果を眺めることができる信仰の義を望んでいます。 
    
アブラムが現実を眺めず、信仰で神様がくださった約束の言葉を受けることで、結局、約束された言葉が完全に成就したように、皆さんも迅速に神様が望む信仰の義を成し遂げ、与えられた約束の御言葉が完全に成就されますように主の御名で祈ります

 

朝の学び117 創世記15章  

創世紀15:12-21
日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

序論

本文12節からはアブラムが夢を通して神様と交わりをしている場面だと説明しました。深く眠っているアブラムに、神様は将来、彼の子孫たちが体験することになることを見せてくださっているのです。ところが夢とはいえ、アブラムは実際に起こる状況のように、自分の目の前に広がっている光景を見ながら、恐怖が臨むのを感じるようになります。将来、彼の子孫たちが体験することになる出来事を見ると、決して平坦な道ではなく、多くの逆境と困難があることを知ることになり、瞬間、恐怖が臨むようになったのです。アブラムが信仰の父として立てられ、本格的な人間耕作の歴史の中で、今後彼の子孫たちが、アブラハムを目標として信仰の中に入ってくるまで、その道がどれほど険しかったか、イスラエルの歴史だけを見てもよく分かります。 
   

神の計画の中にあるアブラムとその子孫たち  

このように、神様はアブラムに子孫の将来のことについてあらかじめ知らせてくださいましたが、続く本文を見れば、非常に具体的な内容までも知らせてくださっています。13-14節「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」と言いました。この言葉の中には、将来ヤコブを通して始まるイスラエル民族が、エジプトに入って四百年間、奴隷とされてから、出エジプトすることになることまでの内容が含まれているのです。
    
これを通して私たちはヨセフという人物がエジプトの奴隷として売られ、後日エジプト全土を支配するようになること、彼の兄弟たち、すなわちヤコブとヤコブの息子たちがエジプトの地に移住して生きていくこと、後にそこで奴隷となって四百年を過ごすこと、モーセを指導者としてエジプトを出ることも、このすべての過程が人の力や計画によるものではなく、父なる神の摂理と計画の中で行われたことであることが分かります。 
    
エジプトが強くなって、イスラエル民族が400年間、彼らの奴隷として生きてきたのではなく、短い時間内に、イスラエル民族を大きい民族として形成させていくための、摂理の中で許された時間だったのです。イスラエルの民たちが奴隷となった期間が、なぜ400年間だったのかについては、続く16節の御言葉と関連して説明しますが、このように父なる神様は、アブラムに今後行われることについて具体的な時間までも話して下さり、そのお言葉どおり正確になされたという事です。 
    
アブラムは信仰が完全な者として信仰の父として立てられましたが、彼の子孫たちは、それぞれの信仰の分量通りに彼らの信仰が成長していくだけ、神様を体験しながら導びかれていくことになります。彼らの信仰では、すぐにカナンの地を侵略して入ることも、神の言葉に従うこともできませんでした。そのため、神様はアブラムの子孫たちに、アブラハムに約束したカナンの地を与えるために、信仰の訓練の過程を一つ一つ摂理し、その計画に従って導いていかれたということです。それで正確な時になってイスラエル民族に出エジプトさせ、すべてが公義の法則に合う時点になった時にカナンを征服して入らせたのです。 
   

15節「あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。」とあります。アブラハムは信仰の父であり、神様の友と認められるほど欠点がなく、完全な人でした。ですからアブラハムは、エリヤやエノク、またモーセと比べてみた時、いくらでも生きたまま、父なる神様のそばに行ける人物でした。それでもアブラハムは、この地で生命が尽きる死を迎えることになります。ところが、ここにまさに父なる神の摂理があります。人がこの地の人生を終えると、その中で救われた魂はひとまず上のよみに行き、救われなかった魂は下のよみに行きます。まさにアブラハムは、イエス様が、この地上に来られた救い主としての使命を終えて昇天する時まで、上のよみにいて救われてくる魂をその胸に迎える使命を担ったのです。

ルカ16:22によれば「さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」と記され、救われた乞食のラザロが、アブラハムのふところに入ったことを言っています。なぜ神様のふところと言わずに、アブラハムのふところと言うのですか?イエス様が私たちの救い主になってくださる前までは、すべての人の信仰を測る基準が、まさに信仰の父であるアブラハムだったからで、救われた魂は信仰の父となったアブラハム預言者の胸に抱かれたのです。 
    
しかしイエス·キリスト以後には、救いの基準がイエス·キリストになるので、この時からは救われた魂が、主の胸に抱かれるようになりました。もちろん、イエス様が救い主として来られる前に、この地の人生を終えて救われた魂も、皆がイエス様のお名前によって救われました。旧約時代に救われた魂は、たとえ行為によって救われたものでしたが、彼らにもイエス様を救い主として迎える機会が与えられます。そうしてこそ、信仰によって義を得て、霊界の法則に従って、これ以上罪人ではなく義人として救いを受けることができるからです。それでイエスが救い主として出てくる前は、旧約に救われる魂はアブラハムの胸に抱かれたのです。
ペテロ第一3:19「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」と言われた通り、イエスは十字架にかかって死んだ後、その霊がよみに降りて福音を伝えることで、まだイエスを知らずに死んだ魂の中で救われた魂たちにイエスを救い主として迎えることができる機会を与えたのです。

四代と400年の意味
       
本文
16節のお言葉を見ると、「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」というのです。先の13節でも「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。」として4という数字と関連がありましたが、400年や四代に出てくる4という数字は苦難を意味する数で、これは今後イスラエル民族が体験する苦難を意味するものです。しかし、アブラハムの子孫たちには、神様が許したこの訓練を通して、父なる神様の選んだ民である選民として、完全に出てくることができる道が開かれることになります。神様について知るようになり、悟りながら信仰が成長するきっかけが作られるようになります。

では、どうやってアブラハムの子孫は四代目にこの地、つまりカナンの地に戻ってくるのでしょうか?ここで四代とは、ヤコブの息子たちの世代から始まり、出エジプトした時の世代のことです。つまり、エジプトに移住したヤコブの息子たちを第一世代とし、出エジプトの世代が第四世代になるのです。例えば、モーセの系図を見れば、ヤコブの三男レビが第一世代、レビの息子ケハテが第二世代、ケハテの息子アムラムが第三世代、アムラムの息子アロンとモーセが第四世代になります。
   
アブラハムの子孫であるヤコブと彼の息子たちが、カナンの地を離れてエジプトに移住してから正確に四代目にして、彼の子孫たちは神の言葉どおり再びカナンの地に戻ることになったのです。13節では、このようにアブラハムの子孫たちが再びカナンの地に戻るまで、自分たちのものでない国で寄留者になって彼らに仕え、苦しめられる期間を400年と言いました。
使徒の働き7:6にも「また神は次のようなことを話されました。『彼の子孫は外国に移り住み、四百年間、奴隷にされ、虐待される。』」と、ステパノ執事も400年について言及しています。
 
ところが、
出エジプト12:40-41によれば、「イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。 四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。」とし、出エジプト記の著者であるモーセはイスラエルの子孫がエジプトに居住した期間を430年と記録しています。ガラテヤ3:17にも、「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」として使徒パウロもやはり四百三十年を言及しています。では、なぜこのような違いが出るのでしょうか? 
   
400年とおっしゃった理由は、当時の人々の平均寿命を考えると、一世代を100年と計算し、四代目つまり400年になったことです。そのため、400年は「四代目に帰ってくるだろう」という言葉と対になってアブラハムの子孫であるヤコブとその息子たちがエジプトの地に定着した時からモーセによって出エジプトすることになる時までを言います。ところが400年という数字は、四代と対になるための概算の数字であり、実際にイスラエルの民がエジプトに居住した期間は430年になります。430年の始点と終点についてはいくつか異なる主張がありますが、一般的にヤコブが家族と一緒にエジプトに移住した時をB.C.1876年とし、出エジプト記の事件が起きたB.C.1446年までが正確に430年になることが分かります。それだけなく、神様がなぜある時は400年で、またある時は430年と記録させたのか、その理由が分かれば良いのです。 

朝の学び116 創世記15章  

創世記15:4-12
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。

傷のない供え物を神様に捧げるアブラム


もしアブラムが神様の言葉を信じられず、このようにしるしを求めているのであれば、神様がアブラムの信仰を義とすることもなかったでしょう。しかし、アブラムは疑って求めたのではなかったので、神様は続く9節にアブラムにしるしを見せるために、彼に全焼のいけにえの準備をさせます。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」と言いました。 ここで、三歳の雌牛と三歳の雌ヤギ、三歳の雄羊とその山鳩とひなは、アブラムの全財産を代表するものです。つまり、これを通してアブラムは自分の全財産を神様の前に捧げたという意味になります。

そして、三歳というのは傷のないという意味です。また、雌牛と雌ヤギと雄羊は、それぞれ生産を意味します。つまり、将来アブラムが神様から与えられた土地に生業(くらしを立てるための仕事)を立てていくことで、祝福されることを象徴しているのです。当時は牧畜が主な生業だったので、雌牛と雌やぎと雄羊が増えてこそ、それがすなわち祝福になることができたからです。 
 
このようにアブラムが供え物を取るにあたって、10節を見ると
「彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。」とあります。雌牛と雌やぎと雄羊は真っ二つに切り裂いたが、鳥は切り裂かなかったのです。では、これにはまたどんな意味が込められているのでしょうか?雌牛と雌やぎと雄羊を真っ二つに切り裂いたということは、アブラムと父なる神様の間の約束を正確にするという意味が込められています。正確に真っ二つに切り裂くので、一方でも偏りのない神様との正確な約束を意味することです。

しかし、鳥を切り裂かなかったのは、父なる神様とアブラム自身との関係が上下関係にあることを示すものです。他の供え物は、その中間を分けることで、父なる神様とアブラム自身の間に立てた約束が、互いに双方の間でなされた正確な約束であることを示しましたが、同時に鳥は切り裂かなかったことで、神様とアブラム自身が対等な関係ではなく、アブラム自身は神の下で仕える者という上下の秩序が、必ず守られなければならない関係であることを明確にしているのです。供え物の中間を分けるということは、まるで父なる神の側のものと、アブラムの側のものを分けるように感じられるが、このように鳥は切り裂かずにそのまま置いたとは、すべてが完全に父なる神様から出たということを意味するのです。 

そして11節に「猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。」とあるのは、父なる神様とアブラムの間の約束を誰も破る者がいないという意味です。レビ記11:13によれば、「また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、」とありますが、猛禽が、神との契約を象徴する全焼のいけにえの上に降りて来るということは、神との契約を敵である悪魔サタンが妨害することを表しています。 アブラムはこのような猛禽を追い払うことで、誰も神との約束を妨げないようにしたのです。アブラムはこのことをよく知っていたので、神の前に全焼のいけにえを置くことで、自分の役目を果たしたと思わなかったのです。

15章17節に「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」とあるように、神様が自ら火を下し、アブラムの全焼のいけにえをかぐわしい香りとして喜んでかがれるまで、アブラムは、目を覚まして全焼のいけにえを守ったのです。 これは今日私たちが答えられることにおいてもとても重要です。神に答えられるために私たちの方からすべき道理をつくしたとしても、敵である悪魔サタンは素直に答えられるように放っておかないでしょう。従って、アブラムが猛禽を追い払ったように、答えられる瞬間までいつも目を覚ましていて、敵である悪魔サタンの妨害を退けなければならないのです。決して油断せず、いつも目を覚まして祈らなければならないということです。

夢を通して将来のことを見せてくださる


さて、12節の御言葉を見ると、「日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」とあります。今までアブラムは神様と声を通して、または幻を通しても交わる体験をしてきました。ところが、12節では夢を通して神様と交わる体験が記録されています。同時に13節からは夢と共に父なる神様が声で働きかけていらっしゃいます。5:13「そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。」

ここで「深い眠り」ということは、神様が今アブラムに夢で働いていることを示しています。そしてこの時、神様はアブラムにこれから子孫たちにおきることについて見せてくださいました。その内容は、彼の子孫たちがこれから乗り越えなければならない前途が決して平坦ではないということでした。 近いところでは、将来、自分たちのものでない国で寄留者となり、400年間奴隷の暮らしをすることになり、その後も、彼の子孫たちに迫ってくる逆境の瞬間が、アブラムの夢の中に広がって見えたのです。その内容が明るくて、平安なものではなかったため、「ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」と表現しているのです。暗黒という単語からも感じられるように、アブラムの子孫たちが将来経験する逆境と困難が、決して容易な道ではなかったということを、私たちはイスラエルの歴史を通してもよく知ることができます。そして、たとえ夢ではあったが、それがまるで実際に見ているかのように見えたので、その内容はアブラムに「ひどい暗黒の恐怖」として訪れることになったのです。 

しかし、アブラムの子孫たちが体験することになる逆境は、決して敵である悪魔が神より能力があって、そのように働いているわけではないという事です。すべてが神様の手の中で神様の主管の中で許されることです。したがって、敵である悪魔の方では自分たちに力があって、アブラムの子孫たちをそのように逆境に導いていくと思うが、実はすべてが神の主管の中にあるのです。今も敵である悪魔は、自分たちは神様が選んだ民族であるイスラエルを、永遠の亡びに導いていると思うでしょうが、イスラエル民族には最後にもう一度父なる神様が隠しておかれた摂理があります。

神様は選民イスラエルをそのまま死に追いやるのではなく、福音の回帰を通して、もう一度彼らに救いの機会を許すことになります。最後の時のために備えられた二人の証人もいるのです。しかし、このような救いの火を灯すみわざが、彼ら自身によって起こるわけではありません。まさに福音の回帰を成し遂げることになる聖霊の火のようなみわざが、その地に施されることになるのです。この全てのこと一つ一つが父なる神様の摂理の中で正確にかみ合っているという事です。ところが、今はその終わりが見えてきているので、時がどれほど近いかということを知らなければなりません。 
   
聖書を見ると、神様が夢としてはたらかれる場合があります。神様が夢として働かれる時は、誰にでも働かれるのではありません。自分の思いや考えがなく、父なる神様を真に信じる人、このような人に夢として働かれることになります。もちろん、神様は時に従って子供たちに夢を通して、近づいてくる試練をあらかじめ知らせたり、祈りの答に対する確証を見せたり、自分の信仰状態を悟らせてくれたりします。しかし、肉の考えが残っている人は、夢の中でも自分の考えが入るので、神様がくださる意味を正確に見分けることができない場合があるのです。したがって、神様が夢として働かれる場合も多いですが、だからといってすべての夢を神様がくださったものだと考えてはならないということです。

自分の考えの中に見る夢もいくらでもあり、時には敵である悪魔サタンが与える夢もあることを知らなければなりません。したがって、夢を解釈する場合には、さらに霊的な分別力が必要です。夢の内容を御言葉で照らし、よく分別しなければならず、自分が見た夢が正確に合っているのかも点検しなければなりません。肉の考えが完全に砕かれ、神様との真実な信頼関係が築かれるまでは、夢に自分の考えが入ることもありうることを知らなければなりません

 

結論


アブラムは神様が約束の言葉をくださった時、神様の言葉に頼って、現実ではなく結果を見る信仰の義を成し遂げました。そして後に、この信仰の義が約束の種であるイサクとして現れるまで、アブラムは決して神の言葉を疑ったり、移り変わったりしませんでした。神様はアブラムの信仰の義を認め、彼に約束の種であるイサクを与える時、「あなたは私の前を歩み、全き者であれ」とおっしゃいました。アブラムに驚くべき祝福の言葉を与えましたが、その言葉を叶えるまでは、アブラムが神様の前で完全な行いを成し遂げる時を待っておられたということです。 
   

朝の学び115 創世記15章  

創世記15:4-12
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。

序論


創世以来これまで多くの人々が神様を信じ、自分たちの見方ではそれなりに最善を尽くして神様を信じると考えてきたはずです。ところが、神様はアブラハムを信仰の父に立てたという事です。アブラハムが生まれる前にも信仰の良い人々がいたはずで、アブラハム以後にもいたはずですが、神様はアブラハムを選びました。そして、アブラハムを信仰の父にするために、神様は彼の道を自ら導いていきました。訓練を通して自分の考えを徹底的に破るので、神様の前に完全な従順に至らしめ、同時にアブラハムの子孫を通して、選民イスラエル民族を成し遂げていく計画も一つ一つ進めていきました。 

アブラムの後継ぎの約束


本文の4-5節に「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」と述べています。前にも神様はアブラムに跡取りに関する契約のみことばをくださったことがありますが、その言葉をくださった後も長い時間が経ちましたが、依然としてアブラムには跡取りがいませんでした。そうするうちにもう一度、跡取りに対するより具体的な約束をしてくださっているのです。それでは、アブラムが以前にくださった約束を信じられなかったので、このようにもう一度約束の言葉をいただいているのでしょうか?違います。

アブラムは、神様が以前にくださった約束の言葉を信じられなかったり、疑ったりしたのではなく、誠実な神様の約束を固く信じていました。それでも神様はもう一度約束の言葉をくださることで、アブラムとの約束を確証してくださったのです。しかし、アブラムがこのように約束の言葉を受けた後、すぐに約束の子孫である跡取りが生まれたわけではありません。その後、サライの女奴隷ハガルからイシュマエルが生まれましたが、彼は約束された跡取りではありませんでした。この時、アブラムの年齢が86歳でした。ところが、その後も14年が過ぎて、アブラハムの年齢が百歳になって初めて、約束の子孫であるイサクが生まれたのです。初めて故郷、親戚、父の家を離れ、命をかけて約束の言葉をくださった時からは25年が過ぎた後でした。このように神様が約束の御言葉を下さっても、それが実現されるまでには長い歳月が流れなければならなかったという事です。ところが、その長い歳月の間、アブラムは変わらず父なる神様の契約を信じていました。

信仰の義


まさに本文の6節に「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。これに対してローマ書4:13には「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」と述べています。では、信仰の義とは何でしょうか?信仰の義とは、神様の言葉に頼って現実を見ないで、信仰の目でその結果を望むことを意味します。自分の思いや力に頼らないで、ただ御言葉だけを頼りにするのです。このように神様の言葉に頼るかどうかを見るために、神様は時にテストを許可される時があります。テスト試験を受けると、これまで築いてきた信仰の義が明らかになります。

出エジプトしたイスラエルの民の中で、カナンの地を偵察して帰ってきた12人の偵察者の告白を聞いてみると、それぞれの人の信仰の義がよく表れています。12人の偵察者のうち、ヨシュアとカレブを除く10人は、民数記13:32-33「彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」とあります。「私たちが巡り歩いて探ってきた地は、その住民を食い尽くす地であり、そこで見たすべての民は、背の高い者であり、そこでまたネフィリム人の子孫のアナク人を見たのだから、私たちは自分が見てもいなごのようだから、彼らの目にもそのように見えたはずだ」と言いました。 

一方、ヨシュアとカレブは、民数記14:7-9「「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」」と言ったのです。 

神がイスラエルの民に与えると約束されたカナンの地を、同じように偵察して帰ってきたにもかかわらず、このように信仰の告白が違ったのです。これはつまり、10人の偵察者は現実を見たのですが、ヨシュアとカレブは御言葉に頼って、信仰の目で結果を眺めたという事です。そして、このように信仰の目で眺めたことが、最後まで変わらなかったのです。これがまさに、父なる神様が認めてくださる信仰の義なのです。そして、このような信仰の義は、真実という結果として出てくるのです。

一つ例を挙げてみましょう。世の中でも子供が危急の状況に置かれると、ほとんどの母親は、誰かがさせなくても子供を救うために、死を辞さずに身を投じるのを見ることができます。ところで、こうしたお母さんでも、お子さんが成長してお母さんの心に合わずに外れると、どうなりますか?お互いに争ったり、ひどい場合は仇同士にもなります。母親が望む結婚をしないからといって、母親が望む進路を選択しないからといって、母親と子供の間にひびが入ってしまいます。それならこれが真実ですか?真実は変わらないものなのに、命までかけることができた母性愛があったとしても、歳月が経って自分の意思と義に合わなければ、仇になることもあるなら、これは真実ではないですね。これがまさに人の義の限界なのです。 

そのため、神様は自分の利益に合わなければ変質し、結局裏切ってしまう人の義ではなく、永遠に変わらない信仰の義を望むのです。神様は現実ではなく、結果を眺めることができる信仰を要求されるのであり、このような信仰を示す時、神様との関係でも信頼性が与えられるという事です。アブラムはまさにこのような信頼関係に至ったので、本文15:6「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と神様はアブラムの信仰の義を認めてくださっているのです。しかし、このような信仰の結果が実として現れたのが、その時、すぐではないと言いました。皆さんもこのような法則に気づいてください。父なる神様が下さった言葉が成就して実として出てくるまで「誰が変わらない信仰の目で眺めるのか?」父なる神様はこれをご覧になります。

神様が何かを言われた時、すぐに目に見える実を見せてくださるなら、誰が神様を信じないでしようか?しかし、すぐに現れるものもありますが、そうでないものもあるので、神の側ではこのような状況で、各人の信仰の義を測られるのです。そして、その信仰の義が、希望する分量に満たされた時、すぐに答という実が与えられるのです。したがって、私たち働き人は、神様の仕事をする時、このような事をよく悟って肝に銘じなければなりません。"行って見える実を取って来い"と言えば、それは誰でも簡単にできますよね。しかし、"見えない実を取って来い"と言われた時、信仰の目で結果を眺めることで、御言葉に頼って行って、実を取ってくることができる人、父なる神様はまさにこのような働き人を探します。この御言葉がいつも聞いて知っていた御言葉であっても、もう一度皆さんが心で悟る時間になってください。

神様のしるしを求めるアブラム


続く7節「また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」」と言われると、8節にアブラムが「彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」」と答えます。この言葉も皆さんが誤解してはいけません。アブラムが神様の言葉を信じられず「それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」として、しるしを求めるのではありません。アブラムがこのようにしるしを求めた理由は、神の言葉を信じられなかったからではなく、神との間の約束をはっきりと結ぶためのものでした。

 

例えば、愛し合っている二人が互いに、愛のしるしを取り交わすことがありますね。この時、そのしるしそのものが愛なのではありませんが、このしるしを見ながら、お互いの愛を確認しながら、感じることができるからです。お互いを愛することは心から出るものですが、確認させてくれる証拠として、しるしを交わすことになるのです。これと同じように、アブラムもやはり心から父なる神様の言葉を信じましたが、これをしるしでもう一度確かにすることで、神との約束は誰も奪うことができず、決して消えることもできないという事実を、確実にしようとしたのです。神様の言葉を信じられず、試してみるのとは全く違うという事です。

ところが、今日ある人々は、神様の言葉を信じられず、試しながらも自らは気づかない場合があります。例えば「神様、これだけ答えてくだされば、私が今後これをします。」とか、あることを決めるにあたって「事がこのようになれば、神様の御意思だと思ってやります。」ということです。例えば、店を売るべきかどうか決定を下さなければならない人が、「神様、私が一週間祈るので、その中に買う人が出てきたら、売るのが神様の意思で、その中に買う人が出てこなければ、売らないのが神様の意思だと理解します。」もしこのように祈ると考えてみてください。もちろん、神様をたった今信じるようになった初信者や、真理をよく知らない場合には、このようなこともあります。また、ギデオンが、神様の意思を確証してもらうために、2回神様にしるしを求めたように、神様の意思を知るために、確実な証拠を求める場合もあるのです。

しかし、今申し上げようとするのは、神様を信じて求めるのではなく、自分の考えの中に答えを決めておいて、むしろ神様を試す場合があるということです。その一方で、自らは気付いていないのです。マルコの福音書11:24によれば「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と明確におっしゃいましたが、この言葉のように、神様の答を信じて、信仰で一週間決心して祈りながら、神様の証拠を求めることと、自分の考えの中で神様を試すこととは、全く違うという事を知らなければなりません。

朝の学び114 創世記15章  

創世記15:1-11

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。

祝福の契約  

    
アブラムの幻の中に現れた神様は、
「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃいました。アブラムは神様の召命を受けて以来、今までひたすら信仰と従順で行ってきました。しばらく自分の考えを働かせたこともありましたが、すぐに立ち返って悔い改め、神様の前にさらに完全に従う姿になりました。神様は、まさにこのように従う人にいつも盾となり、驚くべき祝福で共にされるという事です。神様は、常に私たちに祝福を与え、守ることを願う方ですが、同時に公義の神様であるため、正確な公義の中で働かれるしかありません。ですから、ある祝福を与える時は、まず祝福される器を作らせます。アブラムは、このような祝福を受ける器を、十分に準備していったので、神様はもう一度、祝福の約束をしてくださったのです。 

 

私たちが祝福を受ける器を作るのは、意外にとても簡単です。神様は難しくて複雑なことを求められ、それを通過できないようにする方ではなく、霊的な信仰があり、また真に従う心があれば、いくらでも行なうことができることを求められます。もちろん、信仰の分量によって次第に要求していく水準も高くなりますが、信仰の分量に合わせて高めていきます。例えば本教会の聖徒の中で、完全な主日の出席と、完全な十分の一の献金を捧げる方であれば、一年中決して災いや事故に遭いません。特にある重い肉の事を行うような罪を犯すことがなければ、事故に遭わないように守ってくださいます。もし自分のミスである事故が起きても、体は傷まないように守ってくださいます。神様の子供として最も基本である主日の出席と、十一献金だけでも神様は盾になって守って下さるのです。 
    
しかし、信仰のある方なら、また信仰の三段階以上にある方なら、このような完全な主日の出席と、十分の一だけで、自分のやることを尽くしたとは言えないでしょう。信仰の一、二段階にいる方々は、御言葉通り生きようと努力すれば、神様は祝福も一緒にくださいますが、信仰の三段階以上なら、どれほど神様の御言葉の中に完全に生き、従順していくかによって祝福が変わります。もちろん、信仰の一、二段階でも、信仰と従順によって祝福が変わりますが、神様が望まれるのは、本当に心の中心から湧き出る愛と、それに伴う従順の行いです。ですから、皆さんが中心から神様を愛し、信じて従順していけば、神様は必ず皆さんの盾と大きな報いになってくださるという事です。アブラムは訓練の過程を経て、心の中心から神様を愛し、畏れ敬い、その言葉を信じて服従する器を作っていったので、このような祝福の言葉を受けることができたのです。
   
続く
2-3節を見ると、「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」幻のうちに神様と交わっていたアブラムは、突然、神様に相続人に関する話を伝えます。アブラムは神様に、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げたとありますが、アブラムがどれほど正確に神様の心を伝えられて、心につかさどられているのかがよく現れています。 
    
これはどういう意味でしょうか?以前、神様はアブラムに、
創世記13:16「あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」という約束の言葉をくださいました。それでは、アブラムがこの約束の言葉を忘れているか、心に完全に信じられなかったりして、今自分の家にいる僕であるダマスコのエリエゼルを、相続人と言っているのでしょうか?そうではありません。アブラムは一度神様がおっしゃった言葉を、決して疑ったり忘れたりしなかったのです。それでもアブラムが、神様にこのように尋ねているのは、何故、神様が今、自分に現れて、「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃっているのか、心につかさどられたからです。アブラムは、神様が自分に現れたことが、自分の後とりについて約束してくださることだと知りました。今がその約束の時だと感じて、相続人について先に話をもちだしたのです。

  

例えをあげると、父が息子に新しい車を買ってあげると約束しました。そして歳月が経って、父の心に「さあ私が新しい車を買ってあげよう」と思うようになったのです。それで息子にその話を言い出そうとしたところ、このような父親の心を感じた息子の方から、先に、父が話し始める前に「私はこの車にずっと乗り続けても構いません。」と言います。息子は、新しい車を買ってあげるという父親の言葉を、信じなかったからではなく、むしろ息子がこう言ったことによって、息子は父親から「いや、その車に乗り続けるのではなく、もうすぐ私が新しい車を買ってやる。」という言葉を聞くことができるようになるという事です。息子は、父親が何を言おうとしているのか、正確に心に働きかけられていたので、父親から確かな約束の言葉を受け取ることができたのです。 
    
アブラムも神様の言葉を信じられないからではなく、相続人についての言葉を先に言い出すことによって、父なる神様から後とりについて、確実な契約の言葉を受け取っているのが見られます。
4-5節を見ると「主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」という、確かな契約の言葉を受けています。これは、アブラムが神様と心が通じ合い、神様の心を正確に心につかさどられたので可能な、二人だけの対話だったのです。このような契約の言葉を受けとったアブラムが、これから神様の前でどのように行ったのかについては、次の時間に続いて説明することにします。

結論


親と子の間でお互いに心が通じ合って感じることができれば、お互いに誤解することはありません。子供は親が望むことを自ら行い、親も子供が望むことを叶えてくれます。相手がなぜこのようなことを言うのかを感じるので、それに合った答えをしてあげることができます。まさにこのような関係が父なる神様と皆様の間にも成り立つことを願います。そのためには、ピリピ2:5に「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とおっしゃったように、皆さんの心の中に主の心を抱かなければなりません。御父の神と完全に一つである主の心を、皆さんの中に抱く時、御父の神の心とも一つを成すことができます。   

 

アブラムは、このような訓練の過程を通して、自分を徹底的に捨て、ただ主の心、御父の心を抱いていったので、御父の心を明らかに悟り主管を受けることができ、御父の神との対話を通して、驚くべき祝福の言葉も受けることができました。皆さんが、迅速に霊の心を築き、霊の空間に住むことで、御父の神の心もつかさどられることができ、聖霊様とももっと明らかに交わりができるようになることを願います。それで、神様が自ら皆様の盾であり、報いになってくださり、常に凡ての事に通じる道にだけ導かれていくことを神様の名前で祈ります
 

朝の学び113 創世記15章  

創世記15:1-11

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。

序論

私たちがイエス様を救い主として迎え、神様の子供になれば、私たちの中には聖霊様が内住されるようになります。このような聖霊様の働きによって、様々な霊的な賜物を受けたり、体験をすることになりますが、聖霊の御声を聞いたり、異言の賜物を体験したり、幻を見る場合もあります。このような霊的な賜物と体験は、すべての人に一律に現れるのではなく、人によって少しずつの違いがあり得ますが、明らかなのは、霊に入るとますます多くの霊的な体験をすることになるという事です。霊の空間の中に入ってきたので、霊の空間の中で現れる現象を体験していくことができるのです。

このような霊的な体験の中で容易ではないのが、神様の声を直接聞きながら対話をすることです。聖書によれば神様の御声を直接聞く場合が出てきますが、それが普通に起きたことではなく、誰でも体験できるものでもなかったのです。それだけ神様の前にふさわしい人々が、神様の声を直接聞くことができ、その中でもごく少数だけが神様の形を見ました。 
    
今日、神様を信じる人々の中に、「神様の御声を直接聞いて対話した」と話す人々がよく出てきますが、その中には自ら神様の御声を聞いた人もいるでしょうが、神様や聖霊の御声または天使の声を父なる神様の御声と誤って考える場合も多くあります。また、サタンの働きを受ける場合もあるので、聖霊の働きの中で霊的な体験をしていくことは重要ですが、必ず霊的に先んじていて、先にその道を体験していった人が、正しい道を行けるように導いてあげることが必要です。

幻と幻想の違い

本文を見れば、アブラムは幻の中で神様と交りをすることが出てきますが、皆さんの中で、どれが幻でどれが幻想なのか、区分できる方は多くないでしょう。もちろん、今日、ほとんどの人が体験するのは、幻想の方に近いことが多いですが、ある場合はアブラムのように幻を見ても、幻想だと分かる場合もあります。では、幻想と幻の違いは何でしょうか?まず、2つの現象は、いずれも神様が肉の空間の中で霊の空間の門を開いてくださると、一瞬霊の空間に入りながら現れる現象という共通点を持っています。また、霊の目と霊の耳を開いて、見て聞くようになさる体験的な現象は、両方とも似ています。しかし、幻想と幻は、霊の空間をどれほど広く、あるいは狭く、活用して広げてくれるかという違いを持っています。 
    
幻は幻想に比べて、相対的に霊の空間を狭く活用して表してくださるので、幻を通して働かれる時は、多くのことを見せたり感じさせたりするよりは、声を通した対話形式で働かれます。肉の空間の中に霊の空間が広がり、光で囲まれ、その中で声が聞こえるのです。本文にアブラムが体験したのも、肉の空間の中に霊の空間の扉が開き、アブラムが瞬間、霊の空間に入るようになり、アブラムが光で囲まれた状態で、光の真ん中から聞こえてくる声を聞いたのです。その声は確かに神様の声でしたが、この時神様が自ら臨在され、アブラムが神様の形象を見たわけではなく、神様は光の中に留まっている声として、アブラムに働かれた場合です。

そして、この時、光で囲まれている姿や光の中から聞こえてくる声は、周りの他の人が見たり聞いたりできるものではなく、ただ自分だけが見たり聞いたりすることができます。それで、誰かが幻を見ている時、周りの他の人が見る時は、まるで祈っているように見えますが、感じは受けるようになります。使徒パウロも主をダマスコで迎え、声を聞く時も周辺の人々がこのように感じたことを見ることができます。 
   
反面、幻想は幻に比べて、活用される霊の空間がより広いと言えます。肉の空間の中に霊の空間の扉を開くことは、幻として働かれる場合と同じですが、幻想の場合は、あるものを自ら見て触ったように、自らそこに行って経験したように、働いてくださいます。霊の空間を開いて、様々な形や角度から見ることができるようにするのです。黙示録を書いた使徒ヨハネの場合は、霊の目が開かれ幻想を見て、多く記録するようになります。それで幻想は、まるで映画のフィルムを見るように見えたり、自分が直接その中に入っているように見えたりします。ところが、同じ幻想でも、ある人はただ場面だけを見る場合があり、ある人は場面と共にそれに対する解釈までも、霊感で受ける人がいます。また、同じ場面の幻想でも次元が違うのです。

  

例えば、子供にある映画を見せてあげれば、子供は内容がよく分からないが、どんな場面を見たのかは説明できます。反面ある人が見たなら、場面だけを見るのではなく、内容までも把握することができるので、ある場面がどんな内容だったのかも説明できます。このように同じ幻想を見ても、霊的な水準によって差があるということです。まだ信仰が幼い子供の段階であるにもかかわらず、聖霊が充満している時は、恵みの中で霊の眼が開かれ、幻想を見る方々もいますが、ややもすると考えが働いて、神様が見せてくださったことを、誤って解釈することがあるということを知らなければなりません。 
    
したがって、幻想を見てもそれが完全になるためには、心を割礼して肉の考えが全くなく、ただ明らかな聖霊の声と主管によって、霊感を通して解釈を共に受ける次元に至らなければなりません。そして、幻想は広げてくれる霊の空間の幅が広いので、どの方向や角度から見せてくれるかによって、同じ場面を見ても見る人によって内容が少しずつ違うことがあります。霊の目が開かれ、同じ場面を見た人たちが、全体的な脈絡は正確に一致しながらも、細部的な面においては若干の差が出るのが、まさにこのような理由からです。一人が見たものを他の人は見なかった場合があり、他の人が見たものをまた他の人は見なかった場合があります。 
    
例えば、小さな画面であるものを見る時は、その内容が一目で入ってきますが、とても大きな画面であるものを見る時は、視線をどこに置くかによって同じ内容でも、人によって見た内容が少しずつ差が出ることがあるようにです。そしてこの時も、霊的な水準によって、見る内容に差が出ることがあります。霊的な水準が低い次元で見る人は、部分的なものだけを見ることができますが、霊的な水準が高い次元で見る人は、全体的なものも見ることができる能力があるからです。 
   
このように幻と幻想が、霊的に見れば似ている面もありますが、霊の空間を活用する面において、違いがあるという事が分かりました。ところが、幻が霊の空間を狭く活用するからといって、幻を見るより幻想を見る方が、より霊的に次元が深いと言えるわけではありません。神様が幻として働かれるか、あるいは幻想として働かれるかは、それぞれその時の状況と、与えようとする内容によって違います。本文でも分かるように、神様が幻を通して働かれる場合には、もう少し個人的に親密に近づいてくるのを感じることができます。

私も主のしもべに呼ばれた後、神様の意思をもう一度確認しようとした時、神様が直接声で話してくださったことがあります。空の門が明るく開き、明るい光の中で神様の声が聞こえてきましたが、私がその時に体験した現象は幻だと言えます。その時も私が体験したことを私のそばにいた祈祷院長は、見て聞くことができませんでした。もちろん霊的な雰囲気は祈祷院長も感じましたが、その体験は私と父なる神様との間にあった個人的な親密な体験だったのです。
    
このように、幻は幻想よりも個人的で親密な体験であるだけでなく、より深い霊の次元を体験する通路にもなります。それは、幻にはほとんど対話的な交りが伴いますから、幻想がある場面を見せてくれて、霊感で説明してくれるとすれば、幻はある場面を見せてくれて、霊の耳を開いて声で一緒に説明してくれる場合です。それで聖書を見ると、将来に起こることや深い霊的な秘密を教えてくださる時は、幻を通して働かれる場合が多かったです。
   
ただし、
ダニエル7:1-2を見ると、「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、」と言ったのです。これは将来最後の時になることについてダニエルが幻の中に啓示を受ける場面です。ところが、続く内容だけを見ると、まるでダニエルが幻想を見ているように見えるかもしれませんが、このような体験を幻だとおっしゃるのは、アブラハムのように幻で見られる対話形式の交わりが行われているからです。ダニエル7:15-16によれば、「私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。」と言いました。

これは神様がダニエルに今後のことについての内容を見せてくださる次元ではなく、天使を通して解釈まで教えてくださっているのです。この時、神様から送られた天使がまさに天使長ガブリエルでした。ダニエル9:21によれば「すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、」として、先に神様が前のことについて啓示してくださる時、幻の中で見たのがガブリエルだったことを語っています。   

このように、幻の中に啓示を受けて記録したダニエル書と共に、やはり未来に対する予言書であるエゼキエル書を見ても、エゼキエル1:1に「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」として、エゼキエル書の内容もやはり幻を通して受け取ったことが分かるようにしてくれます。霊の眼を開いて霊の深い秘密と未来について明らかにしてくださっただけでなく、エゼキエル1:28後半節に「私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」として、以後に続く内容はエゼキエルが声を通して啓示されることを話しています。 
    
このように幻には幻想とは区別される要素があり、その内容が幻想を通して体験できるものだとしても、その中に幻だけで体験できる要素があるとすれば、神様の側ではそれを幻と表現されるのです。したがって、幻と幻想が持つ共通点と相違点については分別をするものの、神様が最も適した方法を通して働いてくださるという事を悟らなければなりません。
    
本教会は開拓以来、これまで幻想と幻、啓示と代言、予言など、様々な霊的な賜物と体験を通して私と聖徒たちにいつも働いてくださいました。私に直接働いてくださったのは今まで一度も間違ったことがありませんが、私たちの聖徒たちに働かれる場合を見れば、まだ霊的に完全ではないだけに、時には自分の考えや感じが入る場合もありました。そのため、常に相互点検して補完できるように、神様は同じ内容について多くの人に同時に働いて、私の方でその方々を分別できるように働いてきました。いくら明らかに働かれるという人だとしても、心に割礼がされていなければ、それは完全なものではありません。

それで、私の方では聖徒たちが霊として分別できるように、いつも講壇から御言葉を通して悟るように導いてきましたが、それに気づかない場合もあって、色々な副作用を起こしたりもしました。このようなことが怖くて、霊の世界を休止させることができるわけではないので、私は聖徒たちが霊の世界を体験して進むことができるように、霊の世界の扉を開けておきました。その結果、今は数多くの検証過程を通して認められる方々が明らかになり、あちこちで使われるようになりました。ここで必ず肝に銘じなければならないことは、何よりも心の割礼が一緒に伴わなければならないという点です。そんな時、傲慢やこの世の誇りもないし、肉の考えや感じが入ることもないし、神様がくださった賜物がただ神様の栄光と神の国のためだけに美しく使われることができるのです。そうしてこそ、主が来られるまで使われ続け、大きな賞になるという事です。 
    
また、神様が貴重な賜物を与えた時は、自ら「神様が私にこのような賜物を下さった。」と言ってできるのではなく、神様は霊的な秩序の中で、必ず牧者にも共に働いて下さるという事です。皆さんの中でいくら霊的な体験が多くて深いとしても、それが牧者を通して連結される時だけが、霊的な秩序に従うことであり、秩序の中で働かれる神様の意思になることです。本教会は霊の世界が無限に開かれている祭壇であるだけに、皆さんがこのような事をよく肝に銘じ、霊的な秩序の混乱がないように、常に秩序に従って出てくることをお願いします。

朝の学び112 創世記14章  

創世記14:17-24 
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

アブラムと聖霊様との出会い


今までの説明を聞いて、聖霊様について少しお気づきになりましたでしょうか?今日の本文にメルキゼデクとアブラムとの出会いは、まさにこのような聖霊様が父なる神様の特別な指示を受け、この地に自ら降りてきて、将来、信仰の父になるアブラムに会ってくださる場面です。ところが、私たちは後日アブラハムが体験することになるもう一つの不思議な出来事を通して、今日の本文に出てくるメルキゼデクの存在についてもっとはっきりと悟ることができます。それは創世記18章に出てくるアブラハムと聖霊様との出会いです。

創世紀18:1-4「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。」とあります。この御言葉の中では、三人とありますが、続く内容を読むとここで三人と言ったのは、人の形をした神様と、やはり人の形をした二人の御使いであることが分かります。 

22節「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」とあります。神様はアブラハムが住んでいるところに残り、彼と対話をする場面が出てきて、他のふたりすなわちふたりの御使いは、神様の指示に従って、ソドムの町を探りに行ったのです。それで続く創世記19:1には「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」と言って、人の形をし三人のうちふたりの御使いだけがソドムの町に現れているのです。 

このように、創世紀18章の内容まであらかじめ先に説明する理由は、創世紀18章に現れた神様と、今日の本文に出てくるメルキゼデクと密接な関連があるためです。先に読んだ創世記18:1-4によれば、アブラハムは三人の人物、すなわち人の形をした神と人の形をしたふたりの御使いを見るやいなや、自分を極めて低くし、あまりにも丁寧に迎えます。もちろん、いくら人の形をしていたとしても、三人の形が普通の人とは異なり、その形から発する霊的な光や気運によって、神様と交りをしていたアブラハムは、その方々が平凡な人ではないという事実をすぐさま悟って、丁寧に迎えることができたのです。このように真心で迎えることができた理由は、まさにその中の一人、すなわち人の形をされた神様を見分けることができたからです。

 

では、果たしてどこでお会いしたのでしょうか?アブラムは、すでに創世記14章に記録されたように、メルキゼデクとして現れた聖霊様にお会いしたのです。また、創世記18章で自らこの地に降りてきて、アブラハムと対面して言葉を交わされた方も聖霊様、すなわち聖霊の神様でした。私たちは主なる神様を見れば死ぬと言われますが、神様の息子として来られたイエス様、聖霊様を見ても死ぬわけではありません。それで、私たちが対面して見ることができる神様の息子たちを送って働かれたのです。ある時はイエス様を、ある時は聖霊様を送って働かれることで、その前に立つことができ、対話することができたのです。

モーセのような場合も後ろ姿を見て衣の裾を見ることはできましたが、自ら神様の顔を対面して見ることはできませんでした。アブラムはすでに人の形をした聖霊様にお会いしたことがあり、聖霊の神様が再びこの地に来られた時、その方を一瞬で見抜き、このようにその前に体を地面に曲げて、極めて手厚く出迎えたという事です。ところが、アブラムが同じ聖霊の神様にお会いしたとしても、今日の本文でメルキゼデクという姿で会ったことと、創世記18章で会ったこととは状況が違いました。

今日の本文の状況は、アブラムが敵との戦争のために共にした人々と帰る途中に起きたことです。つまり、シャレムの王メルキゼデクがアブラムの前に現れた時、アブラムの周辺には多くの人々が一緒にいたのです。しかし、この時、アブラムと甥のロト以外には、シャレムの王メルキゼデク、つまり聖霊様を見た人がいませんでした。これはイエスを信じる人々を迫害していたサウルが、ダマスコへの途上で神様に会った場面を考えると、簡単に理解することができます。ダマスコに近づいていたサウルは、忽然と空から光が照らされ、その中から聞こえる声を聞きます。そして、神様と対話をしているのに、サウルがこのような霊的な体験をしている間、一緒にいた他の人々は、今どんな状況が起きているのかわかりませんでした。

使徒の働き9:7「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」とあります。今日の本文の状況もこのようで、神様の助けで大きく勝利をおさめて帰ってきたアブラムは、神様に感謝して祭壇を作って、感謝の生贄、祭祀を捧げていましたが、極めて高い神様の祭司であるメルキゼデクが現れたのです。周辺にいた人々の目にはただ神様の前に生贄、祭祀を捧げているアブラムの姿だけが見えましたが、アブラムは聖霊様と深い霊的な交わりを分かち合っていたという事です。もちろんこの時、アブラムが聖霊様だけに会ったわけではありません。三位一体の神様の一人である聖霊様がいらっしゃったので、彼を護衛しながら召使になる天軍と天使は、またどれほど多く降りてきたのでしょうか。霊の目が開かれ、その場面を見ているアブラムにとっては、彼の一生忘れられないあまりにも恍惚として胸いっぱいの感動の瞬間でした。自分に直接現れた神様に会い、信仰の父として神様の前に完全に立つことができる、祝福の契機をもう一度迎えたのです。神様もアブラハムを信仰の父として立てる前に、このように出会いのみわざを通して、信仰と確信を植えつけ、信仰の父になれるように導いたことを見ることができます。

義の王、平和の王メルキゼデク


「メルキゼデク」という単語の、肉的な意味は「私の王はゼデク」ですが、霊的な意味は「分かれた者のひとり」です。まさに初めに一人でおられた御父の神が、人間耕作の大きな摂理と計画の中で分離して下さった、御子の神と御霊の神様のうちのお一人であられるのです。旧約時代は御父の神ご自身が、親しくつかさどって導いていかれた時代ですが、だからといって、旧約時代の間、主や御霊の神が何もしないでおられたのではありません。特に、御霊の神は、御父の神の御旨を受けて、[主]の霊として活発にその働きを助けておられました。その中の一つとして、今日本文のメルキゼデクの姿で現れ、アブラムと交わり彼を祝福してくださったのです。 
    

ヘブル7:2にはメルキゼデクについて、「またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」と書いてあります。その名の意味を義の王と平和の王と訳しています。それなら、御霊の神が義の王、平和の王と呼ばれる理由は何でしょうか? 
    
私たちがイエス様を救い主として受け入れて、真理の御霊である聖霊を賜物として受ければ、この時から心の中におられる聖霊は、罪と義とさばきについて一つ一つ悟るように導いていかれます。真理と真理でないもの、義と不義、罪と悪が何かを見分けて、義と善の中に入って来るようになさるのです。また、神の深みにまで及ばれる御霊は神の御目に正しいことが何か教えてくださいます。
コリント第一2:10「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」とあります。それで、完全な義を行うようになさるのが聖霊の働きであり、これが義の王と呼ばれる理由です。

 

それだけでなく、私たちが聖霊を賜物として受けると、明白に現れる変化が心の平和を感じることです。罪人として死んで永遠に地獄に行くしかなかった人が悔い改めて、罪の赦しを受け神の子どもとされて天国に行けるようになったしるしが、まさに聖霊を賜物として受けることです。聖霊を受ければ天国に行ける神の子どもと認められたので、自然に心に平和を感じるようになるのです。聖霊を受けた神の子供たちが、御霊に導かれ従って生きていく時に、世が与えられない平和を味わえるので、御霊の神を平和の王と呼ぶのです。 
    
アブラムは、このようなメルキゼデクに自分が得た物の十分の一を捧げることで、メルキゼデクを認めると同時に、自分に属するすべてのものが、ただ創造主の神から出てきたという事を認めるのです。さらに、神の御前にささげる十分の一献金がまだ律法として決まったことでもないし、誰かから学んだことでもないのに、アブラムは心に働きかけられて、神の御前に十分の一を捧げました。神はアブラムにより大きい祝福、すなわち、信仰の父として完全に立てられる祝福を与えようと、彼の心をつかさどって下さったのです。次回からは、神様がアブラムに与えた契約の種についての約束と、彼の子孫に渡すとおっしゃったカナンの土地に対する具体的な約束について見ていきましょう。

 

結論


アブラムがメルキゼデクに出会う驚くべき祝福を受けることができたのは、彼が父なる神様の前に積み上げてきた信仰の義が認められ、さらに一段階昇華される(ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)時点を迎えたためです。ロ-マ4:2-3「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。」とあります。このように、アブラムが、神様の前に義と見なされることができたのは、単に表に現れる行為としてではなく、彼の心の中心から出てくる信仰の行いによるものでした。律法による行為だけで救われた旧約時代に、アブラムはすでに神様が本当に望む、心に信じられる信仰を所有していたのです。 

言い換えれば、アブラムが神様の前に行った行為は、単に肉的な行為の次元で終わったことではなく、心の中心から神様を信じることによって、それを行いでも表したのです。そのため、アブラハムは旧約時代に限っての信仰の父ではありません。聖霊時代にも依然として信仰の父として、すべての信じる者にとって信仰の表象になりうるのです。もちろん、アブラムがメルキゼデクに会った時点で、アブラムの信仰の義が完全だったわけではありません。しかし、神様はアブラムの信仰の義を認め、さらに一段階昇華された義の次元に達するように、愛する子の中の一人を送ってアブラムを祝福されたという事です。

  

そして、アブラムは、このような祝福のきっかけを通して、より迅速に信仰の父として準備されていくことで、神の前に認められて出ることができました。アブラムのように皆さんの信仰が成長していき、霊に入っていくことにも段階があります。それで皆さんが一段階を突き抜ければ、次の段階に向かっていけるように神様は力と恵みを与えられます。アブラムにメルキゼデクを送ることで、彼の義が御父の神の前に告げられたことを認めてくださったように、ある祝福や恵みの体験を通して、霊で一段階入り込んでいることを感じさせてくれるということです。例えば、祈りを一段階踏み込む時も、ある瞬間、以前と変わった自分の祈りを自らが感じながら、「私がもう一段階祈りの能力を受けたのだな」と悟ることができるようになるということです。
 

朝の学び111 創世記14章  

創世記14:17-24 
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

序論

聖書において、イスラエル民族の中に、公式に祭司という職分が登場するようになるのは、出エジプト記の事件以後です。出エジプト記28:1によれば、神様がモーセに告げたのは「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」と話しています。レビ族として生まれたアロンとその息子たちであるナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルが、祭司として立てられた最初の人々だったのです。しかし、このように聖所が建てられる前だからといって、聖所の職務を担う人がいなかったわけではありません。神様の前に生贄を捧げる祭祀は、アダムが罪を犯してこの地に追い出されて以来、ずっと行われてきました。

 創世記4章を見ると、アダムの息子たちが供え物を取って神様の前に生贄を捧げる場面が出てきます。彼らは両親のアダムとエバからすでに神様の前に生贄を捧げることについて学び、生贄に込められた意味についても知っていました。その後もノアとアブラム、そしてアブラハムの子孫であるイサクやヤコブも、やはり神様の前に生贄を捧げる場面が、聖書のあちこちに記録されています。そのため、祭司の職分が正式に生まれる前にも、神様の前に生贄を捧げる祭祀は続けられ、ノアやアブラムのように祭司長と呼ばれることはなくても、祭司長の職分を果たす人々がいたのです。 
    
前回から説明するメルキゼデクには、正式に祭司長の職分が生まれる以前に、
「極めて高い神の祭司」という表現が使われたという事です。もちろん当時、他の異邦民族の中には、彼らが仕える異邦の神のための宮がありましたが、神様の前に生贄を捧げるための宮の職分は、モーセの兄アロンが初めてだったにもかかわらず、メルキゼデクは祭司長という職分として記録されています。 
    
そしてメルキゼデクについて記録したヘブル書の著者は、
へブル人への手紙7:3「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」とし、へブル人への手紙6:20には「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」とし、イエスをメルキゼデクの位に等しい神の大祭司と表現しています。つまり、イエス様とメルキゼデクを同等のレベルに置いて、イエス様について説明していますが、このような条件にふさわしい方は果たして誰でしょうか?ただ一人、三位一体の神様の中の一人である聖霊様という事が分かりますが、この時間に聖霊様について明らかに悟ってください。

メルキゼデクとして来られた御霊の神

ガラテヤ4:6によれば「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」として、聖霊を「その息子の霊」すなわち「御子の御霊」と言っています。「その息子の霊」というから「ひょっとして主の霊ではないですか?」と尋ねる方がいらっしゃるかもしれませんが、私たちの心の中に送られた霊は、皆さんもよくご存知のようにまさに聖霊様です。コリント第一3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とおっしゃったように、神の御霊はまさに私たちの心の中に住んでいるのです。父なる神様は救われた神様の子供たちに聖霊を贈り物として下さいますが、聖霊を受けた人は神様を父と呼ぶことができるのです。ここで私たちは、聖霊様を「御子の御霊」と表現したことに注目しなければなりません。よく人々はイエス·キリストだけを神の子だと思っています。しかし、聖書には必ずしも主だけが神の子だと表現しているわけではありません。 

へブル人への手紙1:6には「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」として主を長男(firstborn)と表現しています。また、ヨブ記38:7には「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」とあり、神様が天地万物を創造される時に、神の子たちはみな喜んで声をあげたと言いました。神様の子たちと複数として出てくるということです。しかしもしかして、神の子たちを御使いと思ってはいけません。へブル人への手紙1:5「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。神がかつて、御使いの中の誰かに、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」また「わたしは彼の父となり、彼は私わたしの子になる。」と言われたでしょうかとして、神が御使いを子と呼ばないことをはっきりと言っています。

したがって、天地万物を創造される時、神が神の子たちと表現したのは、私たちの主の他にもう一人の子がいることを明確に言っているのです。そして御使いではないこともはっきり言っているのです。それでは天軍ですか?もちろん天軍はさらに違いますね。したがって、ヨブ記に記録された神の子たちは、長男の神様ともう一人の方である聖霊様を指すのです。聖霊様も主と同じように神様の息子の地位を持っていらっしゃるのです。 

 

 

ひとり子 


イエス様と神様の子である聖霊様、それなら聖書にはなぜイエス様に対して「ひとリ子」または「ひとり」という表現を使ったのでしょうか?まるで息子が一人であるかのようにです。しかし、皆さんが聖書において、イエス様に対してこのように「ひとり」という表現を使った御言葉を調べれば、まさにイエス様がこの地に救い主の資格で来られたことについて話す時に、使われたことが分かります。すなわち人間耕作の摂理の中で、私たちの罪の身代わりとなって下さるために、人の体を着て救い主としてこの地に生まれたイエス様を修飾する表現として、「ひとり子」という単語が使われたということです。例えば、ヨハネ3:16の御言葉一つだけ見てみると、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言いました。この御言葉は使徒の働き4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」という御言葉と対になって、私たちが信じて救われることができる唯一の名前は、ただ「イエス様」一人だけであることを言っています。 

したがって、このヨハネ3:16の御言葉では、この地に救い主の資格として来られた神様の息子が、ただ一人だけだという意味で、ひとり子という表現を使っているという事です。もし聖書に救い主として来られたイエス様に対して、このようにひとり子という表現を使わなかったとすれば、イエス様以後にも多くの人が現れ、「私が救い主だ」と話すこともできたでしょうが、聖書はすでに救い主はただ一人イエス様だけであることを明確に記録しています。だからイエス様以外には誰も、自らを救い主と言えないことであり、信じる人々は決してそのような迷いに陥らないことができるのです。したがって、私たちはイエス様をひとり子と表現したことが、天でも息子がただイエス様一人だけいるという意味ではないことを知らなければなりません。 
   
聖霊様もまた、主と同じように父の神様から分離して出てきた方で、主のように父の神様の息子の位置にいらっしゃる方だという事です。それで聖書は聖霊様に対して表現する時、
「神の聖霊」という表現を使います。聖霊様はまさに父なる神様から来た方であることを明確にしているのです。このように聖霊様は主と同じように父なる神の子であり、独立した個体として実体を持っていらっしゃいますが、今日、信じている人たちが大部分この事実を知らずにいます。神様はある形の実体があると思いながらも、聖霊様は実体があると考えられないのです。しかし、聖霊様もやはり一つの個体として、聖霊の本体を持っていらっしゃるという事です。ただ、その姿がいくらでも変形することがあります。 
 
今後、皆さんが父なる神様の根本の次元である四次元について学ぶことになれば、三位一体の神様は、心に抱く通りにその姿が変わることができるという事を、知ることになるでしょうが、聖霊様は働きの特性上、人々の中で色々な姿で働かれます。主はほとんどの場合、人の子の姿で見られるので、霊の眼が開かれた人々が主にお会いする時には、人と同じ形で見ることになります。反面、聖霊様は、本体の形状だけを着て現れるのではなく、時には鳩の形で、時には火や風の形でも働かれます。

本文のメルキデゼクのように、聖霊様が人の形で働かれた場合もありますが、聖霊様の働きはあまりにも多様で幅広いため、大部分が霊の分離を通して別れた色々な姿で働かれるのです。 このように聖霊様が分離して働かれる時は、それぞれの働きに合わせて形を変えたり、時には特定の形がなく働かれたりします。そのため、聖霊様が多くの働きをされたにもかかわらず、人の形、すなわち私たちのような人の形で感じる人はほとんどいません。たとえ聖霊様が人の形で現れても、当然神様や預言者として考えてしまうのです。だから今まで聖霊様の存在に対して多くの部分が隠されているしかなかったのです。
 

朝の学び110 創世記14章  

創世記14:17-24 
こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」

シャレムの王メルキゼデクは果たして誰なのか? 

それでは、神の一人子であり、神様と根本的に一つであるイエス様に匹敵する人物であるメルキゼデクは、果たして誰でしょうか?もしメルキゼデクが被造物の中の一人なら、どうしてあえて神様の息子であるイエス様に対して、メルキゼデクの位に等しいと言えるでしょうか?位とは先にも説明したように、職位、身分、等級の順番を意味しますが、神の息子であるイエス様が彼の位に等しいと言えるためには、メルキゼデクもやはり、神の息子であるイエス様に劣らない位置にいらっしゃる方でなければならないという事を、私たちは十分に知ることができるのです。 
    
果たしてこのような方は誰でしょうか?父なる神様と主様と同等の隊列に立つことができる方なら、その方は当然、聖霊様であることが分かります。このように申し上げると、考えを働かされる方々は「本文に明らかに
「シャレムの王メルキゼデク」と書いてあるのに、どうしてその方を御霊の神様だと言うのですか?」と反問されるかもしれません。私たちはここで「シャレム」の意味をよく知らなければなりません。「シャレム」がヘブライ語では、安全な、平和なという意味を持っており、肉的には後のエルサレムになる都市の地名を表しますが、霊的にシャレムとは神の国を意味します。
 

詩篇76:1-2によれば「神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。」とあり神様の仮庵がシャレムにあると言います。また、詩篇135:21には「ほむべきかな。主。シオンにて。エルサレムに住む方。ハレルヤ。」と記されています。ここでもエルサレムとは、肉的な地名のエルサレムではなく、天にある神の城を意味する言葉で、エルサレムはヘブライ語で「平和の城」または「サレムの城」という意味を持ちます。したがってシャレムの王とは、神と等しい方であり、神の国を治められる方、すなわち、御霊の神のことです。それで、黙示録21:2を見ると、「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のためにられた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」このように天にある神の都エルサレムをこの地の都エルサレムと区分するために、新しいエルサレムと表現しています。


したがって「シャレムの王」とは単純にこの地上の都市を治める王ではなく、父なる神と同等な方として神の国を治める聖霊様を意味します。それでは、メルキゼデクがなぜ聖霊様なのかについて、もう少し調べてみます。ヘブル人への手紙ではメルキゼデクについて少し具体的に説明されています。へブル5:10によればイエス様に対して「神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」とあり、イエス様がメルキゼデクの位に等しい大祭司長になったことを言及しています。ところが、続く、へブル人への手紙5:11には「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」と述べています。つまり、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、メルキゼデクについて多くのことを知っていましたが、それを話したときに聞く側は霊的に理解しにくいので、言葉を慎んでいるのです。 

ペテロ第二3:16「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」とある言葉のように、霊の知識がなく霊的な分別力がなければ、ややもすると神の言葉を誤って解いて、自分自身に滅びを招くこともありうるからです。 
    
しかし、ヘブル人への手紙の著者である使徒パウロは、聖書を読む人たちに、霊感の中でメルキデゼクについて悟るように、へブル人への手紙7章にいくつかの手がかりを提供しているという事です。まずヘブル人への手紙章4節に
「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」としながら続く7節に「いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と話しました。これはどういう意味でしょうか?

本文、創世記14:19-20節によれば、「彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」とあります。メルキゼデクがアブラムに祝福を祈ってあげていて、アブラムはこのようなメルキゼデクに自分が得たものから十分の一を差し上げています。ヘブル人への手紙7章では、まさにこの場面を説明しながら、「下位の者が上位の者から祝福されるのです。」と言いました。当然、高い者が低い者に祝福を祈るということです。 
    
ところがアブラムは将来、信仰の父であり、よみでも頭として、旧約時代には救われる魂が死ぬとアブラハムのふところに抱かれたことが分かります。また、神様の友と称えられるほど、神様の前に完全な人でした。彼の霊的な水準や天国での序列を考える時、あえて被造物として誰もが「それより優れている」「もっと高い」と言えるわけではありません。では、アブラムを祝福するほど高い位置にいる方なら誰でしょうか?さらにアブラムは、メルキゼデクに神様に捧げなければならない十分の一を捧げたとあります。十分の一というのが、まだ律法によって決まってもいない時でしたが、アブラムは心の主管を受けて、このようにメルキゼデクに十分の一を差し上げたという事です。これはつまり、アブラムはメルキゼデクがどんな方だということを知ったという意味にもなります。

 

へブル7:3では、メルキゼデクについて非常に決定的で重要な説明が出ています。「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」と言ったのです。それで、父も母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもないと言いましたが、この条件に合う被造物が果たしてどこにいるでしょうか?続くへブル7:24を見ると、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。」と言い、主が持っている祭司長の職分が永遠であることを物語っています。そしてヘブル10:21には「また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。」と言い、主が神様の家を治める偉大な祭司だと言っています。ところが、メルキゼデクもやはり常に祭司であり、神様の子を彷彿させるということです。「彷彿」というのは目の当たりに見る思いをするという意味で、ヘブル書の著者がメルキゼデクをこのように表現したのには理由があります。

  

すでに「創世記講解」を通して霊的な言葉を聞いた方々は、聖霊様がどんな方であり、また三位一体の神様との関係がどうなのかを知っていますが、このような霊的な知識がない人に、仮に御霊の神についてはっきりわかるように言うなら、理解できないだけでなく、色々なとんでもない誤解を生むこともあります。それで、メルキゼデクを「神の子に似たものとされ」とだけ言って、正確な表現を避けたのです。しかし、このようにメルキゼデクについて明らかに悟っていたヘブル書の著者だったので、ヘブル1:6によれば「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こうわれました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」と、主を長子(firstborn)と表現しています。ここでなぜ主を長子と表現したのか、また主を一人子と表現した理由は何なのかについては次の時間に説明したいと思います。 

結論


今日はメルキゼデクについて少し説明しましたが、おそらく霊的なことを考える方々は、今日の言葉を通してすっきりと解ける分野があったと思います。私たちが祈って聖霊の導きの中で悟るようになれば、深い霊的な分野に対しても聖書の中でいくらでも解答を見出すことができます。次の時間にもメルキゼデクについての説明が続きますが、皆さんが次の時間の言葉を聞くと、聖書を通してより明確に確証できるようになります。そしてお願いしたいのは、皆さんが霊的な言葉を聞く時は、決して人の考えや知恵を働かせてはいけないということです。

  

コリント第一2:12-13には「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」と語っています。したがって、神様の言葉を人の知恵の中で解こうとしたり理解しようとせず、神様から来た霊である聖霊様の導きを受けて悟って下さい。皆さんがこのような霊の知識を知り、霊の世界についても知ってこそ霊に入ることができ、三位一体の神様についても明らかにすることができるのです。今日の御言葉が皆さんに大きな能力になり、信仰になって、迅速に父なる神様が望まれる霊の人々として完全に出てこられますように主のお名前で祈ります。
 

朝の学び109 創世記14章  

創世記 14:1-16 
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

 

アブラムの神に対する信頼


甥のロトが、先に見た目に良さそうなヨルダンの低地全体を選んで去った後、カナンの地に留まり、平安と祝福の中で暮らしていたアブラムにある日、一人の人があわただしくやってきます。そしてアブラムに甥のロトが戦争の中、捕虜として連れて行かれたという知らせを伝えます。北方にある四つの国の王の連合した軍隊が、当時ロトが住んでいたソドムの地まで攻め込み、ロトと彼に属した所有の人々までも捕虜として、全財産と食料を分捕り物として持っていったのです。この知らせを聞いたアブラムは、すぐに自分の家で生まれて育て訓練した人々を従え、敵の軍隊を追撃していきます。この時、アブラムと一緒にいた人の数はそれほど多くありませんでした。自分のしもべ318人を招集して、また自分と同盟を結んでいたアモリ人の人を合わせても、四人の王が連合した敵の軍隊に比べると、その数が多いわけではありませんでした。 
 
本文24節にも、アブラムと共に戦争に出た人の名前が、彼と同盟したアネルとエシュコルとマムレの3人だけが記録されています。しかし、アブラムはこのような数的な劣勢にもかかわらず、少しの躊躇もなく敵の軍隊を追いかけて敵を破り、甥を救ってきたのです。では、アブラムがこのように大胆に出て戦って勝つことができた理由は何でしょうか?アブラムは現実を見ずに、ただ信仰の目で眺めました。自分といつも共におられ、守って導いていかれる父なる神様への全面的な信頼があったので、アブラムは兵士が多い少ないにこだわらず、神様だけにより頼んで、大胆に出ていって敵と戦うことができたのです。  

 

詩篇20:7「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」と言われた通り、兵士が多いか少ないかというのは人の側では重要だが、神様の側では大きな意味がないためです。士師記7章を見ると、さばきつかさギデオンは彼に従うたった300人の兵士で、いなごのように大勢のミデヤン人やアマレク人や他の東の人々との連合軍を、大破したことが分かります。神様が知恵を与えて助けてくださるので、たった300人の兵士をもって、海辺の砂のように多くて数えきれない数の敵軍を、退けることができたのです。この時、神様がギデオンに与えた戦略が、まさに陣営を3つの群れに分けて夜に乗じて敵をかく乱させ、敵が自ら自滅させる方法でした。 

創世記14:15「夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。」とおっしゃった通り、アブラムもやはり敵を倒すために、神がギデオンに命じた方法と似た方法を使いました。ひたすら信仰を持って大胆に進み、敵と対抗して戦ったが、だからといって無条件に力だけで戦ったのではなく、このように神様の知恵を受けて、敵を打ち破ったことがわかります。まるでダビデ王があることを決める時に、ひとつひとつ父なる神様の前に尋ねて応答を受けたように、神の人であるアブラムもやはり、自分自身の力と知恵を頼ったのではなく、父なる神様の前に尋ねて道を導いてもらったのです。

アブラムの善良な心


前回、アブラムが甥のロトを救う姿を通して、彼の善良な心をもう一度感じることができると言いました。自分の甥に対して最後まで責任を取り、自分ができる最善を尽くす善の心です。アブラムは甥のロトから何かの恵みを受けたわけでもなく、むしろ大きな恵みを与えた立場であるにもかかわらず、恵みを与える心が変わらなかったのです。ところが、今日は恵みを受けた人の側でも、どれほど簡単に恵みを忘れて変改してしまうのでしょうか。私たちはダビデ王の場合を通して、一度恵みを受け愛の心を受けた人に対して、どのようにするのが真理なのかを見ることができます。 

ダビデにはヨナタンという親しい友人がいましたが、彼はまさに自分を殺そうとしたサウル王の息子として、サウルの後を継いで王になる人でした。ヨナタンの立場から見れば、ダビデはヨナタン自身が得るべき王位を、代わりに占めることになる人だったにもかかわらず、ヨナタンはこのようなダビデをとても愛していました。サムエル第二1:26にダビデが告白する「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。」というほど、二人は互いに愛し合う仲でした。そしてヨナタンはダビデを殺そうとする父サウル王から最後までダビデを保護し、助けてあげました。 

このような恵みと愛を受けたダビデもやはり、後日王になった時以前に受けた恵みを決して忘れなかったという事です。王になったダビデは、すぐに恩返しの方法を見つけました。ヨナタンはすでに戦争で死んだ後だったので、サムエル紀第二9:1によれば「ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」」と言ったのです。こうして見つけたのが、ヨナタンの息子、メフィボシェテでした。メフィボシェテはヨナタンの息子でしたが、同時に自分を最後まで殺そうとしたサウル王の孫であり、ヨナタンが死んだ状況ではサウル王の後を継いで、自分の王位を狙うこともできる人でした。だから王位を堅固にしなければならないダビデ王の立場では、警戒しなければならない人物で、場合によっては跡継ぎをなくすためにも、いくらでも殺すことができる人でした。しかしダビデ王はこのようなメフィボシェテをあまりにも手厚くもてなしてあげます。
 

サムエル記第二9:7「ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」」と言ったのです。彼の祖父サウル王の所有だった畑をすべて返すということだけでも、彼にはあまりにも過分な仕打ちだと思いますが、ダビデはメフィボシェテに自分と同じテーブルで食事をする恩寵まで施したのです。それでサムエル記第二9:11の後半節「メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。」と言っています。 
    
もちろんダビデ王がヨナタンの生前に、彼から何度も助けられて恵みを受けたが、ダビデ王はこのように一度恵みを受け、また心の中心で愛したヨナタンに対して、彼が死んだ後でも彼の子孫を通して、最後まで恵みを返そうとする善良な心を持っていたという事です。人々の中には実際に恵みを受ける時は頭を下げて、「ありがとうございます。この恩を絶対忘れません。恩を必ず返します。」 このように言っていても、後で時間が経って自分の状況が悪くなれば、いつそうだったのかのように恵みを忘れる人々が多いです。しかし、ダビデはそのような人々とは全く違う、真理の善良な心が臨んでいたのです。 

アブラムの場合は、なおさら甥のロトからどんな恵みを受けたわけでもなく、ハランを去った後、常に世話をしながら恵みを施してきたにもかかわらず、このように甥のロトが大きな困難に直面することになると、再び自分の身を惜しまずに彼を助けに駆けつけたのです。神様はこのように善良で美しい心を持ったアブラムといつも共におられ、守って導いていかれました。皆さんもまさにこのような心だけを持つようになれば、誰もが神様から愛されるようになり、祝福されるようになるという事です。 

アブラムとメルキデゼクとの出会い


本文を見ると、ソドムの王が敵の連合軍を破り、すべて奪われた財産と、自分の甥であるロトとその財産とまた婦女と民を取り戻してきたアブラムを迎えます。ところが、前後の状況の説明もなく、突然シャレムの王メルキゼデクが登場しています。では、なぜここにメルキゼデクとの出会いが突然記録されているのでしょうか?この中には大きな霊的な秘密が込められていますので、一つ一つ説明していきましょう。本文18節によればメルキゼデクについて「いと高き神の祭司」とあります。ところが、実はイスラエル民族で祭司という職分が正式に登場し始めるのは、アブラハムの時代からかなり後のモーセの兄アロンからでした。神様はヤコブの12人の息子たちの中で三番目だったレビの系図の子孫の中でアロンを始め、彼の子孫たちに祭司の職分を遂行させたのです。 ところが、このように祭司の職分が生まれるずっと前に、今日の本文には祭司という職分が登場しています。 

使徒パウロはまさにこれについてヘブル7:10で説明するとき「というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。」と話しています。つまり、極めて高い神様の祭司メルキゼデクがアブラムに会ったその当時、祭司が輩出されるレビ族の先祖であるレビはまだ生まれてもいないということです。これはつまり、メルキゼデクは肉的な系図を追って立てられた祭司とは異なり、彼に祭司という職分が与えられたのには何か特別な理由があることを示しています。 

ヘブル7章11節ではこれについて、「さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです。―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。」と述べています。「位」とは、ある集団での地位、身分の上下関係などを意味します。ここでメルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司とは、大祭司でありながら、自分を神様の前になだめの供え物として捧げ、ただ一度で神と私たち人類との間にあった罪の隔ての壁を壊してくださったイエス様を指すのです。 
 
続く
ヘブル7:15-17では、「もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」」とあります。イエス様はメルキゼデクの位に等しい祭司として、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのですと言われました。イエス様がレビ部族ではなく、その流れではないユダの子孫として生まれ、私たちの大祭司になられた根拠が、まさにメルキゼデクから探しているのです。詩篇110:4にも将来この地に来られるメシヤの神イエスについて預言していますが「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」と述べています。 

朝の学び108 創世記14章  

創世記 14:1-16 
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

 

アブラムの善良な心       


アブラムは祝福を受け、かなりの勢力を持っていたとしても、いざ甥のロトが北方の連合軍によって捕虜になったという話を聞いた時、肉的に考えてみれば快く気軽に出られる状況ではありませんでした。北方の王たちの連合軍が、すでに周辺の様々な国と属国を次々と攻撃し、勢いに乗っていた時に、アブラムが連合軍を相手に戦争を遂行するということは、決して容易なことではありません。しかし、アブラムは肉的な状況を見たのではなく、すべてを信仰の目で見つめ、ロトに対しても最後まで道理を尽くす善良な心でした。もし邪悪な心を持った人だったら、「それを見ろ、良いものを先に選んで行って、結局そのような災いに遭ってしまったんだ」と、ただ知らんふりをすることもできたでしょう。また、すでに自分の方ではできる道理を尽くしたと考え、責任がないとそっぽを向くこともあるのです。ここまでは考えなくても、しぶしぶ甥っ子を助けに行く人もいるでしょう。 
    
アブラムには悪の心が全くなかったので、どうしても甥のロトを救わなければならないという善良な心で、すぐにしもべを従えて駆けつけました。自分は抜けたまま、しもべだけを送ったわけでもなく、「こんな戦争の渦中に私がここを去ったら、私の天幕はどうなるのか…···」と、自分の所有を先に心配したわけでもありませんでした。自分の所有については振り返る暇もなく、自ら先頭に立って軍を率いていきました。アブラムには何の邪心もなく、たとえロトが自分の利益を追って自分から去っていったとしても、一度自分に属した人に対しては、最後まで責任を果たそうとする善良な心があったのです。ここで私たちは神様の心を感じることができます。

ヨハネ13:1によれば「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と記されているが、これはまさにイエスが自分を売るユダに対してまでも、最後まで愛の心を抱いていたことを物語っています。イエス様は、イスカリオテ·ユダが時がくれば自分を売ることを知りながらも、「彼は私を裏切って売る人だ」と、彼を遠ざけて憎んだのではなく、最後の瞬間までも愛と哀れみの心で彼に接して下さったという事です。イスカリオテ・ユダだけでなく、将来イエス様を知らないと3回も否認することになるペテロに対しても、またイエス様が十字架を負う時になれば、恐怖で散ってしまう他の弟子たちに対しても、イエス様は最後まで愛を注いでくださいました。このような主の心のように、アブラムもまた、ロトが一時自分の利益を追って自分を去ったからといって、それによっていかなる感情も抱かなかったのです。ロトを先に理解してあげる気持ちで、たとえロトが遠く離れていても、いつも彼に気を配って、いつでも助ける気持ちを持っていました。
   
私もこのような神様の心を成し遂げようと努力し、今まで過ごしてきた歳月を振り返ってみると、いつもこのような気持ちで行ったと申し上げることができます。単純に自分の利益だけを追う人だけでなく、裏切って去って悪を行った人々までも、私はいつも彼らに善で接し、憎む心を全く持ったことがありませんでした。彼らの中に災いに遭ったり、試練や患難によって苦痛を受ける人がいるという便りでも聞くと、私の心もとても痛くて残念でした。また、特別に神様が私のそばに付けてくれて、私を助けるようにした人々に対しては、いつも彼らの細かいことまでも調べて、私の方で先に彼らに必要なもので満たしてあげたりしました。たとえミスがあって過ちがあったとしても、私はいつもそれを許して覆ってあげ、彼らがもっと力を出して果たすことができるように、最後まで愛で接してきました。主がご自分に属した人々に対して最後まで愛と善で接したように、アブラムが甥のロトに対していつも気を配って責任を負おうとしたように、私もマンミンという名前で一つになった皆さんをいつも私の心に抱いて祈っています。 

アブラムの私心のない心

      
さらに本文22-24節を見ると、アブラムがどれほど私心なくきれいな心で戦争に出たかがよく表れています。アブラムが戦争に出て勝利し、奪われたすべての所有物を探して帰ってくる時、ソドムの王がその前に出て
「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」と言うのでした。 これに対してアブラムは、「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」と言ったのです。 
    
アブラムは戦争の勝利者であり、ソドムの王に大きな恵みを与えた者として、戦争で得た戦利品を取るとしても、これが決して悪の心から始まったわけではありません。さらに、ソドムの王が直接自分からアブラムを迎えに来て
「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」と言ったので、アブラムが戦利品を取るからといって、これが非真理の心ではないということです。それでもアブラムは、自分に入ってくるいかなる私益も取ろうとしませんでした。ある財物に対する欲や私的な利益を求めようとする非真理の心が彼には全くなかったからです。 
    
また、彼はすべての祝福を父なる神からだけ受けようとしました。人の側で自分の利益を追って富を築いていくのではなく、魂が幸いであるときに、上から父なる神様から与えられる祝福だけで富を築いていったということです。ところが、アブラムがこのようにソドムの王の提案を断ったのは、人の心をあまりにもよく知っていたからです。人の心というものが真理に変化する前には、いつでも自分の利益を追って変わっていくという事をアブラムはよく知っていたのです。つまり、ソドムの王が今すぐにはアブラムに感謝し、嬉しい気持ちですべての物品をアブラムに渡そうとしたが、後で歳月が過ぎれば、その心に財物に対する欲心によって違う話をすることがあるからです。 
 
例えば、「自分は望んでいなかったが、アブラムが代価を望んだので与えた。」このように話す言葉が出てくるかもしれないということです。アブラムがこのような人の心を知っていながら、どうしてソドムの王の提案を直ちに受け入れることができるでしょうか?「
若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」ただ戦争に動員された若者たちの糧と、自分を助けた同盟軍に返す分け前の他には、どんなものも取らなかったのです。ここで私たちは、自分を助けた人々に対して責任を持って苦労に報いようとするアブラムの配慮する心も、十分に伺い知ることができます。次回は、これまで見てきたアブラムの肉的な祝福とは比較にならないほど、あまりにも大きな霊的な祝福であった神秘の人物、メルキゼデクとの出会いについて見ていきます。 
   

結論


アブラムは心に少しの私心や欲がなかっただけでなく、人の心までも十分に推し量ることができたので、ある選択をするにあたって常に正しい道を追い、善の知恵を受けました。それで、創世記23章を見ると、アブラハムは後日、妻のサラの埋葬地を求める時も、埋葬地の洞穴をただで渡すというヘテ人の提案をそのまま受け入れたのではなく、あえてそれに該当する相当な値段を払って埋葬地であるマクベラの洞穴を手にしたことが分かります。もしアブラハムが与える通りに全て受け取ったとすれば、その後に多くの困難を経験したでしょう。これは彼の心に少しの欲もなく、正当でないものを受けようとする心もなかったためであり、またこのように値段を払って確実に自分の所有にすることで、後日その所有に対していかなる是々非々もないようにしようとしたのです。

 

皆さんもこのことをよく知って、すぐにいい提案が入ってきたということで、それを絶対に取るような姿はお控えください。さらに、相手が真理に変化した人でなければ、自分の利益を追っていつでも言葉と行動が変わることがあるということを、常に真理で分別しなければならないのです。また、自分が苦労して頑張った以上を受けようとする、欲の心も捨てなければなりません。常に正当な代価だけを望むべきであり、それから行き過ぎたことはいくら良いことでも、慎んで断るのが当然の道理です。

箴言22:1「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。」という言葉のように、財物よりも名誉を、銀や金よりも愛顧を選ぶべきだということです。そして何よりも、すべての祝福は父なる神様からもたらされるという事を必ず心に留めておいてください。人の知恵と方法で祝福を受けるには、どうしても肉的な限界があり、またそれがいつ消えるか分からないからです。ただ神様から来たものであってこそ、それが永遠のことであり、この地だけでなく天にも祝福で積むことができます。今日お聞きになった御言葉が知恵となり能力になって、常に正道を追いながら善の道を選ぶことができる皆さんになることを願います。そんな時、箴言5:21に「人の道は主の目の前にあり主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」という御言葉のように、すべての人生の道を主管する父なる神様が善の道、義人の道を追う皆さんの行く道を、常に守り保障し、祝福に導いていかれますように、主の御名によってお祈りします。


   

朝の学び107 創世記14章  

創世記 14:1-16 
さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

 

はじめに
創世記13章ではアブラムとロトが別れて、それぞれの住む所に行くことになる過程を見てみました。アブラムは相手に良いものを先に譲るという広くて善良な心で行っていったが、一方ロトは自分の見る方にもっと良いものを選んで自分の利益を追っていってしまったのです。創世記14章には、このようにそれぞれ霊と肉を選んで去ったアブラムとロトが、その後にどのような結果が出るのかがよく出ています。肉を追っていったロトは戦争に巻き込まれ、大きな災いの中に陥ることになりますが、霊を追ってきたアブラムは肉的な祝福はもちろん、極めて高い神様の祭司であるメルギゼデクに出会うという、驚くべき霊的な祝福まで受けることになります。

神様の声を聞くことができず、導かれることができないまま、自分の見た目に良いように肉を追った結果は、多くの困難に遭うことになり、絡み合った状況に陥ってしまいました。反面、善の中で神様の導きを受けた結果は、神様の守りと保護の中で、富と名声まで得る幸いな結果として出てきたのです。 

肉を追うロトと霊を追うアブラムの違い       
本文1節に出てくる「時代」とはバベルの塔の事件以後、人々が言語と種族によって散らばって暮らしながら、それなりに勢力を育てていた時を言います。そのため、当時はそれほど広くない領土の中に数人の王がいて、それぞれ自分の領土を管轄していたことが分かります。彼らは自分の勢力をさらに育てるために、時には利益を求めて互いに連合したり、時には互いに戦争をしたりしましたが、本文の背景も北方に住んでいた四人の王の連合軍とソドム、ゴモラを中心とする五人の王の連合軍との戦争から始まります。

 

当時、ソドムとゴモラをはじめ、カナンの地境を占めていた王たちは、この戦争に敗れ、北方の王たちの中でもエラムの王ケドルラオメルに12年間仕えるようになりましたが、13年になると裏切るようになります。そして、そのケドルラオメルと彼と同盟した王たちは、再び連合軍を構成し、破竹の勢いでカナンの地境に向かって降りてきます。レファイム人、ズジム人、エミム人、ホリ人を順に打ちながら降りてきます。そして再び方向を変え、アマレク人とエモリ人を攻撃した後、ついにソドムとゴモラの王をはじめとする5つの王の連合軍まで敗北させてしまいます。
 
本文の
11-12節「そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。」とあるとおり、ソドムの王が北方の四つの王に敗れた時、当時ソドムの地に住んでいたロトに災いが降りかかったのです。それでは、このように北方の四人の王の連合軍によってカナンの地境と周辺一帯がほぼ占領された状況で、アブラムは果たしてどうなったのでしょうか? 
    
本文
13節「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。」とあります。これは、おびただしい戦争の渦の中でもアブラムは安全に守られていたし、戦争によっていかなる被害も受けていないことを物語っています。当時、アブラムが住んでいた場所は、エモリ人のマムレの樫の木の近くでしたが、先ほどお話しした通り、エモリ人までも北方の四人の王の連合軍によって害を受ける状況でしたが、近くに住んでいたアブラムは守られていたという事です。さらに、アブラムは滞在していた地域はもちろん、周辺で影響力を行使している人々と親交を深め、同盟していたことが分かります。

アブラムは戦争の渦中にも完全に守られただけでなく、周辺の勢力とも良い関係を維持し、自身の勢力を育てていくことができたのです。では、アブラムはどのようにして周辺の勢力とも円満な関係を維持することができたのでしょうか?これは、アブラムが神から守られ、保証される人だったからであり、常に仕える人だったからです。私たちは本文の御言葉を通して、当時のアブラムがエモリ人の人々と非常に近くに住んでいたことが分かりますが、この時、エモリ人の立場では、異邦人のようなアブラムとどうして最初から素直に良い関係を結んだのでしょうか?周辺の異邦民族がアブラムをどうすることもできなかった理由は、彼と共におられる神様を見たからです。

以前、エジプトの王に妻のサライを奪われた時に、彼がどうやって妻を探すようになったのか、噂に噂が加わったはずで、そうしながら周辺の人々も自然にアブラムと共にしながら、彼を守る神様について聞くようになりました。また、アブラムを保証しながら祝福する神様の御手を彼らも感じることができました。そのため、簡単にアブラムに触れることができず、むやみに接することもできなかったのです。アブラムはこのような状況でも、いつも周りに仕え、配慮する心でした。「私はこのように神様から守られる人だ。」と、周辺の異邦民族を無視したり、ぞんざいに接するのではなく、善良な心の中心から常に先に相手に仕えて施したのです。周りの人たちもこのようなアブラムに良い感情を持つようになり、お互いに力になってあげる関係に発展するようになったのです。

アブラムの受けた祝福
14章24節 「ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」を見ると、アブラムが甥のロトを助けに出征する時に、アブラムには自分が育てて訓練した者300人だけでなく、アネルとエシュコルとマムレもいたことが分かります。彼らはアブラムと同盟を結んだ人々で、戦争という危険な状況でもアブラムを助けるほどアブラムと強い関係を持っていたという事です。だから、アブラムが普段どれだけ周辺に仕えたかがよく分かることであり、またアブラムを保証して共にする神様が、アブラムの周辺の人々にもどれほどよく働かれていたかが分かります。このようにアブラムがいつも周りに仕えていたからといって、これが彼の力が弱かったからそうしたのではありませんでした。肉的に見てもアブラムには周りの人たちがむやみに接することのできない力と富があったことが分かります。

このような事を裏付ける内容が14-16節に出てきます。「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。」アブラムが三百十八人の勇士をしもべとして従えていたということは、その他にもどれほど多くの人々がアブラムに属していたかをよく表しています。勇士たちと一緒にいる家族や、その他の必要な人材まで考えると、この時アブラムがどれほど大きな集団を成して大きな勢力を持っていたかが分かるのです。だからアブラムがどれほど大きな祝福の中で富と権勢を享受して暮らしていたかが分かります。アブラムはこのように心強い基盤を形成し、神様がくださる祝福を思う存分受けていったので、多くの異邦の民族の間でも彼らと肩を並べて生きていくことができました。

 

ここで私たちが一つ悟らなければならないことは、アブラムは人の側でする道理もやはり全てをする人だったという事です。もちろん、アブラムがこのように大きな勝利を収めることができたのは、何よりも神様を全面的に信じて頼りにしたからですが、それでもアブラムは人の側ですることを決して疎かにしませんでした。「神様が守ってくださるだろう」と自分がしなければならないことを疎かにしたのではなく、自分自身も熱心に人々を育て訓練し、自身と自身に属した所有を守ることを疎かにしなかったということです。

 

ところが、たまにある方々は、神様の前に信頼を示すと言いながら、人の側でしなければならないことまでもしないまま、無条件に「信じます。」というケースを見ることがあります。例えば事業の場で祝福を受けることを望む方が、事業の場の世話をすることは疎かにしたまま、神様の前に「祝福して下さると信じます。」と祈るなら、これは公義に照らしてみても当たらないものです。人の側から見て回ることができるのは、あちこちを見て回って、肉的にも隙間なく仕事をしていかなければならないのです。もちろん神様の仕事で忙しくて、事業の場や仕事の場を世話できない場合もあるでしょうが、だからといってこういう場合、「知らない」と自分のすべきことまでしないならば、これは正しい信仰の姿勢とは言えません。

普段から分野をよく見て、時には自分が席を外しても仕事がうまくいくようにしておかなければならず、必要な時は、自分の代わりに信じて仕事を任せられる人を育てておくことも重要なことです。だから神様の前に信仰で委ねると言って、人の方でできることまでしないまま、口だけで「信じます」と言ってはいけないことですし、人の側でやるべきことはやるべきです。人の側ですることまでしなければ、これはまるで柿の木から柿が落ちることだけを待つ、愚かな人だと知らなければなりません。しかし、アブラムは人の側ですることに対しても常に最善を尽くす人だったので、神様がくださる祝福をよりよく管理することができ、必要な状況に直面した時に、いつでも使える人たちもよく準備ができていたので、直ちにロトを救うために出征することができたのです。 
   

朝の学び106 創世記13章  

創世記13:10-18
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

アブラムに与えた祝福


14-15節を見ると、ロトと別れたアブラムに、神様からの祝福の言葉が出てきます。「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」とおっしゃったのです。この御言葉の中には、すでに神様の計画の中に、将来アブラムの子孫として出てくるイスラエル民族を通して、どのように働いていかれるのかが含まれています。アブラムに至るまで受け継いでこさせた正統の系図を通して、選民イスラエルが出てくることになり、神様は彼らをすべての民族の上に優越して立てることで、彼らを通してすべてに完全で優れた主の名前を、人々の心に鳴り響かせるということです。イスラエル民族を通して、世界の万国の民に神様を知らせながら、計画された人間耕作の摂理を成し遂げようという意味が込められているのです。
     
このような遠大な計画と摂理を成し遂げるために、神様が選ばれた人物がアブラムだったのであり、神様はアブラムにそれだけ大きな愛と祝福を約束してくださっているという事です。彼に与えた祝福の誓約が、単にアブラム個人だけに該当するのではなく、将来出てくることになる選民イスラエル全体に対するものなので、祝福の誓約はそれだけ大きくて遠大だったということです。そして、一度与えられた祝福の約束は、この世が終わるまで永遠のものなので、神様は最後の時にもう一度聖霊の火のような働きを通して、福音がイスラエルに回帰させることで、アブラムに与えた約束を成就していらっしゃるということです。 

「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。」13章15節の言葉が、単に肉に見える地を永遠に与えるという意味ではなく、彼らに向けられた救いの摂理までも含む霊的な意味の約束なので、神はその約束を成し遂げようと、選民イスラエルを通して救い主が出るようにしたのであり、もう一度、聖霊の働きを通して父の摂理を示しているということです。続く16節では,より具体的な契約の言葉が宣言されます。「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。」と言われましたが、最初アブラムを呼びながら、創世記12:2「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」という言葉がどのようになされるのかをおっしゃっているようです。
     
人としては地のちりを数えることが不可能なことであるのと同様に、アブラムの子孫も多すぎて数えることが不可能なほどであるという意味が、まさに16節の御言葉に含まれているのです。「数えることができれば」と言われたのは、「もし数えるなら」という意味で、結局は数えられないことを強調することでしょう。ですから、この御言葉の中には、将来アブラムを通してどれだけ多くの子孫が出てくるかがよくあらわれています。ここで言われる「子孫」とは、肉の系図を追う子孫ではなく、信仰で従っていく信仰の子孫です。アブラムは将来、諸国の信仰の父としてすべての信仰の父になるので、今日に至るまで信仰によって救われたすべての人はアブラムの子孫になるのです。アブラムは、信仰によって救われる人が出るたびに、信仰の中で父となる栄光を世界の終わりまで受けるようになります。このように、信仰の父という立場がどれほど栄光の場所であり、どれほど貴重な場所なのでしょうか。神様がアブラムに与えられた約束の言葉は決して小さな祝福ではなく、人間耕作の歴史の中に一度だけある、空前絶後の祝福の契約です。 

しかし、祝福の約束はその当時のアブラムに与えた約束ではありません。彼がこれから通過しなければならない訓練までもすべて通過した後に、父なる神様の前に完全な者として出てきたときに、初めて彼を通してなされる約束なのです。しかし、神はアブラムがこれからのすべての訓練を通過し、完全な信仰の父として立つことを知っていたのでこの言葉をくださったのであり、アブラムもやはり一度神様がくださった言葉をひたすら信仰で固く掴んでいったので、この約束の言葉は一寸の誤差もなく叶うことになります。13章18節「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。」アブラムが驚くべき約束の言葉を受けた時も、神様の前に祭壇を築いたので、神様との間の約束を確証しました。前にも申し上げたように、アブラムはただ唇だけで神様に感謝したのではなく、このように神様の前に祭壇を築いたので、神様がくださった契約を完全に自分のものとして受け取ったという確証が神様との間にあるのです。

 

アブラムの告白


その当時、アブラムが神様の前にさしあげた告白をしばらく紹介します。「父よ、すべてのことの根本である方、すべてのことにおいて完全であり、すべてのことを主管しておられる、父なる神様の御前にひれ伏し賛美をお捧げ致します。小さく低き者であり、何ものでもない存在のわたしでしたが、父がわたしを愛しわたしを選び、わたしをその心に抱いて完全な者として成し遂げて下さり、唯、父の栄光の為に生きるようにして下さり感謝申し上げます。わたしに多くのことを約束し、それを忠実に守られ、この息子を通して父の永遠のご計画、そのご意思を完全に成し遂げるよう導いて下さり、心から感謝と栄光をお捧げ致します。」

この告白の中には自分を選んで完全に整え、神様の摂理のための道具として使われるようにする父なる神様に対する感謝と畏敬、そして神様の誠実な約束に対する中心からの信頼が込められています。皆様の人生の中でも毎日このような称賛と告白が溢れますように主の名前で祈ります。このように祝福の道に入るアブラムとは異なり、肉を追っていったロトがそれによって体験する苦痛の過程については、次の時間に続けて説明することにします。
   

結論    


私たちが人生の中で一瞬一瞬、父なる神の前に感謝する条件はあまりにも多いです。また、必ずしも個人に直接与えなかったとしても、祝福の約束は講壇を通して常に宣布されています。それを自分のものにして信じていけばいいのです。それで、私は父なる神様がある祝福の御言葉をくださった時、いつも私への御言葉として信じて受けました。実際に現実には見えるものが一つもない時も、誠実な神様の御言葉を信じて変わらない心で最後まで行っていった時、神様は必ずおっしゃったことを叶えてくださいました。
         
それでは、皆さんはどうですか?「目に見せてくれないと信じられない」という方がいらっしゃいますか?「手のひらほどの雲でも見えれば信じる」とおっしゃる方はいらっしゃいますか?エリヤ預言者が3年半の日照りの中で雨を引き降ろすために祈りに行ったとき、彼は雲が見えて祈りに行ったのではありません。何も見えない中でも信仰で出て行き、そうした時に神様が手のひらほどの雲を送ってくれました。
     
アブラムも同じです。彼の子孫が地の塵のように多いことをおっしゃった時に、彼に息子がいたわけではなく、息子が産まれる約束があったわけでもありませんでした。また、東西南北の見える地を与えるというお話も、今すぐ目に見える実があったわけではありません。アブラムが神様から多くの祝福を受けていくとはいえ、目に見える四方の地を取っていくには、まだ彼の力が足りない時でした。
     
このようにエリヤやアブラムは現実に何も見えない状況でも、神様の御言葉を信仰として受けたので、神様は結局彼らの信仰通りに働いてくださったという事です。ですから、皆さんは
ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」という言葉のように、望むことが実状として現れ、見えないものが証拠として現れるまで変わらない心を守っていくことを願います。このような霊的な真の信仰を所有することにより、皆さんの人生の中で「あなたの信仰通りになる」という御言葉が日々成就していきますように主の御名でお祈りします。

朝の学び105 創世記13章  

 創世記13:10-18
ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

はじめに


創世記講解を通して、信仰の父アブラハムは、果たしてどんな心を持っていたので、神に愛され、保証された偉大な人物として出てきたのかを見ています。過去の時間には、アブラムとロトの姿を通して大きな器と小さな器の違いについて調べてみましたが、アブラムは穏やかさと一緒に寛容と柔和の心によってすべてを抱くことができる大きな器だったと伝えました。私の所有、私の立場だけを考えるのではなく、私の周りのすべての人と私によって、周囲に及ぼされる影響までも考える広くて大きな器を持つアブラムだったので、彼は自分の既得権をあきらめてまで甥ロトに先に良いものを選ぶ機会を与えます。

甥のロトに「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。」という感動的な善の告白が出たのです。皆さんもこのような状況で、アブラムのような告白が心の中心から出ることができるでしょうか?マタイ5:39-41に、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」とおっしゃったように、皆さんも心の中心で喜び、このように行なうでしょうか?
     
皆さんの人生の中で「私は果たしてどんな姿なのか?」振り返ってみると、この質問に対する答えが出てきます。皆さんがとても欲しいものがあるのに、皆さんは我慢してそれを手放そうとした時に他の人が来てそれを手にしたとしましょう。この時、皆さんの気持ちはどうですか?私がいくらでも先に取れるものを他の人が取ったとしても、まったく寂しがったり、感情を抱かずに一緒に喜んで与えたりすることはできますか?また、こうすれば私が損をすることは明らかなのですが、相手は私にそれを要求します。相手が自分のほうに有利な方に引っ張ろうとするのです。この時、皆さんは明らかに損をすることだと知りながら、相手の利益を先に与えてあげられますか?二つのうち一つを先に選ぶ機会が来たとき、皆さんは躊躇せずに良いものを先に選びますか。それとも他の人の立場までも考えてみますか?皆さんの人生の中で、このような状況と選択の瞬間は頻繁に訪れるでしょう。それなら、この時皆さんは「私はアブラムのようにすることができます。」と大胆に告白することができますか?

心では成し遂げず、頭に知識だけで知っているからといって、真理として行えるわけではありません。実際に自分の利益がかかった現実に接すると、心の中にあるものが出てくるので、本当に心が霊になったときだけが、心の中心から湧き出る心で真理を行うことができるのです。たとえ心からではないが行いだけでするとしても、心の中心を見てくださる神様が、それを受けることもないのです。ですから、「こうしなければならないのだなぁ」と頭で知ることで自分を評価するのではなく、皆さんの人生の中で実際にどんな選択をしているのか、自分の姿を謙虚に点検してみてください。それで、足りない部分を発見し変化することで、皆がアブラハムのような大きな器に出てこられますように主の御名で祈ります。

肉に従いアブラムのところを去ったロトの結末  


私たちが本文を通してもう一つ悟らなければならない点は、何を選択しても肉でしてはいけないということです。ロトは自分に先に選択権が与えられると、肉に従っていったのを見ることができます。この時ロトがもし神様の前に祈って導きを受けたとすれば、たとえその心に神様がご覧になるのにふさわしくない部分に対しては、訓練を受けるだろうが、災いだけは避けることができたでしょう。しかし、ロトは自分の欲通りに肉に従っていったので、神様から守られることができませんでした。箴言5:3-7を見ると、自分の見た目に良いとおりに肉に従っていった人の結果について出ています。「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。子どもらよ。今、私に聞け。私の言うことばから離れるな。」

まさにロトもすぐに自分の見た目に良い方を選んだのが、まるで蜜のように甘く、油よりもなめらかな、みだらな他国の女の唇を追いかけたこととなり、後で途方もない災いにまでつながってしまったのです。したがって、私たちはある選択をするときに、常に霊として考えなければならないことであり、祈って聖霊の導きを受けなければなりません。教会の中で何かを成し遂げる時もそうですし、世で事業や仕事を成し遂げる時も同様です。そうでなくて肉を選んで決めていった時は、訓練が従うようになり、苦痛を受けることになるという事です。

ところが、本文10節で非常に興味深い事を見つけることができます。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」ロトが選択しようとしたヨルダンの方を、主の園のように、またエジプトの地のようだったと言いました。では、ロトが選んだ豊かで見栄の良い土地を、なぜエジプトの土地と比較したのでしょうか?

今日のエジプトを考えると、たいしたことはないように見える土地ですが、アブラハムの当時、エジプトの土地がどれほど豊かな土地だったのかがわかります。前に創世記の講解で申し上げたように、アダムが罪を犯す以前にエデンの園に住んでいた時も、アダムは私たちが住んでいるこの土地を頻繁に訪れていましたが、その時一番好んで訪れていたところがエジプトの地だったと言いました。エジプトの地は、エデンの園に住んでいたアダムが見るときにも、異国的な趣とともに美しい環境によって彼の心を引くほど魅力的な土地でした。
     
それでロトが選ぼうとしていた土地が、当時としては水が豊かで、肥えていて肥沃な土地だったので、今そこをエジプトの地にたとえているのです。これは、エジプトの地が今日のように砂漠化する前にはどれほど美しい場所であり、さらに遠い昔はどれほど水が豊かで肥えた土地であったかをよく教えてくれています。エジプトの地はアダムから最も愛されるほど美しく豊かな土地だったという神様のみことばが、今日の本文のみ言葉を通してもう一度確証されています。このように豊かで見事なヨルダンを選んでアブラムを離れたロトは、ついにソドムの地までたどりつきます。肉の考えを働かせて自分の見た目に良いものを選んでいったロトは、将来やってくる災いに気づかないまま、ますます深い苦しみのどん底に落ちてしまいました。
   
本文13節を見ると、
「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」と言うほど、ソドムの土地は罪で染まった所であったにもかかわらず、神様の導きを受けられないロトは、そのような所に向かってさらに深く入っていたのです。創世記18章19章を見ると、ソドムが神の前にどれほど悪を行っていたかがよく出ていますが、ユダの手紙1:7には「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」と話しています。当時、ソドムは霊的な姦淫と偶像崇拝に浸っており、その影響により、享楽的で退廃的な雰囲気の中で神様の目に大きな悪を行っていました。バベルの塔の事件以後、民族と言語が分かれてバラバラになった人々はそれなりに集団を形成して生活していくようになりました。その中には、神様の選びの中で系図を継承しながら、神様を畏敬する正統性を維持するところもありましたが、逆に神様の存在さえ忘れて情欲を追い、偶像崇拝と享楽に陥って暮らすところもありました。代表的なところがまさにソドムだったのです。そしてロトは肉を追っているうちに、このようなソドムにまで至ったのです。

一方、アブラムはどうでしたか?甥のロトに対して最後まで善を行ったアブラムは、ロトが彼を去った後、むしろより大きな祝福の中に出ていくのを見ることができます。ロトがアブラムを離れると、ロトはますます困難の中に陥りましたが、アブラムはますます大きな祝福を受けていきました。 これは逆に考えてみると、アブラムはこれまでロトと一緒にいることによって、より大きな祝福を受けることもできずにいたということになります。これはどういう意味でしょうか?例えば、ある家庭の中に神様の目には愛らしい人がいるにもかかわらず、その家庭全体で見れば祝福を受ける器にならないので、より大きな祝福を受けられない場合があります。もちろん愛される人に対しては個人的に祝福をくださるが、家庭全体に祝福を与えることは出来ないということです。このような場合、むしろ個人が独立をすることになれば、その後に神様が個人的にもっと思う存分、祝福を与えることができるのです。
 
これは他のすべての分野でも同様です。神様の前に合わない人とあることを共にする場合、それによって私が受ける祝福も阻まれる場合があるのです。ですから、
コリント第二6:14「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」と言われるのです。アブラムの場合は、一緒にいるロトが神様を知っているとは言え、ロトには神様の前に合わなかった分野があったので、神様はこのようなロトがアブラムを離れた後に初めて、アブラムにもより大きな祝福として働らかれたという事です。ところでロトが普通の人よりも劣る人ではありませんでした。それでも叔父アブラムのそばで見て学んだロトだったので、ペテロ第二2:8を見れば、「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」と言われた通り、それなりに神の義の中に住みたいと思った人です。それでもアブラムと比べるとあまりにも不足し、結局、肉を追いかけて去ってしまったのです。

朝の学び104 創世記13章  

創世記13:5-13
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。

器の大きさに関連する温順の心


器の大きさに関連するもう一つの徳目は温順です。温順とは、心の中から出てくる美しい善と香りによって相手を楽にし、相手の心を動揺させないようにして真理で治めていける心です。このような温順の心が臨むと、心に余裕ができ、すべてに落ち着いて施せる姿が出てくるのです。温順の心になると、安らかで、すべてが豊かな時だけでなく、困まったことになっても、心が揺れ動きません。「こうだからつらい、ああだから難しい」と気を落として不平を言うのではなくて、感謝と喜びをもって十分できます。目の前の困難より、その心に臨んでいる神様の恵みのほうがもっと大きいからです。

コリント第一8:13に出てくる使徒パウロの告白の中に、このような温順の心がよく含まれています。「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」としたのです。使徒パウロは他のすべての人々と同じように、自分が肉を食べたり食べなかったり、自分の思い通りできる権利がありました。しかし、弱い魂のために必要ならば、一生肉を食べないというくびきを、自ら背負わなければならないと言っても構わない、温順な心でした。また彼は主のために自分のすべてを捧げただけでなく、福音を宣べ伝えるのに益になるならば、主が許された権利までも取りませんでした。 

それで、コリント第一9:18-19に、「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」 これは「私がこんなことを言ったら、私がこんな行動をしたら他の人にはどのように影響を与えるのだろうか?」こんなことまでも気を配る心です。皆さんもこのような温順の心を叶え、常に相手の立場を先に考え、相手のために喜んで自分を犠牲にしてあげることで、多くの人を包容して抱くことができる大きな器にしていくことをお願いします

最後まで和平を追ったアブラハム


大きな器を持った人と小さな器を持った人とは、自分の功を表に出そうとするのか、あるいは他の人に功を回そうとするのかでも、その違いが出てきます。ロトは確かに叔父のアブラムと一緒にいたことで祝福を受けた者なのに、これに気づくこともできず、感謝することもできませんでした。しかし、この時、アブラムはロトが自分によって祝福されたという事に気づかないといって寂しがらず、ロトにそれを表そうともしなかったのです。「あなたが受けた祝福は、あなたが私と一緒にすることによって受けたものです。」と一言ぐらい言ってあげることもできますが、アブラムはそうしませんでした。これがまさに大きな器を持った人の姿です。 
     
アブラムは自分の功は表に出さないまま、すべてを神の恵みとだけ受けました。神様が守ってくださらずに、一緒にいらっしゃらなかったなら、どうしてアブラムやロトが祝福を受けたでしょうか?したがって、アブラムはロトが自分の恵みを理解できないからといって、寂しがったり感情を抱かなかっただけでなく、すべての感謝と栄光を神様だけに返したのです。ところが、ある人たちは、主の中で何かをしたとき、それを自分自身がうまく行ったように言います。自分の器が認められることを望み、他の人に自分のことを知ってもらいたいのです。これがまさに小さな器を持つ人の姿です。このように小さな器の人は、他の人が自分がしたことを分かってくれないと、それによって寂しがったり、心を痛めたりします。

 

逆に自分が負うべき責任を他の人に回そうとします。これは結局人に見せようとするものにしかなりません。私たちが何かをするにあたって、人に見せようとしてはいけません。誰も分かってくれなくても、神様が認めてくださって知っていただければ良いのです。それで、イエス様はマタイ6:1-2「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」
     
アブラムは、自分の家畜の羊飼いと甥ロトの家畜の羊飼いが互いに争ったときに、責任を他の人に転嫁しようとせず、それをまるで自分の責任であるかのように心を痛める、善良で大きな器を持っていました。そのために、まずロトに手を差し出して、平和にできる道を提示します。相手を理解して、面倒を見て平和を追う美しい心を持っていたのです。このような状況でもロトは、自分の過ちは気づかないまま、結局自分の利益を追いかけていくのを見ることができます。それも目に見えるものを選びます。つまり、肉で選んだということです。本当に神のこどもであれば、この時どうするべきかを神様に尋ねて、神様の導きを受けて行かなければならなかったでしょう。しかし、自分の欲に目がくらむと、神様の導きを受けることができません。

このように、自分というものが先に出て、自分の欲が先に出るようになれば、聖霊の声を聞くことができず、聖霊の声を聞かせても聞こうとしません。ロトもこのようにして肉を追っていった時、結果は実に悲惨なことが見られます。これから14章以下を見ていきますが、自分の見た目に良い土地を選んだロトは、ついに戦争に巻き込まれ、ロト自身が敵に捕らえられただけでなく、すべての所有までも奪われる災いに遭います。ソドムとゴモラに下された神様の審判によって、自分のすべての所有と妻までも失う悲惨な結果を迎えます。 

一方、ロトに良い土地を与えて、カナンの地に住むようになったアブラムは、その後も万事に祝福を受けていきます。アブラムは甥ロトが捕虜として捕えられた時、自分の手元で育てたしもべどもを連れて行って、四人の王が連合した敵の軍隊を破り、甥と彼の所有まで取り戻すほど、力と富と権威をあまねく備えていました。自分の利益を追い求めたロトと、善を追ったアブラムの結果がこのように差が出ているという事です。次回は、アブラムが甥ロトに譲って善を選んだときに与えられた神の契約と甥のロトを危険から救う内容について調べます。
   
私たちはしばしば二つの選択の分かれ道で、どんな道を選ぶべきかを決めなければならない状況にしばしば接します。ところが、この時どんな道を選ぶのかは、結局、心に臨んだ真理によって決定されます。自分の利益だけを考える人は、当然自分の見た目に良いものを選ぶでしょう。しかし、周りのすべての人のことまでも考える人なら、たとえ自分に不利益が来ても、すべての人と一緒に平和を成し遂げることができる道を選びます。たとえ私に不利益が来るとしても、相手の利益を先に考えてあげるのです。

これは、事業を行う時や使命をやり遂げるときも同様です。自分の考えで良い道を選ぶのと、祈って聖霊の導きを受けて、父なる神の御心を追うのとは、全く違う結果を得るという事です。いい道がすぐには得になると思うとしても、公義の中で働かれる神様は結局、蒔いた通りに刈り取るようにするのです。善を蒔いた人には善で返してくれますが、悪を蒔いた人は自分の悪によって困難に直面してしまうのです。箴言4:18-19に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。」という御言葉のように、義人は神様が握って保証するので万事順調の道を行くことになりますが、悪人は闇をさまよい苦痛に遭いながらも、なぜそうなのかさえ気がつかなくなります。
   
私たちは、アブラムとロトの姿を通して、大きな器と小さな器の違いについて見てきました。大きな器を持つアブラムはすべてのことに善を追ったので、彼の道は父なる神様が保証されましたが、小さな器を持つロトは自分の利益だけを追っていったので、神様の守りも保証も受けられませんでした。ですから、器の大きさが結局は神様の愛と保証を受ける祝福の大きさになるという事を悟ることができます。器の大きさが大きい時は神様が注いでくださる祝福も多いのですが、器の大きさが小さいときは神様のほうで与えたくても受け取る器が用意されていないのです。
     
ですから、アブラムのように広くて大きな器を作って行ってください。
箴言3:6「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」という言葉のように、凡ての事を神様に任せて導かれていくことを願います。このように、主が皆さんの道を導いて、心から準備された大きな器の中に、日々溢れる祝福でいっぱいになっていきますように主の御名によってお祈りいたします。
 

朝の学び103 創世記13章  

創世記13:5-13
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。

はじめに
人の心を器に例えると大きな器と小さな器があるように、人の心も大きな心と小さな心があります。 
また、器ごとに材質が違うように、それぞれの人の心を構成する要素も異なり、器の綺麗さが違うように、それぞれの心もきれいさの程度が違います。それでは、父なる神様が人を選ぶ器の最初の基準は何でしょうか。それはまさに器の聖潔さです。
 

テモテ第二2:20-21に、「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とおっしゃいます。器の材質も重要で大きさも重要ですが、何よりもまず綺麗な器になってこそ、貴重な器だと言われます。ところが、聖書を見ると、神様はある大きな事のために器を選ぶ時、聖潔さと共に、器の大きさも非常に重要だと見ている事が分かります。

 

例えば、出エジプトした200万人に近いイスラエルの民を導く指導者として立てられたモーセは、器が非常に大きい人でした。もちろん最初から大きい人ではありませんでしたが、神様はその器を見て呼んで、訓練して大きな器にしていったのです。それで、モーセは民数記12:3に、「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と言うほど、柔和が勝れていたことがわかります。柔和は器の大きさと直接関係する御霊の実 聖霊の実なので、徳と愛を兼ね備え、霊的な柔和が臨んだ時に、多くの人を抱くことが出来る大きな器になることができるのです。このように柔和が勝れていたモーセなので、200万に達する民を率いて、40年という荒野の生活をする間、数多くのことを経験しながらも民を抱いて忍耐し、自分の使命に耐えることが出来ました。

大きな器アブラハムと小さな器ロト


アブラムも信仰の父として立てられるためには、それほど大きな器を持たなければなりませんでした。今日の本文に出てくる事件を通しても、アブラムがどれだけ大きな器を持った人なのかを知ることができます。一方、ロトは叔父アブラムと比べると、あまりにも小さな器であることが明らかになっています。カランを離れる時から一緒にいたアブラムとロトは、所有が増え、彼らが住んでいた土地にこれ以上一緒に同居できない状況になります。多くの家畜が一緒に住むには水も不足し、牧草地も不足していたのです。そのため、アブラムとロトの羊飼いたちが互いに争う状況にまで至ります。この時、アブラムは秩序上いくらでも自分が取れる優先権を放棄し、先に甥のロトに選択権を与えます。

 

本文9節「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。前の時間に申し上げたように、ロトが受けた祝福はアブラムと共にすることで得たものでした。さらに、肉の秩序から見ても年少者であり、甥であるロトの立場では、もし自分の家畜の羊飼いと叔父アブラムの家畜の羊飼いが争ったことを知っていたら、当然どうすべきでしょうか。自分の家畜の羊飼いたちを厳しく取り締まり、あえて叔父の耳に良くない声が入らないように行動しなければならなかったでしょう。しかし、ロトは小さな器だったので、叔父のことを先に考え、叔父の所有まで考えるほど心を広げることができませんでした。自分の所有だけに関心があり、自分の立場を先に考えました。そのため、叔父のアブラムが先に選択権を与えると、すぐに自分の目により良い肥えた土地を選んで去るのがわかります

 

本文10-11節に言った、「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。とあります。では、皆さんがロトの立場になってみてください。「私は果たしてこのような状況で選択権が与えられたとき、ロトのような姿だったのだろうか?それとも叔父さんに譲る姿だったのだろうか?」

もちろん、ロトが譲歩をしたとしても、アブラムは再びロトに先に選ぶようにしたはずです。しかし、このようにアブラムが何度もロトに先に選ぶよう勧めたとしても、ロトはどうすべきだったのでしょうか?本当に道理を知って恩、恵みを知っているなら、自分が不毛な土地を先に選んででも、叔父のアブラムに良い土地を譲るべきだったでしょう。何度断ってもアブラムが引き続き薦めるからといって「私は十分道理を尽くした。」と言って、早く自分が見るのに良い土地を選ぶならば、これは本当に心の中心で恩、恵みを知っているとは言えず、自分の道理を尽くしたとは言えません。もちろん、最初から一度に良いものを選ぶ人よりましだと思いますが、本当に叔父のアブラムに対する恩を知り、感謝するならば、たとえ先に選ばなければならない状況になったとしても、決して自分にとって良い土地を選ぶことはできません。ところが、ロトは拒絶や譲歩も一度もなく、自分の見た目に良い土地を選んで去って行ったので、彼の誤りがどんなことなのかがよくあらわれています。
 

しかし、このような状況でも、アブラムの心はどうでしたか?ロトがこのように自分の見た目にもっと良さそうな土地を選んで去ったからといって、その心が悲しんだり感情を抱いたのではなく、ロトに対して何も引っ掛かるものもなかったのです。それは彼の心に平安がいっぱいなので、与えてもまた与えることができる心だったからです。心の中心で相手に仕えるので、自分が受ける権威を与えることが出来、むしろもっとくださいと言っても喜んで与えられる寛大さがあったのです。

これがまさに柔和と共に、器の大きさを決定するのに直接関わる、寛容の心に該当するものです。寛容は、心が真理に変化するだけに臨む、豊かで余裕のある心から出てくるもので、真理が心に豊かに臨みながら、同時に真理の自由さがあるため、自分が持っているものをすべて、出してあげられる心のことを言います。このような寛容の心が臨めば、すべての人とともに和平を成し遂げ、徳を立てようと努力するので、結局多くの人を抱く大きな器になるのです。

器の大きさを決める柔和と寛容の心


それでは、皆さんの心はアブラムと比べて、果たして寛容の心がどれだけ臨んでいるのでしょうか?例えば、皆さんが10を持っているとしたら、それを求める人には、果たしていくつまで渡すことができますか?たった1つか2つだけ与える方もいるでしょうし、5つくらいまではあげる方もいるでしょうし、本当に心を広げて9つまであげることができる方もいるでしょう。しかし、アブラムは心の中心で相手が10をくれと言えば10を全部与えられる心でした。
     
各組織のリーダーが新しく選出され、教区や宣教会を担当する主のしもべも新たに任命されたり、席を変える場合がありました。そのため以前にリーダーだった方々の中に、来年はしばらく使命を離れるようになった方もいて、数年間担当した所を他の方に渡さなければならない場合もありました。そのような時、皆さんの心を一度チェックしてみてください。だからといって、必ずしもそのような方だけを点検してみるのではなく、皆さんが「私が果たしてその立場だったら、私はどうしたのだろうか」と自分の心を点検してみてください。
     
私は以前、使命を10個持っていましたが、その中の1つを渡すようになった時、または2つを渡すことになったとき、皆さんの心はどうでしょうか?または、5つを渡すことになったら、もし10個をすべて渡すことになったら、皆さんの心はどうでしょうか?このようなそれぞれの状況で皆さんの心がどうなのかを点検してみると、「私の心の器はどの程度なのか」ということを自らが悟ることができるでしょう。また、ある人が受けもっていた使命や立場を他の人が代わりにすることになった時に、その人の次の行動がどうなのかを見ても、その人の誤りが分別されます。

例えば、使命が他の人に移った時に、「あの仕事はこれ以上私の仕事ではないから、私は何の関係もない」として、以後全く関心さえ持たない人と、「私がたとえその使命を手離したとしても、新しく引き受けた方が使命をうまく担えるように、私が助けられることは最善を尽くさなければならない」という人とは、その器が天と地の違いです。ところが、もし他の人に使命を渡した時、もしも「まあ、どれほど上手なのか見てみよう」というこのような心を持った人がいるならば、彼は自分自身の心がどれほど非真理なのかを悟って、今からでも真に神様の前に悔い改めなければなりません。 

では、新たに使命を任された方の立場としては、どのような心を持つべきでしょうか?新たに使命を任され引き受けた方でも、自分の心に誤りを点検することができます。例えば、新しい使命を引き受けた時、「今は私がリーダーになったから」という気持ちで、もし以前のリーダーの方に仕えることが出来なければ、これもまた自分の誤りを自ら表すのです。また、使命に対して選択権が与えられた時、目に見える良いものだけを選んで持とうとすれば、これを通してもまたその心を点検することができます。
     
大きな器を持った人なら、なんとか力を合わせてもっとうまくやっていけるように、前にリーダーだった方に対してももっと仕える心で行っていきます。そして、目に見える使命だけを引き受けようとするのではなく、むしろ他人が引き受けようとしない使命があれば、それに仕える心で先に選択できなければなりません。このような状況を迎えた時、皆さんの心がどうなのかを点検してみることで、皆さん自らが「私の心には寛容がどれだけ臨んでいるのか?」「私はどれくらいの大きさの器を持っているのか?」を発見することができます。 

皆さんはたくさんの言葉を聞いたので、どうしなければならないのかを頭では理解できます。しかし、いざ現実に直面すると、各人のあやまちが如実に明らかになります。アブラムのように行う人もいれば、ロトのように行う人も多いのです。本当にアブラムのように行える人なら、彼は神様から愛されるしかなく、祝福されるしかないのです。自分のもの、自分の所有だけを考える小さな器の心なら、このような人は神様の前でもケチにならざるを得ず、結局神様から祝福を受けることも難しいということを知らなければなりません。このように祝福も結局は器の大きさに合わせて与えられるのです。
   

 

朝の学び102 創世記13章  

創世記13:1-10
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

祭壇を築いて祭事を捧げたアブラム


本文3-4節に「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」彼がネゲブから旅を続けてベテルに至り、ベテルとアイの間に天幕を張った所に来ると、彼が初めて祭壇を築いた所なので、「その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」とありますが、これは彼が以前に祭壇を築いたところに至り、再び神様に祭壇を築き、感謝の祈りを捧げたことを物語っています。

これまで心深く悟ることができなかった繊細で優しい神様の心を悟ったことに感謝し、自分の道を導いて試練から救ってくださり、むしろ以前よりもさらに大きな祝福を与えてくださった神様の前に感謝の祭壇を築いたのです。ただ、唇だけで「神様、ありがとうございます。こんなことに気づきました。」と告白したのではなく、このように父なる神様の前に祭壇を積み上げたことで、自分の告白と悟りを確証したのです。自分がした感謝の告白を自らも自分の心の中心に刻むと同時に、神様の前にも、自分の感謝の心を神様が喜んでもらえるような美しい香りを捧げたということです。

ところが、今日多くの人々は、神様の恵みを体験し、神様の祝福を受けながらも、神様の前に祭壇を築くのを惜しいと見ています。ただ唇だけで「感謝します」と言ったり、神様の前に適当に感謝することで終わってしまいます。しかし、真の感謝は一方的なものではなく、相互に行われなければならないという事です。私の側でだけ「この程度の感謝をすればいいだろう」ということではなく、受け取る側でもその感謝の気持ちを感じて認められるようにしなければならないということです。
     
ですから、私たちの方で適当に感謝を表したからといって、神様の方で無条件に受けるのではありません。本当に神様に欽香のような香り(杉粉をベースにした古典的な香り)で神様の前に捧げた時に、神様もその心の香りを受けられて、私たちの感謝を認めてくださるのです。そして、このように神様が認めてくださる時こそ、真の感謝として天にも積まれるのです。アブラムはこのような事実をよく知っていたので、創世記12:7を見ると、神様が現れ、
「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言われた時も、そこに自分に現れた主のために真心をこめて祭壇を築きました。

 

 創生記12:7 「そのころ、主がアブラムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。このように祭壇を築き、祭事を捧げることで、神様が自分に与えた約束の言葉を神様との間で確証したのです。

 
ところが、今日の本文にアブラムが初めて祭壇を築いたところに至って、もう一度祭壇を築いて祭事をささげながら、主の名を呼んだ時は、彼の心が以前に祭壇を築いた時とはかなり違いました。もちろんアブラムは以前にも神様の前に熱心に祭壇を築く人でしたが、その時はただ祖先から聞いて学んだ通りに行ったのでした。「このような時はこのように祭壇を作って、祭事をささげるべきだ」と先祖から聞いて教えられたとおりに行ったという言葉です。しかし、今は心の中心を載せて祭壇を築き、感謝で賛美し、聖なる神様の御名をお祝いしたという事です。

まさに訓練を受ける前と訓練を受けた後に、このように驚くべき変化が起こったのです。祭壇を築くその中心、心が以前と今は全く違っていました。以前は学んできたとおり行なったと思いますが、今は心の中心で感謝する気持ちで祭壇を築いたのです。このように、アブラムは一度の訓練を通して多くのことが砕かれて壊れ、神様に対する愛と信頼も、まさに神様が望んでおられる心の香りとして捧げ、神様に認められる者になったのです。そして今はすべてをただ父なる神様の御心と導かれることに任せていく人になりました。

訓練の後に成熟したアブラムの信仰


本文5節以下を見れば、アブラムの成熟した信仰の姿がよく現れる事件が出てきます。アブラムには甥ロトが一緒にいたのですが、アブラムの所有と甥ロトの所有がしだいに増えると、彼らが住んでいた土地に二人の所有の者たちが同居できない状況に至りました。6節「その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。」と話しています。そうするうちについにアブラムの家畜の羊飼いとロトの家畜の羊飼いが互いに争う事態まで発生します。
 
これに対しアブラムが最初に出て、ロトに言った
8-9節「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ということでした。するとロトは目をあげて周りを見回した後、自分の目で見て良い土地を先に選んで選択しました。彼が選んだ土地はソドムの土地でした。
     
アブラムが初めてカランを去ったとき、ロトは叔父に従う状況でした。自ら独立できる立場でもなく、豊かな所有を持ったわけでもありませんでした。ところが、今日の本文に見ると、ロトも多くの牛や羊と幕屋を所有し、アブラムと一緒に同居できなかったことを見ます。これはロトがアブラムと共にカランを去った後、それだけ多くの祝福を受けていったことを物語っています。アブラムの所有が豊かになったことで、一緒にしたロトも所有が増えることができたのです。つまりロトの祝福は結局アブラムと共にすることによるものだということです。ロトがアブラムと共にし、アブラムに属した者になったので、彼の所有がアブラムの所有と共に神様から守られることができたという事です。
     
では、このようなロトの立場で、自分の牧者と叔父アブラムの羊の牧者が互いに争う状況になったとき、どうすべきだったのでしょうか。当然、自分が先に叔父に譲って退くのが秩序の上でも道理の上でも当然なことでした。しかし、ロトはそうではありませんでした。これは肉的な面から見てもまったく秩序に従ったことではなく、目上の人に仕えることもできないことでした。霊的な面から見ると、なおさら真理に合わないことでした。霊的な秩序上においても、ロトは当然アブラムに仕えるべきだったが、そうではなかったということです。結局、ロト自ら、自分がアブラムによって受けた祝福に対して感謝を悟ることもできずにいたことを知らせているのです。
   
このような状況でも、アブラムは「ロト、あなたが私によって裕福になり、あなたが私によって神様から守られた」とは言わず、少しの寂しさや感情も抱いていませんでした。むしろ甥に先に選択権を与えながら
「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。ところでロトは一度の遠慮や譲歩もなく、すぐに自分の目に映る良い土地を選んでしまいました。これがまさに器の違いから来る様子です。アブラムの器とロトの器がはっきりと比較される事件でしょう。ロトもアブラムに劣らず、祖先から神様について聞いて学び、真理について聞いて学んだにもかかわらず、アブラムと比べるとあまりにも小さな器であることが明確にあらわれているのです。

もちろん、ロトが目に見える大きな罪を犯したわけではありませんが、彼は器が小さい人だったので、すぐに目に見えるもの、すぐに自分の利益に合うことだけを考えていたので、このように自分の欲を追った結果、結局、苦痛の道に進んでしまったのです。もしアブラムがロトと同じような立場であったなら、おじの立場を先に考えたはずで、自分の所有だけを考えるのではなく、おじの所有までも調べたはずなのに、ロトはそうしなかったのです。今度は、アブラムとロトを比較しながら、大きな器と小さな器の違いを見て、ロトの選択が後日どのような結果をもたらすかを見ていくことにしましょう。

結論


人々の中には物質を十分に持つようになったときに心に余裕を持ち、自分の所有を他人にも施すことができる人がいるかと思えば、むしろ物質に余裕ができるほど心が固くなり、ケチになる人もいます。これがまさにその器の違いです。器の小さい人は、私のもの、私の所有、私の立場、私の都合など、自分と関連したものだけに視野を限定させるので、それ以上のものを見ることができません。他の人の立場を考えることもできず、他の人の境遇や立場を振り返ってみることもできず、他の人の心を理解することもできません。自分の利益だけを考えて執着するのです。だから他の人ともぶつかるしかなく、その中に人々が宿ることができません。このような人が権勢や力を持っている時、表向きにはその前に従うように見えても、本当に心の中心から従う人を得ることは難しいのです。
     
反面、器が大きい人は私の立場、私の都合、私の所有、私のことだけを考えずに、私よりも先に他の人の都合と立場までも察しながら、私の所有、私のことだけを主張するのではなく、他人の所有と利益までも調べることができる広い視野を持っています。だからこのような人の中には、多くの人が宿るようになり、ともに、豊かな祝福を受けていくようになります。アブラムと一緒にいたロトが祝福を受けたように、大きな器を持った人と一緒にすれば、一緒にいる人までも祝福を受けるのです。
 
それでは、皆さんの人生はどうですか?多くの人が皆さんの中に宿っていますか?皆さんと一緒にいる人たちが祝福を受けていますか?続く創世記講解を通して、信仰の父アブラムがどのようにしてすべての信仰者の父として立てられたのか、また、彼と一緒にした人までも祝福を受けていくことができたことを悟って、皆さんの人生の中にも、神様に愛され、保証された証拠が 、毎日あふれることを願います。それで皆さんを通して、御父の神様が栄光を受け、皆さんにも限りない祝福が下されるように、主の御名でお祈りします。

朝の学び101 創世記13章  

創世記13:1-10
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。

はじめに

人々は時々あまりにも重要なことであるにもかかわらず、それが周りに常にあるという理由で、その大切さを普段はよく感じられないことがあります。そうしているうちに、ある日それが突然消えてしまうと、その時になってようやく、その大切さに気づき、後になって後悔したりもします。また、大切なことも知っていて、貴重なことだとあまりにもよく知っているのに、あるきっかけを通して、もう一度その大切さと貴重さを心の底から感じて悟る場合もあります。

例えば、家族はいつも一緒にいる人なので、普段は家族一人一人がどれほど大切なのかをよく感じることもできません。そうしているうちにある日、家族の中の一人が何らかの事情によって遠く離れてしまうと、普段気付かなかった大切さを感じるのです。このような場合、別れが、その時は心に寂しさや悲しみを伴うものですが、それがむしろ家族の大切さを悟らせてくれる大切な機会になり得るのです。もちろん、この時家族だからといって、必ずしも肉的な家族だけを意味するわけではありません。マタイ12:50に、イエス様は「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と、おっしゃったとおり、真の家族とは、主の中で共に神様の子供になった信仰の兄弟、姉妹たちです。将来、天国でも永遠に共に生きていく人々は、まさに信仰の中で兄弟、姉妹の聖徒たちなのです。ですから、家族だからといって必ず肉的な家族だけを考えるのではなく、主の中で兄弟、姉妹になった一人一人がどれほど貴く大切であるのかを知らなければなりません。

ところが、このように大切な存在に対して、普段は心に深く感じることができず、ある試練や訓練を通して感じられるようになったとすれば、その試練や訓練は本当に貴重なものだと言えます。試練や訓練がすぐにはちょっと大変で、心が痛むことがありますが、それをうまく通過すれば、他の何ものでも得られない、貴重な悟りと能力を得ることになるからです。アブラムも妻のサライをエジプトの王に奪われましたが、再び訪れる訓練を通して、とても重要な悟りを得るようになりました。それはまさに神に対する悟りでした。

奪われた妻を再び得たアブラムの告白


アブラムは幼い頃から祖先を通して、神について多くのことを聞いて学んできたので、自分自身は「神についてよく知っています」と考えることができました。しかし、いざ現実に試練が迫ってくると、アブラムはそのようによく知っている神様、すなわち全知全能であり、すべてを主管していく神様だけを全面的に頼れないまま、自分の知恵と考えを働かせてしまいました。そうするうちに、自分の力では解決できない大きな困難に直面することになったとき、まさに神様が彼を救ってくださったのです。これから、神様の知恵と方法で大きな困難から劇的に抜け出したアブラムが、神様にささげた告白をしばらく聞いてみましょう。神様が教えてくださったアブラムの告白です。

「人の知恵が愚鈍であり、神の知恵に従うことができないことを悟らずに、人がどうして真実に神の心を知ることができるでしょうか。今やまことに私の心に深く刻まれた、その方に対して悟ったことがあり、それ故に私の魂が満ち足りて喜びと感謝であふれるのだ。たとえ人の考えが奥深いとしても、神様のお考えと計画と比べてみると、それは鈍くて愚かなことに過ぎず、それをもっては、すべてが十分に成し遂げることができないことを私は悟った。神様のお考えと計画なさることはとても奇しく深みがあって、人間の知恵では及びもつかない。あまりにも高く偉大なるその方に私の愛と感謝の賛美をささげます。

私といつも共におられ、私を治め導いて下さるその方のその心を、今まで私は知ることができなかったが、私を愛して下さるその方の心をこのように深く悟れるようにして、人の考えがどれほど愚鈍で愚かなのかを悟らせて下さった、その方の御名を讃えます。以前から私の心の奥深くにおられ、いつも私と共にいてくださったその方に対して、今になってその深い愛と忍耐と慈しみを感じるようにされた、その方の御名を褒めたたえ、深く称賛します。

私の魂を満ちたらせ、わたしを導かれるお方、その方にわたしのすべてを頼ってお願いすると、その方は一寸の誤差もなく、すべてのことを完全になしとげられる。それ故、私の唇は私の心の中心から、私の愛するその方への告白で満ちています。わたしの魂を満ちたらせ、私の魂を幸いにされ、私の心の奥深くにその方を刻み、愛するようにされたその方の麗しい御名を賛美し、すべてのことで栄光を捧げ感謝申し上げます。」

私たちはアブラムの告白を通して、彼が訓練を通過しながら、どれほど貴重な悟りを得たかが分かります。第一に、人の知恵と考えというものがどれほど愚鈍で愚かなものなのかを悟り、第二に、父なる神様の広大さと偉大さが極めて高い方であることを心から悟るようになりました。また、三番目には、このような神様が自分を守り、保護して下さり、とても良くて、優しくて、繊細な父なる神様の心を悟りました。アブラムは、神様がいつも自分と共におられるということを知っていましたが、この訓練を通過して、初めて神様がどれほど繊細で優しく、今まで自分のすべてを導いてくださり、また今も導いて行っておられるかを心の中心で悟るようになったのです。
   

喜びと感謝で訓練を受ければ祝福


このようにアブラムにとって今回の訓練は、これまで聞いて学んで知っていた神様に対して、本当に心深く悟り、心の中心に刻み、これからは神様だけに全面的により頼むことになる大切な機会となったのです。そして、自分を発見して徹底的に自分を壊す機会になりました。それだけでなく、アブラムはこの訓練を通過し、その所有物が豊かになる祝福まで受けました。この一度の訓練を通して、霊肉間に驚くべき祝福を受けるようになったのです。これがまさに訓練を許される父なる神様の深い御心です。訓練を許す理由は、私たちを大変にさせて難しくしようとするのではなく、アブラムのように私たちにも、霊肉間に祝福を与えるためだということです。ところが、アブラムのように、訓練を通して霊肉間に祝福を受けるためには、まさに訓練を喜びと感謝で通過しなければならないという事です。
     
アブラムは妻のサライを奪われる試みの中でも、神様の前に喜んで感謝しました。もちろん、自分の知恵と考えを働かせ、結局妻を奪われるようになったことについては煩悶して苦しみましたが、「なぜ私にこういう訓練がやって来るのですか?神はなぜ私を守ってくださらなかったのですか?」このように神様の前に寂しがるとか不平をいうことは、決してなかったのです。アブラムはこのように喜びと感謝で、神様が許された訓練を受けたので、訓練を通して大きな霊的な祝福を受けることができたという事です。
 
そして、このように霊的な祝福を受けることになると、魂が幸いとなるように、すべての点で幸いとなる法則によって、肉的な祝福も自然に一緒についてきたのです。アブラムがエジプトに入る時よりはるかに多くの所有物を得て、それを持ってエジプトから出ることができたのです。これも神の計画された摂理でした。アブラムが神の御言葉に従い、生まれ故郷の父の家を離れる時、彼がカランから集めたすべての財産を持って出たとはいえ、当時彼の財産は多くのものではありませんでした。そのため、神様はアブラムが訓練を通過し、魂が幸いとなると同時に、肉的な祝福もあふれるようにするために、エジプトの最高の権力者であったバロを訓練の道具として使ったのです。
 
それほどまでの権力者を通して訓練を受けられるようにしたのですから、祝福もまた大きいものではないでしょうか?ダニエルや三人の友人も、王を通して訓練を受けているので、素晴らしい祝福を受けました。
創世記12:16「パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。」を見ると、エジプトの最高権力者であったバロは、サライを取りながら、その代価としてアブラムに多くの羊と牛とろばと男女の奴隷、雌ろば、らくだを与えたが、妻を再び取り戻すことになったアブラムは、この時得た所有までも一緒に持ってエジプトから出ることができたのです。 

それで、今日の本文2節を見ると、「アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」と語っています。このように、神様は神様の知恵の中で、人が想像できない方法で、アブラムに霊肉間に祝福の道を開いてくださいました。人が神様の前に何か過ちがあったり、悪を行なって災いが来たときは、神様の前に悔い改め立ち返ったとしても、以前の状態に回復するだけがぎりぎりです。しかし、ある悪を行ったり過ちがあったからではなく、霊的な祝福を与えるために許された訓練は、その訓練を通過した後に必ず、以前より加えられた祝福が与えられるようになります。
     
アブラムの場合は、神様の前にある悪を行ったわけでもなく、大きな過ちがあって訓練を受けたのではなかったので、彼が訓練を通して自分の弱さを悟り、神様の前にすべてを頼った時、神様はアブラムに以前より大きい祝福で返してくださったのです。ところが、アブラムがこのように訓練を通過し、霊肉間で祝福をともに受けることができた理由は、訓練を受けるアブラムの心の態度でした。先ほどお話しした通り、アブラムは訓練の中で文句を言ったり、恨んだりせず、喜びと感謝で訓練を受け入れました。そしてこのように感謝で訓練を受けていくアブラムに、神様は訓練の中でも不足することなく、常に溢れる祝福を与えて下さったのです。
 
誰もが完全になるまで訓練は受けるのですが、その訓練をどのような姿、どのような態度で受けるかによって、祝福の中で訓練を受けることもあり、あるいは困難の中で訓練を受けることもあるのです。また、アブラムはその後も信仰の父として立てられるまで、自分に与えられた訓練を喜んで感謝して受けています。アブラムはその心の中心がまっすぐで誠実で正直な人として、常に喜びと感謝で訓練を通過していったので、彼は訓練の中にも神様の愛を受け、すべてにおいて善を成しとげ、物質の祝福も溢れるように受けることができたのです。 

それでは、みなさんは自分自身を振り返るときに訓練の中でどんな思いをされたでしょうか?「私はアブラムのような心の中心ではないから…」と言いますか?    私は今までどんな訓練が来た時でも、一度も恨んだり文句を言ったり、「つらい」と言いませんでした。真実な神様を信じて、ただ喜びと感謝で勝利していきました。人としては耐え難い訓練の時間もありましたが、神様はそれが「祝福の訓練だ」とおっしゃったので、一度もその言葉を疑ったことはありませんでした。私の力では私の能力ではできませんが、「私に能力をくださる御方の中では、私はすべてのことができる」と告白し、すべての訓練を通過してきたのです。それで、たとえ訓練を受けている中だとしても、私はいつも不足することなく祝福を受けて行き、権能も日に日に増していきました。ですから、皆さんも「私もできます。」と告白し、どんな訓練でも喜びと感謝で受けて、神様に栄光を返してくださることを願います。

同じ訓練が与えられたとき、それを感謝で受ける人と労苦して受ける人とは、訓練を通過した後、祝福の程度も違うだけでなく、神様を愛する心もまったく異なるという事を悟らなければなりません。本当に真っ直ぐな中心を持つ人なら、本当に父なる神様を愛する人なら、アブラムのように、他に聖書上の多くの人物のように、訓練を感謝することで受け取るでしょうし、このような人には、神様も必ず訓練の中でも、常に愛の証拠を示してくださいます。訓練の中でも感謝と喜びで蒔いたので、神様もこのような人には感謝の条件をあふれるように、蒔いた通りに収めるようにするのです。

朝の学び100 創世記12章  

創世記12:10-20
さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

妻を奪われる二番目の類似事件との違い


ところが、アブラムの場合は、後日、本文に出てくる事件と非常に類似した事件をもう一度体験することになります。創世記20章に出てくる事件として、今回はアブラハムがゲラルに住むとき、そこの王アビメレクに再び妻を奪われる事件が発生したのです。この時も原因を見ると、本文に出てくる事件のようなことがわかります。まさにアブラハムが自分の妻を「私の妹」と言ったのです。ですから、ゲラルの王アビメレクはアブラハムの妻サラを取ろうとしたのです。

 
それならおかしくないですか?創世紀20章では、すでに神様がアブラムに諸国の父という意味で、その名をアブラハムと直してくださった後でした。さらに本格的な訓練を受け始めたばかりの初期の時でもなく、すでに訓練が始まってから24年が経って、完全な信仰にそれほど近づいた後でした。それでも、アブラハムは以前に肉の考えを働かせて経験したのと同じ訓練をもう一度受けていたのです。
     
それでは、なぜこのことが起こったのでしょうか? 表面的には、同じように見える2つの出来事が霊的には非常に大きな違いがあることを知らなければなりません。ある人々はアブラハムが同じ間違いを2回もしたと言いますが、なぜアブラハムのような人物が神の前に同じ間違いを2回もしたのでしょうか?今日の本文に出てくる事件は、アブラハムが肉の考えを働かせて自ら招いた訓練だとすれば、創世記20章に出てくる事件は、神様の御心と摂理の中で許された訓練であり、この訓練は神様が目的としたところがあり、アブラハムをそのように主管して行なわれたという事です。すなわち、アブラハムが再び以前のように肉の考えを働かせて、妻を妹と言うことで妻を奪われるようになったのではなく、むしろこの事件を通してアブラハムを広く知らせ、神様が栄光を受けるために許された神様の摂理の中にある事件だったということです。 
     
今、創世記20章全体の内容をすべて見ることはできませんが、この時も神様が直接干渉することで問題を解決していきました。アビメレクの夢に自ら現れ、彼が取ろうとした女性が誰であり、アブラハムが誰であるかを教えてくださいます。
創世記20:7に、「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とこのように恐ろしい話をされたのです。本文の場合のように、アブラムが神様に懇願して神様が干渉してくださったのではなく、神様の側でまず夢を通して働かれたのです。
   
ですから、創世記20章の事件が起きた時は、アブラハムは今日の本文のように慌てたり苦しんだりしませんでした。すでにすべてが神様の摂理の中で、神様が主管していらっしゃるという事をアブラハムも感じていたので、すべてを神様に任せたまま、神様の導かれるとおり従ってゆきました。そして時がたつと、アブラハムは神様の導きに従順し、問題を解く決定的な役割を果たすようになります。
     
まさに
創世記20:17-18に示すように、「そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」アブラハムは神に祈りました。 そうです。この言葉を通してわかるように、神様はアビメレクがアブラハムの妻サラを取ろうとしたことで、その家のすべての胎を閉じました。そして、このようなアビメレクにアブラハムを送り、彼らのために祈るようにすることで、再びその家の胎を開いてくださいました。
     
これはまさに、アブラハムにとってアビメレクの家の問題を解決してあげる解決者のような役割を果たすことで、彼らにアブラハムがどんな人なのかを分かるようにするための、神様の計画された摂理だったことを知らせてくれます。家のすべての胎が閉じられて苦しんでいたアビメレクに、アブラハムが行って祈ったとき、胎が開く癒しのみわざが現れたので、これを見たアビメレクとその周辺の人々にアブラハムがどんな人に見えたのでしょうか。

さらにアビメレクの夢にまで、神が自ら現れて、アブラハムが預言者であることをおっしゃって、アブラハムの祈りに直ちに答えてくださったので、彼らは、アブラハムは神様の保証を受ける人で、敢えて自分たちが手をつけられないすごい人だという事が、彼らの心に深く植え付けられるようになったのです。また、このようなアブラハムと共におられる神様に対しても、彼らは恐ろしくて震えるしかなくなり、神様の力の前に栄光を捧げざるを得ませんでした。
   
このように、一見すると同じ事件のように見える二つの事件が、霊的には非常に大きな違いを持っているという事です。霊的な分別力なしに見れば、同じミスを犯したように見える二つの事件ですが、一つ一つの過程と結末を調べれば、今日の本文の事件と創世記20章の事件は、アブラハムに対する神様の保証と愛が全く異なる次元で起こった事件であることがわかります。このような事をよく知って、たとえ表向きには、同じ訓練のように見えても、その訓練を許される神様の摂理と計画は全く異なることがあることを知らなければなりません。

 

例えば、同じ試練が二人に来たとしても、ある場合は罪を犯して、神様との行き詰った壁のために守られなかった場合があるかと思えば、ある場合は十分に守ってくださるにもかかわらず、より大きな信仰と成熟した信仰に成長させようとして、守ってくださらない場合があります。その事情は神様だけがご存じです。したがって、人の側で何かを持って自分の任意に判断したり、罪に定めることが、神様の前にどれだけ大きな罪であるかを知らなければなりません。妻のサラを奪われる大きな訓練を、神様の繊細な愛と導きの中で通過してきたアブラムは、以前とは違う、より成熟した信仰の段階に入ることになります。次回は、続けて13章から見てみましょう。

結論


アブラムはこの訓練を通してこれまで聞いて学んで知っていた父なる神様という方の繊細で優しい干渉を身近に感じるようになります。神様はアブラムが考えを働かせたからといって叱責して、叱ったのではなく、アブラムが神様に対して感じて悟ることができるように、彼の道を一つ一つ繊細に導かれました。皆さんもこのような神様に会って体験してください。神様はあまりにも愛が多く、優しくて、繊細に私たちを導いていかれる、私と皆さんの父であるという事です。もちろん、お父さんであるので、皆さんが肉の考えを働かせて、父なる神様の御心と反対に行っていくときには、それによって神様が叱責したり叱ったりする時があります。 ただ、アブラムの場合は考えを働かせて悪を行ったり、神様のみことばに従順しないことはなかったので、神様があえて叱責する必要はありませんでした。アブラム自身が気づくように導いていったのです。 

しかし、肉の考えを働かせて神様の御心に不従順になったり、悪が発動すれば、これによって神様の責めや叱責を聞いたとき、むしろ喜んで感謝しなければならないでしょう。へブル人への手紙12:7-8に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とおっしゃるとおり、時には懲らしめられるのが神様の愛であるからです。ですから、本当に父を愛する子供なら、自分が間違って懲戒を受けたときに、それによって寂しがったり落胆するのではなく、その中に込められた父の愛を感じなければなりません。
     
子供がある過ちをしたときに、それを見てもそのままにしておく親がいるならば、子供の立場でそれがしばらくの間は楽に感じられるかもしれませんが、時間が経つと自分に無関心な親に対して「親は私を愛していないようだ、私がこんなに悪い道に行くのにそのままにしておくのだ」と言って親の愛からさらに遠ざかることになります。すぐには責められて懲戒されることが心に辛く感じられるかもしれませんが、それが愛であることを知らなければなりません。ですから、皆さんも、すべてのことにおいて皆さんを干渉しながら、導いていく父なる神様の愛を感じることで、常に父なる神様の恵みの中に住むことを主の御名でお祈りします。

 

朝の学び99 創世記12章  

創世記12:8-20
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。。

妻を奪われる訓練を受ける前、アブラムの告白  


神様があることをおっしゃる時、人の側で従順できなかったり、信仰にならない場合には、御言葉が成就するのが遅れることもあります。しかし、神様がおっしゃった御言葉は、創造の初めの声なので必ず成就されます。ただ、それがすぐに成就することばなのか、それとも時間が経ってから成就することばなのか、こういう違いはあります。 

例えば、イエス様が病気を治す時も、常に初めの声を発せられましたが、ほとんどその場で直ちに癒され、神様に栄光を捧げましたが、ルカ17章に出てくる十人のらい病人の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われた御言葉に従順して行った途中で綺麗に癒されました。このように、本文に神様がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」とおっしゃった御言葉も、すぐに成し遂げられる言葉ではなく、400年余りが過ぎた遠い後日、モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を征服していくようになって、なされる御言葉だったのです。

私が初めの声を発する時もこんな感じです。すぐにその場で行われ、働かれることが多いですが、時には時間を置いて待たなければならない場合もあります。そして、この時御言葉を受ける働き人の方が、どれほど信仰を持って受けて自分のやるべきことを行っていくかによって、御言葉が成就する時間がさらに長くなることもあり、短縮されることもあります。この時も問題になるのがまさに自分の考えを働かせることです。だから、神はアブラムにこの考えを破る訓練をさせてくださいます。まさに妻のサライを奪われる訓練でした。この訓練を通して、アブラムは自分の考えを徹底的に壊すきっかけになりました。


神様のみことばに直ちに従順だったアブラムでしたが、実際に自分の命がかかった状況になると、神様だけを全面的に頼ることができず、つい自分の考えを働かせたのです。これは、アブラムが神様はどんな方なのか分からないからではありません。アブラムが妻を奪われる訓練を受ける前に、彼が神様の前に祭壇を築いて告白した内容を聞いてみると、アブラムが幼い頃から神様についてどれほどよく聞いて学んで知っていたかがよくわかります。神様が私に教えてくださったアブラムの告白を皆さんにお知らせします。

「すべてのことに信実で完全であり、すべてを導き、働かれる全能なる神様、すなわち私の先祖の神様なる方を、このように賛美致します。まことに、すべてのことを信実で完全に行なわれるその方の御名を賛美し、このようにすべてを指示し、すべてを導いてくださったその方の御名の前にひれ伏します。その方の御名は高く、広大であり、すべてを建てられ、私たちの先祖の主と神となられた、その方の御名を賛美致します。私はその方の御前にこのようにひれ伏し、その方の御名によって私はすべてを信じて従順します。その方の御名の前に、すべてが恐ろしく震え、すべてがその方の足の下にあるからです。その方の御名は広大であり、その方は完全であり、すべての道を指示して導かれます。その御言葉に従順し仕えることが当然であり、すべてがその方の御名の前にあるのです。」

このような告白を通して分かるように、アブラムは神様がどれほど絶対的な存在であり、広大で全能な方なのかを知りました。しかし、このように神について知り、その方の言葉に従ったからといって、彼が完全な者ではありませんでした。皆さんの中にも、おそらく神様がどんな方なのか分からない方はほとんどいないでしょう。しかし、このように知っている次元を越えて、本当に神様の能力を体験し、自分のすべてを見守りながら導いていく神様を体験した時、初めて神様に対する信頼が生まれるのであり、神様との信頼関係も完全になっていくことができるのです。

アブラムも知っていることを完全な信仰に変えていくために訓練が必要だったのです。そのためにはすぐに考えを破る作業が必要だったのです。それで神様はいくらでも先にアブラムに避ける道を与えることができましたが、彼が自分の考えを働かすように放っておいたのです。アブラムが考えを働かし始める過程はこうです。飢饉を避けてエジプトの地に降りて行ったアブラムは、自分の妻のサライのために自分の命が脅かされることもありうるという考えで、妻に「どうか、私の妹だと言ってくれ。」と言います。しかし、この言葉自体が間違っているわけではありませんでした。創世記20:12を見ると、アブラハムが妻のサラについて「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」と言っています。実際にはサライがアブラムの妹であったことがわかります。腹違いの妹だったということです。

ところが問題はこの言葉が事実かどうかは別として、アブラムが妻を妹だと言わせた動機です。自分なりに知恵を働かせて危機を避けようと考えたのです。そして、果たしてアブラムが思ったように、アブラムは妻を妹と言って命は救うことができました。しかし、アブラムは次に何が起こるかまでは考えていませんでした。これがまさに一寸先も見通せないし、自分の能力で不可能なことの前ではどうしようもない人の限界です。神様はまさにアブラムにこのような事実を徹底的に悟り、以後はただ神様にだけに頼るようにするために、妻のサライを奪われる訓練を許されたのです。前述のアブラムの告白のように、全能で真実であり、すべてを導いていく神様について直接感じ、体験しながら悟らせてくださったのです。アブラムが妻のサライを奪われた訓練については、次の時間に続けてみましょう。

結論
皆さんがあることをするとき、「これが考えを働かせるのか」と、自らは気付かない場合が多いです。自分自身は「知恵がある」と言い、「こうすればうまくいくだろう」と思うのです。あまり原則通りにするのがややもすれば愚かに見えることもあり、「こうすればもっと簡単で早いのに…」 とそれなりに知恵と知識を働かせることもあります。しかし、コリント第一3:18-20には、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』」と言いました。私たちが主の中では当然賢くなければならないが、世の中の知恵においてはむしろ愚かな者にならなければならないのです。世の知恵は結局肉の考えを働かせ、神様とは敵となる方向に導いていくからです。主の中の知恵は、ただ聖潔で善良なところから来るという事です。

また、箴言16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」という言葉のようにすべてを主管し、導かれる方はただ一人の神です。アブラムもこれを悟るために訓練が必要だったのです。皆さんもやはり訓練を通してこれを速やかに悟り、世から来る知恵を捨てて、主の中で賢い人にならなければならないのです。人の知恵がどれほど限られたのかを悟り、ただ知恵の根本であり、万物の主管者である神様だけに任せてより頼むことです。従って人の知恵と方法ではなく、神の知恵と方法でいつも凡てのことに通じるように導かれることを主の御名でお祈りします。
 

朝の学び97 創世記12章  

創世記12:4-7
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。

信仰の訓練をよく通過するには  


前の時間には、アブラムが神様の召命を受け、信仰の父として立てられるための本格的な訓練が始まる過程をお話しました。信仰の父とは、文字通りすべての信じる人々の父を意味します。もちろん、アブラハム以前にも神様を信じる多くの人々がいましたが、神様は初めてアブラハムの時に至って信仰という基準を提示してくださったのです。アブラハムの信仰はすべての人の信仰の基準です。比較の対象としてアブラハムの信仰と比較してみれば、自ら自分の信仰を点検することができるようになったのです。したがって、イエス様がこの地に来て、すべての人の救い主になってくださる前には、救われることが出来る信仰の基準もまさにアブラハムを通してでした。救い主として来られた主を信仰によって、義とされ、救いに至るまでは、アブラハムの信仰と従順と行いが基準となり、救いの線が決まったということです。このように重要な役割を果たさなければならないアブラハムの信仰はどれほど完全でなければならないでしょうか。

したがって、神様はアブラハムの信仰が、どんな傷もしみもない完全な分量に至らせるために、自ら訓練を始めていかれたのです。もちろん、アブラムは、以前からも神様を愛し、畏敬の念をもって仕える人でしたが、以前に聞いて知っていたことを、今は実戦して訓練を受けて行くことで、完全に力にすることができたのです。人がいくら良い環境で神様について聞いて学びながら育ったとしても、神様が望む完全な霊になるためには、とにかく気を通して先祖から伝えられた性格的なものや、本性の中に内在したもの、また肉の環境の中で育つ過程で自分も知らない間に入力された肉的なものを、すべて脱いで捨てなければならないので、訓練が必要にならざるを得ないという事です。このような訓練をよく通過するには、何よりも「自分」があってはなりません。自分が正しいと思って主張する自己的なものがない時こそ、神様のみことばに無条件に従うことで、自分の中にある肉的なものを迅速に取り出してしまうことができるからです。

ところが、私はまさに神様を迎える前に、すでに「自分」というものが徹底的に崩されていました。自分に何かができるという自信も、自分を主張しようとする義も、自分が正しいという知識や考えなど、自己のすべてが徹底的に破られ、なくなった状態で主を受け入れることになったのです。世の中に頼るところもなく、世の中では真の愛もないということを徹底的に悟った状態で主に会ったのです。ですから、主を受け入れて以来、私のすべての心と考えと力と真心も、持っているすべてが誰に向けられたでしょうか。ただ父なる神様だけに向かうようになりました。

これは聖書に出てくるマグダラのマリアも同様でした。前にマグダラのマリアについて説明したように、マグダラのマリアは誰一人頼るところがなく、心身の苦しみによって最も悲惨な状態で主に会うことになりました。家族からも徹底的に捨てられ、さらに七つの悪霊によって苦しんでいたのですから、その苦しみはどうだったでしょうか?このようなマグダラのマリアが主に出会い、すべての問題を解決され、新しい人生を始めることができたのです。だからマグダラのマリアは主に会って以来、自分のすべてをただ主のみのために献身することができたのです。

このように「自分」が徹底的に壊れた状態、心の中に世の中の何もない状態、心が貧しくて心が極めて低くなった状態で、まさにこのような状態になったために、主をまず第一に愛し、主の御言葉にただ従順だけが出てきたという事です。そして、このような心が最初だけそうだったのではなく、最後まで変わらなかったので、マグダラのマリアは神からそのように愛される女性になることができました。ですから皆さんも霊に、全き霊に迅速に入るためには、まず世で作ってきた「自分」というものを、徹底的に壊してしまわなければなりません。世の中のどんなものも愛したり頼ろうとしてはならず、ただ主だけが人生の全てであり、頼る対象にならなければならないのです。アブラムもまさにこのような姿になるために訓練を受け始めたのです。

神様と交わりを遂げ、ただちに従順したアブラム


神様はアブラムと交わるとき、自ら御声を通して働かれることが多かったのです。旧約時代には内には聖霊様がいらっしゃるのではないので、神様が自ら御声で交わりをされたり、外部から聖霊の感動を通して働かれました。そしてアブラムは神とこのように交わることについて、すでに先祖を通して聞いて知っていたので、神が彼に御声で働かれた時、その声を疑うとか躊躇したりしませんでした。聞いた瞬間、「これは神様の声だ」と分かりました。もちろん、神様に直接対面したこともあります。ソドムとゴモラを審判する前には、神様が直接アブラハムに会ってくださるのを見ることができます。

さらに、本文7節のように「そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」とあるように、神様がアブラムに現れておっしゃる場合は、神様の御声だけでなく、一緒におられるという兆しを感じることができます。もちろん、この時、神様がアブラムに現れておっしゃったからといって、神様の本体が直接来られたわけではありませんが、まさに神様の栄光の光の中の声音として働かれました。栄光の光は肉のことばで説明すると、まるで白い煙のようで、このような煙のようなものが垂れ下がった中から音声が聞こえてくるのです。このように、アブラムは神様との交りを通し、あるお言葉や指示を受けた時に直ちに従順が出たのを見ることができます。

しかし現実から見ると、ある言葉や指示を受けたときにすぐに従う場合は多くありません。自分の考えを働かせて、従うことができる限界内でのみ従順だったり、最初から考えに阻まれて従順になれない場合が多いです。肉の考えを働かすだけに、完全な従順から遠ざかるという事です。

 
しかし、アブラムは考えを働かせれば従順しにくい言葉であるにもかかわらず、
本文4節「主がお告げになったとおりに出かけた。」と言われたとおり、すぐに従順したことがわかります。 彼の父テラが205歳を生き、アブラハムが175歳を生きたことを考えると、75歳は年齢が多い年ではありませんでしたが、カランに定住して経済的な基盤を固め、先祖代々生きてきて多くの親戚が共にする生活の基盤を一日で後にして去るということが肉の考えを働かせるならば決して容易なことではありません。しかし、アブラムはすぐに神様のみことばに従いました。この時、神様は再び現れて契約の言葉をくださいます。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言ったのです。これはまさに父なる神様のはじめの声であり、この御言葉はそれから約400年余りが過ぎた後にそのまま成就されることがわかります。

朝の学び96 創世記12章  

 創世記12:1-3
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

アブラムの従順と祝福


アブラムは最初から従順の信仰を示してはいましたが、だからといって彼が完全なわけではありませんでした。彼がたとえ良い器として生まれ、良い環境の中で教育を受けながら成長したとしても、今、霊の人として完全に立つためには、これまで限られた肉の空間で学び会得された多くのものを、全部捨てなければならなかったのです。つまり、肉の環境によって入力された肉のものと、それによって出てくる肉の考えを、一つ一つ訓練を通して抜き出さなければならなかったのです。もちろん、アブラムに肉の考えが多かったり、肉のものが多く入力されていたわけではありません。しかし、彼に与えられた訓練は、決して簡単なものではなかったという事です。皆さんも罪を発見して捨てるために、いろいろな訓練を受けたと思いますが、霊にもっと近づくために受けなければならない訓練は、それだけより高次元的な水準になります。

だから「誰々の訓練はもっと簡単だ」言えるものではありません。信仰が少ない人は信仰が少ないまま訓練を受けることで、信仰が大きい人は信仰が大きいように訓練を受け、ますます完全に変化していくのです。また「私は生まれた時から畑が良くなく、器が良くないので、私だけこういう訓練を受ける」と考えてはいけません。器が良くて畑が良いとしても、それに合うそれなりの訓練があるわけで、むしろ良い器、良い畑を訓練するためには、普通の人よりも過酷な訓練が許される場合もあるからです。モーセやアブラハム、ヤコブやヨセフのように、神様の前に大きく使われた方々は、ただ生まれた時から器が良く、心の畑が良くて使われたのではありません。それだけ人より数倍、数十倍も大変な厳しい訓練までもよく受けて来たので、神様の前に大きく使われる器になったのです。そして、このように神様の前に大きく用いられた人々のもう一つの共通点は、神様がくださった祝福の契約を変わらない信仰の目で眺めていったという点です。

本文2-3節を見ると、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。神様がアブラムに与えられた祝福の約束でした。しかし、この言葉はすぐに行われるのではなく、アブラムが訓練の過程をよく通過し、信仰の父として立てられた時に行われる御言葉でした。神様がアブラムに望む完全な信仰の分量を満たした後に、このすべての祝福の御言葉が成されるということです。

アブラムはまさにこの言葉を信仰で受けました。そして、信仰の父として立てられるまで、この祝福の約束の言葉をつかんで進みました。しかし、今日、このような人を見つけるのは簡単ではありません。祝福の言葉をいただいても、信仰で受けとめることができなかったり、すぐに叶わないと、またはしばらく経っても叶わないと、心で疑って揺れてしまうのです。また、いくら大きな祝福の言葉をいただいても、すぐに現実には難しく不可能に見えれば、肉の考えを働かせて不従順になるのです。皆さん、神様がくださった御言葉は必ず成され、保障されます。しかし、その言葉がすぐに成されることもありますが、それを成し遂げて保障されるために訓練の過程を経なければならないこともあります。 

前にも話したことがありますが、開拓する頃、神様が祈祷院長に聖潔の賜物を与えられました。当時は私も聖潔の賜物を受けていたので、すぐに聖潔にされると思っていました。ところが、実際に聖潔の賜物を受けてからは、思っていたのとは違っていました。むしろその時から根本に内在していた悪の形まで一つ一つ取り出して訓練して捨てるようにされるのでした。時にはその訓練があまりにも大変に感じられる時もありましたが、祈祷院長が祈りも休まずに、それでも最善を尽くし信仰に出てきたので、今は神様に愛され、認められ、権能を行う段階に至るようになったのです。

それでは、皆さん自分自身を振り返ってみてください。皆さんそれぞれにも、確かに神様がくださった祝福の約束の御言葉があったはずです。個人的にまだなかったとしても、教会的にくださった祝福の約束が、すなわち皆さん一人一人に与えられた契約のようなものです。先週に少し証したように、地方の教会の財政を担当するある執事が、万民の聖徒たちに祝福して下さると言われた神様のみことばを信仰で受けてから、大きく物質に祝福されているようにです。ところで、皆さんはこのように神がくださった祝福の約束の言葉を、どれだけ信仰で受け取ったでしょうか?まだ実現されていないということで、たぶん忘れてはいませんか?机の引き出しの深いところに入れていませんか?

皆さんにくださった神様のみことばを皆さんが確かに信仰で受け、それを成し遂げるために休まずに祈りながら今まで進んできたとすれば、成し遂げられない言葉は一つもありません。それでも成し遂げられなかったら、信仰で受け取れなかったか、ある瞬間から忘れてしまったのではないかと振り返ってみてください。エゼキエル36:36-37に、「あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。」という言葉のように、成し遂げることを変わらない気持ちで求めてきたのかを振り返ってみてください。

私は今まで神様がくださった御言葉を決して疑ったり忘れてしまったことがありません。そして、いただいた御言葉が成し遂げられるまで、変わらず信仰を持って求めてきました。そうすると、今になって振り返ってみると、開拓の時からいただいた御言葉がそのまま行われています。また、新しくくださったおことばがあり、それらも今後も必ずそのままなされるでしょう。ですから、問題は自分にあることを悟らなければなりません。同じ祝福の言葉をくださっても、誰かには成し遂げられ、誰かには成されないのは、他の誰のせいでもありません。神様がそのようにされたわけでもなく、まさに私自身がするかどうかなのです。

自分自身の器が用意される分だけ、神様の祝福の御言葉もそのまま臨むことになるという事です。これから、本格的に訓練を受けて行くようになるアブラムも、最初のテストはよくパスしましたが、信仰の父としての祝福を受けるためには、少しの肉の考えもあってはならないので、すぐに続くテストを通して肉の考えが徹底的に崩れるきっかけを迎えることになります。まさに妻のサラを奪われる試みでした。これについては、次の時間に続けてみましょう。


結論


私と本教会がこれまで世界宣教を行っていく過程を見れば、今日の本文に出てくるとおり、生まれ故郷の父の家を離れて指示されるところに行くような状況でした。何の縁故もない国だとしても、神様が「行け」と言われれば従うときに道が開かれ、助ける者たちが現れ、聖会が行われてきました。また現実的には漠然としているように見えることも、やはり神様が「成される」となれば必ずそのようになってきました。ところが、先日、神様は私たちの働き人たちに、今はあなた方が牧者の信仰となって仕事を成し遂げなければならないことをおっしゃいました。

これまでは、神様があることをおっしゃれば、頭である牧者を見て、牧者の信仰によって神様が保障され、成し遂げられたので、働き人たちはただ従うだけでよかったが、これからは働き人たちも自らが信仰を持って牧者に信頼される者になって仕事をしていかなければならないとおっしゃったのです。これは皆さんにとっても同じです。モーセの信仰だけでも、十分にカナンの地に入っても有り余る程でしたが、神様が望んだのは民全体の信仰でした。神様が私と皆さんに望むのも、私一人だけの信仰ではなく、私たち全員の信仰です。

ロシアに直接行くのは私と宣教チームの一行ですが、ロシア聖会が、神様の御心の中で美しく成就するためには、ここに残っている皆さんの信仰もとても重要だという事です。皆さんが真心を尽くして捧げた宣教献金と祈りと断食などがすべて合わされ、世界宣教を成し遂げる信仰の力になるのです。文句を言い疑いながら荒野の道を行った、出エジプトしたイスラエルの民とは異なり、心強い信仰の力になってくださる、本教会や支教会をはじめとするすべての聖徒たちに感謝し、皆さんのための贈り物として、ロシア聖会を通して神様に大きく栄光を捧げて、嬉しいニュースを持ってくるようにします。皆さんの行ないと真心を父なる神様が喜ばれて、驚くべき祝福で返してくださり、将来、天国でも美しい賞と栄光が与えられるように主の御名でお祈りします。


朝の学び95 創世記12章  

 創世記12:1-3
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

はじめに


今日からは、創世記の講解を通して信仰の父であり、祝福の源となったアブラハムについて説明していきます。純粋な血統を受け継ぎ、正統の系図を通して生まれたアブラムが75歳で神から召された後、信仰の父として立てられるまでの過程が説明されます。もちろん、これからのタイトルの説教を通しても、アブラハム預言者をはじめ、エリヤ、モーセ、使徒パウロについて、彼らは果たしてどんな心を持っていたので、神からそのように大きな愛と恵みを受けることができたのか、その理由が説明されます。それとは別に、創世記の講解では、アブラハム預言者が信仰の父として立つまで瞬間、瞬間に経験しなければならなかった訓練と、試練をどのように信仰と従順で通過していったのかについて、具体的に説明されているのです。続く創世記の講解を通して、皆さんもアブラハム預言者のように信仰の人であり、従順の人として出てこられることを主の御名で祈ります。

人間耕作の摂理の中で生まれたアブラハム


神様が人間耕作を計画して天下万物を造った後、人間耕作の働きの中には何度も新しい出発点がありました。初めの人アダムが生きた霊となって人間耕作のための最初の出発点となりました。その後アダムが罪を犯してエデンの園から追い出され、この地に降りてきてからは、実質的な6千年の人間耕作が始まりました。そして、罪悪が蔓延し支配したその当時の世界が洪水の審判で滅亡し、ノアという人物を通して人間耕作が再び新たに始まります。洪水の審判とともに、創世記1:3に、神が最初に地球を創造しながら囲んでくださった光が取り込まれ、今はすべてが根本的な肉の属性に戻った状態で本格的な人間耕作がはじまるようになったのです。
     
そして人間耕作の歴史がもう一度新しく始まるきっかけがあったのですが、それがまさにバベルの塔の事件でした。バベルの塔の事件を契機に人類の言語と民族が分かれるようになり、人間は初めて神様が計画された人間耕作の環境が完全に整った状態で、人間耕作を受け始めます。すべてのことを予知予定される神様が、真の人間耕作のために摂理された環境が、バベルの塔事件を契機に行われるようになったということです。又人間耕作の歴史において、霊的に非常に重要な意味を持つもう一つの新しい転機を迎える事件が、まさに今日の本文に出てくるアブラムの誕生でした。

将来信仰の父となるアブラムの誕生が持つ霊的な意味については、後ほどに説明されますが、彼の誕生はこれまでにあったどんな事件よりも霊的に非常に大きな意味を持っています。それでは、神はこのように重要な意味を持つ信仰の父アブラハムという人物を、なぜこの時点で生まれるようにされたのでしょうか。彼が少し早く生まれるようにして、もっと前に信仰の父が立てられるようにすることもできたと思いますが、神様はなぜ人間耕作が始まって2000年余りが過ぎた後に、信仰の父が生まれるようにされたのでしょうか?例え、人間耕作が始まって間もなく、信仰の父が立てられるようにしておけばもっと良かったと思うのですが。しかし、それは人の側からの考えに過ぎず、神様の考えと御心は人とは違うという事です。

人間耕作が始まり2000年余り後に、信仰の父アブラハムが生まれたのも、その後また2000年余りが経った後に、救い主となるイエス様が生まれたのも、最初からすべてをご存知である神様の摂理の中で、最も適当な時点で起きたことです。それより速くても遅くなってもいけなかったのです。先ほど、人間耕作の歴史において新しい始点となったいくつかの事件を概略的にお話しましたが、その事件一つ一つがすべて人間耕作の歴史を成していく上で、なくてはならない重要な事件でした。神様は公義の中ですべてを成し遂げるので、ある日突然信仰の父が生まれるようにしたのではなく、人間耕作の環境もやはり一気に作られたのではありませんでした。神様は人間耕作の環境を段階的に作りあげ、人間耕作の歴史において最も適当な時点に合わせて信仰の父が生まれるようにされたということです。
   

アブラムの誕生と信仰の訓練


先ほどアブラムの誕生が非常に重要な意味を持つと言ったのですが、その理由は何でしょうか?それはまさにアブラムが人間耕作の摂理のなかで、「信仰の父」として立てられる人だからです。「信仰の父」という言葉の意味を少し簡単に説明すると、それは将来、すべての人の信仰に耐える対象であり、信仰の基準になるという意味です。つまり、それぞれの人の信仰がどれくらいなのかを、まさにアブラハムの信仰に比べて比較することになるということです。このように信仰という面で、完全な者として立てられなければならないアブラハムだったので、神様は彼の誕生から直接干渉されたので、時が達して訓練されて彼を信仰の父として立てていくのです。

そして彼が信仰の父として少しの不足もない完全な分量に達するためには、彼が受けなければならなかった訓練も、神様が直接関与される最高の水準でなければなりませんでした。信仰の父として立てられなければならない人が、ただおおよそに訓練されて出てくるのではないので、アブラハムは神様の手に引かれて一段階、一段階、信仰の成長を成し遂げることになります。もちろん、アブラムは本格的な訓練を受ける前にも神について知り、信じ、神を恐れる人生を送った人です。しかし、彼が以前に知っていることと、体験を通して親しく神様について感じて悟っていくのとはまったく異なります。
   
これは私たちが信仰の中に入ってきて、信仰が成長していく過程も同じです。最初はただ聞いてみてわかる水準ですが、次第に信仰の訓練と体験を通して、信仰の充分な分量にまで成長していくのです。
エペソ 4:13「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」と言われるように、神は私たち全員にキリストの満ち満ちた身丈にまで信仰の成長を成し遂げることを願うのです。

そのためには時に火のような訓練が必要なのであり、そのため、ペテロ第一1:7では、「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」と語っているのです。アブラムは信仰の父らしく神様がくださったテストを、最初からすぐに通過していくのを見ることができます。本文1節「その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と言ったとき、アブラムは直ちに従いました。私たちは当時の状況で、「生まれ故郷父の家を離れて、指示される土地に行きなさい」という言葉に従うのは決して簡単な言葉ではないことを知らなければなりません。

今日、多くの人々が「私もアブラムのように従うことができます。」と告白するかもしれませんが、実際にそのような状況になれば、従順する人がそれほど多くはないという事です。自分のすべての生活の基盤と経済的な基盤、また家族との関係までも全て後にして、それも目的地が決まっていない状態で、むやみに見知らぬところに向かって離れなければならないということが、肉の考えを働かす人ならば、決して従うことはできないことでしょう。しかし、アブラムは最初からこのようなテストを軽くパスしたという事です。

それでは、皆さんも自分自身を一度振り返ってみてください。生まれ故郷の父の家を離れるというわけでもないのに、「私は果たしてどれほど神の言葉に、仕える方の言葉に従ったのか」ということです。行きなさいと言われれば、行けばいい。後ろに戻りなさいと言われればそうすればいいのですが、その小さな指示一つにもどれだけ多くの考えを働かせているのでしょうか?これまで聞いてみて、頭では確かに従順でなければならないということを知っているのに、実際に現実では従順が出てこなかったということです。
     
またあまりにも小さくて簡単なことの一つも、完全に従うことができないことがまたどれほど多いでしょうか?一日に御言葉を一章以上読んで、一節ずつ暗唱しなさいと言ったことも、依然として従順できない方々はできずにいます。神様は祈りを休まないようにと言われましたが、普段は言うまでもなく、今回のように特別徹夜が行われても、依然として祈らない方はしていません。しかし、アブラムは決して小さなことではないにもかかわらず、神様の御言葉にすぐ従順しました。これまで先祖たちを通して聞いて学んだ神様について、頭に知識だけを詰め込んでいたのではなく、このようにまさに従順の行いで神様に対する信仰を示したという事です。

朝の学び94 創世記11-12章  

創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

バべルの塔の事件後の人間の寿命の短縮


ノア洪水の後、この世界は肉の法則に従ってすべてが運行されていましたが、バベルの塔の事件の後は、より完全に肉の法則に支配されるようになってしまいます。その結果、病気も多くなり、先天的な障害や弱い者も現れます。もちろんこのすべては、世の中がますます悪に染まり、その罪の結果として現れる現象でもありますが、バベルの塔の事件を契機に、それがさらに激しくなったということです。このような変化を最もよく表しているのが、人間の寿命の短縮です。

本文を見てみると、セム以降に寿命が少しずつ減ってはいるのですが、それでもエベルの代までは寿命が四百年をはるかに超えています。ところがぺレグの代からは寿命が二百年代に急速に下がります。エベルだけ見ても三十四歳でベレグを産んで後、四百三十年を生きたのです。つまり四百六十四歳を生きたのです。セムを見ると洪水以前の世代であったのですが、洪水後も五百年をさらに生き、総六百年を生きました。それに比べるとエベルの寿命は大幅に縮まりましたが、それでもかなり長い歳月を生きたと言えます。しかし、ベレクからは二百三十九歳、レウも二百三十九歳、セルグは二百三十歳を生きます。急に、平均寿命が200年以上減ったのです。

ところで、寿命が急に縮まったベレグは、どのような事件に関連して生まれた人物でしたか?創世記10:25を見ると、「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。」とあるように、ペレグはまさに地が分けられた時、すなわちバベルの塔の事件があった時に生まれた人物です。これはつまり、バベルの塔の事件が、この地の人々の言語が混乱することによって、民族が分裂して分かれる決定的な契機になっただけでなく、人間の寿命にも大きな影響を与えるほど途方もない結果をもたらしたということです。また、このことは神様の怒りを買ったということも言えるでしょう。

したがって、バベルの塔の事件以後、この世界は肉の法則に完全に支配されるようになり、さまざまな病気や弱さが生まれ、また人々がより一層罪悪に関与し、人間の寿命の短縮にまで影響を与えるようになったのです。生きた霊であったアダムの犯罪以後、人が罪悪に染まって肉に落ちれば落ちるほど、人々の命もさらに短縮されてきたのです。しかし、逆に失った神様のかたちを取り戻していけば、それだけ人は年を取ってもむしろ健康になることができ、若返りして長生きすることができるという事です。

信仰の父アブラハムの誕生と成長


本文27節からはアブラムが生まれる具体的な背景が出てきます。本文を通して、私たちはアブラムがカルデヤのウルで生まれたことが分かりますが、ウルは古代メソポタミア文明の発祥地であるユーフラテス川下流の西岸に位置した古代シュメールの都市でした。ここウルで生まれ成長したアブラムは、そこで妻のサライを迎えましたが、サライは妊娠できないので、子供がいなかったのです。そんな中、アブラムの父テラはアブラムと孫のロトとアブラムの妻のサライを連れて、カルデヤのウルを離れてカナンの地に向かう途中、ハランという場所にたどり着きます。

では、アブラムはどのような背景で成長したのでしょうか?本文の系図からわかるように、アブラムが生まれた当時、セムをはじめとする彼の祖父たちは皆、生存していました。したがって、セムやエベルの場合は、アブラハムが死んだ後も生きていました。そのため、アブラムは生まれてから成長する間、直接洪水に見舞われたことをはじめ、多くの先祖から教えられる機会がありました。神様について学び、神様の御心と摂理についても、アブラムは先祖を通して学ぶことができました。このように、アブラムは神様を恐れ敬う雰囲気の中で成長し、神様に対する信仰と愛を育てていくことができました。

ところが、アブラムが生まれ故郷の父の家を離れなければならなかったときは、状況が以前とは少し変わったということをヨシュア24:2-3の言葉を通して知ることができます。「ヨシュアはすべての民に言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『あなたがたの先祖たち、アブラハムの父で、ナホルの父でもあるテラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えていた。わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、ユーフラテス川の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、彼の子孫を増し、彼にイサクを与えた。」ということから、アブラムの父テラが他の神々に仕えたことがわかります。

当時アブラムが生まれたカルデアのウルはもちろん、テラとその家族がカナンに向かう途中に住んでいたハランというところも、偶像崇拝が盛んであった所でした。そのような中でも、屈せず純粋な血統を守りながら神様を恐れてきたが、ある瞬間、アブラムの父テラであっても当時の雰囲気に浸ってしまいました。まさにこのような時点に至った時、神様はアブラムを故郷の親戚の父の家から一人で独立させたのです。アブラムまでも、そこの雰囲気に染まらないようにするためであると同時に、アブラムを信仰の父にするための本格的な訓練を始めたのです。

もちろん、これまでアブラムが育ってきた環境は、神様を恐れて仕える雰囲気の中で神様について学び、悟ることができましたが、それだけでアブラムが信仰の父になれたわけではありませんでした。これまでは、親と祖先の保護の中でそれなりに神様について学び、悟りながら訓練を受けたとすれば、これからは自ら神様が干渉しながら、アブラムを信仰の父として訓練していくのです。肉の父を離れ、広い世界の中で以前とは全く違う人生を生き、神様の手によって訓練されるのです。神は本格的な訓練の始まりとともに、アブラムに莫大な祝福の言葉を与えてくださいます。本文の創世記12章2-3節に、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と言われました。

彼が将来どうなるのかをあらかじめおっしゃってくださったのであり、まさにその言葉を成し遂げようと訓練されたのです。もちろん、アブラハムは最初から神様のみことばにすぐ従順しましたが、神様が望む分量はその程度ではありませんでした。信仰の父という最高の水準に達するために、今後彼が体験しなければならない信仰と従順の訓練に比べれば、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」という言葉は始まりに過ぎませんでした。信仰の父であるアブラハムが今後どのような信仰と従順の訓練を体験していくのか、次の時間に引き続き見ていきましょう。

結 論


旧約時代は行いや形式が重要な時でした。行いや形式を通して、神様に対する信仰と従順が表現されたのです。ところがこのように行いと形式自体も重要ですが、旧約時代といっても神様が本当に望んでいたのはその中に込められた心でした。神様が純粋な血統を維持する中で正統性をつなげ、それを重要に考えられたのも、神様の御心に従う心を望んだのです。

ところがイエス様がこの地に来られた時、人々はいざ重要な心には関心がなく、ひたすら外面的な面だけに関心を持っていました。自分たちは血統的に「アブラハムの子孫」という意識の中で、選民である自分たちと異邦人たちを徹底的に区分し、自分たちだけが救われた民だと思いました。イエス様はこのような考えで固まっていたユダヤ人たちに向かって、ヨハネ8:39を見ると、「彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。」とおっしゃいました。アブラハムの子孫ならば、アブラハムが行った信仰と行いを見せろということです。形式や血統が重要なのではなく、どんな心で行っているのかが重要だという事です。

ですから、ローマ2:28-29を見てください。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と言っているのです。今日みことばを聞いた私たちも「私はこのような職分を持っていましたが…」「私はこのように長い間信仰生活をしました… 私はこんなに頑張っていますが…。」とこのように話す前に、「私は果たしてどんな心で行っていて、どれだけ心に割礼しているのか」を先に振り返ってみてください。それで、神様から褒められる皆さんになることを主の御名でお祈りします。

朝の学び98 創世記12章  

創世記12:8-20
アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。。

妻を奪われる訓練を受ける前、アブラムの告白  


神様があることをおっしゃる時、人の側で従順できなかったり、信仰にならない場合には、御言葉が成就するのが遅れることもあります。しかし、神様がおっしゃった御言葉は、創造の初めの声なので必ず成就されます。ただ、それがすぐに成就することばなのか、それとも時間が経ってから成就することばなのか、こういう違いはあります。 

例えば、イエス様が病気を治す時も、常に初めの声を発せられましたが、ほとんどその場で直ちに癒され、神様に栄光を捧げましたが、ルカ17章に出てくる十人のらい病人の場合は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われた御言葉に従順して行った途中で綺麗に癒されました。このように、本文に神様がアブラムに「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」とおっしゃった御言葉も、すぐに成し遂げられる言葉ではなく、400年余りが過ぎた遠い後日、モーセを通して出エジプトしたイスラエルの民がカナンの地を征服していくようになって、なされる御言葉だったのです。

私が初めの声を発する時もこんな感じです。すぐにその場で行われ、働かれることが多いですが、時には時間を置いて待たなければならない場合もあります。そして、この時御言葉を受ける働き人の方が、どれほど信仰を持って受けて自分のやるべきことを行っていくかによって、御言葉が成就する時間がさらに長くなることもあり、短縮されることもあります。この時も問題になるのがまさに自分の考えを働かせることです。だから、神はアブラムにこの考えを破る訓練をさせてくださいます。まさに妻のサライを奪われる訓練でした。この訓練を通して、アブラムは自分の考えを徹底的に壊すきっかけになりました。


神様のみことばに直ちに従順だったアブラムでしたが、実際に自分の命がかかった状況になると、神様だけを全面的に頼ることができず、つい自分の考えを働かせたのです。これは、アブラムが神様はどんな方なのか分からないからではありません。アブラムが妻を奪われる訓練を受ける前に、彼が神様の前に祭壇を築いて告白した内容を聞いてみると、アブラムが幼い頃から神様についてどれほどよく聞いて学んで知っていたかがよくわかります。神様が私に教えてくださったアブラムの告白を皆さんにお知らせします。

「すべてのことに信実で完全であり、すべてを導き、働かれる全能なる神様、すなわち私の先祖の神様なる方を、このように賛美致します。まことに、すべてのことを信実で完全に行なわれるその方の御名を賛美し、このようにすべてを指示し、すべてを導いてくださったその方の御名の前にひれ伏します。その方の御名は高く、広大であり、すべてを建てられ、私たちの先祖の主と神となられた、その方の御名を賛美致します。私はその方の御前にこのようにひれ伏し、その方の御名によって私はすべてを信じて従順します。その方の御名の前に、すべてが恐ろしく震え、すべてがその方の足の下にあるからです。その方の御名は広大であり、その方は完全であり、すべての道を指示して導かれます。その御言葉に従順し仕えることが当然であり、すべてがその方の御名の前にあるのです。」

このような告白を通して分かるように、アブラムは神様がどれほど絶対的な存在であり、広大で全能な方なのかを知りました。しかし、このように神について知り、その方の言葉に従ったからといって、彼が完全な者ではありませんでした。皆さんの中にも、おそらく神様がどんな方なのか分からない方はほとんどいないでしょう。しかし、このように知っている次元を越えて、本当に神様の能力を体験し、自分のすべてを見守りながら導いていく神様を体験した時、初めて神様に対する信頼が生まれるのであり、神様との信頼関係も完全になっていくことができるのです。

アブラムも知っていることを完全な信仰に変えていくために訓練が必要だったのです。そのためにはすぐに考えを破る作業が必要だったのです。それで神様はいくらでも先にアブラムに避ける道を与えることができましたが、彼が自分の考えを働かすように放っておいたのです。アブラムが考えを働かし始める過程はこうです。飢饉を避けてエジプトの地に降りて行ったアブラムは、自分の妻のサライのために自分の命が脅かされることもありうるという考えで、妻に「どうか、私の妹だと言ってくれ。」と言います。しかし、この言葉自体が間違っているわけではありませんでした。創世記20:12を見ると、アブラハムが妻のサラについて「また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。」と言っています。実際にはサライがアブラムの妹であったことがわかります。腹違いの妹だったということです。

ところが問題はこの言葉が事実かどうかは別として、アブラムが妻を妹だと言わせた動機です。自分なりに知恵を働かせて危機を避けようと考えたのです。そして、果たしてアブラムが思ったように、アブラムは妻を妹と言って命は救うことができました。しかし、アブラムは次に何が起こるかまでは考えていませんでした。これがまさに一寸先も見通せないし、自分の能力で不可能なことの前ではどうしようもない人の限界です。神様はまさにアブラムにこのような事実を徹底的に悟り、以後はただ神様にだけに頼るようにするために、妻のサライを奪われる訓練を許されたのです。前述のアブラムの告白のように、全能で真実であり、すべてを導いていく神様について直接感じ、体験しながら悟らせてくださったのです。アブラムが妻のサライを奪われた訓練については、次の時間に続けてみましょう。

結論


皆さんがあることをするとき、「これが考えを働かせるのか」と、自らは気付かない場合が多いです。自分自身は「知恵がある」と言い、「こうすればうまくいくだろう」と思うのです。あまり原則通りにするのがややもすれば愚かに見えることもあり、「こうすればもっと簡単で早いのに…」 とそれなりに知恵と知識を働かせることもあります。

しかし、コリント第一3:18-20には、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』」と言いました。私たちが主の中では当然賢くなければならないが、世の中の知恵においてはむしろ愚かな者にならなければならないのです。世の知恵は結局肉の考えを働かせ、神様とは敵となる方向に導いていくからです。主の中の知恵は、ただ聖潔で善良なところから来るという事です。

また、箴言16:9「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」という言葉のようにすべてを主管し、導かれる方はただ一人の神です。アブラムもこれを悟るために訓練が必要だったのです。皆さんもやはり訓練を通してこれを速やかに悟り、世から来る知恵を捨てて、主の中で賢い人にならなければならないのです。人の知恵がどれほど限られたのかを悟り、ただ知恵の根本であり、万物の主管者である神様だけに任せてより頼むことです。従って人の知恵と方法ではなく、神の知恵と方法でいつも凡てのことに通じるように導かれることを主の御名でお祈りします。
 

朝の学び93 創世記11-12章  

創世記11:10-12:3
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデを生んだ。セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。アルパクシャデはシェラフを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。エベルは三十四年生きて、ペレグを生んだ。
エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、息子、娘たちを生んだ。レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。レウはセルグを生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セルグは三十年生きて、ナホルを生んだ。セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。ナホルは二十九年生きて、テラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生んだ。テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

はじめに


愛する皆さん、本文の創世記11:10-26までは、セムから始まり、信仰の先祖アブラハムに至るまでの系図を示しています。洪水から9代目に至り、将来、信仰の先祖となるアブラムが生まれる過程を正統性の立場から記録しています。セムの様々の息子たちの中で、まさにアルパクシャデがセム家の純粋な正統性を受け継いだので、アルパクシャデの息子たちの中ではセラが受け継いで、このように純粋な正統性を受け継いだ息子たちを通してついにアブラムが生まれたのです。

神様は信仰の先祖アブラハムが、このように洪水後ノアの正統性を受け継いだセムの系図を通して、それも純粋な血統に従う正統性が維持される中で生まれるようにしたのです。神様はこのように、セムの系図が純粋に維持されるように徹底的に守り、保存することで将来、選民として選ばれることになるイスラエル民族を備えられたという事です。もちろん、セムだけでなく、ハムやヤペテの場合にもそれぞれ彼らだけの正統性を持った系図が続き、彼らも将来民族から国へと発展していきます。また、このように正統性を受け継いでいない人たちも、それなりに繁栄し集団を形成していきます。

本文に出てくる系図には入っていませんが、彼ら以外にも多くの息子と娘がいて、彼らはたとえ純粋な血統を継ぐことはできなくても、人間耕作の歴史を作っていく重要な構成要素に成長することになるのです。セムの純粋な血統を受け継いで出てくる選民イスラエル民族だけでなく、将来イスラエル民族との関係の中で道具として使われる周辺の多くの民族も、一つ一つ形成されていったのです。ところで、セムの純粋な血統が記録された今日の本文の中には一つの重要な事件が隠されていますが、果たして何でしょうか。

純粋な血統を維持できなかった子孫カイナン


当時の家門の純粋な血統を維持し、正統性を継続するのは、大部分長男の役目でした。しかし、長男がその分をうまく出来なかったときは、他の息子たちの中で正統性を続けた場合もあります。本文と同じ内容を記録している第一歴代誌1:24-27ルカ3:34-36に見ると、1つの違いが見られますが、第一歴代誌1:24-27では「セム、アルパクシャデ、シェラフ、エベル、ペレグ、レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラム、すなわちアブラハム。」とあり、本文と系図が正確に一致しています。

ルカ3:34-36では、「ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子、テラの子、ナホルの子、セルグの子、レウの子、ペレグの子、エベルの子、サラの子(シェラフ)、カイナンの子、アルパクサデの子、セムの子、ノアの子、ラメクの子、」と記されています。皆さんが詳しく比較してみると分かるように、ルカの福音書ではサラとアルパクサデの間に「カイナン」という人物がもう一人入っています。おそらく以前にも聖書を読んで、これらの違いを見つけた人もいると思います。確かに同じ内容を記録しておいたにもかかわらず、創世記や第一歴代誌にはない人物の名前が何故ルカの福音書にだけ入っているのでしょうか。

それで聖書学者たちもこれについて多くの研究をし、その中で多くの人がルカによる福音書の記録が間違っていると主張するようになりました。つまり、筆写する者が聖書を移して記録する過程でミスがあったということです。 あるいは、もともとカイナンという人物がいたのですが、どういう理由でかわかりませんが、その名前が系図から削除されたと主張する人もいます。韓国で言えば系図から名前が消されたということです。それでは、果たしてカイナンについての真実は何でしょうか?まず、わたしと皆さんは、聖書のすべての記録が真であり、たとえ聖書の中で互いに記録の違いがあるとしても、聖書の著者である神様がそれを許されたのには明らかな理由があるという事実を信じなければなりません。 

今日の本文とルカによる福音書の記録に違いがあるのも、まさにこのような理由の一つです。
ある人々の主張のように、聖書を記録する過程で人の間違いがあったり、聖書の内容が互いに矛盾するのではなく、神様はこのように違いのある内容を通して当時あった重要な一つの事件に対して隠しておられたという事です。神様の側では人間耕作の働きの中で、今後誰かが神様と明らかに交わりをし、神様から啓示を受け取ることができる人を通して、まさにこの部分に隠された秘密を教えたかったのです。このように違いが出る部分についても、人の考えの中で解くのではなく、神様のみことばである聖書を完全に信じて祈ることで、その中に込められた神様の御心と摂理を解くことができる人を待っていたということです。

それでは、神様が教えてくださった重要な事件というのは何でしょうか。実際にカイナンという人物はいました。彼はセムの正統性を受け継ぎ、純粋な血統を受け継いでいくように選ばれた人でした。ところが、カイナンはまさにこの役割をまともに果たせなかったのです。カイナンは性質が柔弱な人で、肉の考えが多い人でした。神はセムの血統を受け継いだ純粋な系図が維持されることを望み、その系図を通してアブラムが生まれることを望んでおられました。それで、セムからアブラムにつながる系図が純粋に保たれるように守られ、保護されました。もちろん、この地に救い主として来られるイエス様に至るまでのすべての過程も、神様の徹底した干渉と摂理の中に行われます。

「誰の子孫として生まれるのか、なぜそれほど重要なのでしょうか。」と考えることもできますが、それはすなわち人間耕作の歴史が偶然や勝手に動くのではなく、すべてが神様の計画の中で始まり、終えられるという事から非常に重要な意味を持っています。アダムの犯罪の後、この世界は敵である悪魔サタンの主管の下に置かれているため、敵である悪魔サタンは肉の人々を主管し、自分たちが望むように世界を導いていこうとします。このような中で神様の御心と摂理を成し遂げるためには、神様の御心を正確に受けて広げていく人物が必要です。

ところが、このように神様の御心の中で使われる人物一人が出てくることは、容易になるわけではなく、それだけ長い歳月を経て準備されなければなりません。そのためには、悪が蔓延したこの世の中で、それでも神様の御心を知って従順する純粋な正統性を持った人々が必要です。ノアという一人の人物が存在するまで、神様は彼の古くからの先祖から主管し、神様の御心が続くようにしたので、洪水の裁きの中でも生き残って人間耕作を続けるノアが出てきたように、神様の御心を純粋に続けるためには、純粋な血統を通した正統性を保存することも非常に重要だということです。それで、神様の方でも正統性を重視し、純粋な血統が続くようにしたのです。

このような事実をよく知っていたアブラハムは、息子のイサクの妻をさがすときに異邦人の中でさがしたのではなく、彼の信頼する僕を故郷に送り、自分の民族の中でさがすようにしたのを見ることができます。ところが、セムの純粋な血統を受け継いで生まれたカイナンは、このような神様の御心を悟らないまま、少し違った考えをしていました。「とにかくみんなが一人の祖父であるノアの子孫であり、ノアの三人の息子から広がってきたので、自分たちはみんなが一つの民族だ」と考えたのです。あえて「誰の子孫だ」と問い詰め、純粋な血統を受け継いでいくことはあまり意味がないと考えたのです。

結局、カイナンは純粋な血統を維持できないまま、他の兄弟の子孫と混ざり合い、一つに融和し、正統性を失ってしまいました。これは当時の状況で非常に大きな衝撃でした。系図の純粋さを受け継ぐ義務を持つ長子として、このように正統性に正面から挑戦する姿は、彼をこれ以上純粋な血統を受け継ぐ資格にとどまることが出来ないようにしたのです。結局、カイナンはセムの純粋な血統を受け継いだ正統の系図から抜け落ちてしまいます。彼が特に悪事や大きな罪を犯したからではなく、正統性の流れから完全に抜け出した人物だったため、正統の系図から名前が抜けてしまったのです。創世記や歴代誌にも、このような理由で彼の名前は記録されなかったのです。

バベルの塔の建築に参加したセムの子孫ベレク
ところが、後にセムの子孫であるベレクの代に至り、外形的には似たような状況が再び再現されます。それは、セムとハムとヤペテの子孫たちが「全地に散らばるのを避けよう」と連合して立てたバベルの塔の事件でした。バベルの塔の建築を主導したハムの子孫たちは、神様に対抗しようとする本音は隠したまま、表面的には三つの種族が一つになろうという意味で、バベルの塔の建築を推進するように話したのです。この時、セムの子孫たちは以前、先祖カイナンが正統性を無視してすべてを一つに混ぜようとしたが、系図から名前が除外される事件があったことを知っていたにもかかわらず、このようなバベルの塔の建築に参加しました。

しかし、セムの子孫たちが三つの種族がひとつになるためのバベルの塔の建築に参加するようになったのは、本質的にカイナンが持っていた考えとは違いました。カイナンは血統と血統とを混ぜて結局一つの民族を作ろうとしたのですが、バベルの塔の建築に参加したセムの子孫たちは単に「セムの子孫であれ、ハムの子孫であれ、ヤペテの子孫であれ、自分たちはみんなが一つの先祖から生まれた」ことを記念する意味で、バベルの塔の建築に参加したのです。すでにバベルの塔の事件について説明したように、バベルの塔の建築を通して自分たちが力で主導し、セムとハムとヤペテの子孫を一つにまとめようとしたハムの子孫とは異なり、セムやヤペテの子孫は単にバベルの塔を通して、自分たちが根本一つのルーツであったことを忘れずに記念しようという意図で、バベルの塔の建築に参加することになったのです。しかし、それぞれの子孫がバベルの塔の建築にどのような目的で参加したとしても、それは神様の御心には合わないことであったので、バベルの塔の事件は再び人間耕作の働きにおいて大きな転機となります。

朝の学び92 創世記11章  

 創世記11:5-9
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

三位一体の神様が自ら降臨される


続く7節を見ると、「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」と言いましたが、これはこの地に降りてくる主体が一人ではないことが分かります。父なる神様が一人でこのことを成し遂げたのではなく、三位一体の神様が一緒に成し遂げた事を物語っています。太初に天地を創造するためにこの地に降りてくる時も、3人が一緒にいたように、この時も3人が直接一緒に来て、すべてをご覧になり決定したのです。

このように、神様はあることを成し遂げるにあたって一人で決めて行なうのではなく、三人が一緒に話し合い、決定しています。三位一体の神様は、お互いがお互いを尊重され、別々ではなく、おひとりとして働かれます。もし三人がそれぞれの思い通りにされて違うならば、人間耕作の歴史は一貫性がなく進むこともできたでしょうが、いつも心を一つにして物事を成し遂げるためにすべてが一寸の誤差なく摂理され、計画されたとおりに成し遂げられるのです。

ここで私たちがただ通り過ぎてはならないことがありますが、まさに三位一体の神様が自らこの地に来られたという部分です。神様はこの地にあえて降りてこなくても、人々がなぜ町と塔を築いており、その心に何が含まれているのかまですべてを知っておられます。また、直接降りてこなくても、いくらでも人々の言語を混乱させることができます。それでも、三位一体の神様が自ら降りて来られたのは、すべてのことを直接もう一度確認し、正確な公義の中で事を成し遂げるためです。

神様はソドムとゴモラの地を審判される時も、すでに彼らの罪悪を知っていましたが、もう一度使者を送って確認させています。創世記18:20-21「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』」この地の状況を直接調べるために、自ら二人の天使を連れて降りてこられた神様は、まずアブラハムに現れ、将来ソドムとゴモラにある審判について教えてくださいます。そして、二人の御使いを直接ソドムに送り、そこの状況を調べさせました。二人の御使いを通してソドムの罪悪がどれほど蔓延していたのかを直接確認した後、硫黄と火でそこを審判されたのです

このようにバベルの塔の事件の時にも、三位一体の神様は、自らこの地に降りてきて、すべてのことを察して決定されたのです。これは、三位一体の神様が自ら見て決定するほど、バベルの塔の事件が人間耕作の歴史の中で重要な事件であることを教えていると同時に、神様がすべてのことを処理するにあたって、どれほど正確な公義の中で成し遂げられるかを示しています。詩篇96:10に、「国々の中で言え。『主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。』」とおっしゃったとおり、神様は少しの偏りもなく、ただ公議の中で公平に行なわれるという事です。

言語の混乱
では、神様は果たして人々の言語をどのように混乱させたのでしょうか。また、言語が混乱した人々の反応はどうだったのでしょうか?神様はあっという間に言語を混乱させました。これから時が来れば説明しますが、神様がこの肉の空間の中で霊の働きを行う時は、それぞれ時間を伸ばしたり、時間を減らしたり、時間を停めたりする中で一つの場合を通して繰り広げられます。ところで、言語を混乱させたのは、その中でまさに時間を停めて起こったことでした。これは簡単に言って、あまりにも早く瞬時に起こったと理解してください。それで人々は自分たちの言語が変わったという事実さえ感じられず、依然として以前に使っていた言語をそのまま使っていると思いました。 

このような状況の中で、人々はお互いの言うことを理解できなくなると、「以前は私たちがお互いに会話するときに通じたが、今はなぜ会話が通じないのか?変だな」こう思いながら離れ去っていくしかありませんでした。そして自然にバベルの塔を積むことが中断され、人々は言語が通じる人同士が集まって、散らばっていくようになりました。8-9節に、「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」とある通りです。

また、神様は言語を混乱させ、部族や部落別に言語が分かれるようにしましたが、彼らは一つの集団を成して、それなりの正統性と特殊性を維持しながら、ますます大きな集団に成長することになります。そうしながら、一つの民族となり、一つの国を形成していきます。 

神様が彼らを地の全面に散らされたという言葉のように、言語が混乱するこの事件を契機にして人類は初めて全地に広がり、多様な民族と国家を形成するようになったのです。ところが、人々がこのように散らばったことで、それぞれ定着する土地を探して移住することが、表向きには、自分たちの意志によって望む所に行くように見えました。しかし、その中には彼らの先祖を通して、それぞれの種族に与えられた祝福と呪いの言葉を叶えるための摂理が含まれていたという事です。つまり、セムとハムとヤペテに与えられた祝福と呪いの言葉に従って、彼らは自分たちが耕作される土質に合った場所に正確に移動したのです。

もちろん、種族と種族が混ざり合ったり、共存したり、また同じ種族から離れていった群れもいたはずです。しかし、それぞれの種族の主流は、セムとハムとヤベテに与えられた父ノアの言葉に従って、そのまま応じていったということです。そうしながら、強くて裕福な国と民族が出たり、相対的にそうでない国と民族が出たりして、今日のように人間耕作の歴史が続いてきたのです。10節からはノアの正統性を受け継いだセムの子孫たちの系図が出ていますが、次の時間には信仰の先祖アブラハムが出るまでの過程について見てみたいと思います。

結論


最初に先立って父なる神様はこの地に自ら降臨しながら、自らも公義の法則を破らないように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通られたと話しました。万物の主菅者であり、主人であり全能者ですが、神様は持っていらっしゃる権勢を勝手に使う方ではなく、自らが定めた法則もまた正確に守られるという事です。私もこのような父なる神様の属性をよく知っているので、私自身も教会の法の枠を外れたこともなく、堂会長として私に与えられた権勢だとしても、それを任意に行使したことがありません。

しかし、世の中ではどうですか?権威や名誉が与えられると、それを利用して法の枠を超えることもあり、自分が定めた規範や約束さえも自分の利益に合わないとあまりにも簡単に変えてしまいます。しかし、主の中では権勢があり高い地位にあるほど、法と秩序をよく守り、他の人々の手本にならなければなりません。「私は例外だから」と思ってもならず、自分の利益を追って法と秩序を崩すこともあってはなりません。

また、父なる神様は霊の法則だけでなく、この地に立ててくださった肉の法則も尊重されるように、皆さんも霊的な面ではもちろん、肉的な面でもひっかかることがないように、霊肉間に秩序と法をよく守ってください。もちろん、霊的なことが常に優先されなければならないが、肉的にも欠けていないように、すべてをあまねく調べなければならないということです。

そして、みことばを通してもうひとつ悟らなければならないことは、父なる神様があることを決めるにあたり、公義の中で正確に判断されるように、皆さんも何事にもそうでなければならないということです。三位一体の神様は、バベルの塔を積むところに親しく降りてこなくてもよかったのですが、それにもかかわらず、自ら降臨されて、もう一度すべてを調べて決められました。

このように私たちもあることを決定するにあたって決して片方の言葉だけを聞いてはいけないのです。必要に応じてもう一度確認して確認しなければならない時もあるという事です。決定を下したほうで簡単に行うことができますが、ややもすると不公平な決定のために当事者が受けなければならない苦痛を考えるならば、レビ19:36「正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。」とおっしゃった通り、すべてのことに公平でなければならないのです。

それでも、最後まで忍耐して我慢し、信仰で見てくださる神様の心のように、どうすれば「相手を生かせるか」という心で決定を下さなければならないのです。肉的なことだけを考えるなら、左右に偏らないように公平にすればいいのですが、霊的には公平でなく、ヨハネ6:63「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」という御言葉通り、常に生かす「霊」を選ばなければならないという事です

私も今まで教会を治めてきて、いつも公平に物事を処理してきましたが、それでも結局はいつも生かす側、何とかもう一度機会を与える側、このように霊の方法を選択してきました。このような私の姿を見ながら、時には周りの働き人が理解できない場合もあったでしょう。しかし、私がこのように、父なる神様の心でいつも霊の方法を選択してきたので、今の主のしもべと働き人が出てくることができたという事です。ですから、皆さんも愛と公義の調和の中で神様の働きを成し遂げますが、何が本当に神様の国のためのことか、何が本当に父なる神様の意志なのかをよく見て下さい。それでいつも父なる神様が望む道にだけ導かれていくことを主の御名でお祈りします。

朝の学び91 創世記11章  

 創世記11:5-9
そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

はじめに


父なる神様は、初めに天地を創造するために、自らこの地に降りて来られました。霊の空間におられる神様が肉の空間であるこの地に降りて来られたのです。創世記1:2後半に、「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」と言われた言葉は、その時の状況を示しています。そしてその後も人間耕作の歴史上の働きの中で神様が自らこの地に降臨された場面が聖書には何度も記録されています。

例えば,出エジプト記19:18「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」とあります。民数記 11:25には、「すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは恍惚状態で預言した。しかし、それを重ねることはなかった。」創世記17:22には、「神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。」とあり、神様がアブラハムと対話するために自らこの地に降りてこられたという事を話しています。本文5節以下にも、神様が自らこの地に降臨された事件が記録されていますが、果たしてどのようにしてこの地に降りて来られたのでしょうか。

神の降臨事件


以前に霊の空間と肉の空間の間を行き来するためには、通路のような場所を通過しなければならないと言いましたが、父なる神様もこの通路を通って降りてきました。もちろん、神様はあえてこの通路を通る必要もなく、いくらでもこの地に降りてくることができます。神様は時間の流れの変化にいかなる拘泥(他に選びようもあるのに、一つのことにこだわること)も受けられないだけでなく、いずれにしても肉と霊のすべての空間は神様に属している空間だからです。それでも、神様がこのように霊の空間と肉の空間を結ぶ通路を通ってこの地に降臨された理由は、まさに自らも公義の法則を破らないようにしたのです。

このように神様が自らこの地に降臨された時、当時の肉の人々は神様にお会いすることも、神様の降臨を感じることもできなかったという事です。神様は肉の目でお会いできる方ではないからです。しかし、霊の目が開かれて神様と交わる人々は、霊に入った深さによって違いはありますが、神様にお会いすることができます。もちろん、親しく対面して神様の形状を見ることができるのではなくても、神様が許される範囲内で神様にお会いして感じることができるのです。

例えば、モーセ預言者の場合を見れば、出エジプト記33:20-23に、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」

神様と明らかに交わっていたモーセ預言者でしたが、父なる神様の本体が降臨された時は、その形状を正面から直接お会いできたのではなく、後ろ姿だけ見ることができたという事です。ところが、民数記12:8の前半には、「彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。」とおっしゃったので「神と対面する」という言葉の意味をよく分別しなければなりません。出エジプト記33:11にも「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。」とありますが、実際に神様の本体が降臨された時はモーセが直接神様と対面できなかったことを知らなければなりません。

なぜでしょうか? 
これは神様がエデンの園のアダムと同行してくださる時や、エノク預言者と同行してくださる時を考えてみてください。以前に創世記の講解で説明したように、神様はエデンの園のアダムと同行してくださいましたが、だからといって神様の本体が直接エデンの園に降りて来て一緒にしたわけではないと話しました。第二の天と第三の天を結ぶ通路を通して、まるで顔と顔を会わせながら一緒にいるように明るく交わることができましたが、これを指して同行してくださったのだと話しました。

エノク預言者の場合も同様です。神様はエノク預言者と300年間同行してくださいましたが、この時もいちいち毎回この地に降りて来てエノク預言者と同行してくださったわけではありません。霊である父なる神様は、霊を分離することができるので、ほとんどの場合、本体が直接動くのではなく、分離された霊の分体が働かれるのです。したがって聖書に同行してくださるということは、直接神様の本体が降りてくるのではなく、分離された神様の霊が常に共にしながら交わってくださることを意味するのです。

預言者モーセもこのような場合です。神様がモーセと対面して明確におっしゃるからといって、いつも本体が直接降りてきて対話したのではなく、霊に交わってくださるのです。しかし、被造物として父なる神様と霊で交わることは、簡単な霊の次元でできるわけではありません。まさにモーセ預言者のような方であったので、神様と霊でまるで対面するように明らかに交わることができたという事です。しかし、このようなモーセ預言者でも、父なる神様の本体がいらっしゃった時は状況が変わったのです。いくら穏やかさが地のすべての人よりも優れて全家に忠実だったモーセでしたが、復活体の体を着ているのではない限りは、肉の体を着ているという肉の限界によって、父なる神様の本体に親しく会うことは出来ませんでした。

これは預言者エリヤを見てもわかります。天国では序列が高い預言者エリヤでしたが、父なる神様に直接お会いすることはできませんでした。列王記第一19:11-13「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。『エリヤよ。ここで何をしているのか。』」

父なる神様は預言者エリヤの前を通り過ぎましたが、預言者エリヤもやはり神様に親しくお会いしたのではなく、ただ父なる神様の臨在を感じることができ、声だけを聞くことができたのです。しかし、預言者エリヤや預言者モーセのように聖潔にされ、神様に似た人々であったので、神様は後ろ姿を見せてくださるか、臨在していることを感じられるように兆し(しるし)として示したのです。しかし、肉の人々は肉の目で神様にお会いすることもできないだけでなく、見せてくださるとしても、それに耐えられません。

また、神様が降臨される時、肉の目で見られる証拠を一緒に示してくださらなければ、肉の人々は神様が降臨されたという事実さえも感じることができません。それで、神様はシナイ山に降臨される時は、火と煙と山の振動で働かれ、民たちに神様の降臨を間接的にでも分かるようにしてくださったのです。しかし、霊の人であれば、たとえ神様が降臨される時に、どんな目に見える証を示さなくても、霊的な気配オーラ(オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギー を意味する。転じて、ある人物や物体が発する独得な、または霊的な雰囲気や、なんとなく感じる力、威圧 .)を通して感じることができます。

さらに、聖霊の時代なら、当然内住される聖霊様が神様の降臨を聖霊の感動の中で感じられるように働いてくださいます。ところが、本文の背景になる当時は、神様が降臨しても、その場面を見られる人がいなかったし、感じられる人さえいなかったという事です。神様の方でも彼らに目に見える兆しとして働いてくれませんでした。

神様が自ら降臨して言語を混乱させた理由


続く6節では、神様が自らこの地に降臨して、言語を混乱させた理由が出ています。「「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。」と話しています。父なる神様は初めて人間耕作を始め、すでに最後の時まですべてを摂理しておきました。だからといって、あらかじめ予定しておいたという意味ではなく、ただ神様はすべてを知っているので正確な時点に合わせて必要な状況と条件が成されるようにされるのです。

例えば、神様は、人類の救いのために救い主となるイエス様がいつ生まれるべきかを既にご存知なので、イエス様が生まれるべき正確な時点に合わせて、周辺の状況と条件を作っていきました。イエス様がどこで生まれるべきか、誰がイエス様の誕生を予備するようにすべきか、どんな親の下で生まれるようにすべきかなどを一つ一つ予備されたのです。バベルの塔の事件をきっかけに言語を混乱させたのもこれと同じです。

神様は人々がバベルの塔を建てることを全く知らずにいましたが、その時になって、突然人々がバベルの塔を建てるのを防ぐために言語を混乱させたのではありません。すでにすべてを知っていて、その時に合わせて言語が混乱するように働かれたのです。父なる神様の計画の中で人間耕作のためには人類が一つの言語、一つの民族になってはならなかったので、神様は人間たちが自らの傲慢さの中でいつ頃バベルの塔の事件を起こすことになるかをあらかじめご存知で、その時に合わせて人類の言語と民族が分かれるように働かれたということです。

したがって、「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。という言葉が文字的に見ると、人々が一つの民であり、一つのことばであるため、バベルの塔の建築も計画できたので、これ以上バベルの塔を建てることができないようにするために言語を混乱させるという意味に見えます。 


しかし、実際にはすべての将来のことを知っている神様が、時を正確に合わせて言語と民族を分けることで、今後進行される人間耕作のための環境を、完全に整える契機にしたという事です。また、全世界に多様な民族と言語を持った人々を通して人間耕作を成し遂げようとする父なる神様の摂理された御心が、バベルの塔の事件を契機になされるようになったということです。

もう少し具体的に説明すると、父なる神様は太初に人間耕作を始めてから、すでに人類の歴史の最後まですべてを知って計画し摂理されました。例えば、人間耕作のモデルとなる選民イスラエル民族が必要であることも、そのイスラエル民族を通して救い主が生まれ、救い主を通して福音が全世界の民族と国々に伝えられなければならないことも、すでにご存知で摂理しておいたのです。また、将来、人類の歴史の中で数多くの国と民族が出てきて、彼らがお互いにどんな関係の中で最後まで至るようになるかも摂理しておきました。

これを何かにつけて誤解すれば、まるで神様の側で一方的にすべてを決めておいて成し遂げられると考えられるが、これはあくまで予定ではなく予知予定だという事を知らなければなりません。人類がどうなるかを既に知っている中で、それに合わせて摂理しておいたということです。このような神様の摂理を成し遂げるためには、全人類が一つの民族として一つの言語を使う状態ではありませんでした。ですから、すべてを予知される神様は、バベルの塔の事件があることと、それがいつに起こるのかを既にご存知であり、その時に合わせて言語と民族が分かれるように予知予定の中で働かれたのです。

これは、皆さんが予定と予知予定の間の明確な違いに気づいたときにのみ理解できる内容ですが、簡単に例を挙げて説明します。もし神様がある学生に「今回の試験で一位になるだろう」とおっしゃったとしたら、これが予定でしょうか。そうではありません。予定なら全く勉強をしなくても当然1位にならなければならないでしょう。しかし、この学生が勉強をしなければ、公義によって決して試験で1位になることはできません。しかし、神様がこの学生に1位になるとおっしゃったなら、それは彼がこれからどれほど熱心に勉強することまであらかじめ知っておられておっしゃった御言葉なので、この学生は結局一生懸命勉強して1位になることになります。

そのため、予知予定には自由意志が入るという事です。予定なら既に決まったことなので、自由意志の中で従順しなくても行われますが、予知予定は従順になることまでご存知で決めたことなので、必ず自由意志の中で従順の行いを見せるときに行われることになるのです。したがって、神様がある御言葉を下さった時、自由意志の中で自ら従順でなければ、御言葉通りに成し遂げられないことであり、これは神様のみことばが間違っているわけではないという事を知らなければなりません。

朝の学び89 創世記11章  

創世記11:1-9
さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

はじめに


愛する聖徒の皆さん、今日の歴史学者や人類学者をはじめ、数多くの人々が気になっていることの一つが、まさに「人類の起源はどこからであり、数多くの人種や民族はどのように分かれて今に至るようになったのか?」ということです。これに対する解答を創世記9章、10章を通して説明しました。しかし、それに劣らず人々がとても疑問に思うことの一つは、言語についてです。つまり、「今日、人類が使用しているこの多くの言語の最初の始まりはどこであり、どのようにして分かれてきたのか? 」ということです。

この質問に対しても聖書は明確な答えを与えています。また、多くの人々が想像や伝説の中にだけ存在すると考えているバベルの塔についても、聖書は明らかな事実として記録しています。 
そして、なぜバベルの塔に神様の呪いが臨んだのかも皆さんに知ってほしいのです。今日の本文の
創世記11:1-9に、これらの疑問に対する答えがよく示されています。それでは、これから神様のみことばである聖書を通して、言語の起源と分裂、そしてバベルの塔について見てみましょう。

言語の起源と分裂


まず、1節「全地は一つのことば、一つの話しことばであった。」とあります。つまり、これから説明するバベルの塔の事件がおこるまで、この地に住むすべての人々は、一つの言語体系を持っていたという事実です。「口音」とは、文字通り口から出る音を意味しますが、ここで口音が一つだということは、簡単に言えば、当時の人々の言葉が一様に同じだったという意味です。また次に言語とは、このように口から出た音が人々の間の意思伝達の手段として体系を整えるようになったことを言いますが、このような言語が一つだということは、言語の形態や内容が同じだという意味です。

この言葉の意味をより理解するためには、現在の韓国の状況を見ればいいです。韓国は一つの民族で構成された国で、言葉の発音や言語の形と内容が同じであるのを見ることができます。もちろん、韓国の中でも地域によっては若干の違いがあることがわかります。その地方だけの方言や言葉が生まれながら、それなりの言語的特色を帯びるようになるのです。しかし、それにしても韓国人同士は、一つの口音と一つの言語を持つ民族として、いくらでもコミュニケーションが可能なことがわかります。

まさにバベルの塔の事件以前までの状況がこのようでした。土地全体の口音と言語が一つだったので、当時、この地に住む人々は、ノアの三人の息子のうち誰から始まった種族なのかに関係なく、誰でもお互いの間で意思疎通が可能でした。しかし、洪水の後、3代、4代という歳月が経ち、地域によって人々が使う言語に若干の変化が生じるようになったのです。そうすると、皆さん一つ気になることがあります。「果たして当時、人々の間で使われていた一つの言語はどんなものだったのだろうか?」ということです。ノアの洪水が起こるまではもちろん、洪水後もバベルの塔の事件をきっかけに言語が混雑するまで、人々の間で使われていた一つの共通した言語、皆さんはそれがどんな言語だったと思いますか?それはエデンの園で話されていた言語でした。

アダムとエバがこの地に追い出される前にエデンの園に住んでいる間に使った言語です。アダムとエバは、この地に降りてきて暮らすようになった後も、エデンの園で使われていた言語をそのまま使っていたので、彼の子孫も自然にこの言語を使うようになったのです。この地に人間耕作が始まってからも、エデンの園の人々がこの地に降りてきたときに大きな拒否感を持たないことができた理由の一つは、まさにこのように互いに使う言語が同じだったからです。
     
一般的に、人々が他の国に行ったとき、そこに適応する上で最も大きな障害になるのがコミュニケーションの問題ですが、当時この地で使われていた言語がエデンの園で使う言語と同じだったため、この地に降りてきたエデンの園の人々はあまり難しくなく適応することができたということです。そのため、
創世記6:2に出てくる神の子ら、つまりエデンの園の男性たちが人の娘たち、つまりこの地の女性たちを妻として、この地に定住して暮らすこともできたのですし、エデンの園の発達した文明と知識もこの地に伝わることができたわけです。

知識や文明が伝授されるためには、お互いの意思疎通が必須な要素ですが、一つの言語を使ったのでそれが可能だったのです。それで、当時、この地の人々の技術や知識では成し遂げられなかった発達した文明がこの地に生まれることができました。アダムから伝授された技術や知識もありましたが、これにエデン園の人々から伝授された内容が加わり、今の技術や知識でも解けない高度に発達した文明が存在することができたのです。このすべてが可能だった理由が、当時、この地の言語がエデンの園で使われる言語だったからということです。
     
しかし、このように最初は一つで始まった言語だったとしても、歳月が経つにつれて最初と同じになるわけではありません。生育して繁栄して地に満ちていくにつれて、人々は互いの間でますます遠く離れていき、そうするほど言語も少しずつ変質し始めました。先ほど申し上げたように、口音と言語は一つですが、地域的な特性や環境によってそれなりの言語的特色が生まれたのです。そうするうちに洪水によってこの地に8人だけが残るようになった時は、その瞬間にでも言語が統一されるようでしたが、その時はすでに最初にアダムとエバがこの地に降りてきたときに使っていた言語とは大きく変質した状態でした。

そして洪水の後、人々が広がっていくと、言語は再び少しずつ変質し始め、ついにバベルの塔の事件によって言語が混雑してしまうと、最初にこの地で使われていたエデンの園の言語は、もはや痕跡が残っていなくなります。人々が根本の肉の属性に戻るにつれて使用する言語においても肉の属性に戻る現象が現れ、それから霊の世界であるエデンの園で使用する言語もこの地で消滅してしまったのです。そのため、バベルの塔の事件以降は、第2の天のエデン園の言語と第1の天であるこの地の言語がまったく変わり、これ以上お互いの間で通用できなくなりました。これである程度疑問が解けたと思いますが、言語については7節でもう一度説明されます。

バベルの塔


続く2節を見ると「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ここでシヌアルの地はバビロン地方を指しているので、ダニエル1:1-2によれば、「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。」とあり、シヌアルの地がバビロン王国当時にその領土内だったことを物語っています。今のイラク領土の中にある土地です。

ところで、創世記10:10を見ると、このシヌアルの土地がまさにそのハムの子孫の根拠となっていることがわかります。「彼(ハムの子孫であるニムロデ)の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。」ハムの子孫たちはまさにここシヌアルの平地を根源地として、彼らの領土と勢力を育てていったのです。したがって、2節「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」ということは、まさにハムの子孫についての御言葉であることがわかります。

ところが、続く3節「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」と言いました。では、ここで互いに言ったのは誰と誰がお互いに話したことでしょうか?それはセムとハムとヤペテの家族が互いに集まって会話したという意味です。当時はノアの三人の息子から広がった子孫がまだ本格的に広がっていったわけでもなかったので、今日のように広く広がっていた状態でもなかったし、種族間の交流もありました。

そのような状況で、シヌアルの平地に住んでいたハムの子孫は、ある目的で他の種族、つまりセムとヤペテの子孫を自分たちが居住するシヌアルの地に集めさせました。ニムロデという特出した人物の登場により、ますます勢力が大きくなっていたハムの子孫たちは、自分たちの計画を成し遂げるために、セムとヤペテの子孫たちも一緒に参加する集まりを主管していったのです。

それでは、ハムの子孫はなぜここのシヌアルの地に他の種族まで集めたのでしょうか?彼らは、自分たちの先祖が父親であるノアから呪いを受けた後、ずっと呪われた種族という劣等意識を持って生きなければなりませんでした。それでもっと力と勢力を育てようと努力し、ついにニムロデという人物の登場をきっかけに、大きな勢力を成すようになったのです。彼らは、他の種族の前で自分たちの優越性を表わし、むしろ自分たちがノアからの正統性を受け継いでいる種族だということを他の種族の前で認められることを望んだのです。そのためには、自分たちの力と能力を誇示し、自分たちが主動して成し遂げられる特別なことが必要でした。それがまさにバベルの塔の建築でした。ハムの子孫は、バベルの塔の建築を通して他の種族の上に自分たちの立場を固めようとしたのです。

(つづく)

朝の学び90 創世記11章  

創世記11:4-9
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

バベルの塔


続く4節では、バベルの塔の建築を計画する意図がよく表れています。
「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」ところが、この言葉の中に込められているそれぞれの種族の隠れた真意は互いに違っていたという事です。これはどういう意味でしようか?前述のように、ハムの子孫は自分たちの優越性を表し、自分たちの正統性を主張しようとする意図で他の種族まで一箇所に集めてバベルの塔の建築を計画しました。「われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」という言葉の中には、このようなハムの子孫たちの意図が込められています。表向きは「われわれ」と言って、すべての種属を包括するかのように述べていますが、実際にはハムの子孫自身の名誉を高く表わそうとする気持ちが込められていたのです。しかし、バベルの塔の建築には、単にハムの子孫が自分たちの優越性を示し、正統性を主導していこうとする意図だけ込められていたのではありません。 

彼らのより深い心の中には、まさに神に対抗しようとする心がありました。これまで呪われた種族として劣等感の中で生きなければならず、それによって神様からもますます遠ざかるようになったことに対する一種の反発心があったのです。しかし、このような心を直接表すことはできないので、ハムの子孫は、バベルの塔の建築の目的を表面的には「われわれが全地に散らされるといけないから。」と言います。まるで元々は皆がノアの子孫として一つの種族だった三つの種族がこれからは一つになって散らばらないようにするためにバベルの塔を建築するように言っています。

そして、セムとヤペテの子孫は、ハムの子孫の本音は知らないまま、彼らの提案に同意して、バベル塔の建築に参加することになります。したがって、セムとヤペテの子孫がバベルの塔の建築に参加するようになったのは、ハムの子孫が目的としたものとは違ったということです。セムとヤペテの子孫たちは、神様に対抗しようとする心は少しもなく、「全地に散らされるといけないから」としたことも、創世記9:1「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」という神様の命令を破ろうとしたわけではありません。ただ、自分たちはみんなが一人の父から出てきた一つの民族であることを記念しようとする心で、それなりに象徴的な意味を込めて一つの建築物を建てようとしたのです。今はたとえ自分たちが散らばって暮らしていますが、私たちは皆一つから出てきたという事実を忘れてはいけないという意図で、バベルの塔の建築に参加したということです。

このように、バベルの塔の建築が結果的には神様に対峙する象徴物として建てられたが、実際にその事に参加した人々皆が神様に対抗しようとする意図があったわけではありません。ニムロデを中心とするハムの子孫だけが不純な意図を持っていたので、セムとヤペテの子孫はこのようなハムの子孫の本音を知らないまま純粋な意図で参加しようとしたが、ハムの子孫によって利用されてしまったのです。

では、当時彼らが計画していたバベルの塔の規模はどのくらいだったのでしょうか?これは深い祈りの中で幻想的に見せてくださった内容ですが、当時彼らが最初に計画していたバベルの塔の高さは、今日の建物の約15階ほどの高さでした。その形はピラミッドのような形をしており、レンガと瀝青で積み上げた建築物でした。15階建ての高さであれば、今日の建物の一階を約3.5メートルと捉えたとき、50メートル強の高さです。今見るとあまり高い高さではないかもしれませんが、当時としては決して低い建築物ではありませんでした。

創世記10:12に述べているように、すでに「レセン」という大きな城を建てていたハムの子孫は、これまで積み重ねた技術と知識と経験をもとに、バベルの塔の建築を主導し、これにはレンガと瀝青を使用する技術が用いられました。単に自然でとった石を削って積むレベルではなく、レンガを焼いて使う技術を持っていて、泥の代わりに瀝青を使う方法も知っていました。しかし、このように積み上げ始めたバベルの塔を、最初の目標とした高さほど積み上げたわけではありません。神様がこの地に降臨されて彼らの言語を混雑させるので、工事は中断されてしまいます。そして、このように工事が中断されるまで、その時間がとても長かったわけでもありません。1、2年という短い時間ではありませんでしたが、建築を始めて中断されるまでの時間が5年を超えたわけではないということです。バベルの塔の建築が中断される事件については、続く5節から次の時間に見てみます。

結論


今日はこの地に最初にあった言語がどんなもので、バベルの塔を建築することになった目的についてお話しました。しかし、今日の御言葉を通して霊的に大きく二つの面について悟らなければなりません。 
一つ目は、「霊的にも統一された一つの言語の時だけが互いに通じることができる」ということです。肉的に見ても、人の間でお互いに意思疎通ができ、何か自分が持っていることを他の人に伝えるためには言葉が通じなければなりません。お互いに通用できる一つの言語が必要です。そうでなければ、お互いに通じ合うことはできません。これは霊的にも同じで、肉の言葉を話す人と霊の言葉を話す人とは通じ合わないという事です。

例えば、皆さんもこの真理を知る前には、口から様々な世の中的な言葉が出てきたはずです。ところで、もう、真理を知り、神様の御心に従って変化していくうちに、どうなりましたか? 皆さん自身も皆さんの唇の言葉が変わってきていることを感じると思います。また、このように唇が紳聖に変化していくと、いつのまにか以前に会っていた世界の人々とは、対話が出来ないということを感じるようになります。確かに同じ韓国語を話しているのに、肉的な言葉と霊的な言葉は通じあわないからです。代わりに、霊的な言葉を話す人とは、その会話がとても楽しくて幸せで、霊の会話を交わすことができる相手がいるという事に感謝します。

もう一つの例をあげると、もしある人が肉の言葉を話すとき、皆さんがそれを肉で受けずに、霊で受けることになれば、その対話はこれ以上行われないという事です。普通の人が集まって他人を判断し、罪を犯すのを見ると、それはお互いに言葉が通じるからです。肉の言葉は互いに通じるものです。しかし、もし皆さんがそのような場所にいるとしたら、たとえ誰かが他の人を判断して、罪を犯す言葉を言っても、皆さんがそれを受け入れてあげないと、その会話は自然に途切れてしまいます。また、皆さんが他人の過ちについて聞いたとしても、皆さんがこれ以上それを言葉で伝えなければ、他人の過ちが広がらないようになります。

 

霊的に見ても、言語が互いに通じてこそ判断し、罪を犯し、ひそひそ話すことが出来ますが、このように皆さんが肉の言語ではなく霊の言語だけを使えば、非真理が伝えられないのです。だからといって、肉の言葉を話す相手を恥ずかしくさせたり、刺す言葉で会話をやめろという意味ではありません。本当に皆さんの唇から良い言葉、美しい言葉のような甘いものを出すと、自然に苦い水を出す唇は閉じられます。そんなとき、出エジプト23:1に「偽りのうわさを言いふらしてはならない。者と組んで、悪意ある証人となってはならない。」という言葉のように、肉の言葉は口にすることも、伝えることもなくなるのです。天国の民として、常に愛の言葉、真理の言葉、善良な言葉、聖なる言葉などの美しい霊の言葉だけを使用できることを願います。

今日の御言葉を通して悟らなければならない二つ目は、同じ罪でもどんな心で犯したかによって、罪の軽重が変わるということです。一緒にバベルの塔の建築に参加しましたが、神様がハムの子孫に問う罪の値と、セムやヤペテの子孫に問う罪の値は違うという事を知らなければなりません。ハムの子孫たちはすでに心に不純な意図を持って意図的に神様に対抗したのであり、セムとヤペテは神様の御心を気づいていないので、つい不義なことに参加することになったのです。したがって、その中心をご覧になる神様は、表に現れた同じ罪の行いに対しても、その中心を推し量って罪の軽重を問うという事です。
     

ルカ:12:47-48 前半を見れば,「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。」とあります。主人の意志を知っていながら、その通り行わなかったということは、故意に主人の意志を踏みにじったということで、知らずにしなかった人とは状況が違います。それだけ心に悪を持っているのであり、主人の命令に対する明白な反発です。ハムの子孫の状況がまさにこのようだったのです。

しかし、だからといって、セムやヤペテの子孫の罪は小さいという意味ではありません。ハムの子孫に比べて小さかったのですが、セムやヤペテの子孫も霊的に目覚めていれば、ハムの子孫のねじれた心の策略に陥らないことができました。言葉がいくらもっともらしく聞こえるとしても、霊的な分別力があったとすれば、神様の前にバベルの塔を積むことが神様の御心に合わないことに気づいたはずです。
 
太初に霊界でルシファーが反乱を起こすようになった原因が、まさに神様のようになろうとした高慢だったように、
「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」という言葉の中には、敢えて被造物として自ら高めて天にたどりつこうとする傲慢さが込められています。霊的に目覚めていたら、自分たちのこのような考え自体がすでに神の前に高慢だったという事に気づいたでしょうが、セムとヤペテの子孫たちはそうではありませんでした。

これは今日も同じです。敵である悪魔サタンが惑わそうとする時は、もっともらしい言葉で接近してきます。この時そのような言葉を真理でよく分別すれば、決してその偽りを見過ごすことはないでしょう。しかしまさに心に欲があるので、自分の利益に合う言葉には耳寄りになり、結局迷いこんでしまうのです。このような事実をよく肝に銘じ、皆さんは霊的にも常に目を覚ましていなければならないのです。そして敵である悪魔サタンに惑わされ、神の意思ではないと知りながら悪を行っていくことはあってはならないでしょう。ただ父なる神様の善を喜び、完全な御心が何なのか分別して、常に真理の道に導かれることを主の御名でお祈りします。

朝の学び88 創世記9-10章  

創世記9:28-10:32
ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。 ゴメルの子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、ドダニム人。これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、パテロス人、カスルヒム人・・これからペリシテ人が出た・・、カフトル人を生んだ。カナンは長子シドン、ヘテ、エブス人、エモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムに向かってレシャにまで及んだ。以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、その国により示したハムの子孫である。セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。アルパクシャデはシェラフを生み、シェラフはエベルを生んだ。エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、ハドラム、ウザル、ディクラ、オバル、アビマエル、シェバ、オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、ヨクタンの子孫であった。彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であった。 以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。

はじめに


ノアは洪水の後、さらに350年を生き延びましたが、この時間こそ自分自身を徹底的に発見し、根本的な肉の属性まで捨て去っていく真の人間耕作の時間でした。洪水の前には義人であり、その時代に完全な者と呼ばれるほど傷がなく、行いにおいては完全に見えましたが、それはあくまで神様が囲まれた霊的な光の中にとどまっている状態だからでした。まだ根本に内在する肉の属性が明らかになっていない状況だったので、表に現れる彼の行いや姿は完全に見えたのです。

ところが、洪水の後に光が取り込まれて、根本に内在していた肉の属性が明らかになると、ノアはこの時から心の奥底まで開墾する本格的な人間耕作を受けるようになったのです。しかし、ノアは350年を耕作されながらも、父なる神様が望む完全な分量には至りませんでした。まさに根本に内在する肉の属性まですべて取り除く、完全な聖潔の段階には至っていなかったのです。それでノアはそのように神様の前に忠誠を尽くし、洪水以後に新しい人間耕作の出発点になるという非常に重要な役割を果たしたにもかかわらず、新しいエルサレムに入る栄光は得られませんでした。結局3天層に留まるしかなかったのです。

ここで皆さんが誤解してはいけないのは、ノアはたとえ聖潔という観点から見て、完全に悪の形をすべて捨てた状態ではなかったにもかかわらず、3天層に行くことができたという事です。 3天層は完全に聖潔にされなければならないと言いましたが、ここには旧約時代と新約時代との違いがあることを知らなければなりません。旧約時代は、まだ聖霊が心の中に内住していた時ではないので、心にある罪を行いとして示さなければ、それが罪とは認められなかった時でした。もちろん旧約時代にも神様の御心を明らかに知っていた人々は、聖霊の力に支えられて心を割礼していくので、根本に内在した肉の属性までも解決した場合があります。しかし、肉の割礼をした旧約時代の人と、聖霊の力に支えられ心に割礼ができる新約時代の人とに、聖潔の基準を同じように適用することはできないでしょう。そのため、ノアは父が望む完全な聖潔の分量には至らなかったものの、3天層の栄光が与えられるようになったのです。

ノアは彼の人生を終える瞬間、自分の人生を振り返りながら多くの後悔を残すことになります。 息子のハムを呪った自分の姿も後悔したはずで、洪水以後、肉の秩序上最も頭だという立場によって、自分の足りない姿をより完全に発見できないままに生きてきた過去を後悔しました。ここで私たちは頭になればなるほど、より一層自分自身を振り返る事に目覚め、勤勉でなければならないことを悟らなければなりません。お世辞を言いながら良い言葉だけを言う人ではなく、時には聞きたくない言葉でも真実を語ることができ、自分の魂に有益な言葉を言ってくれる人を近づける知恵が必要なのです。もちろん話す時は常に善でなければなりませんが、真に善良な言葉とは、単に聞くことだけに良い言葉ではなく、相手に自らを発見して変化できるように悟らせる言葉だという事です。そして、このような善良な言葉こそ、箴言16:24「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」と言われたように、聞く人の心にも甘いだけでなく、その魂に良薬になるのです。ところが当時、肉の秩序上一番頭にあったノアは、このように骨に良薬になる善良な言葉を言ってくれる人がいなかったし、またたとえそのような人がいたとしても、自分の傲慢の中でその言葉を受けることができなかったので、結局人生を終える瞬間このように後悔せざるを得なかったのです。もう少し時間があればという残念さもあったとおもいますが、今は後悔しても、これ以上の機会が与えられるわけではありません。

ですから、皆さんも本当に新しいエルサレムを望むなら、今与えられたこの時間を決して無駄にせず、新しいエルサレムに向かって力強く前進していくことをお願いします。恵みの時代であり、聖霊の時代である今は、心の中にある悪はその形でもすべて捨ててこそ、3天層以上に入ることができます。いくら自分の人生を神様の前に捧げて忠誠する人生を送ったとしても、その心の中に、父なる神様が嫌がる悪の形が少しでも残っていれば、新しいエルサレムはもちろん3天層にも入ることができません。このような事実を肝に銘じ、皆様の心に「私も完全な聖潔を成し遂げる」と、もう一度誓う貴重な時間になられますように主の御名でお願いします。

セムとハムとヤぺテの子孫


本文の創世記10:1には、「これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれた。」と述べて、続く2節から32節までは、ノアの3人の息子たちから始まったそれぞれの系図が、短くは3代から長くは5代まで記録されています。私たちはこのような聖書の記録を通して、洪水後にノアの子孫がどのように繁栄し、この地に広がっていき、また将来、それぞれどのような民族に発展していくのかを知ることができます。今日、世界の人々はノアの洪水を一つの伝説や説話程度と考えているため、洪水後、ノアの三人の息子を通してこの地に新たに民族と人種が広がっていったという事実についても、否定的な立場をとっています。しかし、私たちは本文に記録されたノアの子孫の名前と歴史上に残っている記録を比較することで、聖書の記録がどれほど真実であるかを証明することができます。これから簡単に見てみますが、創世記10章に出てくるノアの子孫の名前が古代の民族の名前と地名、都市名などにそのまま残っており、それが今日まで伝えられているという事です。
 
まず、ヤペテの子孫を見てみると、彼らは今日ヨーロッパ民族の祖先になったと言います。ところが、ヤペテの息子の中でゴメルの名前が、現在でもフランスとスペインの地名の中に痕跡として残っているそうです。またゴメルの息子の中にアシュケナズという名前がありますが、これは今日のドイツを称するヘブライ語の名称です。これを通して、ヤペテの息子の中で、ゴメルの子孫が今日、フランス、スペイン、ドイツを形成している民族と関連があるということを知ることが出来ます。

次に、マゴクという名前はエゼキエル38:2「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、」と言われた言葉のように、その名前が地名としても使われていますが、有名な歴史学者ヨセフスの記録によると、ギリシャ人はここマゴグの地に住んでいた人々をスキタイ人と呼んだそうです。今日のルーマニアやウクライナを含む地域の古代の名前がスキタイでした。これはすなわち、マゴクの子孫が今日ルーマニアとウクライナに住んでいる民族と関連があるという事を証しています。

また、ヤペテの息子の中でトバルという名前も、その名前から派生したトリリッシュという言葉が、今日、旧ソ連連邦のグルジア(ジョージア1991独立)地方で地名として使われているそうです。そして、ヤペテの息子の中でメシェクという名前はモスクワの昔の名前であり、現在もその周辺地域の中には依然としてメシェクの名前にちなんで呼ばれているところがあるそうです。このほかにも、ヤペテの息子の中で、ヤワンとその息子たちはギリシャ、ティラスは今日のユーゴスラビアと関連があると言われています。このようにヨーロッパのあちこちには、今日までヤペテの息子たちとその子孫たちの名前があちこちに痕跡として残って伝えられているという事です。

次に、ハムの子孫について見てみると、彼らは今日のアフリカ民族の先祖になりましたが、ハムの息子たちの中でクシュという名前はエチオピアを称するヘブライ語であり、ミツライムはエジプトを呼ぶヘブライ語です。創世記50:11に見ると、「その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、「これはエジプトの荘厳な葬儀だ。」と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こうの地にある。」とありますが、ここでアベル・ミツライムという言葉は「エジプトの哀痛」という意味でミツライムがエジプトを指していることが分かります。また、ハムの息子の中でプテはリビアを称するヘブライ語で、カナンは後にローマ人によってパレスチナと呼ばれた地域のヘブライ式の名前です。パレスチナという言葉は今日までも使われています。このようにハムの息子たちの名前も歴史的な記録だけでなく、今日までもその痕跡がそのまま残っていることが分かります。

次に、セムの息子の中にエラムがいますが、エラムはペルシャの昔の名前で、ペルシャはまさにイランの古い名前でもあります。また、セムの息子アシュルはアッシリアのヘブライ語であり、アラムはシリアのヘブライ語です。このように、セムの息子たちの名前も地名や国の名前にその痕跡がそのまま残っているという事実です。これは、まさにノアの子孫が確かに歴史が証明する実存の人物であったことを証明するもので、言い換えれば、ノアも実在の人物であり、聖書に記録されたノアの洪水も明らかな歴史的事実であったことを物語っているのです。

神様は、このように、ノアの子孫の名前が歴史の記録を通して随所に残るようにすることで、創世記10章に出てくる人々の名前が実際であり、創世記10:32「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系であ。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」とおっしゃったとおり、まさに彼らを通して世界中の多様な国と民族を成すようになったという事を立証しているのです。

ところで、皆さんが知っておくべきことは、ノアの3人の息子たちから生まれた子孫が、必ずしも聖書に名前が記された人々だけがいたわけではないという事です。聖書に記録された名前は息子の名前だけ記録されていますが、この息子たち以外にも当然娘たちがいました。また、創世記10章では、ノアの3人の息子から生まれたノアの孫の名前はすべて記録されていますが、その次の代からは数人の息子から生まれた子孫の名前だけが記録されています。例えば,ヤぺテには七人の息子がいたにもかかわらず,聖書はその中でゴメルとヤワンを通して生んだ息子たちだけを記録しています。セムも5人の息子がいましたが、その中にアラムとアルバクシャデを通して産んだ息子たちの系図だけを記録しています。これはまさに多くの息子がいましたが、その中で誰を通してその家門の正統の系図が続くのかを知らせているのです。息子たちの中から純粋にその家族の血統を受け継いで、正統の系図を継いだ息子が誰なのかを物語っているということです。

当時は、人々が広がり始めたばかりで、自分たちの純粋な血統だけを引き継いだのではなく、異なる血統とも結びついて子孫を生んで繁栄していきました。例えば、ヤペテの血統とハムの血統が混ざることもあり、ヤペテの血統とセムの血統が混ざることなどがありました。こういう中でも自分の純粋な血統を守った人がいて、まさに彼らを通してその家門の純粋な正統の系図が受け継がれていったのです。

創世記10:5「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」を見ると、ヤペテの子孫がとどまった土地が海沿いの地であったことがわかります。ヤペテはその父であるノアが「神がヤペテを広げ」と祝福したとおり、広がっていく祝福を受けましたが、すぐに海沿いの肥沃な土地をもとに繁栄していくことができました。海沿いの肥えた土地を占有して定着することで、強固な基盤をもとに豊かになれる土台となったのです。さらに、ノアの洪水以来、水と船についての知識を積んだ彼らだったので、ヤペテの子孫はこのような知識と経験をもとに迅速に広がっていくことができたのです。

しかし、彼らが本格的に散らばって広がり始めたのは、バベルの塔の事件の後です。バベルの塔の事件をきっかけに、ノアの三人の息子たちの子孫はそれぞれ、その先祖たちによって与えられた祝福と呪いによって、彼らが占めるべき土地に広がっていきます。そしてこのようにして定着した土地の気質と、彼らが先祖から生まれついた気質が合わさって、本格的に今日のような多様な民族と人種に分かれるようになるのです。そして民族ごとに特性が生まれるようになり、人種間にも確実な区分が生まれ、今日に至るようになったのです。


クシュの息子ニムロデ


肥沃で肥えた海辺の土地を占めるようになったヤペテの子孫とは異なり、ハムの子孫は荒涼とした土地を占めるようになります。その代わりに、ハムの子孫は彼の先祖であるハムの気質を受け継いで、他の種族に比べて丈夫になることができ、したがって多くの子孫を出して急速に繁栄していきました。そして大きく三つの民族に分かれます。ハムの4人の息子の中で、クシュを通して形成される民族と、ミツライムを通して形成される民族、そしてカナンを通して形成される民族に大きく分けられたのです。クシュの子孫から形成される民族は、後にクシュの息子であるニムロデを中心に束ねられ、ミツライムの子孫からは後のペリシテという民族が出てきます。また、カナンの子孫からはカナンの様々な諸族が出てきます。

このようにハムの子孫が大きく三つに分かれたとしても、その中でクシュの息子であるニムロデを中心とした民族が最も大きく、強い民族として位置づけられます。そのため、後にバベルの塔の事件を主導することになるハムの種族が集まる時も、まさにニムロデを中心に束ねるようになります。言い換えれば、ハムの子孫の中にニムロデという人物がいたため、彼を中心にハムの子孫が集まってバベルの塔の事件を謀議することができたのです。さらに、バベルの塔の事件には、ハムの子孫だけでなく、ヤペテとセムの子孫も関与することになりますが、これは当時それだけでなく、ハムを中心とするハムの子孫の勢力が強大だったことを物語っています。

ニムロデを中心とするハムの子孫が主導することに他の種族も一緒にするしかないほど、当時のハムの子孫は強く、周辺の広い領域まで影響力を行使したのです。もちろん、次の時間に詳しく説明しますが、ハムの子孫がバベルの塔を建てようとした目的と、ヤペテやセムの子孫がバベルの塔を建てようとした目的とは異なっていました。しかし、ハムの子孫が主導することに、他の兄弟の子孫が知らないふりをすることはできなかったのが当時の状況だったということです。では、バベルの塔の事件はノア洪水以後、どのくらいの年月が経って起こったのでしょうか?バベルの塔の事件が洪水の後三代か四代か程後に起きたとする、正確な時点が25節に記録されています。

創世記10:25「エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであった。彼の時代に地が分けられたらである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。」エベルは二人の息子を産み、一人の名前をベレクと呼びました。彼の時代、地が分かれました。ここで「彼の時代に地が分けられたからである。」と言われた御言葉が、まさにバベルの塔の事件によって、ノアの子孫の族属が散らばったことで、地が分けられるようになったことを意味します。このように地が分けられるときに、エベルが生んだ息子の名前がペレグだと言ったので、ノアの息子セムが生んだアルパクシャデが1代、アルパクシャデの息子シェラフが2代、シェラフの息子エベルが3代、エベルの息子ペレグが4代 として、洪水以後正確に4代目に達し、バベルの塔の事件が起きたことがわかります。

次の時間からは、バベルの塔の事件の詳しい説明が出ていきます。また、バベルの塔の事件の前は、全地全体の口音と言語が一つと言っていましたが、果たしてその言語はどんな言語であり、このように一つだった言語がどのように分かれるのかについても説明することになるでしょう。そして、バベルの塔の事件の前に一つだった言語の痕跡が今もどこかに残っているのかについても説明したいと思います。

 


結論


創世記10章はこれから続くバベルの塔の事件を説明するための背景になります。ノアの三人の息子たちの子孫がどのように広がり、後日バベルの塔を建築するかが創世記10章の中に間接的に暗示されています。ハムの子孫ニムロデに対する言葉やセムの子孫ベレクの時に「地が分けられた」とおっしゃったことばなどが、まさにバベルの塔の事件を暗示する内容です。呪われた民族という劣等感を持っていたハムの子孫たちがニムロデという指導者を中心に団結して洪水以後4代の頃になって、結局神様に対抗する事件を起こすことになったのです。

太初(天地のひらけた初めの時)以前、霊の世界で反乱事件が起きた時も竜の主動勢力があり、彼らが長年にわたって自分たちの支持勢力を一つに集めて神様に対抗したように、ハムの子孫も呪われた後、一気に神様に対抗したのではなく、それなりの力が生まれるまで待ってからバベルの塔の事件を起こしたのです。今日、分裂や争いが起きている教会でも、これと似たような状況が展開されます。良くない心を抱いている主導者を中心に同じ考えを持った何人かが集まるようになり、彼らがある程度時間をかけて自分の勢力を一つに集めて、今はある程度自分たちの勢力が集められたと判断できる決定的な瞬間に本音を行動で表わすのです。ニムロデを中心とするハムの子孫がまさにこのような状況だったということです。

また、創世記10章の内容を見ると、バベルの塔の事件に対する暗示だけでなく、将来のセムとハムとヤペテの子孫の関係がどうなるかについても輪郭が明らかになります。セムの子孫として、後日神の選民に選ばれるイスラエル民族と、呪われたハムの子孫として生きていく民族の間で、これから起こる出来事についても暗示されています。将来のすべてをご存知の神様は、創世記10章を通して将来明らかになる父なる神様のご意志と摂理のためのすべての環境を造っておかれていたのです。セムの子孫であるイスラエルを選民として選択し、彼らを訓練する道具として、彼らの周辺に他の民族を定着させたので、サムエル第二7:14「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。」とおっしゃったように、まさにイスラエル民族の周辺にいる異邦民族がイスラエルを訓練する杖とむちになったわけです。

これは今日も同じです。「周辺に迫害や妨害がなければ良い」と考えることもできますが、神様は私たちを真の子どもにするために、時にはいろいろな環境を許すことで、その中で訓練を受けて、純金のように出てくるようにされるのです。また、「私の周辺にヤギのように刺す人さえいなければ良い」と思う方がいるなら、まさにその人を皆さんのそばに置いた神様の摂理に気づいてください。しかし、皆さんは他人を刺す道具である杖や鞭になってはいけません。刺して殴る杖や鞭ではなく、やさしく包み込むことができる綿毛のような皆さんにならなければなりません。ですから、皆さんはいつも「自分自身が他の人を刺す人ではないか?」と振り返って自分を点検していくことを願い、また皆さんの周りに皆さんを刺す人がいるなら、むしろそれを感謝の気持ちで受け、皆さんを綿毛のように変化させる機会にしてください。それで、迅速に神様が望む美しい器に変化して出てくることを主の御名でお祝いします。

朝の学び87 創世記9章  

創世記9:24-29
ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

ハムの子孫、ニムロデ

このように呪われ、ますます神様から遠ざかるようになったハムと、このようなハムの気質を受けて生まれた子孫たちは、以後三、四代に至り、多くの子孫たちに広がっていきながら、神様に対抗する途方もない事件を起こしてしまいます。創世記11章に出てくるバベルの塔の事件です。次の時間からもう少し具体的に説明しますが、ハムの子孫の中にニムロデという人がいますが、彼を通して建てられた国が創世記10:10に見ると、「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。」とあります。シヌアルという地名とバベルという言葉が出ています。ところが創世記11章を見ると、バベルの塔が積まれているところがシヌアルの平地でした。創世記11:2「 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」
 

したがって、私たちはバベルの塔の事件がハムの子孫と深く関連していることがわかります。もちろんバベルの塔事件には必ずしもハムの子孫だけ関与したわけではありませんでしたが、神に対抗するこの事を主動していったのは、ハムの子孫だったという事実です。ハムの子孫たちは呪われた先祖の子孫として、自分たちが呪われたという劣等感によって、むしろ自分たちの部族をひとつに集めて自分たちの優越性を表そうとしました。自分たちがもっと優秀な民族として、自分たちを中心に他の民族を一つに集めてみようとしたのです。自分たちの劣等感を挽回するために何とか力を合わせて他の民族の上に立とうとする悪い考えが発動するようになったのであり、さらには神に対抗するバベルの塔まで建てることになったのです。

そして11章で説明しますが、ここに他の兄弟の子孫から出た民族まで一緒に参加することで、人類の言語が分かれ、ばらばらに広がる人類歴史の一大転機を迎えます。ハムの子孫がこのようにできたのは、ハムの子孫の中で先に申し上げたニムロデという存在があったからです。それに対して、創世記10:8で、「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。」と言うほど、当時ニムロデという存在は非常に優れおり、このようなニムロデの存在によってハムの子孫はそれなりの自負心を持つようになり、自分たちが優越していると考えるに至ったのです。

また、創世記10:10-12を見ると、「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった。その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、およびニネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。」に見ると、ニムロデによって様々な国が建てられ、周辺の土地にも広く進出していき、レセンという大きな城までも建築したという事実がわかります。まさにこのような様々な条件が当てはまり、ノアの三人の息子から民族が広がり始めてから、三、四代に至った頃にハムの子孫が主動しバベルの塔を建築する事件が発生したのです。「塔を建てることがなぜそんなに問題になったのか」と考えることができますが、問題は塔を立てること自体ではなく、塔を立てる人々の心と目的です。

創世記11:4に見ると、「そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」と言ったのです。これについては11章に行って詳しく説明し、今はしばらく皆さんが気になる人種について説明させていただきます。


ノアの3人の息子による人種の変化 

 今日、この地球上には大きく白色人種、黄色人種、黒色人種がありますが、これも結局ノアの三人の息子たちから出たものです。では、3人の息子たちからそれぞれどんな人種が出てきたのでしょうか。一部の人々は、ノアが呪いをかけてから彼の3人の息子たちから人種が分かれたと言います。例えば、呪われたハムの子孫が黒色人種になったということです。しかし、結果的には、その言葉が正しいとしても、呪われた瞬間からすぐに人種が分かれたわけではありません。前回お話ししたそれぞれの3人の息子たちに伝わった気質と、将来彼らが定着して生きていく土壌の気質が2つの要素によって、次第に人種の変化が明確に現われるようになります。

しかしここで気質というのは必ずしも性格的な面での気質だけを言うのではなく、外見や形態的な気質も含むのです。そのため、例えばハムの子孫が持って生まれた気質的な要素と、彼らが定着して生きていくアフリカという土地の土質の二つの要素が結合され、次第に歳月が経つにつれて黒い肌を持つ人種が出てくるのです。他の兄弟の子孫も同様です。ヤぺテの子孫が受けて生まれた気質的な要素と、彼らが定着したヨーロッパという土地の土質的な要素が結合して、今ヨーロッパに住む人々の人種が出てきます。もちろん、時間が経つにつれて、周辺の様々な環境や食べ物などによって、同じ白人種の中でもさらに細分化され、多様な外見と形を持つ種族に広がっていくようになったのです。人種やバベルの塔に関する内容は、今後、創世記10、11章でもう一度具体的に取り上げられます。

 


結論

皆さん、洪水の後、ノアはさらに三百五十年を生き、九百五十歳で亡くなりました。洪水の前に、義人であり、当世に完全な者として神様の選択を受け、洪水の審判にも生き残り、新しい人類の先祖になったノアは、実に波瀾万丈な人生を送りましたが、彼が人生を終える瞬間、ノアの心に訪れたのは他でもない後悔でした。

洪水前の600年という歳月を生きている間、ある意味神様と明確に交わり同行し、神様の前に大胆にすることができましたが、洪水後350年という歳月を生きている間は、神様の前にそれほど大胆な人生を送ることができなかったためです。根本的な肉の属性が明らかになり始め、いろいろな悪の姿が現れるようになり、神様の前にそれを完全に解決できなかったノアは、もう人生を終えて自らを振り返るときに神様の前に堂々とすることができなかったのです。だからいくら洪水の前に義人であり、当世において完全な者であり、新しい人間耕作の出発点という重要な役割を果たしたにもかかわらず、彼は新しいエルサレムに入ることができませんでした。

彼は3天層の栄光で満足しなければなりませんでした。彼がひどい悪の形を発したり、肉の姿の中でそのような姿が出てきたのではありませんが、人生を終える瞬間、神様の前に悪はすべての形でもすべて捨てたと言える状態ではなかったためです。それでも旧約時代にいた者として、それだけでも成し遂げたという点で、3天層という栄光が与えられるようになったのです。
しかし、3天層もノアにとっては十分すぎるほど大きな栄光の席だったのです。アダムに比べれば、どれほどすばらしい栄光の場でしょうか。

皆さん、「ノアのような方なら当然新しいエルサレムに行くことができたのではないか」と思うかもしれませんが、彼がこの地でいくら重要な使命を耐え、また一生を捧げて献身して苦労したとしても、彼は神様の方から望むほどの分量には 至らなかったという事実です。新しいエルサレムに入るためには、悪は形でも捨てて、完全な聖潔と全家に忠実でなければなりません。あふれるほど苦労して忠実だったとしても、完全な聖潔を成し遂げられなければ、新しいエルサレムはもちろん、3天層に入ることも大変です。

ですから、本当に新しいエルサレムを望む方なら、発見された根本的な肉の属性までも完全に抜いてください。また、与えられた環境の中で、全家に忠実に行ってください。それで、多くの方々が、父なる神様が望む新しいエルサレムの子どもの資格に至ることで、輝いた栄光の中で、永遠にとどまるようになることを主の御名でお祈りします。
 

朝の学び86 創世記9章  

創世記9:24-29
ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

序論

皆さん、酒から覚めたノアは、息子のハムが自分にしたことを知り、それによって息子ハムに対して呪いをかけることになります。本文に見ると呪いの対象がカナンになっていますが、これはハムと彼の子孫の両方に該当するのです。


セムとハムとヤベテの祝福と呪い

創世記9:18にハムをカナンの父と記録しているように、ハムには多くの息子がいたにもかかわらず、彼を特別にカナンの父と記録したことは、ハムの種族の正統性を将来、息子カナンが引き継ぐことになるという事を物語っています。まるで複数の子どもを持つ父親がいると言う時、人々はたいてい長男の名前を挙げて「○○の父親」と呼びますが、それよりは必ずしも長男でなくても、子供たちの中で非常に優れているか、出世して家門を代表して引き継ぐほどの子供がいる時は、むしろその子供の名前を挙げて「誰々の父親」と呼ぶようなものです。ハムの種族も息子の中でカナンが系図の正統性を続け継いでいく息子だったので、結局このようにハムの正統性を受け継いだ息子であるカナンに対する呪いは、 すなわちハムの種族全体に対する呪いのようなものです。

そして、この呪いによってハムの種族は霊的にはもちろん、肉の秩序上においても兄弟の中で最も低い位置に置かれています。「兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」と言ったので,ハムの種族は将来人類の歴史において他の兄弟の種族と比較すると、しもべのような位置にしか立たなくなります。人類の歴史を導いていく上で、主役の位置に立つことができないまま、ただ周辺人物としてしか役割を果たせない立場になったのです。

一方、息子セムとヤベテには祝福の言葉が宣言されます。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」と言いました。この御言葉の中には、将来ノアの三人の息子たちを通して広がっていく子孫たちが、果たしてお互いにどのような秩序関係を持つようになるのかが込められています。セムに対しては、「ほめたたえよ。セムの神、主を。」という保証と祝福が与えられており、これを通してノアの正統性を息子セムが受け継ぐことになるという事実もまたわかります。次に、ヤペテについては、「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」とおっしゃったとおり、ヤペテも多くの繁栄と祝福があることがわかります。

 

しかし、セムのように正統性を受け継いだ一つの主体として祝福を受けるのではなく、その祝福がただセムの幕屋に一緒に居ながら与えられることになるという事です。したがって、ヤベテが祝福と繁栄の約束を受けて壮大に伸びていくことはできますが、結局ヤベテも神様の側から見る時は、人類の歴史の中心にいることはできないのです。それはまるでロトが大きく祝福を受けることができたのが叔父であるアブラハムの中に居たためだという事と同じ理屈だと言えます。

一方、カナンはこのようなセムとヤベテのしもべになると言っていましたが、これは実際に後日セムの子孫であるイスラエル民族によってカナンの地が征服されてから行われます。当時、カナンの地に住んでいたカナンの子孫たちが、次々にイスラエル民族によって征服され,彼らのしもべになってしまったのです。また、ハムの子孫である今日のアフリカの様々な種族も、過去の歴史の中で、ヤペテの子孫であるヨーロッパの種族によって奴隷として多くの受難に遭わなければなりませんでした。しかし、カナンがセムやヤペテのしもべになるということには,このように直接的に僕になるという意味とともに、彼の子孫が将来、不毛と苦痛と迫害の中で生きていくという意味が込められているという事です。

そして実際、今のアフリカの種族の多くは、飢餓と苦しみと迫害の中に生きており、かつてカナンの地を征服して生きたハムの子孫も、イスラエル民族によって追い出されるようになってからは、イスラエルによって主導される歴史の流れの中で、苦痛と迫害を 受けながら生きていくようになります。もちろん、神様が赦されるときには、彼らによってむしろイスラエルが苦痛を受ける時もありましたが、結局神様が導いていかれる人間耕作の歴史において、ハムの子孫は決して主体になることができず、付随的な役割しかやり遂げられないのです。僕 奴隷 とは支配されるという意味であり、自分のものはなく、すべてを放棄して渡すしかない立場なので、ハムの子孫は歴史の流れの中でそのような立場に置かれるようになったのです。

たとえ霊的な権威の中ではなくても、当時の肉的な秩序の中で、神様から保障される権威を持っていたノアの一言が、このように後日、人類の歴史の流れを決定づける契機となったのです。私たちはノアの場合を通して、権勢というものがそれを所有するよりも、使用することがはるかに重要であることを知らなければなりません。権勢とは、それを持つ人によってどのように使うかによって、いくらでも善の道具になることもあり、逆に人を苦しめる道具になることもあります。権勢が真理の中で美しく使われるならば、それは多くの人を生かして喜ばせるが、非真理として誤って使われると多くの人を苦しめ、苦痛の中に陥れるかもしれません。
     

箴言29:2「正しい人がふえると、民は喜び、悪者が治めると、民は嘆く。」と言いましたが、皆さん自身は自分を考えるとき、皆さんが権勢を握れば民が喜ぶでしょうか? それとも、民が嘆くのでしょうか?権勢とは、握って振り回す時ではなく、むしろ仕えの道具として使われるときに、本当にその価値が美しく輝くという事実です。ですから、神様の息子になった権勢を持っておられながらも、ただ仕えの模範を見せられたイエス様のように、皆さんもやはり自分に与えられる小さな権勢でも、仕えるための美しい道具としてご使用いただきますよう、主の御名でお願いいたします。


非真理の道に陥るハムの子孫

ノアから呪いを受けたハムは、以後ますます心が神から遠ざかっていきます。根本に内在する肉の属性が出てくるからでもありますが、呪いが宣布されてからは、彼の考えがますます父から受けた教えとは遠ざかっていったのです。これは、まるである子どもが大きな過ちによって、「自分はもう父親から捨てられ、自分の将来もやはり見こみがない」と考えるときに、むしろますます両親の言うことも聞かなくなり、非真理の道に陥っていくようなものです。 

サウル王の場合を見ても、彼は自分の過ちによって神様が自分を捨てたという事実を知ったときに、徹底的に悔い改め振り返ろうとするよりは、弁解することに汲々とし、その後はむしろさらに悪しく、神様の御心に対抗していったことが分かります。むしろ彼を王として油を注いだサムエル預言者まで、サウルを恐れて避けたのを見ることができます。ハムの父であるノアから呪いの言葉が届くと、何とか父の心を変えようとしたのではなく、むしろ父の意志に敵対する方にだけいってしまったのです。 

このような姿は今日でも見られます。例えば、ある人が神の御前に大きな罪を犯したときに、神様が誰かの唇を通して、そのような罪の結果がどのようなものかを悟らせてくれる時があります。その言葉を聞いて悔い改め、立ち返ることを望んでいるのです。それなら、この時、そのことばが自分に当てはまると思う人は、当然その場で悔い改め振り返って、神様の御心通りに行っていかなければなりません。ところが、このような場合、ある人は自分の考えの中で「私はもう赦されないようだ」「私には呪いが臨む」というように断定してしまいます。そうしながら悔い改めるよりは、自暴自棄になって、ますます深い罪の中に落ちていきます

これはまさに神様の愛を知らないからです。私たちの罪を赦してくださるために、一人子の息子までも与えてくださった神様の愛、七度を七十倍するまで(マタイ18:22)赦して、いたんだ葦を折らず、くすぶる灯心を消すこともない(マタイ12:20)主の愛を心から感じることができないからです。本当にこのような主の愛を感じる人なら、主が罪を指摘し悟らせてくれた時に、たとえ今の自分の姿によって主の前にあまりにも恥ずかしくても、再び主の前に進み許しを求めるでしょう。しかし、このような愛の心を感じられないときは、主の前に再び進む力さえ得られないまま、自らに対してあきらめてしまうのです。

ハムの場合も同様です。もちろん、ハムに下された呪いは人間耕作の摂理の中で起きた事件でしたが、ハムがもう少し神様の愛を感じる人だったら、なんとか神様の前にへりくだって、自分に下された呪いを収めようとしたでしょう。また、父ノアの心を解きほぐすために以前よりもずっと努力したはずで、そうしてどうしても自分に下された父ノアの呪いを、引き抜こうとしたでしょう。しかし、ハムはそうすることはできませんでした。むしろ、ますます父ノアの教えから遠ざかっていったし、これは結局、神様からも遠ざかる結果を生みました。ハムが本当に兼ね備えた心で、神様と父ノアの前に進んで悔い改めたら、他の結果が出ることもできたはずでしょう。このように、同じ状況でどんな心を持つのかがとても重要だという事です。

イエス様が教えてくださった主の祈祷文を見ると、マタイ6:12「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という内容が出ています。人が主を受け入れて以来、二度と罪を犯さなければいいのですが、ほとんどがそうすることはできません。そのため、罪を犯した後は、神様の前に悔い改めることになります。「私がこのような罪を犯したのですが、父なる神様、赦してください」と言います。ところが、この時、このような祈りを捧げるためには、主の祈祷文の内容のように、私が先に私に罪を犯した人に対しても赦さなければならないという事です。私に罪を犯した人、私がひどく嫌いな人や憎い人がいるなら、そして彼を赦さずに「神様、私の罪を赦してください」と言ったら、神様が赦さないということです。自分自身に罪を犯した人を赦さずに、私の罪を神の前に赦されたいのなら、神様はこのような人に何と言われますか。心に少しでも善良な良心があれば、私に罪を犯した人を赦さずに、私は神様の前に私の罪を赦してくれとどうしても祈ることはできません。 

しかし、私に罪を犯した人を赦す人は、たとえ神様の前に罪を犯した時も赦しを求めることができる大胆さが与えられます。ここで、大胆さとは、罪を犯しても堂々とできるという意味ではなく、神様は私が中心から悔い改め、たちかえったときに、必ず私の罪を赦してくださる愛の神様であることを、心から明確に信じるために来る大胆さです。しかし、他の人が私に犯した罪を赦さない心を持った人は、私の罪を赦してくださる神様の愛についても心に確信が持てません。自分の心にそのような愛が臨んでいないため、罪を赦される神様の愛の心も、やはり自分の心に届かないのです。反面、私の心に他人の罪を赦すことができる少しの愛と赦しの心でも持った人は、神様の愛もやはり心に響くので、たとえ罪に対しては恥ずかしくて申し訳ありませんが、それでも神様の前に出て赦しを祈ることができるということです。

一例を挙げてみましょう。ある家庭で親の愛を全く感じない子どもがいるというときに、このような子どもは、親の前にある大きな過ちを犯した場合、ほとんど親に打ち明けながら赦しを得ることが出来ません。これは、両親が自分の過ちを赦してくれるという確信がないからであり、それはまさに自分の心の中にも、誰かが自分にそのような過ちを犯した時に彼を赦してあげる愛の心が臨んでいないからです。しかし、親の愛を濃く感じる子供がいれば、彼はたとえどんな過ちをしたとしても、親に打ち明けて赦しを請うことができます。自分が悪いことをしたのは申し訳ありませんが、自分の両親は自分の過ちを赦してくれるだろうし、これからもっとうまく出来るように導いてくれることに対する確信があるからです。そして、このような心を持った子供なら、彼は他の人が自分に同じ過ちをしても寛容に赦す心になれます。このように、私の心に赦しの心があり、私の心に愛の心がある人であってこそ、神様のその大きな愛と赦しの心に対しても、本当に心から感じることができるという事です。

朝の学び85 創世記9章  

創世記9:18-29
箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

 

保証されたノアの祝福と呪い

 ここで重要なことは、ノアがたとえ自制できない中で出した言葉だとしても、彼の言葉が絶対的に保証されたという事です。そしてノアの言葉がこのように保証された理由は、彼に与えられた権威によるものです。ノアは洪水以来、自然にすべての人々の上に秩序上の一番の頭として立てられるようになり、彼には自然に頭になった権威が与えられるようになります。洪水の後にこの地の秩序を維持し、神様の意思に従って人類が繁栄していくためには、肉的にも秩序が立てられなければならず、その秩序に従って権威が従わなければならなかったのです。肉の空間になってしまったこの世界を維持するには、肉的な秩序と権威もなければならなかったのです。

一つの家庭を例にあげると、親と子供の間にも肉的な秩序と権威が維持されていない場合、その家庭は正しく維持することができないように、すべての組織や集団でも同じです。もちろん、主の中では霊的な秩序がより重要ですが、だからといって肉的な秩序が無視されてはいけません。それで、ローマ13:1-2では、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」と言っています。

ノアにもまさに肉的な秩序に従って神様は権勢を与えてこれを保証してくださったのであり、結局ノアの言葉にも保証が伴ったのです。しかし、いくらノアの言葉を保証してくださっても、その言葉がまったくふさわしくないときは、公義の法則に従ってその言葉が保証されることはありません。ノアがたとえ完全でない姿の中で息子ハムを呪ったとはいえ、このようなノアの呪いがそのまま臨むことができたのは、その言葉が保証される環境と条件になったからです。まさにハムにもそれだけの過ちがあったからこそ呪いが臨むことになったということです。もしハムに何の過ちもなかったなら、公義の法則上、ノアがどんな呪いをしたとしても、それが臨むことはできません。

 

箴言26:2「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」と言われたように、公義に照らしてみるとハムにも父親の過ちを表わして伝えた大きな過ちがあったからこそ、ノアの呪いが彼に臨むことができたのです。愛する聖徒の皆さん,ノアは肉的な秩序上で与えられた権勢を持っているだけにもかかわらず、彼の一言は公義の法則に従って正確に臨んだことが分かります。まして、霊的な権勢を持った人の言葉は言うまでもありません。それも神様から完全に保証される次元に入った人の言葉は決して一言も地に落ちません。

これはエリシャ預言者の場合を見てもわかります。列王記第二2:24に見ると,「彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」とあります。エリシャ預言者が自分をからかっていやがらせをする子供たちを呪うと、その呪いがそのまま臨んでしまったのです。ある意味でひどいと思うほど恐ろしい呪いがかかってしまったのですが、その呪いが臨むことができたのは、子どもたちの側にも明らかな過ちがあったからです。すでに子供の行動とはいえないほど、線を越える悪い行動だったので、エリシャ預言者の呪いが臨む環境と条件が形成されました。

もちろん、エリシャがもっと完全であったとすれば、このような厳しい呪いの言葉は出てこなかったでしょうが、権能で保証された預言者の口から一旦出てきた言葉であり、それが公義の法則にも合致したため、このように保証されて出てきたという事です。このように申し上げると、もしかすると「神の人々の口から出た言葉も公義の法則に反して成就しないこともありうる」と考えてはいけません。もちろん、公義の法則に合わなければ、神の人の言葉でも成就しませんが、本当に神の人なら公義の法則にふさわしくない言葉は決してしないという事です。

ですから、神様が権能を誰にでも与えられるのではありません。権能を受けるにふさわしい霊の次元に入ってこそ初めて権能が与えられるという事です。このように完全な霊の次元に入ってきた人は、決して私利私欲に帰する唇の言葉を出したり、公義に反する言葉を出さないでしょう。もし神様がまだ完全でない人に権能を与えられるならば、その人は時に私利私欲にかられる言葉を出すこともできるし、または公義に適さない言葉も出すことができるでしょう。では、このような場合、神様はどうしますか。公義の神様は彼の言葉を保証することができません。神様が権能を与えて、彼を保証してくださる理由は、これを通して人々に神様を信じさせるようにしようとすることですが、このように権能を受けた人が保証されないことが生じれば、これはむしろ人々に神様を信じられないようにさせることもあるためです。

それゆえ神様は権能を受けた人は決して公義の法則から外れるはずがないので、100%保証して下さるということです。ですから、権能を行う人がいるなら、彼はすでに神様が公義の中で保証してくださったことなので、彼の言葉はどんな場合にも保証されるという事実を知らなければなりません。そして、これと共に皆さんが知っておくべきことは、意味もなく言った一言でも、それが敵である悪魔サタンの罠になりうるという事です。世の中にも言葉が種になるという言葉がありますが、主の中でやはり皆さんがどんな言葉を出すかによって全く違う結果が出ることがありますよね。私たち万民の聖徒なら、世の中でよく使われる、大変だな 、疲れた、死にそう、このような表現は使わないと理解しています。それで世の中では簡単に出している一言ですが、主の中では、このような否定的な表現によって敵である悪魔サタンに訴える種を与えるのです。唇の告白のように心から認めるようになり、それは敵である悪魔サタンに試練の種をもたらす原因になります。

例えば、子どもが言うことをきかないといって、「お前はなぜそんなに言うことをきかないの?どうしてそんなに親を悩ませるの?大きくなったら何になろうとするの?」このような言葉だけをよく聞かされる子供たちは、「私が大きくなったら何になれるだろうか?」と考えるようになり、それが子供の心にも植えつけられるだけでなく、言葉が罠になってそのまま実現されることを知らなければなりません。 

ヨブ記を見ると、ヨブも神を恐れて悪から離れた者でしたが、その心にいつも子供たちに対して否定的で恐ろしい心を持っていたので、結局はその恐れが現実に臨むようになったようにです。したがって、皆さんは、無益な一言でも、それに対して最後の審判の日には必ず神様が尋ねるという事と、皆さんが思わず言った言葉でも後で実になって帰ってくることがあるという事を肝に銘じて、一言一言にもっと慎重を期してください。ノアがまさに霊に目覚めていて、このような事実を肝に銘じていたなら、決して子供にそのように悪い呪いの言葉を言わなかったでしょうが、すでに彼が一度出した言葉には、彼に与えられた権勢に対する保証によって、後日そのまま成就してしまったという事です。

セムとヤぺテに与えられた祝福

ところが、父の過ちを伝えたハムに呪いの言葉が宣言されたのとは逆に、ハムの言葉を聞いても、父の過ちを見ず、むしろ裸を覆い隠したセムとヤぺテには祝福の言葉が宣言されます。創世記9:26-27に、「また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」と言っています。この言葉は、洪水以後、獣の間でも弱肉強食の法則によって序列が決まるように、人間関係の中でも序列が決まる契機となります。将来、ノアの三人の息子から生まれた種族の間に、どんな肉の秩序関係が成立するのかを知ることができる言葉です。どんな先祖から出た種族が栄えて支配層となり、どんな先祖から出た種族が被支配層になるのかが本文に出ているのです。

創世記10章に記されているノアの3人の息子たちの系図を基に、学者たちは今日、全世界に広がっている人類がノアの3人の息子たちの中でそれぞれ誰から始まったのかを次のように説明しています。まず、ヤペテは今日のヨーロッパ民族の先祖になったそうです。次にハムは中東諸国とアフリカ民族の先祖になったと言います。そしてセムはノアの後を継いだ正統の系図)としてアジア各地に広がったそうです。それで宗教がほとんどアジアから出てくるのを見ます。それでは、果たしてノアの三人の息子たちの間にどんな秩序関係が築かれたのかについては、次の時間に続いて説明するようにします。

結論

ある方々は肉的な困難の中にいるとき、切実に神様を探してすがって祝福を受けるのですが、肉的な困難を免れて平安を味わうことができるようになれば、ややもすると前に熱かった信仰が冷める場合を見ることがあります。そうなると、少しの間、訪れてきた肉的な安らぎは再び水の泡のように消えてしまいます。ですから、私たちが追及しなければならない平安はまさに霊的な平安です。霊的な平安なしに来る肉的な平安は、いつ消えるか分からない霧のようなもので、霊的な平安がなければ、真の肉的な平安にも至ることができません。 

では、霊的な平安はどうやって来るのでしょうか。まさに自分の魂が幸いになるほど与えられます。そして、このように霊的な平安が与えられる時に、肉的な平安もしたがって臨むことになります。ところが、ノアは肉的な平安に酔い、本当に追求すべき霊的な平安を成し遂げることができませんでした。なぜですか?洪水の前とは異なり、洪水の後、ノアは当時の人々の間で最も頭として高い立場に立つようになりました。そして自分が望むものを取っていく権威もありました。これにより、ノアは自分の姿を自ら発見できなかったのです。

これは今日も同じです。仕える立場にいるときは、熱心に他の人に仕え、忠誠を尽くした人が仕えられる立場に立つと、いつの間にか仕えられたいとする姿が出てくるのを見ます。指摘を受けたいと兼ね備えた心から、今は他人を指摘して教えようとする心になります。これは決してなかった姿が出たものではありません。心に潜在していた姿が環境と条件になって出てきたのです。そのため、以前は人々と平和でしたが、むしろ平和が破れて、あれこれ音がするようになります。そうしながら心の訓練も受けることになります。

この時、霊で目を覚まして祈る人は、しばらくこのような姿が出てきたとしても、聖霊の働きの中に自らの姿を発見し、すぐに変化するために努力します。こういう人にとっては、この時間が自分自身を発見し、より霊に変化する貴重な訓練の時間になるのです。しかし、ある人々は長年にわたって自分の姿を発見できないまま訓練の中で苦しんでいる場合もあります。皆さんはどんな姿になりますか?皆さんは、神様が時々許されている訓練の中で、捨てなければならない悪の姿を発見して捨て、迅速に霊に変化されることを願います。このような方には、ふいごが金をより貴くするように、訓練もまた皆さんをさらに輝いた宝石にしてくれるでしょう。このように貴重な訓練を通して、根本に内在した悪の形までも迅速に発見して捨て、まさに金のように出て、新しいエルサレムの輝かしい栄光を味わうことができますように主の御名でお祈りします。
 

朝の学び84 創世記9章  

創世記9:18-29
箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの一生は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。

 

序論

私たち人にはそれぞれ気質というものがあります。辞書で見ると、気質とは個人や集団の特有の性質だと定義していますが、例えば個人なら、彼が親や先祖からどのような気と性質を受けて生まれたかによって、その人の気質が決まります。また、集団もその構成員がどんな人たちかによって、その集団だけの特有の性質である気質が出てきます。もちろん、同じ集団内の構成員だとしても、すべての人にこのような気質が同じように適用されるわけではありませんが、それでも人々が普遍的に受け入れる集団だけの気質が存在するのです。このように個人であれ集団であれ、彼らの気質を決める上で最も大きな影響を与えるのが、祖先から伝わる気質です。 どんな気質を持った祖先から始まったのかによって、その子孫から現れる共通の気質が異なるのです。このように民族ごとに異なる気質を持つようになった出発が、まさにノアの三人の息子からだったという事です。


ノアの三人の息子による民族の気質 

ノアの洪水以後、根本の肉の属性が明らかになると、ノアの三人の息子からもそれぞれの気質が出てくるようになります。もちろん洪水以前にも祖先から伝わる気質が現れましたが、根本の肉の属性が現れ始めた洪水後からは、その中に内在していた気質が本格的に現れ始めたのです。それで、同じ親から生まれた息子たちですが、セムからは穏やかな、おとなしい気質が、ハムからはせっかちな気質が、またヤペテからは何かを取ろうとする気質が強く表れ始めます。そして、このような三人の息子の気質は、将来、彼らを通して生まれる民族の気質としてそのまま伝わってきます。今日、この地球上に存在する多くの民族を見てみると、その民族なりの気質が存在するのを見ますが、これがまさにノアの三人の息子の中で誰から始まった民族なのかによって、その民族の根本に敷かれている気質が決定されたということです。

穏やかな気質を持ったセムの子孫なのか、それともせっかちな気質を持つハムの子孫なのかによって、その子孫の気質に差が出るのです。それで、ある民族は従順な民族性を持ち、またある民族は好戦的で荒々しい民族性を持つこともあります。もちろん、穏やかな気質を持ったセムの子孫であっても、これらのセムの息子の中でどの息子を通して生まれた子孫なのかによって、その気質がいくらでも変わることもありますが、民族全体の内面に潜在している気質には、その民族がどのような祖先から始まったのかが大きな影響を与えるという事です。

これは家庭でもわかります。たとえば、ある家庭に複数の子供がいるときに、その子供たちに見られる共通の気質があります。まさに親から共通して伝えられた気質です。しかし、同じ親から生まれた子供たちでも、それぞれ一人一人からは、同時に自分だけの特別な気質が存在することがわかります。同じ親から伝わった共通の気質もありますが、一方で、それぞれの個人により強く現れる自分だけの独特の気質もあるということです。ノアの3人の息子から広がった民族も、このような両面的な要素が結合され、今日のように多様な気質を持つ様々な民族に分けられるのです。それで、広範囲に見ると、共通の気質を持った集団だとしても、それらをもう一度細かく分けてみると、また彼らだけの独特の気質を持った数多くの集団に分けられ、逆に独特の気質を持った複数の集団が時には一つの共通の気質を発揮することもできるのです。

例えば、韓国だけを見ても慶尚道の人と全羅道の人、忠清道の人、このように、その集団の構成員によって独特な気質が現れることがわかります。しかし、このように韓国の中では、地域によって区別される気質を持っていても、韓民族というより広い集団から見ると、韓民族だけが持つ特別な気質があります。これは日本も中国も同様であり、日本人も彼らなりの気質があり、中国人もそれなりの気質があります。そのため、外見は似ているように見えても、このような気質によって韓国人と日本人、中国人が互いに区分されるのです。このように、人類の新たな先祖となったノアの三人の息子から伝わり始めた気質は、後代に出てくる数多くの民族の気質に大きな影響を与えるようになりました。

ノアの肉の気質とカナン人に与えられた呪い

本文18節によれば、ノアの三人の息子の中で特にハムについて「ハムはカナンの父である。」と述べていますが、これを通して私たちは将来カナンと呼ばれる民族が先祖であるハムの気質をもって生まれるという事実が分かります。カナンはハムの息子たちの一人の名前で、創世記10:16-18を見ると、彼を通してエブス人、エモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分かれ出た。そしてこれらの民族は、将来出エジプトしたイスラエルの民が約束の地カナンを占めるために、その地から追い出さなければならない代表的な異邦族になってしまいます。今後説明しますが、父親のノアから呪われたハムの子孫であるカナンは、後日、神様を離れた異邦民族の中にあって、選民イスラエル民族との関係の中で果てしない対立と反目を重ねることになります。これらすべてが、まさにハムの気質とその気質によってもたらされた悪行の結果として、その後代に起こったことです。

3人の息子たちの説明はしばらくしてから再びすることにし、続く本文20-21節に見ると、「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」とあります。ここで最初に農業を始めたということは、洪水後の生活がある程度安定したということを意味します。一箇所に定住して農業をするほど安定した生活が可能になったということです。ところがこのように生活が安定すると、むしろノアは以前はすべてのことを全面的に神様に依頼し、神様を恐れていた心から、今は自分中心の人生に変わっていきます。また、以前の敬虔で誠実だった姿からますます遠ざかっていきます。彼が葡萄酒に酔って裸のままだったということが、まさに当時のノアの人生がどうだったかを断面的に表わしている姿です。この一つの姿を通して、彼の他の人生も、どれほど以前とは違った姿に変わっていたのかがわかります

洪水が終わって間もないにもかかわらず、すでに多くのことから心に節制ができず、敬虔でない姿に変わっていったのです。根本の肉の属性が明らかになり、内在していた気質が様々な姿で現れるようになったのです。神様を意識し、神様だけを考えて生きている時とは違って、自分中心になって、自分が一番の頭だという意識が生まれ、他の家族の上に君臨しようと思います。自分が頭だという考えから、他の人の顔色をうかがうこともなく、自分の心に望む通りにすると、結局、自制もできなくなり、心から出てくる肉の気質が非真理の姿で現れるようになります。

第一テサロニケ5:3に、「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」とあります。もちろん、この言葉は将来主が再臨するときにこの世がどうなるかをおっしゃったことですが、私たちは常に肉的に平安だというときに、思わぬ試練が来る可能性があることを知らなければなりません。肉的な平安が精神的なゆるみにつながる時、まさに敵である悪魔サタンの目標になるのです。ですから、わたしたちは,主の中で当然霊肉間に平安を受けながら暮らさなければなりませんが、霊的にはいつも目を覚ましており、敵である悪魔サタンの策略に対して対峙することができなければなりません。

続く22節以下を見ると、息子のハムが父親ノアの裸を見て、二人の兄弟に告げる場面と彼らの行いが出ています。ここでも息子たちの気質の違いを感じることができますが、ハムはせっかちな気質によって悪い行動が出てきます。もう一度考えて慎重だったら良かったのですが、そうではなく心で望む通りに行い、ついに取り返しのつかない道に向かってしまいます。酔いが覚め、息子のハムが自分に行ったことを知ったノアは、本文25節「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」と、途方もない呪いの言葉を口から出してしまったのです。

ノアの呪いは、ハムの息子たちの中でカナンだけに該当するのではなく、ハムとその子孫の両方に該当するもので、この呪いによってハムの子孫は大きな苦痛の中で生きていくことになります。もちろん、ハムが子どもとしての道理として、父親に対してしてはならない行動をしたのは事実ですが、この時、ノアがもう少し純然としていたら、この呪いの言葉は言わなかったでしょう。これはまさにノア自身にも自らを節制できず、性急に行ってしまう気質があったことを示すものであり、このような気質がその息子たちの中にハムに伝えられ、結局はハムも自らを節制できない中で非真理の行動に出てしまったということを物語っているのです。

朝の学び83 創世記9章  

創世記9:8-17
神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

神の御座を囲んでいる 虹


聖書を見ると、虹の記録が本文を含めて4カ所にわたって出てくることがわかります。エゼキエル 1章28節に、「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」とあります。まさに主の栄光の姿から出てくる回りにある輝きが、雨の日の雲の間にある虹のようだと言ったのです。

次に、黙示録4:3には、「その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。」と言われます。天国の神様の御座を虹が囲んでいることを教えてくれます。最後に、黙示録10:1には、「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」とあります。

将来七年の患難の際に審判する、ものすごい権勢を持っている力強い御使いの頭の上に虹があるのです。このように、虹は神様の形や神様の御座と非常に密接な関係を持っているものであり、例外的に神様に代わって審判する権威を持ってくる特別な天使には、その証拠として頭の上に虹を与えられたという事です。科学では虹を単に水滴に映した光が屈折しながら現れる現象として仮説を立てていますが、霊的に虹はこのように特別な意味を持つものとして、神様はこのような虹を人々との契約の証拠として雲の中に与えられたのです。

この教会に現れる虹 


これらの虹がこの祭壇には1年の間にも計り知れないほど数多く現れていますが、これは果たして何を意味するのでしょうか。稀で珍しい形の虹はもちろん、雨の後にしか見られない半円形の虹が日差しも入らない密閉された空間に鮮明に浮いたり、さらには本教会のシンボルマークのようになった円形の虹は本教会上空と支教会の上空を問わず、あまりにも頻繁に浮かんています。このような現象は、世の中の科学では決して説明できないことです。日光も入らない密閉された空間に雨の後にしか見られない虹が鮮明に浮かぶのを見たことがありますか? このような虹は、本教会の聖殿の中でも何度も観察され、牧師館の部屋の中でもよく観察される現象です。又ある聖徒たちは、自分の部屋の中に虹が鮮明に出たと証しました。

それでは、太陽の周りに浮かぶ円形の虹を一度でも見たことがありますか?私たちが頻繁に見ている円形の虹を世界の科学ではヘムリと呼ぶこともあります。ヘムリとは、太陽の周りにたまに見える丸い輪のことですが、世の科学者たちは、太陽の光が氷の粒を通過して屈折して出来るといいます。しかし、これはこれに対する最も可能性のある仮説の1つであり、真実ではありません。世の中の知識は、時間が経つにつれてたくさん修正されるのを見ます。その当時は真実と言っていましたが、知識が蓄積され、より多くの経験をすることで、その真実が変わるのをよく見かけます。韓国の気象庁で観察したヘムリの数は、去る93年から2002年までの10年間、年間平均20余りだったそうです。このごろ新聞やテレビを見ると、数年ぶりに初めてハムリ ハロ haloが観測されたということを聞くことになります。

ハロ halo(日暈)  天気下り坂のサイン

 
太陽の周りに現れる、虹のような光の輪のことをハロや日暈(ひがさ)といいます。ハロは、上層の薄い雲が現れたときに、太陽の回りに光の輪として現れます。この光の輪は、太陽の光が雲の中に含まれる氷の粒に当たり、屈折することにより発生します。ハロが現れるときは、天気が下り坂のサインともいわれています。

 
海外でも初めて円形の虹を見たとニュースに出てくるのを見ますし、このように、円形の虹を世の人々が見ることは極めて珍しいことだったということがわかります。そしてまた見ると、とても不思議に思うことがわかります。おそらく皆さんもほとんど本教会に円形の虹が現れるまでは、全くそのような形の虹を見たことがないでしょう。私も幼い頃から空を見るのが好きでしたが、それ以前まで円形の虹を見たことは一度もありませんでした。

それでは、本教会で観察された円形の虹の数は果たしてどれくらいでしょうか。本教会は残念ながら過去2000年度からの資料しかなく、2000年から2002年までの過去3年間の資料だけを持って統計を出しました。それも国内外支教会及び海外宣教の際に浮かんだのは除いて、ただ本教会があるソウルの九老洞と牧師館がある新大方洞の近くだけで観察されたものでした。このようにして観察された円形の虹の数がなんと1年に200以上をはるかに超えたという驚くべき事実です。

だからこの3年を総合すれば、なんと600個をはるかに超える円形の虹が本教会と牧師館の近くでだけ浮かんでいたということです。それも気象庁のように専門人材を動員して観察したのではなく、本教会の数多くの聖徒たちが同じように肉眼で観測した資料がこの程度であったという事です。ここに聖徒たちが気付かなかったことまで合わせれば、年にどれだけ多くの円形の虹が本教会と牧師館の近くに浮かんだのかをよく分かるのです。

支教会も同じですが、ミリャン万民教会の場合、2000年4月から観察し、2001年には240日、2002年には222日を観察したそうです。このように観察された円形の虹の多くは、驚くべきことに鮮やかな虹色を示しています。そして非常に多様な複合的な形を見せています。円形虹、一重虹、二重虹、対称虹、非対称虹など、様々な珍しい虹が出ています。二重、三重、四重の虹も多く観察されています。 昼間だけでなく夜も随時観察されています。
 
フィリピン聖会の時、説教中に虹について言及すると、「ジャーン」と、円形の虹が月の周りに輝いて登場した姿は今でも忘れられません。ところが不思議なのは、本教会周辺や牧師館の近くではこのように多く観察されるこのような円形の虹を、気象庁では観測できなかったという点です。気象庁の資料によると、過去2000年から2002年まで観測されたハムリの数は、ただ平均24個でした。しかし、本教会で観測した資料は、このような円形の虹の数がなんと年平均200個以上を超えるということです。なんと10倍近く差が出ています。 すから、もし本教会で観測した資料に加え、全国の支教会や海外で観測された資料まで合わせれば、私たちの万民の祭壇にはほとんど一年中円形の虹が出るといっても決して誇張ではないという事です。

そして、マンミンの祭壇には時間が経つにつれて、より多くの円形の虹が現れています。さらに、本教会や支教会にどんな行事があるか、祝うべきことがあるときは、間違いなく円形の虹が浮かんでおり、信仰のある方が牧者の名で神様に祈れば、その場で直ちに現れることもあります。また、本教会の宣教チームが海外のどこに行っても、様々な珍しい虹をはじめ、円形の虹が出たりしました。そこの地元の人たちを驚かせ、彼らに信仰を植える良い証拠になっています。

このような現象を科学で世の中の理論で説明することができますか?このように神様が本教会に示してくださる円形の虹を世の理論に合わせて明快に説明できるわけでもなく、これはただ全知全能な神様が特別な摂理の中に本教会に向けられた約束の証として示しておられるという事です。そしてもう一つの興味深い現象は、一般的な虹も本教会で観察されたものが気象庁で観察されたものよりはるかに多いということです。気象庁の資料を見てみますと、過去10年間に公式に観測された虹の数字は年平均1個に満たないのです。過去10年間で計7回しか観察されなかったでしょう。ですから、本教会や支教会をはじめとする万民の祭壇の上に現わされる虹の現象は、決して世の理論や知識で解釈してはならず、その中に込められた神様の摂理と霊的な意味を悟らなければなりません。本文の説明は、次の時間に続けて行います。

結論


神は、契約の証拠として雲の中に虹を置いたように、時には確実な証拠として神様のみことばを確証してくださいます。

 

ヨハネの福音書 1:32‐34に、「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」」と言っています。バプテスマのヨハネが救い主として来られたイエス様を知ることができたのは、まさに聖霊が鳩のように天から降りてイエスの頭の上にとどまるのを見たためです。

イエス様は自分が神の子であり、メシアであることを示すために証拠を示しましたが、ヨハネの福音書10:25「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。」とおっしゃった通り、まさに父の名前で行うことでした。ヘブル2:4には、「そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」と述べています。この他にも、神様が送ってくださった人であることを示したり、神様の御心の中で成し遂げられることを示すために、それに従う証拠を与えられました。 

それでは、この教会にはどのような証拠がありますか?これまで皆さんが見てきた証拠は、その数を数えることさえできないでしょう。まさに皆さんがその事の証人です。ですから、皆さんは神の約束の証拠を見た証人として、これからどうしなければなりませんか。神様は天地万物を創造し、生死禍福を主管される創造主であり、私たちの主は万王の王である万主の主として、私たちの救い主であることを証しし、聖書が真実であることを証ししなければならず、神様が生きておられ、多くの奇蹟としるしと権能で働かれていることを、熱心に証ししなければならないということです。


ヘブル人への手紙12:1-2節の前半に、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と、おっしゃるように、すべての重い束縛された罪を脱いで、ただ主だけ見つめて走っていかなければなりません。

テモテ第二 4章7‐8節「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」と告白できますようにお祈りいたします。

朝の学び82 創世記9章  

創世記9:8-17
神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

序論


皆さん、民数記23:19に、「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」と記録されたとおり、神様は、おっしゃったことを必ず成し遂げ、約束されたことを徹底的に守られる方です。人の方が信仰で受け取れなかったり、変わる場合でなければ、そのまま行われることがわかります。 

神は創世記17:4「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。」と言われましたが、結局アブラハムは信仰の先祖、父になりました。また、創世記17:8には、神がアブラハムに「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」と言われました。それでアブラハムとイサクとヤコブの子孫であるイスラエル民族は、これまでも約束の言葉に従って神様の摂理の中に導かれています。

レビ記26:42-44に、「わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。」とおっしゃったとおりに成し遂げられるのです。

この言葉は、これまでイスラエルの歴史を通して何度も繰り返された歴史的な出来事に対する予言として、イスラエルが神のおきてといましめを離れて神の前で罪を犯したときは、周辺の異邦の国によって侵略され、結局、国が消えるような状況になりました。そのような中でも、神はイスラエルの先祖たちと交わした契約を覚えられ、彼らを嫌って捨てることも憎むこともなく、まったく滅ぼしてしまうこともありませんでした。国が滅び、民が捕虜になったとしても、悔い改めれば、再び本土に戻って国を再建したりしましたが、その理由がまさに神様が彼らの先祖であるアブラハムとイサクとヤコブと立てた契約のためだということです。 

今すぐは国を失って、約束が成されないようでも、神様は「カナンの地を永遠にその子孫に与えてくださる」と契約されたとおり、常にその地を回復させてくださったという事です。1948年にはイスラエルという国が消えてから、1900年余り後に再び国を建て独立することで、神様がその地をイスラエル民族に与えられたという神様の契約を再び確証されました。人の考えでは到底不可能なことでしたが、神様は一度された約束をこのように決して変えることなく守られたのです。

ところが、神様が契約の御言葉をくださるには、大きく二つの場合があります。ある人には「あなたがこうすれば祝福をくださる」と但し書きをつける場合があり、ある人にはただ「祝福を与える」と言われる場合があります。神様のほうで手がかりをつけてくださった場合なら、聖書に記録されている通り、人のほうでその手がかりの条件を満たすときに、誰もが差別なく必ず契約の御言葉通りにかなえてくださいます。一方、何の条件もなく約束の言葉をくださった場合は、すぐに叶うと思うかもしれませんが、実は何の条件もないのではなく、その時から祝福を受ける器を備えるために本格的に練られていく過程が始まるのです。

エゼキエル36:36後半-37節前半に「主であるわたしがこれを語り、これを行なう。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。」とおっしゃるとおり、神様は予知予定の中で約束の言葉をくださいましたが人の方でも変わらぬ信仰の行いと願い(渇望)がなければならないという事です。ですから、いくら途方もない祝福の言葉を受けても、もし信仰で受けられなかったり、自分がしなければならない努力をしなければ成し遂げられないのです。

ただ、父なる神様が予知予定されている中で、あらかじめ祝福の御言葉をくださって導いていく場合は、条件をつけて祝福の御言葉をくださる場合とは異なり、強権的な摂理の中で導かれていくので、結局は必ず約束の御言葉に応じて祝福の道を進むことになります。ヨセフの場合も、神様は夢を通して約束をくださったのですが、自らヨセフの道を導いていくことで、ついには夢の約束が成就されるようにしました。

このような言葉をよく分別してこそ、神様のみことばに対する誤解はありません。そうでなければ、「私は祝福を与えてくださると約束されたのに、なぜまだ祝福がないのですか? 」と考えるかもしれないし、あるいは「祝福をくださると言ったから、その時まで何とか耐えてみよう」と思うかもしれません。本当に神様の言葉に従って祝福を受ける器なら、約束の言葉を最後まで変わらず信じ、また祝福が来る瞬間まで何の努力もなく待つのではなく、自分の方でも祝福を受けるための信仰の行いを続けていくことになるという事です。神様のみことばに応えて祝福を受ける器なら、契約の御言葉を最後まで変わらず信じるでしょう。


虹と霊の空間の事


本文は、神が洪水の後にこの地に生きていく人々と地に存在するすべての生き物との間に立てた永遠の契約と、その契約の証拠としてくださった虹に関する内容です。ノアの洪水という人間耕作の歴史において大きな出来事を引き起こす事件以後、神様は肉と霊に分かれた空間の間に明確な境界を立て、人々も肉と霊の空間の違いについて分かるようにします。洪水の前までは、神様が囲んでくださった光によって、この地もすべてが霊の空間のように運行されていましたが、洪水の後に光が取り込められてからは、この地が完全に肉の空間になり、すべてが肉の属性通りに戻りました。

そしてこの時から空中の権勢を握っていた悪の霊たちの活動も本格的に始まります。もちろんアダムが罪を犯してこの地に追い出された後、悪の霊たちと彼の使いたちは絶えずこの地の人々を惑わせて神から遠ざけ、ついには洪水の審判という結果を受けるまで人々を悪に導いていきました。しかし、完全に肉の空間になってしまったこの世界は、今やますます敵である悪魔サタンが活動するのに良い環境になってしまったのです。このように洪水以前と洪水の後、この土地はまったく異なる空間になってしまい、このような変化によって第二の天、つまりエデンの園に住む人々が第一の天に降りてくることも容易ではなくなりました。

前に創世記の講解を通して説明したように、アダムが罪を犯してこの地に追い出されると、この時からエデンの園とこの地の間の往来が制限され始めました。しかし、完全に制限されたのではなく、エデンの園の人々がこの地に降りて定着して暮らすほど、それまでは比較的行き来することが自由でしたが、洪水の審判以後はエデンの園とこの地の間の行き来が厳しく制限されました。エデンの園を管轄しているグループの許可なしには、エデンの園の人々が自由にこの地に降りることができなくなったのです。このようにそうするしかなかったのは、もはやエデンの園の人々がこの肉の世界に降りて堕落するのを防ぐための理由もありますが、根本的な理由は、まさにこの世界が完全に肉の空間になってしまったからです。肉と霊の線が完全に引かれた状況で、霊の空間に属するエデンの園の人々が肉の空間に任意に出てくることがこれ以上ふさわしくなくなったということです。

肉の世界と霊の世界には厳然たる区分があり、その境界を行き来することが思い通りになるわけではありません。それで、エデンの園に住む人々だけでなく、第三の天にある霊の存在も、肉の世界に降りてくるときは、厳格な秩序と法則に合わせなければならないのです。いつでもどこでも預言者たちがこの地に降りてくることができるのではなく、天使長や天使たちも降りてくることができるわけではありません。肉の法則で、すべてが制限された肉の空間の中では、神の公義の法則に合ってこそ、この霊的なことが起こることができるという事です。

神様自らも肉の空間の法則を無視したまま霊の法則通りに働かれるのではありません。だからといって、肉の空間になってしまったこの世の中が、これ以上神様の干渉なしに肉の法則によってのみ運行されるという意味ではありません。光が存在している時のように、神様がすべてを干渉していくわけではありませんが、肉の根本的な属性に戻った空間の中でも、依然として神様は愛と公義に合わせて働いていかれます。

それで11節「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」とおっしゃったのですが、この言葉の意味は文字的には単純には「水の審判が二度とないだろう」という意味ですが、霊的には「肉の空間になってしまったこの世であっても、父なる神様は依然として公義と愛の中ですべてを運行していく」という意味です。

13節には、「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」と言われました。これは単に「再び水で審判しない」という意味で雲の中に虹を置いたのではなく、「たとえ肉の空間の中でも、神様の公義と愛が成立すれば、霊の事が起こりうる」という意味で契約の虹を置いたという事です。ここで「雲」は単にこの地の雲のことではなく、第二の天という霊の空間を取り決めているのです。したがって、霊の空間を意味する雲の中に、まさに契約の証拠である虹を置かれたということは、たとえ肉の空間になってしまったこの世だとしても、神様はこの肉の空間の中でも霊の空間の事として働いていくという意味になります。

 

簡単に言えば、「もうこの地が肉の空間になったので、霊の空間におられた神様とは全く関係なくなったのではなく、神様は依然として干渉され、公義と愛に合わせて肉の空間の中でも霊の空間のことを表わす。」ということです。もし神様が公義と愛に合わせてずっと肉の空間の中で働かなければ、この世界は完全に敵である悪魔サタンに捕らえられた闇の空間になってしまったでしょう。しかし、神様は、光が取り込められた後も、引き続き肉の空間の中に霊の空間の事柄を広げることで、神様の国が拡張されていけるようにしました。

ところが、肉の空間の中で霊の空間のことを表すためには、信仰と従順と愛で、肉の限界を越えて神の道具として使われる人々が必要であるという事です。まさに神様がおられる霊の空間を肉の空間の中に広げることができる道具が必要です。このような道具になれる人は、心を霊に耕し、心として霊である神様と通じる人です。神様と霊によって心が通じる時、神様に属した霊の空間をこの地に広げる権勢と力が与えられるからです。今週、霊と空間と心について説明しましたが、まさに皆さんを通しても、これらの働きが現れるようにするためでした。そのことばをよく糧としてみなさんのものにするならば、皆さんを通しても霊の空間の出来ごとが肉の空間の中で繰り広げられることができます。その代表的な例がまさに本教会と全国および全世界の支教会の上空に現れる円形の虹と様々な珍しい虹です。

朝の学び81 創世記9章  

創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」

 

わたしはあなたがたのいのちのためには、必ずいのちの血の値を要求する

ノアの洪水の後、神様が生きた動物を食物として許してくださった時、善良な心を持った人は、その良心からどんな肉も食べることが受け入れられませんでした。ローマ2:14-15に、「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」とおっしゃったとおり、律法のない異邦人が本質的に律法の行いをする時、この人は律法がなくても自分が自分自身に律法になるのです。言い換えれば、良心が善い人は、神様の律法がなくても、彼の良心が自ら律法の行為を示すことができる基準になるからです。

しかし、人々の心がますます悪くなるので、神様が「どんな肉の血も食べてはならない」と命じられたにもかかわらず、徐々に時間が経つにつれて破ることになり、初め決めてくださったきよい動物の範囲を超えるようになると、神様はイスラエルという一国の基礎を用意しながら、具体的な律法の枠組みを制定してくださいました。このような枠組みを外れたときには必ず応報を受けるように律法を定められたので、5-6節「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とおっしゃっています。ここで血を流すという御言葉は、命の主菅者である神様が定められた一定の線を越えるという意味です。簡単に言えば神様のみことばに背くのです。 

4節「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」とあるように、血がついたまま肉を食べてはいけませんでしたが、血がついたままを食べたり、糧食のためではない目的で殺生することも、また人と人の間で互いに傷つけたり殺すことなど、すべてのことが神様が定められた線を越えて神様のみことばに背く行動です。このように神様のみことばを破った時は、それに対する応報が従うことになりますが、動物に行ったのは動物に、人に行ったことは人として応報を受けるようにしました。

ここには、つまり行ったとおりに返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という神様の公義が込められています。しかし、行ったように返してくださる(蒔いた通りに刈り取る)という公義の法則に対するより細かく具体的な規定が、まさに出エジプト記に記録された事例を通して宣言されます。律法は十戒の具体的な適用規則として与えられました。出エジプト記 21:12‐14には「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。しかし、人が、ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者、わたしの祭壇のところからでも連れ出して殺さなければならない。」と言われました。

 神様の形の通りに創造された人を殺すことは、神様の主権の下にある生命を任意に奪う罪なので、その結果は必ず死で返さなければなりませんでした。ただし、ミスによる殺人に対しては、神様の憐れみの中で自分の命を保存できるように例外的な規定を許していただきました。すなわちイスラエルの町の中で特別に逃避のための町を別々に区分して、誤って殺人したことが認められる人は、逃避の町の中に住むことで命を維持することができたのです。これを通して、私たちは神様が殺人に対しては、神様の形に造られた人を殺すという、神様の主権に挑戦する行為を防ぐため、死刑という厳しい代価を払わされると同時に、殺人の行為だけを見るのではなく、殺人者の心をより重要に見ておられるという事がわかります。

これは今日も同じです。人が完全になるまではいつも間違いを犯すことがあるので、神様は同じ非真理の姿の中でも、各人の心を察してくださいます。これが本当に悪い心から出てきたのか、単に真理を知らずに誤ってそうしたのか、真理の通りに行おうとしましたが、心に意図したものとは違って出てきたのかなどをご覧になられます。それで、同じ非真理の姿についてでも、神様が許される応報は異なることがあるのです。律法を与えられた目的自体が人を苦しめて罰するためのものではありません。真理の中に住まわせるためなので、神様の公義は各人のおかれた状況と心の中までも探って正確に適用されます。

目には目、歯には歯

旧約時代の律法を見ると、愛の神様とはすこし似合わないような内容が出てきます。例えば、出エジプト記 21:23-25 によると、「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」ということです。これを「同害報復法」ともいいますが、簡単に説明すれば、人がある害を受けることになったとき、それに対する同じ害として相手に返すという意味です。これは、人が悪を行うと、報いを受けなければならないという公義の法則でもあります。しかし、この法に込められたより深い神様の心はまさに愛であることを知らなければなりません。

「目には目」という内容だけを見ると、まるで悪を悪で返すようですが、実際に皆さんが世の中の人々を一度見てください。他人が私に害を一つ与えたら、それを二つ、三つ、それ以上に返そうとし、悪に突き進んでいるのが現実です。目に受けた害を目だけに返すのではなく、より大きなもので報復しようとする心でしょう。ですから、このような悪の世代の中で、目には目で返すという言葉は、むしろ受けた害以上に報復することを禁止するという意味が込められているという事です。報復を最大限抑え、複数の乱用を防ぐ効果があるのです。さらに、聖霊時代ではなく旧約時代には自分の心を治めることができないので、ややもすると報復の悪循環に突き進むことがありますが、同害報復法という律法の枠組みの中に縛っていただくことで、それ以上の悪を防ぐことができたのです。「愛の神様がなぜこのような恐ろしい法を人々に与えられたのか」を考える前に、「なぜ神様がこのような法律まで定めてくださるしかなかったのでしょうか?」を考えてみれば、悪が蔓延した世の中でも、なんとか魂を保護し守ろうとする父なる神様の愛を感じることができます。
 
このような愛を感じるなら、決して神様のみことばを軽く考えたり、通り過ごしてしまうことはできません。小さなこと一つを軽く考えると、後には大きな罪を犯しても悟ることができないからです。それで、
へブル12:5「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない主に責められて弱り果ててはならない。』と勧めるのです。

地に群がり、地にふえよ 

7節「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と言います。父なる神様がこの地に人間を耕作される目的は真の子どもを得るためのものですが、人間耕作を始めて以来、人間の悪によって心を痛め、地上に人を造ったことを悔やまられたほどでしたが、洪水以後に新しく始まった人間耕作を見ながら、もう一度真の子どもを得るための期待と希望を持つようになります。再び人間がこの地に生育し、繁栄していくと、人間が結局悪に突き進むことになり、そうすればまた心を痛めることを知りながらも、その中から出てくる真の子どもを期待されるので、もう一度人間に「地に群がり、地にふえよ。」と言われて、祝福を与えておられます。

農夫が一年の収穫が不振だからといって、翌年に農作業をあきらめるのではなく、また希望と抱負を持って農作業をするように、父なる神様も新しい人間耕作を通して喜びと栄光になることを願う心で、人間たちに祝福の言葉を与えているのです。そして人々はこの言葉に従い、早いスピードで世界中に広がっていきます。人と獣がどのようにして世界中に広がることができたかについては、すでに前の時間に詳しく説明しました。次の時間には、神様が虹を置いて、これを通して人間と結ばれた契約の意味について見てみましょう。

結論

皆さん、血は命であるだけでなく、血の中にはそれぞれの性質と属性までも含まれています。それで人の血が異なり、動物の血が異なり、どんな血を持っているのかによってそれぞれの属性と性質が変わるのです。このように血は各人の性質や属性までも決定する非常に重要な要素ですが、世の中の理論がすべて正しいわけではなく、合っているとしてもあくまでも肉の法則に該当します。もし親がせっかちで血気が多い場合、子どももせっかちで血気が多い確率が非常に高いのは事実です。しかし、このような子供でも、彼が真理の中に入って神様の能力を力にすれば、肉の法則とは関係ありません。「私は親からこういう気を受けて生まれたから仕方がない」「私はもともと性質や属性がこうなの」と言いながら自ら断定してしまう人は、自分を依然として肉の空間の中に縛っておく人です。肉の空間の中に自分を縛っておくと肉の法則から抜け出すことができません。

 
しかし、肉の空間から抜け出して霊の空間に入ると、肉の法則とは関係ありません。だからといって、「私はもはや肉の空間ではなく、霊の空間に属している人である」と言葉で告白して出来るのではありません。肉の空間を離れて霊の空間に属するためには、以前に肉の空間で持っていた肉に属していたすべてのものを脱ぎ棄てなければなりません。
このような過程には罪を血を流すまで戦って、捨ててしまわなければならない痛みもあり、自分を徹底的に否認していく忍耐の歳月もありますが、すべての過程を通過すれば、血の中に込められた性質と属性までも超越する霊の次元に入ることができます。へブル 12:4「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」

こういう人は親からどんな気を受け継いだのか、血の中にどんな性質と属性が含まれているか、これらは関係ありません。コリント第二5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とおっしゃったとおり、これ以上肉の空間や法則に縛られているのではなく、新しい被造物になって神の形を完全に回復した真の子供たちとして出てくることを主の御名で祝福してお祈りいたします。
 

朝の学び80 創世記9章  

創世記9:3-7
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」

 

生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である

3節「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と述べています。ノアの洪水の後に神様が人に動物までも食べられるように許される場面です。ところがこのように動物を食べるように許されたのが実は祝福ではなく、むしろ呪いだと言いました。最初の人アダムには果物だけが許され、罪を犯した後呪われてこの地に追いだされ、野菜類のような植物が許され、ついに動物まで食べることが許されましたが、これは結局、人がそれほど悪くなったからです。人が肉に変質していくほど、人は体を維持するためにそれほど多くの肉のものを摂っていかなければならないので、ますます強い肉の食べ物が必要になったのです。

このように動物を食べることを許されたことを呪いというには、より深い霊的な意味があります。それはまさにこの時から殺生(せっしょう)が始まったということです。洪水の前までは、全焼のいけにえのためのもの以外は任意に動物を殺すことは許されていませんが、この時からは人が食べるために動物を殺すだけでなく、動物の間でも弱肉強食の法則に従って互いに殺しあうことが発生するようになります。 

さらに、歳月が経つにつれて人々がさらに悪くなると、糧のためだけでなく、自分の悪の中で動物を殺すことまで起こります。それで人々が面白さや娯楽として動物を狩って殺すのも、結局は人々の心がどれほど悪くなったかを示す証拠です。ところが、人々が次第に悪くなって生まれたもう一つの現象は、人々が最初許されたきよい動物以外にも、自分の見た目に良い動物を取って食べることになったということです。そうしながら次第に神様が禁じられた、けがれた動物まで食べることになり、神様を離れた異邦人の間では、このような現象がさらにひどくなっていきました。しかも動物を血のあるままで食べてはいけないという命令も時間が経つにつれて次第に守られなくなりました。

肉を血のあるままで食べてはならない 

4節には「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」と言われましたが、ここには霊的な意味があります。レビ17:14「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』とおっしゃるとおり、血はいのちと一体だからです。

神様が初めのアダムを土で造り、その鼻にいのちの息を吹き込む時も、体に血が回り循環し始め、人は初めて生きている霊となりました。動物もやはり血は命であり、血があるので命が維持されますが、神様もやむを得ず人間に肉を食べるように許されはしましたが、それがいのちをとる権勢まで人間に許されたわけではありませんでした。したがって、神様は人々に肉は食べるものの、血がついたままでは食べられないようにすることで、血すなわちいのちを主管する権勢はただ神様だけにあるという事実を明確にしてくださったのです。このような神様の命令を守るとき、それがすなわち、いのちを主管される神様の権勢と創造主としての権威を認めることです。

結局「どんな肉の血も食べてはならない」という神様のみことばは、人の生命を司る神様の権威と威厳を侵してはならないという境界線のような意味を持っています。誰が万物の創造主であり、このように恵みを施す人が誰なのかを、人に明確に記憶させたのです。ノアの洪水の後には、父なる神が光で囲まれ、親しく干渉された時とは全く違う状況になってしまったので、このように越えてはならない線を引いてくださることで、人々がこれを意識しながら同時に神の存在を意識して、生きていけるようになったということです。

たとえこの地のすべてが今は肉の法則の中で、根本の肉の属性によって回るしかない状況になりましたが、すべての根本は父なる神様によるものであり、すべての主菅者は神おひとりであることを、明らかに教えてくださる方法になったのです。そして、このように決めてくださった線を人々が破る時には、それがすなわち神様の主権に対する挑戦となるので、そこには必ず応報が従い、神様とは関係のない者になってしまいました。結局、肉の空間と霊の空間が徹底的に分かれるようになった状況で、神様のみことばに従う者は、肉の空間にあっても神様と関係があると認められますが、従わない者は神と関係がなくなったのです。これは今日でも同じように適応されます。

ヨハネ15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」とありますが、これがまさに霊の空間に父なる神様と共にとどまる人に与えた祝福の言葉です。たとえ体はこの肉の空間にあっても、皆さんが主の中に、主の言葉の中にあるとすれば、これが主と共に霊の空間に留まる道になります。そして、この時は主と皆さんが霊の空間の中で一つに通じているので、何でも心に抱くことさえすぐに主に伝わります。主の応答もすぐに来ることができます。

一方、皆さんが信じると言いながらも、主の中に居らず、主の言葉が皆さんの中にとどまっていなければ、主と皆さんは全く別の空間に居ます。主は霊の空間におられますが、皆さんは依然として肉の空間にいます。そして霊の空間と肉の空間は互いに通じることができないので、結局主と皆さんが交わることができず、皆さんの心の願いに主が答えてくださることもできないのです。まさにノアの洪水以後からは完全に肉の空間になってしまったこの世の中で、ただ神様のみことばに従う人だけが神様に属する人になることができるのです。肉の人とは、神様が共にしたくても共にすることができないという事です。まるで水と油が混ざらないように、肉の空間にいる人と霊の空間におられる神様とは通じることができないからです。

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朝の学び79 創世記9章  

創世記9:1-4
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

進化ではないという証拠 


これまでいくつかのケースを見てきたように「人によって移動したのか、それとも自ら移動したのか?」「地形や気候の障害を克服することができたのか、そうではなかったのか?」によって今日、世界中に広がっている動物たちの分布が決定したという事です。もし進化論で言うように、進化によって今日のような動物が生まれたなら、気候や環境条件が似ているところでは、同じ種類の動物が現れる可能性が非常に大きかったでしょう。しかし、アフリカ大陸と南アメリカ大陸で互いに気候と環境が似ているところを比較しても、この二カ所に住む動物の種類が大きく異なります。人によって移動したか、自分で移動できた動物は、両方に住むことになるでしょうが、そうでないものは海を渡ってまで移動することができなかったからです。それで猛獣やからだの大きい動物たちの中には、アジアとアフリカ大陸にだけで生きているものが多いのです。

ちょっと荒々しい動物でも、小さいものは子どもの時に人が十分に移動させることができたでしょう。このような事実だけを見ても、進化ではなくノアの洪水以来、新たに動物が広がっていったことがわかります。また、洪水以前は動物たちがどこに住んでも良い環境でしたが、洪水後に肉の性質が明らかになってからは、それぞれの動物に合う環境を探すようになり、これによる影響もあるのです。ノアの洪水以来、気候とすべてが変化しすぎてしまいました。

そして、動物の中でも今日は、一種類の動物の中でも再び様々な種類に少しずつ変形が起きた場合が見られますが、これは決して進化によるものではなく、ただ長い年月が経つにつれ、それぞれの動物が生きていく地域の気候と餌、そして地形に適応するために生じた若干の変化に過ぎません。このような少しずつの変化を「小進化」といいます。人の場合もどんな気候でどんな食べ物を食べながら適応して生きていくかによって、外見に少しずつの変化が生まれるかのようです。

進化ではないというもう一つの証拠は、まさに恐竜の化石を通してです。恐竜の化石は現在世界中で発見されていますが、化石が見つかるところを見ると主にその周辺一帯で集中的に発見されます。大陸別に見ると、北アメリカでは米国とカナダ、南アメリカではアルゼンチン、ヨーロッパではイギリス、アジアではモンゴルと中国で発見される化石が世界中で発見される化石の75%と言われています。この他にも化石が発見される国々を見ると、世界各地に広がっているにもかかわらず、その国の中でも特定地域に密集しています。これは、すなわち何を物語っているでしょうか?

私が前に説明したように、恐竜がエデンの園から追い出され、この地に降りてきてからこの地にそれほど長く住んでいなかったという事実です。彼らが広がる前に、すでに神様の裁きをこの地で受けてしまったのです。火の審判を受けてしまったということです。とても短い時間しか生きられませんでした。そのため、恐竜が初めてこの地に降りてきた時は、世界中のあちこちに広がったにもかかわらず、その短い時間の間に、さらに広域には広がっていくことはできなかったのです。言い換えれば、神が恐竜をこの地上のあちこちに世界各地に分散しておかれたので、恐竜の化石が世界中で発見されていますが、同時に恐竜がこの地に住んでいた時間が短いため、その間に最初に定着したところから遠くまで広がっていけなかったということです。韓国の場合も恐竜の化石が多く発見されてはいますが、そこが主に数箇所に集中しています。

そしてこれを通して、私たちは恐竜の絶滅も非常に突然のことだったことを知ることができます。恐竜の絶滅がもし餌が足りなかったり、気候の変化が原因であった場合、恐竜は当然餌を求めて散らばったり、より良い気候を見つけて移動したはずですが、そうしなかったことを見ることができます。恐竜の化石が主に集団的に発見されるというのは、一箇所に集まって暮らしていた群れが災いや危険を避けて散らばる時間の余裕さえなく、突然、死を迎えたということ、それだけ膨大な災害があっという間に迫ったという証拠です。

したがって、私たちはこれらの証拠を通して、恐竜がこの地に降りてきて世界中に散らばって暮らすことにはなりましたが、最初に定住した場所から遠くまで広がっていくほど長い時間、この地に住んでいたわけではなく、また突然の審判によって滅亡したという事を知ることができます。そして、日本をはじめとする島国でも恐竜の化石が発見されていますが、これは恐竜が自ら移動したのではなく、最初から神様がそこに置いたという事実を物語っています。


もちろん当時は今と地形が違っていたかもしれませんが、陸地に住む恐竜が泳いで海を渡ることができるわけではないので、お互い離れた大陸や島を恐竜自ら移動していくことはできません。それでも、互いに遠く離れた大陸と島でも似たような種類の恐竜化石が発見されるということは、神様が最初からそこに定着するように散らばしておかれたことを示しています。

これと共にもう一つ考えなければならないのは、現在知られている恐竜の化石のうち、わずか20%が完全な骨格を備えたものであり、57%は不完全だったり部分的な頭骨などによって、その名前がつけられた恐竜だということです。また、残りの500種以上の恐竜たちも特徴のない骨に基づいて名前がつけられました。これは言い換えれば、進化論で化石に基づいて進化したと主張する恐竜のほとんどが、まだ化石でさえまともに確保されていないという状況であり、それほど不十分な資料をもとに、自分たちが立てた仮説と考えの中で恐竜の進化を説明しているということです。しかし、神様がしてくださった説明では、今発見されている恐竜の化石に対する疑問点が明らかになる可能性があるという事です。次の時間には、神様が人々に生きた動物を食物として与えながら、血のあるままで食べないように命じられた霊的な意味について見てみましょう。

 


創世記9章2節「野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」とありますが、これはこれだけ悪があるということを表しています。動物と人の間に、動物と動物の間にも互いにも悪があるので、お互いを恐れて怖がっているのです。ヨハネの手紙第一4:18にも「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」とあります。

人の心の中にも悪がなく、相手に対する完全な愛の心だけがあれば、決して恐れたり恐ろしいことはありません。いくら私を苦しめ、私を害しようとする人がいても、私の方で先に彼を完全に愛してしまったら、決してその人について不快な気がしません。そうではなく、相手が私を苦しめる時、それによって私の心が傷ついて感情が生じるので、そのような人を見ると怖くて嫌で避けるようになるのです。心の中に完全な愛があれば、むしろそのような人を見るとき、より憐れみと慈悲の心で扱い、どんな状況でも抱いてあげることが出来るのです。

ですから、ローマ13:10に、「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」と言われたように、心の中に完全な愛を成し遂げ、律法の完成を成し遂げることができることを願っています。それで、この地でも皆さんの心が天国を成し遂げ、日ごとに、新しいエルサレムの希望の中でさらに熱く駆け付けることができますように主の御名でお祈りします。
 

朝の学び78 創世記9章  

創世記9:1-4
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

イエス・キリストによる霊の再生


最初の人アダムは父なる神に代わってエデンとこの地のすべての万物を支配し、征服し、治めることができる絶対的な主菅者でしたが、この地に光が取り込まれ、肉の空間になってからは、人がただこの地で肉の序列上1位の位置に転落してしまったのです。最初の人アダムは霊として霊の次元である4次元に属した存在であったので、無次元から一次元、二次元、三次元に属するすべてのものと第二の天までも支配して治めることができました。ところがアダムの犯罪以後、人はまさに死という言葉通り、霊が死んでいき、もはや霊的な存在ではなく肉の存在に変質していきます。 

そうするうちに、洪水の裁きに当面すると、創世記6:3「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。」と言われるほど、人々は肉の人になったのです。だから人がもはや万物の主菅者としての立場に立つことができなくなったのです。父なる神様はこのように転落した人の立場を再び回復できるように道を開いてくださったのです。それはイエス・キリストを通して死んだ霊が生きかえる道を開いてくださり、聖霊を私たちの心に送ってくださり、水と御霊によって生まれ変わるようにしてくださったのです。このようにして、神様の子どもになった私たちは、失われた神様の姿を取り戻して、再び霊的な存在に回復していく時、霊の人になっていくほどに、再び万物の主菅者として、肉の世界を支配し、征服し、治めて生きていくことができるという事です。

人類の移動


創世記9:1「それで神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と言われたので、ノアとその家族は速いペースでこの地に広がっていくことになります。創世記9:7にも、「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。』」と言われたように、人は新たに全地にいくつかの集団になって広がり始めたのです。多くの子どもたちを生みながら人口が増えはじめ、それとともに東西南北四方に新しい場を探し求めて旅立ったのです。それでは、ノアの洪水後に人と動物がそれぞれどのようにして全世界に広がっていったのか、その過程について見てみましょう。

創世記8:4にノアの箱舟がとどまったというアララテ山は、今のトルコ領土の中にあります。アララテ山の位置はいくつかの異なる説がありますが、その場所が今のトルコ地域からそれほど遠くない場所であることには概ね意見が一致しています。したがって、人類の新たな始まりは今のアララテ山の周辺から始まります。西はヨーロッパとつながっており、南は中東とアフリカ、東はアジアとつながる地理的には要衝の地から出発していたのです。

人が移動するのに最も簡単な方法は、陸地につながる道を通して移動することです。それで人々はここアララテ山の周辺を中心に四方に広がってゆきました。しかし、陸地での移動には限界があります。他の大陸に移動をしたり、また地形が険しいところを避けて行くには、海を利用しなければならなかったのです。ところが、創世記講解を通して説明したように、ノアの洪水があるまで、人々は海にあまり馴染みがありませんでした。海に進出したり、海を渡る移動のようなことはほとんどありませんでした。

しかし、ノアの洪水後は状況が変わります。洪水に備えるために箱舟を造りながら、ノアと彼の息子たちは自然に船を造る技術を身に着け、それも非常に優れた技術者になりました。これにより船を造る技術が積み上げられ、海に対する自信も得られ、洪水後には海を通しての進出も活発に起こります。これらの事に基づいて、ひとつの具体的な移動経路を見てみましょう。

アララテ山の周辺から始まり、陸地に沿って北西に移動し続けていた人々は、今の大西洋と接している海岸沿いに至るようになります。この時、海を通っての進出を考えなかったら、人々はもはや広がっていないでしょう。しかし、すでに船を作る技術を伝授された人々は、ここで船を作って新しい土地に進出することになります。今でも北西ヨーロッパの側には鬱蒼(うっそう)とした森がありますが、これらの材料がまさに船を作るのに利用されました。


それで船を作ってついに海に進出するようになった人々は、まもなく、今のイギリスの地にたどり着きます。時間が経つにつれて、一部はそこに残って定住しましたが、一部は再び船に乗って西に進出するようになります。そうして結局、今のアメリカ大陸にまで至るようになったのです。アメリカ大陸が世界に知られているのは1492年にコロンブスの発見によるものでしたが、コロンブスがアメリカ大陸に到着したときに、そこにはすでに彼らなりの伝統と歴史を持つアメリカインディアンが住んでいました。

それでは、彼らはどうやってここアメリカ大陸に住むようになったのでしょうか。先ほど申し上げたとおり、洪水後に広がり始めた人類が、すでにずっと前に大西洋を渡ってここに来て定住したことを語っている証拠です。そして今の北アメリカに到着した人々は、ここで再び陸を通って南に南に移動し、南アメリカに定住して暮らすことになったのです。アララテ山から出発して船に乗って南アメリカまでまっすぐに行こうとしたら、そこはあまりにも遠い道のりだったと思いますが、このように陸地を移動できる場所は陸を移動し、そこから船で移動できる場所に行き、再び陸を移動するという方法で、人々は世界中のどこにも広がることができたという事です。

 

そして人々がこのように広がっていく上で大きく役立ったのが、まさに北極星や北斗七星のような星座でした。当時の人々が船に乗って航海するためには当然方角を知る方法がなければなりませんでしたが、星座がその役割を果たしてくれたのです。それで、神様はこうして道案内までする星までも、すでにご存知で摂理しておかれたのです。

動物たちの移動経路 


では、動物たちはどのように移動したのでしょうか?動物の移動は、大きく二つの方法がありました。一つ目は人々によって運ばれ、二つ目は動物たち自らが移動したのです。
 
ノアの洪水の後、人に動物が食物として許され、一部の動物は非常に貴重な財産になります。洪水の前からすでに家畜と呼ばれる動物たちがいて、これらの動物たちは人々と共に生きていきました。ところが、洪水後には、糧食として使われる家畜まで加わり、家畜は人にとって切っても切れない存在となります。だから人々は新しい土地を探して移動しながら、これらの家畜を当然連れて行くようになります。それで今日、世界中の人々が住んでいる場所には、ほとんど共通して存在する動物がいます。例えば牛、鶏、犬、豚、馬、アヒル、ウサギ、ヤギなどがこれに属します。もちろん、この中で地域や気候によって少しずつ差が出るのですが、人々が住んでいるところではほとんどこれらの動物を見ることができます。

今日だけではなく、歴史を見てもすでにずっと前から、これらの動物たちは人と一緒に住んでいました。その理由は、まさに人々が世界中に広がり、これらの動物を一緒に連れて行ったからです。もしかして「家畜の中には、神様が忌むべきと言われた動物たちも含まれていますが、そのような動物たちはなぜ一緒に連れて行かれたのでしょうか。」と考える方がいるかもしれませんが、洪水後、人々は急速に悪に染まっていき、次第に神様と遠ざかるようになりました。それで、将来、選民として選ばれるイスラエル民族として存続する系図の人々を除いては、神様とは関係のない異邦人になっていったのです。

 

そして、これらの異邦人たちには、神様が最初に決めてくださった動物以外にも、自分たちの目に良いと思う動物をとって糧にしていったのです。そのため、神様がご覧になったときに忌むべき動物たちまでもが家畜に含まれ、人々と共に世界中に広がっていきました。 

しかし、必ずしも家畜だけが人々によって移動したわけではありません。動物の中でおとなしいものや連れて移動しやすいものは、必ずしも家畜ではなくても、人々の手によって世界中に広がっていくことができました。たとえば、ハトは世界中のどこにでもいます。ハトは人が愛し、人に従う属性があるので、人が連れて移動しその地で繁殖させることによって、世界各地に存在するようになりました。鹿のようなおとなしい動物の場合は、南北アメリカはもちろん、ヨーロッパやアジア全体に非常に広く分布しています。

しかし、虎の場合は全世界に分布しているわけではありません。シベリアやインド、韓国、マレーシアなど、主にアジア地域にのみ分布しています。これは洪水後に弱肉強食の法則が生まれた為、家畜たちに害となる虎のような猛獣まで、あえて一緒に連れて移動する必要がなかったからです。したがって、人が連れて移動したのではなく、獣たちは自ら移動したという事を知る必要があります。

ノアの箱舟から出てきた動物たちは、陸を通って移動できる場所に徐々に広がり始め、その中でもそれぞれの動物たちに合った地形や気候を探して移動するようになりました。そのため、今日世界中に広がっている動物の分布を見ると、それぞれの動物がどのように移動したのかがわかります。例えば、象のような場合です。象のように大柄な動物は人々が連れて移動するのが容易ではなかったため、象自らが移動した場合です。そのため象は陸を通って移動し、現在アジアの熱帯地域とアフリカだけに住んでいます。

前述の虎やライオンも同様です。自ら移動しなければならなかったこれらの猛獣は、全世界に広がることができず、一部の地域に限定されるしかなかったでしょう。またライオンのような動物は水が嫌いなので、泳いで渡ることもできません。その為北アメリカや中南米へはライオンが移動できず、アフリカとアジアの一部の地域でのみ生息することになります。

この他にも、カバ、キリン、サイなどのような大きさの動物たちも自らが移動しなければならなかったため、世界的に広く分布しているのではなく、ほとんどアフリカとアジアから抜け出せない地域にだけ住んでいます。このようにして自ら移動して広がった動物たちは、海や大きな川や山脈などのような地形の障害物を自ら克服できなかった場合には、最初に広がり始めたアジア大陸、そしてアジアと陸でつながったアフリカを除いてはもはや広く広がらなかったのです。
 
ノアの洪水によって生じた気候の変化や地形の変化が、動物たちが広がって生きていく上で非常に大きな変数として作用するようになったからです。もちろん、空を飛ぶ鳥や、地形や気候の障害を乗り越えた動物たちの中には、世界中に広がった場合も多いです。その中でクマの場合はアフリカ、オーストラリア、南極を除くほぼ全世界に分布して住んでいますが、水を恐れずに種類を選ばない食性のため、それだけ地形や気候の障害を克服して広く広がることができたのでしょう。

 

朝の学び77 創世記9章  

創世記9:1-3
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのもの-それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

これから創世記9章に入ります。9章では、まず、新たに人間の耕作を始めるノアと彼の家族、そして子孫たちにくださる父なる神様の契約の御言葉が出てきます。創世記9:1-2に、「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―地の上を動くすべてのものーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」

本格的な人間耕作の始まりとともに、もう一度人間に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という祝福の言葉を与えておられます。ところが、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という御言葉が、以前アダムがこの地で生活を始めたときに初めていただいた御言葉と非常に似ていますが、その内容を詳しく見てみるとまったく異なる次元の御言葉であることがわかります。 

創世記1:28を見ると、神は男と女、すなわちアダムとエバを創造し、彼らに祝福を与えながら、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と命じられました。最初の人アダムには、地を従えよという言葉と共にすべての生き物を支配せよという言葉も与えられましたが、ノアには地を従えよという言葉もなく、「あなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」と言われただけです。それでは、神がアダムに与えられたみことばと、ノアに与えられたみことばはどのような違いがあるのでしょうか?

まず、最初の人アダムに与えられた言葉は、神に代わってすべての万物を治める主権者としての権限を与えられました。第一の天だけでなく、第二の天のエデンにあるすべてのものの中でも一番上に立てて征服して治めるようにしたのです。しかし、ノアにくださった言葉はそのような意味ではありません。今は、ただすべてのものの上に頭になった者として、序列上一位の位置に立てるという意味です。 

野の獣についても治める次元ではなく、獣が人を恐れて怖がるように秩序が立てられたに過ぎないのです。秩序上、すべての獣が人間の序列を越えることはできませんが、これ以上人がすべての獣の主権者ではなく、ただ序列上一番上に置かれただけです。例えを挙げれば,アダムとすべての野の獣との関係がまるで王と民の関係であったとすれば,ノア以後は民の中から選ばれ、最も頭として立てた臣下と民との関係と言えます。臣下の位置がいくら高いとしても王とはまったく次元が違うように、ノア以後は人々がもはや万物の主権者ではなく、万物の中で序列上一番上に立つようになったのです。簡単に言えば、人と万物の関係が垂直の関係から水平の関係に変わったのです。

次に、すべてが変わった肉の環境の中で、病原菌や病気が本格的に人に乗じてくるようになったという事です。もちろん、このようなものはアダムの罪によってこの土地が呪われた時、生じ始めましたが、ノアの洪水までは活動できない環境にありました。しかし、この土地が完全に肉の空間になると、多くの病気や病原菌が急速に現れ始めました。つまり、病原菌の発生や、すべての病気の最も根本的な原因が人々の罪のためであることがわかります。人々の罪により審判が臨み、初めの光が取り込められ、人々がより速く悪に染まることによって、本格的に病気がこの地に登場したのです。

このように光のあることと光のないこととはあまりにも大きな違いがあることを知る必要があります。ところが、神様はこのように光が取り込められた肉の空間に生きていくようになった人々を、そのままにしておいたのではありません。霊の空間と通じる人々を見つけて、彼らを士師として、または預言者、使徒として立てられ、彼らを通して父なる神様の御心を絶えず宣言し、導いてきました。もし父の側で、ただ何の干渉もなく置かれたら、人々は心に望む通りに行って、ますます濃い闇の中に陥って行ったでしょうが、父なる神様は一人子の息子まで渡してくださり、失った父との関係を回復できるように道を開いてくださったということです。

生きて動いているものはみな、あなたがたの食物になるので

創世記9:3を見ると、「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」と言われました。これもやはり、初めの人アダムがこの地に住み始めたとき、神様がくださった御言葉と対比されています。 

創世記1:29では、「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがた食物となる。」としてくださったのですが、ノアの洪水以降は動物までも食べられるように許されます。ここで「種を持つすべての草」とは、白菜や大根のような種類の野菜を言うのではなく、スイカやメロンのような果物を言うことであり、「種を持って実を結ぶすべての木」の果実とは、リンゴ、柿、桃、梨などの果物をいうのです。神様はアダムが犯罪する前には果物の種類だけを食べさせましたが、アダムが罪を犯して呪われてから野菜が付け加えられました。

ノアの洪水の前までは、いけにえとして捧げるためのもの以外に、任意の獣を殺すことは許されていませんでした。しかし、洪水後には殺生ということが現れ、獣の間にも弱肉強食という自然の法則が存在するようになります。人だけが獣を捕まえて殺して食物としたのではなく、獣の間でもお互いを殺して強者が弱者を捕まえて食べることになるのです。

これらの姿を父なる神様が見られる時は、あまりにも心が痛くて嘆くしかないのですが、肉に戻ってしまった空間の中では、徐々にこのような状況が激しくなっていきます。人にも、神が動物を食物として許されたとしても、そこには守らなければならない線があります。しかし、何度もこの線を越えて変質していくと、神が後には、呪われた獣とそうでない獣に分け、獣の中でも食べてよいものと、食べてはいけないものを分けるしかない状況に至ってしまいます。つまり、洪水後に神が食物として許された動物は、聖い動物に属する数少ない種類でしたが、人々に悪が加わりつつ定められた線を越えると、レビ記に出てくるように食べてはならない動物の範囲を確かに決めるしかなかったのです。

結論

皆さん、この土地が肉の空間になるにつれて、すべてが以前と同じではなくなりました。神様との交わりも容易ではなくなり、神様の御心を悟っていくことも容易ではなくなりました。それでも心が善い人々はこの肉の空間で悪に染まっていくのではなく、自分を守り、神様の御心を追って生きていくことになります。このように、以前にも善良な人々は必ず神を探し、神の声を聞いたことを見ることができます。まして、イエスを救い主として受け入れ、聖霊を賜物として受け取った神様の子どもたちが、聖霊の声を明らかに聞くこと、また父なる神様の声を明らかに聞くということは、とても正常なことです。ですから、父なる神様がこうして神様の声を聞き、神様の御心を求めて生きていく人を発見された時、どれほどその心が喜ばれるでしょうか。こういう人は、神様の方でも愛してくださり、思いっきり祝福してくださるしかないのです。それだけでなく、アダムの罪の後に失われた万物の主管者としての位置も取り戻せるようにしてくださいます。

万物の主管者として立てられた人間は、アダムの罪以後その資格を失うことになり、洪水後には万物との関係が、垂直の関係から水平の関係に転落してしまいました。しかしその心が肉に染まらず霊の空間に属する者になれば、再び失った万物の主管者としての権威を回復していくことができるという事です。神様が上からくださる霊の権威と力が従うようになり、万物を支配し、征服し、治めることができるのです。創世記講解を通して語られるみことばが、この祝福の場に出て行くことができる道を明らかにしています。神様がくださるすべての御言葉を、皆さんが完全に心の糧とされ、力となり、霊の空間に属する霊の人々として出てくるように、主の御名でお祈りします。
 

朝の学び76 創世記8-9章  

創世記8:22-9:3
地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」
それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、 ― 地の上を動くすべてのもの — それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。

 

自由意志の重要性

以前には、私たちがこの地で人間耕作を受けながら、訓練という過程を通して、その本性の中にある悪まで発見して捨て去るとき、父なる神様が喜ばれる真の子どもとして出てくるとお伝えしました。ところで、悪を捨てて聖潔に向かって走っていくにあたって、皆さんにとって大切なこと、顧みなければならないことは、自由意志を果たしてどのように使っているのかということです。

自由意志とは簡単に言って皆さん自らが自由に選べる意志のことです。するのか、しないのか、守るのか、守らないのか、持つのか、持たないのか、従うのか、従わないのかなど、数々の状況の中で、皆さんにはまさに自由意志があるので、自分が望むものを選んで生きていくことになります。もちろん、とても幼い子供たちはまだ自分の自由意志を勝手に使えるわけではなく、少なくとも6歳くらいを越えてこそ、自分の意志の中で善と悪を選ぶことができるようになります。それで、救いもこのくらいの時から自らの信仰の選択によって決まるのです。

このような自由意志は、皆さんが心をどれほど真理で霊として働かせたかに応じて、霊の働きとして出てくることもあり、逆にどれだけ非真理と肉があるかによって、魂の働きとして出てくることもあります。だから、非真理と肉の多い人は、いくら自由意志の中で霊を選ぼうとしても、敵である悪魔サタンが主管する魂の働きによって、結局は罪の奴隷の役割をするようになります。しかし、心を完全に霊で満たした人は、霊の働きによって、すべてのことにおいて、父なる神様の御心に100%合わせることができます。

自由意志の中で、神様の御心に完全に従う真の子どもを望んで人間耕作を始められた神様は、ノアの洪水以後から、人の根本の肉の属性まで現れる環境の中で、本格的な人間耕作を始められました。洪水以前は、まるで温室で花を栽培するのと同じでしたが、これからは温室の外に出て、完全に世の中と接する環境の中で花を栽培するようになったのです。このように、人の根本に内在していた肉の属性が明らかになり始めると、義人と呼ばれていたノアにさえも、洪水以前には発見できなかった悪の形が現れ始めました。

 

人々は、気を通して先祖から伝わる肉の属性が積み上げられ、以前よりもさらに急速に悪に染まりました。創世記9章にはノアの息子ハムが父の過ちを兄弟たちに伝えると、その声を聞いてノアがその息子を呪ってしまうのを見ることができます。このような状況を知っておられるので、父なる神様は、創世記8:21「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」とおっしゃったのです。

根本の肉の属性が明らかになった地 

ノアの洪水以後、光が収められて根本の肉の属性があらわれたのは、人にだけ該当するものではありませんでした。人々が生きていくこの地も光が取り込まれて、根本の肉の属性を持つ完全な肉の空間に戻ることになりました。それで、自然のすべてが根本の肉の法則に従って運行されているので、22節「地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」とおっしゃったのです。

最初の人アダムが罪を犯してこの地に追い出されてから、この地は人によって呪われ、初めの神様が取り囲まれた光が多く取り込まれ、以前とは違う肉の法則が適用され始めました。創世記3:17後半または19節に、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と言われた通りです。
 
しかし、ノアの洪水以前までは、それでも神様が囲んでくださった光がすべて取り込められたわけではないので、この地が完全な肉の法則が適用される空間ではありませんでした。しかし、光が完全に取り込められた後からは、現在のような肉の空間になるので、以前とはまた違う肉の法則が生じたのです。光が残っている間は、神様の力でこの地は人が生きていくのに最も適した環境として維持されましたが、完全な肉の法則が適用されてからは、寒さと暑さ、夏と冬が明確に現れるようになり、地域によっても肥沃なところと痩せたところ、平和で美しいところとそうでないところがあらわれるようになりました。地が持っている根本の肉の属性に従うことになったのです。

例えば、根本の土地の土質がやせているところでも、以前は光の能力によって現れなかったのが、光が取り込められるにつれて、根本的な土質が明らかになり、徐々にやせた土地に変わっていったということです。人も根本にあった肉の属性が出てくるので、次第に悪に染まっていくのと同じことです。特に現在の中東の土地は、人間耕作の始まりとともに悪がひどく満ちたため、洪水の審判の原因となったところであり、罪悪による呪いのため、他の土地よりも肥沃でない厳しい環境の中に置かれたことがわかります。かつてはアダムが初めて定住した場所であり、多くの人々が集まって暮らすほど、肥沃で豊かに見えた土地でしたが、神様の恵みが去り、呪いが臨むと、根本の属性が明らかになって呪いを受けた土地になってしまったのです。


洪水以後、ノアと彼の家族は新しい人生を始め、心の中では「これからは神様が望むように行っていきます」と決心しましたが、完全に肉の空間に戻り、根本の肉の属性が明らかになり始めた土地で生きていくので、決心したこととは異なり、むしろ次第に悪に突き進んでいきます。ですからこういう環境の中で数千年が過ぎた今日、根本に内在した肉の属性を取り除き、聖潔にされて霊に入ってくるということは、簡単にできることではありません。

ですから、父なる神様はこのような世でも悪を脱いで変化し、霊に入った人をとても喜ばれるのです。このような人には、たとえ肉の空間にいるにもかかわらず、霊の空間で行うことが出来る能力を与えてくれるのですが、これがまさに御力です。つまり、心を霊に耕した人は、肉の空間でも霊の空間の働きができるのです。この時、霊の空間の働きとは、肉の空間では不可能なこと、ただ肉の空間と法則を超越する神の力だけで出来ることです。

皆さんは、この教会を通して、このような霊の空間の出来事をこれまで数えきれないほど見てきました。不思議な虹、雲が現れ消えること、星の移動などをはじめとしたしるしと、見えない人の目を開け、聞こえない人が言葉を聞き、耳が聞こえ、動けない体が起きあがるなど、計り知れないしるしがまさにその証拠でしょう。そして今は皆さんの中でも心を霊に耕した方々を通して、霊の空間のはたらきが起きています。

 

たとえ自らはまだ完全ではないとしても、この教会にはすでに霊の空間の出来事が起こり得る道が開かれているので、その道を知って出てくる方々には同じ働きが現れているのです。これらの働きが皆さんにも信仰になって、迅速に肉を脱いで霊に入り、これ以上肉の空間に縛られているのではなく、一次元高い霊の空間に属して肉を支配して治める者になることを主の御名によって祈ります。
 

朝の学び75 創世記8章  

創世記8:20-22
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

心が善な人々 

アダムの犯罪以後、子孫には気を通して先祖から伝わる肉の属性が積み上げられ、ノアの洪水後にさらに急速になりました。ところが、気を通して人の本性の深いところに内在する肉の属性は、容易に発見して捨てることが出来るものではありません。それを発見してしまうためには厳しい訓練が必要な場合があります。例えば、自分自身について「もうある程度悪の形を捨てた」と思っていた方々の中にも、父なる神様が訓練を許されれば、自分も知らなかった心の深いところにある悪の形があらわれる場合があります。

ヨブの場合がまさにそうでした。神様がヨブに試みを許されると、その訓練を通して心の深いところに潜在していた肉の属性が、膨大な悪の形にまでなって出てくるのを見ることができます。だからヨブにこのような訓練がなかったならば、ヨブ自身は決して自分の中にある根本的な肉の属性を発見して捨てることができなかったでしょう。

このように訓練がすぐには大変で心の痛みも伴いますが、その訓練の時こそ自分の深い心の中まで解剖し、気の中にある肉の属性を発見して捨てることができる祝福の機会だという事です。訓練を通して気の中にある肉の属性まで発見して捨ててしまうと、その後与えられる祝福は素晴らしいものだからです。

またこのような訓練がある時だけ、訓練の中から出てくる自分の姿を見て、「まだ私の中にこのような悪の形が残っている」と自らを発見するだけでなく、その悪がどれほど汚れて醜いかを心の中心で感じて悟ることができるのです。訓練を通して、悪の形を神様がどれほど嫌がっているのかをまさに悟られなければ、その悪の形を脱いで聖潔になることができないのです。ですから父なる神様は、訓練を受けることができる器である人には、自分の本性の中の悪まで発見することができる訓練を許されるのです。

ダビデ王もそうでした。ダビデ王は自分の部下であるウリアの妻を身ごもらせ、その事実を隠そうとし、結局は忠実な部下であるウリアを異邦人の手によって死なせる、途方もない悪まで行なうようになります。ところがもし父なる神様が、ダビデ王がウリアの妻バテシェバを身ごもらせることを最初から阻止されたなら、ダビデ王がそのように大きな悪まで行なうことはなかったでしょう。しかし、父なる神はダビデ王の行動を妨げませんでした。まさにその事件を通して、ダビデ王が徹底的に自分を発見し、変化し、より完全な姿に出てくることが分かっていたからです。

しかし重要なのは、まさに訓練を受ける人の姿です。ダビデ王は神がナタン預言者を通して彼の罪を指摘すると、すぐにその場で悔い改め、立ち返りました。そして、自分が行った悪のために、後に自分にやって来たすべての報いまでも喜んで感謝の気持ちで受けました。自分に与えられた報いを避けようとせず、一度も文句を言ったり、不満を吐露したこともありません。

一方、ヨブの場合はどうでしたか?友達が訪れて自分の姿を指摘すると、自分を発見して悔い改めるよりは、友達と弁論して悪を発しました。もちろん、後には神様が親しくヨブを悟らせてくださると、その場で悔い改めて立ち返りましたが、それまではあまりにも多くの言葉を発して悪を行ったのです。結果的にはダビデ王とヨブの両方が訓練を通して自分を発見して変化し、神様の祝福の中に至りましたが、訓練を受ける姿はこのように互いに異なっていたのです。 

ダビデは指摘を受けるとその場で悔い改め、ヨブは友人たちが指摘をしても弁論だけをして、神様ご自身の親しい声を聞いたときになって、ようやく目が覚めたのです。自分に与えられた訓練と自分の悪のために受けた報いまでも感謝の気持ちで受けたダビデ王は、今天国の序列の非常に尊い場所に至りましたが、そうではなかったヨブは、ダビデ王とは比較できない位置にあるという事実です。

これがまさに心の地の違いです。もし神様がダビデ王にヨブのような訓練を許されたとしても、ダビデ王は決してヨブのように話したり行動したりしなかったでしょう。ダビデ王もヨブも神様が過酷な訓練であっても許されるような器でしたが、その心においてはこのように差があったのです。このように心の地も良く、従順であり、御言葉どおり守って行なう人であっても、その心がどれほど善良なのかによって、神様から愛と認められる程度が変わるという事です。

ノアもこのような観点から見ると、彼が天国の高い序列に上がった人々とは、その心の地が違うことがわかります。本格的な人間耕作とともに、ノアからも本性の中に内在していた肉の属性が明らかになりますが、これを物語っている代表的な事件が創世記9章で、自分の過ちを現した息子ハムのことを呪う場面です。葡萄酒に酔って裸で自分の恥をさらす行動を見せただけでなく、このような自分のあやまちをあらわにした息子まで呪ってしまう、悪い姿が出ています。

しかし、もしアブラハム預言者モーセがそのような状況になったとしたら、果たして彼らは自分の息子をノアのように呪いましたか?そうではありませんでした。これがまさに心がどれほど善いかどうかかの違いであり、ノアの心がアブラハムや預言者モーセに続くことはできないのです。

預言者エリヤと彼の弟子であった預言者エリシャを見ても、その2人の心がどれほど違うのかがわかります。預言者エリシャは師であるエリヤから二倍の霊の分け前を受け、また聖書を見れば驚くべきしるしをたくさん行ったにもかかわらず、天国でのその位置が預言者エリヤとは比較になりません。その理由が分かる事件が列王記第二2章に出ています。

ベテルに上っていた預言者エリシャに向かって小さい子どもたちが集まってきて、「上って来い、はげ頭、上って来い、はげ頭。」とからかいます。するとエリシャがこれに我慢できず、子供たちに向かって呪いをかけると、森の中から二頭の雌熊が出てきて、子供たちの中で四十二人をかき裂きました。 

ところで、この瞬間に預言者エリヤがその場にいたとしたら、果たしてエリヤもそのようにしたでしょうか?決してそうではなかったでしょう。エリシャと師であるエリヤの心の善の違いが分かるのです。エリシャも大きな権能を行って、神様の道具として使われた人でしたが、彼がそうすることができたのには、まさに師のエリヤを通して神様が下された恵みが大きかったという事です。
 
神様は各人の心を見て、その心が善良な人をもっと喜ばれます。ところが、このような善良な心はある程度、生まれつきの傾向もありますが、まさに心を変化させてくださる神様を信じて、神様の御心の中で行っていく時、善良な心に変化することができます。もちろん、心というものが変化することは容易ではないので、心を変化させるためには、神様が許される厳しい訓練の中でも、訓練に耐え抜く変わらない心を持たなければなりません。そして、このような変わらない心が積み重ねられながら、その心の中心が善に変化できるという事を知らなければなりません。

しかし、皆さんが一つ知っておくべきことは、自分自身が早く良い心に変化するためには、厳しい訓練をも受けなければならないということです。だから誰でも訓練が許されるわけではないということです。先ほど申し上げたように、訓練とは神様が受ける人の器を見て、それに合わせて許されます。本当に神様が大きく使われる器には、時が来れば神様が許される訓練が訪れます。それで、それぞれの器と信仰の分量に合わせて許される訓練の過程を通して、御父の神様が喜ばれる善い心に変化されますように願います。

結論

皆さん、ノアと彼の家族は新しい世界で新しい人生を始め、心に多くの誓いをしたはずです。なぜ洪水の裁きがきて、その結果が何であったのかをあまりにもよく知っている彼らであったので、自分たちが今後どのように神様の御心の中で生きるべきかを誓ったのです。

ところが、いざ完全に肉の空間になってしまったこの世の中で実際に生きていくようになると、最初の思い通りのようにはいきませんでした。根本の悪が明らかになり、それが様々の悪の形で現れ、人々は速いスピードで悪に染まっていったのです。このように心の中にある悪というのは、心に誓うからといって簡単に捨てられるわけではありません。ただ神様の真理に照らして、自分を徹底的に発見して、自分を否定して捨てて行かなければなりません。

そのため訓練が必要なのであり、訓練を通して自分の義が砕かれていき、心の中に潜在した細かい悪の形までも発見してしまうことができるのです。しかし訓練を受けていく時に、必ず必要なのが祈りです。訓練の中でも休まないで祈る時、自分を発見することができ、発見された悪の形を捨てる力も与えられます。

ですから、みなさんはみことばと祈りでどんな訓練でもすばやく通過し、純金のような信仰を持った霊的な勇士たちになって出てきますように。それで終わりの時に、神様の国のために大きく用いられる貴い神様の道具になるだけでなく、将来天国でも太陽のように輝く席に多くの方々が至るようになることを主の御名でお祈りいたします。










 

朝の学び74 創世記8章  

創世記8:20-22
ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」

全焼のいけにえの霊的な意味

ノアが箱舟から出た後、最初にしたことは、神の前に祭壇を築き、全焼のいけにえを捧げることでした。家畜を取って全焼のいけにえとしてささげるということは、私たちの命そのものを神様に捧げるという意味であり、神様が私たちに命じられたすべての戒めを守ることを意味します。すなわち、神様のみことばを完全に守り行い、聖潔で神聖に生きて、私たちのすべての人生を神様の前にささげることが、全焼のいけにえの霊的な意味です。ノアが捧げた全焼のいけにえには、このような霊的な意味がそのまま込められていました。

 

ノアは箱舟から出て、新しい世界に最初の足を踏み出しながら、自分の命を救ってくださった神様に心から感謝しました。そして今、自分の命は完全に神様のものであることを告白する霊的な意味を込めて、全焼のいけにえを捧げたのです。また、万物に対する神様の主権と、今後のすべての人生を神様に任せるという意味が込められていました。

 

すなわち、これからの生活の中で、ただ神様の御言葉の中に生き、神様の御心を受け入れていくということです。又これと共に、後の日に子どもたちのすべてまでも神様の前に任せるということが含まれていました。このように、ノアが捧げた最初の全焼のいけにえの中には、様々な霊的な意味が込められていました。

 


洪水以後、ノアの最初の全焼のいけにえと告白

ノアが洪水の前に捧げた全焼のいけにえと、洪水の後に捧げた全焼のいけにえとは大きく異なる点があります。それはまさに神とノアの関係性です。以前、ノアが神様にささげた告白を紹介したことがありますが、その時、ノアは神様を「父」と呼びました。しかし、洪水が終わった後からは、神様を「ヤーウェ神様」と呼ぶようになりました。洪水以後の光が収められ、この地が徹底的に肉の空間になるにつれて、人間と神様との関係も新しい関係で確立されたのです。

以前は神様を父として接しいつも交わり、すべてを細かく伝えながら答えられましたが、洪水の後からはこのような交わりが制限されます。努力して苦労して汗を流して祈る時であってこそ交りが行われ、神様の特別な御心がある時だけ交わりが成されるようになりました。人間と神様との間に神様が畏敬の対象であり、仕えの対象であり、主権者として接することになる垂直的な関係が形成されたからです。それで、ノアの洪水以後、神様の前に最初の全焼のいけにえをささげたときの告白は、以前の告白とは大きく異なっていたことがわかります。

「神様が私たちすべての命を救い、救われたことに感謝します。今、新しい地と新しい世界が広がっています。わたしたちの命を生かし、救われ、新たにこの世界を造っていかれる神様に、このように全焼のいけにえをお捧げします。私たちの命を救い、私たちの家族を救い、このように新たに始めていただきまことにありがとうございます。」

ノアは徹底的に神の主権の前に自分を低くして、神様が施してくださった全面的な救いの恩恵に感謝を表現しています。もはや父親と子どもとしての関係というよりは、主権者と被造物としての関係が感じられます。このような神様との関係性の再確立と共に、人間に現れた大きな変化は、まさに本性の中に内在していた肉の属性が現れ始めたことです。

ノアの洪水以後、明らかになった根本の肉の属性 

ノアが義人であり、当世に完全な者だと言っても、それは神様が囲まれた光の中に住んでいた時の姿でした。ノアを義人と言ったのも、父なる神様の側から見るときには、ノアが完全に義人の資格を備えているのではなく、ノアの時代の水準では義人であることであり、当世に完全な者と言われたのも同様です。神様の基準から見て絶対的に完全な者という意味ではなく、全て罪悪でつかさどられた当時の状況の中で見ると、相対的に完全な者と考えられたということです。

しかし、当時としてはノアほど神様の前にその心を合わせた人はおらず、結局、神様はノアを選んで新しい人間耕作の始まりを導いていくことになります。そして、人の心の中に潜在した根本の肉の属性まで開墾していく本格的な人間耕作が始まると、ノアからも洪水以前には見られなかった悪の形が一つ一つ明らかになります。

心に訓練を受けて霊に変化したものは、どんな肉の環境が与えられたとしてもまた変わりません。しかし、ノアはまだ心の奥底まで訓練を受ける本格的な耕作を受けて、霊が育てられたわけではないため、新しい肉の環境に置かれることになると、本性の中に内在していた肉の属性が出てきたのです。

まるで温室の中で育てた花や草が温室の中ではよく成長しますが、温室の外に出すと新しい環境にうまく適応できず、色々な問題が現れることと同じだと言えます。このようにノアの洪水以前に光で囲まれていた世界とノアの洪水以後、光が取り込まれた世界とは全く違うという事です。


創世記8章21-22節です。

「主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。』」

今後人間耕作が終わる瞬間まで、再びノアの洪水のような審判としてこの土地を呪うことはしないという言葉です。神様がこの地を呪われ、水で裁かれた理由は、まさに人間の悪のためでしたが、実は洪水後からは人間の悪が以前よりはるかに増すことになります。神様が「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」とおっしゃったのも、まさに神様は、今後人々がどのようになるのかをご存知だからおっしゃったことです。

神が「初めから悪である」と言われた理由は、光が取り込まれると、それだけ人々が悪に染まりやすくなり、ここに祖先から気を通して伝わる悪が積もり、歳月が経つにつれて人々はさらに悪くなることを教えてくださるのです。また、人々が迅速に悪に突き進んでいくという意味も込められています。それだけ幼い時から悪に染まっていくという意味です。だから、この地は歳月があまりたたないうちに、むしろノアの当時よりも悪が染まっていくしかありませんでした。

父なる神様もまさにこれらの事実を当然知っておられるので、たとえ人々がノアの当時のように悪くなるとして、それによってこの地を再び呪い、裁きをしないようにするという意味で、「わたしは決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。」とおっしゃったのです。もし人々が再び悪になるとして、神様がノアの洪水のような審判をまた再び下すなら、この地は継続して審判と新しい人間耕作が繰り返されるしかないでしょう。

しかし、ノアの洪水の審判は、人間の耕作の摂理の中で一度の出来事として計画されたものであり、その後の最後の審判まで、ノアの審判のような呪いはもはやありません。創世以来、すべての人類を審判する最後の審判だけが残っています。

だからといって、人によってこの地が呪われる事が全くないわけではありません。この地全体が呪いを受けることはありませんが、神様が見る時、人々の罪悪が公義の限界線を越えた場合には、それにふさわしい代価を払わせます。例えば、今日世界的に見て、国家や地域的に偶像崇拝が激しくそのうちの重い所は呪いの地になっていくことがわかります。

目に見える肉的な呪いももちろんですが、目に見えない霊的な呪いによって、邪悪な霊の巣窟に転落していくことが見られます。かつては、神様を愛して、国が繁栄して旺盛だった国々が、今はますます神様を遠ざけていくことで、それと共に国々も疲弊し、悪に染まり難しくなっていくのを見ることになります。

神様はノアの洪水という大審判を通して神様を離れて罪悪の中に暮らすことがどんな結果をもたらすのかという事を十分に悟らせてくださいました。それでも人々はノアの洪水が与える教訓を忘れたまま急速に悪に染まっていき、今日のような状況に至ったのです。それで、神はノアの洪水後も時を追って預言者たちを立て、彼らを通して父の御心を宣言されました。心が善良な人々を選んで、預言者として、使徒として立て、彼らを通して人間耕作の最後の瞬間まで、父なる神様の摂理を成し遂げていくのです。

朝の学び73 創世記8章  

創世記8:13-20
ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

 

ノアの洪水で光が取り込まれた後の姿


箱舟から出てきたノアと彼の家族たちには、今やまったく新しい世界が繰り広げられるようになります。肉的な環境が変わったのはもちろん、光が取り囲まれていた時とは多くのことが変わりました。このような新しい世に出てきたノアは、最初に父なる神様の前に祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげます。この瞬間、ノアの心にはどれほど恵みと感謝があふれていたでしょうか?

洪水の審判があることを知った時から箱舟を準備していた長い時間、箱舟の中で生活していた時間、その時間の中にあった数多くの事がらが走馬灯のように過ぎさり、ノアと彼の家族は自分たちを救われた神様、自分たちを通して新しい人間耕作を繰り広げられる神様に、心から湧き出る感謝の祭壇を築いたのです。

しかし一方では哀痛の気持ちもありました。箱舟に入る時は、数多くの人々でにぎわっていた土地でしたが、今や箱舟から出てみると、自分や家族以外には誰もいません。洪水の審判がどんなものだったのかが実感する瞬間です。洪水の中に絶叫して死んでいった数多くの人々の姿が通り過ぎて、ノアの心がどれほど痛かったでしょうか?

「私がそのように審判があると叫んだとき、彼らが私の言葉に耳を傾けていたら…」 「私がもっと熱心に彼らに伝えたら…」 と言うことです。しかし、私と皆さんには、このような後悔があってはなりません。

やがて、私たちの主が私たちを迎えに来られたときにこの地に残された人々を見ながら、私たちもノアのような後悔と哀悼をしてはならないということです。ですから、その時が来る前に、私たちは地の果てまで、まだ主の福音を聞いていない魂たちに熱心に聖めの福音を伝えなければなりません。


ところがノアに押し寄せるもう一つの心はまさに寂寞(せきばく)でした。今、光が取り込められた世界の中で、一人残されたようなところから来る寂寞さでした。これはアダムの場合を考えてみるとわかります。アダムが罪を犯し、第二の天から追い出され、第一の天に降りてきたとき、すべてが見慣れないもので、第二の天とは光もまったく違う第一の天の人生がどれほど寂しくて寂寞としていたでしょうか。それでいつも第二の天に憧れて生きるしかなかったのです。

もちろん、ノアの場合はアダムのように罪を犯して呪われたわけではありませんが、それでも光が取り込められた後のこの世界は、前とはあまりにも感じが違いました。これにより来る静けさと恐怖が心の片隅にあるしかなかったのです。このようなノアには洪水がある前よりも神様の恵みがもっと必要でした。ですから、光が取り込められた後でしたが、父なる神様はノアとの交わりを完全に断ったのではなく、時に応じて恵みを与えて、神様の御心を教えてくださいました。


アダムが罪を犯し、第二の天から追い出され、第一の天に降りてきた時も、随時アダムと交わりをしてくださり、父の御心を教えてくださって導いていったようにです。それにもかかわらず、アダムは肉の空間に出てきた後、次第に肉に変質することができる属性が現れるようになります。肉の空間に出て耕作を受け始めると、心の中にあった様々な肉の属性が現れ始めたのです。しかし、洪水が起こるまでは、それでも根本的な肉の属性が明らかになったわけではありません。ノアと彼の家族が箱舟から出てきてから、根本に内在していた肉の属性が現れ始め、この時から本格的な人間耕作が始まったのです。

そしてその時代の義人と称されたノアでしたが、このように根本の肉の属性が出始めると、以前に発見できなかった姿が一つ一つあきらかに現れ始めます。次第に肉に変質していったという意味です。彼がどのように変質したのかは今後、第9章で説明されますが、ここで私たちは何故ノアがその時代の義人であるのかその理由を悟ることができます。

光で囲まれた状態で耕作されたノアの姿は完全に見えたが、いざ光が取り込まれた肉の空間で試練が与えられると、根本の中にあった肉の属性が発見されたのです。ノアはこれらの根本にある内在した属性までは、この地で完全に捨てることができずに人生を終えたので、彼がやり遂げた使命と立場に比べて天国での序列がそれほど高くなかったのです。ここで、なぜ人間耕作が必要であり、試練 訓練がなぜ必要なのかを理解することができます。

エデンの園でのアダムの姿が彼の真の姿ではなかったかのように、光で囲まれている間のノアの姿も彼の真の姿ではなかったでしょう。依然として、根本の中には変質しうる肉の属性を持っているまま、ただ光の能力の中でそれが押しこめられていただけでした。このような根本的な肉の属性を引き出し、変わらない霊に変えるために、まさに人間耕作が必要であり、その過程には必ず試練がなければなりません。

ヨブも神がなぜ試練を許されましたか。彼の根本の中にある肉の姿まで引き出し、彼を完全に霊に変化させようと許されたのです。
ヨブ記 1:1 に、「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」と言われたヨブも、神様が訓練を許されると、根本の中に内在していた悪の形がどれほど明らかになるかを見ることができます。

もしヨブに父なる神様が試練を許されなかったならば、ヨブはどうなりましたか。自らはいくら完全だと思っても、根本に潜在する悪を発見できないので、結局聖潔に至ることができなかったでしょう。ですから、ヨブが自分自身を発見し、破り、変化することができるように試練を許されることが、父なる神様の愛であり、人間耕作の真の意味であるという事です。ですから皆さんも完全に聖められ、神様の姿を回復するまでは絶え間ない試練が許されるのです。もちろん、聖められた後も試練はありますが、それは罪を発見して捨てるための訓練とは次元が異なります。次回は、ノアの姿を通して試練がなぜ必要であるのかを見てみましょう。



結論


皆さん前述のとおり、ノアは当代の義人であり、人間耕作の歴史においてとても重要な役割を果たした人物です。神様の御心に完全に従順だった人であり、自分に任された使命も忠実に果たした人です。それにもかかわらず、彼が天国でそれほど高い序列に至らなかった理由は、まさに根本の中に内在していた悪のためだと言いました。以前は知らずに過ごしていた悪の姿が新しい人間耕作と共に発見されたのですが、ノアはそれを完全に脱することが出来なかったのです。

これは今日も同様に当てはまります。いくら神様の前に使命に耐え、忠実な働き人であっても、また頭になっていて重要な職責を務めているとしても、それで天国の位置が決まるわけではありません。試練を通して自分を発見して変化するので、その心にどれくらい主の心を成し遂げたのか、どれくらい父なる神様が望む真理の心を成し遂げたかによって、天国での位置は決まるという事です。

天国で24名の長老に入る方々を見ると、聖書上で彼らがどれほど重要な役職を務め、どれくらい大きな役割を果たしたのかによって決まるのではありません。たとえ執事だとしても、聖書上にしばらく記録された人だとしても、その心と行いが神様の前に認められた人々です。これらの事実を悟り、試練を通して素早く自分を発見し、霊に全き霊に変わりますように。

それが祝福であり、天国でも永遠の栄光になるのです。そして、急速な霊の波の中で
「私は毎日が死の連続です」という使徒パウロの告白のように、毎日自分を発見し、主を見習う賢い聖徒になりますように主の御名でお祈りします。

朝の学び72 創世記8章  

創世記8:13-20
ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。そこで、神はノアに告げて仰せられた。「あなたは、あなたの妻と、あなたの息子たちと、息子たちの妻といっしょに箱舟から出なさい。あなたといっしょにいるすべての肉なるものの生き物、すなわち鳥や家畜や地をはうすべてのものを、あなたといっしょに連れ出しなさい。それらが地に群がり、地の上で生み、そしてふえるようにしなさい。」そこで、ノアは、息子たちや彼の妻や、息子たちの妻といっしょに外に出た。すべての獣、すべてのはうもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものは、おのおのその種類にしたがって、箱舟から出て来た。ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。

 

公義の中で働かれる神様


ノアの洪水が止まって水が渇いて、水が完全に引いて乾燥するまでのすべてのことも肉の秩序と法則に従ったことを見ることができます。神様の力で瞬間に水が消えて地が乾いたのではなく、肉の法則によって水が蒸発して乾くには風も必要であり、十分な時間もかかったのです。洪水とともに光が取り込められ、この地には肉の根本的な属性が現れ、これと共に肉の秩序と法則も生まれるようになりますが、父なる神様はまさにこのような肉の秩序と法則を自らも尊重して従ったのです。

神様は、万物の主菅者として望めば何でもできるのにもかかわらず、真の子どもを得るための人間耕作を成し遂げるために、このように自らも公義の中で肉の秩序と法則に従っておられるのです。これは今日も同じです。もし父なる神様が肉の秩序と法則を無視され、無限の権威と力を存分に現わしているなら、今日神様を信じない人はおそらくほとんどいないでしょう。

例えば、自然の法則を破って、しばしば天気を主管していかれたり、初めに地球を創造する時のような創造のみわざを、今でも世界中のあちこちに現わしているとしたら、今日、神様を信じない人はおそらくほとんどいないでしょう。神様の力の前に恐れても信じるでしょう。しかし、神様は肉の空間の中では、自ら肉の秩序と法則に従われるので、そのように肉の秩序と法則に反することは行われないのです。



確かな公義の中で働かれる神様の力


それでは、聖書に肉の秩序と法則にはずれる奇跡としるしが何度も現れたのはなぜでしょうか。例えば、空から火が降ってきたり、風と波が一瞬にして静まり、死んだ者が生き返るなどのことが出てくるのですが、これを通して人々が神様を信じて認めるようになりました。
それでは、これらのことは神の力を示し、人々が主を信じて救いに至るようにするために神が肉の秩序と法則を破ったのでしょうか。そうではありません。これは公義に反するものでもなく、肉の秩序と法則を破ったものでもありません。

神様の力は正確な公義の中で働かれます。例えば、神様が天に火で文字を刻んだり、何人かに直接現れ人々に神様を信じさせるならば、これに対しては敵である悪魔・サタンも訴えることが出来ます。「公義に反する」と言います。そうして、神様を信じない人がどこにいるのかと問い詰めることになるということです。

しかし、公義の中でふさわしい資格を持つ人が神様の力を示すことについては、敵である悪魔・サタンも訴えることができません。そしてこの時、神様の力が肉の法則と秩序の限界を越えても、これは公義からはずれるものではありません。このように肉の空間の中では肉の秩序と法則に従うことになりますが、時には肉の空間の中でも肉の秩序と法則とは例外的なことが起こる場合があります。これは、肉の秩序と法則を破ったものではなく、その瞬間だけは、霊の空間での秩序と法則が適用されるからです。

たとえを見てみましょう。今日、世界の国々は、相互に外交関係を結び、相手国に外交官を派遣することになります。ところが、これらの外交官が居住する大使館や領事館は国内法の適用を受けません。大使館と領事館内の空間については、その国の領土として認めてくれるからです。そのため、もし我が国の法に違反する人が他の国の大使館や領事館の中に入ると、我が国の法に基づき任意に入ってその人を逮捕できるわけではありません。我が国の領土の中にありながらも、法の適用はその国の法と原則に従うことになります。このように、たとえ肉の空間の中にあっても、肉の秩序と法則に例外があるかもしれないということでしょう。
それがまさに神の力の働きであるという事です。

したがって、肉の空間の中でも、霊の空間のように霊の秩序と法則によって、肉では想像できないことが起こります。肉の秩序と法則にはずれて見えますが、その瞬間だけは肉の空間ではなく霊の空間の法則として働かれるからです。例えば、イエス様が命じられた瞬間に風と波が静まったのは、風と波が肉の法則に従ったのではなく、その瞬間だけは霊の空間の霊の流れに従順したからです。たとえ肉の空間であっても、肉の法則と秩序に適用されない霊の空間が形成され、このような御力のみわざが起こるのです。他国の大使館が我が国の領土内にあるにもかかわらず、我が国の法律に適用されないかのようです。

肉の空間の中でも霊の空間の適用を受けることになると、肉の秩序と法則を超越する現象が起こることができるのです。そしてこれは公義に反するものでも肉の秩序と法則を破るのでもありません。しかし、誰もがこれらのことを現わすことが出来るわけではありません。肉の空間にありながらも、霊の空間で起こることができることを示すためには、そのような資格条件を備えなければなりません。



ノアの完全な従順


このように、父なる神様は、自分が作られた秩序と法則であってもそれを尊重し、その中で行う方であるので、すべてのことは正確な公義の中で成し遂げられます。したがって、父なる神様の公義によって、肉の空間で霊の空間の働きが現れるためには、人の方での従順が必ず必要です。ノアを通して新たに人間耕作が始まることができたのも、まさにノアの従順があったからです。ノアが父なる神の言葉にどれ一つも従わなかった場合、洪水の裁きの後の新しい人間耕作は始まりにくかったでしょう。

今日の本文を見ると、ノアがどれほど神の御言葉に完全に従順であったかがわかります。ノアは六百一年の正月すぐにその月の日に地面に水が引いたからといって、すぐに箱舟の扉を開けて外に出たわけではありません。父なる神様が「もう出なさい」と言われるまでは、依然としてまだ箱舟の中にとどまっていました。私たちはここで完全な従順が何かをもう一度考えてみなければなりません。

ノアと彼の家族は一年近く箱舟の中で生活し、一日も休めないまま動物たちの世話をしなければなりませんでした。一日でも早くその生活から抜け出したいのが人の当たり前の心でしょう。また箱舟という限られた空間の中で生活してみると、当然広くて涼しい外の世界が恋しくなるでしょう。だからノアと彼の家族は、「洪水が終わって地が乾いたら、一日でも早く外に出なければならない」という考えをいくらでも抱くことができます。

ところが、ノアと彼の家族は、水が引いたことを確認しても、任意に出たのではなく、最後まで神様のみことばを待っていたという事です。ノアは最後まで神様の御心を察し、神様の御心に従いました。

では、今日の皆さんの姿はどうですか?
皆さんもいつも父なる神様の御心を察しながら、その御心に最後まで従い続けていますか? 最初はいくら従順だったとしても、途中で変化したり、最後の瞬間にでも変化していれば、これは完全な従順にはなりません。結果は不従順になります。

例えば、今年は教会の方針が前半期には祈り、伝道、使命に力を入れ、一切教育や行事を行わないということでした。ところが6月29日まではよくやっても、もし6月30日にある組織で行事を持っていたら、これまでどんなに頑張っていても、結果は不従順になってしまうということです。

これは一例ですが、教会の中で見ると、時間が経つにつれて最初に指示されたことから変質することがあちこちにあります。指摘してあげればすぐには直すようであっても、少し時間が過ぎるとまた再び以前の姿に戻る場合があります。そして従順についてもう一つ悟らなければならないことは、本人の側ではいくら従うとしても、それが神様の御心と合わなければ不従順になってしまうという事です。

前の時間に説明をしましたが、ノアは水が減ったかどうかを知るために鳥を飛ばしたとき、カラスは水が地面に乾くまで行き来したにもかかわらず、結局ノアが望む答えを持ってくることが出来なかったでしょう。カラスは熱心に外の世界と箱舟の間を行きましたが、いざノアが望む心に合わせられなかったのです。

しかし、ピレモン1:21に、「私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。」と言われたように、神様があなたの従順を信頼でき、皆様も父なる神様のおっしゃった以上をやり遂げられる忠実な主の働き人にならなければなりません。

 

朝の学び71 創世記8章  

[創世記8:6–14]
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」

信仰には行いが伴う


ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を放ったということから、いくつかの教訓を得ることができると言いました。その第一は、信仰には行いが伴うということでした。ノアは、大洪水のさばきの前、神のことばに完全に聞き従っていたのがわかりました。ただ、その時の従順は、神がすべてを備えてくださった状況の中で、そのまま聞き従う次元でした。たとえば、箱舟をどう造るかもいちいち具体的に教えてくださったのです。また、動物を箱舟に乗せることも、神ご自身が働いてくださいました。

ところが、大洪水のさばきの後からは、人間耕作が新たに始まります。それで、神は大洪水が終わるところで、ノアが自分から進んで「行い」を見せることができるように導いておらます。これからは、ノアがそれぞれの状況に合わせて、自分か行うべきことを心に働きかけられて行うことで、神のみこころを実現するように導かれるのです。

エジプトから出て来たイスラエルの民も、葦の海は全く神様の恵みで渡りましたが、カナンの地を前にしてヨルダン川を渡る時は、信仰の行いを見せなければなりませんでした。神は民の信仰が成長しただけ、それにふさわしい行いを見せるように導いていかれたのです。イエス様も御力を施されるとき、相手が最小限の信仰を見せるように導かれるのがわかります。

 

ヨハネ9章で、生まれつき目の見えない人を見えるようにするとき、そうされました。イエス様は泥を作り、その人の目に塗って、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。

こう言われたのは、イエス様がただおことばだけでは、その人の目をいやすことがおできにならないからでしょうか? シロアムの池に目が見えるようにする特効成分があるからでしょうか? そうではありません。その人がイエス様のおことばを信じて、そのとおりに聞き従う行いを見せるように、その道を提示してくださったのです。そうしてこそイエス様を救い主として信じられるし、永遠のいのちも得られるからです。

このように、皆さんは神の御前で当然すべきことを行うとき、または思いを働かせないで聞き従うとき、それを信仰と認められて神のみわざを体験できるのです。その過程を通して神に対する信仰が育ち、信仰の結果である救いに至るようになります。皆さんも、信仰が成長する過程で、以前ほど答えがそのつど直ちに来ないと感じられる時があるでしょう。このような場合の原因が、もちろん罪の壁にあることもあります。ところが、自分を顧みて罪の壁がないなら、それだけ神への信頼が強くなったのかをご覧になる過程かもしれません。

親が赤ちゃんを育てるとき、ひとりで歩けない時は、抱っこしておんぶしてあげます。しかし、子どもがもうひとりで歩くべき時になれば、しょっちゅう転んで痛くて泣いても、抱っこしてあげません。泣くのがかわいそうで、いつも親が抱っこしてあげるなら、その子はいつまでもひとりで歩けない子になるからです。

私たちの霊のお父様、神様も、このように私たちを育てられる時があります。ですから、皆さんが訓練を受けている間、まるでひとりでいるように感じられる時は、このことばを思い起こしてください。私たちに向けられた父なる神様の良きみこころと深い愛が悟れますように。それで、気を落としたり絶望しないで、もう一度立ち上がる力を振り絞りますように。


第二、大洪水以降は神と交わることがいっそう簡単でなくなった。


ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を使ったことから、私たちは、第二に、大洪水以降は神と交わることがいっそう簡単でなくなったことがわかります。ノアは大洪水の前までは、父なる神と明らかに交わりながら、多くを聞いて悟れました。ところが、大洪水が始まった後は、状況が変わりました。初めの光が、大洪水が始まると同時にこの地上から完全に取り込まれると、この地上では肉の気運がさらに強くなっていきました。

天地創造の第一日に、神が「光があれ。」と仰せられたとき、初めの光がこの地上を取り巻いたと言いました。ところが、アダムが罪を犯したことでエデンの園からこの地上に追い出されて来た時から、初めの光は取り込まれ始めました。この地上にいるすべての被造物も、その時から初めの光が取り込まれるほど、肉の根本の属性が現れ始めました。それでも初めの光のほうが強くて、神と交わることには支障はありませんでした。

しかし、大洪水の後は、初めの光がすっかり取り込まれたので、肉の根本の属性のほうが強くなったのです。それで、神と交わるためには、以前とは違って、より多くの努力と行いがなければならないのです。前は、神の恵みのうちに楽に交われたとすれば、今はそれだけ努力して切に求めてこそ霊の世界を突き抜けられるようになりました。

まして、罪と悪がさらにはびこったこの終わりの時はどうでしょうか。霊の世界を突き抜けて神と交わるためには、数えきれないほどの祈りと断食を積まなければならないのです。幸いなことに、今は旧約時代と違って、聖霊が神の子どもたちの心に住まわれています。ですから、聖徒の皆さんは絶えず御霊によって目を覚まして祈っていてください。聖霊の声を聞いて明らかに働きかけられて、霊的に真っ暗なこの世でいつも明るい光へと導かれますように。


カラスと鳩の2種類の鳥から得ることができる霊的な教訓


皆さん、ノアは水が引いたかどうかを知ろうとしたとき、烏と鳩を選んで使いました。[7節]を読むと、まず「烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。」とあります。烏は、このように水が地からかわききるまで飛び回っていたのに、ついにノアが望んでいる答えを持ってきませんでした。結果的に、烏はノアにとって何の役にも立てなかったのです。

ノアが望んでいる答えを持ってきた鳥は烏ではなく、鳩でした。ノアが鳥を箱舟の外に放った目的は何でしょうか?「水が引いて地がかわいて、自分たちが生きていける環境になった」という、うれしい知らせを得ることです。烏はその知らせを持ってきませんでしたが、鳩はノアが望んでいる知らせを持ってきました。ノアは烏でなく、鳩を通して箱舟の外の世界について知ろうとしたことを知ることができたのです。

皆さんは、神の国において、「烏」のような働き人でしょうか?「鳩」のような働き人でしょうか? 組織の秩序に従って何かを指示されたとき、自分がどうしたのか顧みますように。指示されただけのことをする人だったのか、指示されたこともしない人だったのか、そうでなければ指示されたこと以上をやり遂げる人だったのか。この三つの中で、目上の人の心に満足を与える人は、いったい誰でしょうか? 指示されたこと以上をやり遂げる人です。

これは、教会の中でだけでなく、世のどの組織でも同じです。皆さんが職場で認められて成功するためには、自分に任された役割以上をやり遂げなければなりません。ところで、会社勤めがつらいと言うほとんどの場合は、自分に任された役割さえまともに果たせないでいるのが見られます。ですから、能力が足りないなら、まめに努力して能力を育てなければなりません。これに心の器を広げなければなりません。

これは信仰にあっても同じです。父なる神様は、命じたことをそのとおりに聞き従うことはもちろん、それ以上をやり遂げる子どもをご覧になると、感動して愛の表現をしてくださるのです。[箴言25:13]「忠実な使者はこれを遣わす者にとって、夏の暑い日の冷たい雪のようだ。彼は主人の心を生き返らせる。」とあります。皆さんが父なる神様の心を生き返らせるなら、皆さんが求めるものは何でも答えられるでしょう。

ところで、烏と鳩の行いが違っていたのには、心の器の違い、土質の違いもありました。同じ種類の種でも、どんな土質に蒔くかによって、実の味や性質が違ってくるのが見られます。このように、同じ「みことば」の種が人の心に落ちても、各人の心の地によって反応が違うのです。ちょうど蒔いた分だけ実を結ぶ人もいれば、平均以下の実を結んだりもします。反対に、三十倍、六十倍、百倍に実を結ぶ人もいます。これは各人の心の地によって違うし、また、同じ心の地でも、その大きさによって決定されるのです。

ですから、皆さんは心の地を良い地に、まめに耕しますように。これと同時に、自己的な義と枠を打ち砕いて、心の器を大きくしますように。それで、そのつど父なる神様が自分に望んでおられることが何かを知って、お心にぴったり合わせて行うなら、どれほど父なる神様のお心が生き返られるでしょうか。さらに進んで、それ以上もやり遂げるなら、父なる神様は感動して「わたしは何を与えようか」と言われるでしょう。このように、神様の前で忠実な使者のような皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。

朝の学び70 創世記8章  

[創世記8:6–14]
「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」

ノアが水は引いたかどうかを知るために鳥を放った


大洪水のさばきの時、全地を覆っていた水はますます減り続け、水位が下がりました。ノアが600歳になった年の10月1日には、山々の頂が見えるほどになりました。ノアはその日からまた四十日経った後、水が引いた程度を知るために鳥を箱舟の外に放ちました。初めは一羽の烏を放ちました。ところが、その烏は水が地からかわききるまで、あちこちを飛び回っていました。烏はノアにとって結果的に何の役にも立たなかったのです。

それで、ノアは今回一羽の鳩を放ちました。その鳩は足を休める場所が見あたらなくて、舟に帰ってきました。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の中に入れました。これでノアはまだ地の面から水が完全に引いていないことがわかりました。

それから七日後、ノアは再び鳩を放ちました。鳩はその日夕方になって帰って来ましたが、くちばしに「オリーブの若葉」をくわえていました。オリーブの木から若葉が出るぐらいなら、水がほとんど引いたという証拠です。ノアはそれからなお七日経つと鳩を放ちましたが、今度は鳩も戻って来ませんでした。

ノアは箱舟で新年を迎えました。601歳になった年の1月1日になって、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、地の面はかわいていました。それでも箱舟から出なかったのです。神が何も仰せられなかったからです。やがて2月27日になると、地がかわききって、神はノアに箱舟から出なさいと仰せられました。皆さん、ノアが水が引いたかどうかを知るために鳥を放ったということから、私たちはいくつかの教訓を得ることができます。

第一、信仰には行いが伴うということです。


神は水が引いた程度をすべて知っておられます。それなのに、神はノアにそのつど教えてくださったのではありませんでした。ノアが自分から進んで鳥を使って水が引ききったのかを確認するようにされました。神は全知全能のお方なので、神を信じる人は神と交わることですべてを知ることもできるし、どんなことでもできます。

ところが、全き信仰を持つ人は自分が神に助けていただくために何を行うべきかを心に働きかけられます。人のほうで行うべきことは全くしなかったり、当然踏み行うべきことはしないで、「信じます」とだけ言うのではありません。「全き信仰」は「真心」に変えられた人に上から与えられるからです。

「真心」は父なる神が望んでおられる善、愛、真理で満たされた心です。公義を犯しながら、むやみに自分の利益ばかり求めることはないのです。善の心、真心に変えられた人は、自分が一つを答えられるために、公義に合わせて満たすべきことが何か知っています。それで、それにふさわしく、なすべきことはして、蒔くべきものは蒔きます。

父なる神が人間を耕作される理由は、このように真心に変えられた子どもを得るためです。そして、このように真心を持つ子どもたちに、上から「全き信仰」を与えてくださって、その信仰によって神の栄光を現すように望んでおられます。

ところで、もし、聖徒が真心に変えられていないのに、「信じます」とだけ言うとすべてが答えられるなら、どうなるでしょうか? これは、まるで子どもが当然すべきことをしていないのに、親がすべてを聞いてあげるようなものです。

たとえば、子どもが学校から宿題を出されて帰ってきました。宿題したくない、遊びたいと言います。すると親が代わりに宿題をしてあげて、学校にも代わりに行ってあげるでしょうか? 子どもがいくらつらくても、このようなことを代わりにしてあげる親はいないでしょう。子どもは当然自分がすべきことを自分でしてこそ、知識も積まれるし、実力も伸びるのです。社会で立派に一人前の働きをする人に成長できるのです。

もちろん、その過程で親は子どもを助けてあげることはあります。宿題をするとき、手伝ってあげることもあるし、励ましてあげることもあるでしょう。このように、子どもが宿題をするとき手伝うことと、はじめから代わりにしてあげることは、確かに違います。同じように、父なる神も信仰の子どもたちが困難にあったり、試練にあう時に、求める者に力を施してくださるのです。しかし、まったく困難も、試練も、訓練もやって来ないように、全部さえぎられるのではありません。困難を乗り越える過程を通して神の愛も感じられるし、訓練を通して真心に変えられるからです。

新たな人間耕作の始まりーノアの信仰の行い


本文のみことばは大洪水のさばきが終わる状況を示しています。これから人間耕作が新たに始まります。神は、新たな人間耕作が始まるとき、ノアが自分から進んで「行い」を見せることができるように導いておられるのです。

 

もちろん、ノアは以前も神のことばに完全に聞き従って行う人でした。ただ洪水の前は、神が備えてくださった状況の中で、おことばにそのまま聞き従う次元でした。神は、箱舟を造ることも、どうすべきかいちいち教えてくださいました。このように全部教えながら導かれました。動物を箱舟に乗せることも、神ご自身が働いてくださいました。ところが、これからは、ノアがそれぞれの状況に合わせて、自分か行うべきことを心に働きかけられて行うことで、神のみこころを実現するように導かれるのです。

聖書に記された驚くべき信仰のみわざは、確かに神が成し遂げてくださったことです。ところが、詳しく調べてみると、そこに必ず昔の人々の信仰の行いがあったことがわかります。
たとえば、エジプトから出て来たイスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、どうしたでしょうか? 神が氾濫するヨルダン川の流れが止まるように、先にしてくださったでしょうか? それで、イスラエルの民が川の底が現れたのを確認してから、足を踏み入れたでしょうか?

エジプトを出て最初の頃、葦の海を渡る時は、イスラエルの民があまりにも信仰が弱かったので、海を分けた後に入るようにしてくださいました。しかし、四十年間、荒野で訓練を受けた出エジプト第二世代は違います。それだけ信仰が成長したのです。それで、氾濫するヨルダン川に契約の箱をかついだ祭司たちがまず足を踏み出すようにされました。

カナンの地の最初の関門であるエリコを征服する時も、神は全部してくださったのではなく、イスラエルの民がすべきことを指示されました。神の力ではいくらでも一度でエリコの城壁を崩せますが、信仰の行いを見せるようにされたのです。つまり、町の周囲を六日間一度ずつ回り、七日目には七度回った後、ときの声をあげなさいと仰せられたのです。

 

イスラエルの民はおことばどおりに行って、エリコの城壁は神の力で崩れ落ちました。これを通して、イスラエルの民の心に神への信頼がどれほど加わったでしょうか。この後入って行くカナンの地も、自分たちはおことばどおりにだけ行えばよいという強い信仰が生まれたでしょう。

朝の学び69 創世記8章  

[創世記8:3–14]
「そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。水は第十の月まで、ますます減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。また、彼は水が地の面から引いたかどうかを見るために、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のところに入れた。それからなお七日待って、再び鳩を箱舟から放った。鳩は夕方になって、彼のもとに帰って来た。すると見よ。むしり取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地から引いたのを知った。それからなお、七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。第二の月の二十七日、地はかわききった。」

17という数字の霊的な意味


本文[3-14節]には、大洪水の水が引いて、地がかわくまでの過程が記されています。大洪水はノアが600歳になった年の2月17日に始まりました。ノアたちが箱舟に入ったのは、7日前の2月10日でした。雨は40日間降りましたが、それによって150日間水が地球全体を覆っていました。2月17日から150日目になる7月17日から水が減り始めました。そして、次の年の1月1日になると、水がみな引いて地の面はかわいていました。それでもノアは箱舟から出なかったし、2月27日になってやっと箱舟から出ました。

それでは、ノアが箱舟で過ごしていた期間は、合わせてどのぐらいでしょうか? ノアが箱舟に入った時は洪水が始まる7日前で、ノアが600歳の2月10日でした。箱舟から出た日は601歳の2月27日です。したがって、ノアたちが箱舟で過ごした期間はちょうど1年と17日間です。

ノアの洪水と関連する数字の中から、特異な点を発見したでしょうか? 重要な日に「17」という数字が登場しているのです。洪水が始まった日が2月17日で、水が減り始めた日は7月17日でした。また、ノアたちが箱舟で過ごした期間も1年と17日間でした。父なる神は、なぜこの「17」に合わせて、重要な事をなされたのでしょうか? それは「17」という数字が霊的に特別な意味を持っているからです。

「17」は霊的に「父なる神のみこころと摂理に合わせて、父なる神ご自身が事を成し遂げられる」という意味を持っています。ノアの洪水は父なる神の摂理のうちに、時が来て正確になされた出来事です。それで、神は、洪水が始まった日と水が減り始めた日を「17」という数字を持つ日にされたのです。

ノアの洪水以後、段階的に水を減らした理由


本文[3節]には「そして、水は、しだいに地から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始め、」とあります。神は、ただ一度で水を引かせることも、減らすこともおできになる方です。しかし、そうなさったのではなく、150日間で段階的に引いていくようにされました。神がこのようにされた理由は何でしょうか?

 これは、神もご自分が定めておかれた秩序と法則に従うためです。大洪水のさばきが始まると、神の初めの光が取り込まれたので、この地上には肉の属性が現れるようになりました。初めの光で取り巻かれた状態では、霊の流れと法則が適用される部分がありましたが、大洪水以降は、肉の流れによる肉の秩序と法則が適用されるようになったのです。それで、神もこの時からは、肉の秩序と法則に合わせて働いていかれるのです。

それなら、肉の秩序と法則に従うことと、水が段階的に減るようにされることには、どんな関連があるでしょうか? ノアと彼の家族が箱舟から出る瞬間から、この地上では新しい人間耕作が始まります。このために、この地上には人が生きていくために適切な環境が備えられていなければなりません。すっかり洪水で覆われていたこの地上から水だけ減るからといって、すぐに人にとって良い環境になるのではありません。

夏の集中豪雨や台風、津波などによる浸水家屋を思い浮かべてみてください。水につかった家から水だけ引かせれば、すぐ人がその家に入って住めるのではないでしょう。これと同じように、大洪水の後のこの地上も、水だけ引くからといってよいのではなく、人が生きていけるための準備が必要でした。

もし、神がただ一度で水が全部なくなるようになさったなら、ノアと彼の家族はまだ準備できていない世に出て行かなければなりません。ですから、神はそうなさったのでなく、ノアたちが箱舟から出る時に合わせて、この地上を新しく造られたのです。箱舟から出た人々と動物、鳥と家畜が生きていくのに最も良い環境が、肉の法則によって自然に造られるまで、段階別に水が減るようにされたのです。

父なる神がことばで天と地を創造された時も、一瞬にしてすべてを造られたのではなかったでしょう。六日間で、段階別に一つ一つ創造されました。私たちが肉のからだを着て肉の空間で生きている間は、肉の法則と秩序を完全に無視することはできないということを知らなければなりません。それで、神が病気をいやしてくださる時も、からだの秩序に合わせて働かれるのです。

たとえば、以前、盲腸が破裂して腹膜炎で苦しんでいたある聖徒が、信仰によっていやされたことがあるでしょう。神が幻でその聖徒がいやされる過程を見せてくださいました。盲腸が破裂して出たお腹の中の汚物を、直ちにそこで消滅させたのではありませんでした。まず腸に吸収されるようにしてから、からだの外に排出するようにされたのです。

また、全身が3度のやけどを負って、神の力によっていやされたキム・ウンドク勧士のケースも同じでした。父なる神は、一瞬で完全にさせる力を持っておられます。ところが、神は間を置いて段階的にいやしてくださるのがわかりました。からだの中に血管と筋から造っていって、次に新しい皮膚ができるようにされました。私はその過程を見守りながら、「胎児が成長する過程が’このようだろう」と思いました。やけどで損傷した皮膚が新しくされて、その中には血管まで鮮明に見えました。このように正常に回復する期間も、世で治療にかかる時間よりずっと短かったのです。

もちろん、世では3度のやけどを負った皮膚が正常に回復することは不可能です。しかし、このように不可能なことが神の力によっては可能ですし、肉の法則に従っても、その速度がずっと早いのです。それにもかかわらず、父なる神はこの肉の空間の法則と秩序に従って、過程を飛び越えずにすべて踏まれます。

神様がその愛する子どもに物質の祝福を下さる時も同じです。「蒔けばその刈り取りもする」という基本法則を踏まえた上で、各人の信仰に応じて祝福してくださるのです。ある人には押しつけ、ゆすり入れ、あふれるまでに、ある人には三十倍、六十倍、百倍に刈り取るようにされます。

ですから、蒔かないで刈り取ろうとするのは、神様を侮るようなものです。誰も「蒔けばその刈り取りもする」という法則において、例外はありません。必ず祝福の種を蒔かなければならないし、祝福される器を備えてこそ、神が下さる祝福をいただけるのです。このような過程を通して祝福されてこそ、肉的な満足とともに霊的なまことの幸せも味わえるのです。

したがって、自分が見て分に過ぎる祝福だと思われる時は、かえってそれが災いの種になることもあるということを知らなければなりません。肉的な満足は味わったとしても、霊的には自分のたましいが疲れて弱ることがあります。霊的に貧しい心にならないから、恵みを切に慕う心もなくなるのです。しかし、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得る祝福をいただく人は安全です。いくら豊かな祝福をいただいても、心が世に向うのではなく、神の国のためを思う心がつのるのです。

皆さん、父なる神様もご自分でこの地上に立てた創造の秩序を守られると言いました。肉の秩序と法則を無視しないで、公義に合わせて働かれるのです。ただし、霊的な公義に合う時は、肉の空間で可能な速度を超えることができます。だからといって、過程を飛び越えるのではありません。過程は踏むけれど、スピードが速くなるのです。

この地上でなされる信仰のみわざは、いつも霊的にでも肉的にでも「公義」に合わなければなりません。御霊の歩みに深く入るほど、このような公義を詳しく深く悟れます。皆さんはこのことを必ず覚えて暮らしの中に適用し、まことに父なる神様に祝福をいただきすように、主の御名によって祝福して祈ります。

朝の学び68 創世記7章  

創世記7:24–8:2
水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。

本文[24節]に「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。人類の歴史にあって、地球全体が150日間水につかっていたというこの記録はまことで事実です。ノアの大洪水は神話や伝説ではなく、実際にあった大変な出来事です。これを証明する証拠は多くあります。きょうはノアの洪水の証拠を三つに分けてお伝えします。

ノアの洪水が実際にあった出来事であることを証明する証拠
第一、歴史的な証拠


全世界的に古代文明の歴史には洪水に関する伝説があります。学者たちが世界のあちこちから収集した「洪水伝説」は270余りにもなります。洪水伝説が収集された地域はヨーロッパ、アジア、オーストラリア、東インド、アラスカ、ギリシャ、フィンランド、アイランド、太平洋の島々、フィリピン諸島、南アメリカ、中央アメリカ、北アメリカ、東アフリカでした。

これは洪水伝説が全世界的に広がっているという意味です。収集された洪水伝説には、次のような共通点がありました。「洪水は後にも先にもない規模だった。洪水を避けるために大きい船を造った。船には人だけでなく、あらゆる種類の動物も乗せた。洪水から生き残った人は少数だった。」

その中でアメリカのインディアンは、何と58の洪水伝説を持っています。「インディアン」とは、コロンブスが新大陸を発見する前からその地に住んでいた先住民のことです。インディアンが多く住んでいたミシガン州一帯では、古い石版がたくさん見つかりました。その石版には、いくつかのコマにストーリーのある絵が描かれています。石版ごとにコマの数や絵が多少違っても、だいたい似た内容が書かれているのです。その中でよく整理されている、一番大きい石版の絵の内容を説明いたします。

この石版には五つのコマに分けられた絵があります。一番上の絵の真ん中には太陽があって、ある人が天に向かって拝んでいます。二番目のコマには、人々が水でもがいている様子が描かれています。三番目のコマには、大きい船が水に浮いていて、計40個のマスが見えます。(雨が40日間降ったことを意味するでしょう。)四番目のコマには、太陽が見えて、船から動物が出てきているし、男性4人が万歳をしています。(それはノアと3人の息子です。)五番目のコマには、七つの線の虹がはっきりと刻まれています。

古代インディアンはどうしてこんな物語を知って、石版に彫っておいたのでしょうか? ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住して、インディアンに聖書を手渡す、ずっと前にすでに知っていたからです。このような石版が中東地域で見つかったなら、「距離が近いからそうだろう」と思うかもしれません。しかし、中東とは地球の反対側のアメリカで、それも古代インディアンの遺物から洪水の物語が出てくるということは、何を意味しているのでしょうか? 彼らはすでに先祖から洪水の物語を伝え聞いていたということです。

一方、多くの洪水伝説の中で、ノアの箱舟がとどまっていたアララテの山から比較的近い地域ほど、詳しいところまで聖書と一致しています。たとえば、バビロニアのギルガメシュ叙事詩には、すべての動物を雄と雌一つがいずつ乗せたとか、洪水の後、「鳩」を放って、水が引いた程度を確認してみたという内容もあります。このようにアララテの山から近ければ近いなりに、遠いところは遠いなりに、多様な洪水伝説があるのです。

このように世界の多くの国に洪水伝説が言い伝えられているということから、そのすべての伝説の母体になった一つの洪水の出来事があったことがわかります。それがまさに聖書に記されたノアの洪水です。

歴史的な証拠をもう一つ挙げれば、ノアの子孫の名前が都市や国、民族の名前として使われているということです。創世記10章には、大洪水の後、ノアの子孫の名前と彼らがふえ広がった地域が詳しく記されています。そして、最後の[32節]に「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。」とあります。人類の歴史のルーツを探していけば、このみことばと一致するのです。

たとえば、今日イスラエルがあるところを「カナンの地」と呼ぶでしょう。ここで「カナン」とは、もともとノアの次男ハムの息子の名前です。ハムの何人かの息子の中で「カナン」という人がその地域に定着してふえました。ところで、洪水が終わって約400年が流れたとき、神がその地をアブラハムと彼の子孫に与えると約束されました。

その約束のとおり、ヤコブ、すなわち、イスラエル民族がその地域を占領して国を建てたのです。このカナンの地の他にも、ノアの子孫の名前が民族、都市、国の名前として使われています。これはノアの洪水が確かに実際あった出来事であることを証明しています。

第二、地質および地形学的な証拠


まず、地球表面の75%以上が水によって作られた堆積地層であることです。地球が水に完全につかった状態で、太陽―地球―月の引力によって起こる引き潮と満ち潮によって、短い期間で地球全体に堆積層が形成されたのです。高い地帯は水の流れによって削られ、削られた土は低い地帯に積まれながら、堆積物の成分によって層を形成します。

実際、地球表面に存在する堆積層はとても広範囲にわたっています。また、それぞれの堆積層は、まるでゴムシートを積み重ねたように、堆積物質の成分が非常に均一で、各層の境界面もほぼ平行になっています。研究者たちは「地球表面にこんな堆積地層が形成されるためには、ノアの洪水のような全地球的な大洪水がなければならない」と結論を出しました。

ノアの洪水のもう一つの地形学的な証拠として、世界各地の深海から発見される古代遺跡が挙げられます。科学技術が発達しながら、人々は各種の装備を利用して、海の中を探査できるようになりました。または、地震波を利用して海底地形構造をスキャンできるようになりました。その結果、世界各地の深海から、確かな文明の痕跡をもつ古代都市が発見されているのであります。大洪水の時、地殻の大激変によって、そういった地域は永遠に海水面の下に沈むようになったのです。

これと反対の現象も起きました。それは、本来は海だった地域が大洪水の時、大激変によって後には山になったことです。それで、ヒマラヤやアルプスのような高い山脈から、貝類、魚類、海草類など、海の生物の化石がたくさん見つかりました。また、アメリカ西部のグランドキャニオン、海抜1600メートルの高さの岩石層も、ほとんど海の生物の化石を含んでいます。

ペルーのアンデス山脈、4000メートルの高地帯でも、およそ500個のカキの化石が発見されました。これは、アンデス、ヒマラヤ、アルプス山脈が昔は水の下にあったことを証明するものです。ところが、大洪水の時、「隆起」現象によって、今日は高い山脈になったのです。

三番目の証拠、世界人口


洪水の後、八人で始まった世界人口は、統計学的な見地から見ると、今日の人口とびったり合っています。人口成長率の計算はとてもややこししくて難しいので、この時間、詳しく説明はいたしません。この教会の創造科学会で、国連が使う計算式を利用して計算してみました。その結果、ノアの洪水が終わった時点の約4,360年前、八人から人類がふえていったことを規定の事実として計算してみたら、現在の世界人口と一致したというのです

もし、ノアの洪水がなかったとか、進化論が正しいとするなら、世界人口は今よりはるかに多くなければなりません。しかし、聖書はまことであり、ノアの洪水から生き残った人はたった八人だったので、今日の世界人口に達したということです。

ノアの洪水をとおして悟る霊的な意味


ノアの洪水を確かな事実と信じて、その霊的な意味を悟ることは、そうできないことと比べて大きな違いがあります。終わりの時を生きている人にとってはさらにそうです。
[第二ペテロ3:6-7]に「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。

ノアの時は洪水によるさばきがあったように、今、この世はもう一度それと同じみことばによって、火に焼かれるようになります。その日には、不敬虔な者どもがさばかれて滅びるようになるのです。ノアの洪水が迫ってきた時も、神から遠ざかったまま、不敬虔な生き方をしていた人々はみな、さばきによって滅びました。

今日も、神を遠ざけて不敬虔な生き方をしている人々には、ノアの洪水の時と同じさばきがだんだん近づいているのです。したがって、私たちは聖書を通して、ノアの洪水がなぜあるべきだったか、そしてどんな人が救われたのかを心で悟らなければなりません。心で悟る人は、やがて来るさばきによく備えることができます。滅びでなく、救いに至れるのです。

一方、「ノアの洪水」を信じない人は、やがてさばきがやって来るとしても、相変わらず罪と悪の中を歩んでいきます。ノアの時代、箱舟が造られていくのを見ながらも、かえってノアをからかって、自分勝手に生きていた人々と同じなのです。

これについてイエス様は[ルカ17:26-27]「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」と言われました。

皆さんは、なぜ大洪水のさばきがあったのか、また、それがどれほど確かな事実なのかを知りました。ですから、さらに霊的に目を覚ましていてください。ひょっとして信仰生活がつらいとか、いつも教会の囲いの中にいることが窮屈な方がいるでしょうか? そんな方がいるなら、ノアの家族のことを考えてみてください。

ノアの家族は、肉的には箱舟の中が窮屈だったかもしれないし、その中での暮らしもきつかったです。だからといって、箱舟の外の世にあこがれたでしょうか?「箱舟に乗らないほうがよかった」と後悔したでしょうか? そうではありません。救いの箱舟に乗ったことに感謝しながら、そのすべての時間に耐えられました。

皆さんも、神様から救いの恩寵を受けたことにいつも感謝できますように。また、霊的な箱舟である神のことばの中に完全にとどまって、いつも神様から守られますように。これとともに、まだ救いの箱舟に乗っていな人々に幸いな知らせを伝えてください。それで、すべての人が救われるように望んでおられる父なる神様に喜ばれますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 


全てを計画され、つかさどられた神様


本文[8:1]には「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」とあります。ここで「心に留める」とは、「いつも意識して、忘れないでおく」という意味です。

それでは、父なる神が箱舟に乗った彼らを心に留めて、水を引かせたというみことばは、どんな意味でしょうか? 父なる神は公義によって大洪水のさばきをなさいましたが、ノアと彼の家族を通して人間耕作を新たに始めたいと望んでおられました。ところが、大洪水の後は、この地が完全に肉の自然法則が適用されるようになりました。神の初めの光が、洪水が始まると同時に、残らず取り込まれたからです。

父なる神は、水がいつ引いてこそ大洪水の生存者たちが生きていくのに一番良い環境が造られるか存じでした。ノアと彼の家族はもちろん、獣と家畜までも心に留めておられ、最も良い時に合わせて働いてくださったのです。それで、父なる神は150日間、地球を覆っていた水が引き始めるようにされました。神が水を引かせた方法は、地の上に風を吹き過ぎさせることでした。

ところで、その前に、本文[2節]「また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。」とあります。これは40日間降っていた雨がやむ時の状況です。第二の天、エデンにある「大いなる水の源」と第二の天につながる門を閉ざしたので、それ以上雨が天から降ってこなかったのです。

ここで、大いなる水の源と天の水門が「閉ざされた」という表現に注目しなければなりません。実は「閉ざされた」とは、完全に閉まったという意味ではなく、一時的に閉まったことを意味するからです。これはどういう意味でしょうか? もしこの時、神様が天の水門を完全に閉ざされたなら、この地に降ってきた雨が第二の天に戻っていける通路が完全になくなってしまうのです。つまり、風が吹いて水が蒸発しても、第二の天に昇っていく道がないのです

ですから、神は大いなる水の源と天の水門を、完全にではなく、これ以上雨が降ってこないように一時的に閉ざされたのです。つまり、第二の天と第一の天の間の通路は開いておいたまま、第二の天の水がそれ以上第一の天に下りてこられないようにされたのです。この役割を四つの生きものが果たしました。

また、地球に降った水が蒸発して第二の天に吸収されるように風を吹かせる働きも、四つの生きものが担当しました。この時、四つの生きものが吹き過ぎさせた風はとても強い風でした。それで、地球の水がすみやかに出てきたところに吸収されて入っていけたのです。だからといって、台風のように恐ろしいとか激しい風ではなかったと教えてくださいました。

このように、神は洪水で地球を覆った水を引かせた時も、公義の法則どおりになさいました。神は力の大きい方ですから、第一の天のどこにでも空間を開いて、第二の天につながるようにおできになります。しかし、そうされたのでなくて、水が降りてきたその通路に吸収されて、元の場所に戻っていくようにされたということです。まるでこの場面を描写しているような表現が[詩篇33:7後半節]に出てきますが、「深い水を倉に収められる。」とあります。

今日起きる洪水は人が予想できない場合が多くあります。無理な開発で自然がひどく破壊されて異常気象現象が起きるので、自然災害が頻繁に発生しています。誰かが計画したのでもないし、誰も予想できない時が多いのです。

ところが、ノアの大洪水のさばきは、始めから終わりまで、神のご計画のうちになされました。雨はいつから降り始めて、いつまで降るべきか、水はどのぐらい増し加わるべきか、また、水はいつから引いて、引く速度はどのぐらいになるべきかも、すべて神がつかさどられました。神が定めた日と期間に合わせて、そのとおりに進められたのです。

そして、ノアは神と明らかに交わっていたので、このような神のご計画を知っていました。洪水が一日、二日で終わるのではないことと、また、水が地を覆っている期間、その後引くまでにかかる時間も、ある程度心に働きかけられていたのです。このように、神の人は神と明らかに交わっているうちに、先のことを知ることができます。ですから、神のみこころに合わせて、神のわざを実現していけるのです。

皆さんも、自分の悟りに頼らないで、心を尽くして神により頼みますように。[箴言3:6]にも「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。このようにして、人生のすべての状況で父なる神様にその道をまっすぐにしていただく皆さんになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び67 創世記7章  

創世記7:16–24
入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。こうして地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。こうして、主は地上のすべての生き物を、人をはじめ、動物、はうもの、空の鳥に至るまで消し去った。それらは、地から消し去られた。ただノアと、彼といっしょに箱舟にいたものたちだけが残った。水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。

埋葬された人と動物の死体によって中東地域に生成された石油


前回は大洪水のさばきの時の地形の変化についてお伝えしました。地球を覆った洪水の水圧によって、地層には隆起と沈降現象が起きました。また、引力の影響を受けて地球をかき回す水の力によって、短い間でも地表面には幾重かの堆積層が形成されたと言いました。その結果、地球の地形が洪水以前とはとても違う形に変わったのです。

それでは、大洪水のさばきの時に死んだ、数えきれない人の死体と動物の死体はどうなったのでしょうか? 今からはこれについて説明いたします。アダムがこの地上に降りてきて定着した所は今のイスラエルの地です。人類はここを中心に増え広がって、だんだんその領域を広めていきました。今日で言うと、中東地域が初期人類の主な根拠地になったのです。そして、さらに進んで、エジプトがある北アフリカ地域にも移住して行きました。言いかえれば、中東地域と北アフリカ地域は当時、人口密集地域だったということです。

ひょっとして、今日その地域の気候を知っている人は「どうしてあんな所に、あれほどたくさんの人が住めたのか」と思うかもしれません。大洪水のさばきの前は、全地球的に気候が今とは違っていました。極地域でも今のように寒くなかったし、赤道地域でも今のように暑くありませんでした。したがって、中東と北アフリカも、今と違って人が住むのにずっとよい気候だったということです。また、樹木と草原も茂っていました。当時は人口が密集して住むのにちょうど良い所だったのです。

これに人に従う家畜まで考慮すれば、大洪水のさばきによってこの地域ではものすごい数の死体が発生するしかありませんでした。これらの死体は、大洪水によって地形の変化が起きるにつれて、地層の中に埋もれるようになりました。地層が沈んだり盛り上がったりする過程で、死体が地層の間に埋もれたのです。これは肉的には単に地の中に埋もれたということですが、霊的には「神のさばき」を意味します。

[民数記16:31-33]を読むと、エジプトから出た民のうち、モーセに立ち向かった仲間が神にどう呪われて滅び去ったのかがよく記されています。「モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。」とあるのです。

このように、神が大洪水のさばきをなさる時も、一時的には人と動物が水葬されるようにして、次に彼らの死体は地が口をあけてのみ込むようにされたのです。これは単に地層変化による埋葬でなくて、霊的には「よみ」を意味する地を開いて、その中に投げ込んでしまわれたのです。
こうして埋葬された人と動物の死体によって、今日、中東地域から石油がたくさん出てくるようになりました。実際に中東地域は世界の石油埋蔵量の75%を占めているそうです。

「石油がどのようにできたのか」については、今日いろいろな理論がありますが、一般的な主張は、生物体の堆積によって生成されたというものです。動物の死体とともに、ものすごい量の植物が堆積されたのです。これは聖書を解き明かしてくださった神のおことばと一致しています。

それなら、中東地域に石油がたくさん埋蔵されているから、その地域を祝福の地と言えるでしょうか? 今すぐは祝福に見えるかもしれませんが、それは決して祝福ではないことを知らなければなりません。今日、その地域がどれほど多くの戦争とテロの舞台になっているでしょうか。かえって石油資源のために外国から頻繁に侵略されているのです。物質的な目先の利益を除いては、現在その地域は祝福の地ではなく、呪いの地になっています。


父なる神の強権的な保護と聞き従う心に臨む祝福


本文[16節の後半節]には「神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」とあります。「【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」この表現には少し強権的な感じが込められています。だからといって、父なる神がノアを強制に箱舟の中に入れられたという意味ではありません。ここには「神ご自身がすべてをつかさどって、ノアと彼の家族、そして箱舟に入った動物を支えて守られた」という意味が込められています。このような父なる神の強権的な保護があったので、箱舟の中にいたノアと彼の家族はどんな動揺もなく過ごせました。

私たちも神様が強く支えて守ってくだされば、どんな状況でも平安でいられます。たとえ訓練を受けても、祝福のうちに練っていかれるのです。アブラハムも訓練の過程の中でも、いつも祝福が臨んだことがわかります。妻を奪われる試練がありましたが、父なる神ご自身が強く働いていかれるから、むしろ祝福として報いてくださったのです。

ヨセフも訓練のうちにいつも祝福が臨んだし、【主】がすべてを成功させてくださいました。[創世記39:3]に、ヨセフが奴隷として売られた状況では「彼の主人は、【主】が彼とともにおられ、【主】が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」とあります。濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時も、[創世記39:23]「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは【主】が彼とともにおられ、彼が何をしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。」とあります。

それでは、アブラハムやヨセフはどうして訓練の中でもこのように祝福を受けていけたのでしょうか? ある人は訓練を受けるとき、祝福を全く受けられないで、困難にだけあうこともあります。これは「聞き従う心になっているか、そうでないか」の違いによるものです。

私たちがこの地上で金のような信仰に変えられて、天国の新しいエルサレムに入れるまことの子どもになるためには、訓練が必要です。この時、訓練の中で自分を発見して、神のことばに聞き従って変えられる人は、祝福されながら練られるのです。訓練は必要だから、神様が受けることを許されます。この時、訓練を感謝をもって受けていくなら、神様はそれに対しては祝福を与えてくださるしかないのです。

ところが、ある人は訓練を受けながら、自分を発見して変えられるよりは、つぶやいて不平を言いながら嘆きます。環境と人を恨んで、自分の身の上について不平を言い、それどころか教会と神様に対してまでつぶやく人がいるのです。さらに進んで、罪によって試練や患難がやって来れば、この時も悔い改めて立ち返るのでなく、言い訳をしようとします。続けてこのような心と態度をとるなら、訓練の中に決して祝福が来ることはないでしょう。

もちろん、時によって物質で訓練なさる間は、物質の祝福が来ないこともあります。しかし、このような場合も、いつも喜んで感謝している人には、神様がどんな方法を通してでも食べる物と着る物を与えながら導いていかれます。物質の訓練の間は、たとえ豊かな物質の祝福はなくても、あれこれの方法で満たしてくださるので、結局成功するように導いていかれるということです。

ですから、訓練中に困難にあう人がいるなら、「私は本当に聞き従う心構えでいるのか」と自分でチェックしてみますように。聞き従う心構えでいる人は、なぜ訓練がやって来たのかを発見して、その原因をすみやかに解決していきます。一方、そうでない人は、原因を発見することもやさしくないだけでなく、発見しても変えられようとしないのです。


しかし、皆さんはアブラハム、ヨセフ、ノアのように、完全に聞き従う人になりますように。いつも父なる神様に強く守られて、祝福も受けていかれますように、主の御名によって祝福して祈ります。

 


大洪水のさばきと白い御座の大審判


ノアが600歳になった年の2月17日に降り始めた雨は、40日間続きました。これによって海水面がだんだん上がりました。初めはノアの箱舟が地から水面に浮かび上がるぐらいになりました。ますます水かさが増していくと、箱舟は水面を漂うようになりました。いよいよどの高い山々も水につかるほどに水かさが増していきました。

ところで、本文[20節]を読むと、水はこのようにすべての山を覆ってから、さらに十五キュビト増し加わったとあります。十五キュビトは、今日の単位に換算すれば、約7.5メートルです。これはノアの箱舟の高さの三十キュビトのちょうど半分です。したがって、大洪水の時、水かさがすべての山々を覆う程度から、さらに十五キュビト増し加わったとは、箱舟がどんなものにも引っかからないで自由に漂うようになったという意味です。

船が水面に浮いているとき、ふつう下の部分は水の中につかっています。船が人や荷物で満たされるほど、その重さだけ沈むのです。ノアの箱舟は動物と食料でぎっしりでした。したがって、少なくとも箱舟の高さの半分ほどの水が増し加わるなら、箱舟が安全に漂っていられるのです。
もしこのような余裕がなかったなら、まかり間違えば、水面を漂っていた箱舟の底が高い山の峰に引っかかることもあるでしょう。すると、船が暗礁に乗上げて事故にあうように、危険な状況におかれることもあるのです。

このように大洪水のさばきの時、水は高い山より十五キュビトも増し加わりました。その結果、本文[21-23節]のように、地の上を動いていたすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群生するすべてのものも、またすべての人も死に絶えました。鳥は飛べても、高い山まで水で覆われて止まるところがなくなると、結局はすべて水に落ちて死ぬようになったのです。陸地にあるすべてのものの中で、鼻で息をするすべての肉なるものが死んだのです。箱舟に乗れなかった人や動物は、どんなものも避けられなかった完全なさばきでした。

やがてある白い御座の大審判も同じです。その日には、世界の創造された時以来のすべての人が神の審判台の前に立つようになります。 (ただしエリヤ、エノク、アブラハム、モーセ、この四人は例外です。この方々は霊の序列の最上位におられる方で、大審判の時、三位一体の神を補佐します。)

いのちの書に名が記されていない人は、例外なく大審判の時、永遠の死という判決を受けて、地獄の火の池や硫黄の池に落ちることになります。[第二コリント5:10]「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあるとおりです。

本文[24節]「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。ノアが600歳になった年の2月17日から降り始めた雨は、40日間続きました。それによって、7月17日から150日間、水が全世界を覆うようになりました。このように天の下にあるどの高い山々も水で覆われた状態は初期地球の様子と似ています。まさに[創世記1:2]「神の霊が水の上を動いていた。」とあるのです。本格的な六日創造のみわざが始まる前、地球はすっかり水で覆われていました。

ところで、大洪水のさばきの時、その当時の状況が再現されたのです。人類の歴史において、地球全体が150日間水につかっていたというこの記録はまことで事実です。ノアの大洪水は神話や伝説ではなく、実際にあった大変な出来事です。これを証明する証拠は多くあります。
 

朝の学び66 創世記7章  

創世記7:13–16
ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、【主】は、彼のうしろの戸を閉ざされた。

 

大洪水の裁きから逃れた水中動物

 

本文を読むと、大洪水のさばきの時、ノアの箱舟に、まずはノアと彼の妻、三人の息子と三人の嫁、合わせて八人が乗りました。また、あらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、箱舟の中のノアのところに入りました。もちろん、神が指定された数だけ、初めの声を聞いて出てきました。

この時、箱舟に乗れなかった動物はみな大洪水のさばきによって死を免れませんでした。しかし、例外もありました。それは水中動物です。魚をはじめ水の中で暮らす動物は、ノアの箱舟に乗らなくても、大洪水のさばきの時、種族が保存できました。

「ああ、当然水の中で暮らす動物だから、洪水の中でも生き延びることができたんだろう」と簡単に考える人がいるでしょうか? 地球全体を覆う大洪水の中で水中動物が絶滅しなかったのは、実は「奇蹟」です。これがどうして奇蹟でしょうか? その理由を簡単に説明いたします。

水中動物は大きく二つの種類に分けられます。海水中で生活する魚(海水魚)と、淡水で生活する魚(淡水魚)です。ごく一部の種類を除いては、海水魚は淡水で生きられないし、淡水魚は海で生きられません。海の魚が淡水のほうに来たり、淡水が海水のほうへ行けば、あまり経たないうちに死ぬようになります。淡水と海水の塩分濃度の差によって「浸透」という現象が起きるからです。

浸透とは、細胞の内部と外部の塩分濃度のバランスをとるために、水が外に出ていったり、入ったりする現象のことです。簡単に言えば、細胞の内部より外部の塩分濃度のほうが高ければ、細胞の中の水が外に出ていきます。反対に、細胞の内部より外部の塩分濃度のほうが低ければ、水が細胞の中に入るようになります。簡単な例として、皆さんが手を水に長い間つけていると、ふやけてくる経験をしたことがあるでしょう。それも浸透の結果です。体液より外部の水の塩分濃度のほうが低くて、水が皮膚の中に吸収されて起こった現象です。

ところで、淡水魚と海水魚は浸透圧調節システムが全く違うのです。これについて簡単に説明しますが、内容が少し難しいかもしれません。この内容を知識的によく理解するなら、ノアの洪水の時、どんな魚も絶滅しなかったということがまことに驚くべきことだと悟れるでしょう。

淡水に住む魚は体内より外の塩分濃度のほうが低いです。それで、本来であれば、人が風呂に長く入っているとふやけてくるのと同じ現象が起きるはずです。しかし、淡水魚はそうならないで、元気に生きているのです。それは、淡水魚に特殊な浸透圧調節システムがあるからです。淡水魚は続けて尿として内部に吸収された水分を排出すると同時に、塩分は積極的に吸収します。それで、体内の塩分濃度を一定に保てるのです。

一方、海水魚は体内よりずっと塩分濃度の高い海水で生活しています。もし何の浸透圧調節機能もなければ、白菜を塩漬けすると水が出てくるように、海水魚は体内の水分が抜けて、脱水状態になって死んでしまうでしょう。しかし、海水魚は海で生きていけます。その理由は、塩辛い水をたくさん飲む代わりに、尿は少しだけ出すからです。ですから、脱水状態にならないのです。これとともに、摂りすぎた塩分はえらの特殊細胞を通して外部に出してしまいます。その結果、海水魚の体内の塩分濃度が一定水準に維持できるのです。

父なる神は、このように淡水魚と海水魚に、それぞれの環境で生きていける能力をすでに与えてくださったということです。ですから、淡水魚と海水魚を同じ環境で一緒に住むようにするということが、常識的に可能でしょうか? 世の常識では不可能なことです。

ところで、ノアの洪水の時は、まさにこの不可能なことが起こりました。ノアの洪水は地球全体を覆いました。地球の高い山まで完全に水に浸かるようになったのです。淡水と海水の境界がなくなったのです。淡水魚と海水魚が同じ環境で住まなければならなくなりました。それも一日、二日でなく、地の面から水が引くまで、少なくとも300日余りもそうでした。それなのに、どんな水中生物も絶滅しないで、その種族が保存されたのです。これがどうして可能だったのでしょうか?

常識では不可能なことですが、実際にこれが可能だった理由があります。それは、当時この地上を覆った水は、この地上の淡水や海水ではなく、第二の天から降りてきた水だったからです。その水には神の力が込められていたのです。

 


大洪水によってもたらされた地形、気候、生態系の変化


大洪水のさばきによって、地球にも多くの変化があるようになります。地球の地形、気候、生態系の環境が、洪水以前とずいぶん変わったのです。その原因は、まず、神が初めの光を取り込まれたからです。ところで、もっと大きい原因は、全地球的大洪水そのものにあるのです。

大洪水のさばきがあるずっと前、人間耕作が始まる前に、地球上には一度さばきがありました。それは、エデンの園から追い出された恐竜たちに対する火のさばきでした。しかし、その時の火のさばきと大洪水のさばきには、いろいろな面で違いがあります。

大洪水のさばきの対象は、ノアの箱舟に乗らなかったすべての人と陸上動物でした。しかし、火のさばきの対象はただ恐竜だけでした。また、大洪水のさばきの時は、全地球的に霊の世界の門が開かれて、第二の天から水が降りてきました。一方、火のさばきの時は、恐竜たちが集まって暮らしていた所にだけ、集中的に火が下りました。したがって、火のさばきでは、恐竜意外の動物は大きな被害を受けませんでした。しかし、大洪水のさばきによっては、箱舟に乗った人と動物を除いたすべてのものが一時に滅ぼされたのです。

今からは、このような大洪水のさばきによって、地球にどんな変化が起きるようになったのかをお伝えします。人が水の中に深く入れば入るほど、だんだん水圧が強くなるのを感じるようになります。水の外でのように自由に動きにくいのです。ところで、大洪水のさばきの時は、水が一番高い山まで達したのですから、その水圧がどれほど大きかったでしょうか。その水の圧力によって、地球の地殻は変形しました。

理解を助けるために、地球の内部構造を簡単に説明いたします。地表面の下には「マントル」層があり、もっと深いところには「核」があります。言いかえれば、私たちが足をつけて生きている地層は、マントルの上に浮いているようなものですこのマントルの温度は地上に近い最上部が約500度で、核と境界面の最下部は5000度にもなります。

 

[ヨブ28:5]「地そのものは、そこから食物を出すが、その下は火のように沸き返っている。」とあるとおりです。地球の内部構造が明きらかにされたのは近代ですが、数千年前に記された聖書には、すでに地球の内部が火のように熱いということが記されています。

ところで、地層の厚さは位置によって違うし、地層を構成する成分も違うので、安定性も違います。ある所は硬くて安定した地層でも、ある所はやわらかくて不安定な地層です。この時、二つの所に同じ水圧が作用するなら、どんな現象が起こるでしょうか?


空気を入れた風船のある所を指で押せば、他の部分がもっと膨らんでくるのを見たことがあるでしょう。さらに強い力をずっと加えれば、膨らんできた部分がバーンと破裂してしまうのです。

このように、大洪水のさばきによって地層にものすごい水圧が加わると、地層が硬い所はそれに耐えながら沈みましたが、やわらかい所は膨らんで破裂したりもしました。全地球的にあちこちでこのような現象が起きました。地層がある力の作用で盛り上がる現象を「隆起」と言います。反対に、沈んで下がっていく現象は「沈降」と言います。

地層に変形が起きた理由は、ただ水圧だけでもありません。大洪水のさばきの時、地球は150日間、完全に水に浸かっていましたが、穏やかな湖のような状態ではありませんでした。地球は太陽と月の間に挟まっていて、互いに引き合う力、すなわち「引力」が作用するようになります。太陽と月が地球を引く力によって、地球を覆った水が両側に膨らむようになります。

それに、地球は一日に一回回ります。地球は回るのに、引力によって水は引かれているから、水が地中をかき回すようになります。このように地球をかき回す水は、山のような高い地帯を崩します。そして、崩した土を押し流して、低くて広いところに来ると、高く積んでおきます。この現象が五か月間、地球全体に起きました。その結果、地層には幾重かの堆積層が形成されました。地球の地形が洪水以前とはとても違う形に変わったということです。

科学者たちは一つの堆積層が形成されるにはとても長い時間がかかると言って、それを進化論の根拠にしています。もちろん、地上で堆積層ができるには長い時間がかかります。しかし、全地球的な大洪水によっては、1年にもならない短い時間でも、幾重かの堆積層が形成されることができます。ですから、世の学者たちがノアの大洪水を排除して研究した結果は正しくないのです。

彼らが聖書がまことであることを認めて、大洪水の出来事を考えに入れて研究するなら、地球の歴史について正確な結果を得るでしょう。大洪水によって地層の隆起と沈降が起きうることと、短い期間でも堆積層が生成できることを認めるなら、地球科学分野の多くの疑問が解けるでしょう。

朝の学び65 創世記7章  

創世記7:11–12
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

ノア時代の大洪水の裁きは白い御座の大審判のしるし


前回は[11節前半節]についてお伝えしました。ノア時代の大洪水のさばきは、白い御座の大審判のしるしとなると言えるでしょう。ただし、さばきの道具が一つは水で、もう一つは火です。これについて[第二ペテロ3:6-7]には「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」とあります。

大洪水のさばきの時、正しい人ノアの家族を除いては、みな洪水におおわれて滅びたのです。白い御座の大審判の時は、主を信じなくて正しいと認められなかった人々は火と硫黄との燃える池に落ちることになります。したがって、大洪水のさばきについてメッセージを聞くとき、単に昔々にあったことと思ってはいけないでしょう。将来の白い御座の大審判に皆さんはどのように備えるべきか、これについて答えを見つける尊い時間になりますように、主の御名によってお願いします。

 


大洪水の始まり


次に、[11節後半節]には「その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とあります。大洪水のさばきが始まったのです。この時、父なる神の御目からはポトポトと涙のしずくが落ちました。そのしずくは御衣のすそに「期待」という字として縫い取られました。そこには「もう一度期待しながら待つ、必ず成す」という意味が込められています。何を期待しながら待っておられたのでしょうか? それは、ノアからもう一度始める人間耕作を通して「まことの子ども」が出てくることでした。また、「必ず成す」という意志を、涙で御衣のすそに縫い取られたのです。

本文には、地球を完全に覆った洪水がどんなふうに起こったのかが、詳しく記されています。「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。」とあります。今日、ほとんどの人はこれを地球の中で起こったことだと解釈しています。つまり、海の水の源が張り裂けて、天から大量の雨が降ったということです。

ところが、その当時、洪水で地球の一番高い山も完全に水につかりました。これは海の水の源が張り裂けて、天から雨が降るからといって可能なことでしょうか? そうでないことが常識的にわかるでしょう。もし、海の水の源が張り裂けて大雨が降って大洪水になったとすれば、洪水がやんだ後は、そのたくさんの水はどこに消えたのでしょうか?

人の知識と常識では明快に答えられないでしょう。したがって、このみことばの答えを、この肉の世界から探そうとしてはいけません。これは霊の世界であるエデンと深く関連しているということを知らなければならないのです。


第二の天のエデン


ここでしばらく以前のメッセージを復習してみましょう。私たちが生きている地球は第一の天に属していて、エデンの園は第二の天、天国は第三の天に属しています。第二の天は二つに分けられていると言いました。それは「エデン」という光の空間と、悪い霊どもの領域のやみの空間です。

最初の人アダムとエバが生きていた「エデンの園」は、光の空間の「エデン」の中に特別に設けられた領域です。「園」だからといって、その領域が狭いのではなくて、地球とも比べられないほどものすごく広いです。エデンの園もこんな広いのに、エデンの全体はどれほど広いでしょうか。私たちの目に見える宇宙が果てしなく広いように、第二の天のエデンも無限に広い空間です。

このように広い広いエデンには、川の源もあります。[創世記2:10]「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。」とあるとおりです。まさにエデンにある川の水が、ノアの大洪水のさばきの時に用いられたのです。本文の「巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、」というみことばは、エデンにあった水の源が張り裂けたという意味です。

 


第二の天と第一の天の間の通路が開かれる


また「天の水門が開かれた。」というみことばは、第二の天と第一の天の間の通路が開かれたという意味です。その結果、第二の天のエデンにあった水がこの通路を通って、第一の天にあるこの地上に降りてくるようになったのです。ここで「水門」とありますが、第二の天と第一の天をつなぐ通路は一つだけでなく、いくつもあって、地球のあちこちにある通路が同時に開かれたのです。それで、一時にものすごい量の水が第二の天からこの地上に降り注いできたのです。

聖書には、このように第二の天にあるものが第一の天に降ってきた記述がたびたび出てきます。[詩篇78:23-24]「しかし神は、上の雲に命じて天の戸を開き、食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。」とあります。つまり、エジプトから出てきたイスラエルの民が荒野で食べた「マナ」も、第二の天から降ってきたものだったのです。

また、預言者エリヤがバアルとアシェラの預言者850人と対決したとき、天から引き下ろした火も、第二の天から下ってきたものです。皆さんも、多くの不思議を通して第二の天があることを目で確認したでしょう。つまり、雲が吸い込まれるように消える場面を、ほとんどの皆さんが見たのです。


「四つの生きもの」鷲の生き物のはたらき


このように第二の天に属するものが第一の天に現れるためには、天の門が開かれなければなりません。こうして天の門が開かれる時は「四つの生きもの」がかかわるようになります。第二の天にあるものが第一の天に出てくるためには、次元が違う空間の流れに乗らなければなりません。まさにこのようにできる権限が四つの生きものにあるのです。

第一の天と第二の天の概念を、建物の上の階と下の階ぐらいに思ってはいけません。建物の上の階と下の階がつながるためには、上の床と下の天井に穴をあければよいのです。しかし、第二の天と第一の天は互いに次元の違う空間です。このように互いに次元が違う空間である、第一の天と第二の天の間の霊の世界の門を開閉する権限が、四つの生きものの一つにあります。それは鷲の生きものです。大洪水のさばきのために、エデンの水の源から流れ出た水が地球に降ってくる時も、鷲の生きものが主な役割をしました。


「四十」という数字に込められた特別な意味


本文[12節]「そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。」とあります。神は地球を水で覆うために、四十日四十夜、雨を降らせられました。神はたった一日でも地球を水で覆うことがおできになるのに、なぜ四十日間雨を降らせたのでしょうか? それは「四十」という数字に特別な意味が込められているからです。神が地球を創造する前、霊の世界でルシファーによる大きな反乱事件がありました。神が一番愛しておられた御使いのかしらルシファーが、御使いの3分の1と一緒に神に立ち向かう反乱を起こしたのです。

これについて[第二ペテロ2:4]「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」とあります。[ユダ1:6]にも「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」

このようにルシファーの反乱は直ちに平定されました。しかし、このことで父なる神は深い心の苦しみを受けなければなりませんでした。ひどくうつろさを感じられました。この時、霊の世界はしばらく茫漠とした状態になりました。この状況が[創世記1:2]では「地は茫漠として何もなかった。」と表現されているのです。霊の世界でのこの茫漠とした時間を、肉の世界の時間に表現したのが、まさに「四十」という数字です。

だからといって、ルシファーの反乱の後、ちょうど四十日間、霊の世界が茫漠としていて、神のお心が痛まれたという意味ではありません。霊の世界でのその時間に当たる数を、この地上での数の概念で表現したとき、それが「四十」になるという意味です。このような意味が込められた「四十」という数に合わせて、大洪水のさばきの時も、四十日間雨を降らせたのです。

したがって、大洪水のさばきのとき、四十日間雨が降ったことには、まるでルシファーの反乱の時と同じ神のお心の苦しみが宿っているということです。まことの子どもを得ようと始めた耕作だったのに、こんなふうにすべての人を水でさばかれたとき、父なる神のお心はどうだったでしょうか? もどかしくて、いても立ってもいられない心の痛みが、四十日間雨を降らせたことにそのまま込められていたのです。

 


文明の痕跡の保存


神が四十日間雨を降らせる方法を選ばれたことには、もう一つの重要な理由があります。それは、当時地球にあった、洪水以前の痕跡を最大限保存させるためでした。もし神が一日、またはたった数日で、ものすごい量の水を降り注がれたなら、どんな現象が現れたでしょうか? 夏の集中豪雨だけでも、あちこちが洪水で被害が発生します。ところが、それよりずっと強力な集中豪雨なら、どれほど多くが壊されるでしょうか? 当時、地球に残っていた文明の痕跡は、完全に破壊されてしまったでしょう。

ノアの洪水は、まるでコップに水がゆっくり満たされるように、四十日間の雨によって地表面から水がだんだん増えていきました。それで、洪水以前の文明の痕跡がそれでも保存できたのです。代表的な例として、エジプトのピラミッドを挙げることができます。この他にも、古代文明の痕跡が今も地球のあちこちに残っているのです。これを通して、神はノアの子孫がエデンの園と霊の世界についての手がかりを見つけるようにしてくださったのです。このようにノアの洪水にはまことに多くの意味が込められています。


新たな間耕作を通して「まことの子どもたち」が出てくることを願われる父の心


きょうは大洪水のさばきが始まる場面を調べてみました。大洪水のさばきをなさる父なる神のお心はあまりにも痛かったのです。[エゼキエル18:23]に「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあるとおりです。

ところが、ノアの時代の罪と悪は、公義の基準によってさばくしかない限界に達しました。それで、父なる神は涙を流しながらさばきを断行なさいましたが、新たな期待をいだかれたと言いました。それは、ノアから新たに始まる人間耕作を通して「まことの子どもたち」が出てくることでした。

皆さんは父なる神様がこんなに長く待っておられることを、どれほど心で知っているでしょうか? まことに心を分かち合えるまことの子どもを得るまで、「千年を一日のように、一日を千年のように」変わらず待ちに待っておられる父のお心。皆さんがこのような父なる神様のお心を知って、すみやかに御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされますように。それで、父なる神様にまことに喜ばれるまことの子どもになりますように、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び64 創世記7章  

創世記7:11–12
ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

神はさばきに備えて方舟を準備する時間を十分あたえられた。


本文[11節前半節]には「ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、」とあります。聖書には、大洪水のさばきがいつ起こったのか、このように日まで正確に記されています。それでは、ノアはだいたいいつ頃、大洪水のさばきがあるのか知っていたでしょうか?


ノアは正確な日までではなくても、「いつ頃」くらいかは知っていました。また、自分の役割も知っていたのです。つまり、当時のすべての人類は大洪水で死ぬようになり、自分を通して人類がまたふえ広がるようになるということでした。

ノアはこのことを知る前まで、結婚しないでひとりで暮らしていました。罪がはびこっている世で、聖別された生き方をするためでした。しかし、神のご計画を悟るようになったあと、子孫を残すために妻をめとりました。それで、ノアは五百歳になってからやっと息子たちを生んだのです。

私たちはこのことから、ノアが大洪水のさばきがあるということをだいたいいつ頃知ったのか、推測できるでしょう。言いかえれば、神がノアに洪水のさばきに備えるように下さった時間が、わずか数十年ではなかったこともわかります。

神はさばきに備えて箱舟を準備する時間を十分与えられたということです。これはノアにだけ当たるのではなく、ノアが生きていた当時の人々も、救いの機会をつかめるように、同じように与えられた時間でした。

ノアはその長い時間を信仰によって忍耐しながら、神のおことばどおりに行いました。箱舟を造り、食料を用意しました。また、人々に大洪水のさばきがやって来ることを一生懸命に知らせました。しかし、大洪水のさばきから救われた人は、ただノアの八人家族だけでした。

 


「終わりの時」の摂理


この「終わりの時」の状況がノアの洪水の時ととても似ています。父なる神は、世界の始まる前から、あらかじめ「終わりの時」の摂理を定められました。そして備えられました。

ここでちょっと用語を整理してみましょう。「終わりの時」とは「主の再臨が近づいた時」を意味します。「終わりの日」とは「イエス様がお生まれになった時から再臨の時までの世」という意味です。世では「末世」とも言い、同じ意味で使われています。「世の終わり」とは、「主が再臨するその時点」と、もう少し広い意味で「その時点が含まれた世代」のことだと覚えておけばよいでしょう。

父なる神は、終わりの時に多くの魂を救うために、どんな教会と牧者が必要かをご存じなので、ずっと昔から備えてこられました。ノアにだいたいいつ頃大洪水のさばきがあるかを教えて、備えるようにされたのと同じです。終わりの時にも、主が再臨する時点がいつか、その日と時間までではなくても、だいたいいつ頃かは教えてくださいます。空中の婚宴にあずかるにふさわしいように、花嫁の備えをする時間を下さるのです。

神はノアに箱舟を造るようにされたように、終わりの時にも多くの魂を救う箱舟を備えるようにされました。まずは霊的な箱舟であるいのちのみことばを下さったし、次は大聖殿を建て上げるようにされたのです。霊的な花嫁の備えや大聖殿建築は短い期間でできるものではありません。

もし、皆さんが主の再臨の時を1年前に知ったら、たった1年で花嫁の備えが完全にできるでしょうか? その時までまめに花嫁の備えをしていた人なら、あと1年間で終えればよいでしょう。しかし、その時まで信仰生活を適当にしていた人や、まともに始めたばかりの人なら、1年という期間は十分ではありません。心はせいていても、完全に備えるにはどうしても時間が足りないということです。

大聖殿建築のための準備も同じです。実際に聖殿を建築する工事は主の再臨の時点に近いこともあります。しかし、このための事前作業はずっと前からしなければなりません。まず霊的な準備が必要です。

ノアがその時代にあって正しい人と認められるまで時間が必要だったように、皆さんも大聖殿を建て上げるにふさわしい資格を備える時間が必要なのです。父なる神は「大聖殿はきよい子どもたちを通して建て上げる」と開拓の時から言われました。このような霊的な条件が備えられるとき、神様も公義に従って大きい財政の祝福を与えることがおできになるからです。

ノアが父なる神のおことばを信じて、そのとおりに行ったように、皆さんもただ信仰で行軍しながら、みことばどおりに花嫁の備えをしてください。信仰は今すぐ目に見えないし、手に触れなくても、変わらずに望むことです。それが公義によってまことだと認められるとき、望んでいる事がらが保証されるのです。この霊的な原理を必ず覚えて、変わらない信仰をきよく守るすべての皆さんになりますように、主の御名によって祈ります。


 

朝の学び63 創世記7章  

創世記7:8–12
きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。

箱舟の中での動物たちとノアの家族の暮らし


前回は本文[8,9節]を説明して終わりました。すべての動物は基本的に雄と雌二匹ずつ、きよい動物は基本的に雄と雌七匹ずつが種族保存のために箱舟に乗りました。これに特別な用途のために、きよくない動物は一つがいをさらに乗せて、きよい動物は七匹をさらに乗せました。

こうして箱舟に乗った多くの種類の動物は、一年以上、どうしてその限られた空間で一緒に暮らせたのでしょうか? 強い動物が弱い動物を攻撃したり、互いに戦って害を与えるようなことが起こったなら、箱舟の中は無秩序になったでしょう。

ところが、結果的に見れば、箱舟の中でそんなことは起こりませんでした。神は洪水が終わるまで、ノアの箱舟だけは初めの光で取り巻いてくださったからです。
ノアは洪水の後も、初めの光で取り巻かれた空間に生きていました。洪水が終わる時まで、ノアの箱舟を神は初めの光で取り巻いてくださいました。それで、動物が箱舟から出てくるまで、根本の悪い属性を現さないで、ノアの言葉に素直に従ったのです。動物は自分に割り当てられた空間で、おとなしく過ごしていたのです。

ここで、動物に割り当てられた空間について、もう少し詳しく申しあげましょう。神は箱舟の中の限られた空間を一番効率的に使えるように、それぞれの動物の空間を配置されました。[創世記6:16]に記されてあるとおり、箱舟は一階と二階と三階に作られています。一番下の階から、体重が多い順にとどまるようにしました。たとえば、ゾウ、カバ、ライオン、トラのように、体が大きくて体重も多い動物です。これは箱舟の全体の安定性のために必要な配置でした。下のほうが重い時こそ、箱舟がより安定して、バランスもよく取れるからです。

二階にはその次の大きさの動物が、一番上の三階には鳥と「地をはうもの」、そしてノアの八人家族が住みました。ひょっとして「どうしてノアと彼の家族は鳥と地をはうものと同じ階で暮らせたのか」と思う方がいるでしょうか? 同じ階に住むとしても、空間がちゃんと分けられていたのです。ノアと彼の家族が暮らすのに不自由なことはありませんでした。


この他にも、箱舟の内部は空間がとても効率的に区切られていました。たとえば、食物を蓄える空間が各階にありました。もし一つの階にだけ食料倉庫があったなら、動物にえさをやるたびに上り降りする苦労がどれほど大きかったでしょうか。

神はノアに動物の食料倉庫を各階の一番右端に作るようにされました。動物に一日に一回だけえさと水が与えられました。これはみながおなか一杯になったと感じるほどの量ではありませんでしたが、だからといって、ひもじさを覚えるほど少ない量でもありませんでした。箱舟の中は神の初めの光で取り巻かれていたので、動物は一日に一回、一定量を食べるだけでも生きるのに十分だったということです。

ノアと彼の家族にとって、すべての動物にえさをやることは、一日にたった一回でも楽ではありませんでした。ところで、動物にえさをやることより大変だったのは、彼らの排泄物を処理することでした。いくら一日に一食だけだとしても、動物の数があまりにも多くて、排泄物もその量が実際とても多かったでしょう。ノアと家族がいちいち動物の囲いにある排泄物を片づけなければならないなら、これはどんなに大変でしょうか。

救われた恵みに感謝して、与えられた仕事を誠実に果たすノアの家族たち


それなら、ノアと家族はこの問題をどう解決したでしょうか? 父なる神はこれまであらかじめ知っておられて、ノアが箱舟を造るとき、排泄物の処理施設を作るようにされました。動物が囲いの中のある地点で排泄すると、その排泄物が一つの所にたまるようになっていました。ノアと家族は一つの所にたまった排泄物だけ、箱舟の外に捨てればよかったのです。

ノアと家族は箱舟暮らしの間じゅう、動物の世話をするのにたくさんの時間を割いて、とても忙しく過ごさなければなりませんでした。ですから、実際退屈になる暇も、他のことを考える余裕もありませんでした。実は肉的には骨の折れる労働をしながら一日一日を忙しく過ごしていたのです。

しかし、彼らはそれについて不平を言うことも、嘆くこともありませんでした。むしろさばきから救われたことに感謝しました。ですから、自分たちがすべきことをいやいやながらしたのでもなかったし、適当にしたのでもありませんでした。ある面ではあまりにも骨の折れる仕事でしたが、箱舟暮らしの間じゅう、感謝と喜びをもって誠実に与えられた仕事を果たしたのです。

救いの恩寵をいただいた皆さんも、このような心と姿で信仰生活をしなければなりません。今は多くの方が信仰のまことの意味を悟って、そのように行っているでしょう。各種の礼拝と祈りも自発的にしていて、奉仕することを自ら探してしている方もたくさんいます。たとえば、トイレの掃除や聖殿の掃除も、自ら進んでしている方もけっこういます。暑い時も寒い時も、変わらずに食堂や交通、掃除の奉仕をしている方も多いのです。肉的には骨の折れる仕事でも、救われた恵みに感謝して、喜んでしている方が本当に多くいます。そのすべての方々に心から感謝いたします。

ところで、このように感謝な心で始めた奉仕を、ひょっとして今は義務感から、いやいやながらしている方はいないでしょうか? 「主の恵みに感謝して奉仕する」というその心が決して変わってはいけません。

ひょっとして人に傷つけられたり、気に触ることにあっても、それによって主への心が移り変わってよいでしょうか? 主が自分をつらくさせたのでもないのに、なぜ主への心が変わらなければならないのでしょうか? 人との関係においてつらいことにあえば、それは自分の心に真理に逆らうものを発見する機会です。その機会をよくつかんで、主が願われる心にもっと美しく変えられなければならないでしょう。

ノアは家族とともに救われた恵みに感謝して、決して楽でない箱舟の中での暮らしを黙々と誠実に送りました。皆さんが霊的な箱舟の中で生きたいと願うなら、救いの恵みに感謝する心がいつまでも変わってはいけません。この一つだけ最後まで握っていても、荒波が立つ海のような世の中で、十分勝利する生き方ができるのです。これを必ず覚えて、私たちを救うためにすべてを渡してくださった父なる神様と主に喜ばれる皆さんになりますように、主の御名によって祈ります。

大洪水―新たな人間耕作の始まり


次は、本文[10節]を調べてみましょう。「それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。」とあります。神は、前の[4節]でも「あと七日たつと」雨を降らせると仰せられました。この「七日」は、神の公義を完全にする猶予期間だと言いました。神のほうで洪水のさばきを下されるとき、霊の世界に定めておいた公義のとおり、少しもつけ足したり、取り去ったりすることもなく、正確になさったことを表しています。どれほど深く思い、じっくり考えられたのかがわかります。

ところで、神が「あと七日たつと洪水のさばきをくだす」と仰せられたみことばには「ノアと彼の子孫をとおして新しく人間耕作をする」という意味も込められています。世にも「卒業は終わりではなく、新たなスタート」という言葉があるでしょう。これと同じように、大洪水のさばきで耕作の歴史が終わるように見えましたが、それは終わりではなく、新たなスタートでした。

本文の「大洪水の大水が地の上に起こった。」というみことばにも霊的な意味が込められています。「地」とは「やみ」のことで、「大洪水の大水」、すなわち「水」とは「みことば」のことです。したがって、「大洪水の大水が地の上に起こった。」というみことばには、「やみの勢力によって染まったこの地を、神のことばである水でさばいて新たに平定される」という意味が込められているのです。

敵である悪魔・サタンは、人の心にやみ、すなわち、悪を蒔くことで、この地上に彼らの世界を築き上げようとしました。世にはすっかり罪がはびこって、彼らの計画がほぼ成功したかのように見えました。しかし、父なる神はこの時のために、その時代にあって正しい人、ノアを備えさせました。そして、公義が満ちると、大水で地を覆って世を新たに平定されました。これによって、人間耕作の歴史は続くようになりました。

朝の学び62 創世記7章  

創世記7:4-9
「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。」

神が下さった最後の猶予期間「七日」

 


本文[4節]で、神はノアに「それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」と仰せられています。これは、洪水のさばきがこれから「七日後に」起こるという意味です。逆に、さばきの瞬間までまだ「七日」あるという意味にもなります。

父なる神は洪水のさばきがある前に、すでに数回悔い改めの機会を下さいました。そのたびに人々は罪と悪から立ち返らなかったので、結局洪水のさばきにあってしまいました。「さばき」を取り消せないところに至ったのです。

それなのに、父なる神は直ちに世をさばかれたのではなく、もう一度「七日」という時間を下さいました。完全数の七に相当する日を加えてくださったのです。ここにまさに父なる神の正確な公義が込められています。これがなぜ神の公義なのでしょうか?

神が下さった七日は、誰かが立ち返って救いの箱舟に乗ろうとするなら、その人に与えられた最後の猶予期間でした。神がこのように時間を下さったのに、この機会をつかまないなら、どこの誰も神を恨むことはできません。

したがって、この「七日」という時間は、神のほうで洪水のさばきをくだすまで、公義の法則からはずれないように、どれほど多くのことを問いただして、どれほど一つ一つをチェックしてみたのか、どれほど細やかにくまなく調べて、どれほど徹底的に点検されたのかを表しています。

一方、[5節]「ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。」とあるのは、ノアのほうでも洪水のさばきのための備えが全く足りないところがなく、どんな間違いもなくできるようにしたということを表しています。


最後の瞬間まで悔い改める機会を下さる神様


[エゼキエル18:23]「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあります。これか父なる神のお心です。ですから、罪と悪が積みに積まれてさばかれるしかない時も、その中でひとりでも救う者がいるのではと調べて、最後の瞬間まで悔い改める機会を下さったのです。

ソドムとコモラのさばきの時も、ご自分で御使いのかしらたちを遣わして、その町を調べるようにされました。そして、ロトと彼の家族は救われるように、緊迫した状況でもさばきを遅らせなさいました。

ニネベをさばこうとされた時も同じです。ニネベはアッシリアの首都です。アッシリアはイスラエルの敵国です。彼らの悪が神の前に上って来て、公義によっては滅ぼすしかないところでした。それでも神は、ニネベの民に悔い改めの機会をもう一度下さいました。預言者ヨナを遣わして、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫ぶようにされたのです。

これは、さばきの宣言とともに「四十日」という猶予期間を下さったということです。ニネベの民が罪と悪から立ち返る時間、滅ぼされないで、生きられる最後の機会を下さったのであります。ですから、「私は悔い改める機会が得られませんでした。罪と悪から立ち返る時間がありませんでした」と、誰も神を恨むことはできないのです。

幸いなことに、ニネベの民は神が下さった最後の機会をつかみました。王をはじめ、すべての家臣と民が断食しながら悔い改めました。それどころか家畜までも断食させたのです。これに神は思い直されて、災いを下されませんでした。このように、私たちの神は完全な公義と愛をもってさばきをくだすこともあり、くだそうとしていたさばきを撤回することもあります。

ノアの時代、洪水のさばきの前に下さった七日という猶予期間は、神の公義を完全にする愛の表現でした。その期間中、たったひとりでも救いの箱舟へと出てくるなら救おうという神の憐れみから始まったものです。

この時、大切なことが一つあります。洪水が起こる七日前、神はノアと彼の家族、選ばれた動物をみな箱舟の中に入っているようにされたということです。そして、戸を閉ざすようにされました。したがって、その七日間、ノアはそれ以上世に向かって「もうすぐ洪水のさばきが始まる」と叫べなかったのです。なぜ神は世の人たちに七日という猶予期間は下さったのに、それ以上さばきを警告しないようにされたのでしょうか? なぜノアに最後の瞬間まで箱舟の戸をあけておくようにされたのでなく、戸を閉ざすようにされたのでしょうか?


「七年艱難」を表す七日の猶予期間


ノアの時代の洪水のさばきは、人間耕作の摂理が含まれている縮刷版のようなものなのです。[ルカ17:26-27]で、イエス様は「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。」と言われました。ノアは洪水のさばきがあることを知った時から、人々に熱心に伝えました。しかし、彼らはノアのことばを聞かずに、かえってノアを非難しました。

人の子の日」、すなわち、主が再臨される時も、これと同じ現象が現れるのです。神は主のしもべと働き人を通して、時が近いことを絶えず知らせてくださいます。この叫びを聞いて、主を受け入れて、罪を悔い改める人は救われます。しかし、多くの人が世に染まって、福音を聞こうとしないし、かえって敵視するのです。反キリストの勢力が終わりの時になるほど強くなるからです。

しかし、結局、時が来ると主が空中に下って来られ、主を信じる人々は携挙されて、七年婚宴に入ります。一方、この地上では七年患難が始まります。その時、この地上に残された人は、全く主を信じなかった場合や、信じるといっても救われるような信仰を全然持てなかった場合です。

ところで、彼らの中にも、携挙の出来事を見て、目を覚ます人がいることもあります。その時やっと聖書がまことだと悟って、天国と地獄があることを悟るのです。この人たちが救われて天国に行くためには、どんな拷問と脅かしにあっても、イエス・キリストを信じる信仰を守らなければなりません。聖霊もすでに呼び戻されたので、全く自分の意志で信仰を守らなければならないのです。

父なる神はこうしてでも救われる人がいるのを知っておられるので、七年患難という期間を与えてくださいます。公義によっては救われない人たちに、最後の機会をもう一度下さるのです。
洪水のさばきの前、七日の猶予期間が、まさに「七年患難」の意味と同じです。

洪水のさばきの七日前、ノアと彼の家族が箱舟の中に入ったのは、救われた子どもたちが七年婚宴に入るのと同じです。また、七年患難の期間に落ち穂拾いの救いがあるように、箱舟の戸が閉ざされても、洪水が始まる前に誰でも戸を叩くなら、開けてあげることができます。
[第一テモテ2:4]にあるように、神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるからです。

洪水のさばきの前、七日の猶予期間中には、さばきを警告する人が誰もいませんでした。ノアと彼の家族はすでに箱舟の中に入ったからです。これも、七年患難の時、聖霊が呼び戻され、自分の意志だけで信仰を守らなければならないのと同じです。

箱舟の戸が閉ざされた後は、誰にも助けられないまま、自ら悟って立ち返った人でこそ、救いの機会をつかむことができたのです。結局、その数えきれないほどの人のうち、誰ひとり悔い改めて立ち返って、箱舟に入った人はいませんでした。

七年患難の時もこれと似ています。初めは多くの人が悔い改めますが、主を信じる者にものすごい迫害が加えられれば、ほとんどが信仰を捨てます。最後まで信仰を守って救いに至る人はごくわずかなのです。このようにノアの時代の洪水のさばきは、人間耕作の終わりの時と似た点が多くあるのがわかります。

 


従順の行いが伴うまことの信仰


次に本文[6-7節]をご覧ください。「大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。」

「ノアの息子たちや妻、息子たちの妻」は、ノアが箱舟を作って神のみこころと摂理を伝えたとき、そのことばを信じてついて来てくれた人々です。このように、ノアを通して下さった神のことばを信じて、そのとおりに従った結果、「救い」という驚くべき祝福を受けるようになったのです。ノアの家族は今すぐ目に見えるはっきりした洪水の前兆がないところでも、ノアのことばを信じて従いました。まことの信仰とは、このように目に見えるものがなくても信じることです。

また、まことの信仰には従順の行いが伴うのです。ノアが何も見えない状況で、ただ神のことばに聞き従って、長い間箱舟を造ってきた信仰です。これについて[ヘブル11:7]には「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」とあります。


ノアの家族がノアのことばを聞いて、ノアとともにいることができたことも、すべて信仰から出た行いでした。結局、この「信仰」がノアと彼の家族を救いに至らせたのです。

もし、ノアの家族以外の人がノアの伝えたことばを聞いて信じたので箱舟の中に入ろうとしたなら、神が「あなたはだめだ」と止められたでしょうか? そうされなかったでしょう。私たちの父なる神は「特別に誰かだけが救われる」と定めておかれませんでした。ノアは熱心に伝えましたが、人々が世を愛したからノアのことばを聞こうとしなかったし、聞いても無視してしまいました。このように信じない結果、滅びというさばきを受けたのです。

これは今日も同じです。多くの人が福音を伝えていますが、素直に信じて従う人は少ないです。また、教会には通っていても、心は相変わらずに世に向かっている人も多いのです。このように、口では「信じます」と告白しても、相変わらず世を愛して追い求めている人は、実は箱舟に乗っていない人と同じです。

なぜそうなのか、たとえを挙げてみましょう。仮に、片足だけ箱舟の中に入れておいて、もう一方の足は外の世に出しておいた人がいるとしましょう。この状態で洪水のさばきが臨んだなら、この人がものすごい豪雨と波風の中でも、ずっと箱舟につかまっていられるでしょうか? さほど経たないうちに、箱舟から落ちて、荒波の中におぼれてしまうでしょう。

したがって、世と信仰に二股をかける人は、まことの信仰があると言えないのです。まことに救われるような信仰を持っている人は、箱舟の中に完全に入って、つまり、みことばの中に完全に入って、世と自分を断ち切らせる行いを見せるでしょう。ところが、まだ「私はいったい救われるような信仰を持っているのだろうか」と確信のない人がいるでしょうか? ですから、安全な救いの箱舟に乗って、永遠の国に十分入れる幸いな皆さんになりますように。

次に、本文[8-9節]を読めば、「きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。」とあります。


前回伝えたように、すべての動物は基本的に雄と雌二匹ずつ、きよい動物は基本的に雄と雌七匹ずつが種族保存のために箱舟に乗りました。これに、特別な用途のために、きよくない動物は一つがいさらに乗せて、きよい動物は七匹さらに乗せました。

こうして箱舟に乗った動物は、洪水の期間中どう過ごしたでしょうか? 大洪水のさばきが始まると同時に、神の初めの光がこの地上から取り込まれて、動物には根本の属性が現れるようになりました。それなら、その多くの種類の動物が箱舟の中で1年以上、どのようにいっしょに暮らせたのでしょうか?
 

朝の学び61 創世記7章  

創世記7:1-3
【主】はノアに仰せられた。『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。』

「箱舟」とは、霊的に「神のことば」を意味すると言いました。したがって、皆さんが霊的な箱舟である神のことばの中にだけとどまるなら、どんな試練が押し寄せてきても安全であることを必ず覚えておいて下さい。

神に正しいと認められたことによってノアがいただいた祝福


創世記7章からは大洪水のさばきが始まります。
本文[1節]で、神である【主】は、雨を降らせる前、ノアに家族といっしょに箱舟に入りなさいと仰せられました。そして、ノアとその家族を大洪水のさばきから救われる理由を明らかにされました。まさに「あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。」と仰せられたのです。その時代にノアだけが神の御前に正しい人だと認められたということです。

自分の目に正しい人でなくて、神の御目に正しい人は、ノアのように驚くべき祝福をいただきます。ノアは、自分が救われたのはもちろん、その家族も一緒に救われる祝福をいただきました。また、ノアは神の大いなる摂理を成就する尊い道具として用いられました。

ノアが神に正しいと認められたことによっていただいた祝福がもう一つあります。大洪水のさばきが始まる頃、地球を取り巻いていた創造の初めの光が完全に取り込まれましたが、ノアは相変わらずその光で取り巻かれていた空間で生きることができました。神は洪水の間も、ノアの箱舟を初めの光で取り巻いてくださいました。それで、箱舟の中にいる人と動物は神に特別に守られていたのです。

[創世記1:3]で、神が六日創造の初日、「光があれ。」と仰せられると、創造の初めの光が地球をはじめ、第一の天を取り巻きました。それで、地球は肉の空間でありながら、ある程度は霊の空間の法則が適用されました。

このように地球を取り巻いていた創造の初めの光は、アダムが罪を犯した時点から少しずつ取り込まれ始めました。そうしていて、大洪水の始まりと同時に完全に取り込まれたのです。その結果、地球はすっかり肉の空間になって、100%肉の法則が適用されました。


すると、地球にいる生物は本来持っていた肉の属性が、制限されずに現れるようになりました。たとえば、ライオンやトラのような猛獣は潜在していた荒々しさを現しました。初めの光で取り巻かれていた時は、このような猛獣もおとなしかったのですが、今は本性が現れたのです。

また、地球にあるすべてが肉の属性どおり、さらにすみやかに変わってしまい、朽ちるようになりました。ノアは洪水以後、このような環境の中でも、初めの光で取り巻かれた空間で生きていたのです。

これについての一つの証拠がノアの寿命です。ノアは洪水以前の人々のように950歳まで生きました。これと違って、本来永遠に生きられたのに、肉に変わってしまって絶滅した人たちがいました。それは、エデンの園からこの地上に降りてきて、思いのままに肉を追い求めて肉の人になった存在です。彼らと彼らの子孫もみな、大洪水のさばきのとき、絶滅してしまいました。

これを通して、神の御目に正しい人と正しくない人の結果がどれほど違うのかがわかります。

[箴言12:7]「悪者はくつがえされて、いなくなる。しかし正しい者の家は立ち続ける。」とあるとおりです。このようにノアは罪と悪がはびこっていた時代に、神の御前で正しさを堅く守って、救いと祝福をいただきました。
皆さんも不義なことを遠ざけて、神が正しいと見られることを行って、幸いな道へと導かれますように、主の御名によって祈ります。


これから本文[2、3節]をご覧ください。神はノアに、箱舟にさらに連れて入る動物の種類と数を教えてくださいました。「あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」

[創世記6:19-20]で、神は「またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、」と言われました。ところが、どうしてここでは、きよい動物と鳥の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、取るように言われたのでしょうか?

[創世記6:19]で、すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入るように言われたのは「生き残るために」でした。言いかえれば「種族保存」のために基本的にすべての動物の中から、それぞれ二匹ずつ連れて入ったのです。そして、その時、神が生き残るように選ばれた動物は、本能的に初めの声に引かれて、箱舟のほうに出てくるように働かれたのです。

ところで、本文[創世記7:2-3]では、神が特定の動物を指名して、雄と雌、七つがいずつ、または雄と雌、一つがいずつ取るように言われました。ここで注目する部分は、神が箱舟にさらに連れて入るきよい動物ときよくない動物を、ノアが選び取るようにされたということです。

これは、父なる神がノアを用いて人間耕作を新しく始めようとする意志を表されたのです。また、ノアのように、神のまことの子どもとされれば、すべてのものが支配できることを教えてくださったことです。


神のまことの子どもは霊の次元にいるので、それより次元が低い、肉に属する動物を十分に支配して従えるのです。獅子の穴に投げ込まれたダニエルを、獅子が害することができなかったのも、同じ原理です。

きよい動物ときよくない動物が分けられた基準


それでは本文にあるきよい動物ときよくない動物は、どんな基準によって分けられたのでしょうか? その基準は、動物が持っている根本の属性です。すべての動物は初め創造された時に使われた土質によって、根本の属性が変わってきます。

たとえば、ある動物は性質がずる賢くて、ある動物は荒々しいし、ある動物は貪欲な性質を持っています。一方、ある動物はよく言うことを聞く性質を持ち、ある動物はおとなしい性質を、ある動物は愚直な性質を持っています。

この地上が神の初めの光で取り巻かれていた時は、動物に内在していた悪い属性が現れていませんでした。それで、今は荒々しい動物も、当時はみなおとなしかったのです。しかし、大洪水のさばきが始まりながら、初めの光が完全にこの地上から取り込まれると、土質に内在していた根本の属性が出てき始めました。それで、神は根本の属性に従って、きよい動物ときよくない動物を分けられたのです。

ところが、すべての動物がこの二つの範疇にいるのではありません。動物の中の一部だけ「きよい」または「きよくない」と言われたのです。
ところで 
[レビ記11章]を読むと、「きよくない動物」の種類が具体的に記されています。しかし、レビ記にあるきよくない動物とノアの箱舟に連れて入ったきよくない動物が100%一致するのではありません。

レビ記は大洪水のさばきから約1千年後に記されました。レビ記を記した時の動物は、その属性がノア時代の動物とまた違ってきました。大洪水のさばきの後、人が再び増え始めながら、世もだんだん悪に染まっていきました。大洪水のさばきが終わった後は、神の光がそれ以上残っていなかったので、動物も根本の属性を制約なしに赤裸々に現しました。簡単に言って、動物もさらに悪くなったのです

したがって、ノアの時代に神が定めてくださったきよい動物ときよくない動物の基準と、レビ記を記した時の基準は同じになれないのです。ノアの時代にはきよくない動物ではなかったのに、レビ記を記した時にはきよくない部類に属するようになった動物が現れました。

たとえば、「鳥」がそうでした。ノアの時代には、鳥の中からきよくないと言われるほど、悪い性質が現れたものはいませんでした。それで、本文[3節]にも「空の鳥の中からも」きよい動物のように「雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」とあるのです。

一方、きよくない鳥についての言及はありません。また、「空の鳥」といっても、鳥のすべての種類を雄と雌、七つがいずつを取りなさいという意味ではありません。鳥の中からきよいものだけ、雄と雌、七つがいずつ取りなさいという意味です。ですから、ノアの当時は、鳥は「きよい種類」と「その残りの種類」、二つの部類だけ存在していたことを知らなければなりません。

ところが、[レビ11:13-19]には、鳥の中で忌むべきものが何か、具体的に記されています。これは、歳月が経つにつれ、鳥の中からも悪い種類が現れたという証拠です。
参考までに、
[レビ11章]に書いてある「忌むべき動物」はそのかたちが堕落したケルビムに似ています。神はそんなものは食べてはならないと言われました。堕落したケルビムに似た忌むべき動物は、ほとんど毒性を持っていて、人に悪影響を与えるからです。心が良くなるよりは悪くなるようにします。

神は本文[2節]で、きよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、取るように言われました。ここで「きよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ」という表現には、二つの意味が込められていることを知らなければなりません。

まず、文字どおり「雄と雌、七つがいずつ」すなわち、「十四匹」を意味します。次に、それぞれの種類から雄と雌合わせて「七匹」、すなわち「雄と雌、三つがいと雄一匹」の七匹の組を言うこともあります。これはどういう意味でしょうか?

[創世記6:19]に、すべての生き物を「種族保存」のために、基本的に雄と雌「それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、」とあります。この時、きよい動物は一つがいずつではなく、七つがいずつ箱舟に連れて入ったのです。

きよい動物は牛、羊、やぎなど、非常におとなしい動物です。このような動物が種族を保存できるには、猛獣よりその数が多くなければなりません。それで、きよい動物は種族保存のために、雄と雌、七つがいずつ箱舟に連れて入ったのです。

そして、この外に「また別の目的」をもって、雄と雌合わせて七匹、すなわち「三つがいと雄一匹」の七匹の組を箱舟に連れて入ったということです。
理解を助けるために、具体的な例を挙げてみましょう。たとえば、きよい動物に属する「羊」は、種族保存のために七つがいを連れて入りました。「また別の用途」のために、七匹の組、すなわち三つがいと雄一匹をさらに連れて入りました。それで、箱舟に入った羊は計二十一匹になります。この中で雄羊は十一匹、雌羊は十匹です。

それなら「きよくない動物」に属する「豚」は、何つがい箱舟に入ったでしょうか? 基本的に入った雄と雌それぞれ二匹と「きよくない動物」として取った雄と雌一つがい、このように雄と雌二つがい、計四匹です。

ところが、「きよい動物」にも「きよくない動物」にも属しない種類のほうが多かったのです。それらの動物はただ基本的に雄と雌それぞれ二匹だけが箱舟に入りました。ノアの箱舟に入った動物は、このように「きよいもの」と「きよくないもの」、そして「残り」、このように三つの部類でした。

それでは、神がきよい動物と鳥、またきよくない動物を箱舟にさらに入るようにされた「また別の目的」とは何でしょうか? それは、大洪水のさばきの後、人間の暮らしにそれらの動物が必要な特別な分野があったからです。まず、きよい動物の用途を説明いたします。

きよい動物の用途、 第一神にいけにえをささげるとき、使うためです


[創世記8:20]を読むと、大洪水のさばきの後、箱舟から出てきたノアが神に全焼のいけにえをささげる場面があります。「ノアは、【主】のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」とあります。

このように神にいけにえをささげる時は、どんなものでもささげたのではありません。必ずきよい家畜や鳥をいけにえとしてささげました。これを通して、私たちは「きよい動物」とは、すなわち、「いけにえ」になれる家畜であることがわかります。


レビ記1章から7章に、いけにえをささげる法に関する規定が詳しくあります。いけにえとしてささげる動物も指定されています。家畜からは牛、羊、やぎを、鳥の中からは鳩をささげることができます。このようにささげものになれる種類は四つにすぎません。ノアの時代できよい動物の種類もこれと大きい違いはなかったのです。

ところで、洪水のさばきの後、ノアが最初の全焼のいけにえをささげる時に「すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。」とあります。ただ牛一頭だけささげたのではなく、牛一頭と一緒に、羊も、やぎも、鳩も、みな一匹ずつ全焼のいけにえとしてささげたのです。この時、全焼のいけにえとしてささげたのはみな雄でした。

それで、父なる神は、きよい動物は雄を一匹より多く入るようにされたのです。もしきよい動物を雄と雌それぞれ二匹だけ箱舟に入れたなら、このように全焼のいけにえをささげることは難しかったでしょう。それでもこのように全焼のいけにえをささげたとすれば、その瞬間、牛、羊、やぎ、鳩は絶滅してしまったでしょう。すると、私たちは今、牛、羊、やぎ、鳩を見ることができなくなるのです。

それで、神はノアに、きよい動物は種族保存のための十四匹の他に、七匹ずつ多く箱舟に連れて入るようにされたのです。大洪水のさばき以後にも、続けて神にいけにえをささげなければならないからです。

旧約時代にいけにえをささげることは、人の子らが神と交わる通路でした。洪水のさばき以後、この地上には人々が急速に増えていきます。これと同時に、神にいけにえをささげることも多くなります。神はこのように今後のことをご存じであって、人々に必要な数だけきよい動物を多く入らせるようにされたのです。

きよい動物の用途、第二は、神を信じる民の食物となることです。


神は洪水以後、人々に肉食をすることを許されます。まさに[創世記9:3]「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」とあります。人々は洪水のさばきの前までは、菜食だけしていました。ところが、洪水のさばき以後から、肉も食べ始めたのです。この時、人々に食物として許された動物が、まさにきよい動物だったのです。

当時、このみことばをいただいたノアと彼の子孫は、神である【主】を信じる人々でした。ですから、どんな動物でも取って食べるのでなく、きよい動物を取って食べなければならないことを知りました。このように、きよい動物は人の食物にも、いけにえをささげる時にも、必要だったのです。したがって、箱舟に連れて入るきよい動物の数が、他の動物に比べて何倍もあったのです。

それでは、きよくない動物を雄と雌一つがいずつ多く取るようにされた理由は何でしょうか? これは将来、神を信じない人々の食物として与えるためです。
洪水のさばき以後、歳月が流れるにつれて、ノアの子孫が増えていきながら、神を信じない人々も出てくるようになります。彼らは思いのまま、きよい動物でない他の動物まで食物にします。神はそのように人々がどんな動物を食物とするのかをあらかじめ知っておられました。それで、ノアの箱舟に雄と雌一つがいずつ多く入るようにされたのです。

結局、神がきよくないと言われた動物は、将来異邦人にとって食物となる動物でした。きよくない動物も、その種類が多かったのではありません。したがって、雄と雌一つがいずつ多く入るからといって、箱舟に無理があるのではありませんでした。

父なる神は、このように人に必要なものをよく知っておられます。将来、神を信じない人々のためにも、彼らの食物をあらかじめ準備してくださったのをご覧ください。[マタイ5:45後半節]にも「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とあります。このように、父なる神の憐れみと慈しみは、人々が思っているよりはるかに大きいのです。

最も良いものを与えたいと思う父なる神の心


ところが、イエス・キリストを受け入れて、神の子どもとされた特権をいただいたクリスチャンの中にも、神の愛をよく知らない方々がいます。私たちの父なる神は、子どもたちが信仰によって何かを求めるとき、最も良いものを与えたいと思われる方です。

私たちのイエス様は、このような父のお心をよく知っておられました。それで、[マタイ7:9-11]「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と言われたのです。

また、[ローマ8:32]で、使徒パウロも「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」と告白しました。
したがって、皆さんは私たちの父である神に、さらに信実により頼みますように。皆さんのすべてを知っておられ、すべての必要も満たしてくださることのできる父に、信仰によって求めますように。

父なる神は愛を施されますが、公義に従ってなさいます。私たちのほうから求めてこそ、いただくことができます。また、[マタイ6:33]には「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。これが私たちのイエス様が教えられた答えと祝福の秘訣です。

まず、神の国が広がるために祈らなければなりません。つまり、教会と牧者のために祈って、多くの魂の救いのために祈るのです。その次に「その義とを求めなさい」とは、心の聖潔のために祈りなさいという意味です。

これは単に祈る順序だけを指しているのでしょうか? もちろん、祈る順序も重要です。ところが、それより重要なのは、祈る人が大切に思うことがはたして何かということです。「神の国が広がることを願う心、聖められたい心のほうが大きいのか。」 「自分の肉の問題、すなわち、物質の祝福や病気のいやしなどを解決されたい心のほうが大きいのか。」

父なる神は私たちの心をお受けになります。父なる神は私たちを愛して、ひとり子まで惜しまず死に渡してくださいました。その愛があまりにもありがたくて、感謝して、何としてでも神の国のために報いようとする心、父なる神に似せられようとする心、このような心を持った子どもたちを捜しておられます。

皆さんがこのような心で祈るなら、父なる神は皆さんが求めたものはもちろん、その他に求めていないものも加えてくださるでしょう。父なる神は子どもたちに、何としてでも一番良いものを豊かに与えたいと思われる方だからです。このようにすばらしい父なる神を信じて、いつも感謝の心で祈り、答えと祝福をいただく皆さんになりますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
 

朝の学び60 創世記6章  12

創世記6:22
ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

前回に続いて[ 創世記6:22]について説明いたします。ノアは箱舟を作って、食物を用意することにおいて、神が命じられたとおりに聞き従いました。肉の思いを働かせないで、ただ仰せられたとおりに聞き従おうとする心だったので、すべてが順調で「アドナイ・イルエ」のみわざも体験しました。

完全に聞き従うことにおいて、知識と技術を活用したノア


ところで、私たちが完全に聞き従うことにおいて、経験や知識、技術などが全く役に立たないのではありません。ノアが箱舟を作れた決定的な要因が、第一は神により頼む信仰でしたが、ノアはそれだけの知識と技術も活用できる人でした。このように、私たちが何かをするとき、知識と経験、技術と才能が基本的に土台にならなければならないこともあります。

たとえば、ある人が飲食店を始めようとするとしましょう。ところが、本人は料理についてよく知らないし、場所も町外れにしました。それから神に祈って、「お店がはやるようにしてくださると信じます」と言うなら、はやるでしょうか?

もちろん、霊の信仰によって祈って、神に助けていただければ、どんな状況、どんな条件でも栄える祝福を受けることができます。しかし、人のほうでできることすら全然しないで、祝福してくださいと祈ってばかりいることは正しくありません。祝福される「器」は備えないで、ただ受けることだけを願うのと同じです。

これと反対に、いくら豊かな経験と優れた技術を持っているとしても、神により頼まないなら、神に祝福されることは難しいのです。ただ自分の肉的な能力と限界の中で、誠実に努力した分だけ結果を出すのです。

このような人は自分の肉の限界を超える状況にあえば、結局へたり込むしかありません。さらに自分の知識と経験、技術だけを信じる人は、みことばに聞き従いません。自分を自ら賢いと思うからです。すると神もその道を導くことがおできになりません。

神のみことばが成し遂げられるまで、変わらずに聞き従ったノアの完全な従順


私たちがノアの従順を通して、もう一つ悟らなければならないことがあります。それは、完全な従順とは、神のみことばが成し遂げられるまで、変わらずに聞き従わなければならないということです

ノアが箱舟を作った期間が、聖書に正確に記されてはいません。しかし、箱舟の規模を考えてみれば、数か月、あるいは数年で作れるものではないことがわかります。したがって、ノアが箱舟を作っている長い間、世の人たちはノアをせせら笑ってあざけりました。


彼らの目には、ノアのしていることが全く理解できないから、彼を愚かだとからかったりもしました。皆さんがもしこのような状況に置かれているなら、どうでしょうか? 焦りを感じて、不安で、神のことばについて疑いが生じるのではないでしょうか?

ところが、ノアは全くそうではありませんでした。数年、数十年経った後も、ノアはみことばを疑いませんでした。「きょうか、明日か」と焦ったりもしませんでした。ただみことばが成就されるその日まで、黙々と箱舟づくりを続けたのです。

これが完全な従順の姿勢です。みことばが成就されるのが遅いようでも、一度仰せられたことを最後まで信じて、変わらずに聞き従う行いを見せなければならないのです。すると、神が最も正確な時に合わせて、約束されたみことばを必ず成し遂げてくださいます。

[第二ペテロ3:9]にも「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。

ところが、ある人たちは、みことばがすぐ実現されなければ疑います。恵みに満たされなくなって、試みにあったりもします。ノアはどんな状況でも焦らなかったし、堅い信仰で長い間忍耐をもって聞き従いました。ノアがこのようにできたのは、神と明らかに交わっていたからです。なぜ神は大洪水でさばこうとされるのか、自分と家族は救い出されて、将来どう生き続けていくようになるのかも知っていました。

一方、さばきの日が時々刻々と近づいていたので、ノアは洪水で滅びる人たちのことで、いつもいても立ってもいられませんでした。箱舟が完成されるとすぐ洪水が迫ってくるだろうに、これを知ることも信じることもしないで、相変わらず罪と悪の中に生きている、数えきれない人の姿がノアの心を痛めたのです。

それで、ノアは熱心に叫びました。しかし、いくら叫んでも耳を傾ける人はいませんでした。こんな時にノアが神に告白した内容を、父なる神様が御霊に感じているうちに私に教えてくださいました。その内容の一部をご紹介します。

洪水で滅びる魂の為にもどかしく叫びながら神に捧げたノアの告白


「父よ。今作っているこの箱舟のことで、その日が迫っているのを感じていますが、この箱舟のことでうれしいのでなく、かえってもどかしく、ひどくもどかしいばかりです。
私は怠けていなかったし、時に合わせて父のおことばどおりすべてを作っていったし、
また、すべての分野において夜も昼も忠実でしたが、こんなふうに一つ作られ、一つ完成されればされるほど、その日が迫っているので、もどかしいばかりです。

私は父の命じられたとおりにそのすべてを守るために心に留めて、一つ一つ作り上げてきたので、日が経つほど箱舟の形が現れて、正確に準備ができていくほど、世の人たちを見ると、あまりにもあまりにももどかしいだけです。

これは父のお心を私が知っているからです。
彼らに伝えたとしても彼らが聞き入れないし、彼らに話しても聞けないからです。
彼らは耳があっても聞けず、目があっても見られず、まことにどこから来てどこに行くのか知らずに日々を送っているので、もどかしいばかりです。

ついに父の命令に従ってここに私と家族が入り、父の仰せられたとおりに定められたものが入るようになりました。世にいる彼らはどうなるだろうかと思えば、彼らへのもどかしさがさらにつのるばかりです。しかし、こんなにもどかしく思っても、どうして父のお心と同じになれて、父のお心を推し量れるでしょうか。

私はまことに父のおことばに従って、私のすべてを捨てることができました。
父のお心を全部推し量れず、わからないとしても、なぜ父が箱舟を私に作りなさいと言われて、私に一つ一つ成就されるのか、私は感じています。
しかし、私の心がこんなにもどかしいのは、その日が迫っているのを感じるからです。
彼らへの私のこのもどかしい心を、父よ、わかってくださいますように。

父よ、どうしましょう。
彼らは父を知らないし、見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かずにいます。
父のご計画のうちにこのようにすべてが明らかにされているのに、彼らが感じられないから、どうして彼らを立ち返らせることができるでしょうか。

父よ、しかし、この息子は父が命じられるその日まで最善を尽くしますので、すべてが父のみこころに従ってなされるでありましょう。この息子が一つも間違いなく正確に作り上げられるように、いつも心に働きかけて導いてください。

終わりの時、父なる神様が解き明かされた「十字架のことば」


ノアのもどかしい心が感じられるでしょうか? 父なる神様の心に似せられた正しい人ノアは、それだけ愛と憐れみの心を持っていました。父なる神様が魂をご覧になってもどかしく思われ、心痛まれるのを、ノアもともに感じていたのです。皆さんも、心を御霊に属する心に変えるほど、魂を愛する心が大きくなります。この終わりの時はノアの時よりひどい状況です。

イエス様も[マタイ24:37-39]で、次のように言われています。「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」

父なる神様はひとりでも多く救いたいと願われて、霊的に「ノアの箱舟」のようなみことば、すなわち「十字架のことば」を明らかに解き明かしてくださいました。ノアの箱舟が神を信じない人たちには愚かなことに見えたように、[ 第一コリント1:18前半節]「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、」とあります。しかし、続く後半節に「救いを受ける私たちには、神の力です。」とあります。

ですから、私たちはノアのような心で、この時代を生きている人たちに「十字架のことば」を一生懸命に伝えなければなりません。このみことばがまことであることを確かにする神の力あるわざとともに、叫びに叫ばなければなりません。ひとりでも多く救おうとされる神様の終わりの時の摂理を、皆さんがともに実現してくださいますように、主の御名によってお願いします。
 

朝の学び59 創世記6章  11

創世記6:19-22

またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。』ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

ノアは「すべて【主】が命じられたとおりにした。」


ノアは神に、大洪水のさばきから救われるという契約をいただきました。ところが、もしノアが「私は神が救ってくださると約束されたから」と言って、箱舟を作らなかったとすれば、はたして大洪水の中から救われたでしょうか?

神の契約がなされるまで、必ず自分のほうでもすべきことがあります。ノアは「すべて【主】が命じられたとおりにした。」ので、契約を確かなものとすることができました。

 

[出エジプト20:6]で、神は「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」と言われました。私たちが神を愛して、望まれるみこころのとおりにだけ行うなら、父なる神はあまりにも信実に約束を守ってくださいます。その人にだけ恵みと祝福を与えられるのではなく、千代にまで施してくださいます。


このようにすばらしい父なる神を、皆さんは心から愛しますように。それで、皆さんと皆さんの家族にも豊かな恵みと祝福が臨みますよう、主の御名によって祈ります。

父なる神は大洪水のさばきを行おうと決定された後、ノアに箱舟の様式を教えてくださいました。そして、箱舟に連れて入り、生き残るようにする生き物について言ってくださったのです。


神はすべての生き物の雄と雌二匹ずつを箱舟に連れて入るようにされた。


本文[19-20節]に「またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。」とあります。これは「種族保存」という意味で、基本的にすべての生き物の雄と雌二匹ずつを箱舟に連れて入るようにされたのです。

ところが、[創世記7:2-3]には「あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。」とあります。

ここでは、神が特定の動物を指名して、生き残るようにするための雄と雌一つがいの他に、雄と雌七つがいずつ、または雄と雌一つがいずつ取るようにされました。これは生き残るようにする他に、何かの目的がありました。その目的が何かは、この本文を講解するとき、説明いたします。きょう伝えるのは、ノアがどのようにその多くの種類の生き物を箱舟に連れて入ったのかということです。


どのようにして多くの種類の生き物を箱舟に連れて入ったのか?


百科事典によれば、現存する動物―哺乳類、両棲類、は虫類、鳥類―の種類は約29,400種です。洪水以前に生きていた種類がこれと全く同じではなかったとしても、その数が非常に多かっただろうと推察はできます。

それでは、ノアと彼の息子たちは、どのようにこの多くの種類の生き物をもれなく箱舟に連れて入ったのでしょうか? 彼らが歩き回って、すべての種類の生き物をいちいち連れてきたのでしょうか? そうではありません。もちろん、当時の生き物は今よりおとなしくて、連れてこようとすれば、簡単に捕まりました。だからといって、その数多くの種類の生き物をいちいち捕まえて箱舟に連れて入ることは、まことに容易なことではありません。

それでは、はたしてどのようにすべての生き物を、どの種類も雄と雌一つがいずつ、または七つがいずつ箱舟の中に連れて入ったのでしょうか? これはまさに、神の初めの声が発せられたので可能でした。創造主なる神が初めの声を発せられると、「選ばれた生き物」がその声に聞き従って、自ら箱舟のほうにやって来きました。ここで「選ばれた生き物」とは、同じ種類の中で悪い性質が少ないもののことです。

たとえば、「ライオン」の中でも、乱暴な性質を持っているものがいるかと思えば、比較的おとなしい性質を持っているものもいます。この時、おとなしいほうのライオン一つがいに、初めの声を聞くようにされ、そのライオンが箱舟のほうに来たのです。これがどうやって可能なのか理解するには、神の創造のみわざから知らなければなりません。
 


父なる神はすべての被造物を「ことば」によって創造されました。この時「ことば」を発せられたその声がまさに「初めの声」です。[創世記1:3]「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とあります。神が「光があれ。」と創造の初めの声を発せられると、そのとおりに光が創造されたのです。

このように、すべての被造物は初めの声によって創造されたので、創造主なる神の初めの声に反応します。生物はもちろん、無生物でも神の初めの声がわかって、その声に聞き従うのです。初めの声に自動的に反応するように造られているのです。

たとえを挙げれば、「音声認識装置」がある機械があります。これは、門を開けたり、機械を作動させる時に、あらかじめ入力しておいた特定の人の声にだけ反応する装置です。
このように、すべての被造物は初めの声によって創造されたので、初めの声には本能的に従うようになります。まさにノア時代、箱舟のほうに来た生き物も、神の初めの声を聞いて、それに聞き従ったのです。


創造の初めの光


この時、重要なもう一つの事実があります。初めに神が宇宙空間にひとりでおられた時は、光の中に声を帯びておられました。この時の光がまさに創造の初めの光であり、この時の声がまさに創造の初めの声です。この光の中には、あらゆる霊の知識と知恵と力が込められていますが、これらが声を通して発せられるのです。ですから、初めの光と声は結局一つであり、いつも一緒に存在します。初めの光から初めの声が発せられるので、初めの声が発せられる所には、初めの光も臨むようになります。

ところで、神はすべての被造物を創造されるために初めの声を発せられたとき、まず初めの光を取り巻かれました。したがって、すべての被造物は初めの声と一緒に、初めの光も覚えています。つまり、初めの声と一緒に初めの光も入力されたのです。

[ローマ1:20]「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。ここで「被造物によって知られる神の永遠の力と神性」がまさに「初めの光」を指しています。創造のみわざの過程で、神が初めの声を発せられた時に、被造物に入力された初めの光です。

このようにすべての被造物は、初めの光が取り巻かれている中で、初めの声によって創造されました。したがって、創造の時と同じ条件になれば、初めの声に100%聞き従うようになります。

ところで、大洪水の前までは、天地創造の時の、初めの光がまだ地球を取り巻いていました。もちろん、アダムがこの地上に定着した後、人口が増えながら、世がますます罪と悪がはびこるにつれて、初めの光もだんだん取り込まれていきました。それでも大洪水の前までは、初めの光がある程度残っていました。それで、神が選ばれた生き物に初めの声を発せられると、100%従ったのです。

しかし、大洪水が始まる時に、初めの光が取り込まれました。たとえば、床にワックスを厚く塗れば、初めはとても輝きます。ところが、時間が経つにつれて、人々が頻繁に行き来しながら、ワックスが少しずつはがれていきます。ついにはワックスが完全に剥がれてしまって、ただの床が現われるのが見られます。このように、初めの光がこの地上を取り巻いていたが、人々の罪と悪がより増すことによって、その光がかすかになったのです。

その結果、この地上に多くの変化がありました。これについては、大洪水が終わる部分で説明いたします。この時間、皆さんが覚えておくことは、大洪水の前は、それでも初めの光がこの地上を取り巻いていたので、神が初めの声を発せられたとき、被造物が100%聞き従ったということです。言いかえれば、神が生き残らせようと選ばれた生き物は、本能的に初めの声に引かれて、箱舟に来るようになったのです。


主イエスも「初めの声」を発せられた。


私たちの主イエス様も「初めの声」を発せられました。イエス様は神の御姿であられます。また、父なる神が創造のみわざを施されたとき、御子の神、すなわち、イエス様もともにおられました。
これについて、
[ヨハネ1:2-3]には「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。それで、四つの福音書のあちこちに、イエス様のおことばに被造物が従う場面があるのです。

たとえば、[ルカ8:24]「イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も収まり、なぎになった。」とあります。私たちのイエス様が創造の初めの声で命じられると、無生物である風と波もその声がわかって、直ちに従ったのです。

[マタイ17章]には、ガリラヤ湖の魚が従った記述があります。イエス様がペテロに、宮の納入金を用意する方法を次のように言われました。[27節]に「しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」とあります。その結果、どうなったでしょうか? イエス様の口からおことばが発せられるやいなや、ガリラヤ湖の魚が従って、湖の中に落ちたスタテルを口にくわえて釣られる準備をしたでしょう。

この他にも、イエス様が初めの声によって病人を直されたこともありました。[マタイ8章]ではある百人隊長のしもべの中風をおことばで命じて直し、[マタイ15章]では、スロ・フェニキヤの女の悪霊に取りつかれていた娘も、ただおことばによって直してくださったのです。

初めの声のみわざは、このように直ちに、また、時間と空間を超えて現れます。[詩篇19:4前半節]に「しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」とあります。また、[イザヤ55:11]には「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とあります。

神は今日も、みこころにかなう人に初めの声のみわざを施されることを望んでおられます。百人隊長とスロ・フェニキヤの女のように、真実の信仰を持った人は、こういう初めの声のみわざが体験できます。人の思いではできないことができて、無から有が創造されるのと似た再創造のみわざも起きます。皆さんも真実の信仰によって、初めの声のみわざが体験できますように。病気のいやしのようなさまざまな問題の解決も、初めの声によってなされるのです。

ところで、御霊の歩みを慕っている皆さんは、何よりも初めの声によって、自分の心が新しく変えられることを慕っていると信じます。初めの声によって、悪の苦い根が引き抜かれて、義が曲げられ、固い枠も溶かされます。

したがって、皆さんが信仰の岩の上に立って、御霊の歩みに入ってくることをまことに慕うなら、まずは百人隊長とスロ・フェニキヤの女のように、へりくだった心になりますように。これとともに、最後まであきらめないで信仰によって祈り求めますように。それで、急速な霊の流れの中で、多くの方が御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされますよう、主の御名によって祈ります。


ノアが体験した「アドナイ・イルエ」のみわざ


本文[21、22節]をご覧になると「『あなたは、食べられるあらゆる食糧を取って、自分のところに集め、あなたとそれらの動物の食物としなさい。』ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。

父なる神はノアに生き残らせる動物を箱舟に連れて入るように言われた後、食糧も取って集めるように言われました。この時、ノアは将来洪水がどれほど続くのか、箱舟の中にどれほど住まなければならないかを正確に知りませんでした。箱舟に入る動物は計何匹なのか、彼らが食べる食糧をどれほど準備しなければならないのかも知らなかったのです。

しかし、神のおことばに聞き従いました。いちいちその数を数えて、日にちを計算して、食糧を準備したのではありません。箱舟を造る時も、どこに造るべきか、どのくらい速く進めるべきか、勝手に決めなかったのです。ひたすら父なる神と交わりながら、心に働きかけられたとおり準備していきました。

肉の思いを働かせるなら「ノアはどうやってその多くの食糧を準備して、集められたのだろうか」といぶかしく思うこともあります。とうてい答えが出ないからです。このように、肉の思いは肉の限界の中にだけとどまるから、限界がない神のみわざを理解しにくいのです。

ノアは肉の思いを働かせずに、神が食糧を取って集めなさいと言われれば取って集め、箱舟を造りなさいと言われれば造りました。言われたとおり聞き従おうとする心だったので、すべてが栄えて「アドナイ・イルエ」のみわざを体験しました。父なる神がすべてを働かせて益としてくださるので、箱舟を造る過程が難しくなかったのです。それで、本文[22節]にあるように、ノアはすべて神が命じられたとおりにし、そのように行うことができたのです。


父と交わり、父なる神の全知全能なることを信じたノア


一方、私たちは当時の文明が非常に発達していたことを知らなければなりません。当時の人々の暮らしは原始的ではありませんでした。相当な水準の知識と知恵を持っていたのです。今日で言えば、物理、数学のような知識が相当な水準に達していました。それで、現代的な機械のようではなくても、巨大な箱舟を十分に造れる機械や装置がありました。

だからといって、ノアがこのような知識と知恵があったので従えたという意味ではありません。ノアは自分の知恵を信じて「アーメン、そうします」と言ったのではないのです。父なる神の全知全能なることを信じたので、その方に完全に頼ろうという心で「アーメン」と言ったのです。

ノアが箱舟を完成するまで1か月、2か月かかったのではありません。長い時間がかかりました。それでもノアは自分のほうからあせって、きょうか明日かを考えなかったし、父なる神が導かれるとおり、つかさどられたとおり、従うだけでした。

ふつう人々は約束をもらってから、いつかなえられるかを待って、1年過ぎて、2年過ぎれば「かなえられないんだ」と失望します。しかし、ノアはそうではありませんでした。いつも父なる神と交わっていたので、父が行われると信じました。父が言われたことは必ずそのとおりに成就されることを信じたのです。ですから、すべての準備と実行が可能になり、長い歳月を忍耐して送れたのです。

神は聞き従おうとする人には、詳しいことまでつかさどって導いてくださいます。ですから、従う人も幸せで、父なる神も喜ばれます。しかし、従う心になっていない人は、祝福を手に握らせても、結局、自分の心のままに進んでいき、困難にあうことが見られます。

たとえば、ある人は事業をするとき、自分の知識と経験と計算をもって、すべての計画を立てておきます。そして、神の御前に出てきて「私の道を導いてください」と祈ります。こういう人は、神がその道を導こうとされても、結局は自分の心に決めたとおりに進んでいきます。神が導こうとされる道が自分の知識と思いには合わないから、ただ自分が見てより良い道に行ってしまうのです。

また、こういう場合もあります。神のことばを自分の都合に合わせて解いて、とんでもない道に行きながら、自分はみことばに従っていると思うこともあります。神のみこころが何か明白に教えても、うなずこうとしないで、かえって自分の意見と意図を相手に納得させようとします。

こういう場合はどうなるでしょうか? 悟るように何度か話をしますが、ほとんどが自分の思ったとおり行うのです。

自分のはかりごとや思弁、知識の枠がなければ、みことばに従うことがあまりにもやさしいです。しかし、こういう「自分」にこだわっていれば、従うのが難しいです。本人は従っていると言いますが、不従順になったり、従っていないのに、自分では悟れないこともあります。
 

朝の学び58 創世記6章  10

創世記6:18-20
しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつ箱舟に連れて入り、あなたといっしょに生き残るようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。また、各種類の鳥、各種類の動物、各種類の地をはうものすべてのうち、それぞれ二匹ずつが、生き残るために、あなたのところに来なければならない。

神は契約を公義によって履行される。


前回に続けて、本文<18節>を説明します。神は「ノアと彼の家族を大洪水のさばきから救って、彼らを用いて人間耕作の歴史を新しく作っていく」と契約を結ばれました。神は契約を公義に従って履行されるので、その契約をいただいたほうでもふさわしい公義を満たすとき、その効力が発揮されます。

前回は、エジプトから出たイスラエルの民をその例として説明しました。神はモーセを通して彼らにカナンの地を与えると約束されましたが、エジプトから出た第一世代はその約束を信じなかったのです。それで、ヨシュアとカレブを除いて、その世代はカナンの地に入れなかったのです。

一方、エジプトから出た第二世代は、神のことばを完全に信じたのでカナンの地に入れました。このように父なる神様は約束すれば守る信実な方です。ところが、約束をいただいたほうからも完全に信じて、最後まで祈るとき、約束が実現されることを知らなければなりません。


神の力を授かる祈りを受けた方々の場合


これは神の力を授かる祈りを受けた方々も同じです。御霊の歩みに入った人には力が臨んで、全く聖なるものとされれば、さらに権威が臨みます。これは聖書に基づいて申し上げたことです。

<マルコ9:23後半節>で、イエス様は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。また、<マルコ16:17-18>を見れば「信じる人々には次のようなしるしが伴います。」とあり、いろいろなしるしの事例があります。

聖書にはただ「信じる人々」と表現されたが、私たちは信仰にも量りがあることを知っています。力を授かるためには御霊の歩みに入って信仰の四段階にならなければならないし、それに権威が伴うためには、全く聖なるものとされて信仰の五段階に至らなければなりません。

ところが、御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされたからといって、神の力がただ与えられるのではありません。父なる神にこのような力を授かるまで、切に求めなければなりません。御霊の歩みに入って、全く聖なるものとされた人は、父をこの上なく愛するので、父の望まれることをさせていただきたいと思います。

そして、父が望まれることは多くの魂が救われることです。このために熱心に働くと、父なる神により大きい力を授からなければならないことをはっきりと感じるようになります。人の心を変えさせることが決して人の力と知恵ではできないことを悟るからです。このように、父なる神への愛と魂への愛のゆえ、力を授かることを切に求める人は、結局授かることができます。


「霊的な力と権威」


「力」の霊的な定義は「人としてはできないけれど、神にはおできになること」です。「力」を授かるなら、できないことはなくなって、神のみこころにあっては、どんなことでもできるようになります。このような力を授かるには、御霊の歩みに入ってきたとしても、火のような祈りを無数に積まなければなりません。ましてそれより一次元高く、権威が伴うためには、どれほど多くの祈りを積まなければならないでしょうか。

ここで「権威」とは「神が定められた厳威があって栄えある力であり、神の秩序に従って上からの神の命令」のことです。この霊的な権威は鋭い刃物に比べられます。鋭い刃物を子どもたちに与えられないように、霊的な権威も誰にでも与えることはおできになりません。神は、心から悪を捨てて聖められた人に、善と愛を満たしただけ権威を授けてくださいます。

力と権威の違いが理解できるように、たとえを挙げましょう。年とったお父さんとがっしりした息子がいると、息子はお父さんより力も強くて賢いです。たとえば力だけを見るなら、息子のほうが大きいです。しかし、権威はどちらのほうが大きいでしょうか? 息子はお父さんの言葉に従うべきなので、お父さんのほうが大きいと言えます。

また、他の例を挙げましょう。昔、王政時代に、大国の使節が王の命令を持って属国に行けば、王のような待遇を受けました。「使節」自身が持っている権威でそうなるのではなく、王の権威を持って代わりに行ったからです。ただし、王が使節を選んで遣わす時は、誰でも遣わすのではありません。それほどの資格を備えた人を選びます。

神が誰かに霊的な権威を授ける時も同じです。ふさわしい資格を持った人に授けてくださるのです。すると、権威の伴う力が現れるようになります。
<詩篇62:11>にあるように、この「力」は神のものです。すなわち、御父・御子・御霊、三位一体の神がこの力と権威を持っておられます。ですから、公義に照らしてふさわしい資格を備えた人に、ご自分の力を授けてくださるのです。

参考までに、聖められていなくても、病原菌による病気を治すわざを行う人がいます。これは神と魂を愛して、火のような祈りを無数に積んだ人に、神がいやしの賜物を与えられたものです。また、切なる愛の祈りによって、神が憐れみを施される時もあります。たとえば、主のしもべに力があるのではないが、聖徒が切に信仰によって祈りを依頼する場合、神はその聖徒の純粋な信仰をご覧になって働いてくださることもあります。このような場合は、神のものである「力」とは次元が違うことを知っておかれますように。

 


イエス様が12弟子に授けられた「霊的な力と権威」

 

「力は神のもの」と言いました。それで、私たちのイエス様も、弟子たちが権威を持って力を行えるように、分け与えられたことが見られます。<マタイ10:1>「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。

<ルカ6:12>には、この出来事は、イエス様が山で夜を明かして祈って帰って来られた後のことだと書いてあります。イエス様はご自分の代わりに神の力を行う十二の弟子を選ぶために、まず父に祈りを積まれたのです。その当時、弟子たちは自分では神の力を行える資格を備えていませんでした。イエス様に信頼してつき従っただけです。ですから、イエス様が代わりに祈って、父の御前に公義を積まれたのです。

その結果、<ルカ9:6>「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」とあります。また、<マルコ6:12-13>には「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」とあります。弟子たちもイエス様のように悪霊を追い出して、病人をいやすことができたのです。これは弟子たちが自分で神の力を行ったのでなく、イエス様が分け与えられた力を行ったのです。

それでもその十二人が弟子として選ばれた理由、代わりに神の力を行えた理由があります。ただ一つ、イエス様に信頼するので、自分の人生を後にしてイエス様に従ったということです。もちろん、その中のひとりイスカリオテ・ユダは、神の摂理にあって選ばれたのです。

 


使徒たちによって行われた不思議としるし


弟子たちがイエス様の公生涯の期間に、ただイエス様とともにいるから神の力を行ったなら、主が復活、昇天された後はどうなったでしょうか?
<マルコ16:20>「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。

また、<使徒の働き2:43>には、使徒たちによって不思議としるしが行われた、とあります。この時も、もちろん主が霊として弟子たちとともにおられましたが、弟子たちも信仰が以前よりずいぶん成長しました。よみがえられた主に会ったので、死を恐れないまことの信仰を持つようになったのです。そのような信仰を持って、イエス・キリストの御名によって祈り、不思議としるしを行えました。

もちろん十二人みなが神の力を行ったのではありません。イエス様が十二弟子を選ばれたとき、彼ら全部に神の力を授けたとしても、公義に従ってふさわしい資格を備えただけ、まことの所有者になったのです。
 

朝の学び57 創世記6章  9

箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。                      創世記6:16-18

神はノアの箱舟の材料と大きさと構造まで教えられましたが、これにはみな霊的な意味が含まれています。まさにノアと彼の子孫がこれからどのように生きるべきか、洪水のさばきを通して何を悟って心に留めるべきか、箱舟のあちこちに意味を込めてくださったのです。

 


箱舟に戸口と天窓を作るようにされた父なる神のみこころ


前回に次いで[16節]から見ましょう。「箱舟に天窓を作り、上部から一キュビト以内にそれを仕上げなさい。また、箱舟の戸口をその側面に設け、一階と二階と三階にそれを作りなさい。」

神は箱舟に天窓も作り、戸口も作るように命じられました。洪水のさばきが終われば、ノアの子孫で人類歴史の系図が新しく始まります。生んで増えて地に満ちるようになるでしょう。こうなる時に、箱舟に天窓と戸口を作ったように、ノアの子孫が世に向かって戸口をあけなければならないことを言われたのです。神を信じるからといっても、世に向かった戸口を堅く閉じるのでなく、反対にパッと開かなければならないのです。

ただし、世と混ざってはいけません。「箱舟の内と外とを木のやにで塗りなさい。」というみことばにも、このような意味が含まれていました。世と徹底的に聖別されて、染まってはいけませんが、世に向かって窓と戸口をあけて、霊的な光と塩の役割をしなければなりません。罪と悪が増大している暗い世を捨てるのでなく、積極的に霊的な光を照らし、闇を退けなければならないのです。不正、腐敗があふれている所では、塩のように浄化させる役割をしなければなりません。

教会と聖徒は世と聖別されるべきだからといって、世を捨てれば福音は誰が伝えるのでしょうか。伝道しなければ、神の国はどう広げるのでしょうか。ですから、私たちは使徒パウロが持った心構えと姿勢を見習う必要があります。

[第一コリント9:19-22]で、使徒パウロは「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」と言いました。

使徒パウロはひとりでも多くの人を救おうと、このように各人に合う姿で近づき、福音を伝えました。自分が伝える福音が良いものだからといって、強圧的な姿勢を取ったのではありませんでした。福音がそれぞれの人に自然に入るように、各人の状態と立場をまず理解しました。皆さんも、このようなやり方で世の光になりますように。

イエス様は[マタイ5:14]「あなたがたは、世界の光です。」と言われました。これは、教会だけで光を放つのでなく、世でも光にならなければならないという意味です。教会の中では良い言葉と行いを見せて、家に帰っては、そして職場に行っては、世の人のようにしてはいけません。

自分のからだを溶かしながら光を照らすロウソクは、どこででも光を放ちます。光の役割をする皆さんもそうです。教会で光を放つなら、家庭でも光が消えません。

イエス様は[マタイ5:16]で、私たちが世の光になる方法も教えてくださいました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と言われたのです。
皆さんが見せる「良い行い」が、すなわち、世を照らす光という意味です。皆さんが世の人はまねできない良い行いを見せるなら、「やっぱり教会に通っている人は違うなあ」と認められるようになります。結果的に、父なる神があがめられるようになります。これがまさに箱舟に戸口と天窓を作るようにされた父なる神のみこころです。


箱舟を「一階と二階と三階」に作るようにされた霊的な意味


次に、箱舟を「一階と二階と三階」に作るようにされたところに込められた霊的な意味を説明します。これは、三位一体の神をいつも心に留めて、その中から離れないようにという意味です。

これとともに、人間耕作の歴史が大きく三つに分けられることを表します。まずは、父なる神ご自身が働かれる、神である【主】の時代です。次に、イエス様がこの地上に救い主として来られて働かれる主の時代です。最後に、聖霊の時代です。主が復活、昇天された後から、人間耕作が締めくくられる時までの期間です。洪水のさばきで人間耕作の転換点を迎えるこの時に、神は箱舟の構造を通して、歴史をつかさどる方は三位一体の神であることを確かに表してくださったのです。

再び洪水の裁きの宣告

父なる神はノアに箱舟の様式を教えてくださった後、洪水でさばかれることをもう一度明らかにされます。本文[17節]「わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。」と言われたのです。これは将来、洪水がどのように起こるのかをもう一度説明されているのです。

神はこの洪水のさばきによって「いのちの息あるすべての肉なるもの」を天の下から滅ぼすと言われました。ここで「いのちの息あるすべての肉なるもの」には、ノアの家族八人を除いたすべての人と水に生きる動物を除いた、すべての陸地の動物と鳥まで含まれます。

神がなぜ人とともに動物まで洪水で滅ぼされるのかについては、この前すでに説明しました。当時、地の動物と空の鳥が人間の堕落と密接な関係があったからだと言いました。まさに人々が動物のかたちに似た偶像を作って拝むことが多かったからです

[ローマ1:23]「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」とあるとおりでした。こんな理由とともに、動物と鳥が人に支配される存在、すなわち、人に属するものなので、人とともに滅ぼされたのです。簡単に言って、連帯責任を問われたのです。

大洪水によって地球上に起こった地形の変化


ところで、この一節で「地上の大水、大洪水を起こそうとしている」と表現されたところに注目しなければなりません。これは単に、当時この地上で暮らしていた人々と動物をみな滅ぼすという意味だけではありません。人が生きていた生活の基盤そのものを全く滅ぼすという意味が含まれています。当時、大洪水によってこの地上にどれほど途方もない変化があったか、想像できるみことばです

実際、当時、洪水のさばきが、コップに水を注げば水面がだんだん高くなるように、地球が徐々に水に浸かるばかりだったのではありません。地球には洪水によって途方もない地殻変動が起きました。その結果、洪水の後の地球はその前とは全然違う環境になりました。地形も完全に変わって、気候も変わりました。生態系の環境も大いに変わりました。洪水によって地形がどう変わるのか、もう少し説明いたします。

[創世記7:24]「水は、百五十日間、地の上にふえ続けた。」とあります。雨が降った期間は40日でしたが、地球全体が完全に水に浸かっていた期間は150日です。この水が全部引いて、地が固まるまでには、もう150日以上かかりました。全地球が150日間、完全に水に浸かったら、どんな現象が起きるでしょうか?

地球の表面が穏やかな湖のように静かだったでしょうか? 違います。地球は太陽と月の間にはさまれていて、互いに引き合う力、すなわち、引力が働きます。太陽と月が地球を引き寄せる力によって、地球を覆った水が両側に膨らむようになります。これに地球が一日に一回、回ります。 地球は回るのに、引力によって水は引っ張られているから、水が地球をさらいながら回るようになります。このように地球を回る水は、山のように高い地帯を崩します。

そして、崩した土を寄せていって、低く広いところに来れば、ずっと積み上げておきます。この現象が5か月間、全地球に起きました。その結果、洪水以前に地球にあった文明がほとんど破壊されてしまったのです。そして、水が引いて、以前と違う新しい地形が形成されました。まさにこれが、人々の生活の基盤そのものを全部滅ぼすということです。

 


神はノアと「契約」を結ぶ


続く本文[18節]で、神はノアに「しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」と言われました。

ここで神が言われた「契約」とは「ノアと彼の家族を洪水のさばきから救われて、彼らを通して人間耕作の歴史を新しく作っていく」ということです。神はこれを「わたしは、あなたと契約を結ぼう。」と言われ、その摂理のうちに計画されたことを必ず成し遂げるという強い意志を明らかにされたのです。

神がご自身の名によって結ばれた契約は、どんなことがあっても最後まで成し遂げられます。[民数記23:19]「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」とあるとおりです。

また、神は[イザヤ55:11]でも「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言われました。


すべてを公義に従って成し遂げられる神


かといって、神は言われたとおり成し遂げられるために、絶対的な権力を振り回す方ではありません。すべてを公義に従って成し遂げられます。サタンが訴えることができないように、公義を積んでいかれます。計画されたことを成し遂げるためにあらかじめ備えて、状況と環境をつかさどられるのです。

神は、大洪水のさばきからノアとその家族を救うためにも、はるか前から働いておられました。ノアの先祖が代々神の恵みをいただくようにして、神を恐れる者になるようにされました。ノアは先祖から神への信仰を受け継ぎました。ノア自身も神を恐れて、罪と悪がはびこっている世と聖別された生き方をしました。

ノアの妻と子どもたちとその妻たちも同じです。誰でもノアの家族だからといって救われたのではありません。彼らが自らノアの教えに耳を傾けて、ノアが伝える神のみこころに従いました。その結果、彼らも大洪水のさばきから救われる信仰を持てたのです。それで、神はノアと契約を結ぶことがおできになりました。このように、神がある契約を結ばれると、その相手のほうからもそれにふさわしい公義を満たすとき、契約の効力が発揮されるのです。

たとえば、エジプトから出たイスラエルの民を考えてみてください。神は、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民を連れ出して、カナンの地に入れると約束されました。ところが、結局カナンの地に入った者はエジプトから出た者の第二世代でした。直接神の約束をいただいた第一世代の中からは、ヨシュアとカレブだけがカナンの地に入りました。

それなら、神が約束を破られたのでしょうか? そうではありません。神は約束を信実に守られました。反対に、エジプトから出た第一世代のほとんどは、神の約束が信じられなくて疑いました。現実的に困難がやって来ると、むしろ神を恨んでつぶやきました。しかし、ヨシュアとカレブだけは最後まで神の約束を信じました。

これについて[民数記32:11、12]「『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは【主】に従い通したからである。』」とあります。

結局、カレブは初めのカナン偵察の時に見てきたヘブロン山地を得て、世々代々そこを相続の地としました。このように、変わらない信仰が神の約束を実現させる公義を満たすのです。


もちろんモーセも神の約束を疑わなかったけれど、彼は指導者としての責任を負わなければならなかったのです。民をカナンの地のすぐ前まで導いて、自分の使命をみな終えたとき、カナンの地よりはるかに良い安息の場所である天国に入るようになりました。

[エゼキエル36:36-37]でも、神はイスラエルの民に「あなたがたの回りに残された諸国の民も、【主】であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。【主】であるわたしがこれを語り、これを行う。神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。」と言われました。


父なる神が言われたなら、そのおことばを必ず成し遂げられます。それでも私たちのほうから、その通りに成し遂げてくださるように求めなければなりません。
 

朝の学び56 創世記6章 8

「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。」
創世記6:14-15

 

アダムがこの地上に定着してから約1,600年経ったとき、この世にはすでに罪と悪が増大していました。公義によってはこれ以上赦されることができなくなると、神は結局、さばきの判決を下されました。その方法を「大洪水」と決めて、ノアに洪水に備えて箱舟を造るようにされました。箱舟の様式と製作方法を神ご自身が教えてくださいました。きょうの本文にその内容があります。

神は箱舟の材料と大きさと構造まで教えられましたが、これにはみな霊的な意味が含まれています。まさにノアと彼の子孫が今後どのように生きるべきか、洪水のさばきを通して何を悟って心に留めなければならないか、箱舟のあちこちに意味をこめてくださったのです。

箱舟の霊的意味


まず[6:14前半節]「あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」とあります。ここで「箱舟」とは、霊的に「神のことば」を表しています。ノアと彼の家族は神のことばに聞き従って、箱舟を造ってその中に入ったので、洪水のさばきを免れて救われました。

このように、私たちも神のことばの中にとどまってこそ、救われることができます。神は救いの道と罪の赦しの基準を、聖書に正確に提示しておかれました。神がこのように定めておかれた法に従って、各人の救いの有無が決定されます。

たとえば、[ヨハネ3:18]「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とあります。また、[マタイ7:21]では、私たちのイエス様が「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と言われました。

この他にも、神のことばである聖書には、どうすれば救われるのかについて、具体的な内容が記されています。みことばどおり生きた人は天国、そうでない人は地獄に行くようになります。ノアの箱舟に入れなかった人はみな洪水のさばきのとき死んだように、誰でも神が定められた救いの道から外れた時は、永遠に死の刑罰を受けるようになります。

救われない罪、死に至る罪について、救いの箱舟のような役割をするこのようなみことばを必ずよく理解して、心に刻んでおきますように。それで、自分が救いの箱舟の中にいるのか、外にいるかを見分けなければならないし、箱舟の中に入ってきたあと、また外に出て行くこともあってはなりません。皆さんが天国に至る時まで、信仰によって期待するその望みをしっかりつかんでいるようお願いします。

「ゴフェルの木」の霊的意味


神は箱舟の材料を「ゴフェルの木」と指定してくださいました。これにも霊的な意味が含まれています。まずゴフェルの木の特徴を説明いたします。これは松の木の一種です。この木は常緑針葉高木であり、高さは最高30メートルまで、太さは1メートルまで育ちます。根を深く下ろして、幹がまっすぐに育つ特性を持っています。

木の材質は強くて堅く、この種類の木材は、家を建てる時に、柱や垂木のような構造材として使われます。家具を作る時も、家具の基本形を維持する構造材として利用されるのです。この他にも、堅い特性ゆえに土木材、船舶材としても使われるのです。また、この木材はやにを含んでいて、加工は難しいけれど、かえってこのために強度が大きいのです。

神はこのような特性を持ったゴフェルの木を箱舟の材料とするようにされました。ノアの箱舟は大洪水の中で激しい波に耐えなければなりません。山のような大波が来てぶつかってもつぶれないほど、堅くて丈夫でなければなりません。それで、神は強くて堅いこの木を使って箱舟を造りなさいと言われたのです。

私たち人の子らも、険しい世の波をかき分けて、天国まで安全にたどりつくためには、霊的にこの木のような性質が必要です。まっすぐで堅いゴフェルの木のように、まっすぐな心を持ち、どんな困難にも移り変わることがあってはなりません。

[第一ペテロ4:12]「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、」とあります。皆さんがこの世で信仰を守ろうとすると、時には火のような試練にあうこともあります。

たとえば、家庭が福音化されていなかったなら、先祖を祭るとき、手を合わせないという理由で家族から迫害されたりもします。職場では、上司がすすめる酒を遠慮すると、わけもなく割に合わないことにあうこともあります。皆さんは神を信じるから光の中を歩もうとするのに、闇の霊どもはそれが嫌いなので、悪い人々を操って皆さんを困難にあわせたりするのです。

心がまっすぐな人は、このように世からどんな火のような試練がやって来ても、世と妥協しません。信仰が弱くなったり、揺れたりしないのです。初めに決心したとおり、変わらず神の御目に正しいことを行うのです。すると、神は生きておられるので、必ずすべてを働かせて益としてくださいます。

また、[第一ペテロ1:9]「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」とあるように、まっすぐな心をもって信仰を守った人は、結果的に救われるようになります。

「箱舟に部屋を作り、」の霊的意味


次に[6:14後半節]を見ると「箱舟に部屋を作り、」とあります。これは、箱舟に部屋を作って、空間を分けなさいという意味です。「箱舟」が霊的に「神のことば」だと言いました。このように「箱舟」が丸ごとの神のことばを指しているなら、部屋が作られている箱舟は何を意味するでしょうか? 

それは、みことばに照らしてすべてをわきまえ知る心を意味します。真理と真理に逆らうものを見分けて、善と悪を見分け、光と闇を見分けられるのです。

私たちがこの世を生きていくとき、必ずこのような力がなければなりません。そうでなければ、まかり間違えば盲人に手引きされて、ふたりとも穴に落ち込むこともあります。神が願われるみこころとは反対に行くこともあるのです。

[ローマ12:2]にも「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。自分が見ての善でなく、神が認める善が何かわきまえ知らなければなりません。また、自分が正しいと思う義ではなく、神が正しいと思われることを悟らなければなりません。

このためには、すべてにおいて自分を徹底的に捨てて、みことばを基準にしなければなりません。また、自分の心から悪を引き抜いて捨てるとき、いつも良いものを下さる神のみこころが悟れます。みことばに照らして、すべてを正しくわきまえ知るためには、まずはみことばを知識的によく理解して、覚えておかなければなりません。

そして、これとともに必ず霊的な武具として身につけなければなりません。つまり、心が真理に変えられなければならないのです。心を真理に変えさせた人は、聖霊の声を聞いて働きかけられるので、神が望まれるみこころをわきまえ知ることができます。


特に御霊に属する分野は、御霊に属する心になってこそ完全に解くことができます。

[第一コリント2:13後半節]「その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」とあるとおりです。ですから、皆さんはみことば、すなわち、霊の知識をまめに身につけますが、心に糧とすることにさらに努めますように。

内と外とを木のやにで塗りなさい。」の霊的意味


神は箱舟をゴフェルの木で造り、「内と外とを木のやにで塗りなさい。」と命じられました。この「木のやに」は、ここでは原油を精製して残ったアスファルトやピッチのことです。石油を採取する油田では、天然でも得られます。これは、防水、防腐などのために使われます。

[出エジプト2:3]にも、赤ちゃんだったモーセがパピルス製のかごに入れられてナイルの岸の葦の茂みの中に置かれたとき、それに瀝青と樹脂とを塗ったとあります。このように瀝青を塗ると、防水の役割をして、水に浮きやすくなります。
ところで、神は箱舟の内と外とをこのような役割をする木のやにで塗りなさいと言われました。木と木が接している小さい隙間にまで、やにをきちょうめんに塗って、水が入ってこないように徹底的に備えるようにされたのです。

これからノアと家族が箱舟の中で過ごす日は1年を超えます。もし木で造った箱舟に隙間ができたら、水が入ってきて、生存がおびやかされることもあります。初めは少しずつ入ってきた水がますます隙間を大きくして、後には手のほどこしようもないようにします。

それでは、木のやにで箱舟の内と外とに塗りなさいというみことばに含まれた霊的な意味は何でしょうか? それは、世の中で生きていくけれど、世のものを心に受け入れてはならないという意味です。

皆さんはこの地上で耕作を受けている間、どちらにせよ世の中で生きていきます。世から離れて隠れる人はまことの耕作を受けにくいです。皆さんがこのように世の中で混ざって生きても、世の水が皆さんの生き方に入ってきてはなりません。箱舟の外だけでなく、内にまで几帳面に木のやにで塗りなさいと言われたように、世のものが入ってこないように、世を遮断しなければならないのです。

私が「世の歌やテレビ、映画を断ち切らなければならない」「インターネットも注意しなければならない」といつも強調するのには理由があります。反キリストの勢力が世の文化を支配して、自分たちの道具として広く活用しているからです。暴力的で淫らな映像物はもちろん、一般的な大衆文化にも、すでに反キリストの思想が入り込んでいます。皆さんが単におもしろいからといって視聴しても、無意識のうちに悪い影響を受けるようになります。

私たちのイエス様は「あなたがたは、地の塩です。」と言われました。塩はしょっぱい味を出すだけでなく、腐敗しないようにする役割をします。ところが、塩がその味を失えば、何の役に立つでしょうか。世に染まっている人は、その味を失った塩のようなものです。皆さんは真理で自分をよく守って、味をしっかり出す塩になりますよう、主の御名によってお願いします。

ノアの箱舟の大きさ


本文[15節]で、神は箱舟の大きさを教えてくださいます。「それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。その幅は五十キュビト。その高さは三十キュビト。」とあります。

この「キュビト」とは長さの単位であり、一キュビトは成人の指先からひじまでの長さです。一キュビトをメートル法に換算すれば、ほぼ46センチから56センチになります。個人的な差、時代的な差があるために、絶対的な数値に規定しにくいです。それで計算しやすく、一キュビトを約50センチとして、箱舟の大きさを計算してみます。

「長さは三百キュビト」とあるので、箱舟の長さは約150メートルです。一般のサッカー競技場の長さは90から120メートルです。ノアの箱舟の長さはサッカー場よりはるかに長いです。ノアの箱舟の幅は「その幅は五十キュビト。」とあるので、約25メートルです。また「その高さは三十キュビト」とあるので、箱舟の高さは約15メートルになります。ふつう建物の一階の高さが2.5メートルから3メートルなので、ノアの箱舟は5、6階の高さです。

ノアの箱舟は内部が3階に分けられています。ノアの箱舟は神が指定された動物をみなのせて、彼らの食糧までも十分にのせられる大きさでした。科学者たちの計算で、これが事実であることが証明されました。今から約4,400年前に、このように大きい箱舟が造られたという事実はまことに驚くことです。

ノアの箱舟の設計比率


ノアの箱舟の設計比率には、さらに驚くべき神の知恵が含まれています。船舶工学者たちは長い間かけて大型船舶の設計安全率を見つけました。それは、船舶の長さが幅の6倍でありながら、高さの10倍のとき、最も安全だということです。(幅×6)=長さ=(高さ×10)それでは、ノアの箱舟はどうでしょうか? 長さ(150メートル)は幅(25メートル)の6倍で、また高さ(15メートル)の10倍です。大型船舶の設計安全率と正確に一致することがわかります。

人類が100メートルの長さの大型船舶を最初に建造したのは1843年です。(最初の大型船舶エスエス・グレート・ブリテンSS Great Britain)これは長さ98メートル、幅15.5メートル、高さ9.75メートルで、設計安全率のとおり建造されました。船舶工学者たちが近代になって見つけた比率を、知識の初めである神がすでに知っておられたので、ノアの箱舟をその比率に造るようにされたのです。

ノアの箱舟と関連した興味深い実験が1992年6月、韓国で実施されました。国家支援機関である海事技術研究所は、韓国創造科学会の依頼で、ノアの箱舟を造船工学の立場からアプローチして、実験してその研究結果を発表しました。

実験のために、ノアの箱舟を50分の1に縮小したテスト用箱舟を造りました。これを大型水槽に浮かべて、これに人工波を起こし、いくつか箱舟の安全性を測定しました。一般に船舶の安全性は、三つの要素を測定して評価します。復元性、波浪に対する安全性、構造安全性です。簡単に言って、高い波にも転覆したりつぶれないのか、船体内部の乗客や貨物はどれほどよく守られるのかを評価するのです。

今まで観測された最高の高さ、30メートルの波を人工に作って実験してみたりしたが、模型箱舟はこの環境でもびくともしなかったのです。ノアの箱舟は、現代の先端科学技術で建造される大型船舶に次ぐ驚くべき安全性を持っていることが、科学的にも立証されたのです。

知識と知恵の初めである神ご自身がノアの箱舟を設計された


今から4,400年前にこれが可能だった理由は、知識と知恵の初めである神ご自身がノアの箱舟を設計されたからです。


[箴言3:5-6]にも「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」とあります。父なる神は皆さんが心を尽くして神を認めて、神だけに拠り頼むことを願われます。

だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。』
第一コリント3:18-19

まことに信仰のある方は、父なる神の御前で謙虚に自分を低くするしかありません。へりくだって助けと恵みを求めるようになります。いつも父なる神にへりくだってひざまずいて、恵みと慈しみ、力と知恵を求めますように。それで、父なる神の栄光を帰すわざをあふれるまでに現しますよう、主の御名によって祝福して祈ります。
 

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