霊の糧
ヨブ記講解メッセージ
「ヨブという実在の人物を通して、神様が私たちの人生を記録してくださいました。」
「ヨブ記講解49-肉と霊の価値」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:8~11
前回、ヨブが友達に、神様が自分を捕まえるために網を仕掛けて、その中に閉じ込めて、屈服させたと言いました。神様が無理やり屈服させたと言いながら、相変わらず不幸の原因を神様のせいにしていました。神様とヨブの間に、真の信頼と愛の関係が築かれていなかったから、誤解して呟いているのです。またヨブは、いくら叫んでも答えがないし、自分があった悔しい目に対して弁護してくれる人がいないと言いながら訴えていました。しかし、私たちが祈っても答えがなく問題が解決されない理由は、罪の壁があるからだと言いました。誰でも罪の壁を壊して、立ち返って御言葉に従うなら、神様は全ての罪を許してくださるだけでなく、答えて祝福をくださるのです。
それで、癒されて答えを受けた方々の証を聞いてみれば共通点があります。病気にかかった時、問題にぶつかった時、ある方は病院に行って薬をもらって飲んだのですが、良くならなかったのです。その時、これまで聞いたこの聖めの福音を思い出して、自分を顧みて、罪の壁を壊すために悔い改めた後、祈りを受けたら癒されたという証がありますね。これが癒される原理です。祈っても答えがないのではありません。ある人はこのような話もしていました。癒しの集会は2ヶ月に1回ぐらいあるから、毎回参加して病人登録もしたのですが、癒されなかったのです。自分ではなぜ癒されなかったのか原因がわかります。それで、もうこのままではいけないと思って決心して、悔い改めて自分を顧みて、切なる心で祈って参加したら癒されましたと証する方もいるでしょう。このような証を聞いてみれば、真理の御言葉どおりに答えられる原理がありますね。
しかし、この原理を知らないまま、ヨブは自分はいくら叫んでも答えがないと言っているのです。神様が自分を見捨ててしまったと誤解しているのです。しかし、自分が真理を知らないからでしょう。神様を恨んでも何の役にも立たないのです。癒しの集会に参加して、まだ答えを受けていない方がいるなら、今日、定めの祈祷会に参加して、悔い改めれば答えを受けるかもしれないし、このような答えを受ける原理を悟ってその通りに行えばいいでしょう。今日ヨブの告白を見てみると、相変わらず言い訳とつぶやき、神様を誤解する姿があります。それはヨブが肉の人だからです。そして神様を知識的に知っているだけで、直接見つけた体験がないからです。このメッセージを聞いて皆さんも自分を顧みて、自分の中の肉的なことを捨てて、御霊の人に変えられますように。ヨブは相変わらず神様を誤解しています。次のように言います。ヨブ記19:8です。
神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない。私の通り道にやみを置いておられる。(ヨブ19:8)
神様が自分の道を塞いで、自分は過ぎ行くことができないと言っています。ヨブの道はどんな道でしたか?彼は穀物をまいて刈り取り、飲み食いして宴が好きでした。良い心があったので、隣人には分け与えて施しもしました。ところが神様がこのようなことをふさがれたというのです。しかしこれはヨブが御霊の人になるようにするためでした。私の通り道に闇を置いておられるとヨブは言っています。皆さん、人が道を歩んでいるのに、突然暗闇が目の前を覆うのなら、どれほど驚いて絶望するでしょうか。ヨブは自分は良い環境と未来に向かって進んでいたのに、神様がその道を闇でふさいでしまったと言いながら、自分の辛い思いを訴えているのです。全ての財産も子供たちも失ってしまい、妻も友達も自分を見捨ててしまった状態、何の希望もないし喜びも消えてしまった状況を闇に例えています。しかしこれはヨブが神様の心をあまりにも知らないから言っている言葉です。
神様はヨブの正しさと潔白な行いを知っておられたから、彼に真の祝福を与えるために練ってくださって、この過程で私たちが教訓を得るように聖書に記してくださいました。神様は子供たちがどんな試練や困難にあっても揺るがない信仰で、神様の前に感謝して、御心のままにしてくださいと告白できる心になることを望んでおられます。これが真の信頼関係なのです。親が子供に悪いことをさせたり、害になる道に導くわけがありません。子供がそれを信じるなら、苦手なことでも難しそうに見えることでも喜んで従うでしょう。今、自分の目には難しそうでも、でも親を信じるなら親が私のために私を思って言ってくれるのだと信じるなら、従うことができるでしょう。これまで親が自分によくしてくれたことを信じるからです。
しかしこのような信頼と愛がなければ聞き従わないのです。そして口応えをするでしょう。言い訳をするでしょう。それは相手を完全に信頼していないからです。私たちと神様の関係も考えてみなければなりません。ヨブにはまだそのような信頼関係がなかったから練られているのです。神様は私たちが神様の前に完全な信頼を見せることを望んでおられます。そのような信頼を示すなら、敵である悪魔サタンは一つの道から攻撃しても七つの道に逃げ去るしかないし、どんな障害物も問題にならないし、ただ栄える道に導かれるでしょう。肉の人が自分の考えで、今の道は失敗しそうに見えても、しかし神様に導かれるなら、結局はその道は成功の道になります。ヨセフがそうでした。 私たちはこの道の先に何があるのか知っているでしょう。その最後には栄光があり神様の祝福があります。それで私たちは今の苦しみによって悲しむのではなくて、希望を持って神様を信じる信仰があるから、従っていくことができます。ヨセフがそうでした。神様を信じていたから、試練の過程でも不満を抱いたり不平を言ったりしませんでした。しかしヨブは今自分があまりにも苦しいから神様の前で呟いて神様のせいにして、神様は悪い方だと誤解してしまいました。だからこれが間違っているのです。ヨブはまだ霊の信仰を持っていなかったから試練の過程で、彼の肉の信仰が明らかになっています。本文ヨブ記19:9でヨブは言っています。 神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた(ヨブ19:9) 冠は王が公式の場に出る時に被る冠で権威を象徴します。栄光は輝かしい誉れ、大きな名誉をいいます。では、神様がヨブの栄光をはぎ取り、冠を取り去られたというのはどういう意味でしょうか。 それは、神様がヨブの名誉と権力を奪ったという意味です。このように自分の不幸の原因を神様のせいにしている言葉は、ヨブが肉の人であることを証明しています。以前、ヨブは裕福でした。 それで多くの人が近づいてきて、助けを受けました。羨ましいと思っていました。そしてヨブは人に褒められ、愛されていたのですが、これがヨブの栄光でした。 しかしこのすべてが、神様のせいでなくなってしまったと言っています。そして王が冠をかぶるようにヨブは、巨大な富によって権威もありましたが、神様が財産を取り上げてしまったから、その権威がなくなったと言っています。これは、これまでヨブが味わっていた栄光と権威が、富によるものだったことを物語っています。ヨブが柔和だったとか、徳があってそれが栄光になっていたならば、財産がなくなっても人々がヨブから離れないでしょう。ヨブからにじみ出る美しい心の香り、霊的な柔和があるなら、広い心に受け入れられて近づいていたでしょう。でも、今ヨブは自分の冠と栄光がなくなってしまったと嘆いているのですが、結局その栄光と権威が富によるものだったことを物語っているのです。そして神様が自分の財産を取り上げてしまったからだと神様のせいにしているから、どれ程愚かでしょうか。 ヨブが裕福だったとき多くの人が近づいてきたのに、試練がやってきたらみんな離れてしまいました。これは神様が共におられるときだけ真の栄光を受けることと、肉的な条件で結ばれた人間関係がどれほど虚しいものなのかを悟らせてくれます。ヨブが本当に霊的に知恵があったならば、試練のときこれを悟るべきだったでしょう。私はこんなに苦しみにあって試練にあっているから、前私を愛して認めてくれた人々がもういなくなってしまった。だから肉的な条件で結ばれた人間関係はこんなに虚しいものなのだ。前はいつまでもずっと一緒だと言っていた友達も家族も親族も、 みんな今自分を裏切って離れてしまいました。だから肉のものは朽ちるもの、なくなるものだ。 しかし神様は私と共にいる。私から顔を背けない方だ。試練のとき神様に求めると神様は働いてくださる方だ。だから神様の懐から離れたことを悔い改めて立ち返ろうと悟るべきだったのに、そうできなかったのです。相変わらず神様を恨んでいたのです。だから問題が解決されないでしょう。 だから答えもなかったのです。 皆さんはどうでしょうか。試練にあって苦しみにあって病気にかかって、子どもの問題、家庭の問題があるとき、どのように解決しようと思っていますか?配偶者が私を苦しめるから私はこんなに辛い思いをしている。だから私は病気にまでかかってしまった。聖霊に満たされていないから病気にかかったのに、人のせいにして環境のせいにするのです。そして教会の試練があってそのため悩んで、精神的にもすごく辛かったとか、教会のせいにしているのではありませんか。それは、ヨブとヨブの友達の姿と同じではありませんか。肉の思いをめぐらして神様の前に不平を言って、つぶやいてばかりいるのです。すると問題は解決されません。苦しみと試練がまた繰り返されるだけです。私たちはヨブ記講解を聞いて問題が解決される方法を悟るべきでしょう。続く本文を見るとヨブはヨブ記19:10-11でこう言っています。 神が四方から私を打ち倒すので、私は去っていく。神は私の望みを木のように根こそぎにする。神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる(ヨブ19:10-11) 四方から打ち倒すとは、東西南北から自分を攻撃してくるということです。だから何の希望もないし、こんな自分の境遇は死んでいるものと同じだと言っています。肉の人はこのように大きい権力と富を味わっていて、ある日突然そのすべてを失ってしまうと死だと思います。神様を知らないし天国への希望がないから、ヨブのような境遇に置かれたら自分で死んだものと同然だと嘆くのです。しかし本当に神様を信じる人なら、たとえすべてを失ったとしても絶望するのではなく喜んで感謝するでしょう。喜んで感謝することは信仰の行いで、この信仰の行いは神様に喜ばれるので、結局失ったものを回復することができます。しかもこの地上での人生は束の間で、永遠の天国への希望があるから喜んで感謝することは当然です。ですから私たちの価値は、この地上の富とか権力、名誉にあるのではないということを覚えていてください。 皆さんが試練の時何を感じましたか?私はなるほど人々の心にある悪、かけているところがこの様に明るみに出されるんだ。それを発見して目の当たりにしたら、私は人ではなく神様に頼るしかないんだと思いました。また自分に頼ることもいけないと思いました。親しかった人が離れてしまうから、悲しくなって落ち込んだりするのではなくて、神様がともにおられるから、神様が守ってくださっているから喜んで感謝しなければならないのです。荒波がある海の中で航海していても、神様がともにおられるならば安全です。安心できます。すると大胆になれます。イエス様が海と波に命じたら静まったのではありませんか。それを信じるなら私たちは心が平安でしょう。 しかし教会の試練の時、教会から離れてしまう人々を見ていて、親しい人が離れてしまうのを見ていて悲しくなって落ち込んでしまい、熱心が冷めてしまったり心がふさいだりしたことはありませんか。皆さんはどのように処理しましたか。今でも悩んでいますか。自分の姿を顧みてみましょう。もしそうなら肉の人なのです。肉的なものは全部変わってしまうものです。私たちは肉と霊について学んだでしょう。だから心を霊に変えていかなければなりません。でも今自分が置かれている環境の中で何かを失ってしまったり変わってしまうことがあっても、それは肉のものだから驚くことはありません。私たちには神様がおられ、聖霊がおられ、永遠の天国への希望があるから揺るぐ必要はないし、信仰が成長するし喜んで感謝できるのです。皆さんはそのようにしていますか? それなら祝福でしょう。聖書は何が私たちにとって大切なのか教えてくれます。ヨブの冠と栄光は富にありました。しかしそれは朽ちるものでした。富とか名誉とか知識、また周りの人がいてそれが自分の誇りだったとか、でもそれが一瞬でなくなってしまうなら、もう自分には希望はないと思いますか、それは肉の信仰です。肉の人の価値観です。 ルカ16章を読んでみれば金持ちと貧しい人ラザロの例えが出てきます。これを通して多くを悟ることができるでしょう。神様を恐れないでこの地上で贅沢な暮らしをしていた金持ちと、その家の門の前で物乞いをしていても、神様を恐れていたラザロの生き方の中で、皆さんはどちらを選ぶでしょうか。このメッセージを聞いて皆さんはすでにその聖句を知っているから、答えを知っているでしょう。しかし本当の自分の心を顧みてください。 自信を持って答えられるのか。なぜ聖書にこのような例えが書いてあるのか、私たちはメッセージで聞いたのですが、いざとなると日常生活でラザロのような生き方ではなくて、金持ちのような生き方をしているのではないのか、顧みますように。貧しいとか自分の手に何かないからといって、そのため悲しくなったり、人をうらやましく思ったりする姿はありませんか?神様はこの金持ちとラザロのたとえを通して、多くを教えてくださっています。彼らが死んだ後、金持ちが地獄の下の闇に落ちて苦しみを受けていました。この地上では贅沢な暮らしをしていたのに、下の闇ではとてもみすぼらしくなって、みじめな姿になりました。しかし貧しい人ラザロは、上の闇でアブラハムの懐に抱かれて、安息を味わっていました。皆さんこの二人の違いを考えてみてください。 この地上で肉に属するものを追い求めて楽しんでいたなら、死んだ後、後の世でどうなるでしょうか。かろうじて救われたとしてもパラダイスに入るなら、自分の家もないし報いもないから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。しかし神様の栄光のために生きた人ならば、天国で神様が栄光と報いをくださるし、家も広いし多くの人の誇りになるでしょう。どちらを選ぶのか、もう一度ヨブ記講解を聞きながら、考えてみますように。ですから、後の世を知っている人なら、当然ラザロのように神様を恐れて天国に行くと言うでしょう。 ところがヨブには、このような信仰も希望もありませんでした。神様が共におられるなら、たとえ全てを失ったとしても回復できるのに、霊の信仰がないから神様を恨んでいました。そして天国への希望もないから、自分で自分は死んでいると嘆いていました。これはヨブが肉の人であることを明らかにしています。ヨブにとって神様は、まだ真の神でも真の父ではなかったのです。だから神様との真の関係を作るために、試練が必要でした。 それでは、神は私の望みを木のように根こそぎにするとはどういう意味でしょうか?ヨブの希望は、望みは子供や富、名誉、権力など彼が所有していた肉的なものでした。ところがその全てが一瞬でなくなってしまったから、まるで根を深く下ろしていない木を簡単に引き抜くように、神様が自分を根こそぎにされてしまったと、説明しているのです。いくら枝が多くて葉が茂っている木でも、根が簡単に抜けてしまうならどれほどむなしいでしょうか。 このように肉的なことはいつでも、その根が根こそぎにされることがあるし、従って肉的なものに希望を置く生き方は、どれほどむなしくて愚かなのか悟らなければなりません。たとえ私たちに富と名誉、権力がなくて貧しくて弱くても、神様を正しく知って信じている御霊の人なら、実は豊かなものです。人の目には貧しく見えるかもしれませんが、神様が将来永遠の天国で大きい栄光と報いを与えてくださるからです。 本文11節でヨブは神は私に向かって怒りを燃やしと言っています。自分が今置かれているすべての試練、患難、苦しみと絶望、痛み、苦労の原因は神様の怒りのためだと言っています。ヨブはこのようにものすごい苦難を受けるようにされるのは、神様だと思っていたから、すべての不幸の原因を神様のせいにして恨んでいます。神様が自分を敵のように見なされるとまで言っています。皆さん、互いに敵のような関係ならどんな現象が起きますか?互いに相手の顔を見ると目をそらすし、目を合わせるのも嫌だし、相手の声を聞くことさえ嫌で、相手がいなくなってほしいとまで思います。人の悪い心の一つが敵意を抱くことです。 ところで神様は悪を嫌い、敵を愛しなさいと言われたのに、このような神様がヨブを敵のように見なされると言っているから、どれほどとんでもない無知な言葉でしょうか。人との関係でもそうです。相手は自分を憎んでいないのに、自分の中にある悪のゆえ相手を誤解して、相手を悪い人のように決めつけてしまうのです。人を裁いて罪に定めるのです。これは神様の前でどれほど悪い心でしょうか?これは直さなければならないのです。相手が自分を憎んでいるとしても、それに対してあれこれ考えて悩む必要もないのに、相手が自分を憎んでもいないのに、自分から誤解して決めつけてしまって、相手を悪い人のようにみなすことがあるなら、これは悪い姿で愚かな姿です。 神様との関係が遠ざかっていたり、真理を正しく知っていなければ、簡単に神様を誤解して裁くことがあります。今日も神様を知らない人々の中で、本人の過ちによってことが失敗したのに、天も薄情だと言いながら神様に呟きます。また神様を信じる人の中でも真理を正しく知っていなければ、試練艱難にあった時、ヨブのように、神様が自分を憎んで打ったと誤解することがあります。しかしヘブル人への手紙12:4-8を読んでみれば、神様がなぜ子どもたちを懲らしめられるのか分かります。まずは私たちが神様の真の子どもになるためには、罪と戦って血を流すまで抵抗しなければなりませんが、そうしていないから懲らしめられるのです。私たちが信仰生活をしていても、聖めに向かって走っていないし、足踏みをしていて停滞しているから試練に遭う時があります。しかしそれは神様の愛です。そのような懲らしめがあってこそ、悔い改めて立ち返って神様の真の子どもになるからです。でなければ、うわべでは信仰生活をしているように見えても、心を割礼していないから肉の信仰にとどまっているしかないのです。だから神様が愛する子どもは懲らしめてくださるのです。 ですから自分が信仰生活を間違ってしているのに懲らしめがないならそれも問題です。神様は私たちを愛して懲らしめてくださいます。変えられるように聖められるように、肉の信仰から霊の信仰に変わるように、そのために試練に遭うようにしてくださるのです。そうやって真の子どもになって、神様と天国で永遠に愛を分かち合うようにするために、私たちを練ってくださるのです。だからそれは神様の愛です。また神様の子どもちが、御言葉から離れて罪と悪の中に生きているから、神様は責め懲らしめてくださるのです。ですからこういう懲らしめは、神様の愛であることを忘れませんように。神様の子として扱ってくださるからです。つまり私生児ではないからです。死の道から立ち返るように正してくださることだから、このため弱り果てるのではなく喜んで感謝すべきです。これを覚えていてください。 自分が罪と悪の中に生きているのに、もし神様の懲らしめがなければそれは私生児だからです。これは恐ろしいことです。そのような人がたくさんいます。神様を信じない人ならば自分の罪のためサタンによって試練にあうのですが、しかし聖霊も受けたのに相変わらず罪の中で生きていて、悪を行っている人がいます。しかし懲らしめもないならそれは私生児ように扱われていて、救いからも離れているでしょう。だから自分が罪の壁があってそのため問題にぶつかっているならば、神様の愛で懲らしめられていると思うなら感謝するでしょう。でも罪の壁があってもよくわからない場合もあります。 しかし試練がやってくると、その時自分を顧みるから、それで自分の間違っているところを発見することができ、立ち返って悔い改めるなら、神様がまた回復させてくださるからその試練は愛です。本当に子どもを大事にして愛する親なら、子どもが過ちを犯して正しい道からそれるならそのまま放っておかないでお仕置きをしてでも、正しい道に導くこと、教えることと同じ原理です。しかし神様はすぐ懲らしめるのではありません。その前にいろんな方法で悟らせてくださり、機会をくださいます。最初は言葉で悟らせてくださいます。皆さんが礼拝をするときメッセージを聞きながら、聖霊が働いて悟らせてくださるのですね。 私は今の生き方ではダメだと思ってそれでメッセージを聞いて感動して、変えられるために祈るようになります。しかし主日はそうだったのに、月曜日からまた自分の以前の生活に戻ってしまうなら、心におられる御霊が呻かれて心が苦しくなるのです。こうしてはいけないのにと思って、気が重くなってもやもやして不安になるのです。以前ヨブ記講解でも言いましたが 、不安な心になることもそのためなのです。だからそのときは聖霊の声を聞こうとしなければなりません。でもことさらに罪を犯し続けるならば、もう心が麻痺してしまう場合もあります。しかし聖霊のうめき声を聞いて心が苦しくなったとき、早く立ち返らなければなりません。それでも聞かなければどうなるでしょうか?鋭く神様が責められます。そして懲らしめられます。病気にかかったり、試練艱難がやってくることもあります。しかしそれでも相変わらず聞き従わなければ、もっと大きい懲らしめが臨むのです。 これも親が子供を育てるときを考えてみればわかるでしょう。子供が何か過ちをしたとき、最初は言葉で言い聞かせます。それでも聞かなければ叱ったり、それでも聞かなければお仕置きまでします。皆さんご両親の皆さん、だからと言って子供たちにしょっちゅうお仕置きをしてはいけません。罰を与える段階があるのです。それは正しい教育ではありません。まずは言葉で説得して約束をして教えて言い聞かせるのです。しかし聞かなければ叱ることもあって、そしてお仕置きをする場合もあるでしょう。叩いたりすること以外にもいろんなお仕置きがあると思います。そうではなくて、親が子供が自分の言うことを聞かないからと言って、すぐ怒鳴ったり叱ったりすぐ手を挙げたりすることがあってはいけません。 ヘブル12:9-11に「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちをこらしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちをこらしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、こらしめるのです。すべてのこらしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。 つまり神様は私たちの益のために、ご自分の聖さにあずからせようとしてこらしめるのです。このように神様は私たちを愛するがゆえに、私たちが御言葉通りに生きていない時、試練や艱難にあうようにされます。こらしめられて真理にあって生きるように導いてくださいます。神様は人の悪の姿を捨てて完全にするために練ってくださるのです。そして私たちは試練の過程を経て罪と悪を捨てたら、金のような信仰を所有した昔の信仰の人々のように尊い人になります。 したがって自分の過ちのため試練にあったとしても、結局、試練は祝福であり感謝なことなのです。ヨブは肉の人だから試練の時に神様の前に呟いて、不平を言っていたのですが、皆さんは御霊の人になっていつも喜んで感謝することで、祝福の実を結びますように。自分はまだ肉の人だから、呟いたり不満を言っても神様が理解してくださるだろうと思ってはいけません。ヨブが試練艱難が終わって答えと祝福を受けるためには、この呟きと不平をなくさなければなりません。やめなければなりません。だから私たちは、御霊の人になろうとしなければなりません。また試練の時に打ち勝つためにも自分の悪と肉を捨てなければなりません。
「ヨブ記講解48-ヨブの反論」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:6~7
続く本文でヨブは、自分が不幸になった原因を神様のせいだと言っています。ヨブ記19:6です。
いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。(ヨブ19:6)
ここで神が私を迷わせるとは、自分の意思とは関係なく、心が乱れてよくない方向へ行くようにされているという意味です。つまり神様が自分を低くして屈服させたから、こんなに迷い出てしまったのだと言っています。神様のせいで私はこんな目にあっているのだ。だから私は無気力に負けているのだと言って、神様を恨んでいるのです。私たちは神様の前に、聞き従っていかなければなりません。しかし嫌々ながら屈服させられて、義務感からしているのではないでしょう。今ヨブはそんな風に言っているのです。
私たちは神様を愛して、神様を恐れかしこみ、私のために、救ってくださり、天国を作ってくださった神様、私の霊の父である神様だから、心から愛して喜んで聞き従わなければならないのです。そのような子供を神様は望んでおられます。それでヨブがそのように変えられるように、招いておられるのです。ヨブは以前神様を恐れて御言葉を守っていたのですが、それはうわべでした。神様はそれより、心から本当に神様を愛して、神様の愛を感じて、神様に従って御言葉を守るヨブになるようにと望んでおられました。
例えば親が子供を叱ったとしましょう。何度か注意したのに聞かなかったから、後でまたこんなことをすればお仕置きをするよと言っても、子供が聞かなかったら、お仕置きをする場合もありますね。すると子供は、お母さんが自分を憎んでいると思ってしまうなら、お母さんはどれほど心が痛むでしょうか。子供はそのお母さんの愛がまだわからないのです。でも後でわかるでしょう。大きくなるとお母さんは私のためにそうしてくれたんだとわかるようになりますね。しかしそうではなくて、自分は愛されていない、嫌われていると、誤解してはいけないでしょう。
今ヨブと神様の関係も同じです。ヨブが今神様の前で呟いたり問い詰めたり嘆いていても、神様はヨブの心の芯は良いと知っておられるから、ヨブが変えられることを期待して、待ってくださっているのです。ヨブは神の網で私を取り囲まれたと言っています。網は鳥とか魚とか動物を捕まえるために使う道具です。つまりヨブは神様が自分を捕まえるために網を張っておいて、その中に閉じ込めてしまったと表現しています。しかしこれは言い訳にすぎません。ヨブは自分の悪のゆえ、網で取り囲まれているのです。これは今日私たちが律法に縛られて、人を恨んだり教会や神様のせいにしたりするのと同じです。
例えば自分の過ちで事業がつぶれたり詐欺に遭ったのに、人のせいにしたり環境のせいにしたりする人がいます。普段神様の御言葉通りに生きていなかった人が、何か問題にぶつかったら神様に呟く場合もあります。しかし何か問題が起こったら、自分を顧みて自分の欠けているところを認めて祈り、感謝して御言葉に従わなければなりません。そうすると苦しみから抜け出すことができるし、問題も解決できるのです。
神様は私たちに救いと永遠の命を与えるために、一人子まで渡してくださいました。そして講壇から述べ伝えられるメッセージを通して天国に行く道を教えてくださっています。しかしこのメッセージを聞いて辛いとかきついとか思う人がいますか。それは御言葉通りに生きていないからです。真理が足枷のように感じるのです。真理通りに生きようとしたらきついし、生きていないときは後ろめたいし、恐れを感じるのです。しかし真理を愛して行う人はそうではありません。皆さんはどうでしょうか?この教会で真理の御言葉を聞いて、しるしと不思議神の力の技を見て体験しました。だから神様を信じたのではありませんか?人にはできない驚くべき神の力を見たから、神様が生きておられることを認めて教会に通っているのです。でも御言葉通りに生きようとすると、世を愛する心もまだ残っているから辛いのです。そして教会を離れてしまう人もいます。しかし教会を離れるときは、いろいろ言い訳をするのです。ああだからこうだからと言いながら、教会で問題を起こしたりして、離れてしまう人もいるのです。神様はそれをご覧になってどう思われるでしょうか。
私たちはどんな心で教会に通っていますか、メッセージを聞いていますか?ある人は元老牧師先生はこう言われたからと言いますが、元老牧師先生は神様の御言葉を教えてくださる方です。神様が教えてくださった真理を、私たちは元老牧師先生から教わったのです。そして聖めの福音を聞いていてそのためもしかしてそれが重荷となったり、きついと思ったり辛いと思っているならば、その真理を自分が今行っていないからではありませんか?神様を愛して真理を愛して行っている人は違います。心から神様の愛を感じて真理を行っている人はきついと思いません。自由を得ます。 例えば皆さん、憎むことと愛して許すことどちらが楽でしょうか?やさしいでしょうか?人を愛することや許すことでしょう。でも自分の中に憎しみという悪があって真理と反対のものがあれば、愛することが許すことが難しいのです。だから御言葉通りに生きるのが大変だと感じるようになるのです。でも私たちは難しくても神様を本当に信じているならば、愛しているならば、神様の御言葉に従わなければなりません。親の皆さん、子供たちが嫌がっても勉強しなさいと言いますね。なぜなら、そうしてこそ立派な大人になれるからと思うからでしょう。子どもたちのためにそう言っているのではありませんか?私たちも同じです。人を憎む方が今は楽で、愛するのは難しいかもしれませんが、神様は私たちの幸せのために、憎んではならない愛しなさいと命じておられるのです。それで私たちが頑張って努力して、憎まないで愛して愛を行っていけば、だんだん自由を得るようになります。心が幸せになります。でもまだ心に憎しみがたくさんあるときは難しいかもしれないし、辛いかもしれません。しかし神様を愛して神様の愛を信じているならば、何としてでも憎しみを捨てなければ、愛して祈りながら人を許さなければと思いながら、そのように努力していけば、一つ二つとだんだん行えるようになって、心の中に愛が満たされるようになるのです。そのときは人を憎む方が難しいのです。するとどれほど幸せでしょうか。 今ある人が憎らしくてその人が自分を苦しめたなら、その人が何か失敗したとき、いい気味だと思うならば、自分の心の中におられる聖霊は喜ばれないでしょう。でも自分を苦しめていた人が今失敗したとき、その人のために愛で祈って哀れんで助けようとしたならば、聖霊は喜ばれるでしょう。それでその人への愛の心がだんだん大きくなるのです。それなら神様もどれほど喜ばれるでしょうか?すると上から真の平安と喜びが臨むのです。これは真理にあって味わう自由なのです。この自由を得るためには、いやいやながらやむを得ず御言葉に従うのではなくて、素直に喜んで御言葉に従って行かなければならないのです。すると神様が喜んで応えてくださり祝福してくださいます。 神様の御言葉が皆さんにとって重荷ですか?足枷のようですか?例えを挙げてみましょう。たえず祈りなさいという御言葉があります。この御言葉を知っていても、祈りたくないでしょうか?その時間にドラマを見たいでしょうか?ゲームをしたいでしょうか?神様より自分を愛するからでしょう。そして祈祷会に行かなかったりするのです。でも私たちは御言葉を聞いて祈らなければならないことを知っているから、祈らなければその時間に遊んだり寝たりするとどうでしょう?後ろめたいですね。神様の前に申し訳ないと思い恐れを感じるし、神様の前に大胆に出て行くことができないでしょう。だからそれが重荷のようで足枷のようなのです。自由を感じられないのです。頭で神様の御言葉を知っていても自分が行っていないからそうなのです。だから後ろめたいし不安だし怖いし、神様の前に大胆でいられないのです。だから辛いと思うし、きついと思うようになるのです。 それならこの人に神様の御言葉が網とか足枷になっていて縛っているからでしょうか?そうではありません。神様の御言葉は祝福です。絶えず祈る時でこそ敵である悪魔サタンに妨げられることがないし守られるし、問題も苦しみもなくなるからです。でも自分が従わないから自分の利益を求めていくから苦しくなるし、問題にぶつかってしまうのです。神様は足枷ではないのに自分が自分を苦しめているのです。神様は私たちを苦しめる方ではなくて応えて祝福してくださる愛の父です。しかしヨブはこのような神様の心がわからないからとてももどかしいです。 続く本文を見るとヨブは続けて反論し続けています。ヨブ記19:7です。 見よ。私が、「これは暴虐だ」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。(ヨブ19:7) 暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。つまり暴虐だと叫ぶということは、自分がむごいことをされて苦しめられている、被害を受けていることを訴えるのです。しかしそれが正されないと言っています。つまり自分はいくら訴えても、それを聞いて正しい裁きをしてくれる人がいないと今言っているのです。それで嘆いているのです。ヨブは今自分があまりにも辛いし苦しいから、そして自分にされていることがあまりにも理解できないのです。だから神様は自分を憐れんでくれないし、助けてくれないしこのように苦しめているし、自分がいくら叫んでも答えもないし、自分のために正しい裁きをしてくれる人もいないと言っています。 皆さんもしヨブのような試練に遭うならば、皆さんは神様の前につぶやかないでしょうか?これまで教会でいろいろなことがあったのですが、試みがあったとき、真理を聞いて知っていながらも、神様を恨んで教会を離れてしまった人もいました。教会から離れてはいなくても、熱心が冷めてしまって、人と言い争ったりする姿もありました。それもヨブと同じような姿です。ヨブが求めても叫んでも答えを受けられない理由は何でしょうか?今週癒しの集会があります。まだ癒されていない、答えを受けていない方々は、このメッセージを心に刻んで祝福と答えを受けますように。ヨブは自分がいくら叫んでも答えはないと言っています。皆さんも何か問題があれば神様に祈りますね。でもなぜ答えがないのでしょうか?その理由を探して解決しなければならないでしょう。ヨブは真理を正しく知っていなかったし自分についてもよくわからなかったのです。 聖書を読むとなぜ祈っても答えがないのか、問題が解決されないのかが書いてあります。イザヤ書1:15-17です。「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め 、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」とあります。つまり神様が答えてくださらない理由は、私たちが悪を行っているからです。善を行っていないからです。イザヤ書59:1-3には、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたのとがが、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、あなたがたの手は血で汚れ、指はとがで汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。」とあります。 私たちが祈っても答えを受けられない理由は、罪の壁があることで、それをはっきり教えてくださっています。ところで神様は問題の原因だけではなく解決策も教えてくださいました。イザヤ書1:18-19です。「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることができる。」とあります。つまり私たちが悔い改めて立ち返って御言葉に従って行くなら、全ての罪を許してくださるだけではなく祝福してくださるという意味です。 皆さんが自分の過ちと罪を口で告白して悔い改めなければなりません。私は罪を犯しました。罪を罪と思わないで、ことさらに罪を犯していました。それは神様をないがしろにして、主をもう一度十字架にかける姿でした。人を憎んでいました。言い争っていました。人を裁いて罪に定めましたと、自分の罪を一つ一つ神様の前に告白して、許しを求めなければなりません。二度とそうしないように助けてくださいとへり下って、徹底的に悔い改めて、罪の道から立ち返って光の中を歩み真理を行っているとき、神様が応えてくださり癒してくださるのです。それではヨブはどうすれば答えを受けられるでしょうか?自分の心の悪を悟って神様が応えてくださることを信じて、喜び感謝して祈っていくならば祝福されるでしょう。しかしヨブは真理とは反対に不平を抱いて文句ばかり言って、神様の前に恨んで訴えて問い詰めていたから、答えを受けられなかったのです。 神様は御言葉で天地万物を創造して歴史を導いて、人の生死禍福の権限のある方です。ですから祝福を受けたいと思うなら、真理である神様の御言葉に従えばよいのです。神様の御言葉は私たちに喜んでいなさい、祈りなさい、感謝しなさいと言われました。そして善をもって悪に打ち勝ちなさい。敵をも愛しなさいと言われました。これを心に刻んで守り行っていくならば、いくら大きい問題があっても神様の力によって解決されます。しかしヨブはこれと反対に絶望して、悪い言葉で反論して言い訳をして嘆いているから、答えを受けることができないのです。ですから神様はヨブのために、ヨブが悟って悔い改めて真理に従う時まで待ってくださるのです。 皆さん、詩編66:18に「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。罪の壁を壊していなければいくら祈っても、それは虚しい祈りに過ぎないのです。空中の権威を持っている敵である悪魔サタンが、その祈りを遮断して妨げてしまうから、神様の前に届かないのです。これも霊の世界の法則です。ですから皆さんはこの御言葉を自分に適用して、なぜ試練艱難に遭っているのか、なぜ祈っても答えがないのか、なぜ病気にかかったのか、どうすれば問題が解決されるのか、その答えを得ますように。そして癒しの集会に備えて自分を顧みて悔いを改めて、癒しの集会のとき答えを受けますように。 結論です。 愛する皆さん。今日はヨブが再び友達に対して反論して指摘して神様を誤解して言い訳をしている姿を見ました。なぜヨブが試練に会うしかないのか、もう一度わかったでしょう。ヨブはまだ自分は正しい人だ、神様を恐れていた、なぜそれなのになぜ神様を自分はこんなに苦しめるのかと恨む心があります。だから理解できないのです。自分があっている艱難があまりにも悔しいのです。だから続けて恨み不平ばかりで言っています。 しかし心から神様を愛する人々は、どんな試練や迫害、苦しみで命が危なくなったときも、ヨブとは違って神様の前に感謝し祈りました。預言者や使徒だけではなく、初代教会の一般の聖徒もそうでした。主を信じるからといって激しい迫害を受け苦しみを受けました。もしヨブのように考えていたならば、私には何の過ちもないのになんでこんなに迫害されるのか?なぜ神様は助けてくださらないのかと恨むかもしれません。しかし初代教会の聖徒たちは、自分たちが救われた恵み、天国への希望があることで喜び感謝してその道を歩みました。だから迫害されても苦しみを受けても、心は天国でした。後の世があるから天国での栄光を望んだのです。私たちもどんな状況におかれても神様の変わらない愛を信頼して、信仰を持って走っていくべきでしょう。そうすると神様はその祈りを聞いて答えてくださり、祝福と栄光をくださって神様の愛を明らかにされるでしょう。 しかしヨブはうわべでは完璧でしたがその心の中にはまだ完全でないところがあったので、神様は彼を完全にされるために試練に遭うようにして、自分の悪を発見できるように練ってくださるのです。このように神様は私たちの心から悪を取り除いて、完全にするために練ってくださるのです。練られて金のような信仰を所有するようになれば尊いものになれるのです。だから今試練に遭っていても、その中で変えられて神様により頼むなら、その試練も祝福になります。ですから聖徒のみなさんはどんなことにあっても、喜びと感謝を持って金のような信仰を所有しますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを覚えて思い出して一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが友達を指摘しながら反論しながら神様のせいにしている姿がまたありました。まだ自分を発見することができず、自分が正しいと思い込んでいました。私たちもヨブの姿から自分を発見するようにしてください。そして相手を理解できない姿、相手を責める姿があるなら自分の悪を発見して捨てて変えられるようにしてください。そして祈りに答えてくださらないからといって神様に呟くのではなくて、なぜ自分が答えを受けられないのか、悔い改めて備えるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名でお祈りいたします。アーメン。
「ヨブ記講解48-ヨブの反論」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:1~5
みなさん、前回はヨブの友達ビルダデが、ヨブに向かって呪う言葉の中から、悪の極みを感じました。ヨブ記18章の全体が、ビルダデのヨブに対する呪い、責める言葉がいっぱいでした。悪い人はいくら素晴らしい表現を使っても、良い言葉を口にしようとしても、悪が結局は現れます。聖書を読むと悪い言葉と良い言葉の実がよく対比されているところがあります。
ナバルとその妻アビガイルの場合です。ダビデがサウル王から逃れて逃亡生活をしていたときでした。ダビデは一緒にいた人々が飢えていて渇いている姿を見て、近くの金持ちのナバルに助けを求めました。ダビデの一行は以前ナバルの羊の群れを守ってあげたことがありました。しかしナバルはダビデが自分を低くして助けを求めても、とても侮辱的な言葉でダビデを罵って卑しめました。そして怒ったダビデは武装した400人を連れてナバルを殺すためにその家に向かいました。
これをナバルの妻アビガイルが聞きました。善で聡明だったアビガイルは急いでパンと葡萄酒といろいろな食物、贈り物を用意してロバに乗せてダビデに会いに行きます。サウル王に追いかけられていたダビデの一行に一番必要なものは食物だったので、急いで用意したのです。ダビデの前でアビガイルはひれ伏してとても謙遜な姿で、「夫は死ぬような罪を犯したのですが、自分を見て許してください」と心からお願いしました。その後、賢い言葉でダビデの良いところを褒めながら心を慰めます。そしてダビデが手を下して無駄に血を流すと神様が喜ばれないことをそれとなく悟らせました。
これを聞いてダビデは第1サムエル記25:32-33で、「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断がほめたたえられますように。」と言って、彼女を祝福して心が慰められました。アビガイルがダビデの心を慰めた後、家に帰ってみたら、ナバルは王のように宴会を開いて酷く酔って上機嫌になっていました。次の日ナバルの酔いが覚めた後、アビガイルは前の日あったことを告げました。そうしたら驚いたナバルは気を失って石のようになってしまい、10日後には死にました。アビガイルは知恵があって善の言葉と行いで、自分の家族が滅びる危機を免れたのですが、悪い言葉を出したナバルは結局死の道に行きました。アビガイルは後でイスラエルの王妃になりました。
このように心の良い人の口から出る言葉は善であり賢いので、どんな苦しみや災いも免れるだけではなく、祝福に変えることができます。ですから聖徒の皆さんは、聖なる神様の子供らしく心を善に変えて聖なる口の実で神様に栄光捧げますように。
前回まで調べたヨブ記18章では最初から最後までビルダデの厳しい呪いの言葉がありました。
その後19章ではヨブがまた口を開きます。ヨブ記19:1-3です。
「そこでヨブは答えて言った。いつまで、あなたがたは私の魂を悩まし、そんな論法で私を砕くのか。もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。」
(ヨブ19:1-3)
悩ますとは心が苦しむように苦しめることです。ヨブは友達が自分を悩ましていると言っていますが、実はヨブが自分からそうさせているのです。ヨブが言い返さないで反論しなかったなら悩むこともないし心は穏やかなのに、友達の話を聞いて言いまかそうとするから、いろいろ考えるようになるのです。最近も、インターネットで相手を誹謗中傷する書き込みをする場合があります。人の心はとても悪いですね。そのような書き込みを読んだ人がどれほど心痛むでしょうか、傷つくでしょうか。そして周りの人がそんな書き込みは読まない方がいいと言っても、人は読みたくなるのですね。読んでしまって傷ついてしまい悩んでしまうこともあるのではありませんか。
例えば皆さんに誰かが嫌味を言って皆さんを責め立てたりするなら、そのようなことは聞きたくないでしょう。そしてある人がそのような悪い内容のメールを送ったり電話して悪態をつく場合もありますが、それならその人の電話に出なければいいし、そのメールを読まなければいいのですが、ある人はそれを読んでしまい、また電話に出てしまって傷つく場合もあります。ですから私たちはなるべくそういうことは聞かないで受け入れない方がいいでしょう。
ヨブも友達がいくらあれこれ言っても、それによって悩んだりイライラしたり腹を立てたりしないで、素直に受け入れて自分を顧みて、神様の前に祈っていたのならよかったのに、そうできなかったのです。それで自分を悩ました友達が悪いと言っていますが、実はそれを聞いて友達を恨んで神様に呟いた自分の悪が大きいのです。だから私たちは真理でなければ聞かないで見ないで話さない方がいいでしょう。相手が悪を行って嫌味を言ったりすることは相手の悪だけです。それによって自分が傷ついたり自分が苦しんだりする必要はないのです。
本文でヨブは友達がそんな論法で私を砕くのかと言っていますが、これはすなわち友達が自分を言いまかそうとしているということです。言いまかすということは相手を反応できないまで論じ詰めて黙らせてしまうこと、相手を屈服させることです。これまでヨブが何かを言うと友達は、言いまかすためにいろんなたとえを上げて指摘して呪ったり、ヨブを黙らせようとしました。人の間で言い争いが起こると、互いに感情的になってこのような場合があります。クリスチャンでもノンクリスチャンでも同じです。相手が何か話をしたとき自分の考えと合わなければ、言いまかすためにへ理屈を述べる場合もあります。こうやって論じ詰めることは彼を理解させることができないと思ったり、理解させたくないと思ったからでしょう。 例えば会議をするときや話をするとき誰かに質問するとき、相手が納得できるように説明すればいいのにそうではなくて、強圧的な口調でそれ以上意見を言えないように、黙らせる場合があります。それは相手を無視することでしょう。会議をするとき、全体の発展のために意見を出してくださいと言って、ある人が意見を言ったのですが、その会議を導く人がそれはもういらないことですと言ったり、そんなことを話さないでくださいと言うならば、どれほど相手を無視する姿でしょうか。 家庭で例えば子どもたちが何か話をするとき、親がその子どもの話を聞いてあげないとか、もう黙りなさいとか、静かにしていなさいとか、子どもが何か欲しいというのに、それなら宿題したの?とか言ったりする場合もあります。するとそれ以上子どもたちとのコミュニケーションが難しくなってしまうのではありませんか。人と話をするときこういうところに気をつけなければなりません。 例えば相手を言いまかすために黙らせるために、相手の弱点を攻撃したりする場合はないでしょうか?このように相手を無視して黙らせてしまうと、相手はもっと反発するようになるでしょう。だから言いまかすことは正しくないでしょう。私たちは何としてでも愛と徳を持って、相手が理解できるようにしなければなりません。神様は人の心を全部ご存知です。ヨブと友達の深く潜んでいる悪を明るみに引き出してくださっています。それで自分自身を発見して変えられるように望んでおられるからです。 本文にヨブは、もう十度もあなた方は私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめると言っています。ここで十度とは十回だけを言うのではありません。ヨブの友達がそれだけ何度もヨブをいじめたという意味です。ヨブは自分が今まで我慢しまた我慢してきたのに、あなた方は繰り返し私をいじめて、恥知らずではないのかと言っています。自分には過ちがないのに、神様がこんな風に病気になるように、傷だらけになるようにしてしまった。あなた方に良心があるなら、私を責め立てるのを恥ずかしく思いなさいと言っているのです。ヨブは自分より正しい人が苦しみを受けているのに友達が慰めるどころか、自分を厳しく咎めているから理解できないのです。それで友達のやっていることが恥ずかしいことだと悟らせるために、このように言っているのです。 皆さん夫婦の間でもまた友達の間でも、会社の同僚との間でも同じです。相手が自分にひどいことを言ったから、あの人は悪い人だ、あの人がやっていることが恥ずかしいことだと思うでしょう。でも相手はそのように思っていないのです。相手は言うべきことを言ったと思います。そしてただアドバイスしただけだと思う場合もあります。今、ヨブとヨブの友達の関係がそのようになっているのです。ヨブは友達が自分をこんな風に指摘したり、責め立てていることは恥ずかしいことだ、間違っていることだとそれを厳しく言っているのです。しかし友達の立場では、自分たちは悪いことをしていると思わないのです。だから互いに自分の立場だけを思っているのです。 私たちの日常生活にもこういうことがよくあると思います。自分とあまりにも合わない人に会ったとき、その人が言っていることやしていることが、到底理解できないときがありますね。でも相手も同じように考えていることもあるのです。ヨブとヨブの友達が今言い争っている姿を私たちは第三者の立場から見るとわかりますね。それで互いに互いが理解できないのです。皆さんも同じです。周りの人との関係でそういう場合があるのです。 自分は相手が理解できないと思っていますが相手も同じなのです。それならどちらが正しいでしょうか?神様がご覧になるときはどちらも正しくないのです。こういうことが日常生活ではよくあります。どうしてあれがわからないのかとか、どうしてそんなことを言うのかとか思いますか。相手も同じように思うのです。それで互いに言い争うようになったり、ギクシャクしたりするのです。だからそういう場合は自分が相手を理解できないところがあるんだ、自分の心はまだ狭いんだと、自分の心の中に悪があるんだと自分を顧みて、相手のために何か自分が助けることがないのかと思いながら祈ろうと、神様に委ねれば心は穏やかになって、そして自分は感謝できるでしょう。 しかし相手のことをなんであんなことをしているのかと思いながら、イライラしたりすると自分に損ではありませんか。そのような必要はないのです。人は自分のほうがいつも正しいと思っています。でもそれは思い込みかもしれません。だからいつも自分のことばかり考えるのではなくて、客観的になって相手の立場に立って考えるべき必要があります。そしてヨブとヨブの友達が言い争っている姿を見ながら、自分を顧みなければなりません。私にもヨブのような姿があるんだ。友達のような姿があるんだと自分を発見すること、これが神様の望んでおられることです。ヨブ記でずっと繰り返してこのような互いに言い争っている姿が示されているのも、神様がそれを悟らせてくださるためです。 それで元老牧師先生はその霊的な意味を解き明かしてくださるから、私たちはヨブ記講解を聞きながら自分の心の隅々まで発見できるのです。ある方はこのヨブ記講解を聞きながら、先生、先週私の家に来られたかのように、私のことを言っておられるんだと思う方がいるそうです。皆さんが友達との間で起こったこととか、また会社で同僚との間で起こったことなどを、御霊が一つ一つ悟らせて思い起こさせてくださるから、私たちは自分を発見してその恵みによって変えられることができるからどれほど感謝でしょうか。ヨブ記講解のメッセージを通してこのように恵みをくださって発見させてくださることも、御霊の働きです。 ヨブとヨブの友達は互いが理解できなくて、互いをとがめて責めているのですが、私たちもその姿から自分を発見しますように。ヨブは友達にあなたがたがしていることはありえないことだ、恥を知れと言っています。もちろんヨブは自分が正しいと思っていますが、実際何の傷もない義人ではありません。今までヨブが口にした真理と反対の言葉の罪があるでしょう。ヨブが試練にあうような理由があるから練られているのです。でもまだ自分の悪を悟れず、自分は正しい人だとだけ思っています。だからヨブの立場では、自分より悪い友達が自分を厳しくいじめているから、それは恥だと恥ずかしく思いなさいと言っているのです。しかしヨブの友達は感情的になって、ヨブを責め立てていながらも自分たちは正しい、ヨブは悪いと思っているから恥と思わないのです。このように人が高くなってしまうと、恥ずかしいことをしていながらも悟れないのです。自分は心が高くなって人の過ちと欠点をしょっちゅう指摘していながらも、自分は見事に従っている、正しいと錯覚しています。しかし本当に心が良くて正しい人は、相手の過ちを見ても指摘したりしません。 イエス様はご自分を売り渡すイスカリオテ・ユダにも直接的に責めることはなく、間接的に悟らせてくださいました。最後まで彼をそばにおいて、他の弟子と同じようによくしてくださって、彼が悔い改めるように続けて機会をくださいました。元老牧師先生も、聖徒の何かの過ちを知ったとき直接的に指摘するよりは、講壇でメッセージの中で間接的に悟らせてくださいました。元老牧師先生は、誰かの過ちを指摘することは気が引けるような性格でもあるし、聖徒が指摘したとき彼が悔い改めて立ち返るなら祝福ですが、もし不満を抱いたり聞き従わなければ試練に遭うようになるから気をつけておられました。 使徒パウロは第Ⅱコリント10:1で「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気なものです。」と言っています。どういう意味でしょうか。聖徒に会ったときは大胆に厳しく指摘できなくても、手紙を書くときはこのように強気で進めることができるということです。 正しい人でも相手の過ちを指摘することを慎むので何度も厳しく責めることは簡単ではありません。ヨブは前から正しいところがあったので、自分がやっていることは相手ができないからといって厳しく責めたりしませんでした。アドバイスをしても相手が聞き入れなければ気が引けました。しかしヨブは友達を見ていたら、友達は何の過ちもない自分を続けて指摘して責めたてていながらも恥ずかしいと思わないのです。だから過ちがある人を叱るのも慎むべきなのに、何の過ちもない私を悪いあなたたちが恥知らずにもいじめているのかと問い詰めているのです。 皆さんの姿にはこういうところはありませんか?前回も伝えましたが、相手の悪や過ちを知ってそれを指摘してしまうことは自分の中に悪があるからです。自分の中にある梁は見えることはできず相手の目の中にあるちりを見て指摘する姿です。自分を顧みるよりは、人を見てその人の欠点とか過ちを見つけ出そうとする姿はどれほど悪い姿でしょうか。クリスチャンは神様の子どもはそうしてはいけません。私たちの基準はいつも聖書の御言葉です。人を裁く人は自分も裁かれるのです。人の悪行を言う人は自分も悪行を言われるようになります。この御言葉を覚えていなければなりません。そして人を許さない人は神様にも許されないのです。相手が自分に過ちを起こして失礼なことをしたとしても許して、そしてその人のために祈るべきなのに。そうでもない人がいてその人を許せないとか、その人との関係が苦手だとか思うことがあってはいけないでしょう。 続く本文ヨブ記19:4-5です。 「もし、私が本当にあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか。あなたがたがほんとうに私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで、私を責めるのなら、」(ヨブ19:4-5) ここでもし私が本当にあやまって罪を犯したとしてもと言っています。これはヨブが自分の過ちを認めている意味ではありません。ヨブは自分には何のあやまちもないと思っています。それなのに友達が何度も自分が悪いとあやまちがあるとこのように続けて言うから、ヨブはここで心にもない言葉で肯定しているのです。まるである人が無実の罪を着せられて逮捕された時、尋問されながら耐えられなくて偽りの自白してしまうことがありますね。これと似ています。ヨブはこれまで友達と言い争っていて、感情的になっていてあまりにも苦しいし辛いのです。それで口先だけでこのように言っているのです。何を話しても友達を納得させることはできないし理解してもらえないと思うから、分かったもう分かったというふうに言っているのです。 しかしヨブは罪を犯したとしても、あなた方は本当に私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで私を責めるのかと言っています。つまりこれは自分が本当に悪い人なら、あなた方は偉いのか、それならそれを証明してみせなさいと言っているのです。この内容をもっと具体的に調べてみます。ここで高ぶるとは、自慢すること、見下すこと、偉そうに振る舞うことを意味します。ヨブは友達にあなた方がそんなにうぬぼれているほど正しいのか、私はあなた方が指摘したとおりに悪い人なのか、もしそうなら私のそしられるようなところを証明してみなさいと言っているのです。 人々は言い争っていって感情的になると相手の弱点を攻撃します。自分の話が、言葉が通されないから腹が立って、相手に負けるようなふりをして相手の過ちとか欠点をあばき出して何としてでもこき下ろそうとするのです。今ヨブが同じようなことを言っています。二人がいま言い争っているとしましょう。それで一方が相手の欠点とか弱点を攻撃するとしましょう。しかし自分はそれが理解できないし納得できないのです。だから言い負かそうとするために、相手の弱点とか相手の欠点などをあばき出して相手を攻撃して仕返すのです。 会社で同僚の間でもそうだし、上司との間でもそうです。上司が自分の自尊心を傷つけたり、そして何か理不尽なことを言ったりすると、この人もイライラして上司の前で上司の弱点とかを攻撃する場合もあると思います。相手がそれ以上何も言えないように黙らせようとすることもあるし、自分が窮地に追われたら相手の弱点を攻撃しながら、あなたは私より偉いのかと言っているのです。それはヨブの今の姿です。皆さんも家庭の中で、また会社の中でこういう姿はないのか顧みますように。聖徒の皆さんにはこういう悪ではなくても、自分の考えや自分の利益に合わなかったり、自分が認められていないと思うときどんな姿だったのか考えますように。 例えば、教会のある組織のリーダーに選ばれたときは熱心だったのに、次に選挙で選ばれなかったなら、前と違って熱心が冷めてしまいます。そして、今リーダーとして新しく選ばれた人より自分が優れていると思うから不満を抱いて、人々は自分を認めてくれないから寂しいのです。今ヨブがそのような心なのです。友達が自分に言っているように、もし自分が悪い人なら、あなたたちは私より偉いのか、その証明をしてみなさいと言っているのです。皆さんもそういう姿がないのか顧みますように。自分の考えとか自分の利益に合わなくて、また自分が認めてもらえないとき不満を抱いたり、心の中で相手を無視したりする姿がないのか顧みますように。それも悪なのです。 そして集まりで自分の意見が受け入れてもらえないとき、どうなるか見てみようと思いながら、協調しないで協力しないならこれも悪でしょう。そして相手の陰口をたたいたりするならこれはもっと大きい悪だし、サタンが喜ぶことでしょう。ただその人がこれまで自分なりに奉仕をしていたことは、人に認められるためにしていたことを自分で明らかにする姿です。ですからこういう悪は、断食して火のように祈って必ず捨てなければなりません。そうしないでこのくらいは自分が相手を呪ったり大きい害を与えたのでもないのにと思うなら、それがもっと大きい悪に育ってしまったり、そして自分の中にずっと隠れた悪があるということです。 今ヨブとヨブの友達を見ながら、本当にひどいな、悪いな、どうして互いにあんなふうに言い争って呪ってまでしているのかと思いますか。皆さんの心にもそういうところがあるかもしれないのです。自分がヨブのような境遇に置かれたら、ヨブよりもひどく悪を行うこともあるということです。だから潜んでいる悪を探し出さなければならないし、言い争ったりすることはなくても、心の中で相手を理解できなくて、そうでなければ思い込みの中で決めつけてしまったり、人に悪口を言ったりする、そういう姿はありませんか。それを発見したならば早く捨てなければなりません。発見したのに捨てなければ、ずっとその隠れた罪が自分の中にあるから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。それは敵である悪魔サタンが喜ぶことです。試練と患難をもたらす原因になるのです。 だから悪はどんな悪でも避けなければなりません。私はヨブの友達のようにひどい悪を行っていないと思うかもしれませんが、神様がご覧になるとき、自分の心を本当に聖いのかと変えられなければなりません。相手を無視したり自分より劣っていると思ったり指摘されたくないと思ったりすることも同じです。
ヨブ記講解
再掲載のお知らせ
休載しておりましたヨブ記講解は、42回目より再開できるようになりました。たましいの深いところまで掘り下げて、自分とは何なのかを導いて下さる神様の御手を、ヨブ記講解の深いメッセージより汲み取っていただければ幸いです。
「ヨブ記講解(47)-悪の極み」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:16~21
これまでヨブに向かって、あらゆる呪いの言葉を言っていたビルダデは、今は木を例えて言い切っています。ヨブ記18:16-17です。
「下ではその根が枯れ、上ではその枝がしなびる。彼についての記憶は地から消え失せ、彼の名はちまたから消える」(ヨブ18:16-17)
木は根が枯れると死ぬしかないでしょう。そして枝がしなびるならどうなるでしょうか?これは完全な死、すべてが消え失すことを意味します。そして彼についての記憶は地から消え失せとあります。その人には何も残らない、人々に覚えられるようなこともなくなるということです。それで人々の間でヨブの名前も呼ばれることもなくなり、ヨブについて言及することもなくなって、すべてが徹底的に滅びてしまうという意味です。ヨブはこれだけ呪われるほどの悪い人ではないのに、友達はあまりにも厳しく呪っています。
みなさん、たとえ相手が悪い人でもその人を呪うことがあってはいけません。何としてでもその人の良いところを見つけて褒めてあげて、その人も善を感じて善の中に入るように道を開いてあげなければなりません。それならヨブを慰めに来た友達が、なぜこのように悪い言葉でヨブを腹立たせて、ヨブの怒りを爆発するようにしたのでしょうか?もちろん友達の悪によるものですが、ヨブを変えさせようとする、神様のご計画の中にありました。
ヨブ記講解で伝えているように、私たちが平安の時は自分の中にある悪を見つけることは難しいです。試練艱難にあってこそ、自分の中にどんな悪があるのか発見することができます。罪とか悪だけではなくて、自分の心の狭いところとか自分の弱いところも、試練艱難にあってこそ発見することができます。より深い愛の次元に成長するためにも必要な過程です。広い心になるためにも、多くの人を受け入れるためにも、試練艱難という過程を通して発展して成長する過程が必要です。
自分なりに祈っていて罪は犯していないようでも、ちょっとモヤモヤがあって喜びが心の中から湧いてこない場合もありますが、それも神様が練ってくださることがあります。自分を誤解して自分について良くない話を他の人にするとか、そういう人が周りにいるとしましょう。自分は熱い心で積極的に何かをしたのに、それが気に入らなくて反対する人がいるとしましょう。その時自分の心はどうなのか?それが罪とか悪ではなくても、自分の心が狭いというのが発見できることがあるでしょう。なんで私のことを理解してくれないのかとか、なんで私はやってもいないことをやったと人に言うのかと落ち込んでしまったり、心が覚めたりすることがあるならば、それも自分の心が狭いからだと悟るようになりますね。祈りながら聖霊様にその理由を教えてくださいと祈れば、自分の姿を発見するようになるでしょう。私の器が狭いんだ。自分自身を愛する姿
があるんだ。昔の信仰の人々のような心ではないんだと、悟るようになるでしょう。
今の私なら迫害されたら殉教できるのかと、自分を発見することがあるでしょう。自分の愛の足りなさを悟って、悔い改めるようになります。神様私は周りの人にあれこれ言われたことで感謝できませんでした。喜べませんでした。このような狭い心の自分を発見しました。悔い改めます。さらに広い心を持つようにしてください。主に似た心に変えられるようにしてくださいと。このように試練艱難を通して自分自身を発見して変えられることができるなら祝福でしょう。
しかしヨブや友達のように試練に会った時、神様の前に呟いたり互いに言い争ったり、悪を行うことはとても愚かな姿です。そうではなくて私たちは、自分を発見して成長するようにしてくださる祝福の糧だと思い、試練の時祈りながら感謝しますように。それで聖霊が悟らせてくださる時、素直にアーメンと受け入れて従って変えられますように。ヨブは試練に会う前は、まるで大きい容器にゴミが沈んでいる水のようで、上のところだけ見ると綺麗に見えました。しかしヨブの友達がヨブの怒りを刺激して激しく揺さぶったら、ヨブの深いところにあったゴミが、悪の姿が一気に現れたのです。この容器の水が本当に綺麗になるためには、沈んでいたゴミは全部取り除かなければなりません。それで完全に綺麗な水になると、その後はどんな人や環境がいくら揺すっても小さいちりも出てこないでしょう。
ですから神様はこのように綺麗な心になるように、ヨブからちりを取り除く作業をしておられるのです。皆さんも試練という過程を通して自分の中にあるゴミが発見されるならば、気を落とすのではなくて感謝しながら、その時その時捨てて速やかに変えられますように。今のこの試練の時が苦しいでしょうか?辛いでしょうか?そのような方々は自分の心を変えさせる作業をしていないからです。自分を発見しようとしないで、周りの人のせいにしたり環境のせいにしたりしているからです。しかし自分を顧みて自分を発見して、信仰が成長するチャンスだと思って変えられていくならば、この時間が辛いのではなくて嬉しくて幸せでしょう。神様の人間耕作の摂理をさらに深く悟ることができるでしょう。そして人の子等の悪、裏切る悪を痛感して自分の中からそれを捨てていくでしょう。そして周りの人を変化に導くこともできるようになるでしょう。皆さんはどのようにこの時間を過ごしているのでしょうか?落ち込んで辛いと思っていますか?きついと思っていますか?でなければ感謝と喜びを持って幸せでいますか? 続くヨブ記8:18でビルダデはこのように言っています。 「彼は光からやみに追いやられ、世から追い出される」(ヨブ8:18) 光からやみに追いやられるとは死を言っています。希望を全部失うことを意味します。そして世から追い出されるとは、ヨブがこの世からいなくなることを言っています。ただ死ぬようになると表現してもいいでしょうが、世から追い出されると表現しているから、とても悪い呪いでしょう。この中に込められた意味は、ヨブが悪いから罠にかかった。それで世から追い出されると言っているのです。つまり世と周りの人がヨブを受け入れないで見捨ててしまったという意味です。 例えばある人が絶望的な時、世にも見捨てられ、全ての人が自分を見捨てたということがあります。これは最後にもう生きる希望がなくなった時に言う言葉でしょう。ビルダデはこのような呪いの言葉を、ためらわずにヨブに向かって言っているのです。ヨブ自身がそのように嘆いてもいけないのに、ビルダデはヨブがそんなものだと呪っているのです。皆さん、今私たちはヨブの友達ビルダデの姿から、悪の極みを見ています。 ところで神様はこれを通して自分自身の心はどうなのか、自分の言葉はどうなのか、顧みるように望んでおられます。例えば神様を信じると言いながら、真理と反対の言葉をためらわずに口にして、相手をつまずかせることがあります。これは相手を直接呪ったのではありませんがとても悪いことであり、相手を苦しめて霊的に殺す言葉になることがあります 例えば人の過ちを伝えて噂話をして誤解させる場合があります。ある人の過ちを知ったことを、第三者に伝えるのです。それで一緒に陰口を叩くのです。それで相手がその人を裁いて罪に定めるようにするのです。だから大きい悪でしょう。自分ひとりでその人を裁いて罪に定めることも悪いのに、人に伝えて一緒に悪を行うようになるのです。だから悪に悪を加える姿です。そして自分の言葉によって仲違いをさせたり、互いに憎み合うようにする人もいます。他の人について噂話をしてそれで互いに誤解するようになって、仲違いをしてしまうことがあります。もちろん自分が実際聞いたこともあるかもしれませんが、伝えないほうがいい時もあるでしょう。 Aという人がある人について、あの人試練にあっていて助けたいなと言いました。それを当事者に伝えるのです。Aさんがこんなふうに言いましたと自分の考えの中で伝えるのです。すると相手が誤解するようになるし、Aという人について悪い印象を持つようになることもあります。Aという人が良い意図で言ったのに、自分の考えで悪く伝える場合もあるし、偽りを加えて伝える場合もあります。それで互いに憎み合うこともあります。これはとても大きい悪でしょう。でもそれを意識しないで平気で偽りを言ったり、それで後で忘れてしまうから罪の壁が壊されないのです。そして自分の考え、思い込みによって真理を間違って引用することもあるし、高ぶって偽りを聖霊の働きのふりをして言う場合もあります。このような言葉によって誰かが傷ついてつまずくなら、これはその人を光から闇に追いやることになります。自分の言葉のせいで全世界より尊い人を、信仰から離れさせてしまうこともあるのです。 マタイ18:6-7に、「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるようなものは、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は災いだ。」とあります。これは人につまずきを与える人に災いが臨むことを言っているのです。ですから私たちは悪い感情を持って口の言葉を制御できなくて、試練艱難を招くことがあってはいけません。人の心が悪ければその言葉も悪いでしょう。ビルダデの言葉を聞いてみればわかります。 ヨブ記18:19です。 「彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかには一人の生存者もなくなる。」 (ヨブ18:19) 前回ビルダデはヨブに「死の初子が彼のからだを食らおうとしている。」と言っていました。それはヨブの体だけではなく、他の子どもと家族、環境、業績とすべての祝福がなくなるということを表現しました。ビルダデはもう一度具体的にヨブを呪っています。彼には自分の民の中に親類縁者がなくなると言っています。ヨブの家のものが根絶やしされるという呪いです。皆さん、ヨブ記の内容が昔の話、旧約の時代にあったヨブのことだと思わないで、皆さんがその立場になってみてください。自分はヨブのような試練にあっていると思ってみてください。病気で苦しんでいるのに、友達が来て慰めるどころか、このように厳しく呪っているなら、どれほど心が痛むでしょうか。 元老牧師先生はこの場面で、人の心の悪を感じてとても悲しんだとおっしゃられました。そしてヨブの心を考えると、涙が出そうだと言われました。しかし多くの人が自分の小さい試練にとても苦しみながら、人の大きい試練にはあまり共感できません。そして相手が自分に一言言ったからと言ってそれによって辛いのに、自分の口の言葉によって相手が傷つくことは考えられません。もちろん皆さんの中には、ビルダデのように悪い言葉を言う人はいないでしょうが、何気なく言った自分の一言によって、相手にそれが傷になることもあることを、いつも覚えていますように。それでいつも善の言葉、励ます言葉、希望を与える言葉、温かい言葉を口にしましょう。 皆さん、職場でビルダデのように悪い言葉を言って相手を傷つける人が、そのような上司とかがいるなら、皆さんはどう対応するでしょうか。その人によって自分が傷ついたとか、その人の嫌味とかによって、自分を辛いと思ったことはありませんか?その時もしかして根に持っていて、後で言い返したり、人に悪口を言ったりする姿はありませんか?そうしてはいけないでしょう。私たちは世の人と違ってその人のために祈り、その人の心を理解してその立場に立ってみることが必要でしょう。しかし実際はそうできないこともあるでしょう。私は自分なりに善を持って対しているのに、なんであの人はずっとそのように悪い言葉を言って、嫌味を言って私を苦しめるのかと、その人を恨むとか、そういうことはありませんか?私たちはそうではなくて、神様のみ言葉に照らして善を行って、その人のために祈っていけば聖霊が働いてくださるでしょう。 続く本文ヨブ記18:20-21です。 「西に住む者は彼の日について驚き、東に住む者は恐怖に取りつかれる。不正をする者の住みかはまことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(ヨブ18:20-21) これはヨブの今の現状が酷い災いのサンプルになるし、その後を追う人々が恐怖に取りつかれるということを説明しています。ヨブの惨めな結末を警告しているのです。これはヨブを苦しめて、骨をむしばむような苦しみを与える呪いです。ビルダデはヨブがこのようひどい目に遭っていることは、ヨブが不正をする者で、神を知らない者だからと言っています。もちろんヨブは神様について正しく知らなかったので、つまり霊的な無知によって今の過程を経験しています。 もしヨブが神様を正しく知っていたなら、友達が真理を持ってアドバイスするとき、耳を傾けて悔い改めて立ち返ったでしょう。そして神様を恨むことはなかったでしょう。しかし旧約時代に神様を見つける体験もなく、ヨブのように潔白で正しく生きる人はあまりいなかったでしょう。だから神様もヨブの心を認めて褒めておられました。しかしビルダデはヨブのこのような心を知らないまま、不正をする者だとさばいていました。そしてヨブが不正だからその結果として惨めな結末になると決めつけていました。ではビルダデはヨブをそのように評価するほど、ヨブより正しいでしょうか?神様についてよく知っている人でしょうか?そうではありません。ビルダデは神様についてよく知らないし、正しくないのに神様をよく知っているように言い切っているから、おかしい姿でしょう。 十戒の第三の戒めで神様は「あなたはあなたの神の御名をみだりにとなえてはならない」と言われました。そして伝道者の書5:2に、「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。」とあります。神様の前で祈るとき、言葉を少なくせよという意味でしょうか?そうではありません。皆さんの日常生活で、自分の口の言葉に気をつけなさいという意味です。私たちの言葉と行い一つ一つを、聖なる神様が炎のような御目で見ておられるということをいつも心にとめて、神様の御名を崇めて、真理の唇になるように努めなければなりません。 ところで皆さんがノンクリスチャンの人と話をするとき、こういう人がいると思います。私も子供のとき教会に通っていたから神様を知っている。私も聖書を読んだから神様について知っているという人もいるでしょう。しかし神様について本当に知っているなら、天国と地獄があることも知っているから、信仰生活をするはずです。しかし神様を知っていると言いながら教会に来ないということは、自分が天国ではなく地獄を選んだことだから愚かなことでしょう。神様を知らないから信仰生活をしていないのです。 教会に通っていない人のことだけではなく、教会に出席していて礼拝も捧げている、奉仕をしている人の中でも、神様を知っている、信じると言いながら、真理通りに行わなければこれは真実な心ではないのです。神様を知るということは、神様の御子であるイエス・キリストを知っているということであり、それはイエス・キリストをただ頭で知っていることだけではなく、心で信じて救い主として受け入れて、その御言葉通りに行うことです。しかし多くの聖徒は主を信じる、神様の御言葉を知っていると言いながら、その御心通りには実行しないことがあります。これは本当に信じることでもないし、ただ知識として知っていることだけです。だから神様の御心ではなくて自分の思い通り、自分の利益に合わせて真理と反対のものを追い求めて、悪を行う場合があるのです。 働き人で、信仰歴が長い神様の御心を知っていると言いながら、人をさばいて罪に定めたり、憎んだり妬んだりしているならば、それは悪を行うことで神様を知っているのではないのです。本当に神様を信じてその御心を知っている人は悪を行えません。ですから私たちはヨブの友達のように、自分も神様の御心をよく知っているように錯覚しているのではないか顧みますように。エペソ4:13に、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに対し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、完全に御心をおこなって神様が望んでおられる子どもの心に変えなければなりません。 結論です。 皆さん、アフリカのある部族では使い道のない木をノコギリで切る代わりに、その木に向かって全ての住民が死んでしまえと叫ぶそうです。そのように呪いの言葉を続けると、実際木がだんだん枯れて死ぬそうです。魂のない木もその言葉に敏感に反応しますが、人はどうでしょう。言葉の力は驚くべきものです。自分の一言によって相手が傷つくこともあるし、勇気を出すこともあります。言葉は人生を左右します。 箴言13:2です。「人はその口の実によって良いものを食べ、裏切る者は暴虐を食べる。」とあります。人はどんな言葉を口にするかによって、祝福されたり呪われたりもします。ビルダデのように厳しい呪いの言葉は言わなくても、心にある悪のため無意識に争いを引き起こしたり、傷つけたり、押しつけるような言葉を口にしているのではないか、顧みますように。そして同じ言葉でも言うべき時があり、言ってはならない時があって、それが必要なのか、じっくり考えて口にする知恵が必要です。どんな言葉を口にするかによって相手が喜んで、慰められたり愛の絆を強くする場合もありますが、反対に傷つけたり苦しみを与えることもあります。ですから、いつも自分がどんな言葉を口にするかはとても大切です。 心が神様によって聖くなる人は口の言葉も聖くなり、善の言葉に変えられます。ルカ6:45で「良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とある通りです。善と愛の言葉を口にするためには心から憎しみ、憤り、怒りなどを捨てて、善と柔和、愛で満たしていかなければなりません。ですから毎日御言葉と祈りによって心を聖めていき、皆さんの口からは傷つける言葉とか、攻撃的な言葉ではなく、徳と愛をもって命を与える言葉だけがありますよう主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思いながら、一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデがヨブに向かって呪う姿を見ました。その言葉はあまりにも悪くて厳しい呪いの言葉でした。悪の極みを感じました。しかしそれはただビルダデの姿ではなくて、自分の心も自分の姿もそうではなかったのか、顧みて悟りますように。周りの人に対して、兄弟、姉妹に、そして他人に対しても、自分がどんな心でどんな言葉を口にしていたのか、顧みて発見して変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
「ヨブ記講解(47)-悪の極み」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:14~15
皆さん、前回はシュアハ人ビルダデが、ヨブに向かって厳しく呪う言葉を一つ一つ調べてみて、私たちの言葉がどれほど重要なのか伝えました。ヨブはまだ御霊の人ではなかったので、友達から責められ呪われた時、とても心が苦しくなりました。だからヨブも友達に向かって悪い言葉で言い返して、互いに自分が正しいと言い争っていたので、感情的になって、だんだん悪に悪を加えていきました。もしヨブと友達が御霊の人だったなら、どのように対応したでしょうか?
相手が罵っても殴っても感謝しながらその相手のために祈っていたでしょう。あの人が私をこんなに苦しめるから、私は言ってもいないことを言ったと言いながら、ぬれ衣を着せるから、私は言い返しをしなくても、あまりにもそのため傷ついてしまいました。それで祈りたくなくなって悲しくなりました、というならそれは悪いことではないと思いますか?いいえ、それも自分を愛する姿で、相手を憎んでいる心があるから、そんな反応が出てくるのです。
悪い人が悪を行うとき、それによって自分が被害を受けるとき、もちろんそのため悲しいでしょう。それで心が痛む時もありますが、しかし皆さんの心の底にある幸せと喜びはなくならないのです。傷つくことがあっても、心から湧いてくる喜びはなくならないのです。しかし今ヨブと友達が、互いに悪で報いているような姿ではなかったとしても、もしかして熱心が冷めたとか、祈りたくなくなったとか、落ち込んでいたとか、そういう姿があるならそれも悪から出てくる姿であるのです。しかし御霊の人ならば喜んで感謝するし、相手のために平和を作るために善を行うでしょう。
例えば使徒パウロの場合、福音を伝えていて受けた苦しみはとても大きかったです。使徒パウロは何の過ちもないのに、ユダヤ人たちは迫害しました。パウロがイエス・キリストが神の御子だと伝えるから、それを受け入れられなくてパウロを迫害しました。使徒パウロはイエス様が救い主であることを伝え、神の力を行っていました。それでユダヤ人は彼を憎んでいました。パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓った人が40人もいました。どれほど悪い姿でしょうか。
使徒パウロは彼らに何か害を与えたのでもないのに、かえって多くの人の病気を癒して、神様の福音を伝えて善を行っていたのに、ユダヤ人たちはそれが嫌でパウロを憎んでいました。そして自分にはない神の力が現れているから、ねたんでいました。だからそのようにパウロを殺そうとしました。40人は飲み食いもしないと誓ったのです。聖書に書いてあるこのような出来事を読んで、初代教会の聖徒が受けた迫害のことを思ってみれば、今私たちが受けている試練はあまり大きいものではないのがわかります。
私たちも使命を行っていて、主の福音を伝えているのに、なんでこんなに迫害されるのかと思うかもしれませんが、使徒パウロが受けた苦しみや迫害と比べてみれば、取るに足りないものでありませんか。敵である悪魔サタンはいつでも神の人を妨げて殺そうとしてきました。どの時代にもあることです。パウロが福音を伝えるところには、彼を迫害して殺そうとする人がたくさんいました。パウロが行くところについて行って妨げていました。ある時は石打ちにされて彼が死んだと思われた時もあったし、鞭で数え切れないほど打たれたし、牢に入れられることもありました。それでも使徒パウロは彼らを呪ったりしませんでした。 ローマ9:3に「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」とあります。「私の同胞、肉による同国人のために」と言っています。自分を迫害しているユダヤ人のことですね。その人々の救いのためなら自分が「キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」、つまり自分が地獄に行ってもいいと言っているのです。このように深い善と愛の段階に入ると、敵のためにも命まで渡すことができます。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように、望んでおられます。 ですから今日もメッセージを聞く時、ヨブの友達はあまりにも悪いとだけ思うのではなくて、自分の中にはそんな悪の属性があるのではないか、顧みますように。それでエペソ5:13に「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」とあるように、皆さんも心の中にある悪を発見するならば、光によって善によって変えられますように。前週に続いてヨブにビルダデは呪っていますが、だんだんその程度がひどくなっています。今日はもっとひどい呪いの言葉を口にしています。 ヨブ記18:14です。 「彼はその拠り頼む天幕から引き抜かれ 、恐怖の王のもとへ追いやられる。」(ヨブ18:14) 「拠り頼む天幕から引き抜かれる」とは、すべての家が壊れて身のよりどころがなくなるという意味です。人が潰れると、住んでいた家まで奪われることもあります。このような惨めな身の上になることを言っています。そして「恐怖の王のもとへ追いやられる」とありますが、これはどういう意味でしょうか?多くの人が恐ろしい存在を連想すれば、悪霊のような闇の勢力を思い浮かべます。このような闇の勢力を支配する王なら、ルシファーのことでしょう。しかしここで恐怖の王とは、悪霊やルシファーのような何か闇の勢力を言っているのではありません。私たちがある分野の頭を言うとき、単語の終わりに王をつけますね。何々王と言って発明王とか、貯蓄王とか表現します。ここで恐怖の王というのは、恐怖の極みに達した状態を言っています。したがって恐怖の王のもとへ追いやられるとは、激しい恐怖に囚われて、だんだん心を奪われていく状態を言っています。 ビルダデは火事が起こった家に油を注ぐように、あざける言葉でヨブの心をもっと苦しめています。 ヨブはヨブ記17章:13-14節でこう言っていました。「もし私が、よみを私の住かとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、『おまえは私の父だ』と言い、うじに向かって、『私の母、私の姉妹』と言うのなら、」と言いました。ヨブは惨めな病気で家はバラバラになった状態で、生きる希望を失ってだんだん恐怖に囚われていました。それでヨブは続けて自分の妥当性を主張して、神様の前に立ち向かって友達と言い争ってきました。そしてヨブはこのように恐怖の状態に陥るのをビルダデは知っていたから、恐怖の王の下へ追いやられると表現して、ヨブをあざけっているのです。 ここで私たちが悟るべき重要なことが二つあります。これは恐怖によって起こることについてのことです。第一は、恐れることによってヨブのように一生懸命自分を言い訳することです。例えば、自分が言ったことに責任を取れないとか、任されたことを果たせないとき、人々は恐れます。もしかして叱られるのではないか、他の人に無視されるのではないか、自分の無能さが明るみに出されるのではないかと不安になります。それで心配して恐れて一生懸命言い訳をするのです。 例えば、小さい子供がお母さんがそうしてはいけないと言われたことをしたならば、叱られるのではないか恐れますね。すると、その子供はどんな反応をするでしょうか。お母さんに指摘されたとき、どう言い訳をしようかと思います。でも、お母さんが見ていると、その子供が考えていることが見えますね。皆さんも自分がミスをしたり、あやまちをしたことが人に知られることが不安で、言い訳しようとするのではありませんか。 信仰にあっても、真理の中に住んでいないとき、または知っていながらも聞き従わなかったり、怠けて御言葉通りに行わなかったとき、恐れを持って、自分を合理化するために言い訳をします。自分の過ちを認めればいいのに、あの人のせいだ、環境のせいだと言います。しかし、相手が自分の話を聞いてくれなければ、不満を抱いて言い争うようになることもあります。自分が言い訳をしたとき、相手がそれを聞いてくれないと、ヨブとヨブの友達のように言い争うようになるのです。 皆さんにはこういう姿はありませんか。自分にあやまちがあるなら、それを認めればいいのに。それを認めたくないから、自分を合理化するために言い訳をし続けるのです。すると相手はそれを認めないで指摘するでしょう。だから互いに言い争うようになって、感情的になって、悪を行うようになるのです。でも自分自身は、自分が恐れのため言い訳をしたとは悟れないのです。でも自分の心の中にそういう恐怖があるから、人に無視されるのではないか、自分の無能なところが明るみに出されるのではないかと思って、自分を弁明して、自分を守るために言い訳をするようになります。そして人のせいにしたり、何かの理由付けをして環境のせいにしたりするのです。それが認められなければ争うこともあります。これが恐れによって起こることなのです。 第二は自分を縛りつけることがあります。何かについて恐れると、その原因を悟って早く立ち返らなければなりません。聞き従わなかった人が聞き従って、真理と反対のものをしていた人が真理を行うように、怠けていた人が誠実な人に立ち返ればいいのに、そうでなければ、だんだん恐れに支配されるようになります。皆さんが罪を犯していけば、恐怖に囚われるようになります。罪の意識があって、恐れを感じるようになります。それで不安になって、心配になっていくのです。だんだん自分を押さえつけるようになります。でもその罪の意識がなくなると、罪を罪とも思わないで平気で罪を犯すようになります。それは本当に恐ろしいことです。だから自分に罪の意識があるとき、早く立ち返らなければならないのです。 罪を犯していくとき、恐れを感じるときがありますね。もしかして運転しているとき事故に遭うのではないか不安になったり、道を歩いているとき、上から何かが落ちてきて当たるのではないかと恐れるようになります。そのとき早く立ち返って悔い改めなければなりません。しかしそうしないで、肉のものを追い求めて世を愛していって立ち返らなければ、だんだん御霊のうめきも聞こえなくなってしまい、良心が鈍くなってしまうのです。それで死のうちにだんだん落ちていくのです。皆さんにはそういうことがあってはいけないでしょう。 ですから恐れを感じるようになるときは、御霊の働きだと悟って、速やかに罪と悪から立ち返り悔い改めされますように。皆さんが罪と悪にとどまっていると、いろんな形によって恐怖を覚えるようになります。食事をした後消化しなければ、聖霊に満たされていたときは、ちょっと食べ過ぎたかなと思うだけなのですが、しかし今自分が闇の中にとどまっていて恐れているならばどう思うでしょうか?ちょっと胃が痛くなったり消化しなかったりすると、もしかして大きい病気にかかっているのではないかと不安になるのです。それで数日後それが治ったならば、また自分勝手に罪の中を生きるようになります。 何か体に異常があるときは恐れて、神様の前に悔い改めればいいでしょう。それで痛かったところが癒されれば、神様に感謝して霊的に成長すればいいのですが、反対にどこか痛くてちょっと不安になっても、それが治ったらまたそれを忘れてしまい、相変わらず肉にとどまっている愚かな人になってはいけないでしょう。そして現代を生きている人々には、このような恐怖というものによって、いろんな肉の思いによって鬱病にかかったりすることがあります。パニック障害によって引きこもりになったりすることもあるし、人に会うのが恐ろしくなる対人恐怖症になったりすることもあり、いろいろな問題として現れるのです。しかし神様を信じて主を受け入れた人ならば、そのような恐怖に支配される理由がないのです。自分が御言葉通りに生きていないし、光の中を歩んでいないから、闇がだんだん入ってくるようになって、それによって恐れが生じるのです。しかし神様を愛して聖霊に満たされているならば、いつも幸せで喜びが溢れているでしょう。 そのような生き方をしなければなりませんが、恐れがあり不安があって心配があるならば、何か神様の前で相応しくない姿があるということでしょう。世の人々はその恐怖のためどれほど苦しんでいるでしょうか。そしてある場合は、自分の過ちによるものではなくて、成長する過程で親に暴力を振るわれたりする人もいるし、でなければ職場で上司のことで抑えつけられて、自分がその恐れを覚えることもあるかもしれませんが、真理のみ言葉には答えがありますね。成長過程で親が暴力をふるったならば、そのため自分は今こうだと言い訳をするのではなくて、そのような親を理解して愛を持って受け入れてその親のために祈り、それで自分が許して和解できるようになるならばどれほどいいでしょうか。 そしてお父さんがなぜそうするしかなかったのか、仕事がどんなに大変だったのかとか、いろんな悩みがあったからお酒を飲むしかなかったんだと理解できるなら、受け入れることができるでしょう。そして自分には今、霊の父である神様がおられるから、神様の愛に包まれて、その恐れとかそのような心の傷なども神様の愛によって全部癒されることができるし、解決できるのです。それで愛を持って親のために祈るなら、神様がその相手の心に働いてくださって、関係は良くなるでしょう。ある人は親のせいで自分がこんな性格になってしまって、被害妄想とかがあるんだと思うのですが、そうではなくて、神様の愛と主の愛で心が満たされれば、そういうものは自然になくなるのです。私たちは真理にあってさらに成長しますように。 第1ヨハネ3:21-22です。「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。神様の前に真理を行っているなら、恐れはなくなって、大胆に神様の前に出ることができます。どのようにすれば大胆に出ていくことができるのか、答えがこの御言葉の中にあります。「自分の心に責められなければ」とあります。そして「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。このような人ならば恐れないし、神様の前に求めるものは何でもいただけるでしょう。私たちも光の中を歩んで真理を行っているなら、大胆に神様に求めるし答えを受けるでしょう。このような人はもしかして過ちをしたとしても、神様の前に素直に認めて指摘されるのを喜んで、悟った後は立ち返るでしょう。 だから言い訳をしないのです。私にこのような肉の痕跡があって過ちを犯しました。申し訳ありません。これからは御言葉通りに生きますと言って、感謝して喜ぶことができます。このため救われないのではないかと不安になったりしないのです。しかし多くの人が変えられたいと言っていますが、何か指摘されたり過ちが明るみに出されたりすると、言い訳をするのに汲々とします。罪を犯しておいて心から悔改めていないから言い訳を続けて、悔改めると言っていても、責められるのが嫌で自分の過ちを認めるのが嫌だから、続けて闇に留まるのです。すると喜びもなくなって聖霊の満たしもなくなるから恐れるのです。 だから恐れを締め出すためには、御言葉通りに生きていない自分を認めて立ち返らなければなりません。完全に変えられるなら、それ以上、敵である悪魔が支配できなくなるから、恐れはなくなり平安と喜びが望みます。しかし自分は神様を愛して信じていると言いながらも、心配があり不安があり恐れがあったのではないのか顧みますように。速やかに闇の業を脱ぎ捨てて光の中を歩みますように。 「彼の天幕には、彼のものではない者が住み、硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」 (ヨブ18:15) 「彼の天幕には彼のものではない者が住み」、これはヨブの家が壊れてなくなった場所に、よその人が住み着くという意味です。硫黄はマッチとか火薬を作る原料で火をつける成分があります。したがって「硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」とは、ヨブのすべてが火で焼き尽くされるという意味です。例えば皆さん、石油を家の中にまき散らされたなら危ないでしょう。家全体が焼き尽くされる危険がありますね。そういうことです。他の人がヨブの家を奪い取るだけではなく、ヨブに残っているものも全部火で焼き尽くされるという意味です。つまりヨブのすべての基盤が滅びて跡形もなく、すべてがなくなるという呪いの言葉です。 このメッセージを聞いている皆さんの中で、ビルダデはひどい、悪い、どうしてあんな呪いを言うのかと考えるかもしれません。しかし自分の心に裁き、罪で定めること、妬み、憎しみ、高ぶりなど悪を捨てていない以上、自分も悪を言うことも行うこともあるのです。多くの人が悪を行っている姿を見るとどうでしょう。そして教会を妨害している人を見るとどうでしょう。その人を憐れんでその人のために祈らなければなりませんが、そうではなくて、その人が憎らしいのです。そしてその人は地獄に行くようなことをしているんだと言うのです。そしてその人が失敗するのを願うのです。 こっそり。 それならビルダデと同じようなことではありませんか。もちろん悪を行う人が悪いのですが、どうして自分がその人を裁いて、罪に定めて自分の悪を行うのでしょうか?そうする必要はないでしょう。ある人の悪をなぜ他の人に伝えるのでしょうか?それよりはその人の悪を知らないほうがいいでしょう。それならその人を憎むこともないし腹を立てることもないでしょう。ある人がひどい悪を行って自分を苦しめたとしましょう。それで自分はそれが悔しくて他の人のところに行って、その人の悪をあれこれ言うとするならば、相手だけではなく自分にもその様に大きい悪があるということです。 ビルダデのようにひどい呪いの言葉を言わなくても、自分の中にある妬み、憎しみ、高ぶりなど悪があると、自分も同じような人になる可能性があるのです。そしてとくに多くの人が自分の目の梁は見ることができず、相手のちりを見て指摘することがあります。これは大きい悪です。しかし人々はこれに気づかないことがよくあります。神様は人のちりを指摘する前に、自分には梁があるのではないか調べるようにと望んでおられます。自分にある悪は発見できないし、人の悪を指摘する人がいます。マタイ7:5ではそういう人を、「偽善者よ」とイエス様は言われました。この様に大きい悪を行っている人なのです。偽善者なのです。どれほど愚かな姿でしょうか。 マタイ7:5です。「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」自分の中にある悪を全部捨てた後でこそ、他の人の悪も真理を持って正確に悟らせることができます。そうしないで相手を指摘して叱るなら、神様はあなたの目にはもっと大きい梁があるのよと、言ってくださるのです。偽善者だと言われるのです。それは大きい悪だと言われるのです。しかし自分がまず自分の悪を捨てて変えられた後、愛を持って相手を悟らせるならば、相手も変えられることができます。兄弟の目からちりを取り除くためには、まず自分の目から梁を取りのけなければならないのです。 第1テサロニケ5:22に「悪はどんな悪でも避けなさい」とあるように、私たちは大小を問わず、どんな悪でも完全に捨てなければなりません。ビルダデは今ひどい呪いの言葉を言って、大きい悪を行っていると思いますか?そして自分にある悪は小さく見えますか?いいえ、神様の前では同じ悪です。相手の過ちを他の人に伝えて噂話をすることも、陰口を叩くことも。ビルダデと同じような悪の根から出てくるものなのです。ですからそれを発見して捨てなければなりません。
「ヨブ記講解(46)-自ら罠をつくらないように」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:11~13
「恐怖が回りから彼を脅かし、彼の足を追い立てる。彼の精力は飢え、わざわいが彼をつまずかせようとしている」(ヨブ18:11-12)
ビルダデはヨブ18:2で「いつあなたがたは、その話にけりをつけるのか。まず悟れ」と友達に言ったのですが、いざとなると自分の口ではこのように、ものすごい災いと呪いの言葉を言い放っているから、どれほど矛盾なことで悪いことでしょうか。ここで彼の精力は飢えとあります。ここで精力とは、ヨブが過去に味わっていた富と財産 、名誉、知恵を言います。そして飢えるとは飢饉による飢えでなくて、ヨブの子供たちがみな死んで、すべての富と名誉など、今まで積んでおいたものが崩れてしまったことを意味します。
つまりヨブの自尊心、高ぶりなど、ヨブの角が全部引き抜かれたことです。過ぎ去ったことです。ヨブ、自分の姿を見てみなさい。あなたが積んだものは全部壊されてしまった。あなたの力もなくなった。災いがあなたを待っているだけだと言っています。これまでヨブに悪性の腫物などどんな苦しみがあったのかを表現しながら、今苦しんでいるヨブをあざけってさらに苦しみを受けるように呪っている姿です。みなさん、これまでヨブ記を調べてみるとヨブの友達の姿はどれ程悪いでしょうか。そして友達を無視して、罪に定めているヨブも同じです。それではヨブと友達がなぜここまで互いを傷つけるところになってしまったのでしょうか?互いに自分が正しいと言いながら、言い争うから怒るようになって感情的に対立して、だんだん悪に悪を積むようになりました。
このように心が完全にきよめられる前は、言い争う人がいるなら両方とも間違っているのです。互いに言い争っていて、第三者にどちらが正しいか判断してくれという場合がありますが、お互い様です。相手の方が悪いと思いますか?相手がそう言ったから、私はこう言ったというのでしょうか?そうではありません。自分に悪があるからです。そして相手は自分が正しいと思っているから、そう言っているのです。
このように言い争うことは、目上の人と目下の人の間でもあります。すると目下の人は目上の人の前で、怒鳴ったりすることはできないでしょう。文句があったら、ぶつぶつ言ったりするかもしれません。目上の人なら、自分が言い争っていることに気づかないかもしれません。夫婦の間でもそうです。ある人は自分の意見をストレートに言ってしまう人がいて、ある人は内気で、あまり言えない人がいるならばどうでしょう?それで互いにぶつかることもあります。
今ヨブとヨブの友達の場合は互いに言い争っていて、私たちはそれを第三者の視線から見るから分かるのですが、皆さんが当事者になると気づかないかもしれません。そして自分はあまり強く言わない人だから、おとなしい性格だから、ヨブのようには激しく言っていないからと思うかもしれませんが、心の中はどうでしょう。ですから皆さん、誰かが悪いと言う前に、まず自分を顧みなければなりません。そして本当に正しい人ならば、人を嘲笑ったり、非難することはないでしょう。 私は言い争うことはありません、口論とか怒鳴ることもありません、と思うかもしれませんが、しかし噂話が好きな人がいるかもしれないし、その人がいないところでひそひそ話をしながら、その人の悪口を言っているかもしれません。そこまで言わなくても、その人がやった悪いことをなんとなく言いながら、その人の印象が悪くなるようにすることがあるかもしれません。ですから自分を顧みなければなりません。続く聖句にも、ビルダデはヨブを呪っている内容が続きます。 「彼の皮膚を食らおうとしている。死の初子が彼のからだを食らおうとしている。」 (ヨブ18:13) 「皮膚を食らう」とはどういう意味でしょうか ?ヨブが今ひどい皮膚病によって、悪性の腫物によって苦しんでいる姿を表現しています。ところで霊的な意味で、皮膚とはヨブの身体だけではなくその家族や環境、これまで積んできた業績とヨブが受けていた祝福を、全部言っているのです。ですからここで皮膚を食らうという意味は、ヨブのすべてが災いによって完全に滅びてしまうという、厳しい呪いの言葉です。 また「死の初子が彼の体を食らおうとしている」とは、ただ死ぬのではなくて、非常に苦しい死に方をするという意味です。普通の死ではなくて根絶やしにされるみじめな死であり、骨の節々全身のすべての部分が腐っていくような、むごたらしい死に方を言います。人々が死ぬケースを見ると老衰によって自然に死ぬ場合があるし、突然の病気とか事故によって死ぬ場合もあるし、自殺もあります。韓国では昔から寿命を全うして、安らかに死を迎えるのが祝福だと思っていました。実際に多くの人が、寝ていて静かに死ぬのがいいと言っています。 ところで本文でビルダデが、ヨブに言っている死はどんな死でしょうか?死の初子が彼の体を 隅々まで喰らうと言っています。単語そのものだけ聞いても、恐ろしくて惨めな呪いの死でしょう。人が負の感情を剝き出しにすると、このように激しい表現まで使います。特に罪がはびこっている今日ではどうでしょう?ニュースでこのような悪い姿を見ることがあります。互いに口論していて、頭にくると相手に向かって、ひどい悪態をついて、死ねと言ったりする場合もあります。しかも、こういう言葉を身近な間の家族や兄弟、近所の人にも言うのです。これを聞いた相手はどれほどショックを受けて、苦しいし悲しいでしょうか。言った人は一瞬かっとなって言ったと言うかもしれませんが、それを言われた人には大きい傷になるのです 。 そして最近はオンライン時代で、自分と全然関係のない人に 無分別に呪いの文を書いたりします 。自分に何か悪いことをしたわけでもないし、話をしたこともない人に対して、誹謗中傷、悪口などをためらわずに言うのです。匿名だからすまない気持ちもなく、責任感もなくそのようにするのです。匿名でいろんなコメントとか、そして何かニュースとか話題になったことについて、あれこれコメントをつけるのですが、その中を見てみると呪いの言葉とか悪態もあるし、いろんな偽り、悪口、中傷、誹謗などが書いてあります。そのような文を見る当事者はどれほど苦しいでしょうか? それによってうつ病にかかったり、人生を諦めてしまうこともあります。直接の殺人ではなくても、言語暴力によってこのような傷をつけることがあります。皆さんには、こういう悪を行う方はいないでしょうが、最近はそのようなコメントを書き込む年齢がだんだん若くなって、小さい子どもも小学生もそういうことがよくあるみたいです。小学生がこのように本当に厳しいことを書き込んだりすることも、悪い書き込みをすることもあるみたいです。皆さんもしかして自分の子どもはそんなことがないのか、見守っていて気をつけなければならないでしょう。 今日は子どもの主日ですが、自分の子はそんなことないと言うのではなくて、家庭の中で親の前ではそう言わないかもしれませんが、学校で友達といるときはどうなのかわからないでしょう。そして学校で友達の中で、誰かに何か悪い書き込みを書いておいて、それを誇っているように自慢するように言う場合もあるそうです。そしてある子どもは、自分にお金があるのに万引きをする場合もあります。それはお金がないからではなくて、何か心が満たされていないから、それによって満足感を得るとか、そのような心理的なこともあるみたいです。そしてちょっと力が強くて体が大きい場合、自分より弱い子どもを殴ったりいじめたりすると、自分についてくる子どももいるから、それは自分がよくやっていると思う場合もあるみたいですが、万民の子どもの皆さんはそのようなことがあってはいけないでしょう。 そういうことは悪いことだと正しく教える必要があるでしょう。皆さんが自分も知らないある人に 匿名で何か悪い書き込みをしたことはないとしても、皆さんの家族とか兄弟とか教会の聖徒の間で、もしかして気に入らない人に対して不満を抱いて、その人の悪口を言ったりすることがあるなら、それも全部同じ悪から出てくることなのです。だからその悪い心そのものを捨てなければならないのです。真理を知って聖めを慕っている皆さんなら、本文でヨブを呪っているビルダデを見ながらどう思いますか?ビルダデという人は本当にひどいな、どうしてそんな悪い言葉を口にすることがあるのか?どうして友達にそんなふうに悪いことをするのかと思いますか?それなら真理を知る前の過去の自分の姿はどうだったでしょうか? もしかして今もそのような悪の性質が残っているのではないか、顧みなければなりません。ヨブの友達には知識もあって教養もあったのですが、言い争っていったら大きい根本の悪が明らかになりました。人の心の底に潜んでいた悪の性質があらわになったのです。人が聖められる前はこのように心に深く潜んでいた、悪の性質が現れることがあります。だからその根まで引き抜かなければなりません。そのためには火のように祈って心の割礼をしなければなりません 。 自分に悪を行う人に対して、その人を憎む心もないし、不満もないし、何の感情もなくただ愛を持ってとりなしの祈りができるでしょうか?そうはっきり言えるでしょうか?そうでなければ、そう言われて黙ってはいたけれど、心の中でイライラしたりむしゃくしゃしたりして、やっと我慢している自分がいるのではありませんか?それで相手がもっとひどいことを言うと、自分からもそれが爆発してしまうことがあるかもしれません。次の時間にもビルダデの呪いは続きます 。 結論です。 皆さん、ヨブと友達は恨み呪いの言葉によって自ら罠を作っていきました。皆さんも普段自分が口にしている言葉がどうなのか顧みますように。ルカ6:45です 。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを放すからです。」とあります。良い心からは良い言葉が出てきますが、悪い心からは悪い言葉が出てきます。ビルダデの心にヨブに対する妬みそねみがあったから、ヨブが試練にあっている姿を見たら、このように呪いの言葉まで出ました。しかしビルダデも前ヨブが豊かで平安だったときは、ヨブを褒めていて憧れていただけでした。それで自分の心にねたみがあるのかわからなかったのですが、今いざとなるとその潜んでいた悪が現れたのです。ヨブも同じです。 これについて理解しやすく例えを元老牧師先生が挙げてくださいましたね。汚い水をコップに入れてしばらくしておくと、ゴミが全部沈んで上はきれいに見えますね。でもコップを揺すると沈んでいたゴミが浮かんできて、水全体が汚くなります。人の心も同じです。皆さんこの水飲めるでしょうか?今ゴミが沈んでいるとき上の部分だけを見るなら、きれいな水のように見えますね。これが透明でないコップだったなら、上から見るときれいな水のように見えるでしょう。でも揺するとこのように汚くなるのです。これは飲めるでしょうか?そうではありませんね。同じです。人の心も平安なときは自分も知らなかった悪が、自分が試練にあったり苦しいことにあると、表に浮かんでくるのです。おとなしくて柔和のように見えた人も、悔しい目にあったら全然違う人になってしまうこともあるし、不当な扱いをされたり問題にぶつかったり、このようにいろんな悪の姿が出てくるのです。試練にあうことによってその人の一番弱いところ、潜んでいた悪が明らかになるのです。 聖霊に満たされているとき、教会に何もなく平安なときは自分の中の悪が現れないでしょう。見えなかったでしょう。でもいろんなことが起こって、悪い人々によって自分が誤解されたり被害を受けたり、そして到底自分には理解できないことをしている人を見たりしたときどうでしょう?そして周りの人は教会から離れてしまい、いろんな悪い話をしているとき、それによって自分が影響を受けて、自分も自分の心の中にあった悪が現れたのではありませんか?それを発見して捨てたならよかったのですが、そうではなくてそれは環境のせいだとか、人のせいだとか言い訳をしているなら、ヨブと同じ姿ではありませんか。そうではなくて自分の中に悪があったのだということを認めなければなりません。自分が不満を抱いていたことは、自分の悪のためであり、自分をわかってくれない人に対して不満を抱いたということを、悟らなければなりません。 みなさん今日、大礼拝のメッセージにあったように、教会の中で派閥とかあってはいけません。党派心を持つことがあってはいけません。堂会長先生の家族だからといって、派閥を作ることとか、そういうことを絶対してはいけません。それぞれ主のしもべとしてすべきことをして、それで自然に聖徒に愛されることはいいのですが、そうではなくて堂会長先生の家族だから、何でも他の人の話も聞かないで、何か自分は側近みたいに言う人がいるようですが、そんなことがあってはいけません。自分は堂会長先生の家族のために義憤を感じたから人と口論したとか、抗議をしたとか、そういうことを自慢話のように言う人がいますが、そんなことがあってはいけません。それは心にある悪が現れたことです。 でもそれが今発見されたからといって驚いたり落ち込むのではなくて、喜んで感謝して、変化のきっかけにすればいいのです。火のように祈り続けて努力していけば、神様の恵みと力、聖霊の助けによって、心が聖くなることができます。明日からは、定めのダニエル祈祷会が始まります。皆さんこれまで聞いたヨブ記講解を通して自分を発見したならば、祈りながらそれを捨てますように。今からは環境とか人のせいにしないで、自分の中にあった悪が表に現れたことを認めて、切に祈りながらそれを捨てて変えられますように。 そして今日のメッセージのタイトルのように、自ら罠を作らないために罪と悪から離れ、特に口の言葉に気をつけますように。神様に逆らい隣人を憎み中傷する言葉、偽りの証言、神の人を裁いて罪に定める言葉、虚しい言葉、高ぶる言葉ではなくて、真実で正しい言葉、善と愛が込められた言葉、希望の言葉、信仰の告白をしましょう。聖霊様は、私たちの賛美と祈り、私たちの口の言葉から出てくる信仰の言葉を聞いて、働いてくださいます。 反対に自分の口の言葉が真理と反対のものなら、敵である悪魔が働きます。多くの人が自分が口にした言葉が罠になって、そのため祈っても答えを受けられないし、長い間試練にあっているのにその原因がわからないのです。神様の前で罪の壁になるような言葉を口にしておいて、忘れてしまったり、サタンに訴えられるようなことを言っておいて、一瞬口が滑ったとか言い訳をしたりします。信仰のない言葉、否定的な言葉、神様に呟いて嘆く言葉が罠になるのです。ですから神様の子供らしく私たちは聖なる心に変えられて、虚しい言葉、不平を言う言葉ではなくて、いつも感謝の告白、賛美、信仰の告白をして、平和の実、祝福の実を結びますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデがヨブを呪う姿、あまりにもひどい悪い言葉を口にしている姿を見ました。しかしそれはビルダデの姿だけではなく、自分にもそういう姿はないのかを顧みますように。自分に害を与えて自分を苦しめる人に対して、その人が失敗するのを願ったり、その人の悪いところを人に伝えたり、噂話をしていたりそういう姿はなかったのか、顧みますように。口の言葉によって罠を作ることはないように、真理の言葉、善の言葉に変えていくようにしてください。明日から定めのダニエル祈祷会が始ります。切に祈りながら、自分自身を発見して変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
「ヨブ記講解(46)-自ら罠をつくらないように」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:8~10
皆さん、前回ヨブ記18章では、しばらく友達とヨブの話を聞いていたシュアハ人ビルダデがもう一度話しました。ビルダデはヨブと友達が言い争っていることをやめさせるふりをしながら、自分がもっと喋るようになります。ヨブには「怒って自分自身を引き裂くものよと責めながら、あなたが踏んでいる地でも、あなたが怒るとき驚くだろうか?あなたがいくら怒っても、固い岩をどうすることもできないだろう。」と嘲笑いました。まるで火事が起きた家の火を消そうと入ってきて、煽るようなことです。人が心に怒りがこみ上げてくると、ヨブのように自分自身を引き裂くようになるし、そしてビルダデがヨブにしたように、相手をもっと怒らせて、互いに互いを引き裂く結果を生みだします。ですから私たちはただ善をもって、悪に打ち勝たなければならないと伝えました。
神様がヨブ記講解を通して、人の悪の属性を一つ一つ教えてくださるのは、私たちが自分自身を発見して、変えられるのを望んでおられるからです。ですからメッセージを聞きながら、ひょっとしてヨブやヨブの友達のような心が自分の中にあるのではないか、発見して速やかに捨てますように。ローマ2:13には、「それは、律法を聞くものが神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」とあります。いくら素晴らしいメッセージを聞いて知恵を悟っても、それを心で信じて行ってこそ、自分に利益となり正しくなることもできます。ですから今日のメッセージを聞いて悟って、本当に変えられて行いの実を結ぶ幸いな皆さんになりますように。
ヨブ記講解を聞きながら、ヨブと友達が話をして言い争っていて悪を行っている姿を見て、似たような内容が繰り返されているようでも、単語一つ一つの意味を説明しているから、皆さんは人の深い悪について悟るでしょう。そして神様が解き明かしてくださった、その神様の心についても説明しているので、多くを悟ると思います。ヨブとヨブの友達の共通的な悪、そして言い争いの無益さについて伝えています。このメッセージを聞いて、私もそうだと悟る方が多くいると思います。そのように悟ったなら、その後はそれを実行する姿が必要です。今週聞いて来週また聞いて、自分は何も変わっていないのではなくて、聞いて悟った分変えられていかなければならないでしょう。
それで自分がヨブの立場でもヨブの友達の立場でも、聞いた御言葉を真理に照らして行わなければなりません。ある人が自分を苦しめても嫌味を言っても、真理の御言葉を聞いた私たちはどうすべきでしょうか。いつも御言葉に自分を照らしてみますように。それで善を持って悪に打ち勝つなら、神様がどれほど喜ばれるでしょうか。するとより優れた天国に行けるでしょう。そのために神様が、このヨブ記講解を解き明かしてくださるのです。ですからこのメッセージを聞きながら、自分を顧みて変えられる皆さんになりますように。
本文8節でビルダデはこう言います。
「彼は自分の足で網にかかる。落とし穴の上を歩むからだ。」(ヨブ18:8)
しかし相手が試練にあっていて苦しみを受けていると、その人が前悪いことを言ったとか、よくないことをしたことをもって、もっとその人を攻撃したり苦しめる人もいます。それはその人に対して妬みがあるからです。皆さんも自分の心にそのような姿がないのか、顧みますように。ある人を普段からあまり気に入らないと思っていたのですが、その人が教会の試練のとき、例えば教会に問題を起こして教会を離れたならば、その人について周りの人にあれこれ悪口を言いながら、あの人、前にこんな悪いことを言ったことがあるとか、こんなこともしたと言いながら噂話しをするのです。 そのようにいろんな噂話しを聞いたり伝えたり、集まってひそひそ話をしたことはありませんか?それも自分の心に悪があるからでしょう。その人を愛するなら心に善があるなら、どうしてそれができるでしょうか?それはその人への憎しみや妬みが心にあったから、それが今そんなふうに現れたのではありませんか。それは大きな悪だと悟って徹底的に悔い改め捨てなければならないでしょう。自分の悪を認めて神様の前に断食しながら祈りながら、へり下って悔い改めなければならないのです。 平安なときはそういう姿が現れません。ですから私たちはヨブ記講解を通して、そういう自分を発見しなければならないのです。そして教会の試練のとき、自分はどうだったのかを顧みなければなりません。自分の心の中にどんな悪があったのかを、見つけなければなりません。イエス様の姿はどうでしたか?悪い人を指摘したり、とがめたり、悪をもって悪に報いる姿はありませんでした。ただ善と愛を行われました。私たちはこのようなイエス様のご性質と行いに、似ていかなければなりません。 マタイ12:20に「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。公義を勝利に導くまでは」とあります。これはイエス様のご性質と行いについての御言葉です。ここでいたんだ葦とは、霊的に世の罪と悪で満ちた人を言います。罪と悪が満ちている人です。それを傷んだ葦に例えています。そのような人でもイエス様は受け入れてくださいました。ただ善だけを行うイエス様を見たのに、悪を行う人々がいました。彼らが傷んだ葦のような人でした。こんな人でもイエス様は見捨てることなく、何としてでも真理をもって悟そうとされました。忍耐を持って受け入れてくださいました。 次にくすぶる燈心とは、心が悪で染まって魂のともしびが消えている人を言います。このような人でも救われる可能性が少しでもあるなら、最後まで諦めない心が主の心です。それでご自身を売る、イスカリオテ・ユダのためにも、最後まで彼が変えられるように待ってくださいました。イスカリオテ・ユダが現金箱から金を盗んでいても、イエス様はそれを知っていながらも、その時指摘したり人の前で叱ったりしませんでした。自分自身で悟るようには教えてくださったでしょう。そのようなイスカリオテ・ユダでも、ご自分を売る人でも、最後まで愛して真理を教えてくださいました。どれほど大きい愛でしょうか。 大きい罪を犯して悔い改めの霊も受けられなくて、御霊が消えていく人を見ても、神様は最後まで諦めないで機会をくださいます。それなのに人が人を諦めてしまっていいでしょうか。あの人は地獄に行く人だと、さばいてしまうことはなかったでしょうか。それは呪いではありませんか。死に至る罪を犯したからと言うのでしょうか。いいえ、イエス様はイスカリオテ・ユダも、最後までそのユダが救われるように、悔い改めるように待ってくださいました。諦めませんでした。 だから私たちも、人が人をさばいてはいけないし、そして自分を顧みなければなりません。自分はどのくらい聖いでしょうか?完全でしょうか?そうでないのにどうして、人が人をさばいて罪に定めて、あの人は死に至ると、このように呪うことができるでしょうか?イエス様は最後まで機会をくださり待ってくださり諦めないで、愛と善を行ってくださいました。その愛と善に私たちは似ていかなければなりません。しかしその機会をつかまないで悔い改めなければ、結局死の道に行くようになりますが、神様の方で先に諦めることはありません。 私たちはこのような神様の心と主の心に似ていかなければなりません。そうしないで、相手が悪を行うからといって失敗するのを望むなら、自分も同じ悪者です。続く本文を読むと、ビルダデの呪いの言葉は続きます。 ヨブ記18:7です。 「彼の力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが彼を投げ倒す。」(ヨブ18:7) 普段からヨブは自分は完璧で正しいと思っていたから、その歩みに力がありました。自信を持っている足取りだったし、堂々としていました。友達がそのヨブの姿を見て、妬むようになったのです。もちろん、友達は前はその妬みに気づかなかったかもしれませんが、ヨブが今滅びている姿を見たら、その妬みが現れているのです。 これは私たち人の心はほとんどそうです。肉の人はこのように悪いのです。誰かがうまくいくと、その人がうまくいくのが面白くないのです。その人に対する妬みがあったからでしょう。一緒に本当に素直に喜ぶことができない場合もよくあるのではありませんか。だから、皆さんも自分自身はどうなのか、顧みなければなりません。まだ捨てていない肉があって、妬み、そねみ、憎しみが自分にもあるということを認めなければなりません。だから神様はヨブ記のメッセージを皆さんが聞いて、自分の肉の心を発見して捨てるようにと望んでおられるのです。 このようなメッセージを聞きながら、自分を照らしてみてください。それで、はっきり目に見えるものとして現れていなくても、心の中に潜んでいるそういう姿があるのではありませんか。誰かが褒められている姿を見て、いやあの人、前こういう欠けているところもあったのに、このようなミスもしたのにとか、ふとよぎるならば、それも自分の中に妬みがある、そねみがあるということでしょう。 そして、褒められている人を見ると気に入らないし、なぜ私はその人より頑張っているのに褒めてくれないのかと思うなら、もっと悪いでしょう。ビルダデは、ヨブの力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが投げ倒すと言っています。ヨブがしていたことがはかりごとだと言っています。それによって自分から罠に落ちたと言っているのです。ヨブをけなしている姿です。ビルダデの潜んでいた悪、愛のない心が明らかにされています。心に霊の愛があるなら、人がうまくいくとき、そねんだり妬みません。 韓国のことわざに、いとこが土地を買えば腹が痛むという言葉がありますが、いとこが土地を買ったなら喜ぶべきなのに、愛がないから妬むのです。このように人が成功すれば妬んで、失敗するのを望む心がありますか。そして他人が失敗したとき、まず笑ったり、見くびる姿はありませんか。そういう姿を見ると見苦しいでしょう。善と愛そのものである神様がご覧になるときは、どれほどもどかしいでしょうか。 マタイ5:46に、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも同じことをしているではありませんか。」とあります。自分を愛してくれる人を愛することは、罪人でもできます。しかし神の子供たちは、自分を愛してくれる人だけではなく、敵をも愛する霊の愛を所有しなければなりません。私たちがその愛をまずいただいたからです。神様は私たちが罪人だったとき、私たちのために尊いひとり子を渡してくださり、イエス様は私たちの罪をあがなうために十字架につけられ、血と水を注ぎ出してくださいました。これが私たちのためにくださった神様の愛です。 神様は、このような愛をいただいた私たちが、互いに愛し合うように望んでおられます。ルカ6:27-28です。「しかし今聞いているあなたがたに、私はこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」とあります。ですから自分を愛してくれる人を愛することはもちろん、自分に悪を行う人が滅びるのを見たとしても、いい気味だと思うのではなくて、その人のために悲しみ祈ってあげる心でなければならないでしょう。ところが今ビルダデは敵でもない友達のヨブに、呪いの言葉を言っているのです。次の時間に続けて伝えます。 皆さん、今日のメッセージを聞きながら、自分自身を引き裂く者の姿を悟ったでしょうか。自分の口から恨みとか不満とか 、人への妬み、そねみが出てくる姿がないのか。それによって自分自身を引き裂くようになるのです。そして相手が失敗しているとき、それを嘲笑ったりしている姿ではないのか。自分自身を顧みますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデが言っている言葉を聞いてみました。ヨブと友達が言い争っていてそれをやめなさいと言いながらも、自分が言いたいことを言いながら、またヨブを嘲笑って呪っている姿を見ました。心にある悪がこの様に現れるのを見ました。それが自分自身を引き裂く姿になるのです。私たちがこのように妬みそねみ、憎しみによって自分自身を苦しめて周りの人も苦しめるということを悟って、そのような悪を心から捨てるようにしてください。感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
「ヨブ記講解(45)-自分自身を引き裂く者にならないように」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:5~7
ビルダデはヨブにこう言います。ヨブ記18:5-6です。
「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」(ヨブ18:5-6)
ともしびやロウソクの光が消えると輝かなくなります。ところでここで悪者の光は消えるということは、ヨブのように悪い人の希望がなくなるということを言っています。そして、ともしびも消えるということは、ヨブが積んでおいたすべてのことが、友達の目には悪いことだったから輝かないし、ことごとく消えてしまうと呪っているのです。
ビルダデがこのように厳しくヨブを呪ってあざけっていることは、普段からヨブを妬む心があったからです。過去のヨブの生き方を見てみると、ヨブは自分で誇るくらい正しい行いをして、徳を高めようとしていました。ヨブ記4:3-4です。エリファズはヨブにこう言いました。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」ということを見ると、ヨブが徳を高めていたことが分かります。
またヨブ記29:15-17には、ヨブは自分のことを思い出しています。「私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。私はまた不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。」と言いました。そのようにヨブは貧しい人、疎外された人に施しをするなど自分なりに善を積んで正しく生きたから、人に尊敬されていました。しかしヨブの友達はそのようなヨブを見ながら、ヨブを羨ましがっていて、妬んでいたことが分かります。
本文でビルダデがヨブをあざけって悪者だと表現していることから分かるでしょう。肉の人々は自分の心に合わなくて、気にいらないことがあれば、このように悪を行います。よくやったこともけなして、小さい過ちも大きい過ちに膨らませて、ないことも偽って悪い人にしてしまいます。ねたみ、そねみ、憎しみがあるからです。しかし御霊の人はマタイ5:44にあるように自分の敵を愛し迫害する者のために祈ります。悪者の光が消えるのを望むのではなくて、その人が変えられて救われるように望むのです。
本文5節でビルダデは、「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない」と言い切っています。そして6節で、「彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」と言っています。これは5節のことが徐々に進んでいくことを表現します。悪者の光はだんだん暗くなって、ついに完全にともしびが消えるということです。友達をこのように呪っているからどれほど悪い心でしょうか。本当に神様を信じる真理の人なら、ヨブのように苦しんでいる人を見るとどうすべきでしょうか。何としてでも希望を与えて、正しい道に行くように助けなければなりません。これが神様の子供らしい姿でしょう。
ここで網とか落とし穴は獲物を取るために、仕掛けておいた罠のことです。ヨブは自ら罠にかかったと言っているのです。皆さん道を歩いていて、目の前に落とし穴とか網があれば避けえるでしょう。しかしビルダデはヨブにこう言っています。あなたが神様の前でつぶやいて神様に喜ばれないから、それは落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることだと、ヨブは愚かだと言っているのです。これはあってはいます。ところでヨブだけではなく、今日多くの人がこのような愚かなことをしています。 クリスチャンならば神様を愛するものの、また恐れることも覚えなければなりません。ただ恐れるのではなくて、神様を敬い恐れかしこむことです。神様を恐れる人は、裁きとか懲らしめを恐れてでも、罪を犯すことができないでしょう。ところで多くの人がこれくらいはと思いながら、罪を犯したり今日までは自分勝手にして、明日から御言葉通りにすればいいと思います。今すぐこらしめとか裁きが臨まないから恐れないのです。しかし神様はそれぞれの行いに応じて、正確に裁かれるのです。自分の口の言葉によってサタンが働き、自分が人を裁いて罪に定めたことによって病気になり、死に至る罪によって試練患難がやってくるのです。今すぐ災いが臨んでいないから大丈夫なのではありません。悔いあらためなければ立ち返っていなければ、懲らしめと裁きが臨みます。 箴言27:1です。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。人は明日どんなことが起こるか分からないし、いつ自分が死ぬようになるのかも分かりません。ですからいつも目を覚ましていて、神様の御言葉に留まっていなければなりません。しかし御言葉から離れて世と妥協すれば、それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。真理を知らない世の人に言っているのではありません。真理を知っていながらも行わない人、そして罪だと知っていながらこのぐらいはと思いながら、犯し続けるその姿を言っているのです。目の前に落とし穴があるのに仕掛け網があるのに、自分の足でかかってしまうのです。知っていながら真理を行わなければ、どれほど愚かな姿でしょうか? ビルダデはヨブにこのような、霊的な意味を知って言ったのではありませんが、真理で照らしてみれば、言葉そのものは正しいことを言っています。これまでヨブは神様の前にずっと呟いて恨み、敵である悪魔サタンが喜ぶような言葉を口にしていたから、だんだん深い沼の中に落ちていくような結果でした。それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。愛する皆さん、自分はそういう姿はないのか、そういう愚かなことはないのか、顧みますように。自分なりに祈っているつもりなのに、なぜ答えを受けられないのか、なぜ試練艱難に遭っているのか、顧みなければなりません。ビルダデは、深い霊的な意味を知らなくても、ヨブにこのように言っています。 私たちは真理を知っているのではありませんか。 しかし、知識だけ知っている人ならば、目の前の利益のために、欲のために罪を犯してしまうのです。そして、今自分が口にしている言葉によって、罠にかかってしまうこともあります。その言葉、口に出した言葉は、神様も聞いておられるし、敵である悪魔も聞いています。だから、それが訴えられることがあるのです。それが罠になってしまうのです。だから自分が口にした言葉の責任は、自分が取るようになるのです。そういう姿を発見したならば、悔い改め立ち返って、自分の口の言葉を直さなければなりません。しかし、口から賛美も出してまた悪も出したりする、そういう姿は、神様に受け入れられない姿です。ヨブがこの様に愚かだと、ビルダデは責めています。 しかし、本当に友達を愛する人なら、どうすべきでしょうか。何としてでも、友達が落とし穴に落ちないように、網にかからないように、助けてあげなければならないでしょう。しかし、友達はかえって、ヨブがもっと苦しむように、もっと愚かなことをするように刺激しているのです。それは、同じ罪を犯す人と同じです。皆さん、目の前に落とし穴があることを知っているならば、友達がそこに向かわないように、引き止めなければならないでしょう。しかし今、ヨブの友達は、ヨブがその道に向かうように、後ろから押しているようなことをしているのです。 同じように、悪を互いに行っているのです。前回も伝えましたが、皆さん、家庭の中ではどうでしょうか。夫婦の間で、親子の間ではどうでしょうか。兄弟との関係で、教会の聖徒の間ではどうでしょうか。相手が今怒っているとき、自分が善の言葉、愛の言葉によって慰めてあげればいいのですが、そうではなくて自分が良かろうと思って、真理の御言葉で悟したつもりでも、相手がもっと怒るのを見ながら、相手を責めている姿ではありませんか。それは自分の中に悪があるということであり、相手がそのためにもっと苦しんで悪を行うようにするなら、それは自分にも責任があってもっと大きい罪を犯すことになるのです。 相手が悪いことをしたことを責めるのではなくて、その人がやっていることは間違っているから何としてでも正さなくてはと思いながら、無理やり押し付けるのではなくて、真理に照らして、知恵を持って待ってあげるときも必要だし、黙って助けてあげることも必要でしょう。しかし、互いに言い争うことになって、互いに苦しめることがあるのです。このような姿は、愚かな姿です。だから、私たちは自分が正しいと思うのではなくて、自分に善があるのか、知恵があるのか、真理に照らさなければなりません。 ヨブの友達は、神様の御名を借りて御言葉を引用して、ヨブの自尊心を傷つけて、ヨブがもっと悪いことを言うようにしています。皆さん、神様の御言葉を間違って引用することは、十戒の第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という御言葉に背いていることです。ヨブは試練にあっていて、神様の前に相応しくない言葉を出して罠を作っていますが、友達はヨブのような状況でもないのに、自分たちの口の言葉によって罠を作っています。しかし私たちはたとえ艱難にあったとしても、自ら罠を作る人や罠にかかることがあってはいけません。 口で不平不満を言って感情的になってしまうことは、落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることです。自分が作った罠に自分がかかることです。自分から問題を見つけようとしないで、他の人のせいにするなら問題は解決できないし、サタンが働くようになります。ですから悪を行うことが自ら罠にかかることなのだということを悟って、このような愚かな人になってはいけないのです。 そして聖徒の間では互いに力づけて慰めてあげなければならないのに、かえって相手が罪の網にかかるようにつまずきを与えてはいけません。兄弟が真理と反対のことをしているとき、アドバイスをするつもりで言ったのに、言い争うようになってしまったならば、それは相手が網にかかるようにすることです。 これを聞きながら、元老牧師先生がどれほど、善をもって悪に打ち勝っておられたのかがわかるでしょう。元老牧師先生は、相手が罪と悪を犯していることを知っていながらも、講壇からは真理の御言葉を伝えて悟らせてはくださいますが、その人が受け入れることが難しいときは、その人を指摘したりすることはなさいませんでした。なぜなら、そう指摘されるともっと悪を行うこともあるから、そうです。 ある人は、元老牧師先生が言ってくださればよいのにと、思うかもしれませんが、元老牧師先生が正確にその人の名前を挙げて言ってくだされば、その人が悟って変わるのではと、そのように思うかもしれませんが、先生はそれよりはるかに高い次元の善と愛を持って、その相手の事情も全部わかって、それぞれに合わせてくださるのです。あるときは待って黙って、そして慰めてくださり、あるときは厳しくまた悟することもあるのです。 皆さん、私たちが誰かのために忍耐をして待ってあげることは、簡単なことではありません。なぜなら、その人によって自分が被害を受けることもあるからです。自分が不当に誤解されることもあるからです。しかし、善がある人はそれを全部甘んじて受けながらも、その人のためなら黙っていることもあるのです。聖徒の皆さんの間で互いにそのような善を行っていくならば、すべての人と平和を作ることができるでしょう。 皆さん、自分はどうでしょうか。真理を行っていない人を見ていると理解できないとか、その人のためにこれは言ってあげなければと思ったりすることはありませんか。そして、罪と悪にとどまっている人をただ見ていたり、そうでなければ、その人をあざけったりするならば、その人も自分の足で網にかかる愚かな人です。ですから私たちは、真理と反対のことをして悪を行っている人でも、哀れんで愛を持って祈り、その人が何としてでも悔い改めて立ち返るように助けてあげる、神様の良い子供になりましょう。ところで、ビルダデはどうでしたか。自分はヨブよりもっと悪い心を持っていながら、ヨブに向かって厳しく指摘しています。 続くヨブ記18:9-10です。 「わなは彼のかかとを捕らえ、しかけ網は彼をつかまえる。地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。」(ヨブ18:9-10) ここで、「罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼をつかまえる。」とはどういう意味でしょうか。罠は鳥獣をおびき寄せたり通路に仕掛けて捕らえる装置です。動物が罠にかかると命を失うようになるように、人のかかとが罠で捕らえられるとは、その人がこの地上から滅びるという意味です。ビルダデはヨブに、動物が仕掛け網にかかって捕獲されるように、あなたも罠によって捕らえられ滅びる、命を失うようになるだろうと呪っているのです。 次にビルダデはヨブに、「地には彼のための輪縄が隠されている。」と言っています。人が輪縄を地に隠しておく理由が何でしょうか。何かを捕えるためでしょう。輪縄を作ってそれをこっそり仕掛けておけば、そこを通っている動物や人がその縄で捕えられるでしょう。だからそれは悪い意図で害を与えるために、そのように仕掛けることではありませんか。そのような悪い目的なのです。ビルダデは今、ヨブがそんなふうに捕えられて、困難に会うようになると言っています。また、その通り道には彼のための穴が隠されていると言います。これも同じ意味です。 人はこのように落とし穴を掘っておいて、その上に草とか土で覆っておいて、動物とか人がその上を歩いていて、落ちるように仕掛けるのです。ビルダデはヨブが悪いから、こんな苦しい目に遭うようになると言い切っています。そしてその輪縄と罠が隠されていると言います。つまりそれが今は目に見えなくても、ヨブのために備えられているという意味です。それでヨブがいつかはその落とし穴に落ちて滅び、命を失うようになるだろうと言っています。あなたはもうすぐ罠に捉えられ仕掛網に捕まえられるだろうと、落とし穴に落とされるだろうと言って、ヨブを怖がらせて脅しているのです。 ビルダデはこのように、自分がヨブを落としているとは思わなくても、普段からヨブを憎んでいた心が、このように恐ろしい表現として現れているのです。人の心が真理によって変えられる前は、ほとんど嫌いな人が失敗するのを願います。例えば相手のせいで自分が大きい苦しみに遭ったり、濡れ衣を着せられたならどう思いますか。あの人も悪いことに遭うだろう、覚えておけとか心の中で呪う人もいるでしょう。皆さんの中ではそこまでいかなくても、まだ人を憎んでいる負の感情が、残っているのではないのか顧みますように。 自分を苦しめた人が今失敗して苦しみにあっているなら、それを見て心がスッとしたり、ちょっと面白いと思ったりすることはありませんか。そして、その人が前に自分にしたことを思い出して、いい気味だと思うのではありませんか。そうでなければ、その人があまりにもかわいそうで、悔い改めなければならないのに、どう助けてあげればよいのかと思いますか。皆さんにどのくらい悪があるのか善があるのか顧みますように。ビルダデのように呪いまではしなくても、もしかしてまだ人を憎む心があるのではないか顧みますように。 教会の試練のときはどうでしたか。互いに意見が合わなくて言い争うようになったり、そして、ある人によって自分が誤解されたり、自分の悪口をその人が他の人に言ったりして、それを後で聞いて悔しいと思ったりしたとき、皆さんはどうだったでしょうか。その人が嫌いとか、その人が失敗すればいいとか、いなくなったらいいのにとか、思ったことはありませんか?そして、それを自分が一人で考えるだけではなくて、他の人のところに行ってあれこれ言って、その人を本当に悪い人扱いしてしまうことはありませんでしたか。皆さんがそのように口にしたことが、皆さんが心の中で考えたこと、その悪はどのぐらいあったでしょうか。 神様は私たちの罪を償うために、一人子イエス様をなだめの備え物として下さいました。それなのに神様を信じると言いながら、相変わらず憎しみ、妬み、そねみのような悪い心を持っているなら、神様はどう思われるでしょうか?神様の完全な子供にするためには、主の尊い血であらいきよめてくださるためには、練ってくださるしかありません。試練にあって祈りながら悟って、悔い改めて立ち返るようにするのです。ですから、もしかして自分の中に、ヨブやヨブの友達のような悪があるなら、速やかに捨てなければなりません。 神様は聖書を通して、私たちが悪い人にどう対するべきか教えてくださいました。ローマ12:17-21です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「敵が飢えたなら食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「そうすることによってあなたは彼の頭に燃える、炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 自分に悪を行った人、自分に被害を与えた人に、手向かうのではなくて善をもって行うと、神様が介入してくださるのです。これは神様、あの人を懲らしめてくださいという意味ではありません。神様がすべてを働かせて、役としてくださるということです。だから自分を苦しめる人がいても自分が復讐しようとするのではなくて、神様の前にすべてを委ねて祈らなければなりません。祝福の祈りをするということです。このように愛で祈れば、敵である悪魔は退くしかありません。イエス様はこのように善と愛の模範になってくださいました。 イエス様はこの地上におられる間、天国の福音を伝えてくださり、病人を治してくださるなど、善だけを行われました。それなのに悪い人々は、イエス様を殺そうとしました。悪霊に取り憑かれたとか、ベルゼブルに取り憑かれているとか、罵りました。イエス様はその人々の悪い意図を知っておられながらも憎むことなく、神様の御心を悟るように教えてくださいました。それでも聞き得ない時は、彼らと言い争うのではなくて、身を避けられました。そしてご自分をあざけって蔑み十字架につける人々のために、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。 このような愛の結果として、主を救い主として受け入れる人は誰でも神様の子供とされる、救いの御業が起きたのです。イエス様は神の御子だから、救い主に自動的になられたのではありません。 命を尽くした犠牲と愛によって、その結果として、その御名を信じる人は救われるようになったのです。犠牲と献身がなければできないことです。霊の世界の法則です。皆さんも自分が犠牲になって献身してこそ、神様が善の実を結ばせてくださいます。いくら不当な目にあっても、悔しい目にあっても悪を行わないで、善を持って許して、譲って、祈って、神様に委ねると神様が働いてくださるのです。それが神様を信じることです。 神様は善・愛そのものである方だから、善と愛を行う人の味方になってくださいます。この地上では善と悪が対立しています。それで神の力を行う人がいると、闇の勢力はその人を苦しめて殺そうとするのですね。でも善と愛を持って行いその人のために祈り、悪に善を持って報いるなら、神様が働いてくださって、神様に栄光を捧げるようにしてくださるのです。神様に大いに栄光を捧げる人を、敵である悪魔は妨げようとするでしょう、当然。しかし神の人、光の中を歩む人はそのような人も憎みません。 神の力を行った人がもし自分を憎む人、自分を苦しめる人に復讐しようとするなら、そのような人は神の力を行うことが嘘になるでしょう。だから心が善に愛に変えられなければなりません。そのような人に神様は力を下さるのです。イエス様もそうでした。神の御子だから、自然に何もしないで救い主になられたのではありません。人の子等にあざけられ蔑まれ、卑しめられて、殺されても、ただ善と愛を持って代わりに許してくださいと求め、ご自分を完全に犠牲にした時、それによって、その主を信じる人々が救われるようになったのです。代わりにその公義を満たしてくださいました。とうてい、許せない人も許して、理解できない人も理解して、愛をもって救ってくださいました。 皆さん、この霊の世界の法則は、私たちにも同じように適用されます。皆さんが神様の前に答えを受けたい、祝福されたいと思っていながら、祈っていながら、神様の子供らしくない悪を行っているなら、どうして答えを受けるでしょうか?どうして癒されるでしょうか。誰かが自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするからといって落ち込んでしまって、その人に不満を抱いて憎らしいと思ったりしているなら、そのような人がどうして神様の力を受けることができるでしょうか 。 私たちはイエス様のような善と愛の心に似ていかなければなりません。そのような人が、神様に愛されるまことの子供になれます。神様は私たちも主に似て、最高の善と愛を所有するように望んでおられます。そうすると私たちが望んでいる美しい天国、新しいルサレムに入ります。聖徒の皆さんは、新しいエルサレムに行きますと告白していても、その資格を備えるための訓練は、きつい、辛いと思っているのではありませんか?理解できない人も理解して、許せないような人も許して受け入れて、自分をひどく悩ませて苦しめる人も愛するとき、主の心に似て天国を所有できます。 しかし不当な目に遭ったらあの人は到底許せません。こんなことまでされてきついですと思ったなら、これは口の言葉と行いが全然違うでしょう。今この時間が私たちを新しいエルサレムに導くための訓練過程であることを知って、悪はどんな悪でも避けて、善と愛で心を満たしていく聖徒の皆さんになりますように。 そうしないで、もしビルダデのように呪いの言葉を口にするなら、神様は御顔を背けられるでしょう。サタンが喜ぶでしょう。よくやっている続けなさいと言われるのです。サタンから褒められてはいけないでしょう。サタンが皆さんから遠ざかっていかなければなりません。そのためには皆さんが、心が善と愛で満たされていなければなりません。相手のために愛をもって祈り、代わりに公義を満たしてとりなす姿勢が必要です。 ここで網とか落とし穴は獲物を取るために、仕掛けておいた罠のことです。ヨブは自ら罠にかかったと言っているのです。皆さん道を歩いていて、目の前に落とし穴とか網があれば避けえるでしょう。しかしビルダデはヨブにこう言っています。あなたが神様の前でつぶやいて神様に喜ばれないから、それは落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることだと、ヨブは愚かだと言っているのです。これはあってはいます。ところでヨブだけではなく、今日多くの人がこのような愚かなことをしています。 クリスチャンならば神様を愛するものの、また恐れることも覚えなければなりません。ただ恐れるのではなくて、神様を敬い恐れかしこむことです。神様を恐れる人は、裁きとか懲らしめを恐れてでも、罪を犯すことができないでしょう。ところで多くの人がこれくらいはと思いながら、罪を犯したり今日までは自分勝手にして、明日から御言葉通りにすればいいと思います。今すぐこらしめとか裁きが臨まないから恐れないのです。しかし神様はそれぞれの行いに応じて、正確に裁かれるのです。自分の口の言葉によってサタンが働き、自分が人を裁いて罪に定めたことによって病気になり、死に至る罪によって試練患難がやってくるのです。今すぐ災いが臨んでいないから大丈夫なのではありません。悔いあらためなければ立ち返っていなければ、懲らしめと裁きが臨みます。 箴言27:1です。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。人は明日どんなことが起こるか分からないし、いつ自分が死ぬようになるのかも分かりません。ですからいつも目を覚ましていて、神様の御言葉に留まっていなければなりません。しかし御言葉から離れて世と妥協すれば、それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。真理を知らない世の人に言っているのではありません。真理を知っていながらも行わない人、そして罪だと知っていながらこのぐらいはと思いながら、犯し続けるその姿を言っているのです。目の前に落とし穴があるのに仕掛け網があるのに、自分の足でかかってしまうのです。知っていながら真理を行わなければ、どれほど愚かな姿でしょうか? ビルダデはヨブにこのような、霊的な意味を知って言ったのではありませんが、真理で照らしてみれば、言葉そのものは正しいことを言っています。これまでヨブは神様の前にずっと呟いて恨み、敵である悪魔サタンが喜ぶような言葉を口にしていたから、だんだん深い沼の中に落ちていくような結果でした。それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。愛する皆さん、自分はそういう姿はないのか、そういう愚かなことはないのか、顧みますように。自分なりに祈っているつもりなのに、なぜ答えを受けられないのか、なぜ試練艱難に遭っているのか、顧みなければなりません。ビルダデは、深い霊的な意味を知らなくても、ヨブにこのように言っています。 私たちは真理を知っているのではありませんか。 しかし、知識だけ知っている人ならば、目の前の利益のために、欲のために罪を犯してしまうのです。そして、今自分が口にしている言葉によって、罠にかかってしまうこともあります。その言葉、口に出した言葉は、神様も聞いておられるし、敵である悪魔も聞いています。だから、それが訴えられることがあるのです。それが罠になってしまうのです。だから自分が口にした言葉の責任は、自分が取るようになるのです。そういう姿を発見したならば、悔い改め立ち返って、自分の口の言葉を直さなければなりません。しかし、口から賛美も出してまた悪も出したりする、そういう姿は、神様に受け入れられない姿です。ヨブがこの様に愚かだと、ビルダデは責めています。 しかし、本当に友達を愛する人なら、どうすべきでしょうか。何としてでも、友達が落とし穴に落ちないように、網にかからないように、助けてあげなければならないでしょう。しかし、友達はかえって、ヨブがもっと苦しむように、もっと愚かなことをするように刺激しているのです。それは、同じ罪を犯す人と同じです。皆さん、目の前に落とし穴があることを知っているならば、友達がそこに向かわないように、引き止めなければならないでしょう。しかし今、ヨブの友達は、ヨブがその道に向かうように、後ろから押しているようなことをしているのです。 同じように、悪を互いに行っているのです。前回も伝えましたが、皆さん、家庭の中ではどうでしょうか。夫婦の間で、親子の間ではどうでしょうか。兄弟との関係で、教会の聖徒の間ではどうでしょうか。相手が今怒っているとき、自分が善の言葉、愛の言葉によって慰めてあげればいいのですが、そうではなくて自分が良かろうと思って、真理の御言葉で悟したつもりでも、相手がもっと怒るのを見ながら、相手を責めている姿ではありませんか。それは自分の中に悪があるということであり、相手がそのためにもっと苦しんで悪を行うようにするなら、それは自分にも責任があってもっと大きい罪を犯すことになるのです。 相手が悪いことをしたことを責めるのではなくて、その人がやっていることは間違っているから何としてでも正さなくてはと思いながら、無理やり押し付けるのではなくて、真理に照らして、知恵を持って待ってあげるときも必要だし、黙って助けてあげることも必要でしょう。しかし、互いに言い争うことになって、互いに苦しめることがあるのです。このような姿は、愚かな姿です。だから、私たちは自分が正しいと思うのではなくて、自分に善があるのか、知恵があるのか、真理に照らさなければなりません。 ヨブの友達は、神様の御名を借りて御言葉を引用して、ヨブの自尊心を傷つけて、ヨブがもっと悪いことを言うようにしています。皆さん、神様の御言葉を間違って引用することは、十戒の第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という御言葉に背いていることです。ヨブは試練にあっていて、神様の前に相応しくない言葉を出して罠を作っていますが、友達はヨブのような状況でもないのに、自分たちの口の言葉によって罠を作っています。しかし私たちはたとえ艱難にあったとしても、自ら罠を作る人や罠にかかることがあってはいけません。 口で不平不満を言って感情的になってしまうことは、落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることです。自分が作った罠に自分がかかることです。自分から問題を見つけようとしないで、他の人のせいにするなら問題は解決できないし、サタンが働くようになります。ですから悪を行うことが自ら罠にかかることなのだということを悟って、このような愚かな人になってはいけないのです。 そして聖徒の間では互いに力づけて慰めてあげなければならないのに、かえって相手が罪の網にかかるようにつまずきを与えてはいけません。兄弟が真理と反対のことをしているとき、アドバイスをするつもりで言ったのに、言い争うようになってしまったならば、それは相手が網にかかるようにすることです。 これを聞きながら、元老牧師先生がどれほど、善をもって悪に打ち勝っておられたのかがわかるでしょう。元老牧師先生は、相手が罪と悪を犯していることを知っていながらも、講壇からは真理の御言葉を伝えて悟らせてはくださいますが、その人が受け入れることが難しいときは、その人を指摘したりすることはなさいませんでした。なぜなら、そう指摘されるともっと悪を行うこともあるから、そうです。 ある人は、元老牧師先生が言ってくださればよいのにと、思うかもしれませんが、元老牧師先生が正確にその人の名前を挙げて言ってくだされば、その人が悟って変わるのではと、そのように思うかもしれませんが、先生はそれよりはるかに高い次元の善と愛を持って、その相手の事情も全部わかって、それぞれに合わせてくださるのです。あるときは待って黙って、そして慰めてくださり、あるときは厳しくまた悟することもあるのです。 皆さん、私たちが誰かのために忍耐をして待ってあげることは、簡単なことではありません。なぜなら、その人によって自分が被害を受けることもあるからです。自分が不当に誤解されることもあるからです。しかし、善がある人はそれを全部甘んじて受けながらも、その人のためなら黙っていることもあるのです。聖徒の皆さんの間で互いにそのような善を行っていくならば、すべての人と平和を作ることができるでしょう。 皆さん、自分はどうでしょうか。真理を行っていない人を見ていると理解できないとか、その人のためにこれは言ってあげなければと思ったりすることはありませんか。そして、罪と悪にとどまっている人をただ見ていたり、そうでなければ、その人をあざけったりするならば、その人も自分の足で網にかかる愚かな人です。ですから私たちは、真理と反対のことをして悪を行っている人でも、哀れんで愛を持って祈り、その人が何としてでも悔い改めて立ち返るように助けてあげる、神様の良い子供になりましょう。ところで、ビルダデはどうでしたか。自分はヨブよりもっと悪い心を持っていながら、ヨブに向かって厳しく指摘しています。 続くヨブ記18:9-10です。 「わなは彼のかかとを捕らえ、しかけ網は彼をつかまえる。地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。」(ヨブ18:9-10) ここで、「罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼をつかまえる。」とはどういう意味でしょうか。罠は鳥獣をおびき寄せたり通路に仕掛けて捕らえる装置です。動物が罠にかかると命を失うようになるように、人のかかとが罠で捕らえられるとは、その人がこの地上から滅びるという意味です。ビルダデはヨブに、動物が仕掛け網にかかって捕獲されるように、あなたも罠によって捕らえられ滅びる、命を失うようになるだろうと呪っているのです。 次にビルダデはヨブに、「地には彼のための輪縄が隠されている。」と言っています。人が輪縄を地に隠しておく理由が何でしょうか。何かを捕えるためでしょう。輪縄を作ってそれをこっそり仕掛けておけば、そこを通っている動物や人がその縄で捕えられるでしょう。だからそれは悪い意図で害を与えるために、そのように仕掛けることではありませんか。そのような悪い目的なのです。ビルダデは今、ヨブがそんなふうに捕えられて、困難に会うようになると言っています。また、その通り道には彼のための穴が隠されていると言います。これも同じ意味です。 人はこのように落とし穴を掘っておいて、その上に草とか土で覆っておいて、動物とか人がその上を歩いていて、落ちるように仕掛けるのです。ビルダデはヨブが悪いから、こんな苦しい目に遭うようになると言い切っています。そしてその輪縄と罠が隠されていると言います。つまりそれが今は目に見えなくても、ヨブのために備えられているという意味です。それでヨブがいつかはその落とし穴に落ちて滅び、命を失うようになるだろうと言っています。あなたはもうすぐ罠に捉えられ仕掛網に捕まえられるだろうと、落とし穴に落とされるだろうと言って、ヨブを怖がらせて脅しているのです。 ビルダデはこのように、自分がヨブを落としているとは思わなくても、普段からヨブを憎んでいた心が、このように恐ろしい表現として現れているのです。人の心が真理によって変えられる前は、ほとんど嫌いな人が失敗するのを願います。例えば相手のせいで自分が大きい苦しみに遭ったり、濡れ衣を着せられたならどう思いますか。あの人も悪いことに遭うだろう、覚えておけとか心の中で呪う人もいるでしょう。皆さんの中ではそこまでいかなくても、まだ人を憎んでいる負の感情が、残っているのではないのか顧みますように。 自分を苦しめた人が今失敗して苦しみにあっているなら、それを見て心がスッとしたり、ちょっと面白いと思ったりすることはありませんか。そして、その人が前に自分にしたことを思い出して、いい気味だと思うのではありませんか。そうでなければ、その人があまりにもかわいそうで、悔い改めなければならないのに、どう助けてあげればよいのかと思いますか。皆さんにどのくらい悪があるのか善があるのか顧みますように。ビルダデのように呪いまではしなくても、もしかしてまだ人を憎む心があるのではないか顧みますように。 教会の試練のときはどうでしたか。互いに意見が合わなくて言い争うようになったり、そして、ある人によって自分が誤解されたり、自分の悪口をその人が他の人に言ったりして、それを後で聞いて悔しいと思ったりしたとき、皆さんはどうだったでしょうか。その人が嫌いとか、その人が失敗すればいいとか、いなくなったらいいのにとか、思ったことはありませんか?そして、それを自分が一人で考えるだけではなくて、他の人のところに行ってあれこれ言って、その人を本当に悪い人扱いしてしまうことはありませんでしたか。皆さんがそのように口にしたことが、皆さんが心の中で考えたこと、その悪はどのぐらいあったでしょうか。 神様は私たちの罪を償うために、一人子イエス様をなだめの備え物として下さいました。それなのに神様を信じると言いながら、相変わらず憎しみ、妬み、そねみのような悪い心を持っているなら、神様はどう思われるでしょうか?神様の完全な子供にするためには、主の尊い血であらいきよめてくださるためには、練ってくださるしかありません。試練にあって祈りながら悟って、悔い改めて立ち返るようにするのです。ですから、もしかして自分の中に、ヨブやヨブの友達のような悪があるなら、速やかに捨てなければなりません。 神様は聖書を通して、私たちが悪い人にどう対するべきか教えてくださいました。ローマ12:17-21です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「敵が飢えたなら食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「そうすることによってあなたは彼の頭に燃える、炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 自分に悪を行った人、自分に被害を与えた人に、手向かうのではなくて善をもって行うと、神様が介入してくださるのです。これは神様、あの人を懲らしめてくださいという意味ではありません。神様がすべてを働かせて、役としてくださるということです。だから自分を苦しめる人がいても自分が復讐しようとするのではなくて、神様の前にすべてを委ねて祈らなければなりません。祝福の祈りをするということです。このように愛で祈れば、敵である悪魔は退くしかありません。イエス様はこのように善と愛の模範になってくださいました。 イエス様はこの地上におられる間、天国の福音を伝えてくださり、病人を治してくださるなど、善だけを行われました。それなのに悪い人々は、イエス様を殺そうとしました。悪霊に取り憑かれたとか、ベルゼブルに取り憑かれているとか、罵りました。イエス様はその人々の悪い意図を知っておられながらも憎むことなく、神様の御心を悟るように教えてくださいました。それでも聞き得ない時は、彼らと言い争うのではなくて、身を避けられました。そしてご自分をあざけって蔑み十字架につける人々のために、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。 このような愛の結果として、主を救い主として受け入れる人は誰でも神様の子供とされる、救いの御業が起きたのです。イエス様は神の御子だから、救い主に自動的になられたのではありません。 命を尽くした犠牲と愛によって、その結果として、その御名を信じる人は救われるようになったのです。犠牲と献身がなければできないことです。霊の世界の法則です。皆さんも自分が犠牲になって献身してこそ、神様が善の実を結ばせてくださいます。いくら不当な目にあっても、悔しい目にあっても悪を行わないで、善を持って許して、譲って、祈って、神様に委ねると神様が働いてくださるのです。それが神様を信じることです。 神様は善・愛そのものである方だから、善と愛を行う人の味方になってくださいます。この地上では善と悪が対立しています。それで神の力を行う人がいると、闇の勢力はその人を苦しめて殺そうとするのですね。でも善と愛を持って行いその人のために祈り、悪に善を持って報いるなら、神様が働いてくださって、神様に栄光を捧げるようにしてくださるのです。神様に大いに栄光を捧げる人を、敵である悪魔は妨げようとするでしょう、当然。しかし神の人、光の中を歩む人はそのような人も憎みません。 神の力を行った人がもし自分を憎む人、自分を苦しめる人に復讐しようとするなら、そのような人は神の力を行うことが嘘になるでしょう。だから心が善に愛に変えられなければなりません。そのような人に神様は力を下さるのです。イエス様もそうでした。神の御子だから、自然に何もしないで救い主になられたのではありません。人の子等にあざけられ蔑まれ、卑しめられて、殺されても、ただ善と愛を持って代わりに許してくださいと求め、ご自分を完全に犠牲にした時、それによって、その主を信じる人々が救われるようになったのです。代わりにその公義を満たしてくださいました。とうてい、許せない人も許して、理解できない人も理解して、愛をもって救ってくださいました。 皆さん、この霊の世界の法則は、私たちにも同じように適用されます。皆さんが神様の前に答えを受けたい、祝福されたいと思っていながら、祈っていながら、神様の子供らしくない悪を行っているなら、どうして答えを受けるでしょうか?どうして癒されるでしょうか。誰かが自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするからといって落ち込んでしまって、その人に不満を抱いて憎らしいと思ったりしているなら、そのような人がどうして神様の力を受けることができるでしょうか 。 私たちはイエス様のような善と愛の心に似ていかなければなりません。そのような人が、神様に愛されるまことの子供になれます。神様は私たちも主に似て、最高の善と愛を所有するように望んでおられます。そうすると私たちが望んでいる美しい天国、新しいルサレムに入ります。聖徒の皆さんは、新しいエルサレムに行きますと告白していても、その資格を備えるための訓練は、きつい、辛いと思っているのではありませんか?理解できない人も理解して、許せないような人も許して受け入れて、自分をひどく悩ませて苦しめる人も愛するとき、主の心に似て天国を所有できます。 しかし不当な目に遭ったらあの人は到底許せません。こんなことまでされてきついですと思ったなら、これは口の言葉と行いが全然違うでしょう。今この時間が私たちを新しいエルサレムに導くための訓練過程であることを知って、悪はどんな悪でも避けて、善と愛で心を満たしていく聖徒の皆さんになりますように。 そうしないで、もしビルダデのように呪いの言葉を口にするなら、神様は御顔を背けられるでしょう。サタンが喜ぶでしょう。よくやっている続けなさいと言われるのです。サタンから褒められてはいけないでしょう。サタンが皆さんから遠ざかっていかなければなりません。そのためには皆さんが、心が善と愛で満たされていなければなりません。相手のために愛をもって祈り、代わりに公義を満たしてとりなす姿勢が必要です。
「ヨブ記講解(45)-自分自身を引き裂く者にならないように」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:1~4
皆さん、前回ヨブは自分の体は影のようだと言いながら、自分の人生が虚しいと訴えました。ところで、その姿から自分の信仰を顧みるべきだと言いました。真の信仰と希望がなければ、苦しみと試練の中で虚しさを感じて苦しみます。このように言う人もいます。「これまでの自分の人生が全部虚しいものだった」と、教会に通っていて主のために忠実だったことが、虚しいという人がいます。
それは問題でしょう。私たちは天国に全部積まなければならないのに、そうしなかったのではありませんか。自分なりに忠実にした、忠実に仕えたつもりでも、試練にあったりすると疲れたとか辛いとか、今まで自分がやってきたことが虚しいと言いながら、損をしたと思いながら今までの信仰を否定してしまうならば、今のヨブのような姿ではありませんか。
自分が信じる主が実像ではなくて、影のようになってしまったからです。主に出会った時は実体である主に出会いました。しかし自分が移り変わってしまうから、自分が御言葉通りに生きていないから自分というものが死なないで、自分を主張しているからそうです。それで試練にあったら主が影のようになってしまい、自分の信仰が移り変わってしまうのです。
本当に信仰があるならば、ヘブル11:1に「信仰は望んでいることから保証し目に見えないものを確信させるものです。」とあるように、神様に祈り、目に見えるものを捨て神様を体験するでしょう。そして何か苦しいことがあっても、天国への希望があるから呟いたり不平を言ったりしないで、喜びながら感謝して天国に向かって走っていきます。神様は生きておられるのに、今、目の前の問題があるからと言って、神様を否定してはいけないでしょう。神様を本当に信じているならば、希望があるから天国に向かって走っていくことができます。
しかしそうしないで自分の信仰が冷めてしまう人がいるならば、自分が信仰に根をしっかり下ろしていなかったからです。岩の上に家を建てるべきなのに、砂の上に建てたから、厳しい風が吹いてくると倒れてしまいます。しかしヨブは神様を見つけた体験がないから、霊の信仰も希望もありませんでした。それで目の前の現実を見て、苦しみによって虚しいと思いがっかりしています。そして自分はよみを住み家として望むと言っていました。
私たちはこのようなヨブの姿から、なぜ人間耕作が必要なのか、なぜ試練が必要なのかを悟らなければなりません。平安な時嬉しい時は、皆が素晴らしい信仰を持っているように見えます。神様を愛しているように見えます。しかし試練に会うとそれが本当なのかがわかるようになります。その時自分の姿を見てがっかりするのではなくて、自分の欠けているところを発見したから、感謝して変えられなければならないでしょう。
自分は自分なりに熱心だったけれども、その熱さが今冷めてしまった。人を愛していると思ったのに、試練に会ったら人を愛する余裕がなくなってしまったならば、そのように自分の姿を発見することは自分が変えられる機会です。そして自分というものが強くあって悪を行う時もあります。それを発見して悔い改めてこそさらに変えられることができます。だから試練というものが必要なのです。どんな苦しみにあっても揺るがずに変わらない愛を所有したまことの子どもを得たいと思っておられる神様の心を悟って、私たちは神様の前で喜ばれ慰めになるものでなければなりません。
ヨブ記16章と17章では、ヨブが言い訳をして自己主張をしていました。何の過ちもない自分を苦しめる神様は悪い神様だと、友達も悪いと罪に定めました。それから18章ではシュアハ人ビルダデが登場します。ヨブと友達は一生懸命言い争っています。自分の立場を言い張っているから、口論が終わらないのです。怒りと憎しみはだんだん大きくなってもっと悪を行って苦しみをもたらしています。
ビルダデはヨブ記8:11で「パピルスは沼地でなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。」と例えをあげて、すべてのことには原因と結果があるように、ヨブが苦しみを受けていることは、ヨブの悪から始まっていると言った人です。そして続いたヨブと友達の話を聞いていて我慢できず、18章でまた話をするのです。 ヨブ記18:1-2です。 そこでシュアハ人ビルダデが答えて言った。いつあなた方はその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。(ヨブ18:1-2) もし友達や親戚が口喧嘩をしていて互いに自分が正しいと言って、争いが終わらなければ皆さんはどうするでしょうか?一体いつまで争うとしているのか、もうやめてと言うでしょう。ビルダデもこのような心でこう言っているのです。 これまで私たちはヨブと友達が言い争っている姿を見ながらもどかしかったでしょう。互いに自分だけが正しく相手は正しくないと言いながら、相手が言った言葉に言い掛かりをつけていちいち言い返していました。このようにほとんどの人々は言い争うとき、どんな言葉で相手をまかそうか、いろいろ工夫しながら最後まで黙らないのです。何としてでも相手に勝とうとして、何とか自分の言い分を通そうとします。言い返しができなくなると逆切れしたりします。皆さんはどうでしょうか?相手に勝つためにこの様に虚しい言い争いをしたことはないでしょうか? マタイ7:6に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはいけません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」とあります。このように自分はいくら良いことを相手に言っても、相手は聞き入れなければ役に立たないし、それ以上無駄な言葉は口にしてはいけないでしょう。相手も自分が正しいと考えているから、引き下がらないのです。だからもっと大きい争いになる前に、自分の方で辞めた方が賢明でしょう。 ところで第三者が戦いを辞めさせようと割り込んで相手を悟すつもりで、かえって自分が長々と喋る場合もあります。本文に出てくるビルダデがそうでした。いつあなた方はその話にけりをつけるのかと言っています。つまりいつまで言い争っているつもりなのかと言いながら辞めさせようとしていても、自分も黙らないで言いたいことを言っているのです。 神様がご覧になるとどれほどおかしいことでしょうか。言い争っているヨブと友達も正しくないけれど、彼らにやめなさいと言っておいて、本人は長々と言い続けているビルダデも同じです。ビルダデはヨブに次のように言います。 ヨブ記18:3-4です。なぜ、私たちは獣のようにみなされるのか。なぜ、あなた方の目には汚れて見えるのか。怒って自分自身を引き裂く者よ。あなたのために地が見捨てられようか。岩がその所から移されようか。(ヨブ18:3-4) これまでヨブが友達にあなた方は人間以下だ、あなた方は未熟だ、私には相手にもならないと無視してきました。それでビルダデはそれに対して、ヨブが友達扱いもしないで獣のようみなしたと言っているのです。獣は人と違って理性も判断力もなくてただ本能に従って生きる存在です。ビルダデの目にはヨブは友達をこのように理性のない獣の扱いをしていたし、曲がった人だと罪に定めていたから、なぜ汚れて見るのかと問い詰めています。 これまでヨブは友達を侮辱して怒りに燃えて激しく嫌がっていました。友達も少しも譲らないで言い返しているからお互い様です。本文4節でビルダデはヨブに「自分自身を引き裂く者よ」と言っています。ヨブは希望もない、むごたらしい状況に置かれた自分に、友達が責めて指摘するから、怒って自分自身を引き裂く者になりました。それではヨブがどのように自分自身を引き裂いたのか調べてみましょう。 ヨブ記16:9-11です。ヨブはこう言います。「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」と言っていました。つまり神様は自分を小僧っ子のようなあなた方に渡して、悪者であるあなた方の手に投げ込まれたと言いながら、神様も友達も悪いと言っています。 この他にもヨブは真理と反対の言葉を口にして、自分自身を引き裂く姿がたくさんありました。自分自身を引き裂くというものが何か、その意味について気になっていたと思います。世でも自害するという言葉がありますね。自分自身を苦しめて自分自身を傷つけることです。 精神的な問題でそのようにする人も世にはいるでしょう。それはとても危険なことでしょう。子供がそうするなら親がそれをやめさせるでしょう。自害すると血も出て傷もついて損ではありませんか。今ヨブがそのようにしているとビルダデが言っているのです。それならヨブがどのように自分自身を引き裂いていたのでしょうか? それは自分の中で自分が苦しんでいること、自分の痛みを神様のせいに友達のせいにしているのです。しかしそれは結局、自分が自分を苦しめることになります。それはただ不満やただのつぶやきではなく、自分に帰ってきて自分をもっと苦しめて、自分をもっと傷つけることになるのです。今自分が苦労していること、自分が今悲しいこと悔しいことを自分はそれが我慢できなくて、口でそのように言っているかもしれませんが、それによって自分に害が返ってくるのです。それを今日のメッセージで悟らなければなりません。もしかして皆さんは自分自身を引き裂くものではないのか、チェックしてみますように。 主を信じると言いながらも真理にあって完全に変えられる前は、このように自分自身を引き裂くものがたくさんいます。悔しい目にあったり自分の考えに合わないとき、怒鳴ったり暴れたり自分の心を治めることができないなら、それも自分自身を引き裂くものになるでしょう。皆さんはこのような悪を忘れたと思います。以前の姿にはあったと思います。 例えをあげましょう。子どもたちに怒りっぽい子どももいるでしょう。親のそのような気を受け継いで生まれて、そして親が育てるときそんなふうに育てる場合もあります。小学生の子どもですが自分が気に入らないことがあると、怒鳴ったり暴れたり泣いたりするのです。例えばデパートに行って自分が欲しいおもちゃがあるけれどそれを親が買ってくれなければそこで駄々をこねたり、そこで暴れたり物を投げたりする子どももいます。そういう荒っぽい姿があるのです。それも自分自身を引き裂く姿の一つの例でしょう。そのような激しく自分の感情を表現する場合もあります。 そして肉の思いによって自分を苦しめる人がいます。人にぶつける場合もあるし、自分の心を自分が傷つけることもあります。皆さんは自分の過去の姿にそういう姿があるかもしれません。しかし今ももしある人が気に入らないとか、ある人について不満を抱いているならば、それを誰かのところに行って全部喋ってこそすっきりすることがあるのではありませんか?そして夫婦喧嘩をするとき相手を侮辱したりして、いろんな形として現れることもあると思います。今日のこのメッセージを聞きながら、自分の過去の姿今の姿を比べて自分を発見して捨てましょう。人はこのように自分自身を引き裂く姿があります。 信仰のない人やまだ信仰の弱い初心の者の場合を例にあげましょう。このような人の中にはお酒を飲んで酔っ払って怒鳴りながら、早くドアを開けろと言いながら足で玄関を蹴る場合もあります。すると自分の足だけ痛いから自分自身を引き裂く姿でしょう。ある人は夫婦喧嘩をして貴重な家財を投げて壊す場合もあります。これはお金の面でも損でしょう。また夫が浮気をしたからといって、奥さんが怒って逸脱行為をしたり、本人も浮気をして家庭が破綻するなら何の益になるでしょうか? 教会の中でも主のしもべや聖徒と揉めて、主日礼拝に来ない人もいますが、主日を守らないことは神様の前で罪を犯すことだから、これも自分自身が損です。怒ったからといって祈らないとか、つまずいて神様の前で忠実に奉仕をしない人も、自分にとって何の益にもならないし苦しみをもたらすことです。このすべてが自分自身を引き裂く姿です。 子供の中では親が自分が欲しいものを買ってくれなければ、ご飯も食べない子がいるのですが自分に損でしょう。これは自分自身を引き裂く姿まではいかなくても、それも悪の一つの姿なのです。世の人のように物を投げたり壊したりすることはなくても、子供の時からこのような悪を捨てなければ、だんだん大きくなるのです。親が家庭でそれを正してちゃんと教えなければならないのです。環境のせいにして親のせいにしてしまい、すぐ諦めてしまったり自己中心な人に育ってしまうのです。それは自分に霊的にマイナスです。それは罪ではないしと思うかもしれませんが、神様は、それは自分自身を愛する姿で神様を愛する姿ではないと言われるでしょう。 ある人のせいでとか、教会で誰々のせいでもう行きたくないとか言うのだったら、それは実は霊的には自分にとって損であり、自己中心的な姿で神様を愛さない姿です。終わりの時、肉の人にはそういう姿がよくあります。このような悪が積まれて結局は自分自身を引き裂く姿になるのです。 それで教会の中でつまずいてしまって教会を離れてしまったり、人のせいにしながら使命を手放してしまう人もいますが、それもいけません。 その他にもヨブのように神様と友達を誤解してさばいて自分で自分を苦しめる人も多くいます。あの人は私を憎んでいるようだ、他の人の話を聞いて私を悪く思っているようだと、思い込んでしまって距離を置くのです。それで苦しむのです。それでもう人と会いたくないと思って家に引きこもってしまったり、自分自身を苦しめる肉の思いもあります。これもどれほど愚かな姿でしょうか? 肉の思いによって自分自身を引き裂く姿です。 そして劣等感によって他の人と比較して苦しみを招いて悲しんでしまったり、落ち込んでしまったり、相手を妬みそねみ悪を行う人もいます。劣等感、人と比較することも自分をとても苦しめることです。ある程度ならば肉の思いで悪だから捨てればいいのですが、度を越してひどい劣等感によって人に害を与える場合もあります。そして自分自身を苦しめる人もいます。いろんな人のことを裁いて罪に定めたりしているのです。自分が嫌う人を誰かが褒めるならばそれが嫌で、その人を憎んだりするのです。するとどれほど苦しいでしょうか、つらいでしょうか。そんなふうにしていて信仰生活をしているなら、どれほど神様の前で苦しいでしょうか。 皆さん、自分自身を自分が殴ってそれで傷つけたなら、それが何の益になるでしょうか。だから私たちは霊的にそんなことがあってはいけないのです。自分の肉の思い込みによって、憶測によって苦しんでいるのです。ヨブがそうでした。神様が自分をこんなふうに苦しめている、神様が懲らしめていると言いながら、自分の考えによってだんだん自分が自分を苦しめて死にたいと思っているのです。皆さんもそういう姿はないのか、顧みますように。これらのすべては自分の悪のためです。 周りの人のせいで苦しいと言う必要はありません。自分の中に悪がなければ、それは関係がないからです。ある人が怒っているならば、自分も怒るのではなくて、私がもしかして失礼なことをしたことはないのかと思いながら自分を顧みて、そしてその人が怒って気が済むならば、喜んで笑顔でそのように受け入れることもできるでしょう。 しかしそうではなくて、あの人は私を憎んでいると思いながら、私の悪口を言っているのではないかと、いつもそれが気になってしょうがないし、それで悩んで苦しむのです。それは自分の悪のためでしょう。環境のせいとか人のせいで苦しい、つらいと言うのではなくて、その原因は自分の悪によるものだから、それを悟らなければなりません。それで自分の感情を制御することができなくて、怒ったりするなら自分自身を引き裂くものになるから、どれ程愚かなことでしょうか。 ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いました。この文章を読むと理解できますか?どんな意図でこんな風に言っているのかと思うでしょう。ビルダデが今言っているように、地がまた岩が移されないことは事実です。どんな意図でこのように言っているのでしょうか。ヨブあなたが怒ったからと言って、地や岩がびくともするだろうかと言いながらあざけっているのです。あなたがあんなに怒って、いろんなことを言っていても、それは何の効き目もないと言っています。日常生活でのたとえをあげましょう。 夫が妻に怒って、横にあった時計を取って投げたとしましょう。この時妻がこう言うのです。それを投げるからと言って気が済むの?もっと高いものを投げればと言うなら、夫はもっと怒るでしょう。夫が投げたことも悪いことですが、妻がそのように言うことはもっと悪いでしょう。だから、夫は初めは時計一つを投げることで済ませようとしたのに、妻にそう言われたら頭にきて、妻が大事に思う高いものを投げて壊すかもしれません。知恵のある人なら、このようなことがあるなら、ああ、私が愚かなことをしているんだ。夫を怒らせたなら、私にだけ損だと思って心を治めるでしょう。そして、神様の前に悔い改めて、主人にも謝るなら問題は大きくならないでしょう。 しかしそうしないで悪い言葉によって相手をもっと怒らせてしまうと、自分にも何の益にもならないでしょう。二人で口喧嘩をして、物を投げたりした時、それを治めようとしなければならないのに、もっと腹を立たせてはいけないでしょう。それで家の家財を投げたりして壊れるならばどれほど損でしょうか。今相手が怒っているならば、こちらから落ち着いて、怒りが治まるまで待ってあげたほうがいいでしょう。二人とも感情的になって相手に勝とうとするから、喧嘩が終わらないのです。 相手が今聞く耳もないし興奮している状態ならば、それ以上刺激しないで、黙って静かに待ったほうがいいでしょう。火事が起こったところにまた火に油を注ぐようなことがあってはいけないでしょう。だから悪を行う人も問題ですが、その人を怒らせた人にも問題があるのです。だから両方同じです。お互いに責任があるのです。お互い様です。こういう場合は互いに自分自身を引き裂いているのです。そして悪い言葉と行いによって、相手を引き裂くことになるのです。自分が悪いことを言って悪い行いをしてすっきりするのではなくて、それが自分を引き裂くことになり相手を引き裂くことになるのです。 ところで相手を引き裂くことは、自分を引き裂くことになります。自分が相手に悪を持って行うなら、その実は自分に返ってくるのです。それで結局損をする人は自分自身だからです。このように互いに引き裂くことは、神様の前でとても御怒りを買うようなことです。その結果サタンが働いて家庭が破綻したり、子どもたちがぐれて病気になったり、いろんな試練や艱難が伴うのです。神様が御顔を背けられるから敵である悪魔サタンが引き裂いてしまうのです。 家庭の中で子どもがぐれてしまう原因がここにあります。親が夫婦喧嘩をするから、するとサタンが働くのです。子どもたちは不安で家にいたくないのです。そして心のその傷をどこで癒されるでしょうか。それで世の人に頼ってしまうこともあります。しかし親は自分のせいだと思わないで子どもを咎めるのです。そうすると問題は解決できません。もう子どもが大人になったとしても、過去にあったことを顧みますように。そしてその悪が今も自分の中に捨てられないままあるということが問題です。 ある夫婦は一緒に暮らしていて数十年たったらこんな風に喧嘩しても互いに損するだけだ、自分の感情をこの様にぶつけても、何の益にもならないと分かりました。それでもう話をしなくなるのです。離婚はしていないけれど、他人のように対するようになります。どれほど悲しいことでしょうか。自分の中にある悪を捨てて、憎しみ、恨み、嘆きなどを捨てて、相手を理解して受け入れて譲り、その様に愛し合わなければならないでしょう。相手を自分が無理やり変えようとするのではなくて、相手を理解してこそ平和をつくることができます。そうしないで相手の気に入らないところを直そうとして、無理やり変えようとするから、言い争うようになって喧嘩して後は疲れてしまい、もう口も聞かなくなって、他人同士のようになってしまうのです。私たちは霊的にそんなことがあってはいけません。 そんな人が神様に祈るなら神様は答えてくださるでしょうか。そのような家庭にはサタンが働いて、試練艱難が伴うのです。だから私たちは自分の心にある悪を、そして配偶者に対する憎しみも、いろんな不満も早く捨てなければなりません。私たちは肉の思いと悪によって自分自身を引き裂くことや、相手を苦しめて引き裂くことがあってはいけません。 社会生活をしていると、時には相手が自分の利益を求めて、自分を苦しめて不利益を与える場合もあります。しかし皆さんがそういう環境の中でも善を行おうとするでしょう。自分がちょっと損をしても言い争おうとしないでしょう。しかし相手があまりにもひどい場合は、爆発してしまうことがあるかもしれません。それで争うこともあったり、このような姿があるなら、結局自分の利益を求める姿があったからだし、だから私たちは主の善の心に似ていかなければなりません。すると神様が相手の心に働きかけてくださるのです。それで善を行っていけば損ではなくて神様が働いてくださるのです。この様に真理を行う皆さんになりますように。 ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いながら、あなたはいくら怒っても何も変わらないと言いながら嘲笑っています。火事が起こった家の火を消すと言いながら割り込んで、返って煽る人がいます。ビルダデの立場ではヨブは神様も友達も侮辱して悪を行うから黙らせようと思って言いましたが、それはとても高ぶっている姿です。私たちは相手が過ちをして逆切れしたり悪を行っても、その人を見下したりしてはいけません。その人の悪を刺激してはいけません。どんなところでもただ真理を行うとき相手の怒りが収まるようになって感動するでしょう。 第一テサロニケ5:15です。「誰も悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間でまたすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい」とあります。相手に善をもって悪を悟らせなければなりません。善をもって悪を悟らせると言っているのですが、それは教える立場で言うのではなくて、相手を理解して仕える立場で愛をもって言わなければならないのです。相手が感情的になっているのに、言葉で何とか言ってその人を悟らせようとしてはいけません。その時は何も言わないでただ寄り添って、その人が怒りが収まるまで待ってあげることも必要だし、そしてその人が今訴えていることを聞いてあげることだけでもいいでしょう。 そして自分が知っている真理があってもその真理をもって教えようとするのではなくて、相手が落ち着いて心が開かれる時その後に言った方がいいでしょう。悪をもって悪に報いようとすると相手はさらに大きい悪を行うようになります。これを覚えていてください。皆さんの口の言葉はどうでしょうか。相手が悪を行うから私はこう言ったと皆さんは思うかもしれません。その人のために良かれと思って真理を言っただけなのに、私は良い意図で言っただけなのにと思うかもしれません。しかし相手が今怒っていて相手が興奮している時、私たちが何かを言って相手がもっと怒るならばそれは自分のせいです。悪をもって悪に報いた姿です。 私たちはそうではなくて、善をもって相手に仕えなければなりません。譲って相手が考える時間を与えることが必要です。自分は善をもって相手に接したと思うかもしれませんが、相手がそれによって怒ったり相手がそれを受け入れない場合は、自分の口の言葉を顧みなければならないのです。互いに対立すると両方に問題があるのです。相手が自分を非難して自分が悪口を浴びたとして自分が何か真理をもって悟らせようとしても、互いにだんだん感情的になって、ああだこうだと 自分は正しいと言いながら、それが言い争うことになってしまうことがあります。そういう場合は自分が今善を行っているのではないことがわかるでしょう。 ヨブとヨブの友達もそうでした。自分たちは自分が正しいと思って、相手を悟らせようと思って言ったのですが、それは結局結果的には悪だったのです。皆さんもこれを悟らなければなりません。私は良かれと思って良い意図で相手のために言ってあげたのに、相手は聞き入れなくて言い争うことになったと言ってはいけないのです。そうしては問題が解決されません。皆さんも日常生活の中で、自分の口の言葉がどうなのか、また何か言うとき自分の心はどうなのか、顧みなければなりません。善をもって悪に報いること、これが勝利する道なのです。 韓国の朝鮮王朝の500年の歴史を見ると、悪をもって悪に報いた党派争いと血の流れの歴史の連続でした。例えばチャン・ヒンビという人は、19代王のそばめで20代王の母親でした。ひどい妬みによって自分自身を引き裂いて、自ら墓穴を掘った人です。悪い呪術で王位を奪うなど人の道理から外れた行為によって、ひどく悪い結果をもたらしました。彼女の悪行を知った王は死刑にしました。そして王はそれが当然のことで正しいことだと思いました。しかしそれによって息子は王位に上がった後もいつも党派争いの中で、精神的にまた身体的にも平安がなかったのです。 もし王や臣下たちが真理を知っていたなら、彼女が後で王になる王子の母親ということを考えて、殺す代わりに他の罰を与えたかもしれません。王は自分の正しいことをしたと思うけれども、それは真理ではなかったから、善ではなかったから、その後も血の流れの歴史は続きました。このように多くの人が、自分の行動によって起こる問題は周りの人がそれによって苦しみを受けることを考えることができず、悔しいことがあればそれだけ復讐しようとします。しかしこれはまた違う悪を呼ぶだけです。 先ほど王がそのそばめを死刑にしたことがその時は正しいと思ったけれども、それによって次の自分の息子が王になった時、いろんな党派の争いがもっと激しくなって悲しいことがあったのではありませんか。だからそれをよく考えなければなりません。もちろん悪があってそれに対して処罰することは正しいかもしれませんが、それを遥かに超える愛があって善があるのです。 イエス様の善と愛がそうでした。イエス様はご自身に悪を行って、あざけりさげすむ人々に対してただ善を持って行いました。昔の信仰の人々もそうでした。相手の悪に善をもって報いることが本当の勝利だからです。悪い相手に善をもって対するなら損をするようでしょうか。そうではありません。神様はいつも心の良い人、正道を歩む人の味方になってくださいます。私たちが最後まで善を行う時、神様が共におられ、闇は退き状況が変わるのです。これを心に留めておいてください。
「ヨブ記講解(44)-影のようなヨブの身の上」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:10~16
ヨブ記17:10-11です。
「だが、あなたがたはみな、帰って来るがよい。私はあなた方の中にひとりの知恵のある者も見いだすまい。私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも破れ去った。」
(ヨブ17:10-11)
ここでヨブが友達に、あなた方はみな帰って来るがよいと言っています。これは実際帰ってから戻ってきなさいという意味ではありません。あなた方は今まで言ったことを、全部振り返ってみなさいと言っています。あなた方の言っていることは正しいのか、真実なのか反省してみなさいと言っています。
そして友達の中には知恵のある者はいないと言っています。友達の中で誰も自分を悟らせてくれないし、何の役にも立たないと言っています。だからヨブは自分の日は過ぎ去って、自分が企て自分の心に抱いたことも全部破れ去ったと言っています。つまり神様が自分から御顔を背けられたから苦しみに遭っているけれど、自分ではこの問題が解決できないし、友達の中でも自分を助ける知恵のある人はいないから、だんだん死の道に行くしかないと言っています。
例えば水に溺れている人がいて、それを見つけた友達が泳げないから助けることができないことと同じです。このようにヨブは友達が自分にとって何の役にも立たないし、かえって自分の心をかき乱して自分をイライラさせたから、自分は腹が立って絶望しているということです。ヨブは相変わらず自分だけ正しいとずっと主張していて、込み上げる怒りと苦しみを訴えています。
しかしこれは真理と反対の言葉なのでサタンの罠になるしかありません。悪い言葉を口にすると、相手にも嫌われるし、その言葉によって苦しみを受けるようになります。このように、相手を無視して、神様まで悪い神様と裁く人を、神様はどうして助けることができるでしょうか。ヨブは、友達が自分をあざけった、攻めたと思うから、自分も友達をあざけって攻めています。
続く本文を読むと、わかりやすい言葉で言えるのに、あえて難しい例えを挙げて友達を攻めています。ヨブ記17:12です。
「夜は昼に変えられ、やみから光が近づくと言うが、」(ヨブ17:12)
ここで夜は闇を言っています。夜は昼に変えられ、とあります。これは、闇の技を仕事をするようにしている、悪を日常茶飯事のようにしていると、友達を攻めているのです。あなた方は、闇の技をそんな風にしていると言っています。そして、夜は昼に変わったり、闇から光が近づくという言葉は合わない言葉でしょう。昼と夜は正反対だし、光と闇は共存できないからです。
つまり、ヨブは友達に、太陽が西から昇ることがないようにあなた方はとんでもないことを言っていると、例えをあげて表現しています。あなた方は今言っていることは正しくない、あなた方は何の過ちもない私にかえって濡れ衣を着せているのだ、こういう意味で友達を攻めているのです。過ちを犯した人が、かえって正しい人に食ってかかるように、ヨブは友達に指摘して、とんでもないことを言っているのだと責めています。 ヨブの友達は、自分なりに知識があるから、ヨブが今例えを上げて自分たちを咎めていることに気づきました。だからどれほど腹が立つでしょうか。信仰生活をしている人の中でも、相手が自分の心に合わなければ、神様の御言葉を引用して相手を指摘したり、罪に定める場合があります。特に教える立場にいる人の中で、神様の御言葉を間違って使ったり、間違って引用して、信徒たちを怖がらせることがあります。しかし、真理は、平和と喜び、自由と命を与えるものであって、決して不安と恐れをもたらすものではありません。 皆さん、大礼拝の時地獄のメッセージを聞いていますが、不安で恐れるようになりましたか?そうではないでしょう。神様を恐れかしこむ姿勢は必要なのですが、神様はもちろん、裁く方だし、公義によって正確になさる方です。それを知っているならば、罪を犯すことはないでしょう。そして、神様が私たちに地獄のメッセージを伝えてくださる理由は何でしょうか? 神様の愛を感じて、もっと感謝するようになるのが正常でしょう。 私たちはただ恐がるのではなくて、神様を厳しい方だと思うのではなくて、神様の愛を感じなければなりません。そして、皆さんが怖がることがないように、画面には見せてくださらなかったでしょう。不安にさせるためではありません。ヨブ記講解の時も、元老牧師は神様がどんな方なのかを教えてくださいました。そして講壇でも、御言葉通りに行わなければ地獄に行くとか、このように強く厳しく言われたことはありません。呪いとか不安と恐れを持つようなことは言われませんでした。神の力を表して、神様がどんな方なのかを見せて、神様に仕えるように、そして神様の人と変えられるためにはどうすべきかを正確に教えてくださいました。 そして神様がそのようにしてくださる、神様の心と愛を悟らせてくださいました。私たちはその神様の愛を悟るなら、自然に罪から離れるようになります。恐れるから、怖いからではありません。そして元老牧師先生は大いなる神様の力を行っていても、それを利用して人を怖がらせたことはありません。神様を崇めて、神様にだけ栄光を捧げたし、皆さんには喜びと平安、自由と命を持つようにしてくださいました。 天国に行くためには、地獄について知らなければならないから、地獄について教えてくださいました。地獄を知ってこそ、地獄に行くような罪を犯さないからです。そして罪について正確に教えるのは、命を与えるためです。天国に行くようにするためです。呪われないように、災いに遭わないようにするためです。 男女で死に至る肉の行いをすることを、そうしてはいけないと教えて下さる理由もそうです。そのように教えなければ、みながそのようなことをしてもいいんだと思って罪を犯してしまってはいけないからです。教会は、それはいけないと正確に教えるところです。それが真理だから、神様の御言葉だからです。イエス様は、情欲を持って女を見るなら、その心の中で既に罪を犯しているとまで言われました。正確に教えてくださっているのです。 神の力を見て喜んで感謝していた人が、時間が経って後で移り変わってしまうとどうなるでしょうか。罪を指摘されるのが嫌で、きつく思って離れてしまう人もいます。それは、その心が変わってしまったからです。だから、ヨブが言っていたように、影のような状態になってしまうのです。天国、神様がはっきりした確かなもので実情だったのに、それが段々、影のように不確かなものになってしまうものです。 私たちはそうしてはいけません。私たちが目で見て、体験して、耳で聞いたことは、事実で真実です。ヨブと友達は、真理をよく知らない状態で、真理と反対のもので互いを苦しめていますが、 皆さんは真理であって、いつも善と愛を持って互いに仕えなければなりません。主のしもべも働き人もそうです。もしかして、罪を犯している人がいても、憐れんで愛を持って助けようとしなければなりません。罪を指摘して、非難したりしてはいけないし、避けてもいけません。もどかしい心で何としてでも命に導こうとしなければなりません。すると、聖霊が働いてくださるでしょう。 続く本文を読むと、ヨブはまた例えを挙げて自分の心を訴えています。ヨブ記17:13-16です。 「もし私が、よみを私の住みかとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、「お前は私の父だ」と言い、うじに向かって、「私の母、私の姉妹」と言うのなら、私の望みはいったいどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう。よみの深みに下っても、あるいは、共にちりの上に降りて行っても。」(ヨブ17:13-16) ヨブは、虚しさと失望によって、自分の望みはもう、よみに住みかを造っていると言っています。前は全て豊かで平安だったのに、希望があったのに、今は全てがなくなってしまい、自分はよみに下っていくしかないと言っています。今、ヨブの身の上があまりにも辛いから、苦しいから、このように言っています。 その口にした言葉をサタンが聞いて、それを罠として試練をもたらしているのです。真理と反対の姿だからです。皆さんも試練にあっているとき、辛いと思って不平を口にするとそうなります。今、ヨブの言っていることを聞くとどうでしょう?心に平安が感じられますか?そうではありませんね。もどかしいでしょう。皆さん、自分自身はどうなのか、顧みてください。家族に対して、子どもに対して、どんなふうに言っているのか。子どものせいにしたり、配偶者のせいにしたり、配偶者の家族まで悪口を言ったりする姿はありませんか。そういう姿があるなら、顧みて悔い改めましょう。 環境のせいにしたり、人のせいにしないで、自分自身を顧みてへりくだって、自分を愛する心、自分の自尊心、高ぶりなどを悟りましょう。誰かが自分の自尊心を傷つけるなら、かっとなってその人を呪ったりする心はないでしょうか。聖書には右の頬を打たれたら、左の方も向けなさいとあります。それが真理です。それを学んだから、それを行わなければなりません。しかし真理と反対のことを知っている人がたくさんいるからとてももどかしいです。 でも私たちは他の人をああだこうだというのではなくて、私は神様の前でどんな姿なのか、私は真理にとどまっているのかをいつも顧みなければなりません。例えば結婚前に男女の間で付き合って、肉の行いがあったりしてはいけないと、元老牧師先生が教えてくださいました。聖い関係を保つことはどれほどいいことでしょうか。それは良いことではありませんか。真理でしょう。しかし自分はそれが嫌だから、後で強要されたとか、強いられたとか、自分はそうやりたくなかったのにとか、このようにする場合はありませんか? 男女の間で死に至る肉の行いをしてはいけないと、元老牧師先生は正確に真理を教えてくださったのに、その時自分はそれを誤解して、自分は結婚しないと誓願を立ててしまったりしておいて、後でそれを元老牧師先生のせいにしたことはないでしょうか?そして男性の場合はどうでしょう。元老牧師先生がそう言われたことを誤解して、心の割礼をしなければならないのに、そうしないでただ肉的に割礼をしてしまって、後でそれを教会のせいにしたり、元老牧師先生のせいにしたことはありませんか? もしそれによってそれを口実に 教会を悪く言う人がいるならば、私たちは正確に説明しなければならないでしょう。神様が教えてくださった真理を守っていくならば、私たちには平安と喜び幸せがいつもあると思います。神様に喜ばれる信仰の告白をして、真理を行わなければなりません。すると大胆になるでしょう。 ヨブは今、自分はよみに下っていくと言っています。そして闇に自分の寝床をのべると言っています。これは闇にとどまるようになると言っていることです。このようなヨブの言葉から天国への希望は少しも見いだせないのです。皆さんがつまずいている聖徒にアドバイスをしたり、世の人を伝道するとき、ヨブのような反応をする人がいるでしょう。例えば悪を行っている人のところに行って、何々さん罪から立ち返らなければならないでしょうとか、世の人に悔い改めてイエス・キリストを信じてこそ天国に行けますと言うなら、それを黙って聞いている人もいます。しかし私は地獄に行ってもいいが、あなたは悔い改めて天国に行きなさいときつく当たる人もいます。 今のヨブの姿に似ています。ヨブは失望して諦めてしまってやけになって、私はよみに行くのが望みだと言っています。そしてその穴に向かって「お前は私の父だ」と言い、とありますが、これは墓が自分の体を守ってくれるという意味です。人が死んで葬られると墓の中に納められることを例えています。家庭で父の役割は子どもを守ることでしょう。このようにヨブは自分が死ぬと、墓が自分の父になって自分を守ってくれるだろう。安息の場所になるだろうと言っています。 しかしこれは神様の前でとても無礼で、とんでもないことを言っているのです。前は神様を恐れて全焼のいけにえを捧げて祝福されて人に尊敬されていたのに、今は墓が自分を守ってくれる父だと言っているから、どれほどもどかしいでしょうか。神様を信じる人は神様が父となってくださり、守って導いてくださるのに、どうして墓を父と言えるでしょうか。 それではうじに向かって私の母は私の姉妹という。このたとえにはどんな意味があるでしょうか。これはヨブの体が腐っていて、うじが湧いている状態を言っています。母は子どもを産むと抱っこして乳を飲ませ、おんぶして子どもとスキンシップをして育てていきます。兄弟姉妹の間でも子どものときは、互いに抱っこしたりチューもしたり、スキンシップしながら育ちますね。このように今ヨブの体にはうじが湧いて皮膚に住みついているから、うじが自分の母と姉妹のようになっていると言っています。 この表現だけ見てもヨブの悲しみと苦しみがどれほど惨めなのか分かります。ヨブは私の望みは一体どこにあるのかと嘆いています。人が死んで葬られたら、土の中に閉じ込められたようなものになります。だからヨブはよみの深みに下るとか、共に塵の上に降りていくとか言っています。ヨブには肉的に知識もあって学問もあるから、このようなたとえを挙げて自分の身の上をうまく表現していますが、霊的にはあまりにも無知です。 イエス・キリストを信じている私たちの望みは、よみではなく天国です。真理と命を持っている私たちは、天国が自分の家になるからどれほど感謝なことでしょうか。神様を信じる人は霊が生き返って神様の子供とされたので、その霊は天国に入ることができます。体は死んで葬られて塵に戻っても、将来主が空中に降臨される時よみがえって変えられた体を着ます。それで天国で永遠に朽ちない御霊に属する体で生きていけます。このように神様を信じる人は、天国に希望を置くので喜びと感謝が絶えないのです。 この地上でも祝福されます。魂に幸いを得ているように全てに幸いを得、健康であり物質の祝福も受けます。心の悪を捨てて変えられて聖められるほど、心に真の平安が臨むから感謝が溢れます。永遠の命を得たから、たとえ体は死を迎えるとしても恐れることなく、むしろ真の安息を味わえる天国への希望が溢れます。 この他にもこの地上で受ける祝福は数え切れないほどたくさんあります。もちろん天国における栄光と祝福は言うまでもないでしょう。しかしヨブはこのような希望がなかったから、現実の苦しみは終わらないと思って死を待っていました。 皆さん、私たちは復活の主を信じています。これは影でもないし想像でもありません。実像であり現実です。このような信仰と望みがあるなら、ひょっとしてヨブのような苦しみにあっても、全能なる神様を信じるから復活の栄光を受けることができます。皆さんはこのような全き信仰をもって、毎日勝利の生き方をして、どんな状況に置かれても復活の主を望みますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日ヨブが嘆いているいろんな言葉、表現を調べてみました。神様の前につぶやいて神様を悪い神様のように言って、友達も無視して友達を責めていました。そして自分の身の上を影のようだと言って、虚しさと失望、絶望によって嘆いていました。自分はよみに行くと言っています。どれほど愚かな姿でしょうか。 天国への希望がない姿でした。しかし私たちは神様を見つけて体験しました。それは影ではなく実像であり現実です。天国もそうです。このような信仰によって勝利するようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
「ヨブ記講解(44)-影のようなヨブの身の上」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:6~9
皆さん、前回はヨブが神様を悪い神様を裁くだけでなく、友達を完全に無視して、友達の子供達まで呪う姿がありました。このようなヨブの姿を見ると、なぜ試練に遭っているのか、なぜ試練が終わらないのかがわかるでしょう。ところで大切なのは、このようなヨブの姿から自分自身を発見して、変えられるきっかけにすることです。
鏡を見て自分の顔に汚物がついているのを見たのに、洗わない人がいるでしょうか。本当に聖くなりたいと思うなら、必ず鏡を見る前と後の顔が変わらなければなりません。同じように皆さんが神様の御言葉を聞いて恵みを受けたなら、自分の欠けているところを発見して、善と愛で満たす行いが必要です。
これまでヨブと友達の話を調べてみて、真理と真理と反対のものを見分けて、神様の御心が何か伝えました。ところでこのメッセージを聞いて恵みを受けたとしても、皆さんの現実では変わったところがなく、相変わらず自分の心に合わないことがあれば、言い争ったりするなら何の役に立つでしょうか。これは鏡を見て、自分の顔に汚物がついているのを知っていて、そのまま放っておくことと同じです。
ヤコブ1:25に「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。自分を発見したなら必ず行いが伴わなければなりません。ヨブ記は後にいくほど、人の心に深く潜んでいる悪が現れます。ですから全ての御言葉が自分の姿を映す鏡になり、変えられて命へ出てくる皆さんになりますように。
本文を読むとヨブは自分惨めな身の上を、もう一度神様のせいにしています。ヨブ記17:6です。
「神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられるものとなった。」(ヨブ17:6)
ヨブの噂は遠くまで広がりました。ヨブはこれを神様が、自分を民の物笑いとされたと表現しています。自分はこんな目に遭う理由がないと思っているから、全てを神様のせいにしているのです。もちろん神様が練っておられることなので、ヨブが考えているように神様がこの様になさったとも見えるかもしれません。しかし神様はヨブを苦しめる悪い意図でそうなさったのではなく、ヨブにより大きい祝福をくださるための良い意図でなさっているから、ヨブの思いとはものすごく違いがあります。
私は顔につばきをかけられるものとなったとありますが、これは実際つばきをかけられたのではなく、自分の悪口を人々が言っているということです。ヨブは文章力があって、知識も多いし知恵もある人だから、このように多くの意味を含んでいる例えを挙げています。
続く本文を読んでもこれがわかります。ヨブ記17:7です。 「私の目は悲しみのためにかすみ、私のからだは影のようだ。」(ヨブ17:7) ここで目の霊的な意味は、前を見通すことができる未来、自分の明日または自分の来歴を言います。人は目で見たものが魂の中に残って、それを思い出して考え悲しむこともあるから、目を言及しながら自分の苦しさを表現しています。 それではヨブの悲しみは何でしょうか。ヨブには多くの悲しみがありました。財産も家族も全部失ったし、人々にあざけられているから悲しいでしょう。そして人生のどん底に落ちてしまい、病気で死ぬ日だけを待っている現実が悲しみでした。このような悲しみのため目がかすんだということは、自分のしたいこと未来が暗くなったという意味です。 またヨブは私の体は影のようだと言っています。影は形はありますが、何の役にも立たないものです。だから何もない虚しさ、自分の意思がくじけたことを言っています。ヨブは自分の体の虚しさをこのような影に例えています。体が腐っていて蛆が湧いて臭いから、大事にすることもできないしケアもできないし何もできない。虚しい体だから影に例えているのです。 皆さん、ヨブのように体が病気になって苦しみにあったら、人生そのものに希望がなくなって影のように虚しくなるしかありませんか?そうではありません。一番大切なのは信仰です。信仰が影のようなものだから絶望してしまうのです。皆さんが主にであって聖霊に満たされていた時は、病気でも貧しくても復活の望みがあって、喜びで満たされていたでしょう。だから仕えて奉仕をすることが楽しかったでしょう。自分の体が弱くても病気でも、主に出会って喜びが溢れているから、最善を尽くして教会の奉仕をして、段々健康になる方もいるでしょう。 主に出会う前は影のような身の上でした。何の望みもなく感謝もできず、いつも不満でいっぱいでした。そのような人だったのですが、主に出会って天国への望みが溢れるようになると、現実は変わらなくても心が変わるから、喜び感謝や希望が溢れるようになります。心が満たされて聖霊に満たされて恵みに満たされているのです。だから影ではなくて本物になるのです。人生が変わり生き方が変わるのです。現実は同じように見えても心が変わるから、生き方が変わるのです。 しかしある時からその姿が変わってしまいます。影のようにあやふやになってしまうことがあります。皆さんもそんなことはないのか、顧みますように。聖霊に満たされているならば熱心が冷めることがないのに、聖霊に満たされなくなってしまうと、信仰生活が影のようになってしまうことがあります。神様の御言葉を聞いて知っていても行いが足りないからです。 御言葉に捨てなさいとあれば捨てて、行いなさいとあれば行って、してはならないとあるならしないで、守りなさいとあるなら守るべきです。しかし御言葉を知識として知っているだけで行わないならば、聖霊に満たされなくなってしまって、心の中で御霊がうめかれるので心は苦しくなります。それでも続けて従わなければ、御言葉通りに行う力もなくなって、祈ることも大変になって霊的に乱れていくしかないのです。 前は確かに信じていた神様、天国、地獄、後の世がだんだん不確かなものになります。霊の世界と信仰の働きがだんだん漠然となります。試練に遭うと全能なる神様の前で求めているのですが、答えがなくあちこち彷徨っているしかありません。今自分の信仰が影のようなもの、虚しいものになってしまったからです。聖霊の満たしもなく熱心も覚めてしまったからです。それで試練に遭った時神様を呼んでも神様が答えてくださることができないのです。 影のような信仰ではなくて、本物、実体にならなければならないのです。だから悲しんで悩んでいるしかないのです。自分が信じている主が影のようになってしまう人がいるのです。皆さんにとって主は実体としておられますか?2000年前におられたイエス様を、私たちは見たことはないのですが、どうして信じているのでしょうか?そしてどうして主に出会ったと言えるのでしょうか? 賛美しているうちに礼拝しているうちに私たちは主を見つけて御言葉の中から見つけて、私たちが体験することによって実体である主に毎日会っているのです。信じています。そう言わなければならないのですが信仰生活が覚めてしまうと、神様の御言葉通りに行っていなければ、その主が実体ではなく影のようになってしまいます。すると前に信じていたこともだんだんその信仰が不確かなものになってしまいます。 前ははっきり信じていたのに、それがだんだん疑うようになるのです。証を聞いても疑うようになります。そして自分の信仰が霊的に乱れてしまうのです。だから証を聞いても自分のものとして信仰として受け止めるのではなくて、聞き流してしまうのです。このような虚しい生き方をしてはいけません。 神様の子供と言いながら、深い霊的な次元に入れずに、真理を知っていても行わないから、その真理のため悲しむようになります。影のような信仰、生き方をしているのです。御言葉を聞いても行わないから、だんだん霊的に暗くなってしまいます。御言葉を信じていると言っても影のようだしそれが力にならないから、問題にぶつかるとこれが神様の御心かあれが御心かと悩みさまよいます。そうやってぐらついて倒れたりすることもあります。その信仰が実体ではなくて影のようなものだからです。 それではこのような時どうすべきでしょうか?初めの愛を回復しなければなりません。主に出会って救われた時の喜び、世のものは虚像であり永遠の天国は実像だと信じて、天国に向かって力強く走っていた時の行いを回復しなければなりません。 例えをあげましょう。ある子供が英語に興味を感じて一生懸命単語も覚えて授業に集中したら、だんだん成績が上がりました。すると自然にその授業が待ち遠しくなりますね。しかしある時から面倒に思うようになって、ゲームにハマってしまって勉強をおろそかにすると、だんだん成績が落ちて最初持っていた興味がなくなり、その授業も退屈に思うようになります。それを回復するためにはどうすべきでしょうか?睡眠時間も削ってもっと頑張って勉強しなければなりません。すると下がった成績を回復できるのです。 霊的にもこのような努力が必要です。一からやり直すつもりで神様の前に謙遜に恵みを求めれば、初めの愛を回復することができます。黙示録2:5です。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」とあります。熱心だった信仰はなぜ冷めてしまったのか?悟って悔い改めて立ち帰らなければなりません。影のように漠然としてもやもやしていた、このような信仰でいてはいけないのです。 そのような状態では、神様を信じていると言っていても神様との関係が確かなものにならないのです。神様の前にそのような時は悔い改めなければなりません。御言葉通りに行いませんでした。世に目を向けていました。熱心が冷めてしまいました。聖霊に満たされなくなってしまいました。それで主も天国も漠然と思うようになりました。 もちろんこの教会で現れている神の力を見ているから否定はできないけれど、教会を離れることはできないけれど、心の中で恵みを受け入れられなくなってしまい熱心が冷めてしまって、信仰が影のようになってしまうから問題なのです。こういう時は神様の前にヘリ下って悔い改めて、許しを求めて世のものを断ち切って努力しなければならないのです。 そのような努力はしないで、ただ祈るからと言って答えは来ないのです。神様がくださった恵みを裏切ってしまったから、自分から捨ててしまったからです。それを回復するためには、もっと努力しなければならないのです。もっと熱くならなければなりません。愛の父なる神様は、皆さんがそのように悔い改めて努力すると助けてくださり恵みをくださいます。 そうすれば、影のように漠然としてモヤモヤしていた信仰ではなくて、実像を見ながら走っていく信仰に変わります。すると求めるものは何でも答え受け、主に出会って体験する、生きている、信仰生活ができます。これは主と神様を見つける信仰生活です。このように神様を見つけるなら全てが解決されるでしょうが、信仰の体験ができないから霊的に彷徨っている聖徒もたくさんいます。 皆さん、万民の聖徒の皆さんには、神様を体験したことがありますね。癒されて答えを受けたことはもちろん問題が解決されることもあるし、賛美して祈るとき聖霊の恵みを体験します。火のような聖霊の御わざも体験するし、霊の目が開かれた方もいるし、異言の賜物もいただきました。この全てが神様の恵みです。 それを1年2年前に受けたなら、その後その恵みが続かないで、世に目を向けてしまって世を愛していくならば、その恵みがだんだん冷めてしまい恵みから離れてしまうようになります。自分)は体験したことがあるから、教会を離れることもできないまま、世と神様とにふた股をかけているのです。それは生ぬるい信仰で救いとは遠く離れています。 だから私たちは神様を見つける生きる信仰生活を、いつもしていなければなりません。それは大きな祝福です。ヨブは神様を見つけた体験がなかったから、このように虚しさによって苦しんでいるからとてももどかしいです。しかし試練は結局、ヨブにとって祝福です。 コーチとか監督が選手を発掘するとき、誰でも選ぶのではありません。先行しそうな資質を持っている人を選んで、熱意を持って心込めて訓練をさせます。厳しい訓練過程を通った後、立派な選手が誕生するのです。同じように神様はヨブが聖められて大きい器になることを知っておられたから、このように厳しく練ってくださるのです。ヨブは自分の体は影のようだと嘆いていて、気を取り直して自分の主張をまた言い張ります。 ヨブ記17:8-9です。 「正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る。義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。」(ヨブ17:8-9) 友達が自分を正しくないとずっと迫害して、自分の言うことを聞いてくれないから、ヨブは第三者、正しい者、罪のない者を使って友達を説得しようとしています。ここで正しい者、罪のない者はヨブ自身をも指しているでしょう。本当に正しくて罪のない人なら、誰かが人の道から外れてものすごい悪いことをしているのを見ると、義憤を覚えることがあるでしょう。 ヨブは今とんでもない悔しい目に遭っているから、自分のような正しい者はこのことに驚いていると言っています。罪のない者は神を敬わない者に向かって憤ると言っています。つまり自分も正しいし罪がないのにこんな目にあっているから、こんなことをされているから、それに驚いて憤(お)っていると訴えているのです。到底理解できないことを自分の目で見ていて、自分がそのことをされているから悔しくてたまらないのです。 しかしヨブはこのようなことを言える立場ではありません。本当に正しくて罪のない人ならこう言えるでしょうが。ヨブは今、真実でない人だし、第三者の例えを挙げて自分を合理化することは正しくありません。人に信頼されない人が自分の意見を主張するために第三者の名前を言うなら、相手もその第三者を認めないでしょう。それで自分の言葉によって、関係のない第三者に迷惑をかけることもあります。これは日常生活でもよくあることでしょう。 これによってサタンが訴えて、次々と争いを起こすようになります。ある人は自分の目的を達成するために関係のない人まで巻き込みます。例えば自分が言いたいことはあるけれど、誰々がこんなふうに言っていたというのです。そして自分が気に入らないし不満があるとき、誰々がこんなふうに文句を言っていたというふうに言うのです。 そしてこういう人は自分の話に同調する人を探しています。自分の主張を強くしている人は、誰々もこんなふうに文句を言っていたと言いながら、自分に同調してほしいと思うのです。何度もそういうのです。しかしそれは不満を抱きそうなことでもないのに、その人はずっとその不満があっていると、相手の人が賛成してほしいとしつこくそれについて言うのです。自分の見方をしてくれる人を探しているのです。あちこちに行ってあれこれ不満を言いながら、自分は正しいかのように自分のことを訴えているのです。 または自分が話すと相手が聞かないと思って、地位があって権利のある人の名前を上げて、その方がこんなふうに言っていたという場合もあります。またある人は自分が周りに認められないから、頭になる人の名前を上げてその人に自分が愛されているかのように言います。これも罪だと思わないかもしれませんが、これは大きい悪でサタンが訴えることです。これも偽りだからです。 自分が人に認められるために他の人の名前を借りて言うのです。偽りなのです。前に一回褒められたことがあるだけなのに、頭になる人に自分が認められているかのように人に言うのです。それで人に自分の話が、自分の意見が通るようにしようとするのです。それは悪だし、そして正しくないことでしょう。罪になります。そしてその言葉によってサタンが訴えるようになります。 続いてヨブは、「義人は自分の道を保ち」と言っています。自分の道を保つとは正しい道を歩み続けるという意味です。ヨブがこのように言っているのは自分の道が正しいと思うから、周りからどんな反対があっても揺らぐことなく貫くつもりだと言っているのです。つまり私は正しい、しかし友達が何の罪もない私を刺激して悪いもの扱いをしていた。これについて私は解明してきて、これからも解明していくと言っているのです。 そして「手のきよい人は力を増し加える」と言っています。これは自分が正しいから、ますます力を得るようになると言っています。これは一見合わないようではありませんか。なぜならヨブは、ヨブ16:8では自分は痩せ衰えたと言っていたし、ヨブ17:1では自分の霊は乱れたと言っています。今の表現とは正反対に言っていました。しかしヨブは自分の考えではこれはあっていました。ヨブは自分の体が衰えていても、自分の言葉は正しいから、力を増し加えて最後まで主張するという意味で、こう言っているのです。とても愚かな姿ではありませんか。周りからいくら反対されても、私は正しいからこの意見を最後まで貫くと言っています。 ヨブの強い自尊心と意地が込められている言葉です。韓国のことわざに、雀も死ぬ時大声で鳴くという言葉がありますが、ヨブも最後まで声を上げて自分を弁護していくと言っています。体がだんだん痩せ衰えても自分は正しいから、力を絞り出して訴え続けると言っています。皆さん真理に照らしてみれば、このような意地と頑固さは何の使い道もありません。 かえって相手に嫌われるし平和を壊すしかありません。サタンの喜ぶことです。私たちは話をする時も何かを勧める時も、周りの人が理解できないならもう一度顧みるチェックをしてみる必要があります。また互いに平和を保てないのは、それぞれに問題があることだから、自分だけ正しいと主張しないで、相手の話を聞いて理解しようとしなければなりません。 人々は自分が正しい、相手は正しくないと思っています。皆さん自分の考えがあっていると思いますね。正しくないと思っている人はあまりいないと思います。自分が見て感じたことが全部あっていると思います。だからそのように考えて人にもそのように言うのです。人に対してもそんなふうに裁くのです。でも正しくないことあっていないこともたくさんあります。人のした姿だけ、その人の行動だけを見ていますが、その人の心は分からないからです。 ヨブの友達もヨブの言っていることを見て、腹を立てていましたが、ヨブの心は知らなかったのではありませんか。神様はヨブの友達の方がヨブより悪いと言われたでしょう。皆さんも自分が今見て聞いて考えて話していることが、正しいと主張するのではなくて、正しくないかもしれない、あっていないかもしれないと、へりくだる姿勢がとても必要です。それは自分の自尊心を捨てるときに、自分を発見することができます。互いに自分が正しいと主張して言い争うことがあるなら、両方に問題があります。そして両方が相手のせいにするのです。 でも相手の話を聞き入れることは必要です。そして相手の立場で考えてみて、真理と反対のものでなければ聞いてあげることもいいでしょう。相手に合わせてあげることも善でしょう。そのためには心の悪を捨てて、霊の愛が臨んでこそできるのです。このメッセージを聞いて、明日すぐ変えられることが難しくても、続けて努力しなければなりません。大切なのは人と争ったりしたときは、相手にだけ問題があるのではなくて、自分にも何か問題があるのではないかと自分も顧みる姿勢です。 そのために祈りながら、聖霊に助けを求めるなら、聖霊は悟らせてくださるでしょう。イエス様は悪い人々がいくら迫害しても、言い争うことはありませんでした。イエス様は良い働きだけなさったのに、悪い人々がイエス様を殺そうとしました。それでも彼らを憎まなかったし、神様の御心を悟らせてくださり、自分を十字架につける彼らのために赦しの祈りを捧げました。私たちもこのようなイエス様の心に似て、その方の行いを自分の生き方に適応しなければならないでしょう。
「ヨブ記講解(43)-ヨブの自己主張」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:1~17:5
私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。(ヨブ17:1)
それで本文ヨブ記17:1で「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。」と言っているのです。ヨブは挫折して苦しみながら、だんだん疲れていきました。それで自暴自棄になって自分の霊は乱れたと言っています。そしてヨブが本当に今すぐ死ぬような危ないところにいるという意味ではありません。絶望していて心が疲れてしまったからこんなふうに私のものは墓場だけだと言っています。自分の考えの中で全てがおしまいだと思っているのです。立ち返ることもできないし、死だけが待っているんだと絶望しているのです。人生のどん底に落ちたと思っています。
皆さんの中でいろんな大きい問題にぶつかったとき、こんなふうに自暴自棄になって絶望したことはありませんか。信仰生活をするときも、こんなふうに否定的な告白をする人がいますが、なおさなければなりません。聖められるために変えられるために一生懸命罪と戦っていたのに、ある時から疲れてしまってへたり込んでしまうこともあります。それで私は聖められることができないようだと諦めてしまう人がいます。そうしてはいけません。
第二テモテ3:5に「見えるところは敬虔であっても、その実を否定するものになるからです。こういう人々を避けなさい。」とあります。罪を捨てて聖められることは自分の力でできるものではありません。自分の努力プラス神様の恵みと力プラス聖霊の助けがなければなりません。そうしてこそ罪と戦って勝つことができます。このような神様の力に頼らなければなりません。しかし自分でなんとかやってみようと思って、結局挫折してしまい諦めることがあります。
しかし私たちは神様がくださる恵みと力によって、それに頼らなければなりません。皆さん聖められるために、信仰が成長するために今まで頑張ってきました。しかし周りの人を見てみたら、ある人は躓いてしまって世に行ってしまう人もいるし、そしてある人は落ち込んでいたりする姿を見て、私もちょっと疲れたと思いながら休みたいと思ったり、使命を手放したり熱心が冷めたりする姿がありませんか。
そして自分なりに一生懸命罪を捨てるために走ってきたのに、捨てたと思ったものがまた出てきて、また出てきて、それでもう努力するのも疲れたと思う人もいますか。諦めたくなる時はありませんか。続けていくのがしんどいと思う時はありませんか。自分がある程度適当にやっても楽に生きたいと思うことはありませんか。そうしてはいけません。それはとても危ない考えです。
信仰は成長し続けなければならないし足ぶみしていては後ろに行ってしまうのです。毎日私たちは自分を顧みて、自分の口の言葉も目つきも、心の中で考えることも気をつけなければならないのですが、一瞬一瞬そうするのがきついでしょうか。辛いと思いますか。それで諦めたいと思いますか。そうではありません。
そのように努力していけば神様が恵みをくださって聖霊が助けてくださるから、だんだん楽になって幸せになります。神様がくださる喜びがあります。その次元に至るまで私たちは、諦めてはいけないのです。もしかしてもう休みたいと思ったり楽になりたいと思った人がいるならばもう一度頑張ってください。 世では数十年間、お酒とかタバコをしていた人が辞めたいと思っても辞められないことがあります。でも教会へ来て神様の恵みが望んだら一瞬で辞めることができるという証がたくさんあるのではありませんか。だから神様がくださるこのような恵みと力を信じて神様により頼みますように。 続くヨブ記17:2です。 しかもあざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。 (ヨブ記17:2) ヨブは友達が自分を慰めるどころか、自分をあざけっていると言います。今まで自分が友達に言った言葉によって、友達が激しく怒っていることはわからないのです。自分の過ちは認めないで、友達が敵意を抱いている姿を見て理解できないのです。今ヨブは相手が悪いと思っているのです。自分は悪いと思わないのです。だから理解できないのです。 人々は自分の過ちとかミスによって相手を困らせたのに逆切れする場合もあります。自分が原因なのに相手がなぜ怒っているのかとわからないのです。例えばお金を借りた人がいるとしましょう。でも事情があって約束した日に返せなかったとしましょう。この時お金を貸してくれた人が怒って怒鳴ったり責めるならば自分は何も言えないでしょう。 自分が相手を怒らせたし、怒鳴られたからといってなぜ傷つくのでしょうか。お金を返すことができなかった自分のせいではありませんか。自分が悪いと思うべきではありませんか。約束を守れなかったから申し訳ないと思って謝るべきなのに、かえって相手にひどすぎると言ったり、なんでそんなに怒るのと言うなら話にならないでしょう。 こういう場合、怒る相手を悪いと思うのではなくて、悪いと思わない自分がもっとひどいということを悟らなければなりません。約束をしたなら必ず守って相手を困らせてはいけないし、もし約束を破ったなら、相手が怒っても申し訳ないと思って謝るべきでしょう。何よりもそういうことが起こらないように知恵を持って、相手が怒らないようにすることが大切でしょう。 だから善を慕っている聖徒ならすべてのことで自分の立場ではなくて、相手の立場で考えなければなりません。相手の言葉とか行いだけ見て、嫌な思いをさせられたとかひどいとか思うよりは、なぜそのように機嫌が悪いのか怒っているのかなと思いながら、相手の立場と感情を理解しようとすれば平和を作れます。 そして反対の場合もあります。相手が何か自分に失礼なことをしたりして自分を怒らせたとしましょう。それでも怒ったことは私の心の中に悪があるからだと自分を顧みて、神様の前で悔い改めればいいでしょう。相手のせいにしないでください。この反対の場合は相手が私に悪を行ったから、私もかっとなって一言言ってあげたとか、それは自己弁明ですがそれも善ではないでしょう。 続く本文を読むとヨブはまた神様に訴えています。ヨブ記17:3です。 どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(ヨブ17:3) つまりヨブは神様と自分の間に弁護する人を立ててくださいと言っています。それで自分の正しさを訴えたいと言っています。自分には罪もないのに神様が責任を持ってくださいと言っています。今自分の苦しみは全て神様のせいだから、神様が私のために保証するものを置いてください。それで私に罪がないことを認めて問題を解決してくださいと訴えているのです。 神様のせいにして責任を取ってくださいと言っています。まるで借金のため悩んでいる人が、なんとか問題を解決しようと保証する人を探しているように、ヨブも切羽詰まって神様に叫んでいます。ヨブの苦しみから出る訴えです。神様を信じない人は問題があると、人間的な方法を使って問題を解決するために、保証してくれる人を探します。しかしお金を貸してくれる人がいても、根本的に自分が問題を解決しなければ、またその人に頼るようになります。自分の問題は自分で解決しなければなりません。 そして信仰のある人なら何か問題が起こったら、人を自分の保証するものとして立ててその人に頼ってはいけません。神様が私たちのお父様であり私たちを支えてくださる方だから、神様の前にお願いするべきでしょう。神様私のために保証人を置いてくださいというのではなくて、全知全能なる神様に委ねて信仰で求めなければならないのです。神様を信じるなら神様にお願いすればいいでしょう。神様と自分との関係はもちろん、信頼関係はちゃんとできている場合のことです。私の祈りを聞いてくださることを信じるから、願い事を神様に捧げていただけるのです。しかし神様に頼らないで人に頼ってしまうならば、神様は助けることがおできになりません。 なぜ自分がこんなふうに困難にあっているのかを悟って、悔い改めて立ち返って神様の御心に従っていかなければなりません。すると神様が問題を解決してくださいます。口の言葉では神様、私の主人になってください、私を導いてくださいと祈っているのに、日常生活では自分の考えで人の方法を使っているならば神様私を導いてくださいとしても、神様は助けたくても助けることができないのです。 神様は私たちが道を迷っているなら、立ち返って正しい道に戻ることを望んでおられます。そして過ちを徹底的に悔い改めて改善することを望んでおられるのです。そして神様との関係も正しく築き上げるようにと望んでおられます。しかしヨブは相変わらず自分が正しいと思っていたから、自分の過ちを反省する気もなかったし、漠然としてあてになる人を求めてもがいているのです。 皆さんもこんな信仰生活をしているのではありませんか。祈るときは神様助けてくださいと言っているのに、実際生活の中では神様に頼らないで人に頼って人間的な方法を使うのです。今ヨブは切羽詰まって神様にいろいろ叫んではいますが、しかし実際神様にすべてを委ねる謙遜な姿ではないのです。ただ自分には何の過ちもないのに神様がこんな苦しい目に遭わせたから、神様が責任を取るべきだというふうに問い詰めているだけなのです。皆さんはどうでしょう。神様が本当に自分の父だと思って、主人だと思う人ならば、神様が自分の祈りを聞いてくださるようにしているのかどうか、顧みなければならないでしょう。 ヨブは他に誰か誓ってくれるものがありましょうかと言っています。誓ってくれる人を、これは保証すると誓ってくれる人を言っています。先ほども言ったのですが、ヨブの周りを見てみると自分を助ける人は誰もいないのです。だから神様が何とかしてくださいと、責任を負ってくださいと言っているのです。神様が自分にこのような病気にかかるようにして、こんな苦しみに遭うようにされたから、神様が解決してくださいと言っています。これは低くなって謙遜になって求めるのではありません。問題の原因を神様のせいにしているだけなのです。だから問題です。 皆さんは試練にあった時、マンミンの聖徒なら神様が苦しめたとは絶対言わないでしょう。真理を聞いているから。でもクリスチャンの中でそんな表現を使うことはよくあります。問題にぶつかったり病気になったりすると、神様が試練に会わせられたとか、神様が自分を打ったとかいうふうに表現する人がいますが、それは正しくないでしょう。自分を顧みて自分の中から問題の原因を見つけなければなりません。神様のせいにしてはいけないのです。でもヨブはそんなふうにずっと言っています。 ヨブ記17:4です。 あなたが彼らの心を閉じて悟ることができないようにされたからです。それゆえ、あなたは彼らを高められないでしょう。(ヨブ17:4) 自分が友達にいろいろ教えてあげたのに彼らが悟れないのは、悪を行うのは、神様がそうなさったからだと言っています。ヨブはこういう表現、似た表現を今繰り返し言っています。友達が悪い、友達が自分にいろいろ悪いことをしている。それは神様のせいだと言っているのです。だから神様も彼らを認めてはいけない。彼らを高めてはいけない。自分も彼らを認める気はないと言っています。 でも今ヨブが言っていることは正しくないでしょう。もしヨブが神様がくださった知恵をもって、善をもって友達と話をしていたなら、友達は怒らなかったし言い争うこともなかったでしょう。しかしヨブは自分の中の悪が出てしまって感情的になって、自分が正しいとずっと言い張っているから、サタンが働いて友達と感情的にぶつかったのです。でもヨブは自分の過ちが悟れないで神様に訴えていて、自分を咎めて責めている友達を、神様高めないでくださいと言っています。 これはとんでもない要求ですね。皆さんはこういう姿はありませんか。誰かが自分を苦しめたからと言って、神様あの人に罰を与えてくださいとか。皆さんならそのように祈ることはないけれども、でも自分が何か誤解されたならば、周りの人のところにいってまた自分の正しさを訴えたくなりますね。弁明したくなりますね、それもヨブのような姿なのです。今ヨブは友達が悪いでしょう、私は正しいでしょうと神様に正確に言ってくださいと、彼らを認めてはいけませんというふうに言っています。 どれほど高ぶっているでしょうか。皆さんも日常生活の中で、自分を苦しめて自分に嫌味を言う人がいる場合、その人に直接言えないし、神様にもあの人が悔い改めるようにしてくださいとは言わなくても、でも自分の親しい人のところに行って、その人の陰口を言ったり、私はこんな悔しい目に遭ったとかするならば、それもヨブと同じような姿なのです。 ヨブは今あまりにも悔しいのですね。友達が過ちのない自分をとがめて責めているから。だから神様に彼らを認めてはいけませんと言っているのです。皆さんも日常生活で神様にそう言わなくても、自分の親しい人のところに行って、自分を苦しめた人の悪口を言ったり、自分が悔しいと言ったり、その人が悪い人のように印象づけることがあるのではありませんか。それも自分の中に悪があるからでしょう。でも本当に善のある人、神様を信じる人、頼る人ならば、神様に祈ってその人のために祝福を祈って、それで時を待ちながら善を行うでしょう。ヨブは神様が友達の心を閉じて悟ることはできないようにされたから神様が悪いと言っています。また友達も無視しています。 続くヨブ記17:5ではヨブは友達を呪っています。 分け前を得るために友の告げ口をする者、その子らの目は衰え果てる。(ヨブ17:5) 今ヨブは友達に自分が侮辱されたから、その代価としてその友達の子供たちの目が衰え果ててしまえと呪っているのです。自分が指摘される姿があったことは悟れないで、相手のせいにして呪っているのです。それはヨブに信仰がなくて真の愛を知らないからです。このような姿を見ればなぜこのように試練に遭っているのか分かるでしょう。 イエス様はルカ6:27-28で、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われました。神様は敵を愛しなさいと言われたのに、敵でもない友達を信仰の兄弟を憎んではいけないでしょう。自分を呪う人のために祝福することは簡単ではないでしょうか。霊の愛が臨むなら、そうできます。 心が変えられれば自分を呪う人でも、その人を可哀想に思うからその人のために祈ることになります。ステパノ執事は神様の御心を伝えていて石を投げられて死ぬ時も、自分に石を投げる人を恨んだりしませんでした。膝をついて大きい声で、「主よ。を彼らに負わせないでください。」と、代わりに許しを求める祈りを捧げました。その心に悪い人々のためにも、命を捧げる最高の善と愛を所有していたからです。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように望んでおられます。 ヨブは行いでは潔白で正しいものとして神様に褒められていたのですが、でも人が自分を打つならば自分も打ち返すような人でした。だからヨブの行為的で一方的な善を、真の善に変えてくださるために練ってくださっているのです。神様はヨブを御霊の人に変えられるようにするために、火のような試練の中で自分の悪が出てきてそれを発見するようにしてくださるのです。 それでヨブに潜んでいた悪が明るみにされるのです。しかしヨブが悪を発見して捨てると、神様に認められ愛されて祝福される器になれるから、神様はそうなさるのです。もし厳しい訓練を受けなくてもオリンピックで金メダルを取れるなら、選手たちは訓練を受けようとするでしょうか。また監督も選手を訓練させる必要もないでしょう。しかし金メダルを取るためには、必ず厳しい訓練の過程が必要です。だから地獄のような訓練でも耐えるのです。ヨブの場合も、神様はヨブが真の祝福を受ける器だから鍛錬してくださるのです。 ところで神様が祝福するために練ってくださる時、結局自分の中にあった悪が出てくるのです。悪がなければそれが出てこないでしょう。自分の中に悪があるから出てくるのです。例えば職場で上司が同僚を褒めたとしましょう。その時、「え?あの人は何の取り柄もないのに?」と面白くないなら自分の中に悪がたくさんあるのです。上司が自分を指摘したのでもないのに、褒められた同僚を妬んで不満を抱いて自分を苦しめるのです。このように心に悪があれば良いことを見ても悪く思うのです。 それではヨブが友達の子供の目は衰え果てると言ったのはどんな意味でしょうか?目は霊的には未来を意味します。人は目が見えなければ道も見えないし閉じ込められたようですね。だから目が衰え果てると言っているのは大きい呪いです。また子供は家の跡を継ぐ大切な存在なのに、そんなふうに呪ったからこれは大きい悪でしょう。 ヨブ記15章でエリファズがヨブを呪ったのですが、今ヨブもそれに仕返しをしているようなものです。皆さんこの姿が自分ではないか顧みますように。相手の言葉とか行動で傷つけられて、気分が悪くなりました。それならそれを覚えていて、後で仕返しをしようと思っていますか?ずっと根に持っていますか?それは世の人の姿で悪い心でしょう。神の子供はそうしてはいけません。だからヨブ記講解を聞きながら自分を顧みて悪を発見して速やかに捨てましょう。 結論です。 愛する聖徒の皆さん。並行線はいくら長い時間が経っても互いに会うことはありません。自己主張を曲げないでずっと自分だけ正しいと言い張る人も同じです。もしヨブが最初から友達の言う話を受け入れたなら、もうすでに問題は解決されたでしょう。しかしヨブは自分の自尊心と意地を曲げないでずっと自分が正しいと主張していたから、試練が続いています。主を愛する聖徒なら人と言い争ったりしたくないでしょう。平和を作りたいでしょう。でも些細なことで互いに仲が悪くなることもあります。それは自分の利益を求める心、自分の立場を考えるからです。 しかし真理と反対のものでなければ相手に合わせてあげたほうがいいです。今すぐは損をするようかもしれませんが、善を行うと神様が喜ばれるから、神様が祝福してくださいます。塩が溶けてこそ塩気が効くように、自分というものを、自分の感情、自分の利益、自尊心を捨てましょう。そして犠牲になって全て渡す主の心に似ていきましょう。すると主の前で褒められる皆さんになるでしょう。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日ヨブが神様と友達が悪いと言いながら、自分には何の過ちもないのに悔しいと言いながら、神様の前に訴えている姿を見ました。そして友達の子供まで呪っている姿を見ました。私たちの心にはこのような姿がないのか、悪がないのか顧みますように。自分の口の言葉と心の中と思いの中を顧みて発見して自分を認めて、速やかに捨てて変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
「ヨブ記講解(43)-ヨブの自己主張」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:16-22
皆さん、前回は自分の角を捨てようというメッセージで、自尊心というものがどれほど無益なものなのか伝えました。イソップの寓話を見ると自分の美しい角を誇っていて、弱い足を恥ずかしく思っていた鹿の話があります。ある日ライオンがこの鹿を追いかけてくると、鹿は細い長い足で素早く逃げることができました。しかし普段とても誇りに思っていた角が枝に引っかかってしまって、結局ライオンの餌食になってしまいました。
このように人にも名誉、権力、お金、外見など誇るような角があるかもしれません。しかしこのようなものが高ぶりを生み、不幸をもたらすこともあります。しかし自分が短所だと思っていたことによって、低くなって発展することもあります。ですから心の中にある、いらない自尊心の角、高ぶりの角を捨てて、神様が喜ばれる謙遜な人にならなければならないでしょう。
神様が聖書で、ヨブの話をこのように具体的に記すようにされたのは、私たちの中にある罪の性質を発見して捨てて、聖められるように望んでおられるからです。ですから今日もメッセージを聞いて、鏡として自分を照らして発見して、悪を捨てて善を満たしますように。
本文を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほど酷かったのかが分かります。ヨブ記16:16です。
「私の顔は泣いて赤くなり、私のまぶたには死の影がある。」(ヨブ16:16)
ヨブはひどい皮膚病で痛くて泣いていました。子どもたちをみんな失ったから悲しくて泣いていました。妻にも友達にも捨てられて泣いていました。自尊心も踏みにじられて苦しくて泣いていました。泣いていたら顔も赤くなって目も充血しました。絶望に落ちてしまって、まぶたには何の希望もなく死の影がありました。
この時は涙で嘆くのではなくて、全能なる神様のところに行って求めれば神様が解決してくださるのに。ヨブは神様により頼むことができず、自暴自棄になって泣いていました。神様を見つけた体験がないし、ただ知識的な信仰に過ぎなかったし、希望のない肉の人だったからです。
皆さん、本当に神様を信じる私たちが流すべき涙は、どんな涙でしょうか。哀れな魂を救うための悲しみの涙、罪を犯した時立ち返るための悔い改めの涙、変えられるための決断の涙、神様の恵みに感謝する涙、喜びの涙でなければなりません。今自分が試練にあって嘆きながら悔しい思いをしながら流す涙ではなくて、感謝と喜びを持って涙を流すべきです。信仰と希望のある神様の子供はどんな試練の時も患難がやってきても、喜んで感謝して祈ることで勝利できます。霊の信仰がある人とない人とではこのように大きい違いがあるのです。
続くヨブの告白を見ると、ヨブは相変わらず自分が正しいと主張しています。ヨブ16:17-18です。
「しかし私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい。地よ。私の血をおおうな。私の叫びに休み場所を与えるな。」(ヨブ16:17-18) ヨブは自分の手には暴虐がないと言っていますが、暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。ヨブの言葉のようにヨブの手に暴虐がなかったことは事実です。人の心にあるものが行いに出てきますが、ヨブは行いに出てくるほどは悪い心があったのではありません。しかし口で多くの悪をこぼしました。それだけ心がまだ変えられていなかったからです。そしてヨブは自分の祈りはきよいと言っています。これは今まで自分が口にした言葉が、どれほど神様の前でふさわしくないのかを相変わらず悟っていない姿を言っています。 続いてヨブは「地よ。私の血をおおうな。」と言っています。これは自分が正しいし聖いから、地に自分の正しさを覆うなと言っているのです。そして私の叫びに休み場所を与えるなと言っています。これはどういう意味でしょうか。自分が続けて叫ぶように、つまり弁明できるようにしてほしいと言っているのです。世では悔しい目にあった人が自分の正しさは天が知っている、地が知っていると主張する人がいます。ヨブも今例えを挙げて自分の境遇を訴えています。 しかし神様の子供は天が知っていて、地が知っているという表現を使う必要はありません。詩編139:1-4にこうあります。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をごとごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをごとごとく知っておられます。」 神様は全てをご存知です。ヘブル書4:12-13にこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも指し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」とあります。 このように神様の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいか正しくないか明らかになります。私のことは天が知っている、地が知っていると言う必要もないし、神様がご存知です。また真理の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいかどうか正確に見ることができます。それで良いのではありませんか。御言葉で自分の心を詳しく見て罪と悪を発見して捨てれば、それだけ魂に幸いを得て健康であり祝福されるのです。 神様の前では誰も何も隠すことができません。人に誤解されることもあるし、悔しい目に遭うこともありますが、神様だけは全てをご存知だから、時が来ると必ず真実が明らかにされるのです。ですから本当に大切なのは、神様の前でどのように行うかです。今は損もするようで悔しい思いをするようでも、全てを神様に委ねて御言葉に従うなら、神様が喜ばれて全てを働かせて益としてくださるのです。 ところが聖徒の中でこのような神様を信じることができず、頼らないで人に訴えたり、不平不満を言って嘆く人がいます。周りの人にまた自分を理解してくれる人を探すのです。自己主張を続けるのです。ヨブもそうでした。自分は正しいと訴え続けるのです。そして自分の話を聞いてくれる人が欲しいのです。その話を聞いて、それは違うとアドバイスをしてくれる人は嫌なのです。自分の味方をしてくれる人が欲しいのです。それは信仰ではありません。神様に頼る信仰ではありません。神様を信じる信仰が足りないし、自分から問題の原因を見つけることができない姿です。そのまま時間が経っても問題は解決されないのです。 世の人々はそんなふうに生きています。それで問題が解決されることがあるならいいのですが、ほとんどは原因がわからないから問題が解決されないのです。だからずっと不満ばかりなのです。しかし神様を信じる子供なら、クリスチャンなら人の前で自分のことを訴えたり、不満をさらけ出したりするのではなくて、神様の御言葉で自分を照らしてみて自分の欠けているところを探して霊的に解決すれば、目の前の問題も解決されるのです。 「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。」 (ヨブ16:19) ヨブは自分が潔白だから、自分が正しいことを証してくださる方が天におられると言っています。自分を保証してくださる方が高いところにおられると言っています。つまりこの地上では自分を救ってくれる人もいないし、問題を解決してくれる人もいないし、自分が訴える対象は神様であり、神様が自分をこんな目に遭うようにされたから責任を負うべきだというふうに言っているのです。 これは神様の前で神様が問題を解決してくださらないから、私がこんなに苦しい目に遭っているのではないでしょうかと、問い詰めているのです。前後の文脈からヨブの心の訴えがわかります。 「私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」(ヨブ16:20-22) ヨブ16:20-22です。ヨブはこの時神様にとりなしをしてくださいと、神様に頼るように見えるかもしれませんがそうではありません。ヨブの友達も妻も周りの人も、ヨブをあざけっているとヨブは思っています。しかし友達の立場から見ると、ヨブが今あまりにも正しくないことを言っているから、それについて指摘しているだけなのです。だから言い争うようになるのです。 ヨブは自分が悔しいと言っていますが、友達が見るには当然のことを言ってあげているのです。でもヨブがそれを受け入れないから、互いに対立していて言い争っているのです。互いに自分は正しい、あなたは正しくないと言いながら相手が自分を無視していると思っています。友達も同じですね。ヨブが自分たちを無視していると言いながらだんだん感情的になって、言葉の表現が激しくなって呪ったりするのですね。誤解がだんだん募るのです。こういう時は互いに自分が正しいと主張するのではなくて、真理の御言葉を持ってただすべきです。 そしてヨブは神様に向かって涙で訴えているのですが、この方法も正しくありません。御言葉には喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい、信仰を持って神様の前に願い事をしなさいとあります。しかしヨブは反対に、呟いて恨んで嘆いて誤解して裁いて涙を流しています。だから同じ涙でもどんな意味かによって違います。ヨブが低くなって自分の罪を悔い改めながら涙を流しているなら、それは神様に受け入れられるような涙でしょう。悔い改めの涙だったらよかったのですが、そうではなくて、ヨブの涙は悔しくて、痛くて、嘆きながら、訴えながら涙を流しています。 するとどうなるでしょうか。サタンが働くようになります。そのような口の言葉、涙によってサタンが働いてしまってさらに病気がひどくなって、苦しみが大きくなるのです。今ヨブはそのような繰り返しですね。それが皆さんの自分の姿かもしれません。ダニエル祈祷会の時、涙を流して祈っているとしても、その涙の意味が何か自分で考えてみなければなりません。 今病気で苦しいから痛いから涙を流すのか、そうでなければ、今日一日嫌なことがあったから悔しいから涙を流しているのかです。ヨブも天に自分を保証してくださる方がいると言っていますが、それは本当に神様をおそれかしこむ意味ではなくて、神様の前で訴えて責任を取ってくださいというふうに問い詰めている姿でした。だから違う意味の涙でした。 でも私たちはそうしてはいけないでしょう。喜び、感謝の涙を捧げて、信仰によって自分を顧みて悔い改めてこそ問題が解決されます。ヨブは自分が正しいと主張してきました。だからとりなしをしてくださるようにと言っています。自分が正しいことをどうして認めてくれないのですか、どうしてこんなに苦しい目に合わせるのですかと言っているのです。いくらでも私は自分の正しさを言えるのにと言っています。高ぶっている姿です。とりなすとは対立する二人の間に立って、事態が好転するようにうまくとりはかることです。 ここでヨブは人の前でも神様の前でも自分が正しいことを主張していると言っています。「人の子がその友のために。」とありますが、この人の子は普通の人ではなくて、人として本分を尽くしていて、義と善を持っている人を言っています。そのような人が自分をとりなしてくれるようにと願っているのです。なぜなら自分は、自分も正しく、又良いことをしていたからと言っているのです。そして自分を知っている全ての人の前で、自分の弁明をしたいと思っていました。自分はこんな苦しみを受けるような悪いことをしたことがないと言いたいのです。人々は自分が神様によって懲らしめられていると誤解しているようだから、それについてはっきり解明したいと思っています。 しかし私たちは苦しみにあったとき人の前で弁明するのではなくて、全てをご存知の神様に委ねなければなりません。教会の中で聖徒の間で意見が違うときもあるし、互いに誤解したり誤解されたりすることもあると思います。そのようなことがあってはいけないのですが、いろんな人が集まっているから、またそれぞれ違う環境で育った人もいるし、人と人との間では誤解することもありますね。 皆さんはそういうとき、自分が悔しい目にあったと思うならどうしていますか?自分の悪口を言った人とか、自分の陰口を言った人のところに行って、厳しく一言言ってあげたいと思いますか?そうでなければ自分のことを誤解している人々のところに行って、私は違う、やっていないとヨブのように弁明したいと思っていますか?そうでなければ黙々と神様が知っておられるから、また自分を顧みて、もしかして自分が相手に何か失礼なことをしたのではないか、誤解されるような原因が自分にあるのではないかと思いながら祈る姿でしょうか。 一瞬もしかして落ち込んでしまったり傷ついたなら、それさえも神様の前に悔い改めている姿でしょうか。そして神様の前に祈りながらさらに広い心になるように、どんな人でも受け入れる人になるようにと祈っていますか。そういう人なら神様の前に正解を書いた人ですね。そんな生き方をしている人ならば神様に愛されるし、すぐ祝福されるでしょう。 しかしある人は誤解されたりするなら、それが悔しくてたまらないのです。そして自分がそんな風に言ってないのに、周りの人々がそれを膨らませて伝えてしまったから、他の人に自分が悪い人のように誤解されているならそれが悔しくてたまらないですか?腹が立ったり我慢できなかったりして、しゃべっていろいろ弁明したいと思いますか。それならヨブの姿と同じではありませんか。 皆さん、日常生活で自分はどうなのか顧みますように。人の目を意識して私はそんな人ではないのにみんなに悪く思われたくないと思いながら、何とかして弁明したいと思って訴えている姿はないのか顧みますように。神の子供はどうすべきか、私たちは真理を聞いて知っています。神様は全てを見ておられ全てを知っておられます。だから神様に委ねて信仰によって歩んでいれば時が来ると神様が全てを明らかにしてくださいます。 私はその神様がおられるからとても心強いしとても感謝です。もし神様がおられないなら一人では耐えられないと思います。しかし神様がおられるから、神様により頼むことができるから安心できるし心が平安です。私の顔を見ると平安に見えますか? そうでなければ心配しているように見えますか?イ-スターのとき賛美を捧げる時、私の顔を見るとどうでしたか。実はいろいろなことがあったのですが、そして私も講壇に立って皆さんの前に見せるような立場にいるのですが、普通賛美リードをするならば、カメラもクローズアップしたりするからお化粧とかそしていろいろ気をつけなければならないところがあるのですが、今回はそれに気をつける心の余裕もなかったのです。 それでも私は神様の前に私の心を捧げようと思いました。それなら聖霊様が支えてくださるからと思いました。神様により頼むしかなかったのです。もちろん世の方法は使いません。何かマッサージをしたり、そういうこともありません。私たちは神様により頼んでいるのか、世の方法を使うのか。皆さんも自分を顧みながら考えてみてください。 人との間でも対人関係でも神様にゆだねますように。問題は自分と神様の関係がどのくらい信頼関係が築かれているのかでしょう。本文にヨブは「数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」と言っています。ヨブは今の自分が受けている苦しみが大きいから絶望していて、もうすぐ自分は命がなくなるだろうと思っていました。このままずっと苦しみを受けていて、いつ死ぬかわからないと思っていました。だから帰らぬ旅路につくと決めつけています。 しかし私たちは神様の御言葉を聞いて、私たちはどこから来てどこに帰るのかよく知っています。この地上で生きている間どのようにすれば祝福されるのか、どのようにすれば呪われるのか、たとえ死の陰の谷を歩いていても、信仰を守っているなら神様が救ってくださることも知っています。そしてこの地上での人生が終わると、永遠なる天国で主と共に受ける栄光と幸せを望んでいるから、どんな状況でも絶望しません。一日一日を信仰で勝利できます。 そのように信仰生活をしていて死ぬようになったとしても、天国に入るから幸せでしょう。しかし信仰のない人々は、死を迎えるようになったり絶望的なことにあったりするととても苦しくなって恐れます。創造主の神様を知らないし天国への希望がないから、死が近づくほど人生の虚しさを感じます。ヨブも神様を、知っていると思っていましたが天国への希望がないから、口から出てくる言葉は虚しいことや絶望だけでした。
「ヨブ記講解(42)-自分の角を捨てよう」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:12~15
私は荒布をはだに縫いつけ、私の角をちりの中に突き刺した(ヨブ16:15)
神様がヨブを打ち破って、破れに破れを加え、ヨブの肌は荒布を縫いつけたような状態になったと言っています。これは荒布をまとっているという意味ではなくて、皮膚病によって肌がめちゃくちゃになっている姿を言っています。今、自分の体はこんなふうに満身創痍になっていると言っています。
普通、生地は糸が細くて柔らかいもの、また色が美しいほど高いものです。折り目が荒いものとか粗末なものなら、それは良いものではないでしょう。きめ細やかで柔らかい糸で、きちんと折られているものが高いのです。そして、幾つかの布を重ね合わせて縫い付けたものよりは、一枚で折ったものがもっと高いでしょう。貧しい人は新しい服を買うお金がないから、服に穴が空いたりすれば破けたりすると、古い布でそこに重ね合わせたり、布切れを重ね合わせたりするのではありませんか。
ヨブは今自分の体がそんな状態になっていると表現しているのです。ヨブは荒布を肌に縫い付けたと言っています。荒布は折り目の荒い布、粗末な布を言っています。昔、韓国では、市民は主に木綿とか麻で服を作って着ました。木綿も麻も柔らかくはありませんね。荒いでしょう。だから皮膚に触れたら気持ちいいでしょうか。そうではありませんね。絹とかもっと良い布で作った服を着たとき、触れたとき気持ちいいでしょう。
しかし、木綿とか麻はそうではないのです。これが荒布でしょう。ヨブの今の皮膚がそうなっているのです。そして服を長い間ずっと着ていて、肘とか膝のところが古くなると、布切れを重ね合わせて着たりしました。すると、その部分は厚くなって、跡が残るでしょう。そしてその周りは簡単に破けてしまうのです。ヨブがこのような状況を自分の体に例えています。
つまり、ヨブが今、荒布を肌に縫い付けたと言っているのは、ヨブの皮膚の傷が固まってはまた崩れるのを繰り返している状態を言っています。ヨブが今、自分の皮膚について言っていますが、人の心にある善と悪の程度によって、心が平安であったり、そうでなかったりするのですが、これは皮膚にも影響を与えることがあります。皮膚が綺麗な人を見ていると、その心も安らかだとある程
度予測できますね。健康状態も皮膚のトラブルが起きるかによって分かるところもあるのではありませんか。そして、心に苦しい、つらい思いをしている人ならば、皮膚も良くない場合があります。 ヨブは試練に遭う前、裕福だったときは体も健康でした。そして、ヨブは正しい行いをしていたから、もちろん皮膚も柔らかかったでしょう。しかし今は、悪性の腫瘍によって皮膚がひどく荒れていて、荒布を着ているようだと、神様の前で嘆いています。これは神様が自分を打ち砕いて、破れに破れを加えたからだと言っています。そしてヨブは、今日のメッセージのタイトルにあたる本文ですが、私の角をちりの中に突き刺したと言っています。 ここで角とは自尊心を意味しています。人は生まれて成長しながら、見て聞いて学ぶ過程を経て、知識と教養を積みながら自分の心を形成します。そして自尊心と自分の主観というものが生まれます。ここで角とは自分の主観とも言えるでしょう。これは人が生きている間自分の力となり頼りになります。 ある人は知識とか権力を積んで、それで自分の角を作ったりします。そして自分が正しいと思って形成した教養で自分を作ったり、自分の考えに合わない人は間違っていると無視するなど自分の角を持ったりします。そしてある人は正確な枠が角になる場合もあります。それで角で相手をついたりする人も、相手を苦しめたりする人もいます。そして自分が正しいと思う性格の枠によって自分を苦しめる人もいます。 しかしイエス・キリストを受け入れて神の子供とされた人は自分の角というものを捨てなければなりません。詩編75:5に、「お前たちの角を、高くあげるな。横柄な態度で語るな」とあります。自尊心、自分の主観、高ぶり、義と枠など自分の角がなくなってこそ真理が強くなり反対に真理の角が立てられます。 ところで私たちが主を受け入れて聖霊を体験したからといって、すぐ自分の角を捨てて完全にされるのではありません。赤ちゃんが生まれて幼年期を経て大人に成長していくように、人が御霊によって新しく生まれた後は御言葉を行っていきながら、御霊の人に変えられて信仰が成長していくのです。 ところでこの様に信仰が成長する過程で、私たちの中にある二つの心が霊的に戦います。主を受け入れる前の真理と反対の心と、聖霊を受けた後の真理の心が互いに対立するのです。つまり真理・善・霊を追い求める心と、それと反対のもの悪・肉を追い求める心が互いに立ち向かうのです。一方は御霊に従おうとしますが、もう一方は真理と反対のものに従って神様に逆らうからです。 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなた方は自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:16―17) 肉の願うことは御霊に逆らいとあります。これは自分の角、すなわち自尊心、自分の主観、高ぶりなどであり、それによって御霊に従えないのです。この自分の角を捨てないから御霊の歩みに入れないのです。 皆さんも成長過程の中でそして主を受け入れる前、自分の中に自分というものがあったでしょう。高ぶりもあったし、そして自分の主観の強い人がいますね。自分の義と枠で自分の角を作った人もいるでしょう。そして自分の誇りとか、強い性格などが自分の角になっている場合もあります。それを打ち砕いて捨てなければ御言葉・真理に従えないのです。 そして自分の角というものは、すべて自分でしょう、自分を愛するからでしょう。聖書の神様の御言葉に従いたくないのです。低くなりたくないのです。低くなりなさい、犠牲になりなさい、仕えなさいという聖霊の声に従えないのです。 自分という角があるから、自分が低くなって犠牲になろうとするなら角が対立します。肉の思いが動きます。私は愚かなものでもないし、何故私が犠牲にならなければならないのかと思います。こうやって自分という角を捨てないから、信仰生活をしていても、聖霊の声に従えないのです。 自分がまず人を許さなければならないのに、自分という角がある人は相手を許さないのです。相手が自分に悪いことをしたからと思います。自分から低くなって相手に仕えたくないのです。平和をつくる為には、まず自分から手を差し伸べなくてはならないのに、そうすれば、自分が負けるようで自尊心が傷つくと思うからそれがいやなのです。 自分が譲ること、自分がまず謝ることは自分が負けるようで、自分の角がそれを許さないのです。そして敵である悪魔サタンがそのように仕向けるのです。山羊は角をもって他の羊とか山羊を攻撃しますね。皆さんにはそういう角がないのか顧みますように。 ある人はうわべだけ見れば、柔和に見えるのですが。しかし、その中を見てみれば強い面があります。頑丈な面もあって人と妥協しないし、人の話を聞かない強い自分という角を持っている人がいます。うわべでは、人と争うこともなく、おとなしく見えるかもしれませんが、その中には意外と強い角のようなものがあって、変えられるのが難しい人がいます。皆さんは自分にはどんな角があるのか。顧みますように、それを見つけて捨てなければなりません。 使徒パウロは、第1コリント15:31でこう言っています。「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなた方を誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」これは主を知る前、自分が学んだ自分が正しいと思っていた全て、自尊心、自分の主張、義と枠全てを全部捨てるという意味です。真理と反対のものを全部捨てるという意味です。それが自分の誇りだと言っています。 皆さん、自分の知識とか、自分が正しいと思っている考え方とか、自分の外見を誇るのではなくて、毎日が死の連続だということを誇らなければなりません。自分の角が打ち砕かれて真理の角が立てられて、主に従わなければなりません。 ピリピ3:7-8です。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と言っています。 皆さん、自分にとって尊いものがありますか。貴重なものがありますか。これだけは捨てたくないと思っているものがあるなら、それを捨ててこそ、主に自分を捧げることができます。そうすると、自分の尊いもの香油を主に捧げることができるし、すると神様が強くしてくださるのです。 しかし未だに自分を主張していて、自分にとって貴重なものを捨てていない人がいますか。全てを捨てて塵あくたと思いましょう。このように自分の角を打ち砕くほど、御霊の人、真理の人、主のご性質に似た人になります。使徒パウロは真理にあって毎日が死の連続だったので、聖霊の声を明らかに聞いて、神様の力を受けて大いに行いました。 私達は使徒パウロの性格が元々どうだったのか学んだでしょう。自分が正しいと思ったら絶対くじけないで人と議論するのは好きで、深く探求する性格でした。義の強い人でした。しかし主に出会った後、自分に死んで自分を捨てて、心が広くなってどんな人も受け入れることができました。それで神様は大きい神の力をくださって尊く用いてくださいました。もし、使徒パウロに自分の考え方、自分が正しいと思っていることを主張している姿があったらこのようには用いられなかったでしょう。 使徒パウロは第2次伝道旅行の時、小アジアに行こうとしたのですが、御霊によって、そこに行かないようにと言われました。それを後で幻を見て、確かにわかりました。マケドニアの人が私達のところに来て助けてくださいという幻を見たのです。それで、使徒パウロは聞き従ってマケドニアに行って、そこで福音を伝えたら、あちこちに教会がたくさん建てられ多くの人が救われました。 試練を通して毎日が死の連続になって、完全に聞き従う神の力を行う人になったのです。それで神様に栄光を捧げました。私達も聖霊に満たされているときは御霊に導かれますね。それで、このようにしなければと思って、この道がまことだ、新しいエルサレムに行く道だと導かれていました。しかし、自分というものが完全に捨てられていなければ、疑ったり、落ち込んだり、くじけたりするのです。 このように行ったり来たりして二股をかけているから、心の中で二つの心が戦っているからどれほどつらいでしょうか?自分の角を完全に捨てなければならないのに、それがまた伸びてしまうのです。そうではなくて毎日自分に死んでいきましょう。 ところがヨブは自分に死ぬのがあまりにもつらかったのです。自分の自尊心が傷ついたのがあまりにも悲しかったのです。角がちりの中に突き刺されたと言っています。これは自尊心が傷ついてそれを悲しんでいる姿です。ヨブのように自尊心を捨てるのを嫌がる人もいます。しかし、イエス様と昔の信仰の人々はどうでしたか。自尊心も高ぶりも自己中心的な考えもありませんでした。 イエス様は悪い人々が捕えようとしたとき被造物が、創造主の神様の御子を捕らえようとするのかと叱られませんでした。おとなしく神様の御心に従って捕らえられておとなしい羊のように、罪の為の生贄になってくださいました。自分というものが全くなかったからです。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:3-4) イエス様はこのようにさげすまれこのように裁かれても、その為苦しいと思ったのではありません。神様の愛を知らずに、十字架の意味を知らずに悪を行う人の子らを見て、もどかしい心で悲しんでおられました。代わりに執り成しの祈りをしてくださった愛のイエス様です。 どうして私をこのようにさげすむのか、こうして私をこんなふうに苦しめるのかと言われたのではありません。彼らが悪を行って滅びに向かう姿を見て悲しんでおられました。これが、自分の角がない姿です。 しかし、自分の角があって悪がある人は、人によって苦しめられると、その人を憎みます。悔しいと思います。しかし悪のない人は、相手が悪を行っている姿を見て、かわいそうに思うのです。善の心です。これが自分の角がない人、真理の角がある人です。 イザヤ53:7です。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。イエス様の犠牲と献身、自分というものがなく聞き従われた姿を表現しています。 聖書にある信仰の人々もそうでした。モーセはエジプトの王子だったときはどれ程自分の角が強かったでしょうか?同族を虐待するエジプトの人をその場で殺すほど短気な人でした。王子という身分があって全ての分野で自尊心もあったでしょう。自信も溢れていたでしょう。しかし40年間、羊を飼いながら試練の歳月を送った後は自分の角はなくなりました。地上の誰にも勝って非常に謙遜でありました。どんな人でも受け入れる人になりました。 アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、エリア、ダニエルもそうです。試練の過程を経て自分の角がなくなったので、ただ神様の御心に従いました。イエス様の弟子たちも聖霊を受けたあと、自分の角を捨てて、神様に大いに用いられる人になりました。自尊心、高ぶり、自分の主観など自分の角は信仰をもって聖められることを妨害します。こういうものは敵である悪魔、サタンが好きで、喜ぶものです。 そして、何の使い道もない塵あくたのようなものです。 マタイ10:39に、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」とあります。神の子供である私たちが、肉にあって死ねば霊にあっては生きます。信仰によって自分というものを捨てて、家庭と教会で、神の国のために低くなって使えるなら、神様が祝福してくださいます。これが霊的な法則です。 ルカ14:11に、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とあります。自尊心を捨てて低くなるとき、神様が高くしてくださいます。世の人の中には、力が足りなくて殴られたり、卑怯だから退く場合があります。今自分は力が弱いから、仕方なく抵抗できないし、殴られるし、退くのです。これは信仰の行ないではないから、神様が働いてくださることはできません。 ところが神の子供がマタイ5:39に、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」という御言葉に従って、相手と争うことをしないで、かえって負けてあげるなら、神様はそれを信仰の行いとしてみなして、勝利を与えてくださいます。御言葉に従って低くなろうとしたら、かえって高くしてくださり、すべてを働かせて、益としてくださいます。 このように自分の角を捨てて、真理の角が生きていなければなりません。自分の角を捨てていくほど、真理が強くなり、聖霊に導かれ、神様の御心に従うことができるのです。しかし、自分の主観にこだわる人は、神様の御言葉に従いません。サウル王は自分の考え通りに行って、御言葉に繰り返し聞き従わなかったので、結局退けられました。 ヨナも自分の角、自分の主観を捨てなかったから、御言葉に従えませんでした。 神様はニネベに行って、罪を悔い改めるように叫びなさいと命じました。しかし、ヨナはニネベが滅びるのを望んでいたから、神様の御言葉が自分の考えと合わなかったから、神様の御目を避けてタルシシュに逃げました。こういう場合は、肉の思いを打ち砕いて従うときまで、試練と苦しみは続くようになるのです。 ですから皆さんも神様の御心に逆らっていくとき、さらに厳しくなって試練が大きくなったりするのです。ですから、試練に遭ったときは、神様の前で自分を捨てて自分を徹底的に低くなってこそ、早く試練が終わります。つまり、自分の角を捨てることです。ヨナはそうできませんでした。 タルシシュに逃げようとしたのですが、神様が悟らせてくださって、ニネベに行って、悔い改めを宣言するようにしました。それで、王と民が悔い改めたら、神様は憐れんでくださったのです。しかし、ヨナはそれについて腹を立てました。皆さん、自分の心はどうなのか顧みますように、悪を行った人、罪を犯した人を神様が許してくださって、救ってくださったのを見ながら、それについて腹を立てたりする姿はありませんか。 どれほど悪い心でしょうか。私たちは、そういうことがあってはいけません。ただ、神様の御心に従っていかなければなりません。うわべでは、神の働きをしていても、心から神様に従えない人がいるなら、ヨナのような姿です。ヨナは、神様の憐れみと愛を深く悟ることができませんでした。私たちは、そうしないで、自分の角を捨てましょう。 まとめます。私たちが生まれて生きながら、学校や社会で学んだものの中で、御言葉や真理に逆らうすべてのもので、自分の角を形成しました。ところで、誰かがその角を傷つけるなら、気を悪くしたり腹を立てたりします。教養という角があります。進化論という理屈の角もあります。相手に勝たなければという自己中心的な考え方の角もあります。自分は人より優れているという高ぶりの角もあります。高ぶりの角のある人は威張って怒鳴ったりしますが、こういう人は、真理にあって自分の角を打ち砕いたら、謙遜になって態度も声も変わるのです。 ですから私たちは、自分の角を打ち砕いて神様の完全な子供になるためには、第2コリント10:5に、「様々な思弁と神の力に逆らい立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかり事をとりこにしてキリストに服従させなければなりません。」とあります。世の理屈や真理と反対のもので作った自分というものを完全に捨てなければなりません。そして、その角を引き抜く代わりに真理の角を植え付けて、真理が強くなって、真理が働いて、まことの永遠の命、祝福の道に行かなければなりません。 世では優れた知識を持って、一生懸命研究して新しいものを発明したり開発した人を知恵があると言います。こういう人の中では、自尊心、自分の主観、高ぶりという肉的な角にこだわる人がいます。しかし彼らが創造主の神様を見つけることができず、天国と地獄があることも知らないまま滅びに向かうなら、どうして知恵があると言えるでしょうか。 だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」また、次のようにも書いてあります。「主は知者の論議を無益だと知っておられる。」(第一コリント3:18-20) 私たちが神様の前で徹底的に自分を捨てて、聖い心の器を用意すれば、神様は上からまことの知恵をくださいます。しかし、真理の角のない人はまことの知恵もないから、肉的なことである自分の主観に従って自分を主張して生きるから、結局は滅びの道に向かうのです。 今ヨブも自尊心、自分の主観にこだわっていて、それを捨てないから友達と争っています。今ヨブは苦しんでいるのに、友達が自分を攻撃して間違っていると言うから自尊心が傷つくのです。だから、自分の角がちりの中に突き刺されたと言っていて、とても悲しんでつらく思っています。 ヨブは自分なりに正しく生きてきたのに、自分は優れていると思ったのに、その自尊心がけがれるのがあまりにもつらいのです。ヨブは、神様と友達のせいで自分の角が打ち砕かれたと思っています。だから、皮膚病で体が苦しいことや、財産と子どもを失ったことよりは、自分の自尊心が踏みにじられた苦しみの方が大きかったのです。続く御言葉を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほどだったのかがわかります。それは次の時間に調べてみましょう。 愛する聖徒の皆さん、結論です。聖書で自尊心を捨てて栄えた人と、むなしい自尊心のため滅びた人がいます。ダビデとサウル王の例を挙げられます。ダビデはサウル王から逃れて、ペリシテに属するガデの王のアキシュのところに行ったことがあります。ところでペリシテはイスラエルの敵国だったから、以前イスラエルの軍隊の長だったダビデはペリシテ人をたくさん殺しました。ですからペリシテでは亡命してきたタビデを疑ったでしょう。 それでタビデはどうしたでしょうか。ペリシテに行けば、自分はそう疑われることを知っていたでしょう。それでその場でタビデはどうしたでしょうか。彼らの前で彼らを安心させるために気が違ったかのように振る舞って狂った振りをして門の扉を傷つけたり、髭によだれを流したりしました。それを見た人々はタビデをさげすんでタビデは命が守られました。 もしタビデがペリシテ人のゴリアテを打ち殺したという自尊心を持って、イスラエルの軍隊の長だったその高ぶりを持ったままならば、その場で殺されたかもしれません。しかしタビデはそうしませんでした。今自分がもし態度を変えなければ殺されるかもと思ったから、低くなって狂った振りをして、気が違ったかのように振舞いました。それで命が守られました。ダビデはいらない自尊心は捨ててしまったのです。 しかしある人は自尊心を自分の命のように大事に思う人もいます。自分は死んでも自尊心は捨てられないと思う人もいます。しかしそれはどれ程愚かなことでしょうか。人の前で自分は自尊心を主張していても、それは知恵でもないし善でもありません。だからといって卑怯に振舞いなさいという意味ではありません。何が善で悪なのかを正確に見分けて、自尊心を捨てて善を選ぶ姿が必要です。ダビデは自尊心を捨てて知恵を持って行ったので、後の日イスラエルの王になりました。 しかしサウル王は虚しい自尊心を重んじてしまい滅びました。神様の御言葉に聞き従わなかった時、サムエルが指摘したのにサウル王は悔改めるどころか、民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。 今、神様はサウル王を退けるとまで警告なさったのに、サウル王は悔い改めなかったのです。そして民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。神様の前でどうするかよりは人の前でどう見えるかを気にしていたのです。その結果サウルは神様に退けられるしかなかったし、ペリシテとの戦いでみじめに死にました。 このように虚しい自尊心は滅びに引いていきます。ヤコブの手紙4:6に「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあり、箴言18:12に「人の心の傲慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。ですから、私たちは自尊心・高ぶり・自己中心的な考え・欲などいらない自分の角を完全に捨てて、謙遜な心になって栄誉を得ますよう主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(42)-自分の角を捨てよう」(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:12~15
愛する聖徒の皆さん、前回、ヨブは友達が自分を卑しめて立ち向かっていると言いながらそれも、神様がそのようにしむけられたと神様のせいにしていました。自分に過ちがあるのではないか探そうとしないで、神様と友達のせいにしているから、更に辛くなって試練は終わりません。ヨブは真理を正確に知っていなかったし、神様を見つけた体験もなかったので、すべてのことで神様を裁いていました。
しかし私たちは真理を聞いてよく知っています。神様の恵みも体験したのですべての問題の原因を自分から見つけて、速やかに神様の恵みを回復しなければなりません。たとえ問題の原因が人にある場合があっても、その解決の鍵は私たちが神様の御言葉に聞き従うことにあります。ですからすべてのことについて感謝しなさいという御言葉に聞き従って、感謝の祈りを捧げますように。
それを神様が喜ばれ、すべてのことを働かせて益としてくださるでしょう。敵をも愛しなさいと言われました。そしてその御言葉に聞き従うなら神様が働いてくださるのです。それが神様が望んでおられる子供であり、そういう子供を神様は守って祝福してくださるのです。
祈るときは、「神様私を導いてください。」と祈りますが、しかし神様が導こうとされるときは、聞き従わない姿があるのです。自分が毎日一瞬一瞬を神様の前に捧げないで、自分がしたいとおりにするのです。自分がやりたいことをして自分が願うことをしていながら、神様私を導いてくださいと言うなら神様が喜ばれるでしょうか。自分が真理の中を歩んでいて御言葉、真理に従うとき、神様が導いてくださるのです。
ですから私たちはヨブ記講解を聞いて、自分がどのくらい御言葉通りに生きているのか顧みますように。環境のせいにしたり人のせいにしているなら、それは神様にゆだねる姿ではありません。神様の前で低くなって、すべての問題の原因を自分から見つけますように。今日もメッセージを聞いて自分を発見して変えられて、いのちを得ますように。
「私は安らかな身であったが、神は私を打ち砕き、私の首をつかまえて粉々にし、私を立ててご自分の的とされた。その射手たちは私を巡り囲み、神は私の内臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した。」(ヨブ16:12-13)
ヨブは試練に会う前は家族も仲良かったし平安で裕福でした。そうだった自分を神様が打ち砕いて惨めな身にしたと表現しています。昔人々は鶏を屠るとき、若者の皆さんは見たことがないと思いますが、大人の皆さんは田舎でそういう姿を見たことがあるかもしれません。市場でもそのような姿があったと思います。見てみると鶏を屠る時、首を折っていました。 ヨブは神様がそんな風に自分の首を捕まえて粉々にしたと表現しています。ヨブは自分がされたことを考えてみたら、神様は悪い方で無慈悲な方だと思いました。このように神様についてとんでもない誤解をして悪評を言っています。 人の体を見てみると首は頭を支えている台のようです。頭は高さと威厳と誇りを象徴します。ところでこのような頭を支えている首が砕かれたならどうなるでしょうか。これはヨブの心や意志を、神様がへし折ってしまったと言っているのです。それで弱くなるしかなかったと言っているのです。そしてヨブは神様が自分を立てて御自分の的とされたと言っています。 昔、中世時代とかを見てみると、矢を武器として使う時がありました。敵軍を捕まえた時、でなければ誰かを苦しめる時、権力と力がある人が弱い人を苦しめる時どうしますか。その人を立たしておいて的代わりにするのです。矢を射る時は丸い的の中を射るのですが、人を的のようにしていたずらをしたり、実際殺したりすることも、映画とか小説の中であったと思います。今ヨブは神様が自分をそのように的にして苦しめている、殺そうとしていると言っているのです。 それだけではなく、神様の射手達が自分を巡り囲んで、自分の内臓を容赦なく射抜いて、胆汁を地に流したとまで言っています。ヨブは今神様が自分をどんな風に苦しめているのか、自分が受けている苦しみがどうなのか、一つ一つ例えを挙げて説明しています。矢を射ることはターゲットを当てて倒すためです。ここでヨブが言っている射手達は、神様の心の矢を言っています。神様の心が矢になって、射手達が自分を巡り囲み攻撃していると言っています。そして神様が容赦なく自分の内臓を射抜いたと言っています。 これはヨブがあまりにも苦しいからこのように表現しているのです。すべての財産と子供も失ったし、妻も自分から離れてしまい、友達にも蔑まれているから、ヨブはどこを見ても自分を助ける人はいないのです。内臓を射抜いたと言うのは主体性を失ったことを意味します。人の体の中で首に怪我をするならその舌は使うことができます。ギブスをしたりしても歩いたり手を使ったりすることはできますね。首だけ怪我をすればそうなります。そして足を折ったら足は使えないのですが、上体は使えます。しかし内臓が壊れたら全身が使えなくなります。 このようにヨブは首も砕かれてしまって、つまり自分の意志も挫けてしまったし、神様が内臓を射抜いてしまったから全身が使えなくなった。満身創痍になったと言っています。そして胆中を地に流したとは、ヨブの心の苦しみがそれだけ苦いということを意味します。ヨブは神様を体験することがなかったから、このように苦い思いをしているのは神様のせいだと表現しています。 神様を信じない世の人や、まだ信仰が弱い人々は、生きていてこのような苦しみを訴えるときがあります。しかし、神の子供たちは、たとえ事業がつぶれても、子供がぐれても、病気になっても、四方八方から苦しめられても、感謝を失ってはいけません。詩編50:23に、「感謝のいけにえをささげる人は、私をあがめよう。その道を正しくする人に、私は神の救いを見せよう。」とあります。たとえ悲しいことやつらいことがあっても、心から感謝の祈りを捧げてみてください。その心の香りを受け入れられた神様が、炎のような御目で皆様を守り、救い出してくださるでしょう。ですから、どんな試練にあったとしても、速やかに悔い改めて立ち返って、真理の中を歩みますように。 そうすると、全知全能の神様が行く道を導いてくださり、全てを働かせて益としてくださるから、 私たちはその神様を信じて感謝すればいいのです。なぜ感謝できるのでしょうか。救われたから、天国があるからです。今、目の前に苦しみがあって、試練があっても、大きい問題にぶつかっていて、つらい思いをしていて、ここから抜け出せないように思うかもしれませんが、神様は生きておられます。 神様が私たちのために天国を備えておられます。救ってくださったから、それだけでも感謝できます。目に見える環境や状況を見れば、感謝することができそうにないのですが、しかし霊的な視線から見れば感謝できます。 多くの人がこのようなメッセージを聞いて感謝しようとしても、口では感謝しますと言っても、心から感謝しない人は、行いが伴わないのです。教会に来て礼拝するときや、祈るときは感謝します。どんな試練があっても、これからは喜べますと祈りました。 しかし、次の日、朝会社に行ってまた同じ問題にぶつかったら、感謝を失ってしまうのです。呟いたり、文句を言ったりします。それは信仰がある人の姿ではありません。いくら抜け出せないような苦しみにあっても心から神様の前に感謝する人は、神様の救いを体験するようになります。 主が尊い血で救ってくださった、その喜びがいつも溢れているなら、神様はそれをご覧になり、問題を解決してくださいます。そして私たちには、天国への希望があります。だからその喜びは、世のどんなものも奪うことはできません。その喜びによって世に打ち勝つことができます。しかし、ヨブにはそういう信仰がありませんでした。神様を見つける体験がなかったからです。全き信仰がなかったから、神様を誤解して呟いて嘆いているのです。 しかし私たちは、神様を見つけました。体験しました。皆さん、神様を見たことがないと言うでしょうか。いいえ、私たちは見ました。体験しました。神の力を体験したでしょう。 今日、教会に来た時、ある方が証をして感謝していました。2005年にこの教会に来たのですが、この方は腰が曲がっていました。今から18年前ですね。 その時は今より若かったのですが、腰が曲がっていました。そして後遺症によってとても痛くて、お酒を飲まなければその苦しみを忘れることができないから、眠れないからアルコール依存症になってしまいました。それであちこちの教会にも通ったり、宗教に頼ったりしたのですが、癒されなかったのです。 しかし、伝道されて万民教会に来たのです。何か信じようとしてきたよりはただ連れられてきたのですが、礼拝の後、その夜からお酒が飲みたくなくなって、お酒を飲まなくてもぐっすり眠れたそうです。しかし痛みは相変わらずありました。その次の月に癒しの集会がありましたね。それで、癒しの集会のとき癒されたという証を聞いたのですが、自分はそれが信じられなかったそうです。確かにアルコール依存症の症状がなくなったのに、信仰が持てなかったのです。 それでも癒しの集会に参加はしたそうです。その時は服装もきちんとしていなかったし、あまり慕う心もないまま疑いながらも一度来てみたそうです。しかし癒しの集会のとき、祈りを受けて痛みがなくなって健康になったのです。それでその後から熱心に伝道したそうです。そして今も多くの人を伝道したいですと、祈りをお願いしますと言っていました。 それで私がマガジンで証されましたかと聞いたら、してないそうです。こんなに驚くべき証があるのに、紹介されていないんだと思いました。このようにこの教会では、証が溢れているのです。神様が癒してくださったとき、唯、癒された感じがすると感じただけではありません。実際痛みはなくなったし、実際ぐっすり眠れたのですね。この方も他の教会に通っていたのですが、癒されなかったのに、ここに来て癒されたのではありませんか。 どれほど驚くべき神の力ある業を私たちは体験しているのでしょうか。これは神様を見たことと同じではありませんか。だから全き信仰を持つべきなのに。それなら、いくら環境が良くなくても、感謝を失うことはないでしょう。 しかし、ヨブは真理を正確に知らなかったし、神様を見つける体験がなかったから神様を誤解していたし、あまりにも厳しい試練だったから嘆いていたのですが、皆さんは違うでしょう。だから私たちはいつも感謝しなければなりません。 「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」(ヨブ16:14) 続く本文を見ると、ヨブの表現はあまりにも相応しくないし、おかしいです。ヨブ16:14です。「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」とあります。前にもたとえを挙げて説明しましたが、もし3,4才の子供が大きい大人につっかかるなら、大人はただ避けてしまうでしょう。まして全知全能の創造主の神様が、被造物に過ぎないヨブをどうして打ち破って、勇士のように馳せかかるでしょうか。 ヨブは神様の心がわからないから、このようにとんでもない誤解をするのです。意外と多くの人が信仰生活をしながら、神様が私をこのように試みられたとか、神様が私に試練を与えたとか、病気を与えたとか、そういうように表現する人がいます。自分の欠けているところによって、いろいろ苦しみにあって試練にあっているのに、神様は自分を打っておられるという場合もあります。試練にあって失敗した原因が自分にあるのに、神様が自分を打ったと言いながら、神様を怖い神様のように思うのです。 ヨブの場合も、神様が何の理由もなくヨブを打ち破られたのではありません。ヨブの悪のため、試練が続いているのです。もし、ヨブの友達が指摘したときヨブがそれを受け入れて、自分から原因を見つけようとしたなら、神様は恵みをくださったでしょう。ヨブの欠けているところを悟って立ち返るように、強くしてくださったでしょう。そして、過去の健康も祝福も回復させてくださったでしょう。 しかし、ヨブは問題の原因を人のせいにして、続けて悪を行って、試練が長くなっています。悪を行うほど、サタンに訴えられるから、試練と苦しみは続くのです。ヨブは、練られるべき理由があるから、そうなったのに、すべてを神様のせいにしていたから、神様を悪い神様のように、恐ろしい神様のように感じていました。 聖徒の皆さんは、自分の試練が長引いているなら、自分の心に悪がそれだけあるということを悟りますように。そして、問題の原因を自分から見つけていないということを悟りますように。環境のせいにしたり、家族のせいにしたり、人のせいにすることは悪です。それによって、試練は続くのです。だから、自分を顧みて自分が変えられてこそ問題が解決されるのです。 試練がやってきたとき、速やかに乗り越える方法は、自分をまず顧みて自分を発見して変えられることです。自分の欠けているところを満たしたり直すことです。ただ、感謝しますと言っていても何もしていない姿ではなくて、変えられようと努力しなければなりません。すると試練が終わって、祝福が臨みます。
「ヨブ記講解(41)-原因を自分の中から見つけよう」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:10~11
前回に続き、すべての問題の原因を自分の中から見つけて、悔い改めて立ち返るとき、すみやかに神様の恵みを回復することができるということを伝えます。
1. 劣等感から友だちと神様を誤解するヨブ
「彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。」(ヨブ16:10)
ここで「彼ら」とは、ヨブの友だちを指しています。友だちが自分に向かって「口を大きくあけるとは、否定的な表現です。今まで友だちの言葉がヨブを慰めるのではなく、かえって悩ませて傷つけたからです。
友だちが「自分をそしった」と表現したのも、これまで彼らがヨブを攻撃して傷つけるような激しい言葉を口にしたからです。そして、友だちが実際にヨブの頬を打ったのではなく、ヨブは友だちの話を聞いて侮辱されたようだったし、苦しみが極みに達したので、頬を打たれたように感じたということです。
まだヨブは、今の低くなった姿ではなく、昔、栄えていた時のことを考えています。前は友だちが自分を尊敬して仕えてくれていたのに、今は自分を侮って、あざけっているように感じられました。
神様に対するヨブの感じも同じです。ヨブは、前は神様から愛されて祝福されていたのに、今はあまりにも違う現実の中でいじけていました。だから、理由もなく神様が目をぎらつかせているようだし、自分を引き裂いて攻めたて、歯ぎしりしているように感じているのです(ヨブ16:9)。
仮に皆さんが事業で不渡りを出すとか、突然職場を失って厳しい境遇に置かれているとしましょう。すると周りの人々がそれとなく自分を蔑んでいるようだし、避けようとしているように感じられます。周りの人の心はそうではないのに、自分が劣等感を持って誤解してストレスを受けているから、前とは違うようだと感じることがよくあります。
別の例として、職場で同じ平社員だった同僚が、ある日昇進したとしましょう。自分はまだ下っぱなのに、同僚は先に昇進したから、うらやましくもあり、何となくおもしろくありません。それに昇進した同僚が自分を無視しているようで、ひねくれて仕事をする意欲まで失ってしまいます。 また、友だちは良い大学に合格したのに自分は浪人することになったとき、心はどうでしょうか。友だちは前と同じように自分に接しているのに、なぜか自分を見くびっているように感じて、友だちを遠ざけるなら、これもまた自分の思い込みによる劣等感のせいなのです。 このように、夫婦の間や友だちの間で、また隣人との間でも、自分の思い込みでさばいて誤解することがどれほど多いでしょうか。 これは信仰にあっても同じです。他の働き人が認められてほめられると、やる気がなくなります。その人と比べて自分は頭も良くないし、裕福でもないからと思って落ち込んでしまいます。そして、その人が自分を無視しているようでおもしろくありません。これらは全部、自分の悪から出てくる肉の思いなのです。 2. 問題の原因を他に見つけるから解決されない場合 ヨブは自分が惨めな身の上になった原因を神様のせいにしているので、問題を解決する道が見つけられないのです。 同じように、信仰にあっても問題の原因を他に見つけるから解決されないことがあります。自分がある人をさばいて罪に定め、噂話をしてつまずかせて、それによって周りの人々が嫌な思いをしたのに、自分は悪い人だと誤解されていると思うなら、問題は解決されません。自分が平和を壊して問題の原因を作ったのに、それに気がつかないのです。 また、自分が真理のとおりに行えなくて問題が起こったのに、「神様は私に大きい祝福を与えようと試練に会わせてくださっているのだ」と錯覚して、神様がそうされていると思うのです。このように神様のせい、人のせいだけにしていれば、聖霊の声が聞けないから、問題を解決することができません。 ヤコブ1:13に「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。 もちろん、神様はアブラハムにイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたように、祝福を与えるためにテストなさる場合もあります。みことばどおりに生きているのに試練に会ったとすれば、喜んで感謝すれば、神様が必ずすべてのことを働かせて益としてくださり、さらに大きい祝福を与えて報いてくださいます。 しかし、自分の過ちによって会う試練を、まるで神様が下さった祝福の試練であるかのように誤解することがあってはならないでしょう。 3. まことの祝福を与えるために練られる神様 「神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」(ヨブ16:11) ヨブは友だちのことを「小僧っ子」「悪者」と呼んで、神様が自分を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれると言っています。これも問題の原因を神様になすりつけているのです。 神様はヨブをそんな者の手に渡されたことはありません。神様がサタンの訴えを聞き入れられたのは、ヨブの財産と子どもとヨブの身を打つことだけでした。その後は見守っておられただけです。 神様がヨブを苦しめたのではなく、試練を通してヨブの隠されていた悪が現れるようになったのです。そして、これをきっかけにヨブが悪を捨てて神様を見つけるようになるので、ヨブを練られたのです。 ヨブは先祖たちから神様について聞いて知っていただけで、神様を見つけて体験したことはありませんでした。しかし、試練を通して神様を見つけるなら、聞いて知っている知識的な信仰ではなく、心で信じられる霊の信仰を持てるようになるのです。 ただ神様について聞いて知っているから神様を恐れる信仰と、神様の全知全能であることと愛を体験して神様を信じる信仰とでは、大きい違いがあります。 もしヨブがこのような厳しい試練に会わなかったとすれば、前のようにそれなりに祝福は受けていたでしょう。行いでは神様の前に誠実に全焼のいけにえをささげ、隣人に徳と善を施していたからです。しかし、神様を見つけて体験し、罪を発見して捨てて聖められる、霊的な祝福は受けることはできなかったでしょう。 ヨブは試練を通して罪の性質を発見して捨てることでまことの祝福を受けられるので、神様は試練に会わせられたのです。たましいに幸いを得ていてこそ、この地上でもさらに大きい祝福を受けるだけでなく、天国でも太陽のように輝く場所に入れるからです。 4. 試練を早く終わらせるには 神様が試練に会わせられたとき、その試練が早く終わるか長びくか、試練が厳しいか軽いかは、その人の心にかかっています。心にどれほど善か悪が多いかによって違うのです。 悪が多いなら、試練に会ったときその悪を現すので、試練が長びきます。反対に、善が多くて、どんなことにあっても信仰を見せて喜び、祈って、感謝して、変わらない忠実で神様に喜ばれるなら、神様がすみやかに敵である悪魔・サタンの陣を打ち砕いて、祝福してくださいます。 しかし、多くの聖徒が試練の中でまことの信仰を見せることができなくて、つぶやいたり、嘆いたり、憎んだり、争ったりなど、悪が現れます。この時も、私たちの神様は一人一人が試練を通して変えられるまで忍耐深く待ってくださいます。 聖徒たちはイエス・キリストを受け入れて、みことばどおりに生きているつもりでも、時には欠けた姿もあり、つまずく時もあります。こういう姿を見て、神様が「あなたには罪がある」と直ちにさばかれるなら、果たして救われる人が何人いるでしょうか。 しかし、愛なる神様はすべての人が悔い改めて立ち返り、真理の中を歩むのを忍耐深く待っておられます。第二ペテロ3:9に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあるとおりです。 そして、聖霊も私たちの心をたたいて真理に導いてくださるので、みことばどおりに生きていない時は心が苦しくなるのです。それでも聞き従わなければ、いろいろな試練や患難がやって来ます。そして、これを通して私たちは純金のように出てくるのです。 ですから、試練に会わせられるのも神様の愛です。このような神様の心を悟って、いつも真理で見分けて、問題の原因を自分の中から見つけて、神様の前にさらに完全な姿にならなければなりません。 しかし、ヨブはこのような神様の愛を悟れなかったので、つぶやいて誤解しました。 もし友だちが最初ヨブに助言したとき、ヨブが「そうだ、あなたがたの言うことは正しい。私がこんな試練に会ったのは自分に原因があるからだろう。言われたとおりに祈りながら、神様の前に自分の過ちを発見しよう」と答えたとすれば、友だちがヨブをあれほど責め立てたでしょうか。ヨブが自分は正しいと言って、友だちの助言を無視して、神様に立ち向かっていったから、友だちは腹を立ててヨブを攻撃したのです。 もしヨブが友だちの助言を受け入れていたなら、友だちはヨブをもっと愛して慰めてくれたでしょう。つまり、神様がヨブを友だちの手に渡したのではなく、ヨブは自分の悪のため自分で苦しみを招いたのです。 ヨブの友だちも同じです。ヨブの言葉に感情的になって手向かったので、ヨブはますます心の戸を閉ざしたのです。結局、ヨブと友だちはどちらも自分の悪のため、自分から苦しみの沼に落ちていったのです。 もしヨブが自分を発見して立ち返ろうとしたならば、神様が恵みを与えて、悟って立ち返るように助けてくださったでしょう。ヨブの皮膚病も、神様は一瞬でいやしてくださったでしょう。 何か問題が起こったとき、私たちは原因を人のせいにしないで、自分の中から見つけなければなりません。みことばで自分を照らして、心から悔い改めて立ち返ると、神様は必ず問題を解決して、祝福してくださいます。 したがって、すべての問題の原因を自分の中から見つけて、すみやかに神様の恵みを回復し、どんな状況でもただ信仰の告白、感謝の告白をして神様のみわざを引き下ろしますよう、主の御名によって祈ります
「ヨブ記講解(40)-人のせいにするのはやめよう」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:7~9
きょうは、すべての問題の原因が自分にあることを悟って、神様のみことばから答えを見つけなければならないことを伝えます。
1. すべてを神様のせいにするヨブ
「まことに神は今、私を疲れさせた。あなたは私の仲間の者をことごとく荒らされました。」(ヨブ16:7)
ヨブは自分が疲れたのも、友だちが荒らされたのも、すべて神様がそうなさったのだと言っています。
「疲れる」とは、辞書では「体力や気力を消耗してその働きが衰える。くたびれる。」という意味ですが、霊的には心の元気がなくなった状態をいいます。その時、悔い改めて回復しなければ、もっとひどくなって、何もできない無気力な状態、意欲が失われた状態にまでなります。
信仰生活をしている人の中でも、試練や患難に会ったら、それを解決するためにあらゆる努力をしてみて、解決されなければ、疲れてしまう人がいます。忠実に奉仕する意欲も、伝道する意欲も、祈る意欲もなくなって、悩み、焦り、不安に捕われるのです。この状態がさらにひどくなると、生きる意欲さえなくなってしまいます。
使徒パウロも罪との戦いで最も苦しかった時に「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言いました。このように自分の力ではとうてい解決できない状態を「疲れた」というのです。
「荒らす」の辞書の意味は「乱雑な状態にする。傷つけたり壊したりする。いため傷つける。」ですが、霊的には「心がかき乱されて人の道理から外れること、真理の道から外れること」を意味します
ヨブは、神様が自分を打たれたので、疲れて無気力になっただけでなく、自分の仲間の者が道理から外れてとんでもない言葉と行動で自分を責めたてている、彼らの心が荒らされた原因も全部神様にあると言っています。友だちが興奮したのは、元を言えば自分たちの悪が原因ですが、その悪を刺激して動き出すようにしたのは、ヨブが激しい言葉を口にしたからです。ところが、ヨブはこのことを悟れないまま、神様が友だちを荒らされたと主張しています。 2. すべての問題の原因は自分にあることを悟るべき 世の人の中には、神の存在を信じもしないのに、試練に会うと天に向かって恨む人が実に多いです。たとえば、農作業をしていて雨が降らなくて作物が育たないと、「天もあんまりだ」と言って、信じもしない神を恨んで不平を言います。 無神論者や信仰の少ない人は「神様はなぜエデンの園に善悪の知識の木を置いて、人が罪を犯すようにしたのか」「神様は愛の豊かな方だといいながら、なぜ恐ろしい地獄を造られたのか」と問い詰めたりもします。自分が罪と悪を行っているので、ひょっとして存在するかもしれない後の世に対する恐れから、神様を悪い神様だと罵倒します。 もっとひどい時は、神様のみわざが現れると、「間違っている、偽りだ」と迫害するのです。神様のみわざが偽りであってこそ後の世はないと思うからであって、それでこそ好きなように罪を犯すことができるからです。 クリスチャンの中にも、真理をよく知らなくて神様を誤解して、問題の原因をとんでもないところで探す場合が多いです。世にいた時は、罪を犯していても良心の呵責を感じませんでした。ところが、教会に来てみことばを聞いて、罪について指摘されると「信仰生活はあまりにもきつい」 「みことばどおり行うのは難しい」と言います。自分がみことばを守らないで罪を犯しているから苦しいのに、教会のせいにするのです。 また、教会で奉仕をしていて、働き人との間で平和が壊れたり、人によってつまずいたりしたとき、相手のせいで熱心が冷めたと言う人もいます。しかし、これも自分が平和をつくれなったからであり、神様を第一に愛していなかったから奉仕をやめたのです。 ある聖徒は「神様を信じれば祝福されると聞いたのに、なぜ私は祝福されないのですか」と聞きますが、これもまた神様のみことばをあまりにも知らないからです。 申命記28章には、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられ、すべての祝福があなたに臨む、と書いてあります。 第三ヨハネ1:2には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。これを逆に言えば、たましいに幸いを得ていないからすべての点でも幸いを得ていないし、健康ではないということです。 また、ガラテヤ6:7に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあるので、蒔かなければ刈り取ることはできません。祈りを蒔けばたましいに幸いを得て、物質を蒔けば物質の祝福を受けます。奉仕を蒔けば健康になるなど、何でも蒔いたとおりに刈り取るので、祝福を受けようとするなら、信仰によって熱心に蒔かなければなりません。 また、神様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」 「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。ですから、自分の信仰が霊の信仰か肉の信仰か、霊の信仰がどれぐらいあるかによって、実が違ってくるしかないのです。もし求めても答えを受けられなかったとすれば、自分が真理のみことばを守って生きていないし、心と思いを世に寄せているからなのです。 このように、すべての原因は自分自身にあることを知っておくべきです。神様は約束されたことを間違いなく成し遂げられる方だからです(民数記23:19)。 3. 真理のみことばから答えを見つけるべき 「あなたは私を、つかみました。私のやせ衰えた姿が、証人となり、私に向かって立ち、面と向かって答えをします。」(ヨブ16:8) 花を折れば、その花はすでにいのちの源である根から離れたので、時間が経つとしおれてしまいます。同じように、ヨブは自分のいのちの根源だった財産と家族と健康と子どもなどを神様が打たれたので、自分はその過程で疲れてやせ衰えてしまったというのです。 ヨブは、なぜこんな試練と患難が自分に臨んだのか、原因を知ろうともしないし、友だちの話を聞こうともしないから、悟れませんでした。真理のみことばに照らしてみれば、必ず自分の何が問題だったのかが明らかになるはずです。 もし発見できないなら、祈りと断食をしてでも悟ろうと努力するとき、必ず聖霊が悟れるように助けてくださいます。そして、悟ったら悔い改めて立ち返れば、神様が憐れんでくださるのです。 私たちは神様のみことばを基準として、すべてにおいて自分の感情に左右されたり、自分の考えに合わせたりせず、相手の立場で考えるべきです。結局は問題の原因を他人のせいにしないで、自分のせいにするとき解決される、ということを心に留めなければなりません。 霊的に「やせ衰える」とは、完全にへたり込むことをいいます。木から幹が切られてしまった状態、または太陽が雲におおわれた状態のように、いのちの源がなくなった状態をいいます。 ヨブは財産も健康も家族もなくなったし、友だちさえ敵になってしまいました。それで「私がこのように疲れてやせ衰えたのは、神様が私を打たれたからです。ところが、友だちは私の姿を見て、私が犯した罪のせいで罰を受けたのだと言っています」というのです。友だちに誤解されて悔しいのです。 ヨブは、自分は正しい人なのに、このように途方もない試練、患難に会ったのは、全知全能の神様だけがおできになることだと言って、すべてを神様のせいにしています。だから、心にある神様への不満や不平、恨みなどを言いたい放題言っているのです。 韓国のことわざに「うまくいけば自分のおかげ、失敗すれば先祖のせい」という言葉があるように、多くの人が事がうまくいけば自分がよくやったからだと言い、うまくいかなければ他人のせい、環境のせいにします。 しかし、自分の目には正しいようでも、神様のみことばに照らしてみれば、必ず真理から外れた事をしたから問題が生じるのです。神様のみことばに聞き従う人は知恵があって、賢く対処するので、詐欺にあうこともありません。人が詐欺にあう場合は、ほとんどが物質への欲や自分の利益を求める心のせいです(ヤコブ1:15,第一テモテ6:10)。 保証人になって問題が起こる場合も同じです。神様は聖書のあちこちで保証人になることを禁じておられます(箴言6:1-2,箴言22:26,箴言11:15)。今すぐは保証人になってあげないと、兄弟や友だちを危険から助け出さないようだし、裏切るように見えても、結果を見ればそうではありません。後で見れば、それが家族を救う道であり、友だちをそれ以上滅びないようにする道なので、神様は保証人になってはならないと言われたのです。 聖徒の間のお金の取引も同じです。ローマ13:8に「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」とあります。ですから、保証人になってほしいと頼んだり、お金の取引を持ちかけてはならないし、何より教会の中でこういう事があってはいけません。 「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。」(ヨブ16:9) 神様が怒って自分を引き裂いていると言ったのは、ヨブが今、皮膚病の傷が固まっては崩れるを繰り返しているからです。 「攻めたてる」とは、辞書では「激しく攻める、しきりに攻撃する」という意味です。霊的には、神様がヨブの罪を繰り返し取り上げては非難しておられる、という意味です。つまり、神様が自分を迫害していると言っているのです。 それだけでなく、神様が自分に向かって歯ぎしりし、続けて攻めたてて、目をぎらつかせて自分をにらんでいるというのです。つまり、神様がヨブを敵とみなして、続けて攻撃して苦しめているということです。ヨブは、病気がよくならないで苦しみが続くので、こんな表現をしています。 しかし、偉大な創造主の神様が、しかも愛と善そのものである神様が、どうして被造物ひとりをターゲットにして、歯ぎしりして攻撃なさるでしょうか。私たちはどんなに大変でつらいことに会っても、決してヨブのように神様を恨んだり、暴言を吐いたりしてはいけません。 耐えがたいことに会えば、自分の中に深く潜んでいた悪が現れて、前は想像もできなかった悪があふれ出るのが試練の時間です。この時「私はこんな人じゃなかったのに…」と思って、環境と他人のせいにしてはいけません。自分でも知らなかった悪い姿を発見したので、必ず捨てて変えられようと決心して努力すればいいのです。そうするとき、深いところにあった悪も、本性の中の罪の性質も捨てることができるのです。 もしかして自分に人のせいにする心や、真実でない心はないのか、いつも神様のみことばに照らしてみますように(詩篇119:105)。そして、どんな試練や問題の前でも、真理の光に導かれて栄える祝福を受けますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(39) -むなしいことば」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:1~6
むなしい」とは、空虚である、内容がない、無益である、根拠がない、という意味です。ヨブはきょうはむなしいことばの無益さと、御霊の人と肉の人の違いについて伝えます。
1. むなしいことば
「ヨブは答えて言った。そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。」(ヨブ16:1-3)
15章ではエリファズが論じ、16章からはヨブがその言葉を受けて、もう一度自分の言い分を語ります。これまでヨブの友だちがヨブにあれこれ言ったことは、ヨブもすでに先祖から聞いてよく知っている、何度も聞いたと言っています。
それでは、ヨブはなぜ友だちを「煩わしい慰め手だ。」と表現したのでしょうか。
「慰め」とは、何かをして一時の悲しみや苦しみをまぎらわせる、心を楽しませる、心をなごやかに静めるという意味です。ヨブの友だちはヨブの慰め手ではありませんでした。むしろヨブを怒らせて傷つけ、悩ませるだけだったのです。友だちはヨブを責めたてたので、ヨブがその言葉を聞きながら自分について考えると、頭が痛くなりました。だから、友だちの言葉によってかえってストレスを受けているのです。
これは信仰の兄弟の間でも気をつけなければなりません。相手が自分の言葉を受け入れないなら、かえって逆効果になります。ですから、自分の言葉のせいで相手が誤解して煩わしいと感じるなら、いっそ黙って待つ方がよいのです。
「なぜ友だちの助言を「むなしいことば」だと言い切っているのでしょうか。それは、友だちの行いが手本になっていなかったからです。
これは主にあってもとても大切です。たとえば、真理の中で生きていて手本になるような人が伝道すれば、人々は心の戸を開いて福音を受け入れるでしょう。また、祝福されている人が「神様を信じれば祝福されます」と大胆に伝えることができるし、これを聞いた人も「あなたを見ていたら私も教会に行きたくなります」と答えるでしょう。 反対に、言葉と行いが正しくないし、神様の栄光を遮っている人が伝道するなら、「あなたこそしっかりやれば」とあざ笑われるようになります。このように、何の役にも立たない言葉が「むなしいことば」なのです。 ヨブは友だちの言葉がむなしいと言いながら「あなたは何に興奮して答えるのか。」と問い詰めます。ヨブの友だちは何のためにこのように興奮したのでしょうか。 まず、ヨブが神様の前に不遜なことを言ったし、これに対して友だちが熱心にアドバイスをしたのに、ヨブは無視しただけでなく、神様を悪い神様だとののしりました。その一方で自分は正しいと主張するから、友だちはこんなヨブが嫌になって、ますます腹が立って興奮したのです。 しかし、ヨブは自分がこのように原因を提供をしたことに気づいていないので、友だちに「なぜそんなに腹を立ててむなしいことを言っているのか」と質問しています。その上、自分は相変わらず正しくて完全だと信じていたので、友だちが興奮しているのが理解できなかったのです。 このように、話をしていて相手がいら立つなら、両方に問題があることを覚えておくべきです。神様は「敵をも愛しなさい」「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言われ、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、」「いつも善を行うよう務めなさい。」と言われました。また「いつも喜んでいなさい。」「すべての事について、感謝しなさい。」とも言われました。このようなみことばが霊の糧となっていれば、悪口を言われても、誤解されても、真理で心を守ることができます。 ひょっとして自分に過ちがあって非難されたなら、悔い改めて立ち返ればいいし、訳もないのにそんなことを言われたなら、自分が真理に逆らっていないので、心は安らかでいられるのです。このように、真理に従って神様の前に喜んでいて感謝するなら、敵である悪魔・サタンが退くし、神様が喜ばれるので祝福が臨むようになるのです。 反対に、そういう言葉のためにカッとなったり、気を悪くしたり、傷ついたりするなら、これは自分の中に悪があるので、サタンのしわざを受けているということです。 2. 互いに立場を変えてみようと提案するヨブ 「私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。」(ヨブ16:4-5) ここで「ことばを連ねる」とは、行いはないのに、自分たちの思い込みや憶測によってしゃべり続けるという意味です。つまり、友だちがヨブの立場で考えて話をするのではなく、自分たちの憶測で勝手にヨブを責めているというのです。 だから、ヨブは友だちの話が自分とは関係のない話だと思うので、互いに立場を変えてみようと提案します。「もしあなたがたが私の立場で、あなたがたの悪い心が私にあるなら、私もあなたがたを攻撃して、あなたがたが興奮するように悪口を浴びせただろう」というのです。 しかし、ヨブは、自分はむしろ彼らに励ましの言葉で慰めてあげ、元気づけてあげたと言っています。これは以前、ヨブにこのような善の行いがあったので言えることです(ヨブ4:3-4)。ヨブが試練に会う前は、たとえ霊的な行いではなかったとしても、肉的には善と愛を施す行いがありました。 それで「友よ、あなたがたは行いもないのに、私にああだ、こうだと指摘している。だが私には行いがあるから、あなたがたにこう言えるのだ。私が試練に会う前だったなら、あなたがたを強くすることもできるし、慰めてあげただろうに」と言っているのです。 ヨブの方では正しいことを言っているようでも、友だちをさらにいら立たせるばかりでした。友だちはどれほど腹を立てて興奮したのか、全身を震わせて頭を振るほどでした。友だちの目には、今のヨブにはそんなことを言う資格がないからです。ヨブは神様に呪われてめちゃくちゃになっているのに、悔い改めるどころか、神様に口論を吹きかけ、自分たちを見くびっている悪い姿でした。だから、ヨブがいくら良いことを言っても耳に入らなかったのです。 ヨブは、自分が昔のようだったら、友だちを強くすることも、慰めてあげることもできたのにと言いましたが、これはつじつまが合わない言葉です。自分の悩みを解決できない人が、どうして他人の悩みを解決してあげることができるでしょうか。 私たちはこのような話し方がどれほど無益なのか知っておくべきです。もしヨブのように今はみすぼらしい境遇にいる人が「私も昔はこういう人だった」と言いながらアドバイスをするなら、相手は聞き入れるでしょうか。 たとえば、酒、タバコをしながら悪い言動で人に迷惑をかけている人が「私はクリスチャンホームで育って、前は聖歌隊もして、教会学校の教師もして、忠実に奉仕をしていた」と言うなら、これは神様の栄光を遮る姿です。 これとは反対に「私は前、信仰生活をちゃんとしていた時は豊かだったのに、信仰生活を怠けて世に落ちたら、貧しくなってしまいました。だから、私のようにならないで、信仰生活を正しくしてください」と証しをするなら、これは悔い改める姿勢でしょう。 このように過去、自分が失敗した原因になった話をして勧めれば、相手も恵みを受けて、それを教訓にして益になるでしょう。 3. 肉の人と御霊の人の違い 「たとい、私が語っても、私の痛みは押さえられない。たとい、私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るだろう。」(ヨブ16:6) よく、人の事は簡単そうに見えるといいます。それで、他の人が何かの問題で悩んでいれば、「何でもないことで何をそんなに難しく考えるんですか。こうすればいいのに」と偉そうにアドバイスする人もいます。ところが、いざとなると自分の問題は解決できないならば、その言葉には何の意味もないし、そういう人をどうして信じることができるでしょうか。 霊的にも、本人に神様を見つけた体験がなけば、相手に確信をもって言えないでしょう。自分はできていないのに、相手に押しつけることもできないでしょう。 ヨブも前は人を強くして慰めてあげたのですが、今、自分の問題については何もできないことを悟って、自己発見が始まっています。ヨブが尊敬されるような地位にいた時は、彼の話は人に受け入れられるようだったのに、今は友だちさえ無視しています。 ヨブは肉の人だったから、自分が試練に会ったら口から悪い言葉を出したので、友だちはヨブを悪い人扱いしているのです。このように肉というものは変わってしまい、朽ちて無益なものなので、神様はヨブにまことのいのちを与えるために試練に会うようにされたのです。 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6:63)とあるように、相手に変化といのちを与えようとするなら、まず自分の心が真理で満たされて、言葉に霊的な権威が伴わなければなりません。 肉の人は悔しい目に会ったとき、じっと耐え忍ぶことが難しいです。腹が立って眠れないから、結局は相手のところに行って、ひとこと言ってやってこそすっとするのです。 しかし、御霊の人は、使徒パウロが「私にとって、毎日が死の連続です。」と告白したとおり、自分というものがないから、わだかまりを抱くこともないし、相手に負けてあげてこそ心が安らかです。試練に会った時も、黙々と耐えて待つことができます。 また、肉の人は他人の過ちについて聞けば黙っていられなくて、周りに伝えてこそすっとするのです。肉の人は敵である悪魔・サタンの声を聞くので、悪を行うことでサタンを喜ばせるので、自分の心もうれしくなるのです。 もし御霊の人が他人の過ちを伝えたとすれば、すっとするのではなく、御霊がうめかれるので苦しくなるでしょう。問題が起こったとき、周りに愚痴をこぼしたら、気持ちが楽になるのではなく、むしろモヤモヤします。喜べなくて不平をこぼしたことを悔い改めてこそ、心が安らかになります。 肉の人と御霊の人はこのように正反対です。ですから、御霊の人になるほど聖霊の声を聞いて従うようになり、まことの平安と喜びを味わうようになります。 しかし、ヨブは御霊の人ではなかったので、黙って忍んでいることが苦しかったし、口から悪をこぼしました。それでも心に善があるので、自分が蒔いた言葉によってだんだんモヤモヤして苦しくなります。 このように人が口で否定的な言葉を蒔いていけば、自分で自分をわなにかける結果をもたらします。箴言13:2に「人はその口の実によって良いものを食べ、」とあり、箴言18:21には「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。 私たちがこのようなみことばを心に留めて、否定的な言葉を口にしないで、真理にあって肯定的な言葉を口にしていけば、状況が変わります。したがって、すべてのことにおいて口を制御して、ただ肯定的な告白、信仰の告白、善の告白をする賢い聖徒の皆さんになりますように。
「ヨブ記講解(38) -ヨブを呪うエリファズ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:26~35
きょうは、ヨブをひどく呪うエリファズの姿から私たち人の子らの心を解剖して伝えます。
1. ヨブをねたんでいた心が現れるエリファズ
「厚い盾の取っ手を取っておこがましくも神に向かって馳せかかるからだ。また、彼は顔をあぶらでおおい、腰の回りは脂肪でふくれさせ、荒らされた町、人の住まない家に、石くれの山となる所に、住んだからだ。」(ヨブ15:26-28)
ここで「おこがましい」とは、身の程知らずで高慢な人の姿をいいます。また「厚い盾の取っ手を取って…神に向かって馳せかかる」とは、神様の前に聞き従わない姿をいいます。エリファズはヨブがこのように高ぶっていて聞き従わない人だと罪に定めています。
「腰の回りは脂肪でふくれさせ、」とは、おいしい物をたくさん食べて、太っておなかが出ている姿をいっていて、物質的に豊かな状態を意味します。つまり、ヨブが高ぶって神様を裏切った理由は、物質が豊かだからというのです。
たとえば、イスラエルの民が神様に仕えていた時は、国は豊かで平和でした。ところが、物質的に豊かになって苦労がなくなると、すぐ偶像に仕えて神様を裏切りました。すると神様が御顔を背けられて隣の国に侵略され、捕虜にされて奴隷生活をするはめになりました。国が滅びたので町は荒廃し、人が住まないから動物がうろついて荒れ果ててしまいました。すると人々はあてもなくさまよって山の中に避難したり、岩の間に住んだり、山で農作業をしたりしました。
エリファズはヨブがそんな人だということをたとえで説明しています。ヨブには大きい富と名誉があったのに、神様を裏切ったら、あっという間に子どもと財産を全部失った、悪性の腫物で苦しみながら食べる物もないみじめな運命になった、というのです。
エリファズはヨブをさばいて罪に定めるだけでなく、厳しく呪っていますが、これはねたみ、そねみがあるからです。過去、ヨブが豊かで、周りの人たちを助けて尊敬されていた時は、友だちもヨブを愛しているつもりだったし、親しく交わっていました。ところが、彼らの心の中にはいつもヨブに対する嫉妬がありました。憧れの対象だったヨブが今は滅びかけているので、心に潜んでいたねたみ、そねみが表に出ているのです。友だちはヨブの口から神様に立ち向かう言葉が出てくると、これを口実にして言いたい放題責めて、呪ってさえいるのです。 2. エリファズの厳しい呪い 「彼は富むこともなく、その財産も長くもたず、その影を地上に投げかけない。彼はやみからのがれることができず、炎がその若枝を枯らし、神の御口の息によって彼は追い払われる。」(ヨブ15:29-30) これは、ヨブが二度と昔のように豊かになることもないし、財産も増えることはない、と言っているのです。「彼はやみからのがれることができず、」とは、ヨブが今経験している厳しい試練、患難からとうてい抜け出せないということです。そして「炎がその若枝を枯らし、」とは、根絶やしにするという意味で、一つ残らず完全に希望を失ってしまうということです。ヨブは災いから永遠に抜け出すことはできないという意味です。どれほどひどい呪いでしょうか。 それでは、「神の御口の息によって彼は追い払われる。」とは、どんな意味でしょうか。 神様は無から有を創造する方であり、ことばで天地万物を創造なさいました。このような神様の力は広大な宇宙と天地万物が一瞬で消え失せるようにすることもおできになります。まして小さい被造物にすぎないヨブを神様の御口の息によって「フーッ」と吹いてしまえば、それで終わりだという意味です。高ぶっておこがましい人、神様に聞き従わず立ち向かう人は、神様がこのように追い払わってしまわれるというのです。 この言葉自体は正しいのですが、ヨブには当てはまらず、エリファズが悪意を持ってヨブを呪う言葉です。 「迷わされて、むなしいことに信頼するな。その報いはむなしい。」(ヨブ15:31) この言葉は、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者、祭司長たちのことを考えてみれば、理解しやすいでしょう。彼らは神様を愛しているかのように話をしたし、律法を守ると言っていたし、自分では正しい人だと思っていました。ところが、イエス様は彼らを白く塗った墓のようだ、偽善者だと責められました。彼らは救い主として来られたイエス様が目の前におられるのにどなたかわからず、十字架につけてしまいました。 しかし、本人たちはモーセの律法を守って、神様を信じていると思っていたので、みずから欺かれて、滅びの道に向かってしまいました。エリファズはヨブをこのような偽善者扱いしているのです。「ヨブ、あなたは自分では正しい人だと思っていても、自分で自分を欺いているのだ。結局、あなたに臨んだのは滅びではないか。すべてを失って、何もないではないか」と言っているのです。 「彼の時が来ないうちに、それは成し遂げられ、その葉は茂らない。彼は、ぶどうの木のように、その未熟の実は振り落とされ、オリーブの木のように、その花は落とされる。」(ヨブ15:32-33) 「彼の時が来ないうちに、それは成し遂げられ、」つまり「ヨブが光を見ないうちに、今まで呪ったことが臨むだろうから、あなたが回復する可能性は全くない」と言っているのです。また、木は枝が生き生きしていて葉が茂ってこそ、花も咲いて実も結びますが、葉が茂る前に滅びが臨むというのです。つまり「あなたは終わりだ!」ということです。エリファズはヨブに、今後回復できるという希望も、何の望みも持つな、と言っているのです。 もし、ぶどうの実がたわわに実ったのに、熟する前に病虫害で全部落ちてしまうなら、どれほど空しいでしょうか。また、オリーブの花が雨風で早く落ちてしまえば、実を結ぶのに大きい支障があります。エリファズは、ヨブの運命がまさにこのようだと言っているのです。 ここで「ぶどうの実」の霊的な意味を調べてみましょう。 イエス様は弟子たちに「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)と言われました。ぶどうの木に枝がしっかりついていてこそ、花が咲いて実を結びます。もし枝が木から離れるなら、すぐ枯れてしまい、踏みつけられて、最後は火に投げ込まれるでしょう。 これと同じように、私たちがイエス・キリストから離れるなら、すなわち真理の中で生きていないなら、殻のような信者になって、さばきの日に地獄の火に落ちるしかありません。これは、ぶどうの木の未熟の実が振り落とされるようなものです。 私たちの信仰生活でもこういうことはよくあります。実がなっている木に雨風が吹きつけると、弱い枝は折れて、実はばらばらと落ちてしまいます。このように、敵である悪魔・サタンは私たちの周りの人々を通して試練をもたらしますが、この時、信仰が完全でないとか、真理に完全に立っていない聖徒は信仰を失って、主から離れてしまうこともあります。私たちはいつも目をさましていて、みことばの中で生きていなければなりません。そうしてこそ、どんな誘惑にも試練にも圧倒的な勝利者になることができます。 3. ヨブを神を敬わない者の仲間にたとえるエリファズ 「実に、神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使う者の天幕は火で焼き尽くされる。」(ヨブ15:34) エリファズはヨブを神を敬わない者だとさばいて罪に定め、こういう人には何の実りもないと言っています。また、ヨブをわいろを使う悪い者のように言っていますが、なぜこう言うのでしょうか。 ヨブが豊かだった時は多くの人に施しをしたし、弱い彼らを力づけて、徳と愛を施しました。そうすると、自然にヨブに助けてもらった多くの人々がいろいろな贈り物やお礼をしました。ヨブの友だちはこのように愛されてほめられているヨブをねたんで見ていたのですが、当時はそれが現れていませんでした。 ところが、言い争っていたら、前はそれとなくねたましく思っていた心が現れたのです。それで、ヨブがもらったお礼をわいろだと表現して、こういう人の天幕は火で焼き尽くされると呪っているのです。 「彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、その腹は欺きの備えをしている。」(ヨブ13:35) 旧約聖書を読むと、これと似たみことばがたくさんあります。 「見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。」(詩篇7:14)、「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。」(箴言12:5)、「悪をたくらむ者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。」(箴言12:20)とあります。エリファズはこのようなみことばを先祖から聞いて知っているので、そのまま引用してヨブに教えようとしているのです。 本文に「彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、」とあるとおり、人は不法を頭で考えると、結局は悪い行いとして現れます。むさぼりのある人は「どうやって富を得ようか、どうやって人の財産を横取りしようか」とまず考えて、次にこれを心に植えつけます。この心が刺激されて、結局悪い行いとして出てきます。つまり、むさぼりがあるので思いを通してサタンの誘惑を受け入れ、結局詐欺や横領、盗みなどの悪い行いが出てくるようになるのです。 ですから、創世記6:5に、神様が洪水で世をさばかれる前に「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあるのです。心に悪があるから、心に計ることも悪いのです。 しかし、心に悪がなければ、思いを通してサタンが働くことができません。マタイの福音書15:18に「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。」とあるとおり、悪い心がなければ、悪い考えや行いが出てくることもないのです。 このように、心にある善と悪がどれほど強いかによって考えや行動が左右されます。善が多ければすべてを良いほうに考えますが、心にわだかまりや憎しみなどの悪があれば、すべてを悪いほうに考えて、言葉や行動が悪くなるのです。 エリファズは、ヨブの考えと心がこのように悪いので、大きい災いと滅びが臨んだと言っています。これまでのヨブの姿を見ると、神様の前に訴えて問い詰めるなど、悪くて高ぶっていたのは事実です。 しかし、これは試練が厳しいから現れたうわべの姿であり、ヨブはエリファズが言うように神を敬わない者ではありません。今、ヨブの友だちは心がひねくれているので、ヨブが以前行った善と徳までけなしているのです。 愛する聖徒の皆さん、 神様はヨブと友だちの話を通して、私たち人の子らの心をことごとく解剖してくださっています。ねたみ、そねみがあれば、他の人がうまくいったり愛されたりすると、おもしろくありません。また、相手と自分を比較して落ち込んだりもします。しかし、霊の愛は真理を喜びます。 したがって、ヨブ記講解で自分の心を省みて発見し、悪は根の根まで引き抜いて、真理の心に変えられる機会にしますように。
「ヨブ記講解(37) -エリファズ二回目に論ずる(3)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:17~25
前回に続いて、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちが信仰相談を受けるとき、聖霊の声を聞くことがどれほど重要なのか伝えます。
1. 先祖の言葉を引用してヨブを悟らせようとするエリファズ
「私はあなたに告げよう。私に聞け。私の見たところを述べよう。それは知恵のある者たちが告げたもの、彼らの先祖が隠さなかったものだ。彼らにだけ、この地は与えられ、他国人はその中を通り過ぎなかった。」(ヨブ15:17-19)
エリファズはこれまで自分の知識を総動員してヨブを説得したのですが、ヨブが聞かなかったので、知恵のある先祖の言葉を引用しようと言います。
イスラエルの地は神様が選民に与えられた地なので、他国人はその中を通り過ぎないように教えました(ヨエル3:17)。また、神様は選民イスラエルをエジプトから連れ出した後、将来カナンの地に入ったら、そこの異邦人を聖絶せよと命じられました。もしこの声に聞き従わないなら、その地に住んでいた異邦人がイスラエルの民にとって、いばらとわなになると仰せられました(申命記7:16)。
もしイスラエルの民が異邦人と一緒に暮らすなら、彼らが仕えている偶像や彼らの間違った慣習と悪行に染まることもあるので、神様は彼らを滅ぼし尽くしなさいと命じられたのです。私たち人は環境から影響をすぐ受けて、それによって滅びに向かうので、神様が愛をもって未然に防いでくださるのです。
イスラエルの民は預言者モーセとともにカナンの地へ行く途中で、異邦人の国々と戦って大勝しました。これを見て恐れたモアブの王バラクは、神様と交わるというバラムを呼んで、イスラエルの民を呪わせます。しかし、神様は呪わないようにされ、反対に祝福のみことばだけを下さいました。
これに対してバラムは計略を巡らし、イスラエルに呪いが臨む事をバラク王に教えます。つまり、モアブ人の集まりにイスラエルの民を招待させたのです。するとイスラエルの民はモアブの女たちと淫らなことをして、偶像を拝み、これによって疫病が臨んで2万4千人も死んだのです。イスラエルの民は神様の大いなる力を体験したのに、異邦人と出会って彼らの文化に接すると、すぐ心が移り変わったのです。 神様がイスラエルの民に異邦人との結婚を厳格に禁じられたのも、このような理由からです。イスラエルの民が神様の命令に聞き従って、偶像に仕えないでみことばの中で生きていた時は、栄えの道に導かれました。 しかし、神様を離れて異邦人とつらなって、偶像に仕えた時には、他国に侵略されて捕虜にされるなど、多くの困難を経験しました。 異邦人と結婚してはならないということは、霊的には、神の子どもは世と友にならず、真理にあってみことばに聞き従いながら生きなければならない、という意味です。神の子どもが世と友となって、真理と反対になる悪を行って生きていく時は、サタンのしわざを受けて試練に会うのです。 ところで、エリファズがこのようにイスラエルの民をたとえに挙げているのは、ヨブを悟らせるためです。ヨブが不従順の罪を犯したイスラエルの民のように神様の前にふさわしくないから、試練や患難が来たのだと厳しく責めているのです。 2. ヨブを悪者で横暴な者だとさばくエリファズ 「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。横暴な者にも、ある年数がたくわえられている。」(ヨブ15:20) ここで「横暴な者」とは、権力や腕力に任せて無法で乱暴な行いをする者という意味です。エリファズは、選民イスラエルと一緒にはいられない異邦人のように、ヨブもそんな悪者で、横暴な者だと言っているのです。つまり、ヨブは悪者で横暴な者のひとりなので、神様がヨブを懲らしめられるようにすでに定めておられるというのです。 「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。」とは確かに神様のみことばです。「まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(詩篇1:6)、「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」(箴言24:19-20)と書いてあります。必ず善であれ悪であれさばきがあって、悪者はしばらく栄えるように見えても、結局は地獄の火に永遠に落ちるのですから、悪者が栄えているのをねたむ必要はないのです。 「その耳には恐ろしい音が聞こえ、平和なときにも荒らす者が彼を襲う。彼はやみから帰って来ることを信ぜず、彼は剣につけねらわれている。」(ヨブ15:21-22) これまでヨブの耳には、財産が全部なくなってしまったという報告、子どもたちが死んだという報告、飼っていた家畜が死んだという報告が聞こえてきました。それだけでなく、妻が自分を捨てて呪う言葉も聞いたし、親戚も遠ざかりました。しかもからだには悪性の腫物が出て、うめき声が水があふれるように流れたし、嘆きの声も絶えなかったのです。ヨブはずっとこのような声だけ聞いていたのです。 このようなことが起こる前は、ヨブにはいつも平和がありました。しかし、試練や患難が襲ってくると、平和はすぐ荒らされて、ヨブは死の直前まで行ってしまいました。エリファズの目には、このように大きい試練や患難に落ちたヨブには抜け出す希望がないのです。 ここで「剣につけねらわれている」とは、ヨブが今、多くの人から卑しめられ、あざけられ、さげすまれ、心臓を刃物でえぐり取られるような痛みを経験している、ということです。つまり、剣につけねらわれているようなものなので、やみから帰って来ることを信じられないはめになった、というのです。 「ヨブ! あなたは悪者で横暴な者だから、平和に見えていても、神様が懲らしめて呪われて、今は剣につけねらわれている。だから、試練や患難から救われたいと願ってはいけない。悪者や横暴な者には滅びが定まっているのだ。もう人々があなたをあざけって呪うことしか残っていない」と言っているのです。 ヨブは自分では正しい人だと思っていたのに、友だちから悪者だ、横暴な者だと罵倒されるので、どれほどつらかったでしょうか。しかも聖霊時代でもない当時、ひとりでもなく三人の友だちが次々と攻撃するので、悔しくてはらわたが煮えくり返るしかありません。そのように攻撃するヨブの友だちの悪と責任も大きいのです。 3. 正しい信仰相談をするには聖霊に働きかけられるべき 「彼は食物を求めて、『どこだ』と言いながら、さまよい、やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。苦難と苦悩とが彼をおびえさせ、戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」(ヨブ15:23-25) ヨブは豊かな人だったのに呪われてつぶれてしまったし、やみから帰って来られないはめになったので、今はさまよいながらもの乞いするしかない、と言っているのです。「やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。」とは、やみの力から抜け出せないままさまよっていて、結局は「とうてい回復する道がない。もうおしまいだ」と言ってあきらめてしまう、絶望してしまうという意味です。 これはどれほど厳しくて恐ろしい呪いの言葉でしょうか。エリファズがヨブに対してわだかまりがつのって、悪意に満ちて、言ってはならないことを言っています。 ヨブは苦難と苦悩の中で神様を恐れて、おびえていました(ヨブ9:34-35)。ヨブのこのような状況をエリファズは「苦難と苦悩とが彼をおびえさせ」と言っているのです。また、「戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。」と言いましたが、もし王が数年間徹底的に戦いの備えをするなら、簡単に相手に打ち勝つでしょう。これは、ヨブが勝てない苦難と苦悩に落ちていることを表現しているのです。 ヨブの友だちの目には、ヨブは神様に手向かっています。人がけんかするとき、相手を指さしたりする姿だったのです。それだけでなく、ヨブは高慢にふるまったので、全能者に手向かった、だから今のような苦難と苦悩に落ちるはめになったのだと説明しています。 エリファズが言っているように、人が神様のみことばに「アーメン」と言わずに聞き従わないのは、自分というものが生きていて高ぶっているからです。私たちのイエス様は神様とお一つである方ですが、「自分」がなかったし、神様のみこころに完全に従われました(第二コリント1:19)。結局、イエス様は十字架につけられて死にまで完全に従われたので、救いの摂理を全うされました。 私たちもイエス様が手本を見せてくださったように、神様のみことばならば環境と条件に関係なく「しかり」と「アーメン」と言って従わなければなりません。 ところで、エリファズがヨブに「それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」と言ったのは、ヨブをさばいているのです。ヨブの友だちはヨブが口にする言葉だけでヨブをとがめて「あなたは悪者だ、横暴な者だ、高慢だ」とさばいて罪に定めています。 しかし、ヨブの心はそうではなかったし、神様に手向かう心でもなかったので、ヨブは友だちの言うことを認められませんでした。ヨブは、友だちが自分のことを知らないだけでなく、彼らの言葉が自分を納得させることもできなかったし、自分の考えと全然合わないので、ずっと言い争っていました。友だちがとんでもないことを言うので、ヨブは彼らを相手にしないで、神様と論じ合おうと言ったのです。 ところで、ヨブがこのように友だちを無視するほど、友だちはもっとヨブを誤解して、さばいて罪に定めるしかありません。だから、互いに感情的になって、遠ざかってしまうのです。 伝道者の書5:2に「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。神様だけが人の心をご覧になるので、自分には相手の心がわからないのに、軽々しく言葉を出してはいけません。 主のしもべや働き人が聖徒の信仰相談を受ける時も同じです。うわべの言葉や行いだけを見て、相手を悟らせて神様のみことばで教えようとすれば、相手は心の戸を閉ざしてしまうでしょう。いくらみことばの知識が多くて弁舌が優れていても、それで人の心を変えさせることはできません(第一コリント4:20)。 相手に正しい道を悟らせて悔い改めさせるには、何よりも聖霊の声を聞いて働きかけられなければなりません(第一コリント2:10)。 私たちが心を真理で満たせば、それぞれの状況に合う答えが何か、聖霊の声を聞いて明らかにわかります。相手の心と思いも御霊が示してくださるし、相手の信仰の量りに合わせて答えを与えるのも、御霊だけがおできになります。したがって、私たちはまめに心を真理で満たし、聖霊の声を聞いて働きかけられるべきでしょう。
ヨブ記講解(36) -エリファズ二回目に論ずる(2)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:12~22
きょうは前回に続き、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、人が感情的になって言い争うとどんな結果を生むのかを伝えます。
1. 感情的になって言い争うことの結果
「なぜ、あなたは理性を失ったのか。なぜ、あなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」(ヨブ15:12-13)
ここで「理性を失った」とは、心が落ち着かないで興奮していることをいいます。そして「目はぎらつく」とは、腹を立てたとき、目つきがぎらぎら光って怖く見える状態をいいます。
人が言い争っていると、感情的になったり、声が大きくなったり、目つきが怖くなったりなど、いろいろな現象が起こります。はらわたが煮えくり返って心拍が早くなったり、血の巡りが早くなって顔や目の縁が赤くなったりもします。さらに目が血走ったりして、見ると怖く感じられます。
ここで終わらないでずっと言い争っていると、息が上がってブルブル震える人もいます。こうなると自制できないので、悪態をついたりします。ヨブとヨブの友だちは今、こんな状態になっているのです。
ところが、本人は自分の姿を見ることができないことが多いのです。それで、周りから「なぜそんなに怒るんですか」と指摘すれば、「いや、怒ってないけど」と言います。
第三者から見れば確かに表情や目つき、声から怖いほど憤っているのに、本人はそれを認めないで言い訳するから、自分を発見して変えられるのが遅くなるのです。ですから、誰かが指摘してくれたら、自分は違うと言い張らずに、「ああ、自分でも気がつかない癖があるんだ」と認めて直すように努力しなければなりません。すると変えられるのです。
エリファズはヨブに「あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」と言って、ヨブが不遜にも神様に向かっていらだち、とんでもないことを言っていると指摘しています。
エリファズは自分なりに神様のみことばである真理を引用してヨブを悟らせようとしたのですが、ヨブは完全に無視しました。それで、ヨブは心から神様に反抗している、というのです。それまでヨブが口にした言葉が、口先ではなく、深い心から出てきたことを知っていたからです。 人の言葉は三つに分けられます。心にあるものが口から出てくる場合があって、心にないことを口にする場合もあります。たとえば、相手が本当に憎くて「嫌い」と言うなら、これは心から出た言葉です。しかし、心では相手を憎んでいても、口ではいくらでも「好きだ」と言えます。この二つは、言っている本人がその言葉の意図を知っています。 ところで、自分でも知らないうちに嘘をつく場合があります。この時「私の心はそうじゃないのに、うっかり口がすべった」と言い訳したりもします。こういう場合は、故意ではなくても偽りです。自分でも知らない、心に深く潜んでいたものが口から出てきたのです。 私たちが真理にあって正直に生きているなら、口のすべての言葉が心と一致します。嘘をつかないのはもちろん、何気なく口にする言葉でもむだな言葉がなく、うっかりでも心にない言葉は出てこないのです(ヤコブ3:2)。 したがって、私たちは完全に真実な心になって、言葉と行動が一致する生き方をしなければならないでしょう。 2. 主にあっては心も性格も作り直していただけると信じるべき 「人がどうして、きよくありえようか。女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」(ヨブ15:14) 聖書を読むと、この言葉が間違っていることがわかります。 たとえば、エノクはとても心がきよくて正しい人でした。それで、神様が300年間もともに歩んでくださいました。モーセは地上のだれにもまさって非常に謙遜で、全家を通じて忠実な人でした。ステパノ執事は何の過ちもなく石で打たれて死にかけていたのに、ひざまずいて大声で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と代わりに神様に赦しを求めました。どれほど悪のないきよい心でしょうか。 それなのに、なぜエリファズは「人がどうして、きよくありえようか。」と言っているのでしょうか。エリファズは悪くて汚れた自分の心の中を知っていました。周りの人たちを見ても、みんな悪くてきよくなかったので、人はみんなそうだと決めつけているのです。 しかし、自分が悪いからといって、相手も悪いのではありません。自分は嘘をつく人でも、相手は真実を語る人かもしれません。 また、エリファズは「女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」と言っていますが、この言葉は肉的にも霊的にも正しくありません。 韓国の朝鮮時代のイ・スンシン将軍は国に忠誠を尽くして親孝行をし、兄弟愛もありました。濡れ衣を着せられて一兵卒として従軍しながらも王を恨まなかったし、国と民のために命をささげました。このように、女から生まれた人の中にも正しい人はいるのです。 霊的にも同じです。誰でもイエス・キリストを受け入れて聖霊を賜物として受ければ、死んでいた霊が生き返って、神の子どもとされる特権を得るようになります。このように信仰によって罪赦されて義と認められるなら、正しいと言われるのです。 しかし、本当に正しい人になるには、御霊によって霊を生み、罪を捨てるのはもちろん、悪はどんな悪でも避けなければなりません。私たちが御霊に従っていくほど、心から真理と反対のものと悪は捨てられ、真理で満たされます。私たちの心が完全に真理で満たされれば、神様が人を造られた時のかたちを取り戻すようになります。この状態を「たましいに幸いを得ている」といい、本当に正しい人なのです。 神様は私たちに正しくなれると言われ、その方法も教えてくださいました。自分の力ではできなくても、自分の努力とともに神様の恵みと力、そして聖霊の助けがあると、いくらでも良くて正しい心に変えられることができるのです(マルコ10:27,エレミヤ32:27)。 エゼキエル36:26に「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。神様は、心はもちろん性格も、いくらでも作り直すことがおできになります。 モーセはエジプトの王子だったとき、人を打ち殺すほど憤りが多かったのですが、荒野で40年間練られて、地上のだれにもまさって非常に謙遜な人に変えられました。使徒パウロも自尊心と義の強い人でしたが、主に出会った後、試練に会って練られ、良い柔和な性格の、神の力を行う使徒に変えられて、義の栄冠を受けることができました。雷のようにせっかちな性格だったヨハネも、変えられて愛の使徒になりました。 このように主にあってはできないことがなく、自分を強くしてくださる方によってすべてができると信じてこそ、変化の力を体験できるのです。 3. ヨブに神様のみこころを間違って伝えるエリファズ 「見よ。神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。天も神の目にはきよくない。まして忌みきらうべき汚れた者、不正を水のように飲む人間は、なおさらだ。」(ヨブ15:15-16) 霊的に「聖なる」とは、外見だけでなく、心まで傷もしみも全くなくきよい状態をいいます。したがって、本来「聖なる」という言葉は人には使えない言葉であり、善そのものの神様だけが聖なる方なのです。 ところが、神様は愛する子どもたちも「聖なるものとされなさい」と言われています。神様が本当に私たちに望んでおられるのは心の聖めです(第一ペテロ1:15-16)。ですから、私たちは心の割礼をして、どんな悪もない、きよくて良い心に変えられなければなりません。 このように変えられて聖なるものとされた人がいるなら、神様は当然その人を信頼してくださるでしょう。しかし、エリファズは「神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。」と、神様の心を知っているかのように言っています。これは自分が神様のようになる、非常に大きい悪で高ぶりです。 また、エリファズは「天も神の目にはきよくない。」と言っていますが、これも正しい言葉ではありません。 神様は初めに人間耕作の舞台になる天地万物を創造して喜ばれました。神様が造られたすべてのものには霊的な意味が込められています。天は霊的に天国を意味します。神様は人の心に本当の故郷である天国を慕う心を下さったので、私たちは天を見上げれば懐かしさを感じます。 それなのに、神様がこのような天をどうしてきよくないと言われるでしょうか。エリファズは神様を誤解して、ヨブに間違ったことを言っているのです。 人は水なしには生きられないので、一日に何回も水を飲みます。このように水を飲むように不正を行っているなら、どれほど悪い人でしょうか。 また、「汚れた者」とは、人の本分から離れて過ちを犯す人をいいます。エリファズはヨブがこのような人だと言っています。「ヨブ、あなたは水を飲むように悪を行っているから、忌みきらうべき汚れた者だ。神様は聖なる者でも信頼されず、天も神様の目にはきよくないのに、ましてあなたのように悪い人を受け入れてくださるだろうか」と罵倒しているのです。このように、とうてい想像できない表現まで使っています。 しかし、ヨブは心そのものが悪いのでもなく、忌みきらうべき汚れた人ではありませんでした。友だちはヨブを刺激して、ヨブがもっといらだつようにして、口にわなをかけて罪を犯させていくのです。友だちはヨブが自分の言葉を聞き入れないので憤り、ヨブのほうは自分は正しいと思っているのに友だちが悪いと言うのでいらいらしています。どちらも自分が正しいと主張して相手を攻撃しているので、お互いさまです。 これは言い争いがこのような結果をもたらしたからです。世では、口論していてだんだん感情的になると、激しい言葉を使って、相手を呪ってしまうことさえあります。したがって、神様は私たちに言い争ってはならないと戒めておられるのです(第一テモテ6:20,第二テモテ2:23)。 言い争う人たちの中には、第三者の話だけ聞いて、間違ってさばき、とんでもないことを言う人もいます。しかし、自分の目で見て、自分の耳で聞いたとしても、それが合っていないこともあることを知っておかなければなりません。 相手が嘘をついているかもしれないし、事実だとしても、聞く人がどんなふうに受け入れたかによって、元の意味から離れることもあるのです。人は見た目だけでさばくことが多いのですが、人の心は神様だけが正確に知っておられます。 したがって、互いの間で言い争うことをやめるのはもちろん、誰もさばいて罪に定めることもあってはならないでしょう(ヤコブ4:11)。
「ヨブ記講解(35) -エリファズ二回目に論ずる(1)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:4~11
きょうはエリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちの言葉と行いが相手に及ぼす影響について伝えます。
1. ヨブをさばいて非難するエリファズ
「ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。」(ヨブ15:4)
エリファズは「ヨブ、前にあなたが豊かだった時は、神様の前に全焼のいけにえをささげて神様を恐れていたではないか。ところが、今は神様を恐れるどころか、恨んで悪い神様扱いして、祈ることさえやめている」と指摘しています。
しかし、ヨブが神様に反抗させた要因の一つが友だちとの言い争いだったので、友だちの責任も大きいのです。これは、私たちが誰かの相談に乗る時にも気をつけなければならない部分です。自分のひと言が相手に信仰といのちを植えつけることもあるし、反対に相手をつまずかせたり、もっと悪を行わせることもあります。
特に主のしもべや働き人は聖徒を訪問するとき、人間的な考えを巡らさずに、いつも聖霊の声を聞いて話をしなければならないでしょう。
「それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。」(ヨブ15:5-6)
ここで「あなたの罪があなたの口に教える」とは、ヨブの口から出てくる言葉がヨブが罪人であることを証言しているという意味です。
それなら、エリファズはなぜヨブを悪賢いと言っているのでしょうか。昔はヨブは神様をこの上なく恐れかしこんで高めていたのに、今はその反対になりました。ヨブは「神様は潔白な者も悪者もともに立ち滅ぼされる」と言うかと思えば、「悪者には祝福を与え、正しい人は滅ぼされる」と言って、悪い神様扱いしました。また、前は徳の高い言葉で人々を教えて助けていたのに、今はむなしいことばを口にして思慮のない人になってしまったので、これを指して「悪賢い人の舌を選び取る」と言っているのです。 しかし、私たちはうわべに現れる言葉と行いで人をさばいてはいけません。聖められる前は心と口が別々の時が多いし、言葉と行いが一致しないこともよくありです。人は相手の言葉と行いを見てさばきますが、神様は心をご覧になります。ヨブは真理を知らないから正しくない言葉をぶちまけているので悪賢い人のように見えますが、心そのものは悪賢くありません。 エリファズはヨブに「あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。」と非難します。しかし、実は友だちもヨブを非難する資格はありません。これまでいろいろと責め立ててヨブをイライラさせて憤らせるなど、ヨブが悪を行うように原因を提供したからです。 2. ヨブに皮肉を言うエリファズ 「あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。」(ヨブ15:7-8) この質問は全部ヨブに対するエリファズのひねくれた心の表現です。エリファズは人類で最初に生まれたのはアダムだということも、人より丘が先に創造されたことも、よく知っていました。また、人が神様の会議に参加して奥義を聞くはずがないことも、ひとりだけ知恵を持っているわけがないこともよく知っていました。だから、ヨブに皮肉を言っているのです。 それなら、ヨブの友だちがなぜこれほどまでに心がひねくれてしまったのでしょうか。これは、それまでヨブが友だちを無視していたからです(ヨブ13:1-4)。ヨブは友だちに高ぶった態度で「あなたがたは相手にもならないから、神様とだけ論じ合いたい」と言いました。ところが、友だちが実際にヨブの話を聞いてみると、とんでもない話ばかりしているのです。 そうでなくても心がひねくれていた友だちは、もっとひねくれるしかありませんでした。ヨブの発言がひとりよがりのように感じられたので、エリファズはヨブを厳しく責め立てるようになったのです。 しかし、ヨブの立場も考えてみなければなりません。自分を慰めに来た友だちがしきりに「あなたが間違っているから災いが降りかかったんだ。悔い改めなさい。祈りなさい」などと感情的な言葉で責めるから、ヨブの心はもっと苦々しくなったのです。 3. 言い争うことの無益さ 「あなたが知っていることを、私たちは知らないのだろうか。あなたが悟るものは、私たちのうちに、ないのだろうか。」(ヨブ15:9) エリファズは「ヨブ、あなたが知っていることを私たちも全部知っている。あなたが悟っていることは私たちもみんな悟っている」と真っ向から反論しています。ここで私たちは言い争いのためどれほどサタンから妨げられて、試練や患難を自分から招くのか知っておくべきです。 「群盲象を評す」という言葉がありますが、これは視野の狭い者が多く集まり、めいめいの観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が見失われている状態をたとえているのです。私たちの周りでも、一部分だけ知っているのに全体を知っているかのように話をして、言い争うことがどんなに多いでしょうか。霊的な盲人になって、自分が知っていることだけを正しいと主張して、人をさばいて罪に定めるようになり、まかり間違えば神様の前に大きい罪の壁を作ることもあります。ですから、自分が知っていることがいくらでも事実と違うこともあるし、ある一分野だけかもしれないことを悟って、謙虚な心を持たなければなりません。 ヨブと友だちは自分たちの知識の限界内で自己主張をして、互いに無視してさばいているのです。 信仰の兄弟の間でも、最初はささいなことで言い争いが始まったのに、互いに譲らないで自分を主張していると、だんだん感情的になって怒ることがあります。 しかし、神様は「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)と言われました。 このような神様のみことばを守り行えば神様のみわざを体験できるのですが、反対にみことばに反してしまえば、神様のみわざは体験できません。互いに誤解して、相手を刺激して一緒になって悪を行っているのに、どうして神様のみわざが起こるでしょうか。 もし、相手は真理を知らないので自分を迫害していて、自分は真理をよく知っているのに相手を呪うならば、自分のほうが悪いということを知っていなければなりません。悪い人に善をもって対応するとき、善が勝つのです。これが神様の法則だからです。 ローマ12:17-18に「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とあり、ローマ12:21に「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。自分がいくら平和をつくりたくても、相手が受け入れてくれなければ仕方ありませんが、それでもできることなら、すべての人と平和をつくらなければなりません。 私たちのイエス様は力ある方ですが、誰とも言い争われませんでした。当時、大祭司と祭司長、律法学者とパリサイ人たちは絶えずイエス様を殺そうと計略を立てました。 だからといって、悪い者たちがイエス様に手を下すことはできませんでした。イエス様は神様の摂理が完全に成就するまで、時には身を隠したり、その場から出て行ったりしながら、知恵をもってこの地上で働かれました。 これは決して卑怯な姿ではなく「悪い者に手向かってはいけません。」(マタイ5:39)とあるとおり、ただ真理を行われたのであって、誰とも争うことも、叫ぶこともなかったのです(マタイ12:19-20)。 私たちはこのようなイエス様のご性質に似なければなりません。自分のほうが明らかに正しくても、相手が受け入れないならば、いっそ話をせずに待つほうがよいのです。自分の意見だけ主張して相手の悪を刺激することなく、真理にあって良い方法を選んで、平和をつくらなければなりません。 4. 神様のみことばで自分を照らすべき 「私たちの中には白髪の者も、老いた者もいる。あなたの父よりもはるかに年上なのだ。神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。」(ヨブ15:10-11) ヨブの友だちの中には年を取って白髪の人もいるし、ヨブの父親より年上の人さえいることがわかります。それで、エリファズは「ヨブ、あなたは年配者の前でそんな無礼なことを言うのか」と言っているのです。 また、「私たちは神様のみことばを引用してあなたを慰めようとしたのに、なんでこんなに反抗しているのか。あなたは高ぶっていて、私たちを無視している」と責めています。 しかし、これは見当違いの話です。友だちもヨブを無視してさばいて、ヨブと同じように罪を犯しているからです。友だちの感情的な言葉がヨブにますます悪を行うようにさせたので、実際はヨブより彼らの過ちのほうが大きいのです。 また、神様のみことばを引用して相手を指摘したり、自分が正しいと主張したりすることも間違っているのです。感情的になっている人に「聖書には憤ってはならないとありますが」と言うなら、どうして相手が喜んで聞き入れるでしょうか。 人は相手の考えや心の中まで正確にわかりません。ただ言葉や行い、表情など、表に現れる姿で相手の心を推測するだけです。同じように自分の心も正確にわからない時があります。それで、これを照らす基準が必要です。それは真理である神様のみことばです。 それでは、ヨブと友だちの言い争いを見て、私たちはどんなみことばが思い浮かぶでしょうか。 ヘブル12:14に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」とあります。また、ヤコブ1:19-20に「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。 私たちはこのような神様のみことばを思い起こして、自分を照らしてみなければなりません。ところで、みことばを知識としてだけ持っていても、何の役にも立ちません。このみことばを心に刻んで自分のものにした人は、日常生活でも真理でなければ聞こうとしないし、ひと言でも注意して口にするでしょう。言い争えば怒って神様の義を実現できず、互いの間の平和が壊れるからです。 したがって、生きていて力のある神様のみことばをいつも人生のともしびと光として、毎日変えられて、いのちを得ていきますように。
「ヨブ記講解(34)」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:17~22,15:1~3
きょうは神様の愛を誤解しているヨブの言葉とエリファズの言い分を調べて、神様が私たちに望んでおられることが何かを伝えます。
1. 神様の愛が変わったと誤解するヨブ
「私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。」(ヨブ14:17)
人は、貴重で大切なものをなくさないために、袋の中にしっかり入れておくことがあります。同じように「そむきの罪を封じ込める」とは、それを軽く見ないで重大に思い、厳しく取り締まるという意味です。神様が自分の歩みをいちいち数えて懲らしめておられる、そむきの罪と咎を封じ込めて、重罪人のように扱っておられる、という意味です。
まるで心が変わってしまった夫に文句を言う妻のように、ヨブは神様に向かって訴えています。「神様と私は愛し合っていたのに、突然、神様は私を嫌って、私のすべてのものを取り上げてしまいました。それは神様が私を憎んで、重罪人扱いしておられるということです。私の若い頃の罪も一つ一つあばきだしておられるのです」と言っているのです。
しかし、いくら苦しくてつらいことに会っても、私たちに対する神様の愛は変わらないということを信じなければなりません。聖書を読むと、私たちの父なる神様を夫と表現しているところもあります。「あなたの夫はあなたを造った者、」(イザヤ54:5)とあるし、特に雅歌では、私たちと神様の間を愛する恋人の関係、花嫁と花婿の関係にたとえています。
神様はヨブをこの上なく愛しておられる花婿なので、ヨブを美しい花嫁にしようと練っておられるのに、ヨブは悪い神様だと誤解しています。
2. 人の望みを絶ち滅ぼされる神様だと誤解するヨブ
「しかし、山は倒れてくずれ去り、岩もその所から移される。水は石をうがち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。」(ヨブ14:18-19)
前はヨブには大きい山のような名誉があったし、財産もあって、権力もありました。からだも岩のように健康で、子どもも多く、大勢の人から尊敬される人でした。ところが、神様がそんな山と岩を崩してしまわれたので、もう何の役にも立たなくなったというのです。 水が数十年、数百年流れていると、これによって石が削られ、すり減って、だんだん小さくなります。また、水滴一つには力がないのですが、永い歳月ずっと落ちていると、硬い岩にも穴をあけます。 ところで、ヨブは少しずつ流れている水も硬くて大きい石をうがつことができると言った後に、なぜ「大水は地の泥を押し流す」と表現したのでしょうか。 ここで「大水」とは「神様の高さ」を表わしています。ヨブは、大水のように絶大な力のある神様が地の泥にすぎない自分を踏みにじって押し流してしまった、と言っているのです。このようにヨブは、神様が人の望みを絶ち滅ぼされる方だと誤解しています。 しかし、神様は私たちの幸せを望んでおられ、平安と希望を下さる方です(民6:24-26,哀歌3:33,エレミヤ29:11)。時に応じて神様が試練に会わせるのも、私たちを苦しめようとするためではなく、まずたましいに幸いを得ているようにして、さらに大きい祝福を受けるようにするためなのです。 3. 過去に執着してすべてを神様のせいにするヨブ 「あなたは、いつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去って行きます。あなたは彼の顔を変えて、彼を追いやられます。自分の子らが尊ばれても、彼にはそれがわからず、彼らが卑しめられても、彼には見分けがつきません。」(ヨブ14:20-21) ヨブは、絶大な力のある神様が地の泥にすぎない自分を最後まで追いつめて、打ち負かそうとしておられると言っています。それで自分の財産を奪って、健康も、家庭の平和もなくなるようにされたし、結局はいのちさえもよみに下らせようとしておられる、という意味です。 ヨブは、最初は神様にお願いもしてみて、後には恨んだり嘆いたりして、いろいろな方法を使ってみました。それでも神様から何の答えもないから、もうくちびるを制することなく、やけになって言いたいことをぶちまけているのです。 「あなたは彼の顔を変えて」とは、これまでヨブが感情をコントロールできなくて、神様の前に恨み、嘆き、顔色が変わったことを意味します。そして、それは当然のことで、すべては神様のせいだと言っているのです。 それでは「自分の子らが尊ばれても、彼にはそれがわからず」とはどんな意味でしょうか。ヨブは昔は豊かで尊ばれていました。そして、これは神様が祝福してくださったからだと信じたので、神様の前に感謝のいけにえをささげました。しかし、昔いくら幸せだったとしても、神様が全部取り上げてしまわれたので、覚えておく必要もないということです。だから、感謝する必要もないというのです。 また、ヨブは「彼らが卑しめられても、彼には見分けがつきません。」と言っていますが、これは自分が卑しめられているのに、自分では気づかない、ということです。ヨブはすべてを失ってみすぼらしくなっても、どれほど友だちを無視したでしょうか。 「友よ、私は正しくて、あなたがたより優れた知識と知恵が多いから、私の前では黙れ」というようなことを言ったし、神様の前にも高ぶった言葉で問い詰めました。ヨブは今低い立場にいるので、自分の卑しさを悟ってこそ悔い改めて立ち返れるのに、まだ気づかないでいます。 「私は前は尊ばれていたのに、神様がこんなふうにしてしまったのだ。なぜ私が卑しめられているのか」と問い詰めているのです。 私たちは今の自分を正確に悟って、問題の解決方法を探さなければなりません。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあるとおり、すべてにおいて真理で照らして、自分を省みなければなりません。 もし経済的な問題、家庭、病気などの問題があるなら、明らかにそこには理由があります。「なぜこんなふうになったのか」 「なぜこんな病気にかかったのか」その理由を発見して立ち返ることが祝福です。そうではなくて、ヨブのように祝福されていた過去に執着したり、すべてを人のせいにしたりするだけなら、問題も解決されないし、何の発展もないのです。 「ただ、彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです。」(ヨブ14:22) ヨブは前は過去を振り返っていましたが、今は現実に帰って自分の痛みを見ています。現実は自分の肉が腐っていき、痛みで苦しくて悲しいというのです。自分が受けている今の苦しみも神様のせいだと言っています。ヨブはこれらすべてを自分のせいではなく、神様のせいにしているので、悟ることもできず、悔い改めることもできません。 私たちがみことばを信じて守り行うなら、どんな雨風も、洪水も、害を加えることはできません(マタイ7:24-25)。ですから、何か問題が起こったとき、神様のせい、人のせい、環境のせいにするのではなく、自分がみことばの上にしっかり立っていたのかを省みなければならないのです。 4. 言い争うことの無益さ 「テマン人エリファズが答えて言った。知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。」(ヨブ15:1-3) ヨブの友だちは、前はヨブが知恵のある人だと思っていたのに、今はヨブの話を聞いてみると、愚かな人だとわかりました。ヨブが神様を悪い神様だとけなして、ずっと恨み、嘆き、激しい風のような言葉をぶちまけているからです。 それで「ヨブ、あなたが知恵のある人ならば、むなしい知識をもって答えるはずがない」と言っているのです。ヨブを全く無視して、愚か者だと言っているのです。 私たちは言い争うことがこのように無益だということを悟らなければなりません。もしヨブが友だちと言い争っていなかったなら、友だちがこのようにヨブを見くびることもなかったでしょう。 箴言9:10に「【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」とあります。もしヨブが神様を最後まで恐れていたならば、友だちから愚か者だと言われなかったでしょう。ところが、言い争っているうちに出てきた言葉が神様を恐れず、真理ではなかったので、結局、愚か者にされてしまったのです。 続いてエリファズは「東風によってその腹を満たすだろうか。」と言いましたが、これは、東から吹いてくる風は人にとって何の役にも立たないということです。つまり、ヨブの言葉が無益でむなしいことを風にたとえて表現したのです。 「彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。」とは、「ヨブ、あなたは風をつかもうとするようにむなしく無益な言い争いをしている。本当に愚か者だ」と言っているのです。 エリファズのこの言葉は間違ってはいないのですが、だからといって、このように責める姿勢が正しいのではありません。エリファズがいくらヨブを責めても、今のヨブには役に立たないからです。 ヨブは友だちのせいでだんだん感情的になって、心がひねくれています。これではいくら正しい言葉でも、心から受け入れられません。かえってもっと腹が立って、感情が爆発するかもしれません。 したがって、友だちがヨブの試練を長びかさせている張本人だということも悟らなければなりません。もし友だちがそばになかったとすれば、ヨブは言い争わなかったでしょう。ただ静かに考えて悔い改めるべきことを探していれば、これほど試練が長びくこともなかったでしょう。 ヨブの友だちのように、私たちがどんな言葉を口にするかによって、相手を悲しませて苦しめ、敵になることもあることを悟るべきです(箴言10:19)。いくら良い正しい言葉でも、言い争いは何の利益ももたらさないので、相手が受け入れない時は話をやめなければなりません。 私たちが福音を伝える時や、聖徒を訪問する時も同じことです。真理を受け入れる人には与えますが、かえって言い争って神様の栄光を遮る人には、それ以上言わないほうがいいでしょう(マタイ7:6)。これは、真理を受け入れない人には伝道してはならないという意味ではなく、神様に祈って、聖霊の声を聞いて、善の知恵をいただいて伝えなければならない、ということです。 愛する聖徒の皆さん、 まことの信仰がある人ならば、今、苦しい目に会っていても、過去、自分に下さった神様の恵みを思い出して感謝します。問題にぶつかって、つらい事が起こっても、神様は生きておられ、いつも愛をもって見守っておられます。このように変わらない神様を信じるならば、どんな苦しみや逆境にも十分勝利できます。 聖徒の皆さんも、問題が起こったとき、気を落として信仰を失うのではなく、ただ生きておられ、変わらず自分を愛しておられる神様だけを仰ぎ見ますように。そして、試練をきっかけに信仰が成長し、より大きい祝福を受けますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(33)-
過去を偲びながら神様に訴えているヨブ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:7~16
きょうは、豊かで良かった過去を思い出しながら神様の前に訴えるヨブの姿から、神様が望んでおられることが何かを伝えます。
1. 霊的に無知で天国への希望がないヨブ
「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」(ヨブ14:7~10)
今までヨブは神様につぶやいて嘆き、あれこれ話をしてみたのですが、何の答えもないと、意気がくじけました。それで、自分は無力で、弱い女から生まれた者だと人生のみじめさを説明するかと思うと、今度は神様を説得するために木にたとえています。「私は木よりも劣る人だから、かわいそうに思って、もう勘弁してください」と自分の哀れさを訴えているのです。
木を切ると、そこからまた芽を出し、枝が育って、新しく植えたように茂ります。また、木の根は地中で古くなれば自然に枯れますが、その上の枝は相変わらず生きています。ある木は、根株が土の中で枯れても、水分に出会うとそこからまた芽をふいて、苗木のように枝が伸びていきます。ところが、人間は死ぬと倒れたきりなので、望みがないとヨブは言っています。
「人が息絶える」とは、人にあった力、すなわち名誉、権力などが死とともに無に帰ってしまうという意味です。
ところが、神様を信じる人としてこういうことを言うのは正しくありません。神様を信じて救われた人は、息が絶えるとからだは土に帰りますが、主が空中に降臨されるとき、再び御霊に属するからだによみがえり、空中に引き上げられます。人は死んでも霊は消滅しないで、天国の待機場所にとどまっていて、主が降臨なさる時に、よみがえった御霊に属するからだと結合して、永遠に生きるのです。
それで、第一コリント15:20に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあり、神様を信じる人が死ねば「眠っている」と表現するのです。 「水は海から消え去り、川は干上がり、かれる。人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目ざめず、また、その眠りから起きない。」(ヨブ14:11~12) 海の水は水蒸気になって上って行くようですが、雨になってまた下りてきます。山の谷間から出てくる湧き水が集まって小川になり、小川は流れて川に行き、川の水はまた流れて海に行きます。ですから、千年経ち、一万年経っても、海の水は減りません。もし海の水が減るほどならば、川の水は全くかれてしまうでしょう。 ヨブは学識も知恵も優れた人だったので、海水が減らないということぐらいは知っていました。もし海の水が減るならば、当然川は干上がってかれるという原理を説明しているのです。 ヨブは「人は伏して起き上がらず、」と言っていますが、これは間違っています。神様を信じている人が死ねば、起き上がらないのではなく、主がまた来られる時によみがえって、永遠に生きるからです。 それなら「天がなくなるまで目ざめず、」とはどういう意味でしょうか。よく世の人はある事がどうしてもうまくいかないとき、「天地がひっくり返ってもこれは不可能だ」と表現します。ヨブも「人が死んでから生き返るのは天地がひっくり返ってもありえない」という意味で言っているのです。 ヨブは肉的には知識が多い人でしたが、霊的にはあまりにも無知なので、ずっと真理に合わないことを言っています。 2. 神様に訴えるヨブ 「ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。」(ヨブ14:13) 神様は、ルカ16章の貧しい人ラザロと金持ちのたとえを通して、私たちによみについて教えてくださいました。 金持ちはこの地上でぜいたくに遊び暮らしていましたが、神様を恐れなかったので、死んだ後に下のよみで言葉にならない苦しみを受けるようになりました。反対に、金持ちの門前で金持ちの食卓から落ちる物を食べて暮らしていた貧しい人ラザロは、神様を恐れうやまっていたので、死んだ後、上のよみにいるアブラハムのふところで平安に休むことができました。 ところが、ヨブは霊の知識が足りなかったので、よみを死んだ人が永遠に眠る場所としてだけ理解していました。ですから、何もない無の状態であるよみに、すなわち死の中に、自分を隠してくださいというのです。 ヨブは、神様が物事の分別がつかなかった若い頃の自分の過ちまであばいて御怒りを燃やされ、自分をこのように苦しみの中で生きていくようにされたと誤解しています。神様が勝手に定めておいて、自分をみじめな状態にされたけれど、「いつかは神様の御怒りが過ぎ去る時が来るのではないか」と考えているのです。 ですから「神様の怒りがおさまる期限を定めてください。その時まで私を隠しておいて、その期限が来たら、私を思い出して生き返らせてください」と訴えているのです。苦しみに会ったとき、「この苦しみがいつ終わるかわかれば、その希望を持って我慢できるのに、終わりがわからないから絶望的でつらい」と思う人もいます。「問題が解決される時まで寝ていたい」と言う人もいます。 しかし、そうすることはできません。神様が試練の期限やその方法、解決方法を全部教えてくださるなら、本当のテストではないからです。 ヨブは「この苦しみは神様が下さったものなので、その終わりがいつなのか教えてください。そしてこんなに苦しんでいる私を思い出してください」と訴えています。 木は死んでいるようでもまた芽を出しますが、ヨブは死んだらそれで終わりだから、憐れんでくださいというのです。自分は価値のない女から生まれた存在で、めちゃくちゃになった体で苦しんでいて、死ねばもう希望もない哀れな者なので、後で自分を覚えていて生き返らせてくださいと言っているのです 「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」(ヨブ14:14) 前の節では、自分が死んでよみにいても、神様は自分を覚えていて生き返らせてくださいと言ったヨブが、ここでは人が死ぬと生き返れないと断定しています。つじつまが合わないことを言っているようですが、これはヨブの悔しい気持ちが込められている言葉です。 ヨブは霊の世界の法則を知らないから、一度死ねばそれで終わりだと思っています。「私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」とは、もし木のように人が死んでも生き返るという望みがあるなら、どうして自分はこんなに神様に恨んだでしょうかということです。つまり、自分が生き返るという希望があるなら、最後まで我慢して待ちますが、そうではなくて死んだらそれで終わりだと文句を言ったのです、思ったことをそのまま口にしたのです、と自分を弁護しているのです。 しかし、本当に信仰がある人は、どんな試練や患難に会っても、受けた恵みを忘れません。永遠の天国があることを信じるので、つぶやいたり嘆いたりして神様を悲しめるのではなく、かえって喜んで感謝して勝利します。もし試練や患難に会った時に喜びと感謝がなくなってつまずいてしまったとすれば、これは完全な信仰がなかったという証拠です。 ヨブは聖霊を受けていないので、悟りもなくて、自分の思いのまま感情を爆発させていますが、聖霊を受けた神の子どもたちは聖霊に助けられるので、どんな試練や患難が来ても感謝して、信仰によって勝利できるのです。 3. 良かった過去を偲ぶヨブ 「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」(ヨブ14:15~16) 人は何かに頼りにして生きています。ある人は金銭や権力を、ある人は名誉や知識を、ある人たちは家族に頼ります。また「私は誰にも頼らない。自分のこぶしだけを信じる」と言う人もいます。 ところが、人は明日のことも知らないし、権力も、名誉も、知識もいつまでもあるのではありません。いくら多くの財産をたくわえても、一日でなくなることもあり、神様がたましいを召されるなら、何も持たずに天国か地獄のどちらかに行かなければなりません。箴言27:1に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあるとおりです。最も幸いな道は、創造主の神様を信じて頼りにすることです。 ヨブは以前は神様により頼んでいて、時に応じて全焼のいけにえをささげていました。ただし、先祖から聞いたとおりに全焼のいけにえをささげてはいたのですが、ヨブは実際に神様を見つけたことも、御声を聞いたこともありませんでした。 その上、今いくら神様を呼んでも、神様が答えてくださることもなく、助けてもくださらないようです。もしヨブに神様を見つけた体験があったなら、「あなたは私を呼ばれ、私は答えました」と自分の経験を言ったでしょう。しかし、何の体験もなかったので、本文のように「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。」と仮定の表現を使ったのです。 ヨブは何としてでも神様を説得してみようと、過去、自分の良かった時を神様に説明しています。ヨブは、以前は富も学識も健康なども持っていて、人々を徳によって従わせることができました。だから、神様はそんな自分を慕っておられるでしょう、と言っているのです。 ヨブは神様の御声を聞いて、見つけたのではありませんが、過去、自分が持っていたすべてのものは神様が下さったので、「神様は私を大切に思ってくださったのではありませんか」と言っているのです。昔は自分を豊かにしてくださる良い神様だと思っていたのに、今は神様はいくら捜して叫んでも答えてくださらない悪い方だと誤解しているのです。 「今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」とは、前はヨブを大切にして祝福を下さった神様なのに、今は心が変わって、ヨブの前の罪まであばき出して懲らしめ、、このように苦しめた、ということです。「前は神様は私を愛して豊かにしてくださいました。神様はどれほどいとしそうに私を見つめておられたでしょうか。『ヨブ!』と呼んでくださるならば、私は答えたでしょう。ところが、今になって私をこのようにみじめに捨てられたのですか。その理由は何でしょうか」と問い詰めているのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブは後の世について知らなかったので、天国への希望を持てずに試練の中でずっとつぶやいて嘆いています。ところが、私たちは天国について明らかに知っているし、何より新しいエルサレムへの希望があります。したがって、永遠の新しいエルサレムで味わう栄光を望んで、すべての試練を信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(32)-天国への希望がないヨブ」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:1~6
きょうは天国への希望がないヨブの姿から、私たちに望んでおられる神様の心と思いを伝えます。
1. 女に恨みの矛先を向けて人生の空しさを論じるヨブ
「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1~2)
ここでヨブは女性を軽んじているように見えます。旧約時代の女性はたいてい男性の所有物のように扱われて、服従だけしなければならない存在でした。
もちろん神様は男性と女性を差別されたりはしません。しかし、創世記を読むと、女であるエバを通して罪が入り、人類が滅びの道に向かったことがわかります。エバがまず蛇に誘惑されて善悪の知識の木から実を取って食べ、夫のアダムに与えたので、アダムもそれを食べて不従順の罪を犯したのです。
女性はエバの本性を受け継いで生まれるので、男性に比べて心がもろくて、ずる賢い場合が多いです。人によって違いますが、ほとんどは男性の心の芯が女性に比べて真っ直ぐで、移り変わることが少ないです。
神様は、ああしたりこうしたりするずる賢い心をとても嫌われて、どんな環境や条件でも真っ直ぐで移り変わらない心を愛されます(第一コリント16:13)。しかし、女性でも、旧約時代の預言者デボラやエステルのような人物は神様に愛され、大いに用いられて国を救いました。
これは、どんな時にも揺るがない強くて真っ直ぐな心と、男性に劣らない大胆さを神様に認められたからです。
ヨブは今、あまりにも苦しいので、人生の空しさと短さを花と影にたとえています。知恵があり、学識が高くて名声のあった人も、その名前は永遠に残りません。悪人も善人も、金持ちも貧しい者も、結局は死にます。一生苦労してたくわえたものも、人が死んで一握りの土に帰ってしまえば、もう楽しめないから空しいだけです。 したがって、ヤコブ4:14に「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。」とあり、詩篇144:4に「人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」とあるのです。また、伝道者の書3:18には、人が神様を恐れず、その命令を守らないなら、獣にすぎないと書いてあります。 このようにすべてが空の空であることを体験したソロモン王は、晩年になって人生のまことの価値が何か深く悟って、徹底的に悔い改めます。それで、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:13~14)とあるのです。 神様は私たちのすべてのわざと隠れたことについて、善であれ悪であれ、必ずさばかれます。したがって、神様を恐れず、みことばを守って生きていないなら、いくらお金をたくさん儲けて、名誉や権力、知恵があっても、空の空なのです。結果は罪から来る報酬である死、地獄に落ちるしかないからです。 ヨブはこのような霊的な意味を知らないまま、人生は空しいと言っています。ヨブの言うとおり、人生は永遠の時間に比べれば日が短いです。しかし、霊的に見ると、神様を信じてみことばどおりに生きた人は、永遠のいのちを得て、天国で永遠に生きていきます。もちろん、神様を信じない人は地獄に落ちて、とこしえに苦しみながら生きていくことになります。 ヨブは、過去を考えてみれば幸せな時がたくさんあったのに、現在の苦しみのために過去の美しい思い出まで否定しています。信仰があるなら、たとえ今は試練に会っていても、過去に受けた祝福に感謝して、神様の答えを待ちながら未来を望まなければなりません。 そして、人生には心がかき乱されることでいっぱいだというのは、クリスチャンには合わない言葉です。聖霊を受けた神の子どもはいつも喜んでいて、楽しみがあふれます。一日過ぎれば、花婿なる主に会う日がそれだけ近づいて、熱心に働いたほど神の国と義が実現していくので、うれしくて楽しいのです。 私たちは花のようにパッと咲いては枯れていくのではなく、毎日、毎日、さらに新たになり、聖霊に満たされて、ますますたましいに幸いを得ていかなければなりません。第二コリント4:16に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあるとおり、ますます真理と反対のものである肉を捨てて、御霊の人へと変えられていかなければならないのです。 第一ペテロ1:24~25に「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』 とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」とあるように、永遠の天国に希望を置いて、主のみことばどおりに生きていかなければなりません。 このような生き方をすれば、健康の祝福はもちろん、いろいろな事故や危険から守られて、家庭や事業の場、職場において、入るときも出て行くときも祝福されるようになります。世で成功するだけでなく、天国でも永遠のいのちの祝福を受けるのです。 しかし、ヨブは御霊の人ではなく肉の人なので、このような神様の心を知らなかったのです。それで、考えることも言うことも肉的な姿でした。 2. 神様を否定して信仰のみわざを遮ってしまうヨブ 「あなたはこのような者にさえ、あなたの目を開き、私をご自身とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」(ヨブ14:3~4) ヨブの言うとおり、神様が目を開き、ヨブを見ておられるということは合っていますが、神様はさばこうとされるのではありません。神様がヨブを連れて行ってさばかれたのではなく、ヨブが自分からさばきを招いているのです。 神様は人の子らを愛しておられるので、炎のような御目で見ておられます。私たちを救おうと、また罪から立ち返って聖められて神様の愛される子どもにするために探っておられます。 ところが、ヨブは先祖から聞いて力ある神様は漠然と知っていただけで、愛の神様については知らなかったので、勝手に誤解してさばいています。 また、ヨブは「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」と決めつけています。これは神様の力を否認して、神様を無視する言葉です。ヨブの高ぶりがうかがえる言葉で、なおさら正しくありません。 私たちの神様はどんなことでもおできになります。私たちがイエス・キリストを受け入れる前は、闇の子どもであり、汚れの中にいました。しかし、イエス・キリストを信じる者に、神様は聖霊を賜物として遣わしてくださり、汚れをきよめて、神様の子どもにしてくださいました。ヨブはこのような神様を否定して、信仰のみわざを遮ってしまっています。 3. 神様がすべてを勝手に定めておかれたと抗議するヨブ 「もし、彼の日数が限られ、その月の数もあなたが決めておられ、越えることのできない限界を、あなたが定めておられるなら、彼から目をそらして、かまわないでください。そうすれば、彼は日雇い人のように自分の日を楽しむでしょう。」(ヨブ14:5~6) ヨブの考えでは、神様は予定しておいて、人を生かしも殺しもするなど、思いのままにする方でした。したがって、ヨブも神様が予定しておいて、このように苦しめたと決めつけているのです。そして「神様、私は女から生まれたつまらない者だから、もう構わないでください。そうすれば、何の自由もなく、言われたことだけする日雇い人のように人生を終えるでしょうから、その方が楽なのです」と言っているのです。 日雇い人とは、その日その日労働の代価として賃金をもらって生きていく人です。決められた時間は雇い主が言うとおりに働かなければならないので、自由がありません。 しかし、神様は人間を日雇い人のようには造られませんでした。自由意志を下さったので、人は自分の意志によって選択して生きていくのです。神様が強制的に人の心を動かすのではなく、人が自由意志をもって善を行ったり、反対に悪を行ったり、また愛したり、ねたんだりするのです。人は、このようなすべての行いに対するさばきをそのまま刈り取るようになります。 私たちが神様のみことばを誤解すると、ヨブのように、自分が間違っていても全部神様のせいにしてしまいます。 たとえば、自分の実力が足りなくて大学に落ちたのに、まるで神様が落としたかのように思ったり、落ちるのが神様のみこころだと言って、責任を神様に転嫁する場合があります。このような心ならば、心から感謝が出てこないし、自分の過ちを発見することもできないのです。 生きている間に試練に会うなら、必ず理由があります。苦しみに会うのも、正確な公義の法則に従って必然的に起こることなのです。真理に照らしてみれば、神様がそのように仕向けたのではなく、人が神様のみことばに逆らうことをして、自分から招いた結果なのです。 霊的な人は、たとえ目の前の道が完全にふさがっていて、死の陰の谷を歩いているようでも、信仰の告白をして神様により頼みます。 たとえば、預言者ヨナはニネベに行きなさいと言われた神様のおことばに聞き従わないで、タルシシュに逃げました。激しい暴風の中、海に投げ込まれて大きな魚にのみ込まれました。この時、ヨナは絶望したのではなく、三日間神様の前に徹底的に悔い改めました。そして感謝の祈りをささげると(ヨナ2:9)、神様は大きい魚をつかさどってヨナを陸地に吐き出すようにされました。 このように感謝できない状況でも感謝すれば、神様の心が動かされるのです。これとは反対に、ヨブは恨みと不平をやめず、否定的な告白をして神様のみわざを遮ってしまっています。 ところで、ヨブは予定の神様だと誤解しているのが問題であって、神様のみことばどおりに生きていこうとする心は潔白で正しかったのです。それで、神様は試練に会わせて、ヨブの誤解を悟らせて正そうとしておられるのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブはこの地上での人生で終わりだと思っていたので、天国への希望がありませんでした。しかし、私たちはこの地上での人生はつかの間であり、永遠の天国があることを知っているので、希望を持って毎日信仰によって歩めます。たとえ試練や患難がやって来ても、信仰で耐え忍び、感謝して神様のみこころを探そうとします。 この地上に希望を置いて生きている人々には、一日一日がますます死に近づく時間ですが、天国への希望のある私たちには、一日が過ぎれば、それだけ父なる神様にお目にかかる日が近くなるのです。 したがって、新しいエルサレムへの希望をもって、いつも喜んでいて、すべての事について感謝し、毎日信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。
「ヨブ記講解(31)- 霊的知識の重要性」
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記13:20~28
きょうは霊的に無知なので神様に抗議するヨブの姿を見て、霊的知識がどれほど重要なのか伝えます。
1. 霊的知識がなくて神様におびえるヨブ
「ただ二つの事を私にしないでください。そうすれば、私は御顔を避けて隠れません。あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで私をおびえさせないでください。」(ヨブ13:20~21)
前回でヨブは、自分と論じる資格があるような人はいないと言いました。ですから、今は神様と自由に論じ合えるように、二つの事をしないでくださいとお願いをしています。一つは神様の手を自分の上から遠ざけてくださいということで、もう一つは神様の恐ろしさで自分をおびえさせないでくださいということです。神様がもし手を出さないで、その恐ろしさでおびえさせなければ、神様の前に訴えて問い詰めることがたくさんある、ということです。
ヨブは試練に会う前も神様におびえていたので(ヨブ3:25)、死より大きい苦しみの中にある今は、なおさらおびえるしかありません。これは、自分で自分は正しい人だと思っていたし、霊的な知識がなく、真理について間違って知っていたからです。自分に霊・たましい・肉を下さった父であり、愛と公義によって治める神様なのに、神様についてよくわからないからおびえるのです。
ヨブは正しい自分に何の理由もなく試練を与えた神様だと誤解しているので、もし神様の許可なしに言いたいことを全部言ってしまえば、さらに苦しめられるのではないかと怖がっています。もし言いたいことを全部言えるようにされるなら、ヨブは今までよりもっと激しい言葉をぶちまけるでしょう。
私たちが心から神様を愛するなら、どんな試練や患難に会っても、つぶやいて神様を悲しめたりしません。不満をぶちまけて腹を立てるからといって、問題が解決されるのでもなく、かえって神様の前に罪の壁を作って、敵である悪魔・サタンにあざけられるようになるのです。 かといって、無理に我慢するのも正しいことではありません。バネをぎゅっと押さえておいてから手を離せば、突然はね上がります。このように、悪を押さえて我慢していると、いつかは爆発するものです。最初から我慢することがないように、心を善に、愛に昇華させていかなければなりません。 また、天国への希望をもって耐え忍ばなければなりません。私たちの国籍は天にあって(ピリピ3:20)、やがて主が来られると、涙も悲しみもない天国で言葉にできない栄光と幸せを永遠に味わうでしょう。これを信じるならば、たとえこの地上で苦しいことがあっても、信仰によって打ち勝ち、喜んで走って行くことができるのです。 2. 神様に抗議するヨブ 「呼んでください。私は答えます。あるいは、私に言わせ、あなたが私に答えてください。私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。」(ヨブ13:22~23) 神様が自分をおびえさせないようにしてから「ヨブ」と呼ばれれば、私は答えます。その次は神様が言いたいことを言ってください、という意味です。神様のお許しさえあれば「なぜ悪者は栄えさせて、正しい私にはこのように苦しみを受けさせるのですか」と大胆に問い詰めるつもりだと言っているのです。 そして、ヨブは「いくら調べても私には不義も罪もないのに、どうしてこんなに厳しく懲らしめられるのですか」と抗議します。 聖徒の皆さんの中には、自分の過ちで苦しみに会ったのに「神様、なぜ私にこのような苦しみを与えるのですか。なぜつまずかせるのですか」と問い詰めるようなことがあってはいけないでしょう。 ある人は自分では誠実に生きてきたと思っているのに、問題が解決されなかっ