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霊の糧

ヨブ記講解メッセージ
「ヨブという実在の人物を通して、神様が私たちの人生を記録してくださいました。」
「ヨブ記講解52-悪者と神を敬わない者の結果(1-下)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:6~11
 

続く本文を読むとツォファルはヨブ記20:6-7で言っています。


「たとい彼の高ぶりが天まで上り、その頭が雲まで及んでも、彼は自分の糞のようにとこしに滅びる。彼を見たことのある者たちは言う。彼はどこにいるのかと。」(ヨブ20:6-7)

たとえ彼の高ぶりが天まで上りその頭が雲まで及んでもと言っています。これは悪者と神を敬わない者の権力と栄華が世に現れて、名が輝くことを言っています。それでその高ぶりが天まで上る。このように表現を使うのですね。悪者と神を敬わない者の権力また栄華が、そのように高いと言っているのです。しかし彼らの権力と栄華がいくら輝いても、結局は醜くて臭くなる糞のように排泄物のように、何の使い道もなくなるということです。悪を積む人の結果は排泄物よりも劣って、はずかしめられ見捨てられ永遠に滅びて消え去るから、以前彼を知っていた人々も彼はどこにいるのかと、聞くようになるだろうと言っています。

これは彼の功績が全部なくなって、彼の良いところを忘れられたからです。また彼を思い出すならば、その悪行だけが残って思い浮かぶから、いつまでも非難されるという意味です。今ツォファルは悪者と神を敬わない者の結果はどうなるのかを説明しています。これはツォファルがヨブに皮肉を言っていることですが、実際ヨブは悪者でもないし神を敬わない者でもないから妥当性のない言葉です。ツォファルは今、唯自分の考えの中で悪意を持って人をけなしているのです。このように人の負の感情や悪から出てくる言葉は、相手に罪がなくてもあるかのようにしたてて、良い人も悪い人のようにみなすことがあります。人は自分の考えは正しいと思います。また自分の思い込みで人を裁いたり罪に定めたりします。

ヨブが過去には成功もしていて財産もあって善も行っていました。しかし今の現実を見てみるとどうでしょうか?病気になって全てが滅びてしまったのです。だから今現実を見ながらツォファルは、ヨブは悪者だから神を敬わない者だからこうなったこういう結果になったと思っているのですが、それは自分の考えに過ぎないのです。これを今説明しているのです。皆さんもそういう姿はないのか顧みますように。自分は自分の考えを基準にして人を見て決めつけているのではないか、自分の肉の思いを巡らして、間違っていろいろ自分なりに判断しているのではないか、顧みますように。しかしそれは賢いのではありません。私たちが判断する基準は、神様の真理の御言葉でなくてはなりません。

箴言17:15「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。」とあります。ですから私たちは悪と負の感情を捨てて、むやみに人をさばいたり罪に定めたりしてはいけないのです。事実を確認する必要があるときは伝える人の言葉ではなくて、真理を基準にして見分けなければなりません。人の話だけを聞いてそうなんだとすぐ信じ込んでしまってもいけないでしょう。その人が悪意を持って偽りを言うかもしれません。そして悪い話を伝える人の話には耳を傾けない方がいいでしょう。それは自分に霊的に何の益にならないからです。色んな情報を聞いてこそ正確に分別できると思いますか?そして色々儲ける情報が欲しいと思いますか?それで人の話を聞いて投資をしたりして、本当にそれで成功しますか?それでもうけますか?そうではないでしょう。

そして誰かが人の噂話をしたりするならば、それを聞かない方がいいのです。いくら事実を言っているとその人は言っていても、その人の悪い意図がその中に込められているかもしれません。今ヨブの友達は目に見えるヨブの現実を見てヨブを非難しています。しかし神様はそうしてはいけないと言われているのです。今ヨブの現実がこのように悲惨でも、でも神様は人が見るのとは違うと言われているのです。ヨブは悪いものだからとか神を敬わないものだから、今このようなみじめな現実に置かれているのではないのです。神様はヨブを愛してヨブがもっと霊的に祝福されるために、そのように練っておられるのです。それを知らないまま人の目で見える現実を見て、悪者扱いをしたり非難することがあってはいけないのです。

続く本文も同じ流れです。ヨブ記20:8-9です。 「彼は夢のように飛び去り、だれにも彼は見つけられない。彼は夜の幻のように追い払われ、彼を見慣れていた目は再び彼を見ず、彼のいた所はもはや彼を認めない。」(ヨブ20:8-9) 日常のうたかたの夢をつまり一時だけの短い春の夜に見る夢という言葉があります。つまり人生の栄華は極めて儚く消えてしまうものだという意味です。貧しい人が夢の中では金持ちになったり贅沢したり食べたいものも食べて行きたい所も行く、そのような夢を見ることはあるでしょう。夢の中でもこのように、自分が欲しいものが手に入ることがあるかもしれません。それで夢の中でも本当に嬉しかったのです。でも夢から覚めたらどうでしょう。どれほど虚しいでしょうか。もっと現実に絶望するのではありませんか。ツォファルは悪者と神を敬わないものは一時的に富や栄華を味わっても、結局は虚しい夢のように消え去ると言っています。 つまりヨブが自分に過去にはこんな栄誉があったのに富があったのにと思いながら虚しいと思って、夢の中にいたかのように感じて後悔している姿をツォファルは見たから、今ヨブの状況を皮肉っているのです。ツォファルは彼は夜の幻のように追い払われ、彼を見慣れていた者は再び彼を見ず、彼のいたところはもはや彼を認めないと言っています。つまりヨブあなたは悪者で神を敬わない者だから、あなたが座っていた富も栄華も虚しい現象のように、幻のように消えるだろう。あなたを知っていた人も、再びあなたを見ることはない。あなたが住んでいた家までも奪われるだろうと言っています。友達に向かってこの様に恐ろしい呪いの言葉を口にしているから、神様がご覧になる時どれほど大きい悪でしょうか。 だからこう言われているヨブはどれほど精神的に苦しかったでしょうか。ヨブは自分が自分を見るには悪者でもないし、神を敬わない者でもないし自分は正しいと思っているのに、友達がずっと悪者だと罪に定めているから苦しくて悔しかったのです。今ツォファルがヨブに言っている言葉は悪者と神を敬わない者にあたる言葉です。人があらゆる手段や方法を選ばないで富、栄華を追っていってすべてのものが崩れてなくなり、幻のように消えてしまうならどれほど虚しいでしょうか。仮に世の富を手にいれたとしても、死んだらそれまで積んだものが何の役に立つでしょうか。たとえ貧しく生きても、イエス・キリストを受け入れて救われて天国に行く信仰を持った人が、本当の豊かな人でしょう。 箴言28:6に「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。」とあり、箴言17:1に「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」とあります。たとえ貧しくて狭い家に住んでいても、家族が主にあって平和ならそれは幸せでしょう。反対にいくら立派な広い家に住んでいても家族の間で愛がなければ、心に平安がないし幸せだと言えません。ルカ17:21に「『そらここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中であるのです。」とあるように、どんな環境に置かれても、自分の心に善と真理が満たされているなら、いつも天国を感じているから平安で幸せなのです。 今ツォファルはヨブに、あなたはこのように悪者だから神を敬わないものだから、あなたはこのような惨めな目にあっているのだ。だからあなたが前、味わっていたものは全部滅びてしまったと指摘しています。しかしツォファルのその指摘は正しくないし、ツォファルの悪から出たものです。だから私たちはそんなツォファルのような姿でいてはいけない、そして悪者とか神を敬わないものになってもいけないと悟らなければならないでしょう。悪者と神を敬わない者が積んだものは全部虚しいもので、その結果は惨めになりそのまま死んだら地獄に行くから、何の役にも立たないものです。 しかしこの地上では貧しくても、イエス・キリストを受け入れて救われて心に天国があるなら、それが豊かな人でそれが幸せでしょう。だからヨブとツォファルまた友達が互いに言い争っていって、彼らの話を聞きながら、私たちはこういうものを悟らなければならないのです。心に善と真理が満たされているなら、それが本当の平安で幸せで、神様がくださる慰めがあるのです。それならいくら試練にあっても勝利することができます。でもヨブはまだそれができなかったのですが、ヨブの姿からそれを教訓にして私たちは、どんな試練に遭っても苦しみにあっても、神様の前に、それが変えられるチャンスだと思いながら、感謝して喜んでいれば良いのです。それで自分の中の悪を捨てていけば、神様が祝福してくださるでしょう。それを信じていけば、どれほど祝福の道でしょうか。メッセージを聞いて、そのようになりますように。 ツォファルはヨブ記20:10で言っています。 「彼の子らは貧民たちにあわれみを請い、彼の手は自分の財産を取り戻さなければならない。」(ヨブ20:10) ここで貧民たちとは、ただお金がなくて貧しい人を意味するのではありません。名誉、権力など全ての面で比べてみると、相対的に劣っている人を意味します。例えば国で権力と富を味わっていた高官たちが時代が変わったら、以前の部下に助けを求めることがありますね。そのようなものです。歴史を見ても権力者たちが汚職が暴露されて地位から退けられたら、それまで不正に貯めた財産を全部取り戻さなければなりません。そして、前は自分が上だったのに、今は部下たちにいろいろ助けを求めなければならない立場になるのです。それをツォファルは今表現しているのです。 親がそんな風になると子どもたちも顔を上げられないほど恥ずかしく思うようになりますね。このようにツォファルは神を敬わない者の子供たちがみすぼらしくなって、苦しみを受けるようになることを言っているのです。聖書を読むと悪いサウル王やアハブ王の子供たちがどのようになったのかがわかります。サウル王の息子たちはペリシテ人の戦いで敵軍の剣で殺されました。アハブ王の息子の70人は、神様がエフーを通してアハブの家を裁かれるとき、皆殺しにされました。しかし今ツォファルが言っていること、悪者や神を敬わない者は、ヨブがそうだと言っていたのですが、実際ヨブはそうではありませんでした。ヨブは悪者ではなかったのです。彼の行いは潔白で正しいと認められる程でした。だからツォファルが言っているののしりとは、関係ないのです。私たちもそういうことがあるのではありませんか? 人に誤解されることもあるし、そしてやってもいないことをやったと言われたり、ののしられたりすることもあるかもしれませんが、しかし自分がそうでなければ、自分とは関係のない言葉なのです。だからそのため悩んだり腹を立てる理由もないのです。神様の前で自分は正しいことをしているならば、いくら悪い人が誤解してあれこれ非難しても、その言葉は自分と何の関係もないし、悪い人が良い人を裁くことは正しくないのです。だからそれを聞いて、悪い影響を受ける理由はないのです。そうでなければ心が穏やかでないでしょう。でもヨブはそれができませんでした。友達があれこれ指摘したり咎めたり、また自分が悪者のように友達がこのように責め立てているから、ヨブはそれによってストレスを受けて心の平安がなかったのです。でもヨブは悪者でもないし、神を敬わない者でもないのに友達はヨブを悪者扱いしていました。 ヨブ記20:11です。 「彼の骨が若さに満ちても、それも彼とともにちりに横たわる。」(ヨブ20:11) 悪者と神を敬わない者は、結局その骨も前は若者のように丈夫だったとしても、彼が死んだら全ての若さも消えてしまうと言っているのです。歴史を見てみても、ある人は大きい富と栄華をいつまでも保つと思っていたけれど、一瞬で身の上が変わってしまうこともあります。例えば朝鮮王朝の19代王のそばめであったザンギリンという人は、王の寵愛を受けて王子を出産してその後王妃にまでなりました。それでとても高ぶっていました。彼女の権力はずっと続くだろうと思ったのですが、妬みとあらゆる悪行を犯したので、彼女の最後は結局死刑にされてしまったのです。そして朝鮮王朝の10代王であったヨンサンウンは、王位に上った後、権力をふるって放蕩し、多くの人を殺すなど暴政を働いた結果、クーデータによって王位から追い出されてしまいました。このように悪者の結果は非常に惨めだったのです。この他にも歴史を見てみると、欲を持って自分の利益を求めていると、敵である悪魔サタンに操られて、悪を行う人がたくさんいました。世の人が悪を行って、ひどい悪行をしているのを見ると、それは霊的に悪魔サタンに操られているからなのです。 歴史の中にもそのような人物がいるでしょう。自分の魂を悪魔にサタンに売ってしまう人もいるのです。そして自分だけ悪を行うのではなくその結果、多くの罪のない人が血を流すようになって、苦しみと悲しみの歴史が繰り返されたのです。皆さんにももしかしてこのような悪の属性があるのではないか顧みますように。もしそういう心を発見するなら、悔い改めて立ち返る賢い人になりますように。悪は小さく見えてもそのまま放っておけば大きくなってしまいます。また罪は一度二度犯すとそれが三度四度になってしまいます。そしてその罪と悪が自分の中でだんだん大きくなります。罪を犯すことによって自分はもっと悪くなるのです。グレーぐらいの色だった心が、罪を犯して悪を行っていけばだんだん黒に近くなるのです。だんだん濃い黒になっていくのです。 私たちの心もそうです。良心も麻痺してしまいます。だから、悪を悪とも思わないのです。最初はちょっと悪いことをしたら、良心に過酌を感じてすぐ立ち返ったでしょう。そしてこれによって神の裁き、懲らしめが臨んだらどうしようと不安もあるから、恐れてでも悪を行わなかったのです。しかしことさらに罪を犯し続けていくならば、良心が麻痺してしまいます。それで罪を犯して悪を行っておいて平気なのです。だから小さく見えることでもそのまま放っておけばいけないのです。わずかのパン種が粉の塊全体膨らませるように、悪い思いと行いは、徐々に私たちの体も魂も蝕んでいくのです。だから小さく見える悪でもこれくらいはと思って油断してはいけません。 詩編97:10です。「主を愛する者たちよ、悪を憎め。」とあります。徹底的に悪を捨てて受け入れてはならないということです。ですから大小を問わず神様の御言葉に外れた悪は、必ず捨てなければならないのです。私たちが悪はどんな悪でも避けて真理の中にとどまって、善を行っているなら神様が上から祝福してくださり、この地上でも豊かになり天国に入って永遠の命を得るようになります。ところである人は悪い人がもっとうまくいくとか文句を言ったり、羨ましく思ったりします。彼らが今贅沢に暮らしているから成功しているから自慢しているからそれを羨ましく思うのです。彼らが世でうまくいっているからと思うのです。でもどうしてそれを羨ましいと思うのでしょうか? 例えばある人が盗みをしてお金をたくさん貯めたとしたなら、それを羨ましく思う必要はないでしょう。罪と悪によって貯めたお金が何の役に立つでしょうか?皆さんは教会を離れた人が今世の中でうまくいって成功して楽しく生きているように見えるから、その人々をもしかしてうらやましいと思うのでしょうか?そう思ってはいけません。かえって憐れむべきでしょう。そしてある人はあの人は本当に悪いのに何故裁きが臨まないのとか思い、腹を立てる場合もあります。しかし結局悪は滅びるようになることを覚えていて下さい。 仮に誰かが不義な方法で成功したり、大きな利益を得たとしても、それをうらやましく思う必要はありません。もし詐欺をして数億円儲けたとしたら、それがその人になんの益をもたらすでしょうか?益をもたらすと思うのでしょうか?盗まれるのではないか、バレルのではないか、また貧しくなったらどうしようと心配して、いつも不安でしょう。そしてそうやってお金を稼いだ人は、ほとんどは価値あるものに使えないし、快楽に落ちて短時間になくなってしまうのです。それにその人が今向かっている終着駅は地獄だから、いっそ貧しくても正しく生きて天国に行った方が幸いなのです。 ところでツォファルはヨブの身の上をこのような悪者たちに例えているのです。ヨブあなたの悪によって以前の権威も財産もなくなってしまい、若者のようであった勢いもくずれてしまい、塵に横たわるようになるだろうと言っているのです。ヨブの友達はこのように激しい罵りでヨブを追い詰めて傷つけています。ヨブを慰めるどころかもっと苦しめていて、つらい思いをさせています。彼らが自分なりに工夫をして言った言葉ですが、ヨブを悟らせるどころかかえてもっと苦しめて傷つけています。これは神様の御目にとても愚かな言葉で行動です。ではなぜヨブの友達を愚かだというのでしょうか?実はヨブは友達よりずっと心が正しいし、その行いも潔白でした。そして友達はヨブを悪いと指摘する資格がないからです。ヨブは友達と比べてみれば悪者ではありませんでした。ただ神様の方からヨブをご覧になるときは、悪があるから練ってくださっていたのです。 人がヨブをあれこれ悪いという資格はなかったのです。普通の人と比べてヨブは正しかったのです。でも神様の真理、神様が望んでおられる基準に比べてみて、ヨブは悪があって欠けているところがあったから、神様はヨブのために練ってくださっていました。しかしそれを知らない友達はヨブを避難していました。皆さんももしかして人の短所がよく見えますか?まず自分の目の中の梁を探して捨ててこそ、人の目の中の塵も見えるでしょう。マタイ7:3に「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」とあります。この御言葉もよく引用していますが、とても大切な御言葉です。人の目の中のちりが見えるならばこの御言葉を思い出して、それ以上見てはいけないでしょう。それ以上人をさばいたり罪を定めることをやめて自分を顧みなければならないのです。そうでなければそれ以上発展がないのです。相変わらず人の目の中のちりを見て指摘しているのです。でも今日のメッセージを聞いて自分を顧みて悔い改めますように。梁のように大きい悪を持っている人が、ちりのように小さい人の過ちを指摘するなら、恥ずかしいことでしょう。 でも神様は光そのものであり、傷もしみも汚れもない方で聖なる方だから、ヨブの過ちを指摘して取り除ける資格があります。ヨブが自分なりに潔白で正しい行いをしていても、完全である神様がヨブをご覧になるときは、直すべきところも捨てるべきところもたくさんありました。ヨブの器をご覧になって、もっと聖くて広い器を造って、もっと祝福をしてあげようとしておられるのです。友達が言っているようにヨブは悪者でもないし、神様を敬わない者でもないのです。神様がヨブを変えさせて、ヨブを通して栄光をお受けになるためにそうされたのです。たっとい宝石であるほど傷一つないように望む細工職人の心のように、神様はヨブを練ってもっと美しい器に造り変えようとされるのです。 でもヨブの友達は自分の悪をもって、ヨブをむやみに裁いて罪に定めて指摘しています。ヨブは今神様の御手の中で練られているのに、ヨブの友達は自分の悪からヨブを侮辱しています。ヨブが試練に遭う前は友達にも徳を施して助けていたのに、今は友達に非難されているからどれほど苦しいでしょうか。でもヨブの方でも友達を善と真理をもって愛と徳をもって、彼らの話を受入れたら良かったでしょう。箴言15:1「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」とあるように、善と柔和をもって人に対するなら、その憤りを静めるでしょう。 ですから私たちはいつも口の言葉に気をつけなければなりません。その言葉は正しくても、相手が傷ついたり気を落とすならばそれは害になるのです。ですからアドバイスをするときも、ただ相手を悟らせることで終わるのではなくて、愛の心を持って励まし力づけるように助けなければなりません。イエス様はルカ17:1-2に「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれた方がましです。」と言われました。神の子供なら決して自分の言葉や行動によって相手につまずきを与えることがあってはいけません。 聞いたメッセージを思い出して、自分はヨブやヨブの友達の姿はなかったのか顧みますように。一緒に祈りましょう。父なる神様感謝いたします。今日はヨブの友達ツォファルがヨブを悪者扱いをして、ヨブを非難している姿を見ました。しかしそれは自分の心の悪から出てきた言葉でした。そして悪者と神を敬わない者の結果はどうなのかを、聖書の例を挙げて説明しました。これを覚えて自分の中にある悪を全部捨てるようにしてくださり、悪を憎み善と真理を心に満たしていくようにしてください。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

「ヨブ記講解52-悪者と神を敬わない者の結果(1-上)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:4~5
 

皆さん、前回にヨブは自分の苦しみがあまりにもひどいと言いながら、神様と友達を恨んでいました。そしてもうすぐ自分は死ぬけれど、神様の前に立つ、その時は他の人の目を通してではなく、自分の目で見ることができると言いました。しかしすぐその時のことを考えたら不安になって、切羽詰まって息苦しいほどだと、自分の心境を言っています。これは今、ヨブが神様の前に反抗して恨んでいる姿が後ろめたいからです。それでも少し良心がある姿です。過去神様を恐れていた姿とは違って、今ヨブは自分の言うことも行っていることも完全でないことを感じながら、神様の前に堂々と立てないのです。

聖書では私たちが救われたからといって、皆主を見るのではなく、資格を備えてこそ見られると言っています。ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」と、その資格について正確に書いてあります。救われて天国に行ったとしても、この地上で人間耕作を受けているとき、全ての人との平和を追い求め、聖められることを追い求めていなかったのなら、主を見ることはできないのです。すべての人の中には自分を苦しめる人、自分の悪口を言う人、自分に悪を行う人も全部含められています。あの人は私と気が合っている、私に良くしてくれていると思う人だけではなく、自分と全然気が合わないし、自分が苦手だと思っている人とも平和を追い求めなければなりません。そして、そういう人が自分に悪を行っても、悪をもって報いるのではなく、善をもって愛をもって行ってこそ、それが全ての人との平和を追い求めることで、聖められてこそ主を見ることができます。

私たちはこのような御言葉を知っています。そして天国は場所が分かれていて、より優れた天国があることも知っています。一度天国に行ったら、その場所は変わらないことも知っています。しかしヨブはそういう真理を知らなかったから、自分は死んだら神様を自分の目で見ることができると言いました。しかしその時のことを考えたら、不安になりました。でも私たちは、正確な真理のみ言葉を知っています。どこを目指していくべきかも知っています。皆さんはそうではありませんか。しかし試練にあったり苦しみに遭うとき、信仰で完全に勝利できずにつらいと思いながら、早く天国に行けたらいいと思ったりします。

今ヨブは自分の苦しみを言いながら、もうすぐ自分は死ぬけれど神様を見るだろうと言った意図を、皆さんはわかるでしょう。激しい試練にあっている人が、もう天国に行きたい、この苦しい地上にもういたくないと、思ったりするのではありませんか。ヨブもそうでした。今自分が置かれていることがあまりにも苦しいから、死にたいと思ったし、この体ではもうすぐ死ぬと思ったのです。皆さんももしかして試練にあって苦しいからといって、もう何もかも嫌だと思ったり、早く天国へ行ったら良いと思うことがありますか?しかし天国には一度行ったら、もう一度報いを積む機会もないし、より優れた天国を攻めることもできません。全てがそれで終わりです。ですからこの地上で与えられたこの時間、試練にあって耕作を受けていても、その過程をうまく経て、御心にかなう姿に変えられるために努力しなければなりません。

だから今与えられている時間が、さらに変えられるチャンスなのです。しかし辛いからといって、もうこういう機会早く終わったらいいと思って、それを逃してしまったら、より優れた天国にはいけないのです。そして行けなくてもいいと思うこと、それは信仰ではないのです。自分の中の悪が発見されて人間関係で悩んだり、辛い思いをしたからといって、心が折れて早く天国に行ったらと思うなら、さらに変えられて報いを積む機会を逃すのです。だから私たちは与えられている時間を、神様の真の子供になるために、聖められるために努力して、チャンスを握っていかなければなりません。

ヨブ記20章が始まりました。 ヨブの友達ツォファルは心焦っていると言っていました。これはヨブが感じている不安とは違う意味でした。ヨブを指摘している自分の姿を客観的に見てみたら、自分にも資格がないことを感じて、良心の呵責を感じている言葉でした。しかしそれなら自分を低くして、それ以上ヨブを指摘しないで自分が変えられればいいのに、ツォファルはそうしませんでした。自分の欠けているところを発見したのに、それを隠したいから、言い訳をして、もっとヨブを叱責していたのです。このようにヨブと言い争いをしながら、心焦っているツォファルの姿を見ながら、人が心を守らないで焦ってしまうとどんな結果をもたらすのかが分かりました。 誰かに指摘されたり忠告されたとき、言い訳を探していると焦ってしまい、結局逆切れしてしまうこともあります。指摘されたり忠告されたりして、言い訳をしたくなる、又焦ってしまうことがあります。そして皆さんも日常生活でどんな時焦るのか、又言い訳をしようとするのかを顧みますように。自分の過ちを隠そうとして言い訳をして、また人になすりつけようとする人もいるでしょう。そして自分に置かれている環境とかが辛くて、それで心が焦ってしまうこともあるし、いろいろ皆さんの心の中でどんな感情が動いているのかを、日常生活で発見することがあると思います。そのような心を治めていなければ感情的になってしまい、人とぶつかったり言い争うこともあるのです。だからまず人のせいにする前に自分を顧みて、自分の負の感情を捨てるために努力しなければなりません。そうでなければ相手と平和を作ることもできないし、聖霊の声が聞けないから、信仰が発展できないのです。 反対に人の忠告を受け入れて悔改めて立ち返るなら、真理の心に早く変えられることができます。箴言25:28です。「自分の心を制することができない人は、城壁のない打ちこわされた町のようだ。」とあります。城壁のない打ちこわされた街とは、街が破壊されて何も残っているものがないという意味です。人が焦って心を制することができなければ、悪い言葉を口にして憤ったり争ったりします。それで結果的に家庭が破綻することもあるし、周りの人が離れてしまうこともあって、苦しくて悲しいことが起きるのです。ですから私たちはまめに心を真理に変えて、どんな状況に置かれても、善と愛をもって行わなければなりません。皆さんはなぜ自分は心の中で不安があるのか?なぜ焦りがあるのかを顧みますように。それは心の中に悪があるから、また負の感情から出てくることです。ある人は指摘されたらそんな風になる場合もあります。そして人に一言でも言われたらそれが嫌で言い訳をしたくなってしまうのです。 しかしある人は指摘されたとしても、落ち着いて自分を顧みながら、じっくり考えるようになります。しかしそうしないで、すぐ焦ってしまう人がいます。それで顔も表情もこわばったり、また、自分を指摘した人に対して不満を抱いて、感情的になってしまうこともあります。そうやって、自分の心とか感情をコントロールできない人がいるのです。それは自分中心的な人で、自分を守ろうとするからそうなのです。このような人は霊的にも、自分を発見して変えられるのが難しいでしょう。ですからヨブとこのツォファルの姿を見て、自分を発見しますように。 そして目上の人ならば、相手を指摘して自分なりにアドバイスをしたのに、相手がそれを聞き入れてくれなければ、その時心焦ってしまう場合があります。それでもっと強く言ったりすることがあります。すると互いに感情的に対立するようになったり、後では言い争ったりすることもあります。もちろん真理を知っている人は後で後悔するけれども、そういう姿があるなら、自分の中に悪があることを悟りますように。それで自分の心を制することが必要であるということです。前回聞いた内容を、皆さんもう一度顧みて、自分の日常生活の中でもそういう姿はないのか、いろんな場面を思い浮かべて自分を顧みますように。それで自分を発見しますように。それで今は心を守り、心を制する知恵のある皆さんになれますように。それでいつも平安と幸せだけがありますように。 前回、ヨブ記20:3でツォファルは私の悟りの霊が私に応えさせると言いました。自分を賢いと錯覚していました。続く本文を読むとツォファルがなぜそのように考えているのかがわかります。皆さん、前回聞いた内容を思い出して、続けて今日の本文を読みながら、自分を顧みますように。ツォファルはヨブに対して自分が言っていたことと、指摘していた姿を考えてみながら少し良心の呵責を感じていたのです。それで心の隅では恥ずかしいなと思いながらも、しかしそれを隠したいから、言い訳をしながらもっとヨブを叱責するようになるのです。それで心焦っていました。そしてそうしながらも自分なりに正しい答えをしていると思って、賢いと錯覚していました。人を指摘して、また自分はそういう資格がないと思いながら、後ろめたさを感じていながらも人をまた指摘して、自分は賢いと思うのでしょうか。真理で悟ってみればそれは正しくない姿でしょう。しかしツォファルはそうでなかったのです。自分の姿を悟っていませんでした。間違っていたでしょう。なぜそんなふうに考えていたのか。今日の本文を読んでみましょう。 ヨブ記20:4-5です。 「あなたはこのことを知っているはずだ。昔から、地の上に人が置かれてから、悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。」(ヨブ20:4-5) この地上で人が生きていた人間耕作の中で、昔からのことを見てみると、悪者と神を敬わない者はこのように、その喜びも楽しみも束の間だと言っているのです。ヨブには知識があるからツォファルもヨブにあなたはこのことを知っているはずだと言っています。そして悪者の喜びは短く神を敬わない者の楽しみは束の間だと、このようにヨブに言っているのです。つまりヨブあなたの喜びも楽しみも、もう跡形もなくなって消えてしまった。だからあなたは悪い人で、神をうやまわない人だと言っています。このようにツォファルはヨブを悪者扱いしています。自分なりに図星をついたと思うから自分を賢いと感じているのです。ヨブにこのようにアドバイスをしながら、自分なりに考えて図星をついたと思うのです。今までの人の歴史や昔からのことを見てみると、悪者の喜びは短く神を敬わない者の楽しみはつかの間だと言いながら、ヨブあなたがそうだと言っているのです。ヨブあなたもこのように前は盛んでいたけれども、今は滅びたからあなたは悪者だと言っています。 直接ストレートに言うのではなくて、このように遠回しに言っていながら、自分なりに賢いと思っているのです。それで自分に悟りがあると思っているのです。ここで神を敬わない者は、性分と行いが正しくない人を指しています。聖書のイスラエルの歴史だけではなく、韓国の歴史や最近の政治社会を見ても、悪者と神を敬わない者の名誉は束の間であることがわかります。ツォファルはイスラエルの歴史に登場する人々の業績と悪者の最後について聞いて知っているから、このように言い切っていました。それでは悪い者と神を敬わない者の結果は実際どうだったのか、聖書の中からいくつか例を探してみます。 悪い者と神を敬わない者の結果について、今週また来週続けて伝えますけれども、今ツォファルはヨブを悪者扱いにしていますが、実はヨブはそんな悪い人ではなかったでしょう。でも悪者と神を敬わない者がどんな結果になったのかを私たちは悟って、決してそんな人になってはいけないことを悟りましょう。聖書の中でこのように悪者と神を敬わない者の最後はどうだったのか、いくつか例を挙げて説明します。皆さんはこのメッセージを聞きながら、彼らは本当に悪い人だったのだだと思って終わってはいけません。自分にもそういう悪の属性があるのではないのか顧みて、心から悪を憎まなければならないのです。これから説明する何人かの例がありますが、彼らの悪はとてもひどかったのです。しかしその姿から、自分を発見しなければならないのです。自分にもそういう悪があるかもしれないのです。それで自分を発見することが、礼拝を捧げてメッセージを聞く理由でしょう。だからメッセージを聞いて恵みを受けたならば、自分に代入して自分にある悪を捨てるために努力しなければなりません。 まずエジプトの王パロの場合です。イスラエルの民がエジプトで奴隷生活をしていたとき、モーセはイスラエルの民をカナンの地に導きなさいという神様の命令を受けて、パロのどころに行きました。しかしパロは奴隷として使っていたイスラエルの民を行かせたくなかったのです。神様はこのようなパロを屈服させるために、モ-セを通して十の災いを下しました。ナイル川の水が血に変わり、エジプト全土にカエルとぶよ、アブの群れが満ちて、腫物と疫病、雹、いなご、暗闇の災いが臨みました。その度にパロ王は災いをまぬがれるために、イスラエルの民を行かせると約束したけれど、災いがやんだら、すぐ約束を破って虐げました。このパロと自分の心の悪を比べてみてください。パロは本当にああしたりこうしたりして変わってしまう悪い心なのだ、頑な人なのだと思って終わってはいけません。自分にもそういう属性があるのではないか探してみなければなりません。 自分が何か困難な目にあっていたり問題があれば、神様これさえ解決してくださるなら神様の前に頑張りますとか、これさえ解決してくださるな、後でこれこれしますと約束しておいて、後でまたそれを破ってしまうのです。教会に通っている人が、犯してはならない悪を犯したりするのです。それで聖霊が呻いてそうしてはいけないと言っても、それを無視してしまい悪を犯してしまうのです。それで病気になったりまた事故にあったりするでしょう。それで神様の前に出てきてすがって悔い改めて、それで神様がそれを解決してくださると喜んで感謝して、ある程度教会で忠実に仕えていたのに、また心が変わってしまい離れてしまう人もいるのです。 罪と悪のため自分が苦しみにあったことをまた忘れてしまって、また世に目を向けてしまうのです。それでいろんな問題にぶつかるとまた神様の前に出てきて、悔改めて、助けてくださいと求めるのです。自分の力では解決できないから、牧者のところに来て代わりに祈りをお願いして、執り成しの祈りを受けて問題が解決されました。平安になりました。しかし時間がたったらまた心が変わってしまうのです。このように繰り返されるのです。これがパロの姿と同じではありませんか?パロもこのように悪賢い心があって、自分の利益に合わせてしょっちゅう変わってしまう姿があったでしょう。そういう人はパロと同じような心なのです。 自分の利益に合わせて神様の御業を見ても無視してしまい、自分の利益を求めていくのです。悪を行ってしまうのです。善を選ぶことができないのです。それがパロの心も同じだったのです。頑なな心でした。そういう属性が自分の中にもあるのです。それでパロ王はどんな結果になったのか、とても惨めな結果だったでしょう。それを悟らなければなりません。パロ王はこのようにしょっちゅう移り変わってしまいました。それで結局エジプトの全土の初子が死ぬ災いが臨みました。パロの長男も死んでしまいました。そうしたらやっとイスラエルの民を行かせました。今は神様の前にへり下って、それでイスラエルの民を行かせると言いました。そしてイスラエルの神こそ真の神だと、今までの災いを見て、神様の御手の技を見て悟ったでしょう。 そして自分が神様の前にどれほど悪賢かったのか、そしてどれほど移り変わっていたのか、頑なだったのかを悟ったら良かったのに。しかし、そう心から悟ってはいなかったのです。それでも自分が正しいと思うのです。試練にあって自分が苦しみにあっても、人のせいにして神様のせいにするのです。しかしまた心が変わってしまうでしょう。それでイスラエルの民を生かせた後、また軍隊を送ってイスラエルの民を追っていくのです。この時神の力によって葦の海が分かれて、イスラエルの民は海の中の乾いた地を歩いて渡りました。どれほど驚くべき御業が現れたでしょうか。そして後ろから追ってきたバロの軍隊はどうでしたか?イスラエルの民がみんな海を渡った後、その海は元に戻ってしまい、追いかけてきた軍隊は海の中でそのまま死んだのです。こうやってパロは、驚くべき神の力を何度も自分の目で見たのに、頑な心が変わらなかったので、自分の長男を失って、全土が大変な目にあって、軍隊が全滅する大きい災いにあってしまいました。このように悪い人はその悪を行って偽りと悪をおこなってしまい、このような惨めな結末を迎えたのです。 次はアハブ王と王妃のイゼベルの例を挙げられます。イスラエルの歴史では悪い王として選ばれるアハブは、民が神様から背を向けるようにしました。異邦の神々に仕えていながらも、全く良心の過酌も感じていませんでした。偶像のバアルに仕える異邦人のイゼベルを王妃に迎えました。イゼベルはアハブ王と結婚しながら、偶像のバアルとアシェラをイスラルに持ち込んで来て、王はもちろん臣下と民も偶像崇拝に染まるようにしました。これによって北イスラルは神様の裁きが臨み、3年半の間、日照りが続いて、異邦の国から侵略を受けて大きい苦しみに遭いました。預言者エリヤが天から火を引き下ろして、長い日照りの中で雨を降らせるなど驚くべき奇跡で、真の神であるイスラエルの神を見せたのに、イゼベルは悔い改めないで、エリヤを殺そうとしました。それだけではなく、計略をめぐらして、罪のない民ナボテを殺して彼の葡萄畑を奪うなど、色々な悪巧みと計略で悪を積んでいきました。このように、あらゆる悪行を重ねていた彼らの結末はどうでしたか。 アハブ王はアラムとの戦いで、一人の兵士が射た矢に偶然に当たって死んで、その血を犬たちが舐めるみじめな終わりを迎えました。戦いで、互いに攻撃したりしているでしょう。それで矢を射たりするでしょう。その時実際矢に当たって死ぬ場合もあるし、それで勇敢に戦って死ぬならば皆に褒めたたえられるでしょうが、アハブ王はそうではありませんでした。勇敢に戦ったのでもないし、隠れようとしたのですが、偶然矢に当たって死んでしまいました。そしてその遺体の血を犬どもがなめていました。それでは王妃のイゼベルはどうだったでしょうか?その死はとても惨めでした。平凡に安らかに死んだのではありません。権力とか富のある人が死んだら葬儀も立派にすることもありますが、イゼベルはそうではありませんでした。殺されて、その死体を犬が食べてしまいました。そして残りを探してみたら、頭蓋骨と両手両方の手首しか残っていませんでした。このように惨めな最後だったのです。悪者の最後はそうなるのです。 次にモーセの時代のコラとその仲間が例に挙げられます。コラはレビ族で、聖殿に仕える身分と務めをくださった神様に感謝しないで、アロンの子孫にだけ大祭司の務めを受け継がれるのに不満を抱きました。モーセに立ち向かいました。エジプトから出て、モーセが民を導いていました。イスラエルの民は乳と蜜の流れるカナンの地に入ることを目標としていました。エジプトから出た時はどれを喜んでいたでしょうか。前は奴隷生活をしていたのにそこから解放されたでしょう。そして戦いもなく神様の力によって災いによって、このようにエジプトから脱出できました。それで時間がたってみたらまだカナンの地に入れないで、荒野で生活をしているのです。そしてその民の中で不満を抱いている人がいました。モーセに立ち向かう人もいました。コラはレビ部族でした。神の宮に仕える働きをしていました。大切な務めなのにそれを感謝しないで、神様に立ち向かいました。それでコラは自分だけではなくて、ルベンの子孫であるダタンとアブラムとオンと共謀して、名のある者たち250人とともにモーセに立ち向かったのです。 それで神様の裁きが臨みました。彼らの下の地面が割れ、彼らに属する者は生きながら黄泉に下りました。また彼らと同調した250人は、主のところから出てきた火に焼き尽くされました。このように恐ろしい裁きが臨みました。なぜでしょうか?モーセに立ち向かったことは、モーセという人に立ち向かったのではなく、モーセを立てて神の力をもって支えてくださる神様に反逆したことと同じだったからです。神様がモーセを立てて支えてくださっているのに、モーセに立ち向かったから、それは神様に立ち向かったことになりました。このように悪者の最後は全て惨めでした。 だから悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だというツォファルの話は正しいです。しかしこれはヨブにあたることではありません。ツォファルはヨブがそのように悪者だと、神を敬わない者だと思っていたから、自分の言葉は合っていると賢いと思っていました。しかしそうではありませんでした。これは彼の心の悪から出てきた肉の思いだけでした。神様の御目には合わなかったのです。彼が言っている言葉はあっていても、なぜそのように言っているのか。ツォファルの心の中には悪意があったし、ヨブを悪者扱いしていたからでしょう。しかしヨブは悪者でもないし、神を敬わない者でもないし、彼の心は友達よりずっといい正しい心だったからです。

「ヨブ記講解51-心あせってはならない」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:28~20:3

ヨブ記19:28です。
「もし、あなたがたが、事の原因を私のうちに見つけて、『彼をどのようにして追いつめようか』と言うなら、」(ヨブ19:28)

この中には二重の意味が込められています。本文でヨブはもしあなたがたがという表現を使って仮定して説明しています。そしてことの原因を私のうちに見つけて、彼をどのようにして追い詰めようかというならと言っています。ここであなたがたとは友達を指しているようですが、実は神様を指しています。今友達はどうすればヨブを追い詰めようかと互いに話をしながら、ヨブを負かすために続けて言葉で追いやっています。これまでヨブの友達は、ヨブが味わっている苦しみの原因はヨブにあると言い張っていました。ヨブがこんなに試練にあっている理由は、ヨブの悪にあると主張していました。しかしヨブはその話を聞かなかったのです。神様が自分を打ったからこのことの原因は神様にあると言いながら反問していました。

つまり、ヨブの友達はすべての過ちをヨブに原因があると責めていて、ヨブは神様に原因があると責めています。本文でヨブは、どうすれば自分の訴えや主張を通すことができようかと思いながら、神様が自分に負けてくださればいいのにと思いながら、すべてを神様のせいにしていました。だから神様のせいだと言いたいのですが、直接に表現するならまた友達が攻撃してくるはずだから、このように間接的に言っているのです。いくら言っても友達が聞かないから、ヨブは焦っていました。それで今はもしあなたがたがと言いながら仮定して、遠回しに主張しているのです。

ヨブには知識があってまた賢い人だったので、巧妙に攻撃を避けながら、神様と友達両方を責め立てているのです。ヨブは自分の過ちによってもたらされた結果を人のせいにして、憶測と思い込みで決めつけているのです。神様と友達を一緒に責めているのです。しかし私たちは自分の不幸を人のせいにしてはいけません。憶測もいけません。また自分が置かれている苦しみによって、相手が苦しまないようにしなければなりません。自分が責任を負えばよいことを人まで巻き込むことは、卑怯な心で悪賢い心です。自分の苦しみを神様と友達のせいにしたヨブは今、友達に向かってこのように言います。

ヨブ記19-29です。
「あなたがたは剣を恐れよ。その剣は刑罰の憤りだから。これによって、あなたがたはさばきのあることを知るだろう。」(ヨブ19:29)

その剣は刑罰の憤りだから。これは真理です。人々は自分が被害を受けたり、自分の思い通りにならない時に憤ります。その憤りが爆発すれば争いになって、暴行や殺人まで起きます。ところでヨブが友達にその剣は刑罰の憤りだからと言っていることは、友達を脅していて極端(的)なことを言っているのです。つまりあなたがたが憤って私を苦しめたから、それに対する代価として、刑罰と裁きがあると言っているのです。ヨブが言った通り憤りは災いをもたらして、何の利益もありません。また神様は善で悪であれ裁かれる方です。今ヨブはこのような真理の法則を使って友達を脅しているのです。

 

しかし私たちは、相手が自分に憤って非難して恥ずかしめても、その人を脅してはいけません。イエス様はどうなさいましたか?何の罪もないのに鞭打たれて茨の冠をかぶられて十字架につけられて苦しみを受けながらも、「父よ。彼らを赦してください。彼らが何をしているのか自分ではわからないのです。」と神様に愛の祈りを捧げました。またステパノ執事は福音を伝えていて、悪い人々に石打ちされて死にかけていながらも、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。このように真理の人は相手が悪いことをするとき、悪をもって報いるのではなくて、赦してかえってその人のために愛の祈りをするのです。

これまで調べてみたヨブ記19章で、ヨブは変わらずに自分が受けている苦しみと災いは、神様が何の理由もなく下したものだと言いながら、神様を恨んでいました。また自分を責め立てる友達に向かっても間違っていると言いながら、あなた方の憤りは結局刑罰と裁きをもたらすものだと言いながら脅していました。このようなヨブの話を聞いていた友達は、またどんな反応を見せるでしょうか。これからヨブ記20章ではもう一度ヨブの友達ツォファルが登場します。ツォファルはヨブ11章であなたが罪と悪を捨てるなら神様の前に大胆に立って恐れないだろうと忠告した人です。その後ツォファルはヨブと友達が言い争っていることを聞いていて、もう一度口を開きました。 ヨブ記20:1-2です。 「そこでナアマ人ツォファルは答えて言った。それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため、私は心あせる。」(ヨブ20:1-2) ヨブは前、私の内なる思いはわたしの内で絶え入るばかりだと言っていました。つまり自分が死んだ後、神様の前に立つ状況を考えてみたら、息苦しくなるほど不安だからそう表現したのです。これまでヨブは不満を言いながら、神様の前に恨んでいて責めていたから、こういう姿で神様の前に立つのを考えると、不安と後ろめたさを感じていました。ところでここでツォファルはいらだつ思いが私に答えを促し、私は心焦ると言っています。これまでツォファルは2人の友達と一緒に激しくヨブを非難していましたが、実は彼は人を責めるような資格がある人ではありませんでした。友達と一緒に激しくヨブを非難していたでしょう。ヨブと互いに言い争っていました。そして今までヨブの反論を聞いていてまた友達の反論も聞いていながら、自分は人を責めるような資格があるのではないと、心の中ではうすうす感じていたのです。例えば自分は人を愛していないながら、相手になんでそんなに愛が足りないのかと指摘するなら、恥ずかしいことでしょう。しかしこの様に言っておいて恥ずかしいと思わない人がいるかと思えば、それでも少し良心もあって、呵責を感じる人もいます。 ツォファルは友達と一緒にヨブを激しく責め立てて追い詰めて呪ったことについて、実はそれは恥ずかしいことだと心の一方では感じていたのです。人は自分が言ったことについて責任を負えない場合がよくあります。そして自分は行っていないのに、人には教えて指摘する場合もあります。例えば下着を取ろうとする者には上着もやりなさい。右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい。敵を愛しなさいと真理を教えていながら、自分はその通りに行っていないのです。実際人に施すべき状況ではためらうし、敵でもない人を憎んだり、感情的になって対立したりします。 こういう場合、少しでも良心がある人なら普段自分が言っていることが正しくないと、感じることがあるでしょう。この時、黙って自分を顧みながら反省すれば良いのに、そうしないで言い訳をしようとするから、心は焦るようになるのです。だから相手に何か誤ちがあって、自分が知っている真理を持ってアドバイスをしたのですが、話をしていたら自分もその御言葉を行っていないことに気がつくのです。それなら黙って自分を顧みて反省すればいいのですね。でもそうしないで、かえって言い訳をしようとするから心焦るのです。良心が少しあって、心の呵責、良心の呵責を感じたものの、それで反省するのではなくて、必死に言い訳しようとして、何か理由付けるものはないかを探すのです。いや私もそんな姿があるけれどでも、今は私が正しいことを言わなければと思うのです。ツォファルが今そんな心なのです。 ツォファルはこれまでのヨブとの言い争いの中で自分が言ったことが心の中では正しくないな、恥ずかしいことだなと少し良心の呵責を感じながらもでも、何とかして自分が正しいことを通そうとして貫こうとして言い訳しようとするから、かえって苛立って心焦っているのです。ツォファルは友達と一緒にヨブを非難している自分が正しくない、悪いと確かに少し良心があって呵責を感じていたけれども、そこで自分を変えて反省したのではないのです。かえってもっとヨブを非難して自分の心の正しくないというところを隠そうとしているのです。続く本文を見ましょう。その理由は具体的に書いてあります。 ヨブ記20:3です。 「私の侮辱となる訓誡を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。」(ヨブ20:3) ツォファルは友達と続けてヨブを責めたてた言葉が、結局は自分の顔に唾を吐く結果になることを薄々感じてはいました。自分で良心の呵責を感じていました。それは自分もヨブと同じように、自分が言っていることを実行はしていない人だと気づいていたからです。自分もヨブと変わらない人だと感じたから、私の侮辱となる訓戒を聞いたと言っているのです。でも私の悟りの霊が私に答えさせると言っています。これは正確にその意味を理解しなければなりません。言い訳しようとして心焦っている人が、どうして悟りの霊を得て賢い答えができるでしょうか?私にもちょっと私が言ったことは正しくなかったんだ、悪いところもあったんだと心の隅ではそう感じていたのですが、でもここではまた開き直って、私は悟りの霊が応えさせていると言っているのです。 正しい良心を持っている人なら自分の過ちについて指摘されたら、顧みて悔い改めるでしょう。そうして言い訳もしないでしょう。しかし、悪の多い人はとんでもない理由をつけて言い訳を示して、他の人に責任をなすりつけようと企んだりして悪知恵を働かせるのです。そして一生懸命工夫して絞り出した言葉を、自分なりには賢い答えだと思っているのです。例えば相手が一言言うと自分は二言三こと言い返して、相手がすぐに言い返せなくて困っているのを見ると、嬉しくなって、あぁ-すっとした、私は頭が良いと思うのです。これは真理で照らしてみればどれほど愚かで悪い姿でしょうか。 ツォファルもヨブの話に反論しながら自分なりに工夫して言い訳をして、自分なりにこれは賢い答えだと思っていましたが、神様の方ではどれほど恥ずかしいことでしょうか。神様は善をもって悪に打ち勝ちなさい、人を自分より優れている人だと思いなさい、と言われました。しかし相手を負かそうとしたがるなら、真理とかけ離れているでしょう。私達は信仰生活をするとき、必ずこれを心に留めて、変えられていかなければなりません。自分は行っていないのに、他の人に押し付けたり、行っていないからと指摘するなら、良心が少しでもある人は呵責を感じるでしょう。そういう時言い訳しようとするのではなくて、反省して立ち返る人が本当に賢い人なのです。もちろん教える使命を持っている人ならば、自分はまだみ言葉を全部行っていなくても真理を正しく教えなければならないでしょう。 例えば区域長が自分はある事情があって祈れなくても、区域のメンバーには祈らなければならないことを教えなければなりません。もし私も祈れないくせに誰に教えることができようかと思いながら、初めから教えないならばそれは使命を果たしていないということです。ある人を訪問して喜んで感謝してこそ問題が解決されますと言いながら、自分の心の中では私も喜べなかった感謝できなかったと感じますね。そういう時なら、相手に真理を教えないほうがいいでしょうか?そうではありません。それでも真理は教えて、相手が正しい道に行くように導かなければなりませんね。そして私も欠けているところが多いですけれども、一緒に頑張りましょうと、このように互いに励まし合えばいいし、実際自分も祈りながらもっと喜んで感謝するために努力すればいいのです。 しかしそうではなくて、私はもう行っていないから初めから教えまいと思ってはいけないのです。そういう使命がある人ならば、当然真理を教えなければならないし、その真理を自分に照らして自分も変えられなければならないですね。それで自分も努力しながら、また同時に正しい真理を教えて一緒に変えられればいいでしょう。だから教える使命があって人に教えることと、上からの目線で高ぶって人を指摘して教えようとすることとは違うのです。自分がへりくだって、自分が行っていない姿があっても、それでも使命があるから正しい真理を教えるなら、聖霊が働いて下さいます。しかしそうではなくて、悪をもって上から目線で教えようとするなら、それは聖霊が喜ばれないことでしょう。 でも、ヨブの友達の場合は、ヨブを正しく悟すのではなくて、感情的になって指摘して責めていました。ツォファルは自分がヨブを攻めていたことについて良心の呵責を感じたけれど、ヨブの話を聞いていたら苛立って言い訳をしようとして心焦っていたのです。こういう時は黙って反省すればいいのに、いろんな言葉で相手を攻撃しようとして状況を変えようとするのです。良心の呵責を感じて言い訳をする言葉を探して心が焦るのです。何とかしてこの場しのぎをしようとして言い逃れようとし、何とかして自分を指摘する相手の欠点や弱点を捕まえて言い返そうとするのです。そのためにいろいろ頭を絞るのです。 皆さんここで自分の姿を顧みますように。誰かに指摘されたとき心がせいて状況を逆転しようとするなら、ヨブの友達と変わらないでしょう。日常生活で隣人と話をするとき、主のしもべと話をするとき、目上の人に対して目下の人に対しても親子の間でも夫婦の間でも、皆さんにこういう姿があるなら立ち返って顧みますように。もし誰かが皆さんの過ちを指摘してアドバイスをするとき、受け入れて悔い改めて立ち返るならすぐ真理の心に変えられるでしょう。私たち普段どのようにしているのか顧みられますように。 誰かに指摘されたとき相手の欠けているところが思い浮かんで、それに反論したりする姿はありませんか?私を無視しているんだとか、自分もやっていないのに私にやりなさいというのかと、不満を抱いたりするのでしょうか?それなら言い争うようになるのではありませんか?だから小さい子どもが自分に指摘したりアドバイスをしてくれても、良い方に思って受け入れなければならないのです。そうではなくて、あなたがちゃんとやっているのでもないのにと思うならば、ヨブとヨブの友達と同じ心なのです。だからそうするのではなくて、指摘されても謙遜な心で、まずは受け入れなければなりません。 でもすぐ言い訳をする人がいますね。何とかして言い訳をしようと言い逃れようとする人がいるのです。だから自分は指摘されたとき、自分を必死に守ろうとしているのか、自分の過ちを認めないで隠そうとしているのか、でなければ素直に受け入れてへり下って自分の罪を告白して変えられようとしているのか、顧みますように。そして指摘してくれる相手に対して、顔には出さなくても心の中で不満を抱いたり嫌になったり憎らしいと思ったりする姿があるなら、それを悔い改めなければならないでしょう。指摘されたら、まず感謝して喜ばなければならないでしょう。 しかし必死に言い訳をしようとして過ちを認めないで隠そうとするから、一生懸命頭を絞って他の人のせいにするのです。これは自分を愛する心、自分の利益を求める心、悪があるからなのです。それを捨てないからなのですね。だから長い間信仰生活をしていても、信仰の成長がないのです。変えられるために自分なりに祈ってもいて、いろんな奉仕もしています。そして熱い時もあります。そして人々に褒められる時もありますね。でもある時は指摘される時もあります。指摘されたらすぐ顔色が変わって言い訳をしようとして、自分の過ちを隠そうとするならそれ以上発展がないのです。だからなぜ私は祈ってはいるけれど信仰が成長していないのかと思う方はこういう姿を顧みますように。 使徒の働き7:51-60を読むと、ステパの執事が殉教する場面で、悪い人々が指摘されたら苛立って心焦ってより多くの悪をより大きい悪をさらけ出す姿があります。ステパノ執事は神様を信じると言いながら心の割礼をしていない人々に対して、「頑なで心と耳とに割礼を受けていない人たち、あなたがたは、父祖達と同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」と指摘しました。すると人々はこれを聞いてはらわたが煮えかえる思いで、ステパノに向かって歯ぎしりをしました。そしてステパノが聖霊に満たされて、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言ったら、彼らは大声で叫びながら、耳を覆い一斉にステパノに殺到して石で打ち殺してしまいました。 悪い人々はステパノに指摘されるのが聞きたくなくて、耳を覆いました。焦りと怒りに勝てなくて、この様に大きい悪を行ってしまいました。みなさんはどうでしょう?指摘されたとき心焦って苛立って言い訳をしようとして、自分の過ちを隠そうとしたことはありませんか?聖書を見るとステパノ執事も神の力ある技を行っていました。そういう人が指摘したのに、悪い人々はそれを受け入れないでかえって憎んで殺そうとしたのです。心にある悪がこのように明らかになるのです。心に善がある人は善が現れるのですが、悪があるから結局悪が出てくるのです。だから皆さんも自分の心の中にどのように善があるのかを顧みますように。そして心に悪が多い人を刺激することも気をつけなければならないでしょう。 皆さん、聖めを慕っている人は過ちを指摘された時も、自分を顧みて悔い改めて立ち返ればいいのです。箴言15:28に「正しい者の心はどう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。」とあります。どんな状況でも、感情に振り回されないで、落ち着いてじっくり考えてみなければなりません。こういう人は心焦ったり、言い訳したりするのではなくて、心の余裕をもって静かに話をするでしょう。それでも、相手が苛立って言い返してくるならば、それ以上話さないで、イエス様のように知恵をもってその場を離れたりして、言い争いがないようにしなければなりません。しかしそうしないで心焦ってしまうと、感情的になって平和を壊してしまいます。これは神様が喜ばれないのです。 結論です。 箴言16:32に「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」とあります。箴言4:23に「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。このように私たちがどんな状況でも、心を真理によって守ることはとても大切です。話をするとき心のコントロールができなくて焦ってしまうと、感情的になり、すると顔色が変わったり表情が怖かったり目つきが怖くなったりします。我慢できず悪態をついたり暴言を吐いたり、手を挙げる人もいます。これは神様がとても悲しまれることで、敵である悪魔サタンが喜ぶ姿です。こういう人は聖霊の声を聞くことができません。聖霊は泉のように静かで穏やかな心の中に聞かせてくださるのです。だから心焦りや苛立ちがあるときは、聖霊の声を聞くことはできません。 では聖霊の声を聞くためにはどうすべきでしょうか?まず心を真理に変えなければなりません。神様は光であり善と愛真理そのものだから、神様の御霊である聖霊も真理の心を通して働くことができます。だから聖霊の声を聞くためには、次の二つの作業が同時に行わなければなりません。第一は、聖霊の声を聞けないようにして、サタンのしわざを受け入れる真理と反対の思い、肉の思いを打ち砕くことです。そして第二は聖霊の声を聞けるように、心を真理に満たすことです。いくらたくさんの時間祈って、み言葉を知識的にたくさん知っていても、肉の思いが多ければ聖霊の声を聞けません。だから皆さんは、心に真理を満たして、肉の思いを打ち砕いて一瞬一瞬正確に聖霊の声を聞いて、いつも栄える道に導かれますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思いながら一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが自分についてどのように訴えていたのか、そしてどのように恨んでいたのか、神様についてどんなふうに考えていたのか分かりました。そして神様の前に立つとき、自分が今までしたことがあるから、不安で切羽詰まっているそういう気持ちもありました。私たちはどうしているのか顧みますように。私達は自分の心に悪があって救いの確信がなくて、それで不安になったり心苦しくなったりする姿がないのか顧みますように。そしてヨブの友達ツォファルの姿を見ました。良心の呵責を感じたものも、自分を認めてへり下るのではなくて、必死に言い訳をしようとして、それで苛立って心焦ってしまう姿もありました。そして自分の過ちを認めないで隠そうとしていて、人のせいにする姿もありました。それを通して私たちも自分自身を顧みるようにしてください。それでへり下って変えられるようにしてください。感謝します。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解51-心あせってはならない」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:23~27

さん前回はヨブが自分の苦しみを神様のせいにしながら、友達にも自分を憐れんで欲しいと願っている姿を見ました。しかし、こういう場合人間的な慰めは何の役にも立たないので、真理で悟して相手の魂が幸いを得るようにしなければなりません。ヨブは自分が痩せ衰えている理由も神様のせいにして友達のせいにしていますが、自分で自分を削っているのです。もしヨブの心が正しくて綿毛のように柔和で友達の話を受け入れたなら、やつれるはずがなかったでしょう。しかし相手の話を受け入れない人も問題ですが、彼に続けて指摘して苦しめている人も正しくないと伝えました。

ところで大切なのはこのようなメッセージを聞いて、自分自身を発見して変えられなければならないということです。元老牧師先生はヨブ記講解を伝えながら、これはとても大切だと何度も言われました。私たちがメッセージを聞いて自分を発見して悪と真理と反対のものを捨てるほど魂に幸いを得て、そう魂に幸いを得ているように、衣、食、住を初めいろんな祝福を受けるからです。

ですから皆さん自分自身について、皆さんもよく知っていると思うかもしれませんが、実はそうでないのです。私の名前はこれです、私の身長はこのくらいで私の性格はこうですと自分自身についてよく知っていると思うかもしれませんが、聖めの福音を聞いて自分を顧みてみるとそう言えないでしょう。自分の中に真理と反対のものがたくさんあるし、それが深く潜んでいるからそれを発見できない人もいて、またあってもそれを認めないから自分自身についてよくわからないのです。自分の心の中に憤りがあって憎しみがあることを知っているなら、本当に知っているならそれを捨てるはずでしょう。でも実は分かっていないから捨てようとしないのです。

皆さんの顔に何か誰かがいたずらでペンで書いたとしましょう。そうでなければ、何か汚れがついているとしましょう。それを見たなら洗うでしょう。でも知らないから、気づかないから洗わないし、ふかないのではありませんか?私たちも同じです。自分の中に本当の自分があるのに憤っている自分があるのにそれを認めないのです。私はそんな憤る人ではないと思って蓋をして置くから問題なのです。しかしヨブ記講解を通して自分自身を見つめ直すようになって、発見するようになるのです。ヨブの姿からヨブの友達の姿から、自分を発見するようになるのです。日常生活で自分が思ったことを考えたことを自分の口にした言葉を、このヨブの言葉とか友達の言葉を通して聖霊が思い起こさせてくださるのです。それで霊的に悟るようになるし、自分を発見するようになるから祝福なのですね。だから私たちは真理のみ言葉を聞いて罪と悪を捨てていくと、魂に幸いを得るようになって、すると神様も祝福してくださることができるのです。

マタイの福音書6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とあります。だから私たちは教会のために主のしのべのために働き人のためにまず第一に祈らなければならないのです。神の国のために祈りまたその義のためにも祈らなければなりません。つまり神様のように私たちも神様に似ていくために正しくなるために祈るのです。神様が人間耕作をなさる理由がありますね。まことの子供を得るためでしょう。つまり聖められた子供、罪を捨てた子供、聖い子供を望んでおられるから、そのような子供になるために祈るのです。

 

第3ヨハネ1:2「愛する者よ。あなたがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。私達が霊肉ともに祝福される為には、魂に幸いを得ていなければなりません。ですから、今日メッサージを聞くとき、自分を発見して変えられて、魂に幸いを得ていて、すべての点で幸いを得、健康でありますよう、主の御名によって祈ります。

前回に続いてヨブは今日も神様の前に恨んでいます。ヨブ記19:23-24です。
ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ書き物に刻まれればよいのに。鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。」(ヨブ19:23-24)
 

ヨブは今自分が言っていることと、今自分が受けている試練この苦しみを書き物に書き止めたいと、いつまでも岩に刻みつけたいと言っています。今の自分の痛みと悔しさが記されて、ずっと誰かが覚えてほしいと思っています。皆さんもそう思うときありませんか?本当に悔しい目にあって苦しいとき辛いとき、誰かがそれをわかってほしいですね。自分の味方をしてほしいですね。人は自分を愛します。だから自分が何か辛い思いをすると周りの人に言うのです。聞いてほしいと思うのです。わかってほしいと慰めてほしいと思うのです。 今ヨブがそうです。こんなに病気で苦しいし、自分が悔しい目にあっているから、それを書き記して、ずっと人が覚えてほしいと思います。今どれほど辛いし悔しいのか苦しいのかを表現しているのです。ここで鉄の筆とはペンのように先が尖っている筆とか彫刻刀を言っています。鉛は金属の一種ですね。ヨブは自分のこのような悔しい状況を本で書くならば、もしかして消されたり破れるかもしれないから、固い石に刻みつけてずっと保存したいと思います。それだけ今、自分が受けている苦しみと痛みが重いし、恨みが大きいことを表現しています。 皆さん周りで悔しい目にあっている人の中で、これと似た表現をする人を見たことありますか?そうでなければひょっとして皆さんが神様を信じる前、誰が私のこの悔しい思いをわかってくれるだろうか、私の悔しい思いをどこに記せばいいのか、悔しくて死にそうだと言ったことはありませんか?クリスチャンの中でも、神様は私の悔しい思いを知っていると言いながら、自分の潔白を明かすために必死になる場合があります。しかしこれはそれだけ心に悪があるということを物語っています。信仰が欠けているからなのです。韓国のことわざの中に、かたきは水に刻み、恵みは岩に刻めという言葉があります。人との関係で自分が損したことや悔しいことは流れる水のように忘れても、反対に恵みを受けたことは変わらずに覚えていなさいという意味です。しかし人はこれを反対にしますね。誰かが自分を苦しめて自分に悪を行ったならそれは絶対忘れませ。ん。そして受けた恵みはすぐ忘れてしまうのです。しかし世の人もどちらが正しいか分かっているから、こういうことわざがあるのです。自分が損をしたことや悔しいことは流れる水のように流してしまい、しかし受けた恵みは、変わらずに心に留めておきなさいと言っています。それが正しいのです。世の人もどちらが義なのか善なのか知っているのですが、私たちはどうすべきでしょうか? これは真理である神様の御言葉とも通じあっています。神様はどのようにしなさいと言われましたか?詩編37:5-6です。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」とあります。ローマ12:19には「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」とあります。ルカ6:35には「ただ自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやりなさい。」とあります。このような真理のみ言葉に従う人は、不当な目にあっても心の平和を思い失いません。生きておられる神様の前に真実で大胆だから、誰のせいにもしないで静まって神様に頼るだけです。すべてのことを知っておられる神様が答えて下さり解決して下さることを信じるから、焦ることもないし静まって待っているのです。神様の前に罪を犯さないで光の中を歩んでいるから、霊の信仰が与えられて、人を恨むこともなく平安でいられるのです。 今日のメッセージのタイトルと反対ですね。心焦ったり、憤ったりするのではなくて、心に平安があるのです。悔しくてたまらないと不安に思って心焦るのではなくて、それで感情的になってしまい人のせいにするのではなくて、すべてを神様に委ねる人は心が穏やかです。そのためには神様との間で罪の壁があってはいけないでしょう。神様は罪の壁がない人の祈りを聞いてくださり助けてくださるのです。しかし罪を犯していて罪の壁があるならば祈っても答えを受けられないのです。だからまずは罪の壁を壊さなければなりません。そして自分の知恵とか自分の能力で解決しようとしてもできないのです。 だからまずは罪を犯さないことが大切なのです。そして自分の心の悪によって感情的になったり憤ったりイライラしてストレスを受けていたから痩せてしまうし、消化不良になってしまったり眠れなくなるのです。不安になるのです。しかし神様にゆだねて神様を信頼する人は罪の壁を作らないから神様が全てを栄えるようにしてくださるのです。このように生きておられる神様に全面的に信頼するとき、まるで光が闇の中を照らすと全ての真相が明らかになるように、結局彼の正しさが明らかになって必ず勝利して栄光を得るようになります。ですから私たちは神様の御言葉通りに許して我慢して待ちながら、神様に委ねて頼らなければなりません。すると神様が全てを働かせて益としてくださるのです。だから自分の無念も書き記す必要もないのです。 続く本文でヨブはヨブ記19:25-26です。 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮がこのようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」(ヨブ19:25-26) ヨブは、友達に憐れんでほしいと言いながら、自分がこんなに苦しい、こんなに悔しいめにあっている、これを書き記したいと言っています。そしてここでは、自分が神様について知っているかのように言っているのです。高ぶっている姿です。ヨブはここで私は知っていると言っていますが、これは本当に知っているのではないのです。自分が聞いている知識ではこうだと、正確でない真理でないことを知っているのです。そうではなくてヨブが神様について正確に知っているならば、今のように神様を恨んだりはしないでしょう。ヨブは自分の思い込みの中で、神様について知っているふりをするだけなのです。私たちは信仰生活をするとき、確かな信仰と不確かな信仰では大きい違いがあることを悟りますように。霊の信仰と肉の信仰の違いです。 確かな信仰、霊の信仰を持っている人は神の子供とされた後、確信があるから天国への希望があり、どんな状況でも喜び感謝して祈りながら御言葉に従います。確かな信仰があるからです。目の前にいろんな苦しみがあっても神様に委ねて、だから喜んで感謝することができるのです。しかし反対に不確かな信仰、肉の信仰を持っている人は確信がないから、神様の御言葉を聞いても疑うようになって完全に信じられないから御言葉に従わないし、世と友となって罪を犯すのです。神様の御言葉には喜びなさい、感謝しなさい、愛しなさい、許しなさいとあるのに、それは自分にとっては不利益になるようだから従えないのです。不確かな信仰だからです。 だから現実の中で苦しみにあったら神様の御言葉はどこかに行ってしまうし、自分の考えで何かをしようとするのです。そして不満を抱いたり、神様の前に問い詰めたり、呟いたりするのです。それで段々神様から離れて、罪を犯してしまい、世に向かってしまうのです。このような人は信じると思っていたのに、また疑ってしまうのです。移り変わってしまうのです。 平安な時、恵みに満たされていた時は信じると言っていたのに、現実に問題が起こって試練がやってくるとまた疑ってしまうのです。熱心も冷めてしまうし、ふた心があるのです。だから祈りにも応えられないし祝福されないのです。ヤコブ1:6-8です。「ただし少しも疑わずに信じて願いなさい。疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようです。そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは二心のある人でその歩む道のすべてに安定のかけた人です。」とあります。ですから私たちは疑う心や運に任せる心を捨てて、ただ霊の信仰を所有して神様の前に求めなければなりません。 すると神様は私たちの心の願いを叶えてくださるのです。本文にヨブは骨と皮だけ残っている状態だったので、私の皮がこのように剥ぎ取られてのち、私は私の肉から神を見ると言っています。つまり自分が死んだ後には神様を見ると言っています。これも不確かな信仰の中でただ聞いて知っていることを言っているだけです。こういう言葉は神様を信じない世の人もいくらでも言えます。例えば普段神様を探してもいなかった人が、自分が善良に生きたから天国がもしあるなら私も行けると言います。このように言う人がたまにいますね。自分なりに正しく生きたから、天国がもしあるなら私も天国に行けると言っています。それは天国を信じているからそういうのではありません。 そして真理を知っているからそういうのでもありません。自分が正しいと主張しているだけなのです。これは信仰の告白でもないし、自分の言い訳にすぎません。本当に信仰のある人ならばいつも目を覚ましていて御言葉に従って、天国を望みながらまた来られる主を待っているでしょう。全き信仰には行いが伴います。行いのない信仰は死んでいる(も)のです。本当に信仰のある人は、一生懸命心を割礼して主に似るために励み、天国で受ける報いを望みながら忠実に仕えます。そうすると確かな信仰が与えられます。しかしヨブはそうではなかったのです。今自分は神様の前に恨んで神様のせいにしていて悪い神様のように言っていながら、自分が死んだ後、神様を見るだろうと言っています。それは自分にそういう確信があるから言っているのではないのです。ただ自分が聞いて知っている知識的な信仰で言っているのです。 続くヨブ記19:27です。 「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」(ヨブ19:27) つまり自分が死んだ後、神様の前に立つようになることを言っているのです。この地上での人生が終わった後、自分の目で神様を見るだろうと言っています。これまで神様について聞いて知っていたし、自分なりに金銀を捧げたから、神様を直に見ることができるだろうと思っています。しかし実際ヨブは神様の前に立つならどう言うでしょうか?なぜ私にこんな苦しみを与えましたかと問い詰めるつもりでしょう。でもこういう姿勢と心で本当に神様の前に大胆に出ていくことができるでしょうか?これまで神様を悪い神様だと非難して恨んでいたのに。前は神様の前に金銀をちゃんと捧げて神様を恐れていたとしても、今は神様を恨んで悪い神様と非難しているのに。こんな姿でどうして神様の前に大胆に立てるでしょうか? だから実はヨブは心の中でも不安でたまらなかったのです。だから私の内なる思いは私の内で絶え入るばかりだとこのように言っているのです。皆さん、この礼拝が終わった後、又来週にもシリーズが続くのですが、次の週の本文を前もって読んで来て下されば良いと思います。それでこの表現はどういう意味なんだろう、この単語はどんなことなんだろうと思いながら、自分の考えでは理解できない、疑問に思うこともあるでしょう。その次、実際礼拝のときメッセージを聞きながら、正確な意味を悟ってああなるほどと思うと、とても礼拝が面白く楽しいでしょう。メッセージを聞くのが楽しいと思います。今日の本文もそうですね。なぜヨブがこのように言っているのか?聖書を読むときはよくわからなかったでしょうが、今日のメッセージを聞いてみれば、その意味を深くまで悟ると思います。だから毎週シリーズだから次の週の本文も前もって読んでくれば良いと思います。 ヨブは自分の以前の姿と今の姿があまりにもその違いが大きいから、やがて神様の前に立った時を考えてみれば、息苦しくなるほど不安だったのです。絶え入るとは息が絶えて死ぬ、気を失うという意味です。ヘブライ語の言語の意味では、枯渇してなくなるという意味です。耐え入るばかりだとは、つまりすぐに息苦しくなるほど不安で死にそうだという意味です。切羽詰まっている気持ちを表現しているのです。 今日、信仰があるという人々の中でも、このような不安を持っている場合があります。罪と義と裁きについて聞いて知っているけれども、相変わらず自分は真理の中で生きていないし、花嫁の備えを怠けているから不安です。マタイの福音書25章の十人の娘のたとえで、愚かな五人の娘のようです。油の用意をしておかなかったから、花婿が来られたとき、切羽詰まって不安になりますね。灯し火は持っていたけれども油を用意していなかったから、突然花婿が来られると聞いたらどれほどびっくりして、切羽詰まって不安になるでしょうか。そして賢い五人の娘のところに行って油を分けてくれと言います。どれほど愚かな姿でしょうか。もう用意する時間がないのです。それで結局は婚礼の宴会に参加できなかったのです。 霊の信仰を持っていない人はこのような不安を抱えているのです。御言葉を聞いて知ってはいるけれど、御言葉通りに生きていないから、聖霊様が悲しまれるし、またうめいてくださるからいつも心が苦しいし不安なのです。教会に来て礼拝を捧げるときは、悔い改めてこうしてはいけないと思っても、日常に戻ったらまた世の人と変わらない生き方をしていて、ずっと不安ならどれほどつらいでしょうか?しかし花嫁の備えをちゃんとして主を迎える準備を終えた人は、慕う心で主を待ちます。だからどれほど幸せでしょうか。今日も明日も主を待つその時間が神様の前にどれほど報いになるでしょうか?天国への希望が溢れていて天に報いを積んでいるのです。だから花婿が来られると聞かされたらどれほど嬉しいでしょうか?大胆に主の前に出ていくことができるでしょう。どうしよう、まだ用意ができてないのにと不安に思うこともないでしょう。 皆さんもし明日主が来られると言うならどうでしょう。皆さんの心はどうでしょう。主イエスよ、早く来てくださいと大胆に言えるでしょうか?出なければ、いやちょっと待ってください。まだ新しいエルサレムにまだ行けないのにと思いますか?でも信仰のある人は今まだ欠けているところがあってもそれでも、喜んで主を受けれるでしょう。でも信仰生活をちゃんとしていない人は、明日主が来られるというその言葉を否定したいのですね。それが嘘であったらと思うのではありませんか。でも信仰が少しでもある人は、今からでも悔い改めて立ち返って正しく生きようとするでしょう。そのように切羽詰まって、不安になったりして息苦しくなるようなことがあってはならないでしょう。皆さんの今の信仰生活をチェックして下さいますように。一足は世の中に、一足は教会に、このように二股をかけているならば、救いの確信がないから息苦しくなるのです。 講壇からはいつも罪を捨てなさい、真理の御言葉通りに生きなさいと教えていて、天国と地獄を伝えています。そしてこの教会ではこの御言葉が確かなものであることを現わす神の力があるではありませんか。だからそれは事実だと知っているから完全に世に落ちることはないけれど、教会と世に二股をかけているのです。世をまだ捨てていない立場ではどれほど不安でしょうか。このような不安を捨てて真の平安と自由を得たいと思うならば、速やかに罪を捨てて世を愛する生き方から立ち返ればいいのです。皆さんは天国への希望を持ってさらに御言葉にとどまっていて、上から与えられる喜びと感謝また聖霊に満たされて信仰生活をしますように。だから不安に思うのではなくて、いつも幸せと喜びが溢れていて、主を待つそのような生き方になりますようお願いしま。

「ヨブ記講解50-肉の人と御霊の人」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:20~22

続くヨブ記19:20です。


私の骨は皮と肉とにくっついてしまい、私はただ歯の皮だけでのがれた。(ヨブ19:20)

ヨブは皮と骨がくっつくほどとてもやつれて衰弱していました。皆さんがヨブの身になって考えてみてください。ヨブ記7:3に「私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている。」と言っていました。1日2日でもなく数ヶ月も苦しんでいたし、ずっとストレスを受けていたから物を食べても消化できないし、だんだんやつれるしかないでしょう。友達は言葉で攻撃して、妻は自分を見捨てて親戚も離れてしまい、しもべたちもヨブを無視しているから、その寂しさと心の苦痛はどうだったでしょうか。それに全身はひどい皮膚病で、傷口が固まってはまた崩れることを繰り返されていて、血が出て醜くかったのです。ですから全身がやつれて骨が皮にくっついてしまいました。残っているのは歯の皮だけだと言っています。それで話すことはできました。このように惨めな目にあったヨブは友達に次のようにお願いします。

ヨブ記19:21です。
あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。
(ヨブ19:21)

ヨブは友達に神の御手が自分を打ったからこんなに惨めになったから、憐れんでほしいと言っています。ヨブの今の境遇を人間的に考えるととてもかわいそうですが、ヨブが言っていることを聞いてみれば、ヨブを憐れむことができないことがあります。もし、皆さんが試練にあって「先生、神様が私を打ってこの様に苦しめています。私を憐れんでください。」と言うなら私が憐れむでしょうか?もちろん不当に苦しみにあっているならば一緒に悲しんで祈ることはあるでしょう。しかしそうではなくて、自分の罪の為に苦しみをうけているのに、神様が自分を苦しめていると言いながら、神のせいにしているなら憐れむことができないでしょう。自分が人を憎んで、また言い争って苦しめて互いに対立しているのに、ある人のところに行って「私はこんなにその人のせいで辛い思いをしています。憐れんでください。」と言うなら私はどう言えばいいでしょうか?

それは大変ですねと言いながら慰めることはできないのですね。正確に何が正しいか正しくないかを悟らせなければならないでしょう。人間的に慰めて憐れむからといって問題が解決されるのではありません。命を与えるのは御霊です。真理にあってどうすれば霊的に問題が解決されるの

かを悟らせてその道を教えなければなりません。人間的に慰めるよりは相手が神様の御言葉通り行って、まず魂に幸いを得ているように導かなければなりません。

ところがヨブが友達に自分を憐れんでほしいと言っています。ここでは私たちはヨブが肉の人であることが分かるでしょう。肉の人はこのように慰められたいと思って褒められたいと思い、自分をわかってほしいと思うけれど、そうでなければ不満を抱いて苦しむのです。クリスチャンの中でもそういう場合があります。聖徒が主のしもべのところに行って相談するとき、真理で答えを教えるのにその人はすっきりしないのです。真理は許しなさい、理解しなさい、祈りなさいですね。でもその答えが気に入らないのです。だから自分と親しい人のところに行って、あれこれ愚痴を言って慰めてもらいたいと思うのです。

それは霊的には何の益にもならないことなのにそうするのです。自分が試練にあって今は辛いから寂しいから、だから主のしもべのところに行って霊的な答えを受けようとしないで、世の友達に会って、あれこれ不満を言いながら慰めてもらいたいと思うのです。肉の人の姿なのです。そのように不満を言って文句を言って人の陰口を言って、あれこれ噂話をして、そうすると胸がすっとするでしょうか。それは束の間だけです。それで問題が解決されるのではありません。霊的な忠告を受けなければなりません。真理のみ言葉を聞こうとしなければなりません。 祈りなさい、神様に求めなさいとか、その人のために祈りなさいとか、善を行いなさいというこの霊的な答えを聞き入れなければならないのです。それが今すぐにはすっきりする答えではないかもしれないけれど、それを聞き入れて努力していけば霊的に問題が解決されるようになるのです。聖霊様が働いてくださるからです。しかし肉の答えを受けたいと思う人は、そのような霊的な答えに耳を傾けないのです。それでだんだんもっと試練が多くなったりするのです。どれほど愚かな姿でしょうか。肉の人はそうです。だから皆さんにもそういう姿があるなら悔い改めなければなりません。 続く本文を読むとヨブはさらに話にならないことを言っています。ヨブ記19:22です。 なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。(ヨブ19:22) 私は自分の過ちでこんな目にあっているのではない、神様が私を打ったからだ。それなのにあなた方も私を迫害するのか。ヨブは神様が自分を追いつめていると決めつけていて、友達も同じように自分を苦しめていると言っています。わたしの肉で満足しないかとも言っています。友達が自分を追いつめてこんなふうに自分はやつれてしまったのに、まだ気が済まないのかと言っています。ヨブは友達が言っていることを受け入れないし、イライラして言ってストレスを受けたのです。友達があなたは悪い、間違っているとずっと指摘して責めているから、それを聞いているヨブは精神的にどれほど疲れたでしょうか?それですごく悩んでストレスを受けるから、どんどん痩せていきました。だから友達が自分の肉を食べると表現したのです。このようにヨブは自分が痩せる理由を神様のせいにして友達のせいにしていますが、実はヨブが自分で自分の肉を削っていました。 もしヨブの心が良くて柔和な人だったなら、ストレスで痩せることはないでしょう。人の心が鉄板とかコンクリートのように固いなら、相手が悪い言葉で攻撃すると耐えられません。固い鉄板に石を投げるとどうなりますか?強くぶつかってやかましい音がします。このように心が頑なな人が不当なことを言われると、はらわたが煮えたぎって夜眠れないこともあります。今すぐ行って言い訳をしたり、問い詰めて怒鳴ってこそ胸がすっとするでしょう。皆さんの心も顧みますように。 もし誰かに誹謗中傷を言われたことや、誤解されたことでストレスを受けてどんどん痩せるなら、それだけ自分の心が頑なだと分かればいいでしょう。最近私たちは現代の社会では環境が豊かだから反対にストレスを受けると食べ過ぎてしまい太る場合もあります。人の話とか周りの環境のため精神的に疲れて悩んで、いろいろな現象が起こるのです。人それぞれ違うでしょう。皆さんはどうだったのか顧みますように。そして人のせいにしたり、環境のせい、家族のせいにして、その為こんなに私はつらいと思いながら食べ過ぎてしまったり、そうでなければ痩せてしまったりすることはなかったのか顧みますように。 反対に綿に石を投げるとほんわり包んでしまうから音がしません。このように私たちの心が綿のように柔和で良い心なら、誰とも対立したり言い争そったりしないでしょう。いくら石のような心を持っていた人が攻撃してきても、愛と徳で包むから争いにならないのです。傷つくこともないからぐっすり眠れるし、よく食べて消化します。どんなことがあっても喜んで感謝して神様の愛で心が満たされていて、天国への希望があるから痩せ衰えるはずがないのです。ですから私たちは柔和な心を所有して相手を苦しめることを言ったり、相手を辛い思いをさせることがあってはいけません。 ヨブは友達の助言を受け入れることができなくてやつれていますが、友達は相変わらず責め続けています。相手の言葉を受けない人も問題ですが、彼を続けて指摘して苦しめる人も正しくはないのです。ヨブが友達の話を受け入れて認めていたなら問題が解決されていたでしょう。しかしそうでなかったからストレスで痩せていたのです。このようなヨブに向かって責め続ける友達も同じ罪を犯していました。本当に愛するなら相手の利益を求めて言葉も注意しなければならないでしょう。 皆さん。これまでヨブの立場に立ってメッセージを聞きましたか?皆さんがヨブと同じような境遇に置かれているならどうだったでしょうか?ヨブが今でも立ち返って神様の前に悔い改めて真理に従って喜んで感謝するなら試練は終わるでしょう。皆さんの問題も同じです。皆さんがどんな状況に置かれていても信仰の目で期待しながら、誰とも対立しないで柔和の心で仕えて真理を行うならどうなるでしょうか?神様は生きておられます。神様が憐れんで下さり、速やかに答えて下さり、問題が解決されるでしょう。神様は私たちの心が主に似た柔和な心になるように望んでおられます。ですから、皆さんが変えられて全ての人と平和を追い求めて家庭と職場で祝福され福音化され栄光を捧げますように。 時に問題にぶつかったり試練に会うとき、神様の前につぶやかないで不安を持たないで、真理に従って感謝しようと努力をしていきます。自分なりにやってみても問題は解決されないし、答えが見えないときはどうでしょう。それでだんだん疲れてしまって熱心が冷めてしまい、心の中でこっそり神様のせいにする姿はないでしょうか?人は自分がよくやったことだけを覚えています。しかし自分に欠けているところがたくさんあるのにそれは気がつかないのです。 初心のものが熱いとき少しだけ行ってもすぐ答えを受けますね。でも信仰歴もあってある程度信仰のある人々が初心の者のようにちょっと行うからといって、すぐ答えが来るでしょうか?そうではないのです。神様が望んでおられる基準が違うのです。そして神様の前に過ちとか罪を犯しているところがたくさんあるならば、もっと答えを受けるのは遅くなってしまうのです。ですから自分がやっていることだけを考えて神様に不満を抱くのではなくて、自分に欠けているところを正確に発見しなければなりません。 神様は正確な方です。私たちのすべての行いと口の言葉と心と思いを全部知っておられます。今日のメッセージは肉の人と御霊の人ですが、これはヨブの姿だけではなく、私たちも自分を顧みるようにするためです。自分は肉の人なのか、御霊の人なのか、ヨブの姿を見ながら、自分の心も口の言葉もまた考えていることも、一つ一つ細やかにチェックしてみなければなりません。そして、自分の姿を客観的に見つめ直さなければなりません。自己中心的な考え方ではいけないのです。 皆さんは初心の者ではないでしょう。又、多くのメッセージを聞いているでしょう。ヨブ記講解を通して、自分が何故試練に遭っているのか、何故問題が解決されないのか、その原因を正確に発見して回復しますように。 結論です。 愛する皆さん、今日はヨブの姿を通して、指摘されたり責められるとき、どんな姿勢でいるべきかについて調べてみました。肉の人は相手が自分をわかってくれて慰めてくれれば嬉しいけれど、そうでなければ不満を抱きます。ヨブは友達や周りの人を恨みながら、友達の指摘や失責によって自分がストレスを受けてやつれていると言いました。しかしそれは肉の人の姿です。肉の人は誰かが嫌味を言ったら、それによって悩んで辛くなって反論したくなって言い訳をしたいのです。そうでなければ夜眠れないし消化不良になったりイライラします。しかし御霊の人は自分を顧みます。自分に必要な指摘だったなら当然感謝して受けるでしょう。訳もない悪口だったならただ聞き流せばいいのです。だから、ストレスを受ける理由がないのです。 私たちは誰かが自分の悪口を言ったり嫌味を言うならば、それによって嬉しい人はいないでしょう。相手がそんな悪を行っているから悲しいでしょう。しかし御霊の人はそのため自分が傷つくことはないのです。自分とは関係ない言葉だからです。悪いことを言った人はその人の悪の為その人に報いが臨むから心は痛むのですが、それによって、自分が傷ついたり、ストレスを受けることもないし、自分の信仰に悪い影響を受ける理由もないのです。しかし、人に認められたいとか、人にわかってほしいと思う人は、人に何か言われたら、そのため自分が傷ついたりするのです。それが肉の人の姿です。 皆さんはこのように自分がどんなことで傷つくのかストレスを受けるのか顧みますように。肉の人と御霊の人にはこのように大きい違いがあります。神様はヨブがまだ肉の人だから彼を御霊の人になるようにするために練っておられます。私たちも同じです。私たちは神様の子供です。神様は聖なる方で完全な方で傷もしみもない穢れのない方です。エペソ1:4に「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあるように神様は子供である私たちが聖く傷のないものになるように望んでおられます。それで心による肉の属性を発見して捨てるように、試練に遭って変えられるようにしてくださいます。その試練の過程を経て、私たちは変えられて神様の心を理解するようになり、その試練の過程が大切な経験になるのです。そして他の人も変えさせることができるようになります。 そして天国にいた時は真の感謝と幸せを味わうようになるでしょう。この地上でも試練が大きい分、後で受ける祝福も大きいでしょう。ですから神様の前で練られるとき、ただ感謝しながら様々な試練にあったときはこの上もなく喜びますように。信仰が試されると忍耐が生じて、その忍耐を完全に働かせれば何一つ欠けたところのない成長を遂げた完全なものになります。ヨブ記のメッセージを聞いて自分の信仰をチェックしてみますように。それで真の子どもとして新しいエルサレムまで激しく攻めていきますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈ります。父なる神様、今日ヨブの姿を通して肉の人の姿はどうなのか調べてみました。そして自分を比べてみて自分はヨブのような人ではないか顧みました。肉の愛を捨てて霊の愛を所有して、指摘されて責められた時、自分の過ちを認めないで言い訳をする姿ではなくて、へり下って自分を認めて悔い改めて立ち返って変えられて発展していくようにしてください。それで試練の時にさらに喜ぶようにしてください。感謝してイエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

「ヨブ記講解50-肉の人と御霊の人」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:17~19

愛する皆さん、前回は肉と霊の価値について伝えました。肉は変わってしまい本物ではないので肉の信仰を霊の信仰に変えなければなりません。肉の愛を捨てて霊の愛を所有しなければならないと言いました。肉の信仰は形式的な信仰生活はできます。礼拝に出席したり祈ったり奉仕をすることはできます。しかし神様が望んでおられる霊の信仰は心の割礼をすることです。しかし肉の信仰のままならば心の割礼はしないで、ただうわべだけで熱心なだけで、口では神様愛していますと言いますが、それは本物の信仰ではありません。神様は私たちを愛してくださるから、そのような肉の信仰のままではいけないから、試練に遭うようにして信仰が成長するように霊の信仰を持つようにしてくださるのです。そして試練に遭うのは自分の心にある悪や罪が原因の場合が多いです。

自分の利益を求めて自分の欲や私心によって試練に遭った時それを神様のせいにしたり、守ってくださらなかったことについて不満を持ってはいけません。自分が肉の信仰のままで心の割礼をしていないから、そのような苦しみにあうようになるのです。自分ではちゃんとしていたと錯覚していたのです。本当に神様を信じる人ならば、そういう時も自分を顧みて神様により頼むでしょう。そして自分の肉の信仰を反省して悔い改めて、霊の信仰に変えていかなければなりません。そのために神様はヨブを練ってくださっているのです。そして肉の愛は価値がないことをも悟れます。皆さんもこの世を生きていると人との間で人間関係で、肉の愛のためつらい思いをしたりすることもあります。しかし私たちは神様を知っていて霊の愛の価値を知っているから、肉の愛を捨てて霊の愛を所有していきましょう。霊の愛は変わらないし美しくて本当に価値があります。しかし肉の愛は自分の利益に合わなければ変わってしまう、朽ちてしまう価値のない愛です。

ヨブが前、裕福だった時、多くの人に希望を与えて助けましたが、いざ試練に会うと、皆がヨブから離れてしまいました。兄弟も背を向けて、親戚もヨブを見捨てました。親しい友も彼を忘れました。しもべたちさえヨブを他国人のようにみなしました。これは肉の愛だったからです。今日もヨブの境遇を調べながら肉の無価値を悟る時間になります。皆さんがヨブと同じ目にあったと思って、ヨブの身になってメッセージを聞いてみますように。ヨブのような境遇に置かれたなら私はどうしただろうか、厳しい試練に勝つことができただろうか、誰かが指摘すると喜んで受け止めることができるのか、文句とか言わないで喜んで感謝できるのかなどを考えながら聞いてみれば、更に恵みを受けるでしょう。又、私もヨブのようにしたかもしれない。もっとひどかったかもしれないと思うなら、今から変化の始りです。そして悟った悪と肉の属性があるなら、それを捨てるために熱く祈って、その罪と悪を憎むようになると、速やかに捨てることができます。

しかしメッセージを聞いて、頭ではそうなんだと、悟ったとしても、肉の愛は変わるものだ、霊の愛を所有しなければと考えるだけでは実際変えられません。肉の愛を持って近づいてくる異性や人に慰められたいし、それがいいと感じるからです。そして自分の中に肉の愛があればしてもらいたいと思いそうでなければ不満を抱いて、見返りがなければ辛くなったりします。人の中にある肉を求める属性があります。そして肉の愛を求める姿もあります。人に慰められたいと思ったり人を頼りにしたりするそういう肉の姿を速やかに捨てなければなりません。自分の心や考え、日常生活で自分が感じることなどを、一つ一つ顧みなければなりません。そしてヨブのメッセージを聞きながら、ヨブの姿から自分を発見してみますように。
 

ヨブは今自分が置かれている環境について不満を言っていますが、私たちは肉の愛がどれほど虚しいものなのかをそれを通して悟ることができます。ですから自分に適応しますように。肉の愛はこんなに虚しいものなんだ。束の間のものなんだ。だから人に頼るのではなく、全知全能なる神様にだけより頼もうと強く思わなければならないでしょう。そして人にしてもらいたいと思うのではなくて、自分から進んで仕えればいいのではありませんか。そうしないで、ただヨブはこんなふうに試練の時、神様のせいにして、人のせいにして、こんな思いをしていたんだと考えて終わってはいけません。ヨブの姿から自分を発見して、真理のみ言葉で自分を照らして変えられなければなりません。私もヨブのような姿はないのか?心に深く潜んでいるそのような悪はないのかを徹底的に悔い改めなければなりません。 そうしないでただ真理を聞いているだけで、心を変えていなければどうなるでしょうか?御霊も悲しまれるでしょう。自分も苦しいでしょう。だから自分の中にある肉の愛を早く捨てましょう。そして自分の利益を求める姿も早くやめましょう。自分の中に肉の愛があれば、相手にも自分がやった分をしてもらいたいと思い、それがなければ虚しいと思ったりします。それは悪でしょう。だから肉の愛を捨てて、霊の愛を所有しなければなりません。日常生活でそういう姿があって、人のことで傷ついたりまた辛くなったりすると、その時相手のせいにするのではなくて、自分の中に肉の愛があるんだと思って悟って変えなければなりません。移り変わって朽ちてしまう肉の無益さと醜さを悟って、肉の愛を求める自分の姿を顧みて、変えられるために切に祈らなければなりません。 肉の属性が動き出すときすぐ悟って、自分の思いと心を変えて納めるべきです。人にしてもらいたいと思ったり不満を抱いたとき、すぐ悟ってこれをやめなければと思って、ただ人に与えて仕えなければとそのように変えていかなければなりません。自分が人にしてあげた分、してもらいたいと思うことがあってはいけません。そして、してもらえなければ相手にすることも、このヨブ記メッセージを聞きながらこれが肉の愛なんだと悟るでしょう。そして変えられるために祈っていけば、神様が恵みをくださって実際変わることができるのです。そして、主の愛と神様の愛と真理で心を満たしていけば、霊の愛を行う御霊の人に変えられるのです。今日、ヨブの姿を通して、自分の中にある肉の属性を発見して、変えられる恵みの時間になりますように。 ヨブ記講解がもう50回目です。皆さんがメッセージを聞き始めた時と今と比べてみてください。どのくらい変えられたのか、ただ知識としてヨブ記講解を聞いて、肉の知識を持っているのではなくてそれが霊の知識になって、心が実際変えられているのか行いが変えられているのかを、顧みますように。うわべだけの信仰生活をしてはいけません。メッセージを聞くときは恵みを受けたと思っても、実際自分のものにはなっていないのです。すると試練が終わらないし続くしかないのです。 ヨブ記19:17です。 私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。(ヨブ19:17) 私の息は私の妻にいやがられとは、妻がヨブがそばにいることをいやがるという意味です。ヨブではなくて妻の方から拒むのです。一番身近な妻が夫をいやがるなら他人はどうでしょう?そして身内の者らとは家族のことだけを言うのではなくて、いつもそばにいて一緒に心を分かち合った人々を言っています。私の身内の者らにきらわれるとはヨブが試練に合うと妻だけではなく、心を分かち合っていた人々まで背を向けてしまったということです。このように自分の利益に合わなければ変わってしまうのが肉の愛です。ですから私たちはこのような肉の愛を捨てて、心を霊に変えて霊の愛を所有しましょう。まわりの人がもしかして人間関係のことで、肉の愛のため悩んでいたりする姿があるでしょうか?肉の愛を求める姿は愚かではありませんか。自分を愛してくれる人は変わらないと思いますか?それが肉の愛なら変わってしまうのです。世の中で変わらない愛があるでしょうか?肉の愛は変わってしまいます。 自分の家族のために命までかける人がいるにはいるけれども、私たちは霊の愛を追い求めなければなりません。すべての人を愛さなければならないのです。そのような人になるためには、心を霊に変えなければなりません。自分の心からまず変えていかなければならないのです。自分から変わらなければなりません。まわりの人にしてもらいたいと思ってはいけません。このような霊的な原理を知っていながらも、肉の愛を求めて辛い思いをする人もいます。どれほど愚かな姿でしょうか。ヨブが今なぜ試練に遭っているのかを考えてみましょう。続く本文を読むとヨブがどれほどひどい目にあっているのかがわかります。 ヨブ記19:18-19です。 小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。(ヨブ19:18-19) 自分の姿がみじめでみすぼらしいから、子供たちもさげすんで言い逆らっていると言います。家が滅びてしまい全身は皮膚病にかかっていて、ヨブの言葉と行動も前と違うから、小さい子供も彼を無視しています。また親しい友達もヨブを嫌っているし、彼を愛した人々は今は敵のようになっています。ここで愛した人々とは、友達とか妻、又は親戚や隣人も当てはまるでしょう。ヨブは 絶えず呟いて嘆いて相手の話を聞かないで言い争っているから、周りの人々も彼をうっとうしいと思うようになって、相手にしたくないのです。私たちの周りにもこのような場合があります。 例えばAという人が前は多くの人を助ける位置にいたのですが、ある日滅びてしまいました。そしたら普段彼に助けてもらった人々が来て、こうすればいいああすればいいとアドバイスをします。この時Aは前彼らを助けてあげたことだけを思って、偉そうに何を言っているのか、私に指示するのか、私はお前たちより何でも優れているのに、昔受けた恩を忘れたのかと思って、彼らのアドバイスを無視して聞かないのです。するとアドバイスをした人々は怒って、失敗者の癖に高ぶっているのかと言いながら敵意を抱くようになって背いてしまう場合があります。仲違いになってしまいます。 しかしこの時、相手が自分のアドバイスを受け入れなくても、以前自分が受けた恵みを最後まで忘れてはいけないでしょうが、ほとんどの人の心はそうではありません。自分は良かれと思って相手にアドバイスをしたのに、相手が無視して聞かないとしましょう。そして前は私が助けたのにと言っても、それを聞いて気を悪くしたりするのではなくて、前受けた恵みを忘れないで、何としてでもその人のために助けようとしなければならないでしょう。そのような人を神様が喜ばれるでしょう。クリスチャンならなおさらでしょう。ルツが道理を尽くした善について聞きました。だから恵みを受けた人に対しては変わらずに道理を尽くさなければなりません。そういう人を神様は覚えて祝福してくださいます。 ヨブの友達とか親戚、隣人はヨブにそうではなかったのです。ヨブに背いてしまったのです。友達もヨブの為に助言をしていたつもりですが、聞かないからヨブを責め立てて不満を抱いてもっと強く激しく反論しているのです。しかし彼らに対するヨブの姿も正しくありません。自分の身の上を訴えようとするのではなく、自分が相手より優れているという思いも捨てて忠告を聞き入れるべきですが、かえって高ぶって言い争うから相手はさらに彼をさげすんでいるのです。遠ざけるのです。私たちは試練に会うと自分を低くして現実を認めて、指摘と忠告を素直に受け入れて感謝して、自分を顧みて立ち返ってこそ神様に祝福されます。 聖書を見ると預言者が王を指摘するとき、言い訳をしたときはさらに大きい懲らしめが臨みました。反対の場合、それを受け入れて悔い改めれば祝福されました。指摘されたとき、それを受け入れないで高ぶっていた人は退けられました。代表的な例としてサウル王が挙げられます。第一サムエル記15章を読むとサウル王は自分の誤ちが指摘されたとき、それを認めないで言い訳をしていました。神様はアマレクを打ってそのすべてのものを聖絶せよ、容赦してはならない、男も女も子供も乳飲み子も牛も羊もラクダもロバも殺せと命じられました。ところがサウル王はアマレクの王を殺さないで生け捕りにしてきました。そして肥えた良いものは惜しんで殺さないで、つまらない値打ちのないものだけを聖絶しました。それでサムエルが神様の前に聞き従わなかったことを責めたらサウル王は言い訳をします。そして民のせいにしていました。 第一サムエル記15:20-21です。サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主は私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガクを連れてきて、アマレクを聖絶しました。」と言っています。今サムエルが来て、なぜ神の御声に従わなかったのかと指摘していました。しかしサウル王は自分は聞き従ったと言っています。命令された通りにしていると言っています。預言者に指摘されたのに、このようにそうじゃないと言っているのです。例えば神様が十を命令されたときその中で七、八ぐらいはしたから、私は従いましたという人もいますが、それは完全に従ったと言えないでしょう。ただサウル王は聞き従わない罪を犯しました。それなのに自分は神様の御声に聞き従ったと言っているのです。 そしてアマレク人の王アガクを連れてきてアマレクを聖絶しました。しかし民はギルガルで、あなたの神、主に金を捧げるために聖絶すべきものの最上のものとして、分捕りものの中から羊と牛を取ってきたのですと言いました。そして民の前で自分の面目を立ててほしいとサムエルに言いました。自分の過ちを認める人なら神様の場合に徹底的に悔い改めるのはもちろん、人の前でも許しを求めて謙遜になるでしょう。しかしサウル王は自分の過ちを認めるどころか言い訳ばかりしていました。結局神様はこのように立ち返らないで罪を犯すサウル王を退けられました。 次に北イスラエルのアハブ王の例があります。当時北イスラエルでは王妃イゼベルが持ってきた偶像バアルによって全国に偶像礼拝が蔓延していました。偶像礼拝は神様が厳しく禁じて、とても嫌われる罪です。神様はエリアを通してイスラエルに数年間雨が降らないことを予言するようにしました。しかしアハブ王は悔い改めるどころかエリヤを憎むようになります。神様のお言葉を伝えたエリヤなのに、そしてアハブの罪によって国にこのような災いが臨むと神様の預言を伝えたのに、悪い人肉の人はそれを受入れないで、それを告げる人を憎むのです。皆さんはそうでないのか考えますように。誰かが指摘をするときそれを聞き入れて感謝していたのでしょうか?でなければ偉そうに私を指摘するのかと聞きたがらないのならば、神様の前で悪い姿でしょう。その結果は滅びに向かうのです。 アハブ王と王妃は雨が降らないのは自分たちのせいで、偶像礼拝のせいなのに自分の過ちだと思わないでエリヤのせいだと言います。エリヤが呪いの言葉を告げたからだと言いながらエリヤを殺そうとしました。悔い改めない人悪い人はこのように言い訳をしながら、理由をつけて他の人のせいにして自分は顧みません。エリヤが指摘してくれたとき、その時でも立ち返ったならよかったのに。神の人に立ち向かったから、結局アハブはもちろんその子孫まで、惨めな結末を迎えてしまいました。 次に南ユダのアサ王はどうでしたか?アサ王は一時神様を恐れて国から異なる祭壇ともろもろの高きところを取り除き、偶像礼拝をやめさせました。神様のおきてと戒めを民が守るように命じました。母親が偶像礼拝をしたら太后のくらいから退けました。民が偶像礼拝に染まらないようにするためでした。しかし歳月が流れるとアサ王は心が変わってしまい、神様を恐れないでだんだん人に頼るようになりました。北イスラエルの王が南ユダに攻め上ってきたら、アラムの王に助けを求めました。前もこのように戦争の時神様に頼って勝利したことがあるのに、今は隣の国の王に助けを求めました。そのことで予見者ハナニに責められましたが、アサ王は彼を獄やに入れて、民を虐げました。このように神様に背いたアサ王は治世39年に足が病気にかかり、主を求めないで医者を求めてしまいました。それで結局2年後、癒されずに死にました。信仰の行いがなかったし、神様に求めなかったから、全能なる神様も何もしてくださることができなかったのです。 これとは反対に預言者に責められた時、感謝して低くなって受けた人は神様に祝福されたことがわかります。ダビデ王がそうでした。ダビデ王は目の情欲のためウリアの妻バテシバを自分の妻にしました。彼女が身ごもったらそれを隠蔽するために、彼女の夫のウリアを戦いの場から呼び戻して、家に寄って行きなさいと言いました。自分が罪を犯して相手が身ごもったら、その夫を戦いの場から呼び戻したのです。国と王のために今戦っている人を呼び戻して隠蔽するために、ウリアを彼女がいる家に入りなさいと言いました。しかし正しいウリアは戦いの中なのに自分だけ家に入って休むことはできないと断りました。それで家に行かなかったのです。ダビデは思い通りにならないと、このように忠実な部下のウリアを戦いの前に立たせて死なせました。 神様は預言者ナタンを使わせてダビデの罪を指摘されました。第二サムエル記12:9です。「それなのに、どうしてあなたは主の言葉をさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」と責められました。このため大きい試練と報いが伴うことも言われました。するとダビデは言い訳をしないで、直ぐ低くなって徹底的に悔い改めました。このような心からの悔い改めをご覧になって第二サムエル記12:13で「主もまたあなたの罪を見逃してくださった。あなたは死なない。」と言われました。徹底的に心から悔い改めたから神様もその罪を見逃してくださって今すぐ死ぬことはない。と言われました。こういう姦淫の罪は救われないかもしれないのですが、徹底的に悔い改めたから許してくださいました。しかしそれで終わったのではありません。 その後ダビデは罪による報いとして大きい試練に合わなければならなかったのです。悔改めた後もその罪による報いが、試練と苦しみとしてやってきたのです。息子のアブシャロムの反逆が起こりました。それでダビデは逃れていくようになりました。このため多くの悲しみも経験しました。ところでこのような試練を受けている時もダビデはどうしましたか?罪が指摘された時もすぐ悔い改めて謙遜に許しを求めて悔い改めました。そして神様もそれを見て許してくださったのですが、その罪による報いを払わなければ、代価を払わなければならなかったのです。王だったのですが息子が反逆を起こして王座から追い出されるようになりました。また辱しめを受けました。このような試練にあったときダビデは誰のせいにもしないで、徹底的に自分を低くして感謝していきました。 これが心から悔い改めた人の姿です。神様が許してくださったのになぜこういう試練が来たのかと嘆くのではなくて、自分のせいにして感謝したのです。そして逃げていく途中、民のシムイという人がダビデ王と家来に向かって石を投げながら呪いました。そしたら家来が彼を殺すと言いました。今ダビデ王が追われていても周りに家来もいて一行がいたのですが、シムイがダビデを呪っているから彼を殺すと言いました。しかしダビデ王はどう言いましたか?彼がその人を殺すようにしておいたのではありません。もし自分が今不当な目にあっていると思って悔しいと思ったり怒っているなら、彼がそう呪うと気にさわるでしょう。しかしダビデはそうではありませんでした。 第二サムエル記16:10です。「彼が呪うのは『主が彼にダビデを呪え』と言われたからだ。放っておきなさい。」と言いました。そして12節「たぶん主は私の心をご覧になり、主はきょうの彼の呪いに変えて私に幸せを報えてくださるだろう。」と言って、全てを神様のみ手に委ねました。それならシムイは今タビデが試練にあっているとき彼を呪ったのですが、それによってタビデの心がもっと変えられたとしても、道具としてよく用いられたからよかったでしょうか?そうではないでしょう。そんなことがあってはいけないでしょう。どれほど悪い姿でしょうか。ダビデはそういうシムイにも神様が主がそうなさったのだと言いながら、この呪いに変えて幸せを神様が報いてくださると信仰の告白をしました。ヨブとは全然違う姿でしょう。ヨブは友達の指摘を受け入れないで言い争って友達を咎めました。また神様が自分を苦しめていると神様のせいにしました。しかしダビデは厳しい試練にあっても低くなって感謝したら、すべての罪が許されて更に深い善と愛を持つことができました。神様はダビデの心を知っておられたから、私の心に叶う人だと誉めて神様の御心をなし遂げられました。 ダビデが試練にあっている時の姿を見てみると、神の人の姿は違いますね。そしてダビデが試練にあったら家来と民の中で二つの部類に分かれました。ダビデにつく人がいてアブシャロムにつく人もいました。ダビデを裏切ってしまいダビデを呪う人がいました。しかしダビデについていてダビデを助ける人がいました。神様はどちらの味方になってくださいましたか?ダビデの味方になって、ダビデを裏切った人々はその結末が惨めでした。ダビデを助けた人々は栄えました。ですから私たちは全てのことにおいて善を選び神様の真理に従わなければなりません。すべてのことにおいて自分の欠けているところを認めて指摘されたら、謙遜な心で受けて感謝すれば神様が恵みをくださり変えられるように導いてくださいます。 サウル王とかアハブ王、アサ王、ダビデ王を比べてみるとその心遣いや器が全然違うのがわかります。私たちは誰かに指摘されて忠告を言われても、素直に自分の欠けているところと過ちを認めなければなりません。指摘する人が目上の人の時はもちろん、同僚や目下の人でも感謝して間違っているところを直そうと努力しなければなりません。あの人が私を憎んで指摘していると思っては、発展することはできません。忠告して指摘してくれる人のおかげで、自分の欠けているところを発見して変えられることに感謝しなければなりません。ですからいつも謙遜な心で他の人の助言に耳を傾けて自分を発見して、昨日よりは今日、今日よりは明日がもっと発展していきますように。

「ヨブ記講解49-肉と霊の価値」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:12~16

続くヨブ記19:12です。
その軍勢は一つとなって進んで来、私に向かって彼らの道を築き上げ、私の天幕の回りに陣を敷く。(ヨブ9:12)

ここで軍勢とは実際の兵士たちを言うのではありません。ヨブの友達を意味しています。友達がヨブをどれほど苦しめたなら、軍隊と表現するでしょうか。友達がヨブを強い口調で咎めて、言い争っている姿をヨブは、軍勢が一つになって進んでくると例えていました。たとえば人々が非常に気が強い人を表現する時、誰々は虎のようだ、ライオンのようだと言うでしょう。そして私に向かって彼らの道を築き上げとあります。これはどういう意味でしょうか?築き上げるとは土や石などを積み上げて建造物を完成させることですが、これはいい意味で言っているのではありません。ヨブは友達を咎めるために、違う意味で今言っているのです

皆さんいつ友達が来て、ヨブのために道を築き上げましたか?そんなことはないでしょう。ここで軍勢が一つになって進んで来、彼らの道を築き上げるとは、友達がそれまでヨブにこれは間違っている、あれは悪いと言いながら、ヨブの話に言いがかりをつけて、自分たちの言葉が正しいと言い張ってきたことを意味します。つまり友達がヨブの行く道を妨げてヨブの話を聞かないで無視して、自分たちの言いたいことだけ言っていると言っているのです。友達がヨブを悪い人扱いして、ヨブの話を聞いてあげないで無視して、自分たちが言いたいことばかり言っていることを、彼らの道を築き上げたと表現しているのです。友達が自分を苦しめていたことを説明するためです。今自分がどんなに辛い思いをしているのかを訴えているのです。

次に私の天幕の周りに陣を敷くというのは、友達がヨブを軍隊のように取り囲んで攻撃しているということを言っています。ところでこの全ては神様がヨブを敵と見なしているから、友達に命じてそうさせたからだと言っています。このようにヨブは友達の過ちを全部神様の責任だと言っているのです。本当に理解できないヨブの話ですが、皆さんはヨブの惨めで苦しい境遇を理解してください。そしてこのような姿が私たちにもたくさんあるのです。それを悟ればいいと思います。自分が失敗して過ちによって何か結果が良くない時、神様のせいにすることはありませんか?そして相手が自分を苦しめた時、その人よりは神様が何で私を守ってくれなかったとか、神様がどうして放っておかれたのかと、神様の責任だと言ったりする場合もあります。そして主のしもべが他の聖徒に自分の悪口を言ったかのように誤解してしまうこともあって、悪口を言った主のしもべを恨んだりする人もいますが、事実も確認しないでそのように自分の思い込みである場合もあります。

それを発見して知らなければならないでしょう。日常生活で私たちが人を裁いて誤解することはよくあります。だからヨブの姿を見ながら、自分の姿に照らしてみて自分はどうしているのか考えてみなければなりません。私たちの心には多くの人を裁くことがあって、恨みがあって悪があるのです。続くヨブの告白を聞いてみれば、だんだん孤独と寂しさと苦しみが増していく姿がわかります。

ヨブ記19:13-14です。
神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れていった。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。(ヨブ19:13-14)

血を分けた兄弟たちも背を向けてしまい親戚も見捨ててしまったのに、親しい友達は助けてくれるわけがないと言っています。第一ヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるならその人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。これは家族の間でも同じです。血は水より濃いという言葉もありますが、普通人は他人よりは血でつながっている家族を優先することがあります。ところで、もし一番身近な家族にはよくしてあげないのに、他人にばかり優しく接するならこれは真実ではないでしょう。他人に認められようとする偽善と偽りにすぎません。このような側面から考えてみると、親しかった兄弟がヨブから顔を背けるくらいなら、その他の人々がヨブを遠のけることは当然なことだったでしょう。

ヨブが多くの富と栄華を味わって豊かだったときは、尊敬されて素晴らしい人だと褒められていました。周りの人に多く施しをして力づけてあげたからです。またヨブは親として愛も豊かで、子供たちと一緒に神様に生贄を捧げ、親戚にも隣人にも愛を与えていました。しかしこれは肉の愛だったことが、ヨブの今の現実が明らかに物語っています。ヨブがすべての所有物を失ったら兄弟たちも離れていき、親しかった知人が知らない人のように冷たい態度をとって、親戚もヨブを見捨てて、友達も関係がこじれてしまいました。このように肉の愛は移り変わるものです。自分の利益と合わない時は裏切ることもあります。その結果は紙一重なのです。物質で撒いたものは、その物質が消えてしまうと見捨てられるのです。権威で撒いたものは、その権威が落ちるとのけものにされます。このように肉において撒いたものは何の役にも立たないのです。ところでヨブは、周りの人は自分から離れていったことも、神様がそのように仕向けたのだと言っているのです。続く本文も、肉の愛の結果を明らかにしています。 ヨブ記19:15-16です。 私の家に寄宿している者も、私のはしためたちも、私を他国人のようにみなし、私は彼らの目には外国人のようになった。私が自分のしもべを呼んでも、彼らは返事もしない。私は私の口で彼らに請わなければならない。 過去ヨブは裕福だったので、家の中にはしもべも多くいて、多くの人が近づいてきました。しかし今ははしためたちさえ、主人であるヨブを他国人のように見なしています。外国人のようにしています。はしため達がヨブを無視して、ヨブが自分は外国人だと見なされていると言っています。主人に当然使えるべきしもべなのに、ヨブが呼んでも返事もしません。それで私は私の口で彼らに請わなければならないと言いました。つまりヨブはお願いして頭を下げてこそ、やっと聞いてくれることを言っているのです。しもべたちも自分を無視して、主客転倒になってしまったから、ヨブの苦しみと悲しみと痛みは言葉で表現できないくらいだったでしょう。 それに愛された人に憎まれ捨てられた時、どれほど苦しかったでしょうか。ヨブはあまりにも心が痛くて過去のことを振り返ってみています。ヨブに財産が多かった時、多くの人をもてなして施して面倒見てあげたのに、そして友達がお見舞いに来たのも普段ヨブに助けられたからでしょう。 ヨブは過去友達によくしてあげたことがあるから、今彼らの前で堂々とあれこれ言っているのです。 しかしヨブに返ってきたものは、蔑み、卑しめ、あざけりだけでした。それではここで私たちが得る教訓は何でしょうか。 肉と霊の価値に関することです。第一、肉の信仰を霊の信仰に変えなければならないということです。ヨブは神様を知識的に知っていて肉的に信じていたから、神様はヨブを練るしかなかったのです。神様を頭で知識的に信じていることでは、神様を見つけることも答えを受けることも、聖霊の声を聞くこともできません。だから試練の過程を通して、肉の信仰が霊の信仰に変わらなければなりません。皆さんヨブ記講解を見てみると大きいテーマがありますね。なぜ神様がヨブを練ってくださったのか、その理由です。なぜでしょうか。ヨブの肉の信仰を霊の信仰に変えるようにするためでした。肉の信仰だったことが、今ヨブが口にしている言葉と友達と言い争っている姿、 また神様を恨んでいる姿を通してわかりますね。 皆さんも自分の信仰が肉の信仰なのか霊の信仰なのかをいつもチェックしていなければなりません。自分なりに奉仕もしていて、集まりにもちゃんと参加していて、毎日祈っているけれど、何のためでしょうか。霊的な信仰生活でしょうか。祈ってはいるけれど、心の割礼はしていないならそれは大きい問題です。だからそういう自分を発見しなければなりません。毎日祈ってはいるけれど、ただ応えてください、祝福してくださいとばかり言っていて、本当に自分の深い心の底から神様の前に変えられるために、霊の信仰を持つために、心の割礼はしていないのです。 ただ聞いた知識的なことはあるから、私もマグダラのマリアのようになりたいですとか、口では言っているのですが、日常生活で実際そのような善は行っていないのです。職場でも同僚と揉めたり、そして嫌な上司がいるならばいなくなってほしいとか思うのです。でもそれが悪であることをみ言葉を聞きながら悟って、そういう自分の悪を捨てるために祈るべきでしょう。神様、私本当に悪い人です。ちょっと一言言われたら相手が嫌いになって、それでその人に会いたくないし、避けたいと思いました。これは私の悪のためでした。憎しみを捨てるようにしてくださいと、このように具体的に自分が変えられるために祈らなければなりません。だから祈ってはいても、相変わらず肉の信仰のままなのです。 ヨブは神様を恐れる人で、生贄も捧げました。うわべでは罪を犯していませんでした。子供のために代わりに生贄を捧げました。行いはそうだったのですが、心の割礼ができていなかったのです。だから試練の過程を通して、肉の信仰が霊の信仰に変えられるようにしてくださったのです。私たちもこのヨブを通して自分を顧みて、自分に肉の信仰があることを悟らなければなりません。そしてヨブの友達がヨブを責めている姿と、ヨブに対する憎しみとか、妬み、そねみなどを通して自分を顧みて、私にも妬みがあるんだ、憎しみがあるんだと思って、実際そのような霊の心に変えられなければならないのです。今日も神様を信じる人が試練に会う理由のひとつは、肉の信仰を霊の信仰に変えられるようにするためです。 ヨブ記講解を聞きながら皆さんは、神様の深い御心を悟っていると思います。皆さんは、聖められたいと走っているから、罪と悪を捨てようとします。ことさらに罪を犯す人はいないと思います。うわべでは罪を犯していないから、心に潜んでいる悪の性質は発見されない場合もあります。それで自分はよくやっていると思っている人がいます。誰かと争ったりする姿もないし、特に目につく罪を犯すこともないし、死に至る罪も犯していないし、でも問題は自分の心に潜んでいる悪がまだあるということです。それで心の中で人に対して、あの人は何でとか、もやもやしたり、そして思い込みによって、ああだこうだと傷つけてしまうことがあるのです。 口には出さなくても、顔には出さなくても、心の中でそのようにふとよぎる考えもあるし、そうでなければ、祈っているとき、同じ言葉を繰り返していたり、礼拝の時間に居眠りをしたりする場合もあるでしょう。大礼拝のときも聞いたでしょうが、聖霊に満たされていなければ、自分に問題があることを悟らなければなりません。毎日祈ってはいるけれど、なぜ聖霊に満たされていないのか?自分に霊的な問題があるからでしょう。それを悟ってそれを直していくならば、発見できるのですが、それを発見できないから問題なのです。だから、停滞しているしかないのです。その原因がわからない場合があります。自分の中にある悪または肉的なことを、大したことでないと思って蓋をしておいておくこともあるのです。私たちはそうではなくて、自分を顧みて詳しく一つ一つ明るみに出して変えられていかなければなりません。肉と霊の価値の違いについて、今日のメッセージを聞いて悟りますように。 第二は、肉の愛の虚しさと霊の愛の重要性です。肉の愛は自分の利益を求める愛です。結局は朽ちて変わってしまう虚しい愛です。しかし霊の愛は変わりません。すべての人がヨブから顔を背けて離れてしまった理由は何でしょうか?普段ヨブが彼らを肉の愛を持って対していたからです。今試練に会っている時、ヨブの口から出てくる恨みと不平などを見てみると、ヨブが肉の人だと分かるでしょう。こういう心でどうして霊の愛を分かち合えるでしょうか?ヨブが豊かだった時も人々に霊の愛を持って、接したのではないことが分かるでしょう。もしヨブに霊の愛が豊かだったならば、兄弟や友達に対する心が試練にあっても落ちて変わらなかったでしょう。自分が病気になっても苦しみにあっても、友達に対する愛も心も変わらなかったでしょう。だったら友達が何と言っても、それを友達が自分を愛してくれるアドバイスだと受けたでしょう。でもそうできなかったし、激しく言い争っているのです。罪に定めているのです。だからヨブには霊の愛がないんだと分かるでしょう。 このようなヨブの姿を通して皆さんは自分が霊の愛を持っているのか、肉の愛を持っているのか分かるでしょう。家族に対する自分の姿はどうなのか?自分と親しい人または自分が愛している人を大切に思っていても、それが本当に霊の愛なのか?でなければ肉の愛なのか?ヨブを通して顧みますように。そしてヨブは神様に対しても霊的に愛していたならばよかったのですが、そうできませんでした 霊的に愛していたならば、試練艱難に会ってもつぶやいたり不平を言わないで、最後まで忍耐して感謝していたでしょう。しかしヨブは神様に対する愛も完全ではなかったのです。このようにヨブの愛は肉の愛だったから、周りの人々が結局は彼から離れてしまったのです。 ヨブは裕福だったとき多くの人に希望を与えて助けたのですが、霊の愛ではなくて肉の愛だったから彼らはヨブを離れてしまい、何も残らなかったのです。第一コリント13章にあるように、寛容で柔和で相手の利益を求める霊の愛があったならば、彼らはヨブを離れなかったでしょう。このように人々が移り変わるのは肉の愛だからです。もちろん霊的に愛したのにも関わらず、相手は裏切ることもあります。イエス様を売り渡したイスカリオテ・ユダがそうでした。あまりにも心が頑な人でしょう。私たちはこういう悪い人になってはいけません。いただいた恵みと愛に報いながら、いつも変わらない愛を所有しなければなりません。自分達がそのような霊の愛を所有して、悪い人をも変えさせる力のある霊的な働き人になりますよう主の御名によって祈ります。 皆さん時には試練に会う時もあります。それで親しかった人々が離れてしまい、そうでなければ苦しめることもあるでしょう。そういう場合人のため悩むのではなくて、ああ私の愛は肉の愛だったと悟りますように。それでその肉の愛を霊の愛に変えていきますように。しかし人間関係のため悩んでいるならば、なぜ自分が試練に会っているのか、原因が悟れない場合もあります。ヨブを通してこのように肉の愛の虚しさを悟ったでしょう。だから自分にも適応してみてください。肉の愛の虚しさを悟って、私たちは霊の愛を所有しますように。相手のため人のため気を落としたりするのではなくて、霊の愛を持って変わらずに接しますように。 愛する皆さん、今日はヨブが寂しくてみすぼらしい身の上になったことと、肉の愛の虚しさと霊の愛の重要性について伝えました。聖書では変わらない霊の愛の例えがあります。それはダビデとヨナタンの愛が代表的でしょう。ヨナタンの父親はイスラエルの初代王のサウルで、ダビテはサウル王の臣下でした。ところがダビデが戦いに出て毎回勝利して民に愛されるようになると、サウル王は妬んでダビデを憎むようになって、殺そうとまで思いました。ヨナタンはサウル王の長男でした。王位を受け継ぐ後継者でした。しかし、私心とか欲がなかったから、王座を欲しがらなかったのです。ヨナタンは将来ダビデが王になることと父親が滅びることも知っていました。霊的に悟っていたのです。 ヨナタンはダビデを殺すのではなくて、かえって守ってあげました。サウル王が王位を守るためにダビデを殺そうと血まなこになった時、ヨナタンは危険を犯してダビデを救い出してあげました。第一サムエル記20:17「ヨナタンはもう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」とあります。このようにヨナタンはダビデのために命も与えることができて、このような愛は死ぬ時まで変わらなかったのです。ヨナタンに対するダビデの愛も同じです。ヨナタンがペリシテ人との戦いで戦死するとダビテは断食して、かつその死を痛み悲しんで泣きました。王位についたダビテはヨナタンの息子のメヒボシェテイを探してサウルの財産を全部返して王宮で自分の息子のように面倒を見てあげました。このように霊の愛は自分に利益にならなくて害になっても、命を尽くして変わらない心で愛することです。何か代価を求めたり自分に良くしてくれるから愛するのではありません。何の条件もつけないで純粋に自分を犠牲にして相手のためにただ与える美しく価値ある愛なのです。 このような霊の愛とは反対に、ヤコブとエサウは肉の愛だったので一人の親から生まれた兄弟にもかかわらず互いに自分の利益ばかりを求めて、どうなりましたか?兄は弟を殺そうとして、弟は兄からのがれて逃げて行きました。愛して頼るべき兄弟が他人より劣る関係になってしまいました。このように肉の愛の結果は無価値で、肉と霊はこのように違いが大きいのです。ですから皆さんはすみやかに肉を脱ぎ捨てて、心を霊に変えていきますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日は肉の信仰と霊の信仰の違い、また肉の愛と霊の愛の違いについてヨブを通して悟りました。私たちはどんな信仰と愛を持つべきなのか、考えてみました。ヨブに肉の愛があってそれは虚しいものでした。私たちは朽ちてしまい、移り変わる肉の愛ではなくて、変わらない霊の愛を所有していくように祝福してください。感謝します。イエスキリストの名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解49-肉と霊の価値」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:8~11

前回、ヨブが友達に、神様が自分を捕まえるために網を仕掛けて、その中に閉じ込めて、屈服させたと言いました。神様が無理やり屈服させたと言いながら、相変わらず不幸の原因を神様のせいにしていました。神様とヨブの間に、真の信頼と愛の関係が築かれていなかったから、誤解して呟いているのです。またヨブは、いくら叫んでも答えがないし、自分があった悔しい目に対して弁護してくれる人がいないと言いながら訴えていました。しかし、私たちが祈っても答えがなく問題が解決されない理由は、罪の壁があるからだと言いました。誰でも罪の壁を壊して、立ち返って御言葉に従うなら、神様は全ての罪を許してくださるだけでなく、答えて祝福をくださるのです。

それで、癒されて答えを受けた方々の証を聞いてみれば共通点があります。病気にかかった時、問題にぶつかった時、ある方は病院に行って薬をもらって飲んだのですが、良くならなかったのです。その時、これまで聞いたこの聖めの福音を思い出して、自分を顧みて、罪の壁を壊すために悔い改めた後、祈りを受けたら癒されたという証がありますね。これが癒される原理です。祈っても答えがないのではありません。ある人はこのような話もしていました。癒しの集会は2ヶ月に1回ぐらいあるから、毎回参加して病人登録もしたのですが、癒されなかったのです。自分ではなぜ癒されなかったのか原因がわかります。それで、もうこのままではいけないと思って決心して、悔い改めて自分を顧みて、切なる心で祈って参加したら癒されましたと証する方もいるでしょう。このような証を聞いてみれば、真理の御言葉どおりに答えられる原理がありますね。

しかし、この原理を知らないまま、ヨブは自分はいくら叫んでも答えがないと言っているのです。神様が自分を見捨ててしまったと誤解しているのです。しかし、自分が真理を知らないからでしょう。神様を恨んでも何の役にも立たないのです。癒しの集会に参加して、まだ答えを受けていない方がいるなら、今日、定めの祈祷会に参加して、悔い改めれば答えを受けるかもしれないし、このような答えを受ける原理を悟ってその通りに行えばいいでしょう。今日ヨブの告白を見てみると、相変わらず言い訳とつぶやき、神様を誤解する姿があります。それはヨブが肉の人だからです。そして神様を知識的に知っているだけで、直接見つけた体験がないからです。このメッセージを聞いて皆さんも自分を顧みて、自分の中の肉的なことを捨てて、御霊の人に変えられますように。ヨブは相変わらず神様を誤解しています。次のように言います。ヨブ記19:8です。

神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない。私の通り道にやみを置いておられる。(ヨブ19:8)

神様が自分の道を塞いで、自分は過ぎ行くことができないと言っています。ヨブの道はどんな道でしたか?彼は穀物をまいて刈り取り、飲み食いして宴が好きでした。良い心があったので、隣人には分け与えて施しもしました。ところが神様がこのようなことをふさがれたというのです。しかしこれはヨブが御霊の人になるようにするためでした。私の通り道に闇を置いておられるとヨブは言っています。皆さん、人が道を歩んでいるのに、突然暗闇が目の前を覆うのなら、どれほど驚いて絶望するでしょうか。ヨブは自分は良い環境と未来に向かって進んでいたのに、神様がその道を闇でふさいでしまったと言いながら、自分の辛い思いを訴えているのです。全ての財産も子供たちも失ってしまい、妻も友達も自分を見捨ててしまった状態、何の希望もないし喜びも消えてしまった状況を闇に例えています。しかしこれはヨブが神様の心をあまりにも知らないから言っている言葉です。

 

神様はヨブの正しさと潔白な行いを知っておられたから、彼に真の祝福を与えるために練ってくださって、この過程で私たちが教訓を得るように聖書に記してくださいました。神様は子供たちがどんな試練や困難にあっても揺るがない信仰で、神様の前に感謝して、御心のままにしてくださいと告白できる心になることを望んでおられます。これが真の信頼関係なのです。親が子供に悪いことをさせたり、害になる道に導くわけがありません。子供がそれを信じるなら、苦手なことでも難しそうに見えることでも喜んで従うでしょう。今、自分の目には難しそうでも、でも親を信じるなら親が私のために私を思って言ってくれるのだと信じるなら、従うことができるでしょう。これまで親が自分によくしてくれたことを信じるからです。

しかしこのような信頼と愛がなければ聞き従わないのです。そして口応えをするでしょう。言い訳をするでしょう。それは相手を完全に信頼していないからです。私たちと神様の関係も考えてみなければなりません。ヨブにはまだそのような信頼関係がなかったから練られているのです。神様は私たちが神様の前に完全な信頼を見せることを望んでおられます。そのような信頼を示すなら、敵である悪魔サタンは一つの道から攻撃しても七つの道に逃げ去るしかないし、どんな障害物も問題にならないし、ただ栄える道に導かれるでしょう。肉の人が自分の考えで、今の道は失敗しそうに見えても、しかし神様に導かれるなら、結局はその道は成功の道になります。ヨセフがそうでした。 私たちはこの道の先に何があるのか知っているでしょう。その最後には栄光があり神様の祝福があります。それで私たちは今の苦しみによって悲しむのではなくて、希望を持って神様を信じる信仰があるから、従っていくことができます。ヨセフがそうでした。神様を信じていたから、試練の過程でも不満を抱いたり不平を言ったりしませんでした。しかしヨブは今自分があまりにも苦しいから神様の前で呟いて神様のせいにして、神様は悪い方だと誤解してしまいました。だからこれが間違っているのです。ヨブはまだ霊の信仰を持っていなかったから試練の過程で、彼の肉の信仰が明らかになっています。本文ヨブ記19:9でヨブは言っています。 神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた(ヨブ19:9) 冠は王が公式の場に出る時に被る冠で権威を象徴します。栄光は輝かしい誉れ、大きな名誉をいいます。では、神様がヨブの栄光をはぎ取り、冠を取り去られたというのはどういう意味でしょうか。 それは、神様がヨブの名誉と権力を奪ったという意味です。このように自分の不幸の原因を神様のせいにしている言葉は、ヨブが肉の人であることを証明しています。以前、ヨブは裕福でした。 それで多くの人が近づいてきて、助けを受けました。羨ましいと思っていました。そしてヨブは人に褒められ、愛されていたのですが、これがヨブの栄光でした。 しかしこのすべてが、神様のせいでなくなってしまったと言っています。そして王が冠をかぶるようにヨブは、巨大な富によって権威もありましたが、神様が財産を取り上げてしまったから、その権威がなくなったと言っています。これは、これまでヨブが味わっていた栄光と権威が、富によるものだったことを物語っています。ヨブが柔和だったとか、徳があってそれが栄光になっていたならば、財産がなくなっても人々がヨブから離れないでしょう。ヨブからにじみ出る美しい心の香り、霊的な柔和があるなら、広い心に受け入れられて近づいていたでしょう。でも、今ヨブは自分の冠と栄光がなくなってしまったと嘆いているのですが、結局その栄光と権威が富によるものだったことを物語っているのです。そして神様が自分の財産を取り上げてしまったからだと神様のせいにしているから、どれ程愚かでしょうか。 ヨブが裕福だったとき多くの人が近づいてきたのに、試練がやってきたらみんな離れてしまいました。これは神様が共におられるときだけ真の栄光を受けることと、肉的な条件で結ばれた人間関係がどれほど虚しいものなのかを悟らせてくれます。ヨブが本当に霊的に知恵があったならば、試練のときこれを悟るべきだったでしょう。私はこんなに苦しみにあって試練にあっているから、前私を愛して認めてくれた人々がもういなくなってしまった。だから肉的な条件で結ばれた人間関係はこんなに虚しいものなのだ。前はいつまでもずっと一緒だと言っていた友達も家族も親族も、 みんな今自分を裏切って離れてしまいました。だから肉のものは朽ちるもの、なくなるものだ。 しかし神様は私と共にいる。私から顔を背けない方だ。試練のとき神様に求めると神様は働いてくださる方だ。だから神様の懐から離れたことを悔い改めて立ち返ろうと悟るべきだったのに、そうできなかったのです。相変わらず神様を恨んでいたのです。だから問題が解決されないでしょう。 だから答えもなかったのです。 皆さんはどうでしょうか。試練にあって苦しみにあって病気にかかって、子どもの問題、家庭の問題があるとき、どのように解決しようと思っていますか?配偶者が私を苦しめるから私はこんなに辛い思いをしている。だから私は病気にまでかかってしまった。聖霊に満たされていないから病気にかかったのに、人のせいにして環境のせいにするのです。そして教会の試練があってそのため悩んで、精神的にもすごく辛かったとか、教会のせいにしているのではありませんか。それは、ヨブとヨブの友達の姿と同じではありませんか。肉の思いをめぐらして神様の前に不平を言って、つぶやいてばかりいるのです。すると問題は解決されません。苦しみと試練がまた繰り返されるだけです。私たちはヨブ記講解を聞いて問題が解決される方法を悟るべきでしょう。続く本文を見るとヨブはヨブ記19:10-11でこう言っています。 神が四方から私を打ち倒すので、私は去っていく。神は私の望みを木のように根こそぎにする。神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる(ヨブ19:10-11) 四方から打ち倒すとは、東西南北から自分を攻撃してくるということです。だから何の希望もないし、こんな自分の境遇は死んでいるものと同じだと言っています。肉の人はこのように大きい権力と富を味わっていて、ある日突然そのすべてを失ってしまうと死だと思います。神様を知らないし天国への希望がないから、ヨブのような境遇に置かれたら自分で死んだものと同然だと嘆くのです。しかし本当に神様を信じる人なら、たとえすべてを失ったとしても絶望するのではなく喜んで感謝するでしょう。喜んで感謝することは信仰の行いで、この信仰の行いは神様に喜ばれるので、結局失ったものを回復することができます。しかもこの地上での人生は束の間で、永遠の天国への希望があるから喜んで感謝することは当然です。ですから私たちの価値は、この地上の富とか権力、名誉にあるのではないということを覚えていてください。 皆さんが試練の時何を感じましたか?私はなるほど人々の心にある悪、かけているところがこの様に明るみに出されるんだ。それを発見して目の当たりにしたら、私は人ではなく神様に頼るしかないんだと思いました。また自分に頼ることもいけないと思いました。親しかった人が離れてしまうから、悲しくなって落ち込んだりするのではなくて、神様がともにおられるから、神様が守ってくださっているから喜んで感謝しなければならないのです。荒波がある海の中で航海していても、神様がともにおられるならば安全です。安心できます。すると大胆になれます。イエス様が海と波に命じたら静まったのではありませんか。それを信じるなら私たちは心が平安でしょう。 しかし教会の試練の時、教会から離れてしまう人々を見ていて、親しい人が離れてしまうのを見ていて悲しくなって落ち込んでしまい、熱心が冷めてしまったり心がふさいだりしたことはありませんか。皆さんはどのように処理しましたか。今でも悩んでいますか。自分の姿を顧みてみましょう。もしそうなら肉の人なのです。肉的なものは全部変わってしまうものです。私たちは肉と霊について学んだでしょう。だから心を霊に変えていかなければなりません。でも今自分が置かれている環境の中で何かを失ってしまったり変わってしまうことがあっても、それは肉のものだから驚くことはありません。私たちには神様がおられ、聖霊がおられ、永遠の天国への希望があるから揺るぐ必要はないし、信仰が成長するし喜んで感謝できるのです。皆さんはそのようにしていますか? それなら祝福でしょう。聖書は何が私たちにとって大切なのか教えてくれます。ヨブの冠と栄光は富にありました。しかしそれは朽ちるものでした。富とか名誉とか知識、また周りの人がいてそれが自分の誇りだったとか、でもそれが一瞬でなくなってしまうなら、もう自分には希望はないと思いますか、それは肉の信仰です。肉の人の価値観です。 ルカ16章を読んでみれば金持ちと貧しい人ラザロの例えが出てきます。これを通して多くを悟ることができるでしょう。神様を恐れないでこの地上で贅沢な暮らしをしていた金持ちと、その家の門の前で物乞いをしていても、神様を恐れていたラザロの生き方の中で、皆さんはどちらを選ぶでしょうか。このメッセージを聞いて皆さんはすでにその聖句を知っているから、答えを知っているでしょう。しかし本当の自分の心を顧みてください。 自信を持って答えられるのか。なぜ聖書にこのような例えが書いてあるのか、私たちはメッセージで聞いたのですが、いざとなると日常生活でラザロのような生き方ではなくて、金持ちのような生き方をしているのではないのか、顧みますように。貧しいとか自分の手に何かないからといって、そのため悲しくなったり、人をうらやましく思ったりする姿はありませんか?神様はこの金持ちとラザロのたとえを通して、多くを教えてくださっています。彼らが死んだ後、金持ちが地獄の下の闇に落ちて苦しみを受けていました。この地上では贅沢な暮らしをしていたのに、下の闇ではとてもみすぼらしくなって、みじめな姿になりました。しかし貧しい人ラザロは、上の闇でアブラハムの懐に抱かれて、安息を味わっていました。皆さんこの二人の違いを考えてみてください。 この地上で肉に属するものを追い求めて楽しんでいたなら、死んだ後、後の世でどうなるでしょうか。かろうじて救われたとしてもパラダイスに入るなら、自分の家もないし報いもないから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。しかし神様の栄光のために生きた人ならば、天国で神様が栄光と報いをくださるし、家も広いし多くの人の誇りになるでしょう。どちらを選ぶのか、もう一度ヨブ記講解を聞きながら、考えてみますように。ですから、後の世を知っている人なら、当然ラザロのように神様を恐れて天国に行くと言うでしょう。 ところがヨブには、このような信仰も希望もありませんでした。神様が共におられるなら、たとえ全てを失ったとしても回復できるのに、霊の信仰がないから神様を恨んでいました。そして天国への希望もないから、自分で自分は死んでいると嘆いていました。これはヨブが肉の人であることを明らかにしています。ヨブにとって神様は、まだ真の神でも真の父ではなかったのです。だから神様との真の関係を作るために、試練が必要でした。 それでは、神は私の望みを木のように根こそぎにするとはどういう意味でしょうか?ヨブの希望は、望みは子供や富、名誉、権力など彼が所有していた肉的なものでした。ところがその全てが一瞬でなくなってしまったから、まるで根を深く下ろしていない木を簡単に引き抜くように、神様が自分を根こそぎにされてしまったと、説明しているのです。いくら枝が多くて葉が茂っている木でも、根が簡単に抜けてしまうならどれほどむなしいでしょうか。 このように肉的なことはいつでも、その根が根こそぎにされることがあるし、従って肉的なものに希望を置く生き方は、どれほどむなしくて愚かなのか悟らなければなりません。たとえ私たちに富と名誉、権力がなくて貧しくて弱くても、神様を正しく知って信じている御霊の人なら、実は豊かなものです。人の目には貧しく見えるかもしれませんが、神様が将来永遠の天国で大きい栄光と報いを与えてくださるからです。 本文11節でヨブは神は私に向かって怒りを燃やしと言っています。自分が今置かれているすべての試練、患難、苦しみと絶望、痛み、苦労の原因は神様の怒りのためだと言っています。ヨブはこのようにものすごい苦難を受けるようにされるのは、神様だと思っていたから、すべての不幸の原因を神様のせいにして恨んでいます。神様が自分を敵のように見なされるとまで言っています。皆さん、互いに敵のような関係ならどんな現象が起きますか?互いに相手の顔を見ると目をそらすし、目を合わせるのも嫌だし、相手の声を聞くことさえ嫌で、相手がいなくなってほしいとまで思います。人の悪い心の一つが敵意を抱くことです。 ところで神様は悪を嫌い、敵を愛しなさいと言われたのに、このような神様がヨブを敵のように見なされると言っているから、どれほどとんでもない無知な言葉でしょうか。人との関係でもそうです。相手は自分を憎んでいないのに、自分の中にある悪のゆえ相手を誤解して、相手を悪い人のように決めつけてしまうのです。人を裁いて罪に定めるのです。これは神様の前でどれほど悪い心でしょうか?これは直さなければならないのです。相手が自分を憎んでいるとしても、それに対してあれこれ考えて悩む必要もないのに、相手が自分を憎んでもいないのに、自分から誤解して決めつけてしまって、相手を悪い人のようにみなすことがあるなら、これは悪い姿で愚かな姿です。 神様との関係が遠ざかっていたり、真理を正しく知っていなければ、簡単に神様を誤解して裁くことがあります。今日も神様を知らない人々の中で、本人の過ちによってことが失敗したのに、天も薄情だと言いながら神様に呟きます。また神様を信じる人の中でも真理を正しく知っていなければ、試練艱難にあった時、ヨブのように、神様が自分を憎んで打ったと誤解することがあります。しかしヘブル人への手紙12:4-8を読んでみれば、神様がなぜ子どもたちを懲らしめられるのか分かります。まずは私たちが神様の真の子どもになるためには、罪と戦って血を流すまで抵抗しなければなりませんが、そうしていないから懲らしめられるのです。私たちが信仰生活をしていても、聖めに向かって走っていないし、足踏みをしていて停滞しているから試練に遭う時があります。しかしそれは神様の愛です。そのような懲らしめがあってこそ、悔い改めて立ち返って神様の真の子どもになるからです。でなければ、うわべでは信仰生活をしているように見えても、心を割礼していないから肉の信仰にとどまっているしかないのです。だから神様が愛する子どもは懲らしめてくださるのです。 ですから自分が信仰生活を間違ってしているのに懲らしめがないならそれも問題です。神様は私たちを愛して懲らしめてくださいます。変えられるように聖められるように、肉の信仰から霊の信仰に変わるように、そのために試練に遭うようにしてくださるのです。そうやって真の子どもになって、神様と天国で永遠に愛を分かち合うようにするために、私たちを練ってくださるのです。だからそれは神様の愛です。また神様の子どもちが、御言葉から離れて罪と悪の中に生きているから、神様は責め懲らしめてくださるのです。ですからこういう懲らしめは、神様の愛であることを忘れませんように。神様の子として扱ってくださるからです。つまり私生児ではないからです。死の道から立ち返るように正してくださることだから、このため弱り果てるのではなく喜んで感謝すべきです。これを覚えていてください。 自分が罪と悪の中に生きているのに、もし神様の懲らしめがなければそれは私生児だからです。これは恐ろしいことです。そのような人がたくさんいます。神様を信じない人ならば自分の罪のためサタンによって試練にあうのですが、しかし聖霊も受けたのに相変わらず罪の中で生きていて、悪を行っている人がいます。しかし懲らしめもないならそれは私生児ように扱われていて、救いからも離れているでしょう。だから自分が罪の壁があってそのため問題にぶつかっているならば、神様の愛で懲らしめられていると思うなら感謝するでしょう。でも罪の壁があってもよくわからない場合もあります。 しかし試練がやってくると、その時自分を顧みるから、それで自分の間違っているところを発見することができ、立ち返って悔い改めるなら、神様がまた回復させてくださるからその試練は愛です。本当に子どもを大事にして愛する親なら、子どもが過ちを犯して正しい道からそれるならそのまま放っておかないでお仕置きをしてでも、正しい道に導くこと、教えることと同じ原理です。しかし神様はすぐ懲らしめるのではありません。その前にいろんな方法で悟らせてくださり、機会をくださいます。最初は言葉で悟らせてくださいます。皆さんが礼拝をするときメッセージを聞きながら、聖霊が働いて悟らせてくださるのですね。 私は今の生き方ではダメだと思ってそれでメッセージを聞いて感動して、変えられるために祈るようになります。しかし主日はそうだったのに、月曜日からまた自分の以前の生活に戻ってしまうなら、心におられる御霊が呻かれて心が苦しくなるのです。こうしてはいけないのにと思って、気が重くなってもやもやして不安になるのです。以前ヨブ記講解でも言いましたが 、不安な心になることもそのためなのです。だからそのときは聖霊の声を聞こうとしなければなりません。でもことさらに罪を犯し続けるならば、もう心が麻痺してしまう場合もあります。しかし聖霊のうめき声を聞いて心が苦しくなったとき、早く立ち返らなければなりません。それでも聞かなければどうなるでしょうか?鋭く神様が責められます。そして懲らしめられます。病気にかかったり、試練艱難がやってくることもあります。しかしそれでも相変わらず聞き従わなければ、もっと大きい懲らしめが臨むのです。 これも親が子供を育てるときを考えてみればわかるでしょう。子供が何か過ちをしたとき、最初は言葉で言い聞かせます。それでも聞かなければ叱ったり、それでも聞かなければお仕置きまでします。皆さんご両親の皆さん、だからと言って子供たちにしょっちゅうお仕置きをしてはいけません。罰を与える段階があるのです。それは正しい教育ではありません。まずは言葉で説得して約束をして教えて言い聞かせるのです。しかし聞かなければ叱ることもあって、そしてお仕置きをする場合もあるでしょう。叩いたりすること以外にもいろんなお仕置きがあると思います。そうではなくて、親が子供が自分の言うことを聞かないからと言って、すぐ怒鳴ったり叱ったりすぐ手を挙げたりすることがあってはいけません。 ヘブル12:9-11に「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちをこらしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちをこらしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、こらしめるのです。すべてのこらしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。 つまり神様は私たちの益のために、ご自分の聖さにあずからせようとしてこらしめるのです。このように神様は私たちを愛するがゆえに、私たちが御言葉通りに生きていない時、試練や艱難にあうようにされます。こらしめられて真理にあって生きるように導いてくださいます。神様は人の悪の姿を捨てて完全にするために練ってくださるのです。そして私たちは試練の過程を経て罪と悪を捨てたら、金のような信仰を所有した昔の信仰の人々のように尊い人になります。 したがって自分の過ちのため試練にあったとしても、結局、試練は祝福であり感謝なことなのです。ヨブは肉の人だから試練の時に神様の前に呟いて、不平を言っていたのですが、皆さんは御霊の人になっていつも喜んで感謝することで、祝福の実を結びますように。自分はまだ肉の人だから、呟いたり不満を言っても神様が理解してくださるだろうと思ってはいけません。ヨブが試練艱難が終わって答えと祝福を受けるためには、この呟きと不平をなくさなければなりません。やめなければなりません。だから私たちは、御霊の人になろうとしなければなりません。また試練の時に打ち勝つためにも自分の悪と肉を捨てなければなりません。

「ヨブ記講解48-ヨブの反論」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:6~7

続く本文でヨブは、自分が不幸になった原因を神様のせいだと言っています。ヨブ記19:6です。

いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。(ヨブ19:6)

ここで神が私を迷わせるとは、自分の意思とは関係なく、心が乱れてよくない方向へ行くようにされているという意味です。つまり神様が自分を低くして屈服させたから、こんなに迷い出てしまったのだと言っています。神様のせいで私はこんな目にあっているのだ。だから私は無気力に負けているのだと言って、神様を恨んでいるのです。私たちは神様の前に、聞き従っていかなければなりません。しかし嫌々ながら屈服させられて、義務感からしているのではないでしょう。今ヨブはそんな風に言っているのです。

私たちは神様を愛して、神様を恐れかしこみ、私のために、救ってくださり、天国を作ってくださった神様、私の霊の父である神様だから、心から愛して喜んで聞き従わなければならないのです。そのような子供を神様は望んでおられます。それでヨブがそのように変えられるように、招いておられるのです。ヨブは以前神様を恐れて御言葉を守っていたのですが、それはうわべでした。神様はそれより、心から本当に神様を愛して、神様の愛を感じて、神様に従って御言葉を守るヨブになるようにと望んでおられました。

例えば親が子供を叱ったとしましょう。何度か注意したのに聞かなかったから、後でまたこんなことをすればお仕置きをするよと言っても、子供が聞かなかったら、お仕置きをする場合もありますね。すると子供は、お母さんが自分を憎んでいると思ってしまうなら、お母さんはどれほど心が痛むでしょうか。子供はそのお母さんの愛がまだわからないのです。でも後でわかるでしょう。大きくなるとお母さんは私のためにそうしてくれたんだとわかるようになりますね。しかしそうではなくて、自分は愛されていない、嫌われていると、誤解してはいけないでしょう。

今ヨブと神様の関係も同じです。ヨブが今神様の前で呟いたり問い詰めたり嘆いていても、神様はヨブの心の芯は良いと知っておられるから、ヨブが変えられることを期待して、待ってくださっているのです。ヨブは神の網で私を取り囲まれたと言っています。網は鳥とか魚とか動物を捕まえるために使う道具です。つまりヨブは神様が自分を捕まえるために網を張っておいて、その中に閉じ込めてしまったと表現しています。しかしこれは言い訳にすぎません。ヨブは自分の悪のゆえ、網で取り囲まれているのです。これは今日私たちが律法に縛られて、人を恨んだり教会や神様のせいにしたりするのと同じです。

例えば自分の過ちで事業がつぶれたり詐欺に遭ったのに、人のせいにしたり環境のせいにしたりする人がいます。普段神様の御言葉通りに生きていなかった人が、何か問題にぶつかったら神様に呟く場合もあります。しかし何か問題が起こったら、自分を顧みて自分の欠けているところを認めて祈り、感謝して御言葉に従わなければなりません。そうすると苦しみから抜け出すことができるし、問題も解決できるのです。

神様は私たちに救いと永遠の命を与えるために、一人子まで渡してくださいました。そして講壇から述べ伝えられるメッセージを通して天国に行く道を教えてくださっています。しかしこのメッセージを聞いて辛いとかきついとか思う人がいますか。それは御言葉通りに生きていないからです。真理が足枷のように感じるのです。真理通りに生きようとしたらきついし、生きていないときは後ろめたいし、恐れを感じるのです。しかし真理を愛して行う人はそうではありません。皆さんはどうでしょうか?この教会で真理の御言葉を聞いて、しるしと不思議神の力の技を見て体験しました。だから神様を信じたのではありませんか?人にはできない驚くべき神の力を見たから、神様が生きておられることを認めて教会に通っているのです。でも御言葉通りに生きようとすると、世を愛する心もまだ残っているから辛いのです。そして教会を離れてしまう人もいます。しかし教会を離れるときは、いろいろ言い訳をするのです。ああだからこうだからと言いながら、教会で問題を起こしたりして、離れてしまう人もいるのです。神様はそれをご覧になってどう思われるでしょうか。

私たちはどんな心で教会に通っていますか、メッセージを聞いていますか?ある人は元老牧師先生はこう言われたからと言いますが、元老牧師先生は神様の御言葉を教えてくださる方です。神様が教えてくださった真理を、私たちは元老牧師先生から教わったのです。そして聖めの福音を聞いていてそのためもしかしてそれが重荷となったり、きついと思ったり辛いと思っているならば、その真理を自分が今行っていないからではありませんか?神様を愛して真理を愛して行っている人は違います。心から神様の愛を感じて真理を行っている人はきついと思いません。自由を得ます。 例えば皆さん、憎むことと愛して許すことどちらが楽でしょうか?やさしいでしょうか?人を愛することや許すことでしょう。でも自分の中に憎しみという悪があって真理と反対のものがあれば、愛することが許すことが難しいのです。だから御言葉通りに生きるのが大変だと感じるようになるのです。でも私たちは難しくても神様を本当に信じているならば、愛しているならば、神様の御言葉に従わなければなりません。親の皆さん、子供たちが嫌がっても勉強しなさいと言いますね。なぜなら、そうしてこそ立派な大人になれるからと思うからでしょう。子どもたちのためにそう言っているのではありませんか?私たちも同じです。人を憎む方が今は楽で、愛するのは難しいかもしれませんが、神様は私たちの幸せのために、憎んではならない愛しなさいと命じておられるのです。それで私たちが頑張って努力して、憎まないで愛して愛を行っていけば、だんだん自由を得るようになります。心が幸せになります。でもまだ心に憎しみがたくさんあるときは難しいかもしれないし、辛いかもしれません。しかし神様を愛して神様の愛を信じているならば、何としてでも憎しみを捨てなければ、愛して祈りながら人を許さなければと思いながら、そのように努力していけば、一つ二つとだんだん行えるようになって、心の中に愛が満たされるようになるのです。そのときは人を憎む方が難しいのです。するとどれほど幸せでしょうか。 今ある人が憎らしくてその人が自分を苦しめたなら、その人が何か失敗したとき、いい気味だと思うならば、自分の心の中におられる聖霊は喜ばれないでしょう。でも自分を苦しめていた人が今失敗したとき、その人のために愛で祈って哀れんで助けようとしたならば、聖霊は喜ばれるでしょう。それでその人への愛の心がだんだん大きくなるのです。それなら神様もどれほど喜ばれるでしょうか?すると上から真の平安と喜びが臨むのです。これは真理にあって味わう自由なのです。この自由を得るためには、いやいやながらやむを得ず御言葉に従うのではなくて、素直に喜んで御言葉に従って行かなければならないのです。すると神様が喜んで応えてくださり祝福してくださいます。 神様の御言葉が皆さんにとって重荷ですか?足枷のようですか?例えを挙げてみましょう。たえず祈りなさいという御言葉があります。この御言葉を知っていても、祈りたくないでしょうか?その時間にドラマを見たいでしょうか?ゲームをしたいでしょうか?神様より自分を愛するからでしょう。そして祈祷会に行かなかったりするのです。でも私たちは御言葉を聞いて祈らなければならないことを知っているから、祈らなければその時間に遊んだり寝たりするとどうでしょう?後ろめたいですね。神様の前に申し訳ないと思い恐れを感じるし、神様の前に大胆に出て行くことができないでしょう。だからそれが重荷のようで足枷のようなのです。自由を感じられないのです。頭で神様の御言葉を知っていても自分が行っていないからそうなのです。だから後ろめたいし不安だし怖いし、神様の前に大胆でいられないのです。だから辛いと思うし、きついと思うようになるのです。 それならこの人に神様の御言葉が網とか足枷になっていて縛っているからでしょうか?そうではありません。神様の御言葉は祝福です。絶えず祈る時でこそ敵である悪魔サタンに妨げられることがないし守られるし、問題も苦しみもなくなるからです。でも自分が従わないから自分の利益を求めていくから苦しくなるし、問題にぶつかってしまうのです。神様は足枷ではないのに自分が自分を苦しめているのです。神様は私たちを苦しめる方ではなくて応えて祝福してくださる愛の父です。しかしヨブはこのような神様の心がわからないからとてももどかしいです。 続く本文を見るとヨブは続けて反論し続けています。ヨブ記19:7です。 見よ。私が、「これは暴虐だ」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。(ヨブ19:7) 暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。つまり暴虐だと叫ぶということは、自分がむごいことをされて苦しめられている、被害を受けていることを訴えるのです。しかしそれが正されないと言っています。つまり自分はいくら訴えても、それを聞いて正しい裁きをしてくれる人がいないと今言っているのです。それで嘆いているのです。ヨブは今自分があまりにも辛いし苦しいから、そして自分にされていることがあまりにも理解できないのです。だから神様は自分を憐れんでくれないし、助けてくれないしこのように苦しめているし、自分がいくら叫んでも答えもないし、自分のために正しい裁きをしてくれる人もいないと言っています。 皆さんもしヨブのような試練に遭うならば、皆さんは神様の前につぶやかないでしょうか?これまで教会でいろいろなことがあったのですが、試みがあったとき、真理を聞いて知っていながらも、神様を恨んで教会を離れてしまった人もいました。教会から離れてはいなくても、熱心が冷めてしまって、人と言い争ったりする姿もありました。それもヨブと同じような姿です。ヨブが求めても叫んでも答えを受けられない理由は何でしょうか?今週癒しの集会があります。まだ癒されていない、答えを受けていない方々は、このメッセージを心に刻んで祝福と答えを受けますように。ヨブは自分がいくら叫んでも答えはないと言っています。皆さんも何か問題があれば神様に祈りますね。でもなぜ答えがないのでしょうか?その理由を探して解決しなければならないでしょう。ヨブは真理を正しく知っていなかったし自分についてもよくわからなかったのです。 聖書を読むとなぜ祈っても答えがないのか、問題が解決されないのかが書いてあります。イザヤ書1:15-17です。「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め 、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」とあります。つまり神様が答えてくださらない理由は、私たちが悪を行っているからです。善を行っていないからです。イザヤ書59:1-3には、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたのとがが、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、あなたがたの手は血で汚れ、指はとがで汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。」とあります。 私たちが祈っても答えを受けられない理由は、罪の壁があることで、それをはっきり教えてくださっています。ところで神様は問題の原因だけではなく解決策も教えてくださいました。イザヤ書1:18-19です。「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることができる。」とあります。つまり私たちが悔い改めて立ち返って御言葉に従って行くなら、全ての罪を許してくださるだけではなく祝福してくださるという意味です。 皆さんが自分の過ちと罪を口で告白して悔い改めなければなりません。私は罪を犯しました。罪を罪と思わないで、ことさらに罪を犯していました。それは神様をないがしろにして、主をもう一度十字架にかける姿でした。人を憎んでいました。言い争っていました。人を裁いて罪に定めましたと、自分の罪を一つ一つ神様の前に告白して、許しを求めなければなりません。二度とそうしないように助けてくださいとへり下って、徹底的に悔い改めて、罪の道から立ち返って光の中を歩み真理を行っているとき、神様が応えてくださり癒してくださるのです。それではヨブはどうすれば答えを受けられるでしょうか?自分の心の悪を悟って神様が応えてくださることを信じて、喜び感謝して祈っていくならば祝福されるでしょう。しかしヨブは真理とは反対に不平を抱いて文句ばかり言って、神様の前に恨んで訴えて問い詰めていたから、答えを受けられなかったのです。 神様は御言葉で天地万物を創造して歴史を導いて、人の生死禍福の権限のある方です。ですから祝福を受けたいと思うなら、真理である神様の御言葉に従えばよいのです。神様の御言葉は私たちに喜んでいなさい、祈りなさい、感謝しなさいと言われました。そして善をもって悪に打ち勝ちなさい。敵をも愛しなさいと言われました。これを心に刻んで守り行っていくならば、いくら大きい問題があっても神様の力によって解決されます。しかしヨブはこれと反対に絶望して、悪い言葉で反論して言い訳をして嘆いているから、答えを受けることができないのです。ですから神様はヨブのために、ヨブが悟って悔い改めて真理に従う時まで待ってくださるのです。 皆さん、詩編66:18に「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。罪の壁を壊していなければいくら祈っても、それは虚しい祈りに過ぎないのです。空中の権威を持っている敵である悪魔サタンが、その祈りを遮断して妨げてしまうから、神様の前に届かないのです。これも霊の世界の法則です。ですから皆さんはこの御言葉を自分に適用して、なぜ試練艱難に遭っているのか、なぜ祈っても答えがないのか、なぜ病気にかかったのか、どうすれば問題が解決されるのか、その答えを得ますように。そして癒しの集会に備えて自分を顧みて悔いを改めて、癒しの集会のとき答えを受けますように。 結論です。 愛する皆さん。今日はヨブが再び友達に対して反論して指摘して神様を誤解して言い訳をしている姿を見ました。なぜヨブが試練に会うしかないのか、もう一度わかったでしょう。ヨブはまだ自分は正しい人だ、神様を恐れていた、なぜそれなのになぜ神様を自分はこんなに苦しめるのかと恨む心があります。だから理解できないのです。自分があっている艱難があまりにも悔しいのです。だから続けて恨み不平ばかりで言っています。 しかし心から神様を愛する人々は、どんな試練や迫害、苦しみで命が危なくなったときも、ヨブとは違って神様の前に感謝し祈りました。預言者や使徒だけではなく、初代教会の一般の聖徒もそうでした。主を信じるからといって激しい迫害を受け苦しみを受けました。もしヨブのように考えていたならば、私には何の過ちもないのになんでこんなに迫害されるのか?なぜ神様は助けてくださらないのかと恨むかもしれません。しかし初代教会の聖徒たちは、自分たちが救われた恵み、天国への希望があることで喜び感謝してその道を歩みました。だから迫害されても苦しみを受けても、心は天国でした。後の世があるから天国での栄光を望んだのです。私たちもどんな状況におかれても神様の変わらない愛を信頼して、信仰を持って走っていくべきでしょう。そうすると神様はその祈りを聞いて答えてくださり、祝福と栄光をくださって神様の愛を明らかにされるでしょう。 しかしヨブはうわべでは完璧でしたがその心の中にはまだ完全でないところがあったので、神様は彼を完全にされるために試練に遭うようにして、自分の悪を発見できるように練ってくださるのです。このように神様は私たちの心から悪を取り除いて、完全にするために練ってくださるのです。練られて金のような信仰を所有するようになれば尊いものになれるのです。だから今試練に遭っていても、その中で変えられて神様により頼むなら、その試練も祝福になります。ですから聖徒のみなさんはどんなことにあっても、喜びと感謝を持って金のような信仰を所有しますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを覚えて思い出して一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが友達を指摘しながら反論しながら神様のせいにしている姿がまたありました。まだ自分を発見することができず、自分が正しいと思い込んでいました。私たちもヨブの姿から自分を発見するようにしてください。そして相手を理解できない姿、相手を責める姿があるなら自分の悪を発見して捨てて変えられるようにしてください。そして祈りに答えてくださらないからといって神様に呟くのではなくて、なぜ自分が答えを受けられないのか、悔い改めて備えるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名でお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解48-ヨブの反論」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:1~5

みなさん、前回はヨブの友達ビルダデが、ヨブに向かって呪う言葉の中から、悪の極みを感じました。ヨブ記18章の全体が、ビルダデのヨブに対する呪い、責める言葉がいっぱいでした。悪い人はいくら素晴らしい表現を使っても、良い言葉を口にしようとしても、悪が結局は現れます。聖書を読むと悪い言葉と良い言葉の実がよく対比されているところがあります。

ナバルとその妻アビガイルの場合です。ダビデがサウル王から逃れて逃亡生活をしていたときでした。ダビデは一緒にいた人々が飢えていて渇いている姿を見て、近くの金持ちのナバルに助けを求めました。ダビデの一行は以前ナバルの羊の群れを守ってあげたことがありました。しかしナバルはダビデが自分を低くして助けを求めても、とても侮辱的な言葉でダビデを罵って卑しめました。そして怒ったダビデは武装した400人を連れてナバルを殺すためにその家に向かいました。

これをナバルの妻アビガイルが聞きました。善で聡明だったアビガイルは急いでパンと葡萄酒といろいろな食物、贈り物を用意してロバに乗せてダビデに会いに行きます。サウル王に追いかけられていたダビデの一行に一番必要なものは食物だったので、急いで用意したのです。ダビデの前でアビガイルはひれ伏してとても謙遜な姿で、「夫は死ぬような罪を犯したのですが、自分を見て許してください」と心からお願いしました。その後、賢い言葉でダビデの良いところを褒めながら心を慰めます。そしてダビデが手を下して無駄に血を流すと神様が喜ばれないことをそれとなく悟らせました。

これを聞いてダビデは第1サムエル記25:32-33で、「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断がほめたたえられますように。」と言って、彼女を祝福して心が慰められました。アビガイルがダビデの心を慰めた後、家に帰ってみたら、ナバルは王のように宴会を開いて酷く酔って上機嫌になっていました。次の日ナバルの酔いが覚めた後、アビガイルは前の日あったことを告げました。そうしたら驚いたナバルは気を失って石のようになってしまい、10日後には死にました。アビガイルは知恵があって善の言葉と行いで、自分の家族が滅びる危機を免れたのですが、悪い言葉を出したナバルは結局死の道に行きました。アビガイルは後でイスラエルの王妃になりました。

このように心の良い人の口から出る言葉は善であり賢いので、どんな苦しみや災いも免れるだけではなく、祝福に変えることができます。ですから聖徒の皆さんは、聖なる神様の子供らしく心を善に変えて聖なる口の実で神様に栄光捧げますように。

前回まで調べたヨブ記18章では最初から最後までビルダデの厳しい呪いの言葉がありました。
その後19章ではヨブがまた口を開きます。ヨブ記19:1-3です。

「そこでヨブは答えて言った。いつまで、あなたがたは私の魂を悩まし、そんな論法で私を砕くのか。もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。」
(ヨブ19:1-3)

 

悩ますとは心が苦しむように苦しめることです。ヨブは友達が自分を悩ましていると言っていますが、実はヨブが自分からそうさせているのです。ヨブが言い返さないで反論しなかったなら悩むこともないし心は穏やかなのに、友達の話を聞いて言いまかそうとするから、いろいろ考えるようになるのです。最近も、インターネットで相手を誹謗中傷する書き込みをする場合があります。人の心はとても悪いですね。そのような書き込みを読んだ人がどれほど心痛むでしょうか、傷つくでしょうか。そして周りの人がそんな書き込みは読まない方がいいと言っても、人は読みたくなるのですね。読んでしまって傷ついてしまい悩んでしまうこともあるのではありませんか。

例えば皆さんに誰かが嫌味を言って皆さんを責め立てたりするなら、そのようなことは聞きたくないでしょう。そしてある人がそのような悪い内容のメールを送ったり電話して悪態をつく場合もありますが、それならその人の電話に出なければいいし、そのメールを読まなければいいのですが、ある人はそれを読んでしまい、また電話に出てしまって傷つく場合もあります。ですから私たちはなるべくそういうことは聞かないで受け入れない方がいいでしょう。

ヨブも友達がいくらあれこれ言っても、それによって悩んだりイライラしたり腹を立てたりしないで、素直に受け入れて自分を顧みて、神様の前に祈っていたのならよかったのに、そうできなかったのです。それで自分を悩ました友達が悪いと言っていますが、実はそれを聞いて友達を恨んで神様に呟いた自分の悪が大きいのです。だから私たちは真理でなければ聞かないで見ないで話さない方がいいでしょう。相手が悪を行って嫌味を言ったりすることは相手の悪だけです。それによって自分が傷ついたり自分が苦しんだりする必要はないのです。
 

本文でヨブは友達がそんな論法で私を砕くのかと言っていますが、これはすなわち友達が自分を言いまかそうとしているということです。言いまかすということは相手を反応できないまで論じ詰めて黙らせてしまうこと、相手を屈服させることです。これまでヨブが何かを言うと友達は、言いまかすためにいろんなたとえを上げて指摘して呪ったり、ヨブを黙らせようとしました。人の間で言い争いが起こると、互いに感情的になってこのような場合があります。クリスチャンでもノンクリスチャンでも同じです。相手が何か話をしたとき自分の考えと合わなければ、言いまかすためにへ理屈を述べる場合もあります。こうやって論じ詰めることは彼を理解させることができないと思ったり、理解させたくないと思ったからでしょう。 例えば会議をするときや話をするとき誰かに質問するとき、相手が納得できるように説明すればいいのにそうではなくて、強圧的な口調でそれ以上意見を言えないように、黙らせる場合があります。それは相手を無視することでしょう。会議をするとき、全体の発展のために意見を出してくださいと言って、ある人が意見を言ったのですが、その会議を導く人がそれはもういらないことですと言ったり、そんなことを話さないでくださいと言うならば、どれほど相手を無視する姿でしょうか。 家庭で例えば子どもたちが何か話をするとき、親がその子どもの話を聞いてあげないとか、もう黙りなさいとか、静かにしていなさいとか、子どもが何か欲しいというのに、それなら宿題したの?とか言ったりする場合もあります。するとそれ以上子どもたちとのコミュニケーションが難しくなってしまうのではありませんか。人と話をするときこういうところに気をつけなければなりません。 例えば相手を言いまかすために黙らせるために、相手の弱点を攻撃したりする場合はないでしょうか?このように相手を無視して黙らせてしまうと、相手はもっと反発するようになるでしょう。だから言いまかすことは正しくないでしょう。私たちは何としてでも愛と徳を持って、相手が理解できるようにしなければなりません。神様は人の心を全部ご存知です。ヨブと友達の深く潜んでいる悪を明るみに引き出してくださっています。それで自分自身を発見して変えられるように望んでおられるからです。 本文にヨブは、もう十度もあなた方は私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめると言っています。ここで十度とは十回だけを言うのではありません。ヨブの友達がそれだけ何度もヨブをいじめたという意味です。ヨブは自分が今まで我慢しまた我慢してきたのに、あなた方は繰り返し私をいじめて、恥知らずではないのかと言っています。自分には過ちがないのに、神様がこんな風に病気になるように、傷だらけになるようにしてしまった。あなた方に良心があるなら、私を責め立てるのを恥ずかしく思いなさいと言っているのです。ヨブは自分より正しい人が苦しみを受けているのに友達が慰めるどころか、自分を厳しく咎めているから理解できないのです。それで友達のやっていることが恥ずかしいことだと悟らせるために、このように言っているのです。 皆さん夫婦の間でもまた友達の間でも、会社の同僚との間でも同じです。相手が自分にひどいことを言ったから、あの人は悪い人だ、あの人がやっていることが恥ずかしいことだと思うでしょう。でも相手はそのように思っていないのです。相手は言うべきことを言ったと思います。そしてただアドバイスしただけだと思う場合もあります。今、ヨブとヨブの友達の関係がそのようになっているのです。ヨブは友達が自分をこんな風に指摘したり、責め立てていることは恥ずかしいことだ、間違っていることだとそれを厳しく言っているのです。しかし友達の立場では、自分たちは悪いことをしていると思わないのです。だから互いに自分の立場だけを思っているのです。 私たちの日常生活にもこういうことがよくあると思います。自分とあまりにも合わない人に会ったとき、その人が言っていることやしていることが、到底理解できないときがありますね。でも相手も同じように考えていることもあるのです。ヨブとヨブの友達が今言い争っている姿を私たちは第三者の立場から見るとわかりますね。それで互いに互いが理解できないのです。皆さんも同じです。周りの人との関係でそういう場合があるのです。 自分は相手が理解できないと思っていますが相手も同じなのです。それならどちらが正しいでしょうか?神様がご覧になるときはどちらも正しくないのです。こういうことが日常生活ではよくあります。どうしてあれがわからないのかとか、どうしてそんなことを言うのかとか思いますか。相手も同じように思うのです。それで互いに言い争うようになったり、ギクシャクしたりするのです。だからそういう場合は自分が相手を理解できないところがあるんだ、自分の心はまだ狭いんだと、自分の心の中に悪があるんだと自分を顧みて、相手のために何か自分が助けることがないのかと思いながら祈ろうと、神様に委ねれば心は穏やかになって、そして自分は感謝できるでしょう。 しかし相手のことをなんであんなことをしているのかと思いながら、イライラしたりすると自分に損ではありませんか。そのような必要はないのです。人は自分のほうがいつも正しいと思っています。でもそれは思い込みかもしれません。だからいつも自分のことばかり考えるのではなくて、客観的になって相手の立場に立って考えるべき必要があります。そしてヨブとヨブの友達が言い争っている姿を見ながら、自分を顧みなければなりません。私にもヨブのような姿があるんだ。友達のような姿があるんだと自分を発見すること、これが神様の望んでおられることです。ヨブ記でずっと繰り返してこのような互いに言い争っている姿が示されているのも、神様がそれを悟らせてくださるためです。 それで元老牧師先生はその霊的な意味を解き明かしてくださるから、私たちはヨブ記講解を聞きながら自分の心の隅々まで発見できるのです。ある方はこのヨブ記講解を聞きながら、先生、先週私の家に来られたかのように、私のことを言っておられるんだと思う方がいるそうです。皆さんが友達との間で起こったこととか、また会社で同僚との間で起こったことなどを、御霊が一つ一つ悟らせて思い起こさせてくださるから、私たちは自分を発見してその恵みによって変えられることができるからどれほど感謝でしょうか。ヨブ記講解のメッセージを通してこのように恵みをくださって発見させてくださることも、御霊の働きです。 ヨブとヨブの友達は互いが理解できなくて、互いをとがめて責めているのですが、私たちもその姿から自分を発見しますように。ヨブは友達にあなたがたがしていることはありえないことだ、恥を知れと言っています。もちろんヨブは自分が正しいと思っていますが、実際何の傷もない義人ではありません。今までヨブが口にした真理と反対の言葉の罪があるでしょう。ヨブが試練にあうような理由があるから練られているのです。でもまだ自分の悪を悟れず、自分は正しい人だとだけ思っています。だからヨブの立場では、自分より悪い友達が自分を厳しくいじめているから、それは恥だと恥ずかしく思いなさいと言っているのです。しかしヨブの友達は感情的になって、ヨブを責め立てていながらも自分たちは正しい、ヨブは悪いと思っているから恥と思わないのです。このように人が高くなってしまうと、恥ずかしいことをしていながらも悟れないのです。自分は心が高くなって人の過ちと欠点をしょっちゅう指摘していながらも、自分は見事に従っている、正しいと錯覚しています。しかし本当に心が良くて正しい人は、相手の過ちを見ても指摘したりしません。 イエス様はご自分を売り渡すイスカリオテ・ユダにも直接的に責めることはなく、間接的に悟らせてくださいました。最後まで彼をそばにおいて、他の弟子と同じようによくしてくださって、彼が悔い改めるように続けて機会をくださいました。元老牧師先生も、聖徒の何かの過ちを知ったとき直接的に指摘するよりは、講壇でメッセージの中で間接的に悟らせてくださいました。元老牧師先生は、誰かの過ちを指摘することは気が引けるような性格でもあるし、聖徒が指摘したとき彼が悔い改めて立ち返るなら祝福ですが、もし不満を抱いたり聞き従わなければ試練に遭うようになるから気をつけておられました。 使徒パウロは第Ⅱコリント10:1で「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気なものです。」と言っています。どういう意味でしょうか。聖徒に会ったときは大胆に厳しく指摘できなくても、手紙を書くときはこのように強気で進めることができるということです。 正しい人でも相手の過ちを指摘することを慎むので何度も厳しく責めることは簡単ではありません。ヨブは前から正しいところがあったので、自分がやっていることは相手ができないからといって厳しく責めたりしませんでした。アドバイスをしても相手が聞き入れなければ気が引けました。しかしヨブは友達を見ていたら、友達は何の過ちもない自分を続けて指摘して責めたてていながらも恥ずかしいと思わないのです。だから過ちがある人を叱るのも慎むべきなのに、何の過ちもない私を悪いあなたたちが恥知らずにもいじめているのかと問い詰めているのです。 皆さんの姿にはこういうところはありませんか?前回も伝えましたが、相手の悪や過ちを知ってそれを指摘してしまうことは自分の中に悪があるからです。自分の中にある梁は見えることはできず相手の目の中にあるちりを見て指摘する姿です。自分を顧みるよりは、人を見てその人の欠点とか過ちを見つけ出そうとする姿はどれほど悪い姿でしょうか。クリスチャンは神様の子どもはそうしてはいけません。私たちの基準はいつも聖書の御言葉です。人を裁く人は自分も裁かれるのです。人の悪行を言う人は自分も悪行を言われるようになります。この御言葉を覚えていなければなりません。そして人を許さない人は神様にも許されないのです。相手が自分に過ちを起こして失礼なことをしたとしても許して、そしてその人のために祈るべきなのに。そうでもない人がいてその人を許せないとか、その人との関係が苦手だとか思うことがあってはいけないでしょう。 続く本文ヨブ記19:4-5です。 「もし、私が本当にあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか。あなたがたがほんとうに私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで、私を責めるのなら、」(ヨブ19:4-5) ここでもし私が本当にあやまって罪を犯したとしてもと言っています。これはヨブが自分の過ちを認めている意味ではありません。ヨブは自分には何のあやまちもないと思っています。それなのに友達が何度も自分が悪いとあやまちがあるとこのように続けて言うから、ヨブはここで心にもない言葉で肯定しているのです。まるである人が無実の罪を着せられて逮捕された時、尋問されながら耐えられなくて偽りの自白してしまうことがありますね。これと似ています。ヨブはこれまで友達と言い争っていて、感情的になっていてあまりにも苦しいし辛いのです。それで口先だけでこのように言っているのです。何を話しても友達を納得させることはできないし理解してもらえないと思うから、分かったもう分かったというふうに言っているのです。 しかしヨブは罪を犯したとしても、あなた方は本当に私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで私を責めるのかと言っています。つまりこれは自分が本当に悪い人なら、あなた方は偉いのか、それならそれを証明してみせなさいと言っているのです。この内容をもっと具体的に調べてみます。ここで高ぶるとは、自慢すること、見下すこと、偉そうに振る舞うことを意味します。ヨブは友達にあなた方がそんなにうぬぼれているほど正しいのか、私はあなた方が指摘したとおりに悪い人なのか、もしそうなら私のそしられるようなところを証明してみなさいと言っているのです。 人々は言い争っていって感情的になると相手の弱点を攻撃します。自分の話が、言葉が通されないから腹が立って、相手に負けるようなふりをして相手の過ちとか欠点をあばき出して何としてでもこき下ろそうとするのです。今ヨブが同じようなことを言っています。二人がいま言い争っているとしましょう。それで一方が相手の欠点とか弱点を攻撃するとしましょう。しかし自分はそれが理解できないし納得できないのです。だから言い負かそうとするために、相手の弱点とか相手の欠点などをあばき出して相手を攻撃して仕返すのです。 会社で同僚の間でもそうだし、上司との間でもそうです。上司が自分の自尊心を傷つけたり、そして何か理不尽なことを言ったりすると、この人もイライラして上司の前で上司の弱点とかを攻撃する場合もあると思います。相手がそれ以上何も言えないように黙らせようとすることもあるし、自分が窮地に追われたら相手の弱点を攻撃しながら、あなたは私より偉いのかと言っているのです。それはヨブの今の姿です。皆さんも家庭の中で、また会社の中でこういう姿はないのか顧みますように。聖徒の皆さんにはこういう悪ではなくても、自分の考えや自分の利益に合わなかったり、自分が認められていないと思うときどんな姿だったのか考えますように。 例えば、教会のある組織のリーダーに選ばれたときは熱心だったのに、次に選挙で選ばれなかったなら、前と違って熱心が冷めてしまいます。そして、今リーダーとして新しく選ばれた人より自分が優れていると思うから不満を抱いて、人々は自分を認めてくれないから寂しいのです。今ヨブがそのような心なのです。友達が自分に言っているように、もし自分が悪い人なら、あなたたちは私より偉いのか、その証明をしてみなさいと言っているのです。皆さんもそういう姿がないのか顧みますように。自分の考えとか自分の利益に合わなくて、また自分が認めてもらえないとき不満を抱いたり、心の中で相手を無視したりする姿がないのか顧みますように。それも悪なのです。 そして集まりで自分の意見が受け入れてもらえないとき、どうなるか見てみようと思いながら、協調しないで協力しないならこれも悪でしょう。そして相手の陰口をたたいたりするならこれはもっと大きい悪だし、サタンが喜ぶことでしょう。ただその人がこれまで自分なりに奉仕をしていたことは、人に認められるためにしていたことを自分で明らかにする姿です。ですからこういう悪は、断食して火のように祈って必ず捨てなければなりません。そうしないでこのくらいは自分が相手を呪ったり大きい害を与えたのでもないのにと思うなら、それがもっと大きい悪に育ってしまったり、そして自分の中にずっと隠れた悪があるということです。 今ヨブとヨブの友達を見ながら、本当にひどいな、悪いな、どうして互いにあんなふうに言い争って呪ってまでしているのかと思いますか。皆さんの心にもそういうところがあるかもしれないのです。自分がヨブのような境遇に置かれたら、ヨブよりもひどく悪を行うこともあるということです。だから潜んでいる悪を探し出さなければならないし、言い争ったりすることはなくても、心の中で相手を理解できなくて、そうでなければ思い込みの中で決めつけてしまったり、人に悪口を言ったりする、そういう姿はありませんか。それを発見したならば早く捨てなければなりません。発見したのに捨てなければ、ずっとその隠れた罪が自分の中にあるから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。それは敵である悪魔サタンが喜ぶことです。試練と患難をもたらす原因になるのです。 だから悪はどんな悪でも避けなければなりません。私はヨブの友達のようにひどい悪を行っていないと思うかもしれませんが、神様がご覧になるとき、自分の心を本当に聖いのかと変えられなければなりません。相手を無視したり自分より劣っていると思ったり指摘されたくないと思ったりすることも同じです。

ヨブ記講解
再掲載のお知らせ

休載しておりましたヨブ記講解は、42回目より再開できるようになりました。たましいの深いところまで掘り下げて、自分とは何なのかを導いて下さる神様の御手を、ヨブ記講解の深いメッセージより汲み取っていただければ幸いです。​

「ヨブ記講解(47)-悪の極み」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:16~21

これまでヨブに向かって、あらゆる呪いの言葉を言っていたビルダデは、今は木を例えて言い切っています。ヨブ記18:16-17です。

「下ではその根が枯れ、上ではその枝がしなびる。彼についての記憶は地から消え失せ、彼の名はちまたから消える」(ヨブ18:16-17)

木は根が枯れると死ぬしかないでしょう。そして枝がしなびるならどうなるでしょうか?これは完全な死、すべてが消え失すことを意味します。そして彼についての記憶は地から消え失せとあります。その人には何も残らない、人々に覚えられるようなこともなくなるということです。それで人々の間でヨブの名前も呼ばれることもなくなり、ヨブについて言及することもなくなって、すべてが徹底的に滅びてしまうという意味です。ヨブはこれだけ呪われるほどの悪い人ではないのに、友達はあまりにも厳しく呪っています。

みなさん、たとえ相手が悪い人でもその人を呪うことがあってはいけません。何としてでもその人の良いところを見つけて褒めてあげて、その人も善を感じて善の中に入るように道を開いてあげなければなりません。それならヨブを慰めに来た友達が、なぜこのように悪い言葉でヨブを腹立たせて、ヨブの怒りを爆発するようにしたのでしょうか?もちろん友達の悪によるものですが、ヨブを変えさせようとする、神様のご計画の中にありました。

ヨブ記講解で伝えているように、私たちが平安の時は自分の中にある悪を見つけることは難しいです。試練艱難にあってこそ、自分の中にどんな悪があるのか発見することができます。罪とか悪だけではなくて、自分の心の狭いところとか自分の弱いところも、試練艱難にあってこそ発見することができます。より深い愛の次元に成長するためにも必要な過程です。広い心になるためにも、多くの人を受け入れるためにも、試練艱難という過程を通して発展して成長する過程が必要です。

自分なりに祈っていて罪は犯していないようでも、ちょっとモヤモヤがあって喜びが心の中から湧いてこない場合もありますが、それも神様が練ってくださることがあります。自分を誤解して自分について良くない話を他の人にするとか、そういう人が周りにいるとしましょう。自分は熱い心で積極的に何かをしたのに、それが気に入らなくて反対する人がいるとしましょう。その時自分の心はどうなのか?それが罪とか悪ではなくても、自分の心が狭いというのが発見できることがあるでしょう。なんで私のことを理解してくれないのかとか、なんで私はやってもいないことをやったと人に言うのかと落ち込んでしまったり、心が覚めたりすることがあるならば、それも自分の心が狭いからだと悟るようになりますね。祈りながら聖霊様にその理由を教えてくださいと祈れば、自分の姿を発見するようになるでしょう。私の器が狭いんだ。自分自身を愛する姿

があるんだ。昔の信仰の人々のような心ではないんだと、悟るようになるでしょう。

今の私なら迫害されたら殉教できるのかと、自分を発見することがあるでしょう。自分の愛の足りなさを悟って、悔い改めるようになります。神様私は周りの人にあれこれ言われたことで感謝できませんでした。喜べませんでした。このような狭い心の自分を発見しました。悔い改めます。さらに広い心を持つようにしてください。主に似た心に変えられるようにしてくださいと。このように試練艱難を通して自分自身を発見して変えられることができるなら祝福でしょう。

しかしヨブや友達のように試練に会った時、神様の前に呟いたり互いに言い争ったり、悪を行うことはとても愚かな姿です。そうではなくて私たちは、自分を発見して成長するようにしてくださる祝福の糧だと思い、試練の時祈りながら感謝しますように。それで聖霊が悟らせてくださる時、素直にアーメンと受け入れて従って変えられますように。ヨブは試練に会う前は、まるで大きい容器にゴミが沈んでいる水のようで、上のところだけ見ると綺麗に見えました。しかしヨブの友達がヨブの怒りを刺激して激しく揺さぶったら、ヨブの深いところにあったゴミが、悪の姿が一気に現れたのです。この容器の水が本当に綺麗になるためには、沈んでいたゴミは全部取り除かなければなりません。それで完全に綺麗な水になると、その後はどんな人や環境がいくら揺すっても小さいちりも出てこないでしょう。

ですから神様はこのように綺麗な心になるように、ヨブからちりを取り除く作業をしておられるのです。皆さんも試練という過程を通して自分の中にあるゴミが発見されるならば、気を落とすのではなくて感謝しながら、その時その時捨てて速やかに変えられますように。今のこの試練の時が苦しいでしょうか?辛いでしょうか?そのような方々は自分の心を変えさせる作業をしていないからです。自分を発見しようとしないで、周りの人のせいにしたり環境のせいにしたりしているからです。しかし自分を顧みて自分を発見して、信仰が成長するチャンスだと思って変えられていくならば、この時間が辛いのではなくて嬉しくて幸せでしょう。神様の人間耕作の摂理をさらに深く悟ることができるでしょう。そして人の子等の悪、裏切る悪を痛感して自分の中からそれを捨てていくでしょう。そして周りの人を変化に導くこともできるようになるでしょう。皆さんはどのようにこの時間を過ごしているのでしょうか?落ち込んで辛いと思っていますか?きついと思っていますか?でなければ感謝と喜びを持って幸せでいますか? 続くヨブ記8:18でビルダデはこのように言っています。 「彼は光からやみに追いやられ、世から追い出される」(ヨブ8:18) 光からやみに追いやられるとは死を言っています。希望を全部失うことを意味します。そして世から追い出されるとは、ヨブがこの世からいなくなることを言っています。ただ死ぬようになると表現してもいいでしょうが、世から追い出されると表現しているから、とても悪い呪いでしょう。この中に込められた意味は、ヨブが悪いから罠にかかった。それで世から追い出されると言っているのです。つまり世と周りの人がヨブを受け入れないで見捨ててしまったという意味です。 例えばある人が絶望的な時、世にも見捨てられ、全ての人が自分を見捨てたということがあります。これは最後にもう生きる希望がなくなった時に言う言葉でしょう。ビルダデはこのような呪いの言葉を、ためらわずにヨブに向かって言っているのです。ヨブ自身がそのように嘆いてもいけないのに、ビルダデはヨブがそんなものだと呪っているのです。皆さん、今私たちはヨブの友達ビルダデの姿から、悪の極みを見ています。 ところで神様はこれを通して自分自身の心はどうなのか、自分の言葉はどうなのか、顧みるように望んでおられます。例えば神様を信じると言いながら、真理と反対の言葉をためらわずに口にして、相手をつまずかせることがあります。これは相手を直接呪ったのではありませんがとても悪いことであり、相手を苦しめて霊的に殺す言葉になることがあります 例えば人の過ちを伝えて噂話をして誤解させる場合があります。ある人の過ちを知ったことを、第三者に伝えるのです。それで一緒に陰口を叩くのです。それで相手がその人を裁いて罪に定めるようにするのです。だから大きい悪でしょう。自分ひとりでその人を裁いて罪に定めることも悪いのに、人に伝えて一緒に悪を行うようになるのです。だから悪に悪を加える姿です。そして自分の言葉によって仲違いをさせたり、互いに憎み合うようにする人もいます。他の人について噂話をしてそれで互いに誤解するようになって、仲違いをしてしまうことがあります。もちろん自分が実際聞いたこともあるかもしれませんが、伝えないほうがいい時もあるでしょう。 Aという人がある人について、あの人試練にあっていて助けたいなと言いました。それを当事者に伝えるのです。Aさんがこんなふうに言いましたと自分の考えの中で伝えるのです。すると相手が誤解するようになるし、Aという人について悪い印象を持つようになることもあります。Aという人が良い意図で言ったのに、自分の考えで悪く伝える場合もあるし、偽りを加えて伝える場合もあります。それで互いに憎み合うこともあります。これはとても大きい悪でしょう。でもそれを意識しないで平気で偽りを言ったり、それで後で忘れてしまうから罪の壁が壊されないのです。そして自分の考え、思い込みによって真理を間違って引用することもあるし、高ぶって偽りを聖霊の働きのふりをして言う場合もあります。このような言葉によって誰かが傷ついてつまずくなら、これはその人を光から闇に追いやることになります。自分の言葉のせいで全世界より尊い人を、信仰から離れさせてしまうこともあるのです。 マタイ18:6-7に、「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるようなものは、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は災いだ。」とあります。これは人につまずきを与える人に災いが臨むことを言っているのです。ですから私たちは悪い感情を持って口の言葉を制御できなくて、試練艱難を招くことがあってはいけません。人の心が悪ければその言葉も悪いでしょう。ビルダデの言葉を聞いてみればわかります。 ヨブ記18:19です。 「彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかには一人の生存者もなくなる。」 (ヨブ18:19) 前回ビルダデはヨブに「死の初子が彼のからだを食らおうとしている。」と言っていました。それはヨブの体だけではなく、他の子どもと家族、環境、業績とすべての祝福がなくなるということを表現しました。ビルダデはもう一度具体的にヨブを呪っています。彼には自分の民の中に親類縁者がなくなると言っています。ヨブの家のものが根絶やしされるという呪いです。皆さん、ヨブ記の内容が昔の話、旧約の時代にあったヨブのことだと思わないで、皆さんがその立場になってみてください。自分はヨブのような試練にあっていると思ってみてください。病気で苦しんでいるのに、友達が来て慰めるどころか、このように厳しく呪っているなら、どれほど心が痛むでしょうか。 元老牧師先生はこの場面で、人の心の悪を感じてとても悲しんだとおっしゃられました。そしてヨブの心を考えると、涙が出そうだと言われました。しかし多くの人が自分の小さい試練にとても苦しみながら、人の大きい試練にはあまり共感できません。そして相手が自分に一言言ったからと言ってそれによって辛いのに、自分の口の言葉によって相手が傷つくことは考えられません。もちろん皆さんの中には、ビルダデのように悪い言葉を言う人はいないでしょうが、何気なく言った自分の一言によって、相手にそれが傷になることもあることを、いつも覚えていますように。それでいつも善の言葉、励ます言葉、希望を与える言葉、温かい言葉を口にしましょう。 皆さん、職場でビルダデのように悪い言葉を言って相手を傷つける人が、そのような上司とかがいるなら、皆さんはどう対応するでしょうか。その人によって自分が傷ついたとか、その人の嫌味とかによって、自分を辛いと思ったことはありませんか?その時もしかして根に持っていて、後で言い返したり、人に悪口を言ったりする姿はありませんか?そうしてはいけないでしょう。私たちは世の人と違ってその人のために祈り、その人の心を理解してその立場に立ってみることが必要でしょう。しかし実際はそうできないこともあるでしょう。私は自分なりに善を持って対しているのに、なんであの人はずっとそのように悪い言葉を言って、嫌味を言って私を苦しめるのかと、その人を恨むとか、そういうことはありませんか?私たちはそうではなくて、神様のみ言葉に照らして善を行って、その人のために祈っていけば聖霊が働いてくださるでしょう。 続く本文ヨブ記18:20-21です。 「西に住む者は彼の日について驚き、東に住む者は恐怖に取りつかれる。不正をする者の住みかはまことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(ヨブ18:20-21) これはヨブの今の現状が酷い災いのサンプルになるし、その後を追う人々が恐怖に取りつかれるということを説明しています。ヨブの惨めな結末を警告しているのです。これはヨブを苦しめて、骨をむしばむような苦しみを与える呪いです。ビルダデはヨブがこのようひどい目に遭っていることは、ヨブが不正をする者で、神を知らない者だからと言っています。もちろんヨブは神様について正しく知らなかったので、つまり霊的な無知によって今の過程を経験しています。 もしヨブが神様を正しく知っていたなら、友達が真理を持ってアドバイスするとき、耳を傾けて悔い改めて立ち返ったでしょう。そして神様を恨むことはなかったでしょう。しかし旧約時代に神様を見つける体験もなく、ヨブのように潔白で正しく生きる人はあまりいなかったでしょう。だから神様もヨブの心を認めて褒めておられました。しかしビルダデはヨブのこのような心を知らないまま、不正をする者だとさばいていました。そしてヨブが不正だからその結果として惨めな結末になると決めつけていました。ではビルダデはヨブをそのように評価するほど、ヨブより正しいでしょうか?神様についてよく知っている人でしょうか?そうではありません。ビルダデは神様についてよく知らないし、正しくないのに神様をよく知っているように言い切っているから、おかしい姿でしょう。 十戒の第三の戒めで神様は「あなたはあなたの神の御名をみだりにとなえてはならない」と言われました。そして伝道者の書5:2に、「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。」とあります。神様の前で祈るとき、言葉を少なくせよという意味でしょうか?そうではありません。皆さんの日常生活で、自分の口の言葉に気をつけなさいという意味です。私たちの言葉と行い一つ一つを、聖なる神様が炎のような御目で見ておられるということをいつも心にとめて、神様の御名を崇めて、真理の唇になるように努めなければなりません。 ところで皆さんがノンクリスチャンの人と話をするとき、こういう人がいると思います。私も子供のとき教会に通っていたから神様を知っている。私も聖書を読んだから神様について知っているという人もいるでしょう。しかし神様について本当に知っているなら、天国と地獄があることも知っているから、信仰生活をするはずです。しかし神様を知っていると言いながら教会に来ないということは、自分が天国ではなく地獄を選んだことだから愚かなことでしょう。神様を知らないから信仰生活をしていないのです。 教会に通っていない人のことだけではなく、教会に出席していて礼拝も捧げている、奉仕をしている人の中でも、神様を知っている、信じると言いながら、真理通りに行わなければこれは真実な心ではないのです。神様を知るということは、神様の御子であるイエス・キリストを知っているということであり、それはイエス・キリストをただ頭で知っていることだけではなく、心で信じて救い主として受け入れて、その御言葉通りに行うことです。しかし多くの聖徒は主を信じる、神様の御言葉を知っていると言いながら、その御心通りには実行しないことがあります。これは本当に信じることでもないし、ただ知識として知っていることだけです。だから神様の御心ではなくて自分の思い通り、自分の利益に合わせて真理と反対のものを追い求めて、悪を行う場合があるのです。 働き人で、信仰歴が長い神様の御心を知っていると言いながら、人をさばいて罪に定めたり、憎んだり妬んだりしているならば、それは悪を行うことで神様を知っているのではないのです。本当に神様を信じてその御心を知っている人は悪を行えません。ですから私たちはヨブの友達のように、自分も神様の御心をよく知っているように錯覚しているのではないか顧みますように。エペソ4:13に、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに対し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、完全に御心をおこなって神様が望んでおられる子どもの心に変えなければなりません。 結論です。 皆さん、アフリカのある部族では使い道のない木をノコギリで切る代わりに、その木に向かって全ての住民が死んでしまえと叫ぶそうです。そのように呪いの言葉を続けると、実際木がだんだん枯れて死ぬそうです。魂のない木もその言葉に敏感に反応しますが、人はどうでしょう。言葉の力は驚くべきものです。自分の一言によって相手が傷つくこともあるし、勇気を出すこともあります。言葉は人生を左右します。 箴言13:2です。「人はその口の実によって良いものを食べ、裏切る者は暴虐を食べる。」とあります。人はどんな言葉を口にするかによって、祝福されたり呪われたりもします。ビルダデのように厳しい呪いの言葉は言わなくても、心にある悪のため無意識に争いを引き起こしたり、傷つけたり、押しつけるような言葉を口にしているのではないか、顧みますように。そして同じ言葉でも言うべき時があり、言ってはならない時があって、それが必要なのか、じっくり考えて口にする知恵が必要です。どんな言葉を口にするかによって相手が喜んで、慰められたり愛の絆を強くする場合もありますが、反対に傷つけたり苦しみを与えることもあります。ですから、いつも自分がどんな言葉を口にするかはとても大切です。 心が神様によって聖くなる人は口の言葉も聖くなり、善の言葉に変えられます。ルカ6:45で「良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とある通りです。善と愛の言葉を口にするためには心から憎しみ、憤り、怒りなどを捨てて、善と柔和、愛で満たしていかなければなりません。ですから毎日御言葉と祈りによって心を聖めていき、皆さんの口からは傷つける言葉とか、攻撃的な言葉ではなく、徳と愛をもって命を与える言葉だけがありますよう主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思いながら、一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデがヨブに向かって呪う姿を見ました。その言葉はあまりにも悪くて厳しい呪いの言葉でした。悪の極みを感じました。しかしそれはただビルダデの姿ではなくて、自分の心も自分の姿もそうではなかったのか、顧みて悟りますように。周りの人に対して、兄弟、姉妹に、そして他人に対しても、自分がどんな心でどんな言葉を口にしていたのか、顧みて発見して変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(47)-悪の極み」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:14~15

皆さん、前回はシュアハ人ビルダデが、ヨブに向かって厳しく呪う言葉を一つ一つ調べてみて、私たちの言葉がどれほど重要なのか伝えました。ヨブはまだ御霊の人ではなかったので、友達から責められ呪われた時、とても心が苦しくなりました。だからヨブも友達に向かって悪い言葉で言い返して、互いに自分が正しいと言い争っていたので、感情的になって、だんだん悪に悪を加えていきました。もしヨブと友達が御霊の人だったなら、どのように対応したでしょうか?

相手が罵っても殴っても感謝しながらその相手のために祈っていたでしょう。あの人が私をこんなに苦しめるから、私は言ってもいないことを言ったと言いながら、ぬれ衣を着せるから、私は言い返しをしなくても、あまりにもそのため傷ついてしまいました。それで祈りたくなくなって悲しくなりました、というならそれは悪いことではないと思いますか?いいえ、それも自分を愛する姿で、相手を憎んでいる心があるから、そんな反応が出てくるのです。

悪い人が悪を行うとき、それによって自分が被害を受けるとき、もちろんそのため悲しいでしょう。それで心が痛む時もありますが、しかし皆さんの心の底にある幸せと喜びはなくならないのです。傷つくことがあっても、心から湧いてくる喜びはなくならないのです。しかし今ヨブと友達が、互いに悪で報いているような姿ではなかったとしても、もしかして熱心が冷めたとか、祈りたくなくなったとか、落ち込んでいたとか、そういう姿があるならそれも悪から出てくる姿であるのです。しかし御霊の人ならば喜んで感謝するし、相手のために平和を作るために善を行うでしょう。

例えば使徒パウロの場合、福音を伝えていて受けた苦しみはとても大きかったです。使徒パウロは何の過ちもないのに、ユダヤ人たちは迫害しました。パウロがイエス・キリストが神の御子だと伝えるから、それを受け入れられなくてパウロを迫害しました。使徒パウロはイエス様が救い主であることを伝え、神の力を行っていました。それでユダヤ人は彼を憎んでいました。パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓った人が40人もいました。どれほど悪い姿でしょうか。

使徒パウロは彼らに何か害を与えたのでもないのに、かえって多くの人の病気を癒して、神様の福音を伝えて善を行っていたのに、ユダヤ人たちはそれが嫌でパウロを憎んでいました。そして自分にはない神の力が現れているから、ねたんでいました。だからそのようにパウロを殺そうとしました。40人は飲み食いもしないと誓ったのです。聖書に書いてあるこのような出来事を読んで、初代教会の聖徒が受けた迫害のことを思ってみれば、今私たちが受けている試練はあまり大きいものではないのがわかります。
 

私たちも使命を行っていて、主の福音を伝えているのに、なんでこんなに迫害されるのかと思うかもしれませんが、使徒パウロが受けた苦しみや迫害と比べてみれば、取るに足りないものでありませんか。敵である悪魔サタンはいつでも神の人を妨げて殺そうとしてきました。どの時代にもあることです。パウロが福音を伝えるところには、彼を迫害して殺そうとする人がたくさんいました。パウロが行くところについて行って妨げていました。ある時は石打ちにされて彼が死んだと思われた時もあったし、鞭で数え切れないほど打たれたし、牢に入れられることもありました。それでも使徒パウロは彼らを呪ったりしませんでした。 ローマ9:3に「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」とあります。「私の同胞、肉による同国人のために」と言っています。自分を迫害しているユダヤ人のことですね。その人々の救いのためなら自分が「キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」、つまり自分が地獄に行ってもいいと言っているのです。このように深い善と愛の段階に入ると、敵のためにも命まで渡すことができます。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように、望んでおられます。 ですから今日もメッセージを聞く時、ヨブの友達はあまりにも悪いとだけ思うのではなくて、自分の中にはそんな悪の属性があるのではないか、顧みますように。それでエペソ5:13に「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」とあるように、皆さんも心の中にある悪を発見するならば、光によって善によって変えられますように。前週に続いてヨブにビルダデは呪っていますが、だんだんその程度がひどくなっています。今日はもっとひどい呪いの言葉を口にしています。 ヨブ記18:14です。 「彼はその拠り頼む天幕から引き抜かれ 、恐怖の王のもとへ追いやられる。」(ヨブ18:14) 「拠り頼む天幕から引き抜かれる」とは、すべての家が壊れて身のよりどころがなくなるという意味です。人が潰れると、住んでいた家まで奪われることもあります。このような惨めな身の上になることを言っています。そして「恐怖の王のもとへ追いやられる」とありますが、これはどういう意味でしょうか?多くの人が恐ろしい存在を連想すれば、悪霊のような闇の勢力を思い浮かべます。このような闇の勢力を支配する王なら、ルシファーのことでしょう。しかしここで恐怖の王とは、悪霊やルシファーのような何か闇の勢力を言っているのではありません。私たちがある分野の頭を言うとき、単語の終わりに王をつけますね。何々王と言って発明王とか、貯蓄王とか表現します。ここで恐怖の王というのは、恐怖の極みに達した状態を言っています。したがって恐怖の王のもとへ追いやられるとは、激しい恐怖に囚われて、だんだん心を奪われていく状態を言っています。 ビルダデは火事が起こった家に油を注ぐように、あざける言葉でヨブの心をもっと苦しめています。 ヨブはヨブ記17章:13-14節でこう言っていました。「もし私が、よみを私の住かとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、『おまえは私の父だ』と言い、うじに向かって、『私の母、私の姉妹』と言うのなら、」と言いました。ヨブは惨めな病気で家はバラバラになった状態で、生きる希望を失ってだんだん恐怖に囚われていました。それでヨブは続けて自分の妥当性を主張して、神様の前に立ち向かって友達と言い争ってきました。そしてヨブはこのように恐怖の状態に陥るのをビルダデは知っていたから、恐怖の王の下へ追いやられると表現して、ヨブをあざけっているのです。 ここで私たちが悟るべき重要なことが二つあります。これは恐怖によって起こることについてのことです。第一は、恐れることによってヨブのように一生懸命自分を言い訳することです。例えば、自分が言ったことに責任を取れないとか、任されたことを果たせないとき、人々は恐れます。もしかして叱られるのではないか、他の人に無視されるのではないか、自分の無能さが明るみに出されるのではないかと不安になります。それで心配して恐れて一生懸命言い訳をするのです。 例えば、小さい子供がお母さんがそうしてはいけないと言われたことをしたならば、叱られるのではないか恐れますね。すると、その子供はどんな反応をするでしょうか。お母さんに指摘されたとき、どう言い訳をしようかと思います。でも、お母さんが見ていると、その子供が考えていることが見えますね。皆さんも自分がミスをしたり、あやまちをしたことが人に知られることが不安で、言い訳しようとするのではありませんか。 信仰にあっても、真理の中に住んでいないとき、または知っていながらも聞き従わなかったり、怠けて御言葉通りに行わなかったとき、恐れを持って、自分を合理化するために言い訳をします。自分の過ちを認めればいいのに、あの人のせいだ、環境のせいだと言います。しかし、相手が自分の話を聞いてくれなければ、不満を抱いて言い争うようになることもあります。自分が言い訳をしたとき、相手がそれを聞いてくれないと、ヨブとヨブの友達のように言い争うようになるのです。 皆さんにはこういう姿はありませんか。自分にあやまちがあるなら、それを認めればいいのに。それを認めたくないから、自分を合理化するために言い訳をし続けるのです。すると相手はそれを認めないで指摘するでしょう。だから互いに言い争うようになって、感情的になって、悪を行うようになるのです。でも自分自身は、自分が恐れのため言い訳をしたとは悟れないのです。でも自分の心の中にそういう恐怖があるから、人に無視されるのではないか、自分の無能なところが明るみに出されるのではないかと思って、自分を弁明して、自分を守るために言い訳をするようになります。そして人のせいにしたり、何かの理由付けをして環境のせいにしたりするのです。それが認められなければ争うこともあります。これが恐れによって起こることなのです。 第二は自分を縛りつけることがあります。何かについて恐れると、その原因を悟って早く立ち返らなければなりません。聞き従わなかった人が聞き従って、真理と反対のものをしていた人が真理を行うように、怠けていた人が誠実な人に立ち返ればいいのに、そうでなければ、だんだん恐れに支配されるようになります。皆さんが罪を犯していけば、恐怖に囚われるようになります。罪の意識があって、恐れを感じるようになります。それで不安になって、心配になっていくのです。だんだん自分を押さえつけるようになります。でもその罪の意識がなくなると、罪を罪とも思わないで平気で罪を犯すようになります。それは本当に恐ろしいことです。だから自分に罪の意識があるとき、早く立ち返らなければならないのです。 罪を犯していくとき、恐れを感じるときがありますね。もしかして運転しているとき事故に遭うのではないか不安になったり、道を歩いているとき、上から何かが落ちてきて当たるのではないかと恐れるようになります。そのとき早く立ち返って悔い改めなければなりません。しかしそうしないで、肉のものを追い求めて世を愛していって立ち返らなければ、だんだん御霊のうめきも聞こえなくなってしまい、良心が鈍くなってしまうのです。それで死のうちにだんだん落ちていくのです。皆さんにはそういうことがあってはいけないでしょう。 ですから恐れを感じるようになるときは、御霊の働きだと悟って、速やかに罪と悪から立ち返り悔い改めされますように。皆さんが罪と悪にとどまっていると、いろんな形によって恐怖を覚えるようになります。食事をした後消化しなければ、聖霊に満たされていたときは、ちょっと食べ過ぎたかなと思うだけなのですが、しかし今自分が闇の中にとどまっていて恐れているならばどう思うでしょうか?ちょっと胃が痛くなったり消化しなかったりすると、もしかして大きい病気にかかっているのではないかと不安になるのです。それで数日後それが治ったならば、また自分勝手に罪の中を生きるようになります。 何か体に異常があるときは恐れて、神様の前に悔い改めればいいでしょう。それで痛かったところが癒されれば、神様に感謝して霊的に成長すればいいのですが、反対にどこか痛くてちょっと不安になっても、それが治ったらまたそれを忘れてしまい、相変わらず肉にとどまっている愚かな人になってはいけないでしょう。そして現代を生きている人々には、このような恐怖というものによって、いろんな肉の思いによって鬱病にかかったりすることがあります。パニック障害によって引きこもりになったりすることもあるし、人に会うのが恐ろしくなる対人恐怖症になったりすることもあり、いろいろな問題として現れるのです。しかし神様を信じて主を受け入れた人ならば、そのような恐怖に支配される理由がないのです。自分が御言葉通りに生きていないし、光の中を歩んでいないから、闇がだんだん入ってくるようになって、それによって恐れが生じるのです。しかし神様を愛して聖霊に満たされているならば、いつも幸せで喜びが溢れているでしょう。 そのような生き方をしなければなりませんが、恐れがあり不安があって心配があるならば、何か神様の前で相応しくない姿があるということでしょう。世の人々はその恐怖のためどれほど苦しんでいるでしょうか。そしてある場合は、自分の過ちによるものではなくて、成長する過程で親に暴力を振るわれたりする人もいるし、でなければ職場で上司のことで抑えつけられて、自分がその恐れを覚えることもあるかもしれませんが、真理のみ言葉には答えがありますね。成長過程で親が暴力をふるったならば、そのため自分は今こうだと言い訳をするのではなくて、そのような親を理解して愛を持って受け入れてその親のために祈り、それで自分が許して和解できるようになるならばどれほどいいでしょうか。 そしてお父さんがなぜそうするしかなかったのか、仕事がどんなに大変だったのかとか、いろんな悩みがあったからお酒を飲むしかなかったんだと理解できるなら、受け入れることができるでしょう。そして自分には今、霊の父である神様がおられるから、神様の愛に包まれて、その恐れとかそのような心の傷なども神様の愛によって全部癒されることができるし、解決できるのです。それで愛を持って親のために祈るなら、神様がその相手の心に働いてくださって、関係は良くなるでしょう。ある人は親のせいで自分がこんな性格になってしまって、被害妄想とかがあるんだと思うのですが、そうではなくて、神様の愛と主の愛で心が満たされれば、そういうものは自然になくなるのです。私たちは真理にあってさらに成長しますように。 第1ヨハネ3:21-22です。「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。神様の前に真理を行っているなら、恐れはなくなって、大胆に神様の前に出ることができます。どのようにすれば大胆に出ていくことができるのか、答えがこの御言葉の中にあります。「自分の心に責められなければ」とあります。そして「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。このような人ならば恐れないし、神様の前に求めるものは何でもいただけるでしょう。私たちも光の中を歩んで真理を行っているなら、大胆に神様に求めるし答えを受けるでしょう。このような人はもしかして過ちをしたとしても、神様の前に素直に認めて指摘されるのを喜んで、悟った後は立ち返るでしょう。 だから言い訳をしないのです。私にこのような肉の痕跡があって過ちを犯しました。申し訳ありません。これからは御言葉通りに生きますと言って、感謝して喜ぶことができます。このため救われないのではないかと不安になったりしないのです。しかし多くの人が変えられたいと言っていますが、何か指摘されたり過ちが明るみに出されたりすると、言い訳をするのに汲々とします。罪を犯しておいて心から悔改めていないから言い訳を続けて、悔改めると言っていても、責められるのが嫌で自分の過ちを認めるのが嫌だから、続けて闇に留まるのです。すると喜びもなくなって聖霊の満たしもなくなるから恐れるのです。 だから恐れを締め出すためには、御言葉通りに生きていない自分を認めて立ち返らなければなりません。完全に変えられるなら、それ以上、敵である悪魔が支配できなくなるから、恐れはなくなり平安と喜びが望みます。しかし自分は神様を愛して信じていると言いながらも、心配があり不安があり恐れがあったのではないのか顧みますように。速やかに闇の業を脱ぎ捨てて光の中を歩みますように。 「彼の天幕には、彼のものではない者が住み、硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」 (ヨブ18:15) 「彼の天幕には彼のものではない者が住み」、これはヨブの家が壊れてなくなった場所に、よその人が住み着くという意味です。硫黄はマッチとか火薬を作る原料で火をつける成分があります。したがって「硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」とは、ヨブのすべてが火で焼き尽くされるという意味です。例えば皆さん、石油を家の中にまき散らされたなら危ないでしょう。家全体が焼き尽くされる危険がありますね。そういうことです。他の人がヨブの家を奪い取るだけではなく、ヨブに残っているものも全部火で焼き尽くされるという意味です。つまりヨブのすべての基盤が滅びて跡形もなく、すべてがなくなるという呪いの言葉です。 このメッセージを聞いている皆さんの中で、ビルダデはひどい、悪い、どうしてあんな呪いを言うのかと考えるかもしれません。しかし自分の心に裁き、罪で定めること、妬み、憎しみ、高ぶりなど悪を捨てていない以上、自分も悪を言うことも行うこともあるのです。多くの人が悪を行っている姿を見るとどうでしょう。そして教会を妨害している人を見るとどうでしょう。その人を憐れんでその人のために祈らなければなりませんが、そうではなくて、その人が憎らしいのです。そしてその人は地獄に行くようなことをしているんだと言うのです。そしてその人が失敗するのを願うのです。 こっそり。 それならビルダデと同じようなことではありませんか。もちろん悪を行う人が悪いのですが、どうして自分がその人を裁いて、罪に定めて自分の悪を行うのでしょうか?そうする必要はないでしょう。ある人の悪をなぜ他の人に伝えるのでしょうか?それよりはその人の悪を知らないほうがいいでしょう。それならその人を憎むこともないし腹を立てることもないでしょう。ある人がひどい悪を行って自分を苦しめたとしましょう。それで自分はそれが悔しくて他の人のところに行って、その人の悪をあれこれ言うとするならば、相手だけではなく自分にもその様に大きい悪があるということです。 ビルダデのようにひどい呪いの言葉を言わなくても、自分の中にある妬み、憎しみ、高ぶりなど悪があると、自分も同じような人になる可能性があるのです。そしてとくに多くの人が自分の目の梁は見ることができず、相手のちりを見て指摘することがあります。これは大きい悪です。しかし人々はこれに気づかないことがよくあります。神様は人のちりを指摘する前に、自分には梁があるのではないか調べるようにと望んでおられます。自分にある悪は発見できないし、人の悪を指摘する人がいます。マタイ7:5ではそういう人を、「偽善者よ」とイエス様は言われました。この様に大きい悪を行っている人なのです。偽善者なのです。どれほど愚かな姿でしょうか。 マタイ7:5です。「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」自分の中にある悪を全部捨てた後でこそ、他の人の悪も真理を持って正確に悟らせることができます。そうしないで相手を指摘して叱るなら、神様はあなたの目にはもっと大きい梁があるのよと、言ってくださるのです。偽善者だと言われるのです。それは大きい悪だと言われるのです。しかし自分がまず自分の悪を捨てて変えられた後、愛を持って相手を悟らせるならば、相手も変えられることができます。兄弟の目からちりを取り除くためには、まず自分の目から梁を取りのけなければならないのです。 第1テサロニケ5:22に「悪はどんな悪でも避けなさい」とあるように、私たちは大小を問わず、どんな悪でも完全に捨てなければなりません。ビルダデは今ひどい呪いの言葉を言って、大きい悪を行っていると思いますか?そして自分にある悪は小さく見えますか?いいえ、神様の前では同じ悪です。相手の過ちを他の人に伝えて噂話をすることも、陰口を叩くことも。ビルダデと同じような悪の根から出てくるものなのです。ですからそれを発見して捨てなければなりません。

「ヨブ記講解(46)-自ら罠をつくらないように」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:11~13

「恐怖が回りから彼を脅かし、彼の足を追い立てる。彼の精力は飢え、わざわいが彼をつまずかせようとしている」(ヨブ18:11-12)

ビルダデはヨブ18:2「いつあなたがたは、その話にけりをつけるのか。まず悟れ」と友達に言ったのですが、いざとなると自分の口ではこのように、ものすごい災いと呪いの言葉を言い放っているから、どれほど矛盾なことで悪いことでしょうか。ここで彼の精力は飢えとあります。ここで精力とは、ヨブが過去に味わっていた富と財産 、名誉、知恵を言います。そして飢えるとは飢饉による飢えでなくて、ヨブの子供たちがみな死んで、すべての富と名誉など、今まで積んでおいたものが崩れてしまったことを意味します。

つまりヨブの自尊心、高ぶりなど、ヨブの角が全部引き抜かれたことです。過ぎ去ったことです。ヨブ、自分の姿を見てみなさい。あなたが積んだものは全部壊されてしまった。あなたの力もなくなった。災いがあなたを待っているだけだと言っています。これまでヨブに悪性の腫物などどんな苦しみがあったのかを表現しながら、今苦しんでいるヨブをあざけってさらに苦しみを受けるように呪っている姿です。みなさん、これまでヨブ記を調べてみるとヨブの友達の姿はどれ程悪いでしょうか。そして友達を無視して、罪に定めているヨブも同じです。それではヨブと友達がなぜここまで互いを傷つけるところになってしまったのでしょうか?互いに自分が正しいと言いながら、言い争うから怒るようになって感情的に対立して、だんだん悪に悪を積むようになりました。

このように心が完全にきよめられる前は、言い争う人がいるなら両方とも間違っているのです。互いに言い争っていて、第三者にどちらが正しいか判断してくれという場合がありますが、お互い様です。相手の方が悪いと思いますか?相手がそう言ったから、私はこう言ったというのでしょうか?そうではありません。自分に悪があるからです。そして相手は自分が正しいと思っているから、そう言っているのです。

このように言い争うことは、目上の人と目下の人の間でもあります。すると目下の人は目上の人の前で、怒鳴ったりすることはできないでしょう。文句があったら、ぶつぶつ言ったりするかもしれません。目上の人なら、自分が言い争っていることに気づかないかもしれません。夫婦の間でもそうです。ある人は自分の意見をストレートに言ってしまう人がいて、ある人は内気で、あまり言えない人がいるならばどうでしょう?それで互いにぶつかることもあります。


 

今ヨブとヨブの友達の場合は互いに言い争っていて、私たちはそれを第三者の視線から見るから分かるのですが、皆さんが当事者になると気づかないかもしれません。そして自分はあまり強く言わない人だから、おとなしい性格だから、ヨブのようには激しく言っていないからと思うかもしれませんが、心の中はどうでしょう。ですから皆さん、誰かが悪いと言う前に、まず自分を顧みなければなりません。そして本当に正しい人ならば、人を嘲笑ったり、非難することはないでしょう。 私は言い争うことはありません、口論とか怒鳴ることもありません、と思うかもしれませんが、しかし噂話が好きな人がいるかもしれないし、その人がいないところでひそひそ話をしながら、その人の悪口を言っているかもしれません。そこまで言わなくても、その人がやった悪いことをなんとなく言いながら、その人の印象が悪くなるようにすることがあるかもしれません。ですから自分を顧みなければなりません。続く聖句にも、ビルダデはヨブを呪っている内容が続きます。 「彼の皮膚を食らおうとしている。死の初子が彼のからだを食らおうとしている。」 (ヨブ18:13) 「皮膚を食らう」とはどういう意味でしょうか ?ヨブが今ひどい皮膚病によって、悪性の腫物によって苦しんでいる姿を表現しています。ところで霊的な意味で、皮膚とはヨブの身体だけではなくその家族や環境、これまで積んできた業績とヨブが受けていた祝福を、全部言っているのです。ですからここで皮膚を食らうという意味は、ヨブのすべてが災いによって完全に滅びてしまうという、厳しい呪いの言葉です。 また「死の初子が彼の体を食らおうとしている」とは、ただ死ぬのではなくて、非常に苦しい死に方をするという意味です。普通の死ではなくて根絶やしにされるみじめな死であり、骨の節々全身のすべての部分が腐っていくような、むごたらしい死に方を言います。人々が死ぬケースを見ると老衰によって自然に死ぬ場合があるし、突然の病気とか事故によって死ぬ場合もあるし、自殺もあります。韓国では昔から寿命を全うして、安らかに死を迎えるのが祝福だと思っていました。実際に多くの人が、寝ていて静かに死ぬのがいいと言っています。 ところで本文でビルダデが、ヨブに言っている死はどんな死でしょうか?死の初子が彼の体を 隅々まで喰らうと言っています。単語そのものだけ聞いても、恐ろしくて惨めな呪いの死でしょう。人が負の感情を剝き出しにすると、このように激しい表現まで使います。特に罪がはびこっている今日ではどうでしょう?ニュースでこのような悪い姿を見ることがあります。互いに口論していて、頭にくると相手に向かって、ひどい悪態をついて、死ねと言ったりする場合もあります。しかも、こういう言葉を身近な間の家族や兄弟、近所の人にも言うのです。これを聞いた相手はどれほどショックを受けて、苦しいし悲しいでしょうか。言った人は一瞬かっとなって言ったと言うかもしれませんが、それを言われた人には大きい傷になるのです 。 そして最近はオンライン時代で、自分と全然関係のない人に 無分別に呪いの文を書いたりします 。自分に何か悪いことをしたわけでもないし、話をしたこともない人に対して、誹謗中傷、悪口などをためらわずに言うのです。匿名だからすまない気持ちもなく、責任感もなくそのようにするのです。匿名でいろんなコメントとか、そして何かニュースとか話題になったことについて、あれこれコメントをつけるのですが、その中を見てみると呪いの言葉とか悪態もあるし、いろんな偽り、悪口、中傷、誹謗などが書いてあります。そのような文を見る当事者はどれほど苦しいでしょうか? それによってうつ病にかかったり、人生を諦めてしまうこともあります。直接の殺人ではなくても、言語暴力によってこのような傷をつけることがあります。皆さんには、こういう悪を行う方はいないでしょうが、最近はそのようなコメントを書き込む年齢がだんだん若くなって、小さい子どもも小学生もそういうことがよくあるみたいです。小学生がこのように本当に厳しいことを書き込んだりすることも、悪い書き込みをすることもあるみたいです。皆さんもしかして自分の子どもはそんなことがないのか、見守っていて気をつけなければならないでしょう。 今日は子どもの主日ですが、自分の子はそんなことないと言うのではなくて、家庭の中で親の前ではそう言わないかもしれませんが、学校で友達といるときはどうなのかわからないでしょう。そして学校で友達の中で、誰かに何か悪い書き込みを書いておいて、それを誇っているように自慢するように言う場合もあるそうです。そしてある子どもは、自分にお金があるのに万引きをする場合もあります。それはお金がないからではなくて、何か心が満たされていないから、それによって満足感を得るとか、そのような心理的なこともあるみたいです。そしてちょっと力が強くて体が大きい場合、自分より弱い子どもを殴ったりいじめたりすると、自分についてくる子どももいるから、それは自分がよくやっていると思う場合もあるみたいですが、万民の子どもの皆さんはそのようなことがあってはいけないでしょう。 そういうことは悪いことだと正しく教える必要があるでしょう。皆さんが自分も知らないある人に 匿名で何か悪い書き込みをしたことはないとしても、皆さんの家族とか兄弟とか教会の聖徒の間で、もしかして気に入らない人に対して不満を抱いて、その人の悪口を言ったりすることがあるなら、それも全部同じ悪から出てくることなのです。だからその悪い心そのものを捨てなければならないのです。真理を知って聖めを慕っている皆さんなら、本文でヨブを呪っているビルダデを見ながらどう思いますか?ビルダデという人は本当にひどいな、どうしてそんな悪い言葉を口にすることがあるのか?どうして友達にそんなふうに悪いことをするのかと思いますか?それなら真理を知る前の過去の自分の姿はどうだったでしょうか? もしかして今もそのような悪の性質が残っているのではないか、顧みなければなりません。ヨブの友達には知識もあって教養もあったのですが、言い争っていったら大きい根本の悪が明らかになりました。人の心の底に潜んでいた悪の性質があらわになったのです。人が聖められる前はこのように心に深く潜んでいた、悪の性質が現れることがあります。だからその根まで引き抜かなければなりません。そのためには火のように祈って心の割礼をしなければなりません 。 自分に悪を行う人に対して、その人を憎む心もないし、不満もないし、何の感情もなくただ愛を持ってとりなしの祈りができるでしょうか?そうはっきり言えるでしょうか?そうでなければ、そう言われて黙ってはいたけれど、心の中でイライラしたりむしゃくしゃしたりして、やっと我慢している自分がいるのではありませんか?それで相手がもっとひどいことを言うと、自分からもそれが爆発してしまうことがあるかもしれません。次の時間にもビルダデの呪いは続きます 。 結論です。 皆さん、ヨブと友達は恨み呪いの言葉によって自ら罠を作っていきました。皆さんも普段自分が口にしている言葉がどうなのか顧みますように。ルカ6:45です 。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを放すからです。」とあります。良い心からは良い言葉が出てきますが、悪い心からは悪い言葉が出てきます。ビルダデの心にヨブに対する妬みそねみがあったから、ヨブが試練にあっている姿を見たら、このように呪いの言葉まで出ました。しかしビルダデも前ヨブが豊かで平安だったときは、ヨブを褒めていて憧れていただけでした。それで自分の心にねたみがあるのかわからなかったのですが、今いざとなるとその潜んでいた悪が現れたのです。ヨブも同じです。 これについて理解しやすく例えを元老牧師先生が挙げてくださいましたね。汚い水をコップに入れてしばらくしておくと、ゴミが全部沈んで上はきれいに見えますね。でもコップを揺すると沈んでいたゴミが浮かんできて、水全体が汚くなります。人の心も同じです。皆さんこの水飲めるでしょうか?今ゴミが沈んでいるとき上の部分だけを見るなら、きれいな水のように見えますね。これが透明でないコップだったなら、上から見るときれいな水のように見えるでしょう。でも揺するとこのように汚くなるのです。これは飲めるでしょうか?そうではありませんね。同じです。人の心も平安なときは自分も知らなかった悪が、自分が試練にあったり苦しいことにあると、表に浮かんでくるのです。おとなしくて柔和のように見えた人も、悔しい目にあったら全然違う人になってしまうこともあるし、不当な扱いをされたり問題にぶつかったり、このようにいろんな悪の姿が出てくるのです。試練にあうことによってその人の一番弱いところ、潜んでいた悪が明らかになるのです。 聖霊に満たされているとき、教会に何もなく平安なときは自分の中の悪が現れないでしょう。見えなかったでしょう。でもいろんなことが起こって、悪い人々によって自分が誤解されたり被害を受けたり、そして到底自分には理解できないことをしている人を見たりしたときどうでしょう?そして周りの人は教会から離れてしまい、いろんな悪い話をしているとき、それによって自分が影響を受けて、自分も自分の心の中にあった悪が現れたのではありませんか?それを発見して捨てたならよかったのですが、そうではなくてそれは環境のせいだとか、人のせいだとか言い訳をしているなら、ヨブと同じ姿ではありませんか。そうではなくて自分の中に悪があったのだということを認めなければなりません。自分が不満を抱いていたことは、自分の悪のためであり、自分をわかってくれない人に対して不満を抱いたということを、悟らなければなりません。 みなさん今日、大礼拝のメッセージにあったように、教会の中で派閥とかあってはいけません。党派心を持つことがあってはいけません。堂会長先生の家族だからといって、派閥を作ることとか、そういうことを絶対してはいけません。それぞれ主のしもべとしてすべきことをして、それで自然に聖徒に愛されることはいいのですが、そうではなくて堂会長先生の家族だから、何でも他の人の話も聞かないで、何か自分は側近みたいに言う人がいるようですが、そんなことがあってはいけません。自分は堂会長先生の家族のために義憤を感じたから人と口論したとか、抗議をしたとか、そういうことを自慢話のように言う人がいますが、そんなことがあってはいけません。それは心にある悪が現れたことです。 でもそれが今発見されたからといって驚いたり落ち込むのではなくて、喜んで感謝して、変化のきっかけにすればいいのです。火のように祈り続けて努力していけば、神様の恵みと力、聖霊の助けによって、心が聖くなることができます。明日からは、定めのダニエル祈祷会が始まります。皆さんこれまで聞いたヨブ記講解を通して自分を発見したならば、祈りながらそれを捨てますように。今からは環境とか人のせいにしないで、自分の中にあった悪が表に現れたことを認めて、切に祈りながらそれを捨てて変えられますように。 そして今日のメッセージのタイトルのように、自ら罠を作らないために罪と悪から離れ、特に口の言葉に気をつけますように。神様に逆らい隣人を憎み中傷する言葉、偽りの証言、神の人を裁いて罪に定める言葉、虚しい言葉、高ぶる言葉ではなくて、真実で正しい言葉、善と愛が込められた言葉、希望の言葉、信仰の告白をしましょう。聖霊様は、私たちの賛美と祈り、私たちの口の言葉から出てくる信仰の言葉を聞いて、働いてくださいます。 反対に自分の口の言葉が真理と反対のものなら、敵である悪魔が働きます。多くの人が自分が口にした言葉が罠になって、そのため祈っても答えを受けられないし、長い間試練にあっているのにその原因がわからないのです。神様の前で罪の壁になるような言葉を口にしておいて、忘れてしまったり、サタンに訴えられるようなことを言っておいて、一瞬口が滑ったとか言い訳をしたりします。信仰のない言葉、否定的な言葉、神様に呟いて嘆く言葉が罠になるのです。ですから神様の子供らしく私たちは聖なる心に変えられて、虚しい言葉、不平を言う言葉ではなくて、いつも感謝の告白、賛美、信仰の告白をして、平和の実、祝福の実を結びますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデがヨブを呪う姿、あまりにもひどい悪い言葉を口にしている姿を見ました。しかしそれはビルダデの姿だけではなく、自分にもそういう姿はないのかを顧みますように。自分に害を与えて自分を苦しめる人に対して、その人が失敗するのを願ったり、その人の悪いところを人に伝えたり、噂話をしていたりそういう姿はなかったのか、顧みますように。口の言葉によって罠を作ることはないように、真理の言葉、善の言葉に変えていくようにしてください。明日から定めのダニエル祈祷会が始ります。切に祈りながら、自分自身を発見して変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(46)-自ら罠をつくらないように」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:8~10

皆さん、前回ヨブ記18章では、しばらく友達とヨブの話を聞いていたシュアハ人ビルダデがもう一度話しました。ビルダデはヨブと友達が言い争っていることをやめさせるふりをしながら、自分がもっと喋るようになります。ヨブには「怒って自分自身を引き裂くものよと責めながら、あなたが踏んでいる地でも、あなたが怒るとき驚くだろうか?あなたがいくら怒っても、固い岩をどうすることもできないだろう。」と嘲笑いました。まるで火事が起きた家の火を消そうと入ってきて、煽るようなことです。人が心に怒りがこみ上げてくると、ヨブのように自分自身を引き裂くようになるし、そしてビルダデがヨブにしたように、相手をもっと怒らせて、互いに互いを引き裂く結果を生みだします。ですから私たちはただ善をもって、悪に打ち勝たなければならないと伝えました。 

神様がヨブ記講解を通して、人の悪の属性を一つ一つ教えてくださるのは、私たちが自分自身を発見して、変えられるのを望んでおられるからです。ですからメッセージを聞きながら、ひょっとしてヨブやヨブの友達のような心が自分の中にあるのではないか、発見して速やかに捨てますように。ローマ2:13には、「それは、律法を聞くものが神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」とあります。いくら素晴らしいメッセージを聞いて知恵を悟っても、それを心で信じて行ってこそ、自分に利益となり正しくなることもできます。ですから今日のメッセージを聞いて悟って、本当に変えられて行いの実を結ぶ幸いな皆さんになりますように。

ヨブ記講解を聞きながら、ヨブと友達が話をして言い争っていて悪を行っている姿を見て、似たような内容が繰り返されているようでも、単語一つ一つの意味を説明しているから、皆さんは人の深い悪について悟るでしょう。そして神様が解き明かしてくださった、その神様の心についても説明しているので、多くを悟ると思います。ヨブとヨブの友達の共通的な悪、そして言い争いの無益さについて伝えています。このメッセージを聞いて、私もそうだと悟る方が多くいると思います。そのように悟ったなら、その後はそれを実行する姿が必要です。今週聞いて来週また聞いて、自分は何も変わっていないのではなくて、聞いて悟った分変えられていかなければならないでしょう。

それで自分がヨブの立場でもヨブの友達の立場でも、聞いた御言葉を真理に照らして行わなければなりません。ある人が自分を苦しめても嫌味を言っても、真理の御言葉を聞いた私たちはどうすべきでしょうか。いつも御言葉に自分を照らしてみますように。それで善を持って悪に打ち勝つなら、神様がどれほど喜ばれるでしょうか。するとより優れた天国に行けるでしょう。そのために神様が、このヨブ記講解を解き明かしてくださるのです。ですからこのメッセージを聞きながら、自分を顧みて変えられる皆さんになりますように。

本文8節でビルダデはこう言います。
「彼は自分の足で網にかかる。落とし穴の上を歩むからだ。」(ヨブ18:8)
 

しかし相手が試練にあっていて苦しみを受けていると、その人が前悪いことを言ったとか、よくないことをしたことをもって、もっとその人を攻撃したり苦しめる人もいます。それはその人に対して妬みがあるからです。皆さんも自分の心にそのような姿がないのか、顧みますように。ある人を普段からあまり気に入らないと思っていたのですが、その人が教会の試練のとき、例えば教会に問題を起こして教会を離れたならば、その人について周りの人にあれこれ悪口を言いながら、あの人、前にこんな悪いことを言ったことがあるとか、こんなこともしたと言いながら噂話しをするのです。 そのようにいろんな噂話しを聞いたり伝えたり、集まってひそひそ話をしたことはありませんか?それも自分の心に悪があるからでしょう。その人を愛するなら心に善があるなら、どうしてそれができるでしょうか?それはその人への憎しみや妬みが心にあったから、それが今そんなふうに現れたのではありませんか。それは大きな悪だと悟って徹底的に悔い改め捨てなければならないでしょう。自分の悪を認めて神様の前に断食しながら祈りながら、へり下って悔い改めなければならないのです。 平安なときはそういう姿が現れません。ですから私たちはヨブ記講解を通して、そういう自分を発見しなければならないのです。そして教会の試練のとき、自分はどうだったのかを顧みなければなりません。自分の心の中にどんな悪があったのかを、見つけなければなりません。イエス様の姿はどうでしたか?悪い人を指摘したり、とがめたり、悪をもって悪に報いる姿はありませんでした。ただ善と愛を行われました。私たちはこのようなイエス様のご性質と行いに、似ていかなければなりません。 マタイ12:20に「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。公義を勝利に導くまでは」とあります。これはイエス様のご性質と行いについての御言葉です。ここでいたんだ葦とは、霊的に世の罪と悪で満ちた人を言います。罪と悪が満ちている人です。それを傷んだ葦に例えています。そのような人でもイエス様は受け入れてくださいました。ただ善だけを行うイエス様を見たのに、悪を行う人々がいました。彼らが傷んだ葦のような人でした。こんな人でもイエス様は見捨てることなく、何としてでも真理をもって悟そうとされました。忍耐を持って受け入れてくださいました。 次にくすぶる燈心とは、心が悪で染まって魂のともしびが消えている人を言います。このような人でも救われる可能性が少しでもあるなら、最後まで諦めない心が主の心です。それでご自身を売る、イスカリオテ・ユダのためにも、最後まで彼が変えられるように待ってくださいました。イスカリオテ・ユダが現金箱から金を盗んでいても、イエス様はそれを知っていながらも、その時指摘したり人の前で叱ったりしませんでした。自分自身で悟るようには教えてくださったでしょう。そのようなイスカリオテ・ユダでも、ご自分を売る人でも、最後まで愛して真理を教えてくださいました。どれほど大きい愛でしょうか。 大きい罪を犯して悔い改めの霊も受けられなくて、御霊が消えていく人を見ても、神様は最後まで諦めないで機会をくださいます。それなのに人が人を諦めてしまっていいでしょうか。あの人は地獄に行く人だと、さばいてしまうことはなかったでしょうか。それは呪いではありませんか。死に至る罪を犯したからと言うのでしょうか。いいえ、イエス様はイスカリオテ・ユダも、最後までそのユダが救われるように、悔い改めるように待ってくださいました。諦めませんでした。 だから私たちも、人が人をさばいてはいけないし、そして自分を顧みなければなりません。自分はどのくらい聖いでしょうか?完全でしょうか?そうでないのにどうして、人が人をさばいて罪に定めて、あの人は死に至ると、このように呪うことができるでしょうか?イエス様は最後まで機会をくださり待ってくださり諦めないで、愛と善を行ってくださいました。その愛と善に私たちは似ていかなければなりません。しかしその機会をつかまないで悔い改めなければ、結局死の道に行くようになりますが、神様の方で先に諦めることはありません。 私たちはこのような神様の心と主の心に似ていかなければなりません。そうしないで、相手が悪を行うからといって失敗するのを望むなら、自分も同じ悪者です。続く本文を読むと、ビルダデの呪いの言葉は続きます。 ヨブ記18:7です。 「彼の力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが彼を投げ倒す。」(ヨブ18:7) 普段からヨブは自分は完璧で正しいと思っていたから、その歩みに力がありました。自信を持っている足取りだったし、堂々としていました。友達がそのヨブの姿を見て、妬むようになったのです。もちろん、友達は前はその妬みに気づかなかったかもしれませんが、ヨブが今滅びている姿を見たら、その妬みが現れているのです。 これは私たち人の心はほとんどそうです。肉の人はこのように悪いのです。誰かがうまくいくと、その人がうまくいくのが面白くないのです。その人に対する妬みがあったからでしょう。一緒に本当に素直に喜ぶことができない場合もよくあるのではありませんか。だから、皆さんも自分自身はどうなのか、顧みなければなりません。まだ捨てていない肉があって、妬み、そねみ、憎しみが自分にもあるということを認めなければなりません。だから神様はヨブ記のメッセージを皆さんが聞いて、自分の肉の心を発見して捨てるようにと望んでおられるのです。 このようなメッセージを聞きながら、自分を照らしてみてください。それで、はっきり目に見えるものとして現れていなくても、心の中に潜んでいるそういう姿があるのではありませんか。誰かが褒められている姿を見て、いやあの人、前こういう欠けているところもあったのに、このようなミスもしたのにとか、ふとよぎるならば、それも自分の中に妬みがある、そねみがあるということでしょう。 そして、褒められている人を見ると気に入らないし、なぜ私はその人より頑張っているのに褒めてくれないのかと思うなら、もっと悪いでしょう。ビルダデは、ヨブの力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが投げ倒すと言っています。ヨブがしていたことがはかりごとだと言っています。それによって自分から罠に落ちたと言っているのです。ヨブをけなしている姿です。ビルダデの潜んでいた悪、愛のない心が明らかにされています。心に霊の愛があるなら、人がうまくいくとき、そねんだり妬みません。 韓国のことわざに、いとこが土地を買えば腹が痛むという言葉がありますが、いとこが土地を買ったなら喜ぶべきなのに、愛がないから妬むのです。このように人が成功すれば妬んで、失敗するのを望む心がありますか。そして他人が失敗したとき、まず笑ったり、見くびる姿はありませんか。そういう姿を見ると見苦しいでしょう。善と愛そのものである神様がご覧になるときは、どれほどもどかしいでしょうか。 マタイ5:46に、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも同じことをしているではありませんか。」とあります。自分を愛してくれる人を愛することは、罪人でもできます。しかし神の子供たちは、自分を愛してくれる人だけではなく、敵をも愛する霊の愛を所有しなければなりません。私たちがその愛をまずいただいたからです。神様は私たちが罪人だったとき、私たちのために尊いひとり子を渡してくださり、イエス様は私たちの罪をあがなうために十字架につけられ、血と水を注ぎ出してくださいました。これが私たちのためにくださった神様の愛です。 神様は、このような愛をいただいた私たちが、互いに愛し合うように望んでおられます。ルカ6:27-28です。「しかし今聞いているあなたがたに、私はこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」とあります。ですから自分を愛してくれる人を愛することはもちろん、自分に悪を行う人が滅びるのを見たとしても、いい気味だと思うのではなくて、その人のために悲しみ祈ってあげる心でなければならないでしょう。ところが今ビルダデは敵でもない友達のヨブに、呪いの言葉を言っているのです。次の時間に続けて伝えます。 皆さん、今日のメッセージを聞きながら、自分自身を引き裂く者の姿を悟ったでしょうか。自分の口から恨みとか不満とか 、人への妬み、そねみが出てくる姿がないのか。それによって自分自身を引き裂くようになるのです。そして相手が失敗しているとき、それを嘲笑ったりしている姿ではないのか。自分自身を顧みますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデが言っている言葉を聞いてみました。ヨブと友達が言い争っていてそれをやめなさいと言いながらも、自分が言いたいことを言いながら、またヨブを嘲笑って呪っている姿を見ました。心にある悪がこの様に現れるのを見ました。それが自分自身を引き裂く姿になるのです。私たちがこのように妬みそねみ、憎しみによって自分自身を苦しめて周りの人も苦しめるということを悟って、そのような悪を心から捨てるようにしてください。感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(45)-自分自身を引き裂く者にならないように」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:5~7

ビルダデはヨブにこう言います。ヨブ記18:5-6です。
「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」(ヨブ18:5-6)

ともしびやロウソクの光が消えると輝かなくなります。ところでここで悪者の光は消えるということは、ヨブのように悪い人の希望がなくなるということを言っています。そして、ともしびも消えるということは、ヨブが積んでおいたすべてのことが、友達の目には悪いことだったから輝かないし、ことごとく消えてしまうと呪っているのです。

ビルダデがこのように厳しくヨブを呪ってあざけっていることは、普段からヨブを妬む心があったからです。過去のヨブの生き方を見てみると、ヨブは自分で誇るくらい正しい行いをして、徳を高めようとしていました。ヨブ記4:3-4です。エリファズはヨブにこう言いました。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」ということを見ると、ヨブが徳を高めていたことが分かります。

またヨブ記29:15-17には、ヨブは自分のことを思い出しています。「私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。私はた不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。」と言いました。そのようにヨブは貧しい人、疎外された人に施しをするなど自分なりに善を積んで正しく生きたから、人に尊敬されていました。しかしヨブの友達はそのようなヨブを見ながら、ヨブを羨ましがっていて、妬んでいたことが分かります。

本文でビルダデがヨブをあざけって悪者だと表現していることから分かるでしょう。肉の人々は自分の心に合わなくて、気にいらないことがあれば、このように悪を行います。よくやったこともけなして、小さい過ちも大きい過ちに膨らませて、ないことも偽って悪い人にしてしまいます。ねたみ、そねみ、憎しみがあるからです。しかし御霊の人はマタイ5:44にあるように自分の敵を愛し迫害する者のために祈ります。悪者の光が消えるのを望むのではなくて、その人が変えられて救われるように望むのです。

本文5節でビルダデは、「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない」と言い切っています。そして6節で、「彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」と言っています。これは5節のことが徐々に進んでいくことを表現します。悪者の光はだんだん暗くなって、ついに完全にともしびが消えるということです。友達をこのように呪っているからどれほど悪い心でしょうか。本当に神様を信じる真理の人なら、ヨブのように苦しんでいる人を見るとどうすべきでしょうか。何としてでも希望を与えて、正しい道に行くように助けなければなりません。これが神様の子供らしい姿でしょう。
 

ここで網とか落とし穴は獲物を取るために、仕掛けておいた罠のことです。ヨブは自ら罠にかかったと言っているのです。皆さん道を歩いていて、目の前に落とし穴とか網があれば避けえるでしょう。しかしビルダデはヨブにこう言っています。あなたが神様の前でつぶやいて神様に喜ばれないから、それは落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることだと、ヨブは愚かだと言っているのです。これはあってはいます。ところでヨブだけではなく、今日多くの人がこのような愚かなことをしています。 クリスチャンならば神様を愛するものの、また恐れることも覚えなければなりません。ただ恐れるのではなくて、神様を敬い恐れかしこむことです。神様を恐れる人は、裁きとか懲らしめを恐れてでも、罪を犯すことができないでしょう。ところで多くの人がこれくらいはと思いながら、罪を犯したり今日までは自分勝手にして、明日から御言葉通りにすればいいと思います。今すぐこらしめとか裁きが臨まないから恐れないのです。しかし神様はそれぞれの行いに応じて、正確に裁かれるのです。自分の口の言葉によってサタンが働き、自分が人を裁いて罪に定めたことによって病気になり、死に至る罪によって試練患難がやってくるのです。今すぐ災いが臨んでいないから大丈夫なのではありません。悔いあらためなければ立ち返っていなければ、懲らしめと裁きが臨みます。 箴言27:1です。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。人は明日どんなことが起こるか分からないし、いつ自分が死ぬようになるのかも分かりません。ですからいつも目を覚ましていて、神様の御言葉に留まっていなければなりません。しかし御言葉から離れて世と妥協すれば、それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。真理を知らない世の人に言っているのではありません。真理を知っていながらも行わない人、そして罪だと知っていながらこのぐらいはと思いながら、犯し続けるその姿を言っているのです。目の前に落とし穴があるのに仕掛け網があるのに、自分の足でかかってしまうのです。知っていながら真理を行わなければ、どれほど愚かな姿でしょうか? ビルダデはヨブにこのような、霊的な意味を知って言ったのではありませんが、真理で照らしてみれば、言葉そのものは正しいことを言っています。これまでヨブは神様の前にずっと呟いて恨み、敵である悪魔サタンが喜ぶような言葉を口にしていたから、だんだん深い沼の中に落ちていくような結果でした。それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。愛する皆さん、自分はそういう姿はないのか、そういう愚かなことはないのか、顧みますように。自分なりに祈っているつもりなのに、なぜ答えを受けられないのか、なぜ試練艱難に遭っているのか、顧みなければなりません。ビルダデは、深い霊的な意味を知らなくても、ヨブにこのように言っています。 私たちは真理を知っているのではありませんか。 しかし、知識だけ知っている人ならば、目の前の利益のために、欲のために罪を犯してしまうのです。そして、今自分が口にしている言葉によって、罠にかかってしまうこともあります。その言葉、口に出した言葉は、神様も聞いておられるし、敵である悪魔も聞いています。だから、それが訴えられることがあるのです。それが罠になってしまうのです。だから自分が口にした言葉の責任は、自分が取るようになるのです。そういう姿を発見したならば、悔い改め立ち返って、自分の口の言葉を直さなければなりません。しかし、口から賛美も出してまた悪も出したりする、そういう姿は、神様に受け入れられない姿です。ヨブがこの様に愚かだと、ビルダデは責めています。 しかし、本当に友達を愛する人なら、どうすべきでしょうか。何としてでも、友達が落とし穴に落ちないように、網にかからないように、助けてあげなければならないでしょう。しかし、友達はかえって、ヨブがもっと苦しむように、もっと愚かなことをするように刺激しているのです。それは、同じ罪を犯す人と同じです。皆さん、目の前に落とし穴があることを知っているならば、友達がそこに向かわないように、引き止めなければならないでしょう。しかし今、ヨブの友達は、ヨブがその道に向かうように、後ろから押しているようなことをしているのです。 同じように、悪を互いに行っているのです。前回も伝えましたが、皆さん、家庭の中ではどうでしょうか。夫婦の間で、親子の間ではどうでしょうか。兄弟との関係で、教会の聖徒の間ではどうでしょうか。相手が今怒っているとき、自分が善の言葉、愛の言葉によって慰めてあげればいいのですが、そうではなくて自分が良かろうと思って、真理の御言葉で悟したつもりでも、相手がもっと怒るのを見ながら、相手を責めている姿ではありませんか。それは自分の中に悪があるということであり、相手がそのためにもっと苦しんで悪を行うようにするなら、それは自分にも責任があってもっと大きい罪を犯すことになるのです。 相手が悪いことをしたことを責めるのではなくて、その人がやっていることは間違っているから何としてでも正さなくてはと思いながら、無理やり押し付けるのではなくて、真理に照らして、知恵を持って待ってあげるときも必要だし、黙って助けてあげることも必要でしょう。しかし、互いに言い争うことになって、互いに苦しめることがあるのです。このような姿は、愚かな姿です。だから、私たちは自分が正しいと思うのではなくて、自分に善があるのか、知恵があるのか、真理に照らさなければなりません。 ヨブの友達は、神様の御名を借りて御言葉を引用して、ヨブの自尊心を傷つけて、ヨブがもっと悪いことを言うようにしています。皆さん、神様の御言葉を間違って引用することは、十戒の第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という御言葉に背いていることです。ヨブは試練にあっていて、神様の前に相応しくない言葉を出して罠を作っていますが、友達はヨブのような状況でもないのに、自分たちの口の言葉によって罠を作っています。しかし私たちはたとえ艱難にあったとしても、自ら罠を作る人や罠にかかることがあってはいけません。 口で不平不満を言って感情的になってしまうことは、落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることです。自分が作った罠に自分がかかることです。自分から問題を見つけようとしないで、他の人のせいにするなら問題は解決できないし、サタンが働くようになります。ですから悪を行うことが自ら罠にかかることなのだということを悟って、このような愚かな人になってはいけないのです。 そして聖徒の間では互いに力づけて慰めてあげなければならないのに、かえって相手が罪の網にかかるようにつまずきを与えてはいけません。兄弟が真理と反対のことをしているとき、アドバイスをするつもりで言ったのに、言い争うようになってしまったならば、それは相手が網にかかるようにすることです。 これを聞きながら、元老牧師先生がどれほど、善をもって悪に打ち勝っておられたのかがわかるでしょう。元老牧師先生は、相手が罪と悪を犯していることを知っていながらも、講壇からは真理の御言葉を伝えて悟らせてはくださいますが、その人が受け入れることが難しいときは、その人を指摘したりすることはなさいませんでした。なぜなら、そう指摘されるともっと悪を行うこともあるから、そうです。 ある人は、元老牧師先生が言ってくださればよいのにと、思うかもしれませんが、元老牧師先生が正確にその人の名前を挙げて言ってくだされば、その人が悟って変わるのではと、そのように思うかもしれませんが、先生はそれよりはるかに高い次元の善と愛を持って、その相手の事情も全部わかって、それぞれに合わせてくださるのです。あるときは待って黙って、そして慰めてくださり、あるときは厳しくまた悟することもあるのです。 皆さん、私たちが誰かのために忍耐をして待ってあげることは、簡単なことではありません。なぜなら、その人によって自分が被害を受けることもあるからです。自分が不当に誤解されることもあるからです。しかし、善がある人はそれを全部甘んじて受けながらも、その人のためなら黙っていることもあるのです。聖徒の皆さんの間で互いにそのような善を行っていくならば、すべての人と平和を作ることができるでしょう。 皆さん、自分はどうでしょうか。真理を行っていない人を見ていると理解できないとか、その人のためにこれは言ってあげなければと思ったりすることはありませんか。そして、罪と悪にとどまっている人をただ見ていたり、そうでなければ、その人をあざけったりするならば、その人も自分の足で網にかかる愚かな人です。ですから私たちは、真理と反対のことをして悪を行っている人でも、哀れんで愛を持って祈り、その人が何としてでも悔い改めて立ち返るように助けてあげる、神様の良い子供になりましょう。ところで、ビルダデはどうでしたか。自分はヨブよりもっと悪い心を持っていながら、ヨブに向かって厳しく指摘しています。 続くヨブ記18:9-10です。 「わなは彼のかかとを捕らえ、しかけ網は彼をつかまえる。地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。」(ヨブ18:9-10) ここで、「罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼をつかまえる。」とはどういう意味でしょうか。罠は鳥獣をおびき寄せたり通路に仕掛けて捕らえる装置です。動物が罠にかかると命を失うようになるように、人のかかとが罠で捕らえられるとは、その人がこの地上から滅びるという意味です。ビルダデはヨブに、動物が仕掛け網にかかって捕獲されるように、あなたも罠によって捕らえられ滅びる、命を失うようになるだろうと呪っているのです。 次にビルダデはヨブに、「地には彼のための輪縄が隠されている。」と言っています。人が輪縄を地に隠しておく理由が何でしょうか。何かを捕えるためでしょう。輪縄を作ってそれをこっそり仕掛けておけば、そこを通っている動物や人がその縄で捕えられるでしょう。だからそれは悪い意図で害を与えるために、そのように仕掛けることではありませんか。そのような悪い目的なのです。ビルダデは今、ヨブがそんなふうに捕えられて、困難に会うようになると言っています。また、その通り道には彼のための穴が隠されていると言います。これも同じ意味です。 人はこのように落とし穴を掘っておいて、その上に草とか土で覆っておいて、動物とか人がその上を歩いていて、落ちるように仕掛けるのです。ビルダデはヨブが悪いから、こんな苦しい目に遭うようになると言い切っています。そしてその輪縄と罠が隠されていると言います。つまりそれが今は目に見えなくても、ヨブのために備えられているという意味です。それでヨブがいつかはその落とし穴に落ちて滅び、命を失うようになるだろうと言っています。あなたはもうすぐ罠に捉えられ仕掛網に捕まえられるだろうと、落とし穴に落とされるだろうと言って、ヨブを怖がらせて脅しているのです。 ビルダデはこのように、自分がヨブを落としているとは思わなくても、普段からヨブを憎んでいた心が、このように恐ろしい表現として現れているのです。人の心が真理によって変えられる前は、ほとんど嫌いな人が失敗するのを願います。例えば相手のせいで自分が大きい苦しみに遭ったり、濡れ衣を着せられたならどう思いますか。あの人も悪いことに遭うだろう、覚えておけとか心の中で呪う人もいるでしょう。皆さんの中ではそこまでいかなくても、まだ人を憎んでいる負の感情が、残っているのではないのか顧みますように。 自分を苦しめた人が今失敗して苦しみにあっているなら、それを見て心がスッとしたり、ちょっと面白いと思ったりすることはありませんか。そして、その人が前に自分にしたことを思い出して、いい気味だと思うのではありませんか。そうでなければ、その人があまりにもかわいそうで、悔い改めなければならないのに、どう助けてあげればよいのかと思いますか。皆さんにどのくらい悪があるのか善があるのか顧みますように。ビルダデのように呪いまではしなくても、もしかしてまだ人を憎む心があるのではないか顧みますように。 教会の試練のときはどうでしたか。互いに意見が合わなくて言い争うようになったり、そして、ある人によって自分が誤解されたり、自分の悪口をその人が他の人に言ったりして、それを後で聞いて悔しいと思ったりしたとき、皆さんはどうだったでしょうか。その人が嫌いとか、その人が失敗すればいいとか、いなくなったらいいのにとか、思ったことはありませんか?そして、それを自分が一人で考えるだけではなくて、他の人のところに行ってあれこれ言って、その人を本当に悪い人扱いしてしまうことはありませんでしたか。皆さんがそのように口にしたことが、皆さんが心の中で考えたこと、その悪はどのぐらいあったでしょうか。 神様は私たちの罪を償うために、一人子イエス様をなだめの備え物として下さいました。それなのに神様を信じると言いながら、相変わらず憎しみ、妬み、そねみのような悪い心を持っているなら、神様はどう思われるでしょうか?神様の完全な子供にするためには、主の尊い血であらいきよめてくださるためには、練ってくださるしかありません。試練にあって祈りながら悟って、悔い改めて立ち返るようにするのです。ですから、もしかして自分の中に、ヨブやヨブの友達のような悪があるなら、速やかに捨てなければなりません。 神様は聖書を通して、私たちが悪い人にどう対するべきか教えてくださいました。ローマ12:17-21です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「敵が飢えたなら食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「そうすることによってあなたは彼の頭に燃える、炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 自分に悪を行った人、自分に被害を与えた人に、手向かうのではなくて善をもって行うと、神様が介入してくださるのです。これは神様、あの人を懲らしめてくださいという意味ではありません。神様がすべてを働かせて、役としてくださるということです。だから自分を苦しめる人がいても自分が復讐しようとするのではなくて、神様の前にすべてを委ねて祈らなければなりません。祝福の祈りをするということです。このように愛で祈れば、敵である悪魔は退くしかありません。イエス様はこのように善と愛の模範になってくださいました。 イエス様はこの地上におられる間、天国の福音を伝えてくださり、病人を治してくださるなど、善だけを行われました。それなのに悪い人々は、イエス様を殺そうとしました。悪霊に取り憑かれたとか、ベルゼブルに取り憑かれているとか、罵りました。イエス様はその人々の悪い意図を知っておられながらも憎むことなく、神様の御心を悟るように教えてくださいました。それでも聞き得ない時は、彼らと言い争うのではなくて、身を避けられました。そしてご自分をあざけって蔑み十字架につける人々のために、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。 このような愛の結果として、主を救い主として受け入れる人は誰でも神様の子供とされる、救いの御業が起きたのです。イエス様は神の御子だから、救い主に自動的になられたのではありません。 命を尽くした犠牲と愛によって、その結果として、その御名を信じる人は救われるようになったのです。犠牲と献身がなければできないことです。霊の世界の法則です。皆さんも自分が犠牲になって献身してこそ、神様が善の実を結ばせてくださいます。いくら不当な目にあっても、悔しい目にあっても悪を行わないで、善を持って許して、譲って、祈って、神様に委ねると神様が働いてくださるのです。それが神様を信じることです。 神様は善・愛そのものである方だから、善と愛を行う人の味方になってくださいます。この地上では善と悪が対立しています。それで神の力を行う人がいると、闇の勢力はその人を苦しめて殺そうとするのですね。でも善と愛を持って行いその人のために祈り、悪に善を持って報いるなら、神様が働いてくださって、神様に栄光を捧げるようにしてくださるのです。神様に大いに栄光を捧げる人を、敵である悪魔は妨げようとするでしょう、当然。しかし神の人、光の中を歩む人はそのような人も憎みません。 神の力を行った人がもし自分を憎む人、自分を苦しめる人に復讐しようとするなら、そのような人は神の力を行うことが嘘になるでしょう。だから心が善に愛に変えられなければなりません。そのような人に神様は力を下さるのです。イエス様もそうでした。神の御子だから、自然に何もしないで救い主になられたのではありません。人の子等にあざけられ蔑まれ、卑しめられて、殺されても、ただ善と愛を持って代わりに許してくださいと求め、ご自分を完全に犠牲にした時、それによって、その主を信じる人々が救われるようになったのです。代わりにその公義を満たしてくださいました。とうてい、許せない人も許して、理解できない人も理解して、愛をもって救ってくださいました。 皆さん、この霊の世界の法則は、私たちにも同じように適用されます。皆さんが神様の前に答えを受けたい、祝福されたいと思っていながら、祈っていながら、神様の子供らしくない悪を行っているなら、どうして答えを受けるでしょうか?どうして癒されるでしょうか。誰かが自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするからといって落ち込んでしまって、その人に不満を抱いて憎らしいと思ったりしているなら、そのような人がどうして神様の力を受けることができるでしょうか 。 私たちはイエス様のような善と愛の心に似ていかなければなりません。そのような人が、神様に愛されるまことの子供になれます。神様は私たちも主に似て、最高の善と愛を所有するように望んでおられます。そうすると私たちが望んでいる美しい天国、新しいルサレムに入ります。聖徒の皆さんは、新しいエルサレムに行きますと告白していても、その資格を備えるための訓練は、きつい、辛いと思っているのではありませんか?理解できない人も理解して、許せないような人も許して受け入れて、自分をひどく悩ませて苦しめる人も愛するとき、主の心に似て天国を所有できます。 しかし不当な目に遭ったらあの人は到底許せません。こんなことまでされてきついですと思ったなら、これは口の言葉と行いが全然違うでしょう。今この時間が私たちを新しいエルサレムに導くための訓練過程であることを知って、悪はどんな悪でも避けて、善と愛で心を満たしていく聖徒の皆さんになりますように。 そうしないで、もしビルダデのように呪いの言葉を口にするなら、神様は御顔を背けられるでしょう。サタンが喜ぶでしょう。よくやっている続けなさいと言われるのです。サタンから褒められてはいけないでしょう。サタンが皆さんから遠ざかっていかなければなりません。そのためには皆さんが、心が善と愛で満たされていなければなりません。相手のために愛をもって祈り、代わりに公義を満たしてとりなす姿勢が必要です。 ここで網とか落とし穴は獲物を取るために、仕掛けておいた罠のことです。ヨブは自ら罠にかかったと言っているのです。皆さん道を歩いていて、目の前に落とし穴とか網があれば避けえるでしょう。しかしビルダデはヨブにこう言っています。あなたが神様の前でつぶやいて神様に喜ばれないから、それは落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることだと、ヨブは愚かだと言っているのです。これはあってはいます。ところでヨブだけではなく、今日多くの人がこのような愚かなことをしています。 クリスチャンならば神様を愛するものの、また恐れることも覚えなければなりません。ただ恐れるのではなくて、神様を敬い恐れかしこむことです。神様を恐れる人は、裁きとか懲らしめを恐れてでも、罪を犯すことができないでしょう。ところで多くの人がこれくらいはと思いながら、罪を犯したり今日までは自分勝手にして、明日から御言葉通りにすればいいと思います。今すぐこらしめとか裁きが臨まないから恐れないのです。しかし神様はそれぞれの行いに応じて、正確に裁かれるのです。自分の口の言葉によってサタンが働き、自分が人を裁いて罪に定めたことによって病気になり、死に至る罪によって試練患難がやってくるのです。今すぐ災いが臨んでいないから大丈夫なのではありません。悔いあらためなければ立ち返っていなければ、懲らしめと裁きが臨みます。 箴言27:1です。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。人は明日どんなことが起こるか分からないし、いつ自分が死ぬようになるのかも分かりません。ですからいつも目を覚ましていて、神様の御言葉に留まっていなければなりません。しかし御言葉から離れて世と妥協すれば、それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。真理を知らない世の人に言っているのではありません。真理を知っていながらも行わない人、そして罪だと知っていながらこのぐらいはと思いながら、犯し続けるその姿を言っているのです。目の前に落とし穴があるのに仕掛け網があるのに、自分の足でかかってしまうのです。知っていながら真理を行わなければ、どれほど愚かな姿でしょうか? ビルダデはヨブにこのような、霊的な意味を知って言ったのではありませんが、真理で照らしてみれば、言葉そのものは正しいことを言っています。これまでヨブは神様の前にずっと呟いて恨み、敵である悪魔サタンが喜ぶような言葉を口にしていたから、だんだん深い沼の中に落ちていくような結果でした。それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。愛する皆さん、自分はそういう姿はないのか、そういう愚かなことはないのか、顧みますように。自分なりに祈っているつもりなのに、なぜ答えを受けられないのか、なぜ試練艱難に遭っているのか、顧みなければなりません。ビルダデは、深い霊的な意味を知らなくても、ヨブにこのように言っています。 私たちは真理を知っているのではありませんか。 しかし、知識だけ知っている人ならば、目の前の利益のために、欲のために罪を犯してしまうのです。そして、今自分が口にしている言葉によって、罠にかかってしまうこともあります。その言葉、口に出した言葉は、神様も聞いておられるし、敵である悪魔も聞いています。だから、それが訴えられることがあるのです。それが罠になってしまうのです。だから自分が口にした言葉の責任は、自分が取るようになるのです。そういう姿を発見したならば、悔い改め立ち返って、自分の口の言葉を直さなければなりません。しかし、口から賛美も出してまた悪も出したりする、そういう姿は、神様に受け入れられない姿です。ヨブがこの様に愚かだと、ビルダデは責めています。 しかし、本当に友達を愛する人なら、どうすべきでしょうか。何としてでも、友達が落とし穴に落ちないように、網にかからないように、助けてあげなければならないでしょう。しかし、友達はかえって、ヨブがもっと苦しむように、もっと愚かなことをするように刺激しているのです。それは、同じ罪を犯す人と同じです。皆さん、目の前に落とし穴があることを知っているならば、友達がそこに向かわないように、引き止めなければならないでしょう。しかし今、ヨブの友達は、ヨブがその道に向かうように、後ろから押しているようなことをしているのです。 同じように、悪を互いに行っているのです。前回も伝えましたが、皆さん、家庭の中ではどうでしょうか。夫婦の間で、親子の間ではどうでしょうか。兄弟との関係で、教会の聖徒の間ではどうでしょうか。相手が今怒っているとき、自分が善の言葉、愛の言葉によって慰めてあげればいいのですが、そうではなくて自分が良かろうと思って、真理の御言葉で悟したつもりでも、相手がもっと怒るのを見ながら、相手を責めている姿ではありませんか。それは自分の中に悪があるということであり、相手がそのためにもっと苦しんで悪を行うようにするなら、それは自分にも責任があってもっと大きい罪を犯すことになるのです。 相手が悪いことをしたことを責めるのではなくて、その人がやっていることは間違っているから何としてでも正さなくてはと思いながら、無理やり押し付けるのではなくて、真理に照らして、知恵を持って待ってあげるときも必要だし、黙って助けてあげることも必要でしょう。しかし、互いに言い争うことになって、互いに苦しめることがあるのです。このような姿は、愚かな姿です。だから、私たちは自分が正しいと思うのではなくて、自分に善があるのか、知恵があるのか、真理に照らさなければなりません。 ヨブの友達は、神様の御名を借りて御言葉を引用して、ヨブの自尊心を傷つけて、ヨブがもっと悪いことを言うようにしています。皆さん、神様の御言葉を間違って引用することは、十戒の第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という御言葉に背いていることです。ヨブは試練にあっていて、神様の前に相応しくない言葉を出して罠を作っていますが、友達はヨブのような状況でもないのに、自分たちの口の言葉によって罠を作っています。しかし私たちはたとえ艱難にあったとしても、自ら罠を作る人や罠にかかることがあってはいけません。 口で不平不満を言って感情的になってしまうことは、落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることです。自分が作った罠に自分がかかることです。自分から問題を見つけようとしないで、他の人のせいにするなら問題は解決できないし、サタンが働くようになります。ですから悪を行うことが自ら罠にかかることなのだということを悟って、このような愚かな人になってはいけないのです。 そして聖徒の間では互いに力づけて慰めてあげなければならないのに、かえって相手が罪の網にかかるようにつまずきを与えてはいけません。兄弟が真理と反対のことをしているとき、アドバイスをするつもりで言ったのに、言い争うようになってしまったならば、それは相手が網にかかるようにすることです。 これを聞きながら、元老牧師先生がどれほど、善をもって悪に打ち勝っておられたのかがわかるでしょう。元老牧師先生は、相手が罪と悪を犯していることを知っていながらも、講壇からは真理の御言葉を伝えて悟らせてはくださいますが、その人が受け入れることが難しいときは、その人を指摘したりすることはなさいませんでした。なぜなら、そう指摘されるともっと悪を行うこともあるから、そうです。 ある人は、元老牧師先生が言ってくださればよいのにと、思うかもしれませんが、元老牧師先生が正確にその人の名前を挙げて言ってくだされば、その人が悟って変わるのではと、そのように思うかもしれませんが、先生はそれよりはるかに高い次元の善と愛を持って、その相手の事情も全部わかって、それぞれに合わせてくださるのです。あるときは待って黙って、そして慰めてくださり、あるときは厳しくまた悟することもあるのです。 皆さん、私たちが誰かのために忍耐をして待ってあげることは、簡単なことではありません。なぜなら、その人によって自分が被害を受けることもあるからです。自分が不当に誤解されることもあるからです。しかし、善がある人はそれを全部甘んじて受けながらも、その人のためなら黙っていることもあるのです。聖徒の皆さんの間で互いにそのような善を行っていくならば、すべての人と平和を作ることができるでしょう。 皆さん、自分はどうでしょうか。真理を行っていない人を見ていると理解できないとか、その人のためにこれは言ってあげなければと思ったりすることはありませんか。そして、罪と悪にとどまっている人をただ見ていたり、そうでなければ、その人をあざけったりするならば、その人も自分の足で網にかかる愚かな人です。ですから私たちは、真理と反対のことをして悪を行っている人でも、哀れんで愛を持って祈り、その人が何としてでも悔い改めて立ち返るように助けてあげる、神様の良い子供になりましょう。ところで、ビルダデはどうでしたか。自分はヨブよりもっと悪い心を持っていながら、ヨブに向かって厳しく指摘しています。 続くヨブ記18:9-10です。 「わなは彼のかかとを捕らえ、しかけ網は彼をつかまえる。地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。」(ヨブ18:9-10) ここで、「罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼をつかまえる。」とはどういう意味でしょうか。罠は鳥獣をおびき寄せたり通路に仕掛けて捕らえる装置です。動物が罠にかかると命を失うようになるように、人のかかとが罠で捕らえられるとは、その人がこの地上から滅びるという意味です。ビルダデはヨブに、動物が仕掛け網にかかって捕獲されるように、あなたも罠によって捕らえられ滅びる、命を失うようになるだろうと呪っているのです。 次にビルダデはヨブに、「地には彼のための輪縄が隠されている。」と言っています。人が輪縄を地に隠しておく理由が何でしょうか。何かを捕えるためでしょう。輪縄を作ってそれをこっそり仕掛けておけば、そこを通っている動物や人がその縄で捕えられるでしょう。だからそれは悪い意図で害を与えるために、そのように仕掛けることではありませんか。そのような悪い目的なのです。ビルダデは今、ヨブがそんなふうに捕えられて、困難に会うようになると言っています。また、その通り道には彼のための穴が隠されていると言います。これも同じ意味です。 人はこのように落とし穴を掘っておいて、その上に草とか土で覆っておいて、動物とか人がその上を歩いていて、落ちるように仕掛けるのです。ビルダデはヨブが悪いから、こんな苦しい目に遭うようになると言い切っています。そしてその輪縄と罠が隠されていると言います。つまりそれが今は目に見えなくても、ヨブのために備えられているという意味です。それでヨブがいつかはその落とし穴に落ちて滅び、命を失うようになるだろうと言っています。あなたはもうすぐ罠に捉えられ仕掛網に捕まえられるだろうと、落とし穴に落とされるだろうと言って、ヨブを怖がらせて脅しているのです。 ビルダデはこのように、自分がヨブを落としているとは思わなくても、普段からヨブを憎んでいた心が、このように恐ろしい表現として現れているのです。人の心が真理によって変えられる前は、ほとんど嫌いな人が失敗するのを願います。例えば相手のせいで自分が大きい苦しみに遭ったり、濡れ衣を着せられたならどう思いますか。あの人も悪いことに遭うだろう、覚えておけとか心の中で呪う人もいるでしょう。皆さんの中ではそこまでいかなくても、まだ人を憎んでいる負の感情が、残っているのではないのか顧みますように。 自分を苦しめた人が今失敗して苦しみにあっているなら、それを見て心がスッとしたり、ちょっと面白いと思ったりすることはありませんか。そして、その人が前に自分にしたことを思い出して、いい気味だと思うのではありませんか。そうでなければ、その人があまりにもかわいそうで、悔い改めなければならないのに、どう助けてあげればよいのかと思いますか。皆さんにどのくらい悪があるのか善があるのか顧みますように。ビルダデのように呪いまではしなくても、もしかしてまだ人を憎む心があるのではないか顧みますように。 教会の試練のときはどうでしたか。互いに意見が合わなくて言い争うようになったり、そして、ある人によって自分が誤解されたり、自分の悪口をその人が他の人に言ったりして、それを後で聞いて悔しいと思ったりしたとき、皆さんはどうだったでしょうか。その人が嫌いとか、その人が失敗すればいいとか、いなくなったらいいのにとか、思ったことはありませんか?そして、それを自分が一人で考えるだけではなくて、他の人のところに行ってあれこれ言って、その人を本当に悪い人扱いしてしまうことはありませんでしたか。皆さんがそのように口にしたことが、皆さんが心の中で考えたこと、その悪はどのぐらいあったでしょうか。 神様は私たちの罪を償うために、一人子イエス様をなだめの備え物として下さいました。それなのに神様を信じると言いながら、相変わらず憎しみ、妬み、そねみのような悪い心を持っているなら、神様はどう思われるでしょうか?神様の完全な子供にするためには、主の尊い血であらいきよめてくださるためには、練ってくださるしかありません。試練にあって祈りながら悟って、悔い改めて立ち返るようにするのです。ですから、もしかして自分の中に、ヨブやヨブの友達のような悪があるなら、速やかに捨てなければなりません。 神様は聖書を通して、私たちが悪い人にどう対するべきか教えてくださいました。ローマ12:17-21です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「敵が飢えたなら食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「そうすることによってあなたは彼の頭に燃える、炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 自分に悪を行った人、自分に被害を与えた人に、手向かうのではなくて善をもって行うと、神様が介入してくださるのです。これは神様、あの人を懲らしめてくださいという意味ではありません。神様がすべてを働かせて、役としてくださるということです。だから自分を苦しめる人がいても自分が復讐しようとするのではなくて、神様の前にすべてを委ねて祈らなければなりません。祝福の祈りをするということです。このように愛で祈れば、敵である悪魔は退くしかありません。イエス様はこのように善と愛の模範になってくださいました。 イエス様はこの地上におられる間、天国の福音を伝えてくださり、病人を治してくださるなど、善だけを行われました。それなのに悪い人々は、イエス様を殺そうとしました。悪霊に取り憑かれたとか、ベルゼブルに取り憑かれているとか、罵りました。イエス様はその人々の悪い意図を知っておられながらも憎むことなく、神様の御心を悟るように教えてくださいました。それでも聞き得ない時は、彼らと言い争うのではなくて、身を避けられました。そしてご自分をあざけって蔑み十字架につける人々のために、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。 このような愛の結果として、主を救い主として受け入れる人は誰でも神様の子供とされる、救いの御業が起きたのです。イエス様は神の御子だから、救い主に自動的になられたのではありません。 命を尽くした犠牲と愛によって、その結果として、その御名を信じる人は救われるようになったのです。犠牲と献身がなければできないことです。霊の世界の法則です。皆さんも自分が犠牲になって献身してこそ、神様が善の実を結ばせてくださいます。いくら不当な目にあっても、悔しい目にあっても悪を行わないで、善を持って許して、譲って、祈って、神様に委ねると神様が働いてくださるのです。それが神様を信じることです。 神様は善・愛そのものである方だから、善と愛を行う人の味方になってくださいます。この地上では善と悪が対立しています。それで神の力を行う人がいると、闇の勢力はその人を苦しめて殺そうとするのですね。でも善と愛を持って行いその人のために祈り、悪に善を持って報いるなら、神様が働いてくださって、神様に栄光を捧げるようにしてくださるのです。神様に大いに栄光を捧げる人を、敵である悪魔は妨げようとするでしょう、当然。しかし神の人、光の中を歩む人はそのような人も憎みません。 神の力を行った人がもし自分を憎む人、自分を苦しめる人に復讐しようとするなら、そのような人は神の力を行うことが嘘になるでしょう。だから心が善に愛に変えられなければなりません。そのような人に神様は力を下さるのです。イエス様もそうでした。神の御子だから、自然に何もしないで救い主になられたのではありません。人の子等にあざけられ蔑まれ、卑しめられて、殺されても、ただ善と愛を持って代わりに許してくださいと求め、ご自分を完全に犠牲にした時、それによって、その主を信じる人々が救われるようになったのです。代わりにその公義を満たしてくださいました。とうてい、許せない人も許して、理解できない人も理解して、愛をもって救ってくださいました。 皆さん、この霊の世界の法則は、私たちにも同じように適用されます。皆さんが神様の前に答えを受けたい、祝福されたいと思っていながら、祈っていながら、神様の子供らしくない悪を行っているなら、どうして答えを受けるでしょうか?どうして癒されるでしょうか。誰かが自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするからといって落ち込んでしまって、その人に不満を抱いて憎らしいと思ったりしているなら、そのような人がどうして神様の力を受けることができるでしょうか 。 私たちはイエス様のような善と愛の心に似ていかなければなりません。そのような人が、神様に愛されるまことの子供になれます。神様は私たちも主に似て、最高の善と愛を所有するように望んでおられます。そうすると私たちが望んでいる美しい天国、新しいルサレムに入ります。聖徒の皆さんは、新しいエルサレムに行きますと告白していても、その資格を備えるための訓練は、きつい、辛いと思っているのではありませんか?理解できない人も理解して、許せないような人も許して受け入れて、自分をひどく悩ませて苦しめる人も愛するとき、主の心に似て天国を所有できます。 しかし不当な目に遭ったらあの人は到底許せません。こんなことまでされてきついですと思ったなら、これは口の言葉と行いが全然違うでしょう。今この時間が私たちを新しいエルサレムに導くための訓練過程であることを知って、悪はどんな悪でも避けて、善と愛で心を満たしていく聖徒の皆さんになりますように。 そうしないで、もしビルダデのように呪いの言葉を口にするなら、神様は御顔を背けられるでしょう。サタンが喜ぶでしょう。よくやっている続けなさいと言われるのです。サタンから褒められてはいけないでしょう。サタンが皆さんから遠ざかっていかなければなりません。そのためには皆さんが、心が善と愛で満たされていなければなりません。相手のために愛をもって祈り、代わりに公義を満たしてとりなす姿勢が必要です。

「ヨブ記講解(45)-自分自身を引き裂く者にならないように」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:1~4

皆さん、前回ヨブは自分の体は影のようだと言いながら、自分の人生が虚しいと訴えました。ところで、その姿から自分の信仰を顧みるべきだと言いました。真の信仰と希望がなければ、苦しみと試練の中で虚しさを感じて苦しみます。このように言う人もいます。「これまでの自分の人生が全部虚しいものだった」と、教会に通っていて主のために忠実だったことが、虚しいという人がいます。

それは問題でしょう。私たちは天国に全部積まなければならないのに、そうしなかったのではありませんか。自分なりに忠実にした、忠実に仕えたつもりでも、試練にあったりすると疲れたとか辛いとか、今まで自分がやってきたことが虚しいと言いながら、損をしたと思いながら今までの信仰を否定してしまうならば、今のヨブのような姿ではありませんか。

自分が信じる主が実像ではなくて、影のようになってしまったからです。主に出会った時は実体である主に出会いました。しかし自分が移り変わってしまうから、自分が御言葉通りに生きていないから自分というものが死なないで、自分を主張しているからそうです。それで試練にあったら主が影のようになってしまい、自分の信仰が移り変わってしまうのです。

本当に信仰があるならば、
ヘブル11:1「信仰は望んでいることから保証し目に見えないものを確信させるものです。」とあるように、神様に祈り、目に見えるものを捨て神様を体験するでしょう。そして何か苦しいことがあっても、天国への希望があるから呟いたり不平を言ったりしないで、喜びながら感謝して天国に向かって走っていきます。神様は生きておられるのに、今、目の前の問題があるからと言って、神様を否定してはいけないでしょう。神様を本当に信じているならば、希望があるから天国に向かって走っていくことができます。

しかしそうしないで自分の信仰が冷めてしまう人がいるならば、自分が信仰に根をしっかり下ろしていなかったからです。岩の上に家を建てるべきなのに、砂の上に建てたから、厳しい風が吹いてくると倒れてしまいます。しかしヨブは神様を見つけた体験がないから、霊の信仰も希望もありませんでした。それで目の前の現実を見て、苦しみによって虚しいと思いがっかりしています。そして自分はよみを住み家として望むと言っていました。

私たちはこのようなヨブの姿から、なぜ人間耕作が必要なのか、なぜ試練が必要なのかを悟らなければなりません。平安な時嬉しい時は、皆が素晴らしい信仰を持っているように見えます。神様を愛しているように見えます。しかし試練に会うとそれが本当なのかがわかるようになります。その時自分の姿を見てがっかりするのではなくて、自分の欠けているところを発見したから、感謝して変えられなければならないでしょう。

自分は自分なりに熱心だったけれども、その熱さが今冷めてしまった。人を愛していると思ったのに、試練に会ったら人を愛する余裕がなくなってしまったならば、そのように自分の姿を発見することは自分が変えられる機会です。そして自分というものが強くあって悪を行う時もあります。それを発見して悔い改めてこそさらに変えられることができます。だから試練というものが必要なのです。どんな苦しみにあっても揺るがずに変わらない愛を所有したまことの子どもを得たいと思っておられる神様の心を悟って、私たちは神様の前で喜ばれ慰めになるものでなければなりません。

ヨブ記16章と17章では、ヨブが言い訳をして自己主張をしていました。何の過ちもない自分を苦しめる神様は悪い神様だと、友達も悪いと罪に定めました。それから18章ではシュアハ人ビルダデが登場します。ヨブと友達は一生懸命言い争っています。自分の立場を言い張っているから、口論が終わらないのです。怒りと憎しみはだんだん大きくなってもっと悪を行って苦しみをもたらしています。

ビルダデはヨブ記8:11で「パピルスは沼地でなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。」と例えをあげて、すべてのことには原因と結果があるように、ヨブが苦しみを受けていることは、ヨブの悪から始まっていると言った人です。そして続いたヨブと友達の話を聞いていて我慢できず、18章でまた話をするのです。 ヨブ記18:1-2です。 そこでシュアハ人ビルダデが答えて言った。いつあなた方はその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。(ヨブ18:1-2) もし友達や親戚が口喧嘩をしていて互いに自分が正しいと言って、争いが終わらなければ皆さんはどうするでしょうか?一体いつまで争うとしているのか、もうやめてと言うでしょう。ビルダデもこのような心でこう言っているのです。 これまで私たちはヨブと友達が言い争っている姿を見ながらもどかしかったでしょう。互いに自分だけが正しく相手は正しくないと言いながら、相手が言った言葉に言い掛かりをつけていちいち言い返していました。このようにほとんどの人々は言い争うとき、どんな言葉で相手をまかそうか、いろいろ工夫しながら最後まで黙らないのです。何としてでも相手に勝とうとして、何とか自分の言い分を通そうとします。言い返しができなくなると逆切れしたりします。皆さんはどうでしょうか?相手に勝つためにこの様に虚しい言い争いをしたことはないでしょうか? マタイ7:6に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはいけません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」とあります。このように自分はいくら良いことを相手に言っても、相手は聞き入れなければ役に立たないし、それ以上無駄な言葉は口にしてはいけないでしょう。相手も自分が正しいと考えているから、引き下がらないのです。だからもっと大きい争いになる前に、自分の方で辞めた方が賢明でしょう。 ところで第三者が戦いを辞めさせようと割り込んで相手を悟すつもりで、かえって自分が長々と喋る場合もあります。本文に出てくるビルダデがそうでした。いつあなた方はその話にけりをつけるのかと言っています。つまりいつまで言い争っているつもりなのかと言いながら辞めさせようとしていても、自分も黙らないで言いたいことを言っているのです。 神様がご覧になるとどれほどおかしいことでしょうか。言い争っているヨブと友達も正しくないけれど、彼らにやめなさいと言っておいて、本人は長々と言い続けているビルダデも同じです。ビルダデはヨブに次のように言います。 ヨブ記18:3-4です。なぜ、私たちは獣のようにみなされるのか。なぜ、あなた方の目には汚れて見えるのか。怒って自分自身を引き裂く者よ。あなたのために地が見捨てられようか。岩がその所から移されようか。(ヨブ18:3-4) これまでヨブが友達にあなた方は人間以下だ、あなた方は未熟だ、私には相手にもならないと無視してきました。それでビルダデはそれに対して、ヨブが友達扱いもしないで獣のようみなしたと言っているのです。獣は人と違って理性も判断力もなくてただ本能に従って生きる存在です。ビルダデの目にはヨブは友達をこのように理性のない獣の扱いをしていたし、曲がった人だと罪に定めていたから、なぜ汚れて見るのかと問い詰めています。 これまでヨブは友達を侮辱して怒りに燃えて激しく嫌がっていました。友達も少しも譲らないで言い返しているからお互い様です。本文4節でビルダデはヨブに「自分自身を引き裂く者よ」と言っています。ヨブは希望もない、むごたらしい状況に置かれた自分に、友達が責めて指摘するから、怒って自分自身を引き裂く者になりました。それではヨブがどのように自分自身を引き裂いたのか調べてみましょう。 ヨブ記16:9-11です。ヨブはこう言います。「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」と言っていました。つまり神様は自分を小僧っ子のようなあなた方に渡して、悪者であるあなた方の手に投げ込まれたと言いながら、神様も友達も悪いと言っています。 この他にもヨブは真理と反対の言葉を口にして、自分自身を引き裂く姿がたくさんありました。自分自身を引き裂くというものが何か、その意味について気になっていたと思います。世でも自害するという言葉がありますね。自分自身を苦しめて自分自身を傷つけることです。 精神的な問題でそのようにする人も世にはいるでしょう。それはとても危険なことでしょう。子供がそうするなら親がそれをやめさせるでしょう。自害すると血も出て傷もついて損ではありませんか。今ヨブがそのようにしているとビルダデが言っているのです。それならヨブがどのように自分自身を引き裂いていたのでしょうか? それは自分の中で自分が苦しんでいること、自分の痛みを神様のせいに友達のせいにしているのです。しかしそれは結局、自分が自分を苦しめることになります。それはただ不満やただのつぶやきではなく、自分に帰ってきて自分をもっと苦しめて、自分をもっと傷つけることになるのです。今自分が苦労していること、自分が今悲しいこと悔しいことを自分はそれが我慢できなくて、口でそのように言っているかもしれませんが、それによって自分に害が返ってくるのです。それを今日のメッセージで悟らなければなりません。もしかして皆さんは自分自身を引き裂くものではないのか、チェックしてみますように。 主を信じると言いながらも真理にあって完全に変えられる前は、このように自分自身を引き裂くものがたくさんいます。悔しい目にあったり自分の考えに合わないとき、怒鳴ったり暴れたり自分の心を治めることができないなら、それも自分自身を引き裂くものになるでしょう。皆さんはこのような悪を忘れたと思います。以前の姿にはあったと思います。 例えをあげましょう。子どもたちに怒りっぽい子どももいるでしょう。親のそのような気を受け継いで生まれて、そして親が育てるときそんなふうに育てる場合もあります。小学生の子どもですが自分が気に入らないことがあると、怒鳴ったり暴れたり泣いたりするのです。例えばデパートに行って自分が欲しいおもちゃがあるけれどそれを親が買ってくれなければそこで駄々をこねたり、そこで暴れたり物を投げたりする子どももいます。そういう荒っぽい姿があるのです。それも自分自身を引き裂く姿の一つの例でしょう。そのような激しく自分の感情を表現する場合もあります。 そして肉の思いによって自分を苦しめる人がいます。人にぶつける場合もあるし、自分の心を自分が傷つけることもあります。皆さんは自分の過去の姿にそういう姿があるかもしれません。しかし今ももしある人が気に入らないとか、ある人について不満を抱いているならば、それを誰かのところに行って全部喋ってこそすっきりすることがあるのではありませんか?そして夫婦喧嘩をするとき相手を侮辱したりして、いろんな形として現れることもあると思います。今日のこのメッセージを聞きながら、自分の過去の姿今の姿を比べて自分を発見して捨てましょう。人はこのように自分自身を引き裂く姿があります。 信仰のない人やまだ信仰の弱い初心の者の場合を例にあげましょう。このような人の中にはお酒を飲んで酔っ払って怒鳴りながら、早くドアを開けろと言いながら足で玄関を蹴る場合もあります。すると自分の足だけ痛いから自分自身を引き裂く姿でしょう。ある人は夫婦喧嘩をして貴重な家財を投げて壊す場合もあります。これはお金の面でも損でしょう。また夫が浮気をしたからといって、奥さんが怒って逸脱行為をしたり、本人も浮気をして家庭が破綻するなら何の益になるでしょうか? 教会の中でも主のしもべや聖徒と揉めて、主日礼拝に来ない人もいますが、主日を守らないことは神様の前で罪を犯すことだから、これも自分自身が損です。怒ったからといって祈らないとか、つまずいて神様の前で忠実に奉仕をしない人も、自分にとって何の益にもならないし苦しみをもたらすことです。このすべてが自分自身を引き裂く姿です。 子供の中では親が自分が欲しいものを買ってくれなければ、ご飯も食べない子がいるのですが自分に損でしょう。これは自分自身を引き裂く姿まではいかなくても、それも悪の一つの姿なのです。世の人のように物を投げたり壊したりすることはなくても、子供の時からこのような悪を捨てなければ、だんだん大きくなるのです。親が家庭でそれを正してちゃんと教えなければならないのです。環境のせいにして親のせいにしてしまい、すぐ諦めてしまったり自己中心な人に育ってしまうのです。それは自分に霊的にマイナスです。それは罪ではないしと思うかもしれませんが、神様は、それは自分自身を愛する姿で神様を愛する姿ではないと言われるでしょう。 ある人のせいでとか、教会で誰々のせいでもう行きたくないとか言うのだったら、それは実は霊的には自分にとって損であり、自己中心的な姿で神様を愛さない姿です。終わりの時、肉の人にはそういう姿がよくあります。このような悪が積まれて結局は自分自身を引き裂く姿になるのです。 それで教会の中でつまずいてしまって教会を離れてしまったり、人のせいにしながら使命を手放してしまう人もいますが、それもいけません。 その他にもヨブのように神様と友達を誤解してさばいて自分で自分を苦しめる人も多くいます。あの人は私を憎んでいるようだ、他の人の話を聞いて私を悪く思っているようだと、思い込んでしまって距離を置くのです。それで苦しむのです。それでもう人と会いたくないと思って家に引きこもってしまったり、自分自身を苦しめる肉の思いもあります。これもどれほど愚かな姿でしょうか? 肉の思いによって自分自身を引き裂く姿です。 そして劣等感によって他の人と比較して苦しみを招いて悲しんでしまったり、落ち込んでしまったり、相手を妬みそねみ悪を行う人もいます。劣等感、人と比較することも自分をとても苦しめることです。ある程度ならば肉の思いで悪だから捨てればいいのですが、度を越してひどい劣等感によって人に害を与える場合もあります。そして自分自身を苦しめる人もいます。いろんな人のことを裁いて罪に定めたりしているのです。自分が嫌う人を誰かが褒めるならばそれが嫌で、その人を憎んだりするのです。するとどれほど苦しいでしょうか、つらいでしょうか。そんなふうにしていて信仰生活をしているなら、どれほど神様の前で苦しいでしょうか。 皆さん、自分自身を自分が殴ってそれで傷つけたなら、それが何の益になるでしょうか。だから私たちは霊的にそんなことがあってはいけないのです。自分の肉の思い込みによって、憶測によって苦しんでいるのです。ヨブがそうでした。神様が自分をこんなふうに苦しめている、神様が懲らしめていると言いながら、自分の考えによってだんだん自分が自分を苦しめて死にたいと思っているのです。皆さんもそういう姿はないのか、顧みますように。これらのすべては自分の悪のためです。 周りの人のせいで苦しいと言う必要はありません。自分の中に悪がなければ、それは関係がないからです。ある人が怒っているならば、自分も怒るのではなくて、私がもしかして失礼なことをしたことはないのかと思いながら自分を顧みて、そしてその人が怒って気が済むならば、喜んで笑顔でそのように受け入れることもできるでしょう。 しかしそうではなくて、あの人は私を憎んでいると思いながら、私の悪口を言っているのではないかと、いつもそれが気になってしょうがないし、それで悩んで苦しむのです。それは自分の悪のためでしょう。環境のせいとか人のせいで苦しい、つらいと言うのではなくて、その原因は自分の悪によるものだから、それを悟らなければなりません。それで自分の感情を制御することができなくて、怒ったりするなら自分自身を引き裂くものになるから、どれ程愚かなことでしょうか。 ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いました。この文章を読むと理解できますか?どんな意図でこんな風に言っているのかと思うでしょう。ビルダデが今言っているように、地がまた岩が移されないことは事実です。どんな意図でこのように言っているのでしょうか。ヨブあなたが怒ったからと言って、地や岩がびくともするだろうかと言いながらあざけっているのです。あなたがあんなに怒って、いろんなことを言っていても、それは何の効き目もないと言っています。日常生活でのたとえをあげましょう。 夫が妻に怒って、横にあった時計を取って投げたとしましょう。この時妻がこう言うのです。それを投げるからと言って気が済むの?もっと高いものを投げればと言うなら、夫はもっと怒るでしょう。夫が投げたことも悪いことですが、妻がそのように言うことはもっと悪いでしょう。だから、夫は初めは時計一つを投げることで済ませようとしたのに、妻にそう言われたら頭にきて、妻が大事に思う高いものを投げて壊すかもしれません。知恵のある人なら、このようなことがあるなら、ああ、私が愚かなことをしているんだ。夫を怒らせたなら、私にだけ損だと思って心を治めるでしょう。そして、神様の前に悔い改めて、主人にも謝るなら問題は大きくならないでしょう。 しかしそうしないで悪い言葉によって相手をもっと怒らせてしまうと、自分にも何の益にもならないでしょう。二人で口喧嘩をして、物を投げたりした時、それを治めようとしなければならないのに、もっと腹を立たせてはいけないでしょう。それで家の家財を投げたりして壊れるならばどれほど損でしょうか。今相手が怒っているならば、こちらから落ち着いて、怒りが治まるまで待ってあげたほうがいいでしょう。二人とも感情的になって相手に勝とうとするから、喧嘩が終わらないのです。 相手が今聞く耳もないし興奮している状態ならば、それ以上刺激しないで、黙って静かに待ったほうがいいでしょう。火事が起こったところにまた火に油を注ぐようなことがあってはいけないでしょう。だから悪を行う人も問題ですが、その人を怒らせた人にも問題があるのです。だから両方同じです。お互いに責任があるのです。お互い様です。こういう場合は互いに自分自身を引き裂いているのです。そして悪い言葉と行いによって、相手を引き裂くことになるのです。自分が悪いことを言って悪い行いをしてすっきりするのではなくて、それが自分を引き裂くことになり相手を引き裂くことになるのです。 ところで相手を引き裂くことは、自分を引き裂くことになります。自分が相手に悪を持って行うなら、その実は自分に返ってくるのです。それで結局損をする人は自分自身だからです。このように互いに引き裂くことは、神様の前でとても御怒りを買うようなことです。その結果サタンが働いて家庭が破綻したり、子どもたちがぐれて病気になったり、いろんな試練や艱難が伴うのです。神様が御顔を背けられるから敵である悪魔サタンが引き裂いてしまうのです。 家庭の中で子どもがぐれてしまう原因がここにあります。親が夫婦喧嘩をするから、するとサタンが働くのです。子どもたちは不安で家にいたくないのです。そして心のその傷をどこで癒されるでしょうか。それで世の人に頼ってしまうこともあります。しかし親は自分のせいだと思わないで子どもを咎めるのです。そうすると問題は解決できません。もう子どもが大人になったとしても、過去にあったことを顧みますように。そしてその悪が今も自分の中に捨てられないままあるということが問題です。 ある夫婦は一緒に暮らしていて数十年たったらこんな風に喧嘩しても互いに損するだけだ、自分の感情をこの様にぶつけても、何の益にもならないと分かりました。それでもう話をしなくなるのです。離婚はしていないけれど、他人のように対するようになります。どれほど悲しいことでしょうか。自分の中にある悪を捨てて、憎しみ、恨み、嘆きなどを捨てて、相手を理解して受け入れて譲り、その様に愛し合わなければならないでしょう。相手を自分が無理やり変えようとするのではなくて、相手を理解してこそ平和をつくることができます。そうしないで相手の気に入らないところを直そうとして、無理やり変えようとするから、言い争うようになって喧嘩して後は疲れてしまい、もう口も聞かなくなって、他人同士のようになってしまうのです。私たちは霊的にそんなことがあってはいけません。 そんな人が神様に祈るなら神様は答えてくださるでしょうか。そのような家庭にはサタンが働いて、試練艱難が伴うのです。だから私たちは自分の心にある悪を、そして配偶者に対する憎しみも、いろんな不満も早く捨てなければなりません。私たちは肉の思いと悪によって自分自身を引き裂くことや、相手を苦しめて引き裂くことがあってはいけません。 社会生活をしていると、時には相手が自分の利益を求めて、自分を苦しめて不利益を与える場合もあります。しかし皆さんがそういう環境の中でも善を行おうとするでしょう。自分がちょっと損をしても言い争おうとしないでしょう。しかし相手があまりにもひどい場合は、爆発してしまうことがあるかもしれません。それで争うこともあったり、このような姿があるなら、結局自分の利益を求める姿があったからだし、だから私たちは主の善の心に似ていかなければなりません。すると神様が相手の心に働きかけてくださるのです。それで善を行っていけば損ではなくて神様が働いてくださるのです。この様に真理を行う皆さんになりますように。 ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いながら、あなたはいくら怒っても何も変わらないと言いながら嘲笑っています。火事が起こった家の火を消すと言いながら割り込んで、返って煽る人がいます。ビルダデの立場ではヨブは神様も友達も侮辱して悪を行うから黙らせようと思って言いましたが、それはとても高ぶっている姿です。私たちは相手が過ちをして逆切れしたり悪を行っても、その人を見下したりしてはいけません。その人の悪を刺激してはいけません。どんなところでもただ真理を行うとき相手の怒りが収まるようになって感動するでしょう。 第一テサロニケ5:15です。「誰も悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間でまたすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい」とあります。相手に善をもって悪を悟らせなければなりません。善をもって悪を悟らせると言っているのですが、それは教える立場で言うのではなくて、相手を理解して仕える立場で愛をもって言わなければならないのです。相手が感情的になっているのに、言葉で何とか言ってその人を悟らせようとしてはいけません。その時は何も言わないでただ寄り添って、その人が怒りが収まるまで待ってあげることも必要だし、そしてその人が今訴えていることを聞いてあげることだけでもいいでしょう。 そして自分が知っている真理があってもその真理をもって教えようとするのではなくて、相手が落ち着いて心が開かれる時その後に言った方がいいでしょう。悪をもって悪に報いようとすると相手はさらに大きい悪を行うようになります。これを覚えていてください。皆さんの口の言葉はどうでしょうか。相手が悪を行うから私はこう言ったと皆さんは思うかもしれません。その人のために良かれと思って真理を言っただけなのに、私は良い意図で言っただけなのにと思うかもしれません。しかし相手が今怒っていて相手が興奮している時、私たちが何かを言って相手がもっと怒るならばそれは自分のせいです。悪をもって悪に報いた姿です。 私たちはそうではなくて、善をもって相手に仕えなければなりません。譲って相手が考える時間を与えることが必要です。自分は善をもって相手に接したと思うかもしれませんが、相手がそれによって怒ったり相手がそれを受け入れない場合は、自分の口の言葉を顧みなければならないのです。互いに対立すると両方に問題があるのです。相手が自分を非難して自分が悪口を浴びたとして自分が何か真理をもって悟らせようとしても、互いにだんだん感情的になって、ああだこうだと 自分は正しいと言いながら、それが言い争うことになってしまうことがあります。そういう場合は自分が今善を行っているのではないことがわかるでしょう。 ヨブとヨブの友達もそうでした。自分たちは自分が正しいと思って、相手を悟らせようと思って言ったのですが、それは結局結果的には悪だったのです。皆さんもこれを悟らなければなりません。私は良かれと思って良い意図で相手のために言ってあげたのに、相手は聞き入れなくて言い争うことになったと言ってはいけないのです。そうしては問題が解決されません。皆さんも日常生活の中で、自分の口の言葉がどうなのか、また何か言うとき自分の心はどうなのか、顧みなければなりません。善をもって悪に報いること、これが勝利する道なのです。 韓国の朝鮮王朝の500年の歴史を見ると、悪をもって悪に報いた党派争いと血の流れの歴史の連続でした。例えばチャン・ヒンビという人は、19代王のそばめで20代王の母親でした。ひどい妬みによって自分自身を引き裂いて、自ら墓穴を掘った人です。悪い呪術で王位を奪うなど人の道理から外れた行為によって、ひどく悪い結果をもたらしました。彼女の悪行を知った王は死刑にしました。そして王はそれが当然のことで正しいことだと思いました。しかしそれによって息子は王位に上がった後もいつも党派争いの中で、精神的にまた身体的にも平安がなかったのです。 もし王や臣下たちが真理を知っていたなら、彼女が後で王になる王子の母親ということを考えて、殺す代わりに他の罰を与えたかもしれません。王は自分の正しいことをしたと思うけれども、それは真理ではなかったから、善ではなかったから、その後も血の流れの歴史は続きました。このように多くの人が、自分の行動によって起こる問題は周りの人がそれによって苦しみを受けることを考えることができず、悔しいことがあればそれだけ復讐しようとします。しかしこれはまた違う悪を呼ぶだけです。 先ほど王がそのそばめを死刑にしたことがその時は正しいと思ったけれども、それによって次の自分の息子が王になった時、いろんな党派の争いがもっと激しくなって悲しいことがあったのではありませんか。だからそれをよく考えなければなりません。もちろん悪があってそれに対して処罰することは正しいかもしれませんが、それを遥かに超える愛があって善があるのです。 イエス様の善と愛がそうでした。イエス様はご自身に悪を行って、あざけりさげすむ人々に対してただ善を持って行いました。昔の信仰の人々もそうでした。相手の悪に善をもって報いることが本当の勝利だからです。悪い相手に善をもって対するなら損をするようでしょうか。そうではありません。神様はいつも心の良い人、正道を歩む人の味方になってくださいます。私たちが最後まで善を行う時、神様が共におられ、闇は退き状況が変わるのです。これを心に留めておいてください。

「ヨブ記講解(44)-影のようなヨブの身の上」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:10~16

ヨブ記17:10-11です。
「だが、あなたがたはみな、帰って来るがよい。私はあなた方の中にひとりの知恵のある者も見いだすまい。私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも破れ去った。」
(ヨブ17:10-11)


ここでヨブが友達に、あなた方はみな帰って来るがよいと言っています。これは実際帰ってから戻ってきなさいという意味ではありません。あなた方は今まで言ったことを、全部振り返ってみなさいと言っています。あなた方の言っていることは正しいのか、真実なのか反省してみなさいと言っています。

そして友達の中には知恵のある者はいないと言っています。友達の中で誰も自分を悟らせてくれないし、何の役にも立たないと言っています。だからヨブは自分の日は過ぎ去って、自分が企て自分の心に抱いたことも全部破れ去ったと言っています。つまり神様が自分から御顔を背けられたから苦しみに遭っているけれど、自分ではこの問題が解決できないし、友達の中でも自分を助ける知恵のある人はいないから、だんだん死の道に行くしかないと言っています。

例えば水に溺れている人がいて、それを見つけた友達が泳げないから助けることができないことと同じです。このようにヨブは友達が自分にとって何の役にも立たないし、かえって自分の心をかき乱して自分をイライラさせたから、自分は腹が立って絶望しているということです。ヨブは相変わらず自分だけ正しいとずっと主張していて、込み上げる怒りと苦しみを訴えています。

しかしこれは真理と反対の言葉なのでサタンの罠になるしかありません。悪い言葉を口にすると、相手にも嫌われるし、その言葉によって苦しみを受けるようになります。このように、相手を無視して、神様まで悪い神様と裁く人を、神様はどうして助けることができるでしょうか。ヨブは、友達が自分をあざけった、攻めたと思うから、自分も友達をあざけって攻めています。

続く本文を読むと、わかりやすい言葉で言えるのに、あえて難しい例えを挙げて友達を攻めています。ヨブ記17:12です。

「夜は昼に変えられ、やみから光が近づくと言うが、」(ヨブ17:12)

 

ここで夜は闇を言っています。夜は昼に変えられ、とあります。これは、闇の技を仕事をするようにしている、悪を日常茶飯事のようにしていると、友達を攻めているのです。あなた方は、闇の技をそんな風にしていると言っています。そして、夜は昼に変わったり、闇から光が近づくという言葉は合わない言葉でしょう。昼と夜は正反対だし、光と闇は共存できないからです。

つまり、ヨブは友達に、太陽が西から昇ることがないようにあなた方はとんでもないことを言っていると、例えをあげて表現しています。あなた方は今言っていることは正しくない、あなた方は何の過ちもない私にかえって濡れ衣を着せているのだ、こういう意味で友達を攻めているのです。過ちを犯した人が、かえって正しい人に食ってかかるように、ヨブは友達に指摘して、とんでもないことを言っているのだと責めています。 ヨブの友達は、自分なりに知識があるから、ヨブが今例えを上げて自分たちを咎めていることに気づきました。だからどれほど腹が立つでしょうか。信仰生活をしている人の中でも、相手が自分の心に合わなければ、神様の御言葉を引用して相手を指摘したり、罪に定める場合があります。特に教える立場にいる人の中で、神様の御言葉を間違って使ったり、間違って引用して、信徒たちを怖がらせることがあります。しかし、真理は、平和と喜び、自由と命を与えるものであって、決して不安と恐れをもたらすものではありません。 皆さん、大礼拝の時地獄のメッセージを聞いていますが、不安で恐れるようになりましたか?そうではないでしょう。神様を恐れかしこむ姿勢は必要なのですが、神様はもちろん、裁く方だし、公義によって正確になさる方です。それを知っているならば、罪を犯すことはないでしょう。そして、神様が私たちに地獄のメッセージを伝えてくださる理由は何でしょうか? 神様の愛を感じて、もっと感謝するようになるのが正常でしょう。 私たちはただ恐がるのではなくて、神様を厳しい方だと思うのではなくて、神様の愛を感じなければなりません。そして、皆さんが怖がることがないように、画面には見せてくださらなかったでしょう。不安にさせるためではありません。ヨブ記講解の時も、元老牧師は神様がどんな方なのかを教えてくださいました。そして講壇でも、御言葉通りに行わなければ地獄に行くとか、このように強く厳しく言われたことはありません。呪いとか不安と恐れを持つようなことは言われませんでした。神の力を表して、神様がどんな方なのかを見せて、神様に仕えるように、そして神様の人と変えられるためにはどうすべきかを正確に教えてくださいました。 そして神様がそのようにしてくださる、神様の心と愛を悟らせてくださいました。私たちはその神様の愛を悟るなら、自然に罪から離れるようになります。恐れるから、怖いからではありません。そして元老牧師先生は大いなる神様の力を行っていても、それを利用して人を怖がらせたことはありません。神様を崇めて、神様にだけ栄光を捧げたし、皆さんには喜びと平安、自由と命を持つようにしてくださいました。 天国に行くためには、地獄について知らなければならないから、地獄について教えてくださいました。地獄を知ってこそ、地獄に行くような罪を犯さないからです。そして罪について正確に教えるのは、命を与えるためです。天国に行くようにするためです。呪われないように、災いに遭わないようにするためです。 男女で死に至る肉の行いをすることを、そうしてはいけないと教えて下さる理由もそうです。そのように教えなければ、みながそのようなことをしてもいいんだと思って罪を犯してしまってはいけないからです。教会は、それはいけないと正確に教えるところです。それが真理だから、神様の御言葉だからです。イエス様は、情欲を持って女を見るなら、その心の中で既に罪を犯しているとまで言われました。正確に教えてくださっているのです。 神の力を見て喜んで感謝していた人が、時間が経って後で移り変わってしまうとどうなるでしょうか。罪を指摘されるのが嫌で、きつく思って離れてしまう人もいます。それは、その心が変わってしまったからです。だから、ヨブが言っていたように、影のような状態になってしまうのです。天国、神様がはっきりした確かなもので実情だったのに、それが段々、影のように不確かなものになってしまうものです。 私たちはそうしてはいけません。私たちが目で見て、体験して、耳で聞いたことは、事実で真実です。ヨブと友達は、真理をよく知らない状態で、真理と反対のもので互いを苦しめていますが、 皆さんは真理であって、いつも善と愛を持って互いに仕えなければなりません。主のしもべも働き人もそうです。もしかして、罪を犯している人がいても、憐れんで愛を持って助けようとしなければなりません。罪を指摘して、非難したりしてはいけないし、避けてもいけません。もどかしい心で何としてでも命に導こうとしなければなりません。すると、聖霊が働いてくださるでしょう。 続く本文を読むと、ヨブはまた例えを挙げて自分の心を訴えています。ヨブ記17:13-16です。 「もし私が、よみを私の住みかとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、「お前は私の父だ」と言い、うじに向かって、「私の母、私の姉妹」と言うのなら、私の望みはいったいどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう。よみの深みに下っても、あるいは、共にちりの上に降りて行っても。」(ヨブ17:13-16) ヨブは、虚しさと失望によって、自分の望みはもう、よみに住みかを造っていると言っています。前は全て豊かで平安だったのに、希望があったのに、今は全てがなくなってしまい、自分はよみに下っていくしかないと言っています。今、ヨブの身の上があまりにも辛いから、苦しいから、このように言っています。 その口にした言葉をサタンが聞いて、それを罠として試練をもたらしているのです。真理と反対の姿だからです。皆さんも試練にあっているとき、辛いと思って不平を口にするとそうなります。今、ヨブの言っていることを聞くとどうでしょう?心に平安が感じられますか?そうではありませんね。もどかしいでしょう。皆さん、自分自身はどうなのか、顧みてください。家族に対して、子どもに対して、どんなふうに言っているのか。子どものせいにしたり、配偶者のせいにしたり、配偶者の家族まで悪口を言ったりする姿はありませんか。そういう姿があるなら、顧みて悔い改めましょう。 環境のせいにしたり、人のせいにしないで、自分自身を顧みてへりくだって、自分を愛する心、自分の自尊心、高ぶりなどを悟りましょう。誰かが自分の自尊心を傷つけるなら、かっとなってその人を呪ったりする心はないでしょうか。聖書には右の頬を打たれたら、左の方も向けなさいとあります。それが真理です。それを学んだから、それを行わなければなりません。しかし真理と反対のことを知っている人がたくさんいるからとてももどかしいです。 でも私たちは他の人をああだこうだというのではなくて、私は神様の前でどんな姿なのか、私は真理にとどまっているのかをいつも顧みなければなりません。例えば結婚前に男女の間で付き合って、肉の行いがあったりしてはいけないと、元老牧師先生が教えてくださいました。聖い関係を保つことはどれほどいいことでしょうか。それは良いことではありませんか。真理でしょう。しかし自分はそれが嫌だから、後で強要されたとか、強いられたとか、自分はそうやりたくなかったのにとか、このようにする場合はありませんか? 男女の間で死に至る肉の行いをしてはいけないと、元老牧師先生は正確に真理を教えてくださったのに、その時自分はそれを誤解して、自分は結婚しないと誓願を立ててしまったりしておいて、後でそれを元老牧師先生のせいにしたことはないでしょうか?そして男性の場合はどうでしょう。元老牧師先生がそう言われたことを誤解して、心の割礼をしなければならないのに、そうしないでただ肉的に割礼をしてしまって、後でそれを教会のせいにしたり、元老牧師先生のせいにしたことはありませんか? もしそれによってそれを口実に 教会を悪く言う人がいるならば、私たちは正確に説明しなければならないでしょう。神様が教えてくださった真理を守っていくならば、私たちには平安と喜び幸せがいつもあると思います。神様に喜ばれる信仰の告白をして、真理を行わなければなりません。すると大胆になるでしょう。 ヨブは今、自分はよみに下っていくと言っています。そして闇に自分の寝床をのべると言っています。これは闇にとどまるようになると言っていることです。このようなヨブの言葉から天国への希望は少しも見いだせないのです。皆さんがつまずいている聖徒にアドバイスをしたり、世の人を伝道するとき、ヨブのような反応をする人がいるでしょう。例えば悪を行っている人のところに行って、何々さん罪から立ち返らなければならないでしょうとか、世の人に悔い改めてイエス・キリストを信じてこそ天国に行けますと言うなら、それを黙って聞いている人もいます。しかし私は地獄に行ってもいいが、あなたは悔い改めて天国に行きなさいときつく当たる人もいます。 今のヨブの姿に似ています。ヨブは失望して諦めてしまってやけになって、私はよみに行くのが望みだと言っています。そしてその穴に向かって「お前は私の父だ」と言い、とありますが、これは墓が自分の体を守ってくれるという意味です。人が死んで葬られると墓の中に納められることを例えています。家庭で父の役割は子どもを守ることでしょう。このようにヨブは自分が死ぬと、墓が自分の父になって自分を守ってくれるだろう。安息の場所になるだろうと言っています。 しかしこれは神様の前でとても無礼で、とんでもないことを言っているのです。前は神様を恐れて全焼のいけにえを捧げて祝福されて人に尊敬されていたのに、今は墓が自分を守ってくれる父だと言っているから、どれほどもどかしいでしょうか。神様を信じる人は神様が父となってくださり、守って導いてくださるのに、どうして墓を父と言えるでしょうか。 それではうじに向かって私の母は私の姉妹という。このたとえにはどんな意味があるでしょうか。これはヨブの体が腐っていて、うじが湧いている状態を言っています。母は子どもを産むと抱っこして乳を飲ませ、おんぶして子どもとスキンシップをして育てていきます。兄弟姉妹の間でも子どものときは、互いに抱っこしたりチューもしたり、スキンシップしながら育ちますね。このように今ヨブの体にはうじが湧いて皮膚に住みついているから、うじが自分の母と姉妹のようになっていると言っています。 この表現だけ見てもヨブの悲しみと苦しみがどれほど惨めなのか分かります。ヨブは私の望みは一体どこにあるのかと嘆いています。人が死んで葬られたら、土の中に閉じ込められたようなものになります。だからヨブはよみの深みに下るとか、共に塵の上に降りていくとか言っています。ヨブには肉的に知識もあって学問もあるから、このようなたとえを挙げて自分の身の上をうまく表現していますが、霊的にはあまりにも無知です。 イエス・キリストを信じている私たちの望みは、よみではなく天国です。真理と命を持っている私たちは、天国が自分の家になるからどれほど感謝なことでしょうか。神様を信じる人は霊が生き返って神様の子供とされたので、その霊は天国に入ることができます。体は死んで葬られて塵に戻っても、将来主が空中に降臨される時よみがえって変えられた体を着ます。それで天国で永遠に朽ちない御霊に属する体で生きていけます。このように神様を信じる人は、天国に希望を置くので喜びと感謝が絶えないのです。 この地上でも祝福されます。魂に幸いを得ているように全てに幸いを得、健康であり物質の祝福も受けます。心の悪を捨てて変えられて聖められるほど、心に真の平安が臨むから感謝が溢れます。永遠の命を得たから、たとえ体は死を迎えるとしても恐れることなく、むしろ真の安息を味わえる天国への希望が溢れます。 この他にもこの地上で受ける祝福は数え切れないほどたくさんあります。もちろん天国における栄光と祝福は言うまでもないでしょう。しかしヨブはこのような希望がなかったから、現実の苦しみは終わらないと思って死を待っていました。 皆さん、私たちは復活の主を信じています。これは影でもないし想像でもありません。実像であり現実です。このような信仰と望みがあるなら、ひょっとしてヨブのような苦しみにあっても、全能なる神様を信じるから復活の栄光を受けることができます。皆さんはこのような全き信仰をもって、毎日勝利の生き方をして、どんな状況に置かれても復活の主を望みますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日ヨブが嘆いているいろんな言葉、表現を調べてみました。神様の前につぶやいて神様を悪い神様のように言って、友達も無視して友達を責めていました。そして自分の身の上を影のようだと言って、虚しさと失望、絶望によって嘆いていました。自分はよみに行くと言っています。どれほど愚かな姿でしょうか。 天国への希望がない姿でした。しかし私たちは神様を見つけて体験しました。それは影ではなく実像であり現実です。天国もそうです。このような信仰によって勝利するようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(44)-影のようなヨブの身の上」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:6~9

皆さん、前回はヨブが神様を悪い神様を裁くだけでなく、友達を完全に無視して、友達の子供達まで呪う姿がありました。このようなヨブの姿を見ると、なぜ試練に遭っているのか、なぜ試練が終わらないのかがわかるでしょう。ところで大切なのは、このようなヨブの姿から自分自身を発見して、変えられるきっかけにすることです。

鏡を見て自分の顔に汚物がついているのを見たのに、洗わない人がいるでしょうか。本当に聖くなりたいと思うなら、必ず鏡を見る前と後の顔が変わらなければなりません。同じように皆さんが神様の御言葉を聞いて恵みを受けたなら、自分の欠けているところを発見して、善と愛で満たす行いが必要です。

これまでヨブと友達の話を調べてみて、真理と真理と反対のものを見分けて、神様の御心が何か伝えました。ところでこのメッセージを聞いて恵みを受けたとしても、皆さんの現実では変わったところがなく、相変わらず自分の心に合わないことがあれば、言い争ったりするなら何の役に立つでしょうか。これは鏡を見て、自分の顔に汚物がついているのを知っていて、そのまま放っておくことと同じです。

ヤコブ1:25「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。自分を発見したなら必ず行いが伴わなければなりません。ヨブ記は後にいくほど、人の心に深く潜んでいる悪が現れます。ですから全ての御言葉が自分の姿を映す鏡になり、変えられて命へ出てくる皆さんになりますように。

本文を読むとヨブは自分惨めな身の上を、もう一度神様のせいにしています。ヨブ記17:6です。
「神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられるものとなった。」(ヨブ17:6)

ヨブの噂は遠くまで広がりました。ヨブはこれを神様が、自分を民の物笑いとされたと表現しています。自分はこんな目に遭う理由がないと思っているから、全てを神様のせいにしているのです。もちろん神様が練っておられることなので、ヨブが考えているように神様がこの様になさったとも見えるかもしれません。しかし神様はヨブを苦しめる悪い意図でそうなさったのではなく、ヨブにより大きい祝福をくださるための良い意図でなさっているから、ヨブの思いとはものすごく違いがあります。

私は顔につばきをかけられるものとなったとありますが、これは実際つばきをかけられたのではなく、自分の悪口を人々が言っているということです。ヨブは文章力があって、知識も多いし知恵もある人だから、このように多くの意味を含んでいる例えを挙げています。

続く本文を読んでもこれがわかります。ヨブ記17:7です。 「私の目は悲しみのためにかすみ、私のからだは影のようだ。」(ヨブ17:7) ここで目の霊的な意味は、前を見通すことができる未来、自分の明日または自分の来歴を言います。人は目で見たものが魂の中に残って、それを思い出して考え悲しむこともあるから、目を言及しながら自分の苦しさを表現しています。 それではヨブの悲しみは何でしょうか。ヨブには多くの悲しみがありました。財産も家族も全部失ったし、人々にあざけられているから悲しいでしょう。そして人生のどん底に落ちてしまい、病気で死ぬ日だけを待っている現実が悲しみでした。このような悲しみのため目がかすんだということは、自分のしたいこと未来が暗くなったという意味です。 またヨブは私の体は影のようだと言っています。影は形はありますが、何の役にも立たないものです。だから何もない虚しさ、自分の意思がくじけたことを言っています。ヨブは自分の体の虚しさをこのような影に例えています。体が腐っていて蛆が湧いて臭いから、大事にすることもできないしケアもできないし何もできない。虚しい体だから影に例えているのです。 皆さん、ヨブのように体が病気になって苦しみにあったら、人生そのものに希望がなくなって影のように虚しくなるしかありませんか?そうではありません。一番大切なのは信仰です。信仰が影のようなものだから絶望してしまうのです。皆さんが主にであって聖霊に満たされていた時は、病気でも貧しくても復活の望みがあって、喜びで満たされていたでしょう。だから仕えて奉仕をすることが楽しかったでしょう。自分の体が弱くても病気でも、主に出会って喜びが溢れているから、最善を尽くして教会の奉仕をして、段々健康になる方もいるでしょう。 主に出会う前は影のような身の上でした。何の望みもなく感謝もできず、いつも不満でいっぱいでした。そのような人だったのですが、主に出会って天国への望みが溢れるようになると、現実は変わらなくても心が変わるから、喜び感謝や希望が溢れるようになります。心が満たされて聖霊に満たされて恵みに満たされているのです。だから影ではなくて本物になるのです。人生が変わり生き方が変わるのです。現実は同じように見えても心が変わるから、生き方が変わるのです。 しかしある時からその姿が変わってしまいます。影のようにあやふやになってしまうことがあります。皆さんもそんなことはないのか、顧みますように。聖霊に満たされているならば熱心が冷めることがないのに、聖霊に満たされなくなってしまうと、信仰生活が影のようになってしまうことがあります。神様の御言葉を聞いて知っていても行いが足りないからです。 御言葉に捨てなさいとあれば捨てて、行いなさいとあれば行って、してはならないとあるならしないで、守りなさいとあるなら守るべきです。しかし御言葉を知識として知っているだけで行わないならば、聖霊に満たされなくなってしまって、心の中で御霊がうめかれるので心は苦しくなります。それでも続けて従わなければ、御言葉通りに行う力もなくなって、祈ることも大変になって霊的に乱れていくしかないのです。 前は確かに信じていた神様、天国、地獄、後の世がだんだん不確かなものになります。霊の世界と信仰の働きがだんだん漠然となります。試練に遭うと全能なる神様の前で求めているのですが、答えがなくあちこち彷徨っているしかありません。今自分の信仰が影のようなもの、虚しいものになってしまったからです。聖霊の満たしもなく熱心も覚めてしまったからです。それで試練に遭った時神様を呼んでも神様が答えてくださることができないのです。 影のような信仰ではなくて、本物、実体にならなければならないのです。だから悲しんで悩んでいるしかないのです。自分が信じている主が影のようになってしまう人がいるのです。皆さんにとって主は実体としておられますか?2000年前におられたイエス様を、私たちは見たことはないのですが、どうして信じているのでしょうか?そしてどうして主に出会ったと言えるのでしょうか? 賛美しているうちに礼拝しているうちに私たちは主を見つけて御言葉の中から見つけて、私たちが体験することによって実体である主に毎日会っているのです。信じています。そう言わなければならないのですが信仰生活が覚めてしまうと、神様の御言葉通りに行っていなければ、その主が実体ではなく影のようになってしまいます。すると前に信じていたこともだんだんその信仰が不確かなものになってしまいます。 前ははっきり信じていたのに、それがだんだん疑うようになるのです。証を聞いても疑うようになります。そして自分の信仰が霊的に乱れてしまうのです。だから証を聞いても自分のものとして信仰として受け止めるのではなくて、聞き流してしまうのです。このような虚しい生き方をしてはいけません。 神様の子供と言いながら、深い霊的な次元に入れずに、真理を知っていても行わないから、その真理のため悲しむようになります。影のような信仰、生き方をしているのです。御言葉を聞いても行わないから、だんだん霊的に暗くなってしまいます。御言葉を信じていると言っても影のようだしそれが力にならないから、問題にぶつかるとこれが神様の御心かあれが御心かと悩みさまよいます。そうやってぐらついて倒れたりすることもあります。その信仰が実体ではなくて影のようなものだからです。 それではこのような時どうすべきでしょうか?初めの愛を回復しなければなりません。主に出会って救われた時の喜び、世のものは虚像であり永遠の天国は実像だと信じて、天国に向かって力強く走っていた時の行いを回復しなければなりません。 例えをあげましょう。ある子供が英語に興味を感じて一生懸命単語も覚えて授業に集中したら、だんだん成績が上がりました。すると自然にその授業が待ち遠しくなりますね。しかしある時から面倒に思うようになって、ゲームにハマってしまって勉強をおろそかにすると、だんだん成績が落ちて最初持っていた興味がなくなり、その授業も退屈に思うようになります。それを回復するためにはどうすべきでしょうか?睡眠時間も削ってもっと頑張って勉強しなければなりません。すると下がった成績を回復できるのです。 霊的にもこのような努力が必要です。一からやり直すつもりで神様の前に謙遜に恵みを求めれば、初めの愛を回復することができます。黙示録2:5です。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」とあります。熱心だった信仰はなぜ冷めてしまったのか?悟って悔い改めて立ち帰らなければなりません。影のように漠然としてもやもやしていた、このような信仰でいてはいけないのです。 そのような状態では、神様を信じていると言っていても神様との関係が確かなものにならないのです。神様の前にそのような時は悔い改めなければなりません。御言葉通りに行いませんでした。世に目を向けていました。熱心が冷めてしまいました。聖霊に満たされなくなってしまいました。それで主も天国も漠然と思うようになりました。 もちろんこの教会で現れている神の力を見ているから否定はできないけれど、教会を離れることはできないけれど、心の中で恵みを受け入れられなくなってしまい熱心が冷めてしまって、信仰が影のようになってしまうから問題なのです。こういう時は神様の前にヘリ下って悔い改めて、許しを求めて世のものを断ち切って努力しなければならないのです。 そのような努力はしないで、ただ祈るからと言って答えは来ないのです。神様がくださった恵みを裏切ってしまったから、自分から捨ててしまったからです。それを回復するためには、もっと努力しなければならないのです。もっと熱くならなければなりません。愛の父なる神様は、皆さんがそのように悔い改めて努力すると助けてくださり恵みをくださいます。 そうすれば、影のように漠然としてモヤモヤしていた信仰ではなくて、実像を見ながら走っていく信仰に変わります。すると求めるものは何でも答え受け、主に出会って体験する、生きている、信仰生活ができます。これは主と神様を見つける信仰生活です。このように神様を見つけるなら全てが解決されるでしょうが、信仰の体験ができないから霊的に彷徨っている聖徒もたくさんいます。 皆さん、万民の聖徒の皆さんには、神様を体験したことがありますね。癒されて答えを受けたことはもちろん問題が解決されることもあるし、賛美して祈るとき聖霊の恵みを体験します。火のような聖霊の御わざも体験するし、霊の目が開かれた方もいるし、異言の賜物もいただきました。この全てが神様の恵みです。 それを1年2年前に受けたなら、その後その恵みが続かないで、世に目を向けてしまって世を愛していくならば、その恵みがだんだん冷めてしまい恵みから離れてしまうようになります。自分)は体験したことがあるから、教会を離れることもできないまま、世と神様とにふた股をかけているのです。それは生ぬるい信仰で救いとは遠く離れています。 だから私たちは神様を見つける生きる信仰生活を、いつもしていなければなりません。それは大きな祝福です。ヨブは神様を見つけた体験がなかったから、このように虚しさによって苦しんでいるからとてももどかしいです。しかし試練は結局、ヨブにとって祝福です。 コーチとか監督が選手を発掘するとき、誰でも選ぶのではありません。先行しそうな資質を持っている人を選んで、熱意を持って心込めて訓練をさせます。厳しい訓練過程を通った後、立派な選手が誕生するのです。同じように神様はヨブが聖められて大きい器になることを知っておられたから、このように厳しく練ってくださるのです。ヨブは自分の体は影のようだと嘆いていて、気を取り直して自分の主張をまた言い張ります。 ヨブ記17:8-9です。 「正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る。義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。」(ヨブ17:8-9) 友達が自分を正しくないとずっと迫害して、自分の言うことを聞いてくれないから、ヨブは第三者、正しい者、罪のない者を使って友達を説得しようとしています。ここで正しい者、罪のない者はヨブ自身をも指しているでしょう。本当に正しくて罪のない人なら、誰かが人の道から外れてものすごい悪いことをしているのを見ると、義憤を覚えることがあるでしょう。 ヨブは今とんでもない悔しい目に遭っているから、自分のような正しい者はこのことに驚いていると言っています。罪のない者は神を敬わない者に向かって憤ると言っています。つまり自分も正しいし罪がないのにこんな目にあっているから、こんなことをされているから、それに驚いて憤(お)っていると訴えているのです。到底理解できないことを自分の目で見ていて、自分がそのことをされているから悔しくてたまらないのです。 しかしヨブはこのようなことを言える立場ではありません。本当に正しくて罪のない人ならこう言えるでしょうが。ヨブは今、真実でない人だし、第三者の例えを挙げて自分を合理化することは正しくありません。人に信頼されない人が自分の意見を主張するために第三者の名前を言うなら、相手もその第三者を認めないでしょう。それで自分の言葉によって、関係のない第三者に迷惑をかけることもあります。これは日常生活でもよくあることでしょう。 これによってサタンが訴えて、次々と争いを起こすようになります。ある人は自分の目的を達成するために関係のない人まで巻き込みます。例えば自分が言いたいことはあるけれど、誰々がこんなふうに言っていたというのです。そして自分が気に入らないし不満があるとき、誰々がこんなふうに文句を言っていたというふうに言うのです。 そしてこういう人は自分の話に同調する人を探しています。自分の主張を強くしている人は、誰々もこんなふうに文句を言っていたと言いながら、自分に同調してほしいと思うのです。何度もそういうのです。しかしそれは不満を抱きそうなことでもないのに、その人はずっとその不満があっていると、相手の人が賛成してほしいとしつこくそれについて言うのです。自分の見方をしてくれる人を探しているのです。あちこちに行ってあれこれ不満を言いながら、自分は正しいかのように自分のことを訴えているのです。 または自分が話すと相手が聞かないと思って、地位があって権利のある人の名前を上げて、その方がこんなふうに言っていたという場合もあります。またある人は自分が周りに認められないから、頭になる人の名前を上げてその人に自分が愛されているかのように言います。これも罪だと思わないかもしれませんが、これは大きい悪でサタンが訴えることです。これも偽りだからです。 自分が人に認められるために他の人の名前を借りて言うのです。偽りなのです。前に一回褒められたことがあるだけなのに、頭になる人に自分が認められているかのように人に言うのです。それで人に自分の話が、自分の意見が通るようにしようとするのです。それは悪だし、そして正しくないことでしょう。罪になります。そしてその言葉によってサタンが訴えるようになります。 続いてヨブは、「義人は自分の道を保ち」と言っています。自分の道を保つとは正しい道を歩み続けるという意味です。ヨブがこのように言っているのは自分の道が正しいと思うから、周りからどんな反対があっても揺らぐことなく貫くつもりだと言っているのです。つまり私は正しい、しかし友達が何の罪もない私を刺激して悪いもの扱いをしていた。これについて私は解明してきて、これからも解明していくと言っているのです。 そして「手のきよい人は力を増し加える」と言っています。これは自分が正しいから、ますます力を得るようになると言っています。これは一見合わないようではありませんか。なぜならヨブは、ヨブ16:8では自分は痩せ衰えたと言っていたし、ヨブ17:1では自分の霊は乱れたと言っています。今の表現とは正反対に言っていました。しかしヨブは自分の考えではこれはあっていました。ヨブは自分の体が衰えていても、自分の言葉は正しいから、力を増し加えて最後まで主張するという意味で、こう言っているのです。とても愚かな姿ではありませんか。周りからいくら反対されても、私は正しいからこの意見を最後まで貫くと言っています。 ヨブの強い自尊心と意地が込められている言葉です。韓国のことわざに、雀も死ぬ時大声で鳴くという言葉がありますが、ヨブも最後まで声を上げて自分を弁護していくと言っています。体がだんだん痩せ衰えても自分は正しいから、力を絞り出して訴え続けると言っています。皆さん真理に照らしてみれば、このような意地と頑固さは何の使い道もありません。 かえって相手に嫌われるし平和を壊すしかありません。サタンの喜ぶことです。私たちは話をする時も何かを勧める時も、周りの人が理解できないならもう一度顧みるチェックをしてみる必要があります。また互いに平和を保てないのは、それぞれに問題があることだから、自分だけ正しいと主張しないで、相手の話を聞いて理解しようとしなければなりません。 人々は自分が正しい、相手は正しくないと思っています。皆さん自分の考えがあっていると思いますね。正しくないと思っている人はあまりいないと思います。自分が見て感じたことが全部あっていると思います。だからそのように考えて人にもそのように言うのです。人に対してもそんなふうに裁くのです。でも正しくないことあっていないこともたくさんあります。人のした姿だけ、その人の行動だけを見ていますが、その人の心は分からないからです。 ヨブの友達もヨブの言っていることを見て、腹を立てていましたが、ヨブの心は知らなかったのではありませんか。神様はヨブの友達の方がヨブより悪いと言われたでしょう。皆さんも自分が今見て聞いて考えて話していることが、正しいと主張するのではなくて、正しくないかもしれない、あっていないかもしれないと、へりくだる姿勢がとても必要です。それは自分の自尊心を捨てるときに、自分を発見することができます。互いに自分が正しいと主張して言い争うことがあるなら、両方に問題があります。そして両方が相手のせいにするのです。 でも相手の話を聞き入れることは必要です。そして相手の立場で考えてみて、真理と反対のものでなければ聞いてあげることもいいでしょう。相手に合わせてあげることも善でしょう。そのためには心の悪を捨てて、霊の愛が臨んでこそできるのです。このメッセージを聞いて、明日すぐ変えられることが難しくても、続けて努力しなければなりません。大切なのは人と争ったりしたときは、相手にだけ問題があるのではなくて、自分にも何か問題があるのではないかと自分も顧みる姿勢です。 そのために祈りながら、聖霊に助けを求めるなら、聖霊は悟らせてくださるでしょう。イエス様は悪い人々がいくら迫害しても、言い争うことはありませんでした。イエス様は良い働きだけなさったのに、悪い人々がイエス様を殺そうとしました。それでも彼らを憎まなかったし、神様の御心を悟らせてくださり、自分を十字架につける彼らのために赦しの祈りを捧げました。私たちもこのようなイエス様の心に似て、その方の行いを自分の生き方に適応しなければならないでしょう。

「ヨブ記講解(43)-ヨブの自己主張」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:1~17:5

の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。(ヨブ17:1)

それで本文ヨブ記17:1「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。」と言っているのです。ヨブは挫折して苦しみながら、だんだん疲れていきました。それで自暴自棄になって自分の霊は乱れたと言っています。そしてヨブが本当に今すぐ死ぬような危ないところにいるという意味ではありません。絶望していて心が疲れてしまったからこんなふうに私のものは墓場だけだと言っています。自分の考えの中で全てがおしまいだと思っているのです。立ち返ることもできないし、死だけが待っているんだと絶望しているのです。人生のどん底に落ちたと思っています。

皆さんの中でいろんな大きい問題にぶつかったとき、こんなふうに自暴自棄になって絶望したことはありませんか。信仰生活をするときも、こんなふうに否定的な告白をする人がいますが、なおさなければなりません。聖められるために変えられるために一生懸命罪と戦っていたのに、ある時から疲れてしまってへたり込んでしまうこともあります。それで私は聖められることができないようだと諦めてしまう人がいます。そうしてはいけません。

第二テモテ3:5「見えるところは敬虔であっても、その実を否定するものになるからです。こういう人々を避けなさい。」とあります。罪を捨てて聖められることは自分の力でできるものではありません。自分の努力プラス神様の恵みと力プラス聖霊の助けがなければなりません。そうしてこそ罪と戦って勝つことができます。このような神様の力に頼らなければなりません。しかし自分でなんとかやってみようと思って、結局挫折してしまい諦めることがあります。

しかし私たちは神様がくださる恵みと力によって、それに頼らなければなりません。皆さん聖められるために、信仰が成長するために今まで頑張ってきました。しかし周りの人を見てみたら、ある人は躓いてしまって世に行ってしまう人もいるし、そしてある人は落ち込んでいたりする姿を見て、私もちょっと疲れたと思いながら休みたいと思ったり、使命を手放したり熱心が冷めたりする姿がありませんか。

そして自分なりに一生懸命罪を捨てるために走ってきたのに、捨てたと思ったものがまた出てきて、また出てきて、それでもう努力するのも疲れたと思う人もいますか。諦めたくなる時はありませんか。続けていくのがしんどいと思う時はありませんか。自分がある程度適当にやっても楽に生きたいと思うことはありませんか。そうしてはいけません。それはとても危ない考えです。

信仰は成長し続けなければならないし足ぶみしていては後ろに行ってしまうのです。毎日私たちは自分を顧みて、自分の口の言葉も目つきも、心の中で考えることも気をつけなければならないのですが、一瞬一瞬そうするのがきついでしょうか。辛いと思いますか。それで諦めたいと思いますか。そうではありません。

そのように努力していけば神様が恵みをくださって聖霊が助けてくださるから、だんだん楽になって幸せになります。神様がくださる喜びがあります。その次元に至るまで私たちは、諦めてはいけないのです。もしかしてもう休みたいと思ったり楽になりたいと思った人がいるならばもう一度頑張ってください。 世では数十年間、お酒とかタバコをしていた人が辞めたいと思っても辞められないことがあります。でも教会へ来て神様の恵みが望んだら一瞬で辞めることができるという証がたくさんあるのではありませんか。だから神様がくださるこのような恵みと力を信じて神様により頼みますように。 続くヨブ記17:2です。 しかもあざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。 (ヨブ記17:2) ヨブは友達が自分を慰めるどころか、自分をあざけっていると言います。今まで自分が友達に言った言葉によって、友達が激しく怒っていることはわからないのです。自分の過ちは認めないで、友達が敵意を抱いている姿を見て理解できないのです。今ヨブは相手が悪いと思っているのです。自分は悪いと思わないのです。だから理解できないのです。 人々は自分の過ちとかミスによって相手を困らせたのに逆切れする場合もあります。自分が原因なのに相手がなぜ怒っているのかとわからないのです。例えばお金を借りた人がいるとしましょう。でも事情があって約束した日に返せなかったとしましょう。この時お金を貸してくれた人が怒って怒鳴ったり責めるならば自分は何も言えないでしょう。 自分が相手を怒らせたし、怒鳴られたからといってなぜ傷つくのでしょうか。お金を返すことができなかった自分のせいではありませんか。自分が悪いと思うべきではありませんか。約束を守れなかったから申し訳ないと思って謝るべきなのに、かえって相手にひどすぎると言ったり、なんでそんなに怒るのと言うなら話にならないでしょう。 こういう場合、怒る相手を悪いと思うのではなくて、悪いと思わない自分がもっとひどいということを悟らなければなりません。約束をしたなら必ず守って相手を困らせてはいけないし、もし約束を破ったなら、相手が怒っても申し訳ないと思って謝るべきでしょう。何よりもそういうことが起こらないように知恵を持って、相手が怒らないようにすることが大切でしょう。 だから善を慕っている聖徒ならすべてのことで自分の立場ではなくて、相手の立場で考えなければなりません。相手の言葉とか行いだけ見て、嫌な思いをさせられたとかひどいとか思うよりは、なぜそのように機嫌が悪いのか怒っているのかなと思いながら、相手の立場と感情を理解しようとすれば平和を作れます。 そして反対の場合もあります。相手が何か自分に失礼なことをしたりして自分を怒らせたとしましょう。それでも怒ったことは私の心の中に悪があるからだと自分を顧みて、神様の前で悔い改めればいいでしょう。相手のせいにしないでください。この反対の場合は相手が私に悪を行ったから、私もかっとなって一言言ってあげたとか、それは自己弁明ですがそれも善ではないでしょう。 続く本文を読むとヨブはまた神様に訴えています。ヨブ記17:3です。 どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(ヨブ17:3) つまりヨブは神様と自分の間に弁護する人を立ててくださいと言っています。それで自分の正しさを訴えたいと言っています。自分には罪もないのに神様が責任を持ってくださいと言っています。今自分の苦しみは全て神様のせいだから、神様が私のために保証するものを置いてください。それで私に罪がないことを認めて問題を解決してくださいと訴えているのです。 神様のせいにして責任を取ってくださいと言っています。まるで借金のため悩んでいる人が、なんとか問題を解決しようと保証する人を探しているように、ヨブも切羽詰まって神様に叫んでいます。ヨブの苦しみから出る訴えです。神様を信じない人は問題があると、人間的な方法を使って問題を解決するために、保証してくれる人を探します。しかしお金を貸してくれる人がいても、根本的に自分が問題を解決しなければ、またその人に頼るようになります。自分の問題は自分で解決しなければなりません。 そして信仰のある人なら何か問題が起こったら、人を自分の保証するものとして立ててその人に頼ってはいけません。神様が私たちのお父様であり私たちを支えてくださる方だから、神様の前にお願いするべきでしょう。神様私のために保証人を置いてくださいというのではなくて、全知全能なる神様に委ねて信仰で求めなければならないのです。神様を信じるなら神様にお願いすればいいでしょう。神様と自分との関係はもちろん、信頼関係はちゃんとできている場合のことです。私の祈りを聞いてくださることを信じるから、願い事を神様に捧げていただけるのです。しかし神様に頼らないで人に頼ってしまうならば、神様は助けることがおできになりません。 なぜ自分がこんなふうに困難にあっているのかを悟って、悔い改めて立ち返って神様の御心に従っていかなければなりません。すると神様が問題を解決してくださいます。口の言葉では神様、私の主人になってください、私を導いてくださいと祈っているのに、日常生活では自分の考えで人の方法を使っているならば神様私を導いてくださいとしても、神様は助けたくても助けることができないのです。 神様は私たちが道を迷っているなら、立ち返って正しい道に戻ることを望んでおられます。そして過ちを徹底的に悔い改めて改善することを望んでおられるのです。そして神様との関係も正しく築き上げるようにと望んでおられます。しかしヨブは相変わらず自分が正しいと思っていたから、自分の過ちを反省する気もなかったし、漠然としてあてになる人を求めてもがいているのです。 皆さんもこんな信仰生活をしているのではありませんか。祈るときは神様助けてくださいと言っているのに、実際生活の中では神様に頼らないで人に頼って人間的な方法を使うのです。今ヨブは切羽詰まって神様にいろいろ叫んではいますが、しかし実際神様にすべてを委ねる謙遜な姿ではないのです。ただ自分には何の過ちもないのに神様がこんな苦しい目に遭わせたから、神様が責任を取るべきだというふうに問い詰めているだけなのです。皆さんはどうでしょう。神様が本当に自分の父だと思って、主人だと思う人ならば、神様が自分の祈りを聞いてくださるようにしているのかどうか、顧みなければならないでしょう。 ヨブは他に誰か誓ってくれるものがありましょうかと言っています。誓ってくれる人を、これは保証すると誓ってくれる人を言っています。先ほども言ったのですが、ヨブの周りを見てみると自分を助ける人は誰もいないのです。だから神様が何とかしてくださいと、責任を負ってくださいと言っているのです。神様が自分にこのような病気にかかるようにして、こんな苦しみに遭うようにされたから、神様が解決してくださいと言っています。これは低くなって謙遜になって求めるのではありません。問題の原因を神様のせいにしているだけなのです。だから問題です。 皆さんは試練にあった時、マンミンの聖徒なら神様が苦しめたとは絶対言わないでしょう。真理を聞いているから。でもクリスチャンの中でそんな表現を使うことはよくあります。問題にぶつかったり病気になったりすると、神様が試練に会わせられたとか、神様が自分を打ったとかいうふうに表現する人がいますが、それは正しくないでしょう。自分を顧みて自分の中から問題の原因を見つけなければなりません。神様のせいにしてはいけないのです。でもヨブはそんなふうにずっと言っています。 ヨブ記17:4です。 あなたが彼らの心を閉じて悟ることができないようにされたからです。それゆえ、あなたは彼らを高められないでしょう。(ヨブ17:4) 自分が友達にいろいろ教えてあげたのに彼らが悟れないのは、悪を行うのは、神様がそうなさったからだと言っています。ヨブはこういう表現、似た表現を今繰り返し言っています。友達が悪い、友達が自分にいろいろ悪いことをしている。それは神様のせいだと言っているのです。だから神様も彼らを認めてはいけない。彼らを高めてはいけない。自分も彼らを認める気はないと言っています。 でも今ヨブが言っていることは正しくないでしょう。もしヨブが神様がくださった知恵をもって、善をもって友達と話をしていたなら、友達は怒らなかったし言い争うこともなかったでしょう。しかしヨブは自分の中の悪が出てしまって感情的になって、自分が正しいとずっと言い張っているから、サタンが働いて友達と感情的にぶつかったのです。でもヨブは自分の過ちが悟れないで神様に訴えていて、自分を咎めて責めている友達を、神様高めないでくださいと言っています。 これはとんでもない要求ですね。皆さんはこういう姿はありませんか。誰かが自分を苦しめたからと言って、神様あの人に罰を与えてくださいとか。皆さんならそのように祈ることはないけれども、でも自分が何か誤解されたならば、周りの人のところにいってまた自分の正しさを訴えたくなりますね。弁明したくなりますね、それもヨブのような姿なのです。今ヨブは友達が悪いでしょう、私は正しいでしょうと神様に正確に言ってくださいと、彼らを認めてはいけませんというふうに言っています。 どれほど高ぶっているでしょうか。皆さんも日常生活の中で、自分を苦しめて自分に嫌味を言う人がいる場合、その人に直接言えないし、神様にもあの人が悔い改めるようにしてくださいとは言わなくても、でも自分の親しい人のところに行って、その人の陰口を言ったり、私はこんな悔しい目に遭ったとかするならば、それもヨブと同じような姿なのです。 ヨブは今あまりにも悔しいのですね。友達が過ちのない自分をとがめて責めているから。だから神様に彼らを認めてはいけませんと言っているのです。皆さんも日常生活で神様にそう言わなくても、自分の親しい人のところに行って、自分を苦しめた人の悪口を言ったり、自分が悔しいと言ったり、その人が悪い人のように印象づけることがあるのではありませんか。それも自分の中に悪があるからでしょう。でも本当に善のある人、神様を信じる人、頼る人ならば、神様に祈ってその人のために祝福を祈って、それで時を待ちながら善を行うでしょう。ヨブは神様が友達の心を閉じて悟ることはできないようにされたから神様が悪いと言っています。また友達も無視しています。 続くヨブ記17:5ではヨブは友達を呪っています。 分け前を得るために友の告げ口をする者、その子らの目は衰え果てる。(ヨブ17:5) 今ヨブは友達に自分が侮辱されたから、その代価としてその友達の子供たちの目が衰え果ててしまえと呪っているのです。自分が指摘される姿があったことは悟れないで、相手のせいにして呪っているのです。それはヨブに信仰がなくて真の愛を知らないからです。このような姿を見ればなぜこのように試練に遭っているのか分かるでしょう。 イエス様はルカ6:27-28で、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われました。神様は敵を愛しなさいと言われたのに、敵でもない友達を信仰の兄弟を憎んではいけないでしょう。自分を呪う人のために祝福することは簡単ではないでしょうか。霊の愛が臨むなら、そうできます。 心が変えられれば自分を呪う人でも、その人を可哀想に思うからその人のために祈ることになります。ステパノ執事は神様の御心を伝えていて石を投げられて死ぬ時も、自分に石を投げる人を恨んだりしませんでした。膝をついて大きい声で、「主よ。を彼らに負わせないでください。」と、代わりに許しを求める祈りを捧げました。その心に悪い人々のためにも、命を捧げる最高の善と愛を所有していたからです。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように望んでおられます。 ヨブは行いでは潔白で正しいものとして神様に褒められていたのですが、でも人が自分を打つならば自分も打ち返すような人でした。だからヨブの行為的で一方的な善を、真の善に変えてくださるために練ってくださっているのです。神様はヨブを御霊の人に変えられるようにするために、火のような試練の中で自分の悪が出てきてそれを発見するようにしてくださるのです。 それでヨブに潜んでいた悪が明るみにされるのです。しかしヨブが悪を発見して捨てると、神様に認められ愛されて祝福される器になれるから、神様はそうなさるのです。もし厳しい訓練を受けなくてもオリンピックで金メダルを取れるなら、選手たちは訓練を受けようとするでしょうか。また監督も選手を訓練させる必要もないでしょう。しかし金メダルを取るためには、必ず厳しい訓練の過程が必要です。だから地獄のような訓練でも耐えるのです。ヨブの場合も、神様はヨブが真の祝福を受ける器だから鍛錬してくださるのです。 ところで神様が祝福するために練ってくださる時、結局自分の中にあった悪が出てくるのです。悪がなければそれが出てこないでしょう。自分の中に悪があるから出てくるのです。例えば職場で上司が同僚を褒めたとしましょう。その時、「え?あの人は何の取り柄もないのに?」と面白くないなら自分の中に悪がたくさんあるのです。上司が自分を指摘したのでもないのに、褒められた同僚を妬んで不満を抱いて自分を苦しめるのです。このように心に悪があれば良いことを見ても悪く思うのです。 それではヨブが友達の子供の目は衰え果てると言ったのはどんな意味でしょうか?目は霊的には未来を意味します。人は目が見えなければ道も見えないし閉じ込められたようですね。だから目が衰え果てると言っているのは大きい呪いです。また子供は家の跡を継ぐ大切な存在なのに、そんなふうに呪ったからこれは大きい悪でしょう。 ヨブ記15章でエリファズがヨブを呪ったのですが、今ヨブもそれに仕返しをしているようなものです。皆さんこの姿が自分ではないか顧みますように。相手の言葉とか行動で傷つけられて、気分が悪くなりました。それならそれを覚えていて、後で仕返しをしようと思っていますか?ずっと根に持っていますか?それは世の人の姿で悪い心でしょう。神の子供はそうしてはいけません。だからヨブ記講解を聞きながら自分を顧みて悪を発見して速やかに捨てましょう。 結論です。 愛する聖徒の皆さん。並行線はいくら長い時間が経っても互いに会うことはありません。自己主張を曲げないでずっと自分だけ正しいと言い張る人も同じです。もしヨブが最初から友達の言う話を受け入れたなら、もうすでに問題は解決されたでしょう。しかしヨブは自分の自尊心と意地を曲げないでずっと自分が正しいと主張していたから、試練が続いています。主を愛する聖徒なら人と言い争ったりしたくないでしょう。平和を作りたいでしょう。でも些細なことで互いに仲が悪くなることもあります。それは自分の利益を求める心、自分の立場を考えるからです。 しかし真理と反対のものでなければ相手に合わせてあげたほうがいいです。今すぐは損をするようかもしれませんが、善を行うと神様が喜ばれるから、神様が祝福してくださいます。塩が溶けてこそ塩気が効くように、自分というものを、自分の感情、自分の利益、自尊心を捨てましょう。そして犠牲になって全て渡す主の心に似ていきましょう。すると主の前で褒められる皆さんになるでしょう。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日ヨブが神様と友達が悪いと言いながら、自分には何の過ちもないのに悔しいと言いながら、神様の前に訴えている姿を見ました。そして友達の子供まで呪っている姿を見ました。私たちの心にはこのような姿がないのか、悪がないのか顧みますように。自分の口の言葉と心の中と思いの中を顧みて発見して自分を認めて、速やかに捨てて変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

「ヨブ記講解(43)-ヨブの自己主張」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:16-22

皆さん、前回は自分の角を捨てようというメッセージで、自尊心というものがどれほど無益なものなのか伝えました。イソップの寓話を見ると自分の美しい角を誇っていて、弱い足を恥ずかしく思っていた鹿の話があります。ある日ライオンがこの鹿を追いかけてくると、鹿は細い長い足で素早く逃げることができました。しかし普段とても誇りに思っていた角が枝に引っかかってしまって、結局ライオンの餌食になってしまいました。

このように人にも名誉、権力、お金、外見など誇るような角があるかもしれません。しかしこのようなものが高ぶりを生み、不幸をもたらすこともあります。しかし自分が短所だと思っていたことによって、低くなって発展することもあります。ですから心の中にある、いらない自尊心の角、高ぶりの角を捨てて、神様が喜ばれる謙遜な人にならなければならないでしょう。

神様が聖書で、ヨブの話をこのように具体的に記すようにされたのは、私たちの中にある罪の性質を発見して捨てて、聖められるように望んでおられるからです。ですから今日もメッセージを聞いて、鏡として自分を照らして発見して、悪を捨てて善を満たしますように。

本文を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほど酷かったのかが分かります。ヨブ記16:16です。

「私の顔は泣いて赤くなり、私のまぶたには死の影がある。」(ヨブ16:16)

ヨブはひどい皮膚病で痛くて泣いていました。子どもたちをみんな失ったから悲しくて泣いていました。妻にも友達にも捨てられて泣いていました。自尊心も踏みにじられて苦しくて泣いていました。泣いていたら顔も赤くなって目も充血しました。絶望に落ちてしまって、まぶたには何の希望もなく死の影がありました。

この時は涙で嘆くのではなくて、全能なる神様のところに行って求めれば神様が解決してくださるのに。ヨブは神様により頼むことができず、自暴自棄になって泣いていました。神様を見つけた体験がないし、ただ知識的な信仰に過ぎなかったし、希望のない肉の人だったからです。

皆さん、本当に神様を信じる私たちが流すべき涙は、どんな涙でしょうか。哀れな魂を救うための悲しみの涙、罪を犯した時立ち返るための悔い改めの涙、変えられるための決断の涙、神様の恵みに感謝する涙、喜びの涙でなければなりません。今自分が試練にあって嘆きながら悔しい思いをしながら流す涙ではなくて、感謝と喜びを持って涙を流すべきです。信仰と希望のある神様の子供はどんな試練の時も患難がやってきても、喜んで感謝して祈ることで勝利できます。霊の信仰がある人とない人とではこのように大きい違いがあるのです。

 

続くヨブの告白を見ると、ヨブは相変わらず自分が正しいと主張しています。ヨブ16:17-18です。
 

「しかし私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい。地よ。私の血をおおうな。私の叫びに休み場所を与えるな。」(ヨブ16:17-18) ヨブは自分の手には暴虐がないと言っていますが、暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。ヨブの言葉のようにヨブの手に暴虐がなかったことは事実です。人の心にあるものが行いに出てきますが、ヨブは行いに出てくるほどは悪い心があったのではありません。しかし口で多くの悪をこぼしました。それだけ心がまだ変えられていなかったからです。そしてヨブは自分の祈りはきよいと言っています。これは今まで自分が口にした言葉が、どれほど神様の前でふさわしくないのかを相変わらず悟っていない姿を言っています。 続いてヨブは「地よ。私の血をおおうな。」と言っています。これは自分が正しいし聖いから、地に自分の正しさを覆うなと言っているのです。そして私の叫びに休み場所を与えるなと言っています。これはどういう意味でしょうか。自分が続けて叫ぶように、つまり弁明できるようにしてほしいと言っているのです。世では悔しい目にあった人が自分の正しさは天が知っている、地が知っていると主張する人がいます。ヨブも今例えを挙げて自分の境遇を訴えています。 しかし神様の子供は天が知っていて、地が知っているという表現を使う必要はありません。詩編139:1-4にこうあります。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をごとごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをごとごとく知っておられます。」 神様は全てをご存知です。ヘブル書4:12-13にこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも指し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」とあります。 このように神様の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいか正しくないか明らかになります。私のことは天が知っている、地が知っていると言う必要もないし、神様がご存知です。また真理の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいかどうか正確に見ることができます。それで良いのではありませんか。御言葉で自分の心を詳しく見て罪と悪を発見して捨てれば、それだけ魂に幸いを得て健康であり祝福されるのです。 神様の前では誰も何も隠すことができません。人に誤解されることもあるし、悔しい目に遭うこともありますが、神様だけは全てをご存知だから、時が来ると必ず真実が明らかにされるのです。ですから本当に大切なのは、神様の前でどのように行うかです。今は損もするようで悔しい思いをするようでも、全てを神様に委ねて御言葉に従うなら、神様が喜ばれて全てを働かせて益としてくださるのです。 ところが聖徒の中でこのような神様を信じることができず、頼らないで人に訴えたり、不平不満を言って嘆く人がいます。周りの人にまた自分を理解してくれる人を探すのです。自己主張を続けるのです。ヨブもそうでした。自分は正しいと訴え続けるのです。そして自分の話を聞いてくれる人が欲しいのです。その話を聞いて、それは違うとアドバイスをしてくれる人は嫌なのです。自分の味方をしてくれる人が欲しいのです。それは信仰ではありません。神様に頼る信仰ではありません。神様を信じる信仰が足りないし、自分から問題の原因を見つけることができない姿です。そのまま時間が経っても問題は解決されないのです。 世の人々はそんなふうに生きています。それで問題が解決されることがあるならいいのですが、ほとんどは原因がわからないから問題が解決されないのです。だからずっと不満ばかりなのです。しかし神様を信じる子供なら、クリスチャンなら人の前で自分のことを訴えたり、不満をさらけ出したりするのではなくて、神様の御言葉で自分を照らしてみて自分の欠けているところを探して霊的に解決すれば、目の前の問題も解決されるのです。 「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。」 (ヨブ16:19) ヨブは自分が潔白だから、自分が正しいことを証してくださる方が天におられると言っています。自分を保証してくださる方が高いところにおられると言っています。つまりこの地上では自分を救ってくれる人もいないし、問題を解決してくれる人もいないし、自分が訴える対象は神様であり、神様が自分をこんな目に遭うようにされたから責任を負うべきだというふうに言っているのです。 これは神様の前で神様が問題を解決してくださらないから、私がこんなに苦しい目に遭っているのではないでしょうかと、問い詰めているのです。前後の文脈からヨブの心の訴えがわかります。 「私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」(ヨブ16:20-22) ヨブ16:20-22です。ヨブはこの時神様にとりなしをしてくださいと、神様に頼るように見えるかもしれませんがそうではありません。ヨブの友達も妻も周りの人も、ヨブをあざけっているとヨブは思っています。しかし友達の立場から見ると、ヨブが今あまりにも正しくないことを言っているから、それについて指摘しているだけなのです。だから言い争うようになるのです。 ヨブは自分が悔しいと言っていますが、友達が見るには当然のことを言ってあげているのです。でもヨブがそれを受け入れないから、互いに対立していて言い争っているのです。互いに自分は正しい、あなたは正しくないと言いながら相手が自分を無視していると思っています。友達も同じですね。ヨブが自分たちを無視していると言いながらだんだん感情的になって、言葉の表現が激しくなって呪ったりするのですね。誤解がだんだん募るのです。こういう時は互いに自分が正しいと主張するのではなくて、真理の御言葉を持ってただすべきです。 そしてヨブは神様に向かって涙で訴えているのですが、この方法も正しくありません。御言葉には喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい、信仰を持って神様の前に願い事をしなさいとあります。しかしヨブは反対に、呟いて恨んで嘆いて誤解して裁いて涙を流しています。だから同じ涙でもどんな意味かによって違います。ヨブが低くなって自分の罪を悔い改めながら涙を流しているなら、それは神様に受け入れられるような涙でしょう。悔い改めの涙だったらよかったのですが、そうではなくて、ヨブの涙は悔しくて、痛くて、嘆きながら、訴えながら涙を流しています。 するとどうなるでしょうか。サタンが働くようになります。そのような口の言葉、涙によってサタンが働いてしまってさらに病気がひどくなって、苦しみが大きくなるのです。今ヨブはそのような繰り返しですね。それが皆さんの自分の姿かもしれません。ダニエル祈祷会の時、涙を流して祈っているとしても、その涙の意味が何か自分で考えてみなければなりません。 今病気で苦しいから痛いから涙を流すのか、そうでなければ、今日一日嫌なことがあったから悔しいから涙を流しているのかです。ヨブも天に自分を保証してくださる方がいると言っていますが、それは本当に神様をおそれかしこむ意味ではなくて、神様の前で訴えて責任を取ってくださいというふうに問い詰めている姿でした。だから違う意味の涙でした。 でも私たちはそうしてはいけないでしょう。喜び、感謝の涙を捧げて、信仰によって自分を顧みて悔い改めてこそ問題が解決されます。ヨブは自分が正しいと主張してきました。だからとりなしをしてくださるようにと言っています。自分が正しいことをどうして認めてくれないのですか、どうしてこんなに苦しい目に合わせるのですかと言っているのです。いくらでも私は自分の正しさを言えるのにと言っています。高ぶっている姿です。とりなすとは対立する二人の間に立って、事態が好転するようにうまくとりはかることです。 ここでヨブは人の前でも神様の前でも自分が正しいことを主張していると言っています。「人の子がその友のために。」とありますが、この人の子は普通の人ではなくて、人として本分を尽くしていて、義と善を持っている人を言っています。そのような人が自分をとりなしてくれるようにと願っているのです。なぜなら自分は、自分も正しく、又良いことをしていたからと言っているのです。そして自分を知っている全ての人の前で、自分の弁明をしたいと思っていました。自分はこんな苦しみを受けるような悪いことをしたことがないと言いたいのです。人々は自分が神様によって懲らしめられていると誤解しているようだから、それについてはっきり解明したいと思っています。 しかし私たちは苦しみにあったとき人の前で弁明するのではなくて、全てをご存知の神様に委ねなければなりません。教会の中で聖徒の間で意見が違うときもあるし、互いに誤解したり誤解されたりすることもあると思います。そのようなことがあってはいけないのですが、いろんな人が集まっているから、またそれぞれ違う環境で育った人もいるし、人と人との間では誤解することもありますね。 皆さんはそういうとき、自分が悔しい目にあったと思うならどうしていますか?自分の悪口を言った人とか、自分の陰口を言った人のところに行って、厳しく一言言ってあげたいと思いますか?そうでなければ自分のことを誤解している人々のところに行って、私は違う、やっていないとヨブのように弁明したいと思っていますか?そうでなければ黙々と神様が知っておられるから、また自分を顧みて、もしかして自分が相手に何か失礼なことをしたのではないか、誤解されるような原因が自分にあるのではないかと思いながら祈る姿でしょうか。 一瞬もしかして落ち込んでしまったり傷ついたなら、それさえも神様の前に悔い改めている姿でしょうか。そして神様の前に祈りながらさらに広い心になるように、どんな人でも受け入れる人になるようにと祈っていますか。そういう人なら神様の前に正解を書いた人ですね。そんな生き方をしている人ならば神様に愛されるし、すぐ祝福されるでしょう。 しかしある人は誤解されたりするなら、それが悔しくてたまらないのです。そして自分がそんな風に言ってないのに、周りの人々がそれを膨らませて伝えてしまったから、他の人に自分が悪い人のように誤解されているならそれが悔しくてたまらないですか?腹が立ったり我慢できなかったりして、しゃべっていろいろ弁明したいと思いますか。それならヨブの姿と同じではありませんか。 皆さん、日常生活で自分はどうなのか顧みますように。人の目を意識して私はそんな人ではないのにみんなに悪く思われたくないと思いながら、何とかして弁明したいと思って訴えている姿はないのか顧みますように。神の子供はどうすべきか、私たちは真理を聞いて知っています。神様は全てを見ておられ全てを知っておられます。だから神様に委ねて信仰によって歩んでいれば時が来ると神様が全てを明らかにしてくださいます。 私はその神様がおられるからとても心強いしとても感謝です。もし神様がおられないなら一人では耐えられないと思います。しかし神様がおられるから、神様により頼むことができるから安心できるし心が平安です。私の顔を見ると平安に見えますか? そうでなければ心配しているように見えますか?イ-スターのとき賛美を捧げる時、私の顔を見るとどうでしたか。実はいろいろなことがあったのですが、そして私も講壇に立って皆さんの前に見せるような立場にいるのですが、普通賛美リードをするならば、カメラもクローズアップしたりするからお化粧とかそしていろいろ気をつけなければならないところがあるのですが、今回はそれに気をつける心の余裕もなかったのです。 それでも私は神様の前に私の心を捧げようと思いました。それなら聖霊様が支えてくださるからと思いました。神様により頼むしかなかったのです。もちろん世の方法は使いません。何かマッサージをしたり、そういうこともありません。私たちは神様により頼んでいるのか、世の方法を使うのか。皆さんも自分を顧みながら考えてみてください。 人との間でも対人関係でも神様にゆだねますように。問題は自分と神様の関係がどのくらい信頼関係が築かれているのかでしょう。本文にヨブは「数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」と言っています。ヨブは今の自分が受けている苦しみが大きいから絶望していて、もうすぐ自分は命がなくなるだろうと思っていました。このままずっと苦しみを受けていて、いつ死ぬかわからないと思っていました。だから帰らぬ旅路につくと決めつけています。 しかし私たちは神様の御言葉を聞いて、私たちはどこから来てどこに帰るのかよく知っています。この地上で生きている間どのようにすれば祝福されるのか、どのようにすれば呪われるのか、たとえ死の陰の谷を歩いていても、信仰を守っているなら神様が救ってくださることも知っています。そしてこの地上での人生が終わると、永遠なる天国で主と共に受ける栄光と幸せを望んでいるから、どんな状況でも絶望しません。一日一日を信仰で勝利できます。 そのように信仰生活をしていて死ぬようになったとしても、天国に入るから幸せでしょう。しかし信仰のない人々は、死を迎えるようになったり絶望的なことにあったりするととても苦しくなって恐れます。創造主の神様を知らないし天国への希望がないから、死が近づくほど人生の虚しさを感じます。ヨブも神様を、知っていると思っていましたが天国への希望がないから、口から出てくる言葉は虚しいことや絶望だけでした。

「ヨブ記講解(42)-自分の角を捨てよう」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:12~15

私は荒布をはだに縫いつけ、私の角をちりの中に突き刺した(ヨブ16:15)

神様がヨブを打ち破って、破れに破れを加え、ヨブの肌は荒布を縫いつけたような状態になったと言っています。これは荒布をまとっているという意味ではなくて、皮膚病によって肌がめちゃくちゃになっている姿を言っています。今、自分の体はこんなふうに満身創痍になっていると言っています。

普通、生地は糸が細くて柔らかいもの、また色が美しいほど高いものです。折り目が荒いものとか粗末なものなら、それは良いものではないでしょう。きめ細やかで柔らかい糸で、きちんと折られているものが高いのです。そして、幾つかの布を重ね合わせて縫い付けたものよりは、一枚で折ったものがもっと高いでしょう。貧しい人は新しい服を買うお金がないから、服に穴が空いたりすれば破けたりすると、古い布でそこに重ね合わせたり、布切れを重ね合わせたりするのではありませんか。

ヨブは今自分の体がそんな状態になっていると表現しているのです。ヨブは荒布を肌に縫い付けたと言っています。荒布は折り目の荒い布、粗末な布を言っています。昔、韓国では、市民は主に木綿とか麻で服を作って着ました。木綿も麻も柔らかくはありませんね。荒いでしょう。だから皮膚に触れたら気持ちいいでしょうか。そうではありませんね。絹とかもっと良い布で作った服を着たとき、触れたとき気持ちいいでしょう。

しかし、木綿とか麻はそうではないのです。これが荒布でしょう。ヨブの今の皮膚がそうなっているのです。そして服を長い間ずっと着ていて、肘とか膝のところが古くなると、布切れを重ね合わせて着たりしました。すると、その部分は厚くなって、跡が残るでしょう。そしてその周りは簡単に破けてしまうのです。ヨブがこのような状況を自分の体に例えています。

つまり、ヨブが今、荒布を肌に縫い付けたと言っているのは、ヨブの皮膚の傷が固まってはまた崩れるのを繰り返している状態を言っています。ヨブが今、自分の皮膚について言っていますが、人の心にある善と悪の程度によって、心が平安であったり、そうでなかったりするのですが、これは皮膚にも影響を与えることがあります。皮膚が綺麗な人を見ていると、その心も安らかだとある程


 

度予測できますね。健康状態も皮膚のトラブルが起きるかによって分かるところもあるのではありませんか。そして、心に苦しい、つらい思いをしている人ならば、皮膚も良くない場合があります。 ヨブは試練に遭う前、裕福だったときは体も健康でした。そして、ヨブは正しい行いをしていたから、もちろん皮膚も柔らかかったでしょう。しかし今は、悪性の腫瘍によって皮膚がひどく荒れていて、荒布を着ているようだと、神様の前で嘆いています。これは神様が自分を打ち砕いて、破れに破れを加えたからだと言っています。そしてヨブは、今日のメッセージのタイトルにあたる本文ですが、私の角をちりの中に突き刺したと言っています。 ここで角とは自尊心を意味しています。人は生まれて成長しながら、見て聞いて学ぶ過程を経て、知識と教養を積みながら自分の心を形成します。そして自尊心と自分の主観というものが生まれます。ここで角とは自分の主観とも言えるでしょう。これは人が生きている間自分の力となり頼りになります。 ある人は知識とか権力を積んで、それで自分の角を作ったりします。そして自分が正しいと思って形成した教養で自分を作ったり、自分の考えに合わない人は間違っていると無視するなど自分の角を持ったりします。そしてある人は正確な枠が角になる場合もあります。それで角で相手をついたりする人も、相手を苦しめたりする人もいます。そして自分が正しいと思う性格の枠によって自分を苦しめる人もいます。 しかしイエス・キリストを受け入れて神の子供とされた人は自分の角というものを捨てなければなりません。詩編75:5に、「お前たちの角を、高くあげるな。横柄な態度で語るな」とあります。自尊心、自分の主観、高ぶり、義と枠など自分の角がなくなってこそ真理が強くなり反対に真理の角が立てられます。 ところで私たちが主を受け入れて聖霊を体験したからといって、すぐ自分の角を捨てて完全にされるのではありません。赤ちゃんが生まれて幼年期を経て大人に成長していくように、人が御霊によって新しく生まれた後は御言葉を行っていきながら、御霊の人に変えられて信仰が成長していくのです。 ところでこの様に信仰が成長する過程で、私たちの中にある二つの心が霊的に戦います。主を受け入れる前の真理と反対の心と、聖霊を受けた後の真理の心が互いに対立するのです。つまり真理・善・霊を追い求める心と、それと反対のもの悪・肉を追い求める心が互いに立ち向かうのです。一方は御霊に従おうとしますが、もう一方は真理と反対のものに従って神様に逆らうからです。 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなた方は自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:16―17) 肉の願うことは御霊に逆らいとあります。これは自分の角、すなわち自尊心、自分の主観、高ぶりなどであり、それによって御霊に従えないのです。この自分の角を捨てないから御霊の歩みに入れないのです。 皆さんも成長過程の中でそして主を受け入れる前、自分の中に自分というものがあったでしょう。高ぶりもあったし、そして自分の主観の強い人がいますね。自分の義と枠で自分の角を作った人もいるでしょう。そして自分の誇りとか、強い性格などが自分の角になっている場合もあります。それを打ち砕いて捨てなければ御言葉・真理に従えないのです。 そして自分の角というものは、すべて自分でしょう、自分を愛するからでしょう。聖書の神様の御言葉に従いたくないのです。低くなりたくないのです。低くなりなさい、犠牲になりなさい、仕えなさいという聖霊の声に従えないのです。 自分という角があるから、自分が低くなって犠牲になろうとするなら角が対立します。肉の思いが動きます。私は愚かなものでもないし、何故私が犠牲にならなければならないのかと思います。こうやって自分という角を捨てないから、信仰生活をしていても、聖霊の声に従えないのです。 自分がまず人を許さなければならないのに、自分という角がある人は相手を許さないのです。相手が自分に悪いことをしたからと思います。自分から低くなって相手に仕えたくないのです。平和をつくる為には、まず自分から手を差し伸べなくてはならないのに、そうすれば、自分が負けるようで自尊心が傷つくと思うからそれがいやなのです。 自分が譲ること、自分がまず謝ることは自分が負けるようで、自分の角がそれを許さないのです。そして敵である悪魔サタンがそのように仕向けるのです。山羊は角をもって他の羊とか山羊を攻撃しますね。皆さんにはそういう角がないのか顧みますように。 ある人はうわべだけ見れば、柔和に見えるのですが。しかし、その中を見てみれば強い面があります。頑丈な面もあって人と妥協しないし、人の話を聞かない強い自分という角を持っている人がいます。うわべでは、人と争うこともなく、おとなしく見えるかもしれませんが、その中には意外と強い角のようなものがあって、変えられるのが難しい人がいます。皆さんは自分にはどんな角があるのか。顧みますように、それを見つけて捨てなければなりません。 使徒パウロは、第1コリント15:31でこう言っています。「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなた方を誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」これは主を知る前、自分が学んだ自分が正しいと思っていた全て、自尊心、自分の主張、義と枠全てを全部捨てるという意味です。真理と反対のものを全部捨てるという意味です。それが自分の誇りだと言っています。 皆さん、自分の知識とか、自分が正しいと思っている考え方とか、自分の外見を誇るのではなくて、毎日が死の連続だということを誇らなければなりません。自分の角が打ち砕かれて真理の角が立てられて、主に従わなければなりません。 ピリピ3:7-8です。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と言っています。 皆さん、自分にとって尊いものがありますか。貴重なものがありますか。これだけは捨てたくないと思っているものがあるなら、それを捨ててこそ、主に自分を捧げることができます。そうすると、自分の尊いもの香油を主に捧げることができるし、すると神様が強くしてくださるのです。 しかし未だに自分を主張していて、自分にとって貴重なものを捨てていない人がいますか。全てを捨てて塵あくたと思いましょう。このように自分の角を打ち砕くほど、御霊の人、真理の人、主のご性質に似た人になります。使徒パウロは真理にあって毎日が死の連続だったので、聖霊の声を明らかに聞いて、神様の力を受けて大いに行いました。 私達は使徒パウロの性格が元々どうだったのか学んだでしょう。自分が正しいと思ったら絶対くじけないで人と議論するのは好きで、深く探求する性格でした。義の強い人でした。しかし主に出会った後、自分に死んで自分を捨てて、心が広くなってどんな人も受け入れることができました。それで神様は大きい神の力をくださって尊く用いてくださいました。もし、使徒パウロに自分の考え方、自分が正しいと思っていることを主張している姿があったらこのようには用いられなかったでしょう。 使徒パウロは第2次伝道旅行の時、小アジアに行こうとしたのですが、御霊によって、そこに行かないようにと言われました。それを後で幻を見て、確かにわかりました。マケドニアの人が私達のところに来て助けてくださいという幻を見たのです。それで、使徒パウロは聞き従ってマケドニアに行って、そこで福音を伝えたら、あちこちに教会がたくさん建てられ多くの人が救われました。 試練を通して毎日が死の連続になって、完全に聞き従う神の力を行う人になったのです。それで神様に栄光を捧げました。私達も聖霊に満たされているときは御霊に導かれますね。それで、このようにしなければと思って、この道がまことだ、新しいエルサレムに行く道だと導かれていました。しかし、自分というものが完全に捨てられていなければ、疑ったり、落ち込んだり、くじけたりするのです。 このように行ったり来たりして二股をかけているから、心の中で二つの心が戦っているからどれほどつらいでしょうか?自分の角を完全に捨てなければならないのに、それがまた伸びてしまうのです。そうではなくて毎日自分に死んでいきましょう。 ところがヨブは自分に死ぬのがあまりにもつらかったのです。自分の自尊心が傷ついたのがあまりにも悲しかったのです。角がちりの中に突き刺されたと言っています。これは自尊心が傷ついてそれを悲しんでいる姿です。ヨブのように自尊心を捨てるのを嫌がる人もいます。しかし、イエス様と昔の信仰の人々はどうでしたか。自尊心も高ぶりも自己中心的な考えもありませんでした。 イエス様は悪い人々が捕えようとしたとき被造物が、創造主の神様の御子を捕らえようとするのかと叱られませんでした。おとなしく神様の御心に従って捕らえられておとなしい羊のように、罪の為の生贄になってくださいました。自分というものが全くなかったからです。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:3-4) イエス様はこのようにさげすまれこのように裁かれても、その為苦しいと思ったのではありません。神様の愛を知らずに、十字架の意味を知らずに悪を行う人の子らを見て、もどかしい心で悲しんでおられました。代わりに執り成しの祈りをしてくださった愛のイエス様です。 どうして私をこのようにさげすむのか、こうして私をこんなふうに苦しめるのかと言われたのではありません。彼らが悪を行って滅びに向かう姿を見て悲しんでおられました。これが、自分の角がない姿です。 しかし、自分の角があって悪がある人は、人によって苦しめられると、その人を憎みます。悔しいと思います。しかし悪のない人は、相手が悪を行っている姿を見て、かわいそうに思うのです。善の心です。これが自分の角がない人、真理の角がある人です。 イザヤ53:7です。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。イエス様の犠牲と献身、自分というものがなく聞き従われた姿を表現しています。 聖書にある信仰の人々もそうでした。モーセはエジプトの王子だったときはどれ程自分の角が強かったでしょうか?同族を虐待するエジプトの人をその場で殺すほど短気な人でした。王子という身分があって全ての分野で自尊心もあったでしょう。自信も溢れていたでしょう。しかし40年間、羊を飼いながら試練の歳月を送った後は自分の角はなくなりました。地上の誰にも勝って非常に謙遜でありました。どんな人でも受け入れる人になりました。 アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、エリア、ダニエルもそうです。試練の過程を経て自分の角がなくなったので、ただ神様の御心に従いました。イエス様の弟子たちも聖霊を受けたあと、自分の角を捨てて、神様に大いに用いられる人になりました。自尊心、高ぶり、自分の主観など自分の角は信仰をもって聖められることを妨害します。こういうものは敵である悪魔、サタンが好きで、喜ぶものです。 そして、何の使い道もない塵あくたのようなものです。 マタイ10:39に、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」とあります。神の子供である私たちが、肉にあって死ねば霊にあっては生きます。信仰によって自分というものを捨てて、家庭と教会で、神の国のために低くなって使えるなら、神様が祝福してくださいます。これが霊的な法則です。 ルカ14:11に、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とあります。自尊心を捨てて低くなるとき、神様が高くしてくださいます。世の人の中には、力が足りなくて殴られたり、卑怯だから退く場合があります。今自分は力が弱いから、仕方なく抵抗できないし、殴られるし、退くのです。これは信仰の行ないではないから、神様が働いてくださることはできません。 ところが神の子供がマタイ5:39に、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」という御言葉に従って、相手と争うことをしないで、かえって負けてあげるなら、神様はそれを信仰の行いとしてみなして、勝利を与えてくださいます。御言葉に従って低くなろうとしたら、かえって高くしてくださり、すべてを働かせて、益としてくださいます。 このように自分の角を捨てて、真理の角が生きていなければなりません。自分の角を捨てていくほど、真理が強くなり、聖霊に導かれ、神様の御心に従うことができるのです。しかし、自分の主観にこだわる人は、神様の御言葉に従いません。サウル王は自分の考え通りに行って、御言葉に繰り返し聞き従わなかったので、結局退けられました。 ヨナも自分の角、自分の主観を捨てなかったから、御言葉に従えませんでした。 神様はニネベに行って、罪を悔い改めるように叫びなさいと命じました。しかし、ヨナはニネベが滅びるのを望んでいたから、神様の御言葉が自分の考えと合わなかったから、神様の御目を避けてタルシシュに逃げました。こういう場合は、肉の思いを打ち砕いて従うときまで、試練と苦しみは続くようになるのです。 ですから皆さんも神様の御心に逆らっていくとき、さらに厳しくなって試練が大きくなったりするのです。ですから、試練に遭ったときは、神様の前で自分を捨てて自分を徹底的に低くなってこそ、早く試練が終わります。つまり、自分の角を捨てることです。ヨナはそうできませんでした。 タルシシュに逃げようとしたのですが、神様が悟らせてくださって、ニネベに行って、悔い改めを宣言するようにしました。それで、王と民が悔い改めたら、神様は憐れんでくださったのです。しかし、ヨナはそれについて腹を立てました。皆さん、自分の心はどうなのか顧みますように、悪を行った人、罪を犯した人を神様が許してくださって、救ってくださったのを見ながら、それについて腹を立てたりする姿はありませんか。 どれほど悪い心でしょうか。私たちは、そういうことがあってはいけません。ただ、神様の御心に従っていかなければなりません。うわべでは、神の働きをしていても、心から神様に従えない人がいるなら、ヨナのような姿です。ヨナは、神様の憐れみと愛を深く悟ることができませんでした。私たちは、そうしないで、自分の角を捨てましょう。 まとめます。私たちが生まれて生きながら、学校や社会で学んだものの中で、御言葉や真理に逆らうすべてのもので、自分の角を形成しました。ところで、誰かがその角を傷つけるなら、気を悪くしたり腹を立てたりします。教養という角があります。進化論という理屈の角もあります。相手に勝たなければという自己中心的な考え方の角もあります。自分は人より優れているという高ぶりの角もあります。高ぶりの角のある人は威張って怒鳴ったりしますが、こういう人は、真理にあって自分の角を打ち砕いたら、謙遜になって態度も声も変わるのです。 ですから私たちは、自分の角を打ち砕いて神様の完全な子供になるためには、第2コリント10:5に、「様々な思弁と神の力に逆らい立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかり事をとりこにしてキリストに服従させなければなりません。」とあります。世の理屈や真理と反対のもので作った自分というものを完全に捨てなければなりません。そして、その角を引き抜く代わりに真理の角を植え付けて、真理が強くなって、真理が働いて、まことの永遠の命、祝福の道に行かなければなりません。 世では優れた知識を持って、一生懸命研究して新しいものを発明したり開発した人を知恵があると言います。こういう人の中では、自尊心、自分の主観、高ぶりという肉的な角にこだわる人がいます。しかし彼らが創造主の神様を見つけることができず、天国と地獄があることも知らないまま滅びに向かうなら、どうして知恵があると言えるでしょうか。 だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」また、次のようにも書いてあります。「主は知者の論議を無益だと知っておられる。」(第一コリント3:18-20) 私たちが神様の前で徹底的に自分を捨てて、聖い心の器を用意すれば、神様は上からまことの知恵をくださいます。しかし、真理の角のない人はまことの知恵もないから、肉的なことである自分の主観に従って自分を主張して生きるから、結局は滅びの道に向かうのです。 今ヨブも自尊心、自分の主観にこだわっていて、それを捨てないから友達と争っています。今ヨブは苦しんでいるのに、友達が自分を攻撃して間違っていると言うから自尊心が傷つくのです。だから、自分の角がちりの中に突き刺されたと言っていて、とても悲しんでつらく思っています。 ヨブは自分なりに正しく生きてきたのに、自分は優れていると思ったのに、その自尊心がけがれるのがあまりにもつらいのです。ヨブは、神様と友達のせいで自分の角が打ち砕かれたと思っています。だから、皮膚病で体が苦しいことや、財産と子どもを失ったことよりは、自分の自尊心が踏みにじられた苦しみの方が大きかったのです。続く御言葉を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほどだったのかがわかります。それは次の時間に調べてみましょう。 愛する聖徒の皆さん、結論です。聖書で自尊心を捨てて栄えた人と、むなしい自尊心のため滅びた人がいます。ダビデとサウル王の例を挙げられます。ダビデはサウル王から逃れて、ペリシテに属するガデの王のアキシュのところに行ったことがあります。ところでペリシテはイスラエルの敵国だったから、以前イスラエルの軍隊の長だったダビデはペリシテ人をたくさん殺しました。ですからペリシテでは亡命してきたタビデを疑ったでしょう。 それでタビデはどうしたでしょうか。ペリシテに行けば、自分はそう疑われることを知っていたでしょう。それでその場でタビデはどうしたでしょうか。彼らの前で彼らを安心させるために気が違ったかのように振る舞って狂った振りをして門の扉を傷つけたり、髭によだれを流したりしました。それを見た人々はタビデをさげすんでタビデは命が守られました。 もしタビデがペリシテ人のゴリアテを打ち殺したという自尊心を持って、イスラエルの軍隊の長だったその高ぶりを持ったままならば、その場で殺されたかもしれません。しかしタビデはそうしませんでした。今自分がもし態度を変えなければ殺されるかもと思ったから、低くなって狂った振りをして、気が違ったかのように振舞いました。それで命が守られました。ダビデはいらない自尊心は捨ててしまったのです。 しかしある人は自尊心を自分の命のように大事に思う人もいます。自分は死んでも自尊心は捨てられないと思う人もいます。しかしそれはどれ程愚かなことでしょうか。人の前で自分は自尊心を主張していても、それは知恵でもないし善でもありません。だからといって卑怯に振舞いなさいという意味ではありません。何が善で悪なのかを正確に見分けて、自尊心を捨てて善を選ぶ姿が必要です。ダビデは自尊心を捨てて知恵を持って行ったので、後の日イスラエルの王になりました。 しかしサウル王は虚しい自尊心を重んじてしまい滅びました。神様の御言葉に聞き従わなかった時、サムエルが指摘したのにサウル王は悔改めるどころか、民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。 今、神様はサウル王を退けるとまで警告なさったのに、サウル王は悔い改めなかったのです。そして民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。神様の前でどうするかよりは人の前でどう見えるかを気にしていたのです。その結果サウルは神様に退けられるしかなかったし、ペリシテとの戦いでみじめに死にました。 このように虚しい自尊心は滅びに引いていきます。ヤコブの手紙4:6に「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあり、箴言18:12に「人の心の傲慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。ですから、私たちは自尊心・高ぶり・自己中心的な考え・欲などいらない自分の角を完全に捨てて、謙遜な心になって栄誉を得ますよう主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(42)-自分の角を捨てよう」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:12~15

愛する聖徒の皆さん、前回、ヨブは友達が自分を卑しめて立ち向かっていると言いながらそれも、神様がそのようにしむけられたと神様のせいにしていました。自分に過ちがあるのではないか探そうとしないで、神様と友達のせいにしているから、更に辛くなって試練は終わりません。ヨブは真理を正確に知っていなかったし、神様を見つけた体験もなかったので、すべてのことで神様を裁いていました。

しかし私たちは真理を聞いてよく知っています。神様の恵みも体験したのですべての問題の原因を自分から見つけて、速やかに神様の恵みを回復しなければなりません。たとえ問題の原因が人にある場合があっても、その解決の鍵は私たちが神様の御言葉に聞き従うことにあります。ですからすべてのことについて感謝しなさいという御言葉に聞き従って、感謝の祈りを捧げますように。

 

それを神様が喜ばれ、すべてのことを働かせて益としてくださるでしょう。敵をも愛しなさいと言われました。そしてその御言葉に聞き従うなら神様が働いてくださるのです。それが神様が望んでおられる子供であり、そういう子供を神様は守って祝福してくださるのです。

祈るときは、「神様私を導いてください。」と祈りますが、しかし神様が導こうとされるときは、聞き従わない姿があるのです。自分が毎日一瞬一瞬を神様の前に捧げないで、自分がしたいとおりにするのです。自分がやりたいことをして自分が願うことをしていながら、神様私を導いてくださいと言うなら神様が喜ばれるでしょうか。自分が真理の中を歩んでいて御言葉、真理に従うとき、神様が導いてくださるのです。

ですから私たちはヨブ記講解を聞いて、自分がどのくらい御言葉通りに生きているのか顧みますように。環境のせいにしたり人のせいにしているなら、それは神様にゆだねる姿ではありません。神様の前で低くなって、すべての問題の原因を自分から見つけますように。今日もメッセージを聞いて自分を発見して変えられて、いのちを得ますように。

「私は安らかな身であったが、神は私を打ち砕き、私の首をつかまえて粉々にし、私を立ててご自分の的とされた。その射手たちは私を巡り囲み、神は私の内臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した。」(ヨブ16:12-13)

ヨブは試練に会う前は家族も仲良かったし平安で裕福でした。そうだった自分を神様が打ち砕いて惨めな身にしたと表現しています。昔人々は鶏を屠るとき、若者の皆さんは見たことがないと思いますが、大人の皆さんは田舎でそういう姿を見たことがあるかもしれません。市場でもそのような姿があったと思います。見てみると鶏を屠る時、首を折っていました。 ヨブは神様がそんな風に自分の首を捕まえて粉々にしたと表現しています。ヨブは自分がされたことを考えてみたら、神様は悪い方で無慈悲な方だと思いました。このように神様についてとんでもない誤解をして悪評を言っています。 人の体を見てみると首は頭を支えている台のようです。頭は高さと威厳と誇りを象徴します。ところでこのような頭を支えている首が砕かれたならどうなるでしょうか。これはヨブの心や意志を、神様がへし折ってしまったと言っているのです。それで弱くなるしかなかったと言っているのです。そしてヨブは神様が自分を立てて御自分の的とされたと言っています。 昔、中世時代とかを見てみると、矢を武器として使う時がありました。敵軍を捕まえた時、でなければ誰かを苦しめる時、権力と力がある人が弱い人を苦しめる時どうしますか。その人を立たしておいて的代わりにするのです。矢を射る時は丸い的の中を射るのですが、人を的のようにしていたずらをしたり、実際殺したりすることも、映画とか小説の中であったと思います。今ヨブは神様が自分をそのように的にして苦しめている、殺そうとしていると言っているのです。 それだけではなく、神様の射手達が自分を巡り囲んで、自分の内臓を容赦なく射抜いて、胆汁を地に流したとまで言っています。ヨブは今神様が自分をどんな風に苦しめているのか、自分が受けている苦しみがどうなのか、一つ一つ例えを挙げて説明しています。矢を射ることはターゲットを当てて倒すためです。ここでヨブが言っている射手達は、神様の心の矢を言っています。神様の心が矢になって、射手達が自分を巡り囲み攻撃していると言っています。そして神様が容赦なく自分の内臓を射抜いたと言っています。 これはヨブがあまりにも苦しいからこのように表現しているのです。すべての財産と子供も失ったし、妻も自分から離れてしまい、友達にも蔑まれているから、ヨブはどこを見ても自分を助ける人はいないのです。内臓を射抜いたと言うのは主体性を失ったことを意味します。人の体の中で首に怪我をするならその舌は使うことができます。ギブスをしたりしても歩いたり手を使ったりすることはできますね。首だけ怪我をすればそうなります。そして足を折ったら足は使えないのですが、上体は使えます。しかし内臓が壊れたら全身が使えなくなります。 このようにヨブは首も砕かれてしまって、つまり自分の意志も挫けてしまったし、神様が内臓を射抜いてしまったから全身が使えなくなった。満身創痍になったと言っています。そして胆中を地に流したとは、ヨブの心の苦しみがそれだけ苦いということを意味します。ヨブは神様を体験することがなかったから、このように苦い思いをしているのは神様のせいだと表現しています。 神様を信じない世の人や、まだ信仰が弱い人々は、生きていてこのような苦しみを訴えるときがあります。しかし、神の子供たちは、たとえ事業がつぶれても、子供がぐれても、病気になっても、四方八方から苦しめられても、感謝を失ってはいけません。詩編50:23に、「感謝のいけにえをささげる人は、私をあがめよう。その道を正しくする人に、私は神の救いを見せよう。」とあります。たとえ悲しいことやつらいことがあっても、心から感謝の祈りを捧げてみてください。その心の香りを受け入れられた神様が、炎のような御目で皆様を守り、救い出してくださるでしょう。ですから、どんな試練にあったとしても、速やかに悔い改めて立ち返って、真理の中を歩みますように。 そうすると、全知全能の神様が行く道を導いてくださり、全てを働かせて益としてくださるから、 私たちはその神様を信じて感謝すればいいのです。なぜ感謝できるのでしょうか。救われたから、天国があるからです。今、目の前に苦しみがあって、試練があっても、大きい問題にぶつかっていて、つらい思いをしていて、ここから抜け出せないように思うかもしれませんが、神様は生きておられます。 神様が私たちのために天国を備えておられます。救ってくださったから、それだけでも感謝できます。目に見える環境や状況を見れば、感謝することができそうにないのですが、しかし霊的な視線から見れば感謝できます。 多くの人がこのようなメッセージを聞いて感謝しようとしても、口では感謝しますと言っても、心から感謝しない人は、行いが伴わないのです。教会に来て礼拝するときや、祈るときは感謝します。どんな試練があっても、これからは喜べますと祈りました。 しかし、次の日、朝会社に行ってまた同じ問題にぶつかったら、感謝を失ってしまうのです。呟いたり、文句を言ったりします。それは信仰がある人の姿ではありません。いくら抜け出せないような苦しみにあっても心から神様の前に感謝する人は、神様の救いを体験するようになります。 主が尊い血で救ってくださった、その喜びがいつも溢れているなら、神様はそれをご覧になり、問題を解決してくださいます。そして私たちには、天国への希望があります。だからその喜びは、世のどんなものも奪うことはできません。その喜びによって世に打ち勝つことができます。しかし、ヨブにはそういう信仰がありませんでした。神様を見つける体験がなかったからです。全き信仰がなかったから、神様を誤解して呟いて嘆いているのです。 しかし私たちは、神様を見つけました。体験しました。皆さん、神様を見たことがないと言うでしょうか。いいえ、私たちは見ました。体験しました。神の力を体験したでしょう。 今日、教会に来た時、ある方が証をして感謝していました。2005年にこの教会に来たのですが、この方は腰が曲がっていました。今から18年前ですね。 その時は今より若かったのですが、腰が曲がっていました。そして後遺症によってとても痛くて、お酒を飲まなければその苦しみを忘れることができないから、眠れないからアルコール依存症になってしまいました。それであちこちの教会にも通ったり、宗教に頼ったりしたのですが、癒されなかったのです。 しかし、伝道されて万民教会に来たのです。何か信じようとしてきたよりはただ連れられてきたのですが、礼拝の後、その夜からお酒が飲みたくなくなって、お酒を飲まなくてもぐっすり眠れたそうです。しかし痛みは相変わらずありました。その次の月に癒しの集会がありましたね。それで、癒しの集会のとき癒されたという証を聞いたのですが、自分はそれが信じられなかったそうです。確かにアルコール依存症の症状がなくなったのに、信仰が持てなかったのです。 それでも癒しの集会に参加はしたそうです。その時は服装もきちんとしていなかったし、あまり慕う心もないまま疑いながらも一度来てみたそうです。しかし癒しの集会のとき、祈りを受けて痛みがなくなって健康になったのです。それでその後から熱心に伝道したそうです。そして今も多くの人を伝道したいですと、祈りをお願いしますと言っていました。 それで私がマガジンで証されましたかと聞いたら、してないそうです。こんなに驚くべき証があるのに、紹介されていないんだと思いました。このようにこの教会では、証が溢れているのです。神様が癒してくださったとき、唯、癒された感じがすると感じただけではありません。実際痛みはなくなったし、実際ぐっすり眠れたのですね。この方も他の教会に通っていたのですが、癒されなかったのに、ここに来て癒されたのではありませんか。 どれほど驚くべき神の力ある業を私たちは体験しているのでしょうか。これは神様を見たことと同じではありませんか。だから全き信仰を持つべきなのに。それなら、いくら環境が良くなくても、感謝を失うことはないでしょう。 しかし、ヨブは真理を正確に知らなかったし、神様を見つける体験がなかったから神様を誤解していたし、あまりにも厳しい試練だったから嘆いていたのですが、皆さんは違うでしょう。だから私たちはいつも感謝しなければなりません。 「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」(ヨブ16:14) 続く本文を見ると、ヨブの表現はあまりにも相応しくないし、おかしいです。ヨブ16:14です。「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」とあります。前にもたとえを挙げて説明しましたが、もし3,4才の子供が大きい大人につっかかるなら、大人はただ避けてしまうでしょう。まして全知全能の創造主の神様が、被造物に過ぎないヨブをどうして打ち破って、勇士のように馳せかかるでしょうか。 ヨブは神様の心がわからないから、このようにとんでもない誤解をするのです。意外と多くの人が信仰生活をしながら、神様が私をこのように試みられたとか、神様が私に試練を与えたとか、病気を与えたとか、そういうように表現する人がいます。自分の欠けているところによって、いろいろ苦しみにあって試練にあっているのに、神様は自分を打っておられるという場合もあります。試練にあって失敗した原因が自分にあるのに、神様が自分を打ったと言いながら、神様を怖い神様のように思うのです。 ヨブの場合も、神様が何の理由もなくヨブを打ち破られたのではありません。ヨブの悪のため、試練が続いているのです。もし、ヨブの友達が指摘したときヨブがそれを受け入れて、自分から原因を見つけようとしたなら、神様は恵みをくださったでしょう。ヨブの欠けているところを悟って立ち返るように、強くしてくださったでしょう。そして、過去の健康も祝福も回復させてくださったでしょう。 しかし、ヨブは問題の原因を人のせいにして、続けて悪を行って、試練が長くなっています。悪を行うほど、サタンに訴えられるから、試練と苦しみは続くのです。ヨブは、練られるべき理由があるから、そうなったのに、すべてを神様のせいにしていたから、神様を悪い神様のように、恐ろしい神様のように感じていました。 聖徒の皆さんは、自分の試練が長引いているなら、自分の心に悪がそれだけあるということを悟りますように。そして、問題の原因を自分から見つけていないということを悟りますように。環境のせいにしたり、家族のせいにしたり、人のせいにすることは悪です。それによって、試練は続くのです。だから、自分を顧みて自分が変えられてこそ問題が解決されるのです。 試練がやってきたとき、速やかに乗り越える方法は、自分をまず顧みて自分を発見して変えられることです。自分の欠けているところを満たしたり直すことです。ただ、感謝しますと言っていても何もしていない姿ではなくて、変えられようと努力しなければなりません。すると試練が終わって、祝福が臨みます。

「ヨブ記講解(41)-原因を自分の中から見つけよう」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:10~11
 

前回に続き、すべての問題の原因を自分の中から見つけて、悔い改めて立ち返るとき、すみやかに神様の恵みを回復することができるということを伝えます。

1. 劣等感から友だちと神様を誤解するヨブ

「彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。」(ヨブ16:10)
ここで「彼ら」とは、ヨブの友だちを指しています。友だちが自分に向かって「口を大きくあけるとは、否定的な表現です。今まで友だちの言葉がヨブを慰めるのではなく、かえって悩ませて傷つけたからです。
友だちが「自分をそしった」と表現したのも、これまで彼らがヨブを攻撃して傷つけるような激しい言葉を口にしたからです。そして、友だちが実際にヨブの頬を打ったのではなく、ヨブは友だちの話を聞いて侮辱されたようだったし、苦しみが極みに達したので、頬を打たれたように感じたということです。


まだヨブは、今の低くなった姿ではなく、昔、栄えていた時のことを考えています。前は友だちが自分を尊敬して仕えてくれていたのに、今は自分を侮って、あざけっているように感じられました。
神様に対するヨブの感じも同じです。ヨブは、前は神様から愛されて祝福されていたのに、今はあまりにも違う現実の中でいじけていました。だから、理由もなく神様が目をぎらつかせているようだし、自分を引き裂いて攻めたて、歯ぎしりしているように感じているのです(ヨブ16:9)。

仮に皆さんが事業で不渡りを出すとか、突然職場を失って厳しい境遇に置かれているとしましょう。すると周りの人々がそれとなく自分を蔑んでいるようだし、避けようとしているように感じられます。周りの人の心はそうではないのに、自分が劣等感を持って誤解してストレスを受けているから、前とは違うようだと感じることがよくあります。
 

別の例として、職場で同じ平社員だった同僚が、ある日昇進したとしましょう。自分はまだ下っぱなのに、同僚は先に昇進したから、うらやましくもあり、何となくおもしろくありません。それに昇進した同僚が自分を無視しているようで、ひねくれて仕事をする意欲まで失ってしまいます。 また、友だちは良い大学に合格したのに自分は浪人することになったとき、心はどうでしょうか。友だちは前と同じように自分に接しているのに、なぜか自分を見くびっているように感じて、友だちを遠ざけるなら、これもまた自分の思い込みによる劣等感のせいなのです。 このように、夫婦の間や友だちの間で、また隣人との間でも、自分の思い込みでさばいて誤解することがどれほど多いでしょうか。 これは信仰にあっても同じです。他の働き人が認められてほめられると、やる気がなくなります。その人と比べて自分は頭も良くないし、裕福でもないからと思って落ち込んでしまいます。そして、その人が自分を無視しているようでおもしろくありません。これらは全部、自分の悪から出てくる肉の思いなのです。 2. 問題の原因を他に見つけるから解決されない場合 ヨブは自分が惨めな身の上になった原因を神様のせいにしているので、問題を解決する道が見つけられないのです。 同じように、信仰にあっても問題の原因を他に見つけるから解決されないことがあります。自分がある人をさばいて罪に定め、噂話をしてつまずかせて、それによって周りの人々が嫌な思いをしたのに、自分は悪い人だと誤解されていると思うなら、問題は解決されません。自分が平和を壊して問題の原因を作ったのに、それに気がつかないのです。 また、自分が真理のとおりに行えなくて問題が起こったのに、「神様は私に大きい祝福を与えようと試練に会わせてくださっているのだ」と錯覚して、神様がそうされていると思うのです。このように神様のせい、人のせいだけにしていれば、聖霊の声が聞けないから、問題を解決することができません。 ヤコブ1:13に「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。 もちろん、神様はアブラハムにイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたように、祝福を与えるためにテストなさる場合もあります。みことばどおりに生きているのに試練に会ったとすれば、喜んで感謝すれば、神様が必ずすべてのことを働かせて益としてくださり、さらに大きい祝福を与えて報いてくださいます。 しかし、自分の過ちによって会う試練を、まるで神様が下さった祝福の試練であるかのように誤解することがあってはならないでしょう。 3. まことの祝福を与えるために練られる神様 「神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」(ヨブ16:11) ヨブは友だちのことを「小僧っ子」「悪者」と呼んで、神様が自分を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれると言っています。これも問題の原因を神様になすりつけているのです。 神様はヨブをそんな者の手に渡されたことはありません。神様がサタンの訴えを聞き入れられたのは、ヨブの財産と子どもとヨブの身を打つことだけでした。その後は見守っておられただけです。 神様がヨブを苦しめたのではなく、試練を通してヨブの隠されていた悪が現れるようになったのです。そして、これをきっかけにヨブが悪を捨てて神様を見つけるようになるので、ヨブを練られたのです。 ヨブは先祖たちから神様について聞いて知っていただけで、神様を見つけて体験したことはありませんでした。しかし、試練を通して神様を見つけるなら、聞いて知っている知識的な信仰ではなく、心で信じられる霊の信仰を持てるようになるのです。 ただ神様について聞いて知っているから神様を恐れる信仰と、神様の全知全能であることと愛を体験して神様を信じる信仰とでは、大きい違いがあります。 もしヨブがこのような厳しい試練に会わなかったとすれば、前のようにそれなりに祝福は受けていたでしょう。行いでは神様の前に誠実に全焼のいけにえをささげ、隣人に徳と善を施していたからです。しかし、神様を見つけて体験し、罪を発見して捨てて聖められる、霊的な祝福は受けることはできなかったでしょう。 ヨブは試練を通して罪の性質を発見して捨てることでまことの祝福を受けられるので、神様は試練に会わせられたのです。たましいに幸いを得ていてこそ、この地上でもさらに大きい祝福を受けるだけでなく、天国でも太陽のように輝く場所に入れるからです。 4. 試練を早く終わらせるには 神様が試練に会わせられたとき、その試練が早く終わるか長びくか、試練が厳しいか軽いかは、その人の心にかかっています。心にどれほど善か悪が多いかによって違うのです。 悪が多いなら、試練に会ったときその悪を現すので、試練が長びきます。反対に、善が多くて、どんなことにあっても信仰を見せて喜び、祈って、感謝して、変わらない忠実で神様に喜ばれるなら、神様がすみやかに敵である悪魔・サタンの陣を打ち砕いて、祝福してくださいます。 しかし、多くの聖徒が試練の中でまことの信仰を見せることができなくて、つぶやいたり、嘆いたり、憎んだり、争ったりなど、悪が現れます。この時も、私たちの神様は一人一人が試練を通して変えられるまで忍耐深く待ってくださいます。 聖徒たちはイエス・キリストを受け入れて、みことばどおりに生きているつもりでも、時には欠けた姿もあり、つまずく時もあります。こういう姿を見て、神様が「あなたには罪がある」と直ちにさばかれるなら、果たして救われる人が何人いるでしょうか。 しかし、愛なる神様はすべての人が悔い改めて立ち返り、真理の中を歩むのを忍耐深く待っておられます。第二ペテロ3:9に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあるとおりです。 そして、聖霊も私たちの心をたたいて真理に導いてくださるので、みことばどおりに生きていない時は心が苦しくなるのです。それでも聞き従わなければ、いろいろな試練や患難がやって来ます。そして、これを通して私たちは純金のように出てくるのです。 ですから、試練に会わせられるのも神様の愛です。このような神様の心を悟って、いつも真理で見分けて、問題の原因を自分の中から見つけて、神様の前にさらに完全な姿にならなければなりません。 しかし、ヨブはこのような神様の愛を悟れなかったので、つぶやいて誤解しました。 もし友だちが最初ヨブに助言したとき、ヨブが「そうだ、あなたがたの言うことは正しい。私がこんな試練に会ったのは自分に原因があるからだろう。言われたとおりに祈りながら、神様の前に自分の過ちを発見しよう」と答えたとすれば、友だちがヨブをあれほど責め立てたでしょうか。ヨブが自分は正しいと言って、友だちの助言を無視して、神様に立ち向かっていったから、友だちは腹を立ててヨブを攻撃したのです。 もしヨブが友だちの助言を受け入れていたなら、友だちはヨブをもっと愛して慰めてくれたでしょう。つまり、神様がヨブを友だちの手に渡したのではなく、ヨブは自分の悪のため自分で苦しみを招いたのです。 ヨブの友だちも同じです。ヨブの言葉に感情的になって手向かったので、ヨブはますます心の戸を閉ざしたのです。結局、ヨブと友だちはどちらも自分の悪のため、自分から苦しみの沼に落ちていったのです。 もしヨブが自分を発見して立ち返ろうとしたならば、神様が恵みを与えて、悟って立ち返るように助けてくださったでしょう。ヨブの皮膚病も、神様は一瞬でいやしてくださったでしょう。 何か問題が起こったとき、私たちは原因を人のせいにしないで、自分の中から見つけなければなりません。みことばで自分を照らして、心から悔い改めて立ち返ると、神様は必ず問題を解決して、祝福してくださいます。 したがって、すべての問題の原因を自分の中から見つけて、すみやかに神様の恵みを回復し、どんな状況でもただ信仰の告白、感謝の告白をして神様のみわざを引き下ろしますよう、主の御名によって祈ります

「ヨブ記講解(40)-人のせいにするのはやめよう」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:7~9
 

きょうは、すべての問題の原因が自分にあることを悟って、神様のみことばから答えを見つけなければならないことを伝えます。

1. すべてを神様のせいにするヨブ

「まことに神は今、私を疲れさせた。あなたは私の仲間の者をことごとく荒らされました。」(ヨブ16:7)
ヨブは自分が疲れたのも、友だちが荒らされたのも、すべて神様がそうなさったのだと言っています。
「疲れる」とは、辞書では「体力や気力を消耗してその働きが衰える。くたびれる。」という意味ですが、霊的には心の元気がなくなった状態をいいます。その時、悔い改めて回復しなければ、もっとひどくなって、何もできない無気力な状態、意欲が失われた状態にまでなります。
信仰生活をしている人の中でも、試練や患難に会ったら、それを解決するためにあらゆる努力をしてみて、解決されなければ、疲れてしまう人がいます。忠実に奉仕する意欲も、伝道する意欲も、祈る意欲もなくなって、悩み、焦り、不安に捕われるのです。この状態がさらにひどくなると、生きる意欲さえなくなってしまいます。


使徒パウロも罪との戦いで最も苦しかった時に「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言いました。このように自分の力ではとうてい解決できない状態を「疲れた」というのです。
「荒らす」の辞書の意味は「乱雑な状態にする。傷つけたり壊したりする。いため傷つける。」ですが、霊的には「心がかき乱されて人の道理から外れること、真理の道から外れること」を意味します
 

ヨブは、神様が自分を打たれたので、疲れて無気力になっただけでなく、自分の仲間の者が道理から外れてとんでもない言葉と行動で自分を責めたてている、彼らの心が荒らされた原因も全部神様にあると言っています。友だちが興奮したのは、元を言えば自分たちの悪が原因ですが、その悪を刺激して動き出すようにしたのは、ヨブが激しい言葉を口にしたからです。ところが、ヨブはこのことを悟れないまま、神様が友だちを荒らされたと主張しています。 2. すべての問題の原因は自分にあることを悟るべき 世の人の中には、神の存在を信じもしないのに、試練に会うと天に向かって恨む人が実に多いです。たとえば、農作業をしていて雨が降らなくて作物が育たないと、「天もあんまりだ」と言って、信じもしない神を恨んで不平を言います。 無神論者や信仰の少ない人は「神様はなぜエデンの園に善悪の知識の木を置いて、人が罪を犯すようにしたのか」「神様は愛の豊かな方だといいながら、なぜ恐ろしい地獄を造られたのか」と問い詰めたりもします。自分が罪と悪を行っているので、ひょっとして存在するかもしれない後の世に対する恐れから、神様を悪い神様だと罵倒します。 もっとひどい時は、神様のみわざが現れると、「間違っている、偽りだ」と迫害するのです。神様のみわざが偽りであってこそ後の世はないと思うからであって、それでこそ好きなように罪を犯すことができるからです。 クリスチャンの中にも、真理をよく知らなくて神様を誤解して、問題の原因をとんでもないところで探す場合が多いです。世にいた時は、罪を犯していても良心の呵責を感じませんでした。ところが、教会に来てみことばを聞いて、罪について指摘されると「信仰生活はあまりにもきつい」 「みことばどおり行うのは難しい」と言います。自分がみことばを守らないで罪を犯しているから苦しいのに、教会のせいにするのです。 また、教会で奉仕をしていて、働き人との間で平和が壊れたり、人によってつまずいたりしたとき、相手のせいで熱心が冷めたと言う人もいます。しかし、これも自分が平和をつくれなったからであり、神様を第一に愛していなかったから奉仕をやめたのです。 ある聖徒は「神様を信じれば祝福されると聞いたのに、なぜ私は祝福されないのですか」と聞きますが、これもまた神様のみことばをあまりにも知らないからです。 申命記28章には、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられ、すべての祝福があなたに臨む、と書いてあります。 第三ヨハネ1:2には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。これを逆に言えば、たましいに幸いを得ていないからすべての点でも幸いを得ていないし、健康ではないということです。 また、ガラテヤ6:7に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあるので、蒔かなければ刈り取ることはできません。祈りを蒔けばたましいに幸いを得て、物質を蒔けば物質の祝福を受けます。奉仕を蒔けば健康になるなど、何でも蒔いたとおりに刈り取るので、祝福を受けようとするなら、信仰によって熱心に蒔かなければなりません。 また、神様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」 「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。ですから、自分の信仰が霊の信仰か肉の信仰か、霊の信仰がどれぐらいあるかによって、実が違ってくるしかないのです。もし求めても答えを受けられなかったとすれば、自分が真理のみことばを守って生きていないし、心と思いを世に寄せているからなのです。 このように、すべての原因は自分自身にあることを知っておくべきです。神様は約束されたことを間違いなく成し遂げられる方だからです(民数記23:19)。 3. 真理のみことばから答えを見つけるべき 「あなたは私を、つかみました。私のやせ衰えた姿が、証人となり、私に向かって立ち、面と向かって答えをします。」(ヨブ16:8) 花を折れば、その花はすでにいのちの源である根から離れたので、時間が経つとしおれてしまいます。同じように、ヨブは自分のいのちの根源だった財産と家族と健康と子どもなどを神様が打たれたので、自分はその過程で疲れてやせ衰えてしまったというのです。 ヨブは、なぜこんな試練と患難が自分に臨んだのか、原因を知ろうともしないし、友だちの話を聞こうともしないから、悟れませんでした。真理のみことばに照らしてみれば、必ず自分の何が問題だったのかが明らかになるはずです。 もし発見できないなら、祈りと断食をしてでも悟ろうと努力するとき、必ず聖霊が悟れるように助けてくださいます。そして、悟ったら悔い改めて立ち返れば、神様が憐れんでくださるのです。 私たちは神様のみことばを基準として、すべてにおいて自分の感情に左右されたり、自分の考えに合わせたりせず、相手の立場で考えるべきです。結局は問題の原因を他人のせいにしないで、自分のせいにするとき解決される、ということを心に留めなければなりません。 霊的に「やせ衰える」とは、完全にへたり込むことをいいます。木から幹が切られてしまった状態、または太陽が雲におおわれた状態のように、いのちの源がなくなった状態をいいます。 ヨブは財産も健康も家族もなくなったし、友だちさえ敵になってしまいました。それで「私がこのように疲れてやせ衰えたのは、神様が私を打たれたからです。ところが、友だちは私の姿を見て、私が犯した罪のせいで罰を受けたのだと言っています」というのです。友だちに誤解されて悔しいのです。 ヨブは、自分は正しい人なのに、このように途方もない試練、患難に会ったのは、全知全能の神様だけがおできになることだと言って、すべてを神様のせいにしています。だから、心にある神様への不満や不平、恨みなどを言いたい放題言っているのです。 韓国のことわざに「うまくいけば自分のおかげ、失敗すれば先祖のせい」という言葉があるように、多くの人が事がうまくいけば自分がよくやったからだと言い、うまくいかなければ他人のせい、環境のせいにします。 しかし、自分の目には正しいようでも、神様のみことばに照らしてみれば、必ず真理から外れた事をしたから問題が生じるのです。神様のみことばに聞き従う人は知恵があって、賢く対処するので、詐欺にあうこともありません。人が詐欺にあう場合は、ほとんどが物質への欲や自分の利益を求める心のせいです(ヤコブ1:15,第一テモテ6:10)。 保証人になって問題が起こる場合も同じです。神様は聖書のあちこちで保証人になることを禁じておられます(箴言6:1-2,箴言22:26,箴言11:15)。今すぐは保証人になってあげないと、兄弟や友だちを危険から助け出さないようだし、裏切るように見えても、結果を見ればそうではありません。後で見れば、それが家族を救う道であり、友だちをそれ以上滅びないようにする道なので、神様は保証人になってはならないと言われたのです。 聖徒の間のお金の取引も同じです。ローマ13:8に「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」とあります。ですから、保証人になってほしいと頼んだり、お金の取引を持ちかけてはならないし、何より教会の中でこういう事があってはいけません。 「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。」(ヨブ16:9) 神様が怒って自分を引き裂いていると言ったのは、ヨブが今、皮膚病の傷が固まっては崩れるを繰り返しているからです。 「攻めたてる」とは、辞書では「激しく攻める、しきりに攻撃する」という意味です。霊的には、神様がヨブの罪を繰り返し取り上げては非難しておられる、という意味です。つまり、神様が自分を迫害していると言っているのです。 それだけでなく、神様が自分に向かって歯ぎしりし、続けて攻めたてて、目をぎらつかせて自分をにらんでいるというのです。つまり、神様がヨブを敵とみなして、続けて攻撃して苦しめているということです。ヨブは、病気がよくならないで苦しみが続くので、こんな表現をしています。 しかし、偉大な創造主の神様が、しかも愛と善そのものである神様が、どうして被造物ひとりをターゲットにして、歯ぎしりして攻撃なさるでしょうか。私たちはどんなに大変でつらいことに会っても、決してヨブのように神様を恨んだり、暴言を吐いたりしてはいけません。 耐えがたいことに会えば、自分の中に深く潜んでいた悪が現れて、前は想像もできなかった悪があふれ出るのが試練の時間です。この時「私はこんな人じゃなかったのに…」と思って、環境と他人のせいにしてはいけません。自分でも知らなかった悪い姿を発見したので、必ず捨てて変えられようと決心して努力すればいいのです。そうするとき、深いところにあった悪も、本性の中の罪の性質も捨てることができるのです。 もしかして自分に人のせいにする心や、真実でない心はないのか、いつも神様のみことばに照らしてみますように(詩篇119:105)。そして、どんな試練や問題の前でも、真理の光に導かれて栄える祝福を受けますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(39) -むなしいことば」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:1~6
 

むなしい」とは、空虚である、内容がない、無益である、根拠がない、という意味です。ヨブはきょうはむなしいことばの無益さと、御霊の人と肉の人の違いについて伝えます。

1. むなしいことば

「ヨブは答えて言った。そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。」(ヨブ16:1-3)
15章ではエリファズが論じ、16章からはヨブがその言葉を受けて、もう一度自分の言い分を語ります。これまでヨブの友だちがヨブにあれこれ言ったことは、ヨブもすでに先祖から聞いてよく知っている、何度も聞いたと言っています。


それでは、ヨブはなぜ友だちを「煩わしい慰め手だ。」と表現したのでしょうか。
「慰め」とは、何かをして一時の悲しみや苦しみをまぎらわせる、心を楽しませる、心をなごやかに静めるという意味です。ヨブの友だちはヨブの慰め手ではありませんでした。むしろヨブを怒らせて傷つけ、悩ませるだけだったのです。友だちはヨブを責めたてたので、ヨブがその言葉を聞きながら自分について考えると、頭が痛くなりました。だから、友だちの言葉によってかえってストレスを受けているのです。
これは信仰の兄弟の間でも気をつけなければなりません。相手が自分の言葉を受け入れないなら、かえって逆効果になります。ですから、自分の言葉のせいで相手が誤解して煩わしいと感じるなら、いっそ黙って待つ方がよいのです。

「なぜ友だちの助言を「むなしいことば」だと言い切っているのでしょうか。それは、友だちの行いが手本になっていなかったからです。
 

これは主にあってもとても大切です。たとえば、真理の中で生きていて手本になるような人が伝道すれば、人々は心の戸を開いて福音を受け入れるでしょう。また、祝福されている人が「神様を信じれば祝福されます」と大胆に伝えることができるし、これを聞いた人も「あなたを見ていたら私も教会に行きたくなります」と答えるでしょう。 反対に、言葉と行いが正しくないし、神様の栄光を遮っている人が伝道するなら、「あなたこそしっかりやれば」とあざ笑われるようになります。このように、何の役にも立たない言葉が「むなしいことば」なのです。 ヨブは友だちの言葉がむなしいと言いながら「あなたは何に興奮して答えるのか。」と問い詰めます。ヨブの友だちは何のためにこのように興奮したのでしょうか。 まず、ヨブが神様の前に不遜なことを言ったし、これに対して友だちが熱心にアドバイスをしたのに、ヨブは無視しただけでなく、神様を悪い神様だとののしりました。その一方で自分は正しいと主張するから、友だちはこんなヨブが嫌になって、ますます腹が立って興奮したのです。 しかし、ヨブは自分がこのように原因を提供をしたことに気づいていないので、友だちに「なぜそんなに腹を立ててむなしいことを言っているのか」と質問しています。その上、自分は相変わらず正しくて完全だと信じていたので、友だちが興奮しているのが理解できなかったのです。 このように、話をしていて相手がいら立つなら、両方に問題があることを覚えておくべきです。神様は「敵をも愛しなさい」「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言われ、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、」「いつも善を行うよう務めなさい。」と言われました。また「いつも喜んでいなさい。」「すべての事について、感謝しなさい。」とも言われました。このようなみことばが霊の糧となっていれば、悪口を言われても、誤解されても、真理で心を守ることができます。 ひょっとして自分に過ちがあって非難されたなら、悔い改めて立ち返ればいいし、訳もないのにそんなことを言われたなら、自分が真理に逆らっていないので、心は安らかでいられるのです。このように、真理に従って神様の前に喜んでいて感謝するなら、敵である悪魔・サタンが退くし、神様が喜ばれるので祝福が臨むようになるのです。 反対に、そういう言葉のためにカッとなったり、気を悪くしたり、傷ついたりするなら、これは自分の中に悪があるので、サタンのしわざを受けているということです。 2. 互いに立場を変えてみようと提案するヨブ 「私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。」(ヨブ16:4-5) ここで「ことばを連ねる」とは、行いはないのに、自分たちの思い込みや憶測によってしゃべり続けるという意味です。つまり、友だちがヨブの立場で考えて話をするのではなく、自分たちの憶測で勝手にヨブを責めているというのです。 だから、ヨブは友だちの話が自分とは関係のない話だと思うので、互いに立場を変えてみようと提案します。「もしあなたがたが私の立場で、あなたがたの悪い心が私にあるなら、私もあなたがたを攻撃して、あなたがたが興奮するように悪口を浴びせただろう」というのです。 しかし、ヨブは、自分はむしろ彼らに励ましの言葉で慰めてあげ、元気づけてあげたと言っています。これは以前、ヨブにこのような善の行いがあったので言えることです(ヨブ4:3-4)。ヨブが試練に会う前は、たとえ霊的な行いではなかったとしても、肉的には善と愛を施す行いがありました。 それで「友よ、あなたがたは行いもないのに、私にああだ、こうだと指摘している。だが私には行いがあるから、あなたがたにこう言えるのだ。私が試練に会う前だったなら、あなたがたを強くすることもできるし、慰めてあげただろうに」と言っているのです。 ヨブの方では正しいことを言っているようでも、友だちをさらにいら立たせるばかりでした。友だちはどれほど腹を立てて興奮したのか、全身を震わせて頭を振るほどでした。友だちの目には、今のヨブにはそんなことを言う資格がないからです。ヨブは神様に呪われてめちゃくちゃになっているのに、悔い改めるどころか、神様に口論を吹きかけ、自分たちを見くびっている悪い姿でした。だから、ヨブがいくら良いことを言っても耳に入らなかったのです。 ヨブは、自分が昔のようだったら、友だちを強くすることも、慰めてあげることもできたのにと言いましたが、これはつじつまが合わない言葉です。自分の悩みを解決できない人が、どうして他人の悩みを解決してあげることができるでしょうか。 私たちはこのような話し方がどれほど無益なのか知っておくべきです。もしヨブのように今はみすぼらしい境遇にいる人が「私も昔はこういう人だった」と言いながらアドバイスをするなら、相手は聞き入れるでしょうか。 たとえば、酒、タバコをしながら悪い言動で人に迷惑をかけている人が「私はクリスチャンホームで育って、前は聖歌隊もして、教会学校の教師もして、忠実に奉仕をしていた」と言うなら、これは神様の栄光を遮る姿です。 これとは反対に「私は前、信仰生活をちゃんとしていた時は豊かだったのに、信仰生活を怠けて世に落ちたら、貧しくなってしまいました。だから、私のようにならないで、信仰生活を正しくしてください」と証しをするなら、これは悔い改める姿勢でしょう。 このように過去、自分が失敗した原因になった話をして勧めれば、相手も恵みを受けて、それを教訓にして益になるでしょう。 3. 肉の人と御霊の人の違い 「たとい、私が語っても、私の痛みは押さえられない。たとい、私が忍んでも、どれだけ私か