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霊の糧

ヨブ記講解メッセージ
「ヨブという実在の人物を通して、神様が私たちの人生を記録してくださいました。」
「ヨブ記講解61-赦しの神様」(上)
 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:15~16

前回はエリファズがヨブに言っている言葉を聞きながら、霊の信仰と肉の信仰について説明しました。ヨブの友達は神様を見つけた体験がないし、霊の信仰がなかったので、神様を遠くにおられる方だと思いました。しかし、霊の信仰のある人は、神様はいつもそばにおられる方だと信じているから、全てのことで神様に頼り、答えと祝福を受けるのです。

聖書を読むと霊の信仰を褒められた人々が出てきます。代表的な例でマタイ8章に出てくる百人隊長があげられます。ある日、ローマの百人隊長の一人がイエス様にしもべの中風を治してくださいとお願いしました。イエス様は行って治してあげようと言われました。しかし彼は「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべの病は治ります。」と信仰の告白をしました。イエス様が行って按手してくださらなくても、ここでいやされなさいとお言葉をくだされば、治るというのです。これはイエス様には時間空間を超える力があること、何でも知っておられ、何でもおできになる方だと信じるからです。イエス様は彼に、「私はイスラエルのうちの誰にもこのような信仰を見たことがありません。」とほめてくださいました。そしてあなたの信じた通りになるようにと言われたら、ちょうどその時そのしもべはいやされました。

このように真実な信仰、霊の信仰を持っていれば、神様は喜ばれ答えと祝福をくださいます。悪はどんな悪でも避けて、真心と全き信仰を持つようになると、求めれば何でも答えを受けるし、神様はいつ何が必要なのかを知って、前もって備えてくださいます。今日のメッセージを聞いて、自分を発見するだけではなく、変化の実を結び、信仰が成長する皆さんになりますように。本文を読むとエリファズは、自分が聞いた昔の人々の出来事を例えにして、ヨブを悟らせようとしています。皆さんもメッセージを聞きながら、聖書に書いてある出来事を思い出してみてください

ヨブ記22:15-16です
あなたは悪人が歩いたあの昔からの道を守っていこうとするのか。彼らは時がまだ来ないうちに取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。(ヨブ記22:15-16)

エリファズはヨブに、あなたは悪人が歩いたあの昔からの道を守っていこうとするのかと言っています。ここで悪人が歩いた道とは何でしょうか?自分の利益によって、神様に仕えていたのに移り変わってしまう人の行いです。悪人は、ああしたりこうしたりして移り変わる姿がありますね。神様の御業を目で見て聞いたのに、自分の利益に合わせて、自分の利益を求めていくのです。例えばエジブトから出たイスラルの民は、神様の驚くべき力の業を見た時は感謝していたのですが、自分の考えや利益に合わなければ、すぐ呟いて嘆いてモーセに立ち向かいました。彼らは別れた葦の海の中を歩いて渡り、追いかけて来たエジプトの軍隊から解放された時、どれほど喜びましたか。女性たちはタンバリンを手にして踊りました。民全体が賛美を捧げました。しかしこれはしばらくだったのです。その後民は少しだけ苦しみにあっても、呟いて嘆いてモーセを殺そうともしました。神の力の技を数え切れないほど見たのに、モーセが山に十戒を受けるために行った間、民は子牛の形で偶像を造って拝んで、神様の御怒りをかいました。エリファズはヨブの姿がこのような人々と同じだと例えて言っているのです。

 

なぜならヨブは、以前神様を恐れて神様に仕えている人だったのですが、今は神様を悪い方、公義を曲げる方だと言いながら、呟いているからです。だからヨブあなたは一時神様に仕えていたけれど、今は神様に対して呟いて不平を言っていて、悪人の道を歩いているのではないかと言っているのです。これはヨブの信仰が肉の信仰であることを物語っています。ヨブは神様について、知識としては聞いて知っていて仕えていたのですが、神様を見つけた体験がなかったので、試練がやってきたら、信仰の現住所が明らかにされました。教会の試練の時、私たちもそうだったのではありませんか?自分の信仰がどのくらいあったのか、霊の信仰だったのか、肉の信仰だったのかが発見されたのです。自分を顧みて発見することはいいのですが、他の人を見て、ああだこうだとさばいてはいけないでしょう。

 

しかしエリファズは今ヨブを見て、ヨブには肉の信仰があったと、このように責めて決めつけてさばいているのです。ヨブは悪人が歩いた道を同じように歩いていると責めているのです。しかしそれはヨブのうわべだけを見て裁いているだけです。ヨブの心の底は分からないのです。ヨブは自分は違うと言っていました。そして神様の御目にも、エリファズが裁いてはいるけれど、ヨブの信仰は肉の信仰だったのです。だからこういう試練にあって、自分自身の姿を発見するようになるのです。だから試練は必要なのです。皆さんも信仰生活をしてきた、自分の道を顧みてください。聖霊に満たされていた時は、信仰の岩の上に立って御霊の歩みに近づいているようだったのに、試練にあってみたら、そうでなかったのを悟ったのではありませんか。ああ私の信仰はこれしかなかったのかと思うようになったでしょう。

それは祝福です。自分を顧みて自分が低くなって、神様の前で感謝しながら、自分の欠けているところを満たしていきながら、信仰が成長するためにもっと努力するようになったから、希望を持つようになったから、感謝のことでしょう。しかしエリファズのように、人のことを責めたりさばいてはいけません。あの人は信仰の岩の上に立ったと言われたけれど、実際教会の試練の時見てみたら、教会を離れてしまったじゃないかと思って、裁いたり罪に定めてはいけないのです。他の人のことで気になって、あれこれ決めつけたり、そのため悩んだりするのではなくて、自分を顧みて神様の御心はどこにあるのか、どうすれば信仰が成長するようにできるのかと、思えばいいでしょう。そして、人は自分が目で見ているところだけではなくいろんな面があるし、その心は神様だけが知っておられます。ですから私たちは、むやみに人をさばいてはいけません。私たちはヨブのように、肉の信仰ではないのか、また悪人が歩いた道を歩んだのではないか、顧みますように。 皆さんは神様が生きておられることを信じていますか?心で仕えていますか?ほとんどは、「そうです。」と答えるでしょうが、過去の姿はどうでしょう?初めに伝道されて、御言葉を聞いて聖書を読んで、神の力の業、証を聞いたでしょうが、その時すぐそれが信じられて、神様を愛することができたでしょうか?そうではなかったでしょう。ただ聞いて頭では知っているけれど、自分が体験したことがないから、それほど心が熱くなかったでしょう。もちろん初心の者の中で聖霊に満たされて、神様を愛していると告白する人もいますが、時間が経ってみれば、その愛が冷めてしまう場合がよくあります。答えを受けて祝福されている時は神様が素晴らし方で喜んで感謝しますが、試練にあったら信仰生活が辛く思うようになって、きついと感じるようになります。ですから試練を通して神様を見つける体験が必要なのです。 今なぜ初心者の時を振り返ってみましょうと言っているのでしょうか?ヨブにはまだ神様を直接見つけた体験がないから、今このように欠けたところが見えているのです。私たちにもそういう過程があったのではありませんか?神の力が現れている教会に通っていて、いろんな証を聞いてみても、自分にそういう体験がない時は、試練の時移り変わってしまう姿もあるでしょう。ヨブのような姿もあるでしょう。そして初めの愛で熱くなって初心の者の時、聖霊に満たされているとしても、それが完全な姿ではない場合がよくあります。ただ心が熱くて熱心になるだけではなく、心の割礼をして信仰が成長しなければならないのです。そういう過程が必要なのです。イエス・キリストを救い主として受け入れて、天国と地獄を知って神様を信じているならば、初心の者は信仰を持つようになりますね。そして恵みを受けていきます。それで祈れば神様が答えてくださるからどれほど嬉しいでしょうか。それで自分には立派な信仰があるように錯覚する場合もあります。 その信仰はまだ完全な信仰ではありません。試練にあったり苦しみにあってみてこそ、そういう信仰が本物なのかがチェックできるのです。変わらない信仰を持つためには、心を割礼して心にある悪を捨てなければなりません。そして神様への愛が移り変わってはいけないのです。試練の時も苦しみにあっても、愛の神様良いものをくださる神様を、変わらずに信じて感謝して喜ぶ時、それが真の信仰と言えるのです。そのために試練という過程は必要なのです。試練にあって問題にぶつかった時、信仰が足りないなら、また神様を見つける体験がないなら、揺らいだりします。それでもその前聞いて見た神の力があり、御言葉がありますね。それを思い出して、何としてでも神様に頼って、そして前聞いたメッセージを思い出して、その通りに行おうと努力しながら、祈りながら行っていけば神様が問題を解決してくださるでしょう。 主のしもべに相談して、それでそれを聞き入れて、自分なりに聞き従おうとして行って祈ってみます。そしたら神様が問題を解決してくださるのです。これが体験ですね。だからただ聞いて知っている神様ではなくて、自分が直接見つけた神様を体験するのです。人は周りの人がいろんな証をしても、それを聞く時はそうなのだ、神様は全知全能な方なのだとして認めているつもりでも、いざとなるとそうでない場合があります。病気が癒された人の証を聞けば、私もそうできるだろうと思います。しかし実際自分が病気になったら、神様に頼るよりは、薬を飲むこと病院に行くことが先になってしまう場合もあります。 例えば風邪をひいた時、前だったらすぐ薬を飲むでしょうが、聞いたメッセージがあるし証を聞いたことがあるから、私も今回神様に祈って癒される体験をしたいと思って、自分なりにチャレンジをしてみました。それで神様に祈って信仰で薬を飲んでなかったら、次の日、朝見たらすっかり治っているのです。そういう時感動しますね。まあ本当に神様は生きておられるのですよねと。大きい病気、重い病気、癌が癒された証はたくさん聞いたのですが、このように小さい風邪が癒されたことを自分で体験した時感動して、神様は生きておられますねと悟るようになります。だからそういう試練患難苦しみに遭う過程が必要なのです。ただ平安に信仰生活をしているだけでは自分に体験がないから、神様への信仰も成長できないのです。 だからこういう試練を通してさらに神様を信じるようになり、体験を通して神様の愛も感じるようになります。それで自分で体験して、神様の愛と恵みを肌で感じるようになって悟るようになるから、霊の信仰が持てるのです。それで信仰が成長するのです。神様を見つける体験が大切なのです。そうやっていけば、次にはそのくらいの試練にあったら心が揺らいだりしませんね。前だったらちょっとすぐ落ち込んでしまったり、そうでなければ、ちょっと文句を言ったり心が変わってしまったりしたのですが、体験してみて、自分が信仰で勝利したことがあるなら、それはだんだんなくなるのです。それで試練を通して信仰が成長していくのです。そのように成長していけば、試練の前でもつまずくことがない、大きい信仰も所有できるようになります。これは1回2回試練の過程を体験したことでできるものではありません。段階があってその次の段階があり、このようにだんだん試練も大きくなって、それを乗り越えていけば信仰も成長するのです。 信仰生活に熱心で、ある程度信仰が成長した人も同じです。ことがうまくいって平安な時はいつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、全てのことについて感謝しなさいという御言葉を、自分が守っていると思います。しかしある時から事がうまくいかないし、問題が起こったりすれば肉の思いを巡らしたりもします。その時喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさいという言葉が自分の中になかったということを発見するようになります。私の信仰は霊の信仰ではなかったのだ。足りなかったのだと思います。それでなぜ自分が試練に合うようになったのかを悟るようになります。このような過程を通して、悪を捨てて御言葉通りに行うとき、霊の信仰は成長するし、神様を見つける体験を通して、神様への愛もだんだん深まるのです。 皆さん、信仰は平安な時与えられるものではありません。成長するものではありません。私たちの中にある悪を捨てる分、信仰も成長するのです。悪を捨てるためには試練が必要ですね。周りの人に憎まれたり誤解されたりすることがあるかもしれません。厳しい環境に置かれるかもしれません。その時自分が感謝しているのか、喜んでいるのか、祈っているのかがチェックできるのです。それで私には喜びがなかった、感謝できなかったというのを悟るようになります。それで感謝して喜ぶために、もっと努力するようになります。それで自分を発見します。私は事がうまくいくときは感謝していたのに、問題にあったらぶつかったら感謝できない人なのだ。私の信仰はこのくらいの段階なのだと、自分で分かるようになりますね。それで神様は喜びなさいと言われたのに、聞き従っていなかったのだと分かるようになります。うわべでは熱心に奉仕もしていて、いろいろ使命を果たしているけれど、心の中の割礼はしていなかったのです。それで試練にあったり、周りの人によっていろいろ誤解されたりして、自分の心が練られる時自分を発見するようになります。 その時落ち込んだり、また喜びがなくなったりするのではなくて、その時でこそもっと喜んで自分を発見したから、神様に感謝しながら自分の中にある悪を捨てていけばいいのです。その過程が信仰生活であり、それを通して信仰が成長するのです。ヨブもそうでした。平安な時は信仰も素晴らしく見えたし、行いでは潔白で正しかったし、神様も恐れていました。生贄もちゃんと捧げていました。しかし試練にあって苦しみにあったら、心の中に潜んでいた悪が表に現れるようになります。皆さん焚き木があっても火をつけなければ燃えませんね。同じように心にある悪は試練患難にあった時、それが表に現れるようになって発見することができるのです。それを捨てなければなりません。 皆さんにはこういうヨブのような試練がなくても、潔めの福音があるのではありませんか?神の力の技を目で見ているでしょう。だからこれほどの厳しい試練に合わなくても、変えられる環境に置かれているのです。命の御言葉を聞いて潔めの言葉を聞いているのですが、でもそれに聞き従わないでいるならば、何の役にも立たないでしょう。いつも喜んでいなさいという御言葉を聞いたとしても、試練にあっていろいろ自分の姿を見てみたら、全然喜びはないのです。悲しんで悩んで思い患っているのです。そういう自分、愚かな自分の姿を発見することが祝福です。だからそういう時でこそ、感謝しなければならないのです。それで自分を一つ一つ正確に見つめて悟ることができます。そういう人は速やかに変えられるでしょう。私にもこういう悪があるのだ、こういうところもあるんだ、こういう欠けているところ弱いところもあるんだと発見できます。 ところで、今日大礼拝の時も聞いたのですが、ある人はよくイライラして怒っているのですが、周りの人にそれについて言われました。でもその人は自分はやってないというのです。自分にイライラがあるということを認めないのです。そうしてはいけないでしょう。低くなって自分のそういう姿を認めて、変えられようと努力しなければなりません。そのために試練という過程が必要なのです。だから私たちは、試練の時は感謝しながら速やかに悪を捨てて、信仰がすくすく成長したらいいでしょう。ヨブは知識的な信仰だったのですが、それが霊の信仰になるようにと神様は練ってくださったのです。それで神様を見つけて体験して、神様に霊的に仕えるように導いてくださったのです。皆さん、霊の信仰には必ず行いが伴います。もし信仰があると言いながら、信仰がない人のように行っているなら、それは変えられる前のヨブの姿と同じでしょう。悪人の道を歩いているのです。 第一ヨハネ1:6-7です。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめます。」とあります。ですから、光である神様の御言葉通りに生きていなければ、神様を信じますと言っても、それは真実ではないし、肉の信仰に過ぎないのです。ですから私たちは平安な時は喜んでいたのに、試練にあったらすぐ移り変わる、行いのない悪人の道を歩むものではなくて、迫害を受けても信仰を守り、喜びと感謝を失わないで、変わらずに神様を愛する霊の信仰を持つ人の道を歩むべきでしょう。

「ヨブ記講解60-肉の信仰と霊の信仰」(下)

 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:10~14

続くエリファズはヨブ記22:10の中でこう言います。


それでわながあなたを取り巻き、恐れが、にわかにあなたを脅かす。(ヨブ記22:10)

罠が取り巻くとは、人々といろいろなことで関係がもつれているということです。エリファズはヨブが大きな悪を行ったから、人々と関係が悪くなったし恐れがあると言っているのです。今ヨブは実は大きな悪を行ったのでもないでしょう。また人々と関係がもつれていたのでもありません。それなのにエリファズは、このように表現しているのです。ヨブがこのように苦しみを受けている姿を見て、友達はヨブに何とかアドバイスをしてあげたのに、ヨブが受け入れないで言い争うようになったから、だんだん腹が立って、ヨブについてこのように悪く厳しく言っているのです。感情的になってしまうのです。だからこんなふうに言っているのです。

悪を行って悪いことをしたから、人との関係、人間関係でもつれてしまうのだというのです。私たちはまず自分を低くして、仕えて犠牲にして善を行っていけば、神様はその関係も回復してくださるでしょう。エリファズは、ヨブが悪を行う姿を自分で見たのでもないし、思い込みで憶測でこんなふうに言っています。ところで罠があなたを取り巻いたとか、恐れがにわかに脅かすとか、具体的に表現していますが、エリファズは自分がそういう経験があるからです。あることについて体験をしたことがある人は、その感じをリアルに話せるでしょう。つまりエリファズも、過去自分が悪を行って、罠に巻き込まれたり恐れを感じたことがあるから、ヨブもそうだろうと思って決めつけて、このように皮肉を言っているのです。またエリファズは今もそのような悪を持っているから、自分の憶測でヨブを罪に定めて攻め立てているのです。このように人を裁く人は、自分にも裁かれるような悪があるということを悟らなければなりません。

皆さん色眼鏡をかけて見るとどうなりますか?赤の眼鏡ならば、すべてが赤く見えますね。だから、自分の中にこういう悪があるから、相手もそうだろうと思うのです。よく嘘をついている人ならば、周りの人もみんな嘘をついているだろうと思うでしょう。でも、心が純粋で嘘をついたことがない人は、相手が嘘をついても嘘だと思わないのです。同じように、自分の中に悪があって人を裁く人だから、相手にも悪があって人を裁いているだろうと思うのです。エリファズがそうでした。こういう人は神様に対しても憶測でさばいたりするのです。決めつけてしまって恐ろしい神様だと思うのです。

ヤコブ1:13「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。神様は光そのものであり傷もしみもない聖なる方だから、敵である悪魔サタンが神様を訴えることも、試すこともできません。そして神様は、ご自分で人を誘惑される方ではありません。ヤコブ1:14-15に、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。神様は人を誘惑したり試練に会わせるのではなくて、人が自分の欲に引かれて、おびき寄せられて闇にとどまっているから、敵である悪魔サタンに誘惑されて苦しみに会うのです。

こういうとある人は、「なぜ神様がアブラハムにはイサクを捧げなさいという試みを与えたのですか?」と聞くかもしれません。しかしこれは敵である悪魔サタンがもたらす試練とは全然違うケースです。敵である悪魔がもたらす試練は、人を苦しめて死に引いていこうとするのです。しかし神様が練ってくださる場合は、愛する子供に大きい祝福を与えるためにテストされることです。そしてその人がそのテストに通れなかったとしても、それによって苦しみを受けるのではなくて、神様が避ける道を開いてくださるのです。このような神様の心を知らない人は、神様を誤解して、人を裁いてしまうのです。今、エリファズがそのようにしているのです。
 

もし、心に悪がなく善だけあるなら、人のちりを見ようとしないでしょう。しかも裁いたり罪に定めることはできません。ヨブはエリファズが言ったように、悪くて神様に呪われたのではないのです。ところで実際に悪い人は、いろんな罠に取り巻かれたり恐れに脅かされるしかありません。善であれ悪であれ、それぞれの人が行った通りに蒔いた通りに刈り取るからです。この地上でもその実を刈り取るだけでなく、ヨハネ5:29に「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」とあるように、後の世で永遠の命に入るか永遠の刑罰に入るのかが違うのです。続く本文ヨブ記22:11です。 あるいは、やみがあって、あなたは見ることもできず、みなぎる水があなたをおおう。 (ヨブ記22:11) ここで闇とは、心の中にある闇を言います。一寸先も見えない絶望的な状態、希望もないし、将来もない状態です。ヨブの友達は、今のヨブを見たら、希望もないし将来も期待できない状態だから、このように表現しました。そしてみなぎる水があなたを覆うと言っています。これは大水が氾濫して家屋と農作物を荒らすように、ヨブも子どもと財産、健康まで荒らされてしまい、これからも続く苦しみを受けるだろうと言っているのです。ヨブが大きい悪を行ったから、このように厳しい災いにあうのは当然だとエリファズは言っているのです。これが罪に定めることですね。皆さん、ある人が今、試練にあっているからといって、あの人は罪を犯したから、悪を行ったから試練にあっていると、むやみに罪に定めてはいけません。エリファズは自分の考えに合わないからといって、ヨブをこのように激しく追い立てているのです。私たちは自分の悪のため人を非難して裁いたり、相手につまずきを与えることは絶対あってはいけません。 続くヨブ記22:12です。 神は天の高きにおられるではないか。見よ、星の頂を。それは何と高いことか。 (ヨブ記22:12) これはエリファズが、神様の偉大な姿を表現するのではありません。エリファズにとって、神様はただ伝えて聞いた知識による想像の中の存在の神でした。だから神様は天の高きに遠く星の向こうにおられると表現しているのです。エリファズは神様を見つけた体験もないし、心から仕える人でもなかったのがわかります。今日のメッセージのタイトルは「霊の信仰、肉の信仰」ですが、エリファズは肉の信仰だったことがわかります。皆さんはどんな信仰を持っているのか、顧みますように。神様に対してどんなふうに考えているのかです。エリファズは神様を心から信じるのではなくて、ただ知識として知っているだけでした。 私たちにもそういう姿があるかもしれません。教会には通っていてメッセージも聞いているのですが、それが心で信じられないのです。そしていろんな人の証を聞いているのですが、それが信じられないのです。家族に強いられて礼拝はしているけれど、頭では聞いて知っているけれど、心の中でそれを受け入れないし、信じられない人もいます。中高生の皆さん、若者の皆さん、もしかしてそういう信仰の状態ならば、神様を見つける体験はできないでしょう。 ところがヨブの場合はエリファズとは違います。神様を信じて仕えていたし、誠実に生贄も捧げる人でした。しかし神様を見つける体験はなかったので、神様が出会ってくださるために、試練という過程が必要だったのです。それを通して、肉の信仰が霊の信仰に変わるように神様はしてくださったのです。神様の愛でした。同じようにヨブもヨブの友達も、肉の信仰を持っていると言えるでしょう。でも、違うのです。ヨブの場合は、それでも神様を信じて仕えて、生贄も捧げていました。しかし、エリファズやヨブの友達は、神様について頭では知っていたけれど、信じてはいなかったし、仕えてもいなかったのです。神様を恐れてもいなかったのです。でもヨブは神様を信じていたし、恐れていました。先祖から聞いた神様を恐れていて、そして生贄を捧げていました。厳密に言えば肉の信仰ですが、霊の信仰に近い信仰だったのです。 私たちが言う信仰の量りで言うなら、信仰の三段階の岩の上は過ぎた状態だったでしょう。だから、ヨブとヨブの友達とでは、信仰の量りは全然違うのですね。何を見ればわかりますか?ヨブの行いを見ればわかります。神様を恐れて潔白に行っていたし、正しい行いをしていました。このようなヨブと友達と比べてみれば、友達にはこういう行いはなかったのです。だから違うのですね。信仰の4段階には入れなかったとしても、神様を信じて御言葉通りに行おうとしていたのです。皆さんにもこのような信仰の量りにいる方がいるでしょう。ヨブのその姿をこのように信仰の量りでも説明できるでしょう。まだ御霊の歩みには入っていなくても、肉の信仰ではありますが、でも霊の信仰に近いのですね。神様は、肉的な生贄はお受けになりません。ヨブが試練に会っている時、彼の心彼の口から出てくる話を聞いてみれば、ヨブの生贄は、肉的な生贄だったのがわかります。もどかしいことですね。 ヨブ記3:25-26に「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」とあります。これはヨブが神様に生贄を捧げなければ、もしかして呪われるのではないかという恐れを持って、仕えていたことがわかります。ヨブが神様を正しく知って霊的に仕えていたなら、こういうふうにも言わなかったでしょう。これは今日も同じです。もし神様を信じると言っていながら、試練がやってきた時、恐れたり喜びと感謝を失ってしまうなら、それは肉の信仰を持っているか、子供のような信仰に過ぎないということです。しかし神様を正しく知っていて霊的に仕えている人は、恐れないで愛す心で、御言葉に従うようになります。また、試練患難にあっても、神様の愛を心から信じているから、恐れたり、喜びとか平安を失うことはないのです。 第1ヨハネ4:18に、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを占め出します。」とあります。第1ヨハネ3:21-22には、「愛する者たち、もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。このような人々は、当然神様がお受けになる霊的な生贄、つまり日々の中でいつも神様を認めて、その御心通りに生きる生き方をするから、神様は祝福して応えてくださいます。神様はヨブともこういう愛の関係になってほしいと思ったから練ってくださったのです。それで彼が神様を見つけるようにしてくださったのです。それを通してヨブが霊の信仰を持つようにされたのです。 これを皆さんにもよく適用してください。教会の試練の過程が必要だったということを、心から告白して感謝しますように。私たちは牧者とともに信仰生活をして、驚くべき神の力の技を見ました。それで、神様が生きておられることは、当然信じていました。疑うことができない、多くの証拠があるからです。疑おうとしてもできないのです。人にはできない神の力が目の前で現れるから。だから、神様が生きておられることは疑いません。だから自分に信仰があると思っていますか?そうです。それも信仰です。でもそれは基礎的な信仰に過ぎないのです。それが霊の信仰ではないのです。見て信じる信仰だから。霊の信仰は神様を愛して御言葉に従う行いがあってこそ、霊の信仰に成長するのです。 このような行いがないまま、1年、2年、5年、10年、信仰生活をしているならどうでしょう。10年間、神の力ある業は現れていて、それを見ているから自分は信じていると思うけれど、実際、試練や患難にあうと、神様への信仰、信頼が揺らいでしまうのです。落ち込んでしまったり、不満を抱いたり、失望したり、心が変わったりするのです。それは、霊の信仰ではなく肉の信仰だったということを、証明しているのです。だから教会の試練の時も、そのような試練を通して自分の信仰がどうなのかをチェックすることができたと思います。ヨブの完全でない姿があって、神様はヨブが体験する霊の信仰を持ってほしいと思われたから、練ってくださったでしょう。私たちにも同じです。私たちが変わらない霊の信仰を持つようにしてくださるために、こういう試練の過程も必要なのです。 しかし私たちは自分がよくやっていると錯覚していました。霊の信仰を持っていると思っていました。なぜなら全体的な雰囲気はそうだったでしょう。牧者の空間の中で守られていたし、少し努力すれば神様が恵みを注いでくださって、聖霊に満たされて恵みに満たされて、世のものに目を向けないで天国に向かって、夢中になって走っていたからです。そして御言葉を聞きながら、祈りながら、自分の中の悪を発見して捨てようとするその過程がとても楽しかったのです。でもその信仰が本当に自分の信仰だったのかというと、そうではなかったのです。牧者の空間の中で、牧者が積んでくださった公義の上、それに支えられていたのです。 ヨブのケースとは違いますね。ヨブは本当に厳しい試練にあって、本当にどん底で神様を見つけたのですが、私たちは本当に大きい恵みを受けたのです。牧者はそれを代わりにしてくださったからです。私たちは、自分が本当に数えきれない日々に祈って断食しながら神様に切にすがって、それでいただいた信仰ではなかったのです。牧者はそれを代わりにしてくださって、私たちはその恩恵を受けていたのですね。ヨブのように厳しい試練が必要だったのですが、牧者はそれを代わりにしてくださったのです。だから私たちは、頭では自分が信じている霊の信仰があると思っていたのです。今の時代のクリスチャンを見てみるとどうでしょう。頭では神様を信じていると思います。教会にも通っています。でも霊の信仰がない場合はよくあります。私たちはどうでしょう。神様の前で、神様とどのくらい親しい関係だったのか考えてみますように。 元老牧師先生が公義を満たしてくださって、また数え切れない大きい神の力が目の前で現れているから、信じてはいたのです。でもそれは自分のものにはなっていなかったのではありませんか?あまりにも大きい恵みを、祝福を、自分はあまり苦労しなくてもいただけたから。それに本当に切に感謝していたのかとすれば、そうではなかったかもしれません。最近の子どもたちは、貧しさを経験したことがありませんね。貧しい人はいるかもしれませんが、でも昔のように本当に食べるものは全然ない、そういうことは経験したことがないと思います。私たちの時代でもおやつとかもなかったのですね。でも最近の子どもたちは、いくらでも食べられるのではありませんか。だからそういう子どもたちに、子どもたちが前の貧しかった時の話をすれば、聞いて頭ではそうだったのだと思うかもしれませんが、でも理解できないし、本当にそれをそのまま感じることもできないのです。親がご飯、食事を大事にしなさいとか、残してはいけないよと言いながら、いくら言っても子供には自分が体験したことがないからわからないのです。 今日大礼拝の時も、エデンの園に住んでいたアダムのことを聞いたでしょう。そのような死を、悲しみとか苦しみを経験したことがないから、幸せも知らなかったし、神様の愛も知らなかったし、わからなかったのですね。私たちも牧者とともにいたときは、牧者の空間の中で本当に守られていたのです。それで自分がある程度変えられたと、錯覚していたかもしれません。しかし教会の試練の時、実際自分の信仰の現住所を発見したと思います。神様は生きておられます。私たちの目に見えなくても、神様はどこにもおられる方です。そして神様は愛です。自分には感じられないかもしれませんが、神様の愛はどういうものなのかを、このヨブ記講解を聞きながらも悟りますように。自分が霊の信仰ではなくて、肉の信仰を持っていたのだと、このように自分を認めて、自分を発見していけば変えられるでしょう。 エリファズとヨブの信仰の違い、そしてヨブの場合は、行為的に見るところでは、神様を恐れていて潔白で正しかったのですが、それは本物ではなかった、し完全になるためには、そういう試練の過程が必要だったということも理解してください。しかしヨブの友達は神様に仕えていたのでもないし、神様を見つけたこともないから、神様を遠く感じていました。それで本文でエリファズが言っているように、神様は天の高いところにおられる方、星の頂におられる方だと遠く感じていました。漠然と想像の中で存在する方のように感じていました。それで神は天の高きにおられるとか言っていたのです。その後エリファズはこう言いました。ヨブ記22:13-14です。 あなたは言う。「神に何が分かろうか。黒雲を通してさばくことができようか。濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ」と。 (ヨブ記22:13-14) ヨブが、神様は自分の苦しみを分からないと言っていたから、エリファズがそうでないと言っているのです。神様は星も創造された方だから、星よりも高い方ではないか。だから、上から下を全部見下ろしておられるのではないか。それなのにあなたは愚かなことに、神に何がわかろうか、見ることはできないとか言っているのか。神様についてあなたは誤解しているのだ。正しくないことを言っているのだと言っているのです。もしヨブが言ったように、神様がヨブのことをわからないとか、また裁きが正しくないならば、不能な神様になるでしょう。しかし神様はそうではありません。宇宙万物を創造して治める方であり、時空間を越えて何でも知っておられ、何でもできる方です。 だからといってエリファズが考えているように、神様は実際に星よりも高いところに行って、高い山の頂から下を見下ろすように万物を見ておれるのではありません。ヨブとヨブの友達は神様について霊的に知らなかったし、自分たちの思いの限界の中で、このように正しくない表現をしていました。今日も神様をよく知らない人々は、患難にあった時や天災事変が起きた時、神様はひどいとか、神様は薄情だとか言います。これは神様には愛がないという表現であり、神様は私たちの苦しみをわからないというふうに言っているのです。信仰がない初心の者や神様を知らない世の人々が言うことでしょう。信仰のある神の子供たちは、このように否定的なことを言ったり、神様を悲しませるようなことは決して言ってはいけません。祈りに答えがないからといって、神様がおられないのではありません。神様は薄情な方でもないし、私たちのことを分からないのでもありません。 自分に罪の壁があるかもしれないし、また答えの時ではないかもしれないし、より良いものを下さるためでもあるでしょう。神様の思いは私たちの思いと異なります。私たちよりも高いです。神様は霊でありどこにもおられる方です。心に抱くなら、時間と空間を超えてどんなところにも行くことができます。ですから神様は広い宇宙の隅々までも全部治めることができる方です。エレミヤ23:24に「人が隠れたところに身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げー天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げー」とあります。神様の御目はどこででも悪人と善人を探っておられます。神様は天にも地にも満ちておられるので、造られたもので、神の前で隠れを仰せるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。 しかし、肉の信仰、知識的な信仰を持っている人は、エリファズのように、濃い雲が神を覆っているので、神は見ることができないと思っています。それで思いのまま罪を犯してもいいと思うのです。しかし神様は創造主であり、私たちが雲に覆われているからといって、私たちを見ることができないのではありません。私たちの一挙手一投足も心も思いも全部知っておられます。髪の毛一本も数えておられるし、子どもたちを炎の目で守ってくださる方です。そして全知全能である方で、神様の御心にかなう人には答えをくださいます。ですから霊の信仰を所有して、全知全能である神様を完全に信じて御心通りに行って、求めるものは何でも答えを受ける、幸いな信仰生活をしますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、感謝いたします。今日、エリファズは自分の憶測で、ヨブを決めつけて、裁いて、非難しています。前はヨブを褒めていたのですが、このように言い争って、感情的になって、今はヨブに対して、妬みがあったのを表して、ヨブを非難して、罪に定めている姿を見ました。このような肉の人の姿が自分の姿ではないか、顧みられるようにしてください。そしてエリファズは、神様は天の高きにおられる、遠くおられる方だと言って、神様を遠く感じていました。私たちはそうではないのか顧みられるようにしてください。肉の信仰、知識的な信仰を持っていては、神様を信じていると言っていても、試練や患難にあったら喜びもなくなって感謝もなくなってしまいます。そのような移り変わる信仰ではなく、変わらない霊の信仰を持つようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたしますアーメン

「ヨブ記講解60-肉の信仰と霊の信仰」(上)

 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:6~9

愛する皆さん、元老牧師先生は1989年このメッセージを伝えるとき、こう言われました。ヨブ記は神様が人の心を続けて解剖してくださる御言葉なので、祈りの量が少なくてはメッセージを伝えることはできないと。ヨブ記は元老牧師先生が多くの祈りを積んで聖霊に満たされて動かされて解き明かされたので、皆さんはこのメッセージを聞きながら、まるで個人相談を受けているようだと表現する方がいます。メッセージを聞いて自分を発見する恵みが臨むからです。人は自分の心にどんな悪があるのかよくわからない場合があります。特に高ぶりのように、本性の中の深いところに根をおろしている隠されている罪の性質は、自分では発見できない時があります。しかし、人々の心を探り、思いを調べる神様は、人の心に潜んでいる罪の性質でも全部知っておられます。それで御言葉を通して深い悪まで発見するようにして、完全に聖められるように導いてくださるのです。

人の力では発見することも捨てることも難しい罪の性質も、鋭い両刃の剣のような御言葉で、聖霊の力によって刺し通してくだされば、罪を捨てることができます。今日もメッセージを聞いて自分を発見して悟る恵みが臨み、変えられて命を得る皆さんになりますように。私たちの心の深くに潜んでいる罪悪が、ヨブのように厳しく練られて発見される場合もあります。そのような厳しい試練の過程が必要な時もあります。それがなければ悟ることができないこともありますが、ヨブ記講解というメッセージを聞きながら、このようなメッセージを聞いて、ヨブとヨブの友達の例を聞きながら、例えを聞きながら、自分を発見することができるのです。

そしてこのメッセージを聞きながら、自分の日常生活に適用することもできますね。家族の中での人間関係、会社の中での人間関係、教会の聖徒の間での人間関係を、このメッセージを聞きながら代入してみれば、自分の深いところに潜んでいる悪を発見することができると思います。そして自分では気づけなかったところも、メッセージを聞きながら詳しく解剖しているから、悟ることができるでしょう。ですから、メッセージを聞いて、自分のことだと思って、心開いて聞けば、聖霊が悟らせてくださいます。問題は、同じようにメッセージを聞いていても、御言葉を受け入れる姿勢が違うのです。ある人がメッセージを聞いて、だから昨日私はあの人と言い争っていたのだ。本当に悪で罪なのだと悟ります。しかし、同じように言い争っていた人なのに、メッセージを聞きながら、自分のことだと思わないで、他の人のことだと思い、その人が悟らなければと思うのです。

それなら、自分のことは悟れないから損ではありませんか。私たちはこれまで多くのメッセージを聞きました。命の御言葉を聞きました。悪を発見して変えられる機会はいくらでもありました。しかし自分を低くしないで、御言葉に従わなかったからまだ変えられていないのではありませんか?ですからこれからはメッセージを聞いて、自分のことだと受け止めて、そのために変えられるために、御言葉を握って祈りながら、さらに変えられていきますように。すると、聖霊が思い起こさせてくださいます。これが神様の恵みです。この時間も御霊によって悟りながらメッセージを聞きますように。

前回5節でエリファズは、ヨブに、あなたの悪は大きい、不義が果てしないと、罪に定めていました。今日6節からは、なぜそうなのかを、いろんな例を挙げて説明しています。ヨブがなぜ悪いのか、ヨブの悪が果てしないと、自分が言ったことの根拠を、その理由を説明していくのです。

ブ記22:6です。

あなたは理由もないのに、あなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り、(ヨブ記22:6)
 

質を取るとは、質として財物を受け取ること、質物として財物を扱うことです。理由もないのに、ヨブが兄弟から質を取っていたというのです。他の人の財産を不当に担保に入れさせたり、保証人として立たせたと言っているのです。そして裸の者から着物を剥ぎ取るとは、貧しい人のすべてのものを奪うことを言います。貧しい人に少し残っているものまで全部奪ってしまい、辱めることです。エリファズはヨブがこのように悪い人だと言っているのです。相手を思い込みで決めつけていけば誤解が積まれて、さらにひどく罵倒するようになるのです。 ところでエリファズが初めからヨブをこのように激しく非難したのではありません。ヨブ記4:3-4でエリファズはこう言っています。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」とヨブを褒めています。エリファズがヨブにこのように褒めていました。そしてヨブを慰めに来て、ヨブの惨めな姿を見ながらとても心を痛めていました。そして、ヨブが前、どんなに良い人だったのかを言っているのです。それなのに、言い争っていたら、だんだん感情的になって、今はどう言っていますか?ヨブ、あなたは悪い人だ、人を苦しめて害を与える人だと非難しています。前とは言っていることが違いますね。 続くヨブ記22:7です。 疲れている者に水も飲ませず、飢えている者に食物を拒んだからだ。(ヨブ記22:7) ヨブがそうしたと言っているのです。もし熱い砂漠で水を飲むことができないなら、食べるものがなくて何日も飢えているなら、どれほど苦しいでしょうか?ところでエリファズはヨブがそのように渇いているものに水を与えなかったし、飢えているものに食べ物を与えなかったと言っているのです。飢えている人に食べ物をあげなければ、その命の光が消えるように放置するものだから、どれほど残忍なことでしょうか?エリファズは、ヨブがそのように悪い人だと言っています。あなたは極めて残忍な人だ。人としての価値もないと、このように厳しく言っているのです。 続くヨブ記22:8-9です。 土地を持っている有力者のように、そこに住む有名人のように、あなたはやもめを素手で去らせ、みなしごの腕を折った。(ヨブ記22:8-9) もし周りの人で誰かが突然金持ちになって、贅沢に暮らしているのを見ると、あの人はどうしてあんなに湯水のように金を浪費しているのか?あのお金を正々堂々と稼いだものなのかとか思う人がいます。同じようにエリファズは、過去にヨブがとても富豪な者だったのですが、エリファズはそれを悪く言っているのです。やもめを素手で捨てて去らせ、みなしごの腕を折ったと言います。やもめやみなしごのように気の毒な人に施しをしなかったし、迫害していたというのです。エリファズは、ヨブにあなたは権力もあったし、土地もあって尊敬されていたのに、どうしてあんなに薄情に残忍なことをしたのかと非難しているのです。皆さん、私たちはヨブがこのような悪い人でもないし、徳を高めていた人だとわかっています。多くの人を助けました。善を行っていました。それなのに、何故エリファズは、このようにヨブを悪く言っているのでしょうか?それは、前からヨブを妬んでいたその心が今、口を通して出てきたのです。 世の人々はお金のある人がもっとケチだとかひどいとか言いながら、権力者とか金持ちの人格をけなすことを言う人もいます。しかし私たちは、他の人が権力を持っていることやお金を持っていることについて、ああだこうだと言う必要がありません。彼らの心は神様だけがご存知だからです。周りの誰かがうまくいくとき、それをねたんだりして、その人の陰口を言ったりすることは悪いことでしょう。しかしそう言っている人は、自分の心に妬みがあるとはわからないのです。その人がうまくいくのを見て、いやあの人にはこういうところもあるのにとか、なぜあんなふうにお金を使うのかとか思っているのですが、その裏には実はその人への妬みとかがあるのです。羨ましいからそんなふうに表現する場合もあるのです。そして親に恵まれたから、いい環境に恵まれたから、自分には何の能力もないのに、そんなふうに贅沢しているとか、あれこれ言う人もいますね。その根本には妬みがあるのです。皆さんにはこういう姿はなかったのか、顧みますように。 そして世の人が話をしているとか、ニュースを見たりするときは、真理を基準にして自分を照らしてみて正確に見分けなければなりません。ですから人のことを非難したり悪く言う、そのようなニュースとか記事を読みながら、皆さんも一緒になって非難したり悪く言うのではなくて、自分を顧みて神様の前で自分は正しく行っているのか集中して、悪を捨てようとしなければなりません。このように妬みとかが原因で、人がうまくいくとき、その人についてあれこれ悪く言うことがあってはいけません。ある人について非難するときとか陰口を言うとき、実際その人が悪いことをしたとしても、自分が言っていることが事実だとしても、神様はどう言われましたか?人を裁いて罪に定めてはいけないと言われました。だから神様の御言葉に聞き従わなければなりません。神様の他には、人は誰でも自分が正しいと言える資格はありません。罪を犯したアダムの子孫はみんな原罪を持って生まれました。それに罪の支配者である敵である悪魔・サタンに属して罪を犯しています。 自分なりに善良に生きていると思っている人もいますが、真理に照らしてみれば皆が罪人です。 親から受け継いだ原罪があるし、生きていながら自分で犯した罪があります。ローマ3:10に、「それは、次のように書いてある通りです。『義人はいないひとりもいない。』」このように神様の御言葉に照らしてみると、罪のない人は誰もいません。また生まれてから今まで、ただ真理であるイエス・キリストにだけ教えを受けた人は、誰もいません。ですから誰もイエス・キリストの尊い血の恵みがなければ義と認められないし、人を裁く資格はないのです。エリファズにとんでもない非難を受けたヨブは、とても悔しかったでしょう。ヨブはエリファズが言ったように、悪いことをしたこともないし思ったこともありません。反対に貧しい人に施しをしたし、弱っている人を助け、力づけました。このようにとんでもないことを言われているから、ヨブはどんなに苦しかったでしょうか。 ここで私たちは、エリファズの真理、つまり悪い心と思い、それによる行いについて深く考えてみましょう。自分にはそういう姿がないのか顧みますように。以前エリファズがヨブを褒めていたことをもう一度見てみましょうか。ヨブ記4:3-4です。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずくものを起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」とあります。エリファズがヨブのことをこのように評価しているのです。ヨブはこのように良いことを行っていたと褒めていました。これを聞いてみれば、以前ヨブは多くの人々に関わっていたことがわかります。このようにいろんな人に会っていると、同じことを見てもそれぞれ考えが全然違う人々がいますね。ヨブに会った人々も正しい考え方を持っていた人もいますが、そうではない人もいたと思います。 ヨブの善の行いを見ても、人はそれぞれ違うことを考えるのです。それを良いと思う人もいますが、そうではなくて、それを悪く思ったり、疑問を抱いたりして、自分の思い込みで誤解したりすることもあります。人はそれぞれ自分の考えがあって、自分が正しいと思っているから、人がしていることを見ながらあれこれ考えるのですね。それでヨブは多くの人に関わっていて、多くの人に会っていました。ヨブに助けを求めてくる人もいたし、知識を求めてくる人もいたし、ヨブに徳があったから、また多くの人が集まってきて近くにいたでしょう。それでヨブに対する評価もそれぞれ違ったと思います。 ほとんどはヨブを良い人だと思っていたでしょう。そうでない場合もありました。だからヨブに関する噂には良い噂もあったのですが、悪い噂もありました。人間の社会ではいつもこうなのです。皆さんは、正しいことをしたのに誤解されたり、とんでもない噂が立ったりすることもあるかもしれません。それは人の社会ではよくあることです。ヨブもそうだったのです。ですから皆さんはこの世で生きていきながら、こういうことも全部理解して、広い心で受け入れれば良いと思います。 そうではなくて、ちょっと何か言われたらすぐ腹を立てたり、そうでなければ落ち込んでしまったりすることがあってはよくないでしょう。大きい木があって枝がたくさんあると、その枝が風に当たったら音がするでしょう。それは当たり前のことです。だから多くの人が集まっているところでは、いろいろなことが起こるのです。みんなが同じではないのです。自分なりには善を行っているつもりで、その人のためにしたことなのに、誤解されたり悪く言われたりすることがあるかもしれません。だからといって落ち込んでしまったり、悔しく思ったり、その人に対して非難したりする必要はないのです。人はみんな人に悪く言われることは嫌でしょう。しかし大きい器、広い心を持っていると、それも全部受け入れるのです。もしかして悪く言われたとしても、非難されたとしても、指摘されたとしてもそれを受け入れて、自分を顧みながら、もし自分に非難されるようなところがないのに誤解されたなら、その人を悪く思うのではなくて、黙々と神様の前に祈りながら行くのです。 ヨブの行いもそうでした。ヨブに対する噂が良い噂もあったのですが、そうではない場合もありました。ヨブが何かをしたのですが、それは良いことだったのに、人に伝えられて聞いた人は、自分の思い込みの中で、悪く思ったりすることもあるのかもしれません。貧しい人に施したと聞いたならば、よくやったと思う人もいますが、そうではなくて、人に見せるためや、自分のお金があることを誇示するためにそんなことをするのだと、このようにひねくれた心で、悪く見る人もいるのではありませんか。そして自分にお金が余っていることを自慢するのかとか思う人もいるし、でも人に施しをすること、そのことはいいことではありませんか。そんなふうに悪く見たり悪く思う人がいるのですが、世の人の中にはよくあることです。ヨブの周りにもそういう人がいたでしょう。 エリファズは以前ヨブに関する良い噂を聞いて、また自分が見ていたヨブの良いところを覚えていたから、それでヨブを慰めようとしました。悔い改めればまた回復できるからとか、自分なりに慰めようとしました。しかしヨブはそれを聞き入れないで、ヨブと言い争っていたら感情的になってしまい、以前聞いていたヨブに関する良くない噂を思い出して、ヨブを罪に定めているのです。このように前はヨブを褒めていたのに、後には反対にさばいて非難する理由を、私たちは知らなければなりません。自分はそうではないのか顧みてください。日常生活でこういう姿はありませんか?人との間で、その人との関係が良いか良くないかによって、その人に対する評価は違うのではありませんか?自分にとって利益になる場合は喜ぶ。でも利益にならなければ嫌がることが肉の人です。 自分を褒めてくれて自分に良くしてくれる人に対しては、自分もその人を褒めたり味方をするのですね。でもその人との間でひびが入ったり、何かその人が自分に思ったよりしてくれないとか、不満があったりすると、その人を非難したりするのです。前は褒めていたのに、このように変わってしまうのです。このように人は自分の利益を求めるものなのです。そして周りの人に聞いていたその人についての良くない噂を思い出して、それをまた人に伝えたりするのです。前は、その人との関係が良かった時は、その人についての良くない話を聞いても、いやそんな人ではない、その人は良い人だとかばってあげました。褒めてあげました。しかしその人との関係が悪くなってしまうと、前聞いていた悪い話を思い出して、そんな人だったのかと失望したと言いながら、他の人に陰口を言ったりするのです。このように移り変わる人は肉の人です。自分の利益によって変わってしまうのです。 マルコ11:9-10を読むと、イエス様がエルサレムに入場されるとき、ユダヤ人たちはホサナと叫びながら歓迎しました。これまでイエス様が行われる驚くべき業を見て、イスラエルの救い主だと思ったからです。しかし数日経った後、彼らはイエス様を十字架につけろと叫ぶ人に変わってしまいました。このような移り変わることは神様が嫌われる肉の心です。そして移り変わるその理由は、心が悪賢いからです。自分の利益・物欲・権力・名誉欲があるからです。小さくは約束の時間を破ることもあるし、大きくは恵みを裏切ることまであるのです。ですから皆さんはこのような移り変わることや悪賢さを完全に捨てて、どんな状況に置かれても変わらない霊の心を所有しますように。 エリファズは最初ヨブを褒めていたのですが、今は反対にヨブを責めているのです。なぜそうなのか理由を説明しました。ああ、エリファズは肉の人でその心が悪かったのだと思って、終わってはいけません。皆さんは自分に適用してみなければなりません。自分は会社で同僚との間でどうだったのか、上司との間でどうだったのか、学校で友達との間でどうだったのか、顧みなければなりません。会社で同僚と仲が良かった時は、互いに助け合って、また周りの人が良くない話をしてもかばってあげたりしたのですが、その人が自分に何か害を与えたならば、変わってしまうのではありませんか?そのように態度が変わる姿は自分にはなかったのか顧みて、もしあるなら悔い改めて捨てましょう。 このような悪をそのまま持っていては、より優れた天国にはいけないのです。自分と気が合う人は、褒めたり愛し合って仲が良かったのに、でも仲違いしてしまうと、互いに非難して悪口を言う場合があります。でもそれは世の人の姿でしょう。信仰のある皆さんにこういう姿があってはいけないのではありませんか。新しいエルサレムに行くためにはそういう姿があってはいけないでしょう。だから毎週このようにヨブとヨブの友達の関係で、心にある悪について詳しく説明しているのです。毎回同じことを言われていると思ってはいけません。毎回メッセージを聞くたびに自分の気づいていなかったところとか、忘れていたところを思い出して、自分を発見して変えられていかなければなりません。(つづく)

「ヨブ記講解59-神の御名をみだりに唱え                             てはいけない。」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:3~5

続くヨブ記22:3でもエリファズは神の御名をみだりに唱える姿があります。

あなたが正しくても、それは全能者に何の喜びであろうか。あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう。(ヨブ記22:3)

ヨブ、あなたが正しいと言っても、それが神様に何の喜びになるだろう、何の益になるだろうと言っています。これは真理とは正反対のことです。神様は、第一ペテロ1:16「私が聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と言われました。また、マタイの福音書5:48では、「だから、あなた方は、天の父が完全のように完全でありなさい。」と言われました。すべての子どもたちが神様の聖で完全な心に似てほしいと思われるのです。それに聞きたがって、私たちが聖なるものになって完全なものになるなら、神様はどれほど喜ばれるでしょうか。

そして私たちが行いも完全であれば、神様に喜ばれ、それは神様の益になるのです。理解を助けるために、もう一度親子の関係について話をしましょう。もし皆さんの子どもがいい子で健康に成長するなら、親の立場では喜ぶでしょう。それに子どもが成功して、多くの人に褒められて社会にも寄与するなら、親にもその栄光が返るでしょう。反対に子どもがぐれて、トラブルを起こして問題を起こすなら、どれほど親は心痛むでしょうか。また、子供が罪を犯して、社会に大きい被害を与えるなら、その親まで非難されますね。同じように、神の子供が神様の前で完全でなくて罪を犯すなら、世の人々に嘲られるようになって非難されます。それは、神様の栄光を遮ることであり、教会と主のしもべや同じクリスチャンに、恥をかかせることです。

このように罪を犯して悪を行う人をご覧になると、神様は本当に悲しみ苦しまれます。創世記6:5-6に、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあります。世界中に罪と悪がはびこっているとき、神様がどれほどその心を痛められたのかがわかります。神様は子供である私たちを愛しておられるので、私たちが罪と悪に落ちたらこの様に嘆いて、心を痛められるのです。しかし悪が増大していた世でも、ノアはどうでしたか?正しい人で、その時代にあっても全き人だったので、神様は喜ばれ共に歩んでくださいました。そして洪水の裁きから彼と家族を救うために、箱舟を造るようになさいました。このようにノアは神様の喜びになって、神様のご計画、人間耕作のために益となった人であることがわかります。

正しい人として神様の喜びになった他の例で、アブラハムが挙げられます。創世紀18:17「主はこう考えられた。私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」とあります。アブラハムは神の友と呼ばれる程で、神様の前で全き人でした。それで神様は、奥義も彼に教えて下さり、信仰の父であり、祝福の名になる祝福を下さいました。このように正しい人になれば、神様に栄光を捧げるから、神様にも益となり、そういう人はこの地上で祝福を受けるだけでなく、天国でも神様の御座の近くに行くので、自分にとっても大きい益となるのです。しかし、こういう真理を知らないエリファズは、神様の御心に逆らうことを言っていきます。ヨブ記22:4-5です。

あなたとともに、さばきの座に、入って行かれ、あなたを責められるのは、あなたが神を恐れているためか。いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないか。     (ヨブ記22:4-5)

エリファズは、ヨブあなたが神を恐れているため、神様があなたを責めて裁いておられるのかと質問しながら、嘲笑っています。これまでヨブが、神様は悪い人はうまくいくようにして、自分のように正しい人は苦しめていると主張していたから、エリファズはそのようなヨブを嘲笑っているのです。皮肉を言っているのです。あなたが言った通りにあなたが神を恐れているなら、褒められるべきなのになぜ責められているのか?あなたが悪いから災いが臨んだのではないか?と言っているのです。皆さんエリファズが言っていることがあっていますか?

聖書を通して答えを探してみましょう。ヘブル12:5-8です。「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓戒と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです。」とあります。 エリファズが言っていることを聞いたとき、皆さんはそれを正しいか正しくないか、正確に見分けることができるでしょうか?罪を犯した人はその罪に応じて報いを受け、災いに遭う。もちろんそれもあっています。しかし神は愛する子供を懲らしめてくださるのです。これを知っていなければなりません。神様は人を憎んで懲らしめる。その人が罪を犯しているから災いに遭うようにされる。これだけを知っていてはいけません。 例えばAという人とBという人が神様の御言葉通りに行っていないとしましょう。ところで、神様はAという人は懲らしめて、Bという人は懲らしめていないなら、どちらが神様に愛されているのでしょうか?懲らしめを受けたAでしょう。人との間でも、他人同士ならば、責めたり非難すれば、仲違いすることがありますが、親子の間ではそうではありません。子どもが親を信頼しているなら、親に叱られたら、親の愛を感じるようになります。また、親の立場では、自分が産んだ子どもを本当に愛しているなら、子どもがぐれたりするときは、訓戒しても正しい道に導こうとするでしょう。同じように神様も愛する子どもを懲らしめてくださるのです。ですから聖徒が過ちをしたとき、神様の懲らしめが臨んだなら、神様が愛してくださるということを悟りますように。もし過ちを犯したのに懲らしめがないならどうでしょう?もっと大きい罪を犯していくこともあるでしょう。ますます悪魔に操られて死の道に行くしかないのです。神様は、愛する子供が死の道に向かうように放っておくことはできません。だから懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって本当の子ではないのですと言われるのです。 私たちが神様を恐れているなら、悪を憎み御言葉通りに生きることで、人の本分を果たすでしょう。反対に神様を恐れていないなら、悪を行い罪を犯すようになります。ところで、神様を恐れているけれど、まだ完全でないときは、真理と反対のことをしたりもします。このとき、神様が愛の懲らしめをくださるのです。ですから、エリファズがヨブに、あなたは神様を恐れていないから責められているのだと、言っているその言葉はあっているけれど、それは霊的な意味を知らずに言っていることです。エリファズは神様がヨブを愛しておられないから、ヨブを責めて裁いておられるという意味で言っているからです。私たちは神様が私たちを愛しておられるから、私たちが真理から外れたら、懲らしめもして叱ることもあるということを覚えていますように。 次にエリファズはヨブに、いやそれはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないかと言っています。ひどいことを言っています。エリファズは、ヨブの罪と悪があまりにも大きくて果てしないと、罪に定めています。ヨブは潔白で正しいと神様に認められていたのに、聖書はこのように人をさばいて罪に定める人を、自分が神のように高くなって裁くものになっていると表現します。律法学者やパリサイ人が、姦淫した女性を連れてイエス様の前に来た時、イエス様はあなた方のうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさいと言われました。すると良心の過酌を感じた人々は、一人二人その場を去っていきました。イエス様はその女性に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。このようにイエス様は許してくださったのです。 しかし今日は、自分の目で見たのでもないし、よく知らないのに、人を裁いて罪に定める人がどれほどたくさんいますか。たとえ人が罪を犯していることを自分の目で見たとしても、その人のために祈り、その人が真理に従うように導くべきでしょう。しかし、人の過ちを人に伝えて、その人が滅びに行くのを望むなら、どうして神様を信じる人だと言えるでしょうか。ヨブ記講解で、よく挙げられる聖句がヤコブ4:11-12です。「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」とあります。 ヨブと友達の話を聞いてみれば、互いに裁いて罪に定めていることがたくさんあるから、それを通して、私たちは自分自身を発見して変えられるように神様が望んでおられるのです。今、エリファズは自分が律法を裁く者になって、自分の悪が果てしないからヨブに向かって、あなたの悪は果てしないと罪に定めているのです。私たちは、律法を定め裁く方は、神様お一人だけであることを心に留めて、むやみに人を裁いたり、自分が裁判官になったりすることはあってはいけません。そのため試練患難にあっているのに自分はそれを悟っていないならば、どれほどもどかしいことでしょうか。 こういうことが信仰生活の中でたくさんあるのです。人は自分の考えは正しいと思っているからです。そして人の噂話を聞くのが好きでおしゃべりが好きな人もたくさんいるからです。誰かの話を聞いて真理を持って見分けようとしないで、ただ聞いたその話を鵜吞みにしたり、自分が見たことで思い込んで人のことを決めつけたりする人もいます。ニュースとかマスコミで聞いたことを鵜呑みにする人もいますね。皆さんは真理を基準にしてください。皆さんは真理を聞いて真理を話しているのか、真理を見ているのか顧みますように。それが真理でないならば、聞く価値もないでしょう。どうして人の噂話が好きでしょうか?もちろんそうすれば孤立するかもしれません。しかし真理と反対のことをいつも言っている人と近くにいて、よく話をするよりはましではありませんか。 エリファズのようにヨブの話している姿を見て、腹を立てたり、イライラしたりして、ヨブを激しく攻撃して責めて、罪に定めている姿は、どれほど悪い姿でしょうか。皆さん、罪に定めるということは、罪を犯した人に対して、あなたは罪人だと裁くことは、人がすることではありません。神様お一人だけが裁く権限を持っておられます。私たちは罪を犯している人を見たときどうすべきでしょうか。私は罪を犯してはいけないと、反面教師として教訓とすればいいのですが、あの人が悪い、あの人は罪を犯したと、裁いて罪に定めることは悪なのです。イエス様は、姦淫した女性に何と言われましたか?あなた方のうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさいと言われました。また、私もあなたの罪に定めないと言われました。 皆さんもそのような心でなければならないでしょう。私たちはみんな罪人でした。神様の恵みによって許された人です。だから人の罪を裁くような人ではないのです。そういう権限はないし、でもそれを忘れてしまい、その恵みを忘れてしまい、人を裁いて罪に定めているならば、それが神様との間で罪の壁になってしまうし、そのために答えを受けることもできないし、病気も癒されないこともあります。ですからヨブ記講解を聞きながら、何度も同じようなことを神様は警戒しておられるから、それを心に必ず刻みますように。それで自分が人の悪口を言っているならば、それは律法の悪口を言っているのだ。人を裁いていることは律法を裁いていることだ。神様のように自分がなっていることだ。高ぶっていることだということをいつも覚えていますように。それで暗いところは少しもない、光そのものであり傷もしみもない神様だけが裁く方であることをいつも覚えていますように。 結論です。十戒の中で第三の戒めで、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱えるものを、罰せずにはおかない。」とあります。神の御名をみだりに唱えるということは、聖なる神様の御名を正しく使わないで、不敬虔にまた虚しいことのために使うことを言います。例えば自分の考えなのに神様の御言葉のように言ったり、自分の意図によって行動しているのに神様に働きかけられたと言ったり、神様の御名をもって偽りの誓いをしたり、冗談を言ったりすることです。また普段の対話の中でエリファズのように神様の御言葉を間違って引用して神の御名をみだりに唱えることがあるのではないか顧みますように。 御言葉は神様です。本当に神様を信じて愛しているなら、決してそんなことがあってはいけません。私たちが何よりも神様の御言葉を大切に思うとき、神様に愛されるのです。第一サムエル2:30に、「わたしはわたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」とあります。私たちが神様を心から尊んでいるならば、当然御言葉を愛するでしょう。神の御名をみだりに唱えるようなことはしないでしょう。すべてのことで神様を恐れかしこみ行うでしょう。ですから皆さんが神様を尊ぶことで神様も皆さんを尊んでくださり、皆さんのすべての言葉と行いを祝福してくださるよう主の御名によって祈ります。聞いたメッセージを覚えながら祈りましょう。 父なる神様、今日はヨブの友達エリファズが、ヨブをさばいて罪に定めて、激しく責めている姿を見ました。これは、エリファズの心に悪があるからです。神様の御心も知らないのに、自分は知っているかのように、神様の御名をみだりに唱えている姿でした。私たちはそういう姿がないのか、自分を顧みるようにしてください。人を裁いて罪に定めることが、どれほど大きい悪なのか罪なのかを正確に悟って、これからは光の中を歩んでいって、善と愛と真理を行うようにしてください。過去そういう過ちと罪があったならば、罪の壁を壊して、私たちの祈りが速やかに答えを受けるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解59-神の御名をみだりに唱え                             てはいけない。」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記22:1~2

愛する皆さん、前回まで、ヨブ記21章を調べてみました。20章でヨブの友達は、ヨブあなたは悪者で神を敬わない者だから神様に懲らしめられるのだと、裁いて罪に定めていました。すると21章で、ヨブはそれに反論していました。私が見るには、悪い人がうまくいって栄えている。だからあなた方の言うことは正しくないと主張しました。そしてヨブは、悪人でも善人でも富む者でも貧しいものでも、結局死ねば一握りの土に帰ってしまうから、両方とも同じだから、神様は不当な方だと言いながら、友達の話に対して反対の意見を言いました。

悪人でも善人でもその終わりが同じなら、どうして正しい生き方をしようとするのでしょうか?どうして悪を行わないために犠牲して愛する、そのような善の道を歩もうとするでしょうか?このようにヨブは間違ったことを言っているのです。20章と21章を読んでみれば、友達とヨブが互いに主張している内容が、正しくないことがわかります。悪人と善人はその結果が違います。ヨブが言っていることは正しくないのです。上辺だけを見れば、善人でも悪人でも死んだら墓に納められて土に帰るから、同じように見えるけれどその魂はどうでしょうか?

天国と地獄という天と地の違いの結果を刈り取るようになります。またこの地上で生きている間も、神様の公義があるので、悪人はその悪に応じて報いを受け、善人はその善に応じて平和と祝福を受けます。ですから私たちは、目の前の利益を追い求め悪を行わないだけでなく、いつどこででも不利益になるようなことでも、善と真理を選ぶ神の子供とならなければなりません。時には、それを完全にできない時もあります。自分が善を選んで、人のために犠牲になって譲ったら、損をするように思う時がありますか?そうでなければ、善を追っていこうとしたら、自分を低くしていったら、人に蔑まれるような思いはありませんか?損だと思ったことはありませんか?

そうではありません。もちろん自分が献身して犠牲になって譲ることがありますが、でもそれが正しい道、善の道なのです。神様を愛して御言葉を守るためにそのように行うことは、神様を愛する人には難しいことでもないし、自分を低くして、人との平和を追い求めた方が、感謝で、喜びで、心が穏やかで、それで神様は結局高くしてくださり、褒められるのです。その過程で人に誤解されたり、苦しめられることがあっても、神様がすべてをご覧になって報いてくださるから、虚しいことはないし無駄なこともありません。ですから私たちは善と悪、義と不義の違いを正確に知って、目の前の利益のために悪を選ぶ愚かな人になってはいけないでしょう。神様は全てを見ておられ知っておられ、私たちの行いに応じて報いてくださる方です。


今日から始まる22章ではヨブの友達の中でテマン人エリファズがもう一度登場します。エリファズは肉の人だから、彼の言葉の中には真理と反対の言葉がたくさんあります。ですから今日のメッセージを聞きながら、何が真実で何が偽りなのか正確に見分けて、神様の御心を悟りますように。聖霊に導かれ、自分自身を発見して変えられて、命を得る時間になりますよう主の御名によって祈ります。

皆さんはこのような潔めの福音を聞いていて、自分の心の中に深くある悪を発見するメッセージを聞いているから、どれほど幸いでしょうか。だから感謝しているでしょう。自分自身を発見するから、これを捨てなければと思って祈るでしょう。しかし、それが毎週同じようなメッセージを聞いているのだとか思ってはいけません。毎回メッセージを聞いても、同じテーマのメッセージを聞いても、聞くたびにその中から新しい悟りがあって、それで祈りながら毎日変えられていくのならば命となるのです。

しかしメッセージを聞いて、毎週聞いて、それが1年、2年、3年経っているのに、頭の知識ではその内容を覚えていても、自分の心を変えていなければ、何の役にも立たないでしょう。ですから皆さん今日のメッセージを聞いて、エリファズのような姿はないのか、神様の前で高ぶっている姿はないのか、人を裁いて罪に定めている姿はないのか顧みて、自分を発見しますように。本文を読むとエリファズがもう一度口を開いて言います。ヨブ記22:1-2です。

 

テマン人エリファズが答えて言った。人は神の役に立つことができようか。賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。(ヨブ記 22:1-2)

エリファズはヨブを慰めに来た三人の友達の中で、一番に話をした人です。三人の中で心が一番悪い方に属する人です。人には、肉の人と御霊の人がいます。肉の人とは、アダムが罪を犯した後、霊が死んで魂に支配されている人です。魂に支配されているからといって、自分の考えに従って生きるだけではなくて、その魂にサタンが働きかけているのですから、サタンに操られているという意味です。サタンに操られていてはいけません。肉の人になってはいけません。また肉の人は聖霊を受けた神の子供でも、まだ肉の属性とか罪と悪を完全に捨てていない人の場合も、当てはまります。 世の人だけではなく、神様を信じると言っている神の子供たちも、まだ御霊の歩みに入っていない場合、肉の人なのです。自分の心の中に、真理と反対のものが残っているでしょう。悪魔サタンが魂を通して、その心にある悪を刺激するのです。神の子供ならば、霊である神様に似て、心を霊に変えなければならないのに、聖霊に満たされなければならないのに、そうできないから、まだ肉の属性とか罪と悪を完全に捨てていないから、悪魔サタンの仕業を受けるようになります。それで教会に通っていても、肉の人に留まっている人がいます。 これと反対に、御霊の人とは、広い意味で言えば、神の御霊、聖霊を受けて永遠の命を得た神のすべての子供を言います。ところで、神様が本当に望んでおられるのは御霊の人です。つまり、朽ちて変わってしまう肉の属性、罪と悪を心から完全に捨てた人です。聖められて、初めの人、最初の人アダムが持っていた霊の心を回復して、善と愛と真理で心を満たした人をいいます。神様は霊です。ですからその子供たちも神様のご性質に似ていかなければなりません。神様の御言葉は霊であり真理です。それを学び霊の世界を体験し真理にとどまっていると、御霊によって霊を生んでいき御霊の人に変えられていきます。御霊の歩みに深く入れば、神様の御言葉に込められている御心を理解できるし、その通りに行います。 しかしエリファズは肉の人です。神様の心を知らないのに、神の御名をみだりに唱えているのです。私たちは、神様の心が何か明らかに知って、それに完全に従う人が、神様の御心について述べることができるということを覚えておきましょう。自分は神様の御心通りに行っていて、その実が現れている人、神様が認めてくださる人でこそ、神様の御心はこれだと、人に教えることもできるのです。神様の御心はこれですと言える人は、自分が神様の子供として正しく生きていなければならないし、神様の御心に従っていなければならないのです。そういう人が、真理を持って人を教えることもできるのです。しかし神様の御心も知らないし、自分が行くべき道も知らないし、自分の問題も解決できない人は、これは神様の御心だと、あなたは間違っていると言ったりするならば、それは神の御名をみだりに唱えるような結果をもたらすのです。 今日神様を信じるという人々の中でも、自分の考えによって神様の御心だと思い込み、人を裁いて決めつける場合がよくあります。これまでヨブとヨブの友達は、時には神様の御言葉を引用したり、時には神様の御名を借りて、私が正しいあなたは間違っていると言い争いながら、互いを裁いて罪に定めていました。本文でエリファズは、人は神の役に立つことができようか。賢い人さえただ自分自身の役に立つだけだと言いながら、神様の御心をよく知っているかのように言っています。そしてエリファズはためらわずに、神様の御心はこうだと言いながら、結論を出しています。これはこれまでヨブが、神様の前で自分の正当性を主張しながら、自分は正しいと強調してきたから、エリファズはそのヨブの話が気に入らなくて、皮肉を言っているのです。つまりヨブはいくら賢くても、神様の何の役に立たないということです。 皆さん、それでは人が神様の役に立てるでしょうか?立てないでしょうか?実は被造物に過ぎない人が、万物を創造して支配される神様、創造主の神様の役に立つという言葉を使う資格はありません。しかし、人が神様の前で役に立てないのではありません。その理由は何でしょうか?神様はご自分の形として人を形造られた方です。最初の人アダムを、愛と真心を尽くして土地のちりで形造った後、命の息を吹き込んで生きて動くようにされました。他の動物の中で、人間のように神様が命の息を吹き込んだ場合はありません。動物は死ねば土に帰り、それで終わりですが、神様の命の息を吹き込まれた人の霊と魂は、永遠不滅の存在なので消滅しないのです。これについて伝読者の書3:21に、「誰が知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りていくのを。」とあります。ここで人の子らの霊は上に上りとありますが、つまり消滅しないで死んだ後は、天国または地獄に行くという意味です。そして獣の霊は地の下に降りていくとありますが、これは死んだら消滅するという意味です。 私が海外に集会を導くために行った時のことです。その教会の担任牧師先生がおられて、その方は総会長でもありました。その方と面会をする時、なぜその話になったのかよくわかりませんが、このような話をしました。娘さんが飼っていた犬が死んだのですが、娘さんはその犬が天国に行くことを信じているという話をしていました。それでその方が質問をされて、私はそれについて答えをしたことがあります。実際はどうなりますかと質問されたとき、私はこの聖書箇所を例に挙げて説明をしました。人の子らと動物が行く道は違います。しかし天国に行ってみれば、神様はこの地上でのものと比べられない、とても可愛い動物のペットを神様がプレゼントしてくださいますと答えたことがあります。 このように聖書箇所を霊的に説かなければ、同じように聖書を読んでもわからないし、主のしもべでも正確にわからないのだということを考えたことがあります。皆さん、私たちはこのように霊の世界について、正確に教わっているということがどれほど感謝でしょうか。神様が命の息を吹き込んでくださった存在の人間、神様の霊が吹き込まれた人間と動物のその違いを、正確に知っていなければならないのです。神様が私たち人をどのくらい貴重に思っておられるのか、私たちの存在をどれほど喜ばれるのか、人間耕作の意味がどれほど大きいのかを深く考えてみますように。 神様の形として創造された人がなぜ神様の役に立つのかは、親子の関係を見てみれば理解できるでしょう。人が子供を産む理由は何でしょうか?愛を分かち合える子どもがいるというその自体が、喜びになるからです。親にとって子どもは、目に入れても痛くないほどだと表現するほど、とても大切で貴重な尊い存在です。だから子どものために犠牲して、苦労しながらお金を稼いで、愛する子どものために養って、良いものだけを与えようとします。そして子どもがいい子に成長して、親の心がわかって感謝するなら、互いに愛し愛されるからどれほど幸せでしょうか。 このように親にとって子どもは、存在そのものにより、存在そのものが喜びと幸せを与えるから、つまり役に立つのです。子どもを産んで育てるときは、多くの犠牲と献身が必要ですが、子どもを愛するから、親は自分を犠牲にして育てるのです。子どもがいることだけでも親には喜びになるのです。そして互いに理解し合って心を分かち合って、愛し愛される存在なら、関係ならどれほど親にとって喜びでしょうか。また役に立つでしょうか。しかし子供が親を愛さないで、反抗をしてトラブルを起こしたり親の心を痛めるなら、どれほど悲しいことでしょうか。神様も同じです。ご自分の子供が真の子供になるのを望んでおられます。私たちを愛してくださり、造ってくださって、それでその子供が神様の心をわかって仕えるようになると、どれほどうれしいでしょうか。 人を造られた神様の心も同じです。親は生まれてくる赤ちゃんのために、部屋とか服とか必要な物を全部用意しておきます。同じように神様も、6日間で天地万物を造ってくださり、人が生きていける環境を美しく造ってくださいました。地球の大きさも、太陽との距離も、月との距離も正確にしておいて、空気と水と木と花など、人が何不自由なく生きていくのに適した環境を造ってくださいました。このように心を込めて用意した後、神様の形として人を創造されました。このような準備過程だけ見ても、神様が私たち人をどれほど愛しておられるのかを感じることができるでしょう。 愛する皆さん、父なる神様は私たちをこれほどまでに愛してくださった方です。私たちのために天地万物を造ってくださり、一人子イエスキリストを遣わせてくださったのです。神様が人の子らを愛してこのように世界を創造されただけではなく、その愛が自分のためであるということを強く感じますように。私のためです。私のために犠牲になった神様、お父様の愛を深く感じなければなりません。それで私たちも神様を愛して、神様に喜ばれる信仰生活にならなければなりません。神様を遠くいる方だと思うことや、大勢の人の中の一人であるわたしを、よくご存じではないと思ってはいけません。神様は私たち一人一人を全部知っておられ、一人一人の為に期待を持って造って下さった方です。だからその神様の思いに応えるために、努力しなければなりません。 では、神様が人間を創造された理由は何でしょうか?大きく二つを説明しましょう。今日大礼拝の時も聞いたように、結局はまことの子どもを得ることです。第一は、愛し愛されるまことの子どもを欲しいと思われたからです。それで神様はご自分の形に似せてアダムを形造り、美しいエデンの園においてアダムと共におられ、真理を教えて神様の愛を教えてくださいました。このようにエデンの園で神様に愛されたからといって、真の子供になるのではありません。人間耕作という過程が必要なのです。それでエデンの園に善悪の知識の木を置かれたのです。 そして闇の勢力も人間耕作のために道具として用いられるのです。ルシファーの裏切りがあって、悪い霊の勢力も形成されました。それも全て神様のご計画の中にありました。神様は全てをご存知で、もちろん神様も人間が堕落することを知っておられたのですが、それでも真の子供を得るために心を痛められることがあっても、期待を持って人間耕作をしておられるのです。だから私たちはその神様の心を知って、心から神様を愛し、祈り、賛美して礼拝すれば、神様は私たちの聖い生き方をご覧になり、喜ばれるのです。それで全く聖なるものとされた子供が出てくることを、神様は待っておられます。どれほど慰められ、どれほど喜ばれるでしょうか。 長い間、人間耕作の間、神様がどれほど悲しまれ心痛められたことがたくさんあったでしょうか。神様を信じると言いながらも、神様の御心に逆らってしまい、目の前の利益のために裏切ってしまい、世に目を向けてしまうそういうクリスチャンもたくさんいるのですが、私たちはそうしてはいけないでしょう。神様はそのような人もまた許して、また変えられる機会をくださっているのです。皆さん、子どもが生まれて成長するとき、ただ健康だけではありません。何か病気にかかったりすることもありますね。怪我をすることもあります。でもそのような過程があって、子どもがちゃんと成長するようになるのです。親もその子どもを見ながら、神様の愛を悟るようになるでしょう。神様は私たちを本当に愛しておられるお父様です。 もちろん人が罪を犯さないで、エノクのように聖い生き方だけをするならば、神様は喜ばれるでしょうが、しかし罪を犯したり、悪を行ったり、つまずいたりしてもまた立ち上がって、神様に悔い改めて立ち返って、神様により頼んで努力していく姿を見れば、神様も喜ばれ導いてくださるのです。力づけてくださるのです。このような神様の愛を悟り、なぜ私を造ってくださったのか、なぜ私のために世を創造してくださったのか、その神様の創造の理由、また人間耕作の理由を悟るなら、神様をどれほど愛するようになるでしょうか。それで私たちが神様の前で、まことの子供という実として捧げられるために、今の生き方を変えていきましょう。 第2、神様が人を創造されたのは、栄光をお受けになるためです。イザヤ43:7に、「私の名で呼ばれるすべての者は、私の栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」とあります。私たちがエノクのように、神様の心にそっくりの正しい美しい心になるなら、神様はどれほど喜ばれるでしょうか。ゼパニア3:17にあるように、喜びをもって私たちを楽しみ、その愛によって安らぎを与え、高らかに歌って喜ばれるでしょう。私たちを創造されて耕作なさった生き甲斐を感じるでしょう。また全く聖なるものとされた実として捧げられるなら、神様に栄光を捧げるでしょう。神の国にどれほど大きい益になるでしょうか。 だから聖徒なら神の国を建て上げるために自分を犠牲にするのです。心と思いを尽くして、時間と自分の物質も神様のために捧げて、神の国を建て上げるのです。だからどれ程役に立つのでしょうか。このように神様がなぜ人間を創造されたのか、その目的を知っているなら、エリファズのように人は神様の役に立たないとは言えないのです。神の形として創造された人間が、神様に喜びと誇りになれるし、愛の対象になって、彼らを通して神様が栄光をお受けになるからです。神様にとって利益にならないということは、言い換えれば損するという意味なのですが、神様はどうして損するようなことをされるでしょうか。 次にエリファズは賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだと言っています。人の知恵が神様の何の役にも立てない。自分自身の役に立つだけだと言っています。これは人の知恵、肉の知恵と神様の知恵 、霊の知恵を区分できないからです。知恵には神様がくださる霊的な知恵と、世からつまり悪魔が与える肉的な知恵があります。まず悪魔が与える知恵については、ヤコブ3:13-16にあります。「あなた方のうちで、知恵のある、賢い人は誰でしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなた方の心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」 ですから自分の欲を満たすために何かをはかるならこれは肉的な知恵なのです。エデンの園に住んでいたエバが狡猾なヘビの話を聞いて、善悪の知識の木の実を取って食べたのは、神様からではなくて悪魔から来た知恵を受け入れたからです。ここでサタン悪魔から来た知恵だと言います。人が何か行いとして悪を行う前に、まだ心の中で思いの中で悪を巡らしますね。悪いことを計画したりするのです。それはサタンの働きです。そして実際にそれを行って、悪を行って罪になるならば、それは悪魔の働きなのです。悪魔の仕業になるのです。それで悪を行ったから罪になるのです。人を騙すことをただ考えているならば、それはサタンの働きですが、実際人を騙したならば、それは悪魔の仕業になるのです。 神の国と義のために生きることは、上から来る知恵に属していますが、地に属し肉に属し真理と反対のことを行うなら、それはサタン悪魔から来た肉的な知恵です。例えば事業をしている人の場合、神様がくださる上からの知恵を受けるべきなのに、肉的な人の知恵を働かせるから正道から離れるのです。私心、欲に従って法を犯すことがあり、自分だけではなく、まわりの人も苦しめる結果をもたらします。ですから、第一コリント3:18に、「誰も自分を欺いてはいけません。もし、あなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。」とあります。人が持っている知識と考えの限界の中で、ものごとや人を見ると、自分も神様の前で罪を犯して、祝福と答えがふさがれるだけではなく、他の人も困らせたり、つらい思いをさせるのです。ですから自分の知恵を愚かなものと思って真理に従って行うとき、神様が喜ばれ答えと祝福を受ける霊的な知恵を下さいます。 このような霊的な知恵を得るためにはどうすべきでしょうか。ヤコブ3:17-18に「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」とあります。上からの知恵は第一に純真でありとあります。だから、まず第一に、真理に逆らうものは徹底的に捨てて、ただ、神様の御言葉に聞き従うほど、天からの知恵が与えられるということを覚えておきましょう。肉的なことも、肉の行いも全部捨てて、完全に聖められたら、すべての人と平和を作るようになり、義の実を豊かに結ぶだけではなく、天から知恵が与えられます。 このように、御霊の人になっていくほど、上からの知恵も受けることができるのです。また、神様から来た知恵は、善と義と真理を追い求め、天国への希望を持つようにします。マタイ福音書11:27に「すべてのものが、私の父から、私に渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知るものがありません。」とあります。つまりイエス・キリストを受け入れて心に聖霊が来られ、真理を悟らせてくださり、神様についても深く知るようにしてくださるのです。このように、神様がくださった知恵でなければ、神様について知ることはできません。ところがエリファズは肉の人だから、肉的な知恵について自分なりに説明しています。 これまでエリファズはヨブが自分は正しいと言っているから、それが気に食わなかったのです。エリファズが見てみると、ヨブは今のようにみじめな境遇に置かれたのは、確かに罪があるからだと思ったからです。でもヨブは自分には何の過ちもない。自分は正しいのに神様が苦しめていると言っているから、エリファズはヨブを非難しているのです。皆さん、今エリファズはヨブを裁いて罪に定めています。そしてヨブが言っていることが気に食わないのです。でもそうではなくて、本当に相手が悪い場合があります。相手は本当に悪い人なのに、自分は正しいと主張しているなら皆さんはそれを聞く時どうでしょう?我慢できないですか?もう聞きたくないでしょうか?いやそうではないと言って反論したくなりますか?気に食わないでしょうか?非難したくなりますか? それは自分の中に悪があるからです。そういう人でも、その人が正しくないことを言っていても、私たちが腹を立てる理由はないのです。だから、皆さんの心の中で、負の感情が動くのを敏感に感じなければなりません。皆さんは、世で、会社で仕事を一緒にしている同僚もいたり、学校でクラスメイトもいると思いますが、世の人はみんな自分の利益を求めますね。自慢話をしたり、本当に正しくないことを言ったりするかもしれません。それを見ているとき、皆さんは裁いたり、罪に定めている立場ではありませんか?そうしてはいけません。その人がいくら悪い人でも、その人がうまくいくのが嫌だったり妬んだりしてもいけないのです。私たちは御言葉を自分に照らさなければなりません。しかし相手に照らして、その人を裁いたり罪に定めたりして、実際その人に面と向かって言わなくても、心の中でもやもやしたり気に食わないと思ったりしている姿も、顧みましょう。 エリファズは今ヨブに対して、そんなふうに考えていました。エリファズが見ていると、ヨブは過ちがあり罪を犯したから懲らしめられているのに、ヨブはそうでないと言っているからエリファズはそれが嫌なのですね。聞きたくないし、それで自分の主張を強くするために、神様の御名を借りて言っているのです。皆さんもこういう姿がないのか顧みますように。あることについて、自分なりにこれは正しい、正しくないと自分の意見を言うのはいいのですが、でも神様はこう言われたとか、神様の御言葉にはこうあるのにと言いながら、神様の御名を借りて、このように自分の主張や正当性を強くしようとしている姿はないのか、顧みます様に。(つづく)

「ヨブ記講解58-悪人と善人の結末」(下)
 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:29~34

続く本文を読みます。ヨブ記21:29-34です。

あなたがたは道行く人に尋ねなかったか。彼らのあかしをよく調べないのか。「悪人はわざわいの日を免れ、激しい怒りの日から連れ出される」という。(ヨブ記21:29-30)

ヨブと友達は、互いに自分が正しいと言い争っていたのですが、互いにずっとそのように主張していたら、今は道を通る人々にどちらが正しいのかと尋ねました。第三者を巻き込んで、自分たちの主張を認められようとしたのです。誰々さん、ヨブはこのような状況に置かれていて、私たちがアドバイスをしていろいろ指摘したのですが、ヨブはそれを聞き入れないで、自分が正しいと主張しているばかりです。どちらの方が正しいでしょうかと言っています。第三者がそれを聞かれたとき、真理を知らない人なら、ヨブの現在の姿だけを見て裁くでしょう。ヨブが悪いからでしょうと言うでしょう。悪人は災いの日を免れ、激しい怒りの日から連れ出されるというのは間違っているのです。ヨブは次のようにまた言います。ヨブ記21:31-32までです。

だれが彼に面と向かって彼の道を告げえようか。だれが彼のなしたことを彼に報えようか。彼は墓に運ばれ、その塚の上には見張りが立つ。(ヨブ記21:31-32)

ここに、誰が彼に面と向かって、彼の道を告げえようかとあります。つまり、その人を叱ったりとがめたりできないということです。悪人でも、その悪を行ったことについて報えないということです。そして悪人も死んだら墓に運ばれるしかないし、その塚の上には見張りが立つと言っています。悪人でも死んだ後は、その子孫が草刈りもして墓を守るということを言っています。続く本文を見ると、ヨブがこのように話す意図がわかります。ヨブ記21:33-34です。

谷の土くれは彼に快く、すべての人が彼のあとについて行く。彼より先に行った者も数えきれない。どうしてあなたがたは、私を慰めようとするのか。むだなことだ。あなたがたの答えることは、ただ不真実だ。(ヨブ記21:33-34)

悪人に谷の土くれは快いという意味は、死を恐れないという意味です。しかしこれはあっていません。ほとんどの人は長生きしたいと思い、死を恐れて嫌がります。悪人であるほど、死をもっと恐れます。伝道者の書3:11にあるように、神様は人の心に永遠を与えられました。いくら悪い人でも、心の底には神様を求める善、命の種があるから、自分が悪を行ったほど、死を恐れるようになるのです。それで主を受け入れないで悪を行っていて、死を迎える人々は、すさまじい不安と恐怖に襲われるようになります。臨終の直前に、地獄の使いが、自分を連れに来ているのを見ているからです。教会の働き人や、信仰生活を正しくしてから亡くなる方がいますが、こういう場合、臨終の直前に、御使い二人が自分を連れに来ているのを、見たり感じたりします。信仰がある人はだから喜ぶのです。死を恐れたりしません。恐怖を感じるのではありません。死んだら天国に行くという確信があるから。だから家族に信仰を植え付けようとして、自分の人生を締めくくり、どうすれば神様の前にもっと喜ばれるだろうか、約束していたことを、もしかして守れなかったことがないのか、振り返ってみて自分の死に備えるのです。

しかし御言葉通りに生きなかった人、信仰のない人は死を恐れるのです。天国への希望もないからですね。そして死ぬことを嫌がるのです。このように大きい違いがあります。そして自分を連れに来たのが、二人の御使いかでなければ地獄の使いかによって、反応が違うのですね。平和の内に主を迎える人もいますが、恐怖の中で死ぬ人もいるのです。そして、谷の土くれを快く思う人がいるのです。つまり死を恐れない人がいます。善で正しく生きた人は、この地上で人の本分も守り尽くしたから死を恐れません。人の本分を守ったということは、神様を認めて後の世も信じていたということです。そういう人は臨終の直前に霊の目が開かれて、御使いが自分を天国に導くために来ているのを見ます。だから死を恐れないで、平安のうちに目を閉じるようになるのです。

ところが、ヨブはこのような霊の世界に対する知識がない人です。だから全ての人が彼の後について行く。彼より先に行った者も数えきれないと言っています。悪人も善人もお金持ちも貧しい人も、みんな墓に運ばれるのは同じだと言っています。先ほど友達は、ヨブが悔い改めて立ち返るなら、また全ては回復して、健康も取り戻すだろうと言っていました。しかしヨブはいくら考えてみても、自分は回復できないと思ったし、もう死んで土に帰るから、自分を慰めても無駄なことだと言っています。たとえ癒されても、結局は死を迎えるようになるから、慰められたくないと言っているのです。 ヨブのこの話は正しくないということを私たちは知っています。つまり、神様を信じる人は、たとえ体は土に帰ったとしても、主が空中に降臨なさる時よみがえって、永遠の天国に入るようになるのです。悪人も、一握りの土に帰るのは同じですが、罪から来る報酬は死だから、地獄に落ちるようになるのです。だから悪人と善人の死んだ後の世界は、天と地の差なのです。また、主を受け入れて救われて天国に入る人の中でも、ある人は太陽のような栄光を受け、ある人は月のような栄光を受け、ある人は星のような栄光を受けるようになります。神様は私たちが行った通りに報いてくださるからです。 ですから、私たちは天国で味わう栄光と報いを望みながら、さらに心を尽くして神様を愛し、さらに忠実に仕え、一瞬一瞬信仰で勝利しなければなりません。皆さん、ここまでヨブと友達の話の内容を調べてみたら、ヨブがなぜここまで友達に裁かれ、罪に定められているのかわかりましたか?友達だけ悪いと責めるのではなくて、ヨブ自身に問題があることなのです。私たちも信仰生活をしながら迫害されたり、家庭や職場また近所との間で悪口を浴びることがあるなら、相手が悪いと言う前に、自分もまず顧みなければなりません。自分だけ正しいと思わないで、なぜ相手があんな風に怒っているのか、自分自身から問題を探そうとしてみれば、確かに直すべきところが発見できるでしょう。次の時間には、ヨブの友達エリファズがもう一度反論をします。 結論です。皆さん、ヨブ記21章は、20章でツォファルがヨブに、あなたは悪者だから神を敬わない者だから、このような艱難にあっているのだと言っている言葉に、ヨブがそうでないと反論している内容でした。そして悪者でも栄えてうまくいくことがよくあると説明しながら、自分は悪者だからこんな艱難にあっているのではないと言っています。悪者でも成功して栄えているのではないかと言っていました。しかし私たちは二人の話の中で、正確な真理と神様の深い心を悟らなければなりません。ヨブが話したように悪人が栄えるのではなくて、神様は限りない愛を持って、悪人でも悔い改めることを待っておられ、忍耐深くあられるので、すぐ懲らしめないように見えるだけなのです。 しかし、神様は、公義をもって正確に裁く方です。この地上ではもちろん、後の世では、永遠の死、恐ろしい地獄が待っているから、この地上で味わった権力、富が、何の誇りになるでしょうか。ですから私たちは悪人を見て、裁いたり、罪に定めるのではなくて、その人が悔い改めて立ち返るように、愛をもって祈るべきです。また悪人がうまくいくからといって腹を立てたり、妬む必要もありません。その人が滅びることを望んでもいけません。ただ自分を顧みて、自分は光の中を歩んでいるのか、真理にとどまっているのかを顧みて、誠実に生きなければなりません。 皆さん、悪人がうまくいって成功しているように見えるとき、私たちはどう思うべきか伝えました。それについて腹を立てたり、妬んだり、不満を抱いたりしてはいけない。神様は愛で、その悪人でも悔い改めるように待っておられるということです。しかし悪人の結果は、結局は死であり地獄だから、それが今成功しているように見えても、本当の祝福ではないということです。それを覚えていなければならないのです。それで、その悪人の道を選んではいけないのです。しかし、皆さんの中で、あの人は神様を信じてもいないし、悪を行っていて、偽りを言ったり、人を騙したりしているのに、なぜうまくいっているのか、成功しているのかと疑問を抱くことはありませんか?そして、自分は真理にとどまっているのに、なぜあの人より劣っているのかと考えることはありませんか? 皆さん、この世には肉の公義があります。それで誠実に働いて、知恵もあって能力もある人、はそれなりに成功するのです。その人が悪を行って神様を信じていなくても、その人が誠実に働いて能力もあるなら、その結果は出るのです。でも自分は誠実でもないし、怠けていて努力していなければ、結果がよくなるはずがないでしょう。それなのに、その人と自分を比べて、神様の前で不満を抱いてはいけないのです。本当に私たちは、世でもどのくらい誠実に自分の仕事に臨んでいるのか、どのくらい努力しているのか、どのくらい、自分自身をもっと発展させるために、頑張っているのか顧みますように。ただ神様を信じるから、神様が何とかしてくださるだろうと思っていたらいけません。もちろんクリスチャンかノンクリスチャンか、信仰があるかないかによって、後の世の結果は違います。そして神様は、神様を信じる人を祝福してくださるのです。 でも、本人が仕事をしないとか、誠実でないとか、努力しないなら、神様も助けてくださることはできないのです。その実は良くないのです。それなのに、人と比べて神様のせいにしたり、なんで神様は祝福してくださらないのかと思ってはいけないのです。自分にはそういう姿がないのか顧みますように。数週間にもわたって、悪人に対する私たちの考えはどうすべきかを伝えました。 これを必ず心に刻んでください。 聖書を読んでみれば、正解が、答えが書いてありますね。そして、ヨブ記講解を通しても、皆さんが正確に悟るように説明しました。私は聖書を読みながら、またヨブ記講解を準備しながら、とても感謝でした。神様が言われた通りなんだ。また、元老牧師先生が私たちに、新しいエルサレムに一緒に行きましょうと言われた時、私たちはアーメンと言って、必ず行きますと言いました。元老牧師先生は、鼻に鼻輪をつけてでも、引っ張っていくと言われました。だから神様は、私たちが新しいエルサレムに行けるように練ってくださるのです。さらに厳しく練ってくださるのです。それで教会の試練の時に、私たちが自分でも気づかなかったところ、悟れなかった深いところにある悪が、現れるようにされました。潜んでいた悪が、明らかになるようにされました。自分の高ぶりも悪も、自分の移り変わる姿も、卑怯な姿も発見するようになりました。また、ヨブ記講解を通して悟るようにしてくださいました。 私たちが教会の試練の時、どんなふうに考えて、どんなふうに話をしていたのかを悟るようにしてくださいました。それで本当に感謝でした。悪人に対して、その人の滅びを願う人はいないと思いますが、神様が望んでおられる善と愛はあるのか、神様のような忍耐はあるのか、神様はどれほど私たちを愛して忍耐深くあられるのか、その心を悟るようにしてくださるのです。私たちを新しいエルサレムに導き入れるための神様の方法なのです。私たちは牧者について行けばいいと思ったのですが、それだけでは行けなかったのです。 悪はどんな悪でも避けなければならないし、心の割礼をしなければなりません。血を流すまで罪と戦わなければなりません。でも私たちはそんな苦労は嫌だと思って、楽に行こうとしたのですが、でもこのような試練の時、自分の心の深くにある悪が現れるようにされました。それでヨブ記講解を聞きながら、これもあれも私は本当に悪い人なんだ、欠けているところがこんなにあるんだ、と発見するようになりました。皆さんは、みな罪を捨てて、新しいエルサレムに行きたいと告白していますが、本当に感謝です。 皆さん、だからこういうメッセージをただ聞いて終わるのではなくて、神様の深い愛の心、忍耐深くあられるその心を悟って、それに似ていきましょう。そのように変えられるなら、神様はこの地上でも祝福してくださいます。そういう人が受けた祝福は消えません。だから、心配も憂いもなくなります。神様はいつも守ってくださるから、すべてのことで栄えるのです。しかし、悪を行って神を敬わない者は、いつ崩れるか分からない砂の城のようであり、多くのものを手に入れても その結果はみじめなのです。だから皆さん、今日自分が積んだ善と悪は消えないし、必ずその結果として後の世で、祝福と栄光になるか、呪いと苦しみになるか、報いがあるのです。 ローマ2:6-10です。「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめキリシャ人にも、悪を行うすべての者の家に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめキリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。」とあります。今、目の前の利益を求めて偽ったり、不義に従う愚かな人にならないで、全てを見て知っておられ、裁かれる神様を覚えていて、いつも善を追い求めて行う皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを覚えて祈りましょう。父なる神様、感謝いたします。今日もヨブは自分が正しいと主張しながら、神様についても友達についても、自分の思い込みで決めつけて裁いていました。しかしそれが正しくないことを私たちは悟りました。そして自分自身を照らしてみて、神様の前で悪人についての疑問を抱いたことも悟りました。神様の御言葉は真実です。善を行う者は祝福され、悪を行う者は災いにあいます。このような真理の御言葉を覚えていて、いつも御言葉通りに生きる幸いな皆さんになりますように、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

「ヨブ記講解58-悪人と善人の結末」(上)
 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:25~28

前回はヨブが神様を誤解して、神様は悪を行った当事者をすぐ懲らしめないで、その子どもたちを懲らしめる方だから不当だと言っていました。また悪人が自分の滅びを自分の目で見るようにして、神様の御怒りの杯を飲むようにして、全能者がこんなに恐ろしい方だと悟らせるべきだと言いながら、神様を責めて問い詰める姿を見ました。しかし肉的な考えではそうすべきだと思うでしょうが、自分の心に善があるなら、ヨブのようにこんなふうには言えないでしょう。神様は愛です。一人も滅びることを望まないし、全ての人が救われるのを望んでおられます。それで一人でも多くの人が悔い改めて立ち返るように、一日が千年のように忍耐深く待っておられます。

しかし、人がこういう神様の心がわからないから、悪い神様だと判断してさばくのです。ヨブはこのように神様を誤解していました。また、ヨブは神様を信じないで真理の中に留まっていないのに、栄える人がいると言いながら、神様の治めが間違っていると言いたかったのです。今日の本文でもヨブは自分の考え、自分の思い込みで、神様を誤解して裁いています。本文ヨブ記21:25-26です。

ある者は苦悩のうちに死に、何の幸いも味わうことがない。彼らは共にちりに伏し、うじが彼らをおおう。(ヨブ記21:25-26)

ヨブは、この地上で富と祝福を味わえなかった人々は、死ぬ時も苦しみを受けるだけで、幸いがないと言っています。前回、お金もあって長生きしてこそ、平安で祝福だと言ったことと同じ内容です。これはヨブが祝福の基準を、富と栄華、健康、長生き、世での成功など、肉的なものだと思っているからです。しかしこういう祝福はいつでも失うことがあるし、永遠なものではないから、真の祝福と言えません。神様を信じる人は、霊的な祝福、つまり魂に幸いを得ていることが一番大きい祝福です。

皆さん、貧しい人ラザロと金持ちのたとえを覚えているでしょう。この地上で貧しいとか病気にかかったかもしれませんが、神様を信じて御言葉に従って天国に行く人がいます。しかし反対に、この地上では金持ちで贅沢に暮らして、楽しんで地獄に行く人、二人を比べるなら、皆さんはどちらを選ぶでしょうか?前者を選ぶというでしょう。ところで実際、この地上での生き方はどんなふうにしていますか?天国とか地獄、後の世のことを忘れてしまい、目に見えるもの、手で触るものを追い求めているのではありませんか?世でお金を稼ぐことや、富を得ること、健康とか長生きなどを追い求めているのではありませんか?ヨブの目線がそうなのです。世で健康で富を得た人が、祝福された人だと思い込んでいるのです。貧しいとか病気にかかった人は不幸だと言っています。しかし霊的な祝福はそうではないのです。

神様を信じているか信じていないか、天国に行くのか行かないかが大切なのです。天国を望み、神様を信じて御言葉に従っているなら、この地上でも祝福されるのです。これが皆さんの生き方において基準にしているでしょうか?でなければ、天国に行きたい、地獄には行きたくないと口では言っているのですが、つかの間のこの地上で、目で見える祝福、手で触れるもののために生きているのではありませんか?魂に幸いを得ていると、すべてのことに幸いを得、健康である祝福を受けます。また、永遠の天国では、栄光と報いを受けます。これが大切です。この地上で健康とか富があるとかではなくて、御言葉通りに生きて、魂に幸いを得る祝福が本当の祝福なのです。それを慕うべきです。神様を愛さないで、目に見える肉の祝福を求めてはいけないのです。富と名誉、権力のような肉的な祝福は、霊的な祝福を追い求める人にとっては、神様が加えてくださるものです。

マタイ6:33「だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これのものはすべて与えられます。」とあります。ヨブは、彼らは共にちりに伏し、うじが彼らを覆うと言っています。これも、神様は不当だという表現であり、神様を教えようとしているのです。つまり、自分が見てみたら、善人でも悪人でも、金持ちでも貧しい人でも、結局は皆が死んで塵に戻り、うじが覆うから皆同じだ。だから神様は正しくないと言っているのです。皆さん、善人でも悪人でも、同じだというこの話はあっていますか?全くあっていませんね。

ヨブは今、霊の世界、霊のことを言っているのではなくて、目に見える肉の世界のことを言っています。聖書には主を信じた人が死んだ時、死んだと言わないで眠ったと表現します。私たちの霊は永遠に死なない不滅の存在だからです。主が空中に降臨される時は、主を信じて死んだ人々の霊と魂は主と共に空中に降りてきて、この時死んで葬られた自分の体は、復活の体に変えられて、自分の霊と魂と結合するようになります。その人の体は既に死んで、土に帰ったし形もなくなったようですが、神様の力によってその体が甦るのです。それで復活の体に変えられるのです。それで自分の霊と魂が空中に降りてきますね。自分の霊と魂と体が結合するようになって、永遠に生きるようになります。 誰がでしょうか?主を受け入れて、既に死んだ人。そうやって主と共に七年の婚宴に預かるようになりますね。救われて死んだ人は、天国に行って、待機場所にいるでしょう。新しいルサレムに行く人は、新しいエルサレムのある場所にいるでしょう。そういう方々は、霊と魂がありますね。主が空中に降臨されるとき、自分の体が変えられて復活の体になるのです。それで主と共に七年の婚宴に預って、千年王国が終わった後、白い御座の大審判があります。その後は美しい天国に入って永遠に主と共に生きるのです。誰がでしょうか?主を信じた人々、救われた人々のことです。 しかし神様を信じない人は違います。地獄に落ちて、いつまでも苦しみを受けるようになります。上辺だけを見ると、善人でも悪人でも死んだら墓に入れられて、土に帰るから同じように見えます。世の人はそんな風に考えるでしょう。しかし、そうではありません。その霊と魂は、天国と地獄という別れ道に立って、永遠の時間、後の世では、永遠の命と永遠の刑罰という、大きな違いがあるのです。ですから私たちはクリスチャンの中で、また教会の聖徒の中で誰かが亡くなると、その時は別れを惜しんだり悲しんだりするのですが、でも天国に行くから、そこで会って永遠に生きることを思うその望みがあるのです。 人は生まれたら誰でも死を迎えるようになりますが、私たちは永遠の天国を望まなければなりません。この地上で束の間の間、富を得たり健康を得たりするために頑張るのではなくて、永遠に生きる後の世でどんなふうに生きるか、そのために、この人間耕作を受けているその時間を、どんなふうに生きるべきかを考えなければなりません。死んだ後の後の世をいつも考えなければなりません。死んだら全てが終わりでもないし、死んだら平安になるのでもありません。人間耕作の機会があるこの時に、より神様の前で正しく生きて、報いを積んで、天国で栄光と祝福を受ける皆さんになりますように。そのような希望を持ってこの地上で生きていかなければなりません。 ところが、ヨブにはこういう霊的な知識がないから、自分の思い込みの中で神様を決めつけて、責めて教えようとしていました。ヤコブ4-11に「あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守るものではなくて、さばく者です。」とあります。ヨブは律法を守るものになるべきなのに、裁くものになってしまい、神様を裁いていました。皆さんヨブはなぜこのように神様を誤解したのでしょうか?ヨブの心そのものは正しく潔白だったのですが、神様の御言葉を正確に知らなかったからです。これは今日も同じです。ほとんどの人は生まれて育ちながら、神様の御言葉を学んだのではありません。世でいろんなメディアと学校で学んだ知識を持って、自分というものを作りました。人によって価値判断基準が違うのです。それに世の支配者は敵である悪魔、サタンです。ですから、神様がご覧になると、人の価値判断が正しくないことがどれほど多いでしょうか。これを覚えていてください。 自分というものを作っておいたのですが、自分が正しいと思うことや、自分の考え方が真理に照らしてみれば、合わないことがたくさんあるのです。主を受け入れて、10年20年30年信仰生活をしたとしても、どのくらい神様の御言葉通りに生きてきたのかが大切です。自分の利益を求めて、自分の気分によって、誰かにちょっと言われたらすぐイライラしたり腹を立てたりした、そういう肉の姿がたくさんあるなら、自分は正しいと言えないでしょう。でも自分は正しいと主張するから、人と対立したり争ったりして、悩んだり苦しんだりするのです。そのように神様の前で、隔ての壁を作っているのに知らないのです。ですから私達は、自分が正しいと主張することは、無益だということを悟らなければなりません。しかし人はほとんどが自分は正しいと主張するから言い争うのです。ただ神様の御言葉である真理が基準になって、それに照らすとき正確に見分けることができます。ヨブと友達も神様がご覧になる時は、両方とも正しくないのですが、たまに自分が正しいと言い争っていました。ヨブは裁く者になって神様を決めつけて、続く本文を見るとまた友達を裁いています。ヨブ記21:27-28です。 ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私をそこなおうとするたくらみを。あなた方は言う。「権門の家はどこにあるか。悪者の住んだ天幕はどこにあるか」と。(ヨブ記21:27-28) ヨブは友達の計画を知っている。彼らが何を企んでいるのか知っていると言います。しかしそれはヨブの思い込みでした。人の心や考えは神様お一人だけ正確に知っておられます。人の思いと心はよく変わるからです。良い思いをしていても、すぐ悪い思いに変わったり、こうしようと、決めたのに自分の利益に従ってすぐ移り変わってしまうのが人の心です。これが肉の人の特徴です。ですから私たちはああしたりこうしたりして、決めたことを守らないで、二心のあるそういう移り変わる姿を捨ててこそ、心が霊に変えられます。しかし、変えられる前は、移り変わる姿がたくさんあるでしょう。自分を見てみればそうではありませんか?自分が何か決心したのに、守れなかったことはたくさんありますね。移り変わる姿を発見して、それを捨ててこそ、心が霊に変えられます。 これからはこうしようとか、明日からは祈ろう、聖書も読もう、夏のキャンプで恵みを受けたから、毎日祈ろうと決心しました。ヨブ記講解を聞きながら、言い争うことはやめようと思いました。もう子供にイライラしないで、静かな声で話そうと決心したのに、それを守れない時どれほどもどかしいでしょうか。自分でも自分を見るともどかしいですね。話をしていて、もし不平不満を言ったとしましょう。ある人と話をしながら、何か不満をぶつけたり、人の陰口を言ったりしました。それなら、後で後悔しますね。そんなことは言わなきゃよかったのにとか、そして、私は普段あんまりそんなふうに悪く思っていなかったのに、なぜ口にしたのだろう、と思うこともあるでしょう。それは自分の考えと自分の口を守れない肉の姿です このように移り変わる自分の姿を見ながら、もどかしそうに思う時があるでしょう。そのように他の人もそうだと理解するなら、言い争うことも裁くこともなくなるでしょう。皆さん、自分は移り変わる姿を全部捨てたから、今移り変わっている人を見ると、理解できませんか?そうでないでしょう。自分がそれをしている過程があったから、他の人も理解してあげることができるのではありませんか。自分なりに頑張ろうとして、自分なりに決心したのに、その心を守れなかったのだろうと、理解してあげることができるでしょう。そうしないで、あの人はなんで自分の約束したことを守れないのかと非難する前に理解しましょう。 自分は何か問題にぶつかって落ち込んでいた時は、慰められたいし、理解してもらいたいと思うのに、他の人がそんな風に見えたら、あの人はまたかとこのように思うことはありませんか?ヨブの友達のように相手の心の事情もわからないまま、その人の口の言葉だけ聞いてさばいたり、陰口を言ったりしたことはありませんか?人の口の言葉だけを聞いて、その人を決めつけることがあってはいけません。それは心に悪があるからです。その人が口にしたことを聞いたと思っても、その人の心の中ではどんな思いがあるのかわからないのです。人は移り変わる属性を持っているからです。恵みに満たされている時は、恵みに満たされて、霊的なことを言っているのですが、ちょっと落ち込んでいる時は、否定的なことをしたりするのではありませんか?その時の姿を見て、その人をむやみにさばいてはいけないのです。 ただ、ちょっと霊的に今、悩みがあるそうだ、落ち込んでいるようだと理解してあげればいいでしょう。そうではなくて、あの人は悪いとか、正しくないとか、その人と会って話したくないとか、このように悪く思ってはいけないのです。その人の口の言葉だけで、その人を決めつけてはいけないのです。その口の言葉だけを見て、その人が悪いとか信仰がないとか、このようにさばいてはいけないのです。その人の心は神様だけがご存知です。 それなら、真理と反対のことを言ったり、信仰のないことを言ったりしている人がいるなら、どうすればいいでしょうか?必要だったら、報告することはあっても、自分がその人をさばいて、その人は悪いとか、信仰がないから、そのような人に使命を与えてはいけないとか、自分の意見を言ってはいけないのです。正確に報告する、必要によって報告することはあるけれども、でも愛を持って、その人を理解しようとしなければならないのです。自分の思い込みとか自分の考え方が混ざって、その人についてさばいてはいけないのです。日常生活でそういう姿がよくあると思います。でなければ、その人の表情を見てその人をさばいたりしてはいけないのです。失礼なことになることもあるのです。 私に対しても同じです。私の表情はあまり変化がないのですが、皆さんが私を見るときの自分の心の状態とか、信仰生活の状態によって、先生は今あまり嬉しくないようだとか、先生は今ちょっと悩みがあるようだと思い込んでしまう、決めつけてしまう方もいるようですが、それも気をつけなければならないでしょう。ある方が、先生今日何か嬉しいことありましたかと言われますが、私は特にそういうことはないのです。後で話を聞いてみたら、私を見ている方が、自分なりに決めつけてしまうことがよくありました。すべてを良いことに考えたらいいでしょう。 ヨブの友達も最初は、ヨブが患難にあって苦しんでいるという話を聞いて、慰めに来ました。しかし時間が経つと、ヨブを慰めるのではなくて、ヨブをからかってあざけって呪いながら、ヨブの心を傷つけていました。ただヨブはあざける程度ではなくて、やりすぎていました。ヨブは、だから友達が自分を権門や悪者扱いしていて嘲っていると思いました。それであなた方の考えを知っている。 私を慰めるために来たのではなく、私を損なうために来たのだと、そして権門の家はどこにあるか、悪者の住んだ天幕はどこにあるかと、あなた方は私を嘲っているのではないかと言っています。 以前はヨブと親しかったし、ヨブの話を聞いて慰めに来た友達がヨブを苦しめる存在になったのはなぜでしょうか?友達が悪いせいもありますが、その悪を行うように刺激した張本人はヨブでした。ヨブの友達が、初めからヨブに悪く対したのではありません。ヨブは友達が悔い改めて立ち返りなさいと、アドバイスをしてくれる友達の話を聞き入れないで、反論して拒否していました。それで互いに自分が正しいと言っていたから、言い争うようになりました。もしヨブが真理を知っていたなら、友達がいろいろ悪い言葉を言っても、それに手向かわないで、善をもって悪に打ち勝ったでしょう。 「右の頬を打つようなものには左の頬を向けて、そして告訴して下着を取ろうとするものには上着もやって、一ミリオン行けと強いるようなものとは一緒に二ミリオン行く。」このような真理通り行ったなら、友達と仲違いすることはなかったでしょう。私たちはこういう御言葉を心に刻み、敵でも愛して良くしてあげて、善をもって悪に打ち勝つべきでしょう。相手が腹を立てて怒鳴って、言い争うからといって、自分も同じようにするなら、自分の顔につばきを吐くことになり、相手と変わらない悪人になるのです。悪に負けてしまうのです。 ローマ12:20-21に、「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。悪い人が悪を行っているからといって、同じように悪を行えば、悪に負けることです。でも善をもって行うなら、それが打ち勝つことになります。すると神様が働いてくださるでしょう。神様が働いて相手が悟るとか、その人の悪が明らかになるということがあるでしょう。でも自分が復讐しようとしてはいけないのです。 相手が自分を殴るからといって、自分も殴り返すのではなくて、殴られても善と愛をもって行うなら、それが霊的には勝利する人になります。こういう真理を頭だけで知っていてはいけません。実際皆さんの日常生活で職場でも家族の間でも、このように善を行わなければなりません。職場の同僚が自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするときどうしますか?それによって腹を立てたり気を悪くしたり、その人の陰口を言ったことはありませんか?では善をもって悪に打ち勝っていますか?勝利する人は善を最後まで行うことです。すると神様が働いてくださいます。それでついには平和を作るようになるのです。 マタイ5:11-12に「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい、喜び、おどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」とあります。故チョン・ミョンホ先生も、アフリカで宣教する時、迫害もたくさん受けました。誤解されることもよくありました。しかし元老牧師先生に教わった通りに、善だけを行いました。悪人に手向かわなかったのです。善をもって行ったら、結局は周りの人々が変えられました。それで今天国に行かれた時、どれほど尊敬され認められたのかが、明らかになったのではありませんか。善をもって行っていたら、神様が周りの人の心を動かしてくださり、神様が働いてくださって、全て働かせて益としてくださり、多くの実を結ぶようにされました。天国で報いはどれほど大きいでしょうか。これが、神様が望んでおられる善の行いであり、神様の方法なのです。ですからこの地上で不当に迫害を受けて苦しみを受けても、喜んで感謝しながら天国への望みを持って、信仰で勝利する皆さんになりますように。

「ヨブ記講解57-ヨブの思い込み」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:21~24

ヨブ記21:21です
彼の日の数が短く定められているのに、自分の後の家のことに何の望みがあろうか。(ヨブ21:21)

彼の日の数が短く定められているとは、人は永遠に生きることができないし、結局は歳月が流れれば、死ぬようになるということを意味します。つまり悪者の行いをすぐ懲らしめないで、彼が死んだ後でやっとその家や子らを懲らしめても、何の役に立つのかという意味です。悪を行った張本人はそれを悟れないから、何の役にも立たないということです。ヨブは神様が悪者をすぐ懲らしめて、神様が生きておられることと、神様が恐ろしい方であることを悟らせるべきだと言っているのです。

これは一見見ればあっているようで、そうしてこそこうだと思うかもしれません。だから真理を知らない人は、ひどく悪を行っている人を見ると、神様はなぜあんな人を放っておかれるのか?すぐ懲らしめなければと思うかもしれません。しかし悪者たちをすぐ懲らしめるからといって、悪者が減るでしょうか?そうではありません。力づくで抑えるなら、もっと反発するようになったり、もっと悪を発するようになることもあります。さらに問題が大きくなる場合もあります。悪い人を指摘したり責めたりするならどうなるでしょう?目上の人だから、すぐにはそれに反発しないかもしれません。しかし結局は反発してしまい、もっと悪を行ってしまうこともあります。だから人をむやみに指摘してはいけません。

相手のために、もちろんその人が変えられる機会を与えるために、アドバイスをすることはいいのですが、でも時間が必要です。自分の正義感によって、相手の事情を考えないで、そのように厳しく指摘してしまい、相手つまずかせてしまう場合もあります。力づくでいくら抑えたとしても、懲らしめたとしても、結果が良くない場合があります。懲らしめるよりは、広い心で愛をもって受け入れて、その人の為に、許して理解してあげて、愛を持って導く、善と愛の方法がもっと良いのです。元老牧師先生は、教会を離れて裏切ってしまった人でも、いつでも帰って来るように、いつも待っていると言われます。そしてこれまで万民の歴史の中でそういうことはいつもあったと、許してはまた許して、受け入れてはまた受け入れてきたと、変わらない愛です。それは主の心であり神様の心でしょう。私たちもそのような善の心に似ていかなければならないのです。

そういう恵みを私たちがいただいたではありませんか?自分がそんな恵みを受けたのに、なぜ人には、そんな善と愛を持って対することができないでしょうか?なぜ自分を苦しめる人は、懲らしめられるべきだと思うのでしょうか?そして厳しく指摘して、その人を教えようとするのでしょうか?そうではなくて、善と愛をもって行ってこそ、闇が退いて、光が臨むのです。だから私たちは悪者を見ながら、腹を立てたり懲らしめてほしいと思ってはいけません。すべてをご存知の神様が一番良い時に働いてくださることを信じて、自分が復讐しようとしてはいけないし、悪に手向かってはいけません。

続く本文を読むとヨブ記21:22です。
は神に知識を教えようとするのか。高い所におられる方がさばきを下すのだ。(ヨブ21:22)

高いところにおられる方が裁きを下すとありますが、ここで高いところにおられる方とは、神様を指しています。この言葉の中には、神様が自分勝手に思い通りに人々を裁いているという意味が込められています。神様は忍耐深くあられ、善であり悪であれ正確な公義によって裁く神ですが、ヨブは何故こんな風に言っているのでしょうか?今ヨブは神様に対して不平不満がたくさんあるから、神様の前で皮肉を言っているのです。ところで自分のように潔白な者を、神様が不当に苦しめていると言うならば、友達がまた激しくせめて、激しく反発して攻撃してくるでしょう。だからヨブは今ストレートに言わないで、例えを挙げて説明しています。

以前ヨブは高いところにいる人でした。ヨブは物質も知識もたくさんあったし、また周りの人々から愛されて尊敬される地位にいました。ヨブは自分で自分を考えてみても、自分は正しいし潔白で罪から離れていました。それなのに自分のような人を、神様がこのように苦しめて滅ぼそうとしているから、どれほど悔しいでしょうか。だから彼は、神に知識を教えようとするのかと言っています。つまり誰が神様を悟らせることができるのか?神様の前で誰が進言できるのか?と言っているのです。 ヨブは自分が持っている悔しさを間接的に訴えています。自分のひねくれた心を神様の前で直接にぶちまけることができなくても、遠回しに表現しているのです。相変わらず自分が正しいと正当性を主張しているのです。友達に私が見るには神様は、悪者がうまくいくようにしてくださる。だから私は悪者だからこんなふうに滅びたのではない。私は潔白なのに神様が不当に私を苦しめたのだ。神様は、悪者が悪を行えばすぐ懲らしめるべきなのに、あなた方は懲らしめを受けないでうまくいっているのではないか。だから神様は正しくないと言っているのです。 続く本文でも同じです。ヨブ記21:23-24です ある者は元気盛りの時に、全く平穏のうちに死ぬだろう。彼のからだは脂肪で満ち、その骨の髄は潤っている。(ヨブ21:23-24) つまりある人は死ぬ時になるまで、健康で心配悩みもなく裕福に暮らしているという意味です。そして彼の体は脂肪で満ち、その骨の髄は潤っているとありますが、これは、その人の職場、事業の場がうまくいって成功して、豊かになることを言っています。神様を信じないで真理にとどまっていないのに、うまくいくように見える人を指して言っているのです。反対にある人は、死ぬ時まで苦しみを受けて、祝福を受けていないように見える人もいます。皆さん、前回も似たようなケースを例に挙げて、自分の心を顧みるようにと伝えました。悪者なのにその人はうまくいっているようで、正しい人は苦しみを受けているようで不公平だと思いますか?今ヨブが話していることを聞いてみたら、皆さんも同じように考えている人はいませんか? ヨブは私の心をよく代弁してくれている。私は神様をちゃんと信じて、善良に生きていようとしてもいろいろ問題が起こっているのに、誰々は詐欺をして悪い方法を使っても、事業がうまくいっている。これは不当ではないか。ヨブは私が言いたいことを言っているのだと思いますか?しかしヨブが言っていることは、本当に間違っていて全然合っていません。豊かだからといって幸せでしょうか?貧しいからといって不幸でもないのです。かえって、財産がたくさんあると家庭の平和が壊れてしまい、兄弟の間で親子の間で喧嘩して、結局みんな滅びることもあります。 金庫の中にお金や宝石を入れておいても、盗まれるのではないかと不安です。また大きい金力を握ったとしてもそれを乱用して監獄に入れられたりします。人の欲は終わりがないから、いくらお金を貯めても、それが満足を与えるのではありません。たとえこの地上で裕福に暮らして贅沢をしたとしても、永遠の天国を得ることができないなら、何の役に立つでしょうか?お金がなくて苦しみを受ける人もいますが、お金がなくても幸せに生きている人もいます。皆さんの中には、教会を離れて悪を行った人が成功しているようで、何故だろうと思う人がいますか?しかしそういう人に関心を持つ必要もないし、そのような人がうまくいくからといって、それを妬む理由もありません。 そして本当にその人は成功しているのでしょうか?世の人々はどうでしょう。自分が持っているものを自慢したがりますね。素晴らしい所に行って、良いものを食べて、良いものを見て、いろいろ楽しんでいた後、人に見せようとするのです。しかし、それが本当の幸せでしょうか?そして実際幸せに過ごしたとしても、それを人の前で自慢しない人もいます。そして自分は豊かに生きているということを、わざと見せかけている人もいます。しかしその心の中には、本当の満足も平安も喜びもないなら、どれほど虚しいでしょうか。だからそのうわべだけ見て疑問を抱いたり、羨ましく思ったりする必要はないのです。悪者なのにその人がうまくいっているならば、その方が恐ろしいのです。 なぜなら神様は愛する子供は懲らしめる方だからです。懲らしめがないなら、私生児かもしれません。だからそういう人が成功している姿を見て、あれこれ疑問を抱くことはないのです。「悪者が栄えているのを見て腹を立てるな」と聖書にもありますね。この地上で、自分が手に入れた物質やお金は、真の幸せをくれるものではありません。天国への希望がある人は、お金がなくても喜んで感謝することができます。イエス様はルカの福音書17:21で「『そら、ここにある』とか『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」と言われました。 神の子供には、涙、悲しみ、苦しみ、死のない幸せな天国が備えられています。そして天国で生きる永遠の時間に比べれば、この地上で生きる時間は束の間です。だから今の暮らしがもし厳しくても、全然関係ないのです。心に天国を望んでいる人は、信仰と希望があるから幸せで喜びがあります。永遠に生きる自分の天国の家は、今どんなふうに建てられているのだろうと、心の中で描きながら、花婿なる主と父なる神様と、一緒に幸せに生きる日を望みながら、希望が溢れています。元老牧師先生はこのメッセージを伝えるとき、一つ証をしてくださいました。 7年間病気だったのですが、神様が癒してくださった後、力仕事をする時がありました。これも神様の摂理でした。病気は癒されたのですが、長い間寝ていたから、体は弱くなっていました。力仕事をしながら、体が健康になるようにしてくださったのです。そして同僚も良い人に会って守られたのですね。その時はとても貧しかったのです。一日に食べるお米を一食分とか、一枡分ぐらい買って、その日その日やっと食べていったそうです。すぐ隣がお米屋さんだったので朝まず食べる分を買って、そしてその日仕事をして帰ってくると、夜食べる分を買う。そして明日食べる分を、前もって買っておく余裕もなかったのです。このように貧しかったのです。 しかし神様が生きておられることを信じていたから、神様を見つけたから、いつも喜びが溢れていました。院長先生の口からはいつも賛美が流れていました。明日のことを心配しないで感謝していました。現実を見れば明日のことを心配しなければならないのに、そうしなかったのです。元老牧師先生が主の僕として召されて、教会を開拓する時は、まともな部屋もなかったし、店舗についている部屋を使っていました。暖房も入っていないそのような寒い部屋で、5人が一緒に暮らしていました。でも私も姉たちも貧しいとは思わなかったのです。毎日が幸せでした。 院長先生はまたもてなしをするのが好きで、区域のみなさんを家に呼んでごちそうして、また福音を伝えました。癒された証、神様について伝えました。そしてうちも厳しい貧しいのですが、周りに困っている人々に施しをして助けました。その時は物乞いの人々がよく道端にいたのですが、そういう人を見つけたらご飯を与えたり、またその人々が家の前で、冬の寒い日に寝ているのを見たら、布団を与えたりしました。このように施しをして助けました。このように貧しい中でもいつも喜んで感謝した理由は、救われた喜びと、神様がお父さんであり主が救い主であることを、信じる信仰があったからです。このように霊の信仰があるから、天国も完全に心に信じていました。だから束の間のこの世で、食べて飲んで豊かになることは重要ではなかったのです。より優れた天国に行くこと、天国に報いを積むのが大切でした。 この地上ではなくて、天国に望みを置いているから、どんな状況でも喜んで感謝して幸せだったのです。ですから苦しみは、誰かが与えるものではなく、自分で招くものであることを悟ってください。例えば皆さんに何か問題が起こったとしましょう。大変だと思って、心配して悩んで思い患っていると、だんだん問題が大きくなると思うようになって、肉の思いを巡らして悩んで消化不良になったりするのです。何でもないことでイライラしたり、誰かにちょっと言われたら感情を爆発させたりします。誰かが、そうさせたのですか?神様がそうさせたのですか?自分で招いたのです。何か問題を受けた時、自分がいくら心配しても思い患っても問題は解決できません。 詩篇50:15で、「苦難の日には私を呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」とあるし、ピリピ4:6には「何も思い患わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。神様に祈れば神様が全てをはたらかせて益としてくださるのに、この御言葉に従わないから肉の思いをめぐらして苦しみの沼に落ちていくのです。 ヨブがそうでした。ヨブの姿を見ながら皆さんは自分もそういう姿はなかったのか考えてみますように。以前は全てが神様の恵みで感謝だったのに、試練にあったら今まで自分が蒔いて献身したことがもったいなく感じられたり、他の人と比べて私は豊かでもないし、世を楽しむこともなかったんだと不幸だと思われますか?自分の考えと利益に合わなければ、全ては気に入らないですか?だんだん悪い方に落ち込んでしまうのです。こういう場合は黙って聖霊の助けを求めなければなりません。肉の思いが優勢になってはいけないのです。 ヨブと友達のことを反面教師にして、試練の沼から早く抜け出さなければなりません。次の時間もヨブは悪者と正しい者の結果について、自分の思い込みで決めつけて、神様を教えようとしていました。続いて次の時間に伝えます。ヨブは今友達の話に反発して反論しています。私は悪者ではないと言いながら、また神様が勝手に苦しめているのだと言っています。皆さんも自分の姿を顧みて、悔い改めて変えられます様に。

「ヨブ記講解57-ヨブの思い込み」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:21~24

ヨブ記21:21です
彼の日の数が短く定められているのに、自分の後の家のことに何の望みがあろうか。(ヨブ21:21)

彼の日の数が短く定められているとは、人は永遠に生きることができないし、結局は歳月が流れれば、死ぬようになるということを意味します。つまり悪者の行いをすぐ懲らしめないで、彼が死んだ後でやっとその家や子らを懲らしめても、何の役に立つのかという意味です。悪を行った張本人はそれを悟れないから、何の役にも立たないということです。ヨブは神様が悪者をすぐ懲らしめて、神様が生きておられることと、神様が恐ろしい方であることを悟らせるべきだと言っているのです。

これは一見見ればあっているようで、そうしてこそこうだと思うかもしれません。だから真理を知らない人は、ひどく悪を行っている人を見ると、神様はなぜあんな人を放っておかれるのか?すぐ懲らしめなければと思うかもしれません。しかし悪者たちをすぐ懲らしめるからといって、悪者が減るでしょうか?そうではありません。力づくで抑えるなら、もっと反発するようになったり、もっと悪を発するようになることもあります。さらに問題が大きくなる場合もあります。悪い人を指摘したり責めたりするならどうなるでしょう?目上の人だから、すぐにはそれに反発しないかもしれません。しかし結局は反発してしまい、もっと悪を行ってしまうこともあります。だから人をむやみに指摘してはいけません。

相手のために、もちろんその人が変えられる機会を与えるために、アドバイスをすることはいいのですが、でも時間が必要です。自分の正義感によって、相手の事情を考えないで、そのように厳しく指摘してしまい、相手つまずかせてしまう場合もあります。力づくでいくら抑えたとしても、懲らしめたとしても、結果が良くない場合があります。懲らしめるよりは、広い心で愛をもって受け入れて、その人の為に、許して理解してあげて、愛を持って導く、善と愛の方法がもっと良いのです。元老牧師先生は、教会を離れて裏切ってしまった人でも、いつでも帰って来るように、いつも待っていると言われます。そしてこれまで万民の歴史の中でそういうことはいつもあったと、許してはまた許して、受け入れてはまた受け入れてきたと、変わらない愛です。それは主の心であり神様の心でしょう。私たちもそのような善の心に似ていかなければならないのです。

そういう恵みを私たちがいただいたではありませんか?自分がそんな恵みを受けたのに、なぜ人には、そんな善と愛を持って対することができないでしょうか?なぜ自分を苦しめる人は、懲らしめられるべきだと思うのでしょうか?そして厳しく指摘して、その人を教えようとするのでしょうか?そうではなくて、善と愛をもって行ってこそ、闇が退いて、光が臨むのです。だから私たちは悪者を見ながら、腹を立てたり懲らしめてほしいと思ってはいけません。すべてをご存知の神様が一番良い時に働いてくださることを信じて、自分が復讐しようとしてはいけないし、悪に手向かってはいけません。

続く本文を読むとヨブ記21:22です。
は神に知識を教えようとするのか。高い所におられる方がさばきを下すのだ。(ヨブ21:22)

高いところにおられる方が裁きを下すとありますが、ここで高いところにおられる方とは、神様を指しています。この言葉の中には、神様が自分勝手に思い通りに人々を裁いているという意味が込められています。神様は忍耐深くあられ、善であり悪であれ正確な公義によって裁く神ですが、ヨブは何故こんな風に言っているのでしょうか?今ヨブは神様に対して不平不満がたくさんあるから、神様の前で皮肉を言っているのです。ところで自分のように潔白な者を、神様が不当に苦しめていると言うならば、友達がまた激しくせめて、激しく反発して攻撃してくるでしょう。だからヨブは今ストレートに言わないで、例えを挙げて説明しています。

以前ヨブは高いところにいる人でした。ヨブは物質も知識もたくさんあったし、また周りの人々から愛されて尊敬される地位にいました。ヨブは自分で自分を考えてみても、自分は正しいし潔白で罪から離れていました。それなのに自分のような人を、神様がこのように苦しめて滅ぼそうとしているから、どれほど悔しいでしょうか。だから彼は、神に知識を教えようとするのかと言っています。つまり誰が神様を悟らせることができるのか?神様の前で誰が進言できるのか?と言っているのです。 ヨブは自分が持っている悔しさを間接的に訴えています。自分のひねくれた心を神様の前で直接にぶちまけることができなくても、遠回しに表現しているのです。相変わらず自分が正しいと正当性を主張しているのです。友達に私が見るには神様は、悪者がうまくいくようにしてくださる。だから私は悪者だからこんなふうに滅びたのではない。私は潔白なのに神様が不当に私を苦しめたのだ。神様は、悪者が悪を行えばすぐ懲らしめるべきなのに、あなた方は懲らしめを受けないでうまくいっているのではないか。だから神様は正しくないと言っているのです。 続く本文でも同じです。ヨブ記21:23-24です ある者は元気盛りの時に、全く平穏のうちに死ぬだろう。彼のからだは脂肪で満ち、その骨の髄は潤っている。(ヨブ21:23-24) つまりある人は死ぬ時になるまで、健康で心配悩みもなく裕福に暮らしているという意味です。そして彼の体は脂肪で満ち、その骨の髄は潤っているとありますが、これは、その人の職場、事業の場がうまくいって成功して、豊かになることを言っています。神様を信じないで真理にとどまっていないのに、うまくいくように見える人を指して言っているのです。反対にある人は、死ぬ時まで苦しみを受けて、祝福を受けていないように見える人もいます。皆さん、前回も似たようなケースを例に挙げて、自分の心を顧みるようにと伝えました。悪者なのにその人はうまくいっているようで、正しい人は苦しみを受けているようで不公平だと思いますか?今ヨブが話していることを聞いてみたら、皆さんも同じように考えている人はいませんか? ヨブは私の心をよく代弁してくれている。私は神様をちゃんと信じて、善良に生きていようとしてもいろいろ問題が起こっているのに、誰々は詐欺をして悪い方法を使っても、事業がうまくいっている。これは不当ではないか。ヨブは私が言いたいことを言っているのだと思いますか?しかしヨブが言っていることは、本当に間違っていて全然合っていません。豊かだからといって幸せでしょうか?貧しいからといって不幸でもないのです。かえって、財産がたくさんあると家庭の平和が壊れてしまい、兄弟の間で親子の間で喧嘩して、結局みんな滅びることもあります。 金庫の中にお金や宝石を入れておいても、盗まれるのではないかと不安です。また大きい金力を握ったとしてもそれを乱用して監獄に入れられたりします。人の欲は終わりがないから、いくらお金を貯めても、それが満足を与えるのではありません。たとえこの地上で裕福に暮らして贅沢をしたとしても、永遠の天国を得ることができないなら、何の役に立つでしょうか?お金がなくて苦しみを受ける人もいますが、お金がなくても幸せに生きている人もいます。皆さんの中には、教会を離れて悪を行った人が成功しているようで、何故だろうと思う人がいますか?しかしそういう人に関心を持つ必要もないし、そのような人がうまくいくからといって、それを妬む理由もありません。 そして本当にその人は成功しているのでしょうか?世の人々はどうでしょう。自分が持っているものを自慢したがりますね。素晴らしい所に行って、良いものを食べて、良いものを見て、いろいろ楽しんでいた後、人に見せようとするのです。しかし、それが本当の幸せでしょうか?そして実際幸せに過ごしたとしても、それを人の前で自慢しない人もいます。そして自分は豊かに生きているということを、わざと見せかけている人もいます。しかしその心の中には、本当の満足も平安も喜びもないなら、どれほど虚しいでしょうか。だからそのうわべだけ見て疑問を抱いたり、羨ましく思ったりする必要はないのです。悪者なのにその人がうまくいっているならば、その方が恐ろしいのです。 なぜなら神様は愛する子供は懲らしめる方だからです。懲らしめがないなら、私生児かもしれません。だからそういう人が成功している姿を見て、あれこれ疑問を抱くことはないのです。「悪者が栄えているのを見て腹を立てるな」と聖書にもありますね。この地上で、自分が手に入れた物質やお金は、真の幸せをくれるものではありません。天国への希望がある人は、お金がなくても喜んで感謝することができます。イエス様はルカの福音書17:21で「『そら、ここにある』とか『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなた方のただ中にあるのです。」と言われました。 神の子供には、涙、悲しみ、苦しみ、死のない幸せな天国が備えられています。そして天国で生きる永遠の時間に比べれば、この地上で生きる時間は束の間です。だから今の暮らしがもし厳しくても、全然関係ないのです。心に天国を望んでいる人は、信仰と希望があるから幸せで喜びがあります。永遠に生きる自分の天国の家は、今どんなふうに建てられているのだろうと、心の中で描きながら、花婿なる主と父なる神様と、一緒に幸せに生きる日を望みながら、希望が溢れています。元老牧師先生はこのメッセージを伝えるとき、一つ証をしてくださいました。 7年間病気だったのですが、神様が癒してくださった後、力仕事をする時がありました。これも神様の摂理でした。病気は癒されたのですが、長い間寝ていたから、体は弱くなっていました。力仕事をしながら、体が健康になるようにしてくださったのです。そして同僚も良い人に会って守られたのですね。その時はとても貧しかったのです。一日に食べるお米を一食分とか、一枡分ぐらい買って、その日その日やっと食べていったそうです。すぐ隣がお米屋さんだったので朝まず食べる分を買って、そしてその日仕事をして帰ってくると、夜食べる分を買う。そして明日食べる分を、前もって買っておく余裕もなかったのです。このように貧しかったのです。 しかし神様が生きておられることを信じていたから、神様を見つけたから、いつも喜びが溢れていました。院長先生の口からはいつも賛美が流れていました。明日のことを心配しないで感謝していました。現実を見れば明日のことを心配しなければならないのに、そうしなかったのです。元老牧師先生が主の僕として召されて、教会を開拓する時は、まともな部屋もなかったし、店舗についている部屋を使っていました。暖房も入っていないそのような寒い部屋で、5人が一緒に暮らしていました。でも私も姉たちも貧しいとは思わなかったのです。毎日が幸せでした。 院長先生はまたもてなしをするのが好きで、区域のみなさんを家に呼んでごちそうして、また福音を伝えました。癒された証、神様について伝えました。そしてうちも厳しい貧しいのですが、周りに困っている人々に施しをして助けました。その時は物乞いの人々がよく道端にいたのですが、そういう人を見つけたらご飯を与えたり、またその人々が家の前で、冬の寒い日に寝ているのを見たら、布団を与えたりしました。このように施しをして助けました。このように貧しい中でもいつも喜んで感謝した理由は、救われた喜びと、神様がお父さんであり主が救い主であることを、信じる信仰があったからです。このように霊の信仰があるから、天国も完全に心に信じていました。だから束の間のこの世で、食べて飲んで豊かになることは重要ではなかったのです。より優れた天国に行くこと、天国に報いを積むのが大切でした。 この地上ではなくて、天国に望みを置いているから、どんな状況でも喜んで感謝して幸せだったのです。ですから苦しみは、誰かが与えるものではなく、自分で招くものであることを悟ってください。例えば皆さんに何か問題が起こったとしましょう。大変だと思って、心配して悩んで思い患っていると、だんだん問題が大きくなると思うようになって、肉の思いを巡らして悩んで消化不良になったりするのです。何でもないことでイライラしたり、誰かにちょっと言われたら感情を爆発させたりします。誰かが、そうさせたのですか?神様がそうさせたのですか?自分で招いたのです。何か問題を受けた時、自分がいくら心配しても思い患っても問題は解決できません。 詩篇50:15で、「苦難の日には私を呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」とあるし、ピリピ4:6には「何も思い患わないで、あらゆる場合に、感謝を持ってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」とあります。神様に祈れば神様が全てをはたらかせて益としてくださるのに、この御言葉に従わないから肉の思いをめぐらして苦しみの沼に落ちていくのです。 ヨブがそうでした。ヨブの姿を見ながら皆さんは自分もそういう姿はなかったのか考えてみますように。以前は全てが神様の恵みで感謝だったのに、試練にあったら今まで自分が蒔いて献身したことがもったいなく感じられたり、他の人と比べて私は豊かでもないし、世を楽しむこともなかったんだと不幸だと思われますか?自分の考えと利益に合わなければ、全ては気に入らないですか?だんだん悪い方に落ち込んでしまうのです。こういう場合は黙って聖霊の助けを求めなければなりません。肉の思いが優勢になってはいけないのです。 ヨブと友達のことを反面教師にして、試練の沼から早く抜け出さなければなりません。次の時間もヨブは悪者と正しい者の結果について、自分の思い込みで決めつけて、神様を教えようとしていました。続いて次の時間に伝えます。ヨブは今友達の話に反発して反論しています。私は悪者ではないと言いながら、また神様が勝手に苦しめているのだと言っています。皆さんも自分の姿を顧みて、悔い改めて変えられます様に。

「ヨブ記講解57-ヨブの思い込み」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:19~20

愛する皆さん。前回はヨブが友達の話、すなわちあなたは悪者だから神を敬わないものだから、このように呪われて滅びているのだと言っていることを、反論しようとしていました。ヨブは、悪者たちもうまくいって栄えているのではないか、神様の働きはこうすることもああすることもある。あなた方が言ったように、今試練に会っているからといって、私は悪者であるわけではない、自分はそうではないと主張していました。自分の正当性を主張するために、こう表現していましたが、私たちは悪者に対しても忍耐深くあられる神様の愛を悟ることができました。

しかし神様の愛とは違って、悪者に対して失敗してほしい、裁かれてほしいと思うクリスチャンがいます。それを罪だと思わないのです。あの人はひどく悪いことをしたから、神様の御言葉に、悪者は裁かれるとあるからと言いながら、自分が人を裁いて罪に定めたり憎んだりするのです。それを正当化するのです。あの人は悪い人だから、試練にあって滅びることは当然だと思ったり、もし悪い人が栄えるように見えるなら、それが嫌で腹を立てることはなかったのか顧みましょうと言いました。こういう思いは悪です。悪者がうまくいくようだから、それを妬む心があるし、不幸で欲しいと思う憎しみがあるのです。またあの人は悪者だから当然、刑罰を受けるべきなのに、なぜうまくいっているのかと思うことは、その人を罪に定めることであり、自分が神様のように裁く人になっているのです。

また自分と人を比べて、私はあの人より信仰があるのに、なぜ私はうまくいかないのか、なぜ私はまだ貧しいのか、悪い人はなぜ裕福になっているのかと思って気を落としたり、神様に対して不満を抱いたりするなら、どれほど悪い心でしょうか。このような悪があるから問題が解決されないし、癒されないし、栄えることはないのです。ヨブと友達の話を通して、私達は自分の悪い考えと心を発見しなければなりません。そしてこれからは、悟ったことで終わるのではなくて、心を割礼し、悪者でも哀れみ、よくしてあげる、善の段階まではいる幸いな皆さんになりますように。今日もメッセージを聞くとき、神様の深い善と愛を悟りますように。そして神様の心に似た良い子供になりますよう、主の御名によって祈ります。

ヨブ記21:19です。
神はそのような者の子らのために、彼のわざわいをたくわえておられるのか。彼自身が報いを受けて思い知らなければならない。(ヨブ21:19)

これはヨブが神様を責めて教えていることです。前も言ったように、ヨブ記はヨブと友達の対話を記したものだから、真理と、真理と反対のものが混ざっていることを、念頭に置かなければなりません。彼らの話の中で、どれが真理で、どれが真理と反対のものなのかを、よく見分けなければなりません。もしヨブ記から真理でない内容を引用して、間違って使うなら大きい間違いになります。

ヨブ記を読んでみれば、ヨブがいろいろ神様の御言葉を引用したりしているのですが、間違って使う場合もあります。神様は与え神様はまた取るとか、このように引用しています。でも神様は苦しみを与える方ではありません。それで試練にあって苦しみにあっているなら、それは神様がくださったものだと思ってはいけないのです。でもヨブはそれを誤解してしまいましたね。神様は自分に与えて、また取り上げる方だというふうに誤解していました。また不満にも思っていました。神様は祝福する方で私たちが幸せになるのを望んでおられる方で、私たちを呪ったり私たちを苦しめる方ではないのです。人の悪によって悪魔サタンがもたらすのです。

神様はそのサタンの訴えを聞き入れてくださり、またそれによって試練にあって悔い改めてほしいから、そのようにしてくださる場合はありますが、でもヨブはそれを知らなかったのですね。だから自分が災いにあっていることは、神様が勝手にそのように自分を苦しめているのだと思いました。このようにヨブが自分の思い込みで間違って決めつけていたから、問題が解決されなかったのです。ヨブ記の中にはこのように真理と反対の内容があるから、皆さんはそれが合っているかどうなのかを、真理に照らしてよく見分けなければなりません。彼らが言っていることが正しいように見えてもそうでない場合もあるのです。だから神様のことを誤解してはいけないのです。 本文でヨブは神様について、悪い人の罪と悪を本人に報いるのではなく蓄えておいて、何の過ちもないその子らに報いる悪い神様だと言っています。ヨブはこう意見を出しています。神様は悪者自身に報いを受けるようにして、その本人が思い知るようにするべきだと言っています。ヨブは神様を誤解しているだけではなくて、さらに自分が裁くものになってしまい、神様を教えようとしているのです。神様は全ての人が救われるのを望んでおられ、悔い改めることを待っておられ、忍耐深くあられる方です。しかし悪い人がそれ以上取り返しのつかない限界点に立ってしまったときは、報いが臨みますが、それを本人に臨むだけでその子らに報いるのではないのです。 それならヨブはなぜ、このように間違ったことを言っているのでしょうか?出エジプト記20:4以下を読むと、偶像に使える罪に対する報いが三代、四代まで及ぶとあります。ヨブは先祖からこのような御言葉を聞いて知っていたから、これを引用していました。しかし私たちはこれを誤解してはいけません。神様は愛と公義を持って働いてくださる方です。親が偶像に仕えたとか、神様の前に何か大きい悪を行ったとしても、その子供が神様の御言葉に留まっているなら災いは臨みません。本人が御言葉通りに生きていないから、偶像に仕えていた親や先祖の罪が三代、四代まで臨むのであって、本人が主を受け入れて真理にとどまっているなら、正しい神様が守って下さるのです。 エゼキエル18:20に「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」とあります。神様の御言葉はこうなのです。出エジプト記では、偶像に仕える人の報いが三、四4代にまで及ぼすとあったのに、なぜここでは、子は父の咎について負い目がない。父もその子の咎について負い目がないと、なぜ御言葉が違うのかと誤解してはいけません。しかしこれまで説明を聞いた皆さんならわかるでしょう。本人が神様を受け入れないで、神様を信じていないならば、親の罪と悪が受け継がれるようになるのです。また偶像に仕えていた親の罪の影響を受けるようになるのです。神様に立ち向かったその罪と親の悪が、その子供が同じように光の中を歩んでいなければ臨むのです。しかし子供が神様を信じて御言葉通りに生きているなら、親のそのような悪い影響は臨まないのです。このような霊的な原理をよく悟っていなければなりません。すると神様を誤解することもないし、問題の原因も把握できるのです。 例えば親が悪い人ですが、その息子は心の良い人で真理にとどまっているならどうでしょう。すると神様は親の罪をその正しい息子に報いるようにするでしょうか?そうではありません。神様は公義で正しい方です。ところで、もし父親が悪を積んでいって悔い改めないで死んで、その息子も父と同じように悪を行っているならどうでしょう。悪い息子が父親の罪の報いまで受けるようになって、父親が受けるべき罵りも彼に帰するのです。父親の悪を見て学び成長したから、周りの人々から非難されるようになるのです。このように父親が悪に悪を積んでいけば、その息子、子孫にも影響及ぼすしかありません。親から受け継いだ悪に、又本人も悪を積んでいくからその罪に対して報いが臨むのです。ですから自分が罪を犯したなら、これが子供に影響がいかないように、速やかに悔い改めて立ち返らなければなりません。 親の罪が子供に報いとして臨むことだけでなく、先ほども言ったのですが、親が罪と悪の中で生きているなら、子どももその親の姿を見て真似をしてそれを学ぶのです。子どもは親の鏡だとも言いますね。万民の子どもはどうでしょう?親が祈って賛美して礼拝する姿をいつも見ていました。それを学びました。しかし親が信仰生活を正しくしていなければどうでしょう?子どもたちが幼稚園に行ったり学校に行って、汚い言葉を学んだり、また世の歌を学んだり、世の友達とぐれたりする姿もあるのです。親が聖霊に満たされて恵みに満たされていれば、家族も子どもたちもその影響を受けて幸せなのですが、そうでなくて悪を行ったりすれば、家庭の平和が壊れたりするのです。だから親の皆さんは今、自分の子供、小さい子供がいるならば、どんな影響がいくのか顧みられますように。 子供たちに問題が起こって、それによって親が悔い改めるように、神様が働いてくださる場合もあります。しかし親が悔い改めないで立ち返らないで、ことさらに罪を犯しているならば、子どもにも悪い影響がいくのです。真理にあって生まれて成長して、天国を知って神様を愛する、そういう子どもに育てなければなりません。だから救われるのですね。でもある時から、親が信仰生活を正しくしなければ、子どもたちも信仰を失うこともあります。それならどれほどもどかしいことでしょうか。いくら良いものを食べさせて良い服を着させても、子供は霊的に真理ににあって成長できないなら、天国を望まなければ、どれ程可哀そうでしょうか。だから親は正しい信仰生活を、子どもの前で見せなければなりません。普通、人に試練患難や苦しみがやってくるのは、真理と反対のことをしているから、敵である悪魔サタンが神様の前で訴えるからです。 神様はエバを誘惑して、善悪の知識の木を取って食べるようにした蛇に、お前は一生腹這いで歩き、ちりを食べなければならないと言われました。ここでちりとは、霊的に土地のちりで造られた人を意味しています。私たちのことです。蛇は霊的に敵である悪魔サタンのことです。ですから私たちが御言葉の中に生きていなければ、敵である悪魔サタンが、神様の前に訴えるようになって、神様はそれを聞き入れてくださるから、試練患難が臨むのです。私は主を受け入れた神様の子供だから、もう敵である悪魔サタンの妨げを受けないなら良いでしょう。しかし天国に行く前は、自分の中に真理と反対のものがあって罪を犯すならば、敵である悪魔サタンに訴えられるのです。それでちりで造られた人だから、そういう影響を受けるのです。光の中を歩んでいるならば守られるのですが、そうではなくて闇の中にいるから守られなくて、苦しみにあうようになるのです。敵である悪魔サタンの餌食になってしまい、その罪があるから神様の前で訴えられるのです。 世の人は敵である悪魔サタンの支配下にいるのですが、クリスチャンだとしても光の中を歩んでいなければ、サタンに操られることがあります。このように試練患難にあったらどうでしょう。その過程を通して、自分の過ちを悟って悔い改め立ち返るならば、良い結果になるでしょう。ヨブの場合も、サタンがヨブを訴えたら神様はそれを聞き入れてくださいました。ヨブは行いだけを見れば、正しくて潔白で欠けているところはなかったのですが、でも本性の中の悪がありました。それで神様はヨブが試練にあって、その本性の中の悪まで明らかにされて、それを徹底的に引き抜いて、完全な御霊の人になってさらに大きい祝福を受けるようにされました。 ところで、試練にあっていながらも悟れない人もいますが、罪を悟って知っていながらも、自分の悪のため相変わらず罪を犯していく人もいます。試練にあったら、真理の御言葉を聞いたことがあるから、悟って悔い改めるならば祝福です。悔い改めて、悪はどんな悪でも避けていくならばそれは祝福です。霊肉ともに祝福です。しかし試練にあって、なぜその試練が来たのか原因もわからないまま、神様が自分を苦しめていると言いながら、そのまま何もしていなければ、ただ不満ばかり文句ばかり言っているなら何も解決できないのです。そして自分の罪のためだと知っていながらも、相変わらず罪を犯す人もいるのです。こういう人の場合は罪が積まれて神様が許すことができない限界線に至ってしまうと、報いが臨むのです。 私たちが罪を犯したり真理と反対のものを行っていれば、神様に守られないのです。御使いも離れてしまうのです。だからいろんな問題が起こるのです。今そういうことを言っているのではありません。ことさらに罪を犯していく人、それで悔い改めない人が限界線にまで至ったら、恐ろしい報いが臨むということです。災いが臨むのです。例えば、創世紀15:16を見ると、神様はアブラハムに、「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言われました。神様はアブラハムに、その子孫がカナンの地を征服すると約束されましたが、そのためにはその地の住民を追い出さなければなりません。そうしてこそイスラエルの民がその地に入って住むことができますね。 ところで神様はイスラエルの民のために、今住んでいる住民をただ追い出したのではありません。彼らが裁きを受けて、追い出されるほどの罪と悪が満ちたときに、追い出されるようにされました。神様は選民イスラエルのために、そのイスラエルの民にカナンの地を与えるために、今住んでいる異邦人を、神様の力でただ滅ぼしたのではありません。そういう神様ではありません。公義があります。彼らの悪が満ちる、彼らの咎が満ちる時まで、忍耐深くあられ待ってくださいました。その後、彼らの罪によって裁かれるようにされました。すべての懲らしめと裁きは、神様の公義によるものです。 しかしこのような公儀を知らないヨブは続く本文でも、自分の思い込みで神様を誤解して責めていて教えようとしています。ヨブは神様が悪を行った人を、すぐ裁いて懲らしめるべきなのに、そうしないで彼の災いを蓄えておられる、そして後でその過ちのない子等を懲らしめるのかと言っていました。 そして本文ヨブ記21:20ではこう言っています。 「彼の目が自分の滅びを見、彼が全能者の憤りを飲まなければならない。」(ヨブ21:20) 悪者は当然懲らしめを受けて、自分の滅びを自分の目で見るように、神様がそうなさるべきだと言っています。神様が全能ならば、その悪い人、本人が懲らしめを受けるように、災いを受けるようにすべきだと言っています。だから全能者の神様はこんなに恐ろしい方だと、思い知らせるべきだと言っています。これは友達に言っていることです。つまりあなた方は悪いのに、今何の問題もないから不公平じゃないのか。あなた方のように悪いものは神様がすぐに懲らしめて、思い知らせるべきだという意味で言っているのです。皆さん今ヨブの心はどうでしょう? 人の中には、もし悪者が懲らしめを受けて不幸になるなら、それを見ていい気味と思ったり、胸がすっとする人もいるでしょう。今ヨブの心がこうなのです。それは自分の中に悪があるからです。心の悪がなければ、悪者でもその人が失敗して、滅びて懲らしめられることを喜べません。神様は一人でも滅びに至るのを望んでおられません。だからひとりでも多くのひとが悔い改めるのを望み、千年が一日のように、一日が千年のように待っておられます。このような神様の心と愛を知らなかったヨブは、自分の悪と思い込みで神様を裁いて、悪い神様に定めています。もしかして皆さんにはこういう心はないのか顧みてください。それで発見されたなら変えられましょう。神様が望んでおられる善と愛を所有しましょう。 先週に続いて今日も聞いているのですが、ヨブの話を聞きながら自分の心を照らしてみなければなりません。顧みなければなりません。なぜあんな悪い人がうまくいっているのか、そのような悪い人はすぐ懲らしめられるべきではないかとか、その悪い人が今失敗したという話を聞いたら、 当然だと思うそういう姿はありませんでしたか?今はそう思っていないとしても、前そういうことがあったならば、その自分の心にある悪を本当に徹底的に全部捨てているのか顧みければなりません。神様の愛と反対の憎しみや妬みがあったということを悟ったならば、それで終わってはいけません。その根本の罪の性質、悪を捨てなければならないのです。 神様の国を妨げて、教会で問題を起こして聖徒を苦しめた人が、今なぜ裁かれていないのか?なぜうまくいっているのか?と疑問を抱いたこと、ああこれも神様の前で悪だったのですね。申し訳ありませんと、毎日自分を顧みながら、そういう悪を捨てようと努力しなければならないのです。そして周りでも、もしか自分をいじめている人や、自分に嫌味を言う人がいますか?その人に対してどう思っていますか?嫌だとか苦手とか会いたくないと思ったり、不満を抱く姿はありませんか?本当にその人を理解して愛することができるでしょうか?ヨブ記講解を聞きながら、ヨブはそうだった。ヨブの友達はそうだった。こうしなければならないと唯聞いているだけではありませんか?自分自身に適応しなければならないのです。

「ヨブ記講解56-忍耐深くあられる神様」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:16~18

今日三つの分野について伝えます。もしかして自分に当たる分野はないのか顧みますように。

第一、なぜ悪者が生きながらえてうまくいくのかと、疑問を抱いて腹を立てる場合です。
神様は、こんな風に考えることが、自分に悪があるということだと悟らなければならないと言われます。
詩編37:1「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」とあります。ところで自分の心の中に悪があるから、悪者がうまくいくのを見ると妬み、彼が滅びて不幸になることを望むのです。その人を妬んでいるのです。その人がうまくいくのが嫌なのです。しかしそれを認めないのです。悪者は裁かれなければならないと言うのです。しかし裁きをするのは神様のなさることです。自分が人をああだこうだと裁いてはいけないのです。また愛は悪いことを思わないのです。

もし悪者が呪われてうまくいかないのを望んでいるなら、それは愛のない姿で、反対に憎んでいるということです。イエス様はすべての人を愛してくださり、悪い人でも憎まなかったのです。そして、悪い人に手向かってはいけないと言われました。敵をも愛して、あなた方を迫害するもののために祈りなさいと、教えてくださいました。このような主の善と愛に似ていかなければならないのに、そうしないで、悪い人が滅びて裁かれるのを望んでいるなら、いけないでしょう。そういう心を持って、どうしてより優れた天国に行けるでしょうか?

私は悪者に対してそんなふうに考えていないから、私とは関係ないと思いますか?悪い人に対してはそう思わなくても、一緒に働いている同僚に、あの人が自分と意見が合わないとき、その人は何でいつも私のことを反対するのかと思ったり、そしてあの人がしていることはよくないのに、なぜ認められているのかと、心の中で不満を抱いたり、つぶやいたりしているのでありませんか?そしてある人は、あの人はなんで私にこんな風にするのか?牧者の心ならあんな風にはしないだろうにと思いますか?自分を指摘する人に対して、そんな風に思う人はいるかもしれません。しかしそれは言い訳ではありませんか?自分が正しいあの人は正しくない、こんなふうに思うのではありませんか?そしてあの人は欠けているところも多いのに、なぜ会長に選ばれたのだろうとか、なぜ教会で用いられているのかとか、心の中でもし疑問を抱いていたり不満を持っているならば、それも正しくないでしょう。だからこういうメッセージを聞きながら自分自身を顧みて、自分に代入してみてください。


自分より教会で認められて褒められている人を見て、あの人はそんな資格はないのにとか、あの人はこういうちょっと良くないところがあるのにとか思いますか?明白な悪い人でもないのに、どうしてその人を裁いているのでしょうか?神様は明白な悪を行う人に対しても、腹を立てるなといわれました。妬みを起こすなといわれました。しかしそうでもないのに、ああだこうだと心の中で妬んだり裁いたりするのでしょうか。

第二です。悪者の子供と子孫が栄える理由は何だろうと思うときです。
ここでも悪者は当然刑罰を受けるべきではないかという心があるからです。悪者どもを罪に定めて、彼らが罪の代価を受けてほしいと思うのです。これも善ではありません。人を裁くこと、罪に定めることは悪です。人を裁くことを人がしてはいけません。神様にその権限があります。私たちは神様の御言葉を守る側で、その御言葉をもって人を裁く権限はないのです。ただこれは善なのか悪なのか、真理なのか真理と反対なのか、見て正確に知っていることはいいのですが、そうではなくてある人に対して、あの人は悪いのに正しくないのにとか、こういう欠けているところがたくさんあるのにとか思うことは、人を裁くことです。

そしてあの人は、こんなに悪いことをしたから滅びるだろうとか思うのでしょうか?それは罪に定めることでしょう。どれほど高ぶっているでしょうか。人が神のようになっているのです。このように罪に定めることは、本当に大きい悪です。もちろん私たちは、何が正しいか正しくないか、真理かそうでないかを、正確に見分ける必要はあります。しかし、真理をもって人をさばいてはいけないのです。自分自身が善を選び、真理を選んで御言葉を守っていけばいいのです。人間耕作を受けて信仰生活をするとき、人の実を見て、その人が真理の人なのかそうでないかを見分けることは必要ですが、その人を裁いたり罪に定めてはいけないのです。 第三です。悪者に神様の呪いが臨むどころか、平安に豊かに生きている姿を見ると何か腑に落ちないとか、理不尽だと思うことはありませんか? 例えば悪い人々は人をだましたり、色々悪い知恵を使ってうまくいっているようですが、自分は御言葉に従おうとして、嘘をつかないで正道を歩んでいたら、かえって損をするようなのです。神様が生きておられるなら、御言葉に従うために頑張っている私が祝福を受けるべきなのに、なぜ悪い人がうまくいくのかと疑問を抱いたり、失望したりがっかりしたり不満を抱いたりするのです。神様の前につぶやいたりするのです。もしこういう姿があるなら、自分も悪者と同じ悪があることを、悟らなければなりません。神様は相手を悪いと裁く前に、自分の中には悪がないのか、チェックしてみるようにと望んでおられます。 皆さん、悪い人がうまくいけばどうですか?ここにも神様の摂理と御心があると思います。悪者がうまくいくからといって、どうして憎んだり妬んだりするのでしょうか?神様の御心があります。もし悪いからといってその人を憎んでいるなら、自分の中にも悪があるのです。この悪を捨ててこそ、神様に喜ばれる霊の愛が望みます。私はこのように考えたことがあります。以前のことです。私の心が狭かったとき、私についてあれこれ噂話をしたとか、陰口を叩いたという話を聞くときがありました。するとその人が嫌だとか嫌いと思ったことはありませんが、ちょっとがっかりしたり失望したりすることがありました。そして私はそうではないと、言い訳をしたくなることがありました。ちょっと悔しいなと思ったこともありました。もちろん以前のことです。 しかし私は、最近の教会の試練の時、心の中で全然そういう姿がないのです。本当に心が穏やかで平安なのです。私についてあれこれの噂話があったようですけれども、それについて言い訳したいと思ったこともありません。そしてその人に対して、何か不満を抱いたこともありません。ただ、神様の前で祈りました。そして、一瞬ちょっと悲しいなと思ったこともあったのですが、それも神様の前に悔い改めました。そして、相手のために祈りました。そして、私が以前、似たような状況に置かれたときは、そうではなかったのに、今はこのように、神様くださる平安があると思って感謝でした。心が平安で幸せなのです。そして私のことを悪く言っている人は、どれほど信仰生活がつらいだろうかと思ったら、哀れむようになるのです。私の心は穏やかなのです。霊の愛が心の中に満たされると、心はこのようにだんだん広くなって、神様がくださる平安と安らぎ喜びがあるのです。神様はこのようになるように望んでおられます。 皆さんにもいろんな霊的な攻撃があるかもしれませんが、そういう時皆さんの心を守りますように。私はそうじゃないのに、悔しいとか理不尽だとか思って、行って問い詰めようと思ったり、行って言い訳をしようと思ったりする姿はないのか、顧みますように。でなければ落ち込んでしまったり、失望してしまったりして、神様の前で祈る力もない、そういう姿はなかったでしょうか?でも本当に信仰がある人ならば、心に平安がいつもあって、喜びが溢れているから、神様も喜ばれ、そのような子供を祝福してくださるのです。でもそうではなくて、本当に辛くてその人が嫌で、そして、心の中でその人への憎しみがあったり、不満があったりしてはいけないのです。だから自分の心の中にある、こういう悪や憎しみを発見して捨てますように。霊の愛が臨めば、相手がうまくいくのを望みます。 そして彼らの立場を理解して、憐れむのです。イエス様も弟子たちも昔の信仰の人々もそうでした。モーセは、神様が罪を犯したイスラエルの民を滅ぼそうとされた時、自分の命を引き換えにして民を救ってくださいと祈りました。民はモーセに何度も立ち向かいました。何度もモーセを殺そうとしました。そして神様の前にとんでもない罪を犯しました。エジプトから神様が救いの道に導こうと連れ出したのに、彼らは荒野でモーセに立ち向かって、エジプトに帰った方がいいとか(と)言いながら、モーセを殺そうとしたのです。それでもモーセは、神様の前で命をかけて祈って、彼らを救ってくださいと求めました。皆さんもこういう心でなければならないのです。新しいエルサレムに行くにはこういう心でなければならないのです。そのために自分を顧みて悔い改めて立ち返らなければならないのです。 使徒パウロはローマ9:3に「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言いました。ステパノ執事は、何の罪もないのに石打ちにされて死にかけていながらも、恨むのではなくてひざまずいて、「この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。私たちもこのような全き愛を慕って所有していきましょう。そうすると神様が備えられた美しい新しいエルサレムに入れるでしょう。この地上でもあふれる祝福を受けられると信じます。 続くヨブ記21:-17-18です。 幾たび、悪者のともしびが消え、わざわいが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを分け与えることか。彼らは、風の前のわらのようではないか。つむじ風に吹き去らされるもみがらのようではないか。」(ヨブ21:17-18) 16節までは悪者がうまくいくことを言っていましたが、ここでは悪者のともしびが消えと言っています。反対のことを言っています。悪者のともしびが消えるとは、彼らの職場、事業の場が滅びて、家庭が破壊されて、苦しみ、呪われ、病気によって苦しむこと、今のヨブのようになる状態を言っています。風の前のわらのようだとあります。わらとは、稲や麦の茎を干したものを言っています。わらよりもずっと軽いもみがらにつむじ風が吹きつけるなら、どうなるでしょうか。つむじ風が吹くなら跡形もなく消えてしまうでしょう。ここでわらとかもみ殻は悪者に例えています。風は神様が働く災いを言っていて、つむじ風はそれより大きい呪いを言っています。いくら強い人でも神様の権威の前では弱い存在です。ところでヨブは、神様が悪者をわらやもみがらのように弱くさせた事例が、どのくらいあったのかと聞いています。悪者が風の前のわらのように、つむじ風に吹きされるもみがらのようになることが、幾たびあるのかと言っています。つまりそういうことはあまりなかったと言っているのです。 ヨブは既に先祖から神様の働きについて聞きました。神様はいくら悪者でも、すぐ懲らしめたのではなくて忍耐深くあられ、待ってくださることがよくありました。これをヨブは例えを通して説明しているのです。友達に私が聞いたことによれば、悪者に災いが臨み、神の御怒りが臨んだ場合はあまりなかった。だから悪者が上手くいって生きながらえて、彼らの友達も成功するのではないかと言っているのです。皆さんそれではどうしてヨブが言う通りに、悪者がそんなふうにうまくいくように見えるのでしょうか?今日のメッセージのタイトルでありテーマです。 第二ペテロ3:8-9です。「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえってあなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」これが答えです。神様は悪者に対しても忍耐深くあられるのです。それは一人も滅びることを望まず、すべての人が救われるのを望んでおられるからです。神様の大きい愛と摂理を悟らなければなりません。 エジプトのパロ王も、神様は一回で滅ぼしたのではありません。耐え忍びまた耐え忍び待ってくださいました。十回も神様が生きておられることと、全能であることを見せて、悔い改めるための機会をくださったのですが、最後まで悪を行ってイスラルの民を追いかけて行き、結局は死んだのです。サウル王がダビデを殺そうと全土を追いかけていたとき、ダビデの方で二回もサウル王を殺せる機会があったのですが、ダビデは殺さなかったのです。それがサウル王にとっては、悔い改めることができる機会だったのに、その機会を逃してしまい、結局は惨めな死を迎えました。 これと反対に機会が与えられた時、悔い改めて神様に憐みを受けた場合があります。ヒゼキヤ王の息子マナセです。異邦人のアッシリアに仕えて、偶像を受け入れて、霊的にひどく堕落して神様に立ち向かいました。それでアッシリアの侵入によってバビロンに捕虜として捕まえられてしまいました。するとマナセは神様の前に徹底的に悔い改めて、神様が憐れんで下さり、国に戻ってくることができました。神様は忍耐深くあられる方です。その間悪者が悪を行って、だんだんひどい悪を行うかもしれませんが、それでも神様は機会を下さり、また待ってくださるのです。そしてこのように悔い改めて立ち返る人もいます。しかし立ち返らないで続けて悪を積んでしまい、滅びに向かうこともあります。神様はそれでも悔い改めてほしいと思い、忍耐深くあられるのです。 そしてニネベの民はどうでしたか。悪によって裁かれる状況になったのですが、神様はヨナを使わして裁きを宣言するようにして、彼らに悔い改めの機会を下さいました。ヨナの警告を聞いた王と民が断食して悔い改めたら、神様は憐れんでくださり、裁きを思いを直しました。神様はそういう方なのですが、ヨナは神様の深い愛を悟れなかったのです。ニネベに行って裁きを伝えなさいと言われた時、ヨナは神様の御声に聞き従わなかったのです。それで後で悔い改めて行ったのですが、行って裁きを宣言したら、王と民が悔い改めて断食して神様にすがったのです。それで神様はそれを許してくださいました。 しかしヨナはそれが嫌だったのです。なぜならヨナはその国が敵国だったし、自分たちを苦しめるアッシリアの都市だったからです。だから彼らがこのように許されて、神様が彼らを立ち滅ぼさないことについて不満を抱いていました。私が行ってもし裁きを宣言するなら、彼らは悔い改めるでしょう。だから私は行かなかったのですと、神様の前でつぶやいていました。それでも神様はご自分の愛をヨナが悟ってほしいと思っておられたのですが、でもヨナは神様のそのような深い愛を悟ることができませんでした。自分の敵国のニネベの民が滅びるのを望んでいたのです。そして神様が許して下さったら、それについて不満を抱きました。皆さんはそういう姿はありませんか? 自分の敵で自分を苦しめる人、害を与える人を、もし神様が許して下さるなら、それについて神様の愛を悟って喜ぶ姿でしょうか?そうでなければ理解できなくて、なぜあのような人が成功するのか、うまくいくのかと疑問を抱いたり、なぜ神様は彼らを懲らしめないのかと思うことはなかったでしょうか?それならヨナと同じこと、同じ心でしょう。そういう姿があるなら自分を顧みて悟って悔い改めましょう。神様は悪者でも、悔い改めて欲しいと望んでおられるから、忍耐深くあられ、機会を下さり待って下さる方です。悪者たちが悪をおこなうたびに、神様がすぐ懲らしめられるなら、この世で生き残る人はいるでしょうか? ローマ3:10に「義人はいない。ひとりもいない。」とあります。神様が耐深くあられないので、罪の代価としてすぐ報いてしまうなら、誰が生き残るでしょうか?しかし神様の忍耐深さと赦しと憐みよって私達は救われて、新しいエルサレムを望むようになりました。これを忘れてはいけません。ですから神様はなぜ悪者を呪わないのかと考えたならば、そう考えたこと自体が悪です。だから完全に捨てましょう。ヨブは今自分を悪いと罪に定めている友達の話を覆すためにいろいろ自分なりに知恵を使って説明しています。しかしこれは霊的には知恵ではなかったのです。 神様の御言葉にはマタイ7:6に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直って、あなた方を引き裂くでしょうから。」とあります。ヨブは相変わらず、友達に立ち向かって言い争っていました。だから知恵がないのです。ですから心が聖められ、善をもって悪に打ち勝つことが、本当の知恵であり神様の心です。第一コリント1:25に「なぜなら神の愚かさは人よりも賢く」とあります。ヤコブ3:17に「しかし上からの知恵は第一に純真であり」とあります。 しかしヨブはこのような真理を知らなかったから、自分の知恵を持って友達に対立して言いまかそうとしました。ヨブと友達は互いに虚しい言い争いをしながら、互いに自分の悪を明らかにして、まことの友達ではなかったことが明らかになっています。親しく見えたとしても、利害関係が絡まったり誤解したり言い争ったりすると、本当の姿が現れます。こういう時自分を発見して変えられることができるから、これも神様の愛です。続く聖句を読むとヨブの口からとんでもない言葉が出てきます。それについては次の時間に調べてみましょう 結論です。 愛する皆さん。神様が大きい愛と憐れみを持って忍耐深くあられ、私たちに恵みをくださる理由は、神様に似たまことの子供を得るためです。詩編130:3に「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょうと。」あります。神様が憐れんでくださらないで公義だけで裁くなら、その前に立つ人は誰もいません。しかし神様は公義によっては、到底許すこともできず理解もできない人でも、許して理解してくださいました。神様は私たちもこのような憐れみの心を持つように、望んでおられます。霊的な憐れみは人としては到底理解できない人も、真理にあって理解できる心です。また人としては到底許せない人でも、真理にあって許せる心です。神様はこのような憐れみの心を持って忍耐深くあられ、私たちを待ってくださいます。ルカ6:36に「あなたがたの天の父があわれみ深いようにあなた方もあわれみ深くしなさい。」とあるように私たちも神様に似たあわれみの心を所有して、神様が望んでおられるまことの子供になりますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。 父なる神様、今日、ヨブは自分の立場、自分の言い分を語るために、悪者はうまくいく、成功すると言っていました。私たちは悪者がうまくいくのが嫌だと思ったり、腹を立てたり疑問を抱いたりする姿はなかったでしょうか?それが嫌で妬みを起こすことはありませんか?自分の心にあるそういう悪を、速やかに捨てていくようにしてください。そして神様が主が忍耐深くあられ憐れんでくださるように、私たちも憐れみの心を所有するようにしてください。御言葉を聞いて自分の姿を顧みて立ち返るようにしてください。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解56-忍耐深くあられる神様」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:7~16

今日のメッセージの中にも、私たちが癒されるために備えをすべき心の割礼、また罪の壁を壊すための内容があります。神様が嫌われる悪・罪があるから癒されないし、問題が解決されていなかったこと、そしてその原因を見つけなければならないのです。ですから今日のメッセージを聞いて自分自身を顧みて悟りますように。夏のキャンプの前に徹底的に自分を顧みて備えましょう。今日のメッセージのタイトルは「忍耐深くあられる神様」です。神様の愛の心を感じる時間になりますように。そして自分の心に深く潜んでいる罪と悪を悟る祝福の時間になりますように。

愛する皆さん。前回ヨブは、いらだって友達に自分の言い分を語ろうとしている姿がありました。これまで友達がヨブに向かって、あなたは悪者で神を敬わない者だから、神様の大きな呪いが臨んだのだと追い詰めていたから、ヨブは悔しかったのです。それで友達はヨブに、「あなたは悪者だ。神を敬わない者だ」と、ずっと非難していました。そしてヨブはそれに対して、自分の言い分を語ろうとしていたのです。まだ本格的には語っていないのですが、それについて自分なりに反論している内容です。私はそうではないのに、悪者ではないのに、あなた方が言っているような人ではないのにと、言い訳をしていました。ヨブは自分では自分が正しいと思っていたし、実際悪を行ったこともないし良いことをして神様を恐れてきたのに、友達に悪者だと非難されて呪われたから、耐えられなかったのです。

ところでヨブが自分の口で、私は正しい人であなた方は悪いというなら、友達がもっと侮ることを知っていたから、一歩下がって私はあなた方を恨んでいるわけではないと言っています。これまで言い争いながら、互いにあなたが悪い、あなたは正しくない、私は正しいというふうにストレートに言っていたのですね。だったらもっと感情的になってぶつかってしまったから、ここでヨブはそのように直接言わないで遠回しに言っているのです。ヨブはしかしこのまま退くわけはありません。これまで友達がヨブをあまりにも悩ませて非難して呪ってきたから、悔しかったのです。

だから今日の本文で自分の言いたいことを言うのです。ヨブが言っていることを一つ一つ説明するとき、私たちの心の深くにある悪を発見して、忍耐深くあられ待ってくださる神様の愛を悟りますように。これが癒されて、答えを受ける道です。神様の愛を知らないまま誤解するときは、人を恨んだり、環境のせいにしたりしていました。それで試練と患難がずっと続いていました。しかし、自分の中の悪を発見して神様の善と愛を悟って、慕う心で神様の姿に似ていくなら癒されるのです。

長い間信仰生活をしながらそうしようと決心したことはたくさんあったと思います。恵みを受けて悔い改めると言って、自分なりに悔い改めたとしても、後でまた戻ってしまう場合があります。以前の生活に戻ったりして、それで病気も再発することもあります。それでまた来年のリバイバル聖会の時、病気が癒されるために来るのです。そのようなことを繰り返しているなら、神様はその人をどう思われるでしょうか?真実ではない心ではありませんか?罪を犯して悔い改めてはまた罪を犯す。このように繰り返しているならば、神様がその人の悔い改めを信用してくださるでしょうか?本当に自分の心を顧みて悔い改めたなら、その後は立ち返って変えられなければなりません。ヨブ記20章でヨブの友達ツォファルがヨブに、あなたは悪者で神を敬わない者だから栄えることがなく滅びるのだ、災いが臨むのだと言いました。しかしヨブはこう言っています。

ヨブ記21:7-8です。
「なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか。彼らのすえは彼らとともに堅く立ち、その子孫は彼らの前に固く立つ。」(ヨブ21:7-8)

あなた方は私が神を敬わないもので悪者だからこのように呪いを受けたのだと言っているのか?それならここであなた方に聞く。もしあなた方の言っていることが正しいなら、どうして悪者どもは生きながらえてなお力を増すのか、なぜ彼らの子供たちは彼らと共に固く立つのか、なぜ成功するのかと言っているのです。ヨブは友達の話を否定してその話を覆そうと思っていました。ヨブが話をしているこの内容があっていますか、あっていませんか?皆さんの中では口には出さなくても、心の中でそうだと思っている人がいるかもしれません。ヨブのような考えを持っている人もいるかもしれません。
 

私たちは真理を聞いているから、悪者は結局裁かれる。彼らの結末は不幸だと知っています。しかし今悪者がうまくいっていて成功している姿を見ていると、それがおかしいと思う人がいるかもしれません。真理を聞いたから口には出さなくても、心の中で疑問を持っていたかもしれません。なぜでしょうか?自分を苦しめて悪を行う人がうまくいって平安に見えるから、それが嫌なのです。その人が滅びたり災いが臨むのを心の中で密かに望んでいるのです。 明白な真理は、悪者は結局滅びる。その終わりは死であるということを知っています。そしてそういう悪者の道に立っていてはいけないとは知っています。しかし日常生活で誰かが自分を苦しめて、自分に害を与えたなら、その人もうまくいかないように、その人が滅びるように、心の中でそんなふうに思っている姿はありませんか?そしてある人のため、自分がすごく害を受けたり損もしたならば、その人を恨んだり憎んだりするのではありませんか?しかし聖書を読んでみれば、悪い人はうまくいって祝福されたのではなく、結局は善で正しい人が祝福されてうまくいきました。神様を恐れ御言葉に聞き従って心の悪を捨てて義と認められた人はさらに祝福されました。 アブラハムは全ての人に善を行い、甥に良い地を選ぶように譲りました。いつも善で正しい生き方をしました。神様の御心なら何でもアーメンと言って聞き従いました。このように美しくて正しい心を持っていたアブラハムだったので、神様は彼を信仰の父と立てて神の友と呼ばれました。それだけではなく物質の祝福、健康の祝福、子供の祝福、長寿の祝福などを受けるようにされました。神様は悪の味方ではありません。善の味方であり、心が良い人を祝福してくださいます。ですから神様を信じる子供が、悪者がもっとうまくいくと言ったり、心の良い人が損ばかりすると言って、騙す側の人がうまくいくとか思ってはいけないのです。全知全能である神様を信じるなら、このように考えたり口にしたりしてはいけないのです。 申命記28:2に「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたを祝福される。」とあります。魂に幸いを得ているように、すべての点で幸いを得、蒔けばその刈取りもするのです。まず神の国と義を求めれば、それに加えて全てをくださるのです。神様のこういう御言葉は、一点一画も間違いがありません。それなのに多くの人が、なぜ悪者がもっとうまくいくように見えるのかと疑問を抱きますか?今日のメッセージを聞いて神様の深い御心を明らかに悟る皆さんになりますように。 皆さんの中で、教会の試練の時、あの人は悪いのに、あの人が私を苦しめたのに、あの人は教会に問題を起こしたのに、なぜ神様は放っておかれるのか?なぜ試練に合わないのかと考えたり、口にしたりしたことがあるなら、自分の心に悪があることを悟りますように。神様は正しい方で、私はただ真実を言っただけだと思わないで下さい。自分の心にある悪から、人をそんな風に罪に定めて、人が失敗することや滅びることを、密かに願っている心があるのです。私たちはそうしてはいけないでしょう。 ヨブ記21:9-10です。 「彼らの家は平和で恐れがなく、神の杖は彼らの家に下されない。その牛は、はらませて、失敗することがなく、その牝雌は、子を産んで、仕損じがない。」(ヨブ21:9-10) つまり悪者どもの家は平和で恐れがなく、神の呪いが臨まないし、彼らの飼う家畜は健康に育って子もたくさん産むという意味です。彼らがよく見てみたら、悪者どもの家には心配事も悩み事もないし平安に見えます。そして彼らの農作業はうまくいくし、家畜を飼う人も、家族が丈夫で家畜も繁殖します。今日で言えば、悪い人々の事業が繁栄して成功するという意味です。 続くヨブ記21:11-13です。 「彼らは自分の幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちはとびはねる。彼らはタンバリンと立琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。かれらはしあわせのうちに寿命を全うし、すぐによみに下る。」(ヨブ21:11-13) これはどういう意味でしょうか?羊を飼う牧者は、羊の群れを野の獣から守り、緑の牧場に導きます。雨の時や寒い時は暖かいところに導いて餌を食べさせ、川のほとりに導き水を飲ませるなど、羊の群れが平安に生きるようにします。ヨブが悪者どもの子供を見たら、そのような羊の群れのように豊かに食べて着て飲んでいるし、平安に生きているのです。その姿を彼らはタンバリンと立琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむと表現しました。また彼らは事故にもあわないし、幸せのうちに生きていて、寿命を全うして死ぬと言っています。 ここで私たちはヨブが頭のいい人だとわかります。ヨブは友達に向かって、あなた方が悪いと責めたかったのですが、そんなふうに言うなら、友達はまた押しかかってきて攻撃するはずだから、たとえを挙げて説明しているのです。実はヨブは次のように話したかったのです。あなた方は悪者にもかかわらず、あなたの子供たちは幸せそうで豊かに暮らしていて、家畜も子を産んで繁殖すると。あなた方は私が悪者だからこんな災いにあったと言うけれど、私より悪いあなたとあなた方はなぜそんなにうまくいくのかと言いたかったのです。悪者がうまくいくということは、友達のことを今ヨブは言っているのです。友達に例えを挙げてこのように責めているのです。 続くヨブ記21:14-15です。 「しかし、彼らは神に向かって言う。『私たちから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない。全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか』と。」(ヨブ21:14-15) これは悪者たちが満ちたりていて、うまくいっているから神様を知りたくないと言っていて、神様に仕えようとしないのです。乏しいところがないから、神様に何かを祈ろうとする必要がないと言っています。これは皆さんの周りにもそういう姿があるかもしれません。例えば裕福で平安で子どもたちも成功していて何の問題もない人に、主を信じて祝福を受けますようにと伝道するなら、あまり聞き入れないでしょう。天国と地獄がありますと伝えるなら、死んでみなければわからないと言いながら、後の世や裁きのことを知りたがらないのです。 そして神様を信じれば全てのことで栄えますと伝えれば、どんなふうに反応しますか?神様がどこにいるのですか?神様を信じなくても私はうまくいっているのですけれど。この世では人をだますことも必要です。事業の為ならと言いながら、神様に祈らなくても私はうまくいっています。私の杖で私の拳で私はこのように自分なりにうまくいっていますと言っています。神様に頼らなくても自分の力で何でもできますと言っているのです。神様を認めようとしないのです。世の人はこういう姿があるかも知れません。しかし、皆さんが信仰生活をしている姿を見て、同じクリスチャンでもなんであんな風に毎日夜教会に行って祈らなければならないのとか、神様はそこまでしなさいと言われることではないのにとか、言う人がいますか? しかし皆さんは真理を選んでいるのです。これはとても幸いなことです。神様を信じないで、また正しく信じないで、自分なりにうまくいくと錯覚している方が愚かで、その方が恐ろしいのです。なんでそんなふうにきつそうに信仰生活をしているのですか?なんで主日は教会でずっと礼拝しているのですかとか言われるのですか?神様はどう言われましたか?神様には適当がありません。徹底的に罪を悔い改めるようにと言われました。悪はどんな悪でも避けなさいと言われました。罪と血を流すまで戦って捨てなさいと言われました。私たちの基準は世の人の話ではなくて、聖書でなければなりません。 教会を離れて世を楽しんでいる人を見ながらどう思いますか?教会を離れて世に出てしまって、それで自由に自分のしたいことをしながら、余裕を持って自分の時間を使いながら、クリスチャァンとして楽に信仰生活をしているように見える人はいますか?本当にそれが救いの道でしょうか?本当にそれが祝福の道でしょうか?だから私達は正確な真理をもってそれを基準にしていつも見分けなければなりません。ヨブは、悪者はうまくいっていて、神様を信じもしないで、求めもしないで、御言葉通りに生きていないのに栄えていると言っています。 その後ヨブ記21:16でこう言っています。 「見よ。彼らの繁栄はその手の中にない。悪者のはかりごとは、私と何の関係もない。」 (ヨブ21;16) ヨブは友達が受けた祝福が彼らの力で受けたものではないことを知っています。だから私はあなた方のように不正に富を積んだのではなく、正当な方法で労苦してためたから私とあなた方は全然違うと言いたいのです。ヨブは誠実に働きまた善を行って、神様がくださる祝福を受けていたと言っています。しかし友達はそうではないと言っているのです。あなた方は不正な方法で財産を増やしたのではないか、私とは違うと言っています。しかしこれは友達をまた刺激する言葉になるでしょう。だからあなた方の代わりに悪者という言葉を使っていて、私は悪者とは何の関係もないと言っています。 ヨブは友達に悪者でも呪いが望まないし、栄えてうまくいくことがいくらでもあるのではないかと言っていました。これは友達にあなた方は悪者なのに栄えているのではないかと、ストレートに言うなら、また感情的になって攻撃してくることを知っているから、例えを挙げて悪者のことを言っているのです。ヨブは自分が正しいものだと言うならまた友達が責めてくるでしょう。だからヨブは神様の摂理というものがこういう場合もあって、ああいう場合もあるのだ。私は悪者だから災いが臨んだのではない。神様の摂理の中にあるものだと言っています。 皆さん、悪者の裁きや彼らの罪に対する報いについて話したり考える時、自分の心の深いところにあるものを発見して下さい。悪者が成功するとか、うまくいく、栄えると思っているということです。しかしヨブはここで自分のことを主張する為に、自分が正しいことを言い張る為に、例を挙げて表現しているのです。このようなヨブの心も私達は考えて、そしてヨブが口にしている悪者の裁きとか彼らの罪に対する報いについても、正確に知っていなければならないし、それに比べて自分の姿を発見しなければなりません。(つづく)

「ヨブ記講解55-まことの安息を味わおう」(下)
 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:4~6

本文ヨブ記21:4です。


私の不平は人に向かってであろうか。なぜ、私がいらだってはならないのか。」(ヨブ21:4)

ヨブは自分が友達に向かって不平を言っているのではないのに、なぜ自分にこんなに激しく苦しめているのかと友達に訴えているのです。そしてなぜ私がいらだってはならないのかと言っています。いらだちとは気持ちがイライラしてじっとしていられなくなることです。ヨブは友達が話をしていることを聞いていると、だんだんイライラして腹が立ちました。友達に自分の立場を説明して理解させようとして、自分の心を伝えて言い分を語りたかったのに、友達が聞いてくれないからそうだったのです。

人が話をする時、自分の思い通りにならない時はこのようにイライラしたりすることがありますね。皆さんはどうでしょうか?夫婦の間で、友達の間で又教会の聖徒の間で、主のしもべとの間で話をするとき、自分の立場だけを言い分だけを語ろうとする姿はありませんか?そして相手がそれを聞いてくれなければイライラしたり、自分の言葉を貫こうとあれこれ強く言ったりするところはありませんか?そしてその人は今自分の話が良くわからないようだと思って済ませばよいのに、そうではなくて何としてでも説得しようと、何としてでも理解させよう、とあれこれ言い訳をしたりするのです。

今ヨブが友達にそのようにしているのです。何の理由もなく神様が私をこのように苦しめているのだと、自分には何の過ちもないのに悔しいと、友達に訴えているのです。それなのに何で分かってくれないのかと言っているのです。そのように自分の言い訳をしていても、相手が全然聞いてくれないからいらだっているのですね。皆さんにはこういう姿はありませんか?それは自分が自分を愛するからです。自分のことを分かってほしいという自分を愛する心があるからです。人に理解してもらいたいと思うからです。だから言い訳をしたりするのです。でも相手がそれを聞いてくれないと、不満を抱いたり不平言ったりするのですね。日常生活でそういうことがよくありますね。そういう姿を私たちはやめなければなりません。真理の御言葉に照らして、神様の前で自分が欠けているところを発見して、直して満たそうとしなければなりません。

それなのにどうして人の前でわかってほしいと思うのでしょうか?そしてどうしてあの人は私を理解してくれないのかと不満を抱くのでしょうか?そうしないで自分がもっと真理に照らして変えられていて、それで神様の御前に認められればいいでしょう。今ヨブとヨブの友達との関係はどうなのか、それぞれの立場を説明しています。特にせっかちな人、短気な人は、相手の話が終わる前にそれを切って、自分が言いたいことを言います。それは、そうしてイライラしていらだつのです。いくら言い訳をしても相手は受けてくれないから、理解してくれないから、腹が立つのです。しかし神様に頼る人は、たとえ悔しい目にあっても、そのため自分から言い訳しようとしません。なぜなら公義の神様はどっちが正しいか必ず明らかにしてくださることを信じるからです

ある人は主が覚えてくださればそれでいいと祈ると言いますがそうです。そういう歌詞の賛美もありますね。人にわかってもらいたいとか、人にあれこれ説明して理解してもらおうとしても、自分がいくら語っても人は聞いてくれない場合があります。しかし私たちは神様に頼って神様に委ねた方が楽でそれがいいのです。そうすれば神様が問題を解決してくださるのです。そのためにはまず自分の心にある悪を捨てなければなりませんね。自分が何かするのではなくて神様にゆだねましょう。
 

第1ペテロ2:19です。「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、これは喜ばれることです。」とあります。神様は行った通りに報いてくださり、善であれ悪であれそのわざに応じて報いてくださる方であることを信じるなら、感謝して忍耐できます。時が来ると神様は皆さんの義を真昼のように輝かせてくださり、皆さんの忍耐と労苦についても報いてくださるでしょう。そして相手が自分を誤解して迫害するとき、自分が善を持って耐え忍んで忍耐すれば、神様が相手の心に働きかけてくださり平和を作るようにしてくださいます。

ですから私たちは自分の心に善を所有して、もっと心を広くしていかなければならないのです。狭い心では新しいエルサレムに行けません。心が聖められるだけでなく、全家を通じて忠実である時、新しいエルサレムに行けます。全家を通じて忠実になるためには、心が広くならなければなりません。周りの人にいろんなタイプの人がいるでしょう。全ての人を受け入れなければならないのです。いくら私は正しいことを言っても、それを誤解する人もいるし悪用する人もいます。そういう人まで心に受け入れて理解して抱いていくためには、広い心の器でなければならないのです。そうしてこそ全家を通して忠実であることができるのです。 しかし狭い心であれこれのため悩んだり苦しんだり誤解したりするなら、それは神様の御前でふさわしい器ではないでしょう。私たちが真理の中に入ってくる分、世の人と話をするとちょっともどかしいことがあります。光と闇が共存できないように互いに話が通じ合わない時があるからですね。家族を伝道する時もそういうことがよくあると思います。家族を愛するから、家族も神様を見つけるように神の力を体験するように伝道しますね。自分は神様を信じるよう救われるようにするために、良かれと思って伝道するのですが、でも家族が受け入れてくれないのです。嘘をつくなと言ったり、でっち上げでしょうとか言ったり信じてくれないのです。そしていろいろ誤解して悪いことを言うのです。自分は良かれと思って伝道したのにそんなふうに言われたらもどかしいですね。 それでもしかして、そうやって互いに争うようになってしまってはいけないのです。自分が相手のためを思って言っているのになんで分かってくれないのかと、このようになってしまうのです。それは良くないでしょう。それで相手について憎らしいと思ったりする。そういう心で伝道すれば神様が働いてくださるでしょうか?かえって喧嘩になったりすることもあるのです。心の平安もなくなるのです。だからまず家族を愛する心、憐れむ心をもって神様に祈って知恵もって、家族の気分が良いとき、その時を見て祈る心で知恵をもって伝道した方が良いでしょう。そしてあれこれ信じられるような証など自分が体験したのを伝えればいいし、また人の証も伝えたりして知恵を持って伝えればいいでしょう。 そして普段の生活でキリストの香りを放っているなら相手も感じるようになるから、受け入れるようになるでしょう。伝道するときうまくいかない時もあるでしょう。相手が拒否したり嘘だときつく言ったりするかもしれません。しかし、そういうときも神様の前に感謝しながら、神様に祈りながら、信仰で忍耐して真理を行っていけば、神様が解決してくださり全てを働かせ益としてくださいます。 家族の中で喧嘩したりしてはいけないですね。相手が聞いてくれなければ、一歩下がってもっと良い時を待てば良いと思います。 光と闇が共存できないようだからといって、互いに対立することが当然だと思っていけません。善と知恵が必要です。神様は全てのことで善を行う人が、損しないようにまた祝福を受けるようにしてくださるということを信じますように。ですから、柔和な心を持って平和を追い求める皆さんになりますように。しかしヨブはこのような真理を知らなかったのでいらだっていました。 ヨブ記21:5-6です 「私のほうを見て驚け。そして手を口に当てよ。私を思い出すとおびえ、おののきが私の肉につかみかかる。」(ヨブ21:5-6) ヨブは今自分がいらだつしかないことについて言い訳を言っているのです。私のことを見てくれ。私が受けた苦しみがどれほど驚くべきことなのか。手を口に当てるほど驚くことではないかと言っているのです。財産も子供も全部失って皆に見捨てられたし、身体までめちゃくちゃになってしまった。これを思うだけでも怯えて驚くのだ。どれ程苦しい事なのか。だから神様を恨むしかないのだ。それなのにどうしてあなた方は私をいじめているのか。苦しめているのか。だから私はいらだつのだと言っているのです。この言葉を前の節とつないでみれば、私は今とても悔しい。だからと言って、あなた方に私がこれは悔しいと言うのではなく、神様の前に訴えているのだ。このように神様の前に問い詰めるしかないのは、それまで積んできた全てのものが、一瞬でなくなってしまったからだと言っているのです。自分が置かれている環境がこうだから、神様を恨むしかないとこのように言い訳をしているのです しかしヨブが真理の人だったならどんな状況でも神様の前につぶやくことはなかったでしょう。かえって、「神様感謝します。私を愛して練ってくださって感謝します。すべての原因は私にあります。速やかに悟って変えられて神様の前にもっとふさわしい子供になりたいです。」と祈るなら神様はどれほど喜ばれたでしょうか。皆さんは試練にあう時、心から感謝の告白を捧げますように。それで速やかに問題が解決され祝福の実として出てきますように。本文でヨブは友達が自分を悪者だ。神を敬わない者だと言っているから、とても苦しくなりました。 ヨブ記20章でツォファルはずっとヨブを悪い者だと、神を敬わない者だと責めて、だから苦しみにあっているのだと言っていましたね。だからそれを聞いているヨブはどれほど心がつらかったでしょうか。ヨブは前から友達には良いことだけをしていたし、施しもしていて良い業にも励んでいたし、弱いものを助けていました。しかし友達はヨブの話が自分たちの考えと合わないからといって、あれこれ呪いの言葉でヨブを苦しめていたから、ヨブはどれほど悔しかったでしょうか。皆さんはもしかして周りの人が罪を犯して患難に会っている時どう思っていたのか顧みますように。 自分の中に悪があれば相手は罪に定めて、相手の過ちが明らかになるのを喜んでいたかもしれません。ある人が罪を犯して試練にあっているなら、その人を見ている皆さんはどう思いますか?たとえば、ある人が教会に大きい問題を起こして出て行って、その後試練にあっている。それを聞いた時皆さんはどうでしょう?心に悪がある人はなんかいい気味だと思ったり、あの人はあんなに悪いことをしたから結局そうなったのだと、なにかすっきりしたりすることがあるかもしれません。ある人は積極的にその人の過ちを人に伝えようとするかもしれません。このように自分の目の中の梁は見ることはできず、相手の目の中のちりを指摘しているなら、それはヨブの友達と同じ悪い姿でしょう。自分自身に代入してください。自分は自分を苦しめている人に対してどう思っているのか?自分を前からいじめていた人が今試練にあっているならそれについてどう思うのかです。 また教会にいろんな問題を起こした人が今失敗したとか、試練にあっているという話を聞いたならどうでしょう?当然の報いだと思って喜ぶ姿はありませんか?そしてその人が前にあれこれ自分を苦しめたこと悪を行ったことを、人に伝える姿はありませんか?それは自分の中に悪があるからです。相手が悪い目に、今苦しい目にあっていることを喜ぶ姿ではありませんか?どれほど神様の前で悪い姿でしょうか。そういう自分を見つけなければなりません。反対に心の良い人は相手の背きの罪も覆ってあげます。許します。理解しようとします。そしてその人が罪を悔改めて立ち返るように助けようとします。 しかし、いくら一生懸命祈っていて忠実である働き人も、口から人を裁いて罪に定める姿、陰口、傷つける言葉が出てくるなら、その心に悪があるからです。マタイ15:18です。「口から出るものは心から出てきます。それは人を汚します。」とあります。心が聖いなら決して汚れたことは出てこないのです。エペソ4:32に「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」とあります。ですから主が私たちを憐れんで許してくださったように、私たちも互いに許し合わなければなりません。自分としては到底許せないことはあるかもしれませんが、相手の立場を理解すれば許せます。 マリアの夫ヨセフがこういう善意を所有していました。ヨセフはマリアと婚約した後、マリアと寝ていなかったのに、マリアが妊娠したことを知ったときどうしましたか?これを人前に明かさなかったのです。内密に去らせようとしました。マリアを守ってあげようとしたのです。正しくて心優しい人でした。善の行いでした。神様は私たちもこのような善を所有するように望んでおられます。そして御自分を十字架につける人々のために、愛の祈りをされたイエス様のように、自分を殺す人々のために許しを求めたステパノ執事のように、最高の善と愛を所有するようにも望んでおられます。このような人になれば、いくら険しい世の中で生きていても、いつも神様が守ってくださるから、真の安息を味わうことができます。 次の時間からはヨブの反撃が始まります。ヨブはとても知恵のある人でした。だから友達にやられてばかりいる人ではなかったのです。ヨブの友達はヨブを悪いもの、神を敬わないものだから呪われるしかない、死ぬしかないと言っていました。しかしヨブは友達のこういう言葉をひるがえして、自分が言い負かしてこそ、自分の正当性が回復できるから反論するのです。つまり、あなた方は私が悪者だから、神を敬わない者だから呪われたと言っているけれど、しかしどうして悪者がそのようにうまくいくのか、彼らの子孫も栄えるのかと言っているのです。 皆さんの中でもこういう疑問を持つ人はいますか。この人は私より悪いのに何で祝福されているのか。うちの社長は正道を歩んでいないのになぜ事業が上手くいっているのか?神様は御言葉の中に留まっていてこそ健康だと言われたのに、あの人は御言葉に逆らっているのになぜ病気にならないで健康なのか?あんなに悪い人はすぐ懲らしめられるべきなのになぜそのまま放っておかれるのか?と疑問を持っている人は次の時間のメッセージを聞いて答を得ますように。神様の愛を悟りますように。 結論です。 愛する皆さん。今日はヨブとヨブの友達が、真の安息を味わえない理由について伝えました。真の安息を味わうことは全ての人の夢でしょう。しかし人々が平安と幸せの条件だと思う、お金や名誉権力などを手に入れたからといって、虚しさと不安はなくならないのです。人は神様から造られた被造物なので、その方がくださる愛と命、天国への希望で満たされてこそ、真の平安と魂の安息を得ることができます。誰でもイエス・キリストを受け入れてその御言葉に聞き従う生き方をしてこそ、どんな環境に置かれても真の平和を味わい、勝利することができるのです。 神様は民数記6:24-26で「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」と言われました。神様は愛する子供たちにこのように平安と恵みを与えたいと望んでおられます。又申命記10:13に「あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」とあります。神様は愛する子どもたちの幸せのために戒めを下さいました。ですから私たちが神様の戒めを守れば、試練患難、色々な事故から守られ、平安を味わうだけでなく、天国でも報いが積まれます。ですから皆さんは神様の戒めを喜びながら守り、真の安息を味わい、家庭、事業、全ての分野で祝福され栄えますよう主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈ります。 父なる神様、今日はヨブ記21章を通して、ヨブが反論する姿を見ました。しかしその姿を見てみると、ヨブにもヨブの友達にも心の平安はなかったのです。私たちはどうなのか顧みるようにしてください。御言葉に従わなければ御霊によって歩んでいなければ、真の安息を味わうことができません。心の中に不安があって心が苦しくなったり、またいろんな問題が起きたり試練に会う理由は、御言葉通りに生きていないからです。それを悟って神様が望んでおられる真理の人、善の人に変えられるようにしてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解55-まことの安息を味わおう」(上)
 

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記21:1~3

愛する皆さん、前回まで3回にわたって悪者と神を敬わない者の結果がどれほど惨めなのか伝えました。代表的な例でユダヤ人のモルデカイを憎み、ユダヤ民族を皆殺しにしようとした悪いハマンの結末を伝えました。韓国の歴史を見ても世界の歴史を見ても、悪者が必ず公義の裁きを受けたのがわかります。伝道者の書12:14に、「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」とあります。神様の御言葉は一点一画も間違いがなくその通りになります。ところでヨブの友達ツォファルがヨブを非難して呪っている内容は、彼が悪意を持って言っているだけで、ヨブには当たらない内容だと言いました。今、ヨブが味わっている苦しみはツォファルが考えているように、ヨブが悪いから受ける災いではありません。より大きい祝福を受けるように、神様が練ってくださることだからです。

ところで皆さん、このように神様が練ってくださるのは、誰もが受けるのではありません。人々は世を生きているといろんな試練にあったり、患難にあったりしています。しかしそれは自分の過ちや悪によるものです。罪の報いでもあるし、敵である悪魔サタンがもたらすことがあります。しかしヨブは特別な場合で、神様がより大きい祝福をくださるために、特別に練ってくださることです。ヨブには大きい悪とか罪があるからではないからです。でもヨブの友達は誤解してさばいて罪に定めているのですが、そういう友達の方が悪いと説明したでしょう。ヨブは結局祝福されました。

でも皆さんの中で、私もヨブのように試練にあっていると思っている方はいないと思います。ヨブのような心でしょうか?ヨブは心も良いし大きい器だったから、神様はこのように厳しく練ってくださったのですが、皆さんはどうでしょう?自分の心にある悪を、潜んでいる罪を自分では発見することができないから、神様がそのように試練にあうようにしてくださったのですが、結局は徹底的に悔い改めて、金のように出てくることを神様は知っておられたから、このようにヨブが激しい試練にあうようにされたのです。

聖書を読んでみると神様が試練を与えることはないとあります。自分が自分の悪のため受けるのがほとんどです。ヨブの場合は特別なケースでした。ヨブが完全な人になるようにするための試練でした。しかしこのような摂理を知らなかったツォファルは、ヨブが悪者だから、神を敬わない者だから、その栄光は続かないし、ものすごい災いにあうようになったのだと責めているのです。このように妥当性のない呪いの言葉によって、ヨブはとても心がつらくなり苦しむしかありませんでした。まだヨブは完全に御霊に属する心ではなかったから、友達が自分を厳しく攻撃したりすると、それによって傷ついて苦しくてまた腹が立ったりしたのですね。それで悔しいと思って訴えていました。神様がヨブの友達にそうさせたのではないでしょう。ヨブの友達にも悪があったから、ヨブを慰めるつもりで来たのですが、言い争ってしまい激しく責めたり呪ったりしました。そしてヨブはそのため苦しんでいたのですが、それは今ヨブがまだ完全でないからです。

人は生きていていろんな試練や患難を自分から招くことがよくあります。周りの人が自分を苦しめたり、嫌味を言ったり意地悪をしたりしていることがあるのですが、私たちクリスチャンはそのような肉の人のそうした行いによって、心が苦しくなる理由はありません。自分の信仰を守って善を行えばいいのです。人にあれこれ言われたりすることがあるかもしれないのですが、正しい助言を自分の心が狭くて受け入れないのは自分のせいでしょう。しかし自分では何の過ちもないのに理由もなく自分をいじめる人がいるとしても、そのため傷つく必要がないのです。

 

人の心ってこういうものなのだと思ってそれは気にしないで、自分は正しい道を歩んでいけばいいのです。すると心の中の安息は奪われることはないでしょう。しかしそうできないから、苦しくなったり辛くなったりするのです。これから伝える21章ではヨブが反論し始めます。今日のメッセージを聞いて神様の心を悟り、全てのことを真理で明らかに見分ける力を受けますように。又、悟った御言葉をもって従順の実を結び、神様の愛に包まれ真の安息を味わいますように。


 

本文を読むと、ヨブがツォファルの話を聞いて反論して言います。ヨブ記21:1-2です。 ヨブは答えて言った。あなたがたは、私の言い分をよく聞け。これをあなたがたの私への慰めとしてくれ。(ヨブ21:1-2) ヨブは自分を慰めるべき友達が続けて激しく責めて怒りをぶつけてくるから、彼らを落ち着かせようとしていました。友達が黙ってヨブの話を聞くことが、ヨブにとっては慰めになるということです。これまで友達がどれ程ヨブの言葉を無視したのか分かります。ではヨブはどんな心で言っているのでしょうか?ヨブ記21:3です。 まず、私が語るのを許してくれ。私が語って後、あなたはあざけってもよい。(ヨブ21:3) ヨブは言い分をいくら言っても説明しても、友達が受け入れないでだんだん激しく攻撃してくるから、友達が自分をあざけっていると思い苦しんでいました。ヨブは大きい試練患難の中に落ちていただけでなく、友達のものすごい非難の言葉を続けて聞いていたら、心がズタズタになっていくようでした。だから神様は聖書のあちこちで言い争ってはいけないと言われるのです。相手が文句をつけてくるとき善の知恵を持って、相手がそれ以上言えないようにすることができないなら、いっそ自分の方から黙ってその場を避けた方が知恵です。 またいくら良いことでも良い助言でも、相手が聞き入れないときは言わない方がいい時もあります。イエス様も真理を受けないでかえってそれを悪用しようとする人については、こう言われました。マタイ7:6です。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」とあります。皆さんは自分なりに良かれと思って、良いものを相手に与えようとしたのですが、相手はそれを受け入れないでかえって皆さんを苦しめて、その助言、良いことを踏みにじってしまうことがあるからです。そういう場合は言い争う必要はないのです。しかしヨブと友達はずっと言い争っていて、少しも譲らないのです。譲らないでずっと言い争っていて自分が正しいと言い張っていたのです。それは相手を苦しめることで相手に辛い思いをさせることです。このように互いに対立して相手を攻撃して傷つけているのです。神様はそのように言い争ってはいけないと言われています。 だから言い争うようになることがあるならば、自分の方からまず語るのをやめてじっくり考えてから、善の知恵を与えられて言えばいいでしょう。また性格の違いがあって互いにぶつかる場合もありますね。余裕もない短気なせっかちな人もいると思います。そういう場合は話をするときも互いに噛み合わないでしょう。じっくり考えてゆっくり話をする人がいるのですが、せっかちな人はそれを待つことができなくて、途中で割り込んだりするのです。そういう場合は相手の性格も考えて、そして相手を落ち着かせながら、相手を理解しながら、相手が理解できるように、また説得できるように落ち着いて話したほうがいいでしょう。しかし互いに落ち着きがなくてイライラしたりカッとなって攻撃したりするから、言い争うようになるのです。 相手の話をじっくり聞いて落ち着いて答えると言い争うことはないでしょう。だからまず相手の話を聞いて、相手の性格もある程度考え、そして自分の言うべきこともちゃんと言いながら相手の立場も理解する。こういう余裕のある姿勢が必要です。しかし相手を無視したり、話したくないと避けたりすることも良くないでしょう。自分はあの人とあまり話したくないのに、相手が話しかけてくるから面倒だとか思ってもいけないのです。善の知恵が必要なのです。日常生活の中で自分の性格のために、もしかして誤解されることがないのか顧みることも良いでしょう。そして落ち着いて説明できればいいのですが、いくら説明しても相手が聞き入れないときは、そのときは語るのをやめて、あとで雰囲気が良いときにまた話をすればいいと思います。譲ってあげればいいのではありませんか。すると互いに心に平安を保つことができるでしょう。 友達が絶えず非難してあざけっているから、ヨブはとても辛かったのです。それで今私にも話す機会をくれと言っているのです。私の話が全部終わってからあざけってもいいからと言っています。ヨブはいくら自分の言い分を言っても、友達はずっといろいろ激しく攻撃してくることを知っているから、私が語った後はあざけってもよいからと言っています。今ヨブがこう言っていることは、これまで友達がヨブに話す機会をくれなかったわけでもないでしょう。ヨブもいろいろ自分の言い分を言って語っていました。しかし友達がヨブを責めて、またひどい呪いの言葉まで言っていたのです。だからヨブはこのように言っているのですが、でもヨブも反論しながら激しく言い争っていました。両方ともお互い様なのです。皆さんは第三者の立場から見れば分かりますね。ちょっと譲ればいいのに相手の話を聞けばいいのにと思いますが、自分が実際その言い争う立場になればそのように客観的に見ることができないのです。 今、ヨブとヨブの友達がそうなのです。そして、皆さんの姿でもあります。第三者の立場から見た方がよいでしょう。ヨブとヨブの友達が言い争っているのを見て、そうしてはいけないのにと思っている方は、自分はそうしているのではないか、日常生活で自分が話をしている姿を思い浮かべてみてください。家族との会話で自分はどのようにしているのか考えてみますように。以前のことも思い出してみてください。ああその時それ以上話さなかった方がよかったのに。それ以上自分が正しいと主張しなかったらよかったのに。そうできなかったから喧嘩になってしまったと、その時のことを振り返って、次はそうしない方がいいと思って、次にそういう状況に置かれたら、黙って相手の話を聞くことができるでしょう。そのためにはまず、自分の心にある悪を捨てなければならないでしょう。すると言い争いにはならないし、平和を作ることができるでしょう。 皆さんももしかして言い争ったり、イライラしたりしている姿があるならば、このメッセージを聞いて頭の中で、ああそうしたらいけないと思うだけで終わってはいけません。実際そうできるために練習しなければなりません。そして自分が前話をしていた場面を一つ一つ分析してみてください。相手がこう話したとき私はこんな風に話していた。でもこれからもし似たような状況に置かれたら、相手がこんなふうに話しても私はこう話そうと、前もって自分が言うべきことをセリフのように用意しておくのです。ごめんなさいとまず言ったほうがいい。そしてああそうでしたかと相手の立場になってこのように分かってあげる。そういう態度で話そうと、このように一つ一つ次に来る同じような状況で、自分がどんなふうに話すのかを、用意しておいたほうがいいでしょう。 ところで、これまでヨブとヨブの友達の話を考えてみれば、試練にあっているヨブだけではなくて友達も辛い思いをしていました。悩ましかったのです。今ヨブは自分が試練にあっているから苦しいですね。辛いです。そして友達があなたは悪い、あなたは正しくないと、このように、友達が責めているからヨブは本当につらかったのです。でもヨブの友達も同じように心苦しかったのです。なぜなら友達は神様を知っていると思っていたのですが、心の中で真の安息がなかったからです。神様は全ての人との平和を追い求め、聖められることを追い求めなさい。敵をも愛しなさい。いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい。悪はどんな悪でも避けなさいと言われました。しかしこのような御言葉通りに従っていないから、友達も心の中で平安がないのです。もし御言葉通りに従っていたならば、喜びと平安がいつもあったでしょう。 今ヨブは友達のアドバイスを聞きながら、それを拒否するのですね。聞かないで自分の立場だけを主張するから、心の中でイライラしたり腹が立ったりするのです。相手が自分の話を聞いてくれないから、受け入れないから、心の中の安息がなくなってしまうのです。真理で照らしてみれば愚かな姿ですね。相手を理解して相手の心が安らかになるようにしなればならないのに、そうできないのです。ヨブもヨブの友達も同じです。だから心苦しいのです。愛する皆さん、皆さんはどうでしょうか?御言葉通りに行っていて、真の安息を味わっていますか?そうでなければもしかして信仰生活が辛いきついと感じられますか? イエス様はマタイ11:28-30でこういわれました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。」人の子らは世で自分の思い通りに生きようとすると、疲れて重荷を負っているような辛い思いをします。しかし、神様のところに抱かれるなら、主はすべてのくびきを代わりに負ってくださるから、つまり罪の代価を代わりに払ってくださるから、救ってくださって、真の安息を得るようになります。神様は子どもたちが天国に行くまで、この地上で生きている間も、霊の糧を供給してくださり、神様の恵みのうちにとどまるようにしてくださいます。 ところでなぜ多くの聖徒が神様を信じると言いながら真の安らぎを得ることができないでしょうか?信仰生活を辛いと思うでしょうか?それは真理である神様の御心に従わないからです。ガラテヤ5:16-18に「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」と言います。 神様は主を受け入れた子供たちの心に聖霊を賜物としてくださいますが、聖霊を受ければ死んでいた霊が生き返ります。聖霊は罪と義と裁きについて悟らせてくださり、罪と不法を捨てて義を行うように助けてくださいます。また天国に生きる信仰と希望を下さり、幸せに信仰生活ができるように導いてくださいます。ですから誰でも聖霊によって歩むなら聖霊が喜ばれるから心に平安が臨み嬉しくなります。ところが私たちが御霊に従おうとするときこれを妨げるものがあります。それは肉の願うことです。肉の願うことは御霊に逆らうものです。肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢を追ってあらゆる罪と不義と不法を行おうとすることです。このように肉に従っていけば御霊がうめかれるので御霊に満たされることができなくなり心が苦しくなります。 しかし私たちが御霊によって歩み真理に従うなら、つらいことがなくなります。誰かが自分に唾を吐いても、御霊によって歩み許して愛して受け入れるなら、心の中で戦いがないのです。だから心に真の安らぎを得るのです。更にこの聖めの福音を聞いて真理を知っているマンミンの皆さんならどうでしょう。真理の知識が心の中にありますね。また御霊が悟らせてくださいます。だから誰かが自分を苦しめても御霊によって従って行うことができるのです。でも問題は自分というものがあり肉というものがあるからです。肉が願うことに従ってしまうのです。それで肉の思いを巡らしてしまいます。それで腹が立ったり、イライラしたり、その人が憎らしく思ったりするのです。でも御霊によって歩もうとするならば、真理によって自分の心を治めることができます。それで心が平安になるのです。 しかしそうしないで御霊に従わないで肉の願うことに従っていくならば、その人のところに行って一言言ってやりたいと思うのですね。それで実際行って問い詰めたらどうでしょう?すっきりしますか?そうではありませんね。心の中で平安がなくなります。その人のところに一言言ってあげたらその時は胸がすっとしたかもしれません。しかし聖霊は喜ばれないのです。神様がくださる平安はないのです。だから神様を信じている人は御言葉に従って御霊に従うとき、心に真の安息が臨むのです。 皆さんも、もやもやするところがありますか?聖霊に満たされていませんか?心の中で喜びがありませんか?それは御霊に従っていないからです。真理に従っていないからです。だから心の中で平安がなくなってなんか不安になったり心苦しくなったりするのです。食事をした後ちょっとお腹の具合が悪くなった時どう思いますか?ある人はもしかして大きい病気ではないかと不安になります。それは普段からみ言葉通りに生きていないからです。皆さんがこのような辛い信仰生活をしているならどれ程苦しいでしょうか。私は良い環境ではないからと思ったり、家族が助けてくれないから色々大変だと思うのではなくて、皆さん自身が御言葉に従って御霊によって歩むなら、そういう悩みはなくなるのです。心に平安が臨むのです。 例えばステパノ執事は真理を伝えていて、悪い人々によって石打ちにされて死にかけていながらも、「主をこの罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。この時ステパノ執事の心に何か苦しみとか悩みとかあったでしょうか?皆さんがその立場になったと考えてみてください。周りの人々が皆さんを迫害して憤って石を投げています。それならステパノ執事はどうだったでしょう?余計なことを言ってこんなふうに殺されるのかとか後悔したでしょうか?そうではなかったでしょう。もちろん真理を受け入れない人々を思うと悲しむ心はあったと思います。でも彼らを恨んだり彼らのせいにしたのではありません。彼らのために祈ったのです。どれほど心の中に平安があったでしょうか。だから石打ちにされて死にかけていながらも、ステバノ執事の顔は平安で微笑んでいたでしょう。心に真理が満たされているから、命が危なくなっても平安を失わないのです。 ところで信仰生活をしながらそれが辛いなら、神様の掟に従わないからでしょう。心の中に憎しみがあるから苦しいのです。高ぶりがあるから辛いのです。心の重荷があるから平安と安らぎを得られないのです。ですから信仰生活をしているつもりなのに、心の中に平安がなくてきついとか辛いと思うなら、それだけ自分の中に真理と反対のものがたくさんあるということです。肉の思いを巡らして、自分の思い通りにしようとするから、大変なのです。ローマ8:6-7に、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」とあります。悪はどんな悪でも避けて心を真理で満たすなら、肉の思いが入り込む隙がありません。主の心で満たされているから、真理の光だけが心にあるのです。こうやってイエス・キリストの心に似ていくなら、愛が溢れるから苦しくなることはありません。 例えば運動場でかけっこをするとき、胸に大きい石を抱えて走っている人と、何も持たずに走っている人がいるとしましょう。すると何も持たずに走っている人は軽く走れるでしょう。でも大きい石を抱えて走っている人は、汗を流しながら辛そうに走っているでしょう。私たちの心の中に大きい石のような固い悪い心があるから、信仰生活がつらいのです。ですから大きい石のような固くて悪い心を、真理の光で神様の御言葉である鋭い剣で打ち砕かなければなりません。悪はどんな悪でも避けて心を聖くして割礼しなければなりません。皆さんの心から妬み、そねみ、憎しみ、高ぶり、移り変わること、偽り、憤り、貪り、姦淫などを全部捨てたなら心に真の平安が望むでしょう。 誰かが自分を苦しめると思いますか?誰かが自分に嫌味を言って自分もその時かっとなって言い返したのでしょうか?それならその後どうでしょう?心の中で平安がなくなりますね。もやもやしますね。相手の方が悪かったけれど、私はその人よりはあまりきつい言葉ではなかったと思うかもしれません。世の人が見たときはそれを悪いとも思わないでしょう。当然のことだと言うでしょう。でも神様を信じる人は後で心は苦しいのです。言わなかったほうがよかったのにと思うのです。何故そんなふうに言ったのでしょうか?自分の中に石のような悪い心があるからです。それを取り除かなければならないのです。だから、そういう場合は相手のところに行って、先ほど言い過ぎたと思います。申し訳ないですと言えば、その時また喜びが臨むと思います。そうすると心の中にある石がなくなるのですね。それで平安が臨むのです。 善を行うということはこのように嬉しいことです。すると相手も申し訳ないと思うでしょう。相手がそう思わなくても、私の方からは謝って真理を行ったから、御霊が喜ばれるのです。だから自分の心も嬉しくなるのです。心の中から石のような固い悪い心はなくなるからですね。これが真理の人のすべき姿でこれが知恵なのです。皆さんはこうしていますか?そうでなければ肉の願うことに従ってしまったでしょうか?それで相手と言い争ってしまったり、問い詰めたりしたのでしょうか?その時なんか気が重くなって、なんか聖霊が喜ばれていないような気がしたのに、それを無視してまたその後悪を行ったりすると、だんだん心が鈍くなってしまい、ついには良心が麻痺してしまうことになります。これはどれほど恐ろしいことでしょうか。そういう人は自分が罪の重荷を負ってつらそうに信仰生活をしているのに、その重荷を下ろそうとしないのです。 皆さんはそのような愚かな姿になってはいけないでしょう。私たちは真理の御言葉、聖めの福音を聞いているから、真理を行ってこそ平安が臨みます。そして真理に逆らってしまうなら心は苦しくなることを知っています。だからその時聖霊の声を聞いて聞き従って祈って善を行って、悪と罪を捨てていけば、上からまことの平安が臨むようになり、心は幸せになるのです。またそのような状態で祈れば答えを受けるでしょう。もう一つ調べてみるところがあります。ある聖徒は信仰生活をしていくなか、いつも恵みを体験して祝福を受けているのに、ある人は試練患難や迫害によって苦しんだり、病気にかかったりします。教会の試練の時でもある聖徒は、ああ私、本当に幸せです。心が本当にうれしいです。どの時より信仰が優れていると思います。このような強い激しい波があっても、それによって私はもっと速やかに変えられますと告白する人がいました。 しかしある人は教会の試練の時、いろんな環境のせいにしたりして落ち込んでしまったり、熱心が冷めたりする人もいます。そしていろんな人についてあれこれさばいたり陰口を叩いたりする人もいます。いろんな噂話をしたりする人もいるのです。同じ教会の聖徒で同じように信仰生活をしているのに、なぜこういう違いがあるのでしょうか?ある聖徒は信仰生活を始めたばかりなのに、信仰がすぐ成長します。しかし数十年間信仰生活をしていても、信仰が全然成長しない人もいます。同じ希望のメッセージを聞いても御国に向かってゆっくり歩いている人もいれば、熱心に走っている人もいます。最初は走っていてある時から止まってしまう人もいるし、世に振り返ってしまう人もいます。同じ神様を信じているのになぜこういう違いがあるのでしょうか?それはどのくらい神様の御言葉に聞き従うか従わないかによって違います。それぞれの選択によるものです。神様は全ての人を愛しておられます。公義によってそれぞれの行いに応じて報えてくださる方です。 箴言8:17に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に探す者は、わたしを見つける。」と言われました。私たちが神様を愛する時、つまり神様の御言葉通りに行う時、答えと祝福を受けます。神様愛していますと、口先だけで言うのではありません。神様の御言葉通りに行ってこそです。そうしてこそ、霊的に成長できます。このように、み言葉に従うか従わないかによって違うのです。同じ教会で同じメッセージを聞いていても、信仰の成長も答えを受けることも違うのです。ある人は一年中何の証しもないし、神様に栄光を捧げることが何もないならそれも問題でしょう。 また神様は、真理の御言葉を知っていながらもその通りに行っていない人に、もっと責任を厳しく問われるのです。知らないため行えなかった人がいて、また知っていながらも行っていない人がいるなら、どちらがもっと大きい責任を問われるでしょうか?ヤコブ4:17に「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」とあります。愛しなさいと言われたのに愛さないこと、仕えなさいと言われたのに仕えないこと、聞き従いなさいと言われたのに聞き従わないことが罪なのです。又、使命をはたさないことも感謝しないで喜ばないで祈らないことなど全部御言葉に逆らう罪なのです。ですから愛する皆さんは、神様の御言葉をただ知識として聞いて知っているだけではなく、必ず実行して真の平安を味わい、日増しに魂に幸いを得ているように全ての点で幸いを得、健康でありますように。

「ヨブ記講解54-悪者と神を敬わない者の結果(3-下)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:25~29

ヨブ記20:25です。
「彼がそれを引き抜くと、それは彼の背中から出る。きらめく矢じりが腹から出て、恐れが彼を襲う」(ヨブ20:25)

矢が人の体に刺さるとその苦しみと痛みは言葉で表現できないほど大きいでしょう。しかも鋭い矢じりが体の臓器を刺した状況なら、その苦しみはどうでしょうか。何としてでもその矢じりを引き抜いて治療してこそ痛みが治まるでしょう。ところで本文を読むと、きらめく矢じりが腹から出て恐れが彼を襲うと言っています。この聖句はただ文字づらだけで解釈すれば理解が難しいので、例えをあげて説明しましょう。例えばある人が詐欺にあって怒りに勝てなくて相手を殺したとしましょう。彼が人を殺すまではそれだけ感情的になってひどい苦しみと痛みがあったでしょう。詐欺にあって自分が大きい損をして、その相手を恨んで怒りに耐えられなかったのです。

相手はうまいことを言って、このくらい投資をすれば利子を後で何倍もして返すからと言っていました。しかし最初は利子をちゃんと返していたのですが、後でもっと大きい金額を投資するように言うのです。それで自分が持っているお金だけではなくて、家族にもお金を借りてあちこちから借りてきてそれを投資したとしましょう。しかし結局それが詐欺だったのです。それで、自分は自分の財産も全部失ってしまい、周りの人まで損をするようにしたとしましょう。自分の家を担保に入れて銀行からお金を借りたかもしれませんね。それなのに詐欺に遭ってしまって、それを返せなくなってしまったとすれば、もう住む家もなくなって、家族もどれほど苦しむでしょうか。しかし自分に詐欺をした人はうまくいっているのです。それを聞いたときどれほど苦しいでしょうか、どれほど腹が立つでしょうか。

自分はこのように破滅してしまったのに、自分を苦しめた人、自分を騙した人はなぜうまくいっているのかと思って、その人を殺したくなるのです。だからもう自分のその苦しみ、痛み、悩みに耐えられないのです。それは矢が体に刺さっている苦しみに例えられます。矢が体に刺さっているとどれほど痛いでしょうか。また炎症が起こったり臓器が傷ついたりするでしょう。詐欺に遭った時の心の苦しみが、それと似ているのです。しかしその人を憎んでいただけではなくて、その苦しみを忘れて、腹いせにその人のところに行って殺してしまったのです。その人のところに行って、私はこんなに大きい金額を損をしたから返してほしいと言ったり、私はこんなに今住む家もないし家族も苦労していると言いながら責任を取れと言うかもしれません。

しかし相手は自分をあざわらったりそして無視したり、いい家で、良い車に乗って、うまく贅沢に暮らしているとしましょう。それでその時、その人を殺してしまいました。殺した時は気づかなかったのですが、人が死んでいる姿を見たら、私は罪を犯してしまったと恐れが押し寄せてきますね。そして恐れて恐怖が押し寄せてきて、後悔するようになります。これが本文で言う、恐れが襲うということです。ヨブ、矢を引き抜いた後には、あなたにそのような苦しみが伴うだろう。恐れが押し寄せてくるだろうと言っているのです。ツォファルはこのように、ヨブを苦しめるために、脅迫に近い表現をしています。決して言ってはいけない呪いの言葉で友達を苦しめているのです。どれほど悪い姿でしょうか?私たちはこのように悪い言葉で相手を苦しめる過ちを犯してはいけません。

ところでここでもう一つ調べてみる分野があります。神様を信じる人が罪を犯した時の苦しみについてです。皆さんが罪を犯したとしましょう。先ほど言った殺人のように大きい罪でなくても、自分を苦しめて害を与えた人に復讐したいと思ったり、憎んだりしているとしましょう。自分の悪口を言っていた人について知ったならばどう思いますか?その人のところに行って一言言ってやりたいし問い詰めたいのですね。それで実際言ってやって言い争って憎くなりました。真理を知っているみなさんならこれも罪だと罪の意識を感じるようになるでしょう。先ほど言ったように、矢に刺さったならばそれを引き抜いて治療すれば良いのですが、そうしないで自分の心にある罪によって、肉の思いを巡らしていろいろ悪いことをするのです。それでそうした後はどうなりますか?
 

心がすっきりするのではなくて、良心の過酌を感じたり、後悔したりするのです。それで心が苦しくなりますね。悪を行ったから。感情的になって悪を行ったのですが、その後は平安があるのではなくて、不安があるし、神様の前にも大胆に出ていくことができないし、苦しみと恐れが襲うのです。人との関係だけではなく心の中で罪を犯した時とか、肉の行いをした時とか、姦淫を犯した時もそうでしょう。神様の前に申し訳なくて恥ずかしくなるでしょう。人に誘惑されて死にいたる罪を犯したならどうでしょう。神様の前に責められるのではないかと恐れますね。そして大きな悪を行ったなら、何か災いがやってくるのではないかと心配して不安になって、後悔するようになります。 皆さんこのように罪を犯した後に苦しみながら後悔するよりは、罪を捨てて後悔するようなことをしない方が、知恵ある生き方ではありませんか。イエス・キリストの心に似て聖められるまでは、忍耐と労苦が伴いますが、完全に悪を捨てた後、聖い心で感じる平安と喜びは、言葉で表現できないでしょう。私たちは人間関係の中でどうなのか顧みましょう。家族との間で会社の同僚との間で教会の働き人の間でどうでしょう?自分と気が合わない人、自分と考えが合わない人との間でギクシャクしたり気まずくなったりすることはありませんか?それでその人に何か厳しく強く言ってやりたいと思いますか?それで実際に言ったならばどうでしょう。心がすっきりしますか?胸がすっとしますか?そうでないでしょう。反対です。 神様の前で申し訳なくて、真理を知っているからそれも悪なんだと思って、とがめを感じるようになります。それで聖霊に満たされなくなってしまうこともあります。だから私たちは、悪を行ったり罪を犯すことを絶対してはいけないのです。その為には罪と悪を捨てなければならないのです。人を裁いたり罪に定めたりして、後で祈りながら後悔して悔改めたとしましょう。しかしその後、その根本になる罪の性質を捨てなければ、また人を裁いて罪に定めるようになるのです。また人の陰口を叩いたりして、悪いと思って後でそれを後悔して反省したとしましょう。しかしその自分の中にその罪の根の根がそのまま残っているならば、また出てくることがあります。ですから私たちは心の中に罪と悪があるということを自分が認めて、そしてそれをただぎゅっと押さえつけておくのではなくて、完全に捨てて取り除かなければならないのです。 罪とか悪を犯した後、私たちは悔い改めますね。それで涙で祈ったりします。しかしまた人に何か悔しい目にあったり悪いことを言われたり、嫌味を言われたりするとまたムッとしたり、カッとなって、その人を憎らしいと思ったりすることはありませんか?でも私たちは真理を聞いているから、真理に照らして自分を顧みて変えられる機会があります。それで悪を完全に捨てたら心が聖くなるから、平安と喜びが臨みます。そうすると、この地上でも祝福され天国でも栄光を受けます。ですから私たちはこのような望みを持ってさらに聖められていきましょう。 続くヨブ記20:26です すべてのやみが彼の宝として隠され、人が吹きおこしたのではない火が彼を焼き尽くし、彼の天幕に生き残っているものをもそこなってしまう。(ヨブ10:26) ツォファルはヨブが富を貪って悪者のように貯めていたから、それについて報いとして闇が臨んだと言っています。どんな人と交わることもできないまま閉じ込められた状態、さまようしかないし、活動できない状態になると言っています。そして、それまで貯めたすべての財産もなくなってしまうと言っています。これはヨブを妬んでいたツォファルの心からこういう言葉が出てくるのです。もし妬んでいなかったなら、ヨブの財産についてこういう表現は使わないでしょう。「人が吹き起こしたのではない火が彼を焼き尽くし、彼の天幕に生き残っているものをもそこなってしまう。」と言っています。ヨブにやってきた災いは、人がもたらすものではなく、神様が御顔を背けられたからだと言っているのです。ヨブあなたは悪者だから神様に御顔を背けられ、サタンが働いて災いに遭ったのだ。だからあなたは神の懲らしめとして滅びるしかないのだと言っているのです。 続く本文を読むと神様が悪者の罪と悪をどのように明らかにされるのかについて言っています。 ヨブ記20:27です。 天は彼の罪をあらわし、地は彼に逆らって立つ。(ヨブ20:27) ツォファルは神様がヨブの罪と悪を明らかにされるから、ヨブの前にある全ての道は絶えてしまうと言っています。ヨブ、天があなたを許さない、だから全てが虚しくなる、あなたの命は尽きる、あなたの道も絶えてしまう。あなたの人生のすべてはもうすべてが終わりになると言っているのです。これは神様の公義の法則についての説明でもあります。箴言15:3です。「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」とあります。神様はどこにもおられ探っておられ必ずそのそれぞれの仕業に報いてくださいます。国の王や有名人でも同じです。歴史が裁くという言葉もありますが、人は悪い知恵と方法を使って自分の地位を高めて、それをしっかり固めたつもりでも歳月が経つと必ずその悪は明らかになるのです 聖書の例を挙げれば、そもそもゴモラの町の民はそうでした。罪と悪によって都市全体とともに滅びました。もともとソドムとゴモラは創世紀13:10に、主の園のようにエジプトの地のように、どこもよく潤っていたと言われるほど良い地でした。しかし罪に対する裁きによって、神様が硫黄と火を雨のように降らしたら、どんなものも育つことができない地になってしまい、荒れ果ててしまいました。第二ペテロ2:6に「ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。」とあります。このように悪者はその当時だけではなく後代にも多くの人の非難の対象になるのです。 反対に韓国の朝鮮時代の世宗大王やイ・スンシン将軍のように、様々な業績によって後代まで尊敬され、記憶に残る人もいます。箴言13:9に「正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。」とある通りです。そして民の心は天の心という言葉もありますが、神様は人の心を動かして悪者を明らかにしたり、国の法を変えていかれたりもします。権力者たちは何かのことを自分の権力で左右できると思いますが、ローマ13:1に「神によらない権威はなく」とあるように神様の権威の下にあるのです。 例えばピラト総督はイエス様を尋問するとき「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか?」と言って、総督という自分の権力を持って左右していると思いましたが、イエス様は「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたには私に対して何の権威もありません。」と言われました。すべての権威は神様に属しているもので、いくらローマから派遣された総督でも神様の権威の下にあるということです。つまり人の死と生は神様にかかっているので、いくら人が大きい権力を振るっていても、神様がこれを止められるならば止まるしかないのです。神様のお許しがなければ雀一羽も地に落ちることはないのです。ですから本文に天は彼の罪をあらわしという言葉は神様の公義の裁きについての言葉です。 それでは本文に「地は彼に逆らって立つ」とはどういう意味でしょうか?地は人の基本的な生活の場所として誰でも地に種を蒔いて汗を流して誠実に働けば、それなりの実を刈取ります。地は、人が生きている間、豊かに生産して、祝福を与えるものなのですが、悪者の祝福は全部消えてしまうということです。創世記27章を読むとイサクは息子のヤコブに長子の祝福を祈るときこう言いました。ヤコブとヤコブの母がイサクを騙して、ヤコブは次男だったのですが、長男の祝福を受けるようにしました。それでイサクはその祝福の祈りをしていました。その内容を見てみると神がお前に天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しい葡萄酒をお与えになるようにと祝福をしました。 人の心もこうですが、愛の豊かな神様の心は子どもたちに豊かに祝福してあげたいと思っておられます。ところが万物の霊長であるアダムが呪われたら彼に属しているこの地上の万物も一緒に呪われてしまいました。アダムが罪を犯す前は自ら豊かに結ばれた果物を取って食べればよかったのですが、罪を犯した後は地が呪われて茨とアザミを出して、汗を流して労苦してこそ食物を得ました。このように人の罪によって地は呪われて、貧しさの苦しみもその時から始まりました。 ところが神様は私たちが御言葉にとどまって完全な十分の一献金を捧げれば、マラキ書3:11-12に「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。」と言われました。このように神様の御言葉に聞き従うなら豊かになるのです。同じ地でも正しい人は祝福を受けて、その土地の産物を豊かに得るようになるのです。大雨の時もその木の実が落ちないのです。又、収穫が多いのです。しかし悪い人の場合は自然災害が起きると守られなくて木から実が落ちてしまったりまた病虫害にあったりするのです。世の中ではこのようにいろんな自然災害によって苦しんでいるのです。 それはアダムが罪を犯したから地が呪われたからなのです。しかし正しいものはその中でも神様の御手によって守られるのです。ツォファルは今悪者が受ける苦しみ、悪者が呪われた地のため苦しむことについて言っているのです。あなたがいくら労苦してもあなたは地の産物を得ることはできない。あなたの祝福は無駄になると言っているのです。ツォファルはヨブが悪者だからそうなるとこのように決めつけて呪っているのです。ヨブには正しいものに臨む祝福は関係ない。完全に滅びてしまうと言っているのです。そしてツォファルは結論をつけてこう言います。 ヨブ記20:28-29です。 彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消えうせる。これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。(ヨブ20:28-29) 彼の家の作物はさらわれ御怒りの火に消え失せるとは、神様の御怒りによって全ての財産が、洪水に流されるように消えてしまうという意味です。そしてこういう災いはヨブが悪者だから、神様によって定められたものを受けるのだと言っているのです。ツォファルはヨブを悪者だと決めつけて罪に定めて、神様の定められた懲らしめを受けるべきだと言っています。もしこの言葉があっているなら、ヨブは滅びるしかなかったでしょう。しかし結末を見れば、ヨブは悔い改めて立ち返ってさらに祝福されました。今ヨブが苦しみを受けているのは、神様がヨブを愛しておられるから、更に大きな祝福を下さる為に練っておられるのです。だからツォファルの主張はあっていません。愛する子ども達に更に良い道があるならば、お仕置きをしてでも教えて訓戒する親の心のように、ヨブの試練は神様の愛の表現でした。しかし、この言葉を皆さんが誤解してはいけません。 神様が人の運命をあらかじめ定めておかれたとか、勝手に変えてしまうんだと思ってはいけません。先ほど世の権力者でも神様の権威の下にあり神様が人類の歴史と人生の生死禍福を司ると言ったのですが、神様が全てをあらかじめ決めておいて導いていくと思うクリスチャンもいます。しかし世のことがらについてこのように行えばこういう祝福が臨み、このように行えばそのようになると神様が定めた原理があるだけです。霊の世界の法則があるのです。しかし神様は人の心や選択を無理やり変える方ではありません。なぜなら人には自由意志があるからです。全知全能の神様は救いの枠を定めておかれ、祝福と呪いの法則も定めておかれ、それに従って司られる方です。枠は決まっているのですが、個人の選択やことの方法、過程などまで全部決めておいたのではないのです。 しかし予定論を主張する人々は神様が既に全てを決めておかれたから、救われることも既に定められていると主張します。それで一度救われた人は最後まで救いは変わらないと言っています。しかし私たちはそうではありません。予知予定の神様を信じます。予知予定とは神様はそれぞれの人がどんな風に選んでどんな結果になるか知っておられますが、だからといって神様がそうなるように決めておかれたのではないという意味です。結果は人の自由意志によっていくらでも変わることがあります。神様はその結果までも知っておられ全てを計画して成し遂げられるということです。 例えば神様はアブラムがいつどこで、どんな心を持って生まれるのかを知っておられたから、それに合わせて彼を信仰の父にしてイスラエルを導くための計画を立てておかれたのです。神様は律法を通して救いの枠を定めておかれただけなので、その救いの枠に入るのか入らないのかは人の自由意志によるものであるということを悟ってください。例えば神様がキム執事は罪を犯して地獄に行きなさい。イ執事は罪を犯さないで天国に行きなさいと、このように決めておかれたのではなく、このような選択がそれぞれにかかっているということです。もし神様が各人の運命を予定しておいたならば、裁くことはできないでしょう。裁きの必要はないでしょう。それでは神様は悪者と正しいものをどんなふうに治められるでしょうか?これについては次の時間から始まる21章で説明しましょう 結論です。 皆さん今日まで3時間にわたって悪者と神を敬わない者の結果について伝えました。箴言24:19-20に「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」とあります。これは悪者の結末は破滅ですが、反対に正しい者の栄光は永遠にあるという意味です。つまり悪者が今味わっている繁栄は虚しいもので一時的だけで、それを知っているならば、その悪者の成功や自慢を羨ましいと思う必要はないという意味です。今、ヨブ記講解で悪者と神を敬わない者の結果について伝えていますが、これを心に必ず刻みますように。 裕福な人がいて悪者がいますがその人の成功をうらやましく思う必要はないのです。正しい者がいてその人が貧しいなら、もちろん豊かになればいいのですが、それでも正しいものを選んだ方がいいのです。それが神様が望んでおられる真理の人なのです。詩編37:8に「怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」とあるように、悪者に対して腹を立てたりするとそれは悪だから、そうすることは決してあってはならないと強調しておられます。 誰か悪い人に対して腹を立てたり悪を思ったりすることは、自分に霊的に害を与えることです。悪者が積んだものは必ず崩れます。ですから、私たちは悪者がうまくいっていることを羨ましく思う必要もないのです。ですから、悪を行う者に対して腹を立てる必要はないし、暗い世の中で私たちはただ善と真理を追い求めて、宝石のように光を放っていきましょう。正しいものになりましょう。それで神様にとって慰めと喜びになる皆さんになりますように。 聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。父なる神様今日も悪者と神を敬わない者の結果はどうなのか調べてみました。今は悪者がうまくいっているように見えても必ず神様の裁きがあり、そしてこの地上でも後の世でも惨めな結果を迎えるしかありません。それを悟るようにしてください。それで私たちは悪者を、神を敬わない者を羨ましいと思ったり、その道を行くのではなく、善を追い求めて正しい道に行くようにしてください。悪を行う人はどれほど心苦しいのかを悟って、悪はどんな悪でも避けるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解54-悪者と神を敬わない者の結果(3-下)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:25~29

ヨブ記20:25です。
「彼がそれを引き抜くと、それは彼の背中から出る。きらめく矢じりが腹から出て、恐れが彼を襲う」(ヨブ20:25)

矢が人の体に刺さるとその苦しみと痛みは言葉で表現できないほど大きいでしょう。しかも鋭い矢じりが体の臓器を刺した状況なら、その苦しみはどうでしょうか。何としてでもその矢じりを引き抜いて治療してこそ痛みが治まるでしょう。ところで本文を読むと、きらめく矢じりが腹から出て恐れが彼を襲うと言っています。この聖句はただ文字づらだけで解釈すれば理解が難しいので、例えをあげて説明しましょう。例えばある人が詐欺にあって怒りに勝てなくて相手を殺したとしましょう。彼が人を殺すまではそれだけ感情的になってひどい苦しみと痛みがあったでしょう。詐欺にあって自分が大きい損をして、その相手を恨んで怒りに耐えられなかったのです。

相手はうまいことを言って、このくらい投資をすれば利子を後で何倍もして返すからと言っていました。しかし最初は利子をちゃんと返していたのですが、後でもっと大きい金額を投資するように言うのです。それで自分が持っているお金だけではなくて、家族にもお金を借りてあちこちから借りてきてそれを投資したとしましょう。しかし結局それが詐欺だったのです。それで、自分は自分の財産も全部失ってしまい、周りの人まで損をするようにしたとしましょう。自分の家を担保に入れて銀行からお金を借りたかもしれませんね。それなのに詐欺に遭ってしまって、それを返せなくなってしまったとすれば、もう住む家もなくなって、家族もどれほど苦しむでしょうか。しかし自分に詐欺をした人はうまくいっているのです。それを聞いたときどれほど苦しいでしょうか、どれほど腹が立つでしょうか。

自分はこのように破滅してしまったのに、自分を苦しめた人、自分を騙した人はなぜうまくいっているのかと思って、その人を殺したくなるのです。だからもう自分のその苦しみ、痛み、悩みに耐えられないのです。それは矢が体に刺さっている苦しみに例えられます。矢が体に刺さっているとどれほど痛いでしょうか。また炎症が起こったり臓器が傷ついたりするでしょう。詐欺に遭った時の心の苦しみが、それと似ているのです。しかしその人を憎んでいただけではなくて、その苦しみを忘れて、腹いせにその人のところに行って殺してしまったのです。その人のところに行って、私はこんなに大きい金額を損をしたから返してほしいと言ったり、私はこんなに今住む家もないし家族も苦労していると言いながら責任を取れと言うかもしれません。

しかし相手は自分をあざわらったりそして無視したり、いい家で、良い車に乗って、うまく贅沢に暮らしているとしましょう。それでその時、その人を殺してしまいました。殺した時は気づかなかったのですが、人が死んでいる姿を見たら、私は罪を犯してしまったと恐れが押し寄せてきますね。そして恐れて恐怖が押し寄せてきて、後悔するようになります。これが本文で言う、恐れが襲うということです。ヨブ、矢を引き抜いた後には、あなたにそのような苦しみが伴うだろう。恐れが押し寄せてくるだろうと言っているのです。ツォファルはこのように、ヨブを苦しめるために、脅迫に近い表現をしています。決して言ってはいけない呪いの言葉で友達を苦しめているのです。どれほど悪い姿でしょうか?私たちはこのように悪い言葉で相手を苦しめる過ちを犯してはいけません。

ところでここでもう一つ調べてみる分野があります。神様を信じる人が罪を犯した時の苦しみについてです。皆さんが罪を犯したとしましょう。先ほど言った殺人のように大きい罪でなくても、自分を苦しめて害を与えた人に復讐したいと思ったり、憎んだりしているとしましょう。自分の悪口を言っていた人について知ったならばどう思いますか?その人のところに行って一言言ってやりたいし問い詰めたいのですね。それで実際言ってやって言い争って憎くなりました。真理を知っているみなさんならこれも罪だと罪の意識を感じるようになるでしょう。先ほど言ったように、矢に刺さったならばそれを引き抜いて治療すれば良いのですが、そうしないで自分の心にある罪によって、肉の思いを巡らしていろいろ悪いことをするのです。それでそうした後はどうなりますか?
 

心がすっきりするのではなくて、良心の過酌を感じたり、後悔したりするのです。それで心が苦しくなりますね。悪を行ったから。感情的になって悪を行ったのですが、その後は平安があるのではなくて、不安があるし、神様の前にも大胆に出ていくことができないし、苦しみと恐れが襲うのです。人との関係だけではなく心の中で罪を犯した時とか、肉の行いをした時とか、姦淫を犯した時もそうでしょう。神様の前に申し訳なくて恥ずかしくなるでしょう。人に誘惑されて死にいたる罪を犯したならどうでしょう。神様の前に責められるのではないかと恐れますね。そして大きな悪を行ったなら、何か災いがやってくるのではないかと心配して不安になって、後悔するようになります。 皆さんこのように罪を犯した後に苦しみながら後悔するよりは、罪を捨てて後悔するようなことをしない方が、知恵ある生き方ではありませんか。イエス・キリストの心に似て聖められるまでは、忍耐と労苦が伴いますが、完全に悪を捨てた後、聖い心で感じる平安と喜びは、言葉で表現できないでしょう。私たちは人間関係の中でどうなのか顧みましょう。家族との間で会社の同僚との間で教会の働き人の間でどうでしょう?自分と気が合わない人、自分と考えが合わない人との間でギクシャクしたり気まずくなったりすることはありませんか?それでその人に何か厳しく強く言ってやりたいと思いますか?それで実際に言ったならばどうでしょう。心がすっきりしますか?胸がすっとしますか?そうでないでしょう。反対です。 神様の前で申し訳なくて、真理を知っているからそれも悪なんだと思って、とがめを感じるようになります。それで聖霊に満たされなくなってしまうこともあります。だから私たちは、悪を行ったり罪を犯すことを絶対してはいけないのです。その為には罪と悪を捨てなければならないのです。人を裁いたり罪に定めたりして、後で祈りながら後悔して悔改めたとしましょう。しかしその後、その根本になる罪の性質を捨てなければ、また人を裁いて罪に定めるようになるのです。また人の陰口を叩いたりして、悪いと思って後でそれを後悔して反省したとしましょう。しかしその自分の中にその罪の根の根がそのまま残っているならば、また出てくることがあります。ですから私たちは心の中に罪と悪があるということを自分が認めて、そしてそれをただぎゅっと押さえつけておくのではなくて、完全に捨てて取り除かなければならないのです。 罪とか悪を犯した後、私たちは悔い改めますね。それで涙で祈ったりします。しかしまた人に何か悔しい目にあったり悪いことを言われたり、嫌味を言われたりするとまたムッとしたり、カッとなって、その人を憎らしいと思ったりすることはありませんか?でも私たちは真理を聞いているから、真理に照らして自分を顧みて変えられる機会があります。それで悪を完全に捨てたら心が聖くなるから、平安と喜びが臨みます。そうすると、この地上でも祝福され天国でも栄光を受けます。ですから私たちはこのような望みを持ってさらに聖められていきましょう。 続くヨブ記20:26です すべてのやみが彼の宝として隠され、人が吹きおこしたのではない火が彼を焼き尽くし、彼の天幕に生き残っているものをもそこなってしまう。(ヨブ10:26) ツォファルはヨブが富を貪って悪者のように貯めていたから、それについて報いとして闇が臨んだと言っています。どんな人と交わることもできないまま閉じ込められた状態、さまようしかないし、活動できない状態になると言っています。そして、それまで貯めたすべての財産もなくなってしまうと言っています。これはヨブを妬んでいたツォファルの心からこういう言葉が出てくるのです。もし妬んでいなかったなら、ヨブの財産についてこういう表現は使わないでしょう。「人が吹き起こしたのではない火が彼を焼き尽くし、彼の天幕に生き残っているものをもそこなってしまう。」と言っています。ヨブにやってきた災いは、人がもたらすものではなく、神様が御顔を背けられたからだと言っているのです。ヨブあなたは悪者だから神様に御顔を背けられ、サタンが働いて災いに遭ったのだ。だからあなたは神の懲らしめとして滅びるしかないのだと言っているのです。 続く本文を読むと神様が悪者の罪と悪をどのように明らかにされるのかについて言っています。 ヨブ記20:27です。 天は彼の罪をあらわし、地は彼に逆らって立つ。(ヨブ20:27) ツォファルは神様がヨブの罪と悪を明らかにされるから、ヨブの前にある全ての道は絶えてしまうと言っています。ヨブ、天があなたを許さない、だから全てが虚しくなる、あなたの命は尽きる、あなたの道も絶えてしまう。あなたの人生のすべてはもうすべてが終わりになると言っているのです。これは神様の公義の法則についての説明でもあります。箴言15:3です。「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」とあります。神様はどこにもおられ探っておられ必ずそのそれぞれの仕業に報いてくださいます。国の王や有名人でも同じです。歴史が裁くという言葉もありますが、人は悪い知恵と方法を使って自分の地位を高めて、それをしっかり固めたつもりでも歳月が経つと必ずその悪は明らかになるのです 聖書の例を挙げれば、そもそもゴモラの町の民はそうでした。罪と悪によって都市全体とともに滅びました。もともとソドムとゴモラは創世紀13:10に、主の園のようにエジプトの地のように、どこもよく潤っていたと言われるほど良い地でした。しかし罪に対する裁きによって、神様が硫黄と火を雨のように降らしたら、どんなものも育つことができない地になってしまい、荒れ果ててしまいました。第二ペテロ2:6に「ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。」とあります。このように悪者はその当時だけではなく後代にも多くの人の非難の対象になるのです。 反対に韓国の朝鮮時代の世宗大王やイ・スンシン将軍のように、様々な業績によって後代まで尊敬され、記憶に残る人もいます。箴言13:9に「正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。」とある通りです。そして民の心は天の心という言葉もありますが、神様は人の心を動かして悪者を明らかにしたり、国の法を変えていかれたりもします。権力者たちは何かのことを自分の権力で左右できると思いますが、ローマ13:1に「神によらない権威はなく」とあるように神様の権威の下にあるのです。 例えばピラト総督はイエス様を尋問するとき「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか?」と言って、総督という自分の権力を持って左右していると思いましたが、イエス様は「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたには私に対して何の権威もありません。」と言われました。すべての権威は神様に属しているもので、いくらローマから派遣された総督でも神様の権威の下にあるということです。つまり人の死と生は神様にかかっているので、いくら人が大きい権力を振るっていても、神様がこれを止められるならば止まるしかないのです。神様のお許しがなければ雀一羽も地に落ちることはないのです。ですから本文に天は彼の罪をあらわしという言葉は神様の公義の裁きについての言葉です。 それでは本文に「地は彼に逆らって立つ」とはどういう意味でしょうか?地は人の基本的な生活の場所として誰でも地に種を蒔いて汗を流して誠実に働けば、それなりの実を刈取ります。地は、人が生きている間、豊かに生産して、祝福を与えるものなのですが、悪者の祝福は全部消えてしまうということです。創世記27章を読むとイサクは息子のヤコブに長子の祝福を祈るときこう言いました。ヤコブとヤコブの母がイサクを騙して、ヤコブは次男だったのですが、長男の祝福を受けるようにしました。それでイサクはその祝福の祈りをしていました。その内容を見てみると神がお前に天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しい葡萄酒をお与えになるようにと祝福をしました。 人の心もこうですが、愛の豊かな神様の心は子どもたちに豊かに祝福してあげたいと思っておられます。ところが万物の霊長であるアダムが呪われたら彼に属しているこの地上の万物も一緒に呪われてしまいました。アダムが罪を犯す前は自ら豊かに結ばれた果物を取って食べればよかったのですが、罪を犯した後は地が呪われて茨とアザミを出して、汗を流して労苦してこそ食物を得ました。このように人の罪によって地は呪われて、貧しさの苦しみもその時から始まりました。 ところが神様は私たちが御言葉にとどまって完全な十分の一献金を捧げれば、マラキ書3:11-12に「わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。」と言われました。このように神様の御言葉に聞き従うなら豊かになるのです。同じ地でも正しい人は祝福を受けて、その土地の産物を豊かに得るようになるのです。大雨の時もその木の実が落ちないのです。又、収穫が多いのです。しかし悪い人の場合は自然災害が起きると守られなくて木から実が落ちてしまったりまた病虫害にあったりするのです。世の中ではこのようにいろんな自然災害によって苦しんでいるのです。 それはアダムが罪を犯したから地が呪われたからなのです。しかし正しいものはその中でも神様の御手によって守られるのです。ツォファルは今悪者が受ける苦しみ、悪者が呪われた地のため苦しむことについて言っているのです。あなたがいくら労苦してもあなたは地の産物を得ることはできない。あなたの祝福は無駄になると言っているのです。ツォファルはヨブが悪者だからそうなるとこのように決めつけて呪っているのです。ヨブには正しいものに臨む祝福は関係ない。完全に滅びてしまうと言っているのです。そしてツォファルは結論をつけてこう言います。 ヨブ記20:28-29です。 彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消えうせる。これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である。(ヨブ20:28-29) 彼の家の作物はさらわれ御怒りの火に消え失せるとは、神様の御怒りによって全ての財産が、洪水に流されるように消えてしまうという意味です。そしてこういう災いはヨブが悪者だから、神様によって定められたものを受けるのだと言っているのです。ツォファルはヨブを悪者だと決めつけて罪に定めて、神様の定められた懲らしめを受けるべきだと言っています。もしこの言葉があっているなら、ヨブは滅びるしかなかったでしょう。しかし結末を見れば、ヨブは悔い改めて立ち返ってさらに祝福されました。今ヨブが苦しみを受けているのは、神様がヨブを愛しておられるから、更に大きな祝福を下さる為に練っておられるのです。だからツォファルの主張はあっていません。愛する子ども達に更に良い道があるならば、お仕置きをしてでも教えて訓戒する親の心のように、ヨブの試練は神様の愛の表現でした。しかし、この言葉を皆さんが誤解してはいけません。 神様が人の運命をあらかじめ定めておかれたとか、勝手に変えてしまうんだと思ってはいけません。先ほど世の権力者でも神様の権威の下にあり神様が人類の歴史と人生の生死禍福を司ると言ったのですが、神様が全てをあらかじめ決めておいて導いていくと思うクリスチャンもいます。しかし世のことがらについてこのように行えばこういう祝福が臨み、このように行えばそのようになると神様が定めた原理があるだけです。霊の世界の法則があるのです。しかし神様は人の心や選択を無理やり変える方ではありません。なぜなら人には自由意志があるからです。全知全能の神様は救いの枠を定めておかれ、祝福と呪いの法則も定めておかれ、それに従って司られる方です。枠は決まっているのですが、個人の選択やことの方法、過程などまで全部決めておいたのではないのです。 しかし予定論を主張する人々は神様が既に全てを決めておかれたから、救われることも既に定められていると主張します。それで一度救われた人は最後まで救いは変わらないと言っています。しかし私たちはそうではありません。予知予定の神様を信じます。予知予定とは神様はそれぞれの人がどんな風に選んでどんな結果になるか知っておられますが、だからといって神様がそうなるように決めておかれたのではないという意味です。結果は人の自由意志によっていくらでも変わることがあります。神様はその結果までも知っておられ全てを計画して成し遂げられるということです。 例えば神様はアブラムがいつどこで、どんな心を持って生まれるのかを知っておられたから、それに合わせて彼を信仰の父にしてイスラエルを導くための計画を立てておかれたのです。神様は律法を通して救いの枠を定めておかれただけなので、その救いの枠に入るのか入らないのかは人の自由意志によるものであるということを悟ってください。例えば神様がキム執事は罪を犯して地獄に行きなさい。イ執事は罪を犯さないで天国に行きなさいと、このように決めておかれたのではなく、このような選択がそれぞれにかかっているということです。もし神様が各人の運命を予定しておいたならば、裁くことはできないでしょう。裁きの必要はないでしょう。それでは神様は悪者と正しいものをどんなふうに治められるでしょうか?これについては次の時間から始まる21章で説明しましょう 結論です。 皆さん今日まで3時間にわたって悪者と神を敬わない者の結果について伝えました。箴言24:19-20に「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」とあります。これは悪者の結末は破滅ですが、反対に正しい者の栄光は永遠にあるという意味です。つまり悪者が今味わっている繁栄は虚しいもので一時的だけで、それを知っているならば、その悪者の成功や自慢を羨ましいと思う必要はないという意味です。今、ヨブ記講解で悪者と神を敬わない者の結果について伝えていますが、これを心に必ず刻みますように。 裕福な人がいて悪者がいますがその人の成功をうらやましく思う必要はないのです。正しい者がいてその人が貧しいなら、もちろん豊かになればいいのですが、それでも正しいものを選んだ方がいいのです。それが神様が望んでおられる真理の人なのです。詩編37:8に「怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。」とあるように、悪者に対して腹を立てたりするとそれは悪だから、そうすることは決してあってはならないと強調しておられます。 誰か悪い人に対して腹を立てたり悪を思ったりすることは、自分に霊的に害を与えることです。悪者が積んだものは必ず崩れます。ですから、私たちは悪者がうまくいっていることを羨ましく思う必要もないのです。ですから、悪を行う者に対して腹を立てる必要はないし、暗い世の中で私たちはただ善と真理を追い求めて、宝石のように光を放っていきましょう。正しいものになりましょう。それで神様にとって慰めと喜びになる皆さんになりますように。 聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。父なる神様今日も悪者と神を敬わない者の結果はどうなのか調べてみました。今は悪者がうまくいっているように見えても必ず神様の裁きがあり、そしてこの地上でも後の世でも惨めな結果を迎えるしかありません。それを悟るようにしてください。それで私たちは悪者を、神を敬わない者を羨ましいと思ったり、その道を行くのではなく、善を追い求めて正しい道に行くようにしてください。悪を行う人はどれほど心苦しいのかを悟って、悪はどんな悪でも避けるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解54-悪者と神を敬わない者の結果(3-上)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:22~24

愛する皆さん、ヨブ記20章はヨブの友達ツォファルがヨブに向かって続けて、あなたは神を敬わない者だ 、悪い者だと責めている内容です。前回まで2回にわたってツォファルの言っていることを一つ一つ調べてみて悪者と神を敬わない者の結果について伝えました。今日も同じタイトルで悪者と神を敬わない者について伝えます。

ツォファルは既にヨブを悪者だと決めつけていたので、普通の人なら想像もできない呪いの言葉をためらわずにぶちまけています。信じて愛していた友達からこの様に厳しい呪いの言葉を言われているヨブの心はどうだったでしょうか?言葉でつけた傷は、刃物でつけた傷より深いという言葉もありますが、悪い言葉は鋭い刃物に刺されたより、大きい傷をつけることがあります。箴言12:18「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人をいやす。」とあります。私たちの言葉が相手を挫折させることもあるし、反対に絶望の中から新しい力を得させることもあります。

時には周りの人にAという人について陰口を叩いたり、その人について自分が感じたことを伝えたりしたとしましょう。他の人と話をしたとしても、それは結局Aという本人の耳に入るようになるのです。ずっとそういう噂を聞いた人の心はどれほど悲しいでしょうか。箴言の御言葉にあったように、剣で刺されたような痛みを感じるようになるのです。皆さんの口の言葉がもしかして相手を傷つける悪い言葉ではないのか、顧みますように。面と向かってその人に厳しく言ったことはなかったとしても、他の人にああだ、こうだと言ったりしたことはありませんか?陰口を叩いたりその人の悪い噂話をしたりしたことはありませんか?それは人を生かす言葉ではなく殺す言葉になります。これは人間関係だけではなく、神様がそれを全部見ておられるのです。

ある場合は、思いの中で人を裁くことがよくあります。口の言葉で言わなくても心の中であれこれよく思ったり考えたりするのではありませんか?ヨブの友達より自分は成していると思ってはいけません。私たちはあれこれ考えて人を決めつけたりすることがよくあります。例えば私のメッセージを聞いていながらも、皆さんの中では他のことを考えたり、また肉の思いを巡らしたり、あれこれさばいたり、罪に定めることがあるかもしれません。それを神様は見ておられるのです。それが隔ての壁になって罪の壁になっていろんな問題をもたらすこともあるし、自分の口から出したことでないから忘れてしまいます。ですから私たちは、裁いて罪に定めることを警戒しなければなりません。気をつけなければなりません。

ヨブとヨブの友達が互いに言い争っている姿を見て、私たちは自分を顧みなければなりません。ヨブの友達はヨブをこのように誤解して、罪人として裁いているのです。しかし実はそれは間違っていることで、神様の前にヨブの友達が罪を積んでいるということです。私たちはこれを正確に悟らなければなりません。そして習慣のようになってしまい、むやみに人を決めつけたり憶測で何かを考えたりしている自分の考え方そのものが変わらなければならないのです。そのためには心から真理と反対のものを捨てなければならないでしょう。ですからヨブ記講解を聞きながら、自分の心と思いと口の言葉を直していきましょう。言うべきことと言ってはいけないことをよく区分しなければなりません。最も適切で感動的な良い言葉は、相手の心も喜ばせて周りを明るくします。ですから私たちは速やかに心に善が臨むようにして、どんな状況でも誰の前でも力と勇気を与えて、変化と命に導く良い言葉を口にしましょう。
 

それでは全てのことで、どうすれば言葉で相手を傷つけるのではなく、相手を力づけることができるでしょうか?マタイ12:35です。「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」とあります。心が良ければ良い言葉と行動が出てきます。反対に心が悪ければ悪い言葉と行動が出てくるということです。言葉は思いから出てきて、思いが心から出てくるから、心に真理と反対のものが多ければ、良い言葉よりは傷つける言葉、悪い言葉が出るのです。ですから心から真理と反対のものを完全に捨てて、全てのことで良い言葉、真理の言葉を口にして、良い影響力を与える皆さんになりますように。 今日の本文でもツォファルはヨブを悪者扱いして、悪者の結果がどうなのか具体的に説明しています。ヨブ記20:22です。 「満ち足りているときに、彼は貧乏になって苦しみ、苦しむ者の手がことごとく彼に押し寄せる。」(ヨブ20:22) ここで満ち足りている時とは、豊かな財産と心強い背景と権力を味わっていた時を言います。貧乏になって苦しみとありますが、辛いことが次々と起こることです。とてもあわれで厳しい事情と災難が重なった不運を言っています。したがって満ち足りている時に彼は貧乏になって苦しむとは、悪による裕福だからそれは長く続かないし、結局は潰れてしまい苦しむしかないということです。これは悪者に対する報いであり、当然の結果です。箴言13:11に「急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。」とあります。箴言28:22には「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」とあります。 急に得た財産とは、ギャンブルや詐欺・窃盗・横領・賄賂など悪い方法で手に入れた財産を言っています。このように貯めた財産はそれ以上増えないし、たとえたくさん貯めたとしても、一瞬で水の泡のようになくなってしまいます。悪い方法で得た福は、いつでも崩れる恐れがありますが、神様がくださった祝福は決して崩れません。また金持ちでも神様に属していなければ、病気にかかるのではないか、盗まれるのではないか、子供たちがぐれていくのではないかと、いつも心配して生きるしかありません。しかし神様を信じて真理の御言葉に従う人は、そうではありません。貧しい人は金持ちになったら全ての問題が解決されると思うかもしれません。お金がないから家族の間でも仲が悪いとか思いますか?そうではありません。お金があっても家族の中で互いに争ったりすることもありますね。財閥の第二世でも自殺することもあります。 良い親に出会って、裕福に暮らしているのに、何の心配があるだろう、何の悩みがあるだろうと思うかもしれませんが、その人なりの苦しみがあり、悩みがあって、心が満たされていないから、そんな結末になる場合もあります。だから私たちは神様を信じて神様が下さる祝福を受けなければならないのです。そのような人々は世の豊かさはなくても、神様が下さるまことの平安と喜びと天国への希望があります。これこそ世の富や名誉や、どんなものとも比べ物にならないたっとい財産になるのです。これが一番たっといものとなるでしょう。 皆さんは生活の中で欠けているところがあって乏しいと思っていますか?そしてうまくいっている人や金持ちの人を見てうらやましいと思いますか?しかし私たちは世のもの肉のもので、心を満たしてはいけません。いくら肉的に豊かでもそれが満足を与えるのではありません。私たちは神様がくださる上からのもので満ちたりていなければなりません。ですからそういう肉の世のものがなくても私たちは感謝できるのです。 最近世の若者はどうでしょう。良い親に出会わなかったからといって、そのため悩んだり嘆いたり不満を抱いたり、人と比べて絶望したりするのです。自分が持っていないものを羨ましいと思い、人と比べて自分自身を苦しめているのです。そのような不満をいつも持っています。しかしそれは世の人肉の人がするものです。朽ちるものを求めているからです。真のものがわからないからです。世の人は飲んで食べたりすることで満足しようとします。酒を飲んだり、たばこを吸ったりいろいろ楽しいことをして寂しさを紛らわそうとするのですが、私たちはそうではありません。神様がくださるもので満たされます。 皆さんも前は酒に酔ったことがあるかもしれませんが、その後は虚しいものだけだったでしょう。でも私たちは今は酒ではなくて聖霊に満たされていて、神様がくださるもので満足できるでしょう。だからそういう世の人を羨ましく思う必要はないのです。しかしそのような神様がくださるもので満ちたりていなければ、物足りなさを感じたり、そして世のもので心満たそうとするから愚かな姿なのです。皆さんはどちらを追い求めていますか?霊的なことに目を向けているのでしょうか?聖霊に満たされていなくて世のものを愛している姿はありませんか?霊的に信仰が成長できなくてもどかしくて神様に涙で祈っていますか?でなければ世の人肉の人を見ながら、あんな風に豊かになりたいとかあんな風に成功したいと思ったり、羨ましく思っているのですか?そうしてはいけないでしょう。 ところでここでツォファルは自分なりに真理を言っているようですけれども、ヨブが悪者だと決めつけて、このように呪いの言葉を言っているのです。だからヨブは悪い人だからこういう祝福は受けられないし、そういう成功は続かないし、災いにあって苦しむしかないと言っているのです。そしてツォファルは神様の御名まで借りてヨブを呪っています。 ヨブ記20:23です。 「彼が腹を満たそうとすると、神はその燃える怒りを彼の上に送り、憤りを彼の上に降らす。」 (ヨブ20:23) ここで腹を満たそうとするとありますが、自分の富を味わいながらさらに増やそうとしているということです。悪者がこんな風にして貪ると、神様が御怒りを送られるという意味です。自分の悪、欲を満たそうとしても終わりはないでしょう。キリがありません。満足できないのです。世でいくら欲しいものを手に入れても、それで満足できるでしょうか?いくらお金を儲けたとしても、貧しい人は1億だけあっても満足するだろうと思うでしょう。しかし実際1億を儲けたとしても、その後はどうなりますか?それで満足できません。もっともっと稼ごうとして、もっと儲けたいと思うのです。そして自分よりお金がたくさんある人をうらやましく思います。 もちろん誠実に働いてお金を稼いで貯めてそのように貯蓄することはいいのですが、しかし貪って欲を持って欲を満たそうと、そのようにお金を儲けようとする人がいるのです。それで10億を貯めたとしても、その人は100億を持っている人を羨ましく思い、その人と比べて気を落としたりするのです。そういうものには満足がないのです。悪者はそのように腹を満たそうとしても満足できないのです。だから人のものを奪ったり詐欺をしたりするのです。自分が働いて誠実にものを手に入れようとしないで、不法を成したりするのです。悪者がそのようにしていくと、神様の御怒りにあうようになるという意味です。これはあっている言葉です。悪者には神様の怒りが送られるのです。そしてこの地上でもその悪が満ちると結局は明らかになるのです。ツォファルが言っていることはあっていますね。 例えば旧約聖書のエステル書に出てくるハマンのケースがそうでした。ハマンはペルシャ帝国の大臣で王の信任を得て、人々がその前に膝をかがめてひれ伏すほど、大きな権威を持っていました。しかしユダヤ人のモルデカイは、ハマンの前に膝をかがめなかったのです。何故なら昔神様は、罪を犯したアマレクを聖絶しなさいとイスラエルに命じましたが、ハマンはアマレク人でとても悪い人だったからです。ハマンは悪に悪を積んでいたのです。モルデカイはそれを知っていたでしょう。そしてハマンはとても高ぶっていました。王の前だったらもちろん膝をかがめてひれ伏すのですが、悪いハマンの前ではそうしたくなかったのです。多くの人に仕えられて高ぶっていたハマンは、モルデカイが自分の前にひれ伏さないことが気に入らなかったので怒り、彼を殺そうとしました。 ハマンはモルデカイが自分に不尊なことをしていると思ったので、その人を殺そうとするということは、悪い姿でしょう。そしてモルデカイを殺そうとしただけではありません。モルデカイがバビロンの時代に捕虜として連れられてきたユダヤ人だと知った後は、彼だけでなく、ユダヤ民族全体を皆殺しにしようと計画を立てました。ハマンはそのように悪い人でした。そしてその悪が更に増していきます。ハマンは王のところに行って、ユダヤ民族のことについて誹謗中傷をしました。ユダヤ民族が何か過ちをしたからではありません。モルデカイを殺したかったから、その民族全体を皆殺しにしようと思って王の前に行き、彼らを聖絶するようにと書簡を書いてもらって印も押しました。 世の欲に満足がないように、悪も罪も犯していけば、だんだん心が鈍くなってしまい、さらに悪いことをしていくのです。ハマンもそうでした。しかし、ついにこのすべてを探っておられる神様は、ハマンの悪を明らかにして正しいモルデカイを高くしてくださいました。そしてハマンはモルデカイを殺そうと立てておいた柱に、自分がかけられて死にました。ハマンの家もモルデカイの所有になり、彼が味わっていた地位も権力もすべてモルデカイに渡されました。このように悪い、神を敬わない人の富と権力は、その悪が満ちると結局崩れてしまい、みじめな結果になるのです。このようなことは韓国の歴史を見ても世界の歴史を見てもわかるし、皆さんの周りでも社会でも見られるでしょう。 ある公務員は多くの業績を行い積んだとしても、任期が終わった後、過去に行った悪い行いによって、その結果がみじめになりました。隠そうとしていた悪行が明らかにされて苦しい日々を過ごし、持っていた財産も奪われました。このような場合を本文で、神はその燃える怒りを彼の家に送ると表現しているのです。悪い人々に、一人一人神様はこのように裁きをなさるという意味ではありません。こういう公義を私たちが生きている世の中で適用されるということです。 悪を行うと結局はその悪によってその報いを受けるようになるということです。そしてその悪さは必ず後で明らかにされるということです。そのような法則があるということです。これが神様の公義なのです。そして彼が腹を満たそうとすると、憤りを彼の家に降らすとあります。これも悪者が欲を満たそうとするとき、神の御怒りが臨むという意味です。憤りを彼の家に降らすとあります。これは今ヨブがものすごく厳しい非難を浴びせられているという意味です。友達はヨブを悪者扱いして、あなたが悪いからこのように四方八方から攻撃を受けているのだと言っているから、ヨブはどれ程悲しかったでしょうか。このような悪い言葉によってあまりにも辛くて苦しんでいたヨブにツォファルはもっと悪いことを言っています。 ヨブ記20:24です。 「彼は鉄の武器を免れても、青銅の弓が彼を射通す。」(ヨブ20:24) 悪者が鉄で作った武器を免れても、例えば剣とか槍とか鉄で作った武器を免れたとしても、次は青銅の弓が彼を射倒すという意味です。自分も知らないところからその矢が放たれて、自分の方に来るという意味です。それで射通されてしまうのです。どれほど厳しい呪いの言葉でしょうか。この聖句を説明するので今ツォファルがどんな心でヨブを呪っているのか考えてみますように。これは二つの側面から説明できます。まずヨブ、あなたは私たちの忠告を拒否して反論してばかりいるから、私たちももっと強い口調で言うしかなかったと言っているのです。つまり優しい言葉で助言をして忠告したのに聞かないから、拒否するから、だんだん強い口調で言うしかないと言っているのです。あなたが攻撃を避けたとしてももう避けられない。青銅の弓があなたを射通すだろうと言っています。 次には剣や槍など鉄の武器が攻撃してくると、目に見えるから防ぐこともできますが、矢は一瞬で飛んでくるから避けるのが難しいという意味です。だからここでは鉄の武器より、青銅の弓の方がもっと恐ろしい武器なのです。つまり悪者は一つの災いを免れたと思ったら、また新しい災いが押し寄せてきて、後にはそれを避けられないという意味です。これは悪者の結末を意味しているから合っている言葉です。何か罪を犯したとき、人の目はだまして今すぐ処罰をうけなくても、後には必ず善であれ悪であれ神様の裁きがあるし、それは誰も避けることができないということです。しかしヨブはこのように裁きを受けるような罪人でもないし、こんなことを言われるほど悪い者でもありません。それにも変わらずツォファルは続けてヨブを悪者扱いしながら悪者の結果について言っています。

「ヨブ記講解53-悪者と神を敬わない者の結果(2-下)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:17~21

次にヨブ記20:17-18です。
「彼は川を見ることがない。すなわち、蜜と凝乳の流れる川を見ることがない。彼は骨折って得たものを取り戻しても、それをのみこめない。商いで得た富によっても楽しめない。」(ヨブ20:17-18)

ここで蜜と凝乳の流れる川を見ることがないとあります。これはヨブが豊かさと土地と家族など良いものを全部失った。それをもう見ることはできないと言っています。また骨を折って得たものを取り戻しても、それをのみこめないとあります。これは頑張って手に入れたものは、もう味わうことができないという意味です。そして商いで得た富によっても、楽しめないとありますが、これはヨブが正当な方法で得たものでも自由に使うことができない。全てが消えてしまうという意味です。

ツォファルはヨブになぜこのようにひどいことを言っているのでしょうか?現実だけを見るとヨブはどん底に落ちているからです。家族も親戚もみんな離れてしまいました。ヨブ自身も病気によって悲惨な状況になっています。だから友達がヨブを見るとヨブがまた健康になると考えるでしょうか?又は周りの人が助けて立ち直ると思いますか?もうヨブはどんな方法でも回復が不可能に見えたから、決めつけて言っているのです。

皆さん、ひょっとして皆さんの中で、今自分の境遇がヨブのようにどん底に落ちていて、到底立ち直る力がないと思っている方がいますか?しかしそれは信仰ではありません。肉の思いです。信仰とは自分の能力を信じるのではなくて、全知全能なる神様を信じることです。神様の力は人の限界を超えます。神様は人の思いとは異なる方法で導いていかれます。無から有を想像なさる神様、全能なる神様が介入してくだされば一瞬でも癒されます。現実を見ればどん底に落ちているように見えても、神様が働いてくだされば一瞬でも回復して、以前より祝福されることがあります。

大礼拝の時も聞いたでしょう。この地上が七年艱難によって破壊されて全てが荒れ果ててしまいました。それであちこちで悪臭がして、また土地も全部汚染してしまい、何かを植えても育たないでしょう。空も海もすべてが汚染されていて真っ暗でしょう。最近もいろいろ災害がありますね。大きい雹が降ったり、地震とか津波とか大雨とかいろんな被害があります。七年艱難の時にはそれは全部起こるし、また戦争によっても世界が全部破壊されるのです。しかしその艱難が終わって千年王国が始まるために、主が言葉によってすべてを回復させるのです。神様の力はこういうものなのです。言葉で天地万物を作る神様だから、そのような荒れ果てた地球全体を回復させて、美しく新しくしてくださるのです。だから人の力で限界を決めるのではなくて、全知全能なる神様を信じて神様により頼むなら、そして信じて真理を行っていくなら、神様は再創造の御業によって、私たちを新しくして下さることがおできになるのです。人の心もつくり変えてくださる方なのです。

多くの皆さんが実際体験してこられたではありませんか。万民の歴史を見てみると今までずっと信仰の歴史でした。本当にどん底に落ちたようなこともあったでしょう。病気になって死だけを待っていた人もいたでしょう。しかし自分自身を顧みて悔い改めて立ち返って、神様の前に出てきて涙で悔い改めて神様にすがり、真理を行って光の中を歩んでいれば、神様はその試練の過程が終わったら全てを回復してくださり、さらに祝福してくださるのです。それで公義を満たすならば神様が介入してくださって、癒されたり祝福されたり答えを受けたりするのです。皆さんはこういう証をたくさん聞いたでしょう。また皆さん自身が体験したでしょう。
 

余命宣告を受けた重い病気でも、神の力が込められたハンカチによって祈りを受けて、癒された方々がたくさんいるでしょう。それで今は忠実な働き人になっています。また家族の中でいろいろな問題で離婚寸前だったり、子供がぐれたりすることもあったのですが、聖めの福音を聞いて自分を顧みて悔い改めて自分のせいにして、謙遜になって家族に仕えたら幸せな家庭に変わったという証もたくさんありますね。このように神様に喜ばれていけば、神様は一瞬ででも祝福してくださることができるし、どんな問題でも解決することができます。現代の科学や医学で治療できない病気でも、罪の壁を探して見つけて悔い改めて立ち返るなら、神様は完全に癒して下さいます。ですからどんな絶望的な境遇におかれても、神様の力を信じてより頼んでください。続く本文を見るとツォファルは、ヨブが何故このような惨めな結果がきたのか、その理由を説明しています。 ヨブ記20:19です。 「彼が寄るべのない者を踏みにじって見捨て、自分で建てなかった家をかすめたからだ。」 (ヨブ20:19) つまり悪者がすべて失って滅びる理由は、彼が貧しい者を踏みにじって見捨て、人の家をかすめたからだと言っています。歴史を見てみれば権力者たちが、貧しい人々を顧みないでかえって虐げることがありました。これは神様がご覧になるときとても悪いことでした。しかしヨブはそのように悪者ではなかったのです。貧しい人々を助けて、弱っている人を力づける人でした。それで神様も潔白で正しいと認めてくださった人なのに、今ツォファルは悪意を持って、でっち上げてヨブを罵っているのです。友達としてヨブを慰めるどころか、だんだんもっと苦しめているのです。友達がこのようにヨブを指摘して、ヨブを攻め立てているのですが、前ヨブがよくやっていたこと善行を、悪意を持ってでっち上げて、ヨブを罵る姿があったでしょう。悪意を持っていればこのように悪くなるのです。悪い言葉が口から出てくるのです。皆さんも自分にそういう姿はないのか、顧みますように。 何か自分が見て気に入らない人がいるなら、その人がよくやったこともあるのに、それは言わないで、その人がミスをしたこととか、ちょっと欠けているところがあるなら、それを他の人に言ったりするのです。実際その人にも良い面があるのに、それを見ようとはしないのです。それなら自分の中にどれほど悪があるのか悟らなければなりません。悪意とは相手にとって害のあることを理解した上で行動することです。他人や物事に対して抱く悪い感情です。このような悪い感情はどれほど愚かで無価値なもので、また大きい罪を生んで相手を苦しめることなのか、私たちは覚えていなければなりません。負の感情を持っていると口の言葉も悪く出てくるし、だから心から悪そのものを捨てなければなりません。負の感情とはネガティブな感情のことですね。 皆さんの理解を助けるために感情について説明します。普通、感情といえば、何かの現象や物事に対して心の中で感じる気持ちを言います。喜怒哀楽、つまり喜びと怒り、悲しみと楽しさをはじめ、恐れとか不安など、すべての感じがこれに含まれます。人はこの地上で生きている間このように多様な感情を体験しながら、人間耕作を受けていきます。ところで私たちが捨てるべき感情は負の感情です。良い感情ではなくて良くない感情です。こういう感情のため気を悪くしたり腹を立てたり恨んだりするのです。心にあるイライラとか不満とか、いろんな真理と反対のものが感じと共に湧いてくるのです。つまりいろんな感情の中でも、良くない負の感情を指しているのです。これを捨てなければならないということです。 こういう負の感情、良くない感情があるのですね。これを私たちは捨ててまた制御しなければなりません。こういうものは私たちに害を与えて、かえって敵である悪魔がサタンが喜ぶのです。人との関係でも感情的になってしまうと、いろんな罪を犯すこともあります。このような負の感情は、真理に外れていてそのため争いが起こるから、必ず捨てなければなりません。ヨブの友達も最初はヨブを慰めに来たのですが、ヨブと激しく言い争っていたら感情的になってしまい、言ってはいけないことまで口にしています。 続く、ヨブ記20:20-21です。 「彼の腹は足ることを知らないので、欲しがっているものを何一つ、彼はのがさない。彼のむさぼりからのがれる物は一つもない。だから、彼の繁栄は続かない。」(ヨブ20:20-21) ここで彼とは悪者を指していて、ツォファルはヨブのことを言っています。人の心に欲が入ると満足を知らず、続けて欲がはらんで罪が熟していきます。ヤコブ1:15に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあるように、物質や名誉、権力を貪ると自制することができず、不義な方法を使って罪を犯していきます。信仰の種が芽生えるとだんだん育って、山を移すような大きい信仰にもなりますが、欲がはらんで熟すると罪を生むのです。 例えば物欲があれば、詐欺をしたり計略を企んだりして、正道から外れた行為が出てきます。またある人は名誉権力のために手段を問わないのです。自分が欲しいものを得るために多くの人を犠牲にしたり、血を流すことまでためらわないこともあります。ツォファルはヨブをこのように悪者、欲深い人だと誤解して非難して罵っているのです。これはヨブを人の目で見ているからです。しかし霊的に見てみれば、ヨブが悪者だから貪りが多くて自分の財産や家族を失ったのではありません。神様がヨブの心をご覧になり、より良い器にしてさらに祝福を受けるようにするために、このような試練にあうようにされたのです。 皆さん私たちは全てのことにおいて霊的な見方が必要です。霊的に物事を見ることが必要です。つまり信仰の目、愛の目、善の目、憐れみの目で見るということです。全てのことにそのような霊的な見方を持っていなければなりません。信仰の目で、愛の目で、善の目で、憐れみの目で家族を見て同僚を見て、友達を見ていかなければならないのです。そのような霊的な見方を持つと、霊的に勝利できます。しかしヨブの友達のように、現実を見て肉の目で見るとヨブをさばいて罪に定めるのです。もうヨブはすでに滅びてしまった。潰れてしまった。回復できない。なぜならヨブが悪者だからだ。神を敬わない者だからだと裁いて罪で定めているのです。このような肉の目で人を見ることによって、罪を犯すようになるのです。 例えばある人が大きい罪を犯して神様の栄光を遮ったなら、皆さんはどんな目でその人を見るでしょうか?その人から顔を背けたり非難することまではいかなくても、心の中でさばいたりするなら、それは肉の目で見ているからです。イエス様は姦淫した女性に、何と言われましたか?姦淫の現場で捕まえられてきた人です。でもイエス様は「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。この女性を罪人扱いしないで、その人が立ち返るように力づけてくださいました。このように父なる神様の心は、既に地獄だと判決されて死に至るしかない人でも、何としてでも生きる道を探してほしいのです。 元老牧師先生もこういう神様の心を知っているので、聖徒の中で罪を犯して悔い改めに来た時、その人を罪に定めたことはありません。その人が立ち返るように機会を与え、力づけてくださいました。罪を犯していてどれほど辛かったのだろうかと理解してくださり、もう一度恵みを回復できるように慰めてくださいました。もちろん聖霊に働きかけられて、厳しく指摘する場合もありますが、それもその人を命に導くためでした。その人が徹底的に悔い改めて罪から立ち返って、二度と罪を犯さないようにするためでした。死に至る罪を犯した人でも何としてでも救われるよう、神様の前に切に祈り、その人が変えられるのを待って下さいました。これが霊的に人を見ることなのです。 私は、元老牧師先生の行いを見て、本当に感動しました。ある人が教会の財政を私的に使いました。宣教会とか集まりで会費がありますね。その会費を自分勝手に使ってしまったのです。それを元老牧師先生は聞いたようです。それでその人が悔い改めることがあったようです。その時元老牧師先生は、その人に施しをしてくださいました。なぜならその人が盗んだ金額をまた戻さなければならないのですね。そのためにはその人の給料ではちょっと負担だったみたいです。それで12ヶ月に分けて返すように約束したようです。元老牧師先生がその事情を知って、その人のために施しをしてくださったのです。だからある程度まとまったお金だったようですね。 このように霊的にも神様のものを盗んだ罪の壁を積んでしまったし、また実際生活でもそのため暮らしも厳しくなるから、元老牧師先生はその人のために、その人がもちろん心から悔い改めたから助けてくださったのです。私はその姿を見て本当に感動して、神様の善はこういうものなのだと思いました。罪を犯したから自分で責任を取れというのではなくて、何としてでも助けてあげようとする神様の心、その愛、またその通りに行う元老牧師先生の姿を見て、恵みを受けました。皆さんもこのような霊の愛を持って、周りの人に仕えているのでしょうか。でなければ、罪に定めているのではないか顧みますように。 他の例をあげましょう。ある人が病気にかかったり、事業で失敗したりするとき、皆さんはどんな目で見ていますか?その人の前後、事情も知らないまま、何か罪を犯したからあんな試練に会うのだろうとか、御言葉どおりに生きていないからだろうかと決めつけている姿はありませんか?それは肉的な見方です。そうなると陰口を叩いたり、相手を傷つけて悲しませたり、まかり間違えばつまずきを与えることもあります。神様は人のうわべではなくて心をご覧になります。例えば同じ盗みでもレ・ミゼラブルの小説のように飢えている家族のために盗む人もいますが、自分の私利私欲のために盗む人もいます。この時、世の法は二人を同じように盗みという罪に問うでしょうが、心をごらんになる神様はそれぞれに合う公義を適用してくださいます。 ヤコブ2:9です。「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。」とあります。ですから私たちは目に見えるもので、ああだこうだとさばいたりしてはいけません。相手の心も知らないまま罪に定めることがあってはいけません。試練艱難にあっている聖徒を見ても、何としてでも信仰を植え付けて立ち直るように力づけなければならないのです。ヨブの友達はヨブを慰めるために来たのですが、肉の目でヨブを見たから、誤解してさばいてヨブを苦しめていたのです。本人たちは行っていないながら、先祖から聞いた真理を引用してヨブを教えようとしているのです。 ツォファルはヨブに彼のむさぼりから逃れるものは一つもない。だから彼の繁栄は続かないと言っていました。つまり欲がはらむと最初はうまくいっているようだけど、間もなく全てが取り上げられてしまうし、なくなってしまうことを言っています。ヨブあなたは貪って食いつくすような人みたいに欲張っているから、あなたの繁栄は続かないのだと言っているのです。しかしこれはヨブの富とか成功を妬んでいたから、それが今現れているのです。ツォファルが御霊の人だったならば、ヨブがうまくいくとき一緒に喜んだはずなのに、肉の人だったから、結局は心の中に潜んでいたねたみが現れたのです。私たちはツォファルの言葉を通して、自分は簡単に人をさばいて罪に定めているのではないか悟りますように。また妬みによって相手をけなしたり苦しめたり憎んでいる姿はないのか、顧みますように。 結論です。愛する皆さん、ツォファルはヨブを悪者、神を敬わないものだと言いながら非難してその結果について、いろいろ恐ろしい呪いの言葉で表現しました。その意味を調べてみながら、人の負の悪い感情がどれほど恐ろしいものなのか分かりました。しかしこれをただヨブの友達の問題に思うのではなくて、自分に照らして自分を発見しなければなりません。負の感情があるため、気を悪くしたり腹を立てたり恨むことがあります。人々は怒る前にまず心の中で嫌な気持ちに、その嫌な気持ちがこみ上げてきますね。相手の言葉とか行動がその感情を刺激して、尺に触ったり不満を抱いたりするのです。その感情を収めることができなければ、腹を立てる行動に現れたり、争うようになったりします。ですから私たちは心にある悪を捨てなければなりません。そしてその負の感情を制御しなければなりません。 ただ抑えつけて我慢するのではなくて、嫌な気持ちになろうとするとき我慢して、その原因になる心の悪を捨てなければならないのです。心の中で嫌な気持ちになろうとしたとき、それをキャッチすることも実はいいことです。それをキャッチしてこそそれを治めることができるから。そしてその原因となる心の悪を発見することができるから。それも良いことでしょう。指摘された時、ひどいなと感じることもありますが、その時いやあの人は私が憎いからではなく、私の為に良かれと思って言ってくれるのだと、真理の思いに変えていけばよいでしょう。 するとその負の感情が制御できるのです。そのとき気にさわって怒ったりするのではなくて、ちょっと嫌な気持ちになろうとしたとき、すぐそれをやめて真理の善の考えに変えていくのです。そして自分の中にあるその原因となる悪を捨てるために、祈っていかなければならないのです。一瞬一瞬湧いてくる悪意とか嫌な気持ちなどをそのまま受け入れるのではなくて、真理と善の思いに変えていくのです。自分の中にそういう悪の性質があることを認めなければならないのです。そして憎しみとか誤解とか悲しみなど負の感情が、それ以上根を下ろさないようにしなければならないのです。もともとあったものは捨てて、そしてそれ以上受け入れてはいけないのです。真理と反対のものは受け入れてはいけないのです。 そして心にある悪はもちろんどんな悪でも避けて、続けて捨てていかなければならないのですね。祈りながら捨てていくのです。そうやって皆さんが聖霊によって祈りながら捨てていけばどうなりますか?前は悲しんだり不満に思ってイライラしていたことが、今は理解できて心が穏やかなのです。だから喜び感謝幸せだけがあるのです。誰かが自分を苦しめて悪口を言っても、そのために悩んだり辛く思ったりすることはありません。これが主にあって真理にあって味わう真の平安です。 ヨハネ16:33でイエス様は十字架を負う前、弟子たちにこう言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」と、言われました。患難があっても平安を持つようにと言われているのです。信仰があるからでしょう。喜びと感謝が溢れることができるのです。弟子たちが主の御名を伝えていって患難にあっても、主にあって信仰で勝利すれば真の平安が臨むことを言っておられました。皆さんも、心の悪を捨てて、主に似て善をもって愛を行い、暗闇の世の中でも真の平安がいつもありますように。主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日もヨブの友達ツォファルが言っている話を聞きながら、私たちの心の中に悪があってはいけない、そして負の感情を抱いてはいけないことを悟りました。そしてツォファルが言っていること悪者と神を敬わない者の結果は、その話をしていることはあっているけれども、それはヨブに当てはまることではありませんでした。私たちは自分自身を顧みて変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解53-悪者と神を敬わない者の結果(2-上)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:12~16

皆さん、前回は悪者と神を敬わない者の結果がどうなのか伝えました。聖書に出てくる悪い王たちと、韓国の歴史の中に登場する悪い人々の結末を例に挙げて説明しました。悪者と神を敬わない者は、一時的に名誉や富、栄華を得てもそれは結局なくなり虚しくなり、その結果は惨めなことがわかります。ですから皆さんはいくら金持ちで自慢している人でも、その行いが悪ければ少しも羨ましく思ったり、その道に行ってはいけないでしょう。

今日も悪者と神を敬わない者の結果という同じテーマでメッセージを伝えます。メッセージを聞いて、もしかして自分は悪者とか神を敬わない者ではないか顧みますように。そして信仰生活を正しくしている方でも、イエス・キリストにあって救いと永遠の命の道へ導かれ、祝福の道を歩むようにしてくださる神様にさらに感謝しますように。それで詩編16:11に、「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしにあります。」という詩編の記者の告白のように、皆さんの心にいつも喜びと楽しみがあふれますよう、主の御名によって祈ります。

今日の本文でもツォファルはヨブを悪者と神を敬わない者だと決めつけて、そういう人の行為はどうなのかその結果はどうなのかについて、恐ろしい呪いの言葉で表現します。
ヨブ記20:12-14です。

「たとい悪が彼の口に甘く、彼がそれを舌の裏に隠しても、あるいは、彼がこれを惜しんで、捨てず、その口の中にとどめていても、彼の食べた物は、彼の腹の中で変わり、彼の中でコブラの毒となる。」(ヨブ20:12-14)

悪が彼の口に甘いとは、悪を行っていながらもそれが間違っていると悟れずに、正しいと思っていることです。こういう人々は過ちを犯した後も、少しも恥ずかしいと思わないで、かえって笑いながら平気な顔でいるのです。舌の裏に隠してそれを惜しんで捨てないとは、いつでも悪を使うように隠しておくということをいいます。悪を甘く感じるから捨てないで口の中にとどめているのです。皆さんはどうでしょうか?もしかして悪を行うのが甘く感じられるのではありませんか?いいえ私は悪を憎んでいます。悪は悪いものですと自分ではそのように思っているかもしれませんが、実は悪を甘く思っているかもしれません。悪を憎んでいる人は心の中に悪を持っていないでしょう。捨てるでしょう。自分は口先では悪を憎んでいると言っても、実際にはそうでない場合があります。

皆さん、悪をどのように甘く感じていますか?例えば何かのことでイライラすることがありますね。祈る時、礼拝でメッセージを聞いている時はイライラを捨てなければと思いますが、実際日常生活ではそれを捨てないでただ隠しておいて、そして何か苛立ったりするとすぐ、イライラしたりするのです。本当に悪を憎んでいるなら既に捨てたでしょう。でも捨てないでそのまま持っているからなのです。そして自分が何か意見を言ったのに、相手がそれに反対するからかっとなったりするのです。それも悪をそのまま持っていることでしょう。捨てないで惜しんでいるのです。だから悪を憎んでいる姿ではないのです。

こういう日常生活での自分の姿はどうなのか顧みますように。私たちはそのような自分を顧みなければならないのに。でも自分もよくやっていると思いながら、自己弁明をしているのではないか、このメッセージを聞きながら考えてみてほしいです。ああ、私は悪を憎んでいるのではなくて悪を甘く感じている、だから惜しんで捨てようとしないのだと、このメッセージを聞きながら悟らなければならないのです。頭で知識としては悪を憎むべきだと思っていても、いざと誰かにちょっと言われたり、また自分があまり気に入らないことをされたりすると、すぐかっとなったりいらいらしたりするのですね。
 

ツォファルが今ヨブを見ていると、ヨブは悪を捨てるべきなのに悪を惜しんで捨てないで、舌の裏に隠しているのです。ここでツォファルは、ヨブが神様を恨んでいるその言葉が悪だと表現しています。友達がヨブをこれまで責めてまた指摘してきたのですが、ヨブがつぶやきをやめないでずっと神様を恨んでいるから、だからあなたは悪を捨てず、その悪を口の中にとどめていると表現しているのです。実は友達の方がヨブよりも悪いです。でも自分の過ちは少しも発見できず、ヨブだけ攻めているのです。もちろん真理で照らしてみればヨブも間違いがありますね。もしヨブが御霊の人ならば、友達に右の頬を打たれるようなことがあっても左を向けるでしょう。また神様の前に問い詰めたり恨んだりするはずがありません。 しかしヨブは肉の人の中で、それでも潔白で正しい人だったのですが、まだ御霊の人ではなかったのです。だから自分の行動が悪いと思わないで、正しいと思うのです。だから本人は当然神様に問い詰めるべきものがあり、言うべきことがあると思っているのです。でも神様の方から見てみると、ヨブは悪いと言われることもあるでしょう。真理に照らしてみればヨブは悪いです。しかし同じ肉の人である友達の立場から見ると、自分たちより勝っているヨブを悪いと非難することはいけないのです。皆さん自分より正しい人、自分より良い人を、どうして悪いと言えるでしょうか?もちろんその人にも欠けているところがあるかもしれませんが、自分はその人を指摘する資格がないでしょう。 ツォファルもそうでした。ツォファルもヨブを今指摘していることは悪いなと、良心の呵責を感じたのですが、でも言い訳をしようとしてさらにヨブを責めようとしたのです。ヨブの友達はだからヨブより悪かったのです。ヨブはそれが悪だと思わないでしていたのですが、ヨブの友達は本当に悪を甘く思って、舌の裏に隠して行っていたのです。さっきツォファルは「私の侮辱となる訓誡を聞いて、私の悟りの霊が私に応えさせる。」と言っていましたが、これは自己弁明に過ぎませんでした。ツォファルはヨブの話を聞きながら良心の呵責を感じたのに、言い訳をしようとしたから焦ってしまい、苛立ったのです。このように責められたとき言い訳をする人は、自分は正しいと主張しています。でも、その口からはみっともない愚かな言葉が出てくるのです。自分で過ちに気づいたならば、黙って静かにしている方が知恵のある人でしょう。 しかし大切なのは皆さん、これをヨブの友達だけの問題だと思うのではなくて、聖霊が照らしてくださるとき、自分を顧みて発見しなければなりません。私たちの周りでも自分が考えていることが真理だと思うけれど、その口の言葉が悪となって相手の欠点や過ちを指摘する場合があります。本人はそれが正しいと思うから、必要な時はその言葉を使って相手を指摘しているのです。これを私たちも直さなければなりません。自分の口の言葉が、本当に必要な言葉なのか考えてみなければなりません。これは相手のために言っていることだ。相手に良かろうと思って、その人を悟らせるために言っていることだと思うかもしれませんが、それが悪になる場合もあります。 親子の間でも夫婦の間でも友達の間でもそうです。自分が相手のためと思っていろいろ話しても、相手はそれを聞きたがらないし受け入れない場合があります。するとこの人はイライラしますね。あの人のために自分なりに考えてあれこれアドバイスをしているのに、なぜ聞かないのかと思うかもしれません。しかし実際自分の口の言葉は心の中にある悪から出てくる言葉かもしれません。そういう姿があるなら、顧みて早く直さなければならないでしょう。そうすると言い争いになってしまうこともあります。ですから自分の普段の口の言葉はどうなのか、顧みますように。相手の為を思ってと自分なりにそう思って行っているかもしれませんが、でも平和が壊れるならばそれは、神様ご覧になる時正しい言葉ではなかったことがわかります。自分なりに相手の間違っているところを正すために、相手に益を与えるためにと思うかもしれません。しかしその口の言葉が悪になってしまう場合があるのです。 このように悪なのに自分は知らずに自分は正しいと思って、相手を指摘する場合があります。しかし心に悪がぎっしりあって、意図的に悪意を持って相手を指摘する場合もあります。相手を思って自分なりに良かろうと思って話をしたのに、相手が受け入れることができなくて、それで平和が壊れる場合もありますね。すると黙ってその人のために祈りながら、自分も自分を顧みてじっくり考えてみればいいと思います。でもそうではなくて、本当に意図的に悪意を持ってあれこれ攻撃的なことを言う場合もあります。嫌味を言ったりするのですね。嫌がらせをしたりする場合もあります。そういう人がいるならどれほど神様の前にもっと悪い姿でしょうか。指摘される人は、この時相手が怖いと思って言い返さないでいるだけなのに、黙っているだけなのに、ある人はそれを相手が納得したと勘違いする場合もあります。 目上の人が強く言ったりすると、目下の人は言い返すことはできないでただ聞いている場合がありますね。でもその話が本当に正しいことではない場合があります。そして自分が言っていることは正しいと錯覚するのです。だからいくら自分はあれこれ言っても相手は変わらないのです。皆さんの中でもそういうことがあるかもしれません。会議をする時や人間関係の中でもそうだと思います。ある人はいつも自分の意見を強く言ったり、主張したりします。すると周りの人は困りますね。あの人は少し静かにして欲しいと思うのです。でも本人は正しいと思って、これは必要だから言わなければと思うのです。それは教会の中でだけではなくて、家族に対しても同じです。子どもに対しても同じです。でも本人は気づかないのです。ただ自分は正しいと思って、そして自分が言っていることを相手も納得してくれていると思うのです。でもどれほど愚かな姿でしょうか。 相手は何も言えないで、それでも心の中でみんな困っているし聞きたがらないのに、それに気づいていなくてずっと言っていること、そういうことがあってはいけないでしょう。そういう人はあまり周りの人に歓迎されないでしょう。どれほどもどかしいことでしょうか。教会の働き人がそうなら、神の国の働きのためにも損になる場合もあります。平和が壊れてしまうことがあります。私たちはいくら正しい言葉でも、愛でなければ相手を変えることはできないということを覚えておきましょう。 いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、主の心でアドバイスをしたなら、相手も感謝して受け入れるでしょう。変えられるでしょう。 しかし愛ではなくて悪意を持って何かを言って悟らせようとしたならば、相手が不満を抱いて落ち込んでしまう場合もあります。悪意とか負の感情の混ざったこの言葉は何の恵みにもならないし、相手の意欲をうばったりつまずきを与える場合もあります。ヨブの友達がそうでした。ヨブの友達は悪意を持って感情的になってヨブを指摘する表現がだんだん激しくなります。これまでもヨブに向かって悪いと指摘してきたのですが、次の本文を読むととんでもない例えを挙げて罵っています。 14節です。「彼の食べたものは彼の腹の中で変わり、」つまり口の中にとどめている悪が腹の中で変わってコブラの毒となると表現しているのです。どれ程恐ろしい表現でしょうか。ここで腹の中と言っていますが、これは心の中を意味しています。ツォファルは霊肉、魂とか心について霊的には知らなくても、このように腹の中と表現しています。ツォファルはヨブの心の中が悪できっしりだから、舌の裏に隠していた悪が食べ物となって、腹の中でコブラの毒となると、自分なりに例えているのです。舌の裏に隠していた悪、そしてそれが腹の中でコブラの毒となる、このように言っているのです。つまりヨブの心に悪がきっしりあるから、そこから悪い言葉が出てくるのだと言っています。口の悪い言葉が心の中に入って、心そのものがコブラの毒のようになると言っているのです。どれほど恐ろしい言葉でしょうか。 コブラは怖くて恐ろしいもので噛まれたら死をもたらす存在です。霊的にコブラとは敵である悪魔サタンを意味しています。そしてコブラの毒とは死を意味します。コブラだけでも怖いでしょう。恐ろしい存在です。ここではコブラの毒となると言っています。このようにとてもひどい悪だと強く責めているのです。つまり彼の食べたものは彼の中でコブラの毒となるとは、ヨブの心にそれだけひどい悪がたくさんあるということを言っているのです。人にコブラのようだと言うならそれは悪口になるでしょうが、コブラの毒と言うからこれは、悪者の中でも極めて悪いものだと呪っている言葉でしょう。だからこう言われているヨブはどれほど腹が立つでしょうか。 続く言葉も同じです。愛する皆さん、もしかして皆さんの家庭の中で、また日常の中で口の言葉がこのように激しくなる場合はありませんか?私たちは今ヨブ記についてメッセージを聞いていて、ヨブが友達に対してどんなふうに反論しているのか。神様に対してどんなふうに呟いているのか。そしてそれに対してヨブの友達はまたどんなふうに責めて罵っているのか。互いに言い争っているのを、私たちはヨブ記講解を通して聞いているのですが、ヨブの言葉も友達の言葉もだんだん激しく悪くなっています。 私たちの日常生活でもそういうことがあるのです。素直に相手の話を聞いて受け入れて、それで話し合ったらいいのですが、そうではなくて、何か言われたらすぐかっとなって気を悪くしたり、それ以上聞こうとしなかったり、でなければ相手の何か欠けているところとか欠点とかを指摘したり、一言を言ってやるとか、そして後で会ったら、これはこうだと言ってやるとか、自分が反論するためにあれこれ考えたりすることがあるかもしれません。それでその言葉がだんだん激しくなるのです。そして言い争うになってだんだん話が長くなってしまうのです。そして相手を攻撃したり傷つけたり、また相手が辛くなるような、聞きたがらないような嫌味を言ったりすることもあるし、呪いの言葉、罵りの言葉を口にする場合もあります。 夫婦喧嘩をするときもそういうことがありますね。相手のことを指摘していて、その相手の親とか兄弟のことまで悪く言ったりするのです。今ヨブとヨブの友達がそんな風に言い合っているのです。それでだんだん感情的になって激しい言葉を口にしているのです。皆さんも家族の中でまたは会社の同僚との間で、友達との間でそういう姿がないのか顧みますように。その為平和がこわれたり、互いに仲たがいすることがあるなら、それはサタンの仕業なのです。だから心の中にあるそういう悪を速やかに発見して捨てなければならないのです。そしてヨブの友達がヨブにどんなふうに攻撃しているのか、この聖書を読みながら自分自身を顧みながら、心の中にあるそういう悪を速やかに捨てましょう。そして相手が自分を傷つける言葉を言って攻撃してきても、でも自分は悪く反応したりかっとなったりしないで、それを聞いて心が乱れたりすることはなく穏やかな心でいればいいでしょう。 ヨブ記20:15-16です。 「彼は富をのみ込んでも、またこれを吐き出す。神がこれを彼の腹から追い払われる。彼はコブラの毒を吸い、まむしの舌が彼を殺す。」(ヨブ20:15-16) これは悪を撒いた人の報いについてです。富をのみ込んでもまたこれを吐き出す。神がこれを彼の腹から追い払われる。悪い方法で富を増やしても、神様が取り上げられるという意味です。言葉そのものは正しいけれど、これはツォファルが神様の御心を知って言いったのではなくて、先祖から聞いた言葉を悪意を持って、引用しているだけなのです。神様は蒔けばその刈り取りもするようにされるし、行った通りに報いてくださいます。詩編18:26です。「きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」とあり、ガラテヤ6:7に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあります。このように人が善をまけば善を刈取り、反対に悪をまけば悪を刈取るようになります。当然でしょう。 韓国の歴史や世界の歴史を見ても、悪を行った人は結局惨めな結末を迎えます。これが世のことわりで神様の摂理で霊の世界の法則です。人は自分の利益を求めて悪い道に行った時、今直ぐは人が騙されるし、全てがうまくいくようでもそれは束の間です。神様は生きておられるので、悪は結局滅びてしまうのです。この報いがこの地上で終わるのではなくて、悪を行ったその報いはこの世で終わるのではなくて、後の世では永遠の地獄の火の中で苦しみを受けなければならないのです。ある人は悪を行って神を敬わないものなのに、その裁きや懲らしめがすぐ臨まない場合もあります。するとその方が恐ろしいです。この地上で悔い改める機会がないから。でも懲らしめがあって報いがあって、それによって悔い改めて立ち返るならば、それは幸いでしょう。しかしそうしても立ち返らなければ、後の世では地獄に行くしかないのです。 ヨハネ5:29です。「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」とあります。私たちは悪を行ってはいけないでしょう。誰かが悪を行っても悪をもって悪に報いてはいけないのです。しかし悪を行う相手に対して善をもって報いるなら、その方が愚かでしょうか?そうではありません。神様がご覧になって、神様がさばいてくださるのです。悪を行っている人の方が不安です。またその人が病気になったりするともっと苦しいでしょう。悪の結果だからです。でも相手が悪を行っても、自分の心には平安があって、喜びがなくならないで、ただその人のために祈るなら神様が守ってくださるし、だからどれほど感謝でしょうか。その方が幸せなのです。だから私たちは善を行って真理を追い求めなければなりません。 しかし善を行わないで、不満を抱いて言い争ったりするなら、それは悪であり、その悪を行って神を敬わない者は、その結果は裁きなのです。滅びなのです。自分に気に入らない人がいるとして、その人に対して憎らしいと思ったり、そして自分の思い取りにならないからイライラしたりする姿はありませんか。そしてある人は世のものを貪って、それを手に入れるためにあれこれするのですが、でも後の世にそれを持っていけるでしょうか?でも知恵のある皆さんなら天国にあるものを上にあるものを求めるでしょう。 16節、「彼はコブラの毒を吸い、マムシの舌が彼を殺す。」とあります。さっき言ったようにコブラの毒はとても悪いことを、死を意味します。だからコブラの毒を吸うとはひどく悪を行うことです。またマムシの舌が彼を殺すとは、その悪行によって結局大きい害を受けて、死に至ることを言います。ツォファルはヨブがこのように悪者だから、このようなひどい苦しみと報いを受けるのだと言っています。しかし実際悪に対する報いを受ける人はヨブの友達でした。ヨブ記の結末を見れば、ヨブの3人の友達が神様の御怒りをかってヨブがとりなす祈りをしたら、神様がそれを聞いて彼らに悔い改めの機会をくださいました。今、ヨブはヨブが悪者だから試練にあっているのではなくて、神様が彼を完全にするために練っておられるのです。 しかしこれを知らなかったツォファルは、ヨブを悪者だ、神を敬わない者だとさばいて罪に定めて、その結果について言っているのです。どれほど愚かな姿でしょうか。神様の心を知らないからです。 ヨブの友達が、自分たちが神様のようになっていて、ヨブをさばいて罪に定めているのです。神様がご覧になって、どれほど悪いものだと言われるでしょうか。どっちが正しいのかどっちが本当に間違っているかそうでないか、神様がご覧になってこそ正しい裁きができるのです。人は人を裁いたり、罪に定める資格はないのです。人を裁くことは悪いことです。だから私たちはそのように人を裁く人の話に耳を傾ける必要もありません。ただ憐れんでその人のために祈らなければなりません。 しかしヨブの友達はヨブをこのように悪を持って裁いて罪に定めているのです。でもその結果はどうなのか私たちは知っているでしょう。そのような愚かな人になってはいけません。自分の心の中に悪があるのに、どうして他の人を悪いとか言えるでしょうか?神様がご覧になるとき自分はどうなのか、自分の中には真理と反対のものを悪がどのくらいあるのかいつも謙遜に顧みなければなりません。

「ヨブ記講解52-悪者と神を敬わない者の結果(1-下)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:6~11
 

続く本文を読むとツォファルはヨブ記20:6-7で言っています。


「たとい彼の高ぶりが天まで上り、その頭が雲まで及んでも、彼は自分の糞のようにとこしに滅びる。彼を見たことのある者たちは言う。彼はどこにいるのかと。」(ヨブ20:6-7)

たとえ彼の高ぶりが天まで上りその頭が雲まで及んでもと言っています。これは悪者と神を敬わない者の権力と栄華が世に現れて、名が輝くことを言っています。それでその高ぶりが天まで上る。このように表現を使うのですね。悪者と神を敬わない者の権力また栄華が、そのように高いと言っているのです。しかし彼らの権力と栄華がいくら輝いても、結局は醜くて臭くなる糞のように排泄物のように、何の使い道もなくなるということです。悪を積む人の結果は排泄物よりも劣って、はずかしめられ見捨てられ永遠に滅びて消え去るから、以前彼を知っていた人々も彼はどこにいるのかと、聞くようになるだろうと言っています。

これは彼の功績が全部なくなって、彼の良いところを忘れられたからです。また彼を思い出すならば、その悪行だけが残って思い浮かぶから、いつまでも非難されるという意味です。今ツォファルは悪者と神を敬わない者の結果はどうなるのかを説明しています。これはツォファルがヨブに皮肉を言っていることですが、実際ヨブは悪者でもないし神を敬わない者でもないから妥当性のない言葉です。ツォファルは今、唯自分の考えの中で悪意を持って人をけなしているのです。このように人の負の感情や悪から出てくる言葉は、相手に罪がなくてもあるかのようにしたてて、良い人も悪い人のようにみなすことがあります。人は自分の考えは正しいと思います。また自分の思い込みで人を裁いたり罪に定めたりします。

ヨブが過去には成功もしていて財産もあって善も行っていました。しかし今の現実を見てみるとどうでしょうか?病気になって全てが滅びてしまったのです。だから今現実を見ながらツォファルは、ヨブは悪者だから神を敬わない者だからこうなったこういう結果になったと思っているのですが、それは自分の考えに過ぎないのです。これを今説明しているのです。皆さんもそういう姿はないのか顧みますように。自分は自分の考えを基準にして人を見て決めつけているのではないか、自分の肉の思いを巡らして、間違っていろいろ自分なりに判断しているのではないか、顧みますように。しかしそれは賢いのではありません。私たちが判断する基準は、神様の真理の御言葉でなくてはなりません。

箴言17:15「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。」とあります。ですから私たちは悪と負の感情を捨てて、むやみに人をさばいたり罪に定めたりしてはいけないのです。事実を確認する必要があるときは伝える人の言葉ではなくて、真理を基準にして見分けなければなりません。人の話だけを聞いてそうなんだとすぐ信じ込んでしまってもいけないでしょう。その人が悪意を持って偽りを言うかもしれません。そして悪い話を伝える人の話には耳を傾けない方がいいでしょう。それは自分に霊的に何の益にならないからです。色んな情報を聞いてこそ正確に分別できると思いますか?そして色々儲ける情報が欲しいと思いますか?それで人の話を聞いて投資をしたりして、本当にそれで成功しますか?それでもうけますか?そうではないでしょう。

そして誰かが人の噂話をしたりするならば、それを聞かない方がいいのです。いくら事実を言っているとその人は言っていても、その人の悪い意図がその中に込められているかもしれません。今ヨブの友達は目に見えるヨブの現実を見てヨブを非難しています。しかし神様はそうしてはいけないと言われているのです。今ヨブの現実がこのように悲惨でも、でも神様は人が見るのとは違うと言われているのです。ヨブは悪いものだからとか神を敬わないものだから、今このようなみじめな現実に置かれているのではないのです。神様はヨブを愛してヨブがもっと霊的に祝福されるために、そのように練っておられるのです。それを知らないまま人の目で見える現実を見て、悪者扱いをしたり非難することがあってはいけないのです。

続く本文も同じ流れです。ヨブ記20:8-9です。 「彼は夢のように飛び去り、だれにも彼は見つけられない。彼は夜の幻のように追い払われ、彼を見慣れていた目は再び彼を見ず、彼のいた所はもはや彼を認めない。」(ヨブ20:8-9) 日常のうたかたの夢をつまり一時だけの短い春の夜に見る夢という言葉があります。つまり人生の栄華は極めて儚く消えてしまうものだという意味です。貧しい人が夢の中では金持ちになったり贅沢したり食べたいものも食べて行きたい所も行く、そのような夢を見ることはあるでしょう。夢の中でもこのように、自分が欲しいものが手に入ることがあるかもしれません。それで夢の中でも本当に嬉しかったのです。でも夢から覚めたらどうでしょう。どれほど虚しいでしょうか。もっと現実に絶望するのではありませんか。ツォファルは悪者と神を敬わないものは一時的に富や栄華を味わっても、結局は虚しい夢のように消え去ると言っています。 つまりヨブが自分に過去にはこんな栄誉があったのに富があったのにと思いながら虚しいと思って、夢の中にいたかのように感じて後悔している姿をツォファルは見たから、今ヨブの状況を皮肉っているのです。ツォファルは彼は夜の幻のように追い払われ、彼を見慣れていた者は再び彼を見ず、彼のいたところはもはや彼を認めないと言っています。つまりヨブあなたは悪者で神を敬わない者だから、あなたが座っていた富も栄華も虚しい現象のように、幻のように消えるだろう。あなたを知っていた人も、再びあなたを見ることはない。あなたが住んでいた家までも奪われるだろうと言っています。友達に向かってこの様に恐ろしい呪いの言葉を口にしているから、神様がご覧になる時どれほど大きい悪でしょうか。 だからこう言われているヨブはどれほど精神的に苦しかったでしょうか。ヨブは自分が自分を見るには悪者でもないし、神を敬わない者でもないし自分は正しいと思っているのに、友達がずっと悪者だと罪に定めているから苦しくて悔しかったのです。今ツォファルがヨブに言っている言葉は悪者と神を敬わない者にあたる言葉です。人があらゆる手段や方法を選ばないで富、栄華を追っていってすべてのものが崩れてなくなり、幻のように消えてしまうならどれほど虚しいでしょうか。仮に世の富を手にいれたとしても、死んだらそれまで積んだものが何の役に立つでしょうか。たとえ貧しく生きても、イエス・キリストを受け入れて救われて天国に行く信仰を持った人が、本当の豊かな人でしょう。 箴言28:6に「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。」とあり、箴言17:1に「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」とあります。たとえ貧しくて狭い家に住んでいても、家族が主にあって平和ならそれは幸せでしょう。反対にいくら立派な広い家に住んでいても家族の間で愛がなければ、心に平安がないし幸せだと言えません。ルカ17:21に「『そらここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中であるのです。」とあるように、どんな環境に置かれても、自分の心に善と真理が満たされているなら、いつも天国を感じているから平安で幸せなのです。 今ツォファルはヨブに、あなたはこのように悪者だから神を敬わないものだから、あなたはこのような惨めな目にあっているのだ。だからあなたが前、味わっていたものは全部滅びてしまったと指摘しています。しかしツォファルのその指摘は正しくないし、ツォファルの悪から出たものです。だから私たちはそんなツォファルのような姿でいてはいけない、そして悪者とか神を敬わないものになってもいけないと悟らなければならないでしょう。悪者と神を敬わない者が積んだものは全部虚しいもので、その結果は惨めになりそのまま死んだら地獄に行くから、何の役にも立たないものです。 しかしこの地上では貧しくても、イエス・キリストを受け入れて救われて心に天国があるなら、それが豊かな人でそれが幸せでしょう。だからヨブとツォファルまた友達が互いに言い争っていって、彼らの話を聞きながら、私たちはこういうものを悟らなければならないのです。心に善と真理が満たされているなら、それが本当の平安で幸せで、神様がくださる慰めがあるのです。それならいくら試練にあっても勝利することができます。でもヨブはまだそれができなかったのですが、ヨブの姿からそれを教訓にして私たちは、どんな試練に遭っても苦しみにあっても、神様の前に、それが変えられるチャンスだと思いながら、感謝して喜んでいれば良いのです。それで自分の中の悪を捨てていけば、神様が祝福してくださるでしょう。それを信じていけば、どれほど祝福の道でしょうか。メッセージを聞いて、そのようになりますように。 ツォファルはヨブ記20:10で言っています。 「彼の子らは貧民たちにあわれみを請い、彼の手は自分の財産を取り戻さなければならない。」(ヨブ20:10) ここで貧民たちとは、ただお金がなくて貧しい人を意味するのではありません。名誉、権力など全ての面で比べてみると、相対的に劣っている人を意味します。例えば国で権力と富を味わっていた高官たちが時代が変わったら、以前の部下に助けを求めることがありますね。そのようなものです。歴史を見ても権力者たちが汚職が暴露されて地位から退けられたら、それまで不正に貯めた財産を全部取り戻さなければなりません。そして、前は自分が上だったのに、今は部下たちにいろいろ助けを求めなければならない立場になるのです。それをツォファルは今表現しているのです。 親がそんな風になると子どもたちも顔を上げられないほど恥ずかしく思うようになりますね。このようにツォファルは神を敬わない者の子供たちがみすぼらしくなって、苦しみを受けるようになることを言っているのです。聖書を読むと悪いサウル王やアハブ王の子供たちがどのようになったのかがわかります。サウル王の息子たちはペリシテ人の戦いで敵軍の剣で殺されました。アハブ王の息子の70人は、神様がエフーを通してアハブの家を裁かれるとき、皆殺しにされました。しかし今ツォファルが言っていること、悪者や神を敬わない者は、ヨブがそうだと言っていたのですが、実際ヨブはそうではありませんでした。ヨブは悪者ではなかったのです。彼の行いは潔白で正しいと認められる程でした。だからツォファルが言っているののしりとは、関係ないのです。私たちもそういうことがあるのではありませんか? 人に誤解されることもあるし、そしてやってもいないことをやったと言われたり、ののしられたりすることもあるかもしれませんが、しかし自分がそうでなければ、自分とは関係のない言葉なのです。だからそのため悩んだり腹を立てる理由もないのです。神様の前で自分は正しいことをしているならば、いくら悪い人が誤解してあれこれ非難しても、その言葉は自分と何の関係もないし、悪い人が良い人を裁くことは正しくないのです。だからそれを聞いて、悪い影響を受ける理由はないのです。そうでなければ心が穏やかでないでしょう。でもヨブはそれができませんでした。友達があれこれ指摘したり咎めたり、また自分が悪者のように友達がこのように責め立てているから、ヨブはそれによってストレスを受けて心の平安がなかったのです。でもヨブは悪者でもないし、神を敬わない者でもないのに友達はヨブを悪者扱いしていました。 ヨブ記20:11です。 「彼の骨が若さに満ちても、それも彼とともにちりに横たわる。」(ヨブ20:11) 悪者と神を敬わない者は、結局その骨も前は若者のように丈夫だったとしても、彼が死んだら全ての若さも消えてしまうと言っているのです。歴史を見てみても、ある人は大きい富と栄華をいつまでも保つと思っていたけれど、一瞬で身の上が変わってしまうこともあります。例えば朝鮮王朝の19代王のそばめであったザンギリンという人は、王の寵愛を受けて王子を出産してその後王妃にまでなりました。それでとても高ぶっていました。彼女の権力はずっと続くだろうと思ったのですが、妬みとあらゆる悪行を犯したので、彼女の最後は結局死刑にされてしまったのです。そして朝鮮王朝の10代王であったヨンサンウンは、王位に上った後、権力をふるって放蕩し、多くの人を殺すなど暴政を働いた結果、クーデータによって王位から追い出されてしまいました。このように悪者の結果は非常に惨めだったのです。この他にも歴史を見てみると、欲を持って自分の利益を求めていると、敵である悪魔サタンに操られて、悪を行う人がたくさんいました。世の人が悪を行って、ひどい悪行をしているのを見ると、それは霊的に悪魔サタンに操られているからなのです。 歴史の中にもそのような人物がいるでしょう。自分の魂を悪魔にサタンに売ってしまう人もいるのです。そして自分だけ悪を行うのではなくその結果、多くの罪のない人が血を流すようになって、苦しみと悲しみの歴史が繰り返されたのです。皆さんにももしかしてこのような悪の属性があるのではないか顧みますように。もしそういう心を発見するなら、悔い改めて立ち返る賢い人になりますように。悪は小さく見えてもそのまま放っておけば大きくなってしまいます。また罪は一度二度犯すとそれが三度四度になってしまいます。そしてその罪と悪が自分の中でだんだん大きくなります。罪を犯すことによって自分はもっと悪くなるのです。グレーぐらいの色だった心が、罪を犯して悪を行っていけばだんだん黒に近くなるのです。だんだん濃い黒になっていくのです。 私たちの心もそうです。良心も麻痺してしまいます。だから、悪を悪とも思わないのです。最初はちょっと悪いことをしたら、良心に過酌を感じてすぐ立ち返ったでしょう。そしてこれによって神の裁き、懲らしめが臨んだらどうしようと不安もあるから、恐れてでも悪を行わなかったのです。しかしことさらに罪を犯し続けていくならば、良心が麻痺してしまいます。それで罪を犯して悪を行っておいて平気なのです。だから小さく見えることでもそのまま放っておけばいけないのです。わずかのパン種が粉の塊全体膨らませるように、悪い思いと行いは、徐々に私たちの体も魂も蝕んでいくのです。だから小さく見える悪でもこれくらいはと思って油断してはいけません。 詩編97:10です。「主を愛する者たちよ、悪を憎め。」とあります。徹底的に悪を捨てて受け入れてはならないということです。ですから大小を問わず神様の御言葉に外れた悪は、必ず捨てなければならないのです。私たちが悪はどんな悪でも避けて真理の中にとどまって、善を行っているなら神様が上から祝福してくださり、この地上でも豊かになり天国に入って永遠の命を得るようになります。ところである人は悪い人がもっとうまくいくとか文句を言ったり、羨ましく思ったりします。彼らが今贅沢に暮らしているから成功しているから自慢しているからそれを羨ましく思うのです。彼らが世でうまくいっているからと思うのです。でもどうしてそれを羨ましいと思うのでしょうか? 例えばある人が盗みをしてお金をたくさん貯めたとしたなら、それを羨ましく思う必要はないでしょう。罪と悪によって貯めたお金が何の役に立つでしょうか?皆さんは教会を離れた人が今世の中でうまくいって成功して楽しく生きているように見えるから、その人々をもしかしてうらやましいと思うのでしょうか?そう思ってはいけません。かえって憐れむべきでしょう。そしてある人はあの人は本当に悪いのに何故裁きが臨まないのとか思い、腹を立てる場合もあります。しかし結局悪は滅びるようになることを覚えていて下さい。 仮に誰かが不義な方法で成功したり、大きな利益を得たとしても、それをうらやましく思う必要はありません。もし詐欺をして数億円儲けたとしたら、それがその人になんの益をもたらすでしょうか?益をもたらすと思うのでしょうか?盗まれるのではないか、バレルのではないか、また貧しくなったらどうしようと心配して、いつも不安でしょう。そしてそうやってお金を稼いだ人は、ほとんどは価値あるものに使えないし、快楽に落ちて短時間になくなってしまうのです。それにその人が今向かっている終着駅は地獄だから、いっそ貧しくても正しく生きて天国に行った方が幸いなのです。 ところでツォファルはヨブの身の上をこのような悪者たちに例えているのです。ヨブあなたの悪によって以前の権威も財産もなくなってしまい、若者のようであった勢いもくずれてしまい、塵に横たわるようになるだろうと言っているのです。ヨブの友達はこのように激しい罵りでヨブを追い詰めて傷つけています。ヨブを慰めるどころかもっと苦しめていて、つらい思いをさせています。彼らが自分なりに工夫をして言った言葉ですが、ヨブを悟らせるどころかかえてもっと苦しめて傷つけています。これは神様の御目にとても愚かな言葉で行動です。ではなぜヨブの友達を愚かだというのでしょうか?実はヨブは友達よりずっと心が正しいし、その行いも潔白でした。そして友達はヨブを悪いと指摘する資格がないからです。ヨブは友達と比べてみれば悪者ではありませんでした。ただ神様の方からヨブをご覧になるときは、悪があるから練ってくださっていたのです。 人がヨブをあれこれ悪いという資格はなかったのです。普通の人と比べてヨブは正しかったのです。でも神様の真理、神様が望んでおられる基準に比べてみて、ヨブは悪があって欠けているところがあったから、神様はヨブのために練ってくださっていました。しかしそれを知らない友達はヨブを避難していました。皆さんももしかして人の短所がよく見えますか?まず自分の目の中の梁を探して捨ててこそ、人の目の中の塵も見えるでしょう。マタイ7:3に「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」とあります。この御言葉もよく引用していますが、とても大切な御言葉です。人の目の中のちりが見えるならばこの御言葉を思い出して、それ以上見てはいけないでしょう。それ以上人をさばいたり罪を定めることをやめて自分を顧みなければならないのです。そうでなければそれ以上発展がないのです。相変わらず人の目の中のちりを見て指摘しているのです。でも今日のメッセージを聞いて自分を顧みて悔い改めますように。梁のように大きい悪を持っている人が、ちりのように小さい人の過ちを指摘するなら、恥ずかしいことでしょう。 でも神様は光そのものであり、傷もしみも汚れもない方で聖なる方だから、ヨブの過ちを指摘して取り除ける資格があります。ヨブが自分なりに潔白で正しい行いをしていても、完全である神様がヨブをご覧になるときは、直すべきところも捨てるべきところもたくさんありました。ヨブの器をご覧になって、もっと聖くて広い器を造って、もっと祝福をしてあげようとしておられるのです。友達が言っているようにヨブは悪者でもないし、神様を敬わない者でもないのです。神様がヨブを変えさせて、ヨブを通して栄光をお受けになるためにそうされたのです。たっとい宝石であるほど傷一つないように望む細工職人の心のように、神様はヨブを練ってもっと美しい器に造り変えようとされるのです。 でもヨブの友達は自分の悪をもって、ヨブをむやみに裁いて罪に定めて指摘しています。ヨブは今神様の御手の中で練られているのに、ヨブの友達は自分の悪からヨブを侮辱しています。ヨブが試練に遭う前は友達にも徳を施して助けていたのに、今は友達に非難されているからどれほど苦しいでしょうか。でもヨブの方でも友達を善と真理をもって愛と徳をもって、彼らの話を受入れたら良かったでしょう。箴言15:1「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」とあるように、善と柔和をもって人に対するなら、その憤りを静めるでしょう。 ですから私たちはいつも口の言葉に気をつけなければなりません。その言葉は正しくても、相手が傷ついたり気を落とすならばそれは害になるのです。ですからアドバイスをするときも、ただ相手を悟らせることで終わるのではなくて、愛の心を持って励まし力づけるように助けなければなりません。イエス様はルカ17:1-2に「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれた方がましです。」と言われました。神の子供なら決して自分の言葉や行動によって相手につまずきを与えることがあってはいけません。 聞いたメッセージを思い出して、自分はヨブやヨブの友達の姿はなかったのか顧みますように。一緒に祈りましょう。父なる神様感謝いたします。今日はヨブの友達ツォファルがヨブを悪者扱いをして、ヨブを非難している姿を見ました。しかしそれは自分の心の悪から出てきた言葉でした。そして悪者と神を敬わない者の結果はどうなのかを、聖書の例を挙げて説明しました。これを覚えて自分の中にある悪を全部捨てるようにしてくださり、悪を憎み善と真理を心に満たしていくようにしてください。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

「ヨブ記講解52-悪者と神を敬わない者の結果(1-上)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記20:4~5
 

皆さん、前回にヨブは自分の苦しみがあまりにもひどいと言いながら、神様と友達を恨んでいました。そしてもうすぐ自分は死ぬけれど、神様の前に立つ、その時は他の人の目を通してではなく、自分の目で見ることができると言いました。しかしすぐその時のことを考えたら不安になって、切羽詰まって息苦しいほどだと、自分の心境を言っています。これは今、ヨブが神様の前に反抗して恨んでいる姿が後ろめたいからです。それでも少し良心がある姿です。過去神様を恐れていた姿とは違って、今ヨブは自分の言うことも行っていることも完全でないことを感じながら、神様の前に堂々と立てないのです。

聖書では私たちが救われたからといって、皆主を見るのではなく、資格を備えてこそ見られると言っています。ヘブル12:14「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」と、その資格について正確に書いてあります。救われて天国に行ったとしても、この地上で人間耕作を受けているとき、全ての人との平和を追い求め、聖められることを追い求めていなかったのなら、主を見ることはできないのです。すべての人の中には自分を苦しめる人、自分の悪口を言う人、自分に悪を行う人も全部含められています。あの人は私と気が合っている、私に良くしてくれていると思う人だけではなく、自分と全然気が合わないし、自分が苦手だと思っている人とも平和を追い求めなければなりません。そして、そういう人が自分に悪を行っても、悪をもって報いるのではなく、善をもって愛をもって行ってこそ、それが全ての人との平和を追い求めることで、聖められてこそ主を見ることができます。

私たちはこのような御言葉を知っています。そして天国は場所が分かれていて、より優れた天国があることも知っています。一度天国に行ったら、その場所は変わらないことも知っています。しかしヨブはそういう真理を知らなかったから、自分は死んだら神様を自分の目で見ることができると言いました。しかしその時のことを考えたら、不安になりました。でも私たちは、正確な真理のみ言葉を知っています。どこを目指していくべきかも知っています。皆さんはそうではありませんか。しかし試練にあったり苦しみに遭うとき、信仰で完全に勝利できずにつらいと思いながら、早く天国に行けたらいいと思ったりします。

今ヨブは自分の苦しみを言いながら、もうすぐ自分は死ぬけれど神様を見るだろうと言った意図を、皆さんはわかるでしょう。激しい試練にあっている人が、もう天国に行きたい、この苦しい地上にもういたくないと、思ったりするのではありませんか。ヨブもそうでした。今自分が置かれていることがあまりにも苦しいから、死にたいと思ったし、この体ではもうすぐ死ぬと思ったのです。皆さんももしかして試練にあって苦しいからといって、もう何もかも嫌だと思ったり、早く天国へ行ったら良いと思うことがありますか?しかし天国には一度行ったら、もう一度報いを積む機会もないし、より優れた天国を攻めることもできません。全てがそれで終わりです。ですからこの地上で与えられたこの時間、試練にあって耕作を受けていても、その過程をうまく経て、御心にかなう姿に変えられるために努力しなければなりません。

だから今与えられている時間が、さらに変えられるチャンスなのです。しかし辛いからといって、もうこういう機会早く終わったらいいと思って、それを逃してしまったら、より優れた天国にはいけないのです。そして行けなくてもいいと思うこと、それは信仰ではないのです。自分の中の悪が発見されて人間関係で悩んだり、辛い思いをしたからといって、心が折れて早く天国に行ったらと思うなら、さらに変えられて報いを積む機会を逃すのです。だから私たちは与えられている時間を、神様の真の子供になるために、聖められるために努力して、チャンスを握っていかなければなりません。

ヨブ記20章が始まりました。 ヨブの友達ツォファルは心焦っていると言っていました。これはヨブが感じている不安とは違う意味でした。ヨブを指摘している自分の姿を客観的に見てみたら、自分にも資格がないことを感じて、良心の呵責を感じている言葉でした。しかしそれなら自分を低くして、それ以上ヨブを指摘しないで自分が変えられればいいのに、ツォファルはそうしませんでした。自分の欠けているところを発見したのに、それを隠したいから、言い訳をして、もっとヨブを叱責していたのです。このようにヨブと言い争いをしながら、心焦っているツォファルの姿を見ながら、人が心を守らないで焦ってしまうとどんな結果をもたらすのかが分かりました。 誰かに指摘されたり忠告されたとき、言い訳を探していると焦ってしまい、結局逆切れしてしまうこともあります。指摘されたり忠告されたりして、言い訳をしたくなる、又焦ってしまうことがあります。そして皆さんも日常生活でどんな時焦るのか、又言い訳をしようとするのかを顧みますように。自分の過ちを隠そうとして言い訳をして、また人になすりつけようとする人もいるでしょう。そして自分に置かれている環境とかが辛くて、それで心が焦ってしまうこともあるし、いろいろ皆さんの心の中でどんな感情が動いているのかを、日常生活で発見することがあると思います。そのような心を治めていなければ感情的になってしまい、人とぶつかったり言い争うこともあるのです。だからまず人のせいにする前に自分を顧みて、自分の負の感情を捨てるために努力しなければなりません。そうでなければ相手と平和を作ることもできないし、聖霊の声が聞けないから、信仰が発展できないのです。 反対に人の忠告を受け入れて悔改めて立ち返るなら、真理の心に早く変えられることができます。箴言25:28です。「自分の心を制することができない人は、城壁のない打ちこわされた町のようだ。」とあります。城壁のない打ちこわされた街とは、街が破壊されて何も残っているものがないという意味です。人が焦って心を制することができなければ、悪い言葉を口にして憤ったり争ったりします。それで結果的に家庭が破綻することもあるし、周りの人が離れてしまうこともあって、苦しくて悲しいことが起きるのです。ですから私たちはまめに心を真理に変えて、どんな状況に置かれても、善と愛をもって行わなければなりません。皆さんはなぜ自分は心の中で不安があるのか?なぜ焦りがあるのかを顧みますように。それは心の中に悪があるから、また負の感情から出てくることです。ある人は指摘されたらそんな風になる場合もあります。そして人に一言でも言われたらそれが嫌で言い訳をしたくなってしまうのです。 しかしある人は指摘されたとしても、落ち着いて自分を顧みながら、じっくり考えるようになります。しかしそうしないで、すぐ焦ってしまう人がいます。それで顔も表情もこわばったり、また、自分を指摘した人に対して不満を抱いて、感情的になってしまうこともあります。そうやって、自分の心とか感情をコントロールできない人がいるのです。それは自分中心的な人で、自分を守ろうとするからそうなのです。このような人は霊的にも、自分を発見して変えられるのが難しいでしょう。ですからヨブとこのツォファルの姿を見て、自分を発見しますように。 そして目上の人ならば、相手を指摘して自分なりにアドバイスをしたのに、相手がそれを聞き入れてくれなければ、その時心焦ってしまう場合があります。それでもっと強く言ったりすることがあります。すると互いに感情的に対立するようになったり、後では言い争ったりすることもあります。もちろん真理を知っている人は後で後悔するけれども、そういう姿があるなら、自分の中に悪があることを悟りますように。それで自分の心を制することが必要であるということです。前回聞いた内容を、皆さんもう一度顧みて、自分の日常生活の中でもそういう姿はないのか、いろんな場面を思い浮かべて自分を顧みますように。それで自分を発見しますように。それで今は心を守り、心を制する知恵のある皆さんになれますように。それでいつも平安と幸せだけがありますように。 前回、ヨブ記20:3でツォファルは私の悟りの霊が私に応えさせると言いました。自分を賢いと錯覚していました。続く本文を読むとツォファルがなぜそのように考えているのかがわかります。皆さん、前回聞いた内容を思い出して、続けて今日の本文を読みながら、自分を顧みますように。ツォファルはヨブに対して自分が言っていたことと、指摘していた姿を考えてみながら少し良心の呵責を感じていたのです。それで心の隅では恥ずかしいなと思いながらも、しかしそれを隠したいから、言い訳をしながらもっとヨブを叱責するようになるのです。それで心焦っていました。そしてそうしながらも自分なりに正しい答えをしていると思って、賢いと錯覚していました。人を指摘して、また自分はそういう資格がないと思いながら、後ろめたさを感じていながらも人をまた指摘して、自分は賢いと思うのでしょうか。真理で悟ってみればそれは正しくない姿でしょう。しかしツォファルはそうでなかったのです。自分の姿を悟っていませんでした。間違っていたでしょう。なぜそんなふうに考えていたのか。今日の本文を読んでみましょう。 ヨブ記20:4-5です。 「あなたはこのことを知っているはずだ。昔から、地の上に人が置かれてから、悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。」(ヨブ20:4-5) この地上で人が生きていた人間耕作の中で、昔からのことを見てみると、悪者と神を敬わない者はこのように、その喜びも楽しみも束の間だと言っているのです。ヨブには知識があるからツォファルもヨブにあなたはこのことを知っているはずだと言っています。そして悪者の喜びは短く神を敬わない者の楽しみは束の間だと、このようにヨブに言っているのです。つまりヨブあなたの喜びも楽しみも、もう跡形もなくなって消えてしまった。だからあなたは悪い人で、神をうやまわない人だと言っています。このようにツォファルはヨブを悪者扱いしています。自分なりに図星をついたと思うから自分を賢いと感じているのです。ヨブにこのようにアドバイスをしながら、自分なりに考えて図星をついたと思うのです。今までの人の歴史や昔からのことを見てみると、悪者の喜びは短く神を敬わない者の楽しみはつかの間だと言いながら、ヨブあなたがそうだと言っているのです。ヨブあなたもこのように前は盛んでいたけれども、今は滅びたからあなたは悪者だと言っています。 直接ストレートに言うのではなくて、このように遠回しに言っていながら、自分なりに賢いと思っているのです。それで自分に悟りがあると思っているのです。ここで神を敬わない者は、性分と行いが正しくない人を指しています。聖書のイスラエルの歴史だけではなく、韓国の歴史や最近の政治社会を見ても、悪者と神を敬わない者の名誉は束の間であることがわかります。ツォファルはイスラエルの歴史に登場する人々の業績と悪者の最後について聞いて知っているから、このように言い切っていました。それでは悪い者と神を敬わない者の結果は実際どうだったのか、聖書の中からいくつか例を探してみます。 悪い者と神を敬わない者の結果について、今週また来週続けて伝えますけれども、今ツォファルはヨブを悪者扱いにしていますが、実はヨブはそんな悪い人ではなかったでしょう。でも悪者と神を敬わない者がどんな結果になったのかを私たちは悟って、決してそんな人になってはいけないことを悟りましょう。聖書の中でこのように悪者と神を敬わない者の最後はどうだったのか、いくつか例を挙げて説明します。皆さんはこのメッセージを聞きながら、彼らは本当に悪い人だったのだだと思って終わってはいけません。自分にもそういう悪の属性があるのではないのか顧みて、心から悪を憎まなければならないのです。これから説明する何人かの例がありますが、彼らの悪はとてもひどかったのです。しかしその姿から、自分を発見しなければならないのです。自分にもそういう悪があるかもしれないのです。それで自分を発見することが、礼拝を捧げてメッセージを聞く理由でしょう。だからメッセージを聞いて恵みを受けたならば、自分に代入して自分にある悪を捨てるために努力しなければなりません。 まずエジプトの王パロの場合です。イスラエルの民がエジプトで奴隷生活をしていたとき、モーセはイスラエルの民をカナンの地に導きなさいという神様の命令を受けて、パロのどころに行きました。しかしパロは奴隷として使っていたイスラエルの民を行かせたくなかったのです。神様はこのようなパロを屈服させるために、モ-セを通して十の災いを下しました。ナイル川の水が血に変わり、エジプト全土にカエルとぶよ、アブの群れが満ちて、腫物と疫病、雹、いなご、暗闇の災いが臨みました。その度にパロ王は災いをまぬがれるために、イスラエルの民を行かせると約束したけれど、災いがやんだら、すぐ約束を破って虐げました。このパロと自分の心の悪を比べてみてください。パロは本当にああしたりこうしたりして変わってしまう悪い心なのだ、頑な人なのだと思って終わってはいけません。自分にもそういう属性があるのではないか探してみなければなりません。 自分が何か困難な目にあっていたり問題があれば、神様これさえ解決してくださるなら神様の前に頑張りますとか、これさえ解決してくださるな、後でこれこれしますと約束しておいて、後でまたそれを破ってしまうのです。教会に通っている人が、犯してはならない悪を犯したりするのです。それで聖霊が呻いてそうしてはいけないと言っても、それを無視してしまい悪を犯してしまうのです。それで病気になったりまた事故にあったりするでしょう。それで神様の前に出てきてすがって悔い改めて、それで神様がそれを解決してくださると喜んで感謝して、ある程度教会で忠実に仕えていたのに、また心が変わってしまい離れてしまう人もいるのです。 罪と悪のため自分が苦しみにあったことをまた忘れてしまって、また世に目を向けてしまうのです。それでいろんな問題にぶつかるとまた神様の前に出てきて、悔改めて、助けてくださいと求めるのです。自分の力では解決できないから、牧者のところに来て代わりに祈りをお願いして、執り成しの祈りを受けて問題が解決されました。平安になりました。しかし時間がたったらまた心が変わってしまうのです。このように繰り返されるのです。これがパロの姿と同じではありませんか?パロもこのように悪賢い心があって、自分の利益に合わせてしょっちゅう変わってしまう姿があったでしょう。そういう人はパロと同じような心なのです。 自分の利益に合わせて神様の御業を見ても無視してしまい、自分の利益を求めていくのです。悪を行ってしまうのです。善を選ぶことができないのです。それがパロの心も同じだったのです。頑なな心でした。そういう属性が自分の中にもあるのです。それでパロ王はどんな結果になったのか、とても惨めな結果だったでしょう。それを悟らなければなりません。パロ王はこのようにしょっちゅう移り変わってしまいました。それで結局エジプトの全土の初子が死ぬ災いが臨みました。パロの長男も死んでしまいました。そうしたらやっとイスラエルの民を行かせました。今は神様の前にへり下って、それでイスラエルの民を行かせると言いました。そしてイスラエルの神こそ真の神だと、今までの災いを見て、神様の御手の技を見て悟ったでしょう。 そして自分が神様の前にどれほど悪賢かったのか、そしてどれほど移り変わっていたのか、頑なだったのかを悟ったら良かったのに。しかし、そう心から悟ってはいなかったのです。それでも自分が正しいと思うのです。試練にあって自分が苦しみにあっても、人のせいにして神様のせいにするのです。しかしまた心が変わってしまうでしょう。それでイスラエルの民を生かせた後、また軍隊を送ってイスラエルの民を追っていくのです。この時神の力によって葦の海が分かれて、イスラエルの民は海の中の乾いた地を歩いて渡りました。どれほど驚くべき御業が現れたでしょうか。そして後ろから追ってきたバロの軍隊はどうでしたか?イスラエルの民がみんな海を渡った後、その海は元に戻ってしまい、追いかけてきた軍隊は海の中でそのまま死んだのです。こうやってパロは、驚くべき神の力を何度も自分の目で見たのに、頑な心が変わらなかったので、自分の長男を失って、全土が大変な目にあって、軍隊が全滅する大きい災いにあってしまいました。このように悪い人はその悪を行って偽りと悪をおこなってしまい、このような惨めな結末を迎えたのです。 次はアハブ王と王妃のイゼベルの例を挙げられます。イスラエルの歴史では悪い王として選ばれるアハブは、民が神様から背を向けるようにしました。異邦の神々に仕えていながらも、全く良心の過酌も感じていませんでした。偶像のバアルに仕える異邦人のイゼベルを王妃に迎えました。イゼベルはアハブ王と結婚しながら、偶像のバアルとアシェラをイスラルに持ち込んで来て、王はもちろん臣下と民も偶像崇拝に染まるようにしました。これによって北イスラルは神様の裁きが臨み、3年半の間、日照りが続いて、異邦の国から侵略を受けて大きい苦しみに遭いました。預言者エリヤが天から火を引き下ろして、長い日照りの中で雨を降らせるなど驚くべき奇跡で、真の神であるイスラエルの神を見せたのに、イゼベルは悔い改めないで、エリヤを殺そうとしました。それだけではなく、計略をめぐらして、罪のない民ナボテを殺して彼の葡萄畑を奪うなど、色々な悪巧みと計略で悪を積んでいきました。このように、あらゆる悪行を重ねていた彼らの結末はどうでしたか。 アハブ王はアラムとの戦いで、一人の兵士が射た矢に偶然に当たって死んで、その血を犬たちが舐めるみじめな終わりを迎えました。戦いで、互いに攻撃したりしているでしょう。それで矢を射たりするでしょう。その時実際矢に当たって死ぬ場合もあるし、それで勇敢に戦って死ぬならば皆に褒めたたえられるでしょうが、アハブ王はそうではありませんでした。勇敢に戦ったのでもないし、隠れようとしたのですが、偶然矢に当たって死んでしまいました。そしてその遺体の血を犬どもがなめていました。それでは王妃のイゼベルはどうだったでしょうか?その死はとても惨めでした。平凡に安らかに死んだのではありません。権力とか富のある人が死んだら葬儀も立派にすることもありますが、イゼベルはそうではありませんでした。殺されて、その死体を犬が食べてしまいました。そして残りを探してみたら、頭蓋骨と両手両方の手首しか残っていませんでした。このように惨めな最後だったのです。悪者の最後はそうなるのです。 次にモーセの時代のコラとその仲間が例に挙げられます。コラはレビ族で、聖殿に仕える身分と務めをくださった神様に感謝しないで、アロンの子孫にだけ大祭司の務めを受け継がれるのに不満を抱きました。モーセに立ち向かいました。エジプトから出て、モーセが民を導いていました。イスラエルの民は乳と蜜の流れるカナンの地に入ることを目標としていました。エジプトから出た時はどれを喜んでいたでしょうか。前は奴隷生活をしていたのにそこから解放されたでしょう。そして戦いもなく神様の力によって災いによって、このようにエジプトから脱出できました。それで時間がたってみたらまだカナンの地に入れないで、荒野で生活をしているのです。そしてその民の中で不満を抱いている人がいました。モーセに立ち向かう人もいました。コラはレビ部族でした。神の宮に仕える働きをしていました。大切な務めなのにそれを感謝しないで、神様に立ち向かいました。それでコラは自分だけではなくて、ルベンの子孫であるダタンとアブラムとオンと共謀して、名のある者たち250人とともにモーセに立ち向かったのです。 それで神様の裁きが臨みました。彼らの下の地面が割れ、彼らに属する者は生きながら黄泉に下りました。また彼らと同調した250人は、主のところから出てきた火に焼き尽くされました。このように恐ろしい裁きが臨みました。なぜでしょうか?モーセに立ち向かったことは、モーセという人に立ち向かったのではなく、モーセを立てて神の力をもって支えてくださる神様に反逆したことと同じだったからです。神様がモーセを立てて支えてくださっているのに、モーセに立ち向かったから、それは神様に立ち向かったことになりました。このように悪者の最後は全て惨めでした。 だから悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だというツォファルの話は正しいです。しかしこれはヨブにあたることではありません。ツォファルはヨブがそのように悪者だと、神を敬わない者だと思っていたから、自分の言葉は合っていると賢いと思っていました。しかしそうではありませんでした。これは彼の心の悪から出てきた肉の思いだけでした。神様の御目には合わなかったのです。彼が言っている言葉はあっていても、なぜそのように言っているのか。ツォファルの心の中には悪意があったし、ヨブを悪者扱いしていたからでしょう。しかしヨブは悪者でもないし、神を敬わない者でもないし、彼の心は友達よりずっといい正しい心だったからです。

「ヨブ記講解51-心あせってはならない」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:28~20:3

ヨブ記19:28です。
「もし、あなたがたが、事の原因を私のうちに見つけて、『彼をどのようにして追いつめようか』と言うなら、」(ヨブ19:28)

この中には二重の意味が込められています。本文でヨブはもしあなたがたがという表現を使って仮定して説明しています。そしてことの原因を私のうちに見つけて、彼をどのようにして追い詰めようかというならと言っています。ここであなたがたとは友達を指しているようですが、実は神様を指しています。今友達はどうすればヨブを追い詰めようかと互いに話をしながら、ヨブを負かすために続けて言葉で追いやっています。これまでヨブの友達は、ヨブが味わっている苦しみの原因はヨブにあると言い張っていました。ヨブがこんなに試練にあっている理由は、ヨブの悪にあると主張していました。しかしヨブはその話を聞かなかったのです。神様が自分を打ったからこのことの原因は神様にあると言いながら反問していました。

つまり、ヨブの友達はすべての過ちをヨブに原因があると責めていて、ヨブは神様に原因があると責めています。本文でヨブは、どうすれば自分の訴えや主張を通すことができようかと思いながら、神様が自分に負けてくださればいいのにと思いながら、すべてを神様のせいにしていました。だから神様のせいだと言いたいのですが、直接に表現するならまた友達が攻撃してくるはずだから、このように間接的に言っているのです。いくら言っても友達が聞かないから、ヨブは焦っていました。それで今はもしあなたがたがと言いながら仮定して、遠回しに主張しているのです。

ヨブには知識があってまた賢い人だったので、巧妙に攻撃を避けながら、神様と友達両方を責め立てているのです。ヨブは自分の過ちによってもたらされた結果を人のせいにして、憶測と思い込みで決めつけているのです。神様と友達を一緒に責めているのです。しかし私たちは自分の不幸を人のせいにしてはいけません。憶測もいけません。また自分が置かれている苦しみによって、相手が苦しまないようにしなければなりません。自分が責任を負えばよいことを人まで巻き込むことは、卑怯な心で悪賢い心です。自分の苦しみを神様と友達のせいにしたヨブは今、友達に向かってこのように言います。

ヨブ記19-29です。
「あなたがたは剣を恐れよ。その剣は刑罰の憤りだから。これによって、あなたがたはさばきのあることを知るだろう。」(ヨブ19:29)

その剣は刑罰の憤りだから。これは真理です。人々は自分が被害を受けたり、自分の思い通りにならない時に憤ります。その憤りが爆発すれば争いになって、暴行や殺人まで起きます。ところでヨブが友達にその剣は刑罰の憤りだからと言っていることは、友達を脅していて極端(的)なことを言っているのです。つまりあなたがたが憤って私を苦しめたから、それに対する代価として、刑罰と裁きがあると言っているのです。ヨブが言った通り憤りは災いをもたらして、何の利益もありません。また神様は善で悪であれ裁かれる方です。今ヨブはこのような真理の法則を使って友達を脅しているのです。

 

しかし私たちは、相手が自分に憤って非難して恥ずかしめても、その人を脅してはいけません。イエス様はどうなさいましたか?何の罪もないのに鞭打たれて茨の冠をかぶられて十字架につけられて苦しみを受けながらも、「父よ。彼らを赦してください。彼らが何をしているのか自分ではわからないのです。」と神様に愛の祈りを捧げました。またステパノ執事は福音を伝えていて、悪い人々に石打ちされて死にかけていながらも、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。このように真理の人は相手が悪いことをするとき、悪をもって報いるのではなくて、赦してかえってその人のために愛の祈りをするのです。

これまで調べてみたヨブ記19章で、ヨブは変わらずに自分が受けている苦しみと災いは、神様が何の理由もなく下したものだと言いながら、神様を恨んでいました。また自分を責め立てる友達に向かっても間違っていると言いながら、あなた方の憤りは結局刑罰と裁きをもたらすものだと言いながら脅していました。このようなヨブの話を聞いていた友達は、またどんな反応を見せるでしょうか。これからヨブ記20章ではもう一度ヨブの友達ツォファルが登場します。ツォファルはヨブ11章であなたが罪と悪を捨てるなら神様の前に大胆に立って恐れないだろうと忠告した人です。その後ツォファルはヨブと友達が言い争っていることを聞いていて、もう一度口を開きました。 ヨブ記20:1-2です。 「そこでナアマ人ツォファルは答えて言った。それで、いらだつ思いが私に答えを促し、そのため、私は心あせる。」(ヨブ20:1-2) ヨブは前、私の内なる思いはわたしの内で絶え入るばかりだと言っていました。つまり自分が死んだ後、神様の前に立つ状況を考えてみたら、息苦しくなるほど不安だからそう表現したのです。これまでヨブは不満を言いながら、神様の前に恨んでいて責めていたから、こういう姿で神様の前に立つのを考えると、不安と後ろめたさを感じていました。ところでここでツォファルはいらだつ思いが私に答えを促し、私は心焦ると言っています。これまでツォファルは2人の友達と一緒に激しくヨブを非難していましたが、実は彼は人を責めるような資格がある人ではありませんでした。友達と一緒に激しくヨブを非難していたでしょう。ヨブと互いに言い争っていました。そして今までヨブの反論を聞いていてまた友達の反論も聞いていながら、自分は人を責めるような資格があるのではないと、心の中ではうすうす感じていたのです。例えば自分は人を愛していないながら、相手になんでそんなに愛が足りないのかと指摘するなら、恥ずかしいことでしょう。しかしこの様に言っておいて恥ずかしいと思わない人がいるかと思えば、それでも少し良心もあって、呵責を感じる人もいます。 ツォファルは友達と一緒にヨブを激しく責め立てて追い詰めて呪ったことについて、実はそれは恥ずかしいことだと心の一方では感じていたのです。人は自分が言ったことについて責任を負えない場合がよくあります。そして自分は行っていないのに、人には教えて指摘する場合もあります。例えば下着を取ろうとする者には上着もやりなさい。右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい。敵を愛しなさいと真理を教えていながら、自分はその通りに行っていないのです。実際人に施すべき状況ではためらうし、敵でもない人を憎んだり、感情的になって対立したりします。 こういう場合、少しでも良心がある人なら普段自分が言っていることが正しくないと、感じることがあるでしょう。この時、黙って自分を顧みながら反省すれば良いのに、そうしないで言い訳をしようとするから、心は焦るようになるのです。だから相手に何か誤ちがあって、自分が知っている真理を持ってアドバイスをしたのですが、話をしていたら自分もその御言葉を行っていないことに気がつくのです。それなら黙って自分を顧みて反省すればいいのですね。でもそうしないで、かえって言い訳をしようとするから心焦るのです。良心が少しあって、心の呵責、良心の呵責を感じたものの、それで反省するのではなくて、必死に言い訳しようとして、何か理由付けるものはないかを探すのです。いや私もそんな姿があるけれどでも、今は私が正しいことを言わなければと思うのです。ツォファルが今そんな心なのです。 ツォファルはこれまでのヨブとの言い争いの中で自分が言ったことが心の中では正しくないな、恥ずかしいことだなと少し良心の呵責を感じながらもでも、何とかして自分が正しいことを通そうとして貫こうとして言い訳しようとするから、かえって苛立って心焦っているのです。ツォファルは友達と一緒にヨブを非難している自分が正しくない、悪いと確かに少し良心があって呵責を感じていたけれども、そこで自分を変えて反省したのではないのです。かえってもっとヨブを非難して自分の心の正しくないというところを隠そうとしているのです。続く本文を見ましょう。その理由は具体的に書いてあります。 ヨブ記20:3です。 「私の侮辱となる訓誡を聞いて、私の悟りの霊が私に答えさせる。」(ヨブ20:3) ツォファルは友達と続けてヨブを責めたてた言葉が、結局は自分の顔に唾を吐く結果になることを薄々感じてはいました。自分で良心の呵責を感じていました。それは自分もヨブと同じように、自分が言っていることを実行はしていない人だと気づいていたからです。自分もヨブと変わらない人だと感じたから、私の侮辱となる訓戒を聞いたと言っているのです。でも私の悟りの霊が私に答えさせると言っています。これは正確にその意味を理解しなければなりません。言い訳しようとして心焦っている人が、どうして悟りの霊を得て賢い答えができるでしょうか?私にもちょっと私が言ったことは正しくなかったんだ、悪いところもあったんだと心の隅ではそう感じていたのですが、でもここではまた開き直って、私は悟りの霊が応えさせていると言っているのです。 正しい良心を持っている人なら自分の過ちについて指摘されたら、顧みて悔い改めるでしょう。そうして言い訳もしないでしょう。しかし、悪の多い人はとんでもない理由をつけて言い訳を示して、他の人に責任をなすりつけようと企んだりして悪知恵を働かせるのです。そして一生懸命工夫して絞り出した言葉を、自分なりには賢い答えだと思っているのです。例えば相手が一言言うと自分は二言三こと言い返して、相手がすぐに言い返せなくて困っているのを見ると、嬉しくなって、あぁ-すっとした、私は頭が良いと思うのです。これは真理で照らしてみればどれほど愚かで悪い姿でしょうか。 ツォファルもヨブの話に反論しながら自分なりに工夫して言い訳をして、自分なりにこれは賢い答えだと思っていましたが、神様の方ではどれほど恥ずかしいことでしょうか。神様は善をもって悪に打ち勝ちなさい、人を自分より優れている人だと思いなさい、と言われました。しかし相手を負かそうとしたがるなら、真理とかけ離れているでしょう。私達は信仰生活をするとき、必ずこれを心に留めて、変えられていかなければなりません。自分は行っていないのに、他の人に押し付けたり、行っていないからと指摘するなら、良心が少しでもある人は呵責を感じるでしょう。そういう時言い訳しようとするのではなくて、反省して立ち返る人が本当に賢い人なのです。もちろん教える使命を持っている人ならば、自分はまだみ言葉を全部行っていなくても真理を正しく教えなければならないでしょう。 例えば区域長が自分はある事情があって祈れなくても、区域のメンバーには祈らなければならないことを教えなければなりません。もし私も祈れないくせに誰に教えることができようかと思いながら、初めから教えないならばそれは使命を果たしていないということです。ある人を訪問して喜んで感謝してこそ問題が解決されますと言いながら、自分の心の中では私も喜べなかった感謝できなかったと感じますね。そういう時なら、相手に真理を教えないほうがいいでしょうか?そうではありません。それでも真理は教えて、相手が正しい道に行くように導かなければなりませんね。そして私も欠けているところが多いですけれども、一緒に頑張りましょうと、このように互いに励まし合えばいいし、実際自分も祈りながらもっと喜んで感謝するために努力すればいいのです。 しかしそうではなくて、私はもう行っていないから初めから教えまいと思ってはいけないのです。そういう使命がある人ならば、当然真理を教えなければならないし、その真理を自分に照らして自分も変えられなければならないですね。それで自分も努力しながら、また同時に正しい真理を教えて一緒に変えられればいいでしょう。だから教える使命があって人に教えることと、上からの目線で高ぶって人を指摘して教えようとすることとは違うのです。自分がへりくだって、自分が行っていない姿があっても、それでも使命があるから正しい真理を教えるなら、聖霊が働いて下さいます。しかしそうではなくて、悪をもって上から目線で教えようとするなら、それは聖霊が喜ばれないことでしょう。 でも、ヨブの友達の場合は、ヨブを正しく悟すのではなくて、感情的になって指摘して責めていました。ツォファルは自分がヨブを攻めていたことについて良心の呵責を感じたけれど、ヨブの話を聞いていたら苛立って言い訳をしようとして心焦っていたのです。こういう時は黙って反省すればいいのに、いろんな言葉で相手を攻撃しようとして状況を変えようとするのです。良心の呵責を感じて言い訳をする言葉を探して心が焦るのです。何とかしてこの場しのぎをしようとして言い逃れようとし、何とかして自分を指摘する相手の欠点や弱点を捕まえて言い返そうとするのです。そのためにいろいろ頭を絞るのです。 皆さんここで自分の姿を顧みますように。誰かに指摘されたとき心がせいて状況を逆転しようとするなら、ヨブの友達と変わらないでしょう。日常生活で隣人と話をするとき、主のしもべと話をするとき、目上の人に対して目下の人に対しても親子の間でも夫婦の間でも、皆さんにこういう姿があるなら立ち返って顧みますように。もし誰かが皆さんの過ちを指摘してアドバイスをするとき、受け入れて悔い改めて立ち返るならすぐ真理の心に変えられるでしょう。私たち普段どのようにしているのか顧みられますように。 誰かに指摘されたとき相手の欠けているところが思い浮かんで、それに反論したりする姿はありませんか?私を無視しているんだとか、自分もやっていないのに私にやりなさいというのかと、不満を抱いたりするのでしょうか?それなら言い争うようになるのではありませんか?だから小さい子どもが自分に指摘したりアドバイスをしてくれても、良い方に思って受け入れなければならないのです。そうではなくて、あなたがちゃんとやっているのでもないのにと思うならば、ヨブとヨブの友達と同じ心なのです。だからそうするのではなくて、指摘されても謙遜な心で、まずは受け入れなければなりません。 でもすぐ言い訳をする人がいますね。何とかして言い訳をしようと言い逃れようとする人がいるのです。だから自分は指摘されたとき、自分を必死に守ろうとしているのか、自分の過ちを認めないで隠そうとしているのか、でなければ素直に受け入れてへり下って自分の罪を告白して変えられようとしているのか、顧みますように。そして指摘してくれる相手に対して、顔には出さなくても心の中で不満を抱いたり嫌になったり憎らしいと思ったりする姿があるなら、それを悔い改めなければならないでしょう。指摘されたら、まず感謝して喜ばなければならないでしょう。 しかし必死に言い訳をしようとして過ちを認めないで隠そうとするから、一生懸命頭を絞って他の人のせいにするのです。これは自分を愛する心、自分の利益を求める心、悪があるからなのです。それを捨てないからなのですね。だから長い間信仰生活をしていても、信仰の成長がないのです。変えられるために自分なりに祈ってもいて、いろんな奉仕もしています。そして熱い時もあります。そして人々に褒められる時もありますね。でもある時は指摘される時もあります。指摘されたらすぐ顔色が変わって言い訳をしようとして、自分の過ちを隠そうとするならそれ以上発展がないのです。だからなぜ私は祈ってはいるけれど信仰が成長していないのかと思う方はこういう姿を顧みますように。 使徒の働き7:51-60を読むと、ステパの執事が殉教する場面で、悪い人々が指摘されたら苛立って心焦ってより多くの悪をより大きい悪をさらけ出す姿があります。ステパノ執事は神様を信じると言いながら心の割礼をしていない人々に対して、「頑なで心と耳とに割礼を受けていない人たち、あなたがたは、父祖達と同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」と指摘しました。すると人々はこれを聞いてはらわたが煮えかえる思いで、ステパノに向かって歯ぎしりをしました。そしてステパノが聖霊に満たされて、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言ったら、彼らは大声で叫びながら、耳を覆い一斉にステパノに殺到して石で打ち殺してしまいました。 悪い人々はステパノに指摘されるのが聞きたくなくて、耳を覆いました。焦りと怒りに勝てなくて、この様に大きい悪を行ってしまいました。みなさんはどうでしょう?指摘されたとき心焦って苛立って言い訳をしようとして、自分の過ちを隠そうとしたことはありませんか?聖書を見るとステパノ執事も神の力ある技を行っていました。そういう人が指摘したのに、悪い人々はそれを受け入れないでかえって憎んで殺そうとしたのです。心にある悪がこのように明らかになるのです。心に善がある人は善が現れるのですが、悪があるから結局悪が出てくるのです。だから皆さんも自分の心の中にどのように善があるのかを顧みますように。そして心に悪が多い人を刺激することも気をつけなければならないでしょう。 皆さん、聖めを慕っている人は過ちを指摘された時も、自分を顧みて悔い改めて立ち返ればいいのです。箴言15:28に「正しい者の心はどう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。」とあります。どんな状況でも、感情に振り回されないで、落ち着いてじっくり考えてみなければなりません。こういう人は心焦ったり、言い訳したりするのではなくて、心の余裕をもって静かに話をするでしょう。それでも、相手が苛立って言い返してくるならば、それ以上話さないで、イエス様のように知恵をもってその場を離れたりして、言い争いがないようにしなければなりません。しかしそうしないで心焦ってしまうと、感情的になって平和を壊してしまいます。これは神様が喜ばれないのです。 結論です。 箴言16:32に「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」とあります。箴言4:23に「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。このように私たちがどんな状況でも、心を真理によって守ることはとても大切です。話をするとき心のコントロールができなくて焦ってしまうと、感情的になり、すると顔色が変わったり表情が怖かったり目つきが怖くなったりします。我慢できず悪態をついたり暴言を吐いたり、手を挙げる人もいます。これは神様がとても悲しまれることで、敵である悪魔サタンが喜ぶ姿です。こういう人は聖霊の声を聞くことができません。聖霊は泉のように静かで穏やかな心の中に聞かせてくださるのです。だから心焦りや苛立ちがあるときは、聖霊の声を聞くことはできません。 では聖霊の声を聞くためにはどうすべきでしょうか?まず心を真理に変えなければなりません。神様は光であり善と愛真理そのものだから、神様の御霊である聖霊も真理の心を通して働くことができます。だから聖霊の声を聞くためには、次の二つの作業が同時に行わなければなりません。第一は、聖霊の声を聞けないようにして、サタンのしわざを受け入れる真理と反対の思い、肉の思いを打ち砕くことです。そして第二は聖霊の声を聞けるように、心を真理に満たすことです。いくらたくさんの時間祈って、み言葉を知識的にたくさん知っていても、肉の思いが多ければ聖霊の声を聞けません。だから皆さんは、心に真理を満たして、肉の思いを打ち砕いて一瞬一瞬正確に聖霊の声を聞いて、いつも栄える道に導かれますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思いながら一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが自分についてどのように訴えていたのか、そしてどのように恨んでいたのか、神様についてどんなふうに考えていたのか分かりました。そして神様の前に立つとき、自分が今までしたことがあるから、不安で切羽詰まっているそういう気持ちもありました。私たちはどうしているのか顧みますように。私達は自分の心に悪があって救いの確信がなくて、それで不安になったり心苦しくなったりする姿がないのか顧みますように。そしてヨブの友達ツォファルの姿を見ました。良心の呵責を感じたものも、自分を認めてへり下るのではなくて、必死に言い訳をしようとして、それで苛立って心焦ってしまう姿もありました。そして自分の過ちを認めないで隠そうとしていて、人のせいにする姿もありました。それを通して私たちも自分自身を顧みるようにしてください。それでへり下って変えられるようにしてください。感謝します。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解51-心あせってはならない」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:23~27

さん前回はヨブが自分の苦しみを神様のせいにしながら、友達にも自分を憐れんで欲しいと願っている姿を見ました。しかし、こういう場合人間的な慰めは何の役にも立たないので、真理で悟して相手の魂が幸いを得るようにしなければなりません。ヨブは自分が痩せ衰えている理由も神様のせいにして友達のせいにしていますが、自分で自分を削っているのです。もしヨブの心が正しくて綿毛のように柔和で友達の話を受け入れたなら、やつれるはずがなかったでしょう。しかし相手の話を受け入れない人も問題ですが、彼に続けて指摘して苦しめている人も正しくないと伝えました。

ところで大切なのはこのようなメッセージを聞いて、自分自身を発見して変えられなければならないということです。元老牧師先生はヨブ記講解を伝えながら、これはとても大切だと何度も言われました。私たちがメッセージを聞いて自分を発見して悪と真理と反対のものを捨てるほど魂に幸いを得て、そう魂に幸いを得ているように、衣、食、住を初めいろんな祝福を受けるからです。

ですから皆さん自分自身について、皆さんもよく知っていると思うかもしれませんが、実はそうでないのです。私の名前はこれです、私の身長はこのくらいで私の性格はこうですと自分自身についてよく知っていると思うかもしれませんが、聖めの福音を聞いて自分を顧みてみるとそう言えないでしょう。自分の中に真理と反対のものがたくさんあるし、それが深く潜んでいるからそれを発見できない人もいて、またあってもそれを認めないから自分自身についてよくわからないのです。自分の心の中に憤りがあって憎しみがあることを知っているなら、本当に知っているならそれを捨てるはずでしょう。でも実は分かっていないから捨てようとしないのです。

皆さんの顔に何か誰かがいたずらでペンで書いたとしましょう。そうでなければ、何か汚れがついているとしましょう。それを見たなら洗うでしょう。でも知らないから、気づかないから洗わないし、ふかないのではありませんか?私たちも同じです。自分の中に本当の自分があるのに憤っている自分があるのにそれを認めないのです。私はそんな憤る人ではないと思って蓋をして置くから問題なのです。しかしヨブ記講解を通して自分自身を見つめ直すようになって、発見するようになるのです。ヨブの姿からヨブの友達の姿から、自分を発見するようになるのです。日常生活で自分が思ったことを考えたことを自分の口にした言葉を、このヨブの言葉とか友達の言葉を通して聖霊が思い起こさせてくださるのです。それで霊的に悟るようになるし、自分を発見するようになるから祝福なのですね。だから私たちは真理のみ言葉を聞いて罪と悪を捨てていくと、魂に幸いを得るようになって、すると神様も祝福してくださることができるのです。

マタイの福音書6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」とあります。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とあります。だから私たちは教会のために主のしのべのために働き人のためにまず第一に祈らなければならないのです。神の国のために祈りまたその義のためにも祈らなければなりません。つまり神様のように私たちも神様に似ていくために正しくなるために祈るのです。神様が人間耕作をなさる理由がありますね。まことの子供を得るためでしょう。つまり聖められた子供、罪を捨てた子供、聖い子供を望んでおられるから、そのような子供になるために祈るのです。

 

第3ヨハネ1:2「愛する者よ。あなたがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。私達が霊肉ともに祝福される為には、魂に幸いを得ていなければなりません。ですから、今日メッサージを聞くとき、自分を発見して変えられて、魂に幸いを得ていて、すべての点で幸いを得、健康でありますよう、主の御名によって祈ります。

前回に続いてヨブは今日も神様の前に恨んでいます。ヨブ記19:23-24です。
ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ書き物に刻まれればよいのに。鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。」(ヨブ19:23-24)
 

ヨブは今自分が言っていることと、今自分が受けている試練この苦しみを書き物に書き止めたいと、いつまでも岩に刻みつけたいと言っています。今の自分の痛みと悔しさが記されて、ずっと誰かが覚えてほしいと思っています。皆さんもそう思うときありませんか?本当に悔しい目にあって苦しいとき辛いとき、誰かがそれをわかってほしいですね。自分の味方をしてほしいですね。人は自分を愛します。だから自分が何か辛い思いをすると周りの人に言うのです。聞いてほしいと思うのです。わかってほしいと慰めてほしいと思うのです。 今ヨブがそうです。こんなに病気で苦しいし、自分が悔しい目にあっているから、それを書き記して、ずっと人が覚えてほしいと思います。今どれほど辛いし悔しいのか苦しいのかを表現しているのです。ここで鉄の筆とはペンのように先が尖っている筆とか彫刻刀を言っています。鉛は金属の一種ですね。ヨブは自分のこのような悔しい状況を本で書くならば、もしかして消されたり破れるかもしれないから、固い石に刻みつけてずっと保存したいと思います。それだけ今、自分が受けている苦しみと痛みが重いし、恨みが大きいことを表現しています。 皆さん周りで悔しい目にあっている人の中で、これと似た表現をする人を見たことありますか?そうでなければひょっとして皆さんが神様を信じる前、誰が私のこの悔しい思いをわかってくれるだろうか、私の悔しい思いをどこに記せばいいのか、悔しくて死にそうだと言ったことはありませんか?クリスチャンの中でも、神様は私の悔しい思いを知っていると言いながら、自分の潔白を明かすために必死になる場合があります。しかしこれはそれだけ心に悪があるということを物語っています。信仰が欠けているからなのです。韓国のことわざの中に、かたきは水に刻み、恵みは岩に刻めという言葉があります。人との関係で自分が損したことや悔しいことは流れる水のように忘れても、反対に恵みを受けたことは変わらずに覚えていなさいという意味です。しかし人はこれを反対にしますね。誰かが自分を苦しめて自分に悪を行ったならそれは絶対忘れませ。ん。そして受けた恵みはすぐ忘れてしまうのです。しかし世の人もどちらが正しいか分かっているから、こういうことわざがあるのです。自分が損をしたことや悔しいことは流れる水のように流してしまい、しかし受けた恵みは、変わらずに心に留めておきなさいと言っています。それが正しいのです。世の人もどちらが義なのか善なのか知っているのですが、私たちはどうすべきでしょうか? これは真理である神様の御言葉とも通じあっています。神様はどのようにしなさいと言われましたか?詩編37:5-6です。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主はあなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」とあります。ローマ12:19には「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」とあります。ルカ6:35には「ただ自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやりなさい。」とあります。このような真理のみ言葉に従う人は、不当な目にあっても心の平和を思い失いません。生きておられる神様の前に真実で大胆だから、誰のせいにもしないで静まって神様に頼るだけです。すべてのことを知っておられる神様が答えて下さり解決して下さることを信じるから、焦ることもないし静まって待っているのです。神様の前に罪を犯さないで光の中を歩んでいるから、霊の信仰が与えられて、人を恨むこともなく平安でいられるのです。 今日のメッセージのタイトルと反対ですね。心焦ったり、憤ったりするのではなくて、心に平安があるのです。悔しくてたまらないと不安に思って心焦るのではなくて、それで感情的になってしまい人のせいにするのではなくて、すべてを神様に委ねる人は心が穏やかです。そのためには神様との間で罪の壁があってはいけないでしょう。神様は罪の壁がない人の祈りを聞いてくださり助けてくださるのです。しかし罪を犯していて罪の壁があるならば祈っても答えを受けられないのです。だからまずは罪の壁を壊さなければなりません。そして自分の知恵とか自分の能力で解決しようとしてもできないのです。 だからまずは罪を犯さないことが大切なのです。そして自分の心の悪によって感情的になったり憤ったりイライラしてストレスを受けていたから痩せてしまうし、消化不良になってしまったり眠れなくなるのです。不安になるのです。しかし神様にゆだねて神様を信頼する人は罪の壁を作らないから神様が全てを栄えるようにしてくださるのです。このように生きておられる神様に全面的に信頼するとき、まるで光が闇の中を照らすと全ての真相が明らかになるように、結局彼の正しさが明らかになって必ず勝利して栄光を得るようになります。ですから私たちは神様の御言葉通りに許して我慢して待ちながら、神様に委ねて頼らなければなりません。すると神様が全てを働かせて益としてくださるのです。だから自分の無念も書き記す必要もないのです。 続く本文でヨブはヨブ記19:25-26です。 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮がこのようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」(ヨブ19:25-26) ヨブは、友達に憐れんでほしいと言いながら、自分がこんなに苦しい、こんなに悔しいめにあっている、これを書き記したいと言っています。そしてここでは、自分が神様について知っているかのように言っているのです。高ぶっている姿です。ヨブはここで私は知っていると言っていますが、これは本当に知っているのではないのです。自分が聞いている知識ではこうだと、正確でない真理でないことを知っているのです。そうではなくてヨブが神様について正確に知っているならば、今のように神様を恨んだりはしないでしょう。ヨブは自分の思い込みの中で、神様について知っているふりをするだけなのです。私たちは信仰生活をするとき、確かな信仰と不確かな信仰では大きい違いがあることを悟りますように。霊の信仰と肉の信仰の違いです。 確かな信仰、霊の信仰を持っている人は神の子供とされた後、確信があるから天国への希望があり、どんな状況でも喜び感謝して祈りながら御言葉に従います。確かな信仰があるからです。目の前にいろんな苦しみがあっても神様に委ねて、だから喜んで感謝することができるのです。しかし反対に不確かな信仰、肉の信仰を持っている人は確信がないから、神様の御言葉を聞いても疑うようになって完全に信じられないから御言葉に従わないし、世と友となって罪を犯すのです。神様の御言葉には喜びなさい、感謝しなさい、愛しなさい、許しなさいとあるのに、それは自分にとっては不利益になるようだから従えないのです。不確かな信仰だからです。 だから現実の中で苦しみにあったら神様の御言葉はどこかに行ってしまうし、自分の考えで何かをしようとするのです。そして不満を抱いたり、神様の前に問い詰めたり、呟いたりするのです。それで段々神様から離れて、罪を犯してしまい、世に向かってしまうのです。このような人は信じると思っていたのに、また疑ってしまうのです。移り変わってしまうのです。 平安な時、恵みに満たされていた時は信じると言っていたのに、現実に問題が起こって試練がやってくるとまた疑ってしまうのです。熱心も冷めてしまうし、ふた心があるのです。だから祈りにも応えられないし祝福されないのです。ヤコブ1:6-8です。「ただし少しも疑わずに信じて願いなさい。疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようです。そういう人は主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは二心のある人でその歩む道のすべてに安定のかけた人です。」とあります。ですから私たちは疑う心や運に任せる心を捨てて、ただ霊の信仰を所有して神様の前に求めなければなりません。 すると神様は私たちの心の願いを叶えてくださるのです。本文にヨブは骨と皮だけ残っている状態だったので、私の皮がこのように剥ぎ取られてのち、私は私の肉から神を見ると言っています。つまり自分が死んだ後には神様を見ると言っています。これも不確かな信仰の中でただ聞いて知っていることを言っているだけです。こういう言葉は神様を信じない世の人もいくらでも言えます。例えば普段神様を探してもいなかった人が、自分が善良に生きたから天国がもしあるなら私も行けると言います。このように言う人がたまにいますね。自分なりに正しく生きたから、天国がもしあるなら私も天国に行けると言っています。それは天国を信じているからそういうのではありません。 そして真理を知っているからそういうのでもありません。自分が正しいと主張しているだけなのです。これは信仰の告白でもないし、自分の言い訳にすぎません。本当に信仰のある人ならばいつも目を覚ましていて御言葉に従って、天国を望みながらまた来られる主を待っているでしょう。全き信仰には行いが伴います。行いのない信仰は死んでいる(も)のです。本当に信仰のある人は、一生懸命心を割礼して主に似るために励み、天国で受ける報いを望みながら忠実に仕えます。そうすると確かな信仰が与えられます。しかしヨブはそうではなかったのです。今自分は神様の前に恨んで神様のせいにしていて悪い神様のように言っていながら、自分が死んだ後、神様を見るだろうと言っています。それは自分にそういう確信があるから言っているのではないのです。ただ自分が聞いて知っている知識的な信仰で言っているのです。 続くヨブ記19:27です。 「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。」(ヨブ19:27) つまり自分が死んだ後、神様の前に立つようになることを言っているのです。この地上での人生が終わった後、自分の目で神様を見るだろうと言っています。これまで神様について聞いて知っていたし、自分なりに金銀を捧げたから、神様を直に見ることができるだろうと思っています。しかし実際ヨブは神様の前に立つならどう言うでしょうか?なぜ私にこんな苦しみを与えましたかと問い詰めるつもりでしょう。でもこういう姿勢と心で本当に神様の前に大胆に出ていくことができるでしょうか?これまで神様を悪い神様だと非難して恨んでいたのに。前は神様の前に金銀をちゃんと捧げて神様を恐れていたとしても、今は神様を恨んで悪い神様と非難しているのに。こんな姿でどうして神様の前に大胆に立てるでしょうか? だから実はヨブは心の中でも不安でたまらなかったのです。だから私の内なる思いは私の内で絶え入るばかりだとこのように言っているのです。皆さん、この礼拝が終わった後、又来週にもシリーズが続くのですが、次の週の本文を前もって読んで来て下されば良いと思います。それでこの表現はどういう意味なんだろう、この単語はどんなことなんだろうと思いながら、自分の考えでは理解できない、疑問に思うこともあるでしょう。その次、実際礼拝のときメッセージを聞きながら、正確な意味を悟ってああなるほどと思うと、とても礼拝が面白く楽しいでしょう。メッセージを聞くのが楽しいと思います。今日の本文もそうですね。なぜヨブがこのように言っているのか?聖書を読むときはよくわからなかったでしょうが、今日のメッセージを聞いてみれば、その意味を深くまで悟ると思います。だから毎週シリーズだから次の週の本文も前もって読んでくれば良いと思います。 ヨブは自分の以前の姿と今の姿があまりにもその違いが大きいから、やがて神様の前に立った時を考えてみれば、息苦しくなるほど不安だったのです。絶え入るとは息が絶えて死ぬ、気を失うという意味です。ヘブライ語の言語の意味では、枯渇してなくなるという意味です。耐え入るばかりだとは、つまりすぐに息苦しくなるほど不安で死にそうだという意味です。切羽詰まっている気持ちを表現しているのです。 今日、信仰があるという人々の中でも、このような不安を持っている場合があります。罪と義と裁きについて聞いて知っているけれども、相変わらず自分は真理の中で生きていないし、花嫁の備えを怠けているから不安です。マタイの福音書25章の十人の娘のたとえで、愚かな五人の娘のようです。油の用意をしておかなかったから、花婿が来られたとき、切羽詰まって不安になりますね。灯し火は持っていたけれども油を用意していなかったから、突然花婿が来られると聞いたらどれほどびっくりして、切羽詰まって不安になるでしょうか。そして賢い五人の娘のところに行って油を分けてくれと言います。どれほど愚かな姿でしょうか。もう用意する時間がないのです。それで結局は婚礼の宴会に参加できなかったのです。 霊の信仰を持っていない人はこのような不安を抱えているのです。御言葉を聞いて知ってはいるけれど、御言葉通りに生きていないから、聖霊様が悲しまれるし、またうめいてくださるからいつも心が苦しいし不安なのです。教会に来て礼拝を捧げるときは、悔い改めてこうしてはいけないと思っても、日常に戻ったらまた世の人と変わらない生き方をしていて、ずっと不安ならどれほどつらいでしょうか?しかし花嫁の備えをちゃんとして主を迎える準備を終えた人は、慕う心で主を待ちます。だからどれほど幸せでしょうか。今日も明日も主を待つその時間が神様の前にどれほど報いになるでしょうか?天国への希望が溢れていて天に報いを積んでいるのです。だから花婿が来られると聞かされたらどれほど嬉しいでしょうか?大胆に主の前に出ていくことができるでしょう。どうしよう、まだ用意ができてないのにと不安に思うこともないでしょう。 皆さんもし明日主が来られると言うならどうでしょう。皆さんの心はどうでしょう。主イエスよ、早く来てくださいと大胆に言えるでしょうか?出なければ、いやちょっと待ってください。まだ新しいエルサレムにまだ行けないのにと思いますか?でも信仰のある人は今まだ欠けているところがあってもそれでも、喜んで主を受けれるでしょう。でも信仰生活をちゃんとしていない人は、明日主が来られるというその言葉を否定したいのですね。それが嘘であったらと思うのではありませんか。でも信仰が少しでもある人は、今からでも悔い改めて立ち返って正しく生きようとするでしょう。そのように切羽詰まって、不安になったりして息苦しくなるようなことがあってはならないでしょう。皆さんの今の信仰生活をチェックして下さいますように。一足は世の中に、一足は教会に、このように二股をかけているならば、救いの確信がないから息苦しくなるのです。 講壇からはいつも罪を捨てなさい、真理の御言葉通りに生きなさいと教えていて、天国と地獄を伝えています。そしてこの教会ではこの御言葉が確かなものであることを現わす神の力があるではありませんか。だからそれは事実だと知っているから完全に世に落ちることはないけれど、教会と世に二股をかけているのです。世をまだ捨てていない立場ではどれほど不安でしょうか。このような不安を捨てて真の平安と自由を得たいと思うならば、速やかに罪を捨てて世を愛する生き方から立ち返ればいいのです。皆さんは天国への希望を持ってさらに御言葉にとどまっていて、上から与えられる喜びと感謝また聖霊に満たされて信仰生活をしますように。だから不安に思うのではなくて、いつも幸せと喜びが溢れていて、主を待つそのような生き方になりますようお願いしま。

「ヨブ記講解50-肉の人と御霊の人」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:20~22

続くヨブ記19:20です。


私の骨は皮と肉とにくっついてしまい、私はただ歯の皮だけでのがれた。(ヨブ19:20)

ヨブは皮と骨がくっつくほどとてもやつれて衰弱していました。皆さんがヨブの身になって考えてみてください。ヨブ記7:3に「私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている。」と言っていました。1日2日でもなく数ヶ月も苦しんでいたし、ずっとストレスを受けていたから物を食べても消化できないし、だんだんやつれるしかないでしょう。友達は言葉で攻撃して、妻は自分を見捨てて親戚も離れてしまい、しもべたちもヨブを無視しているから、その寂しさと心の苦痛はどうだったでしょうか。それに全身はひどい皮膚病で、傷口が固まってはまた崩れることを繰り返されていて、血が出て醜くかったのです。ですから全身がやつれて骨が皮にくっついてしまいました。残っているのは歯の皮だけだと言っています。それで話すことはできました。このように惨めな目にあったヨブは友達に次のようにお願いします。

ヨブ記19:21です。
あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。
(ヨブ19:21)

ヨブは友達に神の御手が自分を打ったからこんなに惨めになったから、憐れんでほしいと言っています。ヨブの今の境遇を人間的に考えるととてもかわいそうですが、ヨブが言っていることを聞いてみれば、ヨブを憐れむことができないことがあります。もし、皆さんが試練にあって「先生、神様が私を打ってこの様に苦しめています。私を憐れんでください。」と言うなら私が憐れむでしょうか?もちろん不当に苦しみにあっているならば一緒に悲しんで祈ることはあるでしょう。しかしそうではなくて、自分の罪の為に苦しみをうけているのに、神様が自分を苦しめていると言いながら、神のせいにしているなら憐れむことができないでしょう。自分が人を憎んで、また言い争って苦しめて互いに対立しているのに、ある人のところに行って「私はこんなにその人のせいで辛い思いをしています。憐れんでください。」と言うなら私はどう言えばいいでしょうか?

それは大変ですねと言いながら慰めることはできないのですね。正確に何が正しいか正しくないかを悟らせなければならないでしょう。人間的に慰めて憐れむからといって問題が解決されるのではありません。命を与えるのは御霊です。真理にあってどうすれば霊的に問題が解決されるの

かを悟らせてその道を教えなければなりません。人間的に慰めるよりは相手が神様の御言葉通り行って、まず魂に幸いを得ているように導かなければなりません。

ところがヨブが友達に自分を憐れんでほしいと言っています。ここでは私たちはヨブが肉の人であることが分かるでしょう。肉の人はこのように慰められたいと思って褒められたいと思い、自分をわかってほしいと思うけれど、そうでなければ不満を抱いて苦しむのです。クリスチャンの中でもそういう場合があります。聖徒が主のしもべのところに行って相談するとき、真理で答えを教えるのにその人はすっきりしないのです。真理は許しなさい、理解しなさい、祈りなさいですね。でもその答えが気に入らないのです。だから自分と親しい人のところに行って、あれこれ愚痴を言って慰めてもらいたいと思うのです。

それは霊的には何の益にもならないことなのにそうするのです。自分が試練にあって今は辛いから寂しいから、だから主のしもべのところに行って霊的な答えを受けようとしないで、世の友達に会って、あれこれ不満を言いながら慰めてもらいたいと思うのです。肉の人の姿なのです。そのように不満を言って文句を言って人の陰口を言って、あれこれ噂話をして、そうすると胸がすっとするでしょうか。それは束の間だけです。それで問題が解決されるのではありません。霊的な忠告を受けなければなりません。真理のみ言葉を聞こうとしなければなりません。 祈りなさい、神様に求めなさいとか、その人のために祈りなさいとか、善を行いなさいというこの霊的な答えを聞き入れなければならないのです。それが今すぐにはすっきりする答えではないかもしれないけれど、それを聞き入れて努力していけば霊的に問題が解決されるようになるのです。聖霊様が働いてくださるからです。しかし肉の答えを受けたいと思う人は、そのような霊的な答えに耳を傾けないのです。それでだんだんもっと試練が多くなったりするのです。どれほど愚かな姿でしょうか。肉の人はそうです。だから皆さんにもそういう姿があるなら悔い改めなければなりません。 続く本文を読むとヨブはさらに話にならないことを言っています。ヨブ記19:22です。 なぜ、あなたがたは神のように、私を追いつめ、私の肉で満足しないのか。(ヨブ19:22) 私は自分の過ちでこんな目にあっているのではない、神様が私を打ったからだ。それなのにあなた方も私を迫害するのか。ヨブは神様が自分を追いつめていると決めつけていて、友達も同じように自分を苦しめていると言っています。わたしの肉で満足しないかとも言っています。友達が自分を追いつめてこんなふうに自分はやつれてしまったのに、まだ気が済まないのかと言っています。ヨブは友達が言っていることを受け入れないし、イライラして言ってストレスを受けたのです。友達があなたは悪い、間違っているとずっと指摘して責めているから、それを聞いているヨブは精神的にどれほど疲れたでしょうか?それですごく悩んでストレスを受けるから、どんどん痩せていきました。だから友達が自分の肉を食べると表現したのです。このようにヨブは自分が痩せる理由を神様のせいにして友達のせいにしていますが、実はヨブが自分で自分の肉を削っていました。 もしヨブの心が良くて柔和な人だったなら、ストレスで痩せることはないでしょう。人の心が鉄板とかコンクリートのように固いなら、相手が悪い言葉で攻撃すると耐えられません。固い鉄板に石を投げるとどうなりますか?強くぶつかってやかましい音がします。このように心が頑なな人が不当なことを言われると、はらわたが煮えたぎって夜眠れないこともあります。今すぐ行って言い訳をしたり、問い詰めて怒鳴ってこそ胸がすっとするでしょう。皆さんの心も顧みますように。 もし誰かに誹謗中傷を言われたことや、誤解されたことでストレスを受けてどんどん痩せるなら、それだけ自分の心が頑なだと分かればいいでしょう。最近私たちは現代の社会では環境が豊かだから反対にストレスを受けると食べ過ぎてしまい太る場合もあります。人の話とか周りの環境のため精神的に疲れて悩んで、いろいろな現象が起こるのです。人それぞれ違うでしょう。皆さんはどうだったのか顧みますように。そして人のせいにしたり、環境のせい、家族のせいにして、その為こんなに私はつらいと思いながら食べ過ぎてしまったり、そうでなければ痩せてしまったりすることはなかったのか顧みますように。 反対に綿に石を投げるとほんわり包んでしまうから音がしません。このように私たちの心が綿のように柔和で良い心なら、誰とも対立したり言い争そったりしないでしょう。いくら石のような心を持っていた人が攻撃してきても、愛と徳で包むから争いにならないのです。傷つくこともないからぐっすり眠れるし、よく食べて消化します。どんなことがあっても喜んで感謝して神様の愛で心が満たされていて、天国への希望があるから痩せ衰えるはずがないのです。ですから私たちは柔和な心を所有して相手を苦しめることを言ったり、相手を辛い思いをさせることがあってはいけません。 ヨブは友達の助言を受け入れることができなくてやつれていますが、友達は相変わらず責め続けています。相手の言葉を受けない人も問題ですが、彼を続けて指摘して苦しめる人も正しくはないのです。ヨブが友達の話を受け入れて認めていたなら問題が解決されていたでしょう。しかしそうでなかったからストレスで痩せていたのです。このようなヨブに向かって責め続ける友達も同じ罪を犯していました。本当に愛するなら相手の利益を求めて言葉も注意しなければならないでしょう。 皆さん。これまでヨブの立場に立ってメッセージを聞きましたか?皆さんがヨブと同じような境遇に置かれているならどうだったでしょうか?ヨブが今でも立ち返って神様の前に悔い改めて真理に従って喜んで感謝するなら試練は終わるでしょう。皆さんの問題も同じです。皆さんがどんな状況に置かれていても信仰の目で期待しながら、誰とも対立しないで柔和の心で仕えて真理を行うならどうなるでしょうか?神様は生きておられます。神様が憐れんで下さり、速やかに答えて下さり、問題が解決されるでしょう。神様は私たちの心が主に似た柔和な心になるように望んでおられます。ですから、皆さんが変えられて全ての人と平和を追い求めて家庭と職場で祝福され福音化され栄光を捧げますように。 時に問題にぶつかったり試練に会うとき、神様の前につぶやかないで不安を持たないで、真理に従って感謝しようと努力をしていきます。自分なりにやってみても問題は解決されないし、答えが見えないときはどうでしょう。それでだんだん疲れてしまって熱心が冷めてしまい、心の中でこっそり神様のせいにする姿はないでしょうか?人は自分がよくやったことだけを覚えています。しかし自分に欠けているところがたくさんあるのにそれは気がつかないのです。 初心のものが熱いとき少しだけ行ってもすぐ答えを受けますね。でも信仰歴もあってある程度信仰のある人々が初心の者のようにちょっと行うからといって、すぐ答えが来るでしょうか?そうではないのです。神様が望んでおられる基準が違うのです。そして神様の前に過ちとか罪を犯しているところがたくさんあるならば、もっと答えを受けるのは遅くなってしまうのです。ですから自分がやっていることだけを考えて神様に不満を抱くのではなくて、自分に欠けているところを正確に発見しなければなりません。 神様は正確な方です。私たちのすべての行いと口の言葉と心と思いを全部知っておられます。今日のメッセージは肉の人と御霊の人ですが、これはヨブの姿だけではなく、私たちも自分を顧みるようにするためです。自分は肉の人なのか、御霊の人なのか、ヨブの姿を見ながら、自分の心も口の言葉もまた考えていることも、一つ一つ細やかにチェックしてみなければなりません。そして、自分の姿を客観的に見つめ直さなければなりません。自己中心的な考え方ではいけないのです。 皆さんは初心の者ではないでしょう。又、多くのメッセージを聞いているでしょう。ヨブ記講解を通して、自分が何故試練に遭っているのか、何故問題が解決されないのか、その原因を正確に発見して回復しますように。 結論です。 愛する皆さん、今日はヨブの姿を通して、指摘されたり責められるとき、どんな姿勢でいるべきかについて調べてみました。肉の人は相手が自分をわかってくれて慰めてくれれば嬉しいけれど、そうでなければ不満を抱きます。ヨブは友達や周りの人を恨みながら、友達の指摘や失責によって自分がストレスを受けてやつれていると言いました。しかしそれは肉の人の姿です。肉の人は誰かが嫌味を言ったら、それによって悩んで辛くなって反論したくなって言い訳をしたいのです。そうでなければ夜眠れないし消化不良になったりイライラします。しかし御霊の人は自分を顧みます。自分に必要な指摘だったなら当然感謝して受けるでしょう。訳もない悪口だったならただ聞き流せばいいのです。だから、ストレスを受ける理由がないのです。 私たちは誰かが自分の悪口を言ったり嫌味を言うならば、それによって嬉しい人はいないでしょう。相手がそんな悪を行っているから悲しいでしょう。しかし御霊の人はそのため自分が傷つくことはないのです。自分とは関係ない言葉だからです。悪いことを言った人はその人の悪の為その人に報いが臨むから心は痛むのですが、それによって、自分が傷ついたり、ストレスを受けることもないし、自分の信仰に悪い影響を受ける理由もないのです。しかし、人に認められたいとか、人にわかってほしいと思う人は、人に何か言われたら、そのため自分が傷ついたりするのです。それが肉の人の姿です。 皆さんはこのように自分がどんなことで傷つくのかストレスを受けるのか顧みますように。肉の人と御霊の人にはこのように大きい違いがあります。神様はヨブがまだ肉の人だから彼を御霊の人になるようにするために練っておられます。私たちも同じです。私たちは神様の子供です。神様は聖なる方で完全な方で傷もしみもない穢れのない方です。エペソ1:4に「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」とあるように神様は子供である私たちが聖く傷のないものになるように望んでおられます。それで心による肉の属性を発見して捨てるように、試練に遭って変えられるようにしてくださいます。その試練の過程を経て、私たちは変えられて神様の心を理解するようになり、その試練の過程が大切な経験になるのです。そして他の人も変えさせることができるようになります。 そして天国にいた時は真の感謝と幸せを味わうようになるでしょう。この地上でも試練が大きい分、後で受ける祝福も大きいでしょう。ですから神様の前で練られるとき、ただ感謝しながら様々な試練にあったときはこの上もなく喜びますように。信仰が試されると忍耐が生じて、その忍耐を完全に働かせれば何一つ欠けたところのない成長を遂げた完全なものになります。ヨブ記のメッセージを聞いて自分の信仰をチェックしてみますように。それで真の子どもとして新しいエルサレムまで激しく攻めていきますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈ります。父なる神様、今日ヨブの姿を通して肉の人の姿はどうなのか調べてみました。そして自分を比べてみて自分はヨブのような人ではないか顧みました。肉の愛を捨てて霊の愛を所有して、指摘されて責められた時、自分の過ちを認めないで言い訳をする姿ではなくて、へり下って自分を認めて悔い改めて立ち返って変えられて発展していくようにしてください。それで試練の時にさらに喜ぶようにしてください。感謝してイエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

「ヨブ記講解50-肉の人と御霊の人」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:17~19

愛する皆さん、前回は肉と霊の価値について伝えました。肉は変わってしまい本物ではないので肉の信仰を霊の信仰に変えなければなりません。肉の愛を捨てて霊の愛を所有しなければならないと言いました。肉の信仰は形式的な信仰生活はできます。礼拝に出席したり祈ったり奉仕をすることはできます。しかし神様が望んでおられる霊の信仰は心の割礼をすることです。しかし肉の信仰のままならば心の割礼はしないで、ただうわべだけで熱心なだけで、口では神様愛していますと言いますが、それは本物の信仰ではありません。神様は私たちを愛してくださるから、そのような肉の信仰のままではいけないから、試練に遭うようにして信仰が成長するように霊の信仰を持つようにしてくださるのです。そして試練に遭うのは自分の心にある悪や罪が原因の場合が多いです。

自分の利益を求めて自分の欲や私心によって試練に遭った時それを神様のせいにしたり、守ってくださらなかったことについて不満を持ってはいけません。自分が肉の信仰のままで心の割礼をしていないから、そのような苦しみにあうようになるのです。自分ではちゃんとしていたと錯覚していたのです。本当に神様を信じる人ならば、そういう時も自分を顧みて神様により頼むでしょう。そして自分の肉の信仰を反省して悔い改めて、霊の信仰に変えていかなければなりません。そのために神様はヨブを練ってくださっているのです。そして肉の愛は価値がないことをも悟れます。皆さんもこの世を生きていると人との間で人間関係で、肉の愛のためつらい思いをしたりすることもあります。しかし私たちは神様を知っていて霊の愛の価値を知っているから、肉の愛を捨てて霊の愛を所有していきましょう。霊の愛は変わらないし美しくて本当に価値があります。しかし肉の愛は自分の利益に合わなければ変わってしまう、朽ちてしまう価値のない愛です。

ヨブが前、裕福だった時、多くの人に希望を与えて助けましたが、いざ試練に会うと、皆がヨブから離れてしまいました。兄弟も背を向けて、親戚もヨブを見捨てました。親しい友も彼を忘れました。しもべたちさえヨブを他国人のようにみなしました。これは肉の愛だったからです。今日もヨブの境遇を調べながら肉の無価値を悟る時間になります。皆さんがヨブと同じ目にあったと思って、ヨブの身になってメッセージを聞いてみますように。ヨブのような境遇に置かれたなら私はどうしただろうか、厳しい試練に勝つことができただろうか、誰かが指摘すると喜んで受け止めることができるのか、文句とか言わないで喜んで感謝できるのかなどを考えながら聞いてみれば、更に恵みを受けるでしょう。又、私もヨブのようにしたかもしれない。もっとひどかったかもしれないと思うなら、今から変化の始りです。そして悟った悪と肉の属性があるなら、それを捨てるために熱く祈って、その罪と悪を憎むようになると、速やかに捨てることができます。

しかしメッセージを聞いて、頭ではそうなんだと、悟ったとしても、肉の愛は変わるものだ、霊の愛を所有しなければと考えるだけでは実際変えられません。肉の愛を持って近づいてくる異性や人に慰められたいし、それがいいと感じるからです。そして自分の中に肉の愛があればしてもらいたいと思いそうでなければ不満を抱いて、見返りがなければ辛くなったりします。人の中にある肉を求める属性があります。そして肉の愛を求める姿もあります。人に慰められたいと思ったり人を頼りにしたりするそういう肉の姿を速やかに捨てなければなりません。自分の心や考え、日常生活で自分が感じることなどを、一つ一つ顧みなければなりません。そしてヨブのメッセージを聞きながら、ヨブの姿から自分を発見してみますように。
 

ヨブは今自分が置かれている環境について不満を言っていますが、私たちは肉の愛がどれほど虚しいものなのかをそれを通して悟ることができます。ですから自分に適応しますように。肉の愛はこんなに虚しいものなんだ。束の間のものなんだ。だから人に頼るのではなく、全知全能なる神様にだけより頼もうと強く思わなければならないでしょう。そして人にしてもらいたいと思うのではなくて、自分から進んで仕えればいいのではありませんか。そうしないで、ただヨブはこんなふうに試練の時、神様のせいにして、人のせいにして、こんな思いをしていたんだと考えて終わってはいけません。ヨブの姿から自分を発見して、真理のみ言葉で自分を照らして変えられなければなりません。私もヨブのような姿はないのか?心に深く潜んでいるそのような悪はないのかを徹底的に悔い改めなければなりません。 そうしないでただ真理を聞いているだけで、心を変えていなければどうなるでしょうか?御霊も悲しまれるでしょう。自分も苦しいでしょう。だから自分の中にある肉の愛を早く捨てましょう。そして自分の利益を求める姿も早くやめましょう。自分の中に肉の愛があれば、相手にも自分がやった分をしてもらいたいと思い、それがなければ虚しいと思ったりします。それは悪でしょう。だから肉の愛を捨てて、霊の愛を所有しなければなりません。日常生活でそういう姿があって、人のことで傷ついたりまた辛くなったりすると、その時相手のせいにするのではなくて、自分の中に肉の愛があるんだと思って悟って変えなければなりません。移り変わって朽ちてしまう肉の無益さと醜さを悟って、肉の愛を求める自分の姿を顧みて、変えられるために切に祈らなければなりません。 肉の属性が動き出すときすぐ悟って、自分の思いと心を変えて納めるべきです。人にしてもらいたいと思ったり不満を抱いたとき、すぐ悟ってこれをやめなければと思って、ただ人に与えて仕えなければとそのように変えていかなければなりません。自分が人にしてあげた分、してもらいたいと思うことがあってはいけません。そして、してもらえなければ相手にすることも、このヨブ記メッセージを聞きながらこれが肉の愛なんだと悟るでしょう。そして変えられるために祈っていけば、神様が恵みをくださって実際変わることができるのです。そして、主の愛と神様の愛と真理で心を満たしていけば、霊の愛を行う御霊の人に変えられるのです。今日、ヨブの姿を通して、自分の中にある肉の属性を発見して、変えられる恵みの時間になりますように。 ヨブ記講解がもう50回目です。皆さんがメッセージを聞き始めた時と今と比べてみてください。どのくらい変えられたのか、ただ知識としてヨブ記講解を聞いて、肉の知識を持っているのではなくてそれが霊の知識になって、心が実際変えられているのか行いが変えられているのかを、顧みますように。うわべだけの信仰生活をしてはいけません。メッセージを聞くときは恵みを受けたと思っても、実際自分のものにはなっていないのです。すると試練が終わらないし続くしかないのです。 ヨブ記19:17です。 私の息は私の妻にいやがられ、私の身内の者らにきらわれる。(ヨブ19:17) 私の息は私の妻にいやがられとは、妻がヨブがそばにいることをいやがるという意味です。ヨブではなくて妻の方から拒むのです。一番身近な妻が夫をいやがるなら他人はどうでしょう?そして身内の者らとは家族のことだけを言うのではなくて、いつもそばにいて一緒に心を分かち合った人々を言っています。私の身内の者らにきらわれるとはヨブが試練に合うと妻だけではなく、心を分かち合っていた人々まで背を向けてしまったということです。このように自分の利益に合わなければ変わってしまうのが肉の愛です。ですから私たちはこのような肉の愛を捨てて、心を霊に変えて霊の愛を所有しましょう。まわりの人がもしかして人間関係のことで、肉の愛のため悩んでいたりする姿があるでしょうか?肉の愛を求める姿は愚かではありませんか。自分を愛してくれる人は変わらないと思いますか?それが肉の愛なら変わってしまうのです。世の中で変わらない愛があるでしょうか?肉の愛は変わってしまいます。 自分の家族のために命までかける人がいるにはいるけれども、私たちは霊の愛を追い求めなければなりません。すべての人を愛さなければならないのです。そのような人になるためには、心を霊に変えなければなりません。自分の心からまず変えていかなければならないのです。自分から変わらなければなりません。まわりの人にしてもらいたいと思ってはいけません。このような霊的な原理を知っていながらも、肉の愛を求めて辛い思いをする人もいます。どれほど愚かな姿でしょうか。ヨブが今なぜ試練に遭っているのかを考えてみましょう。続く本文を読むとヨブがどれほどひどい目にあっているのかがわかります。 ヨブ記19:18-19です。 小僧っ子までが私をさげすみ、私が起き上がると、私に言い逆らう。私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた。(ヨブ19:18-19) 自分の姿がみじめでみすぼらしいから、子供たちもさげすんで言い逆らっていると言います。家が滅びてしまい全身は皮膚病にかかっていて、ヨブの言葉と行動も前と違うから、小さい子供も彼を無視しています。また親しい友達もヨブを嫌っているし、彼を愛した人々は今は敵のようになっています。ここで愛した人々とは、友達とか妻、又は親戚や隣人も当てはまるでしょう。ヨブは 絶えず呟いて嘆いて相手の話を聞かないで言い争っているから、周りの人々も彼をうっとうしいと思うようになって、相手にしたくないのです。私たちの周りにもこのような場合があります。 例えばAという人が前は多くの人を助ける位置にいたのですが、ある日滅びてしまいました。そしたら普段彼に助けてもらった人々が来て、こうすればいいああすればいいとアドバイスをします。この時Aは前彼らを助けてあげたことだけを思って、偉そうに何を言っているのか、私に指示するのか、私はお前たちより何でも優れているのに、昔受けた恩を忘れたのかと思って、彼らのアドバイスを無視して聞かないのです。するとアドバイスをした人々は怒って、失敗者の癖に高ぶっているのかと言いながら敵意を抱くようになって背いてしまう場合があります。仲違いになってしまいます。 しかしこの時、相手が自分のアドバイスを受け入れなくても、以前自分が受けた恵みを最後まで忘れてはいけないでしょうが、ほとんどの人の心はそうではありません。自分は良かれと思って相手にアドバイスをしたのに、相手が無視して聞かないとしましょう。そして前は私が助けたのにと言っても、それを聞いて気を悪くしたりするのではなくて、前受けた恵みを忘れないで、何としてでもその人のために助けようとしなければならないでしょう。そのような人を神様が喜ばれるでしょう。クリスチャンならなおさらでしょう。ルツが道理を尽くした善について聞きました。だから恵みを受けた人に対しては変わらずに道理を尽くさなければなりません。そういう人を神様は覚えて祝福してくださいます。 ヨブの友達とか親戚、隣人はヨブにそうではなかったのです。ヨブに背いてしまったのです。友達もヨブの為に助言をしていたつもりですが、聞かないからヨブを責め立てて不満を抱いてもっと強く激しく反論しているのです。しかし彼らに対するヨブの姿も正しくありません。自分の身の上を訴えようとするのではなく、自分が相手より優れているという思いも捨てて忠告を聞き入れるべきですが、かえって高ぶって言い争うから相手はさらに彼をさげすんでいるのです。遠ざけるのです。私たちは試練に会うと自分を低くして現実を認めて、指摘と忠告を素直に受け入れて感謝して、自分を顧みて立ち返ってこそ神様に祝福されます。 聖書を見ると預言者が王を指摘するとき、言い訳をしたときはさらに大きい懲らしめが臨みました。反対の場合、それを受け入れて悔い改めれば祝福されました。指摘されたとき、それを受け入れないで高ぶっていた人は退けられました。代表的な例としてサウル王が挙げられます。第一サムエル記15章を読むとサウル王は自分の誤ちが指摘されたとき、それを認めないで言い訳をしていました。神様はアマレクを打ってそのすべてのものを聖絶せよ、容赦してはならない、男も女も子供も乳飲み子も牛も羊もラクダもロバも殺せと命じられました。ところがサウル王はアマレクの王を殺さないで生け捕りにしてきました。そして肥えた良いものは惜しんで殺さないで、つまらない値打ちのないものだけを聖絶しました。それでサムエルが神様の前に聞き従わなかったことを責めたらサウル王は言い訳をします。そして民のせいにしていました。 第一サムエル記15:20-21です。サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主は私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガクを連れてきて、アマレクを聖絶しました。」と言っています。今サムエルが来て、なぜ神の御声に従わなかったのかと指摘していました。しかしサウル王は自分は聞き従ったと言っています。命令された通りにしていると言っています。預言者に指摘されたのに、このようにそうじゃないと言っているのです。例えば神様が十を命令されたときその中で七、八ぐらいはしたから、私は従いましたという人もいますが、それは完全に従ったと言えないでしょう。ただサウル王は聞き従わない罪を犯しました。それなのに自分は神様の御声に聞き従ったと言っているのです。 そしてアマレク人の王アガクを連れてきてアマレクを聖絶しました。しかし民はギルガルで、あなたの神、主に金を捧げるために聖絶すべきものの最上のものとして、分捕りものの中から羊と牛を取ってきたのですと言いました。そして民の前で自分の面目を立ててほしいとサムエルに言いました。自分の過ちを認める人なら神様の場合に徹底的に悔い改めるのはもちろん、人の前でも許しを求めて謙遜になるでしょう。しかしサウル王は自分の過ちを認めるどころか言い訳ばかりしていました。結局神様はこのように立ち返らないで罪を犯すサウル王を退けられました。 次に北イスラエルのアハブ王の例があります。当時北イスラエルでは王妃イゼベルが持ってきた偶像バアルによって全国に偶像礼拝が蔓延していました。偶像礼拝は神様が厳しく禁じて、とても嫌われる罪です。神様はエリアを通してイスラエルに数年間雨が降らないことを予言するようにしました。しかしアハブ王は悔い改めるどころかエリヤを憎むようになります。神様のお言葉を伝えたエリヤなのに、そしてアハブの罪によって国にこのような災いが臨むと神様の預言を伝えたのに、悪い人肉の人はそれを受入れないで、それを告げる人を憎むのです。皆さんはそうでないのか考えますように。誰かが指摘をするときそれを聞き入れて感謝していたのでしょうか?でなければ偉そうに私を指摘するのかと聞きたがらないのならば、神様の前で悪い姿でしょう。その結果は滅びに向かうのです。 アハブ王と王妃は雨が降らないのは自分たちのせいで、偶像礼拝のせいなのに自分の過ちだと思わないでエリヤのせいだと言います。エリヤが呪いの言葉を告げたからだと言いながらエリヤを殺そうとしました。悔い改めない人悪い人はこのように言い訳をしながら、理由をつけて他の人のせいにして自分は顧みません。エリヤが指摘してくれたとき、その時でも立ち返ったならよかったのに。神の人に立ち向かったから、結局アハブはもちろんその子孫まで、惨めな結末を迎えてしまいました。 次に南ユダのアサ王はどうでしたか?アサ王は一時神様を恐れて国から異なる祭壇ともろもろの高きところを取り除き、偶像礼拝をやめさせました。神様のおきてと戒めを民が守るように命じました。母親が偶像礼拝をしたら太后のくらいから退けました。民が偶像礼拝に染まらないようにするためでした。しかし歳月が流れるとアサ王は心が変わってしまい、神様を恐れないでだんだん人に頼るようになりました。北イスラエルの王が南ユダに攻め上ってきたら、アラムの王に助けを求めました。前もこのように戦争の時神様に頼って勝利したことがあるのに、今は隣の国の王に助けを求めました。そのことで予見者ハナニに責められましたが、アサ王は彼を獄やに入れて、民を虐げました。このように神様に背いたアサ王は治世39年に足が病気にかかり、主を求めないで医者を求めてしまいました。それで結局2年後、癒されずに死にました。信仰の行いがなかったし、神様に求めなかったから、全能なる神様も何もしてくださることができなかったのです。 これとは反対に預言者に責められた時、感謝して低くなって受けた人は神様に祝福されたことがわかります。ダビデ王がそうでした。ダビデ王は目の情欲のためウリアの妻バテシバを自分の妻にしました。彼女が身ごもったらそれを隠蔽するために、彼女の夫のウリアを戦いの場から呼び戻して、家に寄って行きなさいと言いました。自分が罪を犯して相手が身ごもったら、その夫を戦いの場から呼び戻したのです。国と王のために今戦っている人を呼び戻して隠蔽するために、ウリアを彼女がいる家に入りなさいと言いました。しかし正しいウリアは戦いの中なのに自分だけ家に入って休むことはできないと断りました。それで家に行かなかったのです。ダビデは思い通りにならないと、このように忠実な部下のウリアを戦いの前に立たせて死なせました。 神様は預言者ナタンを使わせてダビデの罪を指摘されました。第二サムエル記12:9です。「それなのに、どうしてあなたは主の言葉をさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」と責められました。このため大きい試練と報いが伴うことも言われました。するとダビデは言い訳をしないで、直ぐ低くなって徹底的に悔い改めました。このような心からの悔い改めをご覧になって第二サムエル記12:13で「主もまたあなたの罪を見逃してくださった。あなたは死なない。」と言われました。徹底的に心から悔い改めたから神様もその罪を見逃してくださって今すぐ死ぬことはない。と言われました。こういう姦淫の罪は救われないかもしれないのですが、徹底的に悔い改めたから許してくださいました。しかしそれで終わったのではありません。 その後ダビデは罪による報いとして大きい試練に合わなければならなかったのです。悔改めた後もその罪による報いが、試練と苦しみとしてやってきたのです。息子のアブシャロムの反逆が起こりました。それでダビデは逃れていくようになりました。このため多くの悲しみも経験しました。ところでこのような試練を受けている時もダビデはどうしましたか?罪が指摘された時もすぐ悔い改めて謙遜に許しを求めて悔い改めました。そして神様もそれを見て許してくださったのですが、その罪による報いを払わなければ、代価を払わなければならなかったのです。王だったのですが息子が反逆を起こして王座から追い出されるようになりました。また辱しめを受けました。このような試練にあったときダビデは誰のせいにもしないで、徹底的に自分を低くして感謝していきました。 これが心から悔い改めた人の姿です。神様が許してくださったのになぜこういう試練が来たのかと嘆くのではなくて、自分のせいにして感謝したのです。そして逃げていく途中、民のシムイという人がダビデ王と家来に向かって石を投げながら呪いました。そしたら家来が彼を殺すと言いました。今ダビデ王が追われていても周りに家来もいて一行がいたのですが、シムイがダビデを呪っているから彼を殺すと言いました。しかしダビデ王はどう言いましたか?彼がその人を殺すようにしておいたのではありません。もし自分が今不当な目にあっていると思って悔しいと思ったり怒っているなら、彼がそう呪うと気にさわるでしょう。しかしダビデはそうではありませんでした。 第二サムエル記16:10です。「彼が呪うのは『主が彼にダビデを呪え』と言われたからだ。放っておきなさい。」と言いました。そして12節「たぶん主は私の心をご覧になり、主はきょうの彼の呪いに変えて私に幸せを報えてくださるだろう。」と言って、全てを神様のみ手に委ねました。それならシムイは今タビデが試練にあっているとき彼を呪ったのですが、それによってタビデの心がもっと変えられたとしても、道具としてよく用いられたからよかったでしょうか?そうではないでしょう。そんなことがあってはいけないでしょう。どれほど悪い姿でしょうか。ダビデはそういうシムイにも神様が主がそうなさったのだと言いながら、この呪いに変えて幸せを神様が報いてくださると信仰の告白をしました。ヨブとは全然違う姿でしょう。ヨブは友達の指摘を受け入れないで言い争って友達を咎めました。また神様が自分を苦しめていると神様のせいにしました。しかしダビデは厳しい試練にあっても低くなって感謝したら、すべての罪が許されて更に深い善と愛を持つことができました。神様はダビデの心を知っておられたから、私の心に叶う人だと誉めて神様の御心をなし遂げられました。 ダビデが試練にあっている時の姿を見てみると、神の人の姿は違いますね。そしてダビデが試練にあったら家来と民の中で二つの部類に分かれました。ダビデにつく人がいてアブシャロムにつく人もいました。ダビデを裏切ってしまいダビデを呪う人がいました。しかしダビデについていてダビデを助ける人がいました。神様はどちらの味方になってくださいましたか?ダビデの味方になって、ダビデを裏切った人々はその結末が惨めでした。ダビデを助けた人々は栄えました。ですから私たちは全てのことにおいて善を選び神様の真理に従わなければなりません。すべてのことにおいて自分の欠けているところを認めて指摘されたら、謙遜な心で受けて感謝すれば神様が恵みをくださり変えられるように導いてくださいます。 サウル王とかアハブ王、アサ王、ダビデ王を比べてみるとその心遣いや器が全然違うのがわかります。私たちは誰かに指摘されて忠告を言われても、素直に自分の欠けているところと過ちを認めなければなりません。指摘する人が目上の人の時はもちろん、同僚や目下の人でも感謝して間違っているところを直そうと努力しなければなりません。あの人が私を憎んで指摘していると思っては、発展することはできません。忠告して指摘してくれる人のおかげで、自分の欠けているところを発見して変えられることに感謝しなければなりません。ですからいつも謙遜な心で他の人の助言に耳を傾けて自分を発見して、昨日よりは今日、今日よりは明日がもっと発展していきますように。

「ヨブ記講解49-肉と霊の価値」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:12~16

続くヨブ記19:12です。
その軍勢は一つとなって進んで来、私に向かって彼らの道を築き上げ、私の天幕の回りに陣を敷く。(ヨブ9:12)

ここで軍勢とは実際の兵士たちを言うのではありません。ヨブの友達を意味しています。友達がヨブをどれほど苦しめたなら、軍隊と表現するでしょうか。友達がヨブを強い口調で咎めて、言い争っている姿をヨブは、軍勢が一つになって進んでくると例えていました。たとえば人々が非常に気が強い人を表現する時、誰々は虎のようだ、ライオンのようだと言うでしょう。そして私に向かって彼らの道を築き上げとあります。これはどういう意味でしょうか?築き上げるとは土や石などを積み上げて建造物を完成させることですが、これはいい意味で言っているのではありません。ヨブは友達を咎めるために、違う意味で今言っているのです

皆さんいつ友達が来て、ヨブのために道を築き上げましたか?そんなことはないでしょう。ここで軍勢が一つになって進んで来、彼らの道を築き上げるとは、友達がそれまでヨブにこれは間違っている、あれは悪いと言いながら、ヨブの話に言いがかりをつけて、自分たちの言葉が正しいと言い張ってきたことを意味します。つまり友達がヨブの行く道を妨げてヨブの話を聞かないで無視して、自分たちの言いたいことだけ言っていると言っているのです。友達がヨブを悪い人扱いして、ヨブの話を聞いてあげないで無視して、自分たちが言いたいことばかり言っていることを、彼らの道を築き上げたと表現しているのです。友達が自分を苦しめていたことを説明するためです。今自分がどんなに辛い思いをしているのかを訴えているのです。

次に私の天幕の周りに陣を敷くというのは、友達がヨブを軍隊のように取り囲んで攻撃しているということを言っています。ところでこの全ては神様がヨブを敵と見なしているから、友達に命じてそうさせたからだと言っています。このようにヨブは友達の過ちを全部神様の責任だと言っているのです。本当に理解できないヨブの話ですが、皆さんはヨブの惨めで苦しい境遇を理解してください。そしてこのような姿が私たちにもたくさんあるのです。それを悟ればいいと思います。自分が失敗して過ちによって何か結果が良くない時、神様のせいにすることはありませんか?そして相手が自分を苦しめた時、その人よりは神様が何で私を守ってくれなかったとか、神様がどうして放っておかれたのかと、神様の責任だと言ったりする場合もあります。そして主のしもべが他の聖徒に自分の悪口を言ったかのように誤解してしまうこともあって、悪口を言った主のしもべを恨んだりする人もいますが、事実も確認しないでそのように自分の思い込みである場合もあります。

それを発見して知らなければならないでしょう。日常生活で私たちが人を裁いて誤解することはよくあります。だからヨブの姿を見ながら、自分の姿に照らしてみて自分はどうしているのか考えてみなければなりません。私たちの心には多くの人を裁くことがあって、恨みがあって悪があるのです。続くヨブの告白を聞いてみれば、だんだん孤独と寂しさと苦しみが増していく姿がわかります。

ヨブ記19:13-14です。
神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れていった。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。(ヨブ19:13-14)

血を分けた兄弟たちも背を向けてしまい親戚も見捨ててしまったのに、親しい友達は助けてくれるわけがないと言っています。第一ヨハネ4:20「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるならその人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。これは家族の間でも同じです。血は水より濃いという言葉もありますが、普通人は他人よりは血でつながっている家族を優先することがあります。ところで、もし一番身近な家族にはよくしてあげないのに、他人にばかり優しく接するならこれは真実ではないでしょう。他人に認められようとする偽善と偽りにすぎません。このような側面から考えてみると、親しかった兄弟がヨブから顔を背けるくらいなら、その他の人々がヨブを遠のけることは当然なことだったでしょう。

ヨブが多くの富と栄華を味わって豊かだったときは、尊敬されて素晴らしい人だと褒められていました。周りの人に多く施しをして力づけてあげたからです。またヨブは親として愛も豊かで、子供たちと一緒に神様に生贄を捧げ、親戚にも隣人にも愛を与えていました。しかしこれは肉の愛だったことが、ヨブの今の現実が明らかに物語っています。ヨブがすべての所有物を失ったら兄弟たちも離れていき、親しかった知人が知らない人のように冷たい態度をとって、親戚もヨブを見捨てて、友達も関係がこじれてしまいました。このように肉の愛は移り変わるものです。自分の利益と合わない時は裏切ることもあります。その結果は紙一重なのです。物質で撒いたものは、その物質が消えてしまうと見捨てられるのです。権威で撒いたものは、その権威が落ちるとのけものにされます。このように肉において撒いたものは何の役にも立たないのです。ところでヨブは、周りの人は自分から離れていったことも、神様がそのように仕向けたのだと言っているのです。続く本文も、肉の愛の結果を明らかにしています。 ヨブ記19:15-16です。 私の家に寄宿している者も、私のはしためたちも、私を他国人のようにみなし、私は彼らの目には外国人のようになった。私が自分のしもべを呼んでも、彼らは返事もしない。私は私の口で彼らに請わなければならない。 過去ヨブは裕福だったので、家の中にはしもべも多くいて、多くの人が近づいてきました。しかし今ははしためたちさえ、主人であるヨブを他国人のように見なしています。外国人のようにしています。はしため達がヨブを無視して、ヨブが自分は外国人だと見なされていると言っています。主人に当然使えるべきしもべなのに、ヨブが呼んでも返事もしません。それで私は私の口で彼らに請わなければならないと言いました。つまりヨブはお願いして頭を下げてこそ、やっと聞いてくれることを言っているのです。しもべたちも自分を無視して、主客転倒になってしまったから、ヨブの苦しみと悲しみと痛みは言葉で表現できないくらいだったでしょう。 それに愛された人に憎まれ捨てられた時、どれほど苦しかったでしょうか。ヨブはあまりにも心が痛くて過去のことを振り返ってみています。ヨブに財産が多かった時、多くの人をもてなして施して面倒見てあげたのに、そして友達がお見舞いに来たのも普段ヨブに助けられたからでしょう。 ヨブは過去友達によくしてあげたことがあるから、今彼らの前で堂々とあれこれ言っているのです。 しかしヨブに返ってきたものは、蔑み、卑しめ、あざけりだけでした。それではここで私たちが得る教訓は何でしょうか。 肉と霊の価値に関することです。第一、肉の信仰を霊の信仰に変えなければならないということです。ヨブは神様を知識的に知っていて肉的に信じていたから、神様はヨブを練るしかなかったのです。神様を頭で知識的に信じていることでは、神様を見つけることも答えを受けることも、聖霊の声を聞くこともできません。だから試練の過程を通して、肉の信仰が霊の信仰に変わらなければなりません。皆さんヨブ記講解を見てみると大きいテーマがありますね。なぜ神様がヨブを練ってくださったのか、その理由です。なぜでしょうか。ヨブの肉の信仰を霊の信仰に変えるようにするためでした。肉の信仰だったことが、今ヨブが口にしている言葉と友達と言い争っている姿、 また神様を恨んでいる姿を通してわかりますね。 皆さんも自分の信仰が肉の信仰なのか霊の信仰なのかをいつもチェックしていなければなりません。自分なりに奉仕もしていて、集まりにもちゃんと参加していて、毎日祈っているけれど、何のためでしょうか。霊的な信仰生活でしょうか。祈ってはいるけれど、心の割礼はしていないならそれは大きい問題です。だからそういう自分を発見しなければなりません。毎日祈ってはいるけれど、ただ応えてください、祝福してくださいとばかり言っていて、本当に自分の深い心の底から神様の前に変えられるために、霊の信仰を持つために、心の割礼はしていないのです。 ただ聞いた知識的なことはあるから、私もマグダラのマリアのようになりたいですとか、口では言っているのですが、日常生活で実際そのような善は行っていないのです。職場でも同僚と揉めたり、そして嫌な上司がいるならばいなくなってほしいとか思うのです。でもそれが悪であることをみ言葉を聞きながら悟って、そういう自分の悪を捨てるために祈るべきでしょう。神様、私本当に悪い人です。ちょっと一言言われたら相手が嫌いになって、それでその人に会いたくないし、避けたいと思いました。これは私の悪のためでした。憎しみを捨てるようにしてくださいと、このように具体的に自分が変えられるために祈らなければなりません。だから祈ってはいても、相変わらず肉の信仰のままなのです。 ヨブは神様を恐れる人で、生贄も捧げました。うわべでは罪を犯していませんでした。子供のために代わりに生贄を捧げました。行いはそうだったのですが、心の割礼ができていなかったのです。だから試練の過程を通して、肉の信仰が霊の信仰に変えられるようにしてくださったのです。私たちもこのヨブを通して自分を顧みて、自分に肉の信仰があることを悟らなければなりません。そしてヨブの友達がヨブを責めている姿と、ヨブに対する憎しみとか、妬み、そねみなどを通して自分を顧みて、私にも妬みがあるんだ、憎しみがあるんだと思って、実際そのような霊の心に変えられなければならないのです。今日も神様を信じる人が試練に会う理由のひとつは、肉の信仰を霊の信仰に変えられるようにするためです。 ヨブ記講解を聞きながら皆さんは、神様の深い御心を悟っていると思います。皆さんは、聖められたいと走っているから、罪と悪を捨てようとします。ことさらに罪を犯す人はいないと思います。うわべでは罪を犯していないから、心に潜んでいる悪の性質は発見されない場合もあります。それで自分はよくやっていると思っている人がいます。誰かと争ったりする姿もないし、特に目につく罪を犯すこともないし、死に至る罪も犯していないし、でも問題は自分の心に潜んでいる悪がまだあるということです。それで心の中で人に対して、あの人は何でとか、もやもやしたり、そして思い込みによって、ああだこうだと傷つけてしまうことがあるのです。 口には出さなくても、顔には出さなくても、心の中でそのようにふとよぎる考えもあるし、そうでなければ、祈っているとき、同じ言葉を繰り返していたり、礼拝の時間に居眠りをしたりする場合もあるでしょう。大礼拝のときも聞いたでしょうが、聖霊に満たされていなければ、自分に問題があることを悟らなければなりません。毎日祈ってはいるけれど、なぜ聖霊に満たされていないのか?自分に霊的な問題があるからでしょう。それを悟ってそれを直していくならば、発見できるのですが、それを発見できないから問題なのです。だから、停滞しているしかないのです。その原因がわからない場合があります。自分の中にある悪または肉的なことを、大したことでないと思って蓋をしておいておくこともあるのです。私たちはそうではなくて、自分を顧みて詳しく一つ一つ明るみに出して変えられていかなければなりません。肉と霊の価値の違いについて、今日のメッセージを聞いて悟りますように。 第二は、肉の愛の虚しさと霊の愛の重要性です。肉の愛は自分の利益を求める愛です。結局は朽ちて変わってしまう虚しい愛です。しかし霊の愛は変わりません。すべての人がヨブから顔を背けて離れてしまった理由は何でしょうか?普段ヨブが彼らを肉の愛を持って対していたからです。今試練に会っている時、ヨブの口から出てくる恨みと不平などを見てみると、ヨブが肉の人だと分かるでしょう。こういう心でどうして霊の愛を分かち合えるでしょうか?ヨブが豊かだった時も人々に霊の愛を持って、接したのではないことが分かるでしょう。もしヨブに霊の愛が豊かだったならば、兄弟や友達に対する心が試練にあっても落ちて変わらなかったでしょう。自分が病気になっても苦しみにあっても、友達に対する愛も心も変わらなかったでしょう。だったら友達が何と言っても、それを友達が自分を愛してくれるアドバイスだと受けたでしょう。でもそうできなかったし、激しく言い争っているのです。罪に定めているのです。だからヨブには霊の愛がないんだと分かるでしょう。 このようなヨブの姿を通して皆さんは自分が霊の愛を持っているのか、肉の愛を持っているのか分かるでしょう。家族に対する自分の姿はどうなのか?自分と親しい人または自分が愛している人を大切に思っていても、それが本当に霊の愛なのか?でなければ肉の愛なのか?ヨブを通して顧みますように。そしてヨブは神様に対しても霊的に愛していたならばよかったのですが、そうできませんでした 霊的に愛していたならば、試練艱難に会ってもつぶやいたり不平を言わないで、最後まで忍耐して感謝していたでしょう。しかしヨブは神様に対する愛も完全ではなかったのです。このようにヨブの愛は肉の愛だったから、周りの人々が結局は彼から離れてしまったのです。 ヨブは裕福だったとき多くの人に希望を与えて助けたのですが、霊の愛ではなくて肉の愛だったから彼らはヨブを離れてしまい、何も残らなかったのです。第一コリント13章にあるように、寛容で柔和で相手の利益を求める霊の愛があったならば、彼らはヨブを離れなかったでしょう。このように人々が移り変わるのは肉の愛だからです。もちろん霊的に愛したのにも関わらず、相手は裏切ることもあります。イエス様を売り渡したイスカリオテ・ユダがそうでした。あまりにも心が頑な人でしょう。私たちはこういう悪い人になってはいけません。いただいた恵みと愛に報いながら、いつも変わらない愛を所有しなければなりません。自分達がそのような霊の愛を所有して、悪い人をも変えさせる力のある霊的な働き人になりますよう主の御名によって祈ります。 皆さん時には試練に会う時もあります。それで親しかった人々が離れてしまい、そうでなければ苦しめることもあるでしょう。そういう場合人のため悩むのではなくて、ああ私の愛は肉の愛だったと悟りますように。それでその肉の愛を霊の愛に変えていきますように。しかし人間関係のため悩んでいるならば、なぜ自分が試練に会っているのか、原因が悟れない場合もあります。ヨブを通してこのように肉の愛の虚しさを悟ったでしょう。だから自分にも適応してみてください。肉の愛の虚しさを悟って、私たちは霊の愛を所有しますように。相手のため人のため気を落としたりするのではなくて、霊の愛を持って変わらずに接しますように。 愛する皆さん、今日はヨブが寂しくてみすぼらしい身の上になったことと、肉の愛の虚しさと霊の愛の重要性について伝えました。聖書では変わらない霊の愛の例えがあります。それはダビデとヨナタンの愛が代表的でしょう。ヨナタンの父親はイスラエルの初代王のサウルで、ダビテはサウル王の臣下でした。ところがダビデが戦いに出て毎回勝利して民に愛されるようになると、サウル王は妬んでダビデを憎むようになって、殺そうとまで思いました。ヨナタンはサウル王の長男でした。王位を受け継ぐ後継者でした。しかし、私心とか欲がなかったから、王座を欲しがらなかったのです。ヨナタンは将来ダビデが王になることと父親が滅びることも知っていました。霊的に悟っていたのです。 ヨナタンはダビデを殺すのではなくて、かえって守ってあげました。サウル王が王位を守るためにダビデを殺そうと血まなこになった時、ヨナタンは危険を犯してダビデを救い出してあげました。第一サムエル記20:17「ヨナタンはもう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。」とあります。このようにヨナタンはダビデのために命も与えることができて、このような愛は死ぬ時まで変わらなかったのです。ヨナタンに対するダビデの愛も同じです。ヨナタンがペリシテ人との戦いで戦死するとダビテは断食して、かつその死を痛み悲しんで泣きました。王位についたダビテはヨナタンの息子のメヒボシェテイを探してサウルの財産を全部返して王宮で自分の息子のように面倒を見てあげました。このように霊の愛は自分に利益にならなくて害になっても、命を尽くして変わらない心で愛することです。何か代価を求めたり自分に良くしてくれるから愛するのではありません。何の条件もつけないで純粋に自分を犠牲にして相手のためにただ与える美しく価値ある愛なのです。 このような霊の愛とは反対に、ヤコブとエサウは肉の愛だったので一人の親から生まれた兄弟にもかかわらず互いに自分の利益ばかりを求めて、どうなりましたか?兄は弟を殺そうとして、弟は兄からのがれて逃げて行きました。愛して頼るべき兄弟が他人より劣る関係になってしまいました。このように肉の愛の結果は無価値で、肉と霊はこのように違いが大きいのです。ですから皆さんはすみやかに肉を脱ぎ捨てて、心を霊に変えていきますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日は肉の信仰と霊の信仰の違い、また肉の愛と霊の愛の違いについてヨブを通して悟りました。私たちはどんな信仰と愛を持つべきなのか、考えてみました。ヨブに肉の愛があってそれは虚しいものでした。私たちは朽ちてしまい、移り変わる肉の愛ではなくて、変わらない霊の愛を所有していくように祝福してください。感謝します。イエスキリストの名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解49-肉と霊の価値」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:8~11

前回、ヨブが友達に、神様が自分を捕まえるために網を仕掛けて、その中に閉じ込めて、屈服させたと言いました。神様が無理やり屈服させたと言いながら、相変わらず不幸の原因を神様のせいにしていました。神様とヨブの間に、真の信頼と愛の関係が築かれていなかったから、誤解して呟いているのです。またヨブは、いくら叫んでも答えがないし、自分があった悔しい目に対して弁護してくれる人がいないと言いながら訴えていました。しかし、私たちが祈っても答えがなく問題が解決されない理由は、罪の壁があるからだと言いました。誰でも罪の壁を壊して、立ち返って御言葉に従うなら、神様は全ての罪を許してくださるだけでなく、答えて祝福をくださるのです。

それで、癒されて答えを受けた方々の証を聞いてみれば共通点があります。病気にかかった時、問題にぶつかった時、ある方は病院に行って薬をもらって飲んだのですが、良くならなかったのです。その時、これまで聞いたこの聖めの福音を思い出して、自分を顧みて、罪の壁を壊すために悔い改めた後、祈りを受けたら癒されたという証がありますね。これが癒される原理です。祈っても答えがないのではありません。ある人はこのような話もしていました。癒しの集会は2ヶ月に1回ぐらいあるから、毎回参加して病人登録もしたのですが、癒されなかったのです。自分ではなぜ癒されなかったのか原因がわかります。それで、もうこのままではいけないと思って決心して、悔い改めて自分を顧みて、切なる心で祈って参加したら癒されましたと証する方もいるでしょう。このような証を聞いてみれば、真理の御言葉どおりに答えられる原理がありますね。

しかし、この原理を知らないまま、ヨブは自分はいくら叫んでも答えがないと言っているのです。神様が自分を見捨ててしまったと誤解しているのです。しかし、自分が真理を知らないからでしょう。神様を恨んでも何の役にも立たないのです。癒しの集会に参加して、まだ答えを受けていない方がいるなら、今日、定めの祈祷会に参加して、悔い改めれば答えを受けるかもしれないし、このような答えを受ける原理を悟ってその通りに行えばいいでしょう。今日ヨブの告白を見てみると、相変わらず言い訳とつぶやき、神様を誤解する姿があります。それはヨブが肉の人だからです。そして神様を知識的に知っているだけで、直接見つけた体験がないからです。このメッセージを聞いて皆さんも自分を顧みて、自分の中の肉的なことを捨てて、御霊の人に変えられますように。ヨブは相変わらず神様を誤解しています。次のように言います。ヨブ記19:8です。

神が私の道をふさがれたので、私は過ぎ行くことができない。私の通り道にやみを置いておられる。(ヨブ19:8)

神様が自分の道を塞いで、自分は過ぎ行くことができないと言っています。ヨブの道はどんな道でしたか?彼は穀物をまいて刈り取り、飲み食いして宴が好きでした。良い心があったので、隣人には分け与えて施しもしました。ところが神様がこのようなことをふさがれたというのです。しかしこれはヨブが御霊の人になるようにするためでした。私の通り道に闇を置いておられるとヨブは言っています。皆さん、人が道を歩んでいるのに、突然暗闇が目の前を覆うのなら、どれほど驚いて絶望するでしょうか。ヨブは自分は良い環境と未来に向かって進んでいたのに、神様がその道を闇でふさいでしまったと言いながら、自分の辛い思いを訴えているのです。全ての財産も子供たちも失ってしまい、妻も友達も自分を見捨ててしまった状態、何の希望もないし喜びも消えてしまった状況を闇に例えています。しかしこれはヨブが神様の心をあまりにも知らないから言っている言葉です。

 

神様はヨブの正しさと潔白な行いを知っておられたから、彼に真の祝福を与えるために練ってくださって、この過程で私たちが教訓を得るように聖書に記してくださいました。神様は子供たちがどんな試練や困難にあっても揺るがない信仰で、神様の前に感謝して、御心のままにしてくださいと告白できる心になることを望んでおられます。これが真の信頼関係なのです。親が子供に悪いことをさせたり、害になる道に導くわけがありません。子供がそれを信じるなら、苦手なことでも難しそうに見えることでも喜んで従うでしょう。今、自分の目には難しそうでも、でも親を信じるなら親が私のために私を思って言ってくれるのだと信じるなら、従うことができるでしょう。これまで親が自分によくしてくれたことを信じるからです。

しかしこのような信頼と愛がなければ聞き従わないのです。そして口応えをするでしょう。言い訳をするでしょう。それは相手を完全に信頼していないからです。私たちと神様の関係も考えてみなければなりません。ヨブにはまだそのような信頼関係がなかったから練られているのです。神様は私たちが神様の前に完全な信頼を見せることを望んでおられます。そのような信頼を示すなら、敵である悪魔サタンは一つの道から攻撃しても七つの道に逃げ去るしかないし、どんな障害物も問題にならないし、ただ栄える道に導かれるでしょう。肉の人が自分の考えで、今の道は失敗しそうに見えても、しかし神様に導かれるなら、結局はその道は成功の道になります。ヨセフがそうでした。 私たちはこの道の先に何があるのか知っているでしょう。その最後には栄光があり神様の祝福があります。それで私たちは今の苦しみによって悲しむのではなくて、希望を持って神様を信じる信仰があるから、従っていくことができます。ヨセフがそうでした。神様を信じていたから、試練の過程でも不満を抱いたり不平を言ったりしませんでした。しかしヨブは今自分があまりにも苦しいから神様の前で呟いて神様のせいにして、神様は悪い方だと誤解してしまいました。だからこれが間違っているのです。ヨブはまだ霊の信仰を持っていなかったから試練の過程で、彼の肉の信仰が明らかになっています。本文ヨブ記19:9でヨブは言っています。 神は私の栄光を私からはぎ取り、私の頭から冠を取り去られた(ヨブ19:9) 冠は王が公式の場に出る時に被る冠で権威を象徴します。栄光は輝かしい誉れ、大きな名誉をいいます。では、神様がヨブの栄光をはぎ取り、冠を取り去られたというのはどういう意味でしょうか。 それは、神様がヨブの名誉と権力を奪ったという意味です。このように自分の不幸の原因を神様のせいにしている言葉は、ヨブが肉の人であることを証明しています。以前、ヨブは裕福でした。 それで多くの人が近づいてきて、助けを受けました。羨ましいと思っていました。そしてヨブは人に褒められ、愛されていたのですが、これがヨブの栄光でした。 しかしこのすべてが、神様のせいでなくなってしまったと言っています。そして王が冠をかぶるようにヨブは、巨大な富によって権威もありましたが、神様が財産を取り上げてしまったから、その権威がなくなったと言っています。これは、これまでヨブが味わっていた栄光と権威が、富によるものだったことを物語っています。ヨブが柔和だったとか、徳があってそれが栄光になっていたならば、財産がなくなっても人々がヨブから離れないでしょう。ヨブからにじみ出る美しい心の香り、霊的な柔和があるなら、広い心に受け入れられて近づいていたでしょう。でも、今ヨブは自分の冠と栄光がなくなってしまったと嘆いているのですが、結局その栄光と権威が富によるものだったことを物語っているのです。そして神様が自分の財産を取り上げてしまったからだと神様のせいにしているから、どれ程愚かでしょうか。 ヨブが裕福だったとき多くの人が近づいてきたのに、試練がやってきたらみんな離れてしまいました。これは神様が共におられるときだけ真の栄光を受けることと、肉的な条件で結ばれた人間関係がどれほど虚しいものなのかを悟らせてくれます。ヨブが本当に霊的に知恵があったならば、試練のときこれを悟るべきだったでしょう。私はこんなに苦しみにあって試練にあっているから、前私を愛して認めてくれた人々がもういなくなってしまった。だから肉的な条件で結ばれた人間関係はこんなに虚しいものなのだ。前はいつまでもずっと一緒だと言っていた友達も家族も親族も、 みんな今自分を裏切って離れてしまいました。だから肉のものは朽ちるもの、なくなるものだ。 しかし神様は私と共にいる。私から顔を背けない方だ。試練のとき神様に求めると神様は働いてくださる方だ。だから神様の懐から離れたことを悔い改めて立ち返ろうと悟るべきだったのに、そうできなかったのです。相変わらず神様を恨んでいたのです。だから問題が解決されないでしょう。 だから答えもなかったのです。 皆さんはどうでしょうか。試練にあって苦しみにあって病気にかかって、子どもの問題、家庭の問題があるとき、どのように解決しようと思っていますか?配偶者が私を苦しめるから私はこんなに辛い思いをしている。だから私は病気にまでかかってしまった。聖霊に満たされていないから病気にかかったのに、人のせいにして環境のせいにするのです。そして教会の試練があってそのため悩んで、精神的にもすごく辛かったとか、教会のせいにしているのではありませんか。それは、ヨブとヨブの友達の姿と同じではありませんか。肉の思いをめぐらして神様の前に不平を言って、つぶやいてばかりいるのです。すると問題は解決されません。苦しみと試練がまた繰り返されるだけです。私たちはヨブ記講解を聞いて問題が解決される方法を悟るべきでしょう。続く本文を見るとヨブはヨブ記19:10-11でこう言っています。 神が四方から私を打ち倒すので、私は去っていく。神は私の望みを木のように根こそぎにする。神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる(ヨブ19:10-11) 四方から打ち倒すとは、東西南北から自分を攻撃してくるということです。だから何の希望もないし、こんな自分の境遇は死んでいるものと同じだと言っています。肉の人はこのように大きい権力と富を味わっていて、ある日突然そのすべてを失ってしまうと死だと思います。神様を知らないし天国への希望がないから、ヨブのような境遇に置かれたら自分で死んだものと同然だと嘆くのです。しかし本当に神様を信じる人なら、たとえすべてを失ったとしても絶望するのではなく喜んで感謝するでしょう。喜んで感謝することは信仰の行いで、この信仰の行いは神様に喜ばれるので、結局失ったものを回復することができます。しかもこの地上での人生は束の間で、永遠の天国への希望があるから喜んで感謝することは当然です。ですから私たちの価値は、この地上の富とか権力、名誉にあるのではないということを覚えていてください。 皆さんが試練の時何を感じましたか?私はなるほど人々の心にある悪、かけているところがこの様に明るみに出されるんだ。それを発見して目の当たりにしたら、私は人ではなく神様に頼るしかないんだと思いました。また自分に頼ることもいけないと思いました。親しかった人が離れてしまうから、悲しくなって落ち込んだりするのではなくて、神様がともにおられるから、神様が守ってくださっているから喜んで感謝しなければならないのです。荒波がある海の中で航海していても、神様がともにおられるならば安全です。安心できます。すると大胆になれます。イエス様が海と波に命じたら静まったのではありませんか。それを信じるなら私たちは心が平安でしょう。 しかし教会の試練の時、教会から離れてしまう人々を見ていて、親しい人が離れてしまうのを見ていて悲しくなって落ち込んでしまい、熱心が冷めてしまったり心がふさいだりしたことはありませんか。皆さんはどのように処理しましたか。今でも悩んでいますか。自分の姿を顧みてみましょう。もしそうなら肉の人なのです。肉的なものは全部変わってしまうものです。私たちは肉と霊について学んだでしょう。だから心を霊に変えていかなければなりません。でも今自分が置かれている環境の中で何かを失ってしまったり変わってしまうことがあっても、それは肉のものだから驚くことはありません。私たちには神様がおられ、聖霊がおられ、永遠の天国への希望があるから揺るぐ必要はないし、信仰が成長するし喜んで感謝できるのです。皆さんはそのようにしていますか? それなら祝福でしょう。聖書は何が私たちにとって大切なのか教えてくれます。ヨブの冠と栄光は富にありました。しかしそれは朽ちるものでした。富とか名誉とか知識、また周りの人がいてそれが自分の誇りだったとか、でもそれが一瞬でなくなってしまうなら、もう自分には希望はないと思いますか、それは肉の信仰です。肉の人の価値観です。 ルカ16章を読んでみれば金持ちと貧しい人ラザロの例えが出てきます。これを通して多くを悟ることができるでしょう。神様を恐れないでこの地上で贅沢な暮らしをしていた金持ちと、その家の門の前で物乞いをしていても、神様を恐れていたラザロの生き方の中で、皆さんはどちらを選ぶでしょうか。このメッセージを聞いて皆さんはすでにその聖句を知っているから、答えを知っているでしょう。しかし本当の自分の心を顧みてください。 自信を持って答えられるのか。なぜ聖書にこのような例えが書いてあるのか、私たちはメッセージで聞いたのですが、いざとなると日常生活でラザロのような生き方ではなくて、金持ちのような生き方をしているのではないのか、顧みますように。貧しいとか自分の手に何かないからといって、そのため悲しくなったり、人をうらやましく思ったりする姿はありませんか?神様はこの金持ちとラザロのたとえを通して、多くを教えてくださっています。彼らが死んだ後、金持ちが地獄の下の闇に落ちて苦しみを受けていました。この地上では贅沢な暮らしをしていたのに、下の闇ではとてもみすぼらしくなって、みじめな姿になりました。しかし貧しい人ラザロは、上の闇でアブラハムの懐に抱かれて、安息を味わっていました。皆さんこの二人の違いを考えてみてください。 この地上で肉に属するものを追い求めて楽しんでいたなら、死んだ後、後の世でどうなるでしょうか。かろうじて救われたとしてもパラダイスに入るなら、自分の家もないし報いもないから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。しかし神様の栄光のために生きた人ならば、天国で神様が栄光と報いをくださるし、家も広いし多くの人の誇りになるでしょう。どちらを選ぶのか、もう一度ヨブ記講解を聞きながら、考えてみますように。ですから、後の世を知っている人なら、当然ラザロのように神様を恐れて天国に行くと言うでしょう。 ところがヨブには、このような信仰も希望もありませんでした。神様が共におられるなら、たとえ全てを失ったとしても回復できるのに、霊の信仰がないから神様を恨んでいました。そして天国への希望もないから、自分で自分は死んでいると嘆いていました。これはヨブが肉の人であることを明らかにしています。ヨブにとって神様は、まだ真の神でも真の父ではなかったのです。だから神様との真の関係を作るために、試練が必要でした。 それでは、神は私の望みを木のように根こそぎにするとはどういう意味でしょうか?ヨブの希望は、望みは子供や富、名誉、権力など彼が所有していた肉的なものでした。ところがその全てが一瞬でなくなってしまったから、まるで根を深く下ろしていない木を簡単に引き抜くように、神様が自分を根こそぎにされてしまったと、説明しているのです。いくら枝が多くて葉が茂っている木でも、根が簡単に抜けてしまうならどれほどむなしいでしょうか。 このように肉的なことはいつでも、その根が根こそぎにされることがあるし、従って肉的なものに希望を置く生き方は、どれほどむなしくて愚かなのか悟らなければなりません。たとえ私たちに富と名誉、権力がなくて貧しくて弱くても、神様を正しく知って信じている御霊の人なら、実は豊かなものです。人の目には貧しく見えるかもしれませんが、神様が将来永遠の天国で大きい栄光と報いを与えてくださるからです。 本文11節でヨブは神は私に向かって怒りを燃やしと言っています。自分が今置かれているすべての試練、患難、苦しみと絶望、痛み、苦労の原因は神様の怒りのためだと言っています。ヨブはこのようにものすごい苦難を受けるようにされるのは、神様だと思っていたから、すべての不幸の原因を神様のせいにして恨んでいます。神様が自分を敵のように見なされるとまで言っています。皆さん、互いに敵のような関係ならどんな現象が起きますか?互いに相手の顔を見ると目をそらすし、目を合わせるのも嫌だし、相手の声を聞くことさえ嫌で、相手がいなくなってほしいとまで思います。人の悪い心の一つが敵意を抱くことです。 ところで神様は悪を嫌い、敵を愛しなさいと言われたのに、このような神様がヨブを敵のように見なされると言っているから、どれほどとんでもない無知な言葉でしょうか。人との関係でもそうです。相手は自分を憎んでいないのに、自分の中にある悪のゆえ相手を誤解して、相手を悪い人のように決めつけてしまうのです。人を裁いて罪に定めるのです。これは神様の前でどれほど悪い心でしょうか?これは直さなければならないのです。相手が自分を憎んでいるとしても、それに対してあれこれ考えて悩む必要もないのに、相手が自分を憎んでもいないのに、自分から誤解して決めつけてしまって、相手を悪い人のようにみなすことがあるなら、これは悪い姿で愚かな姿です。 神様との関係が遠ざかっていたり、真理を正しく知っていなければ、簡単に神様を誤解して裁くことがあります。今日も神様を知らない人々の中で、本人の過ちによってことが失敗したのに、天も薄情だと言いながら神様に呟きます。また神様を信じる人の中でも真理を正しく知っていなければ、試練艱難にあった時、ヨブのように、神様が自分を憎んで打ったと誤解することがあります。しかしヘブル人への手紙12:4-8を読んでみれば、神様がなぜ子どもたちを懲らしめられるのか分かります。まずは私たちが神様の真の子どもになるためには、罪と戦って血を流すまで抵抗しなければなりませんが、そうしていないから懲らしめられるのです。私たちが信仰生活をしていても、聖めに向かって走っていないし、足踏みをしていて停滞しているから試練に遭う時があります。しかしそれは神様の愛です。そのような懲らしめがあってこそ、悔い改めて立ち返って神様の真の子どもになるからです。でなければ、うわべでは信仰生活をしているように見えても、心を割礼していないから肉の信仰にとどまっているしかないのです。だから神様が愛する子どもは懲らしめてくださるのです。 ですから自分が信仰生活を間違ってしているのに懲らしめがないならそれも問題です。神様は私たちを愛して懲らしめてくださいます。変えられるように聖められるように、肉の信仰から霊の信仰に変わるように、そのために試練に遭うようにしてくださるのです。そうやって真の子どもになって、神様と天国で永遠に愛を分かち合うようにするために、私たちを練ってくださるのです。だからそれは神様の愛です。また神様の子どもちが、御言葉から離れて罪と悪の中に生きているから、神様は責め懲らしめてくださるのです。ですからこういう懲らしめは、神様の愛であることを忘れませんように。神様の子として扱ってくださるからです。つまり私生児ではないからです。死の道から立ち返るように正してくださることだから、このため弱り果てるのではなく喜んで感謝すべきです。これを覚えていてください。 自分が罪と悪の中に生きているのに、もし神様の懲らしめがなければそれは私生児だからです。これは恐ろしいことです。そのような人がたくさんいます。神様を信じない人ならば自分の罪のためサタンによって試練にあうのですが、しかし聖霊も受けたのに相変わらず罪の中で生きていて、悪を行っている人がいます。しかし懲らしめもないならそれは私生児ように扱われていて、救いからも離れているでしょう。だから自分が罪の壁があってそのため問題にぶつかっているならば、神様の愛で懲らしめられていると思うなら感謝するでしょう。でも罪の壁があってもよくわからない場合もあります。 しかし試練がやってくると、その時自分を顧みるから、それで自分の間違っているところを発見することができ、立ち返って悔い改めるなら、神様がまた回復させてくださるからその試練は愛です。本当に子どもを大事にして愛する親なら、子どもが過ちを犯して正しい道からそれるならそのまま放っておかないでお仕置きをしてでも、正しい道に導くこと、教えることと同じ原理です。しかし神様はすぐ懲らしめるのではありません。その前にいろんな方法で悟らせてくださり、機会をくださいます。最初は言葉で悟らせてくださいます。皆さんが礼拝をするときメッセージを聞きながら、聖霊が働いて悟らせてくださるのですね。 私は今の生き方ではダメだと思ってそれでメッセージを聞いて感動して、変えられるために祈るようになります。しかし主日はそうだったのに、月曜日からまた自分の以前の生活に戻ってしまうなら、心におられる御霊が呻かれて心が苦しくなるのです。こうしてはいけないのにと思って、気が重くなってもやもやして不安になるのです。以前ヨブ記講解でも言いましたが 、不安な心になることもそのためなのです。だからそのときは聖霊の声を聞こうとしなければなりません。でもことさらに罪を犯し続けるならば、もう心が麻痺してしまう場合もあります。しかし聖霊のうめき声を聞いて心が苦しくなったとき、早く立ち返らなければなりません。それでも聞かなければどうなるでしょうか?鋭く神様が責められます。そして懲らしめられます。病気にかかったり、試練艱難がやってくることもあります。しかしそれでも相変わらず聞き従わなければ、もっと大きい懲らしめが臨むのです。 これも親が子供を育てるときを考えてみればわかるでしょう。子供が何か過ちをしたとき、最初は言葉で言い聞かせます。それでも聞かなければ叱ったり、それでも聞かなければお仕置きまでします。皆さんご両親の皆さん、だからと言って子供たちにしょっちゅうお仕置きをしてはいけません。罰を与える段階があるのです。それは正しい教育ではありません。まずは言葉で説得して約束をして教えて言い聞かせるのです。しかし聞かなければ叱ることもあって、そしてお仕置きをする場合もあるでしょう。叩いたりすること以外にもいろんなお仕置きがあると思います。そうではなくて、親が子供が自分の言うことを聞かないからと言って、すぐ怒鳴ったり叱ったりすぐ手を挙げたりすることがあってはいけません。 ヘブル12:9-11に「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちをこらしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちをこらしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、こらしめるのです。すべてのこらしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。 つまり神様は私たちの益のために、ご自分の聖さにあずからせようとしてこらしめるのです。このように神様は私たちを愛するがゆえに、私たちが御言葉通りに生きていない時、試練や艱難にあうようにされます。こらしめられて真理にあって生きるように導いてくださいます。神様は人の悪の姿を捨てて完全にするために練ってくださるのです。そして私たちは試練の過程を経て罪と悪を捨てたら、金のような信仰を所有した昔の信仰の人々のように尊い人になります。 したがって自分の過ちのため試練にあったとしても、結局、試練は祝福であり感謝なことなのです。ヨブは肉の人だから試練の時に神様の前に呟いて、不平を言っていたのですが、皆さんは御霊の人になっていつも喜んで感謝することで、祝福の実を結びますように。自分はまだ肉の人だから、呟いたり不満を言っても神様が理解してくださるだろうと思ってはいけません。ヨブが試練艱難が終わって答えと祝福を受けるためには、この呟きと不平をなくさなければなりません。やめなければなりません。だから私たちは、御霊の人になろうとしなければなりません。また試練の時に打ち勝つためにも自分の悪と肉を捨てなければなりません。

「ヨブ記講解48-ヨブの反論」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:6~7

続く本文でヨブは、自分が不幸になった原因を神様のせいだと言っています。ヨブ記19:6です。

いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。(ヨブ19:6)

ここで神が私を迷わせるとは、自分の意思とは関係なく、心が乱れてよくない方向へ行くようにされているという意味です。つまり神様が自分を低くして屈服させたから、こんなに迷い出てしまったのだと言っています。神様のせいで私はこんな目にあっているのだ。だから私は無気力に負けているのだと言って、神様を恨んでいるのです。私たちは神様の前に、聞き従っていかなければなりません。しかし嫌々ながら屈服させられて、義務感からしているのではないでしょう。今ヨブはそんな風に言っているのです。

私たちは神様を愛して、神様を恐れかしこみ、私のために、救ってくださり、天国を作ってくださった神様、私の霊の父である神様だから、心から愛して喜んで聞き従わなければならないのです。そのような子供を神様は望んでおられます。それでヨブがそのように変えられるように、招いておられるのです。ヨブは以前神様を恐れて御言葉を守っていたのですが、それはうわべでした。神様はそれより、心から本当に神様を愛して、神様の愛を感じて、神様に従って御言葉を守るヨブになるようにと望んでおられました。

例えば親が子供を叱ったとしましょう。何度か注意したのに聞かなかったから、後でまたこんなことをすればお仕置きをするよと言っても、子供が聞かなかったら、お仕置きをする場合もありますね。すると子供は、お母さんが自分を憎んでいると思ってしまうなら、お母さんはどれほど心が痛むでしょうか。子供はそのお母さんの愛がまだわからないのです。でも後でわかるでしょう。大きくなるとお母さんは私のためにそうしてくれたんだとわかるようになりますね。しかしそうではなくて、自分は愛されていない、嫌われていると、誤解してはいけないでしょう。

今ヨブと神様の関係も同じです。ヨブが今神様の前で呟いたり問い詰めたり嘆いていても、神様はヨブの心の芯は良いと知っておられるから、ヨブが変えられることを期待して、待ってくださっているのです。ヨブは神の網で私を取り囲まれたと言っています。網は鳥とか魚とか動物を捕まえるために使う道具です。つまりヨブは神様が自分を捕まえるために網を張っておいて、その中に閉じ込めてしまったと表現しています。しかしこれは言い訳にすぎません。ヨブは自分の悪のゆえ、網で取り囲まれているのです。これは今日私たちが律法に縛られて、人を恨んだり教会や神様のせいにしたりするのと同じです。

例えば自分の過ちで事業がつぶれたり詐欺に遭ったのに、人のせいにしたり環境のせいにしたりする人がいます。普段神様の御言葉通りに生きていなかった人が、何か問題にぶつかったら神様に呟く場合もあります。しかし何か問題が起こったら、自分を顧みて自分の欠けているところを認めて祈り、感謝して御言葉に従わなければなりません。そうすると苦しみから抜け出すことができるし、問題も解決できるのです。

神様は私たちに救いと永遠の命を与えるために、一人子まで渡してくださいました。そして講壇から述べ伝えられるメッセージを通して天国に行く道を教えてくださっています。しかしこのメッセージを聞いて辛いとかきついとか思う人がいますか。それは御言葉通りに生きていないからです。真理が足枷のように感じるのです。真理通りに生きようとしたらきついし、生きていないときは後ろめたいし、恐れを感じるのです。しかし真理を愛して行う人はそうではありません。皆さんはどうでしょうか?この教会で真理の御言葉を聞いて、しるしと不思議神の力の技を見て体験しました。だから神様を信じたのではありませんか?人にはできない驚くべき神の力を見たから、神様が生きておられることを認めて教会に通っているのです。でも御言葉通りに生きようとすると、世を愛する心もまだ残っているから辛いのです。そして教会を離れてしまう人もいます。しかし教会を離れるときは、いろいろ言い訳をするのです。ああだからこうだからと言いながら、教会で問題を起こしたりして、離れてしまう人もいるのです。神様はそれをご覧になってどう思われるでしょうか。

私たちはどんな心で教会に通っていますか、メッセージを聞いていますか?ある人は元老牧師先生はこう言われたからと言いますが、元老牧師先生は神様の御言葉を教えてくださる方です。神様が教えてくださった真理を、私たちは元老牧師先生から教わったのです。そして聖めの福音を聞いていてそのためもしかしてそれが重荷となったり、きついと思ったり辛いと思っているならば、その真理を自分が今行っていないからではありませんか?神様を愛して真理を愛して行っている人は違います。心から神様の愛を感じて真理を行っている人はきついと思いません。自由を得ます。 例えば皆さん、憎むことと愛して許すことどちらが楽でしょうか?やさしいでしょうか?人を愛することや許すことでしょう。でも自分の中に憎しみという悪があって真理と反対のものがあれば、愛することが許すことが難しいのです。だから御言葉通りに生きるのが大変だと感じるようになるのです。でも私たちは難しくても神様を本当に信じているならば、愛しているならば、神様の御言葉に従わなければなりません。親の皆さん、子供たちが嫌がっても勉強しなさいと言いますね。なぜなら、そうしてこそ立派な大人になれるからと思うからでしょう。子どもたちのためにそう言っているのではありませんか?私たちも同じです。人を憎む方が今は楽で、愛するのは難しいかもしれませんが、神様は私たちの幸せのために、憎んではならない愛しなさいと命じておられるのです。それで私たちが頑張って努力して、憎まないで愛して愛を行っていけば、だんだん自由を得るようになります。心が幸せになります。でもまだ心に憎しみがたくさんあるときは難しいかもしれないし、辛いかもしれません。しかし神様を愛して神様の愛を信じているならば、何としてでも憎しみを捨てなければ、愛して祈りながら人を許さなければと思いながら、そのように努力していけば、一つ二つとだんだん行えるようになって、心の中に愛が満たされるようになるのです。そのときは人を憎む方が難しいのです。するとどれほど幸せでしょうか。 今ある人が憎らしくてその人が自分を苦しめたなら、その人が何か失敗したとき、いい気味だと思うならば、自分の心の中におられる聖霊は喜ばれないでしょう。でも自分を苦しめていた人が今失敗したとき、その人のために愛で祈って哀れんで助けようとしたならば、聖霊は喜ばれるでしょう。それでその人への愛の心がだんだん大きくなるのです。それなら神様もどれほど喜ばれるでしょうか?すると上から真の平安と喜びが臨むのです。これは真理にあって味わう自由なのです。この自由を得るためには、いやいやながらやむを得ず御言葉に従うのではなくて、素直に喜んで御言葉に従って行かなければならないのです。すると神様が喜んで応えてくださり祝福してくださいます。 神様の御言葉が皆さんにとって重荷ですか?足枷のようですか?例えを挙げてみましょう。たえず祈りなさいという御言葉があります。この御言葉を知っていても、祈りたくないでしょうか?その時間にドラマを見たいでしょうか?ゲームをしたいでしょうか?神様より自分を愛するからでしょう。そして祈祷会に行かなかったりするのです。でも私たちは御言葉を聞いて祈らなければならないことを知っているから、祈らなければその時間に遊んだり寝たりするとどうでしょう?後ろめたいですね。神様の前に申し訳ないと思い恐れを感じるし、神様の前に大胆に出て行くことができないでしょう。だからそれが重荷のようで足枷のようなのです。自由を感じられないのです。頭で神様の御言葉を知っていても自分が行っていないからそうなのです。だから後ろめたいし不安だし怖いし、神様の前に大胆でいられないのです。だから辛いと思うし、きついと思うようになるのです。 それならこの人に神様の御言葉が網とか足枷になっていて縛っているからでしょうか?そうではありません。神様の御言葉は祝福です。絶えず祈る時でこそ敵である悪魔サタンに妨げられることがないし守られるし、問題も苦しみもなくなるからです。でも自分が従わないから自分の利益を求めていくから苦しくなるし、問題にぶつかってしまうのです。神様は足枷ではないのに自分が自分を苦しめているのです。神様は私たちを苦しめる方ではなくて応えて祝福してくださる愛の父です。しかしヨブはこのような神様の心がわからないからとてももどかしいです。 続く本文を見るとヨブは続けて反論し続けています。ヨブ記19:7です。 見よ。私が、「これは暴虐だ」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。(ヨブ19:7) 暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。つまり暴虐だと叫ぶということは、自分がむごいことをされて苦しめられている、被害を受けていることを訴えるのです。しかしそれが正されないと言っています。つまり自分はいくら訴えても、それを聞いて正しい裁きをしてくれる人がいないと今言っているのです。それで嘆いているのです。ヨブは今自分があまりにも辛いし苦しいから、そして自分にされていることがあまりにも理解できないのです。だから神様は自分を憐れんでくれないし、助けてくれないしこのように苦しめているし、自分がいくら叫んでも答えもないし、自分のために正しい裁きをしてくれる人もいないと言っています。 皆さんもしヨブのような試練に遭うならば、皆さんは神様の前につぶやかないでしょうか?これまで教会でいろいろなことがあったのですが、試みがあったとき、真理を聞いて知っていながらも、神様を恨んで教会を離れてしまった人もいました。教会から離れてはいなくても、熱心が冷めてしまって、人と言い争ったりする姿もありました。それもヨブと同じような姿です。ヨブが求めても叫んでも答えを受けられない理由は何でしょうか?今週癒しの集会があります。まだ癒されていない、答えを受けていない方々は、このメッセージを心に刻んで祝福と答えを受けますように。ヨブは自分がいくら叫んでも答えはないと言っています。皆さんも何か問題があれば神様に祈りますね。でもなぜ答えがないのでしょうか?その理由を探して解決しなければならないでしょう。ヨブは真理を正しく知っていなかったし自分についてもよくわからなかったのです。 聖書を読むとなぜ祈っても答えがないのか、問題が解決されないのかが書いてあります。イザヤ書1:15-17です。「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め 、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」とあります。つまり神様が答えてくださらない理由は、私たちが悪を行っているからです。善を行っていないからです。イザヤ書59:1-3には、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたのとがが、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。実に、あなたがたの手は血で汚れ、指はとがで汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。」とあります。 私たちが祈っても答えを受けられない理由は、罪の壁があることで、それをはっきり教えてくださっています。ところで神様は問題の原因だけではなく解決策も教えてくださいました。イザヤ書1:18-19です。「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることができる。」とあります。つまり私たちが悔い改めて立ち返って御言葉に従って行くなら、全ての罪を許してくださるだけではなく祝福してくださるという意味です。 皆さんが自分の過ちと罪を口で告白して悔い改めなければなりません。私は罪を犯しました。罪を罪と思わないで、ことさらに罪を犯していました。それは神様をないがしろにして、主をもう一度十字架にかける姿でした。人を憎んでいました。言い争っていました。人を裁いて罪に定めましたと、自分の罪を一つ一つ神様の前に告白して、許しを求めなければなりません。二度とそうしないように助けてくださいとへり下って、徹底的に悔い改めて、罪の道から立ち返って光の中を歩み真理を行っているとき、神様が応えてくださり癒してくださるのです。それではヨブはどうすれば答えを受けられるでしょうか?自分の心の悪を悟って神様が応えてくださることを信じて、喜び感謝して祈っていくならば祝福されるでしょう。しかしヨブは真理とは反対に不平を抱いて文句ばかり言って、神様の前に恨んで訴えて問い詰めていたから、答えを受けられなかったのです。 神様は御言葉で天地万物を創造して歴史を導いて、人の生死禍福の権限のある方です。ですから祝福を受けたいと思うなら、真理である神様の御言葉に従えばよいのです。神様の御言葉は私たちに喜んでいなさい、祈りなさい、感謝しなさいと言われました。そして善をもって悪に打ち勝ちなさい。敵をも愛しなさいと言われました。これを心に刻んで守り行っていくならば、いくら大きい問題があっても神様の力によって解決されます。しかしヨブはこれと反対に絶望して、悪い言葉で反論して言い訳をして嘆いているから、答えを受けることができないのです。ですから神様はヨブのために、ヨブが悟って悔い改めて真理に従う時まで待ってくださるのです。 皆さん、詩編66:18に「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。罪の壁を壊していなければいくら祈っても、それは虚しい祈りに過ぎないのです。空中の権威を持っている敵である悪魔サタンが、その祈りを遮断して妨げてしまうから、神様の前に届かないのです。これも霊の世界の法則です。ですから皆さんはこの御言葉を自分に適用して、なぜ試練艱難に遭っているのか、なぜ祈っても答えがないのか、なぜ病気にかかったのか、どうすれば問題が解決されるのか、その答えを得ますように。そして癒しの集会に備えて自分を顧みて悔いを改めて、癒しの集会のとき答えを受けますように。 結論です。 愛する皆さん。今日はヨブが再び友達に対して反論して指摘して神様を誤解して言い訳をしている姿を見ました。なぜヨブが試練に会うしかないのか、もう一度わかったでしょう。ヨブはまだ自分は正しい人だ、神様を恐れていた、なぜそれなのになぜ神様を自分はこんなに苦しめるのかと恨む心があります。だから理解できないのです。自分があっている艱難があまりにも悔しいのです。だから続けて恨み不平ばかりで言っています。 しかし心から神様を愛する人々は、どんな試練や迫害、苦しみで命が危なくなったときも、ヨブとは違って神様の前に感謝し祈りました。預言者や使徒だけではなく、初代教会の一般の聖徒もそうでした。主を信じるからといって激しい迫害を受け苦しみを受けました。もしヨブのように考えていたならば、私には何の過ちもないのになんでこんなに迫害されるのか?なぜ神様は助けてくださらないのかと恨むかもしれません。しかし初代教会の聖徒たちは、自分たちが救われた恵み、天国への希望があることで喜び感謝してその道を歩みました。だから迫害されても苦しみを受けても、心は天国でした。後の世があるから天国での栄光を望んだのです。私たちもどんな状況におかれても神様の変わらない愛を信頼して、信仰を持って走っていくべきでしょう。そうすると神様はその祈りを聞いて答えてくださり、祝福と栄光をくださって神様の愛を明らかにされるでしょう。 しかしヨブはうわべでは完璧でしたがその心の中にはまだ完全でないところがあったので、神様は彼を完全にされるために試練に遭うようにして、自分の悪を発見できるように練ってくださるのです。このように神様は私たちの心から悪を取り除いて、完全にするために練ってくださるのです。練られて金のような信仰を所有するようになれば尊いものになれるのです。だから今試練に遭っていても、その中で変えられて神様により頼むなら、その試練も祝福になります。ですから聖徒のみなさんはどんなことにあっても、喜びと感謝を持って金のような信仰を所有しますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを覚えて思い出して一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブが友達を指摘しながら反論しながら神様のせいにしている姿がまたありました。まだ自分を発見することができず、自分が正しいと思い込んでいました。私たちもヨブの姿から自分を発見するようにしてください。そして相手を理解できない姿、相手を責める姿があるなら自分の悪を発見して捨てて変えられるようにしてください。そして祈りに答えてくださらないからといって神様に呟くのではなくて、なぜ自分が答えを受けられないのか、悔い改めて備えるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名でお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解48-ヨブの反論」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記19:1~5

みなさん、前回はヨブの友達ビルダデが、ヨブに向かって呪う言葉の中から、悪の極みを感じました。ヨブ記18章の全体が、ビルダデのヨブに対する呪い、責める言葉がいっぱいでした。悪い人はいくら素晴らしい表現を使っても、良い言葉を口にしようとしても、悪が結局は現れます。聖書を読むと悪い言葉と良い言葉の実がよく対比されているところがあります。

ナバルとその妻アビガイルの場合です。ダビデがサウル王から逃れて逃亡生活をしていたときでした。ダビデは一緒にいた人々が飢えていて渇いている姿を見て、近くの金持ちのナバルに助けを求めました。ダビデの一行は以前ナバルの羊の群れを守ってあげたことがありました。しかしナバルはダビデが自分を低くして助けを求めても、とても侮辱的な言葉でダビデを罵って卑しめました。そして怒ったダビデは武装した400人を連れてナバルを殺すためにその家に向かいました。

これをナバルの妻アビガイルが聞きました。善で聡明だったアビガイルは急いでパンと葡萄酒といろいろな食物、贈り物を用意してロバに乗せてダビデに会いに行きます。サウル王に追いかけられていたダビデの一行に一番必要なものは食物だったので、急いで用意したのです。ダビデの前でアビガイルはひれ伏してとても謙遜な姿で、「夫は死ぬような罪を犯したのですが、自分を見て許してください」と心からお願いしました。その後、賢い言葉でダビデの良いところを褒めながら心を慰めます。そしてダビデが手を下して無駄に血を流すと神様が喜ばれないことをそれとなく悟らせました。

これを聞いてダビデは第1サムエル記25:32-33で、「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断がほめたたえられますように。」と言って、彼女を祝福して心が慰められました。アビガイルがダビデの心を慰めた後、家に帰ってみたら、ナバルは王のように宴会を開いて酷く酔って上機嫌になっていました。次の日ナバルの酔いが覚めた後、アビガイルは前の日あったことを告げました。そうしたら驚いたナバルは気を失って石のようになってしまい、10日後には死にました。アビガイルは知恵があって善の言葉と行いで、自分の家族が滅びる危機を免れたのですが、悪い言葉を出したナバルは結局死の道に行きました。アビガイルは後でイスラエルの王妃になりました。

このように心の良い人の口から出る言葉は善であり賢いので、どんな苦しみや災いも免れるだけではなく、祝福に変えることができます。ですから聖徒の皆さんは、聖なる神様の子供らしく心を善に変えて聖なる口の実で神様に栄光捧げますように。

前回まで調べたヨブ記18章では最初から最後までビルダデの厳しい呪いの言葉がありました。
その後19章ではヨブがまた口を開きます。ヨブ記19:1-3です。

「そこでヨブは答えて言った。いつまで、あなたがたは私の魂を悩まし、そんな論法で私を砕くのか。もう、十度もあなたがたは私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめる。」
(ヨブ19:1-3)

 

悩ますとは心が苦しむように苦しめることです。ヨブは友達が自分を悩ましていると言っていますが、実はヨブが自分からそうさせているのです。ヨブが言い返さないで反論しなかったなら悩むこともないし心は穏やかなのに、友達の話を聞いて言いまかそうとするから、いろいろ考えるようになるのです。最近も、インターネットで相手を誹謗中傷する書き込みをする場合があります。人の心はとても悪いですね。そのような書き込みを読んだ人がどれほど心痛むでしょうか、傷つくでしょうか。そして周りの人がそんな書き込みは読まない方がいいと言っても、人は読みたくなるのですね。読んでしまって傷ついてしまい悩んでしまうこともあるのではありませんか。

例えば皆さんに誰かが嫌味を言って皆さんを責め立てたりするなら、そのようなことは聞きたくないでしょう。そしてある人がそのような悪い内容のメールを送ったり電話して悪態をつく場合もありますが、それならその人の電話に出なければいいし、そのメールを読まなければいいのですが、ある人はそれを読んでしまい、また電話に出てしまって傷つく場合もあります。ですから私たちはなるべくそういうことは聞かないで受け入れない方がいいでしょう。

ヨブも友達がいくらあれこれ言っても、それによって悩んだりイライラしたり腹を立てたりしないで、素直に受け入れて自分を顧みて、神様の前に祈っていたのならよかったのに、そうできなかったのです。それで自分を悩ました友達が悪いと言っていますが、実はそれを聞いて友達を恨んで神様に呟いた自分の悪が大きいのです。だから私たちは真理でなければ聞かないで見ないで話さない方がいいでしょう。相手が悪を行って嫌味を言ったりすることは相手の悪だけです。それによって自分が傷ついたり自分が苦しんだりする必要はないのです。
 

本文でヨブは友達がそんな論法で私を砕くのかと言っていますが、これはすなわち友達が自分を言いまかそうとしているということです。言いまかすということは相手を反応できないまで論じ詰めて黙らせてしまうこと、相手を屈服させることです。これまでヨブが何かを言うと友達は、言いまかすためにいろんなたとえを上げて指摘して呪ったり、ヨブを黙らせようとしました。人の間で言い争いが起こると、互いに感情的になってこのような場合があります。クリスチャンでもノンクリスチャンでも同じです。相手が何か話をしたとき自分の考えと合わなければ、言いまかすためにへ理屈を述べる場合もあります。こうやって論じ詰めることは彼を理解させることができないと思ったり、理解させたくないと思ったからでしょう。 例えば会議をするときや話をするとき誰かに質問するとき、相手が納得できるように説明すればいいのにそうではなくて、強圧的な口調でそれ以上意見を言えないように、黙らせる場合があります。それは相手を無視することでしょう。会議をするとき、全体の発展のために意見を出してくださいと言って、ある人が意見を言ったのですが、その会議を導く人がそれはもういらないことですと言ったり、そんなことを話さないでくださいと言うならば、どれほど相手を無視する姿でしょうか。 家庭で例えば子どもたちが何か話をするとき、親がその子どもの話を聞いてあげないとか、もう黙りなさいとか、静かにしていなさいとか、子どもが何か欲しいというのに、それなら宿題したの?とか言ったりする場合もあります。するとそれ以上子どもたちとのコミュニケーションが難しくなってしまうのではありませんか。人と話をするときこういうところに気をつけなければなりません。 例えば相手を言いまかすために黙らせるために、相手の弱点を攻撃したりする場合はないでしょうか?このように相手を無視して黙らせてしまうと、相手はもっと反発するようになるでしょう。だから言いまかすことは正しくないでしょう。私たちは何としてでも愛と徳を持って、相手が理解できるようにしなければなりません。神様は人の心を全部ご存知です。ヨブと友達の深く潜んでいる悪を明るみに引き出してくださっています。それで自分自身を発見して変えられるように望んでおられるからです。 本文にヨブは、もう十度もあなた方は私に恥ずかしい思いをさせ、恥知らずにも私をいじめると言っています。ここで十度とは十回だけを言うのではありません。ヨブの友達がそれだけ何度もヨブをいじめたという意味です。ヨブは自分が今まで我慢しまた我慢してきたのに、あなた方は繰り返し私をいじめて、恥知らずではないのかと言っています。自分には過ちがないのに、神様がこんな風に病気になるように、傷だらけになるようにしてしまった。あなた方に良心があるなら、私を責め立てるのを恥ずかしく思いなさいと言っているのです。ヨブは自分より正しい人が苦しみを受けているのに友達が慰めるどころか、自分を厳しく咎めているから理解できないのです。それで友達のやっていることが恥ずかしいことだと悟らせるために、このように言っているのです。 皆さん夫婦の間でもまた友達の間でも、会社の同僚との間でも同じです。相手が自分にひどいことを言ったから、あの人は悪い人だ、あの人がやっていることが恥ずかしいことだと思うでしょう。でも相手はそのように思っていないのです。相手は言うべきことを言ったと思います。そしてただアドバイスしただけだと思う場合もあります。今、ヨブとヨブの友達の関係がそのようになっているのです。ヨブは友達が自分をこんな風に指摘したり、責め立てていることは恥ずかしいことだ、間違っていることだとそれを厳しく言っているのです。しかし友達の立場では、自分たちは悪いことをしていると思わないのです。だから互いに自分の立場だけを思っているのです。 私たちの日常生活にもこういうことがよくあると思います。自分とあまりにも合わない人に会ったとき、その人が言っていることやしていることが、到底理解できないときがありますね。でも相手も同じように考えていることもあるのです。ヨブとヨブの友達が今言い争っている姿を私たちは第三者の立場から見るとわかりますね。それで互いに互いが理解できないのです。皆さんも同じです。周りの人との関係でそういう場合があるのです。 自分は相手が理解できないと思っていますが相手も同じなのです。それならどちらが正しいでしょうか?神様がご覧になるときはどちらも正しくないのです。こういうことが日常生活ではよくあります。どうしてあれがわからないのかとか、どうしてそんなことを言うのかとか思いますか。相手も同じように思うのです。それで互いに言い争うようになったり、ギクシャクしたりするのです。だからそういう場合は自分が相手を理解できないところがあるんだ、自分の心はまだ狭いんだと、自分の心の中に悪があるんだと自分を顧みて、相手のために何か自分が助けることがないのかと思いながら祈ろうと、神様に委ねれば心は穏やかになって、そして自分は感謝できるでしょう。 しかし相手のことをなんであんなことをしているのかと思いながら、イライラしたりすると自分に損ではありませんか。そのような必要はないのです。人は自分のほうがいつも正しいと思っています。でもそれは思い込みかもしれません。だからいつも自分のことばかり考えるのではなくて、客観的になって相手の立場に立って考えるべき必要があります。そしてヨブとヨブの友達が言い争っている姿を見ながら、自分を顧みなければなりません。私にもヨブのような姿があるんだ。友達のような姿があるんだと自分を発見すること、これが神様の望んでおられることです。ヨブ記でずっと繰り返してこのような互いに言い争っている姿が示されているのも、神様がそれを悟らせてくださるためです。 それで元老牧師先生はその霊的な意味を解き明かしてくださるから、私たちはヨブ記講解を聞きながら自分の心の隅々まで発見できるのです。ある方はこのヨブ記講解を聞きながら、先生、先週私の家に来られたかのように、私のことを言っておられるんだと思う方がいるそうです。皆さんが友達との間で起こったこととか、また会社で同僚との間で起こったことなどを、御霊が一つ一つ悟らせて思い起こさせてくださるから、私たちは自分を発見してその恵みによって変えられることができるからどれほど感謝でしょうか。ヨブ記講解のメッセージを通してこのように恵みをくださって発見させてくださることも、御霊の働きです。 ヨブとヨブの友達は互いが理解できなくて、互いをとがめて責めているのですが、私たちもその姿から自分を発見しますように。ヨブは友達にあなたがたがしていることはありえないことだ、恥を知れと言っています。もちろんヨブは自分が正しいと思っていますが、実際何の傷もない義人ではありません。今までヨブが口にした真理と反対の言葉の罪があるでしょう。ヨブが試練にあうような理由があるから練られているのです。でもまだ自分の悪を悟れず、自分は正しい人だとだけ思っています。だからヨブの立場では、自分より悪い友達が自分を厳しくいじめているから、それは恥だと恥ずかしく思いなさいと言っているのです。しかしヨブの友達は感情的になって、ヨブを責め立てていながらも自分たちは正しい、ヨブは悪いと思っているから恥と思わないのです。このように人が高くなってしまうと、恥ずかしいことをしていながらも悟れないのです。自分は心が高くなって人の過ちと欠点をしょっちゅう指摘していながらも、自分は見事に従っている、正しいと錯覚しています。しかし本当に心が良くて正しい人は、相手の過ちを見ても指摘したりしません。 イエス様はご自分を売り渡すイスカリオテ・ユダにも直接的に責めることはなく、間接的に悟らせてくださいました。最後まで彼をそばにおいて、他の弟子と同じようによくしてくださって、彼が悔い改めるように続けて機会をくださいました。元老牧師先生も、聖徒の何かの過ちを知ったとき直接的に指摘するよりは、講壇でメッセージの中で間接的に悟らせてくださいました。元老牧師先生は、誰かの過ちを指摘することは気が引けるような性格でもあるし、聖徒が指摘したとき彼が悔い改めて立ち返るなら祝福ですが、もし不満を抱いたり聞き従わなければ試練に遭うようになるから気をつけておられました。 使徒パウロは第Ⅱコリント10:1で「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気なものです。」と言っています。どういう意味でしょうか。聖徒に会ったときは大胆に厳しく指摘できなくても、手紙を書くときはこのように強気で進めることができるということです。 正しい人でも相手の過ちを指摘することを慎むので何度も厳しく責めることは簡単ではありません。ヨブは前から正しいところがあったので、自分がやっていることは相手ができないからといって厳しく責めたりしませんでした。アドバイスをしても相手が聞き入れなければ気が引けました。しかしヨブは友達を見ていたら、友達は何の過ちもない自分を続けて指摘して責めたてていながらも恥ずかしいと思わないのです。だから過ちがある人を叱るのも慎むべきなのに、何の過ちもない私を悪いあなたたちが恥知らずにもいじめているのかと問い詰めているのです。 皆さんの姿にはこういうところはありませんか?前回も伝えましたが、相手の悪や過ちを知ってそれを指摘してしまうことは自分の中に悪があるからです。自分の中にある梁は見えることはできず相手の目の中にあるちりを見て指摘する姿です。自分を顧みるよりは、人を見てその人の欠点とか過ちを見つけ出そうとする姿はどれほど悪い姿でしょうか。クリスチャンは神様の子どもはそうしてはいけません。私たちの基準はいつも聖書の御言葉です。人を裁く人は自分も裁かれるのです。人の悪行を言う人は自分も悪行を言われるようになります。この御言葉を覚えていなければなりません。そして人を許さない人は神様にも許されないのです。相手が自分に過ちを起こして失礼なことをしたとしても許して、そしてその人のために祈るべきなのに。そうでもない人がいてその人を許せないとか、その人との関係が苦手だとか思うことがあってはいけないでしょう。 続く本文ヨブ記19:4-5です。 「もし、私が本当にあやまって罪を犯したとしても、私のあやまって犯した罪が私のうちにとどまっているだろうか。あなたがたがほんとうに私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで、私を責めるのなら、」(ヨブ19:4-5) ここでもし私が本当にあやまって罪を犯したとしてもと言っています。これはヨブが自分の過ちを認めている意味ではありません。ヨブは自分には何のあやまちもないと思っています。それなのに友達が何度も自分が悪いとあやまちがあるとこのように続けて言うから、ヨブはここで心にもない言葉で肯定しているのです。まるである人が無実の罪を着せられて逮捕された時、尋問されながら耐えられなくて偽りの自白してしまうことがありますね。これと似ています。ヨブはこれまで友達と言い争っていて、感情的になっていてあまりにも苦しいし辛いのです。それで口先だけでこのように言っているのです。何を話しても友達を納得させることはできないし理解してもらえないと思うから、分かったもう分かったというふうに言っているのです。 しかしヨブは罪を犯したとしても、あなた方は本当に私に向かって高ぶり、私の受けたそしりのことで私を責めるのかと言っています。つまりこれは自分が本当に悪い人なら、あなた方は偉いのか、それならそれを証明してみせなさいと言っているのです。この内容をもっと具体的に調べてみます。ここで高ぶるとは、自慢すること、見下すこと、偉そうに振る舞うことを意味します。ヨブは友達にあなた方がそんなにうぬぼれているほど正しいのか、私はあなた方が指摘したとおりに悪い人なのか、もしそうなら私のそしられるようなところを証明してみなさいと言っているのです。 人々は言い争っていって感情的になると相手の弱点を攻撃します。自分の話が、言葉が通されないから腹が立って、相手に負けるようなふりをして相手の過ちとか欠点をあばき出して何としてでもこき下ろそうとするのです。今ヨブが同じようなことを言っています。二人がいま言い争っているとしましょう。それで一方が相手の欠点とか弱点を攻撃するとしましょう。しかし自分はそれが理解できないし納得できないのです。だから言い負かそうとするために、相手の弱点とか相手の欠点などをあばき出して相手を攻撃して仕返すのです。 会社で同僚の間でもそうだし、上司との間でもそうです。上司が自分の自尊心を傷つけたり、そして何か理不尽なことを言ったりすると、この人もイライラして上司の前で上司の弱点とかを攻撃する場合もあると思います。相手がそれ以上何も言えないように黙らせようとすることもあるし、自分が窮地に追われたら相手の弱点を攻撃しながら、あなたは私より偉いのかと言っているのです。それはヨブの今の姿です。皆さんも家庭の中で、また会社の中でこういう姿はないのか顧みますように。聖徒の皆さんにはこういう悪ではなくても、自分の考えや自分の利益に合わなかったり、自分が認められていないと思うときどんな姿だったのか考えますように。 例えば、教会のある組織のリーダーに選ばれたときは熱心だったのに、次に選挙で選ばれなかったなら、前と違って熱心が冷めてしまいます。そして、今リーダーとして新しく選ばれた人より自分が優れていると思うから不満を抱いて、人々は自分を認めてくれないから寂しいのです。今ヨブがそのような心なのです。友達が自分に言っているように、もし自分が悪い人なら、あなたたちは私より偉いのか、その証明をしてみなさいと言っているのです。皆さんもそういう姿がないのか顧みますように。自分の考えとか自分の利益に合わなくて、また自分が認めてもらえないとき不満を抱いたり、心の中で相手を無視したりする姿がないのか顧みますように。それも悪なのです。 そして集まりで自分の意見が受け入れてもらえないとき、どうなるか見てみようと思いながら、協調しないで協力しないならこれも悪でしょう。そして相手の陰口をたたいたりするならこれはもっと大きい悪だし、サタンが喜ぶことでしょう。ただその人がこれまで自分なりに奉仕をしていたことは、人に認められるためにしていたことを自分で明らかにする姿です。ですからこういう悪は、断食して火のように祈って必ず捨てなければなりません。そうしないでこのくらいは自分が相手を呪ったり大きい害を与えたのでもないのにと思うなら、それがもっと大きい悪に育ってしまったり、そして自分の中にずっと隠れた悪があるということです。 今ヨブとヨブの友達を見ながら、本当にひどいな、悪いな、どうして互いにあんなふうに言い争って呪ってまでしているのかと思いますか。皆さんの心にもそういうところがあるかもしれないのです。自分がヨブのような境遇に置かれたら、ヨブよりもひどく悪を行うこともあるということです。だから潜んでいる悪を探し出さなければならないし、言い争ったりすることはなくても、心の中で相手を理解できなくて、そうでなければ思い込みの中で決めつけてしまったり、人に悪口を言ったりする、そういう姿はありませんか。それを発見したならば早く捨てなければなりません。発見したのに捨てなければ、ずっとその隠れた罪が自分の中にあるから、どれほど神様の前に申し訳ないでしょうか。それは敵である悪魔サタンが喜ぶことです。試練と患難をもたらす原因になるのです。 だから悪はどんな悪でも避けなければなりません。私はヨブの友達のようにひどい悪を行っていないと思うかもしれませんが、神様がご覧になるとき、自分の心を本当に聖いのかと変えられなければなりません。相手を無視したり自分より劣っていると思ったり指摘されたくないと思ったりすることも同じです。

ヨブ記講解
再掲載のお知らせ

休載しておりましたヨブ記講解は、42回目より再開できるようになりました。たましいの深いところまで掘り下げて、自分とは何なのかを導いて下さる神様の御手を、ヨブ記講解の深いメッセージより汲み取っていただければ幸いです。​

「ヨブ記講解(47)-悪の極み」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:16~21

これまでヨブに向かって、あらゆる呪いの言葉を言っていたビルダデは、今は木を例えて言い切っています。ヨブ記18:16-17です。

「下ではその根が枯れ、上ではその枝がしなびる。彼についての記憶は地から消え失せ、彼の名はちまたから消える」(ヨブ18:16-17)

木は根が枯れると死ぬしかないでしょう。そして枝がしなびるならどうなるでしょうか?これは完全な死、すべてが消え失すことを意味します。そして彼についての記憶は地から消え失せとあります。その人には何も残らない、人々に覚えられるようなこともなくなるということです。それで人々の間でヨブの名前も呼ばれることもなくなり、ヨブについて言及することもなくなって、すべてが徹底的に滅びてしまうという意味です。ヨブはこれだけ呪われるほどの悪い人ではないのに、友達はあまりにも厳しく呪っています。

みなさん、たとえ相手が悪い人でもその人を呪うことがあってはいけません。何としてでもその人の良いところを見つけて褒めてあげて、その人も善を感じて善の中に入るように道を開いてあげなければなりません。それならヨブを慰めに来た友達が、なぜこのように悪い言葉でヨブを腹立たせて、ヨブの怒りを爆発するようにしたのでしょうか?もちろん友達の悪によるものですが、ヨブを変えさせようとする、神様のご計画の中にありました。

ヨブ記講解で伝えているように、私たちが平安の時は自分の中にある悪を見つけることは難しいです。試練艱難にあってこそ、自分の中にどんな悪があるのか発見することができます。罪とか悪だけではなくて、自分の心の狭いところとか自分の弱いところも、試練艱難にあってこそ発見することができます。より深い愛の次元に成長するためにも必要な過程です。広い心になるためにも、多くの人を受け入れるためにも、試練艱難という過程を通して発展して成長する過程が必要です。

自分なりに祈っていて罪は犯していないようでも、ちょっとモヤモヤがあって喜びが心の中から湧いてこない場合もありますが、それも神様が練ってくださることがあります。自分を誤解して自分について良くない話を他の人にするとか、そういう人が周りにいるとしましょう。自分は熱い心で積極的に何かをしたのに、それが気に入らなくて反対する人がいるとしましょう。その時自分の心はどうなのか?それが罪とか悪ではなくても、自分の心が狭いというのが発見できることがあるでしょう。なんで私のことを理解してくれないのかとか、なんで私はやってもいないことをやったと人に言うのかと落ち込んでしまったり、心が覚めたりすることがあるならば、それも自分の心が狭いからだと悟るようになりますね。祈りながら聖霊様にその理由を教えてくださいと祈れば、自分の姿を発見するようになるでしょう。私の器が狭いんだ。自分自身を愛する姿

があるんだ。昔の信仰の人々のような心ではないんだと、悟るようになるでしょう。

今の私なら迫害されたら殉教できるのかと、自分を発見することがあるでしょう。自分の愛の足りなさを悟って、悔い改めるようになります。神様私は周りの人にあれこれ言われたことで感謝できませんでした。喜べませんでした。このような狭い心の自分を発見しました。悔い改めます。さらに広い心を持つようにしてください。主に似た心に変えられるようにしてくださいと。このように試練艱難を通して自分自身を発見して変えられることができるなら祝福でしょう。

しかしヨブや友達のように試練に会った時、神様の前に呟いたり互いに言い争ったり、悪を行うことはとても愚かな姿です。そうではなくて私たちは、自分を発見して成長するようにしてくださる祝福の糧だと思い、試練の時祈りながら感謝しますように。それで聖霊が悟らせてくださる時、素直にアーメンと受け入れて従って変えられますように。ヨブは試練に会う前は、まるで大きい容器にゴミが沈んでいる水のようで、上のところだけ見ると綺麗に見えました。しかしヨブの友達がヨブの怒りを刺激して激しく揺さぶったら、ヨブの深いところにあったゴミが、悪の姿が一気に現れたのです。この容器の水が本当に綺麗になるためには、沈んでいたゴミは全部取り除かなければなりません。それで完全に綺麗な水になると、その後はどんな人や環境がいくら揺すっても小さいちりも出てこないでしょう。

ですから神様はこのように綺麗な心になるように、ヨブからちりを取り除く作業をしておられるのです。皆さんも試練という過程を通して自分の中にあるゴミが発見されるならば、気を落とすのではなくて感謝しながら、その時その時捨てて速やかに変えられますように。今のこの試練の時が苦しいでしょうか?辛いでしょうか?そのような方々は自分の心を変えさせる作業をしていないからです。自分を発見しようとしないで、周りの人のせいにしたり環境のせいにしたりしているからです。しかし自分を顧みて自分を発見して、信仰が成長するチャンスだと思って変えられていくならば、この時間が辛いのではなくて嬉しくて幸せでしょう。神様の人間耕作の摂理をさらに深く悟ることができるでしょう。そして人の子等の悪、裏切る悪を痛感して自分の中からそれを捨てていくでしょう。そして周りの人を変化に導くこともできるようになるでしょう。皆さんはどのようにこの時間を過ごしているのでしょうか?落ち込んで辛いと思っていますか?きついと思っていますか?でなければ感謝と喜びを持って幸せでいますか? 続くヨブ記8:18でビルダデはこのように言っています。 「彼は光からやみに追いやられ、世から追い出される」(ヨブ8:18) 光からやみに追いやられるとは死を言っています。希望を全部失うことを意味します。そして世から追い出されるとは、ヨブがこの世からいなくなることを言っています。ただ死ぬようになると表現してもいいでしょうが、世から追い出されると表現しているから、とても悪い呪いでしょう。この中に込められた意味は、ヨブが悪いから罠にかかった。それで世から追い出されると言っているのです。つまり世と周りの人がヨブを受け入れないで見捨ててしまったという意味です。 例えばある人が絶望的な時、世にも見捨てられ、全ての人が自分を見捨てたということがあります。これは最後にもう生きる希望がなくなった時に言う言葉でしょう。ビルダデはこのような呪いの言葉を、ためらわずにヨブに向かって言っているのです。ヨブ自身がそのように嘆いてもいけないのに、ビルダデはヨブがそんなものだと呪っているのです。皆さん、今私たちはヨブの友達ビルダデの姿から、悪の極みを見ています。 ところで神様はこれを通して自分自身の心はどうなのか、自分の言葉はどうなのか、顧みるように望んでおられます。例えば神様を信じると言いながら、真理と反対の言葉をためらわずに口にして、相手をつまずかせることがあります。これは相手を直接呪ったのではありませんがとても悪いことであり、相手を苦しめて霊的に殺す言葉になることがあります 例えば人の過ちを伝えて噂話をして誤解させる場合があります。ある人の過ちを知ったことを、第三者に伝えるのです。それで一緒に陰口を叩くのです。それで相手がその人を裁いて罪に定めるようにするのです。だから大きい悪でしょう。自分ひとりでその人を裁いて罪に定めることも悪いのに、人に伝えて一緒に悪を行うようになるのです。だから悪に悪を加える姿です。そして自分の言葉によって仲違いをさせたり、互いに憎み合うようにする人もいます。他の人について噂話をしてそれで互いに誤解するようになって、仲違いをしてしまうことがあります。もちろん自分が実際聞いたこともあるかもしれませんが、伝えないほうがいい時もあるでしょう。 Aという人がある人について、あの人試練にあっていて助けたいなと言いました。それを当事者に伝えるのです。Aさんがこんなふうに言いましたと自分の考えの中で伝えるのです。すると相手が誤解するようになるし、Aという人について悪い印象を持つようになることもあります。Aという人が良い意図で言ったのに、自分の考えで悪く伝える場合もあるし、偽りを加えて伝える場合もあります。それで互いに憎み合うこともあります。これはとても大きい悪でしょう。でもそれを意識しないで平気で偽りを言ったり、それで後で忘れてしまうから罪の壁が壊されないのです。そして自分の考え、思い込みによって真理を間違って引用することもあるし、高ぶって偽りを聖霊の働きのふりをして言う場合もあります。このような言葉によって誰かが傷ついてつまずくなら、これはその人を光から闇に追いやることになります。自分の言葉のせいで全世界より尊い人を、信仰から離れさせてしまうこともあるのです。 マタイ18:6-7に、「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるようなものは、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世は災いだ。」とあります。これは人につまずきを与える人に災いが臨むことを言っているのです。ですから私たちは悪い感情を持って口の言葉を制御できなくて、試練艱難を招くことがあってはいけません。人の心が悪ければその言葉も悪いでしょう。ビルダデの言葉を聞いてみればわかります。 ヨブ記18:19です。 「彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかには一人の生存者もなくなる。」 (ヨブ18:19) 前回ビルダデはヨブに「死の初子が彼のからだを食らおうとしている。」と言っていました。それはヨブの体だけではなく、他の子どもと家族、環境、業績とすべての祝福がなくなるということを表現しました。ビルダデはもう一度具体的にヨブを呪っています。彼には自分の民の中に親類縁者がなくなると言っています。ヨブの家のものが根絶やしされるという呪いです。皆さん、ヨブ記の内容が昔の話、旧約の時代にあったヨブのことだと思わないで、皆さんがその立場になってみてください。自分はヨブのような試練にあっていると思ってみてください。病気で苦しんでいるのに、友達が来て慰めるどころか、このように厳しく呪っているなら、どれほど心が痛むでしょうか。 元老牧師先生はこの場面で、人の心の悪を感じてとても悲しんだとおっしゃられました。そしてヨブの心を考えると、涙が出そうだと言われました。しかし多くの人が自分の小さい試練にとても苦しみながら、人の大きい試練にはあまり共感できません。そして相手が自分に一言言ったからと言ってそれによって辛いのに、自分の口の言葉によって相手が傷つくことは考えられません。もちろん皆さんの中には、ビルダデのように悪い言葉を言う人はいないでしょうが、何気なく言った自分の一言によって、相手にそれが傷になることもあることを、いつも覚えていますように。それでいつも善の言葉、励ます言葉、希望を与える言葉、温かい言葉を口にしましょう。 皆さん、職場でビルダデのように悪い言葉を言って相手を傷つける人が、そのような上司とかがいるなら、皆さんはどう対応するでしょうか。その人によって自分が傷ついたとか、その人の嫌味とかによって、自分を辛いと思ったことはありませんか?その時もしかして根に持っていて、後で言い返したり、人に悪口を言ったりする姿はありませんか?そうしてはいけないでしょう。私たちは世の人と違ってその人のために祈り、その人の心を理解してその立場に立ってみることが必要でしょう。しかし実際はそうできないこともあるでしょう。私は自分なりに善を持って対しているのに、なんであの人はずっとそのように悪い言葉を言って、嫌味を言って私を苦しめるのかと、その人を恨むとか、そういうことはありませんか?私たちはそうではなくて、神様のみ言葉に照らして善を行って、その人のために祈っていけば聖霊が働いてくださるでしょう。 続く本文ヨブ記18:20-21です。 「西に住む者は彼の日について驚き、東に住む者は恐怖に取りつかれる。不正をする者の住みかはまことに、このようであり、これが神を知らない者の住まいである。」(ヨブ18:20-21) これはヨブの今の現状が酷い災いのサンプルになるし、その後を追う人々が恐怖に取りつかれるということを説明しています。ヨブの惨めな結末を警告しているのです。これはヨブを苦しめて、骨をむしばむような苦しみを与える呪いです。ビルダデはヨブがこのようひどい目に遭っていることは、ヨブが不正をする者で、神を知らない者だからと言っています。もちろんヨブは神様について正しく知らなかったので、つまり霊的な無知によって今の過程を経験しています。 もしヨブが神様を正しく知っていたなら、友達が真理を持ってアドバイスするとき、耳を傾けて悔い改めて立ち返ったでしょう。そして神様を恨むことはなかったでしょう。しかし旧約時代に神様を見つける体験もなく、ヨブのように潔白で正しく生きる人はあまりいなかったでしょう。だから神様もヨブの心を認めて褒めておられました。しかしビルダデはヨブのこのような心を知らないまま、不正をする者だとさばいていました。そしてヨブが不正だからその結果として惨めな結末になると決めつけていました。ではビルダデはヨブをそのように評価するほど、ヨブより正しいでしょうか?神様についてよく知っている人でしょうか?そうではありません。ビルダデは神様についてよく知らないし、正しくないのに神様をよく知っているように言い切っているから、おかしい姿でしょう。 十戒の第三の戒めで神様は「あなたはあなたの神の御名をみだりにとなえてはならない」と言われました。そして伝道者の書5:2に、「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だからことばを少なくせよ。」とあります。神様の前で祈るとき、言葉を少なくせよという意味でしょうか?そうではありません。皆さんの日常生活で、自分の口の言葉に気をつけなさいという意味です。私たちの言葉と行い一つ一つを、聖なる神様が炎のような御目で見ておられるということをいつも心にとめて、神様の御名を崇めて、真理の唇になるように努めなければなりません。 ところで皆さんがノンクリスチャンの人と話をするとき、こういう人がいると思います。私も子供のとき教会に通っていたから神様を知っている。私も聖書を読んだから神様について知っているという人もいるでしょう。しかし神様について本当に知っているなら、天国と地獄があることも知っているから、信仰生活をするはずです。しかし神様を知っていると言いながら教会に来ないということは、自分が天国ではなく地獄を選んだことだから愚かなことでしょう。神様を知らないから信仰生活をしていないのです。 教会に通っていない人のことだけではなく、教会に出席していて礼拝も捧げている、奉仕をしている人の中でも、神様を知っている、信じると言いながら、真理通りに行わなければこれは真実な心ではないのです。神様を知るということは、神様の御子であるイエス・キリストを知っているということであり、それはイエス・キリストをただ頭で知っていることだけではなく、心で信じて救い主として受け入れて、その御言葉通りに行うことです。しかし多くの聖徒は主を信じる、神様の御言葉を知っていると言いながら、その御心通りには実行しないことがあります。これは本当に信じることでもないし、ただ知識として知っていることだけです。だから神様の御心ではなくて自分の思い通り、自分の利益に合わせて真理と反対のものを追い求めて、悪を行う場合があるのです。 働き人で、信仰歴が長い神様の御心を知っていると言いながら、人をさばいて罪に定めたり、憎んだり妬んだりしているならば、それは悪を行うことで神様を知っているのではないのです。本当に神様を信じてその御心を知っている人は悪を行えません。ですから私たちはヨブの友達のように、自分も神様の御心をよく知っているように錯覚しているのではないか顧みますように。エペソ4:13に、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに対し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、完全に御心をおこなって神様が望んでおられる子どもの心に変えなければなりません。 結論です。 皆さん、アフリカのある部族では使い道のない木をノコギリで切る代わりに、その木に向かって全ての住民が死んでしまえと叫ぶそうです。そのように呪いの言葉を続けると、実際木がだんだん枯れて死ぬそうです。魂のない木もその言葉に敏感に反応しますが、人はどうでしょう。言葉の力は驚くべきものです。自分の一言によって相手が傷つくこともあるし、勇気を出すこともあります。言葉は人生を左右します。 箴言13:2です。「人はその口の実によって良いものを食べ、裏切る者は暴虐を食べる。」とあります。人はどんな言葉を口にするかによって、祝福されたり呪われたりもします。ビルダデのように厳しい呪いの言葉は言わなくても、心にある悪のため無意識に争いを引き起こしたり、傷つけたり、押しつけるような言葉を口にしているのではないか、顧みますように。そして同じ言葉でも言うべき時があり、言ってはならない時があって、それが必要なのか、じっくり考えて口にする知恵が必要です。どんな言葉を口にするかによって相手が喜んで、慰められたり愛の絆を強くする場合もありますが、反対に傷つけたり苦しみを与えることもあります。ですから、いつも自分がどんな言葉を口にするかはとても大切です。 心が神様によって聖くなる人は口の言葉も聖くなり、善の言葉に変えられます。ルカ6:45で「良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とある通りです。善と愛の言葉を口にするためには心から憎しみ、憤り、怒りなどを捨てて、善と柔和、愛で満たしていかなければなりません。ですから毎日御言葉と祈りによって心を聖めていき、皆さんの口からは傷つける言葉とか、攻撃的な言葉ではなく、徳と愛をもって命を与える言葉だけがありますよう主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思いながら、一緒に祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデがヨブに向かって呪う姿を見ました。その言葉はあまりにも悪くて厳しい呪いの言葉でした。悪の極みを感じました。しかしそれはただビルダデの姿ではなくて、自分の心も自分の姿もそうではなかったのか、顧みて悟りますように。周りの人に対して、兄弟、姉妹に、そして他人に対しても、自分がどんな心でどんな言葉を口にしていたのか、顧みて発見して変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(47)-悪の極み」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:14~15

皆さん、前回はシュアハ人ビルダデが、ヨブに向かって厳しく呪う言葉を一つ一つ調べてみて、私たちの言葉がどれほど重要なのか伝えました。ヨブはまだ御霊の人ではなかったので、友達から責められ呪われた時、とても心が苦しくなりました。だからヨブも友達に向かって悪い言葉で言い返して、互いに自分が正しいと言い争っていたので、感情的になって、だんだん悪に悪を加えていきました。もしヨブと友達が御霊の人だったなら、どのように対応したでしょうか?

相手が罵っても殴っても感謝しながらその相手のために祈っていたでしょう。あの人が私をこんなに苦しめるから、私は言ってもいないことを言ったと言いながら、ぬれ衣を着せるから、私は言い返しをしなくても、あまりにもそのため傷ついてしまいました。それで祈りたくなくなって悲しくなりました、というならそれは悪いことではないと思いますか?いいえ、それも自分を愛する姿で、相手を憎んでいる心があるから、そんな反応が出てくるのです。

悪い人が悪を行うとき、それによって自分が被害を受けるとき、もちろんそのため悲しいでしょう。それで心が痛む時もありますが、しかし皆さんの心の底にある幸せと喜びはなくならないのです。傷つくことがあっても、心から湧いてくる喜びはなくならないのです。しかし今ヨブと友達が、互いに悪で報いているような姿ではなかったとしても、もしかして熱心が冷めたとか、祈りたくなくなったとか、落ち込んでいたとか、そういう姿があるならそれも悪から出てくる姿であるのです。しかし御霊の人ならば喜んで感謝するし、相手のために平和を作るために善を行うでしょう。

例えば使徒パウロの場合、福音を伝えていて受けた苦しみはとても大きかったです。使徒パウロは何の過ちもないのに、ユダヤ人たちは迫害しました。パウロがイエス・キリストが神の御子だと伝えるから、それを受け入れられなくてパウロを迫害しました。使徒パウロはイエス様が救い主であることを伝え、神の力を行っていました。それでユダヤ人は彼を憎んでいました。パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓った人が40人もいました。どれほど悪い姿でしょうか。

使徒パウロは彼らに何か害を与えたのでもないのに、かえって多くの人の病気を癒して、神様の福音を伝えて善を行っていたのに、ユダヤ人たちはそれが嫌でパウロを憎んでいました。そして自分にはない神の力が現れているから、ねたんでいました。だからそのようにパウロを殺そうとしました。40人は飲み食いもしないと誓ったのです。聖書に書いてあるこのような出来事を読んで、初代教会の聖徒が受けた迫害のことを思ってみれば、今私たちが受けている試練はあまり大きいものではないのがわかります。
 

私たちも使命を行っていて、主の福音を伝えているのに、なんでこんなに迫害されるのかと思うかもしれませんが、使徒パウロが受けた苦しみや迫害と比べてみれば、取るに足りないものでありませんか。敵である悪魔サタンはいつでも神の人を妨げて殺そうとしてきました。どの時代にもあることです。パウロが福音を伝えるところには、彼を迫害して殺そうとする人がたくさんいました。パウロが行くところについて行って妨げていました。ある時は石打ちにされて彼が死んだと思われた時もあったし、鞭で数え切れないほど打たれたし、牢に入れられることもありました。それでも使徒パウロは彼らを呪ったりしませんでした。 ローマ9:3に「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」とあります。「私の同胞、肉による同国人のために」と言っています。自分を迫害しているユダヤ人のことですね。その人々の救いのためなら自分が「キリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたい」、つまり自分が地獄に行ってもいいと言っているのです。このように深い善と愛の段階に入ると、敵のためにも命まで渡すことができます。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように、望んでおられます。 ですから今日もメッセージを聞く時、ヨブの友達はあまりにも悪いとだけ思うのではなくて、自分の中にはそんな悪の属性があるのではないか、顧みますように。それでエペソ5:13に「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」とあるように、皆さんも心の中にある悪を発見するならば、光によって善によって変えられますように。前週に続いてヨブにビルダデは呪っていますが、だんだんその程度がひどくなっています。今日はもっとひどい呪いの言葉を口にしています。 ヨブ記18:14です。 「彼はその拠り頼む天幕から引き抜かれ 、恐怖の王のもとへ追いやられる。」(ヨブ18:14) 「拠り頼む天幕から引き抜かれる」とは、すべての家が壊れて身のよりどころがなくなるという意味です。人が潰れると、住んでいた家まで奪われることもあります。このような惨めな身の上になることを言っています。そして「恐怖の王のもとへ追いやられる」とありますが、これはどういう意味でしょうか?多くの人が恐ろしい存在を連想すれば、悪霊のような闇の勢力を思い浮かべます。このような闇の勢力を支配する王なら、ルシファーのことでしょう。しかしここで恐怖の王とは、悪霊やルシファーのような何か闇の勢力を言っているのではありません。私たちがある分野の頭を言うとき、単語の終わりに王をつけますね。何々王と言って発明王とか、貯蓄王とか表現します。ここで恐怖の王というのは、恐怖の極みに達した状態を言っています。したがって恐怖の王のもとへ追いやられるとは、激しい恐怖に囚われて、だんだん心を奪われていく状態を言っています。 ビルダデは火事が起こった家に油を注ぐように、あざける言葉でヨブの心をもっと苦しめています。 ヨブはヨブ記17章:13-14節でこう言っていました。「もし私が、よみを私の住かとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、『おまえは私の父だ』と言い、うじに向かって、『私の母、私の姉妹』と言うのなら、」と言いました。ヨブは惨めな病気で家はバラバラになった状態で、生きる希望を失ってだんだん恐怖に囚われていました。それでヨブは続けて自分の妥当性を主張して、神様の前に立ち向かって友達と言い争ってきました。そしてヨブはこのように恐怖の状態に陥るのをビルダデは知っていたから、恐怖の王の下へ追いやられると表現して、ヨブをあざけっているのです。 ここで私たちが悟るべき重要なことが二つあります。これは恐怖によって起こることについてのことです。第一は、恐れることによってヨブのように一生懸命自分を言い訳することです。例えば、自分が言ったことに責任を取れないとか、任されたことを果たせないとき、人々は恐れます。もしかして叱られるのではないか、他の人に無視されるのではないか、自分の無能さが明るみに出されるのではないかと不安になります。それで心配して恐れて一生懸命言い訳をするのです。 例えば、小さい子供がお母さんがそうしてはいけないと言われたことをしたならば、叱られるのではないか恐れますね。すると、その子供はどんな反応をするでしょうか。お母さんに指摘されたとき、どう言い訳をしようかと思います。でも、お母さんが見ていると、その子供が考えていることが見えますね。皆さんも自分がミスをしたり、あやまちをしたことが人に知られることが不安で、言い訳しようとするのではありませんか。 信仰にあっても、真理の中に住んでいないとき、または知っていながらも聞き従わなかったり、怠けて御言葉通りに行わなかったとき、恐れを持って、自分を合理化するために言い訳をします。自分の過ちを認めればいいのに、あの人のせいだ、環境のせいだと言います。しかし、相手が自分の話を聞いてくれなければ、不満を抱いて言い争うようになることもあります。自分が言い訳をしたとき、相手がそれを聞いてくれないと、ヨブとヨブの友達のように言い争うようになるのです。 皆さんにはこういう姿はありませんか。自分にあやまちがあるなら、それを認めればいいのに。それを認めたくないから、自分を合理化するために言い訳をし続けるのです。すると相手はそれを認めないで指摘するでしょう。だから互いに言い争うようになって、感情的になって、悪を行うようになるのです。でも自分自身は、自分が恐れのため言い訳をしたとは悟れないのです。でも自分の心の中にそういう恐怖があるから、人に無視されるのではないか、自分の無能なところが明るみに出されるのではないかと思って、自分を弁明して、自分を守るために言い訳をするようになります。そして人のせいにしたり、何かの理由付けをして環境のせいにしたりするのです。それが認められなければ争うこともあります。これが恐れによって起こることなのです。 第二は自分を縛りつけることがあります。何かについて恐れると、その原因を悟って早く立ち返らなければなりません。聞き従わなかった人が聞き従って、真理と反対のものをしていた人が真理を行うように、怠けていた人が誠実な人に立ち返ればいいのに、そうでなければ、だんだん恐れに支配されるようになります。皆さんが罪を犯していけば、恐怖に囚われるようになります。罪の意識があって、恐れを感じるようになります。それで不安になって、心配になっていくのです。だんだん自分を押さえつけるようになります。でもその罪の意識がなくなると、罪を罪とも思わないで平気で罪を犯すようになります。それは本当に恐ろしいことです。だから自分に罪の意識があるとき、早く立ち返らなければならないのです。 罪を犯していくとき、恐れを感じるときがありますね。もしかして運転しているとき事故に遭うのではないか不安になったり、道を歩いているとき、上から何かが落ちてきて当たるのではないかと恐れるようになります。そのとき早く立ち返って悔い改めなければなりません。しかしそうしないで、肉のものを追い求めて世を愛していって立ち返らなければ、だんだん御霊のうめきも聞こえなくなってしまい、良心が鈍くなってしまうのです。それで死のうちにだんだん落ちていくのです。皆さんにはそういうことがあってはいけないでしょう。 ですから恐れを感じるようになるときは、御霊の働きだと悟って、速やかに罪と悪から立ち返り悔い改めされますように。皆さんが罪と悪にとどまっていると、いろんな形によって恐怖を覚えるようになります。食事をした後消化しなければ、聖霊に満たされていたときは、ちょっと食べ過ぎたかなと思うだけなのですが、しかし今自分が闇の中にとどまっていて恐れているならばどう思うでしょうか?ちょっと胃が痛くなったり消化しなかったりすると、もしかして大きい病気にかかっているのではないかと不安になるのです。それで数日後それが治ったならば、また自分勝手に罪の中を生きるようになります。 何か体に異常があるときは恐れて、神様の前に悔い改めればいいでしょう。それで痛かったところが癒されれば、神様に感謝して霊的に成長すればいいのですが、反対にどこか痛くてちょっと不安になっても、それが治ったらまたそれを忘れてしまい、相変わらず肉にとどまっている愚かな人になってはいけないでしょう。そして現代を生きている人々には、このような恐怖というものによって、いろんな肉の思いによって鬱病にかかったりすることがあります。パニック障害によって引きこもりになったりすることもあるし、人に会うのが恐ろしくなる対人恐怖症になったりすることもあり、いろいろな問題として現れるのです。しかし神様を信じて主を受け入れた人ならば、そのような恐怖に支配される理由がないのです。自分が御言葉通りに生きていないし、光の中を歩んでいないから、闇がだんだん入ってくるようになって、それによって恐れが生じるのです。しかし神様を愛して聖霊に満たされているならば、いつも幸せで喜びが溢れているでしょう。 そのような生き方をしなければなりませんが、恐れがあり不安があって心配があるならば、何か神様の前で相応しくない姿があるということでしょう。世の人々はその恐怖のためどれほど苦しんでいるでしょうか。そしてある場合は、自分の過ちによるものではなくて、成長する過程で親に暴力を振るわれたりする人もいるし、でなければ職場で上司のことで抑えつけられて、自分がその恐れを覚えることもあるかもしれませんが、真理のみ言葉には答えがありますね。成長過程で親が暴力をふるったならば、そのため自分は今こうだと言い訳をするのではなくて、そのような親を理解して愛を持って受け入れてその親のために祈り、それで自分が許して和解できるようになるならばどれほどいいでしょうか。 そしてお父さんがなぜそうするしかなかったのか、仕事がどんなに大変だったのかとか、いろんな悩みがあったからお酒を飲むしかなかったんだと理解できるなら、受け入れることができるでしょう。そして自分には今、霊の父である神様がおられるから、神様の愛に包まれて、その恐れとかそのような心の傷なども神様の愛によって全部癒されることができるし、解決できるのです。それで愛を持って親のために祈るなら、神様がその相手の心に働いてくださって、関係は良くなるでしょう。ある人は親のせいで自分がこんな性格になってしまって、被害妄想とかがあるんだと思うのですが、そうではなくて、神様の愛と主の愛で心が満たされれば、そういうものは自然になくなるのです。私たちは真理にあってさらに成長しますように。 第1ヨハネ3:21-22です。「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。神様の前に真理を行っているなら、恐れはなくなって、大胆に神様の前に出ることができます。どのようにすれば大胆に出ていくことができるのか、答えがこの御言葉の中にあります。「自分の心に責められなければ」とあります。そして「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」とあります。このような人ならば恐れないし、神様の前に求めるものは何でもいただけるでしょう。私たちも光の中を歩んで真理を行っているなら、大胆に神様に求めるし答えを受けるでしょう。このような人はもしかして過ちをしたとしても、神様の前に素直に認めて指摘されるのを喜んで、悟った後は立ち返るでしょう。 だから言い訳をしないのです。私にこのような肉の痕跡があって過ちを犯しました。申し訳ありません。これからは御言葉通りに生きますと言って、感謝して喜ぶことができます。このため救われないのではないかと不安になったりしないのです。しかし多くの人が変えられたいと言っていますが、何か指摘されたり過ちが明るみに出されたりすると、言い訳をするのに汲々とします。罪を犯しておいて心から悔改めていないから言い訳を続けて、悔改めると言っていても、責められるのが嫌で自分の過ちを認めるのが嫌だから、続けて闇に留まるのです。すると喜びもなくなって聖霊の満たしもなくなるから恐れるのです。 だから恐れを締め出すためには、御言葉通りに生きていない自分を認めて立ち返らなければなりません。完全に変えられるなら、それ以上、敵である悪魔が支配できなくなるから、恐れはなくなり平安と喜びが望みます。しかし自分は神様を愛して信じていると言いながらも、心配があり不安があり恐れがあったのではないのか顧みますように。速やかに闇の業を脱ぎ捨てて光の中を歩みますように。 「彼の天幕には、彼のものではない者が住み、硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」 (ヨブ18:15) 「彼の天幕には彼のものではない者が住み」、これはヨブの家が壊れてなくなった場所に、よその人が住み着くという意味です。硫黄はマッチとか火薬を作る原料で火をつける成分があります。したがって「硫黄が彼の住まいの上にまき散らされる」とは、ヨブのすべてが火で焼き尽くされるという意味です。例えば皆さん、石油を家の中にまき散らされたなら危ないでしょう。家全体が焼き尽くされる危険がありますね。そういうことです。他の人がヨブの家を奪い取るだけではなく、ヨブに残っているものも全部火で焼き尽くされるという意味です。つまりヨブのすべての基盤が滅びて跡形もなく、すべてがなくなるという呪いの言葉です。 このメッセージを聞いている皆さんの中で、ビルダデはひどい、悪い、どうしてあんな呪いを言うのかと考えるかもしれません。しかし自分の心に裁き、罪で定めること、妬み、憎しみ、高ぶりなど悪を捨てていない以上、自分も悪を言うことも行うこともあるのです。多くの人が悪を行っている姿を見るとどうでしょう。そして教会を妨害している人を見るとどうでしょう。その人を憐れんでその人のために祈らなければなりませんが、そうではなくて、その人が憎らしいのです。そしてその人は地獄に行くようなことをしているんだと言うのです。そしてその人が失敗するのを願うのです。 こっそり。 それならビルダデと同じようなことではありませんか。もちろん悪を行う人が悪いのですが、どうして自分がその人を裁いて、罪に定めて自分の悪を行うのでしょうか?そうする必要はないでしょう。ある人の悪をなぜ他の人に伝えるのでしょうか?それよりはその人の悪を知らないほうがいいでしょう。それならその人を憎むこともないし腹を立てることもないでしょう。ある人がひどい悪を行って自分を苦しめたとしましょう。それで自分はそれが悔しくて他の人のところに行って、その人の悪をあれこれ言うとするならば、相手だけではなく自分にもその様に大きい悪があるということです。 ビルダデのようにひどい呪いの言葉を言わなくても、自分の中にある妬み、憎しみ、高ぶりなど悪があると、自分も同じような人になる可能性があるのです。そしてとくに多くの人が自分の目の梁は見ることができず、相手のちりを見て指摘することがあります。これは大きい悪です。しかし人々はこれに気づかないことがよくあります。神様は人のちりを指摘する前に、自分には梁があるのではないか調べるようにと望んでおられます。自分にある悪は発見できないし、人の悪を指摘する人がいます。マタイ7:5ではそういう人を、「偽善者よ」とイエス様は言われました。この様に大きい悪を行っている人なのです。偽善者なのです。どれほど愚かな姿でしょうか。 マタイ7:5です。「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」自分の中にある悪を全部捨てた後でこそ、他の人の悪も真理を持って正確に悟らせることができます。そうしないで相手を指摘して叱るなら、神様はあなたの目にはもっと大きい梁があるのよと、言ってくださるのです。偽善者だと言われるのです。それは大きい悪だと言われるのです。しかし自分がまず自分の悪を捨てて変えられた後、愛を持って相手を悟らせるならば、相手も変えられることができます。兄弟の目からちりを取り除くためには、まず自分の目から梁を取りのけなければならないのです。 第1テサロニケ5:22に「悪はどんな悪でも避けなさい」とあるように、私たちは大小を問わず、どんな悪でも完全に捨てなければなりません。ビルダデは今ひどい呪いの言葉を言って、大きい悪を行っていると思いますか?そして自分にある悪は小さく見えますか?いいえ、神様の前では同じ悪です。相手の過ちを他の人に伝えて噂話をすることも、陰口を叩くことも。ビルダデと同じような悪の根から出てくるものなのです。ですからそれを発見して捨てなければなりません。

「ヨブ記講解(46)-自ら罠をつくらないように」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:11~13

「恐怖が回りから彼を脅かし、彼の足を追い立てる。彼の精力は飢え、わざわいが彼をつまずかせようとしている」(ヨブ18:11-12)

ビルダデはヨブ18:2「いつあなたがたは、その話にけりをつけるのか。まず悟れ」と友達に言ったのですが、いざとなると自分の口ではこのように、ものすごい災いと呪いの言葉を言い放っているから、どれほど矛盾なことで悪いことでしょうか。ここで彼の精力は飢えとあります。ここで精力とは、ヨブが過去に味わっていた富と財産 、名誉、知恵を言います。そして飢えるとは飢饉による飢えでなくて、ヨブの子供たちがみな死んで、すべての富と名誉など、今まで積んでおいたものが崩れてしまったことを意味します。

つまりヨブの自尊心、高ぶりなど、ヨブの角が全部引き抜かれたことです。過ぎ去ったことです。ヨブ、自分の姿を見てみなさい。あなたが積んだものは全部壊されてしまった。あなたの力もなくなった。災いがあなたを待っているだけだと言っています。これまでヨブに悪性の腫物などどんな苦しみがあったのかを表現しながら、今苦しんでいるヨブをあざけってさらに苦しみを受けるように呪っている姿です。みなさん、これまでヨブ記を調べてみるとヨブの友達の姿はどれ程悪いでしょうか。そして友達を無視して、罪に定めているヨブも同じです。それではヨブと友達がなぜここまで互いを傷つけるところになってしまったのでしょうか?互いに自分が正しいと言いながら、言い争うから怒るようになって感情的に対立して、だんだん悪に悪を積むようになりました。

このように心が完全にきよめられる前は、言い争う人がいるなら両方とも間違っているのです。互いに言い争っていて、第三者にどちらが正しいか判断してくれという場合がありますが、お互い様です。相手の方が悪いと思いますか?相手がそう言ったから、私はこう言ったというのでしょうか?そうではありません。自分に悪があるからです。そして相手は自分が正しいと思っているから、そう言っているのです。

このように言い争うことは、目上の人と目下の人の間でもあります。すると目下の人は目上の人の前で、怒鳴ったりすることはできないでしょう。文句があったら、ぶつぶつ言ったりするかもしれません。目上の人なら、自分が言い争っていることに気づかないかもしれません。夫婦の間でもそうです。ある人は自分の意見をストレートに言ってしまう人がいて、ある人は内気で、あまり言えない人がいるならばどうでしょう?それで互いにぶつかることもあります。


 

今ヨブとヨブの友達の場合は互いに言い争っていて、私たちはそれを第三者の視線から見るから分かるのですが、皆さんが当事者になると気づかないかもしれません。そして自分はあまり強く言わない人だから、おとなしい性格だから、ヨブのようには激しく言っていないからと思うかもしれませんが、心の中はどうでしょう。ですから皆さん、誰かが悪いと言う前に、まず自分を顧みなければなりません。そして本当に正しい人ならば、人を嘲笑ったり、非難することはないでしょう。 私は言い争うことはありません、口論とか怒鳴ることもありません、と思うかもしれませんが、しかし噂話が好きな人がいるかもしれないし、その人がいないところでひそひそ話をしながら、その人の悪口を言っているかもしれません。そこまで言わなくても、その人がやった悪いことをなんとなく言いながら、その人の印象が悪くなるようにすることがあるかもしれません。ですから自分を顧みなければなりません。続く聖句にも、ビルダデはヨブを呪っている内容が続きます。 「彼の皮膚を食らおうとしている。死の初子が彼のからだを食らおうとしている。」 (ヨブ18:13) 「皮膚を食らう」とはどういう意味でしょうか ?ヨブが今ひどい皮膚病によって、悪性の腫物によって苦しんでいる姿を表現しています。ところで霊的な意味で、皮膚とはヨブの身体だけではなくその家族や環境、これまで積んできた業績とヨブが受けていた祝福を、全部言っているのです。ですからここで皮膚を食らうという意味は、ヨブのすべてが災いによって完全に滅びてしまうという、厳しい呪いの言葉です。 また「死の初子が彼の体を食らおうとしている」とは、ただ死ぬのではなくて、非常に苦しい死に方をするという意味です。普通の死ではなくて根絶やしにされるみじめな死であり、骨の節々全身のすべての部分が腐っていくような、むごたらしい死に方を言います。人々が死ぬケースを見ると老衰によって自然に死ぬ場合があるし、突然の病気とか事故によって死ぬ場合もあるし、自殺もあります。韓国では昔から寿命を全うして、安らかに死を迎えるのが祝福だと思っていました。実際に多くの人が、寝ていて静かに死ぬのがいいと言っています。 ところで本文でビルダデが、ヨブに言っている死はどんな死でしょうか?死の初子が彼の体を 隅々まで喰らうと言っています。単語そのものだけ聞いても、恐ろしくて惨めな呪いの死でしょう。人が負の感情を剝き出しにすると、このように激しい表現まで使います。特に罪がはびこっている今日ではどうでしょう?ニュースでこのような悪い姿を見ることがあります。互いに口論していて、頭にくると相手に向かって、ひどい悪態をついて、死ねと言ったりする場合もあります。しかも、こういう言葉を身近な間の家族や兄弟、近所の人にも言うのです。これを聞いた相手はどれほどショックを受けて、苦しいし悲しいでしょうか。言った人は一瞬かっとなって言ったと言うかもしれませんが、それを言われた人には大きい傷になるのです 。 そして最近はオンライン時代で、自分と全然関係のない人に 無分別に呪いの文を書いたりします 。自分に何か悪いことをしたわけでもないし、話をしたこともない人に対して、誹謗中傷、悪口などをためらわずに言うのです。匿名だからすまない気持ちもなく、責任感もなくそのようにするのです。匿名でいろんなコメントとか、そして何かニュースとか話題になったことについて、あれこれコメントをつけるのですが、その中を見てみると呪いの言葉とか悪態もあるし、いろんな偽り、悪口、中傷、誹謗などが書いてあります。そのような文を見る当事者はどれほど苦しいでしょうか? それによってうつ病にかかったり、人生を諦めてしまうこともあります。直接の殺人ではなくても、言語暴力によってこのような傷をつけることがあります。皆さんには、こういう悪を行う方はいないでしょうが、最近はそのようなコメントを書き込む年齢がだんだん若くなって、小さい子どもも小学生もそういうことがよくあるみたいです。小学生がこのように本当に厳しいことを書き込んだりすることも、悪い書き込みをすることもあるみたいです。皆さんもしかして自分の子どもはそんなことがないのか、見守っていて気をつけなければならないでしょう。 今日は子どもの主日ですが、自分の子はそんなことないと言うのではなくて、家庭の中で親の前ではそう言わないかもしれませんが、学校で友達といるときはどうなのかわからないでしょう。そして学校で友達の中で、誰かに何か悪い書き込みを書いておいて、それを誇っているように自慢するように言う場合もあるそうです。そしてある子どもは、自分にお金があるのに万引きをする場合もあります。それはお金がないからではなくて、何か心が満たされていないから、それによって満足感を得るとか、そのような心理的なこともあるみたいです。そしてちょっと力が強くて体が大きい場合、自分より弱い子どもを殴ったりいじめたりすると、自分についてくる子どももいるから、それは自分がよくやっていると思う場合もあるみたいですが、万民の子どもの皆さんはそのようなことがあってはいけないでしょう。 そういうことは悪いことだと正しく教える必要があるでしょう。皆さんが自分も知らないある人に 匿名で何か悪い書き込みをしたことはないとしても、皆さんの家族とか兄弟とか教会の聖徒の間で、もしかして気に入らない人に対して不満を抱いて、その人の悪口を言ったりすることがあるなら、それも全部同じ悪から出てくることなのです。だからその悪い心そのものを捨てなければならないのです。真理を知って聖めを慕っている皆さんなら、本文でヨブを呪っているビルダデを見ながらどう思いますか?ビルダデという人は本当にひどいな、どうしてそんな悪い言葉を口にすることがあるのか?どうして友達にそんなふうに悪いことをするのかと思いますか?それなら真理を知る前の過去の自分の姿はどうだったでしょうか? もしかして今もそのような悪の性質が残っているのではないか、顧みなければなりません。ヨブの友達には知識もあって教養もあったのですが、言い争っていったら大きい根本の悪が明らかになりました。人の心の底に潜んでいた悪の性質があらわになったのです。人が聖められる前はこのように心に深く潜んでいた、悪の性質が現れることがあります。だからその根まで引き抜かなければなりません。そのためには火のように祈って心の割礼をしなければなりません 。 自分に悪を行う人に対して、その人を憎む心もないし、不満もないし、何の感情もなくただ愛を持ってとりなしの祈りができるでしょうか?そうはっきり言えるでしょうか?そうでなければ、そう言われて黙ってはいたけれど、心の中でイライラしたりむしゃくしゃしたりして、やっと我慢している自分がいるのではありませんか?それで相手がもっとひどいことを言うと、自分からもそれが爆発してしまうことがあるかもしれません。次の時間にもビルダデの呪いは続きます 。 結論です。 皆さん、ヨブと友達は恨み呪いの言葉によって自ら罠を作っていきました。皆さんも普段自分が口にしている言葉がどうなのか顧みますように。ルカ6:45です 。「良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを放すからです。」とあります。良い心からは良い言葉が出てきますが、悪い心からは悪い言葉が出てきます。ビルダデの心にヨブに対する妬みそねみがあったから、ヨブが試練にあっている姿を見たら、このように呪いの言葉まで出ました。しかしビルダデも前ヨブが豊かで平安だったときは、ヨブを褒めていて憧れていただけでした。それで自分の心にねたみがあるのかわからなかったのですが、今いざとなるとその潜んでいた悪が現れたのです。ヨブも同じです。 これについて理解しやすく例えを元老牧師先生が挙げてくださいましたね。汚い水をコップに入れてしばらくしておくと、ゴミが全部沈んで上はきれいに見えますね。でもコップを揺すると沈んでいたゴミが浮かんできて、水全体が汚くなります。人の心も同じです。皆さんこの水飲めるでしょうか?今ゴミが沈んでいるとき上の部分だけを見るなら、きれいな水のように見えますね。これが透明でないコップだったなら、上から見るときれいな水のように見えるでしょう。でも揺するとこのように汚くなるのです。これは飲めるでしょうか?そうではありませんね。同じです。人の心も平安なときは自分も知らなかった悪が、自分が試練にあったり苦しいことにあると、表に浮かんでくるのです。おとなしくて柔和のように見えた人も、悔しい目にあったら全然違う人になってしまうこともあるし、不当な扱いをされたり問題にぶつかったり、このようにいろんな悪の姿が出てくるのです。試練にあうことによってその人の一番弱いところ、潜んでいた悪が明らかになるのです。 聖霊に満たされているとき、教会に何もなく平安なときは自分の中の悪が現れないでしょう。見えなかったでしょう。でもいろんなことが起こって、悪い人々によって自分が誤解されたり被害を受けたり、そして到底自分には理解できないことをしている人を見たりしたときどうでしょう?そして周りの人は教会から離れてしまい、いろんな悪い話をしているとき、それによって自分が影響を受けて、自分も自分の心の中にあった悪が現れたのではありませんか?それを発見して捨てたならよかったのですが、そうではなくてそれは環境のせいだとか、人のせいだとか言い訳をしているなら、ヨブと同じ姿ではありませんか。そうではなくて自分の中に悪があったのだということを認めなければなりません。自分が不満を抱いていたことは、自分の悪のためであり、自分をわかってくれない人に対して不満を抱いたということを、悟らなければなりません。 みなさん今日、大礼拝のメッセージにあったように、教会の中で派閥とかあってはいけません。党派心を持つことがあってはいけません。堂会長先生の家族だからといって、派閥を作ることとか、そういうことを絶対してはいけません。それぞれ主のしもべとしてすべきことをして、それで自然に聖徒に愛されることはいいのですが、そうではなくて堂会長先生の家族だから、何でも他の人の話も聞かないで、何か自分は側近みたいに言う人がいるようですが、そんなことがあってはいけません。自分は堂会長先生の家族のために義憤を感じたから人と口論したとか、抗議をしたとか、そういうことを自慢話のように言う人がいますが、そんなことがあってはいけません。それは心にある悪が現れたことです。 でもそれが今発見されたからといって驚いたり落ち込むのではなくて、喜んで感謝して、変化のきっかけにすればいいのです。火のように祈り続けて努力していけば、神様の恵みと力、聖霊の助けによって、心が聖くなることができます。明日からは、定めのダニエル祈祷会が始まります。皆さんこれまで聞いたヨブ記講解を通して自分を発見したならば、祈りながらそれを捨てますように。今からは環境とか人のせいにしないで、自分の中にあった悪が表に現れたことを認めて、切に祈りながらそれを捨てて変えられますように。 そして今日のメッセージのタイトルのように、自ら罠を作らないために罪と悪から離れ、特に口の言葉に気をつけますように。神様に逆らい隣人を憎み中傷する言葉、偽りの証言、神の人を裁いて罪に定める言葉、虚しい言葉、高ぶる言葉ではなくて、真実で正しい言葉、善と愛が込められた言葉、希望の言葉、信仰の告白をしましょう。聖霊様は、私たちの賛美と祈り、私たちの口の言葉から出てくる信仰の言葉を聞いて、働いてくださいます。 反対に自分の口の言葉が真理と反対のものなら、敵である悪魔が働きます。多くの人が自分が口にした言葉が罠になって、そのため祈っても答えを受けられないし、長い間試練にあっているのにその原因がわからないのです。神様の前で罪の壁になるような言葉を口にしておいて、忘れてしまったり、サタンに訴えられるようなことを言っておいて、一瞬口が滑ったとか言い訳をしたりします。信仰のない言葉、否定的な言葉、神様に呟いて嘆く言葉が罠になるのです。ですから神様の子供らしく私たちは聖なる心に変えられて、虚しい言葉、不平を言う言葉ではなくて、いつも感謝の告白、賛美、信仰の告白をして、平和の実、祝福の実を結びますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデがヨブを呪う姿、あまりにもひどい悪い言葉を口にしている姿を見ました。しかしそれはビルダデの姿だけではなく、自分にもそういう姿はないのかを顧みますように。自分に害を与えて自分を苦しめる人に対して、その人が失敗するのを願ったり、その人の悪いところを人に伝えたり、噂話をしていたりそういう姿はなかったのか、顧みますように。口の言葉によって罠を作ることはないように、真理の言葉、善の言葉に変えていくようにしてください。明日から定めのダニエル祈祷会が始ります。切に祈りながら、自分自身を発見して変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(46)-自ら罠をつくらないように」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:8~10

皆さん、前回ヨブ記18章では、しばらく友達とヨブの話を聞いていたシュアハ人ビルダデがもう一度話しました。ビルダデはヨブと友達が言い争っていることをやめさせるふりをしながら、自分がもっと喋るようになります。ヨブには「怒って自分自身を引き裂くものよと責めながら、あなたが踏んでいる地でも、あなたが怒るとき驚くだろうか?あなたがいくら怒っても、固い岩をどうすることもできないだろう。」と嘲笑いました。まるで火事が起きた家の火を消そうと入ってきて、煽るようなことです。人が心に怒りがこみ上げてくると、ヨブのように自分自身を引き裂くようになるし、そしてビルダデがヨブにしたように、相手をもっと怒らせて、互いに互いを引き裂く結果を生みだします。ですから私たちはただ善をもって、悪に打ち勝たなければならないと伝えました。 

神様がヨブ記講解を通して、人の悪の属性を一つ一つ教えてくださるのは、私たちが自分自身を発見して、変えられるのを望んでおられるからです。ですからメッセージを聞きながら、ひょっとしてヨブやヨブの友達のような心が自分の中にあるのではないか、発見して速やかに捨てますように。ローマ2:13には、「それは、律法を聞くものが神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。」とあります。いくら素晴らしいメッセージを聞いて知恵を悟っても、それを心で信じて行ってこそ、自分に利益となり正しくなることもできます。ですから今日のメッセージを聞いて悟って、本当に変えられて行いの実を結ぶ幸いな皆さんになりますように。

ヨブ記講解を聞きながら、ヨブと友達が話をして言い争っていて悪を行っている姿を見て、似たような内容が繰り返されているようでも、単語一つ一つの意味を説明しているから、皆さんは人の深い悪について悟るでしょう。そして神様が解き明かしてくださった、その神様の心についても説明しているので、多くを悟ると思います。ヨブとヨブの友達の共通的な悪、そして言い争いの無益さについて伝えています。このメッセージを聞いて、私もそうだと悟る方が多くいると思います。そのように悟ったなら、その後はそれを実行する姿が必要です。今週聞いて来週また聞いて、自分は何も変わっていないのではなくて、聞いて悟った分変えられていかなければならないでしょう。

それで自分がヨブの立場でもヨブの友達の立場でも、聞いた御言葉を真理に照らして行わなければなりません。ある人が自分を苦しめても嫌味を言っても、真理の御言葉を聞いた私たちはどうすべきでしょうか。いつも御言葉に自分を照らしてみますように。それで善を持って悪に打ち勝つなら、神様がどれほど喜ばれるでしょうか。するとより優れた天国に行けるでしょう。そのために神様が、このヨブ記講解を解き明かしてくださるのです。ですからこのメッセージを聞きながら、自分を顧みて変えられる皆さんになりますように。

本文8節でビルダデはこう言います。
「彼は自分の足で網にかかる。落とし穴の上を歩むからだ。」(ヨブ18:8)
 

しかし相手が試練にあっていて苦しみを受けていると、その人が前悪いことを言ったとか、よくないことをしたことをもって、もっとその人を攻撃したり苦しめる人もいます。それはその人に対して妬みがあるからです。皆さんも自分の心にそのような姿がないのか、顧みますように。ある人を普段からあまり気に入らないと思っていたのですが、その人が教会の試練のとき、例えば教会に問題を起こして教会を離れたならば、その人について周りの人にあれこれ悪口を言いながら、あの人、前にこんな悪いことを言ったことがあるとか、こんなこともしたと言いながら噂話しをするのです。 そのようにいろんな噂話しを聞いたり伝えたり、集まってひそひそ話をしたことはありませんか?それも自分の心に悪があるからでしょう。その人を愛するなら心に善があるなら、どうしてそれができるでしょうか?それはその人への憎しみや妬みが心にあったから、それが今そんなふうに現れたのではありませんか。それは大きな悪だと悟って徹底的に悔い改め捨てなければならないでしょう。自分の悪を認めて神様の前に断食しながら祈りながら、へり下って悔い改めなければならないのです。 平安なときはそういう姿が現れません。ですから私たちはヨブ記講解を通して、そういう自分を発見しなければならないのです。そして教会の試練のとき、自分はどうだったのかを顧みなければなりません。自分の心の中にどんな悪があったのかを、見つけなければなりません。イエス様の姿はどうでしたか?悪い人を指摘したり、とがめたり、悪をもって悪に報いる姿はありませんでした。ただ善と愛を行われました。私たちはこのようなイエス様のご性質と行いに、似ていかなければなりません。 マタイ12:20に「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。公義を勝利に導くまでは」とあります。これはイエス様のご性質と行いについての御言葉です。ここでいたんだ葦とは、霊的に世の罪と悪で満ちた人を言います。罪と悪が満ちている人です。それを傷んだ葦に例えています。そのような人でもイエス様は受け入れてくださいました。ただ善だけを行うイエス様を見たのに、悪を行う人々がいました。彼らが傷んだ葦のような人でした。こんな人でもイエス様は見捨てることなく、何としてでも真理をもって悟そうとされました。忍耐を持って受け入れてくださいました。 次にくすぶる燈心とは、心が悪で染まって魂のともしびが消えている人を言います。このような人でも救われる可能性が少しでもあるなら、最後まで諦めない心が主の心です。それでご自身を売る、イスカリオテ・ユダのためにも、最後まで彼が変えられるように待ってくださいました。イスカリオテ・ユダが現金箱から金を盗んでいても、イエス様はそれを知っていながらも、その時指摘したり人の前で叱ったりしませんでした。自分自身で悟るようには教えてくださったでしょう。そのようなイスカリオテ・ユダでも、ご自分を売る人でも、最後まで愛して真理を教えてくださいました。どれほど大きい愛でしょうか。 大きい罪を犯して悔い改めの霊も受けられなくて、御霊が消えていく人を見ても、神様は最後まで諦めないで機会をくださいます。それなのに人が人を諦めてしまっていいでしょうか。あの人は地獄に行く人だと、さばいてしまうことはなかったでしょうか。それは呪いではありませんか。死に至る罪を犯したからと言うのでしょうか。いいえ、イエス様はイスカリオテ・ユダも、最後までそのユダが救われるように、悔い改めるように待ってくださいました。諦めませんでした。 だから私たちも、人が人をさばいてはいけないし、そして自分を顧みなければなりません。自分はどのくらい聖いでしょうか?完全でしょうか?そうでないのにどうして、人が人をさばいて罪に定めて、あの人は死に至ると、このように呪うことができるでしょうか?イエス様は最後まで機会をくださり待ってくださり諦めないで、愛と善を行ってくださいました。その愛と善に私たちは似ていかなければなりません。しかしその機会をつかまないで悔い改めなければ、結局死の道に行くようになりますが、神様の方で先に諦めることはありません。 私たちはこのような神様の心と主の心に似ていかなければなりません。そうしないで、相手が悪を行うからといって失敗するのを望むなら、自分も同じ悪者です。続く本文を読むと、ビルダデの呪いの言葉は続きます。 ヨブ記18:7です。 「彼の力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが彼を投げ倒す。」(ヨブ18:7) 普段からヨブは自分は完璧で正しいと思っていたから、その歩みに力がありました。自信を持っている足取りだったし、堂々としていました。友達がそのヨブの姿を見て、妬むようになったのです。もちろん、友達は前はその妬みに気づかなかったかもしれませんが、ヨブが今滅びている姿を見たら、その妬みが現れているのです。 これは私たち人の心はほとんどそうです。肉の人はこのように悪いのです。誰かがうまくいくと、その人がうまくいくのが面白くないのです。その人に対する妬みがあったからでしょう。一緒に本当に素直に喜ぶことができない場合もよくあるのではありませんか。だから、皆さんも自分自身はどうなのか、顧みなければなりません。まだ捨てていない肉があって、妬み、そねみ、憎しみが自分にもあるということを認めなければなりません。だから神様はヨブ記のメッセージを皆さんが聞いて、自分の肉の心を発見して捨てるようにと望んでおられるのです。 このようなメッセージを聞きながら、自分を照らしてみてください。それで、はっきり目に見えるものとして現れていなくても、心の中に潜んでいるそういう姿があるのではありませんか。誰かが褒められている姿を見て、いやあの人、前こういう欠けているところもあったのに、このようなミスもしたのにとか、ふとよぎるならば、それも自分の中に妬みがある、そねみがあるということでしょう。 そして、褒められている人を見ると気に入らないし、なぜ私はその人より頑張っているのに褒めてくれないのかと思うなら、もっと悪いでしょう。ビルダデは、ヨブの力強い歩みはせばめられ、おのれのはかりごとが投げ倒すと言っています。ヨブがしていたことがはかりごとだと言っています。それによって自分から罠に落ちたと言っているのです。ヨブをけなしている姿です。ビルダデの潜んでいた悪、愛のない心が明らかにされています。心に霊の愛があるなら、人がうまくいくとき、そねんだり妬みません。 韓国のことわざに、いとこが土地を買えば腹が痛むという言葉がありますが、いとこが土地を買ったなら喜ぶべきなのに、愛がないから妬むのです。このように人が成功すれば妬んで、失敗するのを望む心がありますか。そして他人が失敗したとき、まず笑ったり、見くびる姿はありませんか。そういう姿を見ると見苦しいでしょう。善と愛そのものである神様がご覧になるときは、どれほどもどかしいでしょうか。 マタイ5:46に、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも同じことをしているではありませんか。」とあります。自分を愛してくれる人を愛することは、罪人でもできます。しかし神の子供たちは、自分を愛してくれる人だけではなく、敵をも愛する霊の愛を所有しなければなりません。私たちがその愛をまずいただいたからです。神様は私たちが罪人だったとき、私たちのために尊いひとり子を渡してくださり、イエス様は私たちの罪をあがなうために十字架につけられ、血と水を注ぎ出してくださいました。これが私たちのためにくださった神様の愛です。 神様は、このような愛をいただいた私たちが、互いに愛し合うように望んでおられます。ルカ6:27-28です。「しかし今聞いているあなたがたに、私はこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」とあります。ですから自分を愛してくれる人を愛することはもちろん、自分に悪を行う人が滅びるのを見たとしても、いい気味だと思うのではなくて、その人のために悲しみ祈ってあげる心でなければならないでしょう。ところが今ビルダデは敵でもない友達のヨブに、呪いの言葉を言っているのです。次の時間に続けて伝えます。 皆さん、今日のメッセージを聞きながら、自分自身を引き裂く者の姿を悟ったでしょうか。自分の口から恨みとか不満とか 、人への妬み、そねみが出てくる姿がないのか。それによって自分自身を引き裂くようになるのです。そして相手が失敗しているとき、それを嘲笑ったりしている姿ではないのか。自分自身を顧みますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日はヨブの友達ビルダデが言っている言葉を聞いてみました。ヨブと友達が言い争っていてそれをやめなさいと言いながらも、自分が言いたいことを言いながら、またヨブを嘲笑って呪っている姿を見ました。心にある悪がこの様に現れるのを見ました。それが自分自身を引き裂く姿になるのです。私たちがこのように妬みそねみ、憎しみによって自分自身を苦しめて周りの人も苦しめるということを悟って、そのような悪を心から捨てるようにしてください。感謝します。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(45)-自分自身を引き裂く者にならないように」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:5~7

ビルダデはヨブにこう言います。ヨブ記18:5-6です。
「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」(ヨブ18:5-6)

ともしびやロウソクの光が消えると輝かなくなります。ところでここで悪者の光は消えるということは、ヨブのように悪い人の希望がなくなるということを言っています。そして、ともしびも消えるということは、ヨブが積んでおいたすべてのことが、友達の目には悪いことだったから輝かないし、ことごとく消えてしまうと呪っているのです。

ビルダデがこのように厳しくヨブを呪ってあざけっていることは、普段からヨブを妬む心があったからです。過去のヨブの生き方を見てみると、ヨブは自分で誇るくらい正しい行いをして、徳を高めようとしていました。ヨブ記4:3-4です。エリファズはヨブにこう言いました。「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。」ということを見ると、ヨブが徳を高めていたことが分かります。

またヨブ記29:15-17には、ヨブは自分のことを思い出しています。「私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。私はた不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。」と言いました。そのようにヨブは貧しい人、疎外された人に施しをするなど自分なりに善を積んで正しく生きたから、人に尊敬されていました。しかしヨブの友達はそのようなヨブを見ながら、ヨブを羨ましがっていて、妬んでいたことが分かります。

本文でビルダデがヨブをあざけって悪者だと表現していることから分かるでしょう。肉の人々は自分の心に合わなくて、気にいらないことがあれば、このように悪を行います。よくやったこともけなして、小さい過ちも大きい過ちに膨らませて、ないことも偽って悪い人にしてしまいます。ねたみ、そねみ、憎しみがあるからです。しかし御霊の人はマタイ5:44にあるように自分の敵を愛し迫害する者のために祈ります。悪者の光が消えるのを望むのではなくて、その人が変えられて救われるように望むのです。

本文5節でビルダデは、「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない」と言い切っています。そして6節で、「彼の天幕のうちでは、光は暗くなり、彼を照らすともしびも消える。」と言っています。これは5節のことが徐々に進んでいくことを表現します。悪者の光はだんだん暗くなって、ついに完全にともしびが消えるということです。友達をこのように呪っているからどれほど悪い心でしょうか。本当に神様を信じる真理の人なら、ヨブのように苦しんでいる人を見るとどうすべきでしょうか。何としてでも希望を与えて、正しい道に行くように助けなければなりません。これが神様の子供らしい姿でしょう。
 

ここで網とか落とし穴は獲物を取るために、仕掛けておいた罠のことです。ヨブは自ら罠にかかったと言っているのです。皆さん道を歩いていて、目の前に落とし穴とか網があれば避けえるでしょう。しかしビルダデはヨブにこう言っています。あなたが神様の前でつぶやいて神様に喜ばれないから、それは落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることだと、ヨブは愚かだと言っているのです。これはあってはいます。ところでヨブだけではなく、今日多くの人がこのような愚かなことをしています。 クリスチャンならば神様を愛するものの、また恐れることも覚えなければなりません。ただ恐れるのではなくて、神様を敬い恐れかしこむことです。神様を恐れる人は、裁きとか懲らしめを恐れてでも、罪を犯すことができないでしょう。ところで多くの人がこれくらいはと思いながら、罪を犯したり今日までは自分勝手にして、明日から御言葉通りにすればいいと思います。今すぐこらしめとか裁きが臨まないから恐れないのです。しかし神様はそれぞれの行いに応じて、正確に裁かれるのです。自分の口の言葉によってサタンが働き、自分が人を裁いて罪に定めたことによって病気になり、死に至る罪によって試練患難がやってくるのです。今すぐ災いが臨んでいないから大丈夫なのではありません。悔いあらためなければ立ち返っていなければ、懲らしめと裁きが臨みます。 箴言27:1です。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。人は明日どんなことが起こるか分からないし、いつ自分が死ぬようになるのかも分かりません。ですからいつも目を覚ましていて、神様の御言葉に留まっていなければなりません。しかし御言葉から離れて世と妥協すれば、それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。真理を知らない世の人に言っているのではありません。真理を知っていながらも行わない人、そして罪だと知っていながらこのぐらいはと思いながら、犯し続けるその姿を言っているのです。目の前に落とし穴があるのに仕掛け網があるのに、自分の足でかかってしまうのです。知っていながら真理を行わなければ、どれほど愚かな姿でしょうか? ビルダデはヨブにこのような、霊的な意味を知って言ったのではありませんが、真理で照らしてみれば、言葉そのものは正しいことを言っています。これまでヨブは神様の前にずっと呟いて恨み、敵である悪魔サタンが喜ぶような言葉を口にしていたから、だんだん深い沼の中に落ちていくような結果でした。それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。愛する皆さん、自分はそういう姿はないのか、そういう愚かなことはないのか、顧みますように。自分なりに祈っているつもりなのに、なぜ答えを受けられないのか、なぜ試練艱難に遭っているのか、顧みなければなりません。ビルダデは、深い霊的な意味を知らなくても、ヨブにこのように言っています。 私たちは真理を知っているのではありませんか。 しかし、知識だけ知っている人ならば、目の前の利益のために、欲のために罪を犯してしまうのです。そして、今自分が口にしている言葉によって、罠にかかってしまうこともあります。その言葉、口に出した言葉は、神様も聞いておられるし、敵である悪魔も聞いています。だから、それが訴えられることがあるのです。それが罠になってしまうのです。だから自分が口にした言葉の責任は、自分が取るようになるのです。そういう姿を発見したならば、悔い改め立ち返って、自分の口の言葉を直さなければなりません。しかし、口から賛美も出してまた悪も出したりする、そういう姿は、神様に受け入れられない姿です。ヨブがこの様に愚かだと、ビルダデは責めています。 しかし、本当に友達を愛する人なら、どうすべきでしょうか。何としてでも、友達が落とし穴に落ちないように、網にかからないように、助けてあげなければならないでしょう。しかし、友達はかえって、ヨブがもっと苦しむように、もっと愚かなことをするように刺激しているのです。それは、同じ罪を犯す人と同じです。皆さん、目の前に落とし穴があることを知っているならば、友達がそこに向かわないように、引き止めなければならないでしょう。しかし今、ヨブの友達は、ヨブがその道に向かうように、後ろから押しているようなことをしているのです。 同じように、悪を互いに行っているのです。前回も伝えましたが、皆さん、家庭の中ではどうでしょうか。夫婦の間で、親子の間ではどうでしょうか。兄弟との関係で、教会の聖徒の間ではどうでしょうか。相手が今怒っているとき、自分が善の言葉、愛の言葉によって慰めてあげればいいのですが、そうではなくて自分が良かろうと思って、真理の御言葉で悟したつもりでも、相手がもっと怒るのを見ながら、相手を責めている姿ではありませんか。それは自分の中に悪があるということであり、相手がそのためにもっと苦しんで悪を行うようにするなら、それは自分にも責任があってもっと大きい罪を犯すことになるのです。 相手が悪いことをしたことを責めるのではなくて、その人がやっていることは間違っているから何としてでも正さなくてはと思いながら、無理やり押し付けるのではなくて、真理に照らして、知恵を持って待ってあげるときも必要だし、黙って助けてあげることも必要でしょう。しかし、互いに言い争うことになって、互いに苦しめることがあるのです。このような姿は、愚かな姿です。だから、私たちは自分が正しいと思うのではなくて、自分に善があるのか、知恵があるのか、真理に照らさなければなりません。 ヨブの友達は、神様の御名を借りて御言葉を引用して、ヨブの自尊心を傷つけて、ヨブがもっと悪いことを言うようにしています。皆さん、神様の御言葉を間違って引用することは、十戒の第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という御言葉に背いていることです。ヨブは試練にあっていて、神様の前に相応しくない言葉を出して罠を作っていますが、友達はヨブのような状況でもないのに、自分たちの口の言葉によって罠を作っています。しかし私たちはたとえ艱難にあったとしても、自ら罠を作る人や罠にかかることがあってはいけません。 口で不平不満を言って感情的になってしまうことは、落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることです。自分が作った罠に自分がかかることです。自分から問題を見つけようとしないで、他の人のせいにするなら問題は解決できないし、サタンが働くようになります。ですから悪を行うことが自ら罠にかかることなのだということを悟って、このような愚かな人になってはいけないのです。 そして聖徒の間では互いに力づけて慰めてあげなければならないのに、かえって相手が罪の網にかかるようにつまずきを与えてはいけません。兄弟が真理と反対のことをしているとき、アドバイスをするつもりで言ったのに、言い争うようになってしまったならば、それは相手が網にかかるようにすることです。 これを聞きながら、元老牧師先生がどれほど、善をもって悪に打ち勝っておられたのかがわかるでしょう。元老牧師先生は、相手が罪と悪を犯していることを知っていながらも、講壇からは真理の御言葉を伝えて悟らせてはくださいますが、その人が受け入れることが難しいときは、その人を指摘したりすることはなさいませんでした。なぜなら、そう指摘されるともっと悪を行うこともあるから、そうです。 ある人は、元老牧師先生が言ってくださればよいのにと、思うかもしれませんが、元老牧師先生が正確にその人の名前を挙げて言ってくだされば、その人が悟って変わるのではと、そのように思うかもしれませんが、先生はそれよりはるかに高い次元の善と愛を持って、その相手の事情も全部わかって、それぞれに合わせてくださるのです。あるときは待って黙って、そして慰めてくださり、あるときは厳しくまた悟することもあるのです。 皆さん、私たちが誰かのために忍耐をして待ってあげることは、簡単なことではありません。なぜなら、その人によって自分が被害を受けることもあるからです。自分が不当に誤解されることもあるからです。しかし、善がある人はそれを全部甘んじて受けながらも、その人のためなら黙っていることもあるのです。聖徒の皆さんの間で互いにそのような善を行っていくならば、すべての人と平和を作ることができるでしょう。 皆さん、自分はどうでしょうか。真理を行っていない人を見ていると理解できないとか、その人のためにこれは言ってあげなければと思ったりすることはありませんか。そして、罪と悪にとどまっている人をただ見ていたり、そうでなければ、その人をあざけったりするならば、その人も自分の足で網にかかる愚かな人です。ですから私たちは、真理と反対のことをして悪を行っている人でも、哀れんで愛を持って祈り、その人が何としてでも悔い改めて立ち返るように助けてあげる、神様の良い子供になりましょう。ところで、ビルダデはどうでしたか。自分はヨブよりもっと悪い心を持っていながら、ヨブに向かって厳しく指摘しています。 続くヨブ記18:9-10です。 「わなは彼のかかとを捕らえ、しかけ網は彼をつかまえる。地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。」(ヨブ18:9-10) ここで、「罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼をつかまえる。」とはどういう意味でしょうか。罠は鳥獣をおびき寄せたり通路に仕掛けて捕らえる装置です。動物が罠にかかると命を失うようになるように、人のかかとが罠で捕らえられるとは、その人がこの地上から滅びるという意味です。ビルダデはヨブに、動物が仕掛け網にかかって捕獲されるように、あなたも罠によって捕らえられ滅びる、命を失うようになるだろうと呪っているのです。 次にビルダデはヨブに、「地には彼のための輪縄が隠されている。」と言っています。人が輪縄を地に隠しておく理由が何でしょうか。何かを捕えるためでしょう。輪縄を作ってそれをこっそり仕掛けておけば、そこを通っている動物や人がその縄で捕えられるでしょう。だからそれは悪い意図で害を与えるために、そのように仕掛けることではありませんか。そのような悪い目的なのです。ビルダデは今、ヨブがそんなふうに捕えられて、困難に会うようになると言っています。また、その通り道には彼のための穴が隠されていると言います。これも同じ意味です。 人はこのように落とし穴を掘っておいて、その上に草とか土で覆っておいて、動物とか人がその上を歩いていて、落ちるように仕掛けるのです。ビルダデはヨブが悪いから、こんな苦しい目に遭うようになると言い切っています。そしてその輪縄と罠が隠されていると言います。つまりそれが今は目に見えなくても、ヨブのために備えられているという意味です。それでヨブがいつかはその落とし穴に落ちて滅び、命を失うようになるだろうと言っています。あなたはもうすぐ罠に捉えられ仕掛網に捕まえられるだろうと、落とし穴に落とされるだろうと言って、ヨブを怖がらせて脅しているのです。 ビルダデはこのように、自分がヨブを落としているとは思わなくても、普段からヨブを憎んでいた心が、このように恐ろしい表現として現れているのです。人の心が真理によって変えられる前は、ほとんど嫌いな人が失敗するのを願います。例えば相手のせいで自分が大きい苦しみに遭ったり、濡れ衣を着せられたならどう思いますか。あの人も悪いことに遭うだろう、覚えておけとか心の中で呪う人もいるでしょう。皆さんの中ではそこまでいかなくても、まだ人を憎んでいる負の感情が、残っているのではないのか顧みますように。 自分を苦しめた人が今失敗して苦しみにあっているなら、それを見て心がスッとしたり、ちょっと面白いと思ったりすることはありませんか。そして、その人が前に自分にしたことを思い出して、いい気味だと思うのではありませんか。そうでなければ、その人があまりにもかわいそうで、悔い改めなければならないのに、どう助けてあげればよいのかと思いますか。皆さんにどのくらい悪があるのか善があるのか顧みますように。ビルダデのように呪いまではしなくても、もしかしてまだ人を憎む心があるのではないか顧みますように。 教会の試練のときはどうでしたか。互いに意見が合わなくて言い争うようになったり、そして、ある人によって自分が誤解されたり、自分の悪口をその人が他の人に言ったりして、それを後で聞いて悔しいと思ったりしたとき、皆さんはどうだったでしょうか。その人が嫌いとか、その人が失敗すればいいとか、いなくなったらいいのにとか、思ったことはありませんか?そして、それを自分が一人で考えるだけではなくて、他の人のところに行ってあれこれ言って、その人を本当に悪い人扱いしてしまうことはありませんでしたか。皆さんがそのように口にしたことが、皆さんが心の中で考えたこと、その悪はどのぐらいあったでしょうか。 神様は私たちの罪を償うために、一人子イエス様をなだめの備え物として下さいました。それなのに神様を信じると言いながら、相変わらず憎しみ、妬み、そねみのような悪い心を持っているなら、神様はどう思われるでしょうか?神様の完全な子供にするためには、主の尊い血であらいきよめてくださるためには、練ってくださるしかありません。試練にあって祈りながら悟って、悔い改めて立ち返るようにするのです。ですから、もしかして自分の中に、ヨブやヨブの友達のような悪があるなら、速やかに捨てなければなりません。 神様は聖書を通して、私たちが悪い人にどう対するべきか教えてくださいました。ローマ12:17-21です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「敵が飢えたなら食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「そうすることによってあなたは彼の頭に燃える、炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 自分に悪を行った人、自分に被害を与えた人に、手向かうのではなくて善をもって行うと、神様が介入してくださるのです。これは神様、あの人を懲らしめてくださいという意味ではありません。神様がすべてを働かせて、役としてくださるということです。だから自分を苦しめる人がいても自分が復讐しようとするのではなくて、神様の前にすべてを委ねて祈らなければなりません。祝福の祈りをするということです。このように愛で祈れば、敵である悪魔は退くしかありません。イエス様はこのように善と愛の模範になってくださいました。 イエス様はこの地上におられる間、天国の福音を伝えてくださり、病人を治してくださるなど、善だけを行われました。それなのに悪い人々は、イエス様を殺そうとしました。悪霊に取り憑かれたとか、ベルゼブルに取り憑かれているとか、罵りました。イエス様はその人々の悪い意図を知っておられながらも憎むことなく、神様の御心を悟るように教えてくださいました。それでも聞き得ない時は、彼らと言い争うのではなくて、身を避けられました。そしてご自分をあざけって蔑み十字架につける人々のために、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。 このような愛の結果として、主を救い主として受け入れる人は誰でも神様の子供とされる、救いの御業が起きたのです。イエス様は神の御子だから、救い主に自動的になられたのではありません。 命を尽くした犠牲と愛によって、その結果として、その御名を信じる人は救われるようになったのです。犠牲と献身がなければできないことです。霊の世界の法則です。皆さんも自分が犠牲になって献身してこそ、神様が善の実を結ばせてくださいます。いくら不当な目にあっても、悔しい目にあっても悪を行わないで、善を持って許して、譲って、祈って、神様に委ねると神様が働いてくださるのです。それが神様を信じることです。 神様は善・愛そのものである方だから、善と愛を行う人の味方になってくださいます。この地上では善と悪が対立しています。それで神の力を行う人がいると、闇の勢力はその人を苦しめて殺そうとするのですね。でも善と愛を持って行いその人のために祈り、悪に善を持って報いるなら、神様が働いてくださって、神様に栄光を捧げるようにしてくださるのです。神様に大いに栄光を捧げる人を、敵である悪魔は妨げようとするでしょう、当然。しかし神の人、光の中を歩む人はそのような人も憎みません。 神の力を行った人がもし自分を憎む人、自分を苦しめる人に復讐しようとするなら、そのような人は神の力を行うことが嘘になるでしょう。だから心が善に愛に変えられなければなりません。そのような人に神様は力を下さるのです。イエス様もそうでした。神の御子だから、自然に何もしないで救い主になられたのではありません。人の子等にあざけられ蔑まれ、卑しめられて、殺されても、ただ善と愛を持って代わりに許してくださいと求め、ご自分を完全に犠牲にした時、それによって、その主を信じる人々が救われるようになったのです。代わりにその公義を満たしてくださいました。とうてい、許せない人も許して、理解できない人も理解して、愛をもって救ってくださいました。 皆さん、この霊の世界の法則は、私たちにも同じように適用されます。皆さんが神様の前に答えを受けたい、祝福されたいと思っていながら、祈っていながら、神様の子供らしくない悪を行っているなら、どうして答えを受けるでしょうか?どうして癒されるでしょうか。誰かが自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするからといって落ち込んでしまって、その人に不満を抱いて憎らしいと思ったりしているなら、そのような人がどうして神様の力を受けることができるでしょうか 。 私たちはイエス様のような善と愛の心に似ていかなければなりません。そのような人が、神様に愛されるまことの子供になれます。神様は私たちも主に似て、最高の善と愛を所有するように望んでおられます。そうすると私たちが望んでいる美しい天国、新しいルサレムに入ります。聖徒の皆さんは、新しいエルサレムに行きますと告白していても、その資格を備えるための訓練は、きつい、辛いと思っているのではありませんか?理解できない人も理解して、許せないような人も許して受け入れて、自分をひどく悩ませて苦しめる人も愛するとき、主の心に似て天国を所有できます。 しかし不当な目に遭ったらあの人は到底許せません。こんなことまでされてきついですと思ったなら、これは口の言葉と行いが全然違うでしょう。今この時間が私たちを新しいエルサレムに導くための訓練過程であることを知って、悪はどんな悪でも避けて、善と愛で心を満たしていく聖徒の皆さんになりますように。 そうしないで、もしビルダデのように呪いの言葉を口にするなら、神様は御顔を背けられるでしょう。サタンが喜ぶでしょう。よくやっている続けなさいと言われるのです。サタンから褒められてはいけないでしょう。サタンが皆さんから遠ざかっていかなければなりません。そのためには皆さんが、心が善と愛で満たされていなければなりません。相手のために愛をもって祈り、代わりに公義を満たしてとりなす姿勢が必要です。 ここで網とか落とし穴は獲物を取るために、仕掛けておいた罠のことです。ヨブは自ら罠にかかったと言っているのです。皆さん道を歩いていて、目の前に落とし穴とか網があれば避けえるでしょう。しかしビルダデはヨブにこう言っています。あなたが神様の前でつぶやいて神様に喜ばれないから、それは落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることだと、ヨブは愚かだと言っているのです。これはあってはいます。ところでヨブだけではなく、今日多くの人がこのような愚かなことをしています。 クリスチャンならば神様を愛するものの、また恐れることも覚えなければなりません。ただ恐れるのではなくて、神様を敬い恐れかしこむことです。神様を恐れる人は、裁きとか懲らしめを恐れてでも、罪を犯すことができないでしょう。ところで多くの人がこれくらいはと思いながら、罪を犯したり今日までは自分勝手にして、明日から御言葉通りにすればいいと思います。今すぐこらしめとか裁きが臨まないから恐れないのです。しかし神様はそれぞれの行いに応じて、正確に裁かれるのです。自分の口の言葉によってサタンが働き、自分が人を裁いて罪に定めたことによって病気になり、死に至る罪によって試練患難がやってくるのです。今すぐ災いが臨んでいないから大丈夫なのではありません。悔いあらためなければ立ち返っていなければ、懲らしめと裁きが臨みます。 箴言27:1です。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。人は明日どんなことが起こるか分からないし、いつ自分が死ぬようになるのかも分かりません。ですからいつも目を覚ましていて、神様の御言葉に留まっていなければなりません。しかし御言葉から離れて世と妥協すれば、それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。真理を知らない世の人に言っているのではありません。真理を知っていながらも行わない人、そして罪だと知っていながらこのぐらいはと思いながら、犯し続けるその姿を言っているのです。目の前に落とし穴があるのに仕掛け網があるのに、自分の足でかかってしまうのです。知っていながら真理を行わなければ、どれほど愚かな姿でしょうか? ビルダデはヨブにこのような、霊的な意味を知って言ったのではありませんが、真理で照らしてみれば、言葉そのものは正しいことを言っています。これまでヨブは神様の前にずっと呟いて恨み、敵である悪魔サタンが喜ぶような言葉を口にしていたから、だんだん深い沼の中に落ちていくような結果でした。それは落とし穴の上を歩んで、自分の足で網にかかることと同じです。愛する皆さん、自分はそういう姿はないのか、そういう愚かなことはないのか、顧みますように。自分なりに祈っているつもりなのに、なぜ答えを受けられないのか、なぜ試練艱難に遭っているのか、顧みなければなりません。ビルダデは、深い霊的な意味を知らなくても、ヨブにこのように言っています。 私たちは真理を知っているのではありませんか。 しかし、知識だけ知っている人ならば、目の前の利益のために、欲のために罪を犯してしまうのです。そして、今自分が口にしている言葉によって、罠にかかってしまうこともあります。その言葉、口に出した言葉は、神様も聞いておられるし、敵である悪魔も聞いています。だから、それが訴えられることがあるのです。それが罠になってしまうのです。だから自分が口にした言葉の責任は、自分が取るようになるのです。そういう姿を発見したならば、悔い改め立ち返って、自分の口の言葉を直さなければなりません。しかし、口から賛美も出してまた悪も出したりする、そういう姿は、神様に受け入れられない姿です。ヨブがこの様に愚かだと、ビルダデは責めています。 しかし、本当に友達を愛する人なら、どうすべきでしょうか。何としてでも、友達が落とし穴に落ちないように、網にかからないように、助けてあげなければならないでしょう。しかし、友達はかえって、ヨブがもっと苦しむように、もっと愚かなことをするように刺激しているのです。それは、同じ罪を犯す人と同じです。皆さん、目の前に落とし穴があることを知っているならば、友達がそこに向かわないように、引き止めなければならないでしょう。しかし今、ヨブの友達は、ヨブがその道に向かうように、後ろから押しているようなことをしているのです。 同じように、悪を互いに行っているのです。前回も伝えましたが、皆さん、家庭の中ではどうでしょうか。夫婦の間で、親子の間ではどうでしょうか。兄弟との関係で、教会の聖徒の間ではどうでしょうか。相手が今怒っているとき、自分が善の言葉、愛の言葉によって慰めてあげればいいのですが、そうではなくて自分が良かろうと思って、真理の御言葉で悟したつもりでも、相手がもっと怒るのを見ながら、相手を責めている姿ではありませんか。それは自分の中に悪があるということであり、相手がそのためにもっと苦しんで悪を行うようにするなら、それは自分にも責任があってもっと大きい罪を犯すことになるのです。 相手が悪いことをしたことを責めるのではなくて、その人がやっていることは間違っているから何としてでも正さなくてはと思いながら、無理やり押し付けるのではなくて、真理に照らして、知恵を持って待ってあげるときも必要だし、黙って助けてあげることも必要でしょう。しかし、互いに言い争うことになって、互いに苦しめることがあるのです。このような姿は、愚かな姿です。だから、私たちは自分が正しいと思うのではなくて、自分に善があるのか、知恵があるのか、真理に照らさなければなりません。 ヨブの友達は、神様の御名を借りて御言葉を引用して、ヨブの自尊心を傷つけて、ヨブがもっと悪いことを言うようにしています。皆さん、神様の御言葉を間違って引用することは、十戒の第三の戒め、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という御言葉に背いていることです。ヨブは試練にあっていて、神様の前に相応しくない言葉を出して罠を作っていますが、友達はヨブのような状況でもないのに、自分たちの口の言葉によって罠を作っています。しかし私たちはたとえ艱難にあったとしても、自ら罠を作る人や罠にかかることがあってはいけません。 口で不平不満を言って感情的になってしまうことは、落とし穴の上を歩んで自分の足で網にかかることです。自分が作った罠に自分がかかることです。自分から問題を見つけようとしないで、他の人のせいにするなら問題は解決できないし、サタンが働くようになります。ですから悪を行うことが自ら罠にかかることなのだということを悟って、このような愚かな人になってはいけないのです。 そして聖徒の間では互いに力づけて慰めてあげなければならないのに、かえって相手が罪の網にかかるようにつまずきを与えてはいけません。兄弟が真理と反対のことをしているとき、アドバイスをするつもりで言ったのに、言い争うようになってしまったならば、それは相手が網にかかるようにすることです。 これを聞きながら、元老牧師先生がどれほど、善をもって悪に打ち勝っておられたのかがわかるでしょう。元老牧師先生は、相手が罪と悪を犯していることを知っていながらも、講壇からは真理の御言葉を伝えて悟らせてはくださいますが、その人が受け入れることが難しいときは、その人を指摘したりすることはなさいませんでした。なぜなら、そう指摘されるともっと悪を行うこともあるから、そうです。 ある人は、元老牧師先生が言ってくださればよいのにと、思うかもしれませんが、元老牧師先生が正確にその人の名前を挙げて言ってくだされば、その人が悟って変わるのではと、そのように思うかもしれませんが、先生はそれよりはるかに高い次元の善と愛を持って、その相手の事情も全部わかって、それぞれに合わせてくださるのです。あるときは待って黙って、そして慰めてくださり、あるときは厳しくまた悟することもあるのです。 皆さん、私たちが誰かのために忍耐をして待ってあげることは、簡単なことではありません。なぜなら、その人によって自分が被害を受けることもあるからです。自分が不当に誤解されることもあるからです。しかし、善がある人はそれを全部甘んじて受けながらも、その人のためなら黙っていることもあるのです。聖徒の皆さんの間で互いにそのような善を行っていくならば、すべての人と平和を作ることができるでしょう。 皆さん、自分はどうでしょうか。真理を行っていない人を見ていると理解できないとか、その人のためにこれは言ってあげなければと思ったりすることはありませんか。そして、罪と悪にとどまっている人をただ見ていたり、そうでなければ、その人をあざけったりするならば、その人も自分の足で網にかかる愚かな人です。ですから私たちは、真理と反対のことをして悪を行っている人でも、哀れんで愛を持って祈り、その人が何としてでも悔い改めて立ち返るように助けてあげる、神様の良い子供になりましょう。ところで、ビルダデはどうでしたか。自分はヨブよりもっと悪い心を持っていながら、ヨブに向かって厳しく指摘しています。 続くヨブ記18:9-10です。 「わなは彼のかかとを捕らえ、しかけ網は彼をつかまえる。地には彼のための輪縄が、その通り道には彼のためのわなが隠されている。」(ヨブ18:9-10) ここで、「罠は彼のかかとを捕らえ、仕掛け網は彼をつかまえる。」とはどういう意味でしょうか。罠は鳥獣をおびき寄せたり通路に仕掛けて捕らえる装置です。動物が罠にかかると命を失うようになるように、人のかかとが罠で捕らえられるとは、その人がこの地上から滅びるという意味です。ビルダデはヨブに、動物が仕掛け網にかかって捕獲されるように、あなたも罠によって捕らえられ滅びる、命を失うようになるだろうと呪っているのです。 次にビルダデはヨブに、「地には彼のための輪縄が隠されている。」と言っています。人が輪縄を地に隠しておく理由が何でしょうか。何かを捕えるためでしょう。輪縄を作ってそれをこっそり仕掛けておけば、そこを通っている動物や人がその縄で捕えられるでしょう。だからそれは悪い意図で害を与えるために、そのように仕掛けることではありませんか。そのような悪い目的なのです。ビルダデは今、ヨブがそんなふうに捕えられて、困難に会うようになると言っています。また、その通り道には彼のための穴が隠されていると言います。これも同じ意味です。 人はこのように落とし穴を掘っておいて、その上に草とか土で覆っておいて、動物とか人がその上を歩いていて、落ちるように仕掛けるのです。ビルダデはヨブが悪いから、こんな苦しい目に遭うようになると言い切っています。そしてその輪縄と罠が隠されていると言います。つまりそれが今は目に見えなくても、ヨブのために備えられているという意味です。それでヨブがいつかはその落とし穴に落ちて滅び、命を失うようになるだろうと言っています。あなたはもうすぐ罠に捉えられ仕掛網に捕まえられるだろうと、落とし穴に落とされるだろうと言って、ヨブを怖がらせて脅しているのです。 ビルダデはこのように、自分がヨブを落としているとは思わなくても、普段からヨブを憎んでいた心が、このように恐ろしい表現として現れているのです。人の心が真理によって変えられる前は、ほとんど嫌いな人が失敗するのを願います。例えば相手のせいで自分が大きい苦しみに遭ったり、濡れ衣を着せられたならどう思いますか。あの人も悪いことに遭うだろう、覚えておけとか心の中で呪う人もいるでしょう。皆さんの中ではそこまでいかなくても、まだ人を憎んでいる負の感情が、残っているのではないのか顧みますように。 自分を苦しめた人が今失敗して苦しみにあっているなら、それを見て心がスッとしたり、ちょっと面白いと思ったりすることはありませんか。そして、その人が前に自分にしたことを思い出して、いい気味だと思うのではありませんか。そうでなければ、その人があまりにもかわいそうで、悔い改めなければならないのに、どう助けてあげればよいのかと思いますか。皆さんにどのくらい悪があるのか善があるのか顧みますように。ビルダデのように呪いまではしなくても、もしかしてまだ人を憎む心があるのではないか顧みますように。 教会の試練のときはどうでしたか。互いに意見が合わなくて言い争うようになったり、そして、ある人によって自分が誤解されたり、自分の悪口をその人が他の人に言ったりして、それを後で聞いて悔しいと思ったりしたとき、皆さんはどうだったでしょうか。その人が嫌いとか、その人が失敗すればいいとか、いなくなったらいいのにとか、思ったことはありませんか?そして、それを自分が一人で考えるだけではなくて、他の人のところに行ってあれこれ言って、その人を本当に悪い人扱いしてしまうことはありませんでしたか。皆さんがそのように口にしたことが、皆さんが心の中で考えたこと、その悪はどのぐらいあったでしょうか。 神様は私たちの罪を償うために、一人子イエス様をなだめの備え物として下さいました。それなのに神様を信じると言いながら、相変わらず憎しみ、妬み、そねみのような悪い心を持っているなら、神様はどう思われるでしょうか?神様の完全な子供にするためには、主の尊い血であらいきよめてくださるためには、練ってくださるしかありません。試練にあって祈りながら悟って、悔い改めて立ち返るようにするのです。ですから、もしかして自分の中に、ヨブやヨブの友達のような悪があるなら、速やかに捨てなければなりません。 神様は聖書を通して、私たちが悪い人にどう対するべきか教えてくださいました。ローマ12:17-21です。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「敵が飢えたなら食べさせなさい。渇いたなら飲ませなさい。」とあります。「そうすることによってあなたは彼の頭に燃える、炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 自分に悪を行った人、自分に被害を与えた人に、手向かうのではなくて善をもって行うと、神様が介入してくださるのです。これは神様、あの人を懲らしめてくださいという意味ではありません。神様がすべてを働かせて、役としてくださるということです。だから自分を苦しめる人がいても自分が復讐しようとするのではなくて、神様の前にすべてを委ねて祈らなければなりません。祝福の祈りをするということです。このように愛で祈れば、敵である悪魔は退くしかありません。イエス様はこのように善と愛の模範になってくださいました。 イエス様はこの地上におられる間、天国の福音を伝えてくださり、病人を治してくださるなど、善だけを行われました。それなのに悪い人々は、イエス様を殺そうとしました。悪霊に取り憑かれたとか、ベルゼブルに取り憑かれているとか、罵りました。イエス様はその人々の悪い意図を知っておられながらも憎むことなく、神様の御心を悟るように教えてくださいました。それでも聞き得ない時は、彼らと言い争うのではなくて、身を避けられました。そしてご自分をあざけって蔑み十字架につける人々のために、「父よ。彼らをお許しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。 このような愛の結果として、主を救い主として受け入れる人は誰でも神様の子供とされる、救いの御業が起きたのです。イエス様は神の御子だから、救い主に自動的になられたのではありません。 命を尽くした犠牲と愛によって、その結果として、その御名を信じる人は救われるようになったのです。犠牲と献身がなければできないことです。霊の世界の法則です。皆さんも自分が犠牲になって献身してこそ、神様が善の実を結ばせてくださいます。いくら不当な目にあっても、悔しい目にあっても悪を行わないで、善を持って許して、譲って、祈って、神様に委ねると神様が働いてくださるのです。それが神様を信じることです。 神様は善・愛そのものである方だから、善と愛を行う人の味方になってくださいます。この地上では善と悪が対立しています。それで神の力を行う人がいると、闇の勢力はその人を苦しめて殺そうとするのですね。でも善と愛を持って行いその人のために祈り、悪に善を持って報いるなら、神様が働いてくださって、神様に栄光を捧げるようにしてくださるのです。神様に大いに栄光を捧げる人を、敵である悪魔は妨げようとするでしょう、当然。しかし神の人、光の中を歩む人はそのような人も憎みません。 神の力を行った人がもし自分を憎む人、自分を苦しめる人に復讐しようとするなら、そのような人は神の力を行うことが嘘になるでしょう。だから心が善に愛に変えられなければなりません。そのような人に神様は力を下さるのです。イエス様もそうでした。神の御子だから、自然に何もしないで救い主になられたのではありません。人の子等にあざけられ蔑まれ、卑しめられて、殺されても、ただ善と愛を持って代わりに許してくださいと求め、ご自分を完全に犠牲にした時、それによって、その主を信じる人々が救われるようになったのです。代わりにその公義を満たしてくださいました。とうてい、許せない人も許して、理解できない人も理解して、愛をもって救ってくださいました。 皆さん、この霊の世界の法則は、私たちにも同じように適用されます。皆さんが神様の前に答えを受けたい、祝福されたいと思っていながら、祈っていながら、神様の子供らしくない悪を行っているなら、どうして答えを受けるでしょうか?どうして癒されるでしょうか。誰かが自分に嫌味を言ったり、嫌がらせをするからといって落ち込んでしまって、その人に不満を抱いて憎らしいと思ったりしているなら、そのような人がどうして神様の力を受けることができるでしょうか 。 私たちはイエス様のような善と愛の心に似ていかなければなりません。そのような人が、神様に愛されるまことの子供になれます。神様は私たちも主に似て、最高の善と愛を所有するように望んでおられます。そうすると私たちが望んでいる美しい天国、新しいルサレムに入ります。聖徒の皆さんは、新しいエルサレムに行きますと告白していても、その資格を備えるための訓練は、きつい、辛いと思っているのではありませんか?理解できない人も理解して、許せないような人も許して受け入れて、自分をひどく悩ませて苦しめる人も愛するとき、主の心に似て天国を所有できます。 しかし不当な目に遭ったらあの人は到底許せません。こんなことまでされてきついですと思ったなら、これは口の言葉と行いが全然違うでしょう。今この時間が私たちを新しいエルサレムに導くための訓練過程であることを知って、悪はどんな悪でも避けて、善と愛で心を満たしていく聖徒の皆さんになりますように。 そうしないで、もしビルダデのように呪いの言葉を口にするなら、神様は御顔を背けられるでしょう。サタンが喜ぶでしょう。よくやっている続けなさいと言われるのです。サタンから褒められてはいけないでしょう。サタンが皆さんから遠ざかっていかなければなりません。そのためには皆さんが、心が善と愛で満たされていなければなりません。相手のために愛をもって祈り、代わりに公義を満たしてとりなす姿勢が必要です。

「ヨブ記講解(45)-自分自身を引き裂く者にならないように」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記18:1~4

皆さん、前回ヨブは自分の体は影のようだと言いながら、自分の人生が虚しいと訴えました。ところで、その姿から自分の信仰を顧みるべきだと言いました。真の信仰と希望がなければ、苦しみと試練の中で虚しさを感じて苦しみます。このように言う人もいます。「これまでの自分の人生が全部虚しいものだった」と、教会に通っていて主のために忠実だったことが、虚しいという人がいます。

それは問題でしょう。私たちは天国に全部積まなければならないのに、そうしなかったのではありませんか。自分なりに忠実にした、忠実に仕えたつもりでも、試練にあったりすると疲れたとか辛いとか、今まで自分がやってきたことが虚しいと言いながら、損をしたと思いながら今までの信仰を否定してしまうならば、今のヨブのような姿ではありませんか。

自分が信じる主が実像ではなくて、影のようになってしまったからです。主に出会った時は実体である主に出会いました。しかし自分が移り変わってしまうから、自分が御言葉通りに生きていないから自分というものが死なないで、自分を主張しているからそうです。それで試練にあったら主が影のようになってしまい、自分の信仰が移り変わってしまうのです。

本当に信仰があるならば、
ヘブル11:1「信仰は望んでいることから保証し目に見えないものを確信させるものです。」とあるように、神様に祈り、目に見えるものを捨て神様を体験するでしょう。そして何か苦しいことがあっても、天国への希望があるから呟いたり不平を言ったりしないで、喜びながら感謝して天国に向かって走っていきます。神様は生きておられるのに、今、目の前の問題があるからと言って、神様を否定してはいけないでしょう。神様を本当に信じているならば、希望があるから天国に向かって走っていくことができます。

しかしそうしないで自分の信仰が冷めてしまう人がいるならば、自分が信仰に根をしっかり下ろしていなかったからです。岩の上に家を建てるべきなのに、砂の上に建てたから、厳しい風が吹いてくると倒れてしまいます。しかしヨブは神様を見つけた体験がないから、霊の信仰も希望もありませんでした。それで目の前の現実を見て、苦しみによって虚しいと思いがっかりしています。そして自分はよみを住み家として望むと言っていました。

私たちはこのようなヨブの姿から、なぜ人間耕作が必要なのか、なぜ試練が必要なのかを悟らなければなりません。平安な時嬉しい時は、皆が素晴らしい信仰を持っているように見えます。神様を愛しているように見えます。しかし試練に会うとそれが本当なのかがわかるようになります。その時自分の姿を見てがっかりするのではなくて、自分の欠けているところを発見したから、感謝して変えられなければならないでしょう。

自分は自分なりに熱心だったけれども、その熱さが今冷めてしまった。人を愛していると思ったのに、試練に会ったら人を愛する余裕がなくなってしまったならば、そのように自分の姿を発見することは自分が変えられる機会です。そして自分というものが強くあって悪を行う時もあります。それを発見して悔い改めてこそさらに変えられることができます。だから試練というものが必要なのです。どんな苦しみにあっても揺るがずに変わらない愛を所有したまことの子どもを得たいと思っておられる神様の心を悟って、私たちは神様の前で喜ばれ慰めになるものでなければなりません。

ヨブ記16章と17章では、ヨブが言い訳をして自己主張をしていました。何の過ちもない自分を苦しめる神様は悪い神様だと、友達も悪いと罪に定めました。それから18章ではシュアハ人ビルダデが登場します。ヨブと友達は一生懸命言い争っています。自分の立場を言い張っているから、口論が終わらないのです。怒りと憎しみはだんだん大きくなってもっと悪を行って苦しみをもたらしています。

ビルダデはヨブ記8:11で「パピルスは沼地でなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。」と例えをあげて、すべてのことには原因と結果があるように、ヨブが苦しみを受けていることは、ヨブの悪から始まっていると言った人です。そして続いたヨブと友達の話を聞いていて我慢できず、18章でまた話をするのです。 ヨブ記18:1-2です。 そこでシュアハ人ビルダデが答えて言った。いつあなた方はその話にけりをつけるのか。まず悟れ。それから私たちは語り合おう。(ヨブ18:1-2) もし友達や親戚が口喧嘩をしていて互いに自分が正しいと言って、争いが終わらなければ皆さんはどうするでしょうか?一体いつまで争うとしているのか、もうやめてと言うでしょう。ビルダデもこのような心でこう言っているのです。 これまで私たちはヨブと友達が言い争っている姿を見ながらもどかしかったでしょう。互いに自分だけが正しく相手は正しくないと言いながら、相手が言った言葉に言い掛かりをつけていちいち言い返していました。このようにほとんどの人々は言い争うとき、どんな言葉で相手をまかそうか、いろいろ工夫しながら最後まで黙らないのです。何としてでも相手に勝とうとして、何とか自分の言い分を通そうとします。言い返しができなくなると逆切れしたりします。皆さんはどうでしょうか?相手に勝つためにこの様に虚しい言い争いをしたことはないでしょうか? マタイ7:6に「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはいけません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」とあります。このように自分はいくら良いことを相手に言っても、相手は聞き入れなければ役に立たないし、それ以上無駄な言葉は口にしてはいけないでしょう。相手も自分が正しいと考えているから、引き下がらないのです。だからもっと大きい争いになる前に、自分の方で辞めた方が賢明でしょう。 ところで第三者が戦いを辞めさせようと割り込んで相手を悟すつもりで、かえって自分が長々と喋る場合もあります。本文に出てくるビルダデがそうでした。いつあなた方はその話にけりをつけるのかと言っています。つまりいつまで言い争っているつもりなのかと言いながら辞めさせようとしていても、自分も黙らないで言いたいことを言っているのです。 神様がご覧になるとどれほどおかしいことでしょうか。言い争っているヨブと友達も正しくないけれど、彼らにやめなさいと言っておいて、本人は長々と言い続けているビルダデも同じです。ビルダデはヨブに次のように言います。 ヨブ記18:3-4です。なぜ、私たちは獣のようにみなされるのか。なぜ、あなた方の目には汚れて見えるのか。怒って自分自身を引き裂く者よ。あなたのために地が見捨てられようか。岩がその所から移されようか。(ヨブ18:3-4) これまでヨブが友達にあなた方は人間以下だ、あなた方は未熟だ、私には相手にもならないと無視してきました。それでビルダデはそれに対して、ヨブが友達扱いもしないで獣のようみなしたと言っているのです。獣は人と違って理性も判断力もなくてただ本能に従って生きる存在です。ビルダデの目にはヨブは友達をこのように理性のない獣の扱いをしていたし、曲がった人だと罪に定めていたから、なぜ汚れて見るのかと問い詰めています。 これまでヨブは友達を侮辱して怒りに燃えて激しく嫌がっていました。友達も少しも譲らないで言い返しているからお互い様です。本文4節でビルダデはヨブに「自分自身を引き裂く者よ」と言っています。ヨブは希望もない、むごたらしい状況に置かれた自分に、友達が責めて指摘するから、怒って自分自身を引き裂く者になりました。それではヨブがどのように自分自身を引き裂いたのか調べてみましょう。 ヨブ記16:9-11です。ヨブはこう言います。「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」と言っていました。つまり神様は自分を小僧っ子のようなあなた方に渡して、悪者であるあなた方の手に投げ込まれたと言いながら、神様も友達も悪いと言っています。 この他にもヨブは真理と反対の言葉を口にして、自分自身を引き裂く姿がたくさんありました。自分自身を引き裂くというものが何か、その意味について気になっていたと思います。世でも自害するという言葉がありますね。自分自身を苦しめて自分自身を傷つけることです。 精神的な問題でそのようにする人も世にはいるでしょう。それはとても危険なことでしょう。子供がそうするなら親がそれをやめさせるでしょう。自害すると血も出て傷もついて損ではありませんか。今ヨブがそのようにしているとビルダデが言っているのです。それならヨブがどのように自分自身を引き裂いていたのでしょうか? それは自分の中で自分が苦しんでいること、自分の痛みを神様のせいに友達のせいにしているのです。しかしそれは結局、自分が自分を苦しめることになります。それはただ不満やただのつぶやきではなく、自分に帰ってきて自分をもっと苦しめて、自分をもっと傷つけることになるのです。今自分が苦労していること、自分が今悲しいこと悔しいことを自分はそれが我慢できなくて、口でそのように言っているかもしれませんが、それによって自分に害が返ってくるのです。それを今日のメッセージで悟らなければなりません。もしかして皆さんは自分自身を引き裂くものではないのか、チェックしてみますように。 主を信じると言いながらも真理にあって完全に変えられる前は、このように自分自身を引き裂くものがたくさんいます。悔しい目にあったり自分の考えに合わないとき、怒鳴ったり暴れたり自分の心を治めることができないなら、それも自分自身を引き裂くものになるでしょう。皆さんはこのような悪を忘れたと思います。以前の姿にはあったと思います。 例えをあげましょう。子どもたちに怒りっぽい子どももいるでしょう。親のそのような気を受け継いで生まれて、そして親が育てるときそんなふうに育てる場合もあります。小学生の子どもですが自分が気に入らないことがあると、怒鳴ったり暴れたり泣いたりするのです。例えばデパートに行って自分が欲しいおもちゃがあるけれどそれを親が買ってくれなければそこで駄々をこねたり、そこで暴れたり物を投げたりする子どももいます。そういう荒っぽい姿があるのです。それも自分自身を引き裂く姿の一つの例でしょう。そのような激しく自分の感情を表現する場合もあります。 そして肉の思いによって自分を苦しめる人がいます。人にぶつける場合もあるし、自分の心を自分が傷つけることもあります。皆さんは自分の過去の姿にそういう姿があるかもしれません。しかし今ももしある人が気に入らないとか、ある人について不満を抱いているならば、それを誰かのところに行って全部喋ってこそすっきりすることがあるのではありませんか?そして夫婦喧嘩をするとき相手を侮辱したりして、いろんな形として現れることもあると思います。今日のこのメッセージを聞きながら、自分の過去の姿今の姿を比べて自分を発見して捨てましょう。人はこのように自分自身を引き裂く姿があります。 信仰のない人やまだ信仰の弱い初心の者の場合を例にあげましょう。このような人の中にはお酒を飲んで酔っ払って怒鳴りながら、早くドアを開けろと言いながら足で玄関を蹴る場合もあります。すると自分の足だけ痛いから自分自身を引き裂く姿でしょう。ある人は夫婦喧嘩をして貴重な家財を投げて壊す場合もあります。これはお金の面でも損でしょう。また夫が浮気をしたからといって、奥さんが怒って逸脱行為をしたり、本人も浮気をして家庭が破綻するなら何の益になるでしょうか? 教会の中でも主のしもべや聖徒と揉めて、主日礼拝に来ない人もいますが、主日を守らないことは神様の前で罪を犯すことだから、これも自分自身が損です。怒ったからといって祈らないとか、つまずいて神様の前で忠実に奉仕をしない人も、自分にとって何の益にもならないし苦しみをもたらすことです。このすべてが自分自身を引き裂く姿です。 子供の中では親が自分が欲しいものを買ってくれなければ、ご飯も食べない子がいるのですが自分に損でしょう。これは自分自身を引き裂く姿まではいかなくても、それも悪の一つの姿なのです。世の人のように物を投げたり壊したりすることはなくても、子供の時からこのような悪を捨てなければ、だんだん大きくなるのです。親が家庭でそれを正してちゃんと教えなければならないのです。環境のせいにして親のせいにしてしまい、すぐ諦めてしまったり自己中心な人に育ってしまうのです。それは自分に霊的にマイナスです。それは罪ではないしと思うかもしれませんが、神様は、それは自分自身を愛する姿で神様を愛する姿ではないと言われるでしょう。 ある人のせいでとか、教会で誰々のせいでもう行きたくないとか言うのだったら、それは実は霊的には自分にとって損であり、自己中心的な姿で神様を愛さない姿です。終わりの時、肉の人にはそういう姿がよくあります。このような悪が積まれて結局は自分自身を引き裂く姿になるのです。 それで教会の中でつまずいてしまって教会を離れてしまったり、人のせいにしながら使命を手放してしまう人もいますが、それもいけません。 その他にもヨブのように神様と友達を誤解してさばいて自分で自分を苦しめる人も多くいます。あの人は私を憎んでいるようだ、他の人の話を聞いて私を悪く思っているようだと、思い込んでしまって距離を置くのです。それで苦しむのです。それでもう人と会いたくないと思って家に引きこもってしまったり、自分自身を苦しめる肉の思いもあります。これもどれほど愚かな姿でしょうか? 肉の思いによって自分自身を引き裂く姿です。 そして劣等感によって他の人と比較して苦しみを招いて悲しんでしまったり、落ち込んでしまったり、相手を妬みそねみ悪を行う人もいます。劣等感、人と比較することも自分をとても苦しめることです。ある程度ならば肉の思いで悪だから捨てればいいのですが、度を越してひどい劣等感によって人に害を与える場合もあります。そして自分自身を苦しめる人もいます。いろんな人のことを裁いて罪に定めたりしているのです。自分が嫌う人を誰かが褒めるならばそれが嫌で、その人を憎んだりするのです。するとどれほど苦しいでしょうか、つらいでしょうか。そんなふうにしていて信仰生活をしているなら、どれほど神様の前で苦しいでしょうか。 皆さん、自分自身を自分が殴ってそれで傷つけたなら、それが何の益になるでしょうか。だから私たちは霊的にそんなことがあってはいけないのです。自分の肉の思い込みによって、憶測によって苦しんでいるのです。ヨブがそうでした。神様が自分をこんなふうに苦しめている、神様が懲らしめていると言いながら、自分の考えによってだんだん自分が自分を苦しめて死にたいと思っているのです。皆さんもそういう姿はないのか、顧みますように。これらのすべては自分の悪のためです。 周りの人のせいで苦しいと言う必要はありません。自分の中に悪がなければ、それは関係がないからです。ある人が怒っているならば、自分も怒るのではなくて、私がもしかして失礼なことをしたことはないのかと思いながら自分を顧みて、そしてその人が怒って気が済むならば、喜んで笑顔でそのように受け入れることもできるでしょう。 しかしそうではなくて、あの人は私を憎んでいると思いながら、私の悪口を言っているのではないかと、いつもそれが気になってしょうがないし、それで悩んで苦しむのです。それは自分の悪のためでしょう。環境のせいとか人のせいで苦しい、つらいと言うのではなくて、その原因は自分の悪によるものだから、それを悟らなければなりません。それで自分の感情を制御することができなくて、怒ったりするなら自分自身を引き裂くものになるから、どれ程愚かなことでしょうか。 ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いました。この文章を読むと理解できますか?どんな意図でこんな風に言っているのかと思うでしょう。ビルダデが今言っているように、地がまた岩が移されないことは事実です。どんな意図でこのように言っているのでしょうか。ヨブあなたが怒ったからと言って、地や岩がびくともするだろうかと言いながらあざけっているのです。あなたがあんなに怒って、いろんなことを言っていても、それは何の効き目もないと言っています。日常生活でのたとえをあげましょう。 夫が妻に怒って、横にあった時計を取って投げたとしましょう。この時妻がこう言うのです。それを投げるからと言って気が済むの?もっと高いものを投げればと言うなら、夫はもっと怒るでしょう。夫が投げたことも悪いことですが、妻がそのように言うことはもっと悪いでしょう。だから、夫は初めは時計一つを投げることで済ませようとしたのに、妻にそう言われたら頭にきて、妻が大事に思う高いものを投げて壊すかもしれません。知恵のある人なら、このようなことがあるなら、ああ、私が愚かなことをしているんだ。夫を怒らせたなら、私にだけ損だと思って心を治めるでしょう。そして、神様の前に悔い改めて、主人にも謝るなら問題は大きくならないでしょう。 しかしそうしないで悪い言葉によって相手をもっと怒らせてしまうと、自分にも何の益にもならないでしょう。二人で口喧嘩をして、物を投げたりした時、それを治めようとしなければならないのに、もっと腹を立たせてはいけないでしょう。それで家の家財を投げたりして壊れるならばどれほど損でしょうか。今相手が怒っているならば、こちらから落ち着いて、怒りが治まるまで待ってあげたほうがいいでしょう。二人とも感情的になって相手に勝とうとするから、喧嘩が終わらないのです。 相手が今聞く耳もないし興奮している状態ならば、それ以上刺激しないで、黙って静かに待ったほうがいいでしょう。火事が起こったところにまた火に油を注ぐようなことがあってはいけないでしょう。だから悪を行う人も問題ですが、その人を怒らせた人にも問題があるのです。だから両方同じです。お互いに責任があるのです。お互い様です。こういう場合は互いに自分自身を引き裂いているのです。そして悪い言葉と行いによって、相手を引き裂くことになるのです。自分が悪いことを言って悪い行いをしてすっきりするのではなくて、それが自分を引き裂くことになり相手を引き裂くことになるのです。 ところで相手を引き裂くことは、自分を引き裂くことになります。自分が相手に悪を持って行うなら、その実は自分に返ってくるのです。それで結局損をする人は自分自身だからです。このように互いに引き裂くことは、神様の前でとても御怒りを買うようなことです。その結果サタンが働いて家庭が破綻したり、子どもたちがぐれて病気になったり、いろんな試練や艱難が伴うのです。神様が御顔を背けられるから敵である悪魔サタンが引き裂いてしまうのです。 家庭の中で子どもがぐれてしまう原因がここにあります。親が夫婦喧嘩をするから、するとサタンが働くのです。子どもたちは不安で家にいたくないのです。そして心のその傷をどこで癒されるでしょうか。それで世の人に頼ってしまうこともあります。しかし親は自分のせいだと思わないで子どもを咎めるのです。そうすると問題は解決できません。もう子どもが大人になったとしても、過去にあったことを顧みますように。そしてその悪が今も自分の中に捨てられないままあるということが問題です。 ある夫婦は一緒に暮らしていて数十年たったらこんな風に喧嘩しても互いに損するだけだ、自分の感情をこの様にぶつけても、何の益にもならないと分かりました。それでもう話をしなくなるのです。離婚はしていないけれど、他人のように対するようになります。どれほど悲しいことでしょうか。自分の中にある悪を捨てて、憎しみ、恨み、嘆きなどを捨てて、相手を理解して受け入れて譲り、その様に愛し合わなければならないでしょう。相手を自分が無理やり変えようとするのではなくて、相手を理解してこそ平和をつくることができます。そうしないで相手の気に入らないところを直そうとして、無理やり変えようとするから、言い争うようになって喧嘩して後は疲れてしまい、もう口も聞かなくなって、他人同士のようになってしまうのです。私たちは霊的にそんなことがあってはいけません。 そんな人が神様に祈るなら神様は答えてくださるでしょうか。そのような家庭にはサタンが働いて、試練艱難が伴うのです。だから私たちは自分の心にある悪を、そして配偶者に対する憎しみも、いろんな不満も早く捨てなければなりません。私たちは肉の思いと悪によって自分自身を引き裂くことや、相手を苦しめて引き裂くことがあってはいけません。 社会生活をしていると、時には相手が自分の利益を求めて、自分を苦しめて不利益を与える場合もあります。しかし皆さんがそういう環境の中でも善を行おうとするでしょう。自分がちょっと損をしても言い争おうとしないでしょう。しかし相手があまりにもひどい場合は、爆発してしまうことがあるかもしれません。それで争うこともあったり、このような姿があるなら、結局自分の利益を求める姿があったからだし、だから私たちは主の善の心に似ていかなければなりません。すると神様が相手の心に働きかけてくださるのです。それで善を行っていけば損ではなくて神様が働いてくださるのです。この様に真理を行う皆さんになりますように。 ビルダデはヨブに「あなたのために地が見捨てられようか。岩がそのところから移されようか」と言いながら、あなたはいくら怒っても何も変わらないと言いながら嘲笑っています。火事が起こった家の火を消すと言いながら割り込んで、返って煽る人がいます。ビルダデの立場ではヨブは神様も友達も侮辱して悪を行うから黙らせようと思って言いましたが、それはとても高ぶっている姿です。私たちは相手が過ちをして逆切れしたり悪を行っても、その人を見下したりしてはいけません。その人の悪を刺激してはいけません。どんなところでもただ真理を行うとき相手の怒りが収まるようになって感動するでしょう。 第一テサロニケ5:15です。「誰も悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間でまたすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい」とあります。相手に善をもって悪を悟らせなければなりません。善をもって悪を悟らせると言っているのですが、それは教える立場で言うのではなくて、相手を理解して仕える立場で愛をもって言わなければならないのです。相手が感情的になっているのに、言葉で何とか言ってその人を悟らせようとしてはいけません。その時は何も言わないでただ寄り添って、その人が怒りが収まるまで待ってあげることも必要だし、そしてその人が今訴えていることを聞いてあげることだけでもいいでしょう。 そして自分が知っている真理があってもその真理をもって教えようとするのではなくて、相手が落ち着いて心が開かれる時その後に言った方がいいでしょう。悪をもって悪に報いようとすると相手はさらに大きい悪を行うようになります。これを覚えていてください。皆さんの口の言葉はどうでしょうか。相手が悪を行うから私はこう言ったと皆さんは思うかもしれません。その人のために良かれと思って真理を言っただけなのに、私は良い意図で言っただけなのにと思うかもしれません。しかし相手が今怒っていて相手が興奮している時、私たちが何かを言って相手がもっと怒るならばそれは自分のせいです。悪をもって悪に報いた姿です。 私たちはそうではなくて、善をもって相手に仕えなければなりません。譲って相手が考える時間を与えることが必要です。自分は善をもって相手に接したと思うかもしれませんが、相手がそれによって怒ったり相手がそれを受け入れない場合は、自分の口の言葉を顧みなければならないのです。互いに対立すると両方に問題があるのです。相手が自分を非難して自分が悪口を浴びたとして自分が何か真理をもって悟らせようとしても、互いにだんだん感情的になって、ああだこうだと 自分は正しいと言いながら、それが言い争うことになってしまうことがあります。そういう場合は自分が今善を行っているのではないことがわかるでしょう。 ヨブとヨブの友達もそうでした。自分たちは自分が正しいと思って、相手を悟らせようと思って言ったのですが、それは結局結果的には悪だったのです。皆さんもこれを悟らなければなりません。私は良かれと思って良い意図で相手のために言ってあげたのに、相手は聞き入れなくて言い争うことになったと言ってはいけないのです。そうしては問題が解決されません。皆さんも日常生活の中で、自分の口の言葉がどうなのか、また何か言うとき自分の心はどうなのか、顧みなければなりません。善をもって悪に報いること、これが勝利する道なのです。 韓国の朝鮮王朝の500年の歴史を見ると、悪をもって悪に報いた党派争いと血の流れの歴史の連続でした。例えばチャン・ヒンビという人は、19代王のそばめで20代王の母親でした。ひどい妬みによって自分自身を引き裂いて、自ら墓穴を掘った人です。悪い呪術で王位を奪うなど人の道理から外れた行為によって、ひどく悪い結果をもたらしました。彼女の悪行を知った王は死刑にしました。そして王はそれが当然のことで正しいことだと思いました。しかしそれによって息子は王位に上がった後もいつも党派争いの中で、精神的にまた身体的にも平安がなかったのです。 もし王や臣下たちが真理を知っていたなら、彼女が後で王になる王子の母親ということを考えて、殺す代わりに他の罰を与えたかもしれません。王は自分の正しいことをしたと思うけれども、それは真理ではなかったから、善ではなかったから、その後も血の流れの歴史は続きました。このように多くの人が、自分の行動によって起こる問題は周りの人がそれによって苦しみを受けることを考えることができず、悔しいことがあればそれだけ復讐しようとします。しかしこれはまた違う悪を呼ぶだけです。 先ほど王がそのそばめを死刑にしたことがその時は正しいと思ったけれども、それによって次の自分の息子が王になった時、いろんな党派の争いがもっと激しくなって悲しいことがあったのではありませんか。だからそれをよく考えなければなりません。もちろん悪があってそれに対して処罰することは正しいかもしれませんが、それを遥かに超える愛があって善があるのです。 イエス様の善と愛がそうでした。イエス様はご自身に悪を行って、あざけりさげすむ人々に対してただ善を持って行いました。昔の信仰の人々もそうでした。相手の悪に善をもって報いることが本当の勝利だからです。悪い相手に善をもって対するなら損をするようでしょうか。そうではありません。神様はいつも心の良い人、正道を歩む人の味方になってくださいます。私たちが最後まで善を行う時、神様が共におられ、闇は退き状況が変わるのです。これを心に留めておいてください。

「ヨブ記講解(44)-影のようなヨブの身の上」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:10~16

ヨブ記17:10-11です。
「だが、あなたがたはみな、帰って来るがよい。私はあなた方の中にひとりの知恵のある者も見いだすまい。私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも破れ去った。」
(ヨブ17:10-11)


ここでヨブが友達に、あなた方はみな帰って来るがよいと言っています。これは実際帰ってから戻ってきなさいという意味ではありません。あなた方は今まで言ったことを、全部振り返ってみなさいと言っています。あなた方の言っていることは正しいのか、真実なのか反省してみなさいと言っています。

そして友達の中には知恵のある者はいないと言っています。友達の中で誰も自分を悟らせてくれないし、何の役にも立たないと言っています。だからヨブは自分の日は過ぎ去って、自分が企て自分の心に抱いたことも全部破れ去ったと言っています。つまり神様が自分から御顔を背けられたから苦しみに遭っているけれど、自分ではこの問題が解決できないし、友達の中でも自分を助ける知恵のある人はいないから、だんだん死の道に行くしかないと言っています。

例えば水に溺れている人がいて、それを見つけた友達が泳げないから助けることができないことと同じです。このようにヨブは友達が自分にとって何の役にも立たないし、かえって自分の心をかき乱して自分をイライラさせたから、自分は腹が立って絶望しているということです。ヨブは相変わらず自分だけ正しいとずっと主張していて、込み上げる怒りと苦しみを訴えています。

しかしこれは真理と反対の言葉なのでサタンの罠になるしかありません。悪い言葉を口にすると、相手にも嫌われるし、その言葉によって苦しみを受けるようになります。このように、相手を無視して、神様まで悪い神様と裁く人を、神様はどうして助けることができるでしょうか。ヨブは、友達が自分をあざけった、攻めたと思うから、自分も友達をあざけって攻めています。

続く本文を読むと、わかりやすい言葉で言えるのに、あえて難しい例えを挙げて友達を攻めています。ヨブ記17:12です。

「夜は昼に変えられ、やみから光が近づくと言うが、」(ヨブ17:12)

 

ここで夜は闇を言っています。夜は昼に変えられ、とあります。これは、闇の技を仕事をするようにしている、悪を日常茶飯事のようにしていると、友達を攻めているのです。あなた方は、闇の技をそんな風にしていると言っています。そして、夜は昼に変わったり、闇から光が近づくという言葉は合わない言葉でしょう。昼と夜は正反対だし、光と闇は共存できないからです。

つまり、ヨブは友達に、太陽が西から昇ることがないようにあなた方はとんでもないことを言っていると、例えをあげて表現しています。あなた方は今言っていることは正しくない、あなた方は何の過ちもない私にかえって濡れ衣を着せているのだ、こういう意味で友達を攻めているのです。過ちを犯した人が、かえって正しい人に食ってかかるように、ヨブは友達に指摘して、とんでもないことを言っているのだと責めています。 ヨブの友達は、自分なりに知識があるから、ヨブが今例えを上げて自分たちを咎めていることに気づきました。だからどれほど腹が立つでしょうか。信仰生活をしている人の中でも、相手が自分の心に合わなければ、神様の御言葉を引用して相手を指摘したり、罪に定める場合があります。特に教える立場にいる人の中で、神様の御言葉を間違って使ったり、間違って引用して、信徒たちを怖がらせることがあります。しかし、真理は、平和と喜び、自由と命を与えるものであって、決して不安と恐れをもたらすものではありません。 皆さん、大礼拝の時地獄のメッセージを聞いていますが、不安で恐れるようになりましたか?そうではないでしょう。神様を恐れかしこむ姿勢は必要なのですが、神様はもちろん、裁く方だし、公義によって正確になさる方です。それを知っているならば、罪を犯すことはないでしょう。そして、神様が私たちに地獄のメッセージを伝えてくださる理由は何でしょうか? 神様の愛を感じて、もっと感謝するようになるのが正常でしょう。 私たちはただ恐がるのではなくて、神様を厳しい方だと思うのではなくて、神様の愛を感じなければなりません。そして、皆さんが怖がることがないように、画面には見せてくださらなかったでしょう。不安にさせるためではありません。ヨブ記講解の時も、元老牧師は神様がどんな方なのかを教えてくださいました。そして講壇でも、御言葉通りに行わなければ地獄に行くとか、このように強く厳しく言われたことはありません。呪いとか不安と恐れを持つようなことは言われませんでした。神の力を表して、神様がどんな方なのかを見せて、神様に仕えるように、そして神様の人と変えられるためにはどうすべきかを正確に教えてくださいました。 そして神様がそのようにしてくださる、神様の心と愛を悟らせてくださいました。私たちはその神様の愛を悟るなら、自然に罪から離れるようになります。恐れるから、怖いからではありません。そして元老牧師先生は大いなる神様の力を行っていても、それを利用して人を怖がらせたことはありません。神様を崇めて、神様にだけ栄光を捧げたし、皆さんには喜びと平安、自由と命を持つようにしてくださいました。 天国に行くためには、地獄について知らなければならないから、地獄について教えてくださいました。地獄を知ってこそ、地獄に行くような罪を犯さないからです。そして罪について正確に教えるのは、命を与えるためです。天国に行くようにするためです。呪われないように、災いに遭わないようにするためです。 男女で死に至る肉の行いをすることを、そうしてはいけないと教えて下さる理由もそうです。そのように教えなければ、みながそのようなことをしてもいいんだと思って罪を犯してしまってはいけないからです。教会は、それはいけないと正確に教えるところです。それが真理だから、神様の御言葉だからです。イエス様は、情欲を持って女を見るなら、その心の中で既に罪を犯しているとまで言われました。正確に教えてくださっているのです。 神の力を見て喜んで感謝していた人が、時間が経って後で移り変わってしまうとどうなるでしょうか。罪を指摘されるのが嫌で、きつく思って離れてしまう人もいます。それは、その心が変わってしまったからです。だから、ヨブが言っていたように、影のような状態になってしまうのです。天国、神様がはっきりした確かなもので実情だったのに、それが段々、影のように不確かなものになってしまうものです。 私たちはそうしてはいけません。私たちが目で見て、体験して、耳で聞いたことは、事実で真実です。ヨブと友達は、真理をよく知らない状態で、真理と反対のもので互いを苦しめていますが、 皆さんは真理であって、いつも善と愛を持って互いに仕えなければなりません。主のしもべも働き人もそうです。もしかして、罪を犯している人がいても、憐れんで愛を持って助けようとしなければなりません。罪を指摘して、非難したりしてはいけないし、避けてもいけません。もどかしい心で何としてでも命に導こうとしなければなりません。すると、聖霊が働いてくださるでしょう。 続く本文を読むと、ヨブはまた例えを挙げて自分の心を訴えています。ヨブ記17:13-16です。 「もし私が、よみを私の住みかとして望み、やみに私の寝床をのべ、その穴に向かって、「お前は私の父だ」と言い、うじに向かって、「私の母、私の姉妹」と言うのなら、私の望みはいったいどこにあるのか。だれが、私の望みを見つけよう。よみの深みに下っても、あるいは、共にちりの上に降りて行っても。」(ヨブ17:13-16) ヨブは、虚しさと失望によって、自分の望みはもう、よみに住みかを造っていると言っています。前は全て豊かで平安だったのに、希望があったのに、今は全てがなくなってしまい、自分はよみに下っていくしかないと言っています。今、ヨブの身の上があまりにも辛いから、苦しいから、このように言っています。 その口にした言葉をサタンが聞いて、それを罠として試練をもたらしているのです。真理と反対の姿だからです。皆さんも試練にあっているとき、辛いと思って不平を口にするとそうなります。今、ヨブの言っていることを聞くとどうでしょう?心に平安が感じられますか?そうではありませんね。もどかしいでしょう。皆さん、自分自身はどうなのか、顧みてください。家族に対して、子どもに対して、どんなふうに言っているのか。子どものせいにしたり、配偶者のせいにしたり、配偶者の家族まで悪口を言ったりする姿はありませんか。そういう姿があるなら、顧みて悔い改めましょう。 環境のせいにしたり、人のせいにしないで、自分自身を顧みてへりくだって、自分を愛する心、自分の自尊心、高ぶりなどを悟りましょう。誰かが自分の自尊心を傷つけるなら、かっとなってその人を呪ったりする心はないでしょうか。聖書には右の頬を打たれたら、左の方も向けなさいとあります。それが真理です。それを学んだから、それを行わなければなりません。しかし真理と反対のことを知っている人がたくさんいるからとてももどかしいです。 でも私たちは他の人をああだこうだというのではなくて、私は神様の前でどんな姿なのか、私は真理にとどまっているのかをいつも顧みなければなりません。例えば結婚前に男女の間で付き合って、肉の行いがあったりしてはいけないと、元老牧師先生が教えてくださいました。聖い関係を保つことはどれほどいいことでしょうか。それは良いことではありませんか。真理でしょう。しかし自分はそれが嫌だから、後で強要されたとか、強いられたとか、自分はそうやりたくなかったのにとか、このようにする場合はありませんか? 男女の間で死に至る肉の行いをしてはいけないと、元老牧師先生は正確に真理を教えてくださったのに、その時自分はそれを誤解して、自分は結婚しないと誓願を立ててしまったりしておいて、後でそれを元老牧師先生のせいにしたことはないでしょうか?そして男性の場合はどうでしょう。元老牧師先生がそう言われたことを誤解して、心の割礼をしなければならないのに、そうしないでただ肉的に割礼をしてしまって、後でそれを教会のせいにしたり、元老牧師先生のせいにしたことはありませんか? もしそれによってそれを口実に 教会を悪く言う人がいるならば、私たちは正確に説明しなければならないでしょう。神様が教えてくださった真理を守っていくならば、私たちには平安と喜び幸せがいつもあると思います。神様に喜ばれる信仰の告白をして、真理を行わなければなりません。すると大胆になるでしょう。 ヨブは今、自分はよみに下っていくと言っています。そして闇に自分の寝床をのべると言っています。これは闇にとどまるようになると言っていることです。このようなヨブの言葉から天国への希望は少しも見いだせないのです。皆さんがつまずいている聖徒にアドバイスをしたり、世の人を伝道するとき、ヨブのような反応をする人がいるでしょう。例えば悪を行っている人のところに行って、何々さん罪から立ち返らなければならないでしょうとか、世の人に悔い改めてイエス・キリストを信じてこそ天国に行けますと言うなら、それを黙って聞いている人もいます。しかし私は地獄に行ってもいいが、あなたは悔い改めて天国に行きなさいときつく当たる人もいます。 今のヨブの姿に似ています。ヨブは失望して諦めてしまってやけになって、私はよみに行くのが望みだと言っています。そしてその穴に向かって「お前は私の父だ」と言い、とありますが、これは墓が自分の体を守ってくれるという意味です。人が死んで葬られると墓の中に納められることを例えています。家庭で父の役割は子どもを守ることでしょう。このようにヨブは自分が死ぬと、墓が自分の父になって自分を守ってくれるだろう。安息の場所になるだろうと言っています。 しかしこれは神様の前でとても無礼で、とんでもないことを言っているのです。前は神様を恐れて全焼のいけにえを捧げて祝福されて人に尊敬されていたのに、今は墓が自分を守ってくれる父だと言っているから、どれほどもどかしいでしょうか。神様を信じる人は神様が父となってくださり、守って導いてくださるのに、どうして墓を父と言えるでしょうか。 それではうじに向かって私の母は私の姉妹という。このたとえにはどんな意味があるでしょうか。これはヨブの体が腐っていて、うじが湧いている状態を言っています。母は子どもを産むと抱っこして乳を飲ませ、おんぶして子どもとスキンシップをして育てていきます。兄弟姉妹の間でも子どものときは、互いに抱っこしたりチューもしたり、スキンシップしながら育ちますね。このように今ヨブの体にはうじが湧いて皮膚に住みついているから、うじが自分の母と姉妹のようになっていると言っています。 この表現だけ見てもヨブの悲しみと苦しみがどれほど惨めなのか分かります。ヨブは私の望みは一体どこにあるのかと嘆いています。人が死んで葬られたら、土の中に閉じ込められたようなものになります。だからヨブはよみの深みに下るとか、共に塵の上に降りていくとか言っています。ヨブには肉的に知識もあって学問もあるから、このようなたとえを挙げて自分の身の上をうまく表現していますが、霊的にはあまりにも無知です。 イエス・キリストを信じている私たちの望みは、よみではなく天国です。真理と命を持っている私たちは、天国が自分の家になるからどれほど感謝なことでしょうか。神様を信じる人は霊が生き返って神様の子供とされたので、その霊は天国に入ることができます。体は死んで葬られて塵に戻っても、将来主が空中に降臨される時よみがえって変えられた体を着ます。それで天国で永遠に朽ちない御霊に属する体で生きていけます。このように神様を信じる人は、天国に希望を置くので喜びと感謝が絶えないのです。 この地上でも祝福されます。魂に幸いを得ているように全てに幸いを得、健康であり物質の祝福も受けます。心の悪を捨てて変えられて聖められるほど、心に真の平安が臨むから感謝が溢れます。永遠の命を得たから、たとえ体は死を迎えるとしても恐れることなく、むしろ真の安息を味わえる天国への希望が溢れます。 この他にもこの地上で受ける祝福は数え切れないほどたくさんあります。もちろん天国における栄光と祝福は言うまでもないでしょう。しかしヨブはこのような希望がなかったから、現実の苦しみは終わらないと思って死を待っていました。 皆さん、私たちは復活の主を信じています。これは影でもないし想像でもありません。実像であり現実です。このような信仰と望みがあるなら、ひょっとしてヨブのような苦しみにあっても、全能なる神様を信じるから復活の栄光を受けることができます。皆さんはこのような全き信仰をもって、毎日勝利の生き方をして、どんな状況に置かれても復活の主を望みますよう、主の御名によって祈ります。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日ヨブが嘆いているいろんな言葉、表現を調べてみました。神様の前につぶやいて神様を悪い神様のように言って、友達も無視して友達を責めていました。そして自分の身の上を影のようだと言って、虚しさと失望、絶望によって嘆いていました。自分はよみに行くと言っています。どれほど愚かな姿でしょうか。 天国への希望がない姿でした。しかし私たちは神様を見つけて体験しました。それは影ではなく実像であり現実です。天国もそうです。このような信仰によって勝利するようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

「ヨブ記講解(44)-影のようなヨブの身の上」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:6~9

皆さん、前回はヨブが神様を悪い神様を裁くだけでなく、友達を完全に無視して、友達の子供達まで呪う姿がありました。このようなヨブの姿を見ると、なぜ試練に遭っているのか、なぜ試練が終わらないのかがわかるでしょう。ところで大切なのは、このようなヨブの姿から自分自身を発見して、変えられるきっかけにすることです。

鏡を見て自分の顔に汚物がついているのを見たのに、洗わない人がいるでしょうか。本当に聖くなりたいと思うなら、必ず鏡を見る前と後の顔が変わらなければなりません。同じように皆さんが神様の御言葉を聞いて恵みを受けたなら、自分の欠けているところを発見して、善と愛で満たす行いが必要です。

これまでヨブと友達の話を調べてみて、真理と真理と反対のものを見分けて、神様の御心が何か伝えました。ところでこのメッセージを聞いて恵みを受けたとしても、皆さんの現実では変わったところがなく、相変わらず自分の心に合わないことがあれば、言い争ったりするなら何の役に立つでしょうか。これは鏡を見て、自分の顔に汚物がついているのを知っていて、そのまま放っておくことと同じです。

ヤコブ1:25「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とあります。自分を発見したなら必ず行いが伴わなければなりません。ヨブ記は後にいくほど、人の心に深く潜んでいる悪が現れます。ですから全ての御言葉が自分の姿を映す鏡になり、変えられて命へ出てくる皆さんになりますように。

本文を読むとヨブは自分惨めな身の上を、もう一度神様のせいにしています。ヨブ記17:6です。
「神は私を民の物笑いとされた。私は顔につばきをかけられるものとなった。」(ヨブ17:6)

ヨブの噂は遠くまで広がりました。ヨブはこれを神様が、自分を民の物笑いとされたと表現しています。自分はこんな目に遭う理由がないと思っているから、全てを神様のせいにしているのです。もちろん神様が練っておられることなので、ヨブが考えているように神様がこの様になさったとも見えるかもしれません。しかし神様はヨブを苦しめる悪い意図でそうなさったのではなく、ヨブにより大きい祝福をくださるための良い意図でなさっているから、ヨブの思いとはものすごく違いがあります。

私は顔につばきをかけられるものとなったとありますが、これは実際つばきをかけられたのではなく、自分の悪口を人々が言っているということです。ヨブは文章力があって、知識も多いし知恵もある人だから、このように多くの意味を含んでいる例えを挙げています。

続く本文を読んでもこれがわかります。ヨブ記17:7です。 「私の目は悲しみのためにかすみ、私のからだは影のようだ。」(ヨブ17:7) ここで目の霊的な意味は、前を見通すことができる未来、自分の明日または自分の来歴を言います。人は目で見たものが魂の中に残って、それを思い出して考え悲しむこともあるから、目を言及しながら自分の苦しさを表現しています。 それではヨブの悲しみは何でしょうか。ヨブには多くの悲しみがありました。財産も家族も全部失ったし、人々にあざけられているから悲しいでしょう。そして人生のどん底に落ちてしまい、病気で死ぬ日だけを待っている現実が悲しみでした。このような悲しみのため目がかすんだということは、自分のしたいこと未来が暗くなったという意味です。 またヨブは私の体は影のようだと言っています。影は形はありますが、何の役にも立たないものです。だから何もない虚しさ、自分の意思がくじけたことを言っています。ヨブは自分の体の虚しさをこのような影に例えています。体が腐っていて蛆が湧いて臭いから、大事にすることもできないしケアもできないし何もできない。虚しい体だから影に例えているのです。 皆さん、ヨブのように体が病気になって苦しみにあったら、人生そのものに希望がなくなって影のように虚しくなるしかありませんか?そうではありません。一番大切なのは信仰です。信仰が影のようなものだから絶望してしまうのです。皆さんが主にであって聖霊に満たされていた時は、病気でも貧しくても復活の望みがあって、喜びで満たされていたでしょう。だから仕えて奉仕をすることが楽しかったでしょう。自分の体が弱くても病気でも、主に出会って喜びが溢れているから、最善を尽くして教会の奉仕をして、段々健康になる方もいるでしょう。 主に出会う前は影のような身の上でした。何の望みもなく感謝もできず、いつも不満でいっぱいでした。そのような人だったのですが、主に出会って天国への望みが溢れるようになると、現実は変わらなくても心が変わるから、喜び感謝や希望が溢れるようになります。心が満たされて聖霊に満たされて恵みに満たされているのです。だから影ではなくて本物になるのです。人生が変わり生き方が変わるのです。現実は同じように見えても心が変わるから、生き方が変わるのです。 しかしある時からその姿が変わってしまいます。影のようにあやふやになってしまうことがあります。皆さんもそんなことはないのか、顧みますように。聖霊に満たされているならば熱心が冷めることがないのに、聖霊に満たされなくなってしまうと、信仰生活が影のようになってしまうことがあります。神様の御言葉を聞いて知っていても行いが足りないからです。 御言葉に捨てなさいとあれば捨てて、行いなさいとあれば行って、してはならないとあるならしないで、守りなさいとあるなら守るべきです。しかし御言葉を知識として知っているだけで行わないならば、聖霊に満たされなくなってしまって、心の中で御霊がうめかれるので心は苦しくなります。それでも続けて従わなければ、御言葉通りに行う力もなくなって、祈ることも大変になって霊的に乱れていくしかないのです。 前は確かに信じていた神様、天国、地獄、後の世がだんだん不確かなものになります。霊の世界と信仰の働きがだんだん漠然となります。試練に遭うと全能なる神様の前で求めているのですが、答えがなくあちこち彷徨っているしかありません。今自分の信仰が影のようなもの、虚しいものになってしまったからです。聖霊の満たしもなく熱心も覚めてしまったからです。それで試練に遭った時神様を呼んでも神様が答えてくださることができないのです。 影のような信仰ではなくて、本物、実体にならなければならないのです。だから悲しんで悩んでいるしかないのです。自分が信じている主が影のようになってしまう人がいるのです。皆さんにとって主は実体としておられますか?2000年前におられたイエス様を、私たちは見たことはないのですが、どうして信じているのでしょうか?そしてどうして主に出会ったと言えるのでしょうか? 賛美しているうちに礼拝しているうちに私たちは主を見つけて御言葉の中から見つけて、私たちが体験することによって実体である主に毎日会っているのです。信じています。そう言わなければならないのですが信仰生活が覚めてしまうと、神様の御言葉通りに行っていなければ、その主が実体ではなく影のようになってしまいます。すると前に信じていたこともだんだんその信仰が不確かなものになってしまいます。 前ははっきり信じていたのに、それがだんだん疑うようになるのです。証を聞いても疑うようになります。そして自分の信仰が霊的に乱れてしまうのです。だから証を聞いても自分のものとして信仰として受け止めるのではなくて、聞き流してしまうのです。このような虚しい生き方をしてはいけません。 神様の子供と言いながら、深い霊的な次元に入れずに、真理を知っていても行わないから、その真理のため悲しむようになります。影のような信仰、生き方をしているのです。御言葉を聞いても行わないから、だんだん霊的に暗くなってしまいます。御言葉を信じていると言っても影のようだしそれが力にならないから、問題にぶつかるとこれが神様の御心かあれが御心かと悩みさまよいます。そうやってぐらついて倒れたりすることもあります。その信仰が実体ではなくて影のようなものだからです。 それではこのような時どうすべきでしょうか?初めの愛を回復しなければなりません。主に出会って救われた時の喜び、世のものは虚像であり永遠の天国は実像だと信じて、天国に向かって力強く走っていた時の行いを回復しなければなりません。 例えをあげましょう。ある子供が英語に興味を感じて一生懸命単語も覚えて授業に集中したら、だんだん成績が上がりました。すると自然にその授業が待ち遠しくなりますね。しかしある時から面倒に思うようになって、ゲームにハマってしまって勉強をおろそかにすると、だんだん成績が落ちて最初持っていた興味がなくなり、その授業も退屈に思うようになります。それを回復するためにはどうすべきでしょうか?睡眠時間も削ってもっと頑張って勉強しなければなりません。すると下がった成績を回復できるのです。 霊的にもこのような努力が必要です。一からやり直すつもりで神様の前に謙遜に恵みを求めれば、初めの愛を回復することができます。黙示録2:5です。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」とあります。熱心だった信仰はなぜ冷めてしまったのか?悟って悔い改めて立ち帰らなければなりません。影のように漠然としてもやもやしていた、このような信仰でいてはいけないのです。 そのような状態では、神様を信じていると言っていても神様との関係が確かなものにならないのです。神様の前にそのような時は悔い改めなければなりません。御言葉通りに行いませんでした。世に目を向けていました。熱心が冷めてしまいました。聖霊に満たされなくなってしまいました。それで主も天国も漠然と思うようになりました。 もちろんこの教会で現れている神の力を見ているから否定はできないけれど、教会を離れることはできないけれど、心の中で恵みを受け入れられなくなってしまい熱心が冷めてしまって、信仰が影のようになってしまうから問題なのです。こういう時は神様の前にヘリ下って悔い改めて、許しを求めて世のものを断ち切って努力しなければならないのです。 そのような努力はしないで、ただ祈るからと言って答えは来ないのです。神様がくださった恵みを裏切ってしまったから、自分から捨ててしまったからです。それを回復するためには、もっと努力しなければならないのです。もっと熱くならなければなりません。愛の父なる神様は、皆さんがそのように悔い改めて努力すると助けてくださり恵みをくださいます。 そうすれば、影のように漠然としてモヤモヤしていた信仰ではなくて、実像を見ながら走っていく信仰に変わります。すると求めるものは何でも答え受け、主に出会って体験する、生きている、信仰生活ができます。これは主と神様を見つける信仰生活です。このように神様を見つけるなら全てが解決されるでしょうが、信仰の体験ができないから霊的に彷徨っている聖徒もたくさんいます。 皆さん、万民の聖徒の皆さんには、神様を体験したことがありますね。癒されて答えを受けたことはもちろん問題が解決されることもあるし、賛美して祈るとき聖霊の恵みを体験します。火のような聖霊の御わざも体験するし、霊の目が開かれた方もいるし、異言の賜物もいただきました。この全てが神様の恵みです。 それを1年2年前に受けたなら、その後その恵みが続かないで、世に目を向けてしまって世を愛していくならば、その恵みがだんだん冷めてしまい恵みから離れてしまうようになります。自分)は体験したことがあるから、教会を離れることもできないまま、世と神様とにふた股をかけているのです。それは生ぬるい信仰で救いとは遠く離れています。 だから私たちは神様を見つける生きる信仰生活を、いつもしていなければなりません。それは大きな祝福です。ヨブは神様を見つけた体験がなかったから、このように虚しさによって苦しんでいるからとてももどかしいです。しかし試練は結局、ヨブにとって祝福です。 コーチとか監督が選手を発掘するとき、誰でも選ぶのではありません。先行しそうな資質を持っている人を選んで、熱意を持って心込めて訓練をさせます。厳しい訓練過程を通った後、立派な選手が誕生するのです。同じように神様はヨブが聖められて大きい器になることを知っておられたから、このように厳しく練ってくださるのです。ヨブは自分の体は影のようだと嘆いていて、気を取り直して自分の主張をまた言い張ります。 ヨブ記17:8-9です。 「正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る。義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える。」(ヨブ17:8-9) 友達が自分を正しくないとずっと迫害して、自分の言うことを聞いてくれないから、ヨブは第三者、正しい者、罪のない者を使って友達を説得しようとしています。ここで正しい者、罪のない者はヨブ自身をも指しているでしょう。本当に正しくて罪のない人なら、誰かが人の道から外れてものすごい悪いことをしているのを見ると、義憤を覚えることがあるでしょう。 ヨブは今とんでもない悔しい目に遭っているから、自分のような正しい者はこのことに驚いていると言っています。罪のない者は神を敬わない者に向かって憤ると言っています。つまり自分も正しいし罪がないのにこんな目にあっているから、こんなことをされているから、それに驚いて憤(お)っていると訴えているのです。到底理解できないことを自分の目で見ていて、自分がそのことをされているから悔しくてたまらないのです。 しかしヨブはこのようなことを言える立場ではありません。本当に正しくて罪のない人ならこう言えるでしょうが。ヨブは今、真実でない人だし、第三者の例えを挙げて自分を合理化することは正しくありません。人に信頼されない人が自分の意見を主張するために第三者の名前を言うなら、相手もその第三者を認めないでしょう。それで自分の言葉によって、関係のない第三者に迷惑をかけることもあります。これは日常生活でもよくあることでしょう。 これによってサタンが訴えて、次々と争いを起こすようになります。ある人は自分の目的を達成するために関係のない人まで巻き込みます。例えば自分が言いたいことはあるけれど、誰々がこんなふうに言っていたというのです。そして自分が気に入らないし不満があるとき、誰々がこんなふうに文句を言っていたというふうに言うのです。 そしてこういう人は自分の話に同調する人を探しています。自分の主張を強くしている人は、誰々もこんなふうに文句を言っていたと言いながら、自分に同調してほしいと思うのです。何度もそういうのです。しかしそれは不満を抱きそうなことでもないのに、その人はずっとその不満があっていると、相手の人が賛成してほしいとしつこくそれについて言うのです。自分の見方をしてくれる人を探しているのです。あちこちに行ってあれこれ不満を言いながら、自分は正しいかのように自分のことを訴えているのです。 または自分が話すと相手が聞かないと思って、地位があって権利のある人の名前を上げて、その方がこんなふうに言っていたという場合もあります。またある人は自分が周りに認められないから、頭になる人の名前を上げてその人に自分が愛されているかのように言います。これも罪だと思わないかもしれませんが、これは大きい悪でサタンが訴えることです。これも偽りだからです。 自分が人に認められるために他の人の名前を借りて言うのです。偽りなのです。前に一回褒められたことがあるだけなのに、頭になる人に自分が認められているかのように人に言うのです。それで人に自分の話が、自分の意見が通るようにしようとするのです。それは悪だし、そして正しくないことでしょう。罪になります。そしてその言葉によってサタンが訴えるようになります。 続いてヨブは、「義人は自分の道を保ち」と言っています。自分の道を保つとは正しい道を歩み続けるという意味です。ヨブがこのように言っているのは自分の道が正しいと思うから、周りからどんな反対があっても揺らぐことなく貫くつもりだと言っているのです。つまり私は正しい、しかし友達が何の罪もない私を刺激して悪いもの扱いをしていた。これについて私は解明してきて、これからも解明していくと言っているのです。 そして「手のきよい人は力を増し加える」と言っています。これは自分が正しいから、ますます力を得るようになると言っています。これは一見合わないようではありませんか。なぜならヨブは、ヨブ16:8では自分は痩せ衰えたと言っていたし、ヨブ17:1では自分の霊は乱れたと言っています。今の表現とは正反対に言っていました。しかしヨブは自分の考えではこれはあっていました。ヨブは自分の体が衰えていても、自分の言葉は正しいから、力を増し加えて最後まで主張するという意味で、こう言っているのです。とても愚かな姿ではありませんか。周りからいくら反対されても、私は正しいからこの意見を最後まで貫くと言っています。 ヨブの強い自尊心と意地が込められている言葉です。韓国のことわざに、雀も死ぬ時大声で鳴くという言葉がありますが、ヨブも最後まで声を上げて自分を弁護していくと言っています。体がだんだん痩せ衰えても自分は正しいから、力を絞り出して訴え続けると言っています。皆さん真理に照らしてみれば、このような意地と頑固さは何の使い道もありません。 かえって相手に嫌われるし平和を壊すしかありません。サタンの喜ぶことです。私たちは話をする時も何かを勧める時も、周りの人が理解できないならもう一度顧みるチェックをしてみる必要があります。また互いに平和を保てないのは、それぞれに問題があることだから、自分だけ正しいと主張しないで、相手の話を聞いて理解しようとしなければなりません。 人々は自分が正しい、相手は正しくないと思っています。皆さん自分の考えがあっていると思いますね。正しくないと思っている人はあまりいないと思います。自分が見て感じたことが全部あっていると思います。だからそのように考えて人にもそのように言うのです。人に対してもそんなふうに裁くのです。でも正しくないことあっていないこともたくさんあります。人のした姿だけ、その人の行動だけを見ていますが、その人の心は分からないからです。 ヨブの友達もヨブの言っていることを見て、腹を立てていましたが、ヨブの心は知らなかったのではありませんか。神様はヨブの友達の方がヨブより悪いと言われたでしょう。皆さんも自分が今見て聞いて考えて話していることが、正しいと主張するのではなくて、正しくないかもしれない、あっていないかもしれないと、へりくだる姿勢がとても必要です。それは自分の自尊心を捨てるときに、自分を発見することができます。互いに自分が正しいと主張して言い争うことがあるなら、両方に問題があります。そして両方が相手のせいにするのです。 でも相手の話を聞き入れることは必要です。そして相手の立場で考えてみて、真理と反対のものでなければ聞いてあげることもいいでしょう。相手に合わせてあげることも善でしょう。そのためには心の悪を捨てて、霊の愛が臨んでこそできるのです。このメッセージを聞いて、明日すぐ変えられることが難しくても、続けて努力しなければなりません。大切なのは人と争ったりしたときは、相手にだけ問題があるのではなくて、自分にも何か問題があるのではないかと自分も顧みる姿勢です。 そのために祈りながら、聖霊に助けを求めるなら、聖霊は悟らせてくださるでしょう。イエス様は悪い人々がいくら迫害しても、言い争うことはありませんでした。イエス様は良い働きだけなさったのに、悪い人々がイエス様を殺そうとしました。それでも彼らを憎まなかったし、神様の御心を悟らせてくださり、自分を十字架につける彼らのために赦しの祈りを捧げました。私たちもこのようなイエス様の心に似て、その方の行いを自分の生き方に適応しなければならないでしょう。

「ヨブ記講解(43)-ヨブの自己主張」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記17:1~17:5

の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。(ヨブ17:1)

それで本文ヨブ記17:1「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ。」と言っているのです。ヨブは挫折して苦しみながら、だんだん疲れていきました。それで自暴自棄になって自分の霊は乱れたと言っています。そしてヨブが本当に今すぐ死ぬような危ないところにいるという意味ではありません。絶望していて心が疲れてしまったからこんなふうに私のものは墓場だけだと言っています。自分の考えの中で全てがおしまいだと思っているのです。立ち返ることもできないし、死だけが待っているんだと絶望しているのです。人生のどん底に落ちたと思っています。

皆さんの中でいろんな大きい問題にぶつかったとき、こんなふうに自暴自棄になって絶望したことはありませんか。信仰生活をするときも、こんなふうに否定的な告白をする人がいますが、なおさなければなりません。聖められるために変えられるために一生懸命罪と戦っていたのに、ある時から疲れてしまってへたり込んでしまうこともあります。それで私は聖められることができないようだと諦めてしまう人がいます。そうしてはいけません。

第二テモテ3:5「見えるところは敬虔であっても、その実を否定するものになるからです。こういう人々を避けなさい。」とあります。罪を捨てて聖められることは自分の力でできるものではありません。自分の努力プラス神様の恵みと力プラス聖霊の助けがなければなりません。そうしてこそ罪と戦って勝つことができます。このような神様の力に頼らなければなりません。しかし自分でなんとかやってみようと思って、結局挫折してしまい諦めることがあります。

しかし私たちは神様がくださる恵みと力によって、それに頼らなければなりません。皆さん聖められるために、信仰が成長するために今まで頑張ってきました。しかし周りの人を見てみたら、ある人は躓いてしまって世に行ってしまう人もいるし、そしてある人は落ち込んでいたりする姿を見て、私もちょっと疲れたと思いながら休みたいと思ったり、使命を手放したり熱心が冷めたりする姿がありませんか。

そして自分なりに一生懸命罪を捨てるために走ってきたのに、捨てたと思ったものがまた出てきて、また出てきて、それでもう努力するのも疲れたと思う人もいますか。諦めたくなる時はありませんか。続けていくのがしんどいと思う時はありませんか。自分がある程度適当にやっても楽に生きたいと思うことはありませんか。そうしてはいけません。それはとても危ない考えです。

信仰は成長し続けなければならないし足ぶみしていては後ろに行ってしまうのです。毎日私たちは自分を顧みて、自分の口の言葉も目つきも、心の中で考えることも気をつけなければならないのですが、一瞬一瞬そうするのがきついでしょうか。辛いと思いますか。それで諦めたいと思いますか。そうではありません。

そのように努力していけば神様が恵みをくださって聖霊が助けてくださるから、だんだん楽になって幸せになります。神様がくださる喜びがあります。その次元に至るまで私たちは、諦めてはいけないのです。もしかしてもう休みたいと思ったり楽になりたいと思った人がいるならばもう一度頑張ってください。 世では数十年間、お酒とかタバコをしていた人が辞めたいと思っても辞められないことがあります。でも教会へ来て神様の恵みが望んだら一瞬で辞めることができるという証がたくさんあるのではありませんか。だから神様がくださるこのような恵みと力を信じて神様により頼みますように。 続くヨブ記17:2です。 しかもあざける者らが、私とともにおり、私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごす。 (ヨブ記17:2) ヨブは友達が自分を慰めるどころか、自分をあざけっていると言います。今まで自分が友達に言った言葉によって、友達が激しく怒っていることはわからないのです。自分の過ちは認めないで、友達が敵意を抱いている姿を見て理解できないのです。今ヨブは相手が悪いと思っているのです。自分は悪いと思わないのです。だから理解できないのです。 人々は自分の過ちとかミスによって相手を困らせたのに逆切れする場合もあります。自分が原因なのに相手がなぜ怒っているのかとわからないのです。例えばお金を借りた人がいるとしましょう。でも事情があって約束した日に返せなかったとしましょう。この時お金を貸してくれた人が怒って怒鳴ったり責めるならば自分は何も言えないでしょう。 自分が相手を怒らせたし、怒鳴られたからといってなぜ傷つくのでしょうか。お金を返すことができなかった自分のせいではありませんか。自分が悪いと思うべきではありませんか。約束を守れなかったから申し訳ないと思って謝るべきなのに、かえって相手にひどすぎると言ったり、なんでそんなに怒るのと言うなら話にならないでしょう。 こういう場合、怒る相手を悪いと思うのではなくて、悪いと思わない自分がもっとひどいということを悟らなければなりません。約束をしたなら必ず守って相手を困らせてはいけないし、もし約束を破ったなら、相手が怒っても申し訳ないと思って謝るべきでしょう。何よりもそういうことが起こらないように知恵を持って、相手が怒らないようにすることが大切でしょう。 だから善を慕っている聖徒ならすべてのことで自分の立場ではなくて、相手の立場で考えなければなりません。相手の言葉とか行いだけ見て、嫌な思いをさせられたとかひどいとか思うよりは、なぜそのように機嫌が悪いのか怒っているのかなと思いながら、相手の立場と感情を理解しようとすれば平和を作れます。 そして反対の場合もあります。相手が何か自分に失礼なことをしたりして自分を怒らせたとしましょう。それでも怒ったことは私の心の中に悪があるからだと自分を顧みて、神様の前で悔い改めればいいでしょう。相手のせいにしないでください。この反対の場合は相手が私に悪を行ったから、私もかっとなって一言言ってあげたとか、それは自己弁明ですがそれも善ではないでしょう。 続く本文を読むとヨブはまた神様に訴えています。ヨブ記17:3です。 どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(ヨブ17:3) つまりヨブは神様と自分の間に弁護する人を立ててくださいと言っています。それで自分の正しさを訴えたいと言っています。自分には罪もないのに神様が責任を持ってくださいと言っています。今自分の苦しみは全て神様のせいだから、神様が私のために保証するものを置いてください。それで私に罪がないことを認めて問題を解決してくださいと訴えているのです。 神様のせいにして責任を取ってくださいと言っています。まるで借金のため悩んでいる人が、なんとか問題を解決しようと保証する人を探しているように、ヨブも切羽詰まって神様に叫んでいます。ヨブの苦しみから出る訴えです。神様を信じない人は問題があると、人間的な方法を使って問題を解決するために、保証してくれる人を探します。しかしお金を貸してくれる人がいても、根本的に自分が問題を解決しなければ、またその人に頼るようになります。自分の問題は自分で解決しなければなりません。 そして信仰のある人なら何か問題が起こったら、人を自分の保証するものとして立ててその人に頼ってはいけません。神様が私たちのお父様であり私たちを支えてくださる方だから、神様の前にお願いするべきでしょう。神様私のために保証人を置いてくださいというのではなくて、全知全能なる神様に委ねて信仰で求めなければならないのです。神様を信じるなら神様にお願いすればいいでしょう。神様と自分との関係はもちろん、信頼関係はちゃんとできている場合のことです。私の祈りを聞いてくださることを信じるから、願い事を神様に捧げていただけるのです。しかし神様に頼らないで人に頼ってしまうならば、神様は助けることがおできになりません。 なぜ自分がこんなふうに困難にあっているのかを悟って、悔い改めて立ち返って神様の御心に従っていかなければなりません。すると神様が問題を解決してくださいます。口の言葉では神様、私の主人になってください、私を導いてくださいと祈っているのに、日常生活では自分の考えで人の方法を使っているならば神様私を導いてくださいとしても、神様は助けたくても助けることができないのです。 神様は私たちが道を迷っているなら、立ち返って正しい道に戻ることを望んでおられます。そして過ちを徹底的に悔い改めて改善することを望んでおられるのです。そして神様との関係も正しく築き上げるようにと望んでおられます。しかしヨブは相変わらず自分が正しいと思っていたから、自分の過ちを反省する気もなかったし、漠然としてあてになる人を求めてもがいているのです。 皆さんもこんな信仰生活をしているのではありませんか。祈るときは神様助けてくださいと言っているのに、実際生活の中では神様に頼らないで人に頼って人間的な方法を使うのです。今ヨブは切羽詰まって神様にいろいろ叫んではいますが、しかし実際神様にすべてを委ねる謙遜な姿ではないのです。ただ自分には何の過ちもないのに神様がこんな苦しい目に遭わせたから、神様が責任を取るべきだというふうに問い詰めているだけなのです。皆さんはどうでしょう。神様が本当に自分の父だと思って、主人だと思う人ならば、神様が自分の祈りを聞いてくださるようにしているのかどうか、顧みなければならないでしょう。 ヨブは他に誰か誓ってくれるものがありましょうかと言っています。誓ってくれる人を、これは保証すると誓ってくれる人を言っています。先ほども言ったのですが、ヨブの周りを見てみると自分を助ける人は誰もいないのです。だから神様が何とかしてくださいと、責任を負ってくださいと言っているのです。神様が自分にこのような病気にかかるようにして、こんな苦しみに遭うようにされたから、神様が解決してくださいと言っています。これは低くなって謙遜になって求めるのではありません。問題の原因を神様のせいにしているだけなのです。だから問題です。 皆さんは試練にあった時、マンミンの聖徒なら神様が苦しめたとは絶対言わないでしょう。真理を聞いているから。でもクリスチャンの中でそんな表現を使うことはよくあります。問題にぶつかったり病気になったりすると、神様が試練に会わせられたとか、神様が自分を打ったとかいうふうに表現する人がいますが、それは正しくないでしょう。自分を顧みて自分の中から問題の原因を見つけなければなりません。神様のせいにしてはいけないのです。でもヨブはそんなふうにずっと言っています。 ヨブ記17:4です。 あなたが彼らの心を閉じて悟ることができないようにされたからです。それゆえ、あなたは彼らを高められないでしょう。(ヨブ17:4) 自分が友達にいろいろ教えてあげたのに彼らが悟れないのは、悪を行うのは、神様がそうなさったからだと言っています。ヨブはこういう表現、似た表現を今繰り返し言っています。友達が悪い、友達が自分にいろいろ悪いことをしている。それは神様のせいだと言っているのです。だから神様も彼らを認めてはいけない。彼らを高めてはいけない。自分も彼らを認める気はないと言っています。 でも今ヨブが言っていることは正しくないでしょう。もしヨブが神様がくださった知恵をもって、善をもって友達と話をしていたなら、友達は怒らなかったし言い争うこともなかったでしょう。しかしヨブは自分の中の悪が出てしまって感情的になって、自分が正しいとずっと言い張っているから、サタンが働いて友達と感情的にぶつかったのです。でもヨブは自分の過ちが悟れないで神様に訴えていて、自分を咎めて責めている友達を、神様高めないでくださいと言っています。 これはとんでもない要求ですね。皆さんはこういう姿はありませんか。誰かが自分を苦しめたからと言って、神様あの人に罰を与えてくださいとか。皆さんならそのように祈ることはないけれども、でも自分が何か誤解されたならば、周りの人のところにいってまた自分の正しさを訴えたくなりますね。弁明したくなりますね、それもヨブのような姿なのです。今ヨブは友達が悪いでしょう、私は正しいでしょうと神様に正確に言ってくださいと、彼らを認めてはいけませんというふうに言っています。 どれほど高ぶっているでしょうか。皆さんも日常生活の中で、自分を苦しめて自分に嫌味を言う人がいる場合、その人に直接言えないし、神様にもあの人が悔い改めるようにしてくださいとは言わなくても、でも自分の親しい人のところに行って、その人の陰口を言ったり、私はこんな悔しい目に遭ったとかするならば、それもヨブと同じような姿なのです。 ヨブは今あまりにも悔しいのですね。友達が過ちのない自分をとがめて責めているから。だから神様に彼らを認めてはいけませんと言っているのです。皆さんも日常生活で神様にそう言わなくても、自分の親しい人のところに行って、自分を苦しめた人の悪口を言ったり、自分が悔しいと言ったり、その人が悪い人のように印象づけることがあるのではありませんか。それも自分の中に悪があるからでしょう。でも本当に善のある人、神様を信じる人、頼る人ならば、神様に祈ってその人のために祝福を祈って、それで時を待ちながら善を行うでしょう。ヨブは神様が友達の心を閉じて悟ることはできないようにされたから神様が悪いと言っています。また友達も無視しています。 続くヨブ記17:5ではヨブは友達を呪っています。 分け前を得るために友の告げ口をする者、その子らの目は衰え果てる。(ヨブ17:5) 今ヨブは友達に自分が侮辱されたから、その代価としてその友達の子供たちの目が衰え果ててしまえと呪っているのです。自分が指摘される姿があったことは悟れないで、相手のせいにして呪っているのです。それはヨブに信仰がなくて真の愛を知らないからです。このような姿を見ればなぜこのように試練に遭っているのか分かるでしょう。 イエス様はルカ6:27-28で、「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われました。神様は敵を愛しなさいと言われたのに、敵でもない友達を信仰の兄弟を憎んではいけないでしょう。自分を呪う人のために祝福することは簡単ではないでしょうか。霊の愛が臨むなら、そうできます。 心が変えられれば自分を呪う人でも、その人を可哀想に思うからその人のために祈ることになります。ステパノ執事は神様の御心を伝えていて石を投げられて死ぬ時も、自分に石を投げる人を恨んだりしませんでした。膝をついて大きい声で、「主よ。を彼らに負わせないでください。」と、代わりに許しを求める祈りを捧げました。その心に悪い人々のためにも、命を捧げる最高の善と愛を所有していたからです。神様は私たちがこのような善と愛の次元に至るように望んでおられます。 ヨブは行いでは潔白で正しいものとして神様に褒められていたのですが、でも人が自分を打つならば自分も打ち返すような人でした。だからヨブの行為的で一方的な善を、真の善に変えてくださるために練ってくださっているのです。神様はヨブを御霊の人に変えられるようにするために、火のような試練の中で自分の悪が出てきてそれを発見するようにしてくださるのです。 それでヨブに潜んでいた悪が明るみにされるのです。しかしヨブが悪を発見して捨てると、神様に認められ愛されて祝福される器になれるから、神様はそうなさるのです。もし厳しい訓練を受けなくてもオリンピックで金メダルを取れるなら、選手たちは訓練を受けようとするでしょうか。また監督も選手を訓練させる必要もないでしょう。しかし金メダルを取るためには、必ず厳しい訓練の過程が必要です。だから地獄のような訓練でも耐えるのです。ヨブの場合も、神様はヨブが真の祝福を受ける器だから鍛錬してくださるのです。 ところで神様が祝福するために練ってくださる時、結局自分の中にあった悪が出てくるのです。悪がなければそれが出てこないでしょう。自分の中に悪があるから出てくるのです。例えば職場で上司が同僚を褒めたとしましょう。その時、「え?あの人は何の取り柄もないのに?」と面白くないなら自分の中に悪がたくさんあるのです。上司が自分を指摘したのでもないのに、褒められた同僚を妬んで不満を抱いて自分を苦しめるのです。このように心に悪があれば良いことを見ても悪く思うのです。 それではヨブが友達の子供の目は衰え果てると言ったのはどんな意味でしょうか?目は霊的には未来を意味します。人は目が見えなければ道も見えないし閉じ込められたようですね。だから目が衰え果てると言っているのは大きい呪いです。また子供は家の跡を継ぐ大切な存在なのに、そんなふうに呪ったからこれは大きい悪でしょう。 ヨブ記15章でエリファズがヨブを呪ったのですが、今ヨブもそれに仕返しをしているようなものです。皆さんこの姿が自分ではないか顧みますように。相手の言葉とか行動で傷つけられて、気分が悪くなりました。それならそれを覚えていて、後で仕返しをしようと思っていますか?ずっと根に持っていますか?それは世の人の姿で悪い心でしょう。神の子供はそうしてはいけません。だからヨブ記講解を聞きながら自分を顧みて悪を発見して速やかに捨てましょう。 結論です。 愛する聖徒の皆さん。並行線はいくら長い時間が経っても互いに会うことはありません。自己主張を曲げないでずっと自分だけ正しいと言い張る人も同じです。もしヨブが最初から友達の言う話を受け入れたなら、もうすでに問題は解決されたでしょう。しかしヨブは自分の自尊心と意地を曲げないでずっと自分が正しいと主張していたから、試練が続いています。主を愛する聖徒なら人と言い争ったりしたくないでしょう。平和を作りたいでしょう。でも些細なことで互いに仲が悪くなることもあります。それは自分の利益を求める心、自分の立場を考えるからです。 しかし真理と反対のものでなければ相手に合わせてあげたほうがいいです。今すぐは損をするようかもしれませんが、善を行うと神様が喜ばれるから、神様が祝福してくださいます。塩が溶けてこそ塩気が効くように、自分というものを、自分の感情、自分の利益、自尊心を捨てましょう。そして犠牲になって全て渡す主の心に似ていきましょう。すると主の前で褒められる皆さんになるでしょう。 聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。 父なる神様、今日ヨブが神様と友達が悪いと言いながら、自分には何の過ちもないのに悔しいと言いながら、神様の前に訴えている姿を見ました。そして友達の子供まで呪っている姿を見ました。私たちの心にはこのような姿がないのか、悪がないのか顧みますように。自分の口の言葉と心の中と思いの中を顧みて発見して自分を認めて、速やかに捨てて変えられるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

「ヨブ記講解(43)-ヨブの自己主張」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:16-22

皆さん、前回は自分の角を捨てようというメッセージで、自尊心というものがどれほど無益なものなのか伝えました。イソップの寓話を見ると自分の美しい角を誇っていて、弱い足を恥ずかしく思っていた鹿の話があります。ある日ライオンがこの鹿を追いかけてくると、鹿は細い長い足で素早く逃げることができました。しかし普段とても誇りに思っていた角が枝に引っかかってしまって、結局ライオンの餌食になってしまいました。

このように人にも名誉、権力、お金、外見など誇るような角があるかもしれません。しかしこのようなものが高ぶりを生み、不幸をもたらすこともあります。しかし自分が短所だと思っていたことによって、低くなって発展することもあります。ですから心の中にある、いらない自尊心の角、高ぶりの角を捨てて、神様が喜ばれる謙遜な人にならなければならないでしょう。

神様が聖書で、ヨブの話をこのように具体的に記すようにされたのは、私たちの中にある罪の性質を発見して捨てて、聖められるように望んでおられるからです。ですから今日もメッセージを聞いて、鏡として自分を照らして発見して、悪を捨てて善を満たしますように。

本文を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほど酷かったのかが分かります。ヨブ記16:16です。

「私の顔は泣いて赤くなり、私のまぶたには死の影がある。」(ヨブ16:16)

ヨブはひどい皮膚病で痛くて泣いていました。子どもたちをみんな失ったから悲しくて泣いていました。妻にも友達にも捨てられて泣いていました。自尊心も踏みにじられて苦しくて泣いていました。泣いていたら顔も赤くなって目も充血しました。絶望に落ちてしまって、まぶたには何の希望もなく死の影がありました。

この時は涙で嘆くのではなくて、全能なる神様のところに行って求めれば神様が解決してくださるのに。ヨブは神様により頼むことができず、自暴自棄になって泣いていました。神様を見つけた体験がないし、ただ知識的な信仰に過ぎなかったし、希望のない肉の人だったからです。

皆さん、本当に神様を信じる私たちが流すべき涙は、どんな涙でしょうか。哀れな魂を救うための悲しみの涙、罪を犯した時立ち返るための悔い改めの涙、変えられるための決断の涙、神様の恵みに感謝する涙、喜びの涙でなければなりません。今自分が試練にあって嘆きながら悔しい思いをしながら流す涙ではなくて、感謝と喜びを持って涙を流すべきです。信仰と希望のある神様の子供はどんな試練の時も患難がやってきても、喜んで感謝して祈ることで勝利できます。霊の信仰がある人とない人とではこのように大きい違いがあるのです。

 

続くヨブの告白を見ると、ヨブは相変わらず自分が正しいと主張しています。ヨブ16:17-18です。
 

「しかし私の手には暴虐がなく、私の祈りはきよい。地よ。私の血をおおうな。私の叫びに休み場所を与えるな。」(ヨブ16:17-18) ヨブは自分の手には暴虐がないと言っていますが、暴虐とはむごいことをして人を苦しめることです。ヨブの言葉のようにヨブの手に暴虐がなかったことは事実です。人の心にあるものが行いに出てきますが、ヨブは行いに出てくるほどは悪い心があったのではありません。しかし口で多くの悪をこぼしました。それだけ心がまだ変えられていなかったからです。そしてヨブは自分の祈りはきよいと言っています。これは今まで自分が口にした言葉が、どれほど神様の前でふさわしくないのかを相変わらず悟っていない姿を言っています。 続いてヨブは「地よ。私の血をおおうな。」と言っています。これは自分が正しいし聖いから、地に自分の正しさを覆うなと言っているのです。そして私の叫びに休み場所を与えるなと言っています。これはどういう意味でしょうか。自分が続けて叫ぶように、つまり弁明できるようにしてほしいと言っているのです。世では悔しい目にあった人が自分の正しさは天が知っている、地が知っていると主張する人がいます。ヨブも今例えを挙げて自分の境遇を訴えています。 しかし神様の子供は天が知っていて、地が知っているという表現を使う必要はありません。詩編139:1-4にこうあります。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をごとごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをごとごとく知っておられます。」 神様は全てをご存知です。ヘブル書4:12-13にこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも指し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」とあります。 このように神様の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいか正しくないか明らかになります。私のことは天が知っている、地が知っていると言う必要もないし、神様がご存知です。また真理の御言葉で照らしてみれば、自分が正しいかどうか正確に見ることができます。それで良いのではありませんか。御言葉で自分の心を詳しく見て罪と悪を発見して捨てれば、それだけ魂に幸いを得て健康であり祝福されるのです。 神様の前では誰も何も隠すことができません。人に誤解されることもあるし、悔しい目に遭うこともありますが、神様だけは全てをご存知だから、時が来ると必ず真実が明らかにされるのです。ですから本当に大切なのは、神様の前でどのように行うかです。今は損もするようで悔しい思いをするようでも、全てを神様に委ねて御言葉に従うなら、神様が喜ばれて全てを働かせて益としてくださるのです。 ところが聖徒の中でこのような神様を信じることができず、頼らないで人に訴えたり、不平不満を言って嘆く人がいます。周りの人にまた自分を理解してくれる人を探すのです。自己主張を続けるのです。ヨブもそうでした。自分は正しいと訴え続けるのです。そして自分の話を聞いてくれる人が欲しいのです。その話を聞いて、それは違うとアドバイスをしてくれる人は嫌なのです。自分の味方をしてくれる人が欲しいのです。それは信仰ではありません。神様に頼る信仰ではありません。神様を信じる信仰が足りないし、自分から問題の原因を見つけることができない姿です。そのまま時間が経っても問題は解決されないのです。 世の人々はそんなふうに生きています。それで問題が解決されることがあるならいいのですが、ほとんどは原因がわからないから問題が解決されないのです。だからずっと不満ばかりなのです。しかし神様を信じる子供なら、クリスチャンなら人の前で自分のことを訴えたり、不満をさらけ出したりするのではなくて、神様の御言葉で自分を照らしてみて自分の欠けているところを探して霊的に解決すれば、目の前の問題も解決されるのです。 「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。」 (ヨブ16:19) ヨブは自分が潔白だから、自分が正しいことを証してくださる方が天におられると言っています。自分を保証してくださる方が高いところにおられると言っています。つまりこの地上では自分を救ってくれる人もいないし、問題を解決してくれる人もいないし、自分が訴える対象は神様であり、神様が自分をこんな目に遭うようにされたから責任を負うべきだというふうに言っているのです。 これは神様の前で神様が問題を解決してくださらないから、私がこんなに苦しい目に遭っているのではないでしょうかと、問い詰めているのです。前後の文脈からヨブの心の訴えがわかります。 「私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」(ヨブ16:20-22) ヨブ16:20-22です。ヨブはこの時神様にとりなしをしてくださいと、神様に頼るように見えるかもしれませんがそうではありません。ヨブの友達も妻も周りの人も、ヨブをあざけっているとヨブは思っています。しかし友達の立場から見ると、ヨブが今あまりにも正しくないことを言っているから、それについて指摘しているだけなのです。だから言い争うようになるのです。 ヨブは自分が悔しいと言っていますが、友達が見るには当然のことを言ってあげているのです。でもヨブがそれを受け入れないから、互いに対立していて言い争っているのです。互いに自分は正しい、あなたは正しくないと言いながら相手が自分を無視していると思っています。友達も同じですね。ヨブが自分たちを無視していると言いながらだんだん感情的になって、言葉の表現が激しくなって呪ったりするのですね。誤解がだんだん募るのです。こういう時は互いに自分が正しいと主張するのではなくて、真理の御言葉を持ってただすべきです。 そしてヨブは神様に向かって涙で訴えているのですが、この方法も正しくありません。御言葉には喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい、信仰を持って神様の前に願い事をしなさいとあります。しかしヨブは反対に、呟いて恨んで嘆いて誤解して裁いて涙を流しています。だから同じ涙でもどんな意味かによって違います。ヨブが低くなって自分の罪を悔い改めながら涙を流しているなら、それは神様に受け入れられるような涙でしょう。悔い改めの涙だったらよかったのですが、そうではなくて、ヨブの涙は悔しくて、痛くて、嘆きながら、訴えながら涙を流しています。 するとどうなるでしょうか。サタンが働くようになります。そのような口の言葉、涙によってサタンが働いてしまってさらに病気がひどくなって、苦しみが大きくなるのです。今ヨブはそのような繰り返しですね。それが皆さんの自分の姿かもしれません。ダニエル祈祷会の時、涙を流して祈っているとしても、その涙の意味が何か自分で考えてみなければなりません。 今病気で苦しいから痛いから涙を流すのか、そうでなければ、今日一日嫌なことがあったから悔しいから涙を流しているのかです。ヨブも天に自分を保証してくださる方がいると言っていますが、それは本当に神様をおそれかしこむ意味ではなくて、神様の前で訴えて責任を取ってくださいというふうに問い詰めている姿でした。だから違う意味の涙でした。 でも私たちはそうしてはいけないでしょう。喜び、感謝の涙を捧げて、信仰によって自分を顧みて悔い改めてこそ問題が解決されます。ヨブは自分が正しいと主張してきました。だからとりなしをしてくださるようにと言っています。自分が正しいことをどうして認めてくれないのですか、どうしてこんなに苦しい目に合わせるのですかと言っているのです。いくらでも私は自分の正しさを言えるのにと言っています。高ぶっている姿です。とりなすとは対立する二人の間に立って、事態が好転するようにうまくとりはかることです。 ここでヨブは人の前でも神様の前でも自分が正しいことを主張していると言っています。「人の子がその友のために。」とありますが、この人の子は普通の人ではなくて、人として本分を尽くしていて、義と善を持っている人を言っています。そのような人が自分をとりなしてくれるようにと願っているのです。なぜなら自分は、自分も正しく、又良いことをしていたからと言っているのです。そして自分を知っている全ての人の前で、自分の弁明をしたいと思っていました。自分はこんな苦しみを受けるような悪いことをしたことがないと言いたいのです。人々は自分が神様によって懲らしめられていると誤解しているようだから、それについてはっきり解明したいと思っています。 しかし私たちは苦しみにあったとき人の前で弁明するのではなくて、全てをご存知の神様に委ねなければなりません。教会の中で聖徒の間で意見が違うときもあるし、互いに誤解したり誤解されたりすることもあると思います。そのようなことがあってはいけないのですが、いろんな人が集まっているから、またそれぞれ違う環境で育った人もいるし、人と人との間では誤解することもありますね。 皆さんはそういうとき、自分が悔しい目にあったと思うならどうしていますか?自分の悪口を言った人とか、自分の陰口を言った人のところに行って、厳しく一言言ってあげたいと思いますか?そうでなければ自分のことを誤解している人々のところに行って、私は違う、やっていないとヨブのように弁明したいと思っていますか?そうでなければ黙々と神様が知っておられるから、また自分を顧みて、もしかして自分が相手に何か失礼なことをしたのではないか、誤解されるような原因が自分にあるのではないかと思いながら祈る姿でしょうか。 一瞬もしかして落ち込んでしまったり傷ついたなら、それさえも神様の前に悔い改めている姿でしょうか。そして神様の前に祈りながらさらに広い心になるように、どんな人でも受け入れる人になるようにと祈っていますか。そういう人なら神様の前に正解を書いた人ですね。そんな生き方をしている人ならば神様に愛されるし、すぐ祝福されるでしょう。 しかしある人は誤解されたりするなら、それが悔しくてたまらないのです。そして自分がそんな風に言ってないのに、周りの人々がそれを膨らませて伝えてしまったから、他の人に自分が悪い人のように誤解されているならそれが悔しくてたまらないですか?腹が立ったり我慢できなかったりして、しゃべっていろいろ弁明したいと思いますか。それならヨブの姿と同じではありませんか。 皆さん、日常生活で自分はどうなのか顧みますように。人の目を意識して私はそんな人ではないのにみんなに悪く思われたくないと思いながら、何とかして弁明したいと思って訴えている姿はないのか顧みますように。神の子供はどうすべきか、私たちは真理を聞いて知っています。神様は全てを見ておられ全てを知っておられます。だから神様に委ねて信仰によって歩んでいれば時が来ると神様が全てを明らかにしてくださいます。 私はその神様がおられるからとても心強いしとても感謝です。もし神様がおられないなら一人では耐えられないと思います。しかし神様がおられるから、神様により頼むことができるから安心できるし心が平安です。私の顔を見ると平安に見えますか? そうでなければ心配しているように見えますか?イ-スターのとき賛美を捧げる時、私の顔を見るとどうでしたか。実はいろいろなことがあったのですが、そして私も講壇に立って皆さんの前に見せるような立場にいるのですが、普通賛美リードをするならば、カメラもクローズアップしたりするからお化粧とかそしていろいろ気をつけなければならないところがあるのですが、今回はそれに気をつける心の余裕もなかったのです。 それでも私は神様の前に私の心を捧げようと思いました。それなら聖霊様が支えてくださるからと思いました。神様により頼むしかなかったのです。もちろん世の方法は使いません。何かマッサージをしたり、そういうこともありません。私たちは神様により頼んでいるのか、世の方法を使うのか。皆さんも自分を顧みながら考えてみてください。 人との間でも対人関係でも神様にゆだねますように。問題は自分と神様の関係がどのくらい信頼関係が築かれているのかでしょう。本文にヨブは「数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」と言っています。ヨブは今の自分が受けている苦しみが大きいから絶望していて、もうすぐ自分は命がなくなるだろうと思っていました。このままずっと苦しみを受けていて、いつ死ぬかわからないと思っていました。だから帰らぬ旅路につくと決めつけています。 しかし私たちは神様の御言葉を聞いて、私たちはどこから来てどこに帰るのかよく知っています。この地上で生きている間どのようにすれば祝福されるのか、どのようにすれば呪われるのか、たとえ死の陰の谷を歩いていても、信仰を守っているなら神様が救ってくださることも知っています。そしてこの地上での人生が終わると、永遠なる天国で主と共に受ける栄光と幸せを望んでいるから、どんな状況でも絶望しません。一日一日を信仰で勝利できます。 そのように信仰生活をしていて死ぬようになったとしても、天国に入るから幸せでしょう。しかし信仰のない人々は、死を迎えるようになったり絶望的なことにあったりするととても苦しくなって恐れます。創造主の神様を知らないし天国への希望がないから、死が近づくほど人生の虚しさを感じます。ヨブも神様を、知っていると思っていましたが天国への希望がないから、口から出てくる言葉は虚しいことや絶望だけでした。

「ヨブ記講解(42)-自分の角を捨てよう」(下)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:12~15

私は荒布をはだに縫いつけ、私の角をちりの中に突き刺した(ヨブ16:15)

神様がヨブを打ち破って、破れに破れを加え、ヨブの肌は荒布を縫いつけたような状態になったと言っています。これは荒布をまとっているという意味ではなくて、皮膚病によって肌がめちゃくちゃになっている姿を言っています。今、自分の体はこんなふうに満身創痍になっていると言っています。

普通、生地は糸が細くて柔らかいもの、また色が美しいほど高いものです。折り目が荒いものとか粗末なものなら、それは良いものではないでしょう。きめ細やかで柔らかい糸で、きちんと折られているものが高いのです。そして、幾つかの布を重ね合わせて縫い付けたものよりは、一枚で折ったものがもっと高いでしょう。貧しい人は新しい服を買うお金がないから、服に穴が空いたりすれば破けたりすると、古い布でそこに重ね合わせたり、布切れを重ね合わせたりするのではありませんか。

ヨブは今自分の体がそんな状態になっていると表現しているのです。ヨブは荒布を肌に縫い付けたと言っています。荒布は折り目の荒い布、粗末な布を言っています。昔、韓国では、市民は主に木綿とか麻で服を作って着ました。木綿も麻も柔らかくはありませんね。荒いでしょう。だから皮膚に触れたら気持ちいいでしょうか。そうではありませんね。絹とかもっと良い布で作った服を着たとき、触れたとき気持ちいいでしょう。

しかし、木綿とか麻はそうではないのです。これが荒布でしょう。ヨブの今の皮膚がそうなっているのです。そして服を長い間ずっと着ていて、肘とか膝のところが古くなると、布切れを重ね合わせて着たりしました。すると、その部分は厚くなって、跡が残るでしょう。そしてその周りは簡単に破けてしまうのです。ヨブがこのような状況を自分の体に例えています。

つまり、ヨブが今、荒布を肌に縫い付けたと言っているのは、ヨブの皮膚の傷が固まってはまた崩れるのを繰り返している状態を言っています。ヨブが今、自分の皮膚について言っていますが、人の心にある善と悪の程度によって、心が平安であったり、そうでなかったりするのですが、これは皮膚にも影響を与えることがあります。皮膚が綺麗な人を見ていると、その心も安らかだとある程


 

度予測できますね。健康状態も皮膚のトラブルが起きるかによって分かるところもあるのではありませんか。そして、心に苦しい、つらい思いをしている人ならば、皮膚も良くない場合があります。 ヨブは試練に遭う前、裕福だったときは体も健康でした。そして、ヨブは正しい行いをしていたから、もちろん皮膚も柔らかかったでしょう。しかし今は、悪性の腫瘍によって皮膚がひどく荒れていて、荒布を着ているようだと、神様の前で嘆いています。これは神様が自分を打ち砕いて、破れに破れを加えたからだと言っています。そしてヨブは、今日のメッセージのタイトルにあたる本文ですが、私の角をちりの中に突き刺したと言っています。 ここで角とは自尊心を意味しています。人は生まれて成長しながら、見て聞いて学ぶ過程を経て、知識と教養を積みながら自分の心を形成します。そして自尊心と自分の主観というものが生まれます。ここで角とは自分の主観とも言えるでしょう。これは人が生きている間自分の力となり頼りになります。 ある人は知識とか権力を積んで、それで自分の角を作ったりします。そして自分が正しいと思って形成した教養で自分を作ったり、自分の考えに合わない人は間違っていると無視するなど自分の角を持ったりします。そしてある人は正確な枠が角になる場合もあります。それで角で相手をついたりする人も、相手を苦しめたりする人もいます。そして自分が正しいと思う性格の枠によって自分を苦しめる人もいます。 しかしイエス・キリストを受け入れて神の子供とされた人は自分の角というものを捨てなければなりません。詩編75:5に、「お前たちの角を、高くあげるな。横柄な態度で語るな」とあります。自尊心、自分の主観、高ぶり、義と枠など自分の角がなくなってこそ真理が強くなり反対に真理の角が立てられます。 ところで私たちが主を受け入れて聖霊を体験したからといって、すぐ自分の角を捨てて完全にされるのではありません。赤ちゃんが生まれて幼年期を経て大人に成長していくように、人が御霊によって新しく生まれた後は御言葉を行っていきながら、御霊の人に変えられて信仰が成長していくのです。 ところでこの様に信仰が成長する過程で、私たちの中にある二つの心が霊的に戦います。主を受け入れる前の真理と反対の心と、聖霊を受けた後の真理の心が互いに対立するのです。つまり真理・善・霊を追い求める心と、それと反対のもの悪・肉を追い求める心が互いに立ち向かうのです。一方は御霊に従おうとしますが、もう一方は真理と反対のものに従って神様に逆らうからです。 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなた方は自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:16―17) 肉の願うことは御霊に逆らいとあります。これは自分の角、すなわち自尊心、自分の主観、高ぶりなどであり、それによって御霊に従えないのです。この自分の角を捨てないから御霊の歩みに入れないのです。 皆さんも成長過程の中でそして主を受け入れる前、自分の中に自分というものがあったでしょう。高ぶりもあったし、そして自分の主観の強い人がいますね。自分の義と枠で自分の角を作った人もいるでしょう。そして自分の誇りとか、強い性格などが自分の角になっている場合もあります。それを打ち砕いて捨てなければ御言葉・真理に従えないのです。 そして自分の角というものは、すべて自分でしょう、自分を愛するからでしょう。聖書の神様の御言葉に従いたくないのです。低くなりたくないのです。低くなりなさい、犠牲になりなさい、仕えなさいという聖霊の声に従えないのです。 自分という角があるから、自分が低くなって犠牲になろうとするなら角が対立します。肉の思いが動きます。私は愚かなものでもないし、何故私が犠牲にならなければならないのかと思います。こうやって自分という角を捨てないから、信仰生活をしていても、聖霊の声に従えないのです。 自分がまず人を許さなければならないのに、自分という角がある人は相手を許さないのです。相手が自分に悪いことをしたからと思います。自分から低くなって相手に仕えたくないのです。平和をつくる為には、まず自分から手を差し伸べなくてはならないのに、そうすれば、自分が負けるようで自尊心が傷つくと思うからそれがいやなのです。 自分が譲ること、自分がまず謝ることは自分が負けるようで、自分の角がそれを許さないのです。そして敵である悪魔サタンがそのように仕向けるのです。山羊は角をもって他の羊とか山羊を攻撃しますね。皆さんにはそういう角がないのか顧みますように。 ある人はうわべだけ見れば、柔和に見えるのですが。しかし、その中を見てみれば強い面があります。頑丈な面もあって人と妥協しないし、人の話を聞かない強い自分という角を持っている人がいます。うわべでは、人と争うこともなく、おとなしく見えるかもしれませんが、その中には意外と強い角のようなものがあって、変えられるのが難しい人がいます。皆さんは自分にはどんな角があるのか。顧みますように、それを見つけて捨てなければなりません。 使徒パウロは、第1コリント15:31でこう言っています。「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなた方を誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」これは主を知る前、自分が学んだ自分が正しいと思っていた全て、自尊心、自分の主張、義と枠全てを全部捨てるという意味です。真理と反対のものを全部捨てるという意味です。それが自分の誇りだと言っています。 皆さん、自分の知識とか、自分が正しいと思っている考え方とか、自分の外見を誇るのではなくて、毎日が死の連続だということを誇らなければなりません。自分の角が打ち砕かれて真理の角が立てられて、主に従わなければなりません。 ピリピ3:7-8です。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と言っています。 皆さん、自分にとって尊いものがありますか。貴重なものがありますか。これだけは捨てたくないと思っているものがあるなら、それを捨ててこそ、主に自分を捧げることができます。そうすると、自分の尊いもの香油を主に捧げることができるし、すると神様が強くしてくださるのです。 しかし未だに自分を主張していて、自分にとって貴重なものを捨てていない人がいますか。全てを捨てて塵あくたと思いましょう。このように自分の角を打ち砕くほど、御霊の人、真理の人、主のご性質に似た人になります。使徒パウロは真理にあって毎日が死の連続だったので、聖霊の声を明らかに聞いて、神様の力を受けて大いに行いました。 私達は使徒パウロの性格が元々どうだったのか学んだでしょう。自分が正しいと思ったら絶対くじけないで人と議論するのは好きで、深く探求する性格でした。義の強い人でした。しかし主に出会った後、自分に死んで自分を捨てて、心が広くなってどんな人も受け入れることができました。それで神様は大きい神の力をくださって尊く用いてくださいました。もし、使徒パウロに自分の考え方、自分が正しいと思っていることを主張している姿があったらこのようには用いられなかったでしょう。 使徒パウロは第2次伝道旅行の時、小アジアに行こうとしたのですが、御霊によって、そこに行かないようにと言われました。それを後で幻を見て、確かにわかりました。マケドニアの人が私達のところに来て助けてくださいという幻を見たのです。それで、使徒パウロは聞き従ってマケドニアに行って、そこで福音を伝えたら、あちこちに教会がたくさん建てられ多くの人が救われました。 試練を通して毎日が死の連続になって、完全に聞き従う神の力を行う人になったのです。それで神様に栄光を捧げました。私達も聖霊に満たされているときは御霊に導かれますね。それで、このようにしなければと思って、この道がまことだ、新しいエルサレムに行く道だと導かれていました。しかし、自分というものが完全に捨てられていなければ、疑ったり、落ち込んだり、くじけたりするのです。 このように行ったり来たりして二股をかけているから、心の中で二つの心が戦っているからどれほどつらいでしょうか?自分の角を完全に捨てなければならないのに、それがまた伸びてしまうのです。そうではなくて毎日自分に死んでいきましょう。 ところがヨブは自分に死ぬのがあまりにもつらかったのです。自分の自尊心が傷ついたのがあまりにも悲しかったのです。角がちりの中に突き刺されたと言っています。これは自尊心が傷ついてそれを悲しんでいる姿です。ヨブのように自尊心を捨てるのを嫌がる人もいます。しかし、イエス様と昔の信仰の人々はどうでしたか。自尊心も高ぶりも自己中心的な考えもありませんでした。 イエス様は悪い人々が捕えようとしたとき被造物が、創造主の神様の御子を捕らえようとするのかと叱られませんでした。おとなしく神様の御心に従って捕らえられておとなしい羊のように、罪の為の生贄になってくださいました。自分というものが全くなかったからです。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:3-4) イエス様はこのようにさげすまれこのように裁かれても、その為苦しいと思ったのではありません。神様の愛を知らずに、十字架の意味を知らずに悪を行う人の子らを見て、もどかしい心で悲しんでおられました。代わりに執り成しの祈りをしてくださった愛のイエス様です。 どうして私をこのようにさげすむのか、こうして私をこんなふうに苦しめるのかと言われたのではありません。彼らが悪を行って滅びに向かう姿を見て悲しんでおられました。これが、自分の角がない姿です。 しかし、自分の角があって悪がある人は、人によって苦しめられると、その人を憎みます。悔しいと思います。しかし悪のない人は、相手が悪を行っている姿を見て、かわいそうに思うのです。善の心です。これが自分の角がない人、真理の角がある人です。 イザヤ53:7です。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。イエス様の犠牲と献身、自分というものがなく聞き従われた姿を表現しています。 聖書にある信仰の人々もそうでした。モーセはエジプトの王子だったときはどれ程自分の角が強かったでしょうか?同族を虐待するエジプトの人をその場で殺すほど短気な人でした。王子という身分があって全ての分野で自尊心もあったでしょう。自信も溢れていたでしょう。しかし40年間、羊を飼いながら試練の歳月を送った後は自分の角はなくなりました。地上の誰にも勝って非常に謙遜でありました。どんな人でも受け入れる人になりました。 アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、エリア、ダニエルもそうです。試練の過程を経て自分の角がなくなったので、ただ神様の御心に従いました。イエス様の弟子たちも聖霊を受けたあと、自分の角を捨てて、神様に大いに用いられる人になりました。自尊心、高ぶり、自分の主観など自分の角は信仰をもって聖められることを妨害します。こういうものは敵である悪魔、サタンが好きで、喜ぶものです。 そして、何の使い道もない塵あくたのようなものです。 マタイ10:39に、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」とあります。神の子供である私たちが、肉にあって死ねば霊にあっては生きます。信仰によって自分というものを捨てて、家庭と教会で、神の国のために低くなって使えるなら、神様が祝福してくださいます。これが霊的な法則です。 ルカ14:11に、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」とあります。自尊心を捨てて低くなるとき、神様が高くしてくださいます。世の人の中には、力が足りなくて殴られたり、卑怯だから退く場合があります。今自分は力が弱いから、仕方なく抵抗できないし、殴られるし、退くのです。これは信仰の行ないではないから、神様が働いてくださることはできません。 ところが神の子供がマタイ5:39に、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」という御言葉に従って、相手と争うことをしないで、かえって負けてあげるなら、神様はそれを信仰の行いとしてみなして、勝利を与えてくださいます。御言葉に従って低くなろうとしたら、かえって高くしてくださり、すべてを働かせて、益としてくださいます。 このように自分の角を捨てて、真理の角が生きていなければなりません。自分の角を捨てていくほど、真理が強くなり、聖霊に導かれ、神様の御心に従うことができるのです。しかし、自分の主観にこだわる人は、神様の御言葉に従いません。サウル王は自分の考え通りに行って、御言葉に繰り返し聞き従わなかったので、結局退けられました。 ヨナも自分の角、自分の主観を捨てなかったから、御言葉に従えませんでした。 神様はニネベに行って、罪を悔い改めるように叫びなさいと命じました。しかし、ヨナはニネベが滅びるのを望んでいたから、神様の御言葉が自分の考えと合わなかったから、神様の御目を避けてタルシシュに逃げました。こういう場合は、肉の思いを打ち砕いて従うときまで、試練と苦しみは続くようになるのです。 ですから皆さんも神様の御心に逆らっていくとき、さらに厳しくなって試練が大きくなったりするのです。ですから、試練に遭ったときは、神様の前で自分を捨てて自分を徹底的に低くなってこそ、早く試練が終わります。つまり、自分の角を捨てることです。ヨナはそうできませんでした。 タルシシュに逃げようとしたのですが、神様が悟らせてくださって、ニネベに行って、悔い改めを宣言するようにしました。それで、王と民が悔い改めたら、神様は憐れんでくださったのです。しかし、ヨナはそれについて腹を立てました。皆さん、自分の心はどうなのか顧みますように、悪を行った人、罪を犯した人を神様が許してくださって、救ってくださったのを見ながら、それについて腹を立てたりする姿はありませんか。 どれほど悪い心でしょうか。私たちは、そういうことがあってはいけません。ただ、神様の御心に従っていかなければなりません。うわべでは、神の働きをしていても、心から神様に従えない人がいるなら、ヨナのような姿です。ヨナは、神様の憐れみと愛を深く悟ることができませんでした。私たちは、そうしないで、自分の角を捨てましょう。 まとめます。私たちが生まれて生きながら、学校や社会で学んだものの中で、御言葉や真理に逆らうすべてのもので、自分の角を形成しました。ところで、誰かがその角を傷つけるなら、気を悪くしたり腹を立てたりします。教養という角があります。進化論という理屈の角もあります。相手に勝たなければという自己中心的な考え方の角もあります。自分は人より優れているという高ぶりの角もあります。高ぶりの角のある人は威張って怒鳴ったりしますが、こういう人は、真理にあって自分の角を打ち砕いたら、謙遜になって態度も声も変わるのです。 ですから私たちは、自分の角を打ち砕いて神様の完全な子供になるためには、第2コリント10:5に、「様々な思弁と神の力に逆らい立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかり事をとりこにしてキリストに服従させなければなりません。」とあります。世の理屈や真理と反対のもので作った自分というものを完全に捨てなければなりません。そして、その角を引き抜く代わりに真理の角を植え付けて、真理が強くなって、真理が働いて、まことの永遠の命、祝福の道に行かなければなりません。 世では優れた知識を持って、一生懸命研究して新しいものを発明したり開発した人を知恵があると言います。こういう人の中では、自尊心、自分の主観、高ぶりという肉的な角にこだわる人がいます。しかし彼らが創造主の神様を見つけることができず、天国と地獄があることも知らないまま滅びに向かうなら、どうして知恵があると言えるでしょうか。 だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。」また、次のようにも書いてあります。「主は知者の論議を無益だと知っておられる。」(第一コリント3:18-20) 私たちが神様の前で徹底的に自分を捨てて、聖い心の器を用意すれば、神様は上からまことの知恵をくださいます。しかし、真理の角のない人はまことの知恵もないから、肉的なことである自分の主観に従って自分を主張して生きるから、結局は滅びの道に向かうのです。 今ヨブも自尊心、自分の主観にこだわっていて、それを捨てないから友達と争っています。今ヨブは苦しんでいるのに、友達が自分を攻撃して間違っていると言うから自尊心が傷つくのです。だから、自分の角がちりの中に突き刺されたと言っていて、とても悲しんでつらく思っています。 ヨブは自分なりに正しく生きてきたのに、自分は優れていると思ったのに、その自尊心がけがれるのがあまりにもつらいのです。ヨブは、神様と友達のせいで自分の角が打ち砕かれたと思っています。だから、皮膚病で体が苦しいことや、財産と子どもを失ったことよりは、自分の自尊心が踏みにじられた苦しみの方が大きかったのです。続く御言葉を読むと、ヨブの心の苦しみがどれほどだったのかがわかります。それは次の時間に調べてみましょう。 愛する聖徒の皆さん、結論です。聖書で自尊心を捨てて栄えた人と、むなしい自尊心のため滅びた人がいます。ダビデとサウル王の例を挙げられます。ダビデはサウル王から逃れて、ペリシテに属するガデの王のアキシュのところに行ったことがあります。ところでペリシテはイスラエルの敵国だったから、以前イスラエルの軍隊の長だったダビデはペリシテ人をたくさん殺しました。ですからペリシテでは亡命してきたタビデを疑ったでしょう。 それでタビデはどうしたでしょうか。ペリシテに行けば、自分はそう疑われることを知っていたでしょう。それでその場でタビデはどうしたでしょうか。彼らの前で彼らを安心させるために気が違ったかのように振る舞って狂った振りをして門の扉を傷つけたり、髭によだれを流したりしました。それを見た人々はタビデをさげすんでタビデは命が守られました。 もしタビデがペリシテ人のゴリアテを打ち殺したという自尊心を持って、イスラエルの軍隊の長だったその高ぶりを持ったままならば、その場で殺されたかもしれません。しかしタビデはそうしませんでした。今自分がもし態度を変えなければ殺されるかもと思ったから、低くなって狂った振りをして、気が違ったかのように振舞いました。それで命が守られました。ダビデはいらない自尊心は捨ててしまったのです。 しかしある人は自尊心を自分の命のように大事に思う人もいます。自分は死んでも自尊心は捨てられないと思う人もいます。しかしそれはどれ程愚かなことでしょうか。人の前で自分は自尊心を主張していても、それは知恵でもないし善でもありません。だからといって卑怯に振舞いなさいという意味ではありません。何が善で悪なのかを正確に見分けて、自尊心を捨てて善を選ぶ姿が必要です。ダビデは自尊心を捨てて知恵を持って行ったので、後の日イスラエルの王になりました。 しかしサウル王は虚しい自尊心を重んじてしまい滅びました。神様の御言葉に聞き従わなかった時、サムエルが指摘したのにサウル王は悔改めるどころか、民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。 今、神様はサウル王を退けるとまで警告なさったのに、サウル王は悔い改めなかったのです。そして民の前で自分の面目を立ててほしいと言いました。神様の前でどうするかよりは人の前でどう見えるかを気にしていたのです。その結果サウルは神様に退けられるしかなかったし、ペリシテとの戦いでみじめに死にました。 このように虚しい自尊心は滅びに引いていきます。ヤコブの手紙4:6に「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあり、箴言18:12に「人の心の傲慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」とあります。ですから、私たちは自尊心・高ぶり・自己中心的な考え・欲などいらない自分の角を完全に捨てて、謙遜な心になって栄誉を得ますよう主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(42)-自分の角を捨てよう」(上)

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:12~15

愛する聖徒の皆さん、前回、ヨブは友達が自分を卑しめて立ち向かっていると言いながらそれも、神様がそのようにしむけられたと神様のせいにしていました。自分に過ちがあるのではないか探そうとしないで、神様と友達のせいにしているから、更に辛くなって試練は終わりません。ヨブは真理を正確に知っていなかったし、神様を見つけた体験もなかったので、すべてのことで神様を裁いていました。

しかし私たちは真理を聞いてよく知っています。神様の恵みも体験したのですべての問題の原因を自分から見つけて、速やかに神様の恵みを回復しなければなりません。たとえ問題の原因が人にある場合があっても、その解決の鍵は私たちが神様の御言葉に聞き従うことにあります。ですからすべてのことについて感謝しなさいという御言葉に聞き従って、感謝の祈りを捧げますように。

 

それを神様が喜ばれ、すべてのことを働かせて益としてくださるでしょう。敵をも愛しなさいと言われました。そしてその御言葉に聞き従うなら神様が働いてくださるのです。それが神様が望んでおられる子供であり、そういう子供を神様は守って祝福してくださるのです。

祈るときは、「神様私を導いてください。」と祈りますが、しかし神様が導こうとされるときは、聞き従わない姿があるのです。自分が毎日一瞬一瞬を神様の前に捧げないで、自分がしたいとおりにするのです。自分がやりたいことをして自分が願うことをしていながら、神様私を導いてくださいと言うなら神様が喜ばれるでしょうか。自分が真理の中を歩んでいて御言葉、真理に従うとき、神様が導いてくださるのです。

ですから私たちはヨブ記講解を聞いて、自分がどのくらい御言葉通りに生きているのか顧みますように。環境のせいにしたり人のせいにしているなら、それは神様にゆだねる姿ではありません。神様の前で低くなって、すべての問題の原因を自分から見つけますように。今日もメッセージを聞いて自分を発見して変えられて、いのちを得ますように。

「私は安らかな身であったが、神は私を打ち砕き、私の首をつかまえて粉々にし、私を立ててご自分の的とされた。その射手たちは私を巡り囲み、神は私の内臓を容赦なく射抜き、私の胆汁を地に流した。」(ヨブ16:12-13)

ヨブは試練に会う前は家族も仲良かったし平安で裕福でした。そうだった自分を神様が打ち砕いて惨めな身にしたと表現しています。昔人々は鶏を屠るとき、若者の皆さんは見たことがないと思いますが、大人の皆さんは田舎でそういう姿を見たことがあるかもしれません。市場でもそのような姿があったと思います。見てみると鶏を屠る時、首を折っていました。 ヨブは神様がそんな風に自分の首を捕まえて粉々にしたと表現しています。ヨブは自分がされたことを考えてみたら、神様は悪い方で無慈悲な方だと思いました。このように神様についてとんでもない誤解をして悪評を言っています。 人の体を見てみると首は頭を支えている台のようです。頭は高さと威厳と誇りを象徴します。ところでこのような頭を支えている首が砕かれたならどうなるでしょうか。これはヨブの心や意志を、神様がへし折ってしまったと言っているのです。それで弱くなるしかなかったと言っているのです。そしてヨブは神様が自分を立てて御自分の的とされたと言っています。 昔、中世時代とかを見てみると、矢を武器として使う時がありました。敵軍を捕まえた時、でなければ誰かを苦しめる時、権力と力がある人が弱い人を苦しめる時どうしますか。その人を立たしておいて的代わりにするのです。矢を射る時は丸い的の中を射るのですが、人を的のようにしていたずらをしたり、実際殺したりすることも、映画とか小説の中であったと思います。今ヨブは神様が自分をそのように的にして苦しめている、殺そうとしていると言っているのです。 それだけではなく、神様の射手達が自分を巡り囲んで、自分の内臓を容赦なく射抜いて、胆汁を地に流したとまで言っています。ヨブは今神様が自分をどんな風に苦しめているのか、自分が受けている苦しみがどうなのか、一つ一つ例えを挙げて説明しています。矢を射ることはターゲットを当てて倒すためです。ここでヨブが言っている射手達は、神様の心の矢を言っています。神様の心が矢になって、射手達が自分を巡り囲み攻撃していると言っています。そして神様が容赦なく自分の内臓を射抜いたと言っています。 これはヨブがあまりにも苦しいからこのように表現しているのです。すべての財産と子供も失ったし、妻も自分から離れてしまい、友達にも蔑まれているから、ヨブはどこを見ても自分を助ける人はいないのです。内臓を射抜いたと言うのは主体性を失ったことを意味します。人の体の中で首に怪我をするならその舌は使うことができます。ギブスをしたりしても歩いたり手を使ったりすることはできますね。首だけ怪我をすればそうなります。そして足を折ったら足は使えないのですが、上体は使えます。しかし内臓が壊れたら全身が使えなくなります。 このようにヨブは首も砕かれてしまって、つまり自分の意志も挫けてしまったし、神様が内臓を射抜いてしまったから全身が使えなくなった。満身創痍になったと言っています。そして胆中を地に流したとは、ヨブの心の苦しみがそれだけ苦いということを意味します。ヨブは神様を体験することがなかったから、このように苦い思いをしているのは神様のせいだと表現しています。 神様を信じない世の人や、まだ信仰が弱い人々は、生きていてこのような苦しみを訴えるときがあります。しかし、神の子供たちは、たとえ事業がつぶれても、子供がぐれても、病気になっても、四方八方から苦しめられても、感謝を失ってはいけません。詩編50:23に、「感謝のいけにえをささげる人は、私をあがめよう。その道を正しくする人に、私は神の救いを見せよう。」とあります。たとえ悲しいことやつらいことがあっても、心から感謝の祈りを捧げてみてください。その心の香りを受け入れられた神様が、炎のような御目で皆様を守り、救い出してくださるでしょう。ですから、どんな試練にあったとしても、速やかに悔い改めて立ち返って、真理の中を歩みますように。 そうすると、全知全能の神様が行く道を導いてくださり、全てを働かせて益としてくださるから、 私たちはその神様を信じて感謝すればいいのです。なぜ感謝できるのでしょうか。救われたから、天国があるからです。今、目の前に苦しみがあって、試練があっても、大きい問題にぶつかっていて、つらい思いをしていて、ここから抜け出せないように思うかもしれませんが、神様は生きておられます。 神様が私たちのために天国を備えておられます。救ってくださったから、それだけでも感謝できます。目に見える環境や状況を見れば、感謝することができそうにないのですが、しかし霊的な視線から見れば感謝できます。 多くの人がこのようなメッセージを聞いて感謝しようとしても、口では感謝しますと言っても、心から感謝しない人は、行いが伴わないのです。教会に来て礼拝するときや、祈るときは感謝します。どんな試練があっても、これからは喜べますと祈りました。 しかし、次の日、朝会社に行ってまた同じ問題にぶつかったら、感謝を失ってしまうのです。呟いたり、文句を言ったりします。それは信仰がある人の姿ではありません。いくら抜け出せないような苦しみにあっても心から神様の前に感謝する人は、神様の救いを体験するようになります。 主が尊い血で救ってくださった、その喜びがいつも溢れているなら、神様はそれをご覧になり、問題を解決してくださいます。そして私たちには、天国への希望があります。だからその喜びは、世のどんなものも奪うことはできません。その喜びによって世に打ち勝つことができます。しかし、ヨブにはそういう信仰がありませんでした。神様を見つける体験がなかったからです。全き信仰がなかったから、神様を誤解して呟いて嘆いているのです。 しかし私たちは、神様を見つけました。体験しました。皆さん、神様を見たことがないと言うでしょうか。いいえ、私たちは見ました。体験しました。神の力を体験したでしょう。 今日、教会に来た時、ある方が証をして感謝していました。2005年にこの教会に来たのですが、この方は腰が曲がっていました。今から18年前ですね。 その時は今より若かったのですが、腰が曲がっていました。そして後遺症によってとても痛くて、お酒を飲まなければその苦しみを忘れることができないから、眠れないからアルコール依存症になってしまいました。それであちこちの教会にも通ったり、宗教に頼ったりしたのですが、癒されなかったのです。 しかし、伝道されて万民教会に来たのです。何か信じようとしてきたよりはただ連れられてきたのですが、礼拝の後、その夜からお酒が飲みたくなくなって、お酒を飲まなくてもぐっすり眠れたそうです。しかし痛みは相変わらずありました。その次の月に癒しの集会がありましたね。それで、癒しの集会のとき癒されたという証を聞いたのですが、自分はそれが信じられなかったそうです。確かにアルコール依存症の症状がなくなったのに、信仰が持てなかったのです。 それでも癒しの集会に参加はしたそうです。その時は服装もきちんとしていなかったし、あまり慕う心もないまま疑いながらも一度来てみたそうです。しかし癒しの集会のとき、祈りを受けて痛みがなくなって健康になったのです。それでその後から熱心に伝道したそうです。そして今も多くの人を伝道したいですと、祈りをお願いしますと言っていました。 それで私がマガジンで証されましたかと聞いたら、してないそうです。こんなに驚くべき証があるのに、紹介されていないんだと思いました。このようにこの教会では、証が溢れているのです。神様が癒してくださったとき、唯、癒された感じがすると感じただけではありません。実際痛みはなくなったし、実際ぐっすり眠れたのですね。この方も他の教会に通っていたのですが、癒されなかったのに、ここに来て癒されたのではありませんか。 どれほど驚くべき神の力ある業を私たちは体験しているのでしょうか。これは神様を見たことと同じではありませんか。だから全き信仰を持つべきなのに。それなら、いくら環境が良くなくても、感謝を失うことはないでしょう。 しかし、ヨブは真理を正確に知らなかったし、神様を見つける体験がなかったから神様を誤解していたし、あまりにも厳しい試練だったから嘆いていたのですが、皆さんは違うでしょう。だから私たちはいつも感謝しなければなりません。 「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」(ヨブ16:14) 続く本文を見ると、ヨブの表現はあまりにも相応しくないし、おかしいです。ヨブ16:14です。「神は私を打ち破って、破りに破りを加え、勇士のように私に向かって馳せかかる。」とあります。前にもたとえを挙げて説明しましたが、もし3,4才の子供が大きい大人につっかかるなら、大人はただ避けてしまうでしょう。まして全知全能の創造主の神様が、被造物に過ぎないヨブをどうして打ち破って、勇士のように馳せかかるでしょうか。 ヨブは神様の心がわからないから、このようにとんでもない誤解をするのです。意外と多くの人が信仰生活をしながら、神様が私をこのように試みられたとか、神様が私に試練を与えたとか、病気を与えたとか、そういうように表現する人がいます。自分の欠けているところによって、いろいろ苦しみにあって試練にあっているのに、神様は自分を打っておられるという場合もあります。試練にあって失敗した原因が自分にあるのに、神様が自分を打ったと言いながら、神様を怖い神様のように思うのです。 ヨブの場合も、神様が何の理由もなくヨブを打ち破られたのではありません。ヨブの悪のため、試練が続いているのです。もし、ヨブの友達が指摘したときヨブがそれを受け入れて、自分から原因を見つけようとしたなら、神様は恵みをくださったでしょう。ヨブの欠けているところを悟って立ち返るように、強くしてくださったでしょう。そして、過去の健康も祝福も回復させてくださったでしょう。 しかし、ヨブは問題の原因を人のせいにして、続けて悪を行って、試練が長くなっています。悪を行うほど、サタンに訴えられるから、試練と苦しみは続くのです。ヨブは、練られるべき理由があるから、そうなったのに、すべてを神様のせいにしていたから、神様を悪い神様のように、恐ろしい神様のように感じていました。 聖徒の皆さんは、自分の試練が長引いているなら、自分の心に悪がそれだけあるということを悟りますように。そして、問題の原因を自分から見つけていないということを悟りますように。環境のせいにしたり、家族のせいにしたり、人のせいにすることは悪です。それによって、試練は続くのです。だから、自分を顧みて自分が変えられてこそ問題が解決されるのです。 試練がやってきたとき、速やかに乗り越える方法は、自分をまず顧みて自分を発見して変えられることです。自分の欠けているところを満たしたり直すことです。ただ、感謝しますと言っていても何もしていない姿ではなくて、変えられようと努力しなければなりません。すると試練が終わって、祝福が臨みます。

「ヨブ記講解(41)-原因を自分の中から見つけよう」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:10~11
 

前回に続き、すべての問題の原因を自分の中から見つけて、悔い改めて立ち返るとき、すみやかに神様の恵みを回復することができるということを伝えます。

1. 劣等感から友だちと神様を誤解するヨブ

「彼らは私に向かって口を大きくあけ、そしって私の頬を打ち、相集まって私を攻める。」(ヨブ16:10)
ここで「彼ら」とは、ヨブの友だちを指しています。友だちが自分に向かって「口を大きくあけるとは、否定的な表現です。今まで友だちの言葉がヨブを慰めるのではなく、かえって悩ませて傷つけたからです。
友だちが「自分をそしった」と表現したのも、これまで彼らがヨブを攻撃して傷つけるような激しい言葉を口にしたからです。そして、友だちが実際にヨブの頬を打ったのではなく、ヨブは友だちの話を聞いて侮辱されたようだったし、苦しみが極みに達したので、頬を打たれたように感じたということです。


まだヨブは、今の低くなった姿ではなく、昔、栄えていた時のことを考えています。前は友だちが自分を尊敬して仕えてくれていたのに、今は自分を侮って、あざけっているように感じられました。
神様に対するヨブの感じも同じです。ヨブは、前は神様から愛されて祝福されていたのに、今はあまりにも違う現実の中でいじけていました。だから、理由もなく神様が目をぎらつかせているようだし、自分を引き裂いて攻めたて、歯ぎしりしているように感じているのです(ヨブ16:9)。

仮に皆さんが事業で不渡りを出すとか、突然職場を失って厳しい境遇に置かれているとしましょう。すると周りの人々がそれとなく自分を蔑んでいるようだし、避けようとしているように感じられます。周りの人の心はそうではないのに、自分が劣等感を持って誤解してストレスを受けているから、前とは違うようだと感じることがよくあります。
 

別の例として、職場で同じ平社員だった同僚が、ある日昇進したとしましょう。自分はまだ下っぱなのに、同僚は先に昇進したから、うらやましくもあり、何となくおもしろくありません。それに昇進した同僚が自分を無視しているようで、ひねくれて仕事をする意欲まで失ってしまいます。 また、友だちは良い大学に合格したのに自分は浪人することになったとき、心はどうでしょうか。友だちは前と同じように自分に接しているのに、なぜか自分を見くびっているように感じて、友だちを遠ざけるなら、これもまた自分の思い込みによる劣等感のせいなのです。 このように、夫婦の間や友だちの間で、また隣人との間でも、自分の思い込みでさばいて誤解することがどれほど多いでしょうか。 これは信仰にあっても同じです。他の働き人が認められてほめられると、やる気がなくなります。その人と比べて自分は頭も良くないし、裕福でもないからと思って落ち込んでしまいます。そして、その人が自分を無視しているようでおもしろくありません。これらは全部、自分の悪から出てくる肉の思いなのです。 2. 問題の原因を他に見つけるから解決されない場合 ヨブは自分が惨めな身の上になった原因を神様のせいにしているので、問題を解決する道が見つけられないのです。 同じように、信仰にあっても問題の原因を他に見つけるから解決されないことがあります。自分がある人をさばいて罪に定め、噂話をしてつまずかせて、それによって周りの人々が嫌な思いをしたのに、自分は悪い人だと誤解されていると思うなら、問題は解決されません。自分が平和を壊して問題の原因を作ったのに、それに気がつかないのです。 また、自分が真理のとおりに行えなくて問題が起こったのに、「神様は私に大きい祝福を与えようと試練に会わせてくださっているのだ」と錯覚して、神様がそうされていると思うのです。このように神様のせい、人のせいだけにしていれば、聖霊の声が聞けないから、問題を解決することができません。 ヤコブ1:13に「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。 もちろん、神様はアブラハムにイサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたように、祝福を与えるためにテストなさる場合もあります。みことばどおりに生きているのに試練に会ったとすれば、喜んで感謝すれば、神様が必ずすべてのことを働かせて益としてくださり、さらに大きい祝福を与えて報いてくださいます。 しかし、自分の過ちによって会う試練を、まるで神様が下さった祝福の試練であるかのように誤解することがあってはならないでしょう。 3. まことの祝福を与えるために練られる神様 「神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」(ヨブ16:11) ヨブは友だちのことを「小僧っ子」「悪者」と呼んで、神様が自分を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれると言っています。これも問題の原因を神様になすりつけているのです。 神様はヨブをそんな者の手に渡されたことはありません。神様がサタンの訴えを聞き入れられたのは、ヨブの財産と子どもとヨブの身を打つことだけでした。その後は見守っておられただけです。 神様がヨブを苦しめたのではなく、試練を通してヨブの隠されていた悪が現れるようになったのです。そして、これをきっかけにヨブが悪を捨てて神様を見つけるようになるので、ヨブを練られたのです。 ヨブは先祖たちから神様について聞いて知っていただけで、神様を見つけて体験したことはありませんでした。しかし、試練を通して神様を見つけるなら、聞いて知っている知識的な信仰ではなく、心で信じられる霊の信仰を持てるようになるのです。 ただ神様について聞いて知っているから神様を恐れる信仰と、神様の全知全能であることと愛を体験して神様を信じる信仰とでは、大きい違いがあります。 もしヨブがこのような厳しい試練に会わなかったとすれば、前のようにそれなりに祝福は受けていたでしょう。行いでは神様の前に誠実に全焼のいけにえをささげ、隣人に徳と善を施していたからです。しかし、神様を見つけて体験し、罪を発見して捨てて聖められる、霊的な祝福は受けることはできなかったでしょう。 ヨブは試練を通して罪の性質を発見して捨てることでまことの祝福を受けられるので、神様は試練に会わせられたのです。たましいに幸いを得ていてこそ、この地上でもさらに大きい祝福を受けるだけでなく、天国でも太陽のように輝く場所に入れるからです。 4. 試練を早く終わらせるには 神様が試練に会わせられたとき、その試練が早く終わるか長びくか、試練が厳しいか軽いかは、その人の心にかかっています。心にどれほど善か悪が多いかによって違うのです。 悪が多いなら、試練に会ったときその悪を現すので、試練が長びきます。反対に、善が多くて、どんなことにあっても信仰を見せて喜び、祈って、感謝して、変わらない忠実で神様に喜ばれるなら、神様がすみやかに敵である悪魔・サタンの陣を打ち砕いて、祝福してくださいます。 しかし、多くの聖徒が試練の中でまことの信仰を見せることができなくて、つぶやいたり、嘆いたり、憎んだり、争ったりなど、悪が現れます。この時も、私たちの神様は一人一人が試練を通して変えられるまで忍耐深く待ってくださいます。 聖徒たちはイエス・キリストを受け入れて、みことばどおりに生きているつもりでも、時には欠けた姿もあり、つまずく時もあります。こういう姿を見て、神様が「あなたには罪がある」と直ちにさばかれるなら、果たして救われる人が何人いるでしょうか。 しかし、愛なる神様はすべての人が悔い改めて立ち返り、真理の中を歩むのを忍耐深く待っておられます。第二ペテロ3:9に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあるとおりです。 そして、聖霊も私たちの心をたたいて真理に導いてくださるので、みことばどおりに生きていない時は心が苦しくなるのです。それでも聞き従わなければ、いろいろな試練や患難がやって来ます。そして、これを通して私たちは純金のように出てくるのです。 ですから、試練に会わせられるのも神様の愛です。このような神様の心を悟って、いつも真理で見分けて、問題の原因を自分の中から見つけて、神様の前にさらに完全な姿にならなければなりません。 しかし、ヨブはこのような神様の愛を悟れなかったので、つぶやいて誤解しました。 もし友だちが最初ヨブに助言したとき、ヨブが「そうだ、あなたがたの言うことは正しい。私がこんな試練に会ったのは自分に原因があるからだろう。言われたとおりに祈りながら、神様の前に自分の過ちを発見しよう」と答えたとすれば、友だちがヨブをあれほど責め立てたでしょうか。ヨブが自分は正しいと言って、友だちの助言を無視して、神様に立ち向かっていったから、友だちは腹を立ててヨブを攻撃したのです。 もしヨブが友だちの助言を受け入れていたなら、友だちはヨブをもっと愛して慰めてくれたでしょう。つまり、神様がヨブを友だちの手に渡したのではなく、ヨブは自分の悪のため自分で苦しみを招いたのです。 ヨブの友だちも同じです。ヨブの言葉に感情的になって手向かったので、ヨブはますます心の戸を閉ざしたのです。結局、ヨブと友だちはどちらも自分の悪のため、自分から苦しみの沼に落ちていったのです。 もしヨブが自分を発見して立ち返ろうとしたならば、神様が恵みを与えて、悟って立ち返るように助けてくださったでしょう。ヨブの皮膚病も、神様は一瞬でいやしてくださったでしょう。 何か問題が起こったとき、私たちは原因を人のせいにしないで、自分の中から見つけなければなりません。みことばで自分を照らして、心から悔い改めて立ち返ると、神様は必ず問題を解決して、祝福してくださいます。 したがって、すべての問題の原因を自分の中から見つけて、すみやかに神様の恵みを回復し、どんな状況でもただ信仰の告白、感謝の告白をして神様のみわざを引き下ろしますよう、主の御名によって祈ります

「ヨブ記講解(40)-人のせいにするのはやめよう」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:7~9
 

きょうは、すべての問題の原因が自分にあることを悟って、神様のみことばから答えを見つけなければならないことを伝えます。

1. すべてを神様のせいにするヨブ

「まことに神は今、私を疲れさせた。あなたは私の仲間の者をことごとく荒らされました。」(ヨブ16:7)
ヨブは自分が疲れたのも、友だちが荒らされたのも、すべて神様がそうなさったのだと言っています。
「疲れる」とは、辞書では「体力や気力を消耗してその働きが衰える。くたびれる。」という意味ですが、霊的には心の元気がなくなった状態をいいます。その時、悔い改めて回復しなければ、もっとひどくなって、何もできない無気力な状態、意欲が失われた状態にまでなります。
信仰生活をしている人の中でも、試練や患難に会ったら、それを解決するためにあらゆる努力をしてみて、解決されなければ、疲れてしまう人がいます。忠実に奉仕する意欲も、伝道する意欲も、祈る意欲もなくなって、悩み、焦り、不安に捕われるのです。この状態がさらにひどくなると、生きる意欲さえなくなってしまいます。


使徒パウロも罪との戦いで最も苦しかった時に「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言いました。このように自分の力ではとうてい解決できない状態を「疲れた」というのです。
「荒らす」の辞書の意味は「乱雑な状態にする。傷つけたり壊したりする。いため傷つける。」ですが、霊的には「心がかき乱されて人の道理から外れること、真理の道から外れること」を意味します
 

ヨブは、神様が自分を打たれたので、疲れて無気力になっただけでなく、自分の仲間の者が道理から外れてとんでもない言葉と行動で自分を責めたてている、彼らの心が荒らされた原因も全部神様にあると言っています。友だちが興奮したのは、元を言えば自分たちの悪が原因ですが、その悪を刺激して動き出すようにしたのは、ヨブが激しい言葉を口にしたからです。ところが、ヨブはこのことを悟れないまま、神様が友だちを荒らされたと主張しています。 2. すべての問題の原因は自分にあることを悟るべき 世の人の中には、神の存在を信じもしないのに、試練に会うと天に向かって恨む人が実に多いです。たとえば、農作業をしていて雨が降らなくて作物が育たないと、「天もあんまりだ」と言って、信じもしない神を恨んで不平を言います。 無神論者や信仰の少ない人は「神様はなぜエデンの園に善悪の知識の木を置いて、人が罪を犯すようにしたのか」「神様は愛の豊かな方だといいながら、なぜ恐ろしい地獄を造られたのか」と問い詰めたりもします。自分が罪と悪を行っているので、ひょっとして存在するかもしれない後の世に対する恐れから、神様を悪い神様だと罵倒します。 もっとひどい時は、神様のみわざが現れると、「間違っている、偽りだ」と迫害するのです。神様のみわざが偽りであってこそ後の世はないと思うからであって、それでこそ好きなように罪を犯すことができるからです。 クリスチャンの中にも、真理をよく知らなくて神様を誤解して、問題の原因をとんでもないところで探す場合が多いです。世にいた時は、罪を犯していても良心の呵責を感じませんでした。ところが、教会に来てみことばを聞いて、罪について指摘されると「信仰生活はあまりにもきつい」 「みことばどおり行うのは難しい」と言います。自分がみことばを守らないで罪を犯しているから苦しいのに、教会のせいにするのです。 また、教会で奉仕をしていて、働き人との間で平和が壊れたり、人によってつまずいたりしたとき、相手のせいで熱心が冷めたと言う人もいます。しかし、これも自分が平和をつくれなったからであり、神様を第一に愛していなかったから奉仕をやめたのです。 ある聖徒は「神様を信じれば祝福されると聞いたのに、なぜ私は祝福されないのですか」と聞きますが、これもまた神様のみことばをあまりにも知らないからです。 申命記28章には、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられ、すべての祝福があなたに臨む、と書いてあります。 第三ヨハネ1:2には「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。これを逆に言えば、たましいに幸いを得ていないからすべての点でも幸いを得ていないし、健康ではないということです。 また、ガラテヤ6:7に「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」とあるので、蒔かなければ刈り取ることはできません。祈りを蒔けばたましいに幸いを得て、物質を蒔けば物質の祝福を受けます。奉仕を蒔けば健康になるなど、何でも蒔いたとおりに刈り取るので、祝福を受けようとするなら、信仰によって熱心に蒔かなければなりません。 また、神様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」 「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。ですから、自分の信仰が霊の信仰か肉の信仰か、霊の信仰がどれぐらいあるかによって、実が違ってくるしかないのです。もし求めても答えを受けられなかったとすれば、自分が真理のみことばを守って生きていないし、心と思いを世に寄せているからなのです。 このように、すべての原因は自分自身にあることを知っておくべきです。神様は約束されたことを間違いなく成し遂げられる方だからです(民数記23:19)。 3. 真理のみことばから答えを見つけるべき 「あなたは私を、つかみました。私のやせ衰えた姿が、証人となり、私に向かって立ち、面と向かって答えをします。」(ヨブ16:8) 花を折れば、その花はすでにいのちの源である根から離れたので、時間が経つとしおれてしまいます。同じように、ヨブは自分のいのちの根源だった財産と家族と健康と子どもなどを神様が打たれたので、自分はその過程で疲れてやせ衰えてしまったというのです。 ヨブは、なぜこんな試練と患難が自分に臨んだのか、原因を知ろうともしないし、友だちの話を聞こうともしないから、悟れませんでした。真理のみことばに照らしてみれば、必ず自分の何が問題だったのかが明らかになるはずです。 もし発見できないなら、祈りと断食をしてでも悟ろうと努力するとき、必ず聖霊が悟れるように助けてくださいます。そして、悟ったら悔い改めて立ち返れば、神様が憐れんでくださるのです。 私たちは神様のみことばを基準として、すべてにおいて自分の感情に左右されたり、自分の考えに合わせたりせず、相手の立場で考えるべきです。結局は問題の原因を他人のせいにしないで、自分のせいにするとき解決される、ということを心に留めなければなりません。 霊的に「やせ衰える」とは、完全にへたり込むことをいいます。木から幹が切られてしまった状態、または太陽が雲におおわれた状態のように、いのちの源がなくなった状態をいいます。 ヨブは財産も健康も家族もなくなったし、友だちさえ敵になってしまいました。それで「私がこのように疲れてやせ衰えたのは、神様が私を打たれたからです。ところが、友だちは私の姿を見て、私が犯した罪のせいで罰を受けたのだと言っています」というのです。友だちに誤解されて悔しいのです。 ヨブは、自分は正しい人なのに、このように途方もない試練、患難に会ったのは、全知全能の神様だけがおできになることだと言って、すべてを神様のせいにしています。だから、心にある神様への不満や不平、恨みなどを言いたい放題言っているのです。 韓国のことわざに「うまくいけば自分のおかげ、失敗すれば先祖のせい」という言葉があるように、多くの人が事がうまくいけば自分がよくやったからだと言い、うまくいかなければ他人のせい、環境のせいにします。 しかし、自分の目には正しいようでも、神様のみことばに照らしてみれば、必ず真理から外れた事をしたから問題が生じるのです。神様のみことばに聞き従う人は知恵があって、賢く対処するので、詐欺にあうこともありません。人が詐欺にあう場合は、ほとんどが物質への欲や自分の利益を求める心のせいです(ヤコブ1:15,第一テモテ6:10)。 保証人になって問題が起こる場合も同じです。神様は聖書のあちこちで保証人になることを禁じておられます(箴言6:1-2,箴言22:26,箴言11:15)。今すぐは保証人になってあげないと、兄弟や友だちを危険から助け出さないようだし、裏切るように見えても、結果を見ればそうではありません。後で見れば、それが家族を救う道であり、友だちをそれ以上滅びないようにする道なので、神様は保証人になってはならないと言われたのです。 聖徒の間のお金の取引も同じです。ローマ13:8に「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」とあります。ですから、保証人になってほしいと頼んだり、お金の取引を持ちかけてはならないし、何より教会の中でこういう事があってはいけません。 「神は怒って私を引き裂き、私を攻めたて、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる。」(ヨブ16:9) 神様が怒って自分を引き裂いていると言ったのは、ヨブが今、皮膚病の傷が固まっては崩れるを繰り返しているからです。 「攻めたてる」とは、辞書では「激しく攻める、しきりに攻撃する」という意味です。霊的には、神様がヨブの罪を繰り返し取り上げては非難しておられる、という意味です。つまり、神様が自分を迫害していると言っているのです。 それだけでなく、神様が自分に向かって歯ぎしりし、続けて攻めたてて、目をぎらつかせて自分をにらんでいるというのです。つまり、神様がヨブを敵とみなして、続けて攻撃して苦しめているということです。ヨブは、病気がよくならないで苦しみが続くので、こんな表現をしています。 しかし、偉大な創造主の神様が、しかも愛と善そのものである神様が、どうして被造物ひとりをターゲットにして、歯ぎしりして攻撃なさるでしょうか。私たちはどんなに大変でつらいことに会っても、決してヨブのように神様を恨んだり、暴言を吐いたりしてはいけません。 耐えがたいことに会えば、自分の中に深く潜んでいた悪が現れて、前は想像もできなかった悪があふれ出るのが試練の時間です。この時「私はこんな人じゃなかったのに…」と思って、環境と他人のせいにしてはいけません。自分でも知らなかった悪い姿を発見したので、必ず捨てて変えられようと決心して努力すればいいのです。そうするとき、深いところにあった悪も、本性の中の罪の性質も捨てることができるのです。 もしかして自分に人のせいにする心や、真実でない心はないのか、いつも神様のみことばに照らしてみますように(詩篇119:105)。そして、どんな試練や問題の前でも、真理の光に導かれて栄える祝福を受けますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(39) -むなしいことば」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記16:1~6
 

むなしい」とは、空虚である、内容がない、無益である、根拠がない、という意味です。ヨブはきょうはむなしいことばの無益さと、御霊の人と肉の人の違いについて伝えます。

1. むなしいことば

「ヨブは答えて言った。そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。」(ヨブ16:1-3)
15章ではエリファズが論じ、16章からはヨブがその言葉を受けて、もう一度自分の言い分を語ります。これまでヨブの友だちがヨブにあれこれ言ったことは、ヨブもすでに先祖から聞いてよく知っている、何度も聞いたと言っています。


それでは、ヨブはなぜ友だちを「煩わしい慰め手だ。」と表現したのでしょうか。
「慰め」とは、何かをして一時の悲しみや苦しみをまぎらわせる、心を楽しませる、心をなごやかに静めるという意味です。ヨブの友だちはヨブの慰め手ではありませんでした。むしろヨブを怒らせて傷つけ、悩ませるだけだったのです。友だちはヨブを責めたてたので、ヨブがその言葉を聞きながら自分について考えると、頭が痛くなりました。だから、友だちの言葉によってかえってストレスを受けているのです。
これは信仰の兄弟の間でも気をつけなければなりません。相手が自分の言葉を受け入れないなら、かえって逆効果になります。ですから、自分の言葉のせいで相手が誤解して煩わしいと感じるなら、いっそ黙って待つ方がよいのです。

「なぜ友だちの助言を「むなしいことば」だと言い切っているのでしょうか。それは、友だちの行いが手本になっていなかったからです。
 

これは主にあってもとても大切です。たとえば、真理の中で生きていて手本になるような人が伝道すれば、人々は心の戸を開いて福音を受け入れるでしょう。また、祝福されている人が「神様を信じれば祝福されます」と大胆に伝えることができるし、これを聞いた人も「あなたを見ていたら私も教会に行きたくなります」と答えるでしょう。 反対に、言葉と行いが正しくないし、神様の栄光を遮っている人が伝道するなら、「あなたこそしっかりやれば」とあざ笑われるようになります。このように、何の役にも立たない言葉が「むなしいことば」なのです。 ヨブは友だちの言葉がむなしいと言いながら「あなたは何に興奮して答えるのか。」と問い詰めます。ヨブの友だちは何のためにこのように興奮したのでしょうか。 まず、ヨブが神様の前に不遜なことを言ったし、これに対して友だちが熱心にアドバイスをしたのに、ヨブは無視しただけでなく、神様を悪い神様だとののしりました。その一方で自分は正しいと主張するから、友だちはこんなヨブが嫌になって、ますます腹が立って興奮したのです。 しかし、ヨブは自分がこのように原因を提供をしたことに気づいていないので、友だちに「なぜそんなに腹を立ててむなしいことを言っているのか」と質問しています。その上、自分は相変わらず正しくて完全だと信じていたので、友だちが興奮しているのが理解できなかったのです。 このように、話をしていて相手がいら立つなら、両方に問題があることを覚えておくべきです。神様は「敵をも愛しなさい」「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」と言われ、「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、」「いつも善を行うよう務めなさい。」と言われました。また「いつも喜んでいなさい。」「すべての事について、感謝しなさい。」とも言われました。このようなみことばが霊の糧となっていれば、悪口を言われても、誤解されても、真理で心を守ることができます。 ひょっとして自分に過ちがあって非難されたなら、悔い改めて立ち返ればいいし、訳もないのにそんなことを言われたなら、自分が真理に逆らっていないので、心は安らかでいられるのです。このように、真理に従って神様の前に喜んでいて感謝するなら、敵である悪魔・サタンが退くし、神様が喜ばれるので祝福が臨むようになるのです。 反対に、そういう言葉のためにカッとなったり、気を悪くしたり、傷ついたりするなら、これは自分の中に悪があるので、サタンのしわざを受けているということです。 2. 互いに立場を変えてみようと提案するヨブ 「私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。」(ヨブ16:4-5) ここで「ことばを連ねる」とは、行いはないのに、自分たちの思い込みや憶測によってしゃべり続けるという意味です。つまり、友だちがヨブの立場で考えて話をするのではなく、自分たちの憶測で勝手にヨブを責めているというのです。 だから、ヨブは友だちの話が自分とは関係のない話だと思うので、互いに立場を変えてみようと提案します。「もしあなたがたが私の立場で、あなたがたの悪い心が私にあるなら、私もあなたがたを攻撃して、あなたがたが興奮するように悪口を浴びせただろう」というのです。 しかし、ヨブは、自分はむしろ彼らに励ましの言葉で慰めてあげ、元気づけてあげたと言っています。これは以前、ヨブにこのような善の行いがあったので言えることです(ヨブ4:3-4)。ヨブが試練に会う前は、たとえ霊的な行いではなかったとしても、肉的には善と愛を施す行いがありました。 それで「友よ、あなたがたは行いもないのに、私にああだ、こうだと指摘している。だが私には行いがあるから、あなたがたにこう言えるのだ。私が試練に会う前だったなら、あなたがたを強くすることもできるし、慰めてあげただろうに」と言っているのです。 ヨブの方では正しいことを言っているようでも、友だちをさらにいら立たせるばかりでした。友だちはどれほど腹を立てて興奮したのか、全身を震わせて頭を振るほどでした。友だちの目には、今のヨブにはそんなことを言う資格がないからです。ヨブは神様に呪われてめちゃくちゃになっているのに、悔い改めるどころか、神様に口論を吹きかけ、自分たちを見くびっている悪い姿でした。だから、ヨブがいくら良いことを言っても耳に入らなかったのです。 ヨブは、自分が昔のようだったら、友だちを強くすることも、慰めてあげることもできたのにと言いましたが、これはつじつまが合わない言葉です。自分の悩みを解決できない人が、どうして他人の悩みを解決してあげることができるでしょうか。 私たちはこのような話し方がどれほど無益なのか知っておくべきです。もしヨブのように今はみすぼらしい境遇にいる人が「私も昔はこういう人だった」と言いながらアドバイスをするなら、相手は聞き入れるでしょうか。 たとえば、酒、タバコをしながら悪い言動で人に迷惑をかけている人が「私はクリスチャンホームで育って、前は聖歌隊もして、教会学校の教師もして、忠実に奉仕をしていた」と言うなら、これは神様の栄光を遮る姿です。 これとは反対に「私は前、信仰生活をちゃんとしていた時は豊かだったのに、信仰生活を怠けて世に落ちたら、貧しくなってしまいました。だから、私のようにならないで、信仰生活を正しくしてください」と証しをするなら、これは悔い改める姿勢でしょう。 このように過去、自分が失敗した原因になった話をして勧めれば、相手も恵みを受けて、それを教訓にして益になるでしょう。 3. 肉の人と御霊の人の違い 「たとい、私が語っても、私の痛みは押さえられない。たとい、私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るだろう。」(ヨブ16:6) よく、人の事は簡単そうに見えるといいます。それで、他の人が何かの問題で悩んでいれば、「何でもないことで何をそんなに難しく考えるんですか。こうすればいいのに」と偉そうにアドバイスする人もいます。ところが、いざとなると自分の問題は解決できないならば、その言葉には何の意味もないし、そういう人をどうして信じることができるでしょうか。 霊的にも、本人に神様を見つけた体験がなけば、相手に確信をもって言えないでしょう。自分はできていないのに、相手に押しつけることもできないでしょう。 ヨブも前は人を強くして慰めてあげたのですが、今、自分の問題については何もできないことを悟って、自己発見が始まっています。ヨブが尊敬されるような地位にいた時は、彼の話は人に受け入れられるようだったのに、今は友だちさえ無視しています。 ヨブは肉の人だったから、自分が試練に会ったら口から悪い言葉を出したので、友だちはヨブを悪い人扱いしているのです。このように肉というものは変わってしまい、朽ちて無益なものなので、神様はヨブにまことのいのちを与えるために試練に会うようにされたのです。 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」(ヨハネ6:63)とあるように、相手に変化といのちを与えようとするなら、まず自分の心が真理で満たされて、言葉に霊的な権威が伴わなければなりません。 肉の人は悔しい目に会ったとき、じっと耐え忍ぶことが難しいです。腹が立って眠れないから、結局は相手のところに行って、ひとこと言ってやってこそすっとするのです。 しかし、御霊の人は、使徒パウロが「私にとって、毎日が死の連続です。」と告白したとおり、自分というものがないから、わだかまりを抱くこともないし、相手に負けてあげてこそ心が安らかです。試練に会った時も、黙々と耐えて待つことができます。 また、肉の人は他人の過ちについて聞けば黙っていられなくて、周りに伝えてこそすっとするのです。肉の人は敵である悪魔・サタンの声を聞くので、悪を行うことでサタンを喜ばせるので、自分の心もうれしくなるのです。 もし御霊の人が他人の過ちを伝えたとすれば、すっとするのではなく、御霊がうめかれるので苦しくなるでしょう。問題が起こったとき、周りに愚痴をこぼしたら、気持ちが楽になるのではなく、むしろモヤモヤします。喜べなくて不平をこぼしたことを悔い改めてこそ、心が安らかになります。 肉の人と御霊の人はこのように正反対です。ですから、御霊の人になるほど聖霊の声を聞いて従うようになり、まことの平安と喜びを味わうようになります。 しかし、ヨブは御霊の人ではなかったので、黙って忍んでいることが苦しかったし、口から悪をこぼしました。それでも心に善があるので、自分が蒔いた言葉によってだんだんモヤモヤして苦しくなります。 このように人が口で否定的な言葉を蒔いていけば、自分で自分をわなにかける結果をもたらします。箴言13:2に「人はその口の実によって良いものを食べ、」とあり、箴言18:21には「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。 私たちがこのようなみことばを心に留めて、否定的な言葉を口にしないで、真理にあって肯定的な言葉を口にしていけば、状況が変わります。したがって、すべてのことにおいて口を制御して、ただ肯定的な告白、信仰の告白、善の告白をする賢い聖徒の皆さんになりますように。

「ヨブ記講解(38) -ヨブを呪うエリファズ」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:26~35
 

きょうは、ヨブをひどく呪うエリファズの姿から私たち人の子らの心を解剖して伝えます。

1. ヨブをねたんでいた心が現れるエリファズ

「厚い盾の取っ手を取っておこがましくも神に向かって馳せかかるからだ。また、彼は顔をあぶらでおおい、腰の回りは脂肪でふくれさせ、荒らされた町、人の住まない家に、石くれの山となる所に、住んだからだ。」(ヨブ15:26-28)


ここで「おこがましい」とは、身の程知らずで高慢な人の姿をいいます。また「厚い盾の取っ手を取って…神に向かって馳せかかる」とは、神様の前に聞き従わない姿をいいます。エリファズはヨブがこのように高ぶっていて聞き従わない人だと罪に定めています。
「腰の回りは脂肪でふくれさせ、」とは、おいしい物をたくさん食べて、太っておなかが出ている姿をいっていて、物質的に豊かな状態を意味します。つまり、ヨブが高ぶって神様を裏切った理由は、物質が豊かだからというのです。
たとえば、イスラエルの民が神様に仕えていた時は、国は豊かで平和でした。ところが、物質的に豊かになって苦労がなくなると、すぐ偶像に仕えて神様を裏切りました。すると神様が御顔を背けられて隣の国に侵略され、捕虜にされて奴隷生活をするはめになりました。国が滅びたので町は荒廃し、人が住まないから動物がうろついて荒れ果ててしまいました。すると人々はあてもなくさまよって山の中に避難したり、岩の間に住んだり、山で農作業をしたりしました。
エリファズはヨブがそんな人だということをたとえで説明しています。ヨブには大きい富と名誉があったのに、神様を裏切ったら、あっという間に子どもと財産を全部失った、悪性の腫物で苦しみながら食べる物もないみじめな運命になった、というのです。
 

エリファズはヨブをさばいて罪に定めるだけでなく、厳しく呪っていますが、これはねたみ、そねみがあるからです。過去、ヨブが豊かで、周りの人たちを助けて尊敬されていた時は、友だちもヨブを愛しているつもりだったし、親しく交わっていました。ところが、彼らの心の中にはいつもヨブに対する嫉妬がありました。憧れの対象だったヨブが今は滅びかけているので、心に潜んでいたねたみ、そねみが表に出ているのです。友だちはヨブの口から神様に立ち向かう言葉が出てくると、これを口実にして言いたい放題責めて、呪ってさえいるのです。 2. エリファズの厳しい呪い 「彼は富むこともなく、その財産も長くもたず、その影を地上に投げかけない。彼はやみからのがれることができず、炎がその若枝を枯らし、神の御口の息によって彼は追い払われる。」(ヨブ15:29-30) これは、ヨブが二度と昔のように豊かになることもないし、財産も増えることはない、と言っているのです。「彼はやみからのがれることができず、」とは、ヨブが今経験している厳しい試練、患難からとうてい抜け出せないということです。そして「炎がその若枝を枯らし、」とは、根絶やしにするという意味で、一つ残らず完全に希望を失ってしまうということです。ヨブは災いから永遠に抜け出すことはできないという意味です。どれほどひどい呪いでしょうか。 それでは、「神の御口の息によって彼は追い払われる。」とは、どんな意味でしょうか。 神様は無から有を創造する方であり、ことばで天地万物を創造なさいました。このような神様の力は広大な宇宙と天地万物が一瞬で消え失せるようにすることもおできになります。まして小さい被造物にすぎないヨブを神様の御口の息によって「フーッ」と吹いてしまえば、それで終わりだという意味です。高ぶっておこがましい人、神様に聞き従わず立ち向かう人は、神様がこのように追い払わってしまわれるというのです。 この言葉自体は正しいのですが、ヨブには当てはまらず、エリファズが悪意を持ってヨブを呪う言葉です。 「迷わされて、むなしいことに信頼するな。その報いはむなしい。」(ヨブ15:31) この言葉は、イエス様の時代のパリサイ人や律法学者、祭司長たちのことを考えてみれば、理解しやすいでしょう。彼らは神様を愛しているかのように話をしたし、律法を守ると言っていたし、自分では正しい人だと思っていました。ところが、イエス様は彼らを白く塗った墓のようだ、偽善者だと責められました。彼らは救い主として来られたイエス様が目の前におられるのにどなたかわからず、十字架につけてしまいました。 しかし、本人たちはモーセの律法を守って、神様を信じていると思っていたので、みずから欺かれて、滅びの道に向かってしまいました。エリファズはヨブをこのような偽善者扱いしているのです。「ヨブ、あなたは自分では正しい人だと思っていても、自分で自分を欺いているのだ。結局、あなたに臨んだのは滅びではないか。すべてを失って、何もないではないか」と言っているのです。 「彼の時が来ないうちに、それは成し遂げられ、その葉は茂らない。彼は、ぶどうの木のように、その未熟の実は振り落とされ、オリーブの木のように、その花は落とされる。」(ヨブ15:32-33) 「彼の時が来ないうちに、それは成し遂げられ、」つまり「ヨブが光を見ないうちに、今まで呪ったことが臨むだろうから、あなたが回復する可能性は全くない」と言っているのです。また、木は枝が生き生きしていて葉が茂ってこそ、花も咲いて実も結びますが、葉が茂る前に滅びが臨むというのです。つまり「あなたは終わりだ!」ということです。エリファズはヨブに、今後回復できるという希望も、何の望みも持つな、と言っているのです。 もし、ぶどうの実がたわわに実ったのに、熟する前に病虫害で全部落ちてしまうなら、どれほど空しいでしょうか。また、オリーブの花が雨風で早く落ちてしまえば、実を結ぶのに大きい支障があります。エリファズは、ヨブの運命がまさにこのようだと言っているのです。 ここで「ぶどうの実」の霊的な意味を調べてみましょう。 イエス様は弟子たちに「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)と言われました。ぶどうの木に枝がしっかりついていてこそ、花が咲いて実を結びます。もし枝が木から離れるなら、すぐ枯れてしまい、踏みつけられて、最後は火に投げ込まれるでしょう。 これと同じように、私たちがイエス・キリストから離れるなら、すなわち真理の中で生きていないなら、殻のような信者になって、さばきの日に地獄の火に落ちるしかありません。これは、ぶどうの木の未熟の実が振り落とされるようなものです。 私たちの信仰生活でもこういうことはよくあります。実がなっている木に雨風が吹きつけると、弱い枝は折れて、実はばらばらと落ちてしまいます。このように、敵である悪魔・サタンは私たちの周りの人々を通して試練をもたらしますが、この時、信仰が完全でないとか、真理に完全に立っていない聖徒は信仰を失って、主から離れてしまうこともあります。私たちはいつも目をさましていて、みことばの中で生きていなければなりません。そうしてこそ、どんな誘惑にも試練にも圧倒的な勝利者になることができます。 3. ヨブを神を敬わない者の仲間にたとえるエリファズ 「実に、神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使う者の天幕は火で焼き尽くされる。」(ヨブ15:34) エリファズはヨブを神を敬わない者だとさばいて罪に定め、こういう人には何の実りもないと言っています。また、ヨブをわいろを使う悪い者のように言っていますが、なぜこう言うのでしょうか。 ヨブが豊かだった時は多くの人に施しをしたし、弱い彼らを力づけて、徳と愛を施しました。そうすると、自然にヨブに助けてもらった多くの人々がいろいろな贈り物やお礼をしました。ヨブの友だちはこのように愛されてほめられているヨブをねたんで見ていたのですが、当時はそれが現れていませんでした。 ところが、言い争っていたら、前はそれとなくねたましく思っていた心が現れたのです。それで、ヨブがもらったお礼をわいろだと表現して、こういう人の天幕は火で焼き尽くされると呪っているのです。 「彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、その腹は欺きの備えをしている。」(ヨブ13:35) 旧約聖書を読むと、これと似たみことばがたくさんあります。 「見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。」(詩篇7:14)、「正しい人の計画することは公正で、悪者の指導には欺きがある。」(箴言12:5)、「悪をたくらむ者の心には欺きがあり、平和を図る人には喜びがある。」(箴言12:20)とあります。エリファズはこのようなみことばを先祖から聞いて知っているので、そのまま引用してヨブに教えようとしているのです。 本文に「彼らは害毒をはらみ、悪意を生み、」とあるとおり、人は不法を頭で考えると、結局は悪い行いとして現れます。むさぼりのある人は「どうやって富を得ようか、どうやって人の財産を横取りしようか」とまず考えて、次にこれを心に植えつけます。この心が刺激されて、結局悪い行いとして出てきます。つまり、むさぼりがあるので思いを通してサタンの誘惑を受け入れ、結局詐欺や横領、盗みなどの悪い行いが出てくるようになるのです。 ですから、創世記6:5に、神様が洪水で世をさばかれる前に「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」とあるのです。心に悪があるから、心に計ることも悪いのです。 しかし、心に悪がなければ、思いを通してサタンが働くことができません。マタイの福音書15:18に「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。」とあるとおり、悪い心がなければ、悪い考えや行いが出てくることもないのです。 このように、心にある善と悪がどれほど強いかによって考えや行動が左右されます。善が多ければすべてを良いほうに考えますが、心にわだかまりや憎しみなどの悪があれば、すべてを悪いほうに考えて、言葉や行動が悪くなるのです。 エリファズは、ヨブの考えと心がこのように悪いので、大きい災いと滅びが臨んだと言っています。これまでのヨブの姿を見ると、神様の前に訴えて問い詰めるなど、悪くて高ぶっていたのは事実です。 しかし、これは試練が厳しいから現れたうわべの姿であり、ヨブはエリファズが言うように神を敬わない者ではありません。今、ヨブの友だちは心がひねくれているので、ヨブが以前行った善と徳までけなしているのです。 愛する聖徒の皆さん、 神様はヨブと友だちの話を通して、私たち人の子らの心をことごとく解剖してくださっています。ねたみ、そねみがあれば、他の人がうまくいったり愛されたりすると、おもしろくありません。また、相手と自分を比較して落ち込んだりもします。しかし、霊の愛は真理を喜びます。 したがって、ヨブ記講解で自分の心を省みて発見し、悪は根の根まで引き抜いて、真理の心に変えられる機会にしますように。

「ヨブ記講解(37) -エリファズ二回目に論ずる(3)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:17~25
 

前回に続いて、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちが信仰相談を受けるとき、聖霊の声を聞くことがどれほど重要なのか伝えます。

1. 先祖の言葉を引用してヨブを悟らせようとするエリファズ

「私はあなたに告げよう。私に聞け。私の見たところを述べよう。それは知恵のある者たちが告げたもの、彼らの先祖が隠さなかったものだ。彼らにだけ、この地は与えられ、他国人はその中を通り過ぎなかった。」(ヨブ15:17-19)
エリファズはこれまで自分の知識を総動員してヨブを説得したのですが、ヨブが聞かなかったので、知恵のある先祖の言葉を引用しようと言います。
イスラエルの地は神様が選民に与えられた地なので、他国人はその中を通り過ぎないように教えました(ヨエル3:17)。また、神様は選民イスラエルをエジプトから連れ出した後、将来カナンの地に入ったら、そこの異邦人を聖絶せよと命じられました。もしこの声に聞き従わないなら、その地に住んでいた異邦人がイスラエルの民にとって、いばらとわなになると仰せられました(申命記7:16)。
もしイスラエルの民が異邦人と一緒に暮らすなら、彼らが仕えている偶像や彼らの間違った慣習と悪行に染まることもあるので、神様は彼らを滅ぼし尽くしなさいと命じられたのです。私たち人は環境から影響をすぐ受けて、それによって滅びに向かうので、神様が愛をもって未然に防いでくださるのです。

イスラエルの民は預言者モーセとともにカナンの地へ行く途中で、異邦人の国々と戦って大勝しました。これを見て恐れたモアブの王バラクは、神様と交わるというバラムを呼んで、イスラエルの民を呪わせます。しかし、神様は呪わないようにされ、反対に祝福のみことばだけを下さいました。
 

これに対してバラムは計略を巡らし、イスラエルに呪いが臨む事をバラク王に教えます。つまり、モアブ人の集まりにイスラエルの民を招待させたのです。するとイスラエルの民はモアブの女たちと淫らなことをして、偶像を拝み、これによって疫病が臨んで2万4千人も死んだのです。イスラエルの民は神様の大いなる力を体験したのに、異邦人と出会って彼らの文化に接すると、すぐ心が移り変わったのです。 神様がイスラエルの民に異邦人との結婚を厳格に禁じられたのも、このような理由からです。イスラエルの民が神様の命令に聞き従って、偶像に仕えないでみことばの中で生きていた時は、栄えの道に導かれました。 しかし、神様を離れて異邦人とつらなって、偶像に仕えた時には、他国に侵略されて捕虜にされるなど、多くの困難を経験しました。 異邦人と結婚してはならないということは、霊的には、神の子どもは世と友にならず、真理にあってみことばに聞き従いながら生きなければならない、という意味です。神の子どもが世と友となって、真理と反対になる悪を行って生きていく時は、サタンのしわざを受けて試練に会うのです。 ところで、エリファズがこのようにイスラエルの民をたとえに挙げているのは、ヨブを悟らせるためです。ヨブが不従順の罪を犯したイスラエルの民のように神様の前にふさわしくないから、試練や患難が来たのだと厳しく責めているのです。 2. ヨブを悪者で横暴な者だとさばくエリファズ 「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。横暴な者にも、ある年数がたくわえられている。」(ヨブ15:20) ここで「横暴な者」とは、権力や腕力に任せて無法で乱暴な行いをする者という意味です。エリファズは、選民イスラエルと一緒にはいられない異邦人のように、ヨブもそんな悪者で、横暴な者だと言っているのです。つまり、ヨブは悪者で横暴な者のひとりなので、神様がヨブを懲らしめられるようにすでに定めておられるというのです。 「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ。」とは確かに神様のみことばです。「まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(詩篇1:6)、「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから。」(箴言24:19-20)と書いてあります。必ず善であれ悪であれさばきがあって、悪者はしばらく栄えるように見えても、結局は地獄の火に永遠に落ちるのですから、悪者が栄えているのをねたむ必要はないのです。 「その耳には恐ろしい音が聞こえ、平和なときにも荒らす者が彼を襲う。彼はやみから帰って来ることを信ぜず、彼は剣につけねらわれている。」(ヨブ15:21-22) これまでヨブの耳には、財産が全部なくなってしまったという報告、子どもたちが死んだという報告、飼っていた家畜が死んだという報告が聞こえてきました。それだけでなく、妻が自分を捨てて呪う言葉も聞いたし、親戚も遠ざかりました。しかもからだには悪性の腫物が出て、うめき声が水があふれるように流れたし、嘆きの声も絶えなかったのです。ヨブはずっとこのような声だけ聞いていたのです。 このようなことが起こる前は、ヨブにはいつも平和がありました。しかし、試練や患難が襲ってくると、平和はすぐ荒らされて、ヨブは死の直前まで行ってしまいました。エリファズの目には、このように大きい試練や患難に落ちたヨブには抜け出す希望がないのです。 ここで「剣につけねらわれている」とは、ヨブが今、多くの人から卑しめられ、あざけられ、さげすまれ、心臓を刃物でえぐり取られるような痛みを経験している、ということです。つまり、剣につけねらわれているようなものなので、やみから帰って来ることを信じられないはめになった、というのです。 「ヨブ! あなたは悪者で横暴な者だから、平和に見えていても、神様が懲らしめて呪われて、今は剣につけねらわれている。だから、試練や患難から救われたいと願ってはいけない。悪者や横暴な者には滅びが定まっているのだ。もう人々があなたをあざけって呪うことしか残っていない」と言っているのです。 ヨブは自分では正しい人だと思っていたのに、友だちから悪者だ、横暴な者だと罵倒されるので、どれほどつらかったでしょうか。しかも聖霊時代でもない当時、ひとりでもなく三人の友だちが次々と攻撃するので、悔しくてはらわたが煮えくり返るしかありません。そのように攻撃するヨブの友だちの悪と責任も大きいのです。 3. 正しい信仰相談をするには聖霊に働きかけられるべき 「彼は食物を求めて、『どこだ』と言いながら、さまよい、やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。苦難と苦悩とが彼をおびえさせ、戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」(ヨブ15:23-25) ヨブは豊かな人だったのに呪われてつぶれてしまったし、やみから帰って来られないはめになったので、今はさまよいながらもの乞いするしかない、と言っているのです。「やみの日がすぐそこに用意されているのを知っている。」とは、やみの力から抜け出せないままさまよっていて、結局は「とうてい回復する道がない。もうおしまいだ」と言ってあきらめてしまう、絶望してしまうという意味です。 これはどれほど厳しくて恐ろしい呪いの言葉でしょうか。エリファズがヨブに対してわだかまりがつのって、悪意に満ちて、言ってはならないことを言っています。 ヨブは苦難と苦悩の中で神様を恐れて、おびえていました(ヨブ9:34-35)。ヨブのこのような状況をエリファズは「苦難と苦悩とが彼をおびえさせ」と言っているのです。また、「戦いの備えをした王のように彼に打ち勝つ。」と言いましたが、もし王が数年間徹底的に戦いの備えをするなら、簡単に相手に打ち勝つでしょう。これは、ヨブが勝てない苦難と苦悩に落ちていることを表現しているのです。 ヨブの友だちの目には、ヨブは神様に手向かっています。人がけんかするとき、相手を指さしたりする姿だったのです。それだけでなく、ヨブは高慢にふるまったので、全能者に手向かった、だから今のような苦難と苦悩に落ちるはめになったのだと説明しています。 エリファズが言っているように、人が神様のみことばに「アーメン」と言わずに聞き従わないのは、自分というものが生きていて高ぶっているからです。私たちのイエス様は神様とお一つである方ですが、「自分」がなかったし、神様のみこころに完全に従われました(第二コリント1:19)。結局、イエス様は十字架につけられて死にまで完全に従われたので、救いの摂理を全うされました。 私たちもイエス様が手本を見せてくださったように、神様のみことばならば環境と条件に関係なく「しかり」と「アーメン」と言って従わなければなりません。 ところで、エリファズがヨブに「それは彼が神に手向かい、全能者に対して高慢にふるまい、」と言ったのは、ヨブをさばいているのです。ヨブの友だちはヨブが口にする言葉だけでヨブをとがめて「あなたは悪者だ、横暴な者だ、高慢だ」とさばいて罪に定めています。 しかし、ヨブの心はそうではなかったし、神様に手向かう心でもなかったので、ヨブは友だちの言うことを認められませんでした。ヨブは、友だちが自分のことを知らないだけでなく、彼らの言葉が自分を納得させることもできなかったし、自分の考えと全然合わないので、ずっと言い争っていました。友だちがとんでもないことを言うので、ヨブは彼らを相手にしないで、神様と論じ合おうと言ったのです。 ところで、ヨブがこのように友だちを無視するほど、友だちはもっとヨブを誤解して、さばいて罪に定めるしかありません。だから、互いに感情的になって、遠ざかってしまうのです。 伝道者の書5:2に「神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。神様だけが人の心をご覧になるので、自分には相手の心がわからないのに、軽々しく言葉を出してはいけません。 主のしもべや働き人が聖徒の信仰相談を受ける時も同じです。うわべの言葉や行いだけを見て、相手を悟らせて神様のみことばで教えようとすれば、相手は心の戸を閉ざしてしまうでしょう。いくらみことばの知識が多くて弁舌が優れていても、それで人の心を変えさせることはできません(第一コリント4:20)。 相手に正しい道を悟らせて悔い改めさせるには、何よりも聖霊の声を聞いて働きかけられなければなりません(第一コリント2:10)。 私たちが心を真理で満たせば、それぞれの状況に合う答えが何か、聖霊の声を聞いて明らかにわかります。相手の心と思いも御霊が示してくださるし、相手の信仰の量りに合わせて答えを与えるのも、御霊だけがおできになります。したがって、私たちはまめに心を真理で満たし、聖霊の声を聞いて働きかけられるべきでしょう。


  ヨブ記講解(36) -エリファズ二回目に論ずる(2)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:12~22
 

きょうは前回に続き、エリファズが二回目に論ずる内容を調べて、人が感情的になって言い争うとどんな結果を生むのかを伝えます。

1. 感情的になって言い争うことの結果

「なぜ、あなたは理性を失ったのか。なぜ、あなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」(ヨブ15:12-13)
ここで「理性を失った」とは、心が落ち着かないで興奮していることをいいます。そして「目はぎらつく」とは、腹を立てたとき、目つきがぎらぎら光って怖く見える状態をいいます。
人が言い争っていると、感情的になったり、声が大きくなったり、目つきが怖くなったりなど、いろいろな現象が起こります。はらわたが煮えくり返って心拍が早くなったり、血の巡りが早くなって顔や目の縁が赤くなったりもします。さらに目が血走ったりして、見ると怖く感じられます。
ここで終わらないでずっと言い争っていると、息が上がってブルブル震える人もいます。こうなると自制できないので、悪態をついたりします。ヨブとヨブの友だちは今、こんな状態になっているのです。
ところが、本人は自分の姿を見ることができないことが多いのです。それで、周りから「なぜそんなに怒るんですか」と指摘すれば、「いや、怒ってないけど」と言います。
第三者から見れば確かに表情や目つき、声から怖いほど憤っているのに、本人はそれを認めないで言い訳するから、自分を発見して変えられるのが遅くなるのです。ですから、誰かが指摘してくれたら、自分は違うと言い張らずに、「ああ、自分でも気がつかない癖があるんだ」と認めて直すように努力しなければなりません。すると変えられるのです。

エリファズはヨブに「あなたが神に向かっていらだち、口からあのようなことばを吐くとは。」と言って、ヨブが不遜にも神様に向かっていらだち、とんでもないことを言っていると指摘しています。

エリファズは自分なりに神様のみことばである真理を引用してヨブを悟らせようとしたのですが、ヨブは完全に無視しました。それで、ヨブは心から神様に反抗している、というのです。それまでヨブが口にした言葉が、口先ではなく、深い心から出てきたことを知っていたからです。 人の言葉は三つに分けられます。心にあるものが口から出てくる場合があって、心にないことを口にする場合もあります。たとえば、相手が本当に憎くて「嫌い」と言うなら、これは心から出た言葉です。しかし、心では相手を憎んでいても、口ではいくらでも「好きだ」と言えます。この二つは、言っている本人がその言葉の意図を知っています。 ところで、自分でも知らないうちに嘘をつく場合があります。この時「私の心はそうじゃないのに、うっかり口がすべった」と言い訳したりもします。こういう場合は、故意ではなくても偽りです。自分でも知らない、心に深く潜んでいたものが口から出てきたのです。 私たちが真理にあって正直に生きているなら、口のすべての言葉が心と一致します。嘘をつかないのはもちろん、何気なく口にする言葉でもむだな言葉がなく、うっかりでも心にない言葉は出てこないのです(ヤコブ3:2)。 したがって、私たちは完全に真実な心になって、言葉と行動が一致する生き方をしなければならないでしょう。 2. 主にあっては心も性格も作り直していただけると信じるべき 「人がどうして、きよくありえようか。女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」(ヨブ15:14) 聖書を読むと、この言葉が間違っていることがわかります。 たとえば、エノクはとても心がきよくて正しい人でした。それで、神様が300年間もともに歩んでくださいました。モーセは地上のだれにもまさって非常に謙遜で、全家を通じて忠実な人でした。ステパノ執事は何の過ちもなく石で打たれて死にかけていたのに、ひざまずいて大声で「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と代わりに神様に赦しを求めました。どれほど悪のないきよい心でしょうか。 それなのに、なぜエリファズは「人がどうして、きよくありえようか。」と言っているのでしょうか。エリファズは悪くて汚れた自分の心の中を知っていました。周りの人たちを見ても、みんな悪くてきよくなかったので、人はみんなそうだと決めつけているのです。 しかし、自分が悪いからといって、相手も悪いのではありません。自分は嘘をつく人でも、相手は真実を語る人かもしれません。 また、エリファズは「女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。」と言っていますが、この言葉は肉的にも霊的にも正しくありません。 韓国の朝鮮時代のイ・スンシン将軍は国に忠誠を尽くして親孝行をし、兄弟愛もありました。濡れ衣を着せられて一兵卒として従軍しながらも王を恨まなかったし、国と民のために命をささげました。このように、女から生まれた人の中にも正しい人はいるのです。 霊的にも同じです。誰でもイエス・キリストを受け入れて聖霊を賜物として受ければ、死んでいた霊が生き返って、神の子どもとされる特権を得るようになります。このように信仰によって罪赦されて義と認められるなら、正しいと言われるのです。 しかし、本当に正しい人になるには、御霊によって霊を生み、罪を捨てるのはもちろん、悪はどんな悪でも避けなければなりません。私たちが御霊に従っていくほど、心から真理と反対のものと悪は捨てられ、真理で満たされます。私たちの心が完全に真理で満たされれば、神様が人を造られた時のかたちを取り戻すようになります。この状態を「たましいに幸いを得ている」といい、本当に正しい人なのです。 神様は私たちに正しくなれると言われ、その方法も教えてくださいました。自分の力ではできなくても、自分の努力とともに神様の恵みと力、そして聖霊の助けがあると、いくらでも良くて正しい心に変えられることができるのです(マルコ10:27,エレミヤ32:27)。 エゼキエル36:26に「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」とあります。神様は、心はもちろん性格も、いくらでも作り直すことがおできになります。 モーセはエジプトの王子だったとき、人を打ち殺すほど憤りが多かったのですが、荒野で40年間練られて、地上のだれにもまさって非常に謙遜な人に変えられました。使徒パウロも自尊心と義の強い人でしたが、主に出会った後、試練に会って練られ、良い柔和な性格の、神の力を行う使徒に変えられて、義の栄冠を受けることができました。雷のようにせっかちな性格だったヨハネも、変えられて愛の使徒になりました。 このように主にあってはできないことがなく、自分を強くしてくださる方によってすべてができると信じてこそ、変化の力を体験できるのです。 3. ヨブに神様のみこころを間違って伝えるエリファズ 「見よ。神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。天も神の目にはきよくない。まして忌みきらうべき汚れた者、不正を水のように飲む人間は、なおさらだ。」(ヨブ15:15-16) 霊的に「聖なる」とは、外見だけでなく、心まで傷もしみも全くなくきよい状態をいいます。したがって、本来「聖なる」という言葉は人には使えない言葉であり、善そのものの神様だけが聖なる方なのです。 ところが、神様は愛する子どもたちも「聖なるものとされなさい」と言われています。神様が本当に私たちに望んでおられるのは心の聖めです(第一ペテロ1:15-16)。ですから、私たちは心の割礼をして、どんな悪もない、きよくて良い心に変えられなければなりません。 このように変えられて聖なるものとされた人がいるなら、神様は当然その人を信頼してくださるでしょう。しかし、エリファズは「神はご自身の聖なる者たちをも信頼しない。」と、神様の心を知っているかのように言っています。これは自分が神様のようになる、非常に大きい悪で高ぶりです。 また、エリファズは「天も神の目にはきよくない。」と言っていますが、これも正しい言葉ではありません。 神様は初めに人間耕作の舞台になる天地万物を創造して喜ばれました。神様が造られたすべてのものには霊的な意味が込められています。天は霊的に天国を意味します。神様は人の心に本当の故郷である天国を慕う心を下さったので、私たちは天を見上げれば懐かしさを感じます。 それなのに、神様がこのような天をどうしてきよくないと言われるでしょうか。エリファズは神様を誤解して、ヨブに間違ったことを言っているのです。 人は水なしには生きられないので、一日に何回も水を飲みます。このように水を飲むように不正を行っているなら、どれほど悪い人でしょうか。 また、「汚れた者」とは、人の本分から離れて過ちを犯す人をいいます。エリファズはヨブがこのような人だと言っています。「ヨブ、あなたは水を飲むように悪を行っているから、忌みきらうべき汚れた者だ。神様は聖なる者でも信頼されず、天も神様の目にはきよくないのに、ましてあなたのように悪い人を受け入れてくださるだろうか」と罵倒しているのです。このように、とうてい想像できない表現まで使っています。 しかし、ヨブは心そのものが悪いのでもなく、忌みきらうべき汚れた人ではありませんでした。友だちはヨブを刺激して、ヨブがもっといらだつようにして、口にわなをかけて罪を犯させていくのです。友だちはヨブが自分の言葉を聞き入れないので憤り、ヨブのほうは自分は正しいと思っているのに友だちが悪いと言うのでいらいらしています。どちらも自分が正しいと主張して相手を攻撃しているので、お互いさまです。 これは言い争いがこのような結果をもたらしたからです。世では、口論していてだんだん感情的になると、激しい言葉を使って、相手を呪ってしまうことさえあります。したがって、神様は私たちに言い争ってはならないと戒めておられるのです(第一テモテ6:20,第二テモテ2:23)。 言い争う人たちの中には、第三者の話だけ聞いて、間違ってさばき、とんでもないことを言う人もいます。しかし、自分の目で見て、自分の耳で聞いたとしても、それが合っていないこともあることを知っておかなければなりません。 相手が嘘をついているかもしれないし、事実だとしても、聞く人がどんなふうに受け入れたかによって、元の意味から離れることもあるのです。人は見た目だけでさばくことが多いのですが、人の心は神様だけが正確に知っておられます。 したがって、互いの間で言い争うことをやめるのはもちろん、誰もさばいて罪に定めることもあってはならないでしょう(ヤコブ4:11)。

「ヨブ記講解(35) -エリファズ二回目に論ずる(1)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記15:4~11
 

きょうはエリファズが二回目に論ずる内容を調べて、私たちの言葉と行いが相手に及ぼす影響について伝えます。

1. ヨブをさばいて非難するエリファズ

「ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている。」(ヨブ15:4)
エリファズは「ヨブ、前にあなたが豊かだった時は、神様の前に全焼のいけにえをささげて神様を恐れていたではないか。ところが、今は神様を恐れるどころか、恨んで悪い神様扱いして、祈ることさえやめている」と指摘しています。
しかし、ヨブが神様に反抗させた要因の一つが友だちとの言い争いだったので、友だちの責任も大きいのです。これは、私たちが誰かの相談に乗る時にも気をつけなければならない部分です。自分のひと言が相手に信仰といのちを植えつけることもあるし、反対に相手をつまずかせたり、もっと悪を行わせることもあります。
特に主のしもべや働き人は聖徒を訪問するとき、人間的な考えを巡らさずに、いつも聖霊の声を聞いて話をしなければならないでしょう。

「それは、あなたの罪があなたの口に教え、あなたが悪賢い人の舌を選び取るからだ。あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。あなたのくちびるがあなたに不利な証言をする。」(ヨブ15:5-6)
ここで「あなたの罪があなたの口に教える」とは、ヨブの口から出てくる言葉がヨブが罪人であることを証言しているという意味です。
 

それなら、エリファズはなぜヨブを悪賢いと言っているのでしょうか。昔はヨブは神様をこの上なく恐れかしこんで高めていたのに、今はその反対になりました。ヨブは「神様は潔白な者も悪者もともに立ち滅ぼされる」と言うかと思えば、「悪者には祝福を与え、正しい人は滅ぼされる」と言って、悪い神様扱いしました。また、前は徳の高い言葉で人々を教えて助けていたのに、今はむなしいことばを口にして思慮のない人になってしまったので、これを指して「悪賢い人の舌を選び取る」と言っているのです。 しかし、私たちはうわべに現れる言葉と行いで人をさばいてはいけません。聖められる前は心と口が別々の時が多いし、言葉と行いが一致しないこともよくありです。人は相手の言葉と行いを見てさばきますが、神様は心をご覧になります。ヨブは真理を知らないから正しくない言葉をぶちまけているので悪賢い人のように見えますが、心そのものは悪賢くありません。 エリファズはヨブに「あなたの口があなたを罪に定める。私ではない。」と非難します。しかし、実は友だちもヨブを非難する資格はありません。これまでいろいろと責め立ててヨブをイライラさせて憤らせるなど、ヨブが悪を行うように原因を提供したからです。 2. ヨブに皮肉を言うエリファズ 「あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。」(ヨブ15:7-8) この質問は全部ヨブに対するエリファズのひねくれた心の表現です。エリファズは人類で最初に生まれたのはアダムだということも、人より丘が先に創造されたことも、よく知っていました。また、人が神様の会議に参加して奥義を聞くはずがないことも、ひとりだけ知恵を持っているわけがないこともよく知っていました。だから、ヨブに皮肉を言っているのです。 それなら、ヨブの友だちがなぜこれほどまでに心がひねくれてしまったのでしょうか。これは、それまでヨブが友だちを無視していたからです(ヨブ13:1-4)。ヨブは友だちに高ぶった態度で「あなたがたは相手にもならないから、神様とだけ論じ合いたい」と言いました。ところが、友だちが実際にヨブの話を聞いてみると、とんでもない話ばかりしているのです。 そうでなくても心がひねくれていた友だちは、もっとひねくれるしかありませんでした。ヨブの発言がひとりよがりのように感じられたので、エリファズはヨブを厳しく責め立てるようになったのです。 しかし、ヨブの立場も考えてみなければなりません。自分を慰めに来た友だちがしきりに「あなたが間違っているから災いが降りかかったんだ。悔い改めなさい。祈りなさい」などと感情的な言葉で責めるから、ヨブの心はもっと苦々しくなったのです。 3. 言い争うことの無益さ 「あなたが知っていることを、私たちは知らないのだろうか。あなたが悟るものは、私たちのうちに、ないのだろうか。」(ヨブ15:9) エリファズは「ヨブ、あなたが知っていることを私たちも全部知っている。あなたが悟っていることは私たちもみんな悟っている」と真っ向から反論しています。ここで私たちは言い争いのためどれほどサタンから妨げられて、試練や患難を自分から招くのか知っておくべきです。 「群盲象を評す」という言葉がありますが、これは視野の狭い者が多く集まり、めいめいの観点から理解したことを述べ、結果として物事の本質が見失われている状態をたとえているのです。私たちの周りでも、一部分だけ知っているのに全体を知っているかのように話をして、言い争うことがどんなに多いでしょうか。霊的な盲人になって、自分が知っていることだけを正しいと主張して、人をさばいて罪に定めるようになり、まかり間違えば神様の前に大きい罪の壁を作ることもあります。ですから、自分が知っていることがいくらでも事実と違うこともあるし、ある一分野だけかもしれないことを悟って、謙虚な心を持たなければなりません。 ヨブと友だちは自分たちの知識の限界内で自己主張をして、互いに無視してさばいているのです。 信仰の兄弟の間でも、最初はささいなことで言い争いが始まったのに、互いに譲らないで自分を主張していると、だんだん感情的になって怒ることがあります。 しかし、神様は「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)と言われました。 このような神様のみことばを守り行えば神様のみわざを体験できるのですが、反対にみことばに反してしまえば、神様のみわざは体験できません。互いに誤解して、相手を刺激して一緒になって悪を行っているのに、どうして神様のみわざが起こるでしょうか。 もし、相手は真理を知らないので自分を迫害していて、自分は真理をよく知っているのに相手を呪うならば、自分のほうが悪いということを知っていなければなりません。悪い人に善をもって対応するとき、善が勝つのです。これが神様の法則だからです。 ローマ12:17-18に「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」とあり、ローマ12:21に「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。自分がいくら平和をつくりたくても、相手が受け入れてくれなければ仕方ありませんが、それでもできることなら、すべての人と平和をつくらなければなりません。 私たちのイエス様は力ある方ですが、誰とも言い争われませんでした。当時、大祭司と祭司長、律法学者とパリサイ人たちは絶えずイエス様を殺そうと計略を立てました。 だからといって、悪い者たちがイエス様に手を下すことはできませんでした。イエス様は神様の摂理が完全に成就するまで、時には身を隠したり、その場から出て行ったりしながら、知恵をもってこの地上で働かれました。 これは決して卑怯な姿ではなく「悪い者に手向かってはいけません。」(マタイ5:39)とあるとおり、ただ真理を行われたのであって、誰とも争うことも、叫ぶこともなかったのです(マタイ12:19-20)。 私たちはこのようなイエス様のご性質に似なければなりません。自分のほうが明らかに正しくても、相手が受け入れないならば、いっそ話をせずに待つほうがよいのです。自分の意見だけ主張して相手の悪を刺激することなく、真理にあって良い方法を選んで、平和をつくらなければなりません。 4. 神様のみことばで自分を照らすべき 「私たちの中には白髪の者も、老いた者もいる。あなたの父よりもはるかに年上なのだ。神の慰めと、あなたに優しく話しかけられたことばとは、あなたにとっては取るに足りないものだろうか。」(ヨブ15:10-11) ヨブの友だちの中には年を取って白髪の人もいるし、ヨブの父親より年上の人さえいることがわかります。それで、エリファズは「ヨブ、あなたは年配者の前でそんな無礼なことを言うのか」と言っているのです。 また、「私たちは神様のみことばを引用してあなたを慰めようとしたのに、なんでこんなに反抗しているのか。あなたは高ぶっていて、私たちを無視している」と責めています。 しかし、これは見当違いの話です。友だちもヨブを無視してさばいて、ヨブと同じように罪を犯しているからです。友だちの感情的な言葉がヨブにますます悪を行うようにさせたので、実際はヨブより彼らの過ちのほうが大きいのです。 また、神様のみことばを引用して相手を指摘したり、自分が正しいと主張したりすることも間違っているのです。感情的になっている人に「聖書には憤ってはならないとありますが」と言うなら、どうして相手が喜んで聞き入れるでしょうか。 人は相手の考えや心の中まで正確にわかりません。ただ言葉や行い、表情など、表に現れる姿で相手の心を推測するだけです。同じように自分の心も正確にわからない時があります。それで、これを照らす基準が必要です。それは真理である神様のみことばです。 それでは、ヨブと友だちの言い争いを見て、私たちはどんなみことばが思い浮かぶでしょうか。 ヘブル12:14に「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」とあります。また、ヤコブ1:19-20に「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」とあります。 私たちはこのような神様のみことばを思い起こして、自分を照らしてみなければなりません。ところで、みことばを知識としてだけ持っていても、何の役にも立ちません。このみことばを心に刻んで自分のものにした人は、日常生活でも真理でなければ聞こうとしないし、ひと言でも注意して口にするでしょう。言い争えば怒って神様の義を実現できず、互いの間の平和が壊れるからです。 したがって、生きていて力のある神様のみことばをいつも人生のともしびと光として、毎日変えられて、いのちを得ていきますように。

「ヨブ記講解(34)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:17~22,15:1~3
 

きょうは神様の愛を誤解しているヨブの言葉とエリファズの言い分を調べて、神様が私たちに望んでおられることが何かを伝えます。

1. 神様の愛が変わったと誤解するヨブ

「私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。」(ヨブ14:17)
人は、貴重で大切なものをなくさないために、袋の中にしっかり入れておくことがあります。同じように「そむきの罪を封じ込める」とは、それを軽く見ないで重大に思い、厳しく取り締まるという意味です。神様が自分の歩みをいちいち数えて懲らしめておられる、そむきの罪と咎を封じ込めて、重罪人のように扱っておられる、という意味です。

まるで心が変わってしまった夫に文句を言う妻のように、ヨブは神様に向かって訴えています。「神様と私は愛し合っていたのに、突然、神様は私を嫌って、私のすべてのものを取り上げてしまいました。それは神様が私を憎んで、重罪人扱いしておられるということです。私の若い頃の罪も一つ一つあばきだしておられるのです」と言っているのです。


しかし、いくら苦しくてつらいことに会っても、私たちに対する神様の愛は変わらないということを信じなければなりません。聖書を読むと、私たちの父なる神様を夫と表現しているところもあります。「あなたの夫はあなたを造った者、」(イザヤ54:5)とあるし、特に雅歌では、私たちと神様の間を愛する恋人の関係、花嫁と花婿の関係にたとえています。
神様はヨブをこの上なく愛しておられる花婿なので、ヨブを美しい花嫁にしようと練っておられるのに、ヨブは悪い神様だと誤解しています。

2. 人の望みを絶ち滅ぼされる神様だと誤解するヨブ

「しかし、山は倒れてくずれ去り、岩もその所から移される。水は石をうがち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。」(ヨブ14:18-19)
 


 

前はヨブには大きい山のような名誉があったし、財産もあって、権力もありました。からだも岩のように健康で、子どもも多く、大勢の人から尊敬される人でした。ところが、神様がそんな山と岩を崩してしまわれたので、もう何の役にも立たなくなったというのです。 水が数十年、数百年流れていると、これによって石が削られ、すり減って、だんだん小さくなります。また、水滴一つには力がないのですが、永い歳月ずっと落ちていると、硬い岩にも穴をあけます。 ところで、ヨブは少しずつ流れている水も硬くて大きい石をうがつことができると言った後に、なぜ「大水は地の泥を押し流す」と表現したのでしょうか。 ここで「大水」とは「神様の高さ」を表わしています。ヨブは、大水のように絶大な力のある神様が地の泥にすぎない自分を踏みにじって押し流してしまった、と言っているのです。このようにヨブは、神様が人の望みを絶ち滅ぼされる方だと誤解しています。 しかし、神様は私たちの幸せを望んでおられ、平安と希望を下さる方です(民6:24-26,哀歌3:33,エレミヤ29:11)。時に応じて神様が試練に会わせるのも、私たちを苦しめようとするためではなく、まずたましいに幸いを得ているようにして、さらに大きい祝福を受けるようにするためなのです。 3. 過去に執着してすべてを神様のせいにするヨブ 「あなたは、いつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去って行きます。あなたは彼の顔を変えて、彼を追いやられます。自分の子らが尊ばれても、彼にはそれがわからず、彼らが卑しめられても、彼には見分けがつきません。」(ヨブ14:20-21) ヨブは、絶大な力のある神様が地の泥にすぎない自分を最後まで追いつめて、打ち負かそうとしておられると言っています。それで自分の財産を奪って、健康も、家庭の平和もなくなるようにされたし、結局はいのちさえもよみに下らせようとしておられる、という意味です。 ヨブは、最初は神様にお願いもしてみて、後には恨んだり嘆いたりして、いろいろな方法を使ってみました。それでも神様から何の答えもないから、もうくちびるを制することなく、やけになって言いたいことをぶちまけているのです。 「あなたは彼の顔を変えて」とは、これまでヨブが感情をコントロールできなくて、神様の前に恨み、嘆き、顔色が変わったことを意味します。そして、それは当然のことで、すべては神様のせいだと言っているのです。 それでは「自分の子らが尊ばれても、彼にはそれがわからず」とはどんな意味でしょうか。ヨブは昔は豊かで尊ばれていました。そして、これは神様が祝福してくださったからだと信じたので、神様の前に感謝のいけにえをささげました。しかし、昔いくら幸せだったとしても、神様が全部取り上げてしまわれたので、覚えておく必要もないということです。だから、感謝する必要もないというのです。 また、ヨブは「彼らが卑しめられても、彼には見分けがつきません。」と言っていますが、これは自分が卑しめられているのに、自分では気づかない、ということです。ヨブはすべてを失ってみすぼらしくなっても、どれほど友だちを無視したでしょうか。 「友よ、私は正しくて、あなたがたより優れた知識と知恵が多いから、私の前では黙れ」というようなことを言ったし、神様の前にも高ぶった言葉で問い詰めました。ヨブは今低い立場にいるので、自分の卑しさを悟ってこそ悔い改めて立ち返れるのに、まだ気づかないでいます。 「私は前は尊ばれていたのに、神様がこんなふうにしてしまったのだ。なぜ私が卑しめられているのか」と問い詰めているのです。 私たちは今の自分を正確に悟って、問題の解決方法を探さなければなりません。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあるとおり、すべてにおいて真理で照らして、自分を省みなければなりません。 もし経済的な問題、家庭、病気などの問題があるなら、明らかにそこには理由があります。「なぜこんなふうになったのか」 「なぜこんな病気にかかったのか」その理由を発見して立ち返ることが祝福です。そうではなくて、ヨブのように祝福されていた過去に執着したり、すべてを人のせいにしたりするだけなら、問題も解決されないし、何の発展もないのです。 「ただ、彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです。」(ヨブ14:22) ヨブは前は過去を振り返っていましたが、今は現実に帰って自分の痛みを見ています。現実は自分の肉が腐っていき、痛みで苦しくて悲しいというのです。自分が受けている今の苦しみも神様のせいだと言っています。ヨブはこれらすべてを自分のせいではなく、神様のせいにしているので、悟ることもできず、悔い改めることもできません。 私たちがみことばを信じて守り行うなら、どんな雨風も、洪水も、害を加えることはできません(マタイ7:24-25)。ですから、何か問題が起こったとき、神様のせい、人のせい、環境のせいにするのではなく、自分がみことばの上にしっかり立っていたのかを省みなければならないのです。 4. 言い争うことの無益さ 「テマン人エリファズが答えて言った。知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。」(ヨブ15:1-3) ヨブの友だちは、前はヨブが知恵のある人だと思っていたのに、今はヨブの話を聞いてみると、愚かな人だとわかりました。ヨブが神様を悪い神様だとけなして、ずっと恨み、嘆き、激しい風のような言葉をぶちまけているからです。 それで「ヨブ、あなたが知恵のある人ならば、むなしい知識をもって答えるはずがない」と言っているのです。ヨブを全く無視して、愚か者だと言っているのです。 私たちは言い争うことがこのように無益だということを悟らなければなりません。もしヨブが友だちと言い争っていなかったなら、友だちがこのようにヨブを見くびることもなかったでしょう。 箴言9:10に「【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」とあります。もしヨブが神様を最後まで恐れていたならば、友だちから愚か者だと言われなかったでしょう。ところが、言い争っているうちに出てきた言葉が神様を恐れず、真理ではなかったので、結局、愚か者にされてしまったのです。 続いてエリファズは「東風によってその腹を満たすだろうか。」と言いましたが、これは、東から吹いてくる風は人にとって何の役にも立たないということです。つまり、ヨブの言葉が無益でむなしいことを風にたとえて表現したのです。 「彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。」とは、「ヨブ、あなたは風をつかもうとするようにむなしく無益な言い争いをしている。本当に愚か者だ」と言っているのです。 エリファズのこの言葉は間違ってはいないのですが、だからといって、このように責める姿勢が正しいのではありません。エリファズがいくらヨブを責めても、今のヨブには役に立たないからです。 ヨブは友だちのせいでだんだん感情的になって、心がひねくれています。これではいくら正しい言葉でも、心から受け入れられません。かえってもっと腹が立って、感情が爆発するかもしれません。 したがって、友だちがヨブの試練を長びかさせている張本人だということも悟らなければなりません。もし友だちがそばになかったとすれば、ヨブは言い争わなかったでしょう。ただ静かに考えて悔い改めるべきことを探していれば、これほど試練が長びくこともなかったでしょう。 ヨブの友だちのように、私たちがどんな言葉を口にするかによって、相手を悲しませて苦しめ、敵になることもあることを悟るべきです(箴言10:19)。いくら良い正しい言葉でも、言い争いは何の利益ももたらさないので、相手が受け入れない時は話をやめなければなりません。 私たちが福音を伝える時や、聖徒を訪問する時も同じことです。真理を受け入れる人には与えますが、かえって言い争って神様の栄光を遮る人には、それ以上言わないほうがいいでしょう(マタイ7:6)。これは、真理を受け入れない人には伝道してはならないという意味ではなく、神様に祈って、聖霊の声を聞いて、善の知恵をいただいて伝えなければならない、ということです。 愛する聖徒の皆さん、 まことの信仰がある人ならば、今、苦しい目に会っていても、過去、自分に下さった神様の恵みを思い出して感謝します。問題にぶつかって、つらい事が起こっても、神様は生きておられ、いつも愛をもって見守っておられます。このように変わらない神様を信じるならば、どんな苦しみや逆境にも十分勝利できます。 聖徒の皆さんも、問題が起こったとき、気を落として信仰を失うのではなく、ただ生きておられ、変わらず自分を愛しておられる神様だけを仰ぎ見ますように。そして、試練をきっかけに信仰が成長し、より大きい祝福を受けますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(33)-
 過去を偲びながら神様に訴えているヨブ」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:7~16
 

きょうは、豊かで良かった過去を思い出しながら神様の前に訴えるヨブの姿から、神様が望んでおられることが何かを伝えます。

1. 霊的に無知で天国への希望がないヨブ

「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」(ヨブ14:7~10)
今までヨブは神様につぶやいて嘆き、あれこれ話をしてみたのですが、何の答えもないと、意気がくじけました。それで、自分は無力で、弱い女から生まれた者だと人生のみじめさを説明するかと思うと、今度は神様を説得するために木にたとえています。「私は木よりも劣る人だから、かわいそうに思って、もう勘弁してください」と自分の哀れさを訴えているのです。


木を切ると、そこからまた芽を出し、枝が育って、新しく植えたように茂ります。また、木の根は地中で古くなれば自然に枯れますが、その上の枝は相変わらず生きています。ある木は、根株が土の中で枯れても、水分に出会うとそこからまた芽をふいて、苗木のように枝が伸びていきます。ところが、人間は死ぬと倒れたきりなので、望みがないとヨブは言っています。
「人が息絶える」とは、人にあった力、すなわち名誉、権力などが死とともに無に帰ってしまうという意味です。


ところが、神様を信じる人としてこういうことを言うのは正しくありません。神様を信じて救われた人は、息が絶えるとからだは土に帰りますが、主が空中に降臨されるとき、再び御霊に属するからだによみがえり、空中に引き上げられます。人は死んでも霊は消滅しないで、天国の待機場所にとどまっていて、主が降臨なさる時に、よみがえった御霊に属するからだと結合して、永遠に生きるのです。
 

それで、第一コリント15:20に「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」とあり、神様を信じる人が死ねば「眠っている」と表現するのです。 「水は海から消え去り、川は干上がり、かれる。人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目ざめず、また、その眠りから起きない。」(ヨブ14:11~12) 海の水は水蒸気になって上って行くようですが、雨になってまた下りてきます。山の谷間から出てくる湧き水が集まって小川になり、小川は流れて川に行き、川の水はまた流れて海に行きます。ですから、千年経ち、一万年経っても、海の水は減りません。もし海の水が減るほどならば、川の水は全くかれてしまうでしょう。 ヨブは学識も知恵も優れた人だったので、海水が減らないということぐらいは知っていました。もし海の水が減るならば、当然川は干上がってかれるという原理を説明しているのです。 ヨブは「人は伏して起き上がらず、」と言っていますが、これは間違っています。神様を信じている人が死ねば、起き上がらないのではなく、主がまた来られる時によみがえって、永遠に生きるからです。 それなら「天がなくなるまで目ざめず、」とはどういう意味でしょうか。よく世の人はある事がどうしてもうまくいかないとき、「天地がひっくり返ってもこれは不可能だ」と表現します。ヨブも「人が死んでから生き返るのは天地がひっくり返ってもありえない」という意味で言っているのです。 ヨブは肉的には知識が多い人でしたが、霊的にはあまりにも無知なので、ずっと真理に合わないことを言っています。 2. 神様に訴えるヨブ 「ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。」(ヨブ14:13) 神様は、ルカ16章の貧しい人ラザロと金持ちのたとえを通して、私たちによみについて教えてくださいました。 金持ちはこの地上でぜいたくに遊び暮らしていましたが、神様を恐れなかったので、死んだ後に下のよみで言葉にならない苦しみを受けるようになりました。反対に、金持ちの門前で金持ちの食卓から落ちる物を食べて暮らしていた貧しい人ラザロは、神様を恐れうやまっていたので、死んだ後、上のよみにいるアブラハムのふところで平安に休むことができました。 ところが、ヨブは霊の知識が足りなかったので、よみを死んだ人が永遠に眠る場所としてだけ理解していました。ですから、何もない無の状態であるよみに、すなわち死の中に、自分を隠してくださいというのです。 ヨブは、神様が物事の分別がつかなかった若い頃の自分の過ちまであばいて御怒りを燃やされ、自分をこのように苦しみの中で生きていくようにされたと誤解しています。神様が勝手に定めておいて、自分をみじめな状態にされたけれど、「いつかは神様の御怒りが過ぎ去る時が来るのではないか」と考えているのです。 ですから「神様の怒りがおさまる期限を定めてください。その時まで私を隠しておいて、その期限が来たら、私を思い出して生き返らせてください」と訴えているのです。苦しみに会ったとき、「この苦しみがいつ終わるかわかれば、その希望を持って我慢できるのに、終わりがわからないから絶望的でつらい」と思う人もいます。「問題が解決される時まで寝ていたい」と言う人もいます。 しかし、そうすることはできません。神様が試練の期限やその方法、解決方法を全部教えてくださるなら、本当のテストではないからです。 ヨブは「この苦しみは神様が下さったものなので、その終わりがいつなのか教えてください。そしてこんなに苦しんでいる私を思い出してください」と訴えています。 木は死んでいるようでもまた芽を出しますが、ヨブは死んだらそれで終わりだから、憐れんでくださいというのです。自分は価値のない女から生まれた存在で、めちゃくちゃになった体で苦しんでいて、死ねばもう希望もない哀れな者なので、後で自分を覚えていて生き返らせてくださいと言っているのです 「人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」(ヨブ14:14) 前の節では、自分が死んでよみにいても、神様は自分を覚えていて生き返らせてくださいと言ったヨブが、ここでは人が死ぬと生き返れないと断定しています。つじつまが合わないことを言っているようですが、これはヨブの悔しい気持ちが込められている言葉です。 ヨブは霊の世界の法則を知らないから、一度死ねばそれで終わりだと思っています。「私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」とは、もし木のように人が死んでも生き返るという望みがあるなら、どうして自分はこんなに神様に恨んだでしょうかということです。つまり、自分が生き返るという希望があるなら、最後まで我慢して待ちますが、そうではなくて死んだらそれで終わりだと文句を言ったのです、思ったことをそのまま口にしたのです、と自分を弁護しているのです。 しかし、本当に信仰がある人は、どんな試練や患難に会っても、受けた恵みを忘れません。永遠の天国があることを信じるので、つぶやいたり嘆いたりして神様を悲しめるのではなく、かえって喜んで感謝して勝利します。もし試練や患難に会った時に喜びと感謝がなくなってつまずいてしまったとすれば、これは完全な信仰がなかったという証拠です。 ヨブは聖霊を受けていないので、悟りもなくて、自分の思いのまま感情を爆発させていますが、聖霊を受けた神の子どもたちは聖霊に助けられるので、どんな試練や患難が来ても感謝して、信仰によって勝利できるのです。 3. 良かった過去を偲ぶヨブ 「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」(ヨブ14:15~16) 人は何かに頼りにして生きています。ある人は金銭や権力を、ある人は名誉や知識を、ある人たちは家族に頼ります。また「私は誰にも頼らない。自分のこぶしだけを信じる」と言う人もいます。 ところが、人は明日のことも知らないし、権力も、名誉も、知識もいつまでもあるのではありません。いくら多くの財産をたくわえても、一日でなくなることもあり、神様がたましいを召されるなら、何も持たずに天国か地獄のどちらかに行かなければなりません。箴言27:1に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあるとおりです。最も幸いな道は、創造主の神様を信じて頼りにすることです。 ヨブは以前は神様により頼んでいて、時に応じて全焼のいけにえをささげていました。ただし、先祖から聞いたとおりに全焼のいけにえをささげてはいたのですが、ヨブは実際に神様を見つけたことも、御声を聞いたこともありませんでした。 その上、今いくら神様を呼んでも、神様が答えてくださることもなく、助けてもくださらないようです。もしヨブに神様を見つけた体験があったなら、「あなたは私を呼ばれ、私は答えました」と自分の経験を言ったでしょう。しかし、何の体験もなかったので、本文のように「あなたが呼んでくだされば、私は答えます。」と仮定の表現を使ったのです。 ヨブは何としてでも神様を説得してみようと、過去、自分の良かった時を神様に説明しています。ヨブは、以前は富も学識も健康なども持っていて、人々を徳によって従わせることができました。だから、神様はそんな自分を慕っておられるでしょう、と言っているのです。 ヨブは神様の御声を聞いて、見つけたのではありませんが、過去、自分が持っていたすべてのものは神様が下さったので、「神様は私を大切に思ってくださったのではありませんか」と言っているのです。昔は自分を豊かにしてくださる良い神様だと思っていたのに、今は神様はいくら捜して叫んでも答えてくださらない悪い方だと誤解しているのです。 「今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、」とは、前はヨブを大切にして祝福を下さった神様なのに、今は心が変わって、ヨブの前の罪まであばき出して懲らしめ、、このように苦しめた、ということです。「前は神様は私を愛して豊かにしてくださいました。神様はどれほどいとしそうに私を見つめておられたでしょうか。『ヨブ!』と呼んでくださるならば、私は答えたでしょう。ところが、今になって私をこのようにみじめに捨てられたのですか。その理由は何でしょうか」と問い詰めているのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブは後の世について知らなかったので、天国への希望を持てずに試練の中でずっとつぶやいて嘆いています。ところが、私たちは天国について明らかに知っているし、何より新しいエルサレムへの希望があります。したがって、永遠の新しいエルサレムで味わう栄光を望んで、すべての試練を信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(32)-天国への希望がないヨブ」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記14:1~6
 

きょうは天国への希望がないヨブの姿から、私たちに望んでおられる神様の心と思いを伝えます。

1. 女に恨みの矛先を向けて人生の空しさを論じるヨブ

「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1~2)
ここでヨブは女性を軽んじているように見えます。旧約時代の女性はたいてい男性の所有物のように扱われて、服従だけしなければならない存在でした。


もちろん神様は男性と女性を差別されたりはしません。しかし、創世記を読むと、女であるエバを通して罪が入り、人類が滅びの道に向かったことがわかります。エバがまず蛇に誘惑されて善悪の知識の木から実を取って食べ、夫のアダムに与えたので、アダムもそれを食べて不従順の罪を犯したのです。
女性はエバの本性を受け継いで生まれるので、男性に比べて心がもろくて、ずる賢い場合が多いです。人によって違いますが、ほとんどは男性の心の芯が女性に比べて真っ直ぐで、移り変わることが少ないです。


神様は、ああしたりこうしたりするずる賢い心をとても嫌われて、どんな環境や条件でも真っ直ぐで移り変わらない心を愛されます(第一コリント16:13)。しかし、女性でも、旧約時代の預言者デボラやエステルのような人物は神様に愛され、大いに用いられて国を救いました。
これは、どんな時にも揺るがない強くて真っ直ぐな心と、男性に劣らない大胆さを神様に認められたからです。

ヨブは今、あまりにも苦しいので、人生の空しさと短さを花と影にたとえています。知恵があり、学識が高くて名声のあった人も、その名前は永遠に残りません。悪人も善人も、金持ちも貧しい者も、結局は死にます。一生苦労してたくわえたものも、人が死んで一握りの土に帰ってしまえば、もう楽しめないから空しいだけです。 したがって、ヤコブ4:14に「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。」とあり、詩篇144:4に「人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。」とあるのです。また、伝道者の書3:18には、人が神様を恐れず、その命令を守らないなら、獣にすぎないと書いてあります。 このようにすべてが空の空であることを体験したソロモン王は、晩年になって人生のまことの価値が何か深く悟って、徹底的に悔い改めます。それで、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:13~14)とあるのです。 神様は私たちのすべてのわざと隠れたことについて、善であれ悪であれ、必ずさばかれます。したがって、神様を恐れず、みことばを守って生きていないなら、いくらお金をたくさん儲けて、名誉や権力、知恵があっても、空の空なのです。結果は罪から来る報酬である死、地獄に落ちるしかないからです。 ヨブはこのような霊的な意味を知らないまま、人生は空しいと言っています。ヨブの言うとおり、人生は永遠の時間に比べれば日が短いです。しかし、霊的に見ると、神様を信じてみことばどおりに生きた人は、永遠のいのちを得て、天国で永遠に生きていきます。もちろん、神様を信じない人は地獄に落ちて、とこしえに苦しみながら生きていくことになります。 ヨブは、過去を考えてみれば幸せな時がたくさんあったのに、現在の苦しみのために過去の美しい思い出まで否定しています。信仰があるなら、たとえ今は試練に会っていても、過去に受けた祝福に感謝して、神様の答えを待ちながら未来を望まなければなりません。 そして、人生には心がかき乱されることでいっぱいだというのは、クリスチャンには合わない言葉です。聖霊を受けた神の子どもはいつも喜んでいて、楽しみがあふれます。一日過ぎれば、花婿なる主に会う日がそれだけ近づいて、熱心に働いたほど神の国と義が実現していくので、うれしくて楽しいのです。 私たちは花のようにパッと咲いては枯れていくのではなく、毎日、毎日、さらに新たになり、聖霊に満たされて、ますますたましいに幸いを得ていかなければなりません。第二コリント4:16に「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあるとおり、ますます真理と反対のものである肉を捨てて、御霊の人へと変えられていかなければならないのです。 第一ペテロ1:24~25に「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』 とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」とあるように、永遠の天国に希望を置いて、主のみことばどおりに生きていかなければなりません。 このような生き方をすれば、健康の祝福はもちろん、いろいろな事故や危険から守られて、家庭や事業の場、職場において、入るときも出て行くときも祝福されるようになります。世で成功するだけでなく、天国でも永遠のいのちの祝福を受けるのです。 しかし、ヨブは御霊の人ではなく肉の人なので、このような神様の心を知らなかったのです。それで、考えることも言うことも肉的な姿でした。 2. 神様を否定して信仰のみわざを遮ってしまうヨブ 「あなたはこのような者にさえ、あなたの目を開き、私をご自身とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」(ヨブ14:3~4) ヨブの言うとおり、神様が目を開き、ヨブを見ておられるということは合っていますが、神様はさばこうとされるのではありません。神様がヨブを連れて行ってさばかれたのではなく、ヨブが自分からさばきを招いているのです。 神様は人の子らを愛しておられるので、炎のような御目で見ておられます。私たちを救おうと、また罪から立ち返って聖められて神様の愛される子どもにするために探っておられます。 ところが、ヨブは先祖から聞いて力ある神様は漠然と知っていただけで、愛の神様については知らなかったので、勝手に誤解してさばいています。 また、ヨブは「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。」と決めつけています。これは神様の力を否認して、神様を無視する言葉です。ヨブの高ぶりがうかがえる言葉で、なおさら正しくありません。 私たちの神様はどんなことでもおできになります。私たちがイエス・キリストを受け入れる前は、闇の子どもであり、汚れの中にいました。しかし、イエス・キリストを信じる者に、神様は聖霊を賜物として遣わしてくださり、汚れをきよめて、神様の子どもにしてくださいました。ヨブはこのような神様を否定して、信仰のみわざを遮ってしまっています。 3. 神様がすべてを勝手に定めておかれたと抗議するヨブ 「もし、彼の日数が限られ、その月の数もあなたが決めておられ、越えることのできない限界を、あなたが定めておられるなら、彼から目をそらして、かまわないでください。そうすれば、彼は日雇い人のように自分の日を楽しむでしょう。」(ヨブ14:5~6) ヨブの考えでは、神様は予定しておいて、人を生かしも殺しもするなど、思いのままにする方でした。したがって、ヨブも神様が予定しておいて、このように苦しめたと決めつけているのです。そして「神様、私は女から生まれたつまらない者だから、もう構わないでください。そうすれば、何の自由もなく、言われたことだけする日雇い人のように人生を終えるでしょうから、その方が楽なのです」と言っているのです。 日雇い人とは、その日その日労働の代価として賃金をもらって生きていく人です。決められた時間は雇い主が言うとおりに働かなければならないので、自由がありません。 しかし、神様は人間を日雇い人のようには造られませんでした。自由意志を下さったので、人は自分の意志によって選択して生きていくのです。神様が強制的に人の心を動かすのではなく、人が自由意志をもって善を行ったり、反対に悪を行ったり、また愛したり、ねたんだりするのです。人は、このようなすべての行いに対するさばきをそのまま刈り取るようになります。 私たちが神様のみことばを誤解すると、ヨブのように、自分が間違っていても全部神様のせいにしてしまいます。 たとえば、自分の実力が足りなくて大学に落ちたのに、まるで神様が落としたかのように思ったり、落ちるのが神様のみこころだと言って、責任を神様に転嫁する場合があります。このような心ならば、心から感謝が出てこないし、自分の過ちを発見することもできないのです。 生きている間に試練に会うなら、必ず理由があります。苦しみに会うのも、正確な公義の法則に従って必然的に起こることなのです。真理に照らしてみれば、神様がそのように仕向けたのではなく、人が神様のみことばに逆らうことをして、自分から招いた結果なのです。 霊的な人は、たとえ目の前の道が完全にふさがっていて、死の陰の谷を歩いているようでも、信仰の告白をして神様により頼みます。 たとえば、預言者ヨナはニネベに行きなさいと言われた神様のおことばに聞き従わないで、タルシシュに逃げました。激しい暴風の中、海に投げ込まれて大きな魚にのみ込まれました。この時、ヨナは絶望したのではなく、三日間神様の前に徹底的に悔い改めました。そして感謝の祈りをささげると(ヨナ2:9)、神様は大きい魚をつかさどってヨナを陸地に吐き出すようにされました。 このように感謝できない状況でも感謝すれば、神様の心が動かされるのです。これとは反対に、ヨブは恨みと不平をやめず、否定的な告白をして神様のみわざを遮ってしまっています。 ところで、ヨブは予定の神様だと誤解しているのが問題であって、神様のみことばどおりに生きていこうとする心は潔白で正しかったのです。それで、神様は試練に会わせて、ヨブの誤解を悟らせて正そうとしておられるのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブはこの地上での人生で終わりだと思っていたので、天国への希望がありませんでした。しかし、私たちはこの地上での人生はつかの間であり、永遠の天国があることを知っているので、希望を持って毎日信仰によって歩めます。たとえ試練や患難がやって来ても、信仰で耐え忍び、感謝して神様のみこころを探そうとします。 この地上に希望を置いて生きている人々には、一日一日がますます死に近づく時間ですが、天国への希望のある私たちには、一日が過ぎれば、それだけ父なる神様にお目にかかる日が近くなるのです。 したがって、新しいエルサレムへの希望をもって、いつも喜んでいて、すべての事について感謝し、毎日信仰によって勝利しますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(31)- 霊的知識の重要性」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記13:20~28
 

きょうは霊的に無知なので神様に抗議するヨブの姿を見て、霊的知識がどれほど重要なのか伝えます。

1. 霊的知識がなくて神様におびえるヨブ

「ただ二つの事を私にしないでください。そうすれば、私は御顔を避けて隠れません。あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで私をおびえさせないでください。」(ヨブ13:20~21)
前回でヨブは、自分と論じる資格があるような人はいないと言いました。ですから、今は神様と自由に論じ合えるように、二つの事をしないでくださいとお願いをしています。一つは神様の手を自分の上から遠ざけてくださいということで、もう一つは神様の恐ろしさで自分をおびえさせないでくださいということです。神様がもし手を出さないで、その恐ろしさでおびえさせなければ、神様の前に訴えて問い詰めることがたくさんある、ということです。


ヨブは試練に会う前も神様におびえていたので(ヨブ3:25)、死より大きい苦しみの中にある今は、なおさらおびえるしかありません。これは、自分で自分は正しい人だと思っていたし、霊的な知識がなく、真理について間違って知っていたからです。自分に霊・たましい・肉を下さった父であり、愛と公義によって治める神様なのに、神様についてよくわからないからおびえるのです。
ヨブは正しい自分に何の理由もなく試練を与えた神様だと誤解しているので、もし神様の許可なしに言いたいことを全部言ってしまえば、さらに苦しめられるのではないかと怖がっています。もし言いたいことを全部言えるようにされるなら、ヨブは今までよりもっと激しい言葉をぶちまけるでしょう。

私たちが心から神様を愛するなら、どんな試練や患難に会っても、つぶやいて神様を悲しめたりしません。不満をぶちまけて腹を立てるからといって、問題が解決されるのでもなく、かえって神様の前に罪の壁を作って、敵である悪魔・サタンにあざけられるようになるのです。 かといって、無理に我慢するのも正しいことではありません。バネをぎゅっと押さえておいてから手を離せば、突然はね上がります。このように、悪を押さえて我慢していると、いつかは爆発するものです。最初から我慢することがないように、心を善に、愛に昇華させていかなければなりません。 また、天国への希望をもって耐え忍ばなければなりません。私たちの国籍は天にあって(ピリピ3:20)、やがて主が来られると、涙も悲しみもない天国で言葉にできない栄光と幸せを永遠に味わうでしょう。これを信じるならば、たとえこの地上で苦しいことがあっても、信仰によって打ち勝ち、喜んで走って行くことができるのです。 2. 神様に抗議するヨブ 「呼んでください。私は答えます。あるいは、私に言わせ、あなたが私に答えてください。私の不義と罪とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせてください。」(ヨブ13:22~23) 神様が自分をおびえさせないようにしてから「ヨブ」と呼ばれれば、私は答えます。その次は神様が言いたいことを言ってください、という意味です。神様のお許しさえあれば「なぜ悪者は栄えさせて、正しい私にはこのように苦しみを受けさせるのですか」と大胆に問い詰めるつもりだと言っているのです。 そして、ヨブは「いくら調べても私には不義も罪もないのに、どうしてこんなに厳しく懲らしめられるのですか」と抗議します。 聖徒の皆さんの中には、自分の過ちで苦しみに会ったのに「神様、なぜ私にこのような苦しみを与えるのですか。なぜつまずかせるのですか」と問い詰めるようなことがあってはいけないでしょう。 ある人は自分では誠実に生きてきたと思っているのに、問題が解決されなかったり、事業がうまくいかなかったりすることがあります。この時、自分は最善を尽くしたから何の過ちもないと考えることもあるでしょう。 しかし、神様はこんな場合でも自分の妥当性を主張するのは正しくないと言われます。神様は、たましいに幸いを得ているほど、すべての点でも幸いを得るようにしてくださる方です。みことばどおりに行えば、かしらとなり、貸すであろうが借りることはないようにしようと約束されました。 聖書には健康の秘訣、祝福の秘訣が詳しく書かれているので、病気だとか経済的に何か問題があるなら、必ずみことばから答えを見つけなければなりません。 ところが、ヨブはこのような霊的な知識が足りなかったので、答えを得られないまま、ずっと間違ったことばかり言っているのです。 3. 試練がやって来た時はイエス様から目を離さないでいなければ 「なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか。」(ヨブ13:24) これもまたヨブの誤解から出ている言葉です。神様はヨブに御顔を背けられたこともなく、ヨブを敵とみなされたこともありません。いつも炎のような御目で見守っておられ、ヨブが口から出す一言一言を聞いておられます。 神様はヨブに悔い改めて立ち返れる機会をたくさん下さいました。友だちを通して真理のみことばで悟らせたのですが、ヨブは一言も受け入れなかったのです。自分だけ正しいと主張して、かえって相手を非難して責めていました。 では、私たちに試練がやって来た時は、どうすべきでしょうか。 信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないでいなければなりません(ヘブル12:1~3)。イエス様は被造物の手でむち打たれ、さげすまれてあざけられました。しかし、ご自分が十字架を負うことで神様の御座の右に着座されることと、地上のすべての民に救いのみわざが起こることをご存じだったので、このためにはずかしめをものともせずに、最後まで忍ばれました。ついに全人類の罪を代わりに負って十字架で死なれましたが、三日目によみがえられることで救いの道を開いてくださいました。神様は、ただ愛をもって死にまで従い、信仰によって勝利されたイエス様を王の王、主の主として立ててくださいました。 私たちもイエス様のように父なる神様のみこころを正確に悟って、どんな試練も患難も忍耐して勝利しなければなりません。 それでは、神様が子どもたちについて望んでおられることは何でしょうか? それは傷もしみもなくきよいまことの子どもを得ることです。 しかし、多くの聖徒が罪を捨てて聖められるべきだとは知っていますが、罪と血を流すまで戦うのは大変だと思います。聖書のすべてのみことばを守り行うべきなのに、そうしないまま自分は信仰生活をちゃんとしていると思う人も多いです。簡単に嘘を言っておいて罪だと思わないし、親、配偶者、職場の同僚などが自分の気に入らなければ、憎んでいるのに、それがみことばに聞き従わなかった罪だとは思いません。真理に対する無知ゆえなのです。 「しなさい、守りなさい、してはならない、捨てなさい」というみことばに聞き従わないから懲らしめが来るのに、霊的知識が足りないので悟れません。懲らしめを通して子どもたちが罪と悪から離れて光の中へと出てくることを望んでおられる神様の愛を知らないまま、つまづいてしまう人もいます。 子どもがぐれていくとき、親が叱って懲らしめるように、神様もご自身の子どもが罪を犯したとき、懲らしめてむちを加えられます。もし懲らしめがないなら、神様の本当の子どもではなく私生子だと聖書にあるので、私たちは懲らしめを受けた時は、神様の愛であることを悟って、感謝しなければなりません。 イエス様が忍耐をもって赦しを与えながらその道を歩まれたことを思って、口からは悪ではなく善を出して、すべての事について感謝して、周りに恵みを与える姿になりますように。 4. 若い時の咎の代価として災いを与える神様だと誤解するヨブ 「あなたは吹き散らされた木の葉をおどし、かわいたわらを追われるのですか。実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとされます。」(ヨブ13:25~26) ヨブは自分をいのちある枝から離れた者だと思っているので、取るに足らない木の葉やわらにたとえています。風に吹き散らされた木の葉のように孤独で寂しい存在であり、乾いたわらのように何の希望もない存在だというのです。 ヨブは、自分が死ぬことも生きることもできない、気力も希望もない落葉にすぎず、人の足で踏まれるわらにも劣る存在なのに、神様が追いかけてきて苦しめていると訴えています。まるで力の強い横綱が3~4歳の子どもを相手にしているようだと非難しているのです。 ヨブは今までの人生を省みて、何の過ちもありませんでした。おとなになった時は一家の長として、父として、夫として誠実に生きてきたし、多くの人に施しをして正しく生きてきただけで、何の過ちも発見できなかったのです。ですから、神様は分別のない若い時に犯した罪まであばき出して懲しめていると考えているのです。 これはどれほど悪い神様だとけなす言葉でしょうか。神様は、私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れたとき、過去のすべての罪を赦してくださいました。私たちが罪を悔い改めて立ち返るならば、神様はその罪を思い出すこともなく、主の尊い血で洗いきよめてくださるのです。しかし、このような神様の愛を知らないヨブの言葉はますます激しくなります。 「あなたは私の足にかせをはめ、私の歩く小道をことごとく見張り、私の足跡にしるしをつけられます。そのような者は、腐った物のように朽ち、しみが食い尽くす着物のようになります。」(ヨブ13:27~28) 「私の足にかせをはめ、」とは、神様がヨブのいのちに足かせをはめられたという意味です。つまり、生きたくても生きられないし、死にたくても死ねないし、自由意志もなく、身動きできないように神様がしてしまわれた、ということです。神様が、何の分別もなかったヨブの若い時の咎まであばいて、いのちまで取ろうとしておられる、というのです。 また、神様が自分の足跡にしるしをつけて、腐った物やしみが食い尽くす着物のようにしてしまったと抗議しています。 皆さんの中には、真理の足かせにはめられているように感じている方はいないでしょうか? 主日には旅行もしたいのに、教会に来て礼拝をささげなければならないし、好きなテレビ番組やスポーツの試合が中継される時間に祈らなければならないから、きついでしょうか? 真理は私たちを縛る鎖ではなく、闇の中の灯のように祝福の道に導いてくれるものです。私たちがみことばのうちにとどまっていれば、真理が心を満たして、真理による自由を得るようになります(ヨハネ8:32)。 このように真理の自由を得た人は、この地上でしばらくは狭い道を歩んでいるようでも、天国への希望で心が満たされています。神様が行ったとおりに報いてくださることを信じるので、喜びと感謝で信仰生活ができるのです。 ですから、永遠の天国で父なる神様と花婿なる主と思う存分愛を分かち合って生きていく日を望みながら、さらに真理にあって幸せな信仰生活をしますように。 次の時間に続いて伝えます。

「ヨブ記講解(30)-高ぶりの極みを見せるヨブ」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記13:6~19
 

きょうも前回に続き、高ぶりの極みを見せるヨブの姿によって自分を省みて、神様の望んでおられる姿が何かを調べてみましょう。

1. ヨブの論争と訴え

「さあ、私の論ずるところを聞き、私のくちびるの訴えに耳を貸せ。あなたがたは神の代わりに、なんと、不正を言うのか。神の代わりに、欺きを語るのか。神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。」(ヨブ13:6~8)
「論ずる」とは、互いに意見を戦わせる、論争するという意味です。聖書には言い争ってはならないとあるのに(第一テモテ6:20)、ヨブは神様と論じ合ってみたいと言い、友だちに自分の訴えを聞きなさいと言っています。白黒をつけて自分は間違っていないことを明らかにして、正当化したいのです。
真理にあって生きていく人は、不当なことをされても、訴えたり言い訳したりしないで、まことの審判者である神様を望んで、黙々と耐えてみことばどおりに行っていくだけです。
イエス様は不当な仕打ちにあわれた時も、ただ神様にゆだねて祈られただけで、誰とも言い争ったり訴えたりされませんでした。このように、言い訳したり訴えたりせずに、神様ご自身が働かれるようにゆだねなければなりません。どんな誤解をされても、自分を省みて、喜びと感謝をもって行うなら、神様が助けてくださって誤解が解け、敵をも和らがせてくださいます。

「欺き」とは、言葉巧みにうそを言って、相手に本当だと思わせること、だますことです。ヨブは自分を指摘する友だちに、欺きを語る者だと責めています。
神様のみことばのとおりに歩めない人が誰かに神様のみことばをもって悟らせるなら、かえって神様の栄光を遮ることになります。したがって、ヨブは友だちに向かって「あなたがたは真理のとおりに行ってもいないのに私を指摘しているから、偽り者ではないのか。そんなあなたがたがどうして神様の代わりに不正を言うのか。巧妙に神様を欺こうとするのか。神様はあなたがたの心を全部見ておられる。」このような意味で問い詰めているのです。

それなら「神の顔を立てるつもり」とはどんな意味でしょうか。 誰かの顔を立てるとは、面目が保たれるようにする、体面が傷つかないようにするという意味です。ヨブは友だちに、偽り者であるあなたがたがどうしてあえて神様の代わりになろうとするのかと言っているのです。どうしてあなたがたが聖なる神様に代わって、神様のみことばをもって自分と言い争おうとするのか、ということです。 「神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。もし、あなたがたが隠れて自分の顔を立てようとするなら、神は必ずあなたがたを責める。神の威厳はあなたがたを震え上がらせないだろうか。その恐れがあなたがたを襲わないだろうか。」(ヨブ13:9~11) ヨブは友だちに「あなたがたは人は欺くことはできても、心を調べる神様を欺くことはできない」と言っているのです。ヨブは友だちの弱点をつかんで責めています。彼らがこれ以上言い返せないように言い負かそうとしているのです。友だちの目には梁があるのに発見できず、自分の目の中のちりを指摘していると悟らせているのです(マタイ7:4)。 ここでも自分自身の姿はどうなのか省みますように。皆さんがひどい苦しみに会っているとき、ある聖徒が神様のみことばでアドバイスをしてくれるとしましょう。この時、顔には出さなくても、心の中ではその人が憎らしいと思ったり、嫌いになったり、そのアドバイスが気に障ったりするなら、これも高ぶりなのです。 ここで「隠れて自分の顔を立てようとする」とは、偽善をもって真実で謙虚に神様を仰ぎ見ない人のことです。こういう人は責められます。しかし、神様の前にへりくだっている人は、神様の声を聞くことができます。 今日も、私たちが聖霊の声を明らかに聞くには、へりくだっていなければなりません。聖霊様が私たちに神様のみこころを悟らせてくださっても、高ぶっているなら、その声が聞けないからです。 それなら、もしヨブの友だちがへりくだっていて神様の声が聞けるなら、神様は彼らに何と言われるでしょうか。彼らの偽りと偽善、本人は言行が一致していないのにヨブをむやみにさばいて責め立てた姿などを叱責されるでしょう。 皆さんが誰かをさばいて量るなら、自分も必ずさばかれて量られるようになり、敵である悪魔・サタンも皆さんを訴えるようになります(マタイ7:1~2)。もし自分の目に他の人のちりが見えるならば、自分の目にはそれと比べられないほど大きい梁があることを悟らなければなりません。まず自分の目にある梁を取りのけてこそ、きよい目になって、兄弟の目の中にあるちりも取り除くことができます。自分の目に梁がある人が相手のちりを取り除こうとすれば、その言葉がとがったとげになって相手を苦しめます。 ヨブは、神様が友だちを責められるとき、その威厳があなたがたを震え上がらせないだろうかと言います。ヨブは、神様が威厳があって恐ろしい方で、その威厳がどのようなものか知っていました。しかし、愛なる神様は知らないまま、予定の神様だと誤解して、今恐れているのです。 私たちの神様は愛なる方ですが、公義の神様でもあります。それで、聖書を読むと、神様を愛する人であっても、神様のみことばを犯して罪を犯せば、厳しい試練に会ったことがわかります。 ダビデは神様に愛されて認められていましたが、彼がイスラエルの王になった後、平安になったとき、本性の中にあった悪が現れました。忠臣ウリヤの妻を召し入れ、これを隠ぺいするためにウリヤを戦場の最前線に立てて、異邦人の手で死なせたのです。その後、愛する子どもが死に、息子の間で殺人事件が起きたし、ある息子はクーデターを起こすなど、ダビデは実に厳しい試練に会わなければなりませんでした。 このように神様は、愛する者であっても罪については厳しく責めて、立ち返るようにされます。私たちが神様のみことばを守らないとサタンが訴えて、試練や患難が伴うことを心に留めなければなりません。罪人たちのためにひとり子を犠牲にするほど愛の豊かな神様であるだけでなく、悪を蒔いた者には悪の実を、善を蒔いた者には善の実を刈り取らせる公義の神様だからです。 2. 高ぶって自分が正しいと主張するヨブ 「あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は粘土の盾だ。黙れ。私にかかわり合うな。この私が話そう。何が私にふりかかってもかまわない。」(ヨブ13:12~13) これまでヨブの友だちは自分なりに最善を尽くして神様のみことばを引用してヨブを悟らせようとしました。しかし、ヨブは彼らの話を真理として受け入れるのではなく、一つの格言かことわざとしか思いませんでした。 友だちがたとえ完全でなかったとしても、彼らの助言の中には神様のみことばが含まれているのに、ヨブはこれを単なる人の格言かことわざ程度に考えているので、どうして悟れるでしょうか。 今までヨブと友だちは互いに言い争って、攻撃と防御を繰り返してきました。ところが、ヨブは、友だちが防御する盾はすぐ壊れてしまう粘土の盾にすぎないと決めつけているのです。 このように人が高ぶってしまえば、神様のみことばも耳に入りません。または、神様のみことばを一つの格言くらいに、ただ耳障りの良い人間の言葉くらいに受けとめます。ことわざや格言でも教訓が込められた話は聞かなければならないのに、神様のみことばさえも人の言葉のように聞こえてしまうのです。 「それゆえ、私は自分の肉を自分の歯にのせ、私のいのちを私の手に置こう。見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。あなたがたは私の言い分をよく聞け。私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。今、私は訴えを並べたてる。私が義とされることを私は知っている。私と論争する者はいったいだれだ。もしあれば、そのとき、私は黙って息絶えよう。」(ヨブ13:14~19) 今ヨブは自分のことを訴えています。まず「自分の肉を自分の歯にのせ」、みずから苦しみを招こうと言っています。そして「私のいのちを私の手に置こう」、つまり自分で自分のいのちを絶とうというのです。これは「私には何の過ちもないのに、どうせ神様が私のいのちを取ろうとされるんだから生きる望みがない。だからこそかえって私は神様の前で主張する。」つまり「白黒をはっきりさせて、これまで私がよくやったことを一つ一つ申し上げて、私には何の過ちもないことをはっきりさせる」と言っているのです。 「神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。」とは、神様に逆らう者は神様の前に出ることができない、ということです。そして、「神もまた、私の救いとなってくださる。」と言いましたが、これはヨブ自身は神を敬わない者ではなく義人なので、神様の前に救われるべきだという意味です。 ヨブは相変わらず自分は正しいと主張しています。そして、自分が説明するから、あなたがたは聞いて悟れというのです。ヨブはこれまで、自分は正しい人で罪を犯したこともないし、悪いことをしていないと訴えてきました。 「私が義とされることを私は知っている。」とは、たとえ友だちが認めてくれなくても、自分で自分の行いを見ると正しい人だと自負できるということです。ですから、このように正しい自分と論争できる者はいないと言っています。 自分より正しい人こそ自分を指摘してくれなければならないのに、そんな人がいるかということです。もしいるなら「私は黙って息絶えよう。」と言います。つまり、その前で降参するというのです。 ヨブは誰かに悪を行ったことがなかったので正しい人だと思っていますが、これは真理を正しく知らなくて、罪に対する基準が違うからです。ヨブの基準から見れば、自分の方が先に人を殴ってののしるなら悪ですが、もし人が自分を殴るなら自分も立ち向かって殴り、人がののしるなら自分もののしるならば、罪ではありません。 しかし、マタイの福音書5:39~42に「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」とあります。 ヨブの友だちはヨブの下着を取ろうとしたのでもないし、一ミリオン行けと強いたのでもありません。ヨブのみじめな身の上を聞いて、遠くから駆けつけて七日間悲しみ、ヨブを慰めて神様のみことばで悟らせようとしただけです。 それなのにヨブはそういう友だちを相手にする価値もないと非難しているので、決して正しい人の姿だとは言えません。ヨブは右の頬を打たれたなら左の頬も向けるのではなく、かえって二倍、三倍に仕返ししているのです。 また、ヨブはこの世に誰が自分より正しい人がいて、自分と論争できるのかと言っていますが、これは高ぶりの極みです。ヨブの言うとおりなら、論争する相手は神様おひとりしかおられません。ですから、次にヨブは神様と論じ合おうとします。 次の時間に続いて伝えます。

「ヨブ記講解(29)-高ぶりの極みを見せるヨブ」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記12:22~13:9
 

きょうは高ぶりの極みを見せるヨブの姿によって自分を省みて、神様のみこころが何か調べてみます。

1. 予定の神様だとさばくヨブ

「やみの中から秘密をあらわし、暗黒を光に引き出す。神は国々を富ませ、また、これを滅ぼし、国々を広げ、また、これを連れ去り、」(ヨブ12:22~23)
「やみの中から」とは、隠されている状態を表現しています。ヨブは先祖から神様について聞いて知っているだけで、神様を見つけて体験したことがなかったので、神様の存在をぼんやりと認識していました。神様の恵みと愛も漠然と感じているだけでした。
このように神様についてすべてがぼんやりした状態で、ヨブは自分なりに神様を信じて従ってはいました、しかし、今はどんな神様なのかはっきりしたというのです。神様はあらかじめ定めておいて、やみの中から秘密を現わすことによって、自分に厳しい試練や患難が臨むようになったと思っているのです。
ヨブは先祖の生き方や自分の境遇を見ても、あらかじめ苦しみに会うように定めておられたと強く批判しています。しかし、私たちは予知して予定される神様が人類を救うための摂理に従ってすべての歴史をつかさどっておられることを知っています。イスラエルの歴史を見ても、異国を用いてイスラエルを試練に会わせられたのは、何としてでも民が偶像を捨てて、まことの神様のもとに帰れるように導く、神様の切なる愛でした。

「暗黒を光に引き出す。」とは、ヨブが前は明るい世の中で輝くような暮らしをしていたのに、あっという間に死が自分に迫ってきたということです。神様が光の中にいた自分を、暗黒の死んだような状態に置かれたと言っているのです。これもまたヨブがひねくれて神様を誤解してさばく言葉です
 

神様は闇の中にある私たちの罪を明るみに出して捨てられるようにされ、私たちを新しく変えられるようにしてくださいます。暗黒を光に引き出して苦しめるのではなく、やみの中から引き出して、いのちと光を下さる神様です。 私たちは、神様を知る前は世の闇の中で生きていました。ところが、神様が上から光を照らしてくださったので、私たちが心の戸をあけて、光である神様のみことばを受け入れるようになりました。それで、闇から光へと出て来ていのちを得、永遠のいのちの道を歩めるようになったのです。 このように慈しみ深い神様をヨブは正反対に解釈しています。ヨブは本来知恵のある人なのに、不満と恨みがつのったら、神様を誤解して悪をもってさばく愚かな人になっています。負の感情というものがこのように恐ろしいということを悟って、心の中の不満や物足りない気持ちを大きくしないで、すべてのことで良いほうに思って自分を治めていきますように。 ある国が栄え、また滅びるのは、神様がそうさせたのではなく、独裁者が出てくるのも神様がそうさせたのではありません。しかし、ヨブは、これらすべては神様が定めておられたからそうなったのだと言っています。 もし神様がすべてを定めておいて強制的に行われるならば、人は自分の過ちで事業がつぶれても「神様が私に知恵を下さらないから…」または「神様が私の計画を狂わせたから…」と失敗の原因を神様のせいにするでしょう。 そして、罪を犯した後でも悔い改めないで、「神様が定めておかれたので私は罪を犯しました」と言えばいいでしょう。それなら、さばきの日に地獄の判決を受けた人も「神様が私を悪い人として造って罪を犯させたのではないですか」と言うでしょう。この時、神様がどう答えられるでしょうか。 ヨブはひねくれて神様を誤解してさばき、ますます愚かな考えで神様を非難しています。このように心に負の感情、悪があれば、その思いをサタンが支配するので、ますます悪に偏るのです。 「この国の民のかしらたちの悟りを取り除き、彼らを道のない荒地にさまよわせる。彼らは光のない所、やみに手さぐりする。神は彼らを酔いどれのように、よろけさせる。」(ヨブ12:24~25) ここで「かしら」とは、団体のリーダー、指導者、統治者、軍隊の長などを意味します。教会では主のしもべや働き人たちがこれに該当します。 ある組織のかしらになるためには、悟りが必要です。知恵も必要だし、頭の回転が早く、その一方で思慮深く、すべてにおいて慎重で、失敗があってはなりません。このような悟りがなくなるなら、かしらとしての資格を失うことになります。 ヨブは、自分は今まで人を教えるかしらだったのに、神様が悟りを取り除いてしまうと、もう何者でもなくなったということを、たとえで説明しています。それで神様はヨブを光のない所、やみ、すなわち死の陰の谷をさまよわせ、酔っぱらいのようによろけさせてしまったと言っています。 前回調べた内容とつなげて考えてみれば、ヨブは神様の全能さと偉大さを認めて、正しいことを言っているようでしたが、いつそう言ったかのように正反対のことを言います。 ヨブが正しいことを言う時は良い人のように見えたのですが、正しくないことを主張する時は悪い人のように見えます。まるで酔っぱらいのように、あちこちによろけている姿です。まだ自分の状態を悟れないまま、このように酔いどれのたとえまで挙げて、予定の神様、悪い神様だと言っているのです。 2. 高ぶりの極みを見せるヨブ 「見よ。私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。あなたがたの知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」(ヨブ13:1~3) 「私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。」とは、ヨブが今まで友だちの言ったことだけでなく、自分が言ったことを全部知っているということです。 ヨブは高ぶって友だちに「あなたがたが知っていることは私も知っている。あなたがたに劣ってはいない。もうあなたがたを相手にしたくない。全能者の神様と論じ合ってみたい」と言っているのです。ヨブは多くの人を教えて弱い人々を助けるなど、正しい行いをしていたので(ヨブ4:3~4)、自分は友だちより当然優れていると思っているのです。 ヨブは友だちの話を聞かないで、ますますそれて行きます。それは、友だちが完全な姿ではなく、感情的になってヨブを正そうとしたからです。ですから、友だちを信頼できなかったのです。 しかし、イエス様はみことばどおりに行っていないのに口の言葉だけはもっともらしいパリサイ人を叱責された後、弟子たちには「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。」(マタイ23:3)と言われました。したがって、私たちは悪い人の行いはまねてはいけませんが、その言葉が真理ならば「アーメン」と言って受け入れられる謙遜な心になりましょう。 ヨブは9章で、神様に呼んでも神様は聞いてもくださらないと言ったし、たとえ神様が聞いて答えてくださったとしても、自分は信じないと言いました。また、自分がどうして神様とことばを交わせようかとも言いました。 ところが、自分がこう言ったのを忘れて、今は神様と論じ合ってみたいと言っています。なぜヨブは言葉に一貫性がなく、ああ言ったりこう言ったりするのでしょうか。 これは、ヨブが自分の心を知らないまま、口から出てくるとおりに、考えていることをそのまま口にしているからです。ああ言ったりこう言ったりする、ずる賢い心があるのです。 私たちの周りでも、自分が言ったことを覚えていないことがどれほど多いでしょうか。ある人は同じ内容のことできのうときょうで全然違う話をします。これは、初めから嘘をついていたか、でなければ自分が言ったことを忘れてしまったのかのどちらかでしょう。私たちは何かの話をする時は心から出てくる言葉を口にすべきなのに、ただ思ったことをそのまま口に出してしまうから、自分が言ったことも覚えていないのです。 思ったことをそのまま口にする人は、きのう言ったことにも責任を負いません。私たちはいつも責任を負えるような言葉を口にしなければならず、口にしたら責任を負うべきです。 心が真っ直ぐでずる賢くなく、正しくて真実な人は、きのう言ったことときょう言った言葉が違うことはありません。自分の口の言葉はどうなのか、その言葉をどれほど守っているのかを省みても、心の中にある真理と反対のものを見つけることができるのです。 また、神様は人との間でも言い争ってはならないと言われましたが、ヨブは神様と論じ合ってみたいと言っているので、その心がどれほど頑なになっているのかがわかります。 「しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。ああ、あなたがたが全く黙っていたら、それがあなたがたの知恵であったろうに。」(ヨブ13:4~5) ヨブは友だちのことをよく知っていました。友だちが偽りをでっち上げる人、真実でない人だったので、彼らの話を聞こうとしなかったのです。普段から友だちが言葉と行いが違う偽善者だということを知っていたのです。 もし病気を治す医者が偽りを言う人なら、どうしてその人に手術を任せることができるでしょうか。ヨブは友だちが脳なしの医者のように信じられないので、彼らに黙っていなさいと言います。また、黙っていることが知恵あることだと付け加えています。韓国に「黙っていれば損はしない」ということわざがあるように、いっそ何も言わないで黙っていれば、愚か者とは思われないということです。 ヨブは知恵が優れていたし、知識も優れていた人でした。その上高ぶっているので、誰があえてヨブを相手にして言い負かすことができるでしょうか。友だちのどんな助言も聞かないで、かえってさげすんでいるので、ヨブの高ぶりを誰が指摘することができるでしょうか。 神様がなぜひどい悪性の腫物ができるようにされたのか、ここでわかるのです。もし神様がそのように働いてくださらなかったなら、ヨブは決して神様に降参しなかったでしょう。 もし自分より認められている人が助言してくれるなら「アーメン」と言って聞き入れるのに、自分より劣ると思っている人が助言すると無視するなら、これは高ぶっているからです。相手の言葉を無視はしなかったとしても、悔しくなってムッとするなら、またはその言葉に傷ついたとすれば、助言や指摘を受けられない小さい器です。相手が誰であっても、その言葉が真理ならば謙虚に受け入れてこそ幸いな人であり、本当に神様を愛する人です。 愛する聖徒の皆さん、 高ぶっている人は他の人が正しいことを言っても聞かないで、自己主張だけします。高ぶりは真実を見る心の目をくらますので、みずから欺かれる場合が多いです。正しくない道を歩みながらも、自分は正しい道を歩んでいると思い、人が見て正しくないのに、自分はよくやっていると思います。したがって、すみやかに高ぶりを捨てて謙虚な人になり、神様と人から称賛と光栄を得る皆さんになりますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(28)-自分の妥当性を主張するヨブ」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記12:7~22
 

きょうは創造主の神様の力と神性を高めるふりをして、結局自分の妥当性を主張するヨブの本心について調べてみます。

1. 神様の力と神性を高めるヨブ

「しかし、獣に尋ねてみよ。それがあなたに教えるだろう。空の鳥に尋ねてみよ。それがあなたに告げるだろう。あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。これらすべてのもののうち、【主】の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」(ヨブ12:7~10)
神様はことばで天地万物を創造されました。天と海、地、山川草木など、万物に神様の力と神性を込めておかれて、誰でも創造主の神様を信じられるようにしてくださいました(ローマ1:20)。
神様はワシのように大きい鳥だけでなく、ハエや蚊、カゲロウのように小さい昆虫もうまく飛べるように造られました。ヨブはこのような神様の力と知恵を認めているので、獣、鳥、地、魚のうち「【主】の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。」と言っています。
次に「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」と言っていますが、ここには霊的な深い意味も込められています。
まず「生き物」とは、動物と植物を含めて息のあるすべてのものです。ここでヨブは「いのち」と「息」という単語を使っています。ヘブライ語の原文を見ると「いのち」には「たましい」、「息」には「霊」という意味があります。
私たちが「霊・たましい・肉」で学んだ「たましい」とは、脳の記憶装置とその中に保存された知識、そしてその知識を引き出す作用のことです。また「霊」とは、死んだり朽ちたりしないで変わらないもの、永遠にあるもの、いのち、真理そのものを言います。
 

ところが、ヨブはこのようなことを知らないので、自分が持っている知識だけで説明しています。ヨブが言っている「いのち」すなわち「たましい」はただの思考能力を意味し、「息」すなわち「霊」は、悟りを得てすべてを分別する力を意味しています。動物は本能によって生きているだけで、悟りを得たり、分別力を持つ力はありません。ですから、ヨブは神様は動物には考える力を下さって、人には悟りを得て分別力を持つようにしてくださった、このすべては神様の摂理によるものだ、という意味で「すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。」と言っているのです。 ところが、神様が教えてくださった「いのち」と「息」には先ほど言ったような霊的な意味があり、どちらも神様の御手のうちにあるということを覚えておきましょう。 「口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」(ヨブ12:11~13) 私たちの口の中に舌があって、苦い、甘い、塩からいなどがわかるように、耳には聴覚があって、音を聞き分けることができます。ヨブはこのような力を神様が人に下さったと言っています。 また「老いた者に知恵があり、」とは、人が年を取るほど経験を通して思考力や分別力、判断力が大きくなり、人生の知恵が増えることを言います。続いてヨブは「老いた者」と区分して「年のたけた者に英知があるのか。」と言っています。ここで「老いた者」とは、単に歳月が流れて老人になった人を意味しますが、「年のたけた者」とは「健康に長生きする人」を意味します。 「英知」とは、深く物事の道理に通じる才知という意味です。つまり、人生の経験を積んで、分別力と洞察力をもって事をやり遂げること、自分を望ましい人間へと高めていくことを言います。「思慮」とは、何かをやり遂げるために準備するすべてのはかりごとを言います。 ヨブは神様が老いた者と年のたけた者にこのような力を下さったと言うのです。続いてヨブは「知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。」と言っています。ここまではヨブが神様を高めているようで、その言葉は正しいです。しかし、本当にヨブが言いかったことは次の節にあります。 2. ヨブの本心 「見よ。神が打ちこわすと、それは二度と建て直せない。人を閉じ込めると、それはあけられない。見よ。神が水を引き止めると、それはかれ、水を送ると、地をくつがえす。力とすぐれた知性とは神とともにあり、あやまって罪を犯す者も、迷わす者も、神のものだ。」(ヨブ12:14~16) ヨブは、神様が打ちこわすと、二度と建て直せず、人を閉じ込めると、あけられないと言っています。これは、ヨブのように正しくて潔白で神様を恐れている人を、神様が厳しい試練で打ちこわして閉じ込めてしまったと言っているのです。 しかし、神様は何の理由もなく打ちこわしたり、人を閉じ込めたりする方ではありません。そういうことは敵である悪魔がすることであり、試練や患難、病気をもたらすのも敵である悪魔です(第一ペテロ5:8)。人が不義を行い、罪を犯せば、その報いとして敵である悪魔・サタンが試練をもたらすのです(創世記3:14)。 しかし、たとえ人が罪を犯して倒れたとしても、悔い改めて立ち返るなら、神様は赦して、また機会を下さいます。イエス様を三度も知らないと言ったペテロも、心を砕いて罪を告白すると、神の力を行うしもべとして立ててくださいました。 エジプトから出て来たイスラエルの民がカナンの地に入る旅路で、神の力で葦の海が分かれて、ヨルダン川の水がせきとめられたこと、それで民が海と川の乾いた地を歩いて渡ったことなどを、ヨブは聞いて知っていました。これについてヨブは「神が水を引き止めると、それはかれ、」と言っています。 また「水を送ると、地をくつがえす。」とは、洪水になると山崩れが起こって、地面が割れて地がくつがえされる現象を説明しています。神様は全能なので、地をくつがえすこともされ、あやまって罪を犯すことも、迷わすようにもされる悪い神様だと言っています。 あやまって罪を犯す者も、迷わされる者も、神様がそうさせたのですから、潔白で正しいヨブも神様からこのような苦しみを受けてさげすまれ、卑しめられているのだと訴えているのです。 ヨブはその前に神様の全能さと偉大さを表現しました。しかし、これは神様をあがめようとする目的ではなく、こういう力のある神様が正しい自分をこのように苦しめたのだと説明しているのです。友だちに悪い神様として認識させるために高度な作戦を使っているのです。 ヨブは、あやまって罪を犯す者も、迷わす者も、神のものだと言って悪い神様に仕立てていますが、私たちの神様は決してそんな方ではありません。世には「どうすれば楽して金を儲けられるだろうか、どうすれば人をだまして金持ちになれるだろうか」と悪知恵を使う人々がいますが、これはサタンが与える知恵です。偽りと欺きは敵である悪魔・サタンの属性だからです(ヨハネ8:44)。神様が私たちに下さる知恵はイエス・キリストを知る知恵、救われる知恵、聖められる知恵です。 「神は議官たちをはだしで連れて行き、さばきつかさたちを愚かにし、王たちの帯を解き、その腰に腰布を巻きつけ、祭司たちをはだしで連れて行き、勢力ある者を滅ぼす。」(ヨブ12:17~19) ヨブは信仰の昔の人々を通してイスラエルの歴史について聞きました。聖書を読むと、ある議官がいくら優れた策略を立てても、神様がそのはかりごとを打ちこわしてしまえば、何の役にも立たなかったことがわかります。 たとえば、アヒトフェルはダビデ王の臣下として非常に優れた議官で、戦略家でした。ところが、アブシャロムが反逆した時に、彼はダビデを裏切ってアブシャロムに加担しました。しかし、神様が彼のはかりごとを打ちこわそうと決めておられたので成功しなかったし、ついに勝利は神様がともにおられるダビデ王に帰しました。 また、周りの国が連合して数十万の軍隊でイスラエルに侵略して来ても、神様が働かれると同士討ちが起きて、一瞬にして滅びてしまったことも、ヨブは聞いて知っています。ですから、ヨブはいくら議官が良い知恵を出しても、神様がその知恵を打ちこわしてしまえば負けるしかないと言っているのです。 また、ヨブは神様は「さばきつかさたちを愚かにし、」と主張します。さばきつかさ、つまり裁判官は公平な裁判をしなければなりません。ところが、神様が裁判官が愚かな判決を下すようにさせるというのです。 ヨブが言いたいことは、神様は正しくないので、正しい自分をこのように苦しみに会うようにしたということです。神様は裁判官に愚かな裁判をさせる方なので、そういう神様も愚かなさばきをされるに違いないということを、たとえで説明しているのです。 「王たちの帯を解き、その腰に腰布を巻きつけ、」とは、神様が王の権力をなくすということです。ヨブはイスラエルの歴史で王たちも捕虜になって殺されたことを思い出して、このように言っているのです。 また、ヨブの目には正しく見える祭司たちも捕虜になったり殺されたりして、権力のある人々があっという間に滅びるのも歴史から知りました。ヨブはこれらすべてのことを神様がされたのではないかと、たとえを使って訴えているのです。 3. 自分の妥当性を主張するヨブ 「神は信頼されている者の弁舌を取り除き、長老たちの分別を取り去り、君主たちをさげすみ、力ある者たちの腰帯を解き、」(ヨブ12:20~21) ヨブが歴史を見ると、サウル王は神様の前に忠実で信頼されていたのに、神様は彼を退けたと思いました。しかし、サウルは高ぶりと私心をもって肉の思いを巡らして不従順を繰り返すことによって、結局神様が退けたのです。ヨブはこのような出来事に込められた神様のみこころがわからないから、「神は信頼されている者の弁舌を取り除」く方だとさばいているのです。 また、神様は長老たちの分別を取り去るのではなく、人が老いても健康で、さらに思慮深くあることを望んでおられます。ふつう人は年を取るほど記憶力が衰えたり、判断力が鈍くなります。ヨブはこれも神様がそうなさったのだと主張していますが、実は人が自分からそうなっていくのです。 モーセのように神様を愛して恐れる人は、年を取っても健康で頭が冴えていました(申命記34:7)。神様を信じない人々でも、心が良くて正しく生きている人はきれいに老いていくのが見られます。 「君主たち」とは、指導者の地位にいる人を言います。もしヨブが言うように神様が組織を導く指導者をさげすまれるならば、どれほど悪い神様でしょうか。しかし、そうではないのです。また「力ある者たちの腰帯を解き、」とありますが、ここで「腰帯」とは、その人を意味する象徴的なものを指します。たとえば、サムソンにとって腰帯は髪の毛でした。サムソンが髪の毛を切られてしまうと力を失い、両目がえぐり出されてあざけられました。 それなら、ヨブの強い腰帯は何だったのでしょうか。高い知識と知恵、富と名誉、多くの人を教えられる力、尊敬される地位などでした。ところが、神様がこんなに力ある自分の腰帯を解いてしまわれたと思っています。 ヨブは友だちが反論するのではないかと思って、まるで人の話をしているかのように遠回しにたとえを使っています。つまり「神様は君主たちをさげすみ、力ある者たちの腰帯を解く方だから、私の腰帯も神様が解いてしまわれたのではないか」と言っているのです。 愛する聖徒の皆さん、 ヨブも試練に会う前は、自分に悪があることを知らないほど行いの面では完全でした。心をご覧になる神様が練ってくださって、ヨブの本性の中にある悪を明らかにされたので、はじめて自分の本当の姿を発見するようになったのです。そして、一つ一つ捨てる過程を通して、神様が認める善の姿に変えられて、祝福を豊かに頂くようになったのです。 したがって、毎回メッセージでヨブの姿の中に自分を発見して変えられ、祝福されるような美しい心になりますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(27)」

説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記12:1~6
 

きょうは友だちの話に反論して、神様を誤解するヨブの姿から自分自身を発見して、神様のみこころが何かを調べてみましょう。

1. 友だちの話を皮肉って反論するヨブ

「そこでヨブが答えて言った。確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。」(ヨブ12:1~2)
ヨブの立場では、友だちが言っていることはばかばかしいのです。自分たちだけ正しいと言ってヨブを責めるので、ヨブははらわたが煮えくり返る思いでした。友だちが自分を教えていると思ったヨブは「あなたがたの話は正しくて、私の話は正しくないのか。じゃあ、私は人でもなくて、あなたたがだけが人なのか。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬのか」と皮肉を言っているのです。
ここでヨブが「あなたがたは人だ」と言った本当の意図は何でしょうか。互いに話が通じないから、イライラして「わかった、わかった」と一方的に話を打ち切っているのです。友だちが知識と知恵があるふりをしながら、自分を教えて無視していると思ったヨブは、はらわたが煮えくり返るようでした。それで、ひどく気を悪くして「あなたがたはそんなに知恵があるのか。じゃあ、あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬんだね」と当てこすっているのです。

「私にも、あなたがたと同様に、悟りがある。私はあなたがたに劣らない。だれかこれくらいのことを知らない者があろうか。」(ヨブ12:3)
これは「私もあなたがたのように悟りがあって知恵がある。私はあなたがたより優れている。今まであなたがたが言ったことを私が知らないとでもいうのか。身の程知らずに私を指摘するのか」と言っているのです。互いが正しいと際限なく言い争っています。
 

しかし、神様は私たちに言い争ってはならないと言われました。夫婦の間でも、親子の間でも、嫁姑の間でも、そして聖徒の間でも、どんな状況でも言い争ってはいけません。 もし自分が正しいなら、まず相手に真理のみことばで悟らせて、それでも相手が悟れなければ、たとえを挙げて、それでも悟れなければ、そこでやめなければなりません。そうでなくて、腹を立てて言い争ったりするならば、互いに関係が気まずくなって、仲たがいまですることがあります。 ですから、相手が受け入れなければ、それ以上言い争わず、落ち着いて笑顔で話を終えて、次の機会を待たなければなりません。こうすると敵である悪魔・サタンが働けないし、神様の前に隔ての壁を作ることもありません。 2. 神様まで巻き込んで自己主張をするヨブ 「私は、神を呼び、神が答えてくださった者であるのに、私は自分の友の物笑いとなっている。潔白で正しい者が物笑いとなっている。」(ヨブ12:4) ヨブは友だちに腹を立てると、次に神様まで巻き込みます。たびたび人々は言い争うと、全然関係のない第三者を巻き込んだりします。ある牧師先生がこう言ったとか、ある働き人がこう言ったとか、神様がこう言われたとか、聖書のみことばにこう書いてあるとか言いながら、自分を正当化するのに利用します。相手が自分の話を聞いてくれないので、自分より地位が高くて、相手が認めるほどの人の言葉や聖書のみことばを引用するのです。 しかし、こういうとき、神様のみことばを引用するのは良くありません。なぜなら、真理のみことばには言い争ってはならないとあるのに、真理に背いて言い争っていながら神様のみことばを云々するのは、それ自体が間違いだからです。 ここでヨブが「私は、神を呼び、神が答えてくださった者である」とは、神様と交わりがあるという意味ではありません。 ヨブは先祖を通して神様について聞いて知っていました。神様の生きておられることと、神様が力ある方であることも知っていました。それで、時に応じて神様に全焼のいけにえをささげたし、子どもたちの代わりにもささげました。このようにヨブが全焼のいけにえをささげれば、神様がお受けになって、答えと祝福を下さることを知っていたので、このように説明したのです。 ところが、潔白で正しいヨブが全焼のいけにえをささげたところ、かえって友だちの物笑いになったと嘆いているのです。このようなヨブの言葉は正しくありません。神様に正しく仕えた昔の信仰の人々は人にも認められてほめられたのであって、決して物笑いにはならなかったのです。 神様を愛して愛される人は異邦人も恐れたのが見られます。エジプトの王パロも預言者モーセに頭を下げました。イスラエルの民がモーセにつぶやいた時も、神様はモーセの肩を持ってくださいました。 もちろん、真理を聞くのを嫌って、神様のみこころに聞き従わない人々は、神様の預言者を嫌います。闇が光を嫌うのと同じです。しかし、こういう時も神の人々は神様が守って支えてくださり、結局高くしてくださいます。 預言者エレミヤは神様のみこころを宣べ伝えて民にあざけられるように見えましたが、いつも神様がともにいてくださいました。バビロンの侵略によってエルサレムが陥落して、多くの人が捕虜として連れて行かれたり殺されたりしても、エレミヤは命が守られただけでなく、かえってバビロン王からよくしてもらいました。 たとえ悪い人々が神の人を迫害しても、心では認めるのです。神の人はどこででもみことばの中で正しく生きていてキリストの香りを放つので、物笑いの種とはならないのです。 3. 悪い者を祝福する神様だとさばくヨブ 「安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒す。」(ヨブ12:5) ヨブは、自分は災いにあって苦しんでいるのに、友だちは心配も悩みもなく安らかなように見えました。ですから、安らかだと思っている友だちが災いにあって衰えているヨブをさげすんでいると言うのです。 ヨブはこのように友だちの助言を聞きたがらずに反論します。そして、「足のよろめく者を押し倒す」と言っていますが、これはヨブが押し倒された者であり、災いの中にあることを言っています。つまり、ヨブは潔白で正しいのに、そんな自分に災いが来て悔しいのです。 これまでヨブの友だちの話には真理と反対のものもありましたが、真理もありました。ですから、ヨブが友だちの助言を聞き入れて従っていたならば、災いは退いたでしょう。しかし、ヨブは友だちがいくら真理をもって説明しても、自分だけ正しいと主張して無視し続けるので、相変わらず災いの中で苦しみを受けるしかなかったのです。 「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自分の手でそうさせる者は。」(ヨブ12:6) 真理を知らない世の人々は「いい人はうまくいかないで、かえって悪い人のほうがうまくいく」と言います。しかし、善そのものである神様は心の良い人を愛してくださり、悪い人を愛されるはずがありません。また、公義の神様は正しい者を成功させてくださる方です(箴言12:2)。 ところが、ヨブは真理と反対に神様を悪い神様だと決めつけています。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。」これは神様がご自分の手でそうさせているということです。そして、自分のように正しい者には災いが臨んだと言っているのです。どれほど神様を悲しませる言葉でしょうか。 ヨブは最初からこのように悪を口から出したのではありません。だんだん感情がエスカレートして、ますます心の悪が現れて、このような結果を生むようになったのです。 神様を信じると言う人の中にもこういう場合があります。初めは神様を愛すると言いながら熱心です。ところが、祈っても答えがなければ、だんだん熱心が冷めてしまって、祈らなくなります。すると周りから真理のみことばで勧められたり、訓戒されたり、叱責されたりします。それなのに受け入れられないと、つい口から真理と反対のことを言ってしまいます。 こういう場合、すみやかに悔い改めて立ち返ってこそ、敵である悪魔・サタンが離れます。そうでなければ、サタンがその負の感情をあおって、ついには自制できなくなってしまうのです。そうなると悔い改めようとしてもできないから、ヨブのように激しい風のような言葉をぶちまけるのです。 このように神様を悲しませることを言い続けると、結局守られなくて、災いが臨むようになります。ですから、真理が自分を照らしてくれる時に、すみやかに悔い改めて立ち返る知恵ある皆さんになりますように。 私たちの神様はヨブが考えているように決して悪い神様ではなく、愛と公義の神様です。皆さんの中にも、ひょっとして「今、世の中を見てみると、悪い人たちがうまくいって、不正な方法で儲かることが多いようだ」と思ったり、「悪を行う人が平安でうまくいっているようだが」と疑問を抱く人がいるでしょうか。 しかし、ルカ16章に出てくる金持ちは地獄に落ちて、神様を恐れていたラザロは天国に行きました。いっそ貧しくなってでも、神様のみことばを守り行って天国に行くことが祝福です。つかの間この世で生きているとき、もっと良いものを食べて、着て、楽しんでいて、地獄に落ちてはいけません。 また、詐欺など不正な方法で儲けた人はどうして心に平安があるでしょうか。いつも不安で心配、悩みが離れません。もちろん、彼らも悪が度が過ぎると、この地上でも突然災いが臨んで、さばきを受けるようになるのです。 したがって、詩篇37:1に「悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」とあるとおり、いつも真理にあって考え、話し、真理を行うことでただ神様に喜ばれますように。 愛する聖徒の皆さん、 神様はヨブを愛して、ヨブが試練に会っている中でももどかしそうに見守っておられるのに、ヨブはそういう神様を知らないまま、続けて神様をさばいています。 自分の苦しみや問題のために祈って、すぐ答えを受ければ神様が自分を愛しておられ、そうでなければ見捨てられたのでしょうか。そうではありません。自分は悔い改めたつもりでも、まだ真理に変えられていないので、答えの時ではないのです。 忍耐とまことの信仰を持つことを望んでおられるので、祝福の時を遅らせておられる神様の心を感じてみてください。そして、自分の欠けているところを熱心に発見して変えられましょう。私たちを救ってくださり、強くしてくださる主を、父なる神様をさらにあがめるとき、答えと祝福が来るのです。 したがって、ハバクク3:17~19「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は【主】にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」このような信仰の告白があふれる神様のまことの子どもになりますよう、主の御名によって祈ります。

「ヨブ記講解(26)- 患難は罪から来る」

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記11:12~20

きょうはすべての患難の原因は罪にあることと、私たちが罪から立ち返るとき、どんな祝福が臨むのかについて伝えます。

1. 賢くなく無知な人間

「無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる。」(ヨブ11:12)
「賢い」とは、辞書では「頭の働きが鋭く、知能にすぐれている。利口だ。賢明だ。」という意味ですが、霊的には「生きてきた過程の中で積まれた知識を糧とすること」を意味します。
賢いなら無知な者になりません。霊的に賢い人はみことばが糧となって、私たちを生んでくださった父なる神様を知っているので、決して偶像に手を合わせません。
野ろばの子は飼い主がいないため、自分勝手に歩き回ります。すると罠にかかったり、猛獣に食われたりもします。
これと同じように、無知な人は霊的に賢くないので、たましいの主人である創造主の神様を知らず、偶像に手を合わせるなど、野ろばの子のように自分勝手に生きていきます。また、神様のみこころと反対であるやみのわざ、真理と反対のことを行います。そのうち敵である悪魔・サタンの餌食になって、結局は永遠の死に向かうことになります。
私たちは決して愚かな野ろばの子のように行う無知な人にならず、ただみことばに聞き従って、まことの神を恐れかしこんで生きなければなりません。

2. 神様が望んでおられるまことの悔い改め

「もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、──あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな──」(ヨブ11:13~14)
ここで「手を神に向かって差し伸べる」とは、神様の前に降参するということです。悔い改めの賛美「よるべなきわれは主に近づかん」を歌いながら両手を挙げるように、自分を頼りとする心を

悔い改めて、自分の過ちを認めるのです。つまり、それまで神様のみこころからそれていた心を正しく定めていくということです。 ところで、なぜ心の悪を捨てなさいと言わないで、手の悪を捨てなさいと言ったのでしょうか。旧約時代は行為的な救いの時代だったからです。 イエス様がこの地上に来られる前の旧約時代には、人の力だけでは罪を捨てられないので、心には罪があっても、行いで罪を犯さなければ罪人だと言われませんでした。目に見える行いとして現れるとき、罪と認められたのです。 ところで、心にあるものは、結局手、行いとして現れます。心に欲があるので手で盗みをし、心に高ぶりがあるので後ろ指を指します。心に憎しみがあるので、手で人をなぐったりもします。 このようにすべての罪は根本的に心から出てきます。ですから、ツォファルがヨブに手の悪を捨てなさいと言ったのは、心の悪を捨てなさいということです。 「あなたの天幕に不正を住まわせるな」とは、私たちがいるすべての所で不正を取り除きなさいという意味です。つまり、心と思い、家庭、職場、事業の場など、あらゆる分野で罪と悪をなくしなさいという意味です。 私たちが悔い改めるとき、罪と悪を心から認めて、神様の前に真実に罪を告白します。それがまことの悔い改めならば、実際に罪と悪から立ち返らなければなりません。憤って争っていた人はかんしゃくを捨てて、争いをやめなければなりません。不平を言って不満を抱いたことを悪だと認めて、感謝の条件を探して告白し、喜ばなければなりません。 ただ悔い改めた場面だけ逃れるのではなく、自分の心と思い、すべての日常でそうしなければなりません。これが父なる神様が望んでおられるまことの悔い改め、変化です。 3. 罪と悪を捨てる時に臨む祝福 「そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。」(ヨブ11:15~16) 「汚れのない顔を上げる」とは、神様の前に後ろめたいところがなく、堂々と顔を上げることができるという意味です。人は罪があれば不安で悩み、苦しいし、罪悪感のために神様の前に大胆に出て行けないでしょう。また、真理を深く知るほど自分の欠けているところが見えるので、神様の前に申し訳ないと思うようになります。 しかし、真理の中に完全にとどまっていて、自分の心に責められない段階になれば、神様の前に大胆に出ることができ、求めるものは何でもいただくことができます。 反対に、罪と悪があれば、神様の前に立つことができず、いくら熱心に祈っても答えていただけません(詩篇66:18,イザヤ59:1~3)。 しかし、ヨブの場合は大きい罪があって患難に会っているのではありませんでした。試練を通して心の中の罪と悪を悟って捨て、さらに完全な姿になるように、神様が練ってくださったのです。ところが、ツォファルはこのような神様の愛の摂理を知らなかったので、ヨブが罪を犯したのでこんな目にあったのだと誤解しています。 ツォファルはヨブに「あなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。」と言いましたが、これは罪から立ち返れば、労苦を忘れるようになるだろうという意味です。川の水が流れて海に入ってしまえば、その水を再び汲むことができません。新しい水が続けて流れ去るからです。これは歳月の流れを言っています。 もし皆さんが病気にかかったとか、家庭や職場に問題が起きても、歳月が流れてその問題が解決されたなら、過去のことでずっと悲しんでいるわけではないでしょう。すべての問題が川の水のように流れ去って解決されたなら、かえって過去の思い出話が楽しくなって、感謝する心になります。試練の時も、その時はお先真っ暗で行き詰まりのように見えていても、信仰によって行軍すると、涙が喜びに、ため息が笑い声に変わって、神様が慰めと平安で満たしてくださいます。 「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。多くの者があなたの好意を求める。」(ヨブ11:17~19) 心の罪と悪は、神様のみことばである光が入ってきたとき、悔い改めて立ち返ることができます。真理が自分の中に入ってくるので、心の罪と悪を発見して捨てることができ、家庭、仕事場、事業場からも不義を退けることができます。 したがって、「あなたの一生は真昼よりも輝き」とは、いのちの光が入ってくることによって、世と友になっていた暗い過去は過ぎ去って、今は真理と友になって、真昼のように輝くことができるという意味です。 また「暗くても、それは朝のようになる。」とは、イエス様を救い主として受け入れていのちの光が入ってくれば、今は試練や患難の中にいて暗くても、すぐ朝が来るという意味です。 ここで「朝」とは、新しい日、新しい希望、新しい生き方を意味します。また、希望がなかった人が神様を見つけると、試練や患難が退くので、新しい力を得て新しい日々が始まります。 まことの光であられるイエス・キリストのうちにあるなら、誰でも暗やみから出てきて、光である神の子どもとして新しく生まれます(第二コリント5:17)。敵である悪魔・サタンの手から父なる神様のふところへ、死から永遠のいのちへ、病気の泥沼から健康な毎日へと移されて、まことの平安を得るようになります。このように完全に新しい世界に入るので、新しい朝を迎えるのと同じなのです。 「望みがあるので、あなたは安らぎ、」とは、難しい問題が解決されて新しい日を迎えるので、安らぐようになるという意味です。前は試練や患難の中で苦しんできたけれど、今はすべてが解決されて新しくなった、希望があるという意味です。神の子どもなら、神様が問題を解決してくださり、新しい希望が生まれたので、さらに真理にあって堅く立つようになります。霊的には、イエス・キリストに、岩の上に立つという意味です。 また「あなたは守られて、安らかに休む」とありますが、この意味は、罪と悪を捨てることで家庭と職場、事業の場からすべての不正が離れると、神様が炎のような御目で、天の軍勢と御使いで、聖霊の炎の壁で守ってくださるので、心の安らぎを得るようになるということです。 自分が変えられれば、相手と環境を支配していた暗やみが離れます。すると問題が解決されます。東西南北を見渡しても試練や患難とは関係がなく、いつも平安になります。 「あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。」とは、真理に堅く立っていれば、敵である悪魔が働けないので、ぐっすり眠れるという意味です。神様の愛のふところの中で、平安で安全な生き方ができるのです(詩篇4:8)。 「好意を求める」とは、憐みと助けを求めるという意味です。したがって「多くの者があなたの好意を求める。」とは、多くの人がヨブに近づいてきて、好意と恵みを求める、つまり、多くの人に尊敬されて愛され、物質などで人を助けるということです。罪から離れて真理の中で生きていくので、神様が人々の心をつかさどって、入るときも祝福され、出て行くときも祝福されるのです。 3. 悪者どもの望みは断たれる 「しかし悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みは、あえぐ息に等しい。」(ヨブ11:20) 真理の中で生きられない悪い人は、霊的な目がさえぎられているので、神様のみことばを受け入れず、信じようとしません。また、神様を信じると言いながら守り行わなければ、相変わらず霊的には盲人と同じです。ですから、彼らは目がよく見えなくて、逃げ場を見つけられないのです。 それなら、どこからどこへ逃げなければならないのでしょうか。死の泥沼からいのちの道、永遠のいのちの道へと逃げなければなりません。試練、患難を抜け出して光へと逃げるべきなのに、霊的な目がさえぎられていれば、逃げ場を失ってしまいます。自分のせいで困難がやって来たのに、認めないで、環境のせい、人のせいにするから、問題を解決する道が見つけられなくて、ずっとさ迷っているのです。 私たちが真理の中で生きないで罪を捨てないならば、自然に霊の目が衰え果てることを知っていなければなりません。結局、逃げ場を失ってしまい、悪者どものの望みはあえぐ息に等しいのです。悪に悪を積んでいくから、ついには逃げる力を失って、永遠の死である地獄に行くしかないのです。 愛する聖徒の皆さん、 事故や病気、災いや患難の危険が潜んでいる今日、多くの人が将来を心配して生きています。それで健康診断をしょっちゅうして、保険や投資などで対策を立てますが、それで解決されたりはしません。 人生の最も完璧な対策は、全知全能の神様により頼むことです。箴言1:33に「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」とあるとおり、すべての罪と悪を捨てて真理に変えられるほど患難が離れて、恐れることなくまことの平安を得ることができます。 したがって、ただ神様のみことばにとどまることでいつも安らかで栄えますよう、主の御名によって祈ります。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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